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ぷらいべえと

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
吉田拓郎 > 吉田拓郎の作品一覧 > ぷらいべえと
『ぷらいべえと』
吉田拓郎カバー・アルバム
リリース
ジャンル ニューミュージック
レーベル フォーライフ
プロデュース 吉田拓郎
チャート最高順位
  • 週間1位(オリコン
  • 1977年度年間23位(オリコン)
吉田拓郎 アルバム 年表
クリスマス
1976年
ぷらいべえと
(1977年)
大いなる人
(1977年)
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ぷらいべえと』は、1977年4月25日に発表された、吉田拓郎の7枚目のスタジオ・アルバムであり、初めてのカバーアルバムである。

背景

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もともと本アルバムは制作の予定はなく、拓郎が発案したアルバム『クリスマス』の売上不振により[1]フォーライフが巨額の赤字を出した埋め合わせのため発売した[1][2]後藤由多加から「会社がやばい。拓郎何とかしてくれ。アルバムが大至急欲しい、何でもいい」などと泣きを入れられたが、既に約束のアルバムはリリースした後で新曲のストックは無く、思案したところボブ・ディランの『セルフ・ポートレート』を思いつき、同じコンセプトに基づいて、他人へ提供した曲と自身の愛唱歌を集めたカバーアルバムの制作を決めた[2][3][4]

後述のように批判的な論調が多かったこともあって、カバーアルバムは当時大流行することも無く『ぷらいべえと』の次といえるものは、甲斐よしひろがソロ名義で出した1978年5月のアルバム『翼あるもの』となる[5]

拓郎に次いで、男性ソロアーティストがカバーアルバムで1位を獲得するのは徳永英明の『VOCALIST 3』(2007年)まで30年間待たねばならなかった[6]

レコーディング

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時間がないためユイ音楽工房にいたアマチュアミュージシャンを集めて短時間で制作した関係で、スタッフ関係のクレジットが全く記載されていないが、青山徹(ギター)とエルトン永田(キーボード)と石山恵三(ベース)が何曲か参加した。ドラムを叩いているのはドラム経験のない内山修だという[2]

スタジオもミュージシャンも時間がなくて押さえられず、毎晩夜中の0時過ぎから朝6時終わりのレコーディング[1]で、毎晩眠くて地獄のレコーディングだったという[1]。体調を崩し風邪を引いてしまってもタイトなスケジュールを延期することもできず、鼻声のままレコーディングしたものが数曲あるという。特に「悲しくてやりきれない」の時は鼻声のピークになってしまい、名曲を汚してしまった様で申し訳ない気持ちになったという。曲は全てスタジオレコーディングしたものでデモテープは存在しない[2]

アルバムアートワーク、パッケージ

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レコードジャケットも拓郎が週刊誌キャンディーズランちゃんを見てクレヨンで書いたもの[2]で、ランちゃんの回りを木で囲むなどの加工はしているものの『やさしい悪魔』のレコードジャケットの真ん中をくりぬいたものを参考にしたという[2]

レコードジャケットは全体に緑色のため、それに合わせ初版のレコード盤は緑色だった。また初回特典にはポスターが付いた。

批評

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専門評論家によるレビュー
レビュー・スコア
出典評価
ニューミュージック白書否定的[7]
あいつの切り札―松山千春から吉田拓郎まで36人否定的[8]
歌謡ポップス・クロニクル 特集アスペクト39肯定的[9]

本アルバムは2000年代から増えはじめたカバーアルバムの先駆的なもので、現在では考えられないが、当時は"創作力のダウン"や"売らんかな主義"などと酷評された[4][7]。また、音楽評論家富澤一誠は「いうなら企画物で、評価の対象にならない。ただ商売としてはうまいなと思っただけ」などと評している[8]

しかしながらメロディ・メーカーとしての才気やボーカリスト・吉田拓郎としての魅力も発揮したといえる[10][9]。またソングライターを基本とするフォークニューミュージック側のアーティストが、歌謡曲をカバーするということは、当時としてはかなり大胆な試みであったといえる[11]

拓郎自身「やっつけ仕事の割にはよく出来た。当時フォーライフには社員が50人いて大半が家庭を持つ人たちで、フォーライフを救わなきゃと思った。必死だったんだろう。若かったから出来た」などと述べている[2]

チャート成績

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カバーアルバムとして史上初のオリコン1位を獲得[6]。皮肉なことに、この年フォーライフのアルバムで最大のセールスを記録し[12]、フォーライフの危機を救った[2]。売れたことに関しては「ボクのファンがこういうの聴きたがっているとは思わなかった。それは読めなかった」と拓郎は話している[2]。パート2を作ってくれという営業サイドからの注文は頑強に断った[2][13]

影響

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  • ROLLYは中学生の時、本アルバムを聴いて、拓郎節の際立つ歌唱に驚き、まだ自作曲も1曲も作ってないのに、「自分もいつか他の人に曲を提供することがあったら、こういうアルバムを出したい」とずっと思い続けていたという[14]

収録曲

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  1. 夜霧よ今夜もありがとう 
    石原裕次郎の曲のカバー。
  2. 恋の歌
    • 作詞・作曲:吉田拓郎
    メモリアルヒット曲集 '70 真夏の青春』に収録された曲のリメイク。
  3. 春になれば 
    小坂一也に提供した曲のセルフカバー。
  4. ルームライト
    1973年由紀さおりに提供した楽曲のセルフカバー。
  5. いつか街で会ったなら
    • 作詞:喜多条忠 / 作曲:吉田拓郎
    1975年、中村雅俊に提供した楽曲のセルフカバー。中村版は日本テレビ系ドラマ『俺たちの勲章』挿入歌。 
  6. 歌ってよ夕陽の歌を
    • 作詞:岡本おさみ / 作曲:吉田拓郎
    1975年、森山良子に提供した楽曲のセルフカバー。
  7. やさしい悪魔
    • 作詞:喜多条忠 / 作曲:吉田拓郎
    1977年、キャンディーズに提供した楽曲のセルフカバー。
  8. くちなしの花
    渡哲也の曲のカバー。
  9. 赤い燈台
    • 作詞:岡本おさみ / 作曲:吉田拓郎
    1974年、小柳ルミ子に提供した楽曲のセルフカバー。
  10. 悲しくてやりきれない
    ザ・フォーク・クルセダーズの曲のカバー。
  11. よろしく哀愁
    郷ひろみの曲のカバー。
  12. メランコリー
    • 作詞:喜多条忠 / 作曲:吉田拓郎
    1976年、梓みちよに提供した楽曲のセルフカバー。
  13. あゝ青春
    1975年トランザムに提供した楽曲のセルフカバー。トランザム版は日本テレビ系ドラマ『俺たちの勲章』主題歌。
    また1975年つま恋、79年篠島で行われたオールナイトコンサートのオープニング曲でもある。

脚注・出典

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  1. ^ a b c d 富沢一誠『ぼくらの祭りは終わったのかーニューミュージックの栄光と崩壊ー』、飛鳥新社、1984年、p98-100
  2. ^ a b c d e f g h i j ニッポン放送坂崎幸之助と吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD』2011年11月22日放送
  3. ^ 俺達が愛した拓郎、石原信一他著、p130-131
  4. ^ a b 地球音楽ライブラリー 吉田拓郎、TOKYO FM出版、p37
  5. ^ 新譜ジャーナル ベストセレクション'70s、2003年、自由国民社、p312
    ※参考 井上陽水 FILE FROM 1969、TOKYO FM出版、2009年、p162
  6. ^ a b 徳永英明、カバー作で15年10ヶ月ぶりの1位獲得!”. ORICON STYLE. 株式会社oricon ME (2007年8月21日). 2021年12月17日閲覧。
  7. ^ a b 俺達が愛した拓郎、p221-204
    吉田拓郎 挽歌を撃て、石原信一、八曜社、p119-120
    ニューミュージック白書、1977年、エイプリル・ミュージック、p175
  8. ^ a b 富澤一誠『あいつの切り札―松山千春から吉田拓郎まで36人』、音楽之友社、1981年、p224
  9. ^ a b 歌謡ポップス・クロニクル 特集アスペクト39、アスペクト、p124
  10. ^ 俺達が愛した拓郎、p221-222
  11. ^ 『ロック・クロニクル・ジャパンVol.1 1968-1980』、音楽出版社、1999年、69頁
  12. ^ 吉田拓郎ヒストリー 1970-1993、p46
  13. ^ 吉田拓郎 挽歌を撃て、p120
  14. ^ 兵庫慎司 (2019年7月2日). “ROLLY、セルフカバー作を語り尽くす「ミュージシャンと音楽ファンの両方の気持ちがある」”. Real Sound. blueprint. 2019年7月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年5月11日閲覧。

関連項目

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