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甲陽学院中学校・高等学校

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甲陽学院中学校から転送)
甲陽学院中学校・高等学校
甲陽学院中学校
地図北緯34度43分41.8秒 東経135度19分33.9秒 / 北緯34.728278度 東経135.326083度 / 34.728278; 135.326083座標: 北緯34度43分41.8秒 東経135度19分33.9秒 / 北緯34.728278度 東経135.326083度 / 34.728278; 135.326083
過去の名称 <高等学校>
私立甲陽中学(旧制)
財団法人辰馬学院甲陽中学校
甲陽高等学校(新制)
甲陽学院高等学校
<中学校>
甲陽学院中学部(新制)
甲陽学院中学校
国公私立の別 私立学校
設置者 学校法人辰馬育英会
理念 桜梅桃李一時春
明朗・溌剌・無邪気
銘酒の醸造のように、焦らず、競わず、衒わず
設立年月日 1917年2月6日
創立者 伊賀駒吉郎辰馬吉左衛門
共学・別学 男子校
中高一貫教育 完全一貫制
課程 全日制課程
単位制・学年制 学年制
設置学科 普通科
学期 3学期制
学校コード C128310000326 ウィキデータを編集(中学校)
D128310000351 ウィキデータを編集(高等学校)
高校コード 28534A
所在地 662-0955(中学校)
662-0096(高等学校)
兵庫県西宮市中葭原町2-15(中学校)
兵庫県西宮市角石町3-138(高等学校)
外部リンク 公式サイト
ウィキポータル 教育
ウィキプロジェクト 学校
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甲陽学院中学校・高等学校(こうようがくいんちゅうがっこう・こうとうがっこう)は、兵庫県西宮市にあり、中高一貫教育を提供する私立男子中学校高等学校

現在は完全中高一貫校[1][2]で、中学校と高等学校の所在地は異なる。設置者は学校法人辰馬育英会白鹿グループ)である。

概要

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関西教育界の第一人者で、女子教育で定評のあった[3]伊賀駒吉郎が「官立学校は型にはまった教育しかできない」と「自由な私学」を求め、1917年大正6年)、枝川(現在の甲子園)の地に「私立甲陽中学」を創立。開校前から自由、ハイカラハイソという評判があった[4]。「桜梅桃李一時春」[5][6]を建学の精神とし、『甲陽十二訓』、自由主義の下、「明朗・溌剌・無邪気」[7]、「気品高く教養豊かな有為の人材の養成」を目的とする校風[注 1]が自主的に育まれた。当時の学級の構成は「桜・梅・桃・李」である[8]

第一次世界大戦後の不況により本学の経営が困難に陥るが、白鹿の酒造家である辰馬吉左衛門が私財を投じ、1920年(大正9年)3月に財団法人辰馬学院を設立。1947年(昭和22年)、中学校令に基づく新制甲陽中学校を発足させる。酒造家ならではの経営を行い[9]、教育に関しては一切を歴代の校長に任せた。

戦後の学制改革では、パブリックスクールを手本の一つとして新体制が整えられ[10]、財団法人辰馬学院は学校法人辰馬育英会と改められた。

新制以来、中学と高校の所在地が別々であるのが特徴である。中学が西宮市中葭原町(香櫨園)に新設された一方で、高校は従来の甲子園の地が騒音公害などで環境が次第に悪化したため、西宮市角石町(苦楽園)に校舎を新築し、1978年(昭和53年)4月に高校のみを苦楽園に移転した。現在は、中学は海風薫る浜辺に[11]、高校は天を仰ぐ山辺に[注 2]、ともに夙川沿いにある。

所在地の違いは中学、高校の校風にも反映されており、中学では制服があり規律正しいが、高校では校則もほぼなく自由となる。

建学の精神

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桜梅桃李一時春
「おうばいとうりいちじのはる」と読む。創立者伊賀駒吉郎の愛誦する句であった。それは自由な環境の中に強い自主性を育て祖国愛に燃える識見高い日本青年を世に送ろうとする伊賀の建学の精神でもあった[12]

教育方針

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創立以来の「桜梅桃李一時春」の理念で、気品高く教養豊かな有為な人材を養成することを目的としている。

中学では規律、高校では自主性・創造を重視している。中学では黒の詰襟学ランおよび白ポロシャツの制服があり、身だしなみについて細やかな注意や学習方法の指導がある。

一方、高校では頭髪、服装は全面的に自由になり、自律が期待される[7]

環境

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創立者伊賀駒吉郎は、自由な私学を念願し、1916年(大正5年)に枝川周辺(現在の甲子園)の景色を見て[13]その地に旧制「私立甲陽中学」を創立。

戦後の学制改革の際に廃校となった甲陽工業専門学校の校地だった香櫨園に中学部を新設、高等部は甲子園に存置した。

枝川の清流と白砂青松を誇った高校校舎の外周も、騒音排気ガスにより環境が悪化した。そのような折に辰馬家はいち早く校舎移転を唱え、甲山山麓の辰馬家所有地を提供[14]1978年昭和53年)に移転した。

生徒の年齢発達に応じた、一層実りの多い中高一貫教育を行うために、中学と高校の立地、設備を別々に備えている。

設備

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中高一貫校としては珍しく中学と高校で校地が異なる。中学、高校のそれぞれで設備が独立しており、中学、高校のそれぞれに、講堂、図書室、食堂体育館テニスコートプールがそれぞれに設置されている。ただし、トレーニングジムは安全性のため高校のみにある。

香櫨園の中学校地では、1993年平成5年)8月に中学旧校舎東側に新校舎が竣工した。旧校舎は一部改築され講堂・芸術棟、食堂および記念塔として使用している。2017年3月には100周年記念事業として、中学講堂が新築された。

教育課程

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中学校・高等学校は、学業はもちろん、人格完成にも品性陶冶にも大切な段階にある点に鑑み、情操教育を重視し、特に規律の励行、礼儀作法の実践体得を旨としている。創立者伊賀駒吉郎の頃以来、「正々堂々甲陽健児」[15][10]、「甲陽紳士」[16]、「甲陽負けじ魂」[17][18]という言葉がある。

将来大学で学ぶ者、つまり「いい大学生」となるために、充分な学力と体力とを練磨する[19][7]

学習課程は自律的学習者養成のために、あえて「特色のない」カリキュラムをとり、学生自身が考え、自ら間違いに気付くようにしている。第7代校長小河清麿が残した言葉に、「自ら学び、考え、楽しむ」がある。

在校生・教職員・卒業生の三極をもって学問・教育の場を担い、完結することを目指している[20]。保護者や塾・予備校の関与は最低限に抑えている。

学術
「甲陽は教育をする場ではなく、学問をする場である」という言葉が受け継がれてきた[21]。このような学問第一の伝統の下、授業の進度は早く、中学で高校課程の範囲のほとんどを修了する。成績の席次は発表せず、安易な序列意識、階層意識が生まれないようにしている。
芸術
文科省の標準授業時数よりも多く授業時間数をとっている[22]
音楽
教養を養うために主要科目だけでなく、音楽教育にも力を入れており、特にリコーダーによる「グリーンスリーブスの主題による変奏曲」の演奏は、半世紀近く続く伝統の授業で、中学の3年間をかけて習得するものとなっている[23]。そのため、リコーダーの調べが中学の場に浸透している。
体育
授業では陸上競技、球技、水泳、武道を行う。

沿革

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[24]

  • 1917年大正6年)2月6日 - 「桜梅桃李」を建学の精神として、枝川(現在の甲子園)に伊賀駒吉郎により、私立甲陽中学設立。
  • 1920年(大正9年)3月6日 - の酒造家(白鹿)の辰馬吉左衛門財団法人辰馬学院甲陽中学校を創設。
  • 1923年(大正12年)8月 - 第9回全国中等学校優勝野球大会(現:全国高校野球選手権)優勝。
  • 1940年昭和15年)3月 - 皇紀2600年奉祝記念事業として、専門学校令による甲陽高等商業学校を新設(後、工業専門学校に転じ、戦後廃校)。
  • 1947年(昭和22年)4月1日 - 学制改革により、甲陽学院中学部(新制)を香櫨園に新設。
  • 1948年(昭和23年)4月1日 - 甲子園の旧制甲陽中学校が甲陽高等学校(新制)となる。
  • 1950年(昭和25年)1月1日 - 甲陽学院中学部を甲陽学院中学校に、甲陽高等学校を甲陽学院高等学校に改称。
  • 1978年(昭和53年)4月 - 高校所在地の甲子園騒音公害などで教育環境が悪化したため、高校のみを西宮市角石町(苦楽園)に移転[注 3][注 4]
  • 1993年平成5年)8月 - 中学校において従来の校舎の東側に新校舎竣工。旧校舎は改築の上、講堂・芸術棟および記念塔として使用している。
  • 2006年(平成18年)4月 - 中学校の募集定員を165人から約180人(実際は200名程度)に変更し、55人3クラス制から40人前後の5クラス制へと変更。なお、この変更により40人前後5クラスでの最初の学年が高校へ進学する年から高校入試は廃止されることとなる。
  • 2007年(平成19年)- 前年からの募集定員増加に関連し中学校の旧校舎の一部を建て替え。
  • 2009年(平成21年)- 高等学校入学枠を廃止。完全中高一貫校化。
  • 2016年(平成28年)- 旧講堂が解体される。
  • 2017年(平成29年)3月 - 中学新講堂が竣工。

基礎データ

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所在地

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アクセス

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象徴

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校章

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中高はともに夙川沿いにあり、中学の校章は海の近く、高校の校章は山の上つまり空近くにあることを象徴した意匠となっている。学院歌の一節にはこのことを謳った「山に問えば山は答え、海に問えば海は答える」というものがある。

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  • 甲陽学院のうた(学院歌):作詞:竹中郁 / 作曲:清水脩
  • 甲陽学院応援歌:作詞:山田在夫 / 作曲:山田耕筰
  • 甲陽学院中学校校歌:作詞:丸谷緑野 / 作曲:花輪洋
  • 甲陽学院高等学校校歌:作詞:山田在夫 / 作曲:信時潔

設立趣旨

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古人曰く、一年の計は穀を植うるにあり、十年の計は木を植うるにあり、百年の計は人を植うるにありと[注 5]。天下の英才を教育して、各其の天稟を發揮せしめ、光彩陸離百花爛漫の偉観を現出するは、啻に國家百年の大計たるのみならず、人生の快事之れより大なるは無かる可し云々。

甲陽十二訓

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  1. 青年期は人生無二の修養期なり少年老い易く学なり難し一寸の光陰軽んず可からず未だ覚めず池塘春草の夢階前の梧葉巳に秋声あり
  2. 行為を蒔けば習慣を刈取り習慣を蒔けば品性を刈取り品性を蒔けば運命を刈取る
  3. 過去を払拭せよ未来は信頼せよ而して光栄ある現在に生活せよ

この他に第四訓から第十二訓まである。

学校行事

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中学と高校で校地が異なることが活かされ、行事はそれぞれに設けられている。

  • 4月:入学式、校外学習、創立記念音楽会
  • 5月:体育祭(高校)
  • 6月:修学旅行(高2・北海道)、体育祭(中学)
  • 7月:合宿(中1)、合宿(中2)、海外語学研修(中3)
  • 9月:音楽と展覧の会(高校・23日)
  • 11月:音楽と展覧の会(中学・3日)
  • 2月:耐寒登山(中学1・2 高校1・2)、卒業式(高校)、スキー訓練(中3)
  • 3月:卒業式(中学)
テーブルマナー講習会
高等学校1年対象。毎年6月に、校外学習として、ホテルヒューイット甲子園で行われている。
音楽と展覧の会
甲陽では「文化祭」はなく、代わりに「音楽と展覧の会」という行事が存在する。中学では合奏、高校では、歌唱や合唱コンクールが行われる。中学と高校それぞれで、希望者には講堂での個人演奏の場が設けられている。
耐寒登山(高1、2)
1930年以来の伝統がある。高校から有馬温泉まで歩く[11][25]
甲関戦(中学のみ)
8月に開かれる、関西学院中学部との伝統の一戦。運動部同士の練習試合や、有志によるビブリオバトルが行われる。
体育祭
行進曲イギリス民謡組曲が用いられている。
創立記念音楽会
毎年著名な音楽家が招かれる。
高校卒業式
第一部と第二部に分かれている。第二部には学校側は関与せず、卒業生のみにより企画されている。劇、芸、仮装をするもの、楽器を演奏するもの、一聴衆に徹して礼を保つもの、あえて式に参加しない者などがおり、様々な形で表現が行われる[26]

部活動

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野球部

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1917年(大正6年)創部[27]。戦前は野球の戦績が優秀であった。第9回全国中等学校優勝野球大会1923年(大正12年))では初出場で優勝。逆転に次ぐ逆転での優勝であった(このとき「甲陽負けじ魂」という言葉が生まれる)。なお、同大会における鳴尾球場での立命館中との試合で観客がなだれ込み、翌年の甲子園球場建設の一因となった。

1938年(昭和13年)の第24回全国中等学校優勝野球大会を最後に一度も甲子園には出場していない。そのため、特に旧校地時代は校舎が甲子園球場の隣にあったこともあり「近くて遠い甲子園」と呼ばれている[13]。通算成績は15勝11敗[28]。主なOBに野球殿堂入りの別当薫

サッカー部

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全国高等学校サッカー選手権大会の前身となる日本フットボール優勝大会に、第5回大会1922年(大正11年))から4年連続で出場。最高位は第7回大会1924年(大正13年))のベスト8。通算成績は3勝4敗。主なOBにベルリンオリンピック1936年(昭和11年))日本代表西邑昌一、元日本ユース代表監督の水野隆など。

灘校との間でサッカーの定期戦が開かれている。1952年(昭和27年)に両校の在校生が企画し、翌1953年(昭和28年)から毎年開催されている。中学生同士、高校生同士、卒業生同士で試合をする。

テニス部

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全国高等学校総合体育大会の前身となる全国中等学校選抜対抗庭球大会(団体戦)、全国中等学校庭球選手権大会(個人戦)などでの優勝経験がある[29]

甲陽の文化

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精神
「大事なのは社会的な名声ではない」としている[30]
自然環境(海、浜、川、山、空)と交通があり、卒業生から、「イソノミア論」や「交換様式論」が生まれた。その精神は、「在野精神」、「起業精神」と評されている[31]
イギリスパブリックスクールに通じる精神を持つといわれる[32]
創立百周年の2017年度には、第四代校長丸谷喜市の詩[33]をもって、第11代校長今西昭により、「さやけさ」がその精神として示された[34]
理念
銘酒の醸成のように、焦らず競わず衒わず長期的展望に立った人間教育を方針とする[9]。1978年の校舎移転時には、当時の理事長の辰馬龍雄は、「百年への布石」として、「教育は人類繁栄の基礎であります。」という言葉を残し、小河清麿校長は、「照千一隅(照于一隅)」の額を校長室の壁に掲げ、教育の理念を確かめた[35]
教育
中学では、その後の「型」となるような教育を受け、高校では、全面的に自主性を任せられる。生徒、学生の自主性を重んじており、教員からの押し付けではなく、先輩の姿を見て後輩が学んでいくといったやり方で人間性を磨いていく[36]
教職員は、一人の人間に対し、目は離さないが干渉せず、失敗さえも黙って見守る[22]。生徒の内発的なものの萌芽、内なるものの開花を辛抱強く待つ[9]
甲陽では創立以来、食を大切にしている。旧制時代では食堂棟を独立に設け、当時にしてカレーライスハヤシライス、日替わりランチがメニューに存在していた[37]。2020年に、白鹿との共同で「甲陽学院カレー」という商品が開発され、白鹿の直営店やオンラインショップにて販売されている。
同窓生
本学院は時代に阿らずずっと変わらないことが重要であるとしており、苦悩し、傷心したときに立ち上がるための力が得られる「母港」であろうとしている[9]
卒業後は、積極的な母校訪問を期待している[38]。学校訪問、補習、講演、甲陽だよりなど様々な繋がりを通して、教職員、在校生を支え、薫陶する。
同窓会には、「君子の交わりは淡きこと水の如し」、「同窓会を政治や商売などの場にしない」、「社会上の肩書きは捨てあくまで甲陽人として」などの理念がある。ネットを通して世界中で地域甲陽会を作り、地域交流を図ることを目的としている[39]
地域学
地域の文化(地域学)には当地に固有の私学の風土が介在している[40]
1947年(昭和22年)に甲陽史学会が結成され、現在まで地域研究、自学史研究などの分野で業績を残してきた[41][42]。この会の目的には、本学院を地域(阪神間)に根差したものにするということもあった。甲陽史学会が阪神間地域学研究の一つのルーツとなっている。文教都市西宮市において文教の振興[43]に貢献してきた[注 6]
甲子園球場
甲子園時代、校地の南隣に阪神甲子園球場が建設されたため、グラウンドは出場校の練習場としても使われていた。当時は阪神タイガースとグラウンドで合同練習をしていたこともあった[44]。高等学校が苦楽園に移転する前は、甲子園球場に最も近いが(全国高等学校野球選手権大会出場には)最も遠い学校と揶揄された。旧所在地は現在、白鹿グループ運営のホテルヒューイット甲子園(土地・施設は現在も白鹿グループが所有)とコロワ甲子園となっている。
甲子園球場誕生1年目の1924年(大正13年)に当時の生徒が行進の先導役を務め、そのゆかりで甲子園球場の誕生90周年である2014年(平成26年)にも本学の生徒が先導役を務めた。2021年(令和3年)の第103回全国高等学校野球選手権大会では、甲陽学院卒業の医学生のバッテリーが初戦の始球式を務めた[45]

財務

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第一次世界大戦後の不況を通じて、辰馬吉左衛門が私財を投じて経営を引き受けて以来、学校法人辰馬育英会として経営が酒造白鹿グループにより引き継がれている。

賢明な経営手腕の下、潤沢な自己資金を持っている。学費が他の私学に比べて安い[46]。在校生・卒業生・保護者に学校として寄付を募ることはない[47]。甲陽ファンドという同窓会有志による基金があり、これは経済的に困窮している在校生への援助や、優秀者の表彰に奨学金として使われる。

旧制甲陽中学・甲陽学院高校旧校地は、東半分は売却され現在はコロワ甲子園となっている。西半分は現在はホテルヒューイット甲子園となっているが、白鹿の関連会社が土地・施設を保有していることもあり甲陽学院高校のテーブルマナー講習会が催されている。

入試

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現在は中学入試のみを実施している。入学試験は兵庫県内私立中学校と同じ日に行われる。不合格者には成績を開示するが、合格者には成績を開示しない。その理由は同じスタートラインに立って中等教育生活を始めてほしいという配慮に基づくものである。

出身者・教職員・組織

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財界・経済界

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大学教員・教育界

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文化・芸能

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スポーツ

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政官・法曹界

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本校教職員

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組織

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脚注

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注釈

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  1. ^ 第七代小河清麿校長 (1973.4 - 1994.3) の言葉「自ら学び、考え、楽しむ」もある。
  2. ^ それぞれの校章や校歌に反映されている。学院歌の一節
    「山に問えば山は答え、海に問えば海は答える」
  3. ^ 辰馬家所有の石山と呼ばれる聖地を、法華経の祈念をもって開山。導師は、天台宗葉上照澄である。甲陽だより第77号(平成20年2月) (PDF) 理事長就任挨拶
  4. ^ 法華経により新高等学校校舎の落成式を行った。
  5. ^ 「一年之計莫如樹穀、十年之計莫如樹木、終身之計莫如樹人」(『管氏』「権修第三」、管仲の言葉)
  6. ^ 今までに多くの教員が兵庫県功労者(教育部門)に表彰された。

出典

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  1. ^ 秦由美子「第3章 コラム1 甲陽学院」『パブリック・スクールと日本の名門校 なぜ彼らはトップであり続けるのか』平凡社、2018年3月15日、116頁。ISBN 978-4-582-85869-3。「同校では中学入試しか行っておらず、高校からの入学者はいない。」 
  2. ^ おおたとしまさ「第9章 甲陽学院中学校・高等学校」『中学受験 名門中学の子どもたちは学校で何を学んでいるのか 東西難関12校の教育力』ダイヤモンド社、2012年12月1日、307頁。ISBN 978-4478043479。「2009年完全中高一貫校化。中高でのメリハリが特徴。」 
  3. ^ 学校法人樟蔭学園 :: 創立者と初代校長”. 2017年6月29日閲覧。
  4. ^ 甲陽だより65号(平成14年3月) (PDF)
  5. ^ 「桜梅桃李の己己の当体を改めずして無作三身と開見すれば是れ即ち量の義なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は無作三身の本主なり。」(創価学会版『日蓮大聖人御書全集』御義口伝、p.784)
  6. ^ 甲陽だより6号(昭和42年3月) (PDF)
    創立50周年記念碑文の冒頭にも刻まれている。
  7. ^ a b c 甲陽学院中学校:2014学校説明会レポート/受験ライフをサポートする 進学情報誌 さぴあ”. SAPIX小学部. 2016年6月17日閲覧。
  8. ^ 甲陽学院新聞第112号1966年7月28日発行
  9. ^ a b c d 秦由美子、大佐古紀雄、佐々木亮、古阪肇、松原直美、アスピノールロバート『「進学校」における人間性涵養とリーダーシップ : 日本と欧州3ヶ国から学ぶ』広島大学高等教育研究開発センター〈高等教育研究叢書〉、2016年3月。doi:10.15027/39958https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/00039958 
  10. ^ a b 甲陽だより80号(平成21年7月) (PDF)
  11. ^ a b 『浜風受くる日々に』(風見梢太郎著)にもその様子が謳われている。
  12. ^ 創立五十周年記念碑文より抜粋要約
  13. ^ a b 『2001年 価値ある学校(ラッキースクール)を探そう 関西男子校+共学校』旺文社、2000年7月1日。ISBN 4-01-008958-X 
  14. ^ 甲陽だより24号(昭和51年7月) (PDF)
  15. ^ 甲陽学院応援歌(昭和5年)
  16. ^ 文教都市西宮で100年の歴史を刻む紳士の学校|連載 神様に愛された地、夙川③ KOBECCO
  17. ^ 甲陽学院新聞第113号1966年9月25日発行
  18. ^ 『甲陽史-創立五十周年の歩み』より「底にある”甲陽負けじ魂”」
  19. ^ 校長からのメッセージ”. 甲陽学院. 2020年5月3日閲覧。
  20. ^ 「気づいていますか 子どものSOS」平成27年7月24日 講演・討論会 野口善國の提言および、教職員、同窓会会員の意見より
  21. ^ 甲陽だより90号(平成26年7月) (PDF) p.4
  22. ^ a b “朝日新聞デジタル:学びの選択”. 朝日新聞デジタル. http://www.asahi.com/ad/manabi/koyo.html 2016年7月18日閲覧。 
  23. ^ 【特集】伝統のリコーダー演奏授業で豊かな教養を養う…甲陽学院 読売新聞(2022年1月28日)
  24. ^ 学院概説 甲陽学院中学校・高等学校
  25. ^ 【特集】90年以上続く耐寒登山で山のルールや協力を学ぶ…甲陽学院 読売新聞(2020年10月21日)
  26. ^ 甲陽学院中学校・高等学校”. プレジデント社. 2016年8月3日閲覧。
    創立80周年記念動画に卒業式の様子が収められている
  27. ^ 【東兵庫】名門・甲陽学院4年ぶりの初戦突破 実った攻撃野球 京大志望のエースも好投”. スポニチ (2018年7月17日). 2024年6月16日閲覧。
  28. ^ 甲陽学院高等学校 高校野球データベース全国大会編
  29. ^ 甲陽だより77号(平成20年2月) (PDF)
  30. ^ 【特集】効率を求めないことが教育の生命線…甲陽学院 読売新聞
  31. ^ 灘とひと味違う甲陽学院 在野精神で起業家続々 NIKKEI STYLE(2017年11月26日)
  32. ^ 『パブリックスクールと日本の名門校』第3章「コラム1 甲陽学院」秦由美子 平凡社新書
  33. ^ 「きはみ無き 空にして、ここ さみどりの さやけきにはに つどえる我等、ともにいゆかむ」丸谷喜市
  34. ^ 甲陽だより96号(平成29年7月) (PDF) p.1
  35. ^ 甲陽だより28号(昭和53年7月) (PDF) p.1
  36. ^ 『パブリックスクールと日本の名門校 なぜ彼らはトップであり続けるのか』第3章「コラム1 甲陽学院」秦由美子 平凡社新書
  37. ^ 甲陽だより91号(平成27年3月) (PDF) p. 6
  38. ^ 甲陽だより19号(昭和49年2月) (PDF)
  39. ^ 甲陽だより78号(平成20年7月) (PDF) 甲陽学院同窓会ネット
  40. ^ 甲陽だより64号(平成13年7月) (PDF)
  41. ^ 甲陽史学会 編『甲陽史學會研究報告』甲陽史學會、1954年。 NCID AN10259491 
    『甲陽史学会研究報告』甲陽史学会。 NCID BN05816564 
  42. ^ 『甲陽史学会 著作目録』(甲陽史学会記念事業会刊)
  43. ^ 文教住宅都市宣言”. 西宮市. 2020年2月12日閲覧。(1963年11月3日)
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  45. ^ コロナ禍で目指した医学の道 甲子園始球式に臨む元球児 朝日新聞(2021年8月8日)
  46. ^ 週刊ダイヤモンド(2015年8月22日)
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  48. ^ “毎日フォーラム・霞が関人物録 熊本県”. 毎日新聞デジタル (毎日新聞社). (2023年1月10日). https://mainichi.jp/articles/20230109/org/00m/010/008000d 2024年5月19日閲覧。 
  49. ^ “毎日フォーラム・霞が関人物録 兵庫県(上)”. 毎日新聞デジタル (毎日新聞社). (2020年10月9日). https://mainichi.jp/articles/20201008/org/00m/010/009000d 2023年12月14日閲覧。 

関連項目

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外部リンク

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