川村徳久
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基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 兵庫県 |
生年月日 | 1911年4月25日 |
没年月日 | 1944年 |
身長 体重 |
165[1] cm 64[1] kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 二塁手、三塁手、遊撃手[1] |
プロ入り | 1936年 |
初出場 | 1936年4月29日[2] |
最終出場 | 1937年 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
この表について
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川村 徳久(かわむら とくひさ、1911年4月25日 - 1944年[3])は、兵庫県[4]出身のプロ野球選手(二塁手、三塁手、遊撃手)。妻は宝塚歌劇団18期生の秦都美子[3]。
来歴・人物
[編集]甲陽中学校(現・甲陽学院中学校・高等学校)時代には春1回(1928年),夏1回(1928年)甲子園に出場し、遊撃手として両大会とも母校のベスト8に大きく貢献した。その後、立命館大学、ノンプロの森下商店でプレーをした。
1936年春、阪急軍の結成に参加[4]。他の結成メンバーには、監督の三宅大輔を始め、宮武三郎、山下実、山田勝三郎、島本義文、石田光彦がいる(結成メンバーはこの6人+川村の僅か7名しかいなく、当初阪急軍の職業野球連盟入りが危ぶまれていた)[5]。甲陽中、立命館大時代から鳴らした堅実な守備で、初期の阪急軍を支えた。また選球眼も良く、通算成績で四球の数が三振を上回っている。しかし、打撃は全くの非力で、1936年秋シーズンに記録した打率.120は、規定打席到達者の中では最下位(59位)であった。
1937年秋季シーズン終了後、応召。その後、戦死した(1944年に亡くなったと言われている[3]が、正確な没年日時・死没場所は不明)。数え34歳没。
詳細情報
[編集]年度別打撃成績
[編集]年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1936春夏 | 阪急 | 18 | 71 | 57 | 10 | 12 | 1 | 0 | 0 | 13 | 6 | 3 | -- | 2 | -- | 12 | -- | 0 | 8 | -- | .211 | .348 | .228 | .576 |
1936秋 | 30 | 108 | 92 | 11 | 11 | 4 | 0 | 0 | 15 | 4 | 2 | -- | 4 | -- | 12 | -- | 0 | 7 | -- | .120 | .221 | .163 | .384 | |
1937春 | 27 | 78 | 67 | 3 | 8 | 0 | 0 | 0 | 8 | 5 | 3 | -- | 4 | -- | 7 | -- | 0 | 9 | -- | .119 | .203 | .119 | .322 | |
1937秋 | 4 | 2 | 2 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | 0 | -- | 0 | -- | 0 | 0 | -- | .000 | .000 | .000 | .000 | |
通算:2年 | 79 | 259 | 218 | 25 | 31 | 5 | 0 | 0 | 36 | 15 | 8 | -- | 10 | -- | 31 | -- | 0 | 24 | -- | .142 | .249 | .165 | .414 |
- 各年度の太字はリーグ最高
背番号
[編集]- 4(1936年 - 1937年)[6]
脚注
[編集]- ^ a b c わたしはかもめ Data館(川村徳久のページ)
- ^ 1936年春 阪急スタメンアーカイブス
- ^ a b c タカラヅカ☆キラキラ人脈(昭和元年〜5年)
- ^ a b プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、176ページ
- ^ 『忘れられた名投手: 北井正雄と野球のぼせモンたち』高井正秀 文芸社・2000年刊行-57ページ
- ^ 川村徳久の通算記録
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 川村徳久 - NPB.jp 日本野球機構