ビートルズ
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ザ・ビートルズ | |
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レノン(左上)、マッカートニー(右上)、ハリスン(左下)、スター(右下)。1964年撮影。 | |
基本情報 | |
出身地 |
イングランド リヴァプール |
ジャンル |
ロック リヴァプールサウンド サイケデリック・ロック ブルースロック ロックンロール |
活動期間 |
1960年 - 1970年 レコード上での再結成1994年 - 1995年 |
レーベル |
EMI キャピトル・レコード アップル・レコード パーロフォン オデオンなど |
共同作業者 | ジョージ・マーティン |
公式サイト |
アップル・コアによるサイト EMIミュージック・ジャパンによるサイト |
メンバー |
リンゴ・スター (ドラムス) ジョージ・ハリスン (リードギター) ポール・マッカートニー (ベース) ジョン・レノン (リズムギター) |
旧メンバー |
ピート・ベスト (ドラムス) スチュアート・サトクリフ (ベース) |
ザ・ビートルズ (The Beatles) は、イギリス・リヴァプール出身のロックバンドである。
ビートルズは世界中で最も広く知られ、最も成功したロックバンドである。ギネス・ワールド・レコーズでは最も成功したグループアーティストとされる。1985年で世界的にビートルズのCD、レコード総売り上げは10億枚以上。イギリスのリヴァプールで結成され、世界的な人気を博し1960年代を代表するスターとなると共に、現代のポピュラー音楽の流れを変えた。1962年レコードデビュー。1970年解散。
外貨獲得に大きく貢献したことから、1965年にエリザベス2世から(当時、ロックバンドとしては異例の)MBE勲章が授与された。
世界的アイドルとして成功を収める一方、彼らの作り出した音楽は1960年代以降のロック・ポップスシーンに多大な影響を与えることとなった。その楽曲の普遍性、革新性は現在に至るまで高く評価されており、現代音楽の金字塔として揺ぎない地位を保っている。
その解散後、イギリスで新たな人気アイドルが登場する度に「第2のビートルズ」という呼び名で表現された。またFab4-ファブ4[1]と言う呼び名や不世出のロックグループと呼ばれる。
ビートルズの音楽的ルーツは基本的に(チャック・ベリー、リトル・リチャード、シュレルズなど)米国黒人のリズム・アンド・ブルースやロックンロール、およびそれをルーツとした(エルヴィス・プレスリー、バディ・ホリーなど)白人のロックンロールと言われている。
(個々のアルバムやビデオ作品については別項ビートルズの作品を、個々の楽曲に関してはビートルズの曲名一覧を参照のこと。)
バンド名の由来
「BEATLES」は、ジョン・レノンとスチュアート・サトクリフ[2]が考えた名前で、造語である。自分達の敬愛するロックンローラーバディ・ホリーのバンド名「バディ・ホリー&ザ・クリケッツ」のクリケッツ(こおろぎ)にあやかって、同じ昆虫の名前ビートルズ(BEETLES、甲虫類の複数形)をマーロン・ブランド主演の映画『乱暴者』の中から思いつき[3]、クリケッツ(こおろぎの他にスポーツのクリケットの意味がある)のように2つの意味になるようにと、BEETLESに音楽のBEATを加える意味でスペルを変えてBEATLESとした。
ジョン・レノン曰く「言葉だけを聞くとモゾモゾ動く虫をイメージするだろ?でも字を見るとビート・ミュージックというわけさ」
バンド名を「ビートルズ」とした頃、ギグを取り仕切っていた者にその名前を嫌われ[4]「ギグに出たかったら『ロング・ジョン&ピーシズ・オブ・シルヴァー』という名前に変えろ」と言われ、ギグに出る為にお互い譲り合うという形で、「ロング・ジョン&シルヴァー・ビートルズ」しばらくしてロング・ジョンがとれて「シルヴァー・ビートルズ」と名乗っていた時期がある。「ビートルズ」の前に「シルヴァー・ビートルズ」と名乗っていたのはこうした経緯からである。
メンバー
- ジョン・レノン(John Lennon)(1940年10月9日 - 1980年12月8日)(リズムギター)
- ポール・マッカートニー(Sir Paul McCartney)(1942年6月18日 -)(ベース)
- ジョージ・ハリスン(George Harrison, MBE)(1943年2月24日 - 2001年11月29日)(リードギター)
- リンゴ・スター(Ringo Starr, MBE)(1940年7月7日 -)(ドラムス)
担当楽器
上記のように「ギター2本、ベースギター、ドラムス」が初期においての基本的な楽器編成であるが、中期から後期にかけては、リンゴ以外のメンバーの担当楽器は曲によって実に流動的である。
主にリードギタリストはジョージが多いが、曲によってはジョンまたはポールもリードギターを担当している。 ジョンのリード・ギターは「ゲット・バック」や、「ユー・キャント・ドゥ・ザット」(間奏部)、「アイ・ウォント・ユー」などで聴くことができる。ポールは、「涙の乗車券」(フェイド・アウト・パート)、自作「バック・イン・ザ U.S.S.R.」、ジョージ作「タックスマン」(間奏部とラスト)などのリードギターを弾いており、「ブラックバード」などのアコースティック・ギターのナンバーと併せ演奏例が多い。 ちなみに「ジ・エンド」の間奏部分においてポール、ジョージ、ジョン順番でギターソロ・リレーを演奏している[5]。
また、ジョンとポールはピアノなどの鍵盤楽器もしばしば演奏している。「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」でのイントロのメロトロンはポールの演奏である。主にピアノはポール[6]、オルガンやローズ・ピアノなど電子鍵盤楽器はジョン[7]というパターンが多くみられる。
「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」など 中期から後期の作品で、ポールが主に自作曲でピアノを担当する時は、ジョンがベースを担当する曲も存在する。例えば「レット・イット・ビー」では、ジョンが6弦ベースを演奏している。
アルバム「Help」おいてポールがリードギターを担当し、ジョージはリードギタリストとしての存在意義に危機感を覚える。ジョージは自分の存在意義を確立するため、インド楽器・シタールを「ノルウェーの森」において導入。それがビートルズがインド音楽の影響を受ける端緒となったことは良く知られている。またジョージが演奏した他のインド楽器には、「ゲッティング・ベター」や、「アクロス・ザ・ユニヴァース」でのタンブーラ、「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」でのソードマンデルなどがある。ただし、マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーとの決別に伴いインド音楽への傾注は急激になくなっていく。
モーグ・シンセサイザーは、アルバム『アビー・ロード』において、ジョージにより導入された。単音しか出せないが、現在の(アナログ)シンセサイザーの元祖でもある、当時の最新楽器である。「ヒア・カムズ・ザ・サン」や、「ビコーズ」で演奏され、ポールが「マックスウェルズ・シルヴァー・ハンマー」で、ジョンが「アイ・ウォント・ユー」で、それぞれ演奏している。
他、1968年のリンゴの脱退騒動[8]に絡んで「バック・イン・ザ U.S.S.R.」と「ディア・プルーデンス」、それとは別に「ジョンとヨーコのバラード」のドラムスはポールが演奏している。その他、曲によってはメンバー各人がパーカッションを演奏している。ジョンのサックス[9]など、珍しいパターンもある。
メンバー以外のポップス・ミュージシャンによる演奏としては、エリック・クラプトンが「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」のリードギターを弾いているのが特に有名である。他にはレヴォリューションでのニッキー・ホプキンスのエレクトリックピアノ、ビリー・プレストンによるアルバム『レット・イット・ビー』中のエレクトリックピアノやハモンド・オルガンなどがある。 また、番外編的なものとしては、プロデューサーのジョージ・マーティンが「イン・マイ・ライフ」のクラシカルなピアノの間奏などで、ローリング・ストーンズのブライアン・ジョーンズが「ユー・ノウ・マイ・ネーム」においてサックスで演奏に参加している。ただしこうした外部ミュージシャンの参加はプレストンを除きクレジットされていない。
以上はメンバー間の不穏な空気を収めるため ジョージが外部ミュージシャンを誘い込んでいる(外部人間がいると一応、外面は仲良く見せようとするので)
作詞作曲とリード・ヴォーカル
ジョンとポールが主に作詞作曲を行なう。またジョージやリンゴも後期になるにつれ作詞作曲を行なうようになる。リードヴォーカルはジョンまたはポール、あるいは2人一緒にとることが多いが、自作曲を中心にジョージも、またリンゴもリード・ヴォーカルをとる。
多くのヒット曲をはじめ、オリジナル曲の8割以上の作詞作曲はジョンとポールの共作としてクレジットされている。かつては、クレジット通りに2人で共作した曲はそれ程多くはないと考えられてきたが、後年ジョン・レノンはインタビューでこれを否定していて、ポールも自伝「メニー・イヤーズ・フロム・ナウ」で多くの曲が共作であったと明言している。以前は、楽曲でリードボーカルをとっている方が作者であると断定されてきたが「例外も数多くある」とのポールの証言がある。また、二人の記憶には多くの相違点があるので、いくつかの作品は作者を特定することが困難であると思われる。
ビートルズ結成当初から、2人の友情の証として、どちらか一方がたとえ単独で作った曲でも、クレジットは「レノン=マッカートニー」、または「マッカートニー=レノン」(初期のレコードアルバムで見られる表記)と連名にする約束が2人の間で取り交わされていたからであろう。このことは後のいくつかの法的争いの元凶ともなる。この約束をジョンは比較的律儀に守っており、1969年にジョンがプラスティック・オノ・バンド名義で発表した「平和を我等に(原題:Give Peace a Chance)」の作詞作曲も「レノン=マッカートニー」とクレジットされている。彼等の作品は全米、全英ともNo.1になった曲が最も多く、『ギネス・ワールド・レコーズ』には最も成功したシンガー・ソングライターとして記載されている。
レノン=マッカートニー作品以外のビートルズの公式発表曲(オリジナル曲)には、ジョージの作品が21曲、リンゴの作品が2曲、レノン=マッカートニーとリンゴとの共作が1曲、全員の共作1曲が含まれている。『ビートルズ・アンソロジー』のシリーズには、ジョンとジョージとの共作のパターンも存在する。
その他の関係者
- ジョージ・マーティン - ほとんどの曲をプロデュースしている[10]。
- ノーマン・スミス - レコーディングおよびミックスエンジニア 。デビューから1965年『ラバー・ソウル』までのほとんどを担当。
- ジェフ・エメリック - レコーディングおよびミックスエンジニア 。1966年『リボルバー』以降の多くを担当。
- クリス・トーマス - 『ホワイト・アルバム』にアシスタント・プロデューサーとして携わっている。
- スチュアート・サトクリフ - レコードデビュー前のメンバー(ベース)。スチュアートがバンドを脱退した後にポールがベースを担当する。1962年、21歳で死去。
- ピート・ベスト - レコードデビュー前のメンバー(ドラムス)。レコードデビュー直前に解雇され、リンゴが「ロリー・ストーム & ザ・ハリケーンズ」から引き抜れた[11]。
- ブライアン・エプスタイン - ビートルズのマネージャー。ビートルズの音楽ビジネスのプロモーションを確立した立役者。彼が1967年に32歳で急死したことは、ビートルズ解散の遠因になったと言われることもある。ちなみに彼は同性愛者で、「ジョン・レノンに恋愛感情を持っていた」という説もある。[12]
- ニール・アスピノール - ビートルズのロードマネージャー。彼は元々ポールとリヴァプール・インスティチュートの同級生で、1学年下のジョージとも友人だった。またピート・ベストの友人でもあり、ベスト家に間借りしていた[13]。その縁でバン(車)を持っていた事からビートルズの楽器を運ぶ為に雇われ、デビュー後も引き続きロードマネージャーとしてビートルズの身の回りの世話をしていた。長年ビートルズの会社アップル・コアの代表取締役を務めていたが、2007年4月アップルから去っている。2008年3月に66歳で死去。
- マル・エヴァンズ - ビートルズのロードマネージャー。ビートルズが出演していたキャバーン・クラブのドアマンとして働いていが、アスピノール1人では仕事が大変なため2人目のロードマネージャーとして雇われ、アスピノール同様デビュー前から楽器のセッティングなどをはじめビートルズの身の回りの世話をしていた。ビートルズ解散後もジョン、ジョージと関わっていたが1976年死去。
- アレン・クライン - 1969年に就任したビジネスマネージャー。アメリカ人の会計士で、1965年からローリング・ストーンズのビジネスマネージャーを勤め[14]ビートルズ以上の契約をレコード会社と結ぶなどその手腕を買われ、無秩序状態で破産寸前だったアップルを再建すべく雇われた。やり手ではあるが悪評も多く、その強引な手法、アーティストより自身の利益を優先するなど「悪名高き男」とも呼ばれた。2009年7月4日、ニューヨーク市内でアルツハイマー病のため死去。[15]
来歴
デビューまで
1957年3月、ジョン・レノン、バンド「クオリーメン」結成。
1957年7月6日、ウールトンのセント・ピーターズ教会で行われたクオリーメンのコンサートをポール・マッカートニーが観る。共通の友人の紹介によりジョン・レノンと対面。ポールはギターを弾きながらエディ・コクランの「トゥエンティ・フライト・ロック」を完璧に歌い、ジョンに誘われクオリーメンのメンバーになる。
1958年2月6日、ポールの紹介でジョージ・ハリスンがクオリーメンのオーディションを受ける。「ローンチー」を完璧に弾きこなしバンドに加わる。
1959年1月、バンドのメンバーはジョン、ポール、ジョージの3人だけになる。
1959年10月、バンド名を「ジョニー&ザ・ムーン・ドッグス」とする。
1960年1月、スチュアート・サトクリフがジョンに誘われバンドに加入(リヴァプール・カレッジ・オブ・アート時代のジョンの親友、もともと画家志望で音楽をやっていたわけではないが、絵が売れるとその金でベースを買ってバンドに入るようにジョンが誘いバンドに加入。その為そこからベースを覚えていったという、ベースの腕前は素人)。バンド名が「ザ・シルヴァー・ビートルズ」になる。
1960年4月23、24日、ジョンとポールの2人は「ナーク・ツインズ」というユニット名で、ポールのいとこ夫婦が経営するパブで演奏する。
1960年5月、ソロシンガーのバックバンドをつとめるツアーに出る(この時、それぞれが芸名をつけていた。ジョン「ロング・ジョン」、ポール「ポール・ラモーン[16]」、ジョージ「カール・ハリスン」、スチュアート「スチュアート・ド・スタール」)。
この頃はドラマーが次から次へと入れ替わっていた、ドラマーのいないステージではポールがドラムスを叩いたこともあった。
1960年8月、ドイツのハンブルクでの仕事が入り新たにドラマーが必要になり、シルヴァー・ビートルズが出演していたカスバ・クラブの経営者の息子ピート・ベストがドラムスをやっていたので、メンバーとして誘い入れる。バンド名を「ザ・ビートルズ」とする。ハンブルクではリンゴ・スターがドラムスを努める「ロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズ」も出演していて、リンゴと付き合うようになる。
1961年4月〜7月、この2度目のハンブルクでの巡業の途中で、スチュアートが画家に専念するために脱退。
1961年6月22、23日、ハンブルクではトニー・シェリダンのバックバンドとしてもステージに上がっていたことが縁で、ドイツでシェリダンのバックバンドとしてレコーディングに参加(ビートルズのポリドール・セッション)。レコード会社は勝手に「トニー・シェリダン&ザ・ビート・ブラザーズ」とバンド名をビートルズからビート・ブラザーズにかえて発売[17]。「マイ・ボニー」などの他、シェリダン抜きでジョン・レノンのヴォーカルの「いい娘じゃないか」インストゥルメンタルナンバーのビートルズのオリジナル曲「クライ・フォー・ア・シャドウ」もレコーディングされた[18]。
1961年12月10日、ブライアン・エプスタインがマネージャーになることが決まる。
1962年1月1日、デッカ・レコードのオーディションを受けるが不合格となる。
この頃、ピートがステージを休むことが数回あり、そんな時はリンゴが代役としてドラムスを叩いていた。
1962年4月10日、スチュアート・サトクリフが脳内出血により死去。
1962年6月、パーラフォン・レーベルとレコーディング契約を結ぶ。
1962年8月15日、ピート・ベストを解雇。[19]、リンゴ・スターがビートルズに加入。
1962年10月5日、レコードデビュー。
デビュー当初から初期
ビートルズのデビューが決まり、曲を録音する段階で、ジョージ・マーティンは誰をメイン・ヴォーカリストにするか悩んだという。当時は特にリズム・アンド・ブルース系やドゥーワップ系のグループなどでは、「リード・ヴォーカリスト&バックコーラス、又は、リード・ヴォーカル・ウィズ・バックバンド」という形式が多かったためである。その他、スターを1名プッシュして売り出すという目的もあった。マーティンは当初はポールをリード・ヴォーカルとして押し出すつもりであったが、結局ジョンとポールの2人を押し出すことに決定した。デビュー曲は「ラヴ・ミー・ドゥ」でイギリスではそこそこのヒット曲だった。また、英国での2回目のシングルレコードのプリーズ・プリーズ・ミーのNo,1ヒットから英国ナンバー1のグループになる。また、英国でのデビュー・アルバムの『プリーズ・プリーズ・ミー』もイギリスで30週間ナンバー1の記録を達成している。この記録は未だに誰からも破られてはいない。そして、彼等のセカンド・アルバムの『ウィズ・ザ・ビートルズ』が発表になり、このアルバムもまたイギリスで『プリーズ・プリーズ・ミー』に替わり22週間の間ナンバー1になり、ほぼ1年に渡りイギリスのアルバムチャートの1位を占領した。
一方ブライアン・エプスタインの営業努力にもかかわらず、「ラヴ・ミー・ドゥ」、「プリーズ・プリーズ・ミー」、「フロム・ミー・トゥ・ユー」及び「シー・ラヴズ・ユー」は、アメリカでは全くヒットしなかった (大手レーベルからの発売さえできなかった) 。しかし「抱きしめたい」がアメリカでナンバー1になり大成功して以降、上記4曲も加えてビルボードの上位を占める等、アメリカもビートルズ旋風一色となった。
それを含め大ヒット曲の連発で、ポピュラー音楽の歴史が彼等によって塗り替えられて行く事となる。また、「抱きしめたい」のシングル盤は世界で1200万枚以上の売り上げがあり、歴代でも世界のトップクラスのセールスを記録した。アメリカでは、次作のシングル「キャント・バイ・ミー・ラヴ」が予約だけで210万枚に達し、またイギリスでも予約枚数が100万枚になり『ギネス・ワールド・レコーズ』には最も予約枚数があったレコードとして記載されている。 また、ヴォーカルの方面では「シー・ラヴズ・ユー」「抱きしめたい」などの、ジョンとポール二人で歌っているうちの、「どちらがリード・ヴォーカルのメロディーなのかわからない曲」や、「ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!」などのように「1曲の中でソロパートとして、2人が歌い分ける曲のパターン」、「エイト・デイズ・ア・ウィーク」「デイ・トリッパー」などのように「最初はジョンやポールがリード・ヴォーカルだが、いつの間にかハーモニーやバックコーラスに回り、リード・ヴォーカルが交代してしまうパターン」などの形態がある(これらは主に二人の声の高低をカヴァーしたことに起因する)。コンサートツアーの方はアメリカで成功したため、他の国での成功をも確信したことから、世界ツアーに行く事になる(当時はアメリカで大ヒットするだけでは不十分だった)。1964年のオーストラリア公演では、リンゴが扁桃腺炎の為、一時期リンゴの代役としてジミー・ニコルがドラマーとして参加する。またリンゴが復活し、オーストラリアのアデレード公演の際、ビートルズがアデレード市のタウン・ホールに出現した時は30万人のファンがタウン・ホールに詰め寄せたという。
日本公演
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日本公演は、読売新聞社と中部日本放送の主催によって1966年6月30日から7月2日にかけて5公演、東京・日本武道館において行われた。初日は夜のみ、2・3日目は昼および夜の各2回公演であった。
(入場料金) A席:2100円、B席:1800円、C席:1500円 ※警備の都合上アリーナ席はなし
ビートルズ来日に、警備は相当厳重になり、警視庁は大規模な警備体制を取り約3万5千人の警備員と機動隊が出動した。また安保闘争を除けば警視庁創設以来の大規模な警備体制となった。公演では当初、初日のステージの様子が録画されテレビ放送されることになっていたが、(マイク・スタンドの不備等)ビートルズ側の主張によりその映像は放送されず、急遽、翌7月1日昼の部のステージが収録されて、その日の夜9時から日本テレビ系列にて放送された本放送に使われた(番組の詳細はザ・ビートルズ日本公演 (テレビ番組)を参照)。7月1日公演分の録画(白っぽい衣装)は、放送終了後エプスタインが持ち帰ってしまったため、近年何度かされた再放送や、1986年に日本国内のみで正式発売されたビデオなど(今は廃盤)は、6月30日公演分の録画(ダークな衣装)である。2インチ高画質カラー・ビデオテープで収録されたこの公演はとても鮮明な画像で残されており[20]、数少ないカラーのビートルズのコンサート映像の中でも世界的に類を見ないものであるため、日本国内のみで正式発売されたビデオ[21]は海外のファンの間ではかなりの高額で取引されている。しかし、現在では版権等の問題があるため、2006年現在このビデオの再リリースは不可能といわれている。
ちなみに7月1日の映像はDVD『アンソロジー・エピソード5』で2曲のみ見ることができる。全曲は非公式ビデオ・DVDでしか見ることができないが、見所として「アイ・フィール・ファイン」の冒頭でジョンがギターでフィードバック音を出している部分が挙げられる。また、このDVD『アンソロジー・エピソード5』には、ほんの数秒ではあるものの、当時ビートルズの広報を担当していたトニー・バーロウによって撮影された、7月2日昼の部のカラー8ミリ映像も収録されている。他にも非公式に撮影された6月30日と7月1日(昼の部)のカラーの8ミリも存在するようである。今のところ存在が確認されている日本公演の映像はこの3ステージ分のみであるが、実はこの時、東京オリンピック開催時とほぼ同じ規模だったと言われるビートルズ日本公演の警備の模様を記録した『ビートルズのすべて』と題された記録映画が、警視庁によって製作されている。
6月30日と7月1日午後では収録方法も大きく変わっており、初日の映像では殆ど客席を写すことは無いが、1日のはかなりしつこく客席を写している。基本的なカメラ割りは同じだと考えられるが。また、音声のミキシングも大きく異なっており、ポールのベースの音が極端に大きくなったり(本来のヴァランスだと思われる)、観客席の声がよりリアルに聞えるようになった。
タレント・志村けんは、7月2日昼の部の公演を2階前列で見た際に、テープレコーダーで録音[22]。また同日夜の部では、ジョンがサングラス[23]をして公演をした珍しい日でもあった[24]。当時はPA(拡声)システムが整備されておらず、あまりの大歓声に演奏者であるビートルズ及び観客には良く演奏が聴こえなかったという。これは日本公演に限らずビートルズのどの公演にも当てはまるのだが、そのため、勘で演奏をしていた部分もあり、ワンパターンの決まり切った演奏(特にドラムス)しかできなかったらしい。
この日本公演に関して言えば、武道館のアナウンス用スピーカーからも演奏を流していたのと、欧米諸国に比べファンが騒ぐことなく比較的おとなしく演奏を聴いていた(実際には、「席を立ち上がったら即退場」という規制が敷かれていたことと、1階のアリーナ席には警察官および関係者以外立ち入り禁止だったため2階のスタンドより上にしか観客はいなかった)ため、演奏自体はおおかた聴こえていたようである。しかしながら、「まったく聴こえなかった」という人と「いや、ちゃんと聴こえた」という人とどちらの証言も多数あるため、客席の位置によって聴こえた場所と聴こえなかった場所があった可能性は非常に大きい。RCサクセションの 仲井戸麗市は著書『だんだんわかった』で、高校生時代に見た日本公演の様子を書いており「リンゴの「アイ・フィール・ファイン」のバスドラムの踏み方が完璧で本物だった」と記している。
6月30日公演の映像を見る限りでは、「アイ・フィール・ファイン」他でジョン・レノンが歌詞を間違えて歌い、それを聴いたポールが首をかしげたり、苦笑いするシーンを見ることが出来る。と言うことは、ステージ上では意外に自分たちの音(声)が聞こえていたのでは無いかと推測できる。当時PAは無く当然ステージ上に返しも無い為、恐らくアリーナ上に設置されたスピーカーからの音が舞台上に届いていたのであろう。 舞台上の集音は楽器に関しては全くされていないようで、テレビ収録があった6月30日と7月1日のみ、ギターアンプ前とドラムスに集音用マイクが設置されているが、それ以降はマイクが置かれているのを見ることが出来ない。ということは、舞台上のスピーカーからはヴォーカルのみが出ていて、楽器は生音だけだったと考えられる。館内の音響設備からも音を流していたと言うことは、客席天井からも音が出ていたということであり、スピーカーに近い席に座っていた人、または、舞台上の東京音響が設置したスピーカーの近くに座っていた人にはかなり聞えていたと考えられるが、席によっては全く聞えなかった事は十分考えられる。
今でこそ東京ドーム同様、武道館でのロックコンサートは頻繁に行われているが、当時は佐藤栄作首相や、元朝日新聞記者で政治評論家の細川隆元らが、「神聖なる日本武道館でロックバンドが演奏することなどけしからん」という意見が多数を占めていた(特に細川は、テレビ番組などで差別用語まで使い罵倒を繰り返していた)。実際に、公演会場を後楽園球場かよみうりランドへ変更することも検討された。これに対しポールは「僕らは演奏をしに来ただけだよ。例え日本の舞踊団がイギリス王立の会場でパフォーマンスを行ってもイギリス人は伝統を汚されたとは思わない。」と反論。ジョンも「闘うよりも音楽を演奏する方が平和でいいよ。」「僕らはここでやってくれと言われたからやるだけで、別にボクシング場でもどこでも僕らは構わない。」とコメントしている。
司会を務めたのはE・H・エリック。前座として尾藤イサオ、内田裕也、望月浩、桜井五郎、ジャッキー吉川とブルーコメッツ、ブルージーンズ(寺内タケシは所属事務所渡辺プロダクションを退社する条件としてグループから脱退した直後のため出演していない)、ザ・ドリフターズ(6月30日・7月1日のみ)が舞台に上がった。前座の模様は版権の関係でビデオ化されたことはないが、映像自体は残されており、時折テレビでも一部が放送されることがある。ザ・ドリフターズの演奏は当時放映されておらず、日本テレビいつみても波瀾万丈に加藤茶が出演した際に初めて公開された(6月30日版)。6月30日・7月1日昼の部両日共に記録されているが7月1日は当時放送分に公開されたきり、一度も放映されていない。7月1日のVTR全てをビートルズサイドが持ち帰ったため言われている。7月2日の演奏は、写真が残されているのみで公式な映像・音声は2024年1つも発見されていない。
しかしこの日本公演は、アメリカでの1964年、1965年の公演に比べると、ライヴとしては決して良い出来とは言えなかった。音程は外れていたし、マイク等の機材も品質の良い物ではなかった。ライヴ前の記者会見でジョンが「ビートルズを聞きたい人はレコードを聞いてください。ビートルズを見たい人はコンサートへ来てください。」と言っていたことを考えると、初めからまともに演奏する気がなかったことが窺える。そして、ライヴでの再現が困難な曲を多く含んだアルバム『リボルバー』のレコーディングを来日前に終えているという事も考慮すると、ビートルズは最早ライヴ活動に対する執着心を感じていなかったのではないかという事が考えられる。(初日の演奏で日本のファンが演奏を聴いてくれていると知ったメンバーが翌日のステージでは恥ずかしい演奏は見せられないと本気の演奏をしたという証言もある)
初日公演翌日の7月1日の朝刊では、全国各紙一斉にこの日本公演の模様を大々的に報じた。どの新聞社も一通り公演の様子を伝えてはいるものの、ビートルズの演奏よりも熱狂する少女や厳重な警備体制に焦点を定めた社会記事的な扱いをしており、また数ある新聞社の中でも朝日新聞は、「1曲目の『ツイスト・アンド・シャウト』から始まり、『ヘルプ』、『プリーズ・プリーズ・ミー』とヒット曲が続くと少女たちの熱狂は頂点に達した…」などと、実際の演奏曲とはまったく違う明らかな予定稿を載せていた。このことからも、当時の日本のマスコミは「ビートルズそのもの」よりも「ビートルズが巻き起こす社会現象」に関心が強かったことが窺える。
メンバーの投宿に際しては、警備上の理由からなかなか決まらず、唯一名乗りを挙げた「東京ヒルトン」(後のキャピトル東急ホテル。2006年11月30日に閉館)に落ち着いた。
なお、来日時に日本航空のダグラスDC-8機のタラップを降りてくる時に、4人のメンバー全員が「日本航空」のロゴの入った法被を着用していたが、これは、「宣伝のために自社のロゴの入った法被を4人に着用させろ」との日本航空の宣伝部の命を受けた客室乗務員が、「日本の伝統衣装を着用すると日本のファンが喜ぶ」といって着用させたものだった。
ザ・ビートルズ日本公演を見た主な著名人
日本公演を見た主な著名人とその職業・所属は下記のとおり。太字は当時の職業・所属。50音順、前座出演者は除く。
- 梓みちよ (歌手)
- 淡谷のり子 (シャンソン歌手)
- 石原裕次郎 (俳優、歌手)
- 伊藤エミ (ザ・ピーナッツ)
- 伊藤ユミ (ザ・ピーナッツ)
- 宇崎竜童 (ミュージシャン、作曲家)
- 遠藤周作 (小説家)
- 大島渚 (映画監督)
- 大佛次郎 (作家、小説家)
- 加賀まりこ (女優)
- 加瀬邦彦 (作曲家、音楽プロデューサー)
- 加橋かつみ (ザ・タイガース(デビュー前)、歌手)
- かまやつひろし (ムッシュかまやつ、ザ・スパイダース)
- 岸部一徳 (ザ・タイガース)
- 岸部シロー (ザ・タイガース)
- 北杜夫 (小説家)
- 桐野夏生 (推理作家、小説家、作家)
- 財津和夫 (チューリップ、フォークシンガー、作曲家、俳優)
- 堺正章 (ザ・スパイダース、歌手、タレント、俳優、司会者)
- 沢田研二 (ザ・タイガース(デビュー前)、歌手、俳優、作曲家)
- 志村けん (ザ・ドリフターズ (加入前)、お笑い芸人)
- 高田文夫 (放送作家)
- 多湖輝 (大学教授)※警視庁からの依頼で警備のアドバイス等
- 仲井戸麗市 (古井戸、RCサクセション、麗蘭)
- 中尾ミエ (歌手)
- 萩原健一 (ザ・テンプターズ、PYG、俳優、歌手)
- ばんばひろふみ (フォークシンガー、ラジオパーソナリティ)
- 人見豊 (ザ・タイガース、文学博士)
- 平尾昌章 (作曲家、歌手)
- 星加ルミ子 (『ミュージック・ライフ』編集長)
- 松崎しげる (歌手)
- 松村雄策 (音楽評論家、文筆家、ミュージシャン)
- 松本隆 (作詞家)
- 三島由紀夫 (作家、劇作家)
- 湯川れい子 (音楽評論家、作詞家、翻訳家)
- 横尾忠則 (美術家)
- 芳村真理 (司会者、女優、実業家、森林保全、環境保護活動家)
- 布施明 (歌手)
ジョンのキリスト発言
ビートルズがまだ世界ツアーをしていた1966年、ジョンがあまりの人気ぶりに「ビートルズはキリストよりも人気がある」と発言したことにより、キリスト教国でビートルズ排斥運動を巻き起こした事件。この発言は1966年3月にジョンが英国『ロンドン・イヴニング・スタンダード』誌に答えたインタヴューの一部だったが、同年8月に米国誌に転載されると大問題となり、アメリカ各地や世界中のキリスト教国でデモが行われたり、レコードやポスターが焼かれたり(そのあとに、焼いたものと同じレコード等を買った人もいたため、売り上げが少しではあるが伸びた)、彼等の楽曲のオンエアを控えなければならなくなったラジオ局が増えたりと、大変な騒ぎとなった。その後ジョンが発言を撤回したが、事態はすぐには収拾しなかった。
なお、この一件は単なる舌禍事件に留まらず、ビートルズの活動内容に転換をもたらすとともに、特にジョンが自分とビートルズとの関わり方を見直していくことになるターニング・ポイントとなった。あまりのファンの熱狂ぶりにコンサートでの演奏がまともにできなくなっていたことに加え、過酷なスケジュールとホテルでの缶詰生活からツアー自体に嫌気がさしていた各メンバーは、ジョンのキリスト発言を機に各地で起こったビートルズ排斥運動を見てツアーへの興味を完全に失った。またジョンとしては、現状の聖職者に対する不満をジョークとともに皮肉ったつもりであったが、周囲にあまりに過剰に反応されたことに対して、自分の意志や信条に忠実な発言ができないアイドルとしての立場に強いフラストレーションを感じるようになった。さらには、自己の等身大以上に巨大化し、もはや自らもコントロールできなくなってしまった「ビートルズ」という存在自体に嫌気がさし、次第に距離を置いていくようになる。そして、このことが逆に、自分に忠実な自由な活動をするという信念をジョンに持たせることになり、過激な政治運動、ヨーコとの活動、ビートルズの否定という、その後のジョンの生き方に反映されていくことになる。
フィリピン事件
日本公演終了後、次に控えていたのはフィリピン公演であった。1966年7月3日にビートルズの面々はフィリピンのマニラに到着、そこでも熱烈な歓迎を受ける。翌4日、マニラのリザール・メモリアル・スタジアムで公演。観客数約10万人を動員する。しかし公演後、当時の大統領夫人イメルダ・マルコスが主催するパーティに招待されていたにも関わらず、ビートルズが欠席するという事件が発生する。ビートルズ側は正式に断ったのだが、現地のプロモーターはイメルダ夫人サイドには直前まで伝えなかった。この出来事はイメルダ夫人ならびに、新聞やテレビで事件を知ったフィリピン国民の激しい怒りを買ってしまい、空港で怒りに満ちた多数の市民に取り囲まれるという事態に発展する。飛行機の離陸許可もなかなか下りず、結局コンサートの収入をすべて当局に渡してようやく許可が下り、その地を離れることができた。この散々な目にあったフィリピンでの一件も、後述するビートルズのライヴ活動停止の一因になったと言われている。
コンサート・ツアーの停止とレコーディングアーティストへの脱皮
日本公演・フィリピン公演の後に行われた、アメリカツアー(1966年8月29日)のサンフランシスコ・キャンドルスティック・パークのステージを最後に、ビートルズはコンサート活動を停止する。
当時の彼らは、コンサートにおいて満足な演奏ができない環境にあった。ポールによる「スタジオ盤では問題ないのに、ステージの録音を聞くと、ハーモニーが上ずってしまい、音感の悪さに気落ちしてしまう」という主旨の発言もあった。彼らに限らず、当時のステージにはモニター[25]などは設置されていなかったので、やむを得ないところもあると言える。しかも観客の増加とともに会場は野球場(特に1965年8月15日のシェイ・スタジアム公演は象徴的なものとなった)やサッカースタジアム、室内でも地区有数の大会場で行うようになり、ヘヴィーなサウンドを大音量で出しても観客の少女たちの大歓声で演奏がかき消されてしまったという。ビートルズのためにより強力な音響装置も開発されたが、当時の技術では焼け石に水であった。このような状況の中、メンバーがライヴに対する関心をなくしていったのは自然な流れであったともいえる。
コンサート活動の停止に前後して、彼らはレコーディング活動に集中し、次々と革新的な作品を発表する。初めて本格的なスタジオワークを駆使した1966年のアルバム『リボルバー』は、ライヴでの再現性を全く無視した実験的な試みを行った。『リボルバー』の発売は、最後のアメリカ・ツアー前であるが、ライヴでは一曲も演奏されていない。ライヴ活動を停止した後は、完全にスタジオでの作業に専念できるようになり、こうした取り組みがポップス音楽の金字塔と称される1967年のアルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』に結実していく。このアルバムはポップス史上最大のトータルアートとも呼ばれ世界中の音楽評論家たちから絶賛された。発売後3週間で250万枚も売り上げたが、売り上げよりも音楽的価値が最も評価の高いアルバムとも言われる。同作品は同時代のアーティストに非常に多大な影響をもたらし、彼らの音楽的評価を決定づけた。
しかしその矢先、同年8月27日にマネージャーのブライアン・エプスタインが睡眠薬の多用により死亡する。エプスタインの死自体と直接の関係があるのかどうかは定かではないが、彼のいなくなった後バンドとしての求心力やメンバー間の結束は弱まり、解散の遠因となったとも言われる。
その後もテレビ映画『マジカル・ミステリー・ツアー』を自作自演、1968年には個々の個性が際立つ二枚組オリジナル・アルバム『ザ・ビートルズ』(通称・ホワイトアルバム)など傑作を発表。同年に発表したシングル「ヘイ・ジュード」はビートルズ最大のヒット曲となった。ビートルズがライヴ・ツアーを続けていたとしたらこのような音楽的進化を遂げることはできなかったとさえ言われる。ドラッグ、サイケデリックに突入する時代と、その時代のミュージックシーンの先頭を駆け抜けていくことになる。
アルバム『レット・イット・ビー』と『アビイ・ロード』
ブライアン・エプスタインの死後、急速に弱まったグループの結束を昔のように強くしようと、ポールの提案で『ゲット・バック・セッション』(「ゲット・バック」=「昔に戻ろう」という意味合いを持つ)が1969年1月3日より31日まで行われる。このセッションは新アルバムのレコーディングに加え、スタジオでのセッションをすべて撮影し、その模様をドキュメンタリーにして放送、そして新曲を引っさげライヴ活動を再開、という大掛かりなプロジェクトであった。
コンサート活動再開はジョージが強硬に反対し実現しなかったものの、1月30日に「ルーフトップ・コンサート」(ロンドンのサヴィル・ロウにある彼らの会社「アップル・コア」(Apple Corps Ltd.)本社ビル屋上でのゲリラ的ライヴ)が行われ、これがビートルズとしての最後のライヴとなった。また撮影された膨大なフィルムは後に編集され映画『レット・イット・ビー』として公開されることになる。この映像では、解散間近のビートルズのぎこちない雰囲気が目立つ。
セッション中、ポールとのいさかいからジョージがグループを一時離脱。ジョンとポールはジョージ・マーティンの録音立ち会いを断ったりもしており、それまでメンバー間の緩衝材としての役目を果たしていたリンゴの手にも余る状態だった。そんな中、レコーディング離脱中のジョージがビリー・プレストンをエレクトリックピアノ(一部ハモンドオルガン)担当のバックアップ・メンバーに加えることを条件にグループに復帰(ジョージ・ハリスン個人の項目参照)。これは、外部のミュージシャンが側にいるといい子になるジョンとポールの性格を利用したものである。この結果、バンドの雰囲気も大きく変わり、演奏の出来もさらによくなった。
途中で撮影(および演奏・録音)場所をトゥイッケナム・スタジオから、アップル社の当時未完成だった地下スタジオに移し、EMIスタジオから機材[26]を借り受けて再開。演奏のヴォルテージは上がってはいったが、「ゴールは解散」と、メンバーたち自身が意識的にか無意識的にか悟っている状態であった。そして、1月31日に29日間にわたるセッションは終了した。
その後、5月の発売を目指しテスト盤『ゲット・バック』は作られたが、集中力散漫で各メンバーが不満をくすぶらせる中行われたレコーディングは満足のいく出来ではなかったためにアルバムの発売は延期、音源も放置された。その後、録音された楽曲に興味を失ったグループがこのプロジェクトを完全に放棄するという事態に見舞われたものの、アップルがこのプロジェクトに大量の投資をしていたことから楽曲を廃棄するわけにもいかず、結局ジョンやジョージらの依頼によりフィル・スペクターが手をかけてアルバム『レット・イット・ビー』(映画『レット・イット・ビー』のサウンドトラック)としてアルバムが完成(商品化)した。発売はレコーディングから丸1年以上経ってからになった。
リハーサルからルーフトップ(屋上)コンサートの終わった約半年後、ポールがジョージ・マーティンに「ビートルズの新しいアルバムを作る」と協力を依頼してきた。マーティンは自分の耳を疑ったが「昔のように全員が協力して本気で作る気ならば(プロデューサーとして)立ち合う」ということで合意し、制作・完成したのが『アビイ・ロード』である。この頃の4人の人間関係は最悪とされていたが、それにもかかわらずこのアルバムの完成度は高く、特にB面のメドレーは現在でも評価が高い。現在でも世代を超えて人気が高いポピュラー音楽の名盤とされている。
尚、『アビイ・ロード』の「B面(CDは後半部)のほとんどをメドレー形式にする」というアイディアはポールのものであり、彼が中心になって作業が進められた。逆にレコードでいうA面(CDであれば前半)は、主にジョンが仕切ったと言われている。
解散とその後のメンバーの関係
1969年9月(20日と言われる)には、メンバー間でのミーティングの席上、ジョンが脱退の意思を表明したが、当時のマネージャーのアラン・クレインはキャピトルレコードとの契約更新が間近であったことから、ジョンの発言が公にならないようひた隠しにしていた。 1970年4月10日、ポール・マッカートニーはイギリスの大衆紙『デイリー・ミラー』でビートルズからの脱退を発表し、同年12月30日にはロンドン高等裁判所にアップル社と他の3人のメンバーを被告として、ビートルズの解散とアップル社における共同経営関係の解消を求める訴えを起こした。翌1971年3月12日、裁判所はポールの訴えを認め、他の3人は上告を断念したため、ビートルズの解散が法的に決定された。
ビートルズの解散について、オノ・ヨーコの存在をその主な要因とする意見が特に1970年代には多く主張されたが、現在ではメンバーそれぞれの自立指向やマネージメントの問題、ビートルズ自身が設立したアップル社の経営問題など、より複合的な要素にその要因を求める論調が多くみられる[27]。そのことについてオノ・ヨーコは多くを語っていない。
ジョンは、ポップスターという自分自身の立場に嫌気が差していて、前衛芸術家であるヨーコにインスパイアされるかのように、ファンには理解しがたい前衛的なパフォーマンスを繰り広げていた。またポールはビートルズのライヴ活動再開をメンバーに進言したが受け入れられなかった経緯がある。ジョージもまた自分の才能を発揮できない環境に不満を持ち、早くからソロ活動を指向していた。また、エプスタインの死によってマネージメントに恵まれず、メンバー個人個人が自分の思う道を進んだ結果、バンドとしての方向性が定まらなかったことも要因の一つに挙げられる。
また、ソロ活動への布石として、ジョンは1968年のローリング・ストーンズがホスト役を務めた『ロックンロール・サーカス』や、1969年ロンドンでのユニセフのチャリティーコンサートにおいて、エリック・クラプトンなどとライヴ演奏をしている。(解散後も含めた以降のソロ活動については、ジョン・レノンの個人の項目参照)ジョージもまた『電子音楽の世界』などソロ作品を発表している。
解散後から『ビートルズ・アンソロジー』リリースまでの動きや作品については、各メンバーの項目の記事やヒストリー(年表)、ビートルズの作品を参照。
解散直後の1971年頃には、ジョン・ジョージとポールの不仲も頂点に達したといわれ、特にジョンとポールの二人はお互いのソロ・アルバムの中で痛烈な非難をやりあった。その中でも一番辛辣なものとして名高いのが、1971年のジョンのアルバム『イマジン』収録の「眠れるかい」であろう。ここでジョンは、同じく当時ポールと不仲であったジョージをもレコーディングに誘い、アルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』や「イエスタデイ」、ソロ・デビュー曲「アナザー・デイ」までをも持ち出して、ポールの事を辛辣に皮肉っている(具体的な内容については「眠れるかい」の項を参照のこと)。もっとも、この後リンゴの忠告によって反省したジョンは、「この曲は自分自身を攻撃している歌だった」と、この曲をリリースしたことを後悔しているといった発言もしている。その後ジョンとポールの仲は少しずつ修復されていった。一方ジョージは自身がソングライターとしての才能を開花させていく中で、なかなか自身の曲がアルバムに収録されないことに関して強い不満を抱いていたといわれる。特に活動後期にはポールが彼のギタープレイにいちいち注文をつけたことから口論になり、一時的にバンドを脱退する騒ぎにもなっている。(ポールの謝罪により白紙撤回。)ジョージのアルバム「オール・シングス・マスト・パス」に収録された「ワー・ワー」、「ラン・オブ・ザ・ミル」には、そうしたポールへのメッセージが背景にあるといわれている。ジョージとポールは、バンド解散後ジョンの死後ジョージの「過ぎ去りし日々」で競演するまでともにプレイすることもなく、またジョージはポールがビートルズ再結成の話を持ち出して自身のアルバムの宣伝をすることをたびたび非難するなど(1970年代末にメンバー間で話が持ち上がったビートルズ再結成に一番否定的だったのもジョージだったといわれている。)、ジョンとポール以上に遺恨が深いのではないかとも言われている。
リンゴだけは、解散してからも他の3人のメンバーとの良好な関係を保ち続け、ジョン、ポール、ジョージともにリンゴのソロ・アルバムのレコーディングに関わっている。1973年リリースのアルバム『リンゴ』では3人全員がセッションに参加し、特にその中の収録曲「アイ・アム・ザ・グレイテスト」(作者はジョン)ではジョン、ジョージ、リンゴが一緒に演奏、テープの上だけではあったが久しぶりに4人が一緒になった。ベースを弾いたクラウス・フォアマンは西ドイツハンブルクでの下積み時代からのビートルズの親友で1966年のアルバム『リボルバー』のジャケットを手がけており、一時はジョージがポール脱退後、クラウスを加えて新生ザ・ビートルズとして活動したがっていると伝えられていた。
1970年代に入り、ジョンがヨーコと別居生活を送っていた1974年に、スティーヴィー・ワンダーらとともに、ジョンとポールが「ルシール」や「スタンド・バイ・ミー」などの曲をジャム・セッションしているテープがブートレグ(海賊盤)として発売された。これは、訴訟中ではあったが解散の数年後にジョンとポールが顔を会わせて共演したことの証明として重要な位置を占めているものであり、また2000年にはイギリスの音楽誌『MOJO』に、この時のジョン、ポール、キース・ムーン、ポールの妻リンダ・マッカートニーが一緒に写っている写真が「ジョンとポールが一緒に写った最後の写真」として公開された。このセッションではジョンがギターとヴォーカル、ポールはドラムスとハーモニーを担当。ちなみにこの時ポールが叩いているドラムセットはリンゴのものである(リンゴはこの当時ジョンやハリー・ニルソンらと共同生活を送っていたが、ポールが訪ねてきた際にたまたま外出中だったため、惜しくもこのセッションに参加することはなかった)。「ルシール」、「スタンド・バイ・ミー」では久々のジョンとポールによるデュエットが聴ける。
公式に4人全員が揃って姿を見せることは遂に一度もなかったが、メンバー同士はそれぞれ交友を保ち続け、またビートルズ解散の原因ともなったアップル社の問題を話し合うために、非公式に4人全員で数回顔を合わせている事などは知られている。また最近では、「みんなが思っているほど解散直前のビートルズの人間関係は険悪ではなかった」というメンバーの発言も出されている。
解散以降、新たな音源のリリースはないと思われていたが、1995年に始まった『アンソロジー(作品集)企画』の中で、ジョンが1977年頃製作していた「フリー・アズ・ア・バード」のデモテープを基に、ELOのジェフ・リンを共同プロデューサーに迎え、残りの3人がオーヴァー・ダビングをして、ビートルズの「新曲」としてリリース(製作作業は1994年)している。これがビートルズ唯一の正式な「再結成」とされている。1996年には、ジョンのソロ曲「リアル・ラヴ」もビートルズ版としてシングル化(製作作業は1995年)されるが、以後はジョージの死などもあり、再結成的な動きは見られていない。 しかし2000年には彼等の全米と全英で1位になった曲(1位になった曲全曲が収録されているわけではない)のベストアルバム、『1』が全世界で発売になり各国で話題になった。このアルバムは発売1週間で360万枚売り、『ギネス・ワールド・レコーズ』には「最も早く売れたアルバム」と認定されている。これまで世界では3000万枚以上も売り上げている。(現在もまだ売り上げている。) またこのアルバムは全世界の34ヵ国ものの国(日本のオリコンでも総合アルバム・チャートで初登場2位、翌週には1位を獲得。日本では輸入盤も含めて300万枚以上をセールスした)で1位になり、記録更新した。 アンソロジー・シリーズの他にも2003年にアルバム『レット・イット・ビー』の新装版「レット・イット・ビー...ネイキッド」、2006年にリミックスされたアルバム「ラヴ」も発売された。 2009年9月9日にオリジナルアルバム、米編集『マジカル・ミステリー・ツアー』、『パスト・マスターズ』のCDがデジタルリマスターステレオ音源で世界同時発売されることが発表されている。なお、現行盤でモノ音源として出回っている『ビートルズ・フォー・セール』までの4作がオリジナルステレオミックスとして初めてCDとして出ることになる。同日、『ザ・ビートルズ』までのオリジナルアルバムのモノ音源と2枚組の『モノ・マスターズ』(ステレオ盤の『パスト・マスターズ』に対応したアルバム未収録曲集)[28]を収録したCD BOX『The Beatles In Mono』も発売され、『ヘルプ!』、『リボルバー』は発売当時のミックス音源も追加収録される予定。
世界への影響
ビートルズの影響力は世界中に波及し、曲のコピーや世界各国でバンド編成のグループが誕生した。またファッション面での貢献として、初期にだけ限定しても、服装は「襟なしルック(スーツ)」、髪型は「マッシュルームカット」(スチュアート・サトクリフが恋人のアストリット・キルヒヘルのヘアスタイルを真似たことで広まったという説もある)などといった、数々の点が挙げられる。長髪スタイルも彼等の影響のひとつ。ファッション面の他にも20世紀のポップカルチャーとして各国の文化面にも多大な影響を与えた。その背景として、当時から現在まで世界の超大国であるアメリカで前代未聞の人気グループとして認知され、かつ、同国の驚異的なレコード売り上げ枚数やコンサート動員数で大きな成功を収めたことが指摘されている。
音楽的貢献
ロック・ポピュラー音楽史の流れなど変えた事や、予約レコード枚数の世界最多記録など数え切れない。各国でも色々な記録が残っている。またカヴァーされる曲が最も多いアーティストとも呼ばれている。彼等の名曲「イエスタデイ」は世界中のアーティストから最もカヴァーされており、『ギネス・ワールド・レコーズ』には3000曲以上のカヴァー曲があると認定されている。ちなみに有名アーティストからはエルヴィス・プレスリーやフランク・シナトラなどが取り上げている。また他の曲では、カム・トゥゲザーがマイケル・ジャクソンによって彼のビデオに取り上げられた。ソロ活動したジョン・レノンの有名曲イマジンもマドンナや多数のアーティストにカヴァーされている。日本では昭和の歌謡界の女王、美空ひばりや若大将の異名をもつ加山雄三などが彼等の曲をカヴァーしたり、歌っている。また日本のロック歌手矢沢永吉もラジオから流れてくるビートルズを聴いてロックに目覚めたという。またカヴァー曲だけではなく、現在までのポピュラー音楽がここまで進化してきたのも彼等の曲の影響であるのも事実である。また音楽面で絞り込むと以下のようなことが挙げられる。
自らオリジナル曲を作った
当時ポピュラー音楽では作詞、作曲、演奏、歌がほぼ完全に分業化されており、そのルックスと音楽的センスから音楽界に衝撃を与えたエルヴィス・プレスリーでも一部は他人との共同ながら自作の曲もあるが、基本的に持ち歌はエルヴィス以外の人の作詞作曲であった。これに対し、ビートルズは基本的に自らのリリースする曲は自作自演であり、アマチュア時代や初期(1965年頃まで)のライヴやアルバム中の曲に限りR&RやR&Bの他のアーティストのカヴァー曲があったものの、中期(アルバム『ラバー・ソウル』から)以降は全て自分たちのオリジナル曲であり、シングルに関しては、デビュー曲の「ラヴ・ミー・ドゥ」以降全てオリジナルであったが、当時としてはこれは非常に珍しいことであった(特にデビュー曲に関し、プロの作曲家に頼まず、オリジナル曲を出したアーティストは当時皆無に等しかった)。ビートルズが自らオリジナル曲を作っていたことに触発され、ローリング・ストーンズのミック・ジャガー、キース・リチャーズが自作の曲を作り始めたことは有名である。ビートルズ以降、アーティストやミュージシャン、シンガー達が自作自演という事が一般化されていく。ただし、ビートルズ以前にもチャック・ベリー、スティーヴィー・ワンダー、バディー・ホリー、リトル・リチャード、キャロル・キング等々自作自演を基本とした歌手や作曲家の例は多数ある。
アメリカへ本格的に進出した
1964年のビートルズのアメリカ初上陸はアメリカ人にとっても歴史的な年で、エド・サリヴァン・ショーに出た時は、アメリカのテレビ史上最高の72パーセントという驚異的な視聴率などが記録に残っている。また当時のアメリカ合衆国の人口で7300万人が視聴したという。また、高いポップ性の下に信じられない数のヒット曲をリリースし、アメリカでのナンバー1ヒット曲が最も多いアーティストとなっている。その勢いはイギリスだけにとどまらず(音楽面では米国からもやや低く見られていた当時のイギリス音楽界から)米国本土に本格的に進出し、定期的にヒット曲を送り込むほどのバンドであったこと(米国での正式レコード・デビューの年でもある1964年には、4月4日付の『ビルボード』誌のシングルチャートの1〜5位を独占)が挙げられる。また、ビルボードでは、最も多くのナンバー1獲得アルバムなどがある。ビートルズは英国人として全米レコード協会のゴールドディスク受賞を果たしているが、当時は外国人が受賞する事は非常に珍しい話であった(史上初は同時期に活動していた坂本九で、ビートルズは2例目)。この「全米レコード協会」によるとビートルズが現在までアメリカで最もレコード売り上げ記録があるアーティストとして記録されている。 アメリカ合衆国第42代大統領のビル・クリントンもビートルズのファンとしてお気に入りのメンバーはポール・マッカートニーと答えている。
さまざまなジャンルの音楽との融合
一方、中期に差し掛かる辺りから「イエスタデイ」、「エリナー・リグビー」、「シーズ・リーヴィング・ホーム」でのストリングス、「フォー・ノー・ワン」でのホルンなどといったクラシック音楽で用いられてきた楽器を演奏する曲がリリースされた。また、ジョン作の「ノルウェーの森」で初めてジョージがシタールを導入したことにはじまり、「ラヴ・ユー・トゥ」、「ウィズイン・ユー・ウィズアウト・ユー」、「ジ・インナー・ライト」などの主としてジョージ作の曲で際立っていたインド音楽に使われる楽器の演奏を、サウンドに融合する形で組み込んだ(ジョージについては直接インド音楽を導入した作品が目立ったが、それらは、後にサイケ色が強まる形で、「ベイビー・ユアー・ア・リッチマン」などといった、ラーガロックへと、レノン=マッカートニーの手で昇華されていくこととなる。また、「ゴット・トゥー・ゲット・ユー・イントゥー・マイ・ライフ」では、ブラス・セクションを導入するが、これは彼らが最初というわけではなかった。アイ・フィール・ファインではフィードバックも使用した)。
このような幅広い楽曲を作ったビートルズは、デビュー当時は単なるロックンロール・バンドと見られていたが、その音楽的な領域は単なるR&Bにとどまらず、バラードからハードロック、またカントリーソングからゴスペルソング、そしてフォーク・ソングからオペラ風ソング、クラシック音楽からジャズ風のサウンド、バンド音楽からピアノ曲、バロック音楽からレゲエ風ソング、ジョージ・ハリスン作曲のインド音楽、さらにはレヴォリューション9にみられる実験的音楽まで、ありとあらゆるジャンルに広がっており、以降、世界のロック・ポップス音楽はあらゆる領域で、多かれ少なかれビートルズの影響を受けていると言える。このようなある種「音楽のデパート」の様な傾向は、二枚組アルバム『ザ・ビートルズ』(通称ホワイト・アルバム)に顕著に見受けられる。 また欧米の音楽評論家達からはその「ホワイトアルバム」を「西洋音楽の歴史である」と評価されている。 同時に後述のアルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』のように高い音楽性を示す作品も作り出しており、バンド音楽、ポップス音楽をある種の芸術にまで高めた功績も非常に大きい。また、ロックン・ロールが確立されて間もない1960年代、彼らのように、色々な種類の音楽を貪欲に取り入れ、自由な発想や独自の方法も交えて表現し、かつ、ヒットに直結していたアーティストは、その当時、世界中で見ても類を見なかったといっても過言ではない状態であった。
プロモーション・フイルム(ビデオ)の作成
ライヴ活動をやめてからの彼等は、新曲のプロモーション用にイメージフィルム(ビデオ)撮影を行ってそれをテレビで放送するという方法を取り始めた。プロモーションのためにいちいちテレビ局に出向いて演奏を披露するのが面倒になってきたためで、「ならば自分たちで演奏シーンの映像を作ってそれをテレビ局に配信すればよい」という考え方に至ったためと言われている。プロモ映像の製作は1965年の段階ですでに始められており、これが現在のプロモーション・ビデオの原型であると見る向きもある。またポールを主権を取り、マジカル・ミステリー・ツアーを製作する際、音楽を映像で表現してみようという発想からも見ることが出来る。『ビートルズ・アンソロジー』においても、ジョージが冗談交じりに「MTVは僕らの発明さ」と語っている通り、当時は非常に画期的なことであった。 ちなみに「MTV」は1980年代に入ると欧米を主に人気を博して行く事になる。
野球場でのコンサート
1964年の全米ツアーは1か月に24都市を回るという強行スケジュールであり、メンバーの疲労も非常に激しいものであった。そのため、1965年の全米ツアーは日程が大幅に短縮され、2週間で10都市を回るスケジュールとなった。その代わりに、コンサート会場として、何万人もの観客を一度に集めることができる野球場を使うことになった。そして、1965年8月15日、ニューヨークのシェイ・スタジアムにおいて、それまでに前例のない史上初の野球場でのコンサートが行われたのである。この日、球場には実に55600人もの観客が集まった。1965年の全米ツアーのみならず、翌1966年の全米ツアーでも多くの野球場が使用された。ビートルズ最後のコンサートも野球場であった(1966年8月29日、キャンドルスティック・パーク)。その後、野球場でのコンサートは一般化し、野球場でコンサートができることは、ロック・バンドにとっての一種のステイタスとなった。ビートルズがコンサート会場として野球場を使ったのは、一度に大勢の客を集めて移動の手間を省く、すなわち、少ない労力で最大の効果をあげることを目的としたものであったものの、野球場コンサートのステイタス化の先鞭であったといってよい。
ビートルズがなぜ、このような大きな成功を上げたのかについては、様々な要因を挙げることができるが、その重要な要因の一つは、ヒーロー不在の時代であったことであろう。ビートルズがデビューした当時、ケネディ大統領が暗殺され、マリリン・モンローが不可解な死を遂げた時代であった。つまり、ビートルズのような新しいヒーローを求める背景が音楽シーンにあったのである。また、ビートルズの行動が当時の世界的なレヴェルで起こっていた各種の大衆運動とマッチしたことも成功の大きな要因である。ビートルズの発言は、社会的に大きな影響力を持っていた。たとえば、ジョン・レノンの反戦運動は、ヴェトナム戦争に突入していったアメリカの若者たちの心を捉え、彼らの行動に大きな影響を与えている。
レコーディング方法の開拓
多重録音が可能になり、後半の曲は音楽実験的な要素が含まれるようになる。有名な例が巻き戻し再生によるレコーディングなどだ。演奏方法においても、ビートルズは積極的に新しい方法を取り入れた。演奏方法についても、「デイ・トリッパー」に使われているようなギターとベースのユニゾンパートをロック・バンドがレコーディングに使用したのは、彼らが初めてである。ギターとベースのユニゾンについては、現在ではごく当たり前に使われるようになった。特にサイケデリック・ロックによって生まれた「トゥモロー・ネヴァー・ノウズ」などの高いレコーディング技術は、その後の音楽業界に多大なる影響を及ぼした。
ビートルズがつくり出した演奏方法、サウンドなどは、後のハードロックやヘヴィメタルの発展に大きく影響していると評価されているが、ビートルズのメンバー自身、ロックに限らず、当時の新しい音楽や楽器に敏感に反応していたのは確かである。
アルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』の衝撃
ライヴ活動停止後間もなくレコーディングが始められ、今までにない長い作業の末リリースされたアルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』のリリースは、世界のポップス・シーンに大きな衝撃を与えた。このアルバムはロックは勿論、世界のポピュラー音楽の金字塔のアルバムとも評価されている。
2台の4トラックテープレコーダー(最終的には2台によるピンポン録音から、1台目の1トラックに信号音を入れて、それを電気的に増幅し、シンクロさせた2台目のモーターを起動して使用)を利用したオーヴァー・ダビングだけで作り上げたそのサウンドには、様々な楽器や効果音が使われている。当時の技術でこれだけのサウンドを作り上げることは非常に衝撃的な出来事だった。当時はまだアメリカでさえ実現していない「8トラックを超えるテープレコーダーが完成した」などという噂も飛び交っていた。
このアルバムはそれまでの彼等の音楽とは異なり、各収録曲がそれぞれ全然違うタイプの曲であり、非常に広範なジャンルの楽曲の集まりだった。これを「架空のバンドによる擬似ライヴ・ショー仕立てにする」との設定で、1枚のアルバムとして統一感を持たせるというアイディアはポールのものであった。この「擬似ライヴ仕立て」というのは、ビートルズとしてのライヴ活動を再開したかったポールのフラストレーションの現れや、他のメンバーへのメッセージだったとも言われている。
「ジャケットに歌詞を印刷する」、「ドラムスのチューニングを極端に落とした上、布などでミュートする」(これは『リボルバー』レコーディング時に、テープスピードを可変させながら録音していくテクニックを駆使する中で発見されたサウンドのテクスチャーを『サージェント〜』では意図的に作り上げたとされる)、「ベースラインが和音(コード)のルート音に限定せずに、時にはフレーズやメロディーをプレイする時もある」など、全て彼らが最初に行ったとは言えないとしても、画期的な手法を分かりやすい方法で押し出して完成させたものである。それまでビートルズを聴かなかった多くのロック嫌いの人たちの心を掴んだ。
当時はロック・バンドとオーケストラが共演するなどということは考えられなかった。この成功は、プロデューサーのジョージ・マーティンに因るところが大きい。1965年の『イエスタデイ』で弦楽四重奏を使用したのがその始まりだが、フル・オーケストラとロック・バンドの競演となると事情が違ってくる。当時、ジョージはビートルズというグループを代弁して「我々とは関係ないと思っていた人々がビートルズ・ファンであることを知った。」とタイム誌に語ったが、これは「サージェント〜」の発売と同時にぴたりと口をつぐんだアンチ・ビートルズの批評家や音楽家に対するビートルズの皮肉ともいわれている。そういった風潮の中で最後の曲の『ア・デイ・イン・ザ・ライフ』は41人編成のオーケストラを取り入れ、またチェンバロとヴォーカルの絡み合いの競演が実現した。ちなみにア・デイ・イン・ザ・ライフの曲の最終コードは、音楽の歴史の中でも最も決定的な最終コードであるとクラシックの音楽評論家から評価されている程である。こういった点を鑑みると、クラシックにも精通していてスコアも書けたマーティンの仲介がなければ実現不可能だったことは十分考えられる。またあるクラシックの作曲家は、「アクセントこそ異なっているが、特に「シーズ・リーヴィング・ホーム」はシューベルトが書いたどんな曲にも勝るとも劣らない。」と言った。これらの一連の演奏面での融合は、後にハードロックで名声を得ることとなる、ディープ・パープルや、いくつかのプログレッシヴ・ロックに手法にも、明らかに影響を与えたといえる。さらにクラシックの演奏家の中にも、アコースティックやバラードを多く手掛けるようになったビートルズに好感を持つ人が増えていたことも一因だろう。このアルバムの発表後、まもなく彼等は世界初の宇宙中継の番組、アワー・ワールドに出演して「愛こそはすべて」という名曲を歌う。この番組は世界で約6億人が視聴したという。
ビートルズの著作権(版権)
レコードを出す為には、楽曲の作者は楽譜を印刷し曲の使用を管理する「音楽出版社」に曲を登録し、著作権(版権とも呼ばれる)を音楽出版社に譲渡し印税を受けとるという契約をする必要がある。著作権者となった音楽出版社は、その使用に関する権限を持ち管理運営を行う。楽曲の著作権料(使用料)は音楽出版社に支払われ、そこから音楽出版社の取り分である管理運営費を引き、音楽出版社から作者へ印税を支払う仕組みになっている[29]。
ファースト・シングル「ラヴ・ミー・ドゥ / P.S. アイ・ラヴ・ユー」はEMI傘下の音楽出版社「Ardmore & Beechwood Ltd.」に登録された(現在この2曲はポールが権利を買取り、ポールが設立した音楽出版社「MPL Communications Ltd.」が著作権を所有している)。しかし何のプロモートもしてくれなかった為、マネージャーのブライアン・エプスタインは2枚目のシングル「プリーズ・プリーズ・ミー / アスク・ミー・ホワイ」をディック・ジェームズの音楽出版社「Dick James Music Ltd.」に登録する事にした。ジェームズの仕事ぶりはエプスタインを満足させるものだった。エプスタインは他の音楽出版社に登録するのではなく、ビートルズ自身の音楽出版社を設立する事を決め、ジェームズを共同経営者に招き入れ[30]、1963年2月22日エプスタインとジェームズが取締役のビートルズのオリジナル楽曲の著作権を管理する音楽出版社「Northern Songs Ltd.(ノーザン・ソングス)」を設立。
しかしやり手だったジェームズはビートルズよりも1ポイント多く投票権を持った株主となった。「Northern Songs Ltd.」の株はジェームズ側(ジェームズと彼の会計士チャールズ・シルヴァー)が51パーセントを所有し、ビートルズ側が49パーセント(ポール20パーセント、ジョン19パーセント、NEMSエンタープライズ10パーセント)を所有したと言われている。
1965年2月には税金対策の為に500万株をロンドン証券取引所に公開。
1967年エプスタインの死後は弟クライブ・エプスタインが取締役を引き継いだ。
1968年、アルバム『ザ・ビートルズ(通称・ホワイトアルバム)』からは、ジョージの楽曲は「Northern Songs Ltd.」からジョージが設立した音楽出版社「Harrisongs Ltd.」に、リンゴの楽曲もリンゴが設立した音楽出版社「Startling Music Ltd.」に登録される事になり、それ以降「Northern Songs Ltd.」に登録される楽曲はレノン=マッカートニーの曲だけになる。
1969年6月ジェームズはすでに「Northern Songs Ltd.」の株を数パーセント所有していた「ATV社」に自身が持っていた株を売却[31]。残りの株を巡ってビートルズとATVで争いが始まったが、ビートルズがこれに敗れ、ビートルズの楽曲を管理する音楽出版社「Northern Songs Ltd.」の筆頭株主オーナーは「ATV」となった[32]。そしてこの時のビートルズのビジネスマネージャーだったアレン・クラインはビートルズの持ち株をジェームズの倍の値段でATVに売却し、決着をつけた。
これにより「Northern Songs Ltd.」はビートルズの手を離れ、ビートルズの会社ではなくなってしまう[33]。
1985年「Northern Songs Ltd.」の持ち主である「ATV」が売りに出され、それを購入したのがマイケル・ジャクソンである[34]。現在「Northern Songs Ltd.」は、マイケルとソニー・レコードとの合弁会社である音楽出版社「Sony/ATV Music Publishing」下にある[35]。
その他のエピソード
- ビートルズはアマチュア時代、数多くのアーティストの曲をカヴァーしているが、ビートルズがもっとも曲数を多く取り上げたアーティストはチャック・ベリー。ジョン・レノンはロックンロールに別の名前を与えるとすれば、それは『チャックベリー』だ」とまで言っている。またジョンが本人と競演した際にはうれしそうにダックウォークまでしてみせた。
- まだ人種差別が強く残っていた60年代、黒人アーティストへの尊敬の意を公の席で初めて語った白人アーティストがビートルズ。スモーキー・ロビンソンは「ブラックミュージックへの敬意を公に語ってくれた初の白人アーティストだった」と語り、B.B.キングは「私のことを初めてほめてくれた有名人はジョン・レノン」と語っている。
- 1969年から1970年頃にかけて、「ポール死亡説」が流布された。
- 『ギネス・ワールド・レコーズ』によると1985年には世界でのビートルズのCD、レコードの総売り上げが10億枚以上と認定された。(現在は当然この数字を上まわっている。)
- 1987年3月9日、ビートルズが曲の制作者の名義としていた「レノン=マッカートニー」が「アメリカ・ソングライターの殿堂」に選ばれる。タイトルの通り、本来はアメリカ国内のソングライターに対するものであるが、アメリカ以外の作曲家としては初の「殿堂入り」となる。
- 1988年1月20日、「ロックの殿堂入り」(Rock 'n' Roll Hall of Fame)を果たす。
- 現在、ポールとジョージ・マーティンはナイトの称号を授与されている。また、ジョージ・ハリスンは故人であるが、この称号が授与されるかが現在話し合われているとのこと。
- かつて幼児番組『ひらけ!ポンキッキ』の一部コーナーで「プリーズ・プリーズ・ミー」、「プリーズ・ミスター・ポストマン」、「ベイビー・イッツ・ユー」、「ホエン・アイム・シックスティ・フォー」、「愛こそはすべて」、「ワン・アフター・909」、それにウイングスの「心のラヴ・ソング」「ハイ・ハイ・ハイ」などがアレンジされてBGMとして用いられていた。
- 幼児番組のピンポンパンでは、「オール・トゥギャザー・ナウ」の歌詞をオバケの歌に換骨奪胎して(オバケのアニメーション付きで)放送していた時期がある(1975年~1976年頃)。
- NHKの「みんなのうた」では「オブラディ・オブラダ」「オール・トゥギャザー・ナウ」の2曲に独自の日本語詞を付け、放送していた時期がある(但し後者には「さぁ、みんなで」という独自の邦題が付けられていた)。
- ソヴィエト連邦ではロック音楽を資本主義による精神汚染とみなし、ビートルズの流行は西側からソ連国内の自由化を図るプロパガンダ工作の一種ととらえたため、そのレコード発売には政府からの許可が下りなかった。しかし、西側諸国からの輸入盤や、地下で翻訳されたロシア語版のカセットテープなどが販売され、当時の多くの若者に親しまれた。2003年にポールが行ったロシアの首都モスクワ・赤の広場でのコンサートでは、その編集映像にセルゲイ・イワノフ国防相(1953年生まれ)のインタヴューが収録された。イワノフは10代の頃からのビートルズファンと自己紹介し、「バック・イン・ザ U.S.S.R.」も演奏されたコンサートにもプーチン大統領と伴に来場した。 ポールのこのコンサートは「ライヴ・イン・レッド・スクエアー」という題名で、ロシアでは初めて大成功した外国人アーティストのコンサートとなった。
- 音楽雑誌『THE ROLLING STONE』1969年9月号に、ビートルズが同年2月から5月(アルバム『アビイ・ロード』セッションが始まる直前)に『ホット・アズ・サン(HOT AS SUN)』というタイトルのアルバム・セッションを行ったという記事が掲載された。曲名まで詳細に記述された記事だったが、後に誤報と判明している。だが、このアルバムの存在を信じて疑わないファンは多く、同タイトルのブートレグは70年代から現在に至るまで数多く発表され、今や一種の伝説と化している。
- ビートルズはブートレグ(海賊盤)のタイトル数も群を抜いている。その中の有名ベスト盤『αΩ(アルファ・オメガ)』(vol.1&2 各4枚組)の好セールスが公式ベスト盤『ザ・ビートルズ1962年〜1966年』、『ザ・ビートルズ1967年〜1970年』の発売のきっかけとなったと言われている。また最近では、(英オリジナル アナログ盤ジャケット仕様他の)ロシア製紙ジャケットCDも話題を呼んだ。
- EMIスタジオの駐車場が狭かったため、メンバー全員がミニクーパーを所有していた。また、ポールは一時期スタジオのすぐそばに住んでいたため、自宅からサンダル履きでスタジオに向かったこともしばしばあった。『アビイ・ロード』のフォトセッションでは実際にサンダルを履いて横断歩道を渡るカットもある。
- ペニー・レインの曲が作られた際、"Penny Lane"と書かれた看板は盗難防止の為取り外され、替わりに建物に書かれた。
- スティーブン・スピルバーグもビートルズ自作自演の映画、マジカル・ミステリー・ツアーから影響を受けたと言っている。
- 1968年ビートルズはインドの導師マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーの講演を聞きインドの瞑想や思想に興味をもつ。さらにインドのヨガや東洋文化を取り入れ世界中に普及させた。
- 2007年にはビートルズのアルバムの切手が限定でイギリスから発行されたがまもなく完売した。
- 1964年、ビートルズが「抱きしめたい」をリリースした際にはアメリカではあまりのレコードの売り上げの早さにレコード会社が生産に追いつかず、他社にプレスを依頼したという。
- ビートルズのレコードの売り上げによりEMIは潤い、一部はX線CT(CTスキャン)の開発に投入された。その結果、X線CTはビートルズの遺した偉大なる遺産ともいわれる。
- ポールとリンゴはともに左利きである (他の二人はともに右利き)。ただし、ポールが左利き用の楽器を弾いていたのに対し、リンゴは右利き用の楽器を弾いていた。
- イスラエルは1965年にビートルズの公演を拒否したが、2008年に謝罪を公式表明した。これを受けてポールは同年9月に同国での公演を企画している。
- 中国語(正しくは普通話)による彼らの名前の表記(当て字)は「披頭四」または「披頭士」となる(「披頭」には「長髪の」という意味があるので、「披頭四」には「長髪の四人」、「披頭士」には「長髪の男{たち}」という意味もあるという事になる(いかにも、中国人の好きなダブルミーニングである。また、後ろに「合唱団」、「合唱隊」、「楽隊」等の単語を付ける事も多い)。
- 米アップル社の創立者のひとり、スティーブ・ジョブズはビートルズとジョン・レノンを尊敬しており、アップル・コアにあやかって自社をアップルと命名した。そのため、アップル・コアと資本的繋がりはないが、ビートルズの影響を多大に受けた企業の代表例と言えよう。後年、アップル・コア社とアップル社が商標を巡って訴訟となり、最終的に商標をアップル社が持ち、アップル・コア社がその使用許諾権を得るという形で2007年に和解した。
- ビートルズはコンサートにおいてアンコールには応えないのが通例であったが、唯一1965年6月20日のパリ公演にて「のっぽのサリー」で応えた。しかし実際には最後から2番目の「涙の乗車券」をラストナンバーとして紹介し、本来のラストナンバーをアンコール曲として演奏したのである。
関連書籍
主要書籍
- 『THE BEATLES アンソロジー』(The Beatles Anthology)(ISBN 4-8456-0522-8)
- 発行:リットーミュージック(2000年10月5日)
- 制作:Apple Corps Ltd.
- 監修・翻訳:ザ・ビートルズ・クラブ
- 定価:7,140円(本体6,800円+税)
- 版型:B4変型上製本
- 総ページ数:368ページ
- ネーム:728,770字
- 掲載写真点数:約800点
- 総画像点数:1,300点以上
- 概要:アップル社公認のビートルズ自身が語る初のビートルズ・ヒストリーであり正銘のバイブル。
- 『ビートルズ・レコーディングセッション』("The Complete Beatles Recording Sessions
- The Official Story of the Abbey Road Years 1962-1970")(ISBN 4401612970)
- 発行:シンコーミュージック(1988年12月10日)
- 著者:マーク・ルウィソーン
- 翻訳:内田久美子
- 概要:EMIとの契約後のすべてのレコーディング・データ。英EMI公認本。
- 『ザ・ビートルズ全記録(1957-1964)』("The Complete Beatles Chronicle")(ISBN 4938456238)
- 『ザ・ビートルズ全記録(1965-1970)』("The Complete Beatles Chronicle")(ISBN 4938456245)
- 発行:プロデュースセンター出版局(1994年6月)
- 著者:マーク・ルウィソーン
- 翻訳:ビートルズシネクラブ
- 概要:ビートルズ結成から解散までの全記録。ベースとなっているのはマーク・ルウィソーンによる「The Beatles Live」(1986年)と「The Complete Beatles Recording Sessions」(1988年)。英EMI公認本。
その他関連書籍
- 『Beatles gear 日本語翻訳版』(ISBN 4-8456-0798-0)
- 発行:リットーミュージック(2002年10月1日発売)
- 著者:アンディ・バアック
- 翻訳:坂本信
- 監修:ザ・ビートルズ・クラブ
- テクカル・アドヴァイザー:大金直樹(ギターショップ with)
- 仕様:B4変形判/256ページ
- 価:5,565円(本体5,300円+税)
- 概要:ビートルズ使用機材・楽器の研究本で多数の写真が掲載されている
- 『THE BEST OF THE BEATLES BOOK 日本語翻訳版』(ISBN 4-8456-1253-4)
- 発行:リットーミュージック(2005年11月28日)
- 著者:ジョニー・ディーン
- 共訳:平林祥、新井崇嗣、上西園誠
- 監修:ザ・ビートルズ・クラブ
- 仕様:A4変型判/304ページ
- 定価:5,565円(本体5,300円+税)
- 概要:唯一のビートルズ公認雑誌『ザ・ビートルズ・ブック』を凝縮
- 『The Little Box of Beatles』(ISBN 4-7973-2749-9)
- 発行:ソフトバンククリエイティブ
- 著者:アラン・クレイソン
- 『ザ・ビートルズ大全』(ISBN 4-309-26805-6)
- 発行:河出書房新社
- 著者:広田寛治
- 翻訳:丸山京子
- 『ビートルズ全詩集』(ISBN 4-401-61663-4)
- 発行:ソニー・ミュージックパブリッシング
- 著者:ビートルズ
- 翻訳:内田久美子
- 『ビートルズの研究 - ポピュラー音楽と社会』(ISBN 4-8188-1352-4)
- 発行:日本経済評論社
- 編者:イアン・イングリス
- 翻訳:村上直久、古屋隆
- 『ビートルズとは何だったのか』(理想の教室)(ISBN 4-622-08313-2)
- 発行:みすず書房
- 著者:佐藤良明
オリジナルアルバム・ディスコグラフィー
詳細はビートルズの作品を参照。
(ここでは公式CD化されたアルバム盤を紹介する。)
- プリーズ・プリーズ・ミー-Please Please Me
- ウィズ・ザ・ビートルズ-With The Beatles
- ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!-A Hard Day's Night
- ビートルズ・フォー・セール-Beatles For Sale
- 4人はアイドル-HELP!
- ラバー・ソウル-Rubber Soul
- リボルバー-Revolver
- サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド-Sgt.Pepper's Lonely Hearts Club Band
- ザ・ビートルズ-The Beatles 俗に言うホワイト・アルバム-White Album
- イエロー・サブマリン-Yellow Submarine
- アビイ・ロード-Abbey Road
- レット・イット・ビー-Let It Be
- マジカル・ミステリー・ツアー-Magical Mystery Tour(同名で英国でもEPで売られていたが、米国盤がCD化されている。詳しくはその項を参照)
- 他シングルは、パスト・マスターズ Vol.1,パスト・マスターズ Vol.2に収録。
脚注
- ^ FabはFabulousの略で、「素晴らしい4人」という意味。
- ^ デビュー前に画家になる道を選んで脱退した元メンバー
- ^ ビートルズはバイクを乗り回している女の子を指すスラングとして出てくる
- ^ Beetle はかぶとむしだけでなく、コガネムシ、カナブンも含まれ、日本でのかぶとむしのイメージと違い、英米では嫌われている昆虫類(害虫)のひとつでもあった
- ^ ポール、ジョージ、ジョンの順番に2小節回しの演奏
- ^ 自作「マーサ・マイ・ディア」、ジョン作「セクシー・セディー」など
- ^ 自作の「アイ・アム・ザ・ウォルラス」、ジョージ作の「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」など
- ^ 一時的なもので、当時公にはされなかった
- ^ 「ヘルター・スケルター」で使用
- ^ ただしアルバム『レット・イット・ビー』のみフィル・スペクターがプロデュース。
- ^ ジョージ・マーティンは当初リンゴの加入を知らず、アンディ・ホワイトというドラマーを手配していた為、「ラヴ・ミー・ドゥ」では2人のドラマーのテイクが存在し、シングルではリンゴの、アルバムではアンディのヴァージョンを聴くことができる。
- ^ ブライアンの個人秘書であったアリステア・テイラーはこの説を否定している
- ^ ベスト家に間借りしていた時、ピートの母モナとの間にロマンスがあり2人の間に子供が1人いる
- ^ クラインの最終目的はビートルズを自分のものにすることで、その第一歩としてストーンズに近付いたと語られている
- ^ ビートルズやストーンズの元マネジャー、A・クライン氏死去 - 2009.07.05 [1]
- ^ パンク・バンドのラモーンズのバンド名は、この時のポールの芸名からつけられた
- ^ 後にビートルズがデビューして人気を得ると、レコード会社は名義を「ザ・ビートルズ・ウィズ・トニー・シェリダン」に変えている。
- ^ これらは『アンソロジー1』に収されている
- ^ 詳しくはピート・ベストの項参照
- ^ 日本テレビでは1959年11月中旬に、日本で初めて2インチのカラーVTRを導入し(購入当初は米RCA社製の輸入品だった)、直ぐに運用を開始しており、この日本公演も2インチカラーVTR(ローバンド方式かハイバンド方式かは不明)で収録された。
- ^ バップよりボックス入りパッケージで『ザ・ビートルズ武道館コンサート』(VPVR-60676)としてVHSビデオ・テープ・ソフトでリリースされたことがあるが現在は廃盤である。尚、このビデオ・ソフトの発売に当り、IMAGICAによって映像の高画質化を伴うリマスタリングが行われた。
- ^ 歓声やベースの反響音が録音されているだけだった
- ^ アルバム『リボルバー』の裏ジャケットで掛けているタイプ
- ^ 直前の公演地、西ドイツでも使用例あり
- ^ ステージ上のミュージシャンが、自分たちの出している演奏や歌声を聞いてチェックするためのスピーカー
- ^ 前年の通称『ホワイト・アルバム』の途中から使用しだした8トラックレコーダーがメイン
- ^ 詳しくはビートルズの解散問題の項参照
- ^ 公式サイトより
- ^ 作者は楽曲の著作権を音楽出版社に譲渡し、音楽出版社は楽曲の管理運営を行い、音楽出版社はそこから得た著作権料を作者に分配するというのが音楽業界の仕組み
- ^ これが後にエプスタインがおかした最大の過ちと言われることになる
- ^ これにより、以後ジェームズはビートルズから“裏切り者”と呼ばれる事となる
- ^ つまり「Northern Songs Ltd.」の乗っ取りが行われたという事である
- ^ ビートルズの楽曲使用に関する権限はビートルズではなく著作権者の音楽出版社である「Northern Songs Ltd.」にある
- ^ 著作権は作者ではなく音楽出版社のものなので、これによりマイケルがビートルズの著作権を所有しているということになる。著作権を所有することで、作者が所有している音楽出版社から印税を受け取る権利までもマイケルのものと勘違いされている事があるが、それは間違い
- ^ ビートルズに著作権料が入らないと誤解されることがあるが、「Northern Songs Ltd.」からビートルズに印税は支払われている
関連項目
- ビートルズの作品 - アルバム、シングル、作品などの総論。
- ビートルズの曲名一覧 - リードヴォーカル別曲名一覧。
- ザ・ビートルズ日本公演
- ザ・ビートルズ日本公演 (テレビ番組) - 1966年7月1日昼の部を録画して夜に放映した日本テレビのテレビ番組
- ザ・ビートルズ・クラブ - 日本国内の公式ファンクラブ
- 斉藤早苗 - 同クラブ会長。ビートルズ関連書籍の監修などを務める。
- アップル・コア - ビートルズが設立した多角的な会社組織。
- アップル・レコード - アップル・コアの最重要部門であるレコード・レーベル。ビートルズ関連の作品の版権等の管理を担っている。
- ルーフトップ・コンサート - アップル社屋上で行われたビートルズのラストライヴパフォーマンス。
- ビートルズの解散問題
- リヴァプール・サウンド
- ビートルマニア
- ビートルズのカヴァー一覧
- ラトルズ - ビートルズのパロディバンド
- 東京ビートルズ - ビートルズのコピー・バンドとして、完全邦訳歌詞で演奏。本物の来日公演以降、バチモノのレッテルを貼られるが、近年再評価も進んでいる。
- ビートルズ (小惑星) - ビートルズにちなみ命名された小惑星
外部リンク
- ザ・ビートルズ 日本オフィシャルサイト
- The Beatles (Apple Corps) 世界共通オフィシャルサイト