ぷらいべえと
『ぷらいべえと』 | ||||
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吉田拓郎 の カバー・アルバム | ||||
リリース | ||||
ジャンル | ニューミュージック | |||
レーベル | フォーライフ | |||
プロデュース | 吉田拓郎 | |||
チャート最高順位 | ||||
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吉田拓郎 アルバム 年表 | ||||
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『ぷらいべえと』は、1977年4月25日に発表された、吉田拓郎の7枚目のスタジオ・アルバムであり、初めてのカバーアルバムである。
背景
[編集]もともと本アルバムは制作の予定はなく、拓郎が発案したアルバム『クリスマス』の売上不振により[1]、フォーライフが巨額の赤字を出した埋め合わせのため発売した[1][2]。後藤由多加から「会社がやばい。拓郎何とかしてくれ。アルバムが大至急欲しい、何でもいい」などと泣きを入れられたが、既に約束のアルバムはリリースした後で新曲のストックは無く、思案したところボブ・ディランの『セルフ・ポートレート』を思いつき、同じコンセプトに基づいて、他人へ提供した曲と自身の愛唱歌を集めたカバーアルバムの制作を決めた[2][3][4]。
後述のように批判的な論調が多かったこともあって、カバーアルバムは当時大流行することも無く『ぷらいべえと』の次といえるものは、甲斐よしひろがソロ名義で出した1978年5月のアルバム『翼あるもの』となる[5]。
拓郎に次いで、男性ソロアーティストがカバーアルバムで1位を獲得するのは徳永英明の『VOCALIST 3』(2007年)まで30年間待たねばならなかった[6]。
レコーディング
[編集]時間がないためユイ音楽工房にいたアマチュアミュージシャンを集めて短時間で制作した関係で、スタッフ関係のクレジットが全く記載されていないが、青山徹(ギター)とエルトン永田(キーボード)と石山恵三(ベース)が何曲か参加した。ドラムを叩いているのはドラム経験のない猫の内山修だという[2]。
スタジオもミュージシャンも時間がなくて押さえられず、毎晩夜中の0時過ぎから朝6時終わりのレコーディング[1]で、毎晩眠くて地獄のレコーディングだったという[1]。体調を崩し風邪を引いてしまってもタイトなスケジュールを延期することもできず、鼻声のままレコーディングしたものが数曲あるという。特に「悲しくてやりきれない」の時は鼻声のピークになってしまい、名曲を汚してしまった様で申し訳ない気持ちになったという。曲は全てスタジオレコーディングしたものでデモテープは存在しない[2]。
アルバムアートワーク、パッケージ
[編集]レコードジャケットも拓郎が週刊誌でキャンディーズのランちゃんを見てクレヨンで書いたもの[2]で、ランちゃんの回りを木で囲むなどの加工はしているものの『やさしい悪魔』のレコードジャケットの真ん中をくりぬいたものを参考にしたという[2]。
レコードジャケットは全体に緑色のため、それに合わせ初版のレコード盤は緑色だった。また初回特典にはポスターが付いた。
批評
[編集]専門評論家によるレビュー | |
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レビュー・スコア | |
出典 | 評価 |
ニューミュージック白書 | 否定的[7] |
あいつの切り札―松山千春から吉田拓郎まで36人 | 否定的[8] |
歌謡ポップス・クロニクル 特集アスペクト39 | 肯定的[9] |
本アルバムは2000年代から増えはじめたカバーアルバムの先駆的なもので、現在では考えられないが、当時は"創作力のダウン"や"売らんかな主義"などと酷評された[4][7]。また、音楽評論家の富澤一誠は「いうなら企画物で、評価の対象にならない。ただ商売としてはうまいなと思っただけ」などと評している[8]。
しかしながらメロディ・メーカーとしての才気やボーカリスト・吉田拓郎としての魅力も発揮したといえる[10][9]。またソングライターを基本とするフォーク/ニューミュージック側のアーティストが、歌謡曲をカバーするということは、当時としてはかなり大胆な試みであったといえる[11]。
拓郎自身「やっつけ仕事の割にはよく出来た。当時フォーライフには社員が50人いて大半が家庭を持つ人たちで、フォーライフを救わなきゃと思った。必死だったんだろう。若かったから出来た」などと述べている[2]。
チャート成績
[編集]カバーアルバムとして史上初のオリコン1位を獲得[6]。皮肉なことに、この年フォーライフのアルバムで最大のセールスを記録し[12]、フォーライフの危機を救った[2]。売れたことに関しては「ボクのファンがこういうの聴きたがっているとは思わなかった。それは読めなかった」と拓郎は話している[2]。パート2を作ってくれという営業サイドからの注文は頑強に断った[2][13]。
影響
[編集]- ROLLYは中学生の時、本アルバムを聴いて、拓郎節の際立つ歌唱に驚き、まだ自作曲も1曲も作ってないのに、「自分もいつか他の人に曲を提供することがあったら、こういうアルバムを出したい」とずっと思い続けていたという[14]。
収録曲
[編集]- 全編曲:吉田拓郎。
- 夜霧よ今夜もありがとう
- 作詞・作曲:浜口庫之助
- 石原裕次郎の曲のカバー。
- 恋の歌
- 作詞・作曲:吉田拓郎
- 『メモリアルヒット曲集 '70 真夏の青春』に収録された曲のリメイク。
- 春になれば
- 作詞:喜多条忠 / 作曲:吉田拓郎
- 小坂一也に提供した曲のセルフカバー。
- ルームライト
- 作詞:岡本おさみ / 作曲:吉田拓郎
- いつか街で会ったなら
- 作詞:喜多条忠 / 作曲:吉田拓郎
- 歌ってよ夕陽の歌を
- 作詞:岡本おさみ / 作曲:吉田拓郎
- 1975年、森山良子に提供した楽曲のセルフカバー。
- やさしい悪魔
- 作詞:喜多条忠 / 作曲:吉田拓郎
- 1977年、キャンディーズに提供した楽曲のセルフカバー。
- くちなしの花
- 渡哲也の曲のカバー。
- 赤い燈台
- 作詞:岡本おさみ / 作曲:吉田拓郎
- 1974年、小柳ルミ子に提供した楽曲のセルフカバー。
- 悲しくてやりきれない
- ザ・フォーク・クルセダーズの曲のカバー。
- よろしく哀愁
- 郷ひろみの曲のカバー。
- メランコリー
- 作詞:喜多条忠 / 作曲:吉田拓郎
- 1976年、梓みちよに提供した楽曲のセルフカバー。
- あゝ青春
- 作詞:松本隆 / 作曲:吉田拓郎
脚注・出典
[編集]- ^ a b c d 富沢一誠『ぼくらの祭りは終わったのかーニューミュージックの栄光と崩壊ー』、飛鳥新社、1984年、p98-100
- ^ a b c d e f g h i j ニッポン放送『坂崎幸之助と吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD』2011年11月22日放送
- ^ 俺達が愛した拓郎、石原信一他著、p130-131
- ^ a b 地球音楽ライブラリー 吉田拓郎、TOKYO FM出版、p37
- ^ 新譜ジャーナル ベストセレクション'70s、2003年、自由国民社、p312
※参考 井上陽水 FILE FROM 1969、TOKYO FM出版、2009年、p162 - ^ a b “徳永英明、カバー作で15年10ヶ月ぶりの1位獲得!”. ORICON STYLE. 株式会社oricon ME (2007年8月21日). 2021年12月17日閲覧。
- ^ a b 俺達が愛した拓郎、p221-204
吉田拓郎 挽歌を撃て、石原信一、八曜社、p119-120
ニューミュージック白書、1977年、エイプリル・ミュージック、p175 - ^ a b 富澤一誠『あいつの切り札―松山千春から吉田拓郎まで36人』、音楽之友社、1981年、p224
- ^ a b 歌謡ポップス・クロニクル 特集アスペクト39、アスペクト、p124
- ^ 俺達が愛した拓郎、p221-222
- ^ 『ロック・クロニクル・ジャパンVol.1 1968-1980』、音楽出版社、1999年、69頁
- ^ 吉田拓郎ヒストリー 1970-1993、p46
- ^ 吉田拓郎 挽歌を撃て、p120
- ^ 兵庫慎司 (2019年7月2日). “ROLLY、セルフカバー作を語り尽くす「ミュージシャンと音楽ファンの両方の気持ちがある」”. Real Sound. blueprint. 2019年7月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年5月11日閲覧。