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1974年の大洋ホエールズ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
1974年の大洋ホエールズ
成績
セントラル・リーグ5位
55勝69敗6分 勝率.444[1]
本拠地
都市 神奈川県川崎市
球場 川崎球場
球団組織
オーナー 中部謙吉
経営母体 大洋漁業
監督 宮崎剛
« 1973
1975 »

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1974年の大洋ホエールズ(1974ねんのたいようホエールズ)では、1974年の大洋ホエールズにおける動向をまとめる。

この年の大洋ホエールズは、宮崎剛が1年だけ監督を務めたシーズンである。

概要

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慶應義塾大学山下大輔がドラフト1位で入団したこの年、秋山登ヘッドコーチの発案でユニフォームが山下の出身地である静岡県の名産であるお茶とみかんをモチーフにしたデザインに変更された(当時の主力だった重松省三週刊ベースボールのユニフォーム物語のインタビューで「あのころは静岡でキャンプしていたから、静岡のお茶にみかんの組み合わせがユニフォームにふさわしいと秋山さんが中部オーナーに提案した」と綱島理友に語っている)。また1950年以来長く続いたボタン式及びベルト式が廃止されて、プルオーバー&Vネック、ベルトレスとなった。2年連続のデザイン変更に選手もファンも戸惑いを隠せず、チームは前年と違って4位と5位を往復するエレベーター生活が続き、最終的に前半戦を最下位で折り返したヤクルトに抜かれて5位に転落。投手陣は二枚看板の平松政次がチーム最多の15勝をあげ、山下律夫高橋重行などもそれなりの成績を収めるがチーム防御率は前年から悪化して4.28のリーグ最下位。打撃陣は松原誠江藤慎一らの活躍でリーグ3位の143本塁打を記録したが、最下位の広島同様チャンスに弱くリーグ最多の121併殺打を記録した。ユニフォーム変更もチームの成績上昇には結びつかず、宮崎監督もわずか1年で辞任。中部オーナーは1960年初優勝のV1戦士・秋山登ヘッドコーチを監督に昇格させ、秋山監督・藤田元司投手コーチ(巨人川上哲治監督勇退に合わせ、藤田も退団していた)の新体制でチームの立て直しを図ることになった。

チーム成績

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レギュラーシーズン

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開幕オーダー
1 重松省三
2 江尻亮
3 シピン
4 松原誠
5 江藤慎一
6 ボイヤー
7 伊藤勲
8 米田慶三郎
9 平松政次
1974年セントラル・リーグ順位変動
順位 4月終了時 5月終了時 6月終了時 7月終了時 8月終了時 9月終了時 最終成績
1位 中日 -- 巨人 -- 阪神 -- 阪神 -- 巨人 -- 中日 -- 中日 --
2位 阪神 3.0 阪神 0.5 中日 3.5 巨人 2.0 中日 2.0 巨人 3.0 巨人 0.0
3位 巨人 4.0 中日 2.0 巨人 4.5 中日 2.0 阪神 4.0 阪神 10.5 ヤクルト 12.0
4位 大洋 5.0 広島 5.0 大洋 6.5 大洋 6.5 ヤクルト 10.5 ヤクルト 13.0 阪神 14.0
5位 広島 6.0 大洋 6.5 広島 7.5 広島 9.5 大洋 13.5 大洋 14.0 大洋 17.5
6位 ヤクルト 6.0 ヤクルト 7.0 ヤクルト 11.0 ヤクルト 9.5 広島 15.0 広島 16.5 広島 19.5


1974年セントラル・リーグ最終成績
順位 球団 勝率
1位 中日ドラゴンズ 70 49 11 .588 優勝
2位 読売ジャイアンツ 71 50 9 .587 0.0
3位 ヤクルトスワローズ 60 63 7 .488 12.0
4位 阪神タイガース 57 64 9 .471 14.0
5位 大洋ホエールズ 55 69 6 .444 17.5
6位 広島東洋カープ 54 72 4 .429 19.5

[1]

オールスターゲーム1974

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ファン投票 山下大輔
監督推薦 平松政次 シピン 松原誠 中塚政幸

選手・スタッフ

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表彰選手

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リーグ・リーダー
選手名 タイトル 成績 回数
松原誠 最多安打 157本 初受賞
中塚政幸 盗塁王 28個 初受賞
ベストナイン
選出なし
ダイヤモンドグラブ賞
選手名 ポジション 回数
ボイヤー 三塁手 2年連続2度目

ドラフト

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順位 選手名 ポジション 所属 結果
1位 根本隆 投手 日本石油 入団
2位 宮本四郎 投手 中京大学 入団
3位 大川浩 投手 新田高 入団
4位 鈴木徳義 投手 新日本製鐵名古屋 拒否
5位 尾形正巳 外野手 新日本製鐵広畑 拒否
6位 三浦正行 捕手 電電北海道 翌年シーズン後に入団

出典

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