「池田正之輔」の版間の差分
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2010年5月6日 (木) 12:06時点における版
池田 正之輔(いけだ まさのすけ、1898年1月28日 - 1986年3月27日)は、日本の政治家、衆議院議員(10期)、第9代科学技術庁長官、山形県飽海郡観音寺村(現・酒田市八幡地区)出身。
来歴・人物
1924年日本大学政治科卒業、読売新聞論説委員、報知新聞取締役総務局長、同盟通信社理事等を経て1942年の翼賛選挙に非推薦候補として初当選。なお池田が報知新聞の幹部時代に社長を務めていたのが三木武吉で、この時池田は三木を知ることになる。戦争末期には護国同志会に参加。思想検事の大御所である塩野季彦の司法大臣時代には秘書官も務めた。
戦後、護国同志会のメンバーとともに日本協同党の結成に参加。1949年に日本自由党公認で総選挙に当選。三木武吉が公職追放を解除されてからは三木ら鳩山一郎グループと行動をともにし、1954年に日本民主党が結成されると同党の副幹事長に就任。
保守合同で自由民主党に所属。岸派・福田派に属す。1960年第2次池田内閣の科学技術庁長官兼原子力委員長として入閣したが、1968年に日通事件で賄賂罪で在宅起訴され、1976年に最高裁で懲役1年6ヶ月の実刑判決は確定。病気により服役は免れたが、政界から引退した。日通事件の件では検事総長に井本台吉が就任することで、馬場義続との対立関係が背後にあることを匂わせた。1986年3月27日死去。“享年89(満88歳没)”[利用者の方へ]。
短躯だが向こうっ気が強く、鼻息の荒い人物で吉田自由党を向こうにした日本自由党を結成した「八人の侍」時代には、同志の河野一郎と大喧嘩をして、河野をして「煎ったピーナッツのようにしてやる」、即ち芽が出ないようにしてやると言わしめた。
池田内閣の科学技術庁長官時代には、荒木万寿夫文部大臣と国会内で喧嘩になり「馬鹿野郎」呼ばわりした。また、田中角栄の秘書だった早坂茂三の回想では、田中が自民党幹事長時代、幹事長室に入った池田と田中が大喧嘩になり、池田に対して田中が「このクソジジイ、ぶったたたいてやる」と息巻き、池田は池田でピョンピョン飛び跳ねながら「やれるもんならやってみろ」と応酬したというエピソードが紹介されている。
参考文献
外部リンク
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