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八十島助左衛門

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

八十島 助左衛門(やそじま すけざえもん、生没年不詳)は、安土桃山時代武将石田三成の家臣。別名:道壽。子も八十島助左衛門を称した。

略歴

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出自は斯波義統の家臣という[1]。父は八十島虎仍助左衛門道除とされる[2]

石田三成右筆をつとめていた。老臣だという。

朝鮮出兵の際、豊臣家島津義弘との申次を務めている。

慶長3年(1598年)8月、豊臣秀吉が没すると、その旨を徳川家康に報告している。

慶長5年(1600年関ヶ原の戦いの際、助左衛門は、主君・三成の命を受けて、攻撃をしない島津家に対する使番をつとめた。 助左衛門は旗本磯野平三郎[3]入江権左衛門[4]を連れて、笹尾山の裏手から五町ほど馬を走らせて島津義弘の陣を訪れた[5]。 ここで下馬せずに馬上から申し出たために、島津豊久の家臣たちは「尾籠」だと言い、使者の態度に激怒した豊久も「今日の儀は面々手柄次第に可相働候、御方も共通に御心得候得」と怒鳴り返して追い返したと伝えられている。その後陣に帰ったとも、恥じて離脱したともいう。 磯野平三郎は、助左衛門を強く批判し、「関ヶ原 八十島とかけて逃げ出でぬと 人には告げよ あまりの憎さに」と歌を詠んだと伝わる。

戦後、藤堂高虎に召し抱えられた。 あるとき、高虎が、自らの生涯を記載した書物を、徳川家光の御前で披露する際に、酒井忠勝林羅山に読ませようとすると、高虎は、自分のことを終始知っている者に読ませたいと申し、助左衛門を召し出して、書物を読ませたと伝わる。

その後は不明。

演じた俳優

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脚注

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  1. ^ 斯波家臣に八十島道染、八十島虎仍助左衛門道除、八十島宣重加賀右衛門、八十島豊英助左衛門がみられる。
  2. ^ 八十島虎仍助左衛門道除は、朝倉家臣の八十島道染の子と、八十島虎仍とされ、孫の今立助左衛門豊英は越前松平家に仕えた。
  3. ^ 磯野員昌の子。戦後は近江にて蟄居、藤堂高虎に招かれ、家臣になった。
  4. ^ 「島津の退き口」にて島津勢に同行、大津まで案内した。
  5. ^ この日、2回目の島津陣への訪問であったとも考えられている。

参考資料

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・『関原軍記大成』