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石田三成

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石田佐吉から転送)
 
石田 三成
東京大学史料編纂所所蔵
時代 安土桃山時代
生誕 永禄3年(1560年
死没 慶長5年10月1日1600年11月6日)(41歳没)
改名 佐吉(幼名)、三也、三成
戒名 江東院正軸因公大禅定門
墓所 大徳寺三玄院高野山奥の院、滋賀県彦根市佐和山遊園内、京都市妙心寺壽聖院
官位 従五位下治部少輔
主君 豊臣秀吉秀頼
氏族 桓武平氏良文三浦氏支流蘆名氏庶流石田氏?
父母 父:石田正継、母:岩田氏瑞岳院
兄弟 弥治郎正澄三成福原長堯正室、
正室:皎月院宇多頼忠娘)
重家重成佐吉(清幽)、山田隼人正室、小石殿(岡重政室)、辰姫津軽信枚室)、八郎?
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石田 三成(いしだ みつなり)は、安土桃山時代武将大名豊臣家家臣。豊臣政権奉行として活動し、五奉行のうちの一人となる[1]豊臣秀吉の死後、徳川家康打倒のために決起して、毛利輝元ら諸大名とともに西軍を組織したが、関ヶ原の戦いにおいて敗れ、京都六条河原で処刑された。

生涯

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石田三成出生地碑と三成像(滋賀県長浜市石田町)

石田正継の三男(長男・石田弥治郎は早世し村(現在のである相模国大住郡糟屋庄石田郷(現・神奈川県伊勢原市石田)の住人石田為久(為重)の末裔と自称されるほか、石田村は古くは石田郷ともいい、石田氏は郷名を苗字とした土豪であったともいわれている。

羽柴秀吉織田信長に仕えて近江長浜城主となった)ごろから、父・正継、兄・正澄とともに秀吉に仕官し、自身は小姓として仕える(天正5年(1577年)説もある)。秀吉が信長の命令で中国攻めの総司令官として中国地方に赴いたとき、これに従軍した。

天正10年(1582年)6月、信長が本能寺の変により横死し、次の天下人として秀吉が地位を固めるにつれ、三成も秀吉の側近として次第に台頭してゆく。天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家軍の動向を探る偵察行動を担当し、また先駈衆として一番槍の功名をあげた(『一柳家記』)。天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いにも従軍。同年、近江国蒲生郡検地奉行を務めた。

豊臣政権下

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豊臣政権下の検地で使われた尺(複製、秀吉清正記念館蔵)。両端に三成の花押がある。

天正13年(1585年)7月11日、秀吉の関白就任に伴い、従五位下治部少輔に叙任される。同年末に賤ヶ岳7本槍が4000〜6000石の加増なのに対し、秀吉から近江国水口4万石の城主に封じられたと一般にはされているが、水口には天正13年7月に中村一氏が6万石で入っており、その後は同18年(1590年)に増田長盛文禄4年(1595年)に長束正家と引き継がれている[注釈 1]

天正14年(1586年)1月、当時名将として名高かった島清興(左近)を知行の半分を与えて召し抱えたといわれる(『常山紀談』。異説あり[注釈 2])。秀吉はこれに驚愕、賞賛し、左近に三成への忠誠を促し、菊桐紋入りの羽織を与えた。同年、越後国上杉景勝が秀吉に臣従を誓うために上洛してきたとき、これを斡旋した。

また、秀吉から堺奉行に任じられる。三成はを完全に従属させ、兵站基地として整備する。秀吉は翌天正15年(1587年)の九州平定に大軍を動員し、比較的短期間で終わらせるが、その勝因の一つは水軍を最大限に活用して大軍を動員・輸送する能力があったことである[5]。こうした秀吉の遠征を支えたのが、後方の兵糧・武具などの輜重を担当した三成ら有能な吏僚達であった。

九州平定後、博多奉行を命じられ、軍監の黒田孝高らとともに博多町割り、復興に従事した。また、天正16年(1588年)、取次として薩摩国島津義久の秀吉への謁見を斡旋した。

天正17年(1589年)、美濃国を検地する。天正18年(1590年)の小田原征伐に参陣。秀吉から後北条氏の支城の館林城忍城攻撃を命じられる。忍城攻めでは元荒川の水を城周囲に引き込む水攻めが行われ、その際の遺構が石田堤として周囲に現存している[6]。関東各地の後北条氏の支城はほとんどが本城である小田原城よりも先に陥落したが、忍城では小田原開城後の7月初旬まで戦闘が続いた。なお、三成は取次として、常陸国佐竹義宣が秀吉に謁見するのを斡旋し、奥州仕置後の奥州における検地奉行を務めるなど着実に実績を重ね、吏僚としての功績は大きかった。

天正19年(1591年)4月、近江佐和山に入城する。ただし、これは蔵入地の代官の資格で佐和山城に入ったもので、城を預かる城代としての入城であった。当時の三成の所領は美濃国内、安八郡神戸とその周辺にあったと推定されている[7]

朝鮮から、大音新介に送った三成の書状

文禄元年(1592年)からの文禄の役(朝鮮出兵)では渡海し、増田長盛大谷吉継とともに漢城に駐留して朝鮮出兵の総奉行を務める。文禄2年(1593年)、碧蹄館の戦い幸州山城の戦いに参加。その後、軍の講和使・謝用梓徐一貫を伴って肥前名護屋城に戻るなど、明との講和交渉に積極的役割を果たしている。しかし、秀吉と現地の連絡役という立場の行動は、豊臣家中で福島正則黒田長政ら武断派の反発を招いた。

文禄3年(1594年)、9月3日に母・瑞岳院が死去、兄・正澄と親交が厚かった藤原惺窩大村由己らが追悼の漢詩や文を送り、三成も佐和山城下に瑞岳寺を建立している[8]。また、この年に島津氏佐竹氏の領国を奉行として検地する。

文禄4年(1595年)、秀吉の命により、秀吉の甥・豊臣秀次を謀反の嫌疑により糾問する(秀次事件)。秀次の死後、その旧領のうち近江7万石が三成の代官地になる[注釈 3]。また、同年に畿内と東国を結ぶ要衝として、軍事的にも政治的にも、重要な拠点である[9]近江滋賀県佐和山19万4,000石の所領を秀吉から与えられ[10]、正式に佐和山城主となった[7]。それにより佐和山に城を築く大大名となった。

慶長元年(1596年)、佐和山領内に十三ヶ条掟書、九ヶ条掟書を出す。明の講和使節を接待。同年、京都奉行に任じられ、秀吉の命令でキリシタン弾圧を命じられている。ただし、三成はこのときに捕らえるキリシタンの数を極力減らしたり、秀吉の怒りを宥めて信徒たちが処刑されないように奔走したりするなどの情誼を見せたという(日本二十六聖人)。

慶長2年(1597年)、慶長の役が始まると国内で後方支援に活躍した。その一方で、この年に起きた蔚山城の戦いの際に在朝鮮の諸将によって戦線縮小が提案され、これに激怒した秀吉によって提案に参加した大名が譴責や所領の一部没収などの処分を受ける事件が起きた。この際、現地から状況を報告した軍目付は三成の縁戚である福原長堯らであり、処分を受けた黒田長政、蜂須賀家政らはこの処分を秀吉に三成・長堯が意見した結果ととらえ、彼らと三成が対立関係となるきっかけとなった[11]加藤清正は石田三成に帰国をしないことを秀吉に報告され、武断派との対立が深まったといわれている。

慶長3年(1598年)、秀吉は小早川秀秋の領地であった筑後国筑前国に三成を加増移封しようとしたが、三成は辞退した。しかし、秀吉の直割地となった筑後国・筑前国の蔵入地の代官に任命されて名島城を与えられ事実上支配した。


慶長4年(1599年)に予定されていた朝鮮における大規模攻勢では、福島正則や増田長盛とともに出征軍の大将となることが決定していた[12]。しかし、慶長3年(1598年)8月に秀吉が没したためこの計画は実現せず、かわって戦争の終結と出征軍の帰国業務に尽力した。小早川秀秋の越前への転封の話も消え、九州北部の支配から退くこととなった。

秀吉死後

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秀吉の死後、豊臣家の家督は嫡男の豊臣秀頼が継ぐ。しかし朝鮮半島よりの撤兵が進められるなか、政権内部には三成らを中心とする文治派と、加藤清正・福島正則らを中心とする武断派が形成され対立を深めていた。慶長3年(1598年)8月、毛利輝元と三成ら四奉行は、五大老の中に自分達と意見を異なる者が出た場合、秀頼のために協力してこれにあたることを改めて誓う起請文を作成している[13]。一方、徳川家康は同年10月から12月にかけて京極高次細川幽斎ら諸大名を訪問し、また水面下で福島正則、黒田長政、蜂須賀家政ら武断派諸侯と婚姻関係を結ぼうとしていた。

翌慶長4年(1599年)初頭、家康による縁組計画が発覚する。これを文禄4年(1595年)8月に作られた「御掟」における大名間の私的婚姻の禁止条項に違反する行為であるとして、前田利家を中心とする諸大名から家康弾劾の動きが起こる。四大老五奉行による問責使が家康に送られる一方、家康も国許から兵を呼び寄せる[14]など対立は先鋭化するが、2月12日に家康が起請文[15]を提出することなどにより一応の解決をみた。

同年閏3月3日に前田利家が病死すると、その直後に加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興浅野幸長池田輝政加藤嘉明七将が、三成の大坂屋敷を襲撃する事件(石田三成襲撃事件)が起きる。三成はのちにこの事件の中心人物として、事件直前に家康より豊後国内に6万石を与えられていた細川忠興の名を挙げている[16]

この後、七将と三成は伏見城内外で睨みあう状況となるが、仲裁に乗り出した家康により和談が成立。三成は五奉行の座を退き、閏3月10日、佐和山城に帰城した。この事件の際、「三成が敵である家康に助けを求め、単身で家康の向島の屋敷に入り難を逃れた」という逸話があるが、これらの典拠となっている資料は明治期以降の『日本戦史・関原役』などで、江戸時代に成立した史料に、三成が家康屋敷に赴いたことを示すものはない[17]

慶長4年(1599年)11月には家康暗殺計画への関与を疑われた前田利長が、父・利家から引き継いでいた大老の地位を事実上失い、浅野長政も奉行職を解かれ領国の甲斐国に蟄居となる。これによって五大老五奉行は四大老三奉行となり、以降、豊臣政権内部の主導権は家康が握る。

関ヶ原の戦い

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笹尾山の石田三成陣跡(岐阜県不破郡関ケ原町
石田三成の馬印と旗印
石田三成自筆密書の複製(秀吉清正記念館所蔵)。関ヶ原の戦いの直前、1600年7月に三成から真田昌幸に、家康を共に討つよう呼びかける内容。

慶長5年(1600年)6月16日、家康は陸奥国会津を領していた上杉景勝を討つために大坂を発つ(会津征伐)。入れ替わるように前田玄以、増田長盛、長束正家の三奉行の上坂要請を受けた毛利輝元が7月17日に到着(大坂入城は19日)。同時に三奉行連署からなる家康の罪状13か条を書き連ねた弾劾状(『内府ちがいの条々』)が諸大名に送られた。ここに関ヶ原の戦いの対立構造が成立する。

この西軍の結成に関して三成がどのような役割を果たしたのかについては、研究者によって評価が分かれる。従来の説は単独で決起した三成が諸大名を引き込んだとするものであるが、挙兵に到るまでの三成の詳細な動向は一次史料では不明であり、また三成を西軍結成の首謀者とする史料は江戸時代成立の二次史料が多い点が指摘されている[注釈 4]。また、家康が会津征伐に向かう際に、三成に対して佐和山城を宿所として借りようとして拒絶されたとして、これを挙兵と関連づける考えもあるが、単に家康に会津征伐を再考させるためのものであった可能性が高い[19]

『常山紀談』には三成が挙兵にあたって、大谷吉継を味方に引き入れるため佐和山に招いたときの逸話が載せられている。ただし『常山紀談』は明和7年(1770年)成立の逸話集であり、史実である確証はない。

また上杉家の家老・直江兼続らと連携して事前に挙兵の計画を練っていたとする説があるが、これも江戸時代成立の逸話集などに登場する説であり、一次史料による裏付けはない。七月晦日付真田昌幸宛三成書状には「三成からの使者を昌幸の方から確かな警護を付けて、沼田越に会津へ送り届けて欲しい」(真田宝物館所蔵文書)と記されており、西軍決起後の七月晦日の段階においても、上杉家との確かな交信経路を持ち合わせていなかった点から、上杉側と三成の具体的な謀議や提携はなかったとする考察がある[20]

決起した西軍は7月18日、家康家臣・鳥居元忠の守る伏見城を包囲。8月1日に城は陥落する(伏見城の戦い)。8月に入って伊勢国に侵攻した西軍は伊賀上野城安濃津城松坂城などを落とすが東軍の西上の動きを知って美濃方面へと転進。こうして東西両軍は関ヶ原で相まみえることになる。

通説では当初はやや西軍優勢で進み、黒田長政細川忠興加藤嘉明ら数倍の敵を一手に引き受けたとされているが、小早川秀秋脇坂安治らの裏切りによって西軍は総崩れとなったとされている。しかし、東西どちらの陣営につくか迷った秀秋の陣に家康が鉄砲を打ち込んだため意を決した秀秋が西軍に襲いかかったとする経緯は、江戸時代成立の二次史料に記されているものであり、合戦後すぐに作成された9月17日付の石川康通彦坂元正による連署書状には秀秋が開戦直後に裏切ったと記されている[21]

大徳寺三玄院前の石田三成墓所石碑

戦いに敗れた三成は、伊吹山の東にある相川山を越えて春日村に逃れた。その後、春日村から新穂峠を迂回して姉川に出た三成は、曲谷を出て七廻り峠から草野谷に入った。そして、小谷山の谷口から高時川の上流に出て古橋に逃れた。しかし9月21日、家康の命令を受けて三成を捜索していた田中吉政の追捕隊に捕縛された。

一方、9月18日に東軍の攻撃を受けて三成の居城・佐和山城は落城し、三成の父・正継、兄・正澄を含む石田一族の多くは自刃した。9月22日、大津城に護送されて城の門前で生き曝しにされ、その後、家康と会見した。9月27日、大坂に護送され、9月28日には小西行長、安国寺恵瓊らとともに大坂・堺を罪人として引き回された。9月29日、京都に護送され、奥平信昌京都所司代)の監視下に置かれた。

10月1日、家康の命により六条河原斬首された。享年41。辞世は「筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり」。首は三条河原に晒された後、生前親交のあった春屋宗園沢庵宗彭に引き取られ、京都大徳寺の三玄院に葬られた。

豊臣奉行としての三成

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三成は秀吉直下の奉行としてさまざまな政策・実務に携わっている。三成自身の政治的影響力は主に各地に赴いての検地や、秀吉(豊臣政権)と地方大名との間の外交交渉、大名内部で起きた諸問題への介入などを通じて、秀吉の国内統一戦が始まって以降徐々に高まっていったものと考えられる。その影響力をうかがわせる発言がいくつか残っている。

  • 毛利輝元:「彼仁、当時、肝心の人にて、なかなか申すに及ばず。大かた心得にて候(大いに気を使う)[22][注釈 5]
  • 島津義弘:「江州佐和山の城主・石田治部少輔、太閤公の股肱の臣として、その勢威、比肩の人なし」[注釈 6]
  • 木食応其:「治少(治部少輔)、御奉行のその随一なる顔にて候つる。少しもそむけ候えば、たちまち身のさわりをなす仁にて候」[注釈 7]

五奉行に限らず、地方大名とのさまざまな交渉を担当した豊臣秀長富田一白宮部継潤、小西行長、黒田孝高らは、単に秀吉の意思を伝達するだけではなく、相手の依頼に応じて便宜を図ることもあり、その結果秀吉の当初の決定に修正が加えられることがあった[23]。 三成に関しては毛利家・島津家が主な交渉相手であり、両家との交渉過程で築かれた関係がのちの関ヶ原の戦いにおける連携に繋がることとなる。

ただし、政策の基本的部分は秀吉の意志によって決定され、また実務はほかの奉行衆との連携・分担によって進められており、政権内部において三成一人が突出した権力を持っていたわけではない。浅野長政は秀次事件で失脚するまで東国諸大名に対して三成を上回る大きな影響力を有し[24]、朝廷や京周辺の寺社との交渉は主に前田玄以が務めていたように、三成の職権と影響力には限りがあった。

また、五奉行による連署書状の署名順は一部の例外を除き、前田玄以→浅野長政→増田長盛・三成→長束正家となっており、三成は五奉行内の序列においては3番手もしくは4番手であった[25]

秀吉の最晩年期になると慶長3年(1598年)8月5日の秀吉遺言書や、同時期に奉行衆と家康および他の大老との間で交わされた起請文[26]の条項によって、奉行の政治的権限は五大老、なかでも家康の影響力を抑止する方向で強化されていく。これに対抗する家康と、現体制を保持しようとする奉行衆との対立関係が秀吉死後の政治抗争を招いたものと考えられる[27]

家紋

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定紋は定かではなく、大一大万大吉だいいちだいまんだいきち、または「大吉大一大万」が、足軽たちに貸し出していた甲冑の胴や石田三成画像のに描かれている。石田氏としては九曜紋や桔梗紋の使用がある。「大一大万大吉」紋は文字の配置や書体は不明であるが、鎌倉時代の武将、石田次郎為久源義仲を射落とした武将)も使用しており、ほかには備後山内首藤氏も使用している。三成の家紋として九曜紋が取り上げられることもある。

逸話と人物像

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JR長浜駅前にある三献の茶の場面を表した「秀吉公と石田三成公 出逢いの像」。
  • 三成は多くのエピソードを持つ武将であり、人物像形成に大きな影響を与えている。ただし、他の戦国武将同様それら「逸話」の多くは本人死後の江戸時代に記された書物(二次史料)にのみ載せられたものがほとんどであり、安易に歴史的事実として鵜呑みにはできない。特に出世のため他人を陥れる器の小さい野心家として描かれた逸話が多いが、三成が江戸幕府の治世下において、幕府を築いた神君家康と多くが加増された東軍諸大名に敵対した仇役という立場にあった点は注意を要する。近代に入ると渡辺世祐による『稿本石田三成』の刊行など、実証史学に基づいた奸臣三成説の見直しを中心に正確な三成像を探る研究が進められるようになった。
  • 近江国のある寺院に、鷹狩りの帰りにのどの渇きを覚えた秀吉が立ち寄り、寺小姓に茶を所望した際、寺小姓は最初に大きめの茶碗にぬるめの茶を、次に一杯目よりやや小さい茶碗にやや熱めの茶を、最後に小振りの茶碗に熱い茶を出した。まずぬるめの茶で喉の渇きを鎮めさせ、後の熱い茶を充分味わわせようとする寺小姓の細やかな心遣いに感服した秀吉は彼を家臣とした。それがのちの石田三成である、という逸話がある。これが俗に「三杯の茶(三献茶)」と呼ばれる逸話である。この寺院については、伊吹山観音寺(滋賀県米原市)という説と伊香郡古橋村(滋賀県長浜市木之本町)の法華寺三珠院もしくは飯福寺とされている。前者は石田家の本拠であった石田村に近く三成も庇護を与えていたこと、後者は三成の母方の岩田家の本拠である杉野村に近く何よりも関ヶ原の合戦で敗れた三成が落ち延びた地であることから、いずれも三成と縁が深かったと考えられる[28]。ただし、この逸話が載せられている史料が江戸時代のもの(正徳6年(1716年)成立の『武将感状記』など)であること、また三成の息子が記した寿聖院『霊牌日鑑』では三成が秀吉に仕えたのは18歳の時に姫路においてと記されていることなどから、後世の創作であるとする説がある。
  • 三成を「かずしげ」と呼んだとする説が『甲子夜話』などに載せられているが、三成の自筆仮名消息が現存しないうえ、三成の若いころには「三也」と書かれた署名が存在していること(ただし、これは初名であるとする考えと「成」と「也」を併用していたとする考えがある)、三成から一字を与えられた相馬三胤が関ヶ原の戦い後に「蜜胤」と改名していることから、「蜜」「也」と同音である「みつなり」の読み方で正しいとみられている[29]
  • 秀吉が開いた茶会において、一口ずつ飲み次へ茶碗を回す回し飲みがされた。らい病を患っていた大谷吉継は飲むふりのみで茶碗を回そうとしたが、顔から出たが茶に落ちてしまった。以降の諸大名は茶に口を付けるのを嫌がり飲むふりだけで茶碗を回していったが、三成はためらわず茶を飲み干した。それ以降二人の間には厚い友誼が結ばれたという。ただし本郷和人によると、この逸話の典拠は不明で、江戸時代にさかのぼることが難しく、明治のジャーナリストであった福本日南が明治44年(1911年)に刊行した『英雄論』では、三成ではなく秀吉が吉継の膿が落ちた茶を飲んだ話として記載されている。本郷は「これがぼくが知っているものとしては一番古い。もし何かソースをご存じの方、ぜひご教示下さい。」と述べている[30]
  • 三成は自身の書状で特に親しかった武将として小西行長と寺沢広高を挙げているほか、他の文書などから真田信幸織田秀信津軽為信斎村政広と親密な交際を持っていたことが確認できる[31]
  • ある年の10月、毛利輝元から季節外れの桃が秀吉への献上品として届けられた。三成は毛利家の重臣を呼び、「時節外れの桃とはいえなかなか見事でござる。しかし時節外れゆえ、公(秀吉)が召し上がって何かあれば一大事でござるし、それでは毛利家の聞こえも悪くなりましょう。ゆえに時節のものを献上なされよ」と返却した。心ある人は「もっともなことであり、三成のような才人こそ武人の多い豊臣家で公に最も信任されているのだ」と評したが、その他の人は秀吉の権勢を笠に着て横柄だと評したという(小早川能久翁物語』)。
  • 小田原征伐の際、三成は忍城攻略に参加する。『関八州古戦録』(1726年成立)等の二次史料には、忍城が要害にあり、城方の兵糧の備蓄も十分であることを理由に、三成が水攻めを発案し堤防を築くが、これが豪雨による増水によって決壊したため作戦が失敗に終わったと記されている。これは三成の戦下手の根拠とされる逸話である。しかし天正18年7月3日付浅野長政宛秀吉朱印状[32]には秀吉自身が水攻めを指示したことが明記されており、また作戦実行にあたっては浅野長政、木村重茲らの指示を仰ぐなど、三成は秀吉が立案した作戦の下、現地での作業を指揮する立場でしかなかったようである[33]
  • 『黒田家譜』(1688年成立)によると文禄の役のとき、石田三成・増田長盛・大谷吉継の三名が軍議のため黒田孝高と浅野長吉(長政)を訪ねたが、両名は囲碁に興じて三奉行と速やかに対面しようとしなかった。これを恨んだ三成が秀吉に讒言したため朝鮮より帰国した孝高は秀吉の怒りを買い疎んじられるようになった、というものである。しかし、文禄2年8月に秀吉が黒田長政に送った朱印状によれば、孝高が成敗直前にいたるほどの怒りを買ったことは事実であるものの、原因は讒言ではなく秀吉の許可を得ずに帰国した孝高自身にあったことが判明している[34]
  • 文禄の役出陣中に三成らの讒言によって帰国蟄居を命じられた加藤清正が、慶長元年(1596年)閏7月に起きた慶長伏見地震の際、伏見城の秀吉のもとにいち早く駆け付け、これに感激した秀吉により処罰を解かれたとする、いわゆる「地震加藤」の逸話は、『清正記』『清正高麗陣覚書』といった江戸時代成立の清正記系諸本を出典としており、清正自身の記した書状を含め当時の一次史料にこれを裏付けるものはない。清正が地震後の7月15日に発給した書状に伏見の清正邸が建築中であったことと、京から胡麻を取り寄せるようにとの指示が記されていることから、地震発生時に清正は京にも伏見にもいなかったと考えられる[35]
  • 慶長3年(1598年)に行われた蔚山城の戦いでの小早川秀秋の行動が軽挙であるとして三成が秀吉に讒言した。そのため秀秋は越前国への転封を命じられるも徳川家康のとりなしによって免れたとする説がある。ただし出典は寛文12年(1672年)成立の『朝鮮物語』[36]である。実際に小早川勢を率いて蔚山の戦いに参加したのは秀秋ではなく秀秋家臣の山口宗永であったうえに[37]、越前転封を実現していることから史実とは考えられない[注釈 8]
  • 関ヶ原の戦いの際、会津征伐に従軍していた諸大名の妻子を人質に取ろうとしたが、細川忠興の妻・玉子に自害され、加藤清正、黒田長政らの一部大名妻子の逃亡を許すなど策は不完全なものとなった。また、この処置が結果的に東軍諸大名の敵対心を煽ったとする評価もある。しかし大名妻子に対する人質策は秀吉生存時の天正年間後期より政権の政策として用意されてきたものであって、三成個人の発案ではない[39]。また三成は慶長5年9月12日付増田長盛宛三成書状(『愛知県史資料編13』1019号文書)において大坂における人質の扱いが寛大であることに不満を漏らすとともに、人質を安芸国宮島に移すことを提案しており、人質の処遇について一方的に命令できる立場ではなかったようである。
  • 関ヶ原の戦いで敗走した三成は、自身の領地である近江国の古橋村に身を潜めた。初めは三珠院を頼ったが、そのとき住職の善説より「何を所望か」と問われて「家康の首が欲しい」と答え、善説をあきれかつ恐れさせたとされる。その後、与次郎太夫という百姓の招きで、山中の岩窟に身を隠した。与次郎はこのとき徳川軍による咎めの責任を一身に引き受けるために妻を離縁し、刑死を覚悟で三成を介抱した。三成はこの義侠心に感じ入り、与次郎に咎めが及ばないよう、与次郎を説得して自分の居場所を徳川軍へ告げさせた。徳川軍を代表して三成の捜索にあたっていた田中吉政は、近辺の村々に対し、三成を生け捕りにした場合にはその村の年貢を永久に免除する、生け捕りにせず殺した場合にはその者に賞金百両を与える、逆に三成をかくまった場合には当事者のみならずその親族および村人全員にいたるまで処刑すると触れを出していたが、最終的には与次郎が三成の説得に従って自首したため、村は虐殺を免れている。捕縛された際の三成は、きこりのふりをして身にはぼろをまとい、兵糧米を少し持ち、破れ笠で顔を隠していたが、田中の兵でかつて三成の顔を知っている者がおり看破された(『田中系図』[40])。
    • このとき、与次郎が死を覚悟で三成をかくまったのは、かつて古橋村が飢饉に襲われた際、三成が村人たちを救うために米百石を分け与えたことがあり、与次郎はそのことに深く恩義を感じていたためとされる。
    • しかし他説では、三成が村人達に対し、「私がこのように逃れてきたのは、再び家康と一戦を交え、天下を統一する所存であるからだ。天下統一の暁には、古橋から湖(琵琶湖)までの間を大きな平野となし、道は全部石畳にする」と言い、村人達はこの言葉に惹かれて三成をかくまった。しかし、隣村の出身で与次郎太夫の養子であった者が裏切って徳川軍に密告したため三成は捕らえられたとする。これ以降、古橋村では他村から養子を取らない慣習ができたという。
  • 家康に従軍した板坂卜斎は陥落した佐和山城に金銀が少しもなく、三成はほとんど蓄えを持っていなかったと記している(『慶長年中卜斎記[41]、寛永年間成立)。
  • 三成が京都の町を引廻されている最中に水が飲みたくなったので、警護の者に伝えたところ、水がなかったので干し柿を差出された。三成は「痰の毒であるから食べない」と言って断った。「間もなく首を刎ねられる人が毒を断つのはおかしい」と笑われたが、三成は「そなた達小物には分からないだろうが、大義を思う者は、首をはねられる瞬間まで命を大事にするものだ、それは何とかして本望を達したいと思うから」であると答えた。(『明良洪範[42]享保以降成立)。なお、横浜一庵から柿100個が送られた際の礼状に「拙者好物御存知候(私の好物をよくご存知ですね)」と書いている[43]ことや、ほかにも三成への柿の贈答が記録されたことから、三成の好物が柿だったことは広く世間に知られており、柿の逸話とも関連がある可能性がある[44]
  • 三成は関ヶ原の戦いの数日後に捕縛されて大津城でさらされた。このとき、福島正則が馬上から「汝は無益の乱を起こして、いまのその有様は何事であるか」と大声で叱咤した。三成は毅然として「武運拙くして汝を生捕ってこのようにすることができなかったのを残念に思う」と言い放った(『武功雑記[45]、寛文年間成立)。小早川秀秋は「亡き太閤を裏切って恥ずかしくないのか」と罵り、黒田長政に同情させられると涙を流した。[46]
  • 関ヶ原の戦いの直前、三成は増田長盛と密談した。三成は「五畿内の浪人を集めて兵力とし、家康に決戦を挑もう」と述べ、長盛は「いや、時節を待とう」と言った。すると三成は苦笑いし、「生前の太閤殿下は貴殿と拙者に100万石を与えると言われたが、我々は分不相応ですと断った。思えばあのとき、100万石を受けていれば今になって兵力の心配などする必要もないのに」と述べて長盛のもとを去ったという(多賀谷英珍遺老物語』)。

以下の逸話は明和7年(1770年)成立の『常山紀談』を出典とする。

  • 石田家中で行われた密議での話。三成に対して家臣の島左近は「豊臣家のために決起するのであれば即断すべきであり猶予は不要でした。しかし好機は逸してしまい、家康に味方する者も多く、当家の存亡は予測ができません。ここは筋を曲げてでも今まで疎遠であった諸大名と遺恨なきよう親交し、時を待つのが策ではないか」と進言した。これに対して三成は「一時の成功よりも、事が起きた後いかに平穏にさせるのかを考えるべきである」と受け入れなかった。三成が来客のため場を離れると三成家臣の樫原彦右衛門は左近に向かって「あなたの言うことがもっともである。松永久秀明智光秀は悪人であったが決断力は人並みではなかった」と言った。その後、関ヶ原の戦いの前のこと。家康は島左近の動静を探るべく同じ大和国出身の柳生宗矩を左近のもとに送り込んだ。二人の話が天下の趨勢に及ぶと、左近はその密議のことを思い出して「今は松永や明智のような決断力と知謀のある人物がいないので何も起こらないでしょう」と語った。
  • 家康の会津征伐に従軍しようとしていた大谷吉継は三成から佐和山城に招かれた。三成は「豊臣のために上杉景勝と打倒家康の策を練っていた。上杉が立った以上これを見殺しにはできない」として挙兵の決意を語った。吉継は「ならば秀頼公に命を捧げよう。しかし大事にあたって気がかりが二つある。まず世の人は三成は無礼者であると陰口を叩く一方、家康は下々の者にまで礼をもって接するので人望がある。次に石田殿には智はあっても勇足りないと見える。智勇二つを持ち合わせねば事は成し遂げられないだろう。毛利も宇喜多も一時の味方であって頼りならない。家康の関東への帰路で夜討ちをかけておけば勝利は疑いなかったが、すでに手遅れだ。悔いても益はないので、このうえは秀頼公ために戦う以外道はない」と三成を諫めつつ挙兵に同意した。
  • 家康は関ヶ原の戦いで敗れて捕縛された三成に面会した際、「このように戦に敗れることは、古今よくあることで少しも恥ではない」といった。三成が「天運によってこのようになったのだ。早々に首を刎ねよ」と応えると家康も「三成はさすがに大将の器量である。平宗盛などとは大いに異なる」と嘆じた。また家康は処刑前の三成、小西行長、安国寺恵瓊の3人が破れた衣服ままであることを聞き、「将たるものに恥辱を与える行為は自分の恥である。」として小袖を送り届けた。三成は小袖を見て「誰からのものか」と聞き、「江戸の上様(家康)からだ」と言われると、「それは誰だ」と聞き返した。「徳川殿だ」と言われると「なぜ徳川殿を尊ぶ必要があるのか」と礼もいわずに嘲笑った[注釈 9]

三成と淀殿及び高台院

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一般的に広まっている誤解に、三成は旧主(浅井氏)の姫である淀殿を崇拝していたというものがある。これは両者が近江出身ということからイメージされたものと推測されるが、三成の石田家は近江の土豪であり、京極氏に代々仕官していた国人である。間接して、浅井氏にも仕えていた(浅井氏が京極氏を保護していた)ことになるが、基本的に当時の浅井氏と京極氏は敵対関係にあったため(浅井氏は、京極氏への下剋上で当時、台頭していた)、淀殿は「仇敵の娘」ともいえる。

また、豊臣秀頼が豊臣秀吉の実子ではなく三成が淀殿と密通して生ませた子であるという説がある。淀殿不行跡の史料的根拠である『萩藩閥閲録』において、その風聞があったのは秀吉の死後で、かつ相手も大野治長と記載があることおよびこの話の出典が江戸中期以降ということ、秀頼は文禄2年8月3日(1593年8月29日)生まれであり、前年の文禄元年6月から朝鮮半島に赴いていたことから三成が秀頼の父親であるとは考えにくい。

その一方で白川亨は、三成が秀吉の正室である高台院と親密であり、逆に秀頼の母として政治に介入する淀殿とその側近を嫌っていたとする、それまでの通説とは正反対の説を唱えている。その論拠として白川は以下のことなどを挙げている(詳しくは高台院を参照)[47]

  • 三成の三女・辰姫は高台院の養女となっている(『杉山家由緒書』『岡家由緒書』)。
  • 側近の東殿は大谷吉継の母である
  • 小西行長の母ワクサ(洗礼名:マグダレーナ)は(バテレン追放令が出されるまで)北政所の侍女であった。
  • 三成の家老島左近の娘ジョアンナ(小野木重勝の妻)も高台院に仕えていた。
  • 高台院の側近の筆頭である孝蔵主は三成の縁戚で、関ヶ原でも西軍のために大津城の開城交渉を行っている。
  • 淀殿の周辺に三成ら西軍派の縁者がいない
  • 西軍寄りとみられる行動を取っていて三成が加藤清正ら七将に襲撃された際、家康に三成の保護を依頼している(『言経卿記』)。
  • 甥である木下家の兄弟(小早川秀秋の兄弟)の多くが西軍として参加し領地を没収されている
  • 関ヶ原の戦い後、急遽宮中に逃げ込んでいる(『言経卿記』)。(このとき、裸足だったと『梵舜日記』(『舜旧記』)に記されており、非常に狼狽していたことが確認できる)
  •  東軍諸将との関係が薄く、側近に東軍関係者が全くいない
  • 『梵舜日記』に高台院の大坂退去から関ヶ原の戦いの数年後まで高台院と正則らが面会したという記録がない。

肖像画

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少なくとも3種類から4種類程度確認されているが、ここでは特に、三成自身(と伝えられる)の頭蓋骨から復顔した肖像画を取り上げる。

関ヶ原の戦いから約300余年を経た明治40年(1907年)、時事新報社と実業家・朝吹英二の呼びかけで、東京帝国大学渡辺世祐が三成の伝記執筆のために、大徳寺三玄院にある三成のものと思しき墓を発掘した。このとき発見されたのは頭蓋骨や大腿骨、上腕骨など一体分の骨が揃っていた。京都帝国大学解剖学教室の足立文太郎が遺骨を鑑定調査し、1943年に清野謙次が調査を引き継ぎ[48]、損傷が激しい頭蓋骨を丹念に接合・復元し、遺骨の正確な記録・写真・計測表・透視図を作成し鑑定文を執筆した。調査の結果は「優男の骨格・頭形は木槌型・反っ歯・没年41歳相当」で、このとき頭蓋骨の石膏模型が作られた。なお、三成の遺骨は当初の場所と位置を変えて、再び三玄院に埋葬された。

下って昭和51年(1976年)、末裔の一人である石田多加幸(写真家)からの依頼を受け、東京科学警察研究所元主任技官・長安周一が先の鑑定調査を元に石膏復顔を行った。さらにそれを元に関西医科大学石田哲郎の指導の下、昭和55年(1980年)3月、日本画家前田幹雄の手によって石膏の復顔肖像画が制作された。この肖像画は4幅制作され、現在、大阪城天守閣、長浜城歴史博物館、大徳寺三玄院、石田家に所蔵されている[49][50]。 同時に身長の推測も行い、156cmと試算された。小柄であるとされていた石田三成であるが、当時の男子の平均身長は160cm程度であり、骨格から考えると取り立てて小柄であったとは言いにくい。ちなみに家康は159cmと計算されている。

佩刀

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三成が佩用していたとされる「石田正宗

前田利家の死後、加藤清正・福島正則らが三成を襲撃するという事件が起こり、家康の仲裁によって三成は奉行を辞し佐和山城に蟄居することになった(石田三成襲撃事件[51]。三成が佐和山城への護送役を務めた結城秀康に「無銘正宗」を贈ると[51]、秀康はこれを喜び、「石田正宗」と名付けて終生大切にしたという。この「正宗」は三成が秀吉から拝領したものといわれるが、江戸時代の享保期に出版された書物『刀剣名物帳』では、毛利若狭守が所持していたものを宇喜多秀家が買い取り、三成に贈ったと記されている[52]

関ヶ原の戦いで田中吉政配下の田中吉忠(田中伝左衛門)と沢田少左衛門に捕縛されたとき、無銘の打刀と短刀を差していた。捕らえられる直前、三成は名誉ある死である切腹を田中伝左衛門に願ったが、伝左衛門はそれを無視して捕縛、三成は士の道に背くと憤って伝左衛門を呪っている(『石卵余史』)[53]。打刀(備後貝三原正真作)の方は徳川家に没収された後、家康からの恩賞として吉政を介して捕縛の実行者である伝左衛門の手に渡り、のちに「さゝのつゆ」の号を与えられた(『甲子夜話』巻之九十一)[53][54]。一方、三成は吉政父子には非常に手厚く扱われ、その礼として自ら愛用する短刀の方を贈呈した[55]。このときに贈ったのは名物「切刃貞宗」だという伝説が有名だが、『寛政重修諸家譜』によると実際は手掻包永の短刀で、吉政本人ではなく、長男の田中吉次に手渡したらしい[55]

系譜

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兄弟

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  • 石田弥治郎 - 一説に三成の長兄で石田正継の長男といわれる。
  • 石田正澄
  • 石田三成
  • 女(福原長堯室)

子女

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3男3女もしくは2男5女がいたとされる。三成本人は家康の命により死罪となったものの、子孫には比較的寛容であったことは特徴的である。

  • 長男:石田重家 - 関ヶ原の戦い後、徳川家康に助命され出家。父・三成と親交が深かった春屋宗園の弟子となり、宗亨と名乗って104歳(または103歳)の天寿を全うした。宗亨に帰依した弟子に祖心尼がおり、祖心尼は宗亨の甥にあたる岡吉右衛門に娘おたあを嫁がせている(以下、次女・小石殿の項参照)。また、重家の子直重[56]松平忠直の庇護をうけ[要出典]、国替えで越後高田藩に入封した際に随伴。[要出典]妙高市(妙高高原一)の新田開発を命ぜられ、以降、当地に定住した。

また重家の直系子孫を名乗る石田秀雄によると3代目の直重(重家の子)の代に越後高田松平家に仕官したがその次の代からは庄屋になり現在まで男系で繋いでいるというが[56]、それを示す史料は戦争で燃えたという[57]

  • 次男:石田重成 - 関ヶ原の戦い後、津軽信建の助力で畿内を脱出。若狭国小浜に逃れた後、津軽氏にかくまわれ、杉山源吾を名乗る。のちに弘前藩家老職となり、子孫は津軽家臣として数家に分かれた。
  • 長女:某 - 名は定かではないが、生前は吹殿と呼ばれていたという説がある。石田家臣の山田勝重(隼人正)に嫁ぐ。山田勝重の叔母は家康の側室・茶阿局で、その縁から石田家没落後は妻(三成の娘)を連れ松平忠輝に2万5,000石にて仕えた。忠輝改易後、山田勝重は妻の妹・辰姫の縁で津軽藩から捨扶持として150石を賜り、草山と号して江戸で余生を送った。次男・富岡武兵衛、三男・山田彦兵衛が津軽藩に登用され、子孫は津軽藩士となり城代や側用人などを務めた。
  • 次女:小石殿 - 蒲生家の家臣岡重政(岡半兵衛)室。重政が蒲生家の御家騒動に関与し(藩主・蒲生忠郷の母・振姫(家康の三女)の勘気に触れ)、幕府により江戸に呼び出されて切腹処分になると会津を離れる。のちに若狭国へ移り住み、小浜で没したと伝わる。子の岡吉右衛門の娘は徳川家光の側室・お振の方(自証院)(三成の曾孫にあたる)となり、家光の長女・千代姫を産んだ。尾張徳川家に嫁いだ千代姫の血筋は第7代藩主・徳川宗春まで続き、さらに女系(千代姫の孫徳川吉通の娘三千君)を通じ二条家九条家を経て貞明皇后、そして現在の皇室などに三成の血を伝えている(系譜 石田三成 - 小石殿 - 岡吉右衛門 - 自証院 - 霊仙院(千代姫) - 徳川綱誠 - 徳川吉通 - 三千君 - 二条宗基 - 二条治孝 - 九条尚忠 - 九条道孝 - 貞明皇后 - 昭和天皇)。また、吉右衛門の子孫は千代姫の縁で尾張藩士となった。
  • 三女:辰姫 - 高台院養女。弘前藩第2代藩主・津軽信枚の正室、のちに満天姫(家康養女)降嫁により側室に降格したが、産んだ子は第3代藩主(津軽信義)となった。さらに女系を通じ雅楽頭酒井家などに三成の血を伝えている。
  • 三男:佐吉 - 佐和山城が東軍に包囲された際、徳川家の旧臣で三成の兄・石田正澄に仕えていた津田清幽が開城交渉を行っていた最中に、豊臣家家臣で援軍に来ていた長谷川守知が裏切り小早川秀秋田中吉政の兵を引き入れたため、正澄や父の正継らが自刃する悲劇が起こった。違約に怒った清幽が家康に迫って生き残った佐吉らの助命を承知させた。佐吉は父・三成と親交の深かった木食応其の弟子となって出家し、清幽の忠義への感謝から法名を清幽と名乗った。

上記の3男3女は全て正室の皎月院の所生だが、このほかに側室との間に数人の庶子がいたとの伝承がその子孫に伝わっている。いずれも史実としての確認はできない。写真家・石田多加幸の家には庄屋となった備中石田氏の祖である、三成の次男八郎(三成の三男は佐吉ではなく八郎とする説も)の子孫という伝承がある(杉山重成の家に伝わる系図に該当する子孫はないため、重家と重成の間に生まれた側室所生の次男の子孫と推測することもできる)。『石田三成の末裔として育った』(近代文藝社)を書いた澁谷理恵子の家には、三成の末子の姫が、大坂の陣後、乳母に抱かれて越後高田へ落ち延びたのが祖先だとの口伝が残っている。

家臣

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偏諱を与えた人物

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三成を主題とする作品

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小説
漫画
  • 『ミツナリズム』(鈴木コイチ)
  • 『三成さんは京都を許さない』(さかなこうじ)
テレビアニメ
  • 『妖怪軍師ウィスベェ(妖怪ウォッチのコーナー)』(日野晃博)
映画
テレビドラマ
楽曲
舞台

研究書籍

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現代の湖東地域と三成

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上記のように、江戸時代以降の三成に対する評価はさまざまであるが、滋賀県では、三成の知行地があった湖東(長浜市・米原市彦根市など)を中心に、観光客誘致や地域おこしのため顕彰対象になっている[58][59]

脚注

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注釈

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  1. ^ 近年では水口城は中村一氏の築城で、またその入封は甲賀衆の内紛による没落とされていることから、三成が領有することは考えられないとみられている。もっとも、後年の小田原征伐のころには7、8万石相当の軍役を負担していた[2]
  2. ^ 三成が左近を召抱えたのは、左近の先主・羽柴秀保が死去した文禄4年(1595年)以降ともいわれており、この場合、三成はすでに佐和山19万石の城主になっている[3]。ただし、天正18年(1590年)5月に左近の妻が伊勢亀山(関一政の本拠)に留まっている一方、同月に三成から佐竹義久への使者を左近が務めていることから、小田原征伐のころに関氏の厄介になっていた左近が三成に登用されたとするのが近年の有力説である[4]。また、水口4万石の半分の2万石で召し抱えたという説もあるが、三成が水口を領有した事実はないため、これは誤りである。
  3. ^ 当初は同じく旧領であった尾張清須21万石が与えられる予定であったが、こちらは福島正則に与えられた
  4. ^ 布谷陽子は慶長3年7月15日付上杉景勝宛島津義弘書状に毛利輝元、大坂の三奉行、小西行長大谷吉継が三成とともに談合を行ったことが記されていることから、西軍結成計画は複数人によって早くから進行していたものとする[18]
  5. ^ 家臣の児玉玉三郎右衛門に秀吉に献上する脇差を譲るよう命じた書状の一節。
  6. ^ 三成が奉行として行う検地への協力のために、義弘が兄の義久へ、その協力が島津家のために必要であることを説得した書状の一節。
  7. ^ 木食応其は三成と極めて親しい仲で、三成のために大津城の開城交渉にあたった人物である。これは、木食応其が三成への加担を徳川方から責められたときの発言であるので、ある程度割り引いて考える必要があることに留意。
  8. ^ 本多博之は蔚山での秀秋の失態に史料的な裏付けはなく、また越前への転封については秀吉による筑前直轄領化構想のもと行われたとする[38]
  9. ^ 『武功雑記』にも三将に小袖が送られる逸話が載せられているが、家康が三将の体面を気にかけるくだりがないなど細部が異なる。

出典

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  13. ^ 「毛利家文書」(『大日本古文書. 家わけ八ノ三』962号文書)
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  15. ^ 「毛利家文書」(『大日本古文書. 家わけ八ノ三』1015号文書)
  16. ^ 慶長3年2月7日付細川忠興宛三奉行連署書状。本来、豊臣大名への知行加増は他の大老・奉行との合意のもと行われるものであるが、この書状には「内府公被任御一行旨」とあり、忠興の加増が家康単独で決定したものであることがわかる。慶長5年7月晦日付真田昌幸宛三成書状(『真田家文書・上巻』1981年、51号文書p53)
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  55. ^ a b 福永 1993, 2巻, p. 122.
  56. ^ a b 武将の末裔が語る“関ヶ原の戦い”裏事情
  57. ^ 武将の末裔が語る“関ヶ原の戦い”裏事情
  58. ^ 「石田三成×滋賀県」ポータルサイト(2018年10月6日閲覧)。
  59. ^ 長浜市観光PRキャラクター「三成くん」(2018年10月6日閲覧)。

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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