「レイテ沖海戦」の版間の差分
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また、空母航空戦力が消耗したため、第四航空戦隊に組み込まれていた[[隼鷹 (空母)|隼鷹]]・[[龍鳳 (空母)|龍鳳]]の当面の出撃が諦められた。また、第一航空戦隊を編成していた[[雲龍 (空母)|雲龍]]・[[天城 (雲龍型空母)|天城]]は竣工して間がなく、訓練未了を理由に温存された。これらの戦備が完全に整っていればマリアナ沖海戦並の艦隊航空兵力によって牽制を行えたことになるが、実際には燃料の不足などによる搭乗員大量養成訓練の遅延、アメリカ軍の急激な反攻などにより台湾沖航空戦以前にも行われていた(或いは行わざるを得なかった)杜撰で刹那的な兵力投入での損耗などで、既に想定よりも大きく戦力は低下しており、同航空戦により止めを刺された形となった。更にこの航空戦での敗北による稼動機の激減が、航空機の体当たり攻撃、即ち[[特別攻撃隊]]投入決断への決定打となった。特別攻撃隊に関しては後述する。 |
また、空母航空戦力が消耗したため、第四航空戦隊に組み込まれていた[[隼鷹 (空母)|隼鷹]]・[[龍鳳 (空母)|龍鳳]]の当面の出撃が諦められた。また、第一航空戦隊を編成していた[[雲龍 (空母)|雲龍]]・[[天城 (雲龍型空母)|天城]]は竣工して間がなく、訓練未了を理由に温存された。これらの戦備が完全に整っていればマリアナ沖海戦並の艦隊航空兵力によって牽制を行えたことになるが、実際には燃料の不足などによる搭乗員大量養成訓練の遅延、アメリカ軍の急激な反攻などにより台湾沖航空戦以前にも行われていた(或いは行わざるを得なかった)杜撰で刹那的な兵力投入での損耗などで、既に想定よりも大きく戦力は低下しており、同航空戦により止めを刺された形となった。更にこの航空戦での敗北による稼動機の激減が、航空機の体当たり攻撃、即ち[[特別攻撃隊]]投入決断への決定打となった。特別攻撃隊に関しては後述する。 |
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== 10月23日以前 == |
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=== 1944年10月 アメリカ軍上陸まで === |
=== 1944年10月 アメリカ軍上陸まで === |
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[[ファイル:The liberators move against the Philippines. An armada of American power steams in impressive array along the coast... - NARA - 513206.tif|thumb|right|250px|レイテ湾に向けて出港する上陸部隊を載せた輸送船団]] |
[[ファイル:The liberators move against the Philippines. An armada of American power steams in impressive array along the coast... - NARA - 513206.tif|thumb|right|250px|レイテ湾に向けて出港する上陸部隊を載せた輸送船団]] |
2023年8月11日 (金) 08:07時点における版
レイテ沖海戦 | |
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日米艦隊の戦闘(1944年10月25日、サマール沖) | |
戦争:太平洋戦争 | |
年月日:1944年10月20日 - 25日 | |
場所:フィリピン周辺海域 | |
結果:連合国軍の勝利、連合艦隊の壊滅 | |
交戦勢力 | |
大日本帝国 | アメリカ合衆国 オーストラリア |
指導者・指揮官 | |
栗田健男 小沢治三郎 西村祥治 † 志摩清英 福留繁 大西瀧治郎 |
ウィリアム・ハルゼー トーマス・キンケイド (日米両軍とも現場指揮官 |
戦力 | |
航空母艦4 戦艦9 重巡洋艦13 軽巡洋艦6他 駆逐艦34 航空機約600機 |
航空母艦17 護衛空母18 戦艦12 重巡洋艦11 軽巡洋艦15 駆逐艦141 航空機約1000機 補助艦艇約1500隻 |
損害 | |
航空母艦4 戦艦3 重巡洋艦6 軽巡洋艦4 駆逐艦9沈没など 戦死者7,475~10,000[1] |
航空母艦1 護衛空母2 駆逐艦2 護衛駆逐艦1 潜水艦1 魚雷艇1 その他艦艇2 航空機255機[2] 戦死者2,803[1] |
レイテ沖海戦(レイテおきかいせん、英語: Battle of Leyte Gulf)は、第二次世界大戦中の1944年10月20日から25日にかけて、フィリピン周辺の広大な海域を舞台に日本海軍とアメリカ海軍及びオーストラリア海軍の間で交わされた一連の海戦の総称である。フィリピン奪回を目指して侵攻するアメリカ軍を日本海軍が総力を挙げて迎撃する形で発生した。
「レイテ沖海戦」という呼称は、揚陸地点に定めた作戦上の要地であるレイテ湾に因んで命名されたアメリカ側の呼称で、日本ではフィリピン沖海戦が正式名[注釈 1]であるが、現在はアメリカ側呼称の方が一般的になっている。双方合わせて20万人以上の海上兵員が参加し、日米共に稼働艦艇と航空機を総動員した膨大な数の兵器が投入されている事から史上最大の海戦と称される事もある。
この6日間の海上戦役は、シブヤン海海戦、スリガオ海峡海戦、エンガノ岬沖海戦、サマール沖海戦といった四つの海戦で構成されており、その他に基地航空部隊による交戦も頻繁に行われていた。また、神風特別攻撃隊が初めて組織的に運用されている。連合艦隊の残存戦力の全てをつぎ込んだこの海戦は「捷一号作戦」として発動された。日本海軍はこの海戦を最後にして事実上消滅し、侵攻した連合国軍の最高指揮官マッカーサーは、25日に同島に司令部を設置した。
両軍の作戦計画
日本
マリアナ沖の大敗
侵攻するアメリカ艦隊を懐に誘い込んで一大決戦を行い、これを壊滅することを意図したあ号作戦は、マリアナ沖海戦で日本機動部隊が空母3隻と艦載機、搭乗員の大半を失うという大敗北で終わった。大本営では直ちにサイパン島救援策が検討されるが、正規空母約10隻・特設空母約15隻・戦艦10隻以上・巡洋艦10隻内外・駆逐艦数10隻と見積もられたアメリカ軍機動部隊に立ち向かえる戦力は海軍にはすでになかった。
それでもマリアナ諸島の失陥は本土防衛に重大な支障が生じる事から、軍令部は反撃計画[注釈 2]を企図するが陸軍にはそのような余力はなく、連合艦隊も実施が困難と難色を示したため計画は頓挫、6月24日サイパン島救援は中止となり、同島は見捨てられた[3]。
作戦の立案
7月9日、サイパン島は陥落する。7月18日、軍令部は次期作戦の指導大綱の作成研究を開始、21日に「大本営作戦指導大綱」が決定され24日に裁可された。同日には軍令部主催の図上演習が4日間に分けて行われ、それらの研究を元に26日に大海指第435号をもって次期作戦の呼称を「捷号作戦」とし、作戦区分が決定された[4]。
侵攻する連合国軍の強力な空母機動部隊を迎え撃つのに、第一機動艦隊は航空戦力を損耗していて中核戦力として期待はできなかった。やむなく再建が空母機動部隊よりも安易な基地航空隊を戦力の中核とし、決戦予想時期までに海軍1,300機・陸軍1,700機を整備する計画をたてるが、それでも予想される連合軍の3分の1でしかなかった[5]。
捷号作戦では、限られる航空戦力を最大限に生かすため、陸海軍航空部隊の間で見解を統一し、その統合発揮を図るべく大本営陸海軍部で協議がなされた。海軍では従来通り敵機動部隊を主目標とする考えだったが、陸軍は攻略部隊(上陸部隊を搭載する船団及びその護衛艦艇)を主目標とするべきと提案し、議論は平行線となった。しかし以前より海軍が敵機動部隊への攻撃を重視しながら一向に効果を挙げられず、いざ敵が上陸する頃にはそれを迎撃する戦力が枯渇してしまっている事態が頻発した事や、マリアナ沖でも大敗してサイパン島を見殺しにする結果となったことなどを陸軍側に指摘されると、海軍側も「敵機動部隊への攻撃優先」をそれ以上主張することはできなかった。
7月24日「捷号航空作戦に関する陸海軍中央協定」が締結され、空母機動部隊への攻撃は極力抑えて戦力温存を図り、海軍側が空母攻撃、陸軍側が攻略部隊攻撃及び陸戦の航空支援と役割を取り決めることとし、陸軍側の主張が貫かれた[6]。
作戦の詳細
8月4日、連合艦隊は「機密GF命令作第85号」をもって「連合艦隊捷号作戦要領」を発令、作戦の概要を告知する。そのうち「作戦要領」については以下の通りとなっている[7][注釈 3]。
- 基地航空隊は、当初敵機動部隊からの攻撃を回避し、戦力を集中するため適宜前進基地に進出する。水上部隊も同様適宜進出し上陸地点に殺到する。敵上陸点への海上部隊の突入は敵上陸から2日以内に実施する。基地航空隊は水上部隊突入の2日前より航空撃滅戦を実施する。それでも上陸された場合、敵増援を撃滅してそれを阻止し、地上部隊と呼応して敵を水際で殲滅する。
- 基地航空隊は第一第二航空艦隊の全力を投入。第二航空艦隊は本土西部に展開し比島に展開できるようにする。その時期は連合艦隊司令部が指示する。また、第三第十二航空艦隊は予備戦力として本土にて待機する。
- 基地航空隊の攻撃目標は敵空母、輸送船とするが、航空兵力中、新鋭最強兵力は敵空母攻撃に充てる。
- 敵機動部隊単独での攻撃の場合は極力損耗を避ける。但し好機があれば基地航空部隊独力で敵機動部隊を攻撃する場合があり、連合艦隊より「基地航空部隊捷一号作戦」を発動するので攻勢にでる。
- 水上部隊は第一遊撃部隊(栗田艦隊)はリンガ泊地、第二遊撃部隊(志摩艦隊)、機動部隊本隊(小沢艦隊)は内地にあり、作戦発動と共に第一遊撃部隊はブルネイ又はコロン、ギマラス方面に、第二遊撃部隊は内海西部または南西諸島方面に、機動部隊本隊は内海西部において出撃準備を整え特令によって出撃する。
- 敵が上陸したなら第一遊撃部隊は基地航空隊の航空攻撃に策応して上陸地点に突入する。
- 第二遊撃部隊と機動部隊本隊は敵艦隊を北方に誘致するのを建前とする。
- 潜水部隊は敵の来攻を予期されれば指定海面に進出または集中して、敵の上陸前に主として輸送船団を捕捉撃滅し、その後敵の増援輸送を遮断するに努める。
「基地航空部隊捷一号作戦」の発動については、連合艦隊が陸軍や大本営に図ることなく独自判断で発動できるというものであり、戦機を逃さず即応するという面では間違ってはいないが、海軍、しかも現地部隊が独断で捷号作戦を発動できるというのは、一歩間違えると陸海軍の戦力を統合して実施する捷号作戦の根底を覆す事にもなりかねなかった[8][注釈 4]。
また、軍令部では捷号作戦必成を期すため、従来見られなかった各種の特別措置を実施した。それは
- 連合艦隊司令長官の全海軍部隊の統一指揮[10][注釈 5]。
- 基地航空隊の空地分離方式の採用[11][注釈 6]。
- 必死奇襲戦法の採用、特攻兵器の開発[12][注釈 7]。
- 対潜水艦専門部隊の創設[13][注釈 8]。
以上4点であった。
「連合艦隊捷号作戦要領」発令を受け、8月10日に機動部隊[注釈 9]指揮官の小沢治三郎中将より「機動部隊命令作第76号 機動部隊捷号作戦要領」が発令され、機動部隊所属の各隊に対してより具体的な行動内容が指示された[14]。その内容(捷一号作戦に限る)は以下の通り
- 機動部隊の作戦は友軍(基地航空隊や潜水部隊など)と緊密に協力しつつ敵艦隊及び攻略部隊を撃滅する。
- 捷一号作戦
- 友軍はまず基地航空隊が敵機動部隊の初動攻撃を回避しつつ全戦力を展開、敵を引き付けてから上陸前日もしくは当日に敵機動部隊並びに攻略部隊に対して総攻撃を実施する。潜水艦部隊も敵の邀撃に努め、守備部隊は敵を水際で撃滅、上陸した場合は敵の飛行場占領使用を阻止するべく死力を尽くす
- 第一遊撃部隊は敵の上陸の意図が判明次第出撃し、ブルネイ又は比島中北部に進出補給の上、敵攻略部隊の上陸時に上陸地点に到着することを目途として出撃。友軍航空隊の圏内を進撃し、基地航空部隊の総攻撃に連携して敵機動部隊の攻撃を排除しつつ進撃。まず突入を阻止しようとする敵水上部隊と決戦してこれを撃滅し、その後上陸地点にて敵船団及び上陸軍を攻撃撃滅する。
- 機動部隊本隊は第一遊撃部隊に呼応して出撃し、敵機動部隊を北東に牽制して第一遊撃部隊の突入を容易にしつつ、敵機動部隊の一翼に対して攻撃を行う。敵補給部隊を発見し、これへの奇襲攻撃に成算がある場合はこれを撃滅する。
- 母艦航空部隊は状況によっては基地航空兵力として展開、作戦参加する場合がある。
- 状況によっては飛行機を搭載していない空母を随伴させ、牽制機動させる場合がある。その際は特令をもって指示する。
- 当初計画する各隊兵力配置
- 一、第一兵力部署
指揮官 | 所属部隊 | 兵力 | 主要任務 |
---|---|---|---|
小沢治三郎 | 機動部隊本隊 | 第三艦隊 ・第一航空戦隊(雲龍欠) ・第三航空戦隊 ・第四航空戦隊 |
一、訓練 整備 二、特令により一部作戦参加 |
栗田健男 | 第一遊撃部隊 | 第二艦隊 第十戦隊(一部欠) ・最上、秋津洲 |
一、敵機動部隊及び上陸兵団撃滅 二、海上機動兵団輸送又は護衛 三、海上交通保護 四、訓練整備 |
志摩清英 | 第二遊撃部隊 | 第五艦隊 第十一水雷戦隊 第六十一駆逐隊(涼月欠) ・雪風、扶桑、山城 |
一、敵機動部隊及び上陸兵団撃滅 二、海上機動兵団輸送又は護衛 三、海上交通保護 四、訓練整備 |
- 注、本部署は8月下旬までとし、特令を以て第二兵力部署に移行する
- 二、第二兵力部署
指揮官 | 部隊名 | 所属部隊 | 兵力 | 主要任務 |
---|---|---|---|---|
小沢治三郎 | 甲部隊 | 機動部隊本隊 | 第一航空戦隊(雲龍欠) | 一、敵機動部隊及び上陸兵団撃滅 二、海上機動兵団輸送又は護衛 三、海上交通保護 四、訓練整備 |
大林末雄 | 乙部隊 | 第三航空戦隊 | ||
松田千秋 | 丙部隊 | 第四航空戦隊 | ||
志摩清英 | 第二遊撃部隊 | 第五艦隊 ・第二一戦隊 ・第一水雷戦隊 第十一水雷戦隊 第六十一駆逐隊 最上 | ||
栗田健男 | 第一遊撃部隊 | 第二艦隊 第十六戦隊 第十戦隊(駆逐艦2欠) 扶桑、山城、秋津洲 |
- 注1、特令により、8月下旬頃本兵力部署に移行す
- 注2、捷号作戦緊迫すれば、特令により第三兵力部署に移行す
- 三、第三兵力部署
指揮官 | 部隊名 | 所属部隊 | 兵力 | 主要任務 |
---|---|---|---|---|
小沢治三郎 | 乙部隊 | 機動部隊本隊 | 第三航空戦隊 第五艦隊 ・第二十一戦隊の駆逐艦2欠 ・第二十一駆逐隊欠 第十一水雷戦隊 第六十一駆逐隊 最上 |
一、敵機動部隊及び上陸兵団撃滅 二、海上機動兵団輸送又は護衛 三、海上交通保護 四、訓練整備 |
松田千秋 | 丙部隊 | 第四航空戦隊 第二十一戦隊の駆逐艦2 第十一水雷戦隊より駆逐隊1 第二十一駆逐隊 | ||
栗田健男 | 第一遊撃部隊 | 第二艦隊 第十六戦隊 第十戦隊(駆逐艦2欠) 扶桑、山城、秋津洲 |
- 注、本兵力部署は8月下旬以降捷号作戦に於いて、主に本隊航空機動戦実施中に適用する
- 四、第四兵力部署
指揮官 | 部隊名 | 所属部隊 | 兵力 | 主要任務 |
---|---|---|---|---|
小沢治三郎 | 乙部隊 | 機動部隊本隊 | 第三航空戦隊 第十一水雷戦隊 第六十一駆逐隊 最上 |
一、敵機動部隊及び上陸兵団撃滅 二、海上機動兵団輸送又は護衛 三、海上交通保護 四、訓練整備 |
隼鷹艦長 | 丙部隊 | 航空母艦「隼鷹」「龍鳳」 六三四航空隊の大部分 第十一水雷戦隊より駆逐艦3 |
一、航空機動戦 二、水上戦闘部隊推進援護 | |
栗田健男 | 第一遊撃部隊 | 第二艦隊 第十六戦隊 ・第十戦隊(駆逐艦2欠) 扶桑、山城、秋津洲 |
一、敵機動部隊及び上陸兵団撃滅 二、海上機動兵団輸送又は護衛 三、海上交通保護 四、訓練整備 | |
待機部隊 | 出撃不能の各部隊艦 | 一、訓練整備 二、待機 | ||
補給部隊 | 編成は別令 |
- 注、本兵力部署は8月下旬以降捷号作戦に於いて主に本隊水上戦闘実施中に適応する
となっていた[19]。
機動部隊本隊の作戦準備
機動部隊本隊にはこの時点で空母は瑞鶴・瑞鳳・龍鳳・隼鷹・千歳・千代田の6隻に航空戦艦が伊勢・日向の2隻。これに8月上旬に雲龍・天城が、10月中には信濃が完成予定であり、日本が予想していた米軍侵攻期日である11月中に艦隊戦力はある程度揃う予定だった[20]。しかし艦載機と搭乗員の補充錬成が間に合うかは絶望的な状況であった。
それでも8月10日より急速錬成が開始された。その再建目標は
- 第一航空戦隊:雲龍・天城・第六〇一海軍航空隊294機(再建目標12月)
- 第三航空戦隊:瑞鶴・千歳・千代田・瑞鳳・第六五三海軍航空隊182機(再建目標10月)
- 第四航空戦隊:伊勢・日向・隼鷹・龍鳳、第六三四海軍航空隊132機(再建目標8月末)
とされた。錬成は飛行機補充の遅滞などで遅れ気味ではあったが、それでも第三・四航空戦隊で9月末までに240機の航空戦力が作戦可能になる目途がついていた[21]。
要領では機動部隊本隊は敵機動部隊を北東方面におびき出し、それが敵全体またはその一部のどちらかであっても空母対空母の決戦を挑むとされ、機動部隊をあくまでも攻撃戦力として使うことが示されていた[22]。また作戦では、小沢中将の指揮する第一機動艦隊が全般の作戦指揮を行うようになっていた。しかし当の小沢中将自身はこのままでは第一遊撃部隊と機動部隊本隊は2600浬も離れて行動することになり、実際の作戦指揮は不可能だと考えていた。そこで小沢中将は9月10日、以下の点を連合艦隊司令部に意見具申し、第一遊撃部隊の第一機動艦隊の指揮下からの離脱と連合艦隊の指揮下への編入、第一遊撃部隊の戦力強化を意見具申した[23]。
- 作戦上、第一機動艦隊が第一遊撃部隊を指揮するのは不可能。機動部隊本隊、第一遊撃部隊、第二遊撃部隊とに区分し連合艦隊にして指揮統率するのを妥当とする
- 機動部隊(本隊と第二遊撃部隊)の作戦は、現状では所望の時期に機動作戦成果を上げて第一遊撃部隊の作戦を必成させるのは至難
- 第一遊撃部隊の突入を必成させるためには同部隊の水上戦力強化と直接協力するべき航空戦力の確保が必要
- そのため機動部隊本隊は牽制機動を主任務とし、第一遊撃部隊には航空戦隊を1個、及び第二第十戦隊を早急に配属すべき
- 第一航空戦隊の再編が間に合えば、機動部隊本隊の兵力を充実し南北からの二個機動部隊の作戦とするべき
しかし連合艦隊司令長官豊田副武大将は9月中旬、参謀高田利種少将を派遣し小沢の統一指揮を要望した。小沢は賛同せず議論は平行線となった。この問題は10月の台湾沖航空戦で、機動部隊本隊の航空兵力を陸上基地に転用してしまい、艦載機が120機ほどしかない状態で捷号作戦に挑む羽目になったことで、機動部隊本隊が攻撃主力を担う事が不可能となったため、第一遊撃部隊が機動部隊から離れて連合艦隊直率となり、指揮権に関しては小沢の進言通りになることとなった[注釈 10][24]。
第一遊撃部隊への作戦説明
この時期、第一遊撃部隊はリンガ泊地にいた。マリアナ沖海戦の失敗後、6月23日に内地に帰還した同隊は次の作戦指示を待ちつつ出撃の準備を行っていた。第二艦隊参謀長小柳富次少将は上京し、空母部隊が壊滅した現状に於いて今後第一遊撃部隊をどう作戦させるのか中央の意向を確認し、それに合わせた作戦準備と訓練を行おうとした。しかし大敗直後の軍令部はごった返して今後の作戦方針の見通しも立っておらず、連合艦隊司令部に出向いても同様であった。この際小柳は、かねてから懸案されていた第一遊撃部隊の旗艦について、大和型戦艦に変えたいと希望を述べたが賛同を得られなかった[25]。
小柳帰着後の6月28日、連合艦隊と第一機動艦隊より第一遊撃部隊のリンガ泊地進出の内意を受けた。未だ次期作戦の詳細は決まっていなかったが燃料の不足する内地に居続けるより豊富なリンガ泊地に移動して次期作戦に備えて訓練に励む方が良いと判断されたのである。遊撃部隊は7月1日より南方に向けた輸送物資人員の搭載を行い随時進発、第一戦隊にはビルマに派遣される歩兵第百六連隊及び大東島に至った歩兵第三六連隊を乗せ7月8日に出撃した[26]。
連合艦隊は8月1日、旗艦大淀にて内地在泊の各部隊司令官や参謀長・各艦長らを集めて作戦会議を開いたが、第一遊撃部隊はリンガ泊地にいたので参加できなかった。このため連合艦隊参謀神重徳大佐と軍令部参謀榎尾義男大佐がマニラに飛び、南西方面艦隊司令部にて三川軍一司令長官以下司令部要員、第一遊撃部隊からも小柳と作戦参謀大谷藤之助中佐がマニラまで来て、8月10日に会議を行った[27]。
第一遊撃部隊を船団攻撃のためレイテ湾に突入させるという作戦を聞いた小柳は、神と以下の議論をしたと証言している[28][29]。
小柳 第二艦隊参謀長
- 「この計画は、敵主力の撃滅を放擲して、敵輸送船団を作戦目標とするものである。我々はあくまで敵主力の撃滅をもって第一目標となすべきものと考えている。敵の港湾に突入してまで輸送船団を撃滅しろというのなら、それもやりましょう。いったい連合艦隊司令部はこの突入作戦で水上部隊を潰してしまってもかまわぬ決心か」
神
- 「比島を取られてしまったら、南方は遮断され、日本は干上がる。そうなっては艦隊を保存しておっても宝の持ち腐れである。どうあっても比島を手放すわけにはいかない。したがって、この一戦に聯合艦隊をすり潰しても、フィリピンを確保できるのなら、あえて悔いはない。」
小柳
- 「連合艦隊長官がそれだけの決心をしておられるのなら、よくわかった。ただし突入作戦は簡単に出来るものではない。敵艦隊はその全力を挙げてこれを阻止するであろう。したがって、好むと好まざるとを問わず、敵主力との決戦なくして突入作戦を実現するなどということは不可能である。よって、栗田艦隊はご命令どおり輸送船団を目指して敵港湾に突進するが、途中、敵主力部隊と対立し、二者いずれかを選ぶべきやという場合には、輸送船団をすてて、敵主力の撃滅に専念するが、差支えないか?」
神
- 「差し支えありません。」
小柳
- 「このことは大事な点であるから、よく長官に申し上げてくれ。」
神
- 「承知しました。」
- (小柳冨次『栗田艦隊〜レイテ沖海戦秘録』より)
この後、翌11日まで南西方面艦隊司令部員と打ち合わせが行われ、リンガ泊地に帰着後翌日に第一遊撃部隊所属の司令官・艦長らに作戦説明が行われた[30]。従来の方針から大きく異なる水上艦艇による輸送部隊攻撃の作戦に現場指揮官達は唖然とし、不満、非難の声がでたが、それを抑えて泊地内に突入して攻撃することを念頭に置いた訓練計画を作成。小柳の陳述では下記の5種に区分して実施したと述べている[31]。
- 湾内投錨艦船への攻撃法
- 夜戦訓練
- 対空戦闘訓練
- 電探射撃訓練
- 夜戦での星弾使用法
それでも指揮官たちの中には輸送船団攻撃で水上部隊をすり減らすことに納得していない者もおり、例えば第一戦隊司令宇垣纏中将は、自身の日誌『戦藻録』の9月20日の記述で、自身の座乗する戦艦大和に小柳と参謀山本祐二大佐が来艦したので、自身の意見として「輸送船団を攻撃するよりも敵主力部隊との決戦を模索すべき」と述べたと記述している[注釈 11]。こうした現場指揮官たちの不満を抑えながら、今まで前例のない任務に向けての訓練を実施しつつ、当日を迎えることとなった。
なお、連合艦隊と第一遊撃部隊は、8月10日の作戦説明以降は会合の機会を得ぬまま10月18日の作戦発動を迎えた。そのため作戦内容に対する問題提起などを第一遊撃部隊側からは行うことは難しかった。一方、直接の上級司令部であり、内地にある第一機動艦隊より、前述のように小沢の名で9月10日に意見具申が行われ、その中で第一遊撃部隊の水上戦力の強化と、直接航空支援を行う航空戦隊1個の配属の要望がなされた。しかし水上戦力の強化は第二戦隊(戦艦山城・扶桑)と本来機動部隊の護衛部隊として編成されていた第十戦隊(旗艦矢矧、第17駆逐隊[注釈 12])の第一遊撃部隊への編入が行われたのみで、その後の戦局の緊迫もあり航空戦隊の配属は遂に認められなかった。
第二遊撃部隊の作戦準備
マリアナ沖海戦において投入が予定された第五艦隊は6月17日、待機する大湊から横須賀への移動が命じられ、艦隊司令長官志摩清英中将は直ちに準備を開始、19日に大湊を出港して横須賀に向かった。旗艦那智を先頭に第二十一戦隊[注釈 13]、木村昌福少将指揮の第一水雷戦隊・第十八駆逐隊[注釈 14]が出撃、3日遅れで第七駆逐隊[注釈 15]・第二十一駆逐隊[注釈 16]が出港する[32]。21日豊後水道に入った同艦隊は作業船と接触、同船に乗り込んだ工員たちは第五艦隊各艦に乗り込むと航行しながら工事を開始し対空火器を次々と増設、旗艦の那智は25mm機銃を約100丁も増設、艦橋上部には電探も搭載された[33]。しかし横須賀回航中に起こったマリアナ沖海戦とその後のサイパン島放棄により第五艦隊の投入は中止され、搭載予定だった陸軍部隊を小笠原諸島の父島と硫黄島に輸送して戦力増強をすることになり、同艦隊より木曾・多摩・初春・若葉が参加、第十一水雷戦隊(高間完少将指揮)と共に28日に東京湾を出港、「伊号作戦」とされたこの輸送作戦は成功し、7月3日に帰投した。
この様な状況の変化により第五艦隊の横須賀進出は解除され、電探装備工事の為残る阿武隈から木村は旗艦を薄雲に移し28日に出港、志摩も翌日には残りを率いて出港し7月1日には大湊に帰還した。しかし第五艦隊司令部は切迫した戦況から次の作戦には第五艦隊も投入されるだろうと推測し、陸奥湾において猛訓練を開始した[34]。
その後、第五艦隊は正式に第二遊撃部隊として第一機動艦隊の傘下に入り捷号作戦に参加することが決まる。しかしこの時艦隊は各地の船団護衛に出動しており、まず艦隊主力(第二十一戦隊・第一水雷戦隊)は7月31日より出港して機動部隊本隊の在泊する瀬戸内海に向かい8月2日には到着、作戦参加に向けての準備を開始。他に第七駆逐隊は8月12日、第二十一駆逐隊は13日、第二十一戦隊の木曾・多摩、第十八駆逐隊は14日にそれぞれの輸送任務を終えて到着している。また当初は横須賀方面海軍諸学校の練習艦を務めていた山城と、マリアナ沖海戦に出動せずにダバオに待機し続ける扶桑を第二遊撃部隊の直率として加える予定で、両艦とも9月5日からの第二遊撃部隊総合出動訓練に参加している。しかし小沢中将の第一遊撃部隊への編入が妥当の意見具申を受け、両艦と第一戦隊の長門を加えて第二戦隊を編成、第一遊撃部隊への配備が9月10日に決定する[35]。しかし長門の第二戦隊編入に関しては第一遊撃部隊や第一戦隊からの反対があり、結局第一戦隊の所属のまま当日を迎えた。
基地航空隊の作戦準備
水上艦隊が時期作戦に向けての急速錬成に入っているとき、同じように基地航空隊もその再建に奔走していた。マリアナ沖海戦では第一航空艦隊は未完成のままアメリカ軍の反攻を迎え撃ち壊滅。テニアンに司令部を置いていた同艦隊はテニアン玉砕と共に角田覚治中将以下司令部全員が戦死した。このため連合艦隊は8月7日、寺岡謹平中将を新司令長官に第一航空艦隊を再建し司令部をダバオに設置、航空戦力の増強と基地の整備に当たった[36]。寺岡中将は精力的に再建に取り掛かり、着任時は輸送機など含めて約300機程度だったのを9月8日には500機近くまで揃え、何とか戦力を整えた。
一方6月15日に新設された第二航空艦隊は、「捷号作戦部隊の主力部隊」と位置づけられ、第一航空艦隊と共に米機動部隊撃滅の任を与えられていた[37]。艦隊司令長官福留繁中将の元、九州南部で兵力整備に努めていたが、まだまだ実戦参加できる状況ではなかった。そのためフィリピン方面を防衛する航空部隊は一航艦しかいない状況であり、同艦隊に対する期待はいやが上にも高かった。しかしアメリカ軍は断続的にダバオに対して大型爆撃機やP-38などの陸上戦闘機で空襲を仕掛けて日本側の防衛体制確立を妨害し、飛行場の整備状況は良好ではなかった。部隊も空襲を受ける同基地に展開するには危険で、周囲のサンボアンガやセブ島、北フィリピンなどに分散して配置せざるを得ず[38]、実戦での作戦指揮に支障が出る恐れがあった。
アメリカ
守りに回った日本側の戦略目的がある意味で明快になりうる環境にあったのに対し、アメリカのフィリピン奪回のスケジュールは対日反攻が相当進展してからも紆余曲折を辿った。その理由は陸海軍、統合参謀本部などの主要指揮官の間の意見の違い、ヨーロッパ戦線との兵力配分、秋のアメリカ大統領選挙を睨んだ主要アクターの行動、対日戦終結後の中華民国の蔣介石政権支援のための大陸への兵力展開といった要素が絡んで考慮されたからであった。
1943年11月のカイロ会談で中部太平洋進攻とニューギニアからフィリピン方面への進攻の両者を進める方針が定まり、概略の順番も示されたが、優先度は中部太平洋の方が上であり、海軍作戦部長アーネスト・キング大将は中華民国との兼ね合いを重視してフィリピンよりは台湾より廈門に至るルートに拘りを見せていた。
1944年3月12日、キング海軍作戦部長、チェスター・ニミッツ太平洋艦隊司令長官兼太平洋方面最高司令官、そしてリチャード・サザランド南西太平洋方面軍参謀長などによる討議の後、統合参謀本部は当面の攻略予定を決めた。その中にはダグラス・マッカーサー南西太平洋方面最高司令官の推すハルマヘラ、ミンダナオなど、南西太平洋から南部フィリピンに至るものも含まれていた。
しかし6月の段階でも統合参謀本部はフィリピンを素通りしたい意向を示し、キングは上記2箇所への進攻を中止し、彼の持論である台湾へ進攻することを提案した。キングの方針は3月12日決定での中国本土接岸目標にも合致していた。
統合参謀本部は戦争終結を早めるべく、6月13日にマッカーサー、ニミッツの両者に対して
- 台湾攻略までの既定計画の促進
- 途中の目標を素通りして一気に台湾を攻略する
- 既定計画を中止し、日本本土攻略を含む新計画を策定
これら3つの案での対日進攻の再検討を命じた。
しかし、両者ともこれらの計画は急進的に過ぎると考えた。ジョージ・C・マーシャル陸軍総参謀長は6月24日、マッカーサーに沖縄進攻を提案した。その意図はマッカーサーの面子を潰さずに中国沿岸に接岸し、かつアメリカ本土に残されているヨーロッパ用の予備兵力をキングの台湾進攻案に使わせないためであった。だがマッカーサーはマーシャルの提案に反対し、統合参謀本部の案を更に短縮し、1945年5月ルソン島に進攻するレノ5号(Reno-V)計画を提出した。
マッカーサーは軍事的理由として、フィリピンは元々アメリカの植民地であり親米ゲリラの助力を期待できること、島嶼への海上進攻と比較し地上拠点も複数確保できることを挙げていた[注釈 17]。
だがキングはマッカーサー大将の提唱するレノ5号は対日戦早期終結に役立たないと批判した。一方、ニミッツは1945年2月に台湾南部に進攻するグラニット2号計画 (Granite-2) を持っていたが、既定路線の維持が妥当と考え、7月4日に統合参謀本部へ予定通りに進攻が進まなくても既定の作戦計画を遂行することと、マッカーサー大将の主張する機動部隊と陸上基地とを連携させた作戦が適切である旨の2点を回答した。その理由として
- サイパン攻略時の抵抗が予想より大
- 連合艦隊の脅威
- 日本陸軍の大陸での進撃による中国沿岸での作戦活動の困難
- 1月に既にキング大将に対して8月までの戦力の用意はあるが以降は補強が必要である旨を伝えたが
- マッカーサー大将の戦力を指揮下に置くことは期待できない
- オーバーロードの進展からして戦力が必要な時期までに太平洋に移動することは期待できない
を挙げている[39]。こうした意見を踏まえ、統合参謀本部は7月11日、ヨーロッパ情勢と絡め次の提案をし、パラオ占領(当時の予定では9月15日)とミンダナオ攻略の間に決定するとした。
- ドイツが打倒され、日本海軍を壊滅させた場合は日本本土への直接進攻(その際硫黄島、沖縄進攻を提起)
- ドイツ打倒も日本海軍撃滅もできていない場合にはミンダナオ→ルソン→台湾→沖縄→九州→本州の順に進攻
- ドイツを打倒していないが日本海軍を撃滅した場合はミンダナオを迂回
キングはこの後エニウェトクなどを視察、17日にサイパンには飛び、レイモンド・スプルーアンス第5艦隊司令長官、上陸戦の指揮を取っていたリッチモンド・K・ターナー第51任務部隊指揮官に次期進攻はどこが望ましいかを尋ねたたが両者ともフィリピンと答え、スプルーアンスはその理由としてサイパンのような島嶼よりも港湾向きの地形が多く、マニラ湾などを活用できることを挙げた。キングは理解は示しつつも、持論を棄てようとはしなかった[40][注釈 18]。
ハワイ会談
一方、フランクリン・ルーズベルト大統領はマッカーサーが共和党の大統領候補になることを警戒し、これまで余り手柄を立てさせないようにしてきた。しかし、マッカーサーは4月末に不出馬を宣言し、ルーズベルトは7月初旬の民主党大会で大統領候補に指名されることが確実となり、20日に指名を受けた。その後ルーズベルトは選挙遊説を行い、その一環として重巡洋艦ボルチモアでオアフ島ホノルルに赴いた[注釈 19]。
7月26日、現地資産家の邸宅で軍関係者を招いての夕食会を開き、その後ウィリアム・リーヒ陸海軍参謀長会議議長、マッカーサー、ニミッツの4者で会談をおこなった。 マッカーサーはミンダナオからレイテを経てルソンに至るコースを示して持論を述べ
- アメリカの植民地であったフィリピンはゲリラ協力が期待できる
- 一方台湾は半世紀も日本の統治下にありむしろ住民が日本側へ協力する
- キリスト教徒が多くを占めるフィリピンの住民は1942年に裏切られたと思っている
- フィリピンを見捨てることはアメリカの名誉に大きな汚点となる
などと述べて大統領にフィリピン侵攻を迫った。
ニミッツは台湾には固執していなかった。キングの提唱する台湾進攻には5〜10個の陸軍師団が必要と見られ、陸軍の協力が不可欠だったからである。マッカーサーはルーズベルトと会談後寝室に続く廊下で2人きりになった時、「国民の激しい怒りは、この秋の選挙時に閣下への反対票となって返ってくることになる」と脅した。これに対しルーズベルトは「フィリピンを迂回しない」ことを認め、「これからキングとやり合わねばならない」と述べた。会談はその後も同艦が出港する29日まで続いた。キング、スプルアンスの後任予定だったウィリアム・ハルゼー・ジュニア大将もそうした中で討議の一部には参加あるいは意識していた[41]。
結局台湾進攻とルソン進攻案との関係は後回しとされ、9月のケベック会談でウィンストン・チャーチル英首相と協議した結果により決める事になった。この会談に対し統合参謀本部は不満で、キングは即時台湾攻略を主張し、ニミッツに対して「人事を扱う航海局の出身だから妥協ばかりする」と怒りを露にした。一方で海軍内でもハルゼーはフィリピン攻略の意義を認める進言をし、前述のようにスプルーアンスやターナーが次期進攻目標としてフィリピンを推すなど、海軍も一枚岩ではなかった。いずれにせよフィリピン進攻決定は高度の政治性を含むものとなっていたのである[42]。
8月以降
8月に入りテニアン、グアムが相次いで陥落、マリアナ諸島を完全に占領したアメリカ軍は、ペリリュー島、ヤップ、タラウド諸島などが次の目標として見えてきた。
8月16日、マーシャルはスケジュールを短縮できると説明していたマッカーサーに計画の再提出を命じた。マッカーサーは作戦名称をマスケーティア(Musketeer )と改名し27日に計画を提出し[43][注釈 20]、この一部を統合参謀本部は採用した。キングはなおも台湾に拘りマッカーサーはレイテ、海軍と海兵隊は台湾を攻略するよう提案し、暗にレイテ上陸への非協力をほのめかしたが最終的にはレイテ上陸を後回しにすることで折れた。
9月9日、統合参謀本部はミンダナオ島攻略予定を11月15日、レイテ島を12月20日とし、それぞれ「キングⅠ」「キングⅡ」と命名した。が、その後ルソンと台湾のどちらに進攻するかは未定であった[注釈 21]。
キングII作戦では、作戦区域が南西太平洋軍と南太平洋軍が合流する位置にある事から、連合幕僚長会議(Combined Chiefs of Staff[44])は統一行動の為に指揮権の改定を行い、作戦の最高指揮官をマッカーサーとした。まずフィリピン周辺の広範囲に亘る日本軍拠点を攻撃して露払いを行い、その後レイテ島に上陸する。陸軍部隊の上陸作戦支援は、トーマス・C・キンケイド中将の第7艦隊が担当し、艦船による砲火支援、輸送艦船の護衛などを行なう。ハルゼーの第3艦隊もこれを掩護するということに決まった。
9月の情勢推移
8月29日、第3艦隊はエニウェトクより最初の出撃を行い、31日、第38任務部隊第4群が硫黄島を空襲し[45]、続いて小笠原諸島を襲った。9月4日、第3艦隊(ウィリアム・ハルゼー・ジュニア大将)が直接指揮する残りの3つの群はニューギニアのマヌス島から出撃し、9月6日よりパラオ周辺、続いてフィリピンを空襲(下記「ダバオ事件」の項参照)、第4群もヤップを叩きつつパラオに向かい、入れ替わりに空襲を加えた。ただし、この段階では日本軍はセブ島を中心に航空兵力を配置して敵の攻撃を控え、温存策をとっていた。このために150機分の囮が各基地に配置されていた。
一方、アメリカ軍は空襲と併行しながら9月15日、モロタイ島、ペリリュー島へ上陸した(ペリリューの戦い)。17日にはアンガウルに上陸した(アンガウルの戦い)。9月23日にはウルシー環礁を占領しており、後に後方の補給拠点として使用された。第38任務部隊はペリリュー、モロタイ上陸作戦を支援した後、小笠原諸島やヤップを空襲し、9月21日にはフィリピン・マニラを[46]、続いて沖縄を襲って日本軍機200機以上を破壊する戦果を挙げた[47]。
ダバオ誤報事件と「対機動部隊戦闘協定」
ダバオはアメリカ軍上陸の可能性が高いと見られており、捷一号作戦では敵来寇の第一候補地に挙げられていた。9月に入ると連日のようにビアク島の基地航空隊による空襲を受けるようになり、9日から10日にかけ第38機動部隊によるダバオを中心にミンダナオ島各所への空襲が行われた。
日本側は事前の空襲のため警戒を強めていたが、10日午前4時、一航艦司令部にサランガニ見張所が「湾口に敵上陸用舟艇が見える」と報告してくる。夜明けを待って偵察機で情報を確認することにしたが、夜明を待たずに現地の第32特別根拠地隊が具体的な続報を送ってきたため、寺岡謹平司令長官は航空機をセブ島に退避させ、司令部のバレンシア後退を指示する[48]。
しかし敵上陸に確信が持てなかった猪口力平首席参謀が、ダバオ第1飛行場に残った零戦で湾内を偵察するように指示、それとは別に201空副長玉井浅一中佐も零戦で偵察飛行をした結果、夕方になって敵上陸はまったくの誤報であることがわかり、「敵上陸の報告は全部取り消し」と慌てて全部隊に打電する事態となった[注釈 22][49][50][51][52][53][54]。この誤報によりセブ島に集中していた航空機はダバオに戻る事になったが、帰還の遅れた約100機が12日に空襲を受け、地上で80機を撃破されてしまっている[55]。後にこの事件は「ダバオ誤報事件」と呼ばれるようになった。
この戦いで日本側は一方的に攻撃を受けるだけで基地上空での邀撃戦に終始し、敵に打撃を与えることはできなかった。反面一航艦の実働兵力は250機から63機に激減し、艦船も駆逐艦皐月や水上機母艦秋津洲といった艦艇7隻、船舶31隻を損失、第一遊撃部隊の出撃時に補給する燃料としてマニラに準備する筈の燃料3万tも失われた[56]。陸軍のバコロド基地も同時にアメリカ軍艦載機の奇襲攻撃を受け、合計40機が撃墜・撃破されるという損害を被っている[57]。
現地陸軍を統括する南方総軍はこれら一連の攻撃からアメリカ軍が跳梁跋扈する現状を再認識し、従来の「航空隊は敵攻略部隊攻撃を優先する」という方針よりも、海軍と協力して米機動部隊殲滅を図る方が良いのではと考えが大勢を占めるようになり、大本営にその旨意見具申するが承認されるところまでには至らなかった。だが24日に中部フィリピンへの空襲が再度起こると第四航空軍に対して迎撃強化を下令するとともに機動部隊攻撃の必要性を再度意見具申した[58]。 大本営は当初は従来通り空母機動部隊への攻撃を控えるよう指示していたが、その後参謀を派遣して現地視察を行った結果、要望も無理からぬことと判断しこれを容認する[59]。
19日、第一航空艦隊と陸軍第四航空軍は現地協定「対機動部隊戦闘協定」を結び、陸軍航空兵力も敵機動部隊攻撃に使用することを可能とした。これにより「捷号作戦に関する陸海軍中央協定」で取り決められた攻撃目標の分担は形骸化する。
誤報騒ぎから始まる一連の戦闘により、マリアナ諸島などでの防衛作戦で受けた打撃から再建途上にあった一航艦は再び甚大な被害を受けた。また、激化するフィリピンへの攻撃からアメリカ軍がフィリピンに侵攻するのは間違いないと判断したが、正確な日程と地点を確信するには10月まで待たなければならなかった。
一方、ダバオ空襲を行っていたハルゼーは日本軍の反撃力が極めて弱く、またレイテ島に日本軍が存在しないという情報を得た[60]。13日、ハルゼーはニミッツにヤップ島及びパラオの攻略計画を取りやめ、日本軍の反撃力が回復しないうちにレイテ島を攻略することを進言した[61]。 ニミッツはこのうちヤップ攻略の取り止めに同意し、11日から英首脳との第2回ケベック会談に臨んでいたルーズベルト大統領、12日から開かれていた米英軍事会議に出席していたキングにこの意見を伝えた。マッカーサーも14日、タラウド諸島、ミンダナオ島迂回をマーシャル陸軍参謀総長に進言した。 ルーズベルトは攻略繰上げによる選挙戦への好影響も考慮してこの意見に同意し、上記2ヶ所に加えミンダナオへの上陸計画も取りやめとなった。15日、統合参謀本部は計画を2ヶ月繰り上げて10月20日にレイテ島を攻略することに変更し、ヤップ攻略用に準備されていた第24軍団が攻略部隊に繰り入れされた[62]。タイムスケジュールなどを改定したキングII作戦計画は9月26日付で第7艦隊、27日にはニミッツより第3艦隊にも通達された[63]。
台湾沖航空戦
第38任務部隊は南部フィリピン攻撃後、パラオ作戦の支援に第4群を残して残りの3群は一旦後退した。10月7日、マリアナ諸島の西で合流した同部隊はフィリピン奪回の陽動攻撃の意味も込めて10日に南西諸島を空襲、12日から14日には台湾を空襲。一連の戦闘を「フォルモサの戦い」としている[64]。日本の航空部隊は応戦し、アメリカ軍に多大な損害を与えたものと判断したが、実際はアメリカ軍はほとんど損害を受けておらず、逆に航空戦力が消耗しただけに終わった。そしてこの戦果誤認が、後の日本軍の艦隊総出撃という積極的な行動要因の一つとなる。第38任務部隊が陽動を行っている間の10月11日から15日にかけて、ニューギニアのホーランディアとマヌス島に集結していた上陸部隊は続々と出撃していた。
連合艦隊司令部は台湾沖航空戦の大戦果を信じ、引き続き基地航空部隊に敵機動部隊への攻撃を命じた。第一機動艦隊でも連合艦隊司令部からの「当分空母を作戦に投入しない」と言明されたことを受けて、練成途上の艦載機隊を基地航空部隊の指揮下に移して沖縄へ展開させ、戦場に投入した。また、敵残存空母を掃討するために、志摩清英中将の第二遊撃部隊を出撃させた。だが健在な敵機動部隊の反撃を受け第一機動艦隊派遣の航空隊は大打撃を受けてしまう。第二遊撃部隊は戦果誤報に気付いたため奄美大島へ撤退するが、その途上新たな反攻の予兆が見られたので、途中で台湾の馬公に向かわせ、所属を機動部隊から南西方面艦隊に移した。
日本軍の作戦計画への影響
上記のように捷号作戦計画の基本は1944年の7月から8月に立てられた。その中で小沢中将などの意向により機動部隊は艦隊戦における中核兵力という位置づけが維持され、侵攻が12月まで延期されればリンガに派遣した遊撃部隊も本土に戻し合同して大規模な迎撃作戦を発動したい意向があった。しかし、計画策定後に前線で立て続けに敗北を重ねたため、基地航空部隊、特に第一航空艦隊が壊滅的打撃をうけ、小沢機動部隊も台湾沖航空戦に投入し消耗してしまった。その結果、第一遊撃部隊と策応する航空戦力はほぼ枯渇し、予定した戦力と実際の戦力に大きなずれが生じた。さらに台湾沖航空戦の直後にアメリカ軍のレイテ侵攻が始まった。このため作戦計画を根本的に修正する余裕がなくなり、作戦発表時より小沢中将などから指摘され改善を求められていた『アメリカ軍機動部隊が防御する輸送船団に空の援護なしに突入するのは無理である』という問題を、何の対応策も行なわないまま実施することとなった。
また、空母航空戦力が消耗したため、第四航空戦隊に組み込まれていた隼鷹・龍鳳の当面の出撃が諦められた。また、第一航空戦隊を編成していた雲龍・天城は竣工して間がなく、訓練未了を理由に温存された。これらの戦備が完全に整っていればマリアナ沖海戦並の艦隊航空兵力によって牽制を行えたことになるが、実際には燃料の不足などによる搭乗員大量養成訓練の遅延、アメリカ軍の急激な反攻などにより台湾沖航空戦以前にも行われていた(或いは行わざるを得なかった)杜撰で刹那的な兵力投入での損耗などで、既に想定よりも大きく戦力は低下しており、同航空戦により止めを刺された形となった。更にこの航空戦での敗北による稼動機の激減が、航空機の体当たり攻撃、即ち特別攻撃隊投入決断への決定打となった。特別攻撃隊に関しては後述する。
10月23日以前
1944年10月 アメリカ軍上陸まで
1944年4月下旬、キングは潜水艦隊に対して、日本の輸送船を護衛する軍艦への積極的な攻撃を命じていた。以後、多数の駆逐艦、海防艦が撃沈され、ルソン海峡を中心とした通商破壊も月毎に激化した。また、護衛兵力の不足と船舶の合理的使用のため南方資源用の船団とフィリピン防衛用の兵力輸送船団は纏めて運行されたが不要な船舶までが危険海域を通過するようになった。9月に入るとハルゼーは日本側の航空兵力が弱体であることを察知し、第38機動部隊による空襲も加わった[65]。このため更に多数の船舶が沈められ、捷号作戦計画に基づいた事前の兵力展開にも支障がおきた。これが捷号作戦時の駆逐艦不足、作戦発令前後の遊撃部隊からの一部戦闘艦艇の引き抜き、油槽船との会合遅延・失敗などにつながった。原勝洋によれば計画段階では14隻存在した連合艦隊の随行油槽船は作戦発動時6隻(日栄丸・良栄丸・厳島丸・雄鳳丸・八紘丸・日邦丸)まで減少していたという。なお、9月末の作戦計画での敵情要約の全般情勢にて、アメリカ軍は「航空機と潜水艦による攻撃は甚大な損失を敵船舶に与えており、それ故に敵のフィリピン各部隊への兵站支援は大きな障害を抱えている」と述べており、攻撃の効果を認識している。
10月17日 - 22日
アメリカ軍の進攻
10月17日、レイテ島タクロバンから東に約100km程先に浮かぶ小島スルアン島に、第6レンジャー大隊D中隊が軽巡洋艦2、駆逐艦4、輸送駆逐艦8、掃海艇3の支援のもと、8時20分に上陸した[66]。日本側は6時50分に同島の海軍見張所から第一報が発信され、8時にも発信があったが、監視員程度しか駐留していない同島は簡単に制圧され連絡は途絶えた。同時刻にはマニラやダバオなどにも第38任務部隊第1群による空襲が、13時には台湾南部にB-29による空襲が行われた[67]。スルアンを占領した攻略部隊はレイテ湾への侵入を開始した。
現地部隊はアメリカ軍の接近を察知できず、スルアン島への上陸は寝耳に水だった。三川軍一中将は、麾下の第五基地基地航空部隊指揮官寺岡謹平中将に対して航空偵察を命じ、作戦発動を発令する。陸軍も第十六師団から情報参謀自ら偵察機に乗り込み、空中偵察を行うが天候が悪化して敵を発見できず、第四航空軍も偵察機を出すが敵を発見できなかった。それでも軍司令の富永恭次中将は各地での空襲状況からアメリカ軍の来襲は確実と考え、捷一号作戦の発動を要請している[68]。
対して南部フィリピン防衛を担当する第三十五軍は当初は海軍見張所からの情報を信じなかった。理由は
- レイテ方面は天候が悪く敵機が行動していない。
- 台湾沖航空戦での大戦果が報告された直後だったので敵の上陸作戦は考えられない。
- ダバオ誤報事件の二の舞を演じていないか。
というものであり、第十六師団の敵情偵察の報告もその疑念を深くさせていた[69]。現地の第三十五軍が襲来するアメリカ攻略部隊を発見できなかったことに関しては、レイテ湾は南北130km、東西60kmにもおよぶ大湾であり、悪天候下では偵察機が広大な湾内をくまなく捜索するのは困難なことと、沿岸の監視所も同様であったことも要因である。
元々日本軍はアメリカ軍の侵攻ルートを
- ルソン本島への直接上陸
- ミンダナオ島を経由しての本島上陸
- レイテ島を経由しての本島上陸
のどれかだと推測していた。フィリピンの中枢であるルソン島に上陸するのは確実としても、その前に近くの手ごろな大きさの群島を攻略して前進拠点とすることは必至であろうと考え、日本側は進攻はミンダナオ島から、上陸はダバオを本命と考えていたのである。そのため、レイテは比較的上陸の脅威は低いと考えられ、配置された兵力も1個師団でしかなく、アメリカ軍がまずレイテ湾から侵入してきたことは日本の予想を裏切るものであった。
連合艦隊では司令長官の豊田副武大将が前線視察で台湾の高雄におり、参謀長の草鹿龍之介中将が通信情報や現地部隊の索敵情報などから敵は2部隊で進攻してきていると判断。沖縄寄りのをハルゼーの部隊、比島寄りの部隊をマーク・ミッチャー中将率いる部隊と考え、マッカーサーの攻略部隊も付近に存在していると判断した[70][注釈 23]。豊田大将はただちに「0809発GF軍令作特第14号 捷一号作戦警戒」を発令し、日吉の連合艦隊司令部でも26分後に同様に発令した[71]。
8時48分に潜水艦部隊への進出命令を皮切りに、連合艦隊より各部隊への出撃準備が命令される[72]。特に連合艦隊司令部から「今後当分空母は使用しない」という言明を受け、台湾沖航空戦に戦力を投入して磨り潰していた機動部隊本隊にとって、本作戦への参加の発令は寝耳に水だった。これは「敵機動部隊を牽制する作戦」というよりも、「機動部隊本隊は囮となる」と言っているに等しいからであった。
この場当たり的ともいえる連合艦隊司令部の作戦指導に、機動部隊司令部には憤懣やるかたない感情を抱く者もいた。小沢は囮とする着想は豊田大将の発想だと戦後アメリカの質疑に対して述べている[73]。だが出撃するにしても前衛として同伴する筈の第二遊撃部隊を台湾沖航空戦の残敵掃討で出撃させており警戒戦力が不足していた。そこで連合艦隊は対潜哨戒部隊である第三十一戦隊(司令官:江戸兵太郎少将)を機動部隊に急遽編入させ、第二遊撃部隊の代行をさせることにした[74]。
10月18日、中比方面の天候が回復し、レイテ島は終日に渡って敵艦載機の猛攻に晒された。第十六師団は「敵艦艇多数湾内に侵入せり」と打電する。14時からは艦砲射撃が始まっている。軍令部はこの時点では敵の意図を察することができず、本格的攻略作戦とは判断していなかった[75]。大本営はアメリカ軍が台湾沖の大敗北を隠すために強引に比島を攻略してきたと判断し、陸海両総長はただちに参内して作戦の発動を上奏した[76]。上奏は裁可され、17時1分に捷号作戦を比島方面の一号とする総長指示が関係各部隊に通報、17時32分に連合艦隊司令部より「捷一号作戦発動」が発令された[77]。豊田司令長官は台湾を離れて内地に向かうが、悪天候で大村に不時着し、20日になってようやく日吉に帰着している。
その20日7時、戦艦ミシシッピー、ウエストバージニア、メリーランド他、駆逐艦6隻による艦砲射撃と艦載機による空爆が始まり、9時43分にはロケット砲装備の上陸用舟艇の先導のもと約300隻の大部隊が北のタクロバン、南のドラッグに分かれて上陸を開始した[78]。これに対して牧野四郎第十六師団長は主力をドラッグ正面に置き、タクロバンには師団司令部や後方施設を配置させていた。そのためアメリカ軍が予想に反してタクロバンにも大兵力を投入してきたので混乱を生み、21日には早くも師団司令部をタガミに後退させた[79]。一方アメリカ軍のこの上陸での戦死者は49名であった。マッカーサーは20日の14時に新しい軍服にフィリピン軍元帥の軍帽をかぶってタクロバン南方に上陸し、有名な「私は帰ってきた」の解放演説を行い、軽巡洋艦ナッシュビルに戻った[注釈 24][80]。
23日、第十六師団は上陸部隊の攻勢を支えきれず、ついに南北の防衛線が突破され、歩兵第20連隊長の鉾田慶次郎大佐、歩兵第33連隊長の鈴木辰之助大佐が戦死、上陸から3日で基幹の3個歩兵連隊の長のうち2名を失うという大打撃を受けてしまう。そのため戦線は崩壊し、アメリカ軍はピカス、サンパブロまで進出した[81]。
第一遊撃部隊の出撃準備
10月18日の時点で日本側の作戦計画は当初の予定と大きく違ってしまい、ブルネイで第一遊撃部隊に補給する燃料が欠乏していた。そこで軍令部は2日にシンガポールを進発し、日本に向け南シナ海を航行していたヒ76船団を連合艦隊の指揮下に移し、作戦用燃料を確保したい意向を陸軍に示した[82]。この突然の申し出に陸軍が反対し、海軍と折衝を続けた結果、20日の昼に同船団の黒潮丸・東邦丸を海軍指揮下に置く代わりに本土の海軍用燃料15,000キロリットルを一般用に放出することが取り決められた。この際陸軍は制空権が敵にあることを理由に艦隊の突入自体に反対し、現存艦隊主義をとって、船団についてはフィリピンが落ちたあとのことを考慮して本土に油を還送するべき旨を主張したという[83]。
第一遊撃部隊は16日の通達で6隻の油槽船の編入の通告を受けていたが、17日の警戒発令後も連合艦隊からは何ら指示はなかった。そこで栗田の判断でシンガポールにいた油槽船、雄鳳丸と八紘丸に燃料を満載のうえブルネイに回航するよう指示、その護衛として第4駆逐隊から満潮、野分を派遣した。また三亜にいた日榮丸に待機命令を出している[84]。
この時点で第一遊撃部隊には上陸地点への突入期日(X日)は22日と指示されていた[85]。しかし現状では22日中に突入することは不可能であった。そのため第一遊撃部隊は「24日夕刻に水道東口に到着予定」と状況を報告、連合艦隊へX日の変更を間接的に要請している[注釈 25]。[86][87]
シンガポールで修理中だった重巡洋艦青葉、軽巡洋艦能代には修理を中断してリンガ泊地に帰投、出撃に備えるよう指示がだされた。また比島沖で行動中だった第2駆逐隊の早霜、秋霜、パラオにいた駆逐艦時雨には直接ブルネイに向かうように指示がでている[88]。
第一遊撃部隊は予定通り18日1時にリンガ泊地を出撃する。この時点での第一遊撃部隊の編成は以下の通りである。
部隊名 | 指揮官 | 兵力 |
---|---|---|
第一夜戦部隊 | 栗田健男 | ・第四戦隊 ・第一戦隊 ・第二戦隊 ・第五戦隊[注釈 26][89] ・第十六戦隊 ・第二水雷戦隊 ・第二駆逐隊 ・第三十一駆逐隊 ・第三十二駆逐隊 |
第ニ夜戦部隊 | 鈴木義尾 | ・第三戦隊 ・第七戦隊 ・第十戦隊 ・第四駆逐隊 ・第十七駆逐隊 |
18日晩、大和の檣楼に一羽の鷹が留まり乗員がこれを捕獲する。縁起が良いと艦橋では喜ばれ、宇垣纏中将も日誌に態々「戦勝のマスコット」と記述している[90]。20日、米軍が上陸を開始。栗田艦隊は予定通りブルネイに向かい12時に全艦艇がブルネイに入港する。
突入計画の最終決定
ブルネイ到着後、第十六戦隊が第二遊撃部隊に編成替えとなり21日にブルネイより出港、第二遊撃部隊と落ち合うべくマニラに向かう[91]。しかし23日4時頃ルソン島西方でアメリカの潜水艦ブリームの雷撃で旗艦青葉が大破、航行不能となった青葉を鬼怒が曳航して夜にはマニラ湾に入港した。
到着後、連合艦隊より「爾後の作戦指導の腹案」を知らされ、X日は24日に変更された[92][注釈 27]。しかしブルネイには予定されていた油槽船が間に合っておらず、栗田の判断で手配した2隻が翌21日に到着する予定という状態で、24日の突入すら不可能となっていた[注釈 28]。
15時半頃、GF電令作第362号により第一遊撃部隊はX日が更に25日に変更になった事を知った[93][94]。翌21日11時20分、栗田の手配した油槽船雄鳳丸と八紘丸がブルネイに到着、直ちに燃料の補給が開始され22日5時までに補給は完了した。
X日が25日黎明と決定した事をうけ、栗田は17時に第一遊撃部隊各級指揮官および関係科長を旗艦愛宕に召集、レイテ突入の具体的要領が初めて指示された[95]。燃料未達による遅延で突入に時間的余裕がなくなったこともあり、全艦隊を一方向から進出させるよりも南北に分かれて進出することが決まった[注釈 29]。
そこで第二戦隊(司令:西村祥治中将)を基幹に航続力の劣る白露型、朝潮型の駆逐艦などから第三部隊が新たに編成され、4つある航路のなかで最短ルートのスリガオ海峡を通過する第四航路から進撃、残りの本隊は期日内に突入でき、敵制空圏にギリギリまで近づけるパラワン水道を通過する第二航路から進出することとなった[96][注釈 30]。
第三部隊の新設により、第一遊撃部隊は機密1YB命令作第4号にて編成及び突入計画を明示、これが今作戦における第一遊撃部隊の最終的な行動計画となった[97]。
機密1YB命令作第4号 ※()内は編集者注1,任務
- 連合艦隊電令作第363号に基づき基地航空部隊、機動部隊本隊と協同 10月25日黎明時「タクロバン」方面に突入 まず所在海上兵力を撃滅次いで敵攻略部隊を撃滅す
2,軍隊区分
- ・第一夜戦部隊(指揮官:栗田健男)
- 兵力:第四戦隊、第一戦隊、第五戦隊、第二水雷戦隊(二駆、三十一駆、三十二駆)
- 主要任務:一、敵水上部隊撃滅、二、敵船団及び上陸軍撃滅
- ・第二夜戦部隊(指揮官:鈴木義尾)
- 兵力:第三戦隊、第七戦隊、第十戦隊(十七駆、三番隊[注釈 31])
- 主要任務:一、敵水上部隊撃滅、二、敵船団及び上陸軍撃滅
- ・第三夜戦部隊(指揮官:西村祥治)
- 兵力:第二戦隊、最上、四駆、時雨
- 主要任務:一、敵船団及び上陸軍撃滅、二、敵水上部隊牽制攻撃
3,作戦要領
- 第一遊撃部隊の主力を以て10月22日8時ブルネイ出撃 10月24日日没時サンベルナルジノ海峡を突破しサマール島東方海域において夜戦により在敵水上部隊を捕捉撃滅後 10月25日黎明タクロバン方面に突入し敵船団及び上陸軍を殲滅す
- 第三部隊は指揮官所定によりブルネイ出撃 分離行動し10月25日黎明時主力と策応してスリガオ海峡よりタクロバン方面に突入し 敵船団及び上陸軍を撃滅す
会議後、第一遊撃部隊は連合艦隊及び関係各部隊に対して行動予定を通達(ラブアン基地機密212053番電)する。内容は機密1YB命令作第4号に準じたものであるが、泊地突入はX日4時と、より細かい行動報告[注釈 32]となっている[98]。
機動部隊本隊の出撃
17日の捷一号作戦警戒の報を受けた際、骨抜き状態だった機動部隊本隊は19日には出撃するよう通知を受け空母搭載兵力の確保を急いだ。当時司令部は大分基地にあったが、直ちに麾下の部隊に集結を命じ、艦載機も練成未了で台湾沖航空戦に出撃しなかった六〇一空から空母の発着経験のある者と、台湾進出に間に合わなかった六五三空・六三四空の残余機を含めて116機を確保した(内訳:零戦五二型52機・零戦爆装28機・天山艦攻25機・九七式艦攻4機・彗星艦爆7機)[99]。部隊は18日から19日夕刻にかけて大分沖と八島沖に分かれて集結し、呉からの燃料補給を受けて出撃準備を済ませた。第二遊撃部隊の代打として配属された第三十一戦隊は整備中であった軽巡洋艦五十鈴および駆逐艦秋風・桐に出動を指示、五十鈴と桐は19日までに進出したが秋風は間に合わず、機動部隊の補給部隊(油槽船2隻・海防艦6隻)に回された[100]。
機動部隊本隊の編成・軍隊区分は以下の通りとなる
部隊名 | 指揮官 | 兵力 | 主要任務 |
---|---|---|---|
主隊 | 小沢治三郎 | ・第三航空戦隊 ・第四航空戦隊 |
敵機動部隊撃滅・牽制・機動 ※主に航空戦を担当 |
巡洋艦戦隊[注釈 33] | 山本岩多[注釈 34] | ・多摩 ・五十鈴 |
敵機動部隊撃滅・牽制・機動 ※主に警戒を担当 |
警戒隊第一駆逐連隊 | 江戸兵太郎 | ・第三十一戦隊 | |
警戒隊第ニ駆逐連隊 | 天野重隆 | ・第六十一駆逐隊 ・第四十一駆逐隊 | |
補給部隊 | 山崎仁太郎[注釈 35] | ・秋風 ・油槽船2隻 ・海防艦5隻 |
補給 |
19日13時より、機動部隊本隊の各級指揮官が旗艦瑞鶴に集まり作戦の打ち合わせが行われた[102]。20日早朝より艦隊は伊予灘に出動し艦載機を収容、9時30分に小沢提督は関係部隊に機動部隊本隊の行動予定を打電する[103]。豊後水道を通過時に連合艦隊よりX日が25日に変更されたことを知らされたが予定通り行動することにする。
艦隊は21日より艦載機による偵察を開始、天山艦攻9機が出動するが1機が未帰還、1機が天候不良で沖縄に不時着後23日に帰還した。 22日、引き続き航空偵察を実施しつつ、瑞鶴や瑞鳳・千代田・大淀から小型艦艇への洋上補給が実施されるが、訓練未熟もあり計画通りの補給ができなかった艦もあった。一方の航空偵察も敵を発見できず、しかも出動した14機中5機が未帰還となった[注釈 36]。
第二遊撃部隊の出撃準備
台湾沖航空戦の残敵掃討に出動していた第二遊撃部隊は17日に奄美大島に入り補給を開始した。入港に先立ち志摩清英中将は捷一号作戦警戒発令と機動部隊本隊の作戦参加を知るが、第二遊撃部隊への今後の作戦行動については特に指示が無かった。そこで同日夜半、連合艦隊に対して第二遊撃部隊独自の作戦要領[104]を打電するが回答は得られなかった。翌18日に艦隊は当初の指示に従い馬公に向かうが、その途上で第十六戦隊の第二遊撃部隊への編入と機動部隊本隊から南西方面部隊への所属替え、高雄で補給の上マニラへ進出するように命令を受ける[105]。艦隊は直ちに高雄に進路をとるが、夕刻には南西方面艦隊より馬公に待機するよう指示が出て再度馬公に向かう。以後第二遊撃部隊の使い方に関して連合艦隊と南西方面艦隊とで異なった指令が飛び交い、同隊を混乱させた。馬公で補給の上、20日に内地を出撃する機動部隊本隊へ復帰するべきであるという意見が艦隊内でもでた。しかし20日8時30分に馬公入港直後に連合艦隊から「第二遊撃部隊は南西方面部隊指揮下に入り海上機動反撃作戦を決行せよ」との命令を受け、機動部隊本隊復帰はご破算となる[106]。
馬公入港後、三亜から移動してほぼ同時に入港した良栄丸より給油を受けた。しかし第二遊撃部隊をどう使用するかについて中々決定をみず、その間に第二航空艦隊から駆逐艦3隻の高雄への派遣要請を受け、第21駆逐隊(初春・若葉・初霜)を割くことになる[107]。結局第二遊撃部隊がレイテ湾に突入することが決まったのは21日午後となった。南西方面部隊から23日までにマニラ進出を命じられた志摩中将は16時に馬公を出港するが、この時点で第二遊撃部隊は第一遊撃部隊の行動予定の詳細は知らされていなかった。21日夜半にようやく通報を受けるがマニラによっていたら時間の余裕があまり無いことが判明し、行き先を油槽船日榮丸が居る筈のコロン湾に変更する[108]。22日朝、連絡書を載せた水偵をキャビテに向け発進させた。連絡書の中には栗田艦隊へ向けた行動予定書も含まれていたのだが連絡は叶わなかった[109]。同隊は23日18時にコロン湾に入るが期待の油槽船の姿は無く、やむなく重巡洋艦から駆逐艦に燃料が分配される[110]。
23日12時以降、第二遊撃部隊の編成・軍隊区分は以下の通りとなる
部隊名 | 指揮官 | 兵力 | 主要任務 |
---|---|---|---|
本隊 | 志摩清英 | ・第二十一戦隊 ・第一水雷戦隊 ・ 第七駆逐隊 ・第十八駆逐隊 ・第二十一駆逐隊[注釈 37] |
敵攻略部隊撃滅 |
警戒部隊 | 左近允尚正 | ・第十六戦隊 ・輸送艦5隻 |
オルモックへの兵員・物資輸送 |
こうして第二遊撃部隊は燃料にいささかの不安を残しながら、予定通りの24日2時にコロン湾を出撃、西村部隊の後方から進撃を開始した。
アメリカ軍の準備状況
侵攻を開始したアメリカ軍はこの時期の他の戦いと同じく、充実した体制が組まれていた。第38機動部隊は10月6日にウルシーを出港してから、1945年1月のリンガエン湾上陸支援と通商路攻撃を終えるまでの約16週間海上にあった。各艦は少なくとも85日は洋上に留まり、根拠地などに錨をおろすことはなかった。また、第3艦隊の各部隊は概ね15ノット前後での移動が多かったが、25日の作戦行動など、必要とあれば25ノット以上の速力も選択していた。戦術レベルでは同日第34任務部隊で大型艦から小型艦に給油を行うため数時間速度を落とさざるを得なくなる場面などがあったが、後方の港湾まで後退するようなことはなかった。
この長期に亘る洋上行動を支えたのは、強力な役務部隊である。これは艦隊用タンカー34隻・護衛空母11隻・給兵艦6隻・貨物船7隻・駆逐艦19隻・護衛駆逐艦26隻・外洋タグ10隻の計113隻に及ぶ。アメリカ海軍はこれを10〜12のグループに分割し、日本軍の哨戒圏外に補給点を設定、ウルシーとの間を往復させていた[注釈 38]。
一方、日本側は補給点を発見することはできなかった[112]。補給点はミック(MICK)と呼ばれ東経130度、北緯15度の海上にあった。この他にも補給点は設定されており、本作戦では6つあった。本作戦の兵站計画によれば、需品の供給もニューギニアに設けた後方拠点などに数ヶ月分が備蓄されていた。
基地航空隊及び陸軍航空隊の行動
19日、新たな第一航空艦隊司令長官に大西瀧治郎中将が着任し寺岡中将と交代する。同日アメリカ艦隊がレイテ湾に現れたことを受け、13時30分、クラーク基地を出撃した彗星1、爆装零戦4の攻撃隊がレイテ方面の敵艦隊を攻撃し陸軍航空隊も反撃を開始、護衛空母サンガモン他1隻が損傷している。21日には神風特別攻撃隊が初出撃するも未帰還機1機を出して敵情を得なかった[113]。22日・23日は攻撃作戦は実施しなかった。
第4航空軍司令部では敵発見の報に疑問を持つ参謀もいたが、富永恭次司令官は大本営の戦果報道は過大であると疑っていたこともあり、連合軍によるレイテ島への本格的な上陸作戦と判断する。指揮下の第2飛行師団にレイテ島西のネグロス島に進出して迎撃準備をするよう命じたが[114]、第2飛行師団では師団長負傷交代により混乱していて準備に数日を要してしまい[115]、第4航空軍は手持ちのわずか50機で連合軍の大艦隊を迎え撃つことになってしまった[116]。
19日に20機、20日には14機の攻撃機が出撃した[117]。20日には飛行第62戦隊の重爆撃機6機が[118]、軽巡洋艦ホノルルを雷撃して大破(戦死約60名)させている[119]。21日にも富永は出撃を命じ、第6飛行団が重巡洋艦オーストラリアを攻撃、被弾した1機がそのまま体当り[120]を行い艦橋に命中、艦長と副官を含む30名が焼死している[121][122]。
10月23日
第四戦隊の壊滅
10月22日8時、第一遊撃部隊主力(第一部隊・第二部隊)はブルネイを出撃、期日に余裕が無いため危険が予想されたパラワン水道を通過するコースを取る[123]。少し遅れて第三部隊(通称:西村部隊)が15時30分にブルネイを出撃、スリガオ海峡を通過するコースを取る。7時47分、ニミッツ大将はハルゼー大将に対し日本の機動部隊が20日に日本を出航したことを連絡する[124]。深夜、潜水艦シードラゴンが空母を攻撃し損害を与えたと報告する[125][126]。同じく潜水艦シャークが7隻からなる敵艦隊発見をハルゼーに報告[126]。潜水艦アイスフィッシュも前日9時30分に重巡洋艦2隻、駆逐艦3隻発見と報告する[127]。だがこれは10月20日にマニラを出航し、高雄市に向かっていた輸送船団だった。
出撃した第一遊撃部隊は18ノットに増速し対潜哨戒を厳にした。14時31分に能代、15時35分に高雄、17時35分に愛宕がそれぞれ潜水艦発見を報じたが流木の誤認だった。17時52分には対潜哨戒中の九六式陸上攻撃機から敵潜水艦発見の報を受けている[128]。
10月23日0時、パラワン水道の入り口に達する。この直前に大和田通信隊より敵潜水艦の緊急通信を探知した旨の報告があり、司令部は全艦に通報、対潜警戒を一層厳重にする[129]。1時16分パラワン水道を航行中の栗田艦隊をちょうど会合中であった潜水艦ダーター とデイスがレーダーで発見した[130]。2隻はこれを司令部に報告すると接近を開始する。
6時32分、ダーターは愛宕に対し艦首発射管から魚雷6本を発射[131]、それから急旋回して高雄に対し艦尾発射管から魚雷4本を発射した[132]。この時愛宕は総員配置につきながら早朝訓練を実施していた。乙字運動後の定針直後の6時33分、艦首に1発、続けて中央に2発、遅れて後部に1発の魚雷計4本が命中する[133]。ダーターの攻撃ポイントが愛宕に非常に近く愛宕乗員は誰一人として潜望鏡も雷跡も発見報告できなかった[注釈 39]。艦長の荒木伝大佐は被雷後直ちに左舷注水区画などへの注水を命じるが傾斜を止めることはできず機関も停止、栗田は旗艦変更を決断する。駆逐艦岸波、朝霜が駆けつけてくるが愛宕の傾斜は23度を超えており横付けは不可能だった。愛宕の傾斜はなおも止まらず54度に達したので荒木は艦の復旧は不可能と判断し総員退艦を指示、栗田ら司令部要員も海に飛び込み泳いで岸波に移乗するが[134]、この際小柳参謀長が右上腿部を負傷した。6時53分に愛宕は沈没、機関長以下360名が戦死。艦長以下492名が朝霜に、221名が岸波に救助された[135]。
愛宕の被雷後、後続していた高雄は直ちに取舵を行い、愛宕に命中しなかった魚雷2本をかわすことに成功する。しかし6時34分、ダーターが続けて発射した魚雷4本のうち、艦橋下右舷と後部右舷に2本が命中した。主機械が停止し航行不能となったが火災は発生せず左舷に注水が行われ傾斜も復元した。浸水は罐室などにも及ぶが食い止めることに成功する。しかし舵などが故障しており行動不能となってしまう。その間、駆逐艦長波が近づき周囲を警戒した。この被雷により高雄では33名が戦死し31名が負傷した(後に朝霜も合流する)[136]。
愛宕と高雄の被雷を確認した宇垣纏第一戦隊司令官は次席指揮官でもあるので直ちに全艦に一斉回頭を命じ当方への回避を命じた。敵潜水艦がいるこの海域からの離脱のためだったが過度の避退も危険と判断し、6時51分基準針路に戻り乙字運動を再開する。ところがその直後の6時57分、今度は重巡洋艦摩耶に潜水艦デイスの放った魚雷4本が命中する。
摩耶では被雷前に水測員が右舷後方に怪しい音源があるという報告を受け、右舷側に警戒の目がいっていた。ところが左舷側より接近する魚雷を発見。艦長の大江賢治大佐は面舵を指示するが航海長の独断で取舵一杯が行われる[注釈 40]。しかし転舵の効果が出る前に魚雷が次々と命中した。艦はたちまち左舷に傾斜し副長が防水を下令したが手を尽くすまもなく被雷から8分後の7時5分に沈没した[137] (沈没は7時8分ともいわれる)[135]。艦長以下336名が戦死。短時間での沈没であったが副長以下769名もの乗員がかけつけた駆逐艦秋霜に救助されている。
摩耶被雷を受け第一部隊の陣形は大きく乱れる。また後続する第二部隊がこの海域にさしかかる。7時に将旗を岸波に掲げた栗田は大和に通信の代行を指示[137]、また第四戦隊で唯一健在の鳥海の第五戦隊への編入を命じる。8時30分には旗艦を戦艦大和に移すことを指示するが敵潜水艦発見の誤報が各艦から相次ぎ、移乗するのは16時23分となった[138]。旗艦移乗後、艦隊はレイテ湾に向かって進撃を再開。大和戦闘艦橋には右側に栗田を中心とする艦隊司令部が、左側に宇垣の第一戦隊司令部が陣取り、森下信衛艦長など大和幹部は別の場所に分散移動するなど、異様な空気が漂ったという[139]。
なお愛宕、摩耶の生存者の大部分は大和及び武蔵に収容された。21時40分、自力航行可能となった高雄は朝霜・長波、駆けつけた南西方面艦隊所属の水雷艇鵯に護衛されてブルネイに向け避退した。
第四戦隊を壊滅させる戦果を挙げたダーターだが、退避する高雄を追跡中に座礁してしまい[140]、自沈処分となる。ダーターの乗組員はデイスに移乗し、デイスはオーストラリアへと撤退した。
序盤に敵潜水艦の奇襲を受け重巡洋艦3隻を失い、出鼻を挫かれた日本側であったが、連合艦隊司令部は1710時に参謀長名で参加部隊に情況判断と以後の方策を指示。作戦の継続を指示するとともに
- 機動部隊本隊を以て極力敵機動部隊を北方に吸引しこれを攻撃。水上部隊(栗田艦隊)の劣勢を補うこと
- 対潜対空警戒を更に厳とすること
- 敵機動部隊が水上部隊を攻撃する好機を見計らって基地航空隊を以て敵空母を撃滅すること
の3点を重視するように指示を出している[141]。
その他の部隊の行動
機動部隊本隊は出撃後の22日、航続力の短い丁型駆逐艦に空母と大淀から給油を行なったが悪天候のため完遂できなかった。それでも24日未明の第一次攻撃隊発進に向け予定地点へ進撃していた。14時には第一遊撃部隊よりパラワン水道での経緯が報告され、旗艦を大和に変更し作戦を続行中であることも知らされた。
第二遊撃部隊との合流を目指してブルネイからマニラに移動中の第十六戦隊は午前4時頃、旗艦青葉が潜水艦ブリーム の魚雷攻撃を受け航行不能となる[142]。鬼怒は青葉を曳航し、駆逐艦浦波と共に退避、22時45分にマニラ湾に到着した[142]。その後旗艦を鬼怒に変更する[142]。だが第二遊撃部隊はマニラに寄港せず、直接コロン湾に向かったため、第十六戦隊は合流を諦めレイテへの陸兵輸送の護衛につくことになる。
トーマス・C・キンケイド中将はブリームからの報告を受け、当初は大規模な東京急行の前兆と誤断していた[143]。ハルゼーは日本軍が第一次ソロモン海戦の再現を狙っていると見抜き、第38任務部隊第3群(シャーマン隊)をルソン島東方140km、第2群(ボーガン隊)をサンベルナルジノ海峡、第4群(デヴィソン隊)をスリガオ海峡に配置した[144]。第1群(マケイン隊)は補給のためにウルシーへ向かった[145]。
10月24日午前2時、西村部隊所属の重巡洋艦最上から水上偵察機が索敵のため夜間発艦。6時50分にレイテ湾上空に到達し偵察に成功。湾内の敵戦力についてブーラン基地を経由して打電後西村部隊上空に戻り報告球を投下しサンホセ基地に向かった。本海戦を通じレイテ湾内の状況の偵察に成功したのはこの最上搭載機だけだった。この報告は全艦隊に送信され日本軍にとっての貴重な情報になった。
午前7時、第十六戦隊は輸送船団(第六・九・十・一〇一・一〇二輸送艦)を引き連れてカガヤンの陸軍兵をレイテに移送すべく出撃。ミンダナオ島へ向かうが直後にアメリカ軍機約100機の空襲を受けた[142]。しかし損害はなく予定通りミンダナオ島に向かった[146]。
第4航空軍の行動
19日以降、第4航空軍は限られた戦力で湾内の連合軍への攻撃を続けていたが、23日夕刻にようやく200機の作戦機をネグロス島に集結させることができた。海軍より24日の航空総攻撃の要請があり[147]、海軍との連携を重視した富永は[148]24日の総攻撃を決断する。
自らネグロス島に進出した富永は、「2日目までに100隻撃沈を目標とする。このため1機1船必殺必沈に徹す」と作戦計画を掲げ、攻撃目標を「敵輸送艦を目標とし、敵の後続遮断を狙いとする」と命じたが[149]、作戦機の稼働率が低く、なかには稼働機が1機という戦隊もあり[150]、実戦力は大きく劣る事となってしまった。
10月24日
シブヤン海海戦
7時2分、栗田艦隊はサンベルナルジノ海峡東方の敵機動部隊の索敵を発令、金剛・榛名・鳥海・鈴谷・能代から各1機、矢矧から2機の計7機の索敵機を出す。そのうち金剛の偵察機が9時40分と12時10分に敵艦隊(第2群の一部)を発見し報告、矢矧の偵察機も11時に敵艦隊を発見(第1群)している[151]。
シブヤン海に差し掛かった栗田艦隊は24日8時10分、大和の見張り員が敵偵察機を発見。敵に見つかったことを知る[152]。この機は第38任務部隊索敵隊(カボット、イントレピッド)の機で、同乗のモート・エスリック中佐は8時20分、「戦艦4隻・重巡洋艦8隻・駆逐艦13隻」と報告する[153]。この時第38任務部隊は第2群がサンベルナルジノ海峡付近に、第3群がルソン島の東に、第4群がレイテ島付近にいた。ハルゼーは第2・3・4群の3個群を以って栗田艦隊に対し攻撃を開始することを決める。
栗田艦隊側は敵の通信を妨害するため武蔵が電波妨害を実施、アメリカ軍機もこれに対応して使用電波を変更するなどして対抗する[154]。
第一次対空戦闘
10時8分、能代の電探がアメリカ攻撃隊を探知。その後も他艦艇の電探が相次いでアメリカ攻撃隊を探知する。栗田は直ちに24ノットへの増速を指示する[155]。
10時17分、第七戦隊では第三偵察隊の残余機を空襲による損失から防ぐために全機発艦させる。熊野機1機、利根・筑摩各2機の計5機は米軍の空襲が始まる10時24分に出発し、他の偵察機が退避しているサンホセ基地に向かった。これで栗田艦隊が各艦で搭載している偵察機は大和に搭載している3機のみとなる[156]。
10時26分、第2群の空母イントレピッド、カボットから出撃した第1次攻撃隊45機(戦闘機21、爆撃機12、雷撃機12)[157][155]が攻撃を開始する。栗田艦隊も大和が発砲し、各艦続いて砲火を開いた。アメリカ軍機は猛烈な砲火をものともせず第一部隊の大和・武蔵・長門・妙高を攻撃した[158]。
武蔵は10時29分ごろに急降下爆撃を受け推定60キロの爆弾が一番砲塔天蓋に命中。しかし爆弾は跳ね返され空中で爆発。他にも前部艦首付近と中央両舷に各1発が至近弾となり漏水を発生させる。続いて魚雷3本が接近し1本が命中。浸水自体は大したものではなく速力も落ちなかったが、この際の衝撃で主砲の前部方位盤が故障し旋回不能となり、砲撃に支障をきたすことになる[159]。
10時29分、妙高に対して3機が雷撃を実施、2本は回避したが1本が右舷後部に命中[160]。後部発電機室、右舷機械室などが満水となり6分後には傾斜が12.5度となり速力も徐々に低下。10時40分には速度18ノットまで低下し、乗艦していた橋本信太郎第五戦隊司令官は11時38分に旗艦を羽黒に変更する[161][162]。妙高は単独で列を離れ後退を開始し、必死の応急処置で傾斜も6度ほどにまで回復する。栗田は高雄の護衛についていた駆逐艦長波を分離させ、妙高の護衛に向かうよう指示する。
第一次攻撃隊撤退後、栗田艦隊はアメリカ潜水艦を発見し一斉回頭を何度かおこなったが、すべて流木の誤認であった[163]。駆逐艦が爆雷攻撃をおこなったことも記録されている[164][165][166]。第七戦隊では、シブヤン海にアメリカ潜水艦1隻乃至2隻が存在していると考えていた[167]。
第二次対空戦闘
11時56分、武蔵の電探が敵機を探知する。栗田は24ノットへの増速を指示、12時6分イントレピッドからの第2次攻撃隊33機(戦闘機12・爆撃機12・雷撃機9)[168]が攻撃を開始した。
今回も目標は栗田艦隊の第一部隊であり、その攻撃は大和と武蔵に集中した。アメリカ軍機の攻撃開始と同時に長門が発砲を開始、激烈な対空戦闘が始まった[169]。大和への攻撃は12時7分から15分ほどまで続き、雷撃は全て回避するも至近弾2発を受けた。
武蔵にはアメリカ軍機16機が襲い掛かり、うち7機を撃墜するが雲を利用した艦首尾両方向からの爆撃により2発が命中し5発が至近弾。続いて左舷方向からの雷撃を受け3本が命中した[170]。この攻撃で武蔵の速度は22ノットに低下し左に5度傾斜、第二水圧機室が浸水するも右舷への注水により傾斜は1度まで復原した。2発の直撃弾のうち左舷に命中した1発は中甲板まで貫通し炸裂。その火炎が第2機械室、第10・12罐室に侵入し設備を破壊した。第2機械室では蒸気管が一部破壊され蒸気が噴出、第2機械室は放棄され武蔵は3軸運転を余儀なくされる。以後武蔵は艦首をやや下げた状態となり速力が低下、艦隊から次第に落伍し始める[169]。
第二次空襲は8分ほどで終わったが、攻撃は武蔵に集中し損害は甚大だった。栗田は12時25分に関係各隊に敵機襲来とその撃退を報告する。13時15分、武蔵艦長猪口敏平少将より今までの武蔵の損害が報告され、主隊と行動するには致命的損傷を受けたことを知る。しかし武蔵に対する決断を下すよりも早く第三次空襲が開始される[171]。
第三次対空戦闘
12時54分、艦隊の先頭を進む駆逐艦島風の電探が敵飛行機と思われる物体を探知する。13時12分に大和見張り員が敵機を発見。3度にわたるアメリカ編隊の襲来に友軍の航空攻撃が奏功していないのではと懸念した栗田は13時15分に南西方面艦隊司令部と機動部隊本隊に対して督促の意味もこめて「敵艦上機我に雷爆撃を反覆しつつあり、貴隊触接さらに攻撃状況速報を得たし」と電報を打つ[172]。13時19分、第3群の空母レキシントン、エセックス からの攻撃隊83機[173]が攻撃を開始。部隊は二手に分かれて第一第二両部隊に殺到。13時23分、第二部隊第七戦隊が砲撃を開始し、13時31分には第一部隊も砲撃を開始する。
第二部隊への空襲は27分ほど行われ、13時28分に矢矧への急降下爆撃で至近弾が1発。これにより矢矧の艦首が満水となり水測室などが使用不能。速力も22ノットまで低下する[174]。
第一部隊には約20分ほど空襲が行われ大和と武蔵が標的となる。大和には13時40分に急降下爆撃により1発が右舷前部に命中し火災が発生、更に1発が右舷に至近弾となる。しかし損害は軽微で火災も10分ほどで鎮火された。
武蔵の損害状況はこのあとの第五次対空戦闘での艦橋への命中弾による航海科の壊滅により、この頃より記録が錯綜し他艦の記録と整合しない点が出ている。以後の武蔵の損害は戦史叢書での記録に拠る。武蔵への攻撃は13時50分までの間に2回行われ、第1波の13機は雷爆同時攻撃となる。急降下爆撃により3発が至近弾となり、2発が右舷と艦尾に命中、艦尾のジブクレーンの支柱を破壊した。雷撃は1本が右舷に命中し測距儀室などを破壊した[174]。武蔵側は来襲機13機のうち5機の撃墜を記録している。続く第2波約20機の攻撃は爆弾4発命中、魚雷4本命中と一度の攻撃では最大の被弾を蒙った。二波にわたる空襲で武蔵は合計9本の魚雷が命中し両舷の注水区画は満水となる。特に前部の浸水は甚だしく、艦首は水面近くまで沈み艦隊から急速に落伍し始めた[175]。
第四次対空戦闘
栗田は武蔵の深刻な損害を鑑み、共に進撃することは不可能だと判断した。その間にもアメリカ艦載機の攻撃は続き、第三次空襲から間もない14時15分、第4群の空母フランクリン からの第4次攻撃隊65機が来襲した[173]。
この攻撃隊は落伍した武蔵は狙わず第一部隊の大和と長門を攻撃した。長門には14時16分に米空母フランクリンとカボットからの攻撃機により2発の爆弾を受ける。1発は長門の第一缶室換気口を破壊、25分間の軸停止となり、もう1発は無線室と酒保付近を破壊し52名が死亡、106名が負傷した。14時26分にも数機が襲い掛かり爆弾3発が至近弾となっている。大和に対しては14時30分ごろより攻撃が始まり、爆弾1発が前甲板に命中する[176]。フランクリン攻撃隊の報告では武蔵に最低でも爆弾4発、魚雷3本命中と報告している[177]。エンタープライズ攻撃隊は武蔵に爆弾と魚雷を集中、利根に爆弾2発命中、駆逐艦2隻に爆弾命中を主張している[177]。
空襲は14時40分過ぎには終了する。栗田は武蔵のコロン回航を決断し14時50分に指示、護衛に駆逐艦清霜をつける。14時52分、各隊にその旨を打電し敵の空襲がなお熾烈であることを知らせる[178]。また重巡洋艦利根艦長の黛治夫大佐より鈴木義尾中将(第二部隊指揮)宛に第二部隊全隊での武蔵護衛が意見具申される。しかし逆に利根単独での武蔵護衛が指示され護衛に向かっている[179]。
第五次対空戦闘
艦隊は第四次空襲後も速力22ノットを維持していた。しかし空襲終了から僅か15分後、武蔵接近する敵編隊を探知。14時59分、第2群の攻撃隊30機(戦闘機15・爆撃機12・雷撃機3)が来襲する[177]。この攻撃は武蔵に集中した[180]が他の艦艇にも一部攻撃が行われ損害が出ている。長門は15時20分に25機の急降下爆撃を受け2発が命中、3発が至近弾となる。このため3軸運転となり速力は21ノットにまで低下する。駆逐艦藤波は15時15分ごろに前部砲塔右舷に損害を受けたことが羽黒の戦闘詳報に記載されている[注釈 41]。また駆逐艦浜風も至近弾1発を受けて速力が28ノットに低下している。武蔵を護衛する利根は15時17分に至近弾2発、続いて直撃弾2発を受け、清霜も15時15分ごろに至近弾5発、命中弾1発を受けるが命中弾は小型爆弾だったため致命的損傷とはならなかった。
武蔵は艦隊から孤立していたこともあって最も激しい攻撃を受けた。敵機の大半である75機近くが武蔵を攻撃し、武蔵も16機撃墜(うち不確実10機)を報告している。損害は命中弾10発・至近弾6発・魚雷命中11本を数えるが、命中弾の最初の1発は防空指揮所右舷に命中し下の第一艦橋で炸裂、指揮所右舷を吹き飛ばし第一艦橋と作戦室を大破、火災を発生させた。指揮所にいた高射長、測的長が戦死。猪口艦長は右肩に重傷を負うが、辛くも一命を取り留めていた。第一艦橋では航海長、作戦室でも昨日救助された摩耶副長が戦死。下士官兵も含めると78名が死傷して一時防空指揮と操艦が不能になってしまう[182]。防空指揮所および第一艦橋は使用不可能となり、猪口艦長は副長のいる第二艦橋へ移動、同所で指揮を執る。死亡した航海長の代理として通信長が任命されている[183]。
第五次空襲で武蔵は各部に深刻な損傷を受け、第4機械室は浸水し使用不能、2軸運転となり速力は6ノットに低下する。傾斜は左舷に6度まで回復するが前への傾斜は増大し前部喫水線の8m付近まで傾斜した[184]。
一時反転
5度にわたる空襲で武蔵が大損害を蒙り、他の艦艇にも損害が続出したことで、栗田艦隊司令部では基地航空隊や機動部隊本隊の支援攻撃はどうなっているのか問題となった。両隊からの状況報告は中々届かず、第一報は機動部隊本隊より11時38分発(大和受電は12時41分)の敵機動部隊に向けての攻撃隊発進の報だったがその後の戦果報告はなく、14時39分発(同受電は16時3分)の伊勢以下、6隻の分離・南下指示を受けただけだった。基地航空隊からは15時30分着電で空母1隻に直撃弾、巡洋艦1隻を中破させた電報を受けたが敵空襲は激化しており、これら航空部隊の攻撃はまだ功を奏するには至っていないと判断せざるを得なかった[185]。栗田は一時的に反転して激化する敵の空襲をかわし、味方航空隊の更なる攻撃を待つことを決断。15時30分、艦隊に対して一斉回頭を下令。16時には連合艦隊司令長官宛てに「1YB機密第241600番電」[注釈 42]を打電し、暗に連合艦隊司令部に作戦内容の変更を具申する。 [注釈 43]反転した栗田艦隊は左に傾斜して停止する武蔵に接近。武蔵の状況を直接確認した宇垣は栗田に護衛駆逐艦の増派を要請、栗田もこれを受け駆逐艦島風を新たに護衛につける。
再反転
栗田の意図に反し、ハルゼー機動部隊からの空襲は反転後から止まってしまう。ハルゼーは小沢艦隊の前衛を発見しこれを攻撃するために北上を開始。16時20分、栗田艦隊に張り付けていた偵察機も帰還させた。16時55分以後、友軍機らしき機影は大和をはじめ複数の艦艇が探知しているが敵機は一向に来る気配を見せなかった[187]。その後連合艦隊からの返電がないまま、17時14分(17時45分とする文献もあり)、栗田中将の意思により栗田艦隊は再反転しレイテ湾への進撃を再開する。
連合艦隊司令部では次々と入電する栗田艦隊からの情報により被害が続出していることを知り悲壮感に打たれ憂色を覆うべくもなかった。機動部隊本隊や基地航空隊からもこれといった成果報告もなく、憂色を増していた。そうした状況下で苦戦する参加各部隊に連合艦隊司令長官の意思が不動のものであることを明確に表明しておく必要があると判断し、18時13分に「天佑を信じ全軍突撃せよ」(GF機密第241813番電)の電令を発した[188]。一方栗田の一時反転電は遅達して着電は18時55分前後となった。このため連合艦隊内ではこの電報が241813番電が打たれる前の電文なのか、そうではなく241813番電の返電なのかについて混乱が起こった。対して栗田艦隊の方では突入を再開して1時間半も経過した18時55分に「全軍突撃せよ」の電を受電し、これを1YB機密第241600番電の返電と解釈したが、栗田艦隊に有益な敵情報告など一切含まない闇雲な突入命令と捉えられ、艦隊側はその処置に困惑した[注釈 44]。
栗田の一時反転報告と意見具申に対して、連合艦隊の一部参謀にも作戦を一時中止したほうが良いという意見がでた[189]。しかし高田利種参謀副長の強硬論に豊田も同意し現計画通り作戦を継続することが再確認され、19時55分に「GF機密電第241955電、連合艦隊電令作第372号の通り突撃」、更に参謀長名義で栗田の意見具申に対する回答文を別電「GF機密電第241600電」で通知した[190][191]。結果として連合艦隊司令部は栗田艦隊が反転否認を意味する電文により進撃を再開したと考えた。
栗田艦隊は再進撃を開始した事ををすぐには報告しなかったが、これは敵の無線傍受を警戒したための措置であった[192]。栗田艦隊が明確に再進撃を開始したことを他隊が判断できる電報を打つのは19時39分、出撃後サンホセ基地に帰還していた水上機の指揮官へ宛てた「第一遊撃部隊進撃中「レガスピー」東方及び「レイテ湾」総合敵情報告せよ」の無電が最初である[193]。また小沢艦隊所属の第四航空戦隊司令官松田千秋少将は戦後「小沢長官は栗田が再反転した事を知らなかったと述べていた」と証言しており、小沢中将にこの情報が届いていなかった可能性もある。
武蔵沈没
栗田艦隊が再反転してレイテ湾に向かった頃、停止する武蔵では乗員の必死の応急処置も空しく浸水を止めることができず、傾斜も徐々に増大していた。18時20分、栗田中将は損傷した駆逐艦浜風と武蔵護衛についている無傷の島風を交代する様に指示。この時点で島風には武蔵に乗艦していた摩耶の生存者を移乗させており、それらを乗せたまま島風は戦列に復帰する。それを見た重巡利根も第二部隊指揮官と第七戦隊司令宛に戦列復帰の懇請が届く。二者は特に返事をしなかったのだが、聞いていた栗田は許可するよう指示し第七戦隊へ利根の戦列復帰を命じる[194]。
19時15分、傾斜が12度を超え、もはや沈没必至と判断した猪口艦長は副長に総員退去用意を指示。遺言をしたためた手帳とシャープペンシルを手渡し第二艦橋に残り艦と運命を共にした。副長は後甲板に乗員を集結させ別れの挨拶をし、軍艦旗を降ろす。この頃には傾斜が30度にも達し19時30分に総員退艦、19時35分武蔵は終に沈没した。護衛の駆逐艦2隻のうち、清霜は武蔵に横付けしようと接近を試みるが果たせぬうちに武蔵は沈没。乗員の救助を直ちに行い、清霜は約500名、浜風は約830名を救助する[195]。20時10分に2隻は武蔵沈没と乗員救助中の旨を打電、これにより武蔵の沈没を知った栗田は21時38分に乗員救助後にコロンに向かうよう指示。しかし、その電報が2隻に届くのは翌7時35分となり、救助後の行動について指示を得ていなかった2隻は結局独断でコロンに向かった[196]。
第六基地航空部隊(第二航空艦隊)の攻撃
基地航空部隊の攻撃は、23日は悪天候で敵を発見できず、「X日の2日前に敵空母部隊を攻撃する」という当初の予定は初日から失敗に終わった。福留繁第六基地航空部隊指揮官は、総攻撃予定日であるY日(10月24日)に期待を寄せ、23日夜よりマニラ東方の海域に3機の夜間偵察機を偵察に向かわせた。そのうちの1機(香田四郎飛曹長指揮の九七式飛行艇)が0時50分、電探で「レラ二シ」に大部隊を探知したと報告して消息を絶った。同機が発見したのはシャーマン少将の第3群で、空母イントレピットの記録には2時27分に夜間戦闘機が日本機を撃墜したと記録されている[197]。
この報告を受け、夜間戦闘機月光および陸上爆撃機銀河からなる2段索敵隊が発進、同時に653空の天山8機と水上爆撃機瑞雲を黎明前攻撃に出撃させる。さらに6時30分から主力である第一攻撃集団(零戦105機・爆装零戦6機・紫電21機・九九艦爆38機)と単機奇襲攻撃任務を帯びた彗星12機を出撃させた[198]。
索敵隊は6時以降、相次いで敵艦隊の発見を報じた。8時35分には最初の空母発見の報告があり、9時にはもう1つの空母部隊発見の報が届いた。これらはすべてシャーマン少将の第3群であった。 その頃、進撃中の第一攻撃集団にアメリカ軍の戦闘機群が襲いかかっていた。小林實少佐率いる制空隊(零戦26機)と、鴛淵孝大尉指揮の掩護隊(零戦51機)に敵戦闘機各50機が攻撃を仕掛け空中戦となり、制空隊は7機撃墜を報じたが小林少佐以下11機が未帰還。掩護隊も11機撃墜を報じたが4機を失った[199]。攻撃の主力である江間保少佐指揮の九九艦爆隊も約100機の敵機と遭遇、進撃を阻まれた[200]。
不調に終わった第一攻撃集団にかわって一矢報いたのが彗星12機からなる奇襲攻撃部隊であった。同隊は単機毎に発進し、その一部がシャーマン隊の上空まで到達。雲の上で旋回し、雲に隠れたりしながら機を窺っていた彗星1機が9時38分、軽空母プリンストンに対して急降下爆撃を仕掛ける。同機は爆弾投下直後に撃墜されるが爆弾は船体中央に命中し、飛行甲板と格納庫を貫通して乗員区画で爆発した。爆発自体による被害は軽微だったが、ちょうど格納庫内で出撃準備中だった雷撃機が誘爆、格納庫内の火災が延焼、魚雷への誘爆による爆発といった想定外の連鎖的破壊が生じた。軽巡洋艦バーミングハムが主導する救援活動により鎮火しつつあったものの、13時30分頃に日本軍の潜水艦等の目撃情報(誤報)があったことから救援活動は一時中断、その間に状況はさらに悪化してしまった。15時23分、魚雷庫に格納されていた大量の爆弾が誘爆し、艦尾を吹き飛ばした。この爆発は隣接中の救援艦をも巻き込み大損害をもたらした。救援活動は約8時間にわたり続けられたが、日本軍の夜間攻撃と任務部隊のさらなる被害が懸念され、ついに放棄せざるを得なくなった。プリンストンは味方艦の雷撃によって処分された。彗星隊は5機が未帰還となった。
福留は攻撃隊が出撃するや直ちに第二次攻撃隊の準備を各基地に命じるが、状況は皆目判らなかった。13時50分、昼までに帰還した第一攻撃集団主力から九九艦爆25機と零戦22機が再度敵機動部隊攻撃に向かうが悪天候に悩まされ、進撃して80海里進んだだけで攻撃を断念するしかなかった[201]。
このように栗田艦隊の進撃を支援するため米機動部隊に繰り返し攻撃を仕掛けた基地航空部隊であったが、発見した第3群をハルゼー機動部隊の全軍だと思い込み、それに攻撃を集中したため残りの第1群・第2群は何の抵抗も受けずに栗田艦隊を攻撃することができた。栗田艦隊に攻撃を加えている機動部隊が他にいることに福留が気づいたのは9時45分発、12時7分に中継され15時頃に司令部に届いた『0945敵大部隊、空母3隻戦艦3隻 地点「ヌロ三ス」針路90度速力22ノット 1207』の無電であった[201]。この敵はハルゼーが直接率いている第2群で、栗田艦隊の真正面に位置して日本側の妨害を受けることなく同艦隊を攻撃し続けていた。6時間も遅れて届いた敵情報に色めきたった司令部は直ちに索敵機を出撃させるように指示するが、準備に手間取ったため飛行艇3機が出撃したのは夜半となった。福留は夜間攻撃を準備するとともに状況報告を求めていた栗田艦隊に対してその旨を伝えるが、すでに一時反転したあとであり、栗田艦隊への空襲は終わっていた[202]。
16時15分より薄暮、夜間攻撃の天山艦攻9機が出撃する。また一式陸上攻撃機12機と銀河8機も発進する。一式陸攻隊は敵を発見できずに帰投。銀河隊(指揮官:壱岐春記少佐)8機は敵機の奇襲を受け指揮官機以外は撃墜され、指揮官機も不時着する[203]。結局夜間攻撃は成果を挙げられず、基地航空隊の奮闘は翌日に持ちこされた。
機動部隊本隊の攻撃
小沢率いる機動部隊本隊は6時には予定地点に到達。計画に従い偵察機10機(瑞鶴7機・瑞鳳2機・大淀から1機)を出撃させた。8時45分には追加で瑞鶴機1機を出撃させるがこの瑞鶴機が11時15分、待望の敵機動部隊発見の報告をする[204]。小沢はこの部隊を攻撃することにし、11時38分に連合艦隊司令部他関係各部隊に敵機動部隊攻撃を伝達する。
11時58分、機動部隊本隊の各空母から攻撃隊が出撃する。しかしエンジンの不調などにより出撃取り止めや出撃後引き返した機が続出し、瑞鶴隊は24機(零戦10・爆装零戦11・天山1・彗星2)、瑞鳳・千歳・千代田の隊は33機(零戦20・爆装零戦9・天山4)が出撃し、2隊に分かれて進撃した。瑞鳳らの隊は敵戦闘機約20機と遭遇し交戦、8機を撃墜するが敵艦隊を見つけることができずに周辺のツゲガラオ基地に帰還。天山2機、爆装零戦1機、零戦6機が未帰還となった[205]。
瑞鶴隊も相前後してアメリカ軍機の迎撃を受ける。それでも13時50分に敵艦隊を発見、それは第3群で攻撃隊は空母1隻轟沈、1隻沈没を報じたが、実際は沈没した艦はなかった。攻撃隊は天山1機、爆装零戦5機、零戦2機を失い友軍飛行場に退避した[206]。
機動部隊本隊は攻撃隊出撃後の12時24分、索敵機を収容したが14時を過ぎても敵からの空襲の兆候がなく、攻撃隊からの結果報告もなかった。瑞鳳らの隊の機で数機が母艦に帰還したが敵を発見しておらず戦果は不明だった。
その一方、12時頃より栗田艦隊より敵機動部隊からの空襲で損害を蒙り被害が増大している状況が報じられ、敵機動部隊に対する牽制は成功していないことが明白となった[207]。そこで小沢は艦隊を二分し、前衛部隊を更に南下させることを決定する。
16時41分、瑞鶴は突如アメリカ軍機を発見、砲撃するも逃げられる。敵に発見されたと判断した小沢中将は直掩機をだすがまもなく日没であり、18時8分には全機収容する[208]。この際着艦に失敗した零戦1機が洋上に転落、更に搭乗員を救助しようと飛行甲板の誘導員1名も海に飛び込んだ。直ちに駆逐艦桐、杉が救助に向かう。2隻は日没後に該当海域に到達し漂流者2名を奇跡的に発見し誘導員を救出(搭乗員は人事不省で死亡が確認された)、部隊への合流を図る[209]。
19時、連合艦隊司令部より「天佑を信じ全軍突撃せよ」の無電を傍受する。ところが20時に栗田が16時に出した一時反転を報じる機密電を受信する。小沢は栗田艦隊が再反転することを期待していたが何時になっても再反転の連絡はなかった。実際には栗田艦隊は再進撃を開始しており、前述のように19時39分発で打電したりしていたが小沢艦隊は傍受できなかった。このため小沢は栗田艦隊は退却したと判断する[210]。そしてこのままでは敵中に孤立すると考え、艦隊を一時反転北上させることにし、前進させていた前衛部隊にも北上を命じた[211]。
主隊と合流を目指す駆逐艦杉、桐は中々合流することができず、針路を西に変えて航行していると23時ごろ前方に艦隊を発見する。主隊だと思った2隻はこれに合流するが直後にこれがアメリカ艦隊であると判断[注釈 45]、桐艦長川畑誠少佐は杉と共に反転し退避、難を逃れている[213]。2隻はそのまま主隊に合流することなく高雄へ帰投、その間アメリカ軍機2機の攻撃を受け桐が被弾している。
ハルゼー艦隊北上
栗田艦隊のサンベルナルジノ海峡強行突破を危惧したハルゼーは、第38任務部隊から戦艦5隻を中核とする水上砲撃部隊を引き抜いて第34任務部隊(TASK FORCE 34)が編成予定であることを全軍に知らせて迎撃の準備を進めていたが、パイロットの報告から栗田艦隊は大打撃を受けたと判断[214]、反転した事もあり栗田艦隊は撤退していることを司令部に報告した。15時40分、第3群の索敵機が小沢艦隊を発見、16時40分には「空母4隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦5隻」と続報が入り[215]、これらの報を受けたハルゼーは、この小沢艦隊が日本側の主力部隊だと判断する。 ニミッツより「日本艦隊が迎撃に出てきたら優先してこれに当たれ」と命令されていたハルゼーは、反転した栗田艦隊への攻撃を中止し、新たに出現した小沢艦隊への攻撃を決断する。そして別行動中の第34任務部隊第1群[注釈 46]を除く3個群を全て率いて北上を開始、19時25分発無電でキンケイドや後方にいるニミッツに対して北上する旨を通達する[注釈 47]。
ハルゼーから「3艦隊を率いて北に向かう」という連絡を受けたキンケイドだったが、その前にハルゼーから、第34任務部隊編成の電文も受信しており、北上するのは3つの空母群のみで、第34任務部隊は残ってサンベルナルジノ海峡を防衛すると思い込んでしまった[注釈 48]。結果サンベルナルジノ海峡はがら空きになっていたしまった。
栗田艦隊は17時15分に再度反転し、ハルゼーも報告を受けていたが、栗田艦隊は大打撃を受けていて、キンケイドのもつ自前の戦力でも対処できると判断し[216]、そのまま艦隊集結と北上を続けていた。その後、軽空母インディペンデンスの夜間索敵機が栗田艦隊が12ノットで東進していることを報告し、さらに「ここ数日点灯していなかったサンベルナルジノ海峡の灯台が、今に限ってなぜか点灯している」との報告もあったが、いずれの報告もハルゼーの関心外であった。こうして、栗田艦隊はサンベルナルジノ海峡で待ち伏せに遭うことなく通過し、レイテ湾を目指してサマール島東岸を南下した[注釈 49]。
10月24日 レイテ上陸地点の戦況
23日に大きな損害を被った第十六師団だが、航空総攻撃が開始されるこの日、牧野師団長は海岸から最大で15km地点にあたるブラウエン、タボンタボン、パロ西方高地などの地点確保を命じた[217]。しかし米軍の侵攻は止まらず、期待された航空攻撃も乏しかった[81]。米軍はブラウエン、ヒンダン、パロ西方高地を24日中には占領[217]、午後には戦車およそ40両を先頭とする2個大隊が、海岸より西へ10kmのブラウエン地区へ進入を開始し日本側と激戦が展開される。
第4航空軍の行動
第4航空軍では富永司令官陣頭指揮による航空総攻撃が企図されたが、どの隊も手持ち航空戦力の稼働率が低く、攻撃は散発的なものとなってしまう。飛行第3戦隊は出撃した22機[注釈 50]のうち、途中で引き返した4機を除く18機全機が撃墜され、戦隊長の木村修一中佐が戦死している[218]。だが飛行第12戦隊と飛行第62戦隊の精鋭で編成された「雁部隊」4機[注釈 51]が湾内の連合軍艦艇への攻撃に成功し、リバティ船オーガスト・トーマスに命中弾を与え、艦隊曳航船ソノマ、歩兵揚陸艇LCI-1065に体当たりを行いそれぞれ撃沈している[219]。なお、出撃した隊員の中には進撃する第一遊撃部隊を目撃した者もおり、その雄姿に士気も上がったという[220]。
10月25日
スリガオ海峡海戦
アメリカ軍機の空襲
10月22日、主隊に遅れること8時間半が経過した15時30分、第一遊撃部隊第三部隊(西村部隊)はブルネイを出撃した。第三部隊の任務は24日日没時にミンダナオ海西口に進出し、25日黎明時に栗田艦隊と策応してレイテ湾に突入するというものであった[注釈 52][221]。スールー海に入りスリガオ海峡へ向かった艦隊は24日2時、レイテ湾内偵察のため重巡最上の水偵1機を発進させる。同機は6時50分に湾上空に達し、戦艦4隻・輸送船80隻を含む艦隊を発見し報告する。
8時55分、小型機が触接しているのを発見、来襲機はその後数を増し20数機に及んだ。来襲機は第38任務部隊第4群索敵隊で、9時40分頃空母エンタープライズとフランクリン所属機約20機が攻撃を開始する[222]。この攻撃で扶桑は艦尾に命中弾を受け、搭載水偵2機が炎上、時雨も1番砲塔に直撃弾、最上は敵機の機銃掃射をそれぞれ受け死傷者を出した。空襲は5分ほどで終わったが引き続き空襲があると考えた西村は9時50分、最上の水偵2機をサンホセ基地に避難させるべく急遽発進させた[223]。しかし予想に反して、敵機の空襲はなく艦隊は何事もなく進撃を続けた。栗田艦隊発見の報を受けたハルゼーが機動部隊第4群を北方に移動させ、西村部隊はキンケイドの第7艦隊に対処させることを決定したからである[224]。11時5分、空襲を受けたことを栗田艦隊に報告。さらに西村は麾下の艦艇に「皇国ノ興廃ハ本決戦ニ在リ。各員一層奮励皇恩ノ無窮ニ報イ奉ランコトヲ期セ」と信号を送った。
14時、スルー海東端に到達。栗田艦隊がアメリカ軍の空襲に晒されていることを知った西村は14時10分、第三部隊が順調に進撃している事を打電(14時47分栗田艦隊に着電)。この頃はシブヤン海海戦の真っ只中であり、栗田艦隊から西村部隊に対して指示応答は特になかった[225]。
最上機の偵察で敵魚雷艇が集結していることを知った西村は、現状報告の打電と同時に最上と第四駆逐隊の満潮・朝雲・山雲に、日没次第先行して敵魚雷艇を掃討するように命令する。19時、命令に従い掃討隊が先行を開始、本隊はボボール島沿いにミンダナオ海を進撃した[225]。
単独突入を決意
栗田艦隊と西村部隊はほぼ同時にレイテ湾に突入する予定であったが、栗田艦隊が一時反転したことにより予定より遅れ、同時に突入してアメリカ軍の邀撃戦力を分散するという計画は崩れた。15時30分、栗田艦隊は一時反転を知らせる電文「1YB機密第241600」を関係各部隊に送っている。連合艦隊や小沢艦隊には着電の記録があるが、西村部隊の重巡洋艦最上、駆逐艦時雨の戦闘詳報には記載がない[注釈 53][226]。
19時0分、連合艦隊司令長官より全軍突撃の電信が西村部隊各艦に届く。この状況下で連合艦隊司令部も栗田艦隊も時間調整の指示は一切していない。西村は『帝國海軍のお家芸』とされていた夜戦を企図し、西村部隊単独でのレイテ湾突入を決断、20時13分付発信の電文にて、25日4時にドラグ沖突入の予定と栗田艦隊に通信を送った(栗田艦隊には20時20分に着電)[227]。
ブルネイでの作戦説明[注釈 54]でも、突入は25日黎明[注釈 55]もしくは4時と表現されているので、第三部隊はほぼ予定通りに突入を開始する事になる[注釈 56]。
この通信に対し、栗田艦隊は21時45分「予定通りレイテ泊地に突入後、25日0900スルアン島北東10浬付近において主力と合同」と返信し、単独突入を容認したうえで主力と合流するよう指示しているが第三部隊からの返信はなかった[注釈 57]。大和は第五艦隊電文(22時45分受信)として「第二遊撃部隊は0300スリガオ水道南口通過速力26ノットで突入予定」を記録している[229]。
栗田・西村両艦隊の攻撃は計画とは違って連携を欠いたものとなったが、その原因は栗田艦隊の遅延だけでなく、両艦隊の通信手段が十分でなかったことにもよっている。これは、西村部隊の現在位置を知らせる電文に対し栗田艦隊が時間調整の指示を出さなかったこと、西村部隊が連合艦隊司令長官からの全軍突撃の電信を傍受したことに加え、栗田艦隊の反転電文が西村部隊に届いていなかったことにより、西村中将は栗田艦隊の進撃が空襲で多少遅れたとしても時間的に大きな遅れは出ていないと判断した可能性はある。西村部隊のいた海域はアメリカ軍の制海・制空権下にあり、アメリカ魚雷艇の襲撃がいつ始まるか分からない状況下で、空襲が始まる夜明けまでのんびりと後続の味方艦隊の到着を待っている余裕など無かった。これにより志摩艦隊とは最期まで共同行動はおろか、共戦的な行動すらとることはなかった。25日午前1時、西村部隊は「0130スリガオ海峡南口通過レイテ湾に突入、魚雷艇数隻を見たる外敵情不明」と発信し、栗田艦隊も午前2時に受信した[230]。
一方、キンケイドは西村部隊の接近を察知し、24日12時15分、指揮下の全艦艇に夜戦準備を命令。14時43分にオルデンドルフ少将指揮の戦艦部隊を迎撃に投入した。オルデンドルフは西村部隊のルート上、レイテ湾南方のスリガオ海峡で待ち伏せを行うことにした[231]。その戦力は、戦艦6隻、重巡洋艦4隻、軽巡洋艦4隻、駆逐艦26隻、魚雷艇39隻と大きなものであった。マッカーサーは軽巡洋艦ナッシュビルで観戦することを望み輸送船への移乗を拒んだが、ナッシュビルごと安全な海域に無理矢理移動させられた。
第二遊撃部隊の行動
第二遊撃部隊(通称志摩艦隊)は西村部隊に後続して進撃していた。志摩は栗田艦隊の苦戦の情報は得ていたが西村部隊が空襲を受けたなどの情報は得ていなかった。そのため西村部隊ともどもスリガオ海峡から突入する部隊はまだ敵に発見されていないと判断していた[232]。
志摩は苦戦する栗田艦隊との策応を考えるよりも先行する西村部隊と歩調を合わせる方が良いと判断。17時45分突入予定を繰り上げる旨を発信するが、程なく栗田艦隊の機密第241600番電を受電し、艦隊が反転したことを知る。それでも西村部隊は予定通り動いているようだったこともあり、予定行動は変更しなかった[233]。
馬公在泊時に南西方面部隊からの要請を受けて志摩艦隊と分離別行動をとっていた第21駆逐隊(若葉・初春・初霜、隊司令:石井汞大佐)は任務を終えると23日にマニラを出港、ミンダナオ島付近での志摩艦隊との合流を目指していた。しかし24日早朝に敵編隊約20機に捕捉され、7時55分より空襲を受ける。8時13分、司令駆逐艦若葉が直撃弾1、至近弾1を受け航行不能。8時45分に沈没した。石井司令、艦長の二ノ方兼文少佐以下生存者は救助されるが乗員30名が戦死し74名が負傷した。11時52分にも空襲を受け初霜が1発被弾する[232]。健全な艦が初春1隻しかなくなったことを受け、石井はマニラに回航して修理することを決意し北上、艦隊との合流を断念した。
スリガオ海峡突入
24日22時36分、索敵中のアメリカ魚雷艇PT131が西村部隊と接触、僚艇とともに交戦に突入する。22時52分、時雨が突然右艦首方向に敵魚雷艇を発見。時雨艦長西野繁中佐は直ちに星弾を放ち、魚雷艇が2000mまで近づいているのを認めて砲撃を開始する[234]。山城と扶桑も回避行動を取りつつ砲撃を浴びせ、追い払うことに成功する。前方を行く掃討隊は、25日0時12分に魚雷艇4隻を発見。双方攻撃を開始するが共に命中弾はなかった。スコールなどで天候が悪く、視界も良くないことを受け、最上艦長藤間良大佐は反転して本隊に合流することを西村に連絡、反転を開始した[235]。
25日1時30分、西村部隊本隊は掃討隊と合流する。1時48分には速力を20ノットに増速し、北上突入の態勢に入った。この時の態勢に関しては戦史叢書などでは満潮を先頭とする単縦陣としているが、西野艦長は後年のインタビューで3列縦隊だったとも証言している[注釈 58]。
それからまもなくして接近する3隻の魚雷艇群[注釈 59]を満潮が発見、2時00分頃、朝雲と共に魚雷攻撃を受ける。だが魚雷は命中せず2隻はサーチライトを照射して迎撃、PTボート2隻(PT-490、PT-491)を追い払い、僚艇を救うべく煙幕を張りながら間に入ろうとしたPT-493に深刻な損害[注釈 60]を与えた[236]。同艇はその後パナオン島沖で沈没したが西村部隊に損害はなかった[237]。
2時53分、駆逐艦3隻以上が接近してくるのを時雨が発見。3時9分に照射射撃を開始する。これは第54駆逐連隊指揮官カワード大佐が指揮する同隊東方隊3隻で、魚雷発射を終えて退避行動に移っていた頃だった[238]。日本側はアメリカ駆逐艦が魚雷を放ったことに気づかず、退避行動をせずに直進を続けた。
3時10分、最後尾の最上は接近する魚雷を発見し緊急回避行動をとる。しかしその前を進撃していた扶桑は魚雷に気づかず右舷中央に被雷する[239]。扶桑はたちまち右舷に傾斜し速力も低下、落伍し始める。電源系統を喪失したためか無線も電話も発光信号も送ることができず、扶桑は完全に沈黙した。さらに後続の最上が落伍した扶桑を追い越して山城に続行したため、山城側は扶桑の落伍に気づかなかった。扶桑はその後大爆発を起こし、船体が2つに折れたまま炎上しながら漂流した。後続していた志摩艦隊は、炎上する扶桑を見て2隻が炎上していると誤認している[240]。その後の扶桑の最期はアメリカ側の資料では艦首は4時20分ごろ、艦尾はそれから1時間以内にそれぞれ沈んだと記録されている[241]。重巡洋艦ルイビルが艦首部を沈めたという証言もある[242]。艦長阪匡身少将以下乗員の殆どが戦死し、二番主砲塔換装室員であった小川英雄一等兵曹以下数名が生還している。
3時13分、今度はレイテ島側から敵駆逐艦が近づくのを時雨が発見。1分後には山雲が接近する雷跡を見つける。西村は右へ一斉回頭、これをかわすと3時18分に元の針路に戻したが、3時20分、満潮、山雲が相次いで被雷する。山雲は瞬時に沈み、艦長の小野四郎少佐以下乗員全員が戦死。満潮も程なく沈没し、隊司令の高橋亀四郎大佐以下約230名が戦死、艦長の田中知生少佐以下数名が後にアメリカ軍に救助されている。続いて朝雲が1番砲塔直下に被雷して艦首を切断、戦艦山城も左舷後部に被雷、5・6番砲塔に爆発の危険が生じたので弾薬庫に注水が行われた。この攻撃は分離して行動していたアメリカ第54駆逐連隊西方隊の駆逐艦2隻(マンセン、マクダーマット)[243]の攻撃であった[244]。
壊滅
戦力の過半を瞬く間に失った西村部隊に対し、米駆逐艦隊の襲撃は続いた。3時23分、レーダーで西村部隊を捕捉し[246]第24駆逐連隊の6隻が襲撃を開始。3時23分に時雨と山城に対して魚雷発射して山城に1発命中する。
3時30分、西村部隊は栗田艦隊に「山城被雷1、駆逐艦2隻被雷」を報告(0415時受信)[247]。3時40分、西村より「われ魚雷攻撃をうく、各艦はわれをかえりみず前進し、敵を攻撃すべし」[248]と命令を発したが[248]これが西村の発した最後の命令となった[248]。
3時49分、米駆逐艦部隊に撤退命令が出た[249]。この戦闘では第56駆逐連隊の駆逐艦アルバート・W・グラントが、山城の副砲弾や味方の誤射を受けて被弾した[249]。
3時51分、米戦艦・巡洋艦隊は「丁字陣形」で西村部隊を迎え[250]、距離13500mでレーダー照射による砲撃を開始した。まず山城が被弾し、艦橋下に火災が発生、3・4番砲塔は使用不可となり、1・2番砲塔のみで応戦した[251]。最上もレーダーが島影を敵艦影と誤認するなど役に立たず、両艦とも正面に見える砲撃の閃光を目標に反撃するしかなかった。大口径弾300発、小口径弾4,000発の砲撃を打ち込まれた西村部隊には命中弾が相次いだ。
山城は駆逐艦からの雷撃を右舷機械室付近に受けて速力が低下、直後に4本目の魚雷を受けて徐々に傾斜しはじめた。その後に火薬庫に引火し大爆発を起こした。このとき山城の艦橋が崩れ落ちたのが目撃されている。それでもなお山城は1・2番主砲から反撃の砲撃を行っていた(アメリカ軍側が確認)がついに力尽きる。沈没必至と考えた艦長の篠田勝清少将は総員退去を命じるが、その2分後の4時19分に艦尾より転覆して沈没した。西村以下第二戦隊司令部、山城乗員の殆どが戦死し、主計長の江崎壽人主計大尉ほか士官1名、下士官兵8名の合計10名が捕虜となり戦後生還した[252]。
山城の被雷まで最上は被弾せず無傷であったが、3時50分頃より敵からの集中射撃を受けはじめ、3番砲塔と中央に被弾し火災が発生した。3時55分には魚雷4本を発射し左に回頭、南方へ避退を開始する。4時2分頃、艦橋に2発、防空指揮所に1発が命中し藤間艦長以下副長、航海長、水雷長、通信長など最上幹部と要員が全員戦死、旗甲板にいた山本信号員長他4名のみが無事だった。信号員長がとっさに操舵を人力に切り替え南下を続けた[253]。
最後尾にいた時雨はこれを見て部隊は既に全滅したと判断して反転離脱を開始する。その間、命中弾を受けるが不発だった。このころ米艦隊は雷撃のため西村部隊に突撃した駆逐隊が味方軽巡部隊に誤射され、レーダーで敵味方の区別がつかなくなっていたため4時13分に一時的に砲撃を中止していた[254]。大破した最上はこの隙に艦橋の異変を知った荒井義一郎砲術長の指揮で米艦隊の射程圏外に離脱した[255]。
志摩艦隊突入断念
西村部隊の後に続き突入する筈だった志摩艦隊は西村部隊から2時間遅れの3時過ぎに海峡入口に到達したがスコールが連続的に発生し位置の確認に難航した。艦艇同士の位置確認も困難で3時15分には阿武隈が潮を敵と誤認し誤射する騒ぎが起きている。
3時20分、パナオン島付近でスコールの隙間から針路上に断崖を視認した艦隊は一斉回頭でこれを避けるが、直後に魚雷艇隊の攻撃を受け、軽巡洋艦阿武隈が避ける間もなく被雷した(魚雷艇PT137の雷撃)[256]。敵魚雷艇を撃退後、阿武隈を残して志摩艦隊は戦闘序列で突入を開始。4時ごろには炎上する扶桑を発見する。
志摩艦隊はなおも北上を続け、4時10分には右前方に炎上する艦(最上)を煙幕の中で確認、4時15分、那智の電探が右前方25度方向に艦影(実際はレーダーに映ったヒブリン島を誤認)を捉え、4時24分に那智と足柄は右に回頭しながらその目標へ計16本の魚雷を発射する。ところが炎上停止したと思っていた艦が実は最上で、低速で動いていたことに那智側は気づかなかった。このため両艦は那智の艦首が最上の右舷前部に突っ込む形で衝突。これにより那智は艦首を大破し、速力は18ノット以上は無理となる[257]。
敵情不明のため志摩は突入を断念する。4時25分に関係各隊に宛て「当隊攻撃終了、一応戦場離脱後図を策す」と打電した[258]。また4時49分に「2戦隊全滅大破炎上」の報が発信され栗田艦隊では5時32分に受信した。なお、アメリカ側では当時から今日に至るまで、西村部隊及び志摩艦隊を「二群に分かれた(統一指揮された)一つの艦隊」と誤認している。
衝突された最上は中央の火災が後部に拡大し機銃弾や高角砲弾が誘爆を起こし手がつけられなくなる。しかし予備魚雷が誘爆した際の爆風で火勢が下火となった[259]。5時20分南下してきたアメリカ艦隊の砲撃が始まり、最上は回避するも10発ほど命中弾を受ける。
4時40分、艦隊は単艦南下する時雨を発見、志摩は自艦隊に続くよう指示をだすが、舵故障と時雨は回答し南下を続けた。
艦首を切断されて航行不能となっていた朝雲は12ノットでの航行が可能となり南下撤退を開始[260]。しかし5時20分頃よりアメリカ艦隊に捕捉され射撃を受け5発が命中火災発生、速度も9ノットまで低下する。火災は拡大の一方で艦長の柴山一雄中佐は総員退艦を指示、乗員は内火艇に移乗して脱出する。接近する米艦隊の集中砲撃で朝雲は撃沈され、内火艇も近接してきた2隻の駆逐艦に沈められ生存者は漂流、結局艦長以下約30名が付近の島に流れ着いて捕虜となり戦後生還した[261]。
5時33分、志摩は阿武隈と合流する。応急修理で航行可能になっていた同艦に艦隊に続くよう指示をだす。7時19分には阿武隈座乗の第一水雷戦隊司令部の霞への移乗が行われ、阿武隈には護衛に潮をつけてミンダナオ島ダピタンで応急修理の上コロン湾へ、同じく避退していた最上には曙を護衛にあたらせて直接コロン湾にと、それぞれ避退するよう命じ、自隊は先行してコロン湾に後退した[262]。
最上はその後7時27分より空襲を受けはじめ、8時30分には航行不能となる。10時47分には弾火薬庫誘爆の危険がでたので総員退去、駆逐艦曙が危険を顧みず船体を最上に横付けして乗員の救助に当たる。最終的に最上は12時30分に曙の魚雷で処分される[263]。
西村部隊で唯一生還した時雨は25日23時にコロン湾に針路を変更、しかし敵機の襲撃を受けたためブルネイに針路を変え、27日17時に無事到着した[264]。
阿武隈は26日にミンダナオ島ダビタンで応急修理を済ませ、潮と共にコロン湾に向かうが11時28分にアメリカ陸軍機の空襲を受ける。直撃弾3・至近弾4を受けて機関停止、魚雷の誘爆も発生し総員退艦が発令、まもなく沈没した。乗員512名が戦死し、艦長の花田卓夫大佐以下生存者は潮に収容された。
志摩艦隊の本隊である那智・足柄・霞・不知火は何度か空襲を受けたもののほぼ無傷であった。その間サマール沖海戦で損傷して退避行動中の熊野を発見し、木村昌福少将が移乗している霞と足柄にその救援を命じた。那智・不知火は26日14時、霞・足柄・熊野は同日夕刻にはコロン湾に無事到着した。
第十六戦隊壊滅
第二遊撃部隊への編入を受けマニラに入った第十六戦隊だが、結局同隊はマニラに来ず、合流はできなかった。そこで南西方面艦隊は手空きの同戦隊に陸軍兵のレイテ島輸送作戦の護衛を命じ、大破した青葉を除く2隻に出動を命じる。左近允尚正第十六戦隊司令官は旗艦を鬼怒に変更し出撃、輸送船団と共に25日15時45分にミンダナオ島カガヤンに到着[265]して陸軍兵347名を載せる[146]。
17時30分には出港し兵員輸送のためレイテ島オルモック湾に向かう。26日4時にオルモック港に到達し揚陸、5時には鬼怒と浦波が先発して出港しコロン湾に向かった。10時20分、パナイ島とマスバテ島の間に達したころから米第7艦隊の護衛空母搭載機による攻撃を受け始める[266]。
10時30分以降の空襲で浦波は大破し艦長の佐古加栄少佐が戦死、11時30分軍艦旗降下および総員退去。11時52分に沈没した。浦波戦死者は92名に及んだ。
鬼怒も14時過ぎには航行不能となり、左近允は救援要請を出す。17時20分戦死者83名と共にパナイ島北東で沈没[267]。2隻の生存者は後続していた輸送艦に救助され、輸送艦第9号10号が左近允、鬼怒艦長の川崎晴実大佐以下鬼怒生存者480名以上、浦波の生存者94名を救助した。
第十六戦隊司令官からの救援要請を受けた連合艦隊では26日16時55分、草鹿龍之介参謀長より第二遊撃部隊に鬼怒曳航艦の派遣を求めた。同日日没後、駆逐艦不知火が鬼怒の救助に向かう。
しかし既に鬼怒は沈没しておりその後第十六戦隊が発した状況報告文も不達だったため不知火の出撃は空振りに終わり同艦は帰途についた。だが翌27日朝、米艦載機に不知火は発見され攻撃を受け沈没。18駆逐隊司令井上良雄大佐・荒悌三郎不知火艦長以下全員が戦死した。なお付近には第2駆逐隊所属の早霜が座礁しており、乗員がその一部始終を目撃している。
エンガノ岬沖海戦
北上を続ける小沢艦隊は24日の敵偵察機の状況から敵機空襲を受けると考えていた[注釈 61]。6時34分に前衛部隊との合流を済ませた小沢艦隊は7時12分に第38任務部隊の偵察機を発見[226]、練度不十分なため戦力とならない残存艦載機を直衛用の戦闘機18機を除き陸上へ退避させ(爆装零戦5機、彗星1機、天山4機[268])、さらに囮任務を果たすため北上した。7時17分には瑞鶴、千代田から直掩機6機をあげ、長官は関係各部隊へ「機動部隊本隊敵艦上機の蝕接を受けつつあり」と打電したが[269]、肝心の栗田艦隊には着電しなかった[注釈 62]。対して小沢艦隊には7時発信の栗田艦隊がアメリカ軍機動部隊を見つけ攻撃を開始した旨の無電が届いている。このときの小沢艦隊は小沢中将が直率する、空母瑞鶴・瑞鳳・戦艦伊勢・軽巡洋艦大淀・駆逐艦4隻の第5群と、第四航空戦隊司令官松田千秋少将が指揮する、空母千歳・千代田・戦艦日向・軽巡洋艦多摩・五十鈴・駆逐艦4隻からなる第6群に分かれていた[270]。
第一次空襲
8時15分、第1次攻撃隊180機が小沢艦隊に来襲した。小沢中将は友軍全般に宛て「敵艦上機約80機来襲我と交戦中。地点ヘンニ13」(1KdF機密第250815電)と打電した。ハルゼー機動部隊との交戦開始を報じる重要な電文だが、栗田艦隊だけでなく友軍各部隊のどこにも届かなかった[271]。8時35分、瑞鳳が被弾し一時舵が故障。8時37分に瑞鶴が魚雷1本被雷し速力低下、8時40分には通信不能になる。他にも伊勢が至近弾2発、大淀が直撃弾1発・至近弾2発を受ける。
駆逐艦秋月は8時50分頃に突如爆発し6分後に沈没、その原因はいまもって諸説ある。空母千歳は5発の直撃弾と無数の至近弾を受ける。特に8時35分に受けた爆弾3発は左舷前部水線下に命中して罐室に浸水を招き、9時15分には航行不能となる。傾斜復元の努力も甲斐なく9時30分には総員最上甲板の命令が出る。9時37分に千歳は沈没、艦長岸良幸大佐以下468名が戦死し、496名が軽巡五十鈴と駆逐艦霜月に救助された。軽巡多摩も被雷し大傾斜、9時には航行不能となる。この空襲の合間に索敵機より「敵機動部隊見ゆ〜」の敵情報告が届き、南方140海里付近にいることが判明した[272]。
この空襲の際、艦隊上空を守る直掩機は18機[注釈 63] だけだった[273]。直掩隊は少数ながら善戦し17機の撃墜を報じている[274]。
8時54分、小沢は旗艦を通信が難しくなった瑞鶴から大淀に替えるべく同艦に接近を指示する。しかし第二次空襲が始まり旗艦変更は中止された[271]。そのため小沢艦隊より友軍各隊に送る戦闘速報「1KdF機密第250937番電」(瑞鶴らの被害を報じる電文)が遅れ、実際の発信は11時頃となったがこの無電も前述の250815電と同様、友軍各部隊には一切届かなかった[275]。
第二次空襲
9時42分、日向の電探が敵の編隊を捕捉、9時58分より攻撃が開始された。10時、唯一無傷だった千代田に爆弾1発が命中し大火災、10時16分に航行不能となる。五十鈴は艦隊より被雷した多摩の救助に向かうよう指示を受け、10時10分に合流する。このとき多摩は速力18ノットまで出せるようになっていた。2隻はやがて千歳沈没点に到達し千歳生存者を発見、五十鈴が救助作業にあたり多摩は松田第四航空戦隊司令より単独で中城湾に向かうよう指示され別行動に移った[276]。
10時14分、大淀が空襲の合間を見て再び瑞鶴に接近する。しかし敵機が襲撃してきたので作業はまたもや中断し、10時26分に三度接近し短艇を送る[276]。この際大淀短艇は海上に不時着水した零戦の乗員1名(南義美大尉)を救助している[注釈 64]。10時51分、小沢以下司令部要員は瑞鶴を離艦し10時54分、大淀に移乗した。小沢は移乗すると直ちにその旨を「1KdF機密第251107番電 大淀に移乗作戦を続行す」と打電する(大和に12時41分受電)。この電文は軍令部にも届いているが、それまで軍令部に届いた電文がこれと前述の「触接を受けつつあり」の2電しか届いておらず、内容もハルゼー機動部隊の誘致に成功したと判断できるものではなかった[注釈 65]事から、軍令部は小沢艦隊の囮作戦は成功していないと判断していた(後述)。また12時31分には「1KdF機密第251231番電」として秋月の沈没や千歳、多摩の落伍、瑞鶴の通信不能などを打電する(大和には14時30分受電) [277]が、大幅な遅延のため、栗田艦隊の反転の際は届いていなかった。
この時点で上空を守る直掩機は小林大尉以下9機に減じていた、着艦しようにも空母はどれも着艦不能であり、燃料を使い果たして11時過ぎに全機が海上に不時着水する。乗員は11時58分頃に駆逐艦初月に救助された[274]。
一方、小沢艦隊を攻撃するハルゼーの元に、10時過ぎにハワイのニミッツから、「WHERE IS RPT WHERE IS TASK FORCE THIRTY FOUR RR THE WORLD WONDERS(第34任務部隊は何処にありや 何処にありや。全世界は知らんと欲す)」と電報が届いた。ハルゼーはこの電報に激怒し、11時15分第38任務部隊第2群と第34任務部隊の一部を率いてレイテ島沖に引き返した。残った2個群はミッチャー中将指揮下で攻撃を続けさせ、第34任務部隊からローレンス・デュボーズ少将指揮の重巡洋艦2隻と軽巡洋艦2隻、その護衛の駆逐艦を引き抜いて巡洋艦部隊を編成して同様に追撃を続行させた。また補給のためウルシー環礁に向かっていた第1群にもレイテ島に向かうよう指示している[注釈 66]。ハルゼーはニミッツとキンケイドに、「レイテ沖に向けて急進中」と返答を送った。
第三次空襲 空母全滅
12時58分、小沢は第6群を指揮する松田少将に対し合同命令を出す。しかし直後の13時05分、100機近い攻撃隊が小沢艦隊上空に到達する。攻撃隊は第6群を無視し第5群の瑞鶴と瑞鳳に攻撃を開始した[278]。
瑞鶴には13時15分の被雷を皮切りに7本の魚雷と4発の直撃弾、無数の至近弾が命中し13時23分には傾斜が20度に達し大火災が起こる。13時27分に艦長より「総員発着甲板に上がれ」の下令。軍艦旗降下と万歳三唱がなされ総員退艦が始まる。そして14時14分に歴戦の空母瑞鶴は沈没した。艦長貝塚武男少将以下843名が艦と運命を共にし、生存者866名が駆逐艦若月に救助された[279]。
瑞鳳は13時17分から10分間に魚雷2発と爆弾4発、至近弾多数を受ける。14時32分から20分の間には命中こそなかったが至近弾10数発を受け傾斜が16度になり主機械も全て停止、航行不能となる。15時10分、軍艦旗降下の上総員退艦が発令され、15時26分瑞鳳は沈没した。駆逐艦桑が救助にあたり艦長杉浦矩郎大佐以下847名が救助される。また戦艦伊勢も救助作業に加わり98名を救助している[280]。
13時35分、合同命令を受電した松田少将の第6群は、千歳乗員の救助を終えて合流した五十鈴に千代田の曳航を命じて準備中であり、日向と駆逐艦槇がそれを護衛、霜月が千歳乗員の救助を継続中、多摩は単独で中城湾に退却中、所属する桐・杉は前日の転落者救助で隊から離れ合流できておらずと部隊は分散していた。また13時15分に五十鈴から燃料不足から千代田の曳航は困難との報告を受けていたこともあり、松田は曳航を断念、五十鈴・槇に千代田の処分と生存者の救助を命じ、日向と霜月を率いて第5群との合流を目指した[281]。
千代田処分を命じられた五十鈴だが曳航を断念せず準備を進めていた。その間にもアメリカ軍機が断続的に飛来しその都度五十鈴は撃退する。しかし14時14分に遂に五十鈴が被弾し応急操舵によらざるをえなくなる。14時40分に槇が到着するがこれも14時58分に敵襲を受け直撃弾を1発受けてしまう。千代田の曳航は絶望的となった2隻は15時に日没を待って接近し千代田処分と乗員救助をすることとし、それまで北方に避退することにした[282]。
15時48分頃、小沢艦隊を蝕接していた米偵察機がその帰路、停止する千代田を発見する。既に放棄されていると考えた偵察機は接近したところ、千代田が発砲したため南方に退避する。やがて同機は北上するデュポースの巡洋艦部隊を見つけ通報、艦隊は直ちに急行し千代田を発見、16時25分砲撃を開始する。16時47分千代田は左に転覆し沈没、艦長城英一郎大佐(当日付けで少将に昇任)以下全乗員が戦死した[283]。
第四次空襲
この頃の小沢艦隊は大淀・伊勢が北上中、駆逐艦初月・若月・桑が瑞鶴・瑞鳳の生存者を救助中、松田の日向・霜月が大淀と合流すべくこれも北上中で微速で中城湾に向かう多摩と同航態勢、千代田処分を一時断念した五十鈴と槇が主隊の南南西を伊勢の視界内で北上中というバラバラな状態であった[284]。17時26分、北上する大淀・伊勢にアメリカ艦載機約85機が襲来する。攻撃は伊勢に集中し、艦長の中瀬泝大佐の適格な操艦により直撃弾を受けなかったが、至近弾34発を受け左舷罐室に若干の浸水を受けた。また、伊勢は22機の撃墜を報じている[285]。
同じ頃アメリカ軍機は松田少将の第6群にも襲いかかっていた。17時22分、アメリカ軍機約10数機が日向と霜月を攻撃、日向は7発、霜月は10発の至近弾を受けるが直撃弾はなかった。これ以降アメリカ軍機の襲来はなく、第6群は18時44分に第5群と合流した[286]。
単独で退避する多摩は16時25分、北上する日向、霜月とすれ違う、単独で退避させることの危険、特に敵潜水艦の襲撃に松田は懸念を持つが護衛につける艦艇の余裕もなく、多摩からの回航地を呉に変更したいとの要請に了承を与えたのみだった[287]。その後アメリカ軍機の来襲があり、日向らと多摩は別れたが多摩は以後消息を絶つ。戦後にアメリカ側の資料で判明したのはアメリカ潜水艦ジャラオが25日20時頃に発見し追尾、23時1分に7本の魚雷を発射、観測任務を担当した僚艦のピンタドは3本の魚雷が命中したことを確認、多摩は船体が2つに折れて沈没した。艦長山本岩多大佐(千代田艦長と同じく25日付けで少将に昇任)以下総員が戦死した[288]。
アメリカ水上部隊との遭遇
一時退避していた五十鈴は17時47分に再度千代田を救助すべく反転する。しかし槇は燃料が欠乏しており、本隊との合流を継続、五十鈴単艦で南下を開始した。18時すぎには五十鈴は瑞鶴乗員の救助を行う初月と若月を視認する。五十鈴は初月に千代田の消息を尋ねたが判明しなかったので燃料不足を理由に捜索と所在確認を依頼した。18時20分には若月が救助作業を終えて五十鈴と合流し南下を継続する[289]。
19時05分、五十鈴は突如初月が発砲したのを視認する。千代田を沈め北上を続けてきたデュボーズ部隊と遭遇し迎撃を開始したのだった。同隊は索敵機より18時40分に北方に停止する巡洋艦1(救助作業を続けていた初月)とその周りを警戒する駆逐艦2(千代田救出の為に動いていた五十鈴・若月)発見の報を受けて急行したのだった[290]。19時7分には五十鈴の付近にも砲弾が飛来し電探も敵艦隊を捕らえた。五十鈴は小沢に敵艦隊の発見と千代田の捜索中止を知らせ煙幕を展張、若月と共に直ちに反転、撤退を開始する[291]。初月は煙幕を展開するとジグザク運動を行い敵からの砲撃をかわしていたが、敵との距離が6海里まで迫った頃に反転し、反撃態勢に入る[292]。
初月は単艦で重巡洋艦2(ウィチタ、ニューオーリンズ)、軽巡洋艦2 (モービル、サンタフェ)、駆逐艦9の13隻を相手をすることとなった。アメリカ側の記録では18時53分、初月は魚雷発射態勢をとり、デュボーズ部隊に回避運動をとらせて逃走した[293]。19時15分、デュボーズ部隊は再び初月を捕捉し、5,500mから射撃を開始。また駆逐艦を先行させて魚雷攻撃を実施、これにより初月は速力が低下する。その後デュボーズ部隊は初月1隻を執拗に攻撃し20時15分には初月は停止、20時59分に爆発を起こして沈没した[293]。この奮闘により五十鈴と若月は戦場を離脱できたが、初月は第61駆逐隊司令の天野重隆大佐、艦長の橋本金松中佐以下総員が戦死、初月に救助されていた瑞鶴乗員や正午前に同艦が救助していた直掩隊の小林保大尉以下零戦搭乗員全員が運命を共にした[290]。だが瑞鶴の乗組員を救助中だった初月の内火艇が戦闘開始により取り残され、これに乗っていた乗組員(初月乗員8名、瑞鶴乗員17名)は、21日間の漂流を経て台湾に流れ着き生還している。
小沢は初月からの交戦報告を受け艦隊[注釈 67]に南下を命じたが時間を要した(ほとんどの艦が損傷していたためとされる)。また、急行途上に若月より戦艦2隻を含む艦隊と報告を受けたので、ハルゼー指揮の高速水上砲撃部隊と誤認、南下を続けた。21時53分には避退する五十鈴、若月と合流するが、五十鈴の燃料が欠乏しており、同艦はそのまま中城湾に退避した。若月より敵は戦艦以下10隻(重巡を戦艦と誤認)と報告を受ける。しかし、デュボーズ部隊は初月撃沈の後、21時30分にミッチャーの2個群と合流するため撤退したので遭遇できなかった[294]、燃料も残り少なくなり、再び北へ反転、撤退した。
翌26日夕方、五十鈴が沖縄南東部の中城湾に29日の深夜、日向・伊勢・大淀、駆逐艦霜月・若月・槇が呉に帰港した。
小沢艦隊には補給部隊(油槽船仁栄丸・たかね丸、護衛として駆逐艦夕風・海防艦6隻)が随伴していた。小沢艦隊の後方を追従していた同部隊は、仁栄丸が25日アメリカ潜水艦スターレットの雷撃により沈没、戦闘後の27日、本隊の残存艦艇は奄美大島で機動部隊本隊と合流し補給作業を行なったが、たかね丸はその帰路撃沈された。
任務失敗
小沢艦隊は24日に行われた栗田艦隊への攻撃を自艦隊に引きつけることはできなかった。25日になって第38任務部隊の牽制に成功しているが既に栗田艦隊は戦力の中核である大和型戦艦の1隻を失い一時反転をせざるを得ない状況となった。またこれにより西村部隊との連携した突入が難しくなり西村部隊の単独突入、そして壊滅の遠因ともなった事から、栗田艦隊を米機動部隊の航空攻撃から目を逸らす事には実質的には失敗している[注釈 68]。後の目から見れば25日になって第38機動部隊2~4群の阻止攻撃から栗田艦隊を解放していたが、栗田艦隊にそれが判る術はなく[注釈 69]、後述する栗田艦隊の反転により小沢艦隊の損耗も無駄となった[注釈 70]。大淀戦闘詳報では突入作戦にも触れ、アメリカ軍上陸から2日以内、敵の体制が整わぬうちに突入する予定であったものを、既に2日以上経過し、相手の体制が整った状態で突入し、案の定敵の熾烈な迎撃を受けて壊滅したことを指し「何ら術策を用いず単純に突入することはまさに自殺行為」「単純なる無謀の勇猛果敢の如きは国家を危うくするものなり」と水上艦隊を期日を過ぎても突入させようとしたことに対してかなり辛辣に批判している[295]。
虎の子の空母4隻他多数の艦艇を囮として無為に失ったことに対する乗員側からの批判もあった。特に真珠湾攻撃以来主力として前線で戦い続けた瑞鶴乗員の艦隊司令部への反感は大きかったようで、旗艦変更のため大淀の短艇が瑞鶴に到着して小沢らが移乗した際、艦上の乗員から「馬鹿野郎!俺たちを見殺しにするのか」「小沢!これが長官のやることか!」と罵声が浴びせられたという[296]。この時は艦に残っていた貝塚武男艦長が「どんなことがあっても軍艦瑞鶴を守るぞ!」と乗員に伝えたことで士気を上げて収まったが、海戦後に瑞鶴生存者を奄美諸島で人員確認のため降ろした際、近づいてきた大淀を見た生存者の中から怒号が起こり、副長の高田中佐が必死に制止する騒ぎになっている[297]。
当時軍令部部員だった野村實が編纂に関わった戦史叢書「大本営海軍部・連合艦隊(6)第三段作戦後期」では、軍令部には小沢艦隊の状況が正確には伝わらず空母4隻は健在と考え、囮作戦は成功していないと考えていて、ハルゼー艦隊は依然栗田艦隊の北方にあって部隊を展開していると判断していたと記述しており[298]、及川総長の27日朝の戦況奏上でもその旨申し上げていた処、艦隊の奄美大島帰着後28日に初めて事実が判ったと書かれているという。近年の研究では、空母4隻の沈没を軍令部が知ったのは27日正午に小沢中将が奄美大島に帰投してからであり、当日中に参謀本部へも伝えられていたことが明らかになっており、到達日時が異なるが及川の戦況奏上の時点(27日早朝)では4空母沈没は、軍令部に報告されていなかったことが判明している[299]。
こういった重要電文が届かなかった理由として小沢艦隊側は「旗艦の通信能力の低下により通信代行を瑞鳳に命じたが、その担当者は戦死したので詳細は不明である」と報告したとも記載している。
このように、小沢艦隊と参加各部隊との情報伝達には不具合が多く発生し、特に小沢艦隊の発した無電が軍令部や連合艦隊司令部、参加各部隊には一切届いていない事例が多く発生していた。
サマール沖海戦
反転後、再びレイテ湾を目指していた栗田艦隊は第38任務部隊による妨害を受けず、25日0時30分にはサンベルナルジノ海峡を通過し、サマール島沖に差しかかっていた。この時点での栗田艦隊の勢力は戦艦4隻、重巡洋艦6隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦11隻となり、どの艦も大なり小なり損傷を被っていて[300]、計画も6時間の遅れが生じており、このままでは翌25日も敵機動部隊からの空撃を受ける可能性があった。基地航空隊がどれだけ敵に打撃を与えたのか栗田艦隊側は知りたかったが、24日に知り得た戦果情報はクラーク基地より11時55分に発した「クラーク基地機密第241145番電」(栗田艦隊への着電は15時30分)ぐらいしかなく、24日の空襲の激しさから基地航空隊の攻撃は不十分であると推測する。22時13分、各航空部隊指揮官に宛てて「1YB機密第242213番電」を発し、激烈な調子で協力要請を行っていた。第5基地航空部隊指揮官の福留長官は栗田を含めた指揮官に対して22時44発「6FGB機密第242244番電」で
- 昼間攻撃で大型空母2隻撃破、戦艦1、巡洋艦1中破炎上、撃墜数39機
- 夜間攻撃の戦果は未詳
- 17:25の偵察機情報によると中型空母1が大傾斜、重油流出多量の状態でいるのを発見。昼間攻撃に依るものと思われる(恐らく彗星隊が攻撃した軽空母プリンストン)
- 空母の総撃破数は2ないし4隻
と報告したが、栗田艦隊に届いたのは25日の6時30分でサマール沖でタフィ3を発見しようとしていた頃だった[301]。
25日1時55分、栗田は艦隊編成をY12索敵配置に変更し[302]、2時20分と3時35分に西村部隊よりレイテ突入と敵艦発見の無電を受ける。4時18分と5時10分、同20分には志摩艦隊より戦場到達と第二戦隊の全滅、志摩艦隊の離脱が報告され、以後は西村・志摩両艦隊からの連絡が途絶えた[303]。
突如の会敵
6時23分、大和のレーダーが敵機を探知し、以後断続的に敵艦載機を発見、砲撃して追い払う。栗田艦隊は対空戦闘に備えた陣形をとりはじめた[304]。6時30分、索敵隊形の左翼先頭にいた矢矧が水平線上のマストを発見し通報した[305][注釈 71]。
6時45から48分にかけて、大和見張り員が35km先水平線にマストを確認した[306]。それはサマール島沖で上陸部隊支援を行っていたクリフトン・スプレイグ少将指揮の第77任務部隊第4群第3集団の護衛空母群(コードネーム"タフィ3")であった。栗田艦隊はこれを正規空母6隻のアメリカ軍主力機動部隊と誤認[307][308]する。このとき栗田艦隊は針路変更を開始したばかりで陣形はまだ整頓されていなかったが[309]、栗田は6時53分に連合艦隊及び各部隊に敵発見の第一報を打電、6時57分攻撃を開始した。栗田は第五、七戦隊に突撃を命じ、水雷戦隊には後続を命じた[307][310]。第一戦隊の戦闘指揮は栗田中将ではなく宇垣中将がとった[311]。
第77任務部隊護衛空母群は20日の上陸以来、計画通り支援任務に徹し、まともな敵の攻撃を受けてこなかったが、24日になると多数の日本軍機がレイテ湾に飛来してきた。また3つの日本艦隊が報告されており、25日は敵艦隊への攻撃で多忙を極めることは予想されていた。深夜には西村部隊の接近が報じられたが、栗田艦隊の動静について音沙汰はなかった。
6時半、タフィ3の艦船は警戒を解除し、第3種警戒(通常配置)に移ってよいとの指示を受けたが、その頃より短距離無線に日本語の音声が流れだし、SG レーダーも北方から接近する物体を捕捉した。6時46分に見張り員が北西水平線上に対空砲火の炸裂を確認、それとほぼ同時に艦隊上空を飛行中の友軍機から「敵水上部隊、そちらの機動群の北西20海里を20ノットで接近中」という無線連絡があった。
当初スプレイグはパイロットの見間違いと考えて識別の確認を指示したが、ほどなく敵であるという報告が相次いで届き、水平線上から日本艦隊の姿が現れ、急速に接近してきていた[312]。
スプレイグはすぐさまに全艦に総員戦闘配置を発令、周辺の各群に支援要請を行った。そして部隊の速力を最大にして東への変針、そして艦載機の全機発艦を命じた。護衛の駆逐艦には煙幕を張る様に指示している[313]。このスプレイグの指示によって、タフィ3は30分あまりで既に発艦していたものを合わせ100機弱の航空機を発艦させている。これらは栗田艦隊攻撃の後、アメリカ軍占領下のタクロバン飛行場等に着陸、一部は補給のうえ反転避退する栗田艦隊を再攻撃している[注釈 72]。
交戦開始
6時58分、宇垣は大和、長門に射撃開始を下令、両艦は敵に向けて砲撃を開始した。第一戦隊左舷を併走していた第三戦隊では榛名が7時1分に砲撃開始、金剛は独自に東に変針し7時に北方より砲撃を開始した[314][注釈 73]。7時3分、栗田は戦艦戦隊・巡洋艦戦隊に突撃を指示、戦隊司令部の判断で行動することを容認した。これを受けて第五、第七戦隊は東に転針して敵艦隊に突入を開始、戦艦部隊は引き続き砲撃を浴びせ続ける。この頃栗田は西村部隊に生存艦がいるかもしれないと考え、西村長官宛に自部隊の位置を報告し合同するよう打電している[315]。
栗田艦隊から砲撃を受けたタフィ3は東へ逃走を開始する。このため第一戦隊は針路を変えるが第十戦隊の針路と交差することになり、第十戦隊は金剛に後続するように動きを変える。タフィ3の前方には運よくスコールがあり、部隊はそこに逃げ込むと共に護衛の駆逐艦は煙幕を展開、撤退を掩護する。このため戦艦部隊の砲撃は思うようにいかず、7時9分第一戦隊は砲撃を一時中断する。この時点では巡洋艦部隊は未だ敵を射程に収めておらず、栗田艦隊の攻撃は一時中断する。7時17分、大和は護衛の敵艦に副砲による攻撃を開始[316]、7時25分には敵巡洋艦撃沈を報じている(アメリカ軍記録には沈没艦艇の記録は無い)。
別行動をとった金剛はスコールで敵を見失った第一戦隊と異なり切れ間から敵を確認していたので砲撃を7時25分まで継続、その間の22分にはアメリカ軍機の機銃掃射を受け10m測距儀が破壊されている。まもなく自らもスコールに入ってしまった金剛は射撃を中止した[317]。榛名は長門に続いて砲撃を開始、敵がスコールに入ると砲撃を中止し、煙幕からでてくる敵艦を迎撃する。日本艦隊の砲撃は護衛空母ホワイト・プレインズに集中したが命中弾はなかった。
戦艦・巡洋艦部隊を後続している水雷戦隊のうち、第二水雷戦隊旗艦能代は7時27分に接近する敵艦を砲撃、また麾下の駆逐艦の対空射撃で1機を撃墜している。第十戦隊も後続していたが数機ずつ連続して攻撃してくる敵機の対処に追われ進撃が滞っていた[318]。
7時10分頃より迎撃にでたアメリカ艦載機が栗田艦隊に対して攻撃をし始める。また煙幕の中から敵護衛艦艇が幾度と無く現れては魚雷と砲火で反撃を繰り返した。突撃命令を受けて猛進する巡洋艦部隊のうち、最先頭を進む第七戦隊旗艦熊野は同時刻に煙幕から飛び出した敵艦艇を発見し砲撃、これは駆逐艦ジョンストンで、同艦は砲撃を受けると反撃をしながら接近し魚雷10本を発射する、このうちの1本が熊野に命中、同艦は艦首を切断し速力が14ノットに低下、隊列から落伍した[319]。一方のジョンストンも直後に戦艦部隊から複数発の砲弾を浴び後部罐室及び機械室が破壊されるが運よくスコールが来て難を逃れた(戦艦大和の記録にある0725時敵大巡1隻轟沈はこのジョンストンのスコールへの退避を轟沈と誤認したものと思われる)[320]。
駆逐艦ホーエルは金剛に向かって突進、金剛の応戦で7時25分に艦橋に命中弾を受ける。ホーエルはそれでもひるまず7時27分に4本の魚雷を発射、金剛は7時33分にその魚雷を発見し回避している。ホーエルはその後も被弾し続け罐室や砲が破壊されたが、ひるまず突進し7時55分に残りの魚雷を重巡羽黒に向けて発射、羽黒は7時57分にこれを回避している[320]。駆逐艦ヒーアマンはホーエルに後続して接近、7時54分に羽黒に対して魚雷攻撃をかけるが回避され、逆に羽黒から集中砲撃を浴びる、更に遠方より金剛、榛名、大和、長門が接近するのを望見し、ヒーアマンは8時に残りの魚雷を榛名に放ったのちに退避した[321]。
被雷落伍した熊野に替わり鈴谷が先頭に立った。しかし同艦もまもなく敵機の襲撃に遭い左舷後部に至近弾を受け、左舷の推進軸の1つが使用不能となり速力が23ノットに低下、隊列から落伍した[319]。7時32分、第七戦隊司令白石萬隆少将は3番艦筑摩艦長則満宰時大佐に指揮の一時代行を指示、また同司令は鈴谷の損傷に気づかず熊野からの旗艦移乗を考え接近を命じる。白石司令が鈴谷の損傷に気づいたときは既に筑摩、利根ともに大分先方に進撃しており、呼び戻すわけにもいかなかった。そのため旗艦を鈴谷に移乗後に戦隊を追尾した[322]。
第五戦隊は突進しながらアメリカ軍機の空襲や敵艦艇の反撃を受けた。羽黒は7時5分より断続的に敵機の襲撃と敵駆逐艦の砲撃に晒された。一方23日に編入された鳥海の行動については同艦の生存者がいないことから詳細は不明である[323]。
7時50分、護衛空母カリニン・ベイが立て続けに被弾する(恐らく榛名の砲撃によるもの)[324]。7時54分、東方に進む大和は接近する6本の魚雷を発見し左に転舵して回避する。ところがこの魚雷は低速で大和と同航してしまい、大和は右舷に4本、左舷に2本の魚雷にはさまれたまま主戦場から離れてしまう。魚雷の発射元は特定されていないが「戦史叢書海軍捷号作戦2―フィリピン沖海戦―ではアメリカ側資料の記事としてホーエルが羽黒に対して放った魚雷ではないかと推定している[325]。
7時53分、羽黒は傾斜炎上中の空母(恐らくカリニン・ベイ)を発見し砲撃を開始する。スプレイグは残りの護衛駆逐艦4隻にも敵艦隊への攻撃を指示、まずサミュエル・B・ロバーツが突進して来た巡洋艦(艦名不明)に魚雷を発射するが回避される。続いてレイモンド、デニスも敵に接近、レイモンドは羽黒に、デニスは鳥海もしくは利根に対し魚雷を放つがどれも命中しなかった。これによりアメリカ駆逐艦はジョン・C・バトラー以外は全て魚雷を撃ちつくした。この時点で第五戦隊と第七戦隊の順番は変わり、第五戦隊が先頭を進んでいた[326]。第七戦隊にも航空雷撃が行われ、筑摩が右に、利根が左に回避、直後に双方への別機の空襲にそれぞれが回避行動をとったため7時58分頃、2隻は大きく離れてしまう[327]。
7時59分、スコールから脱した金剛は右12度に敵空母を発見、8時2分に砲撃を開始する[328]。同じくその前方の第七戦隊の筑摩と利根も同じ敵空母に対して8時5分より砲撃を開始した。この空母は護衛空母ガンビア・ベイで、1時間近く巧みな操舵で直撃を回避してきたが、8時20分に左舷中央の喫水線部分に1発の直撃弾があり、左舷前部主機械室に何トンもの浸水があって主機械1基を失い、速度が11ノットまで落ちた。艦長のウォルター・V・R・ヴェーウェグ大佐はスプレイグに艦が隊形から落後しつつあることを報告したが、ガンビア・ベイはたちまち日本軍の巡洋艦隊に追い付かれて至近距離から砲撃を浴びることとなった[329]。
ガンビア・ベイ沈没
8時、羽黒に対し10数機が襲撃、1発が第二砲塔に命中し弾火薬庫の誘爆の危険があり注水が開始される[327]。
魚雷にはさまれ主戦場から離れてしまった大和は8時4分に敵への進撃を再開、8時14分に観測機(今泉馨中尉機)を射出する。同機はタフィ3に接近し空母1隻が炎上中であることを報告し、その後アメリカ軍機の迎撃にあいながらも幾度が状況報告をして9時30分に触敵を諦めサンホセ基地に帰投している[330]。8時10分、空母(恐らくカリニン・ベイ)に砲撃をしていた榛名は左艦首方向に全く異なる空母部隊を視認する。これはタフィ3の南東で行動していた第2集団「タフィ2」であった。榛名艦長重永主計少将はこれを砲撃すべく接近するが低速の榛名は追いつくことができずまもなく振り切られた。8時30分頃榛名は再びタフィ3への追撃を開始した[331]。
8時20分に金剛が煙幕を抜けて、ジョンストンを発見した。同艦は金剛へ40発の5インチ砲を撃ち込み数発の命中弾があったが、金剛は怯むことなくジョンストンに対して反撃を開始した為、ジョンストンは慌てて煙幕の中に逃げ込んだ[332]。その後煙幕が晴れ、ガンビア・ベイが筑摩から砲撃を浴びているのを見たジョンストンは直ちに救援のため筑摩への攻撃を開始した[332]。
8時26分、スプレイグはジョン・C・バトラーとデニスに敵巡洋艦と猛攻に晒されている護衛空母の間に立ちふさがるよう指示、2隻は左翼に移動する。ジョン・C・バトラーは魚雷を保持している唯一の駆逐艦だったが有効な射点につくことができなかった。またレイモンドが利根に接近し砲撃、利根もガンビア・ベイへの砲撃を一時中止しレイモンドを砲撃している。この間デニスは直撃弾3発を受けジョン・C・バトラーの煙幕に退避した[324]。
8時30分、多数被弾し速力が17ノットまで低下したホーエルはそれでも退避することなく果敢に戦い続けていた。日本の巡洋艦に6,000ヤードまで近づき5本の魚雷を発射、その後退避しようとしたが猛射を浴びせられ、もはや速力が落ちているホーエルは退避できず多数の命中弾を浴びた。
その後ホーエルは左に傾いたため総員退艦が命じられ、8時55分ホーエルは転覆して艦尾から沈んでいった。総員300人のうち253人が戦死、わずかに生き残った乗組員のすぐ近くを、日本艦隊が進んでいった。大和の艦橋から海上を漂うホエールの乗り組員を見下ろした宇垣は「彼等は我が艦隊の堂々たる追撃を如何に見たらん」という感想を抱いた[333]。同じ頃サミュエル・B・ロバーツも命中弾を受けその後も連続して命中弾を受ける。同艦は9時10分に総員退艦が下令され、10時5分に沈没した。
8時45分、南西に進撃する第十戦隊は空母2隻を視認、木村進司令官は左雷撃戦を決断、しかし雷撃開始前に敵空母が煙幕に隠れてしまう。直後の8時48分頃、左前方から接近する駆逐艦を発見。これがガンビア・ベイを守ろうとするジョンストンであった。ジョンストンが魚雷を撃ったように見えた矢矧は右に回避しつつ高角砲で応戦、麾下の駆逐艦もそれにならった[334]。ジョンストンはこの付近にいる唯一のアメリカ軍駆逐艦となったため、日本軍の巡洋艦と駆逐艦の集中砲撃を受け、前部砲塔は沈黙し艦全体が炎に包まれた。針路を狂わされた第十戦隊は8時59分に再度突撃針路につくと、9時5分アメリカ空母に対して雷撃を行ったが10kmの遠距離雷撃のため命中弾はなかった[335]。
ガンビア・ベイも他のアメリカ軍艦艇から落伍し集中砲火を浴びて停止し大きく傾斜していた。格納庫内の艦載機が誘爆し、航空燃料が漏れて格納庫内は大火災となり、爆発でエレベーターが吹き飛ばされた。なおも砲撃が続くが距離が近くガンビア・ベイの装甲が薄かったため、徹甲弾は命中しても艦を貫通し炸裂しなかった。8時45分にヴェーウェグは機密書類の焼却と総員退艦を命じた。それでもガンビア・ベイは10分以上海上に浮かんでいたが、9時過ぎに転覆して海中に没した。海中に1,000人以上の乗組員が投げ出されが、救助が遅れて2日間海上に漂流することとなり、サメの餌食となった水兵も多数に上り、救助されたのは800人であった[332]。
ガンビア・ベイを守ろうとしたジョンストンも最期を迎えつつあった。第十戦隊の駆逐艦はジョンストンに肉薄し斉射を浴びせたが、ジョンストンも反撃を試みている。それでも9時45分に機関が停止するとエヴァンスは総員退艦を命じた。沈みゆくジョンストンに雪風が接近したが、その際退艦する短艇に対し雪風の機銃員が射撃を加えたのを見た寺内正道艦長は、「逃げる者を撃ってはならぬ、撃ち方やめ、やめ」と大声で制し、10時10分にジョンストンが沈没するときには敬礼をし、ジョンストンの短艇はそのまま見逃した[336]。
全世界は知らんと欲す
ハルゼーがサマール島沖の交戦を始めて知ったのは戦闘開始から1時間以上も経った8時22分であった[注釈 74]。8時30分には高速戦艦隊派遣の要請無電が入ったが、ハルゼーはこの要請に違和感を感じている[337][注釈 75]。
違和感を覚えつつもハルゼーはフィリピン東方海上で燃料補給中であった第1群(TASK GROUP 38.1)司令官ジョン・S・マケイン中将に「可能な限り早く攻撃する」よう打電した。しかし、9時以降キンゲイトより危機的状況を伝える至急電が続きハルゼーを驚愕させた[注釈 76]。
この報告を受けても、ハルゼーは空母第1群を送り込むことで自分がやれることは十分やっていると考え、さらに小沢艦隊を求めて北上を続けた[338]。
その頃、真珠湾の太平洋艦隊司令部には両艦隊からの緊迫した無線が入っており、ニミッツは海戦の状況に気をもんでいた。司令長官就任以来、作戦中の指揮官に直接指示をしたり、報告を要求するなどの介入は一切控えていたニミッツだったが、スプレイグが攻撃を受けていると知ると、自らスタンスを捨て「第34任務部隊の位置を知らせよ(where is Task Force Thirty Four?)」とハルゼーに訊ねるよう指示した[339]。
だがこの至急電は、暗号変換の際に敵の暗号解読を混乱させるために前後につけられていた意味のない文言を、本来なら解読の際に取り除くものを旗艦「ニュージャージ」の通信員だけが削除するものか判断できずにそのままの状態で司令部に送ったため、後世「戦史上最も悪名高い文面」となってしまった[340][注釈 77]。
発信者ニミッツ太平洋司令長官、着信者ハルゼー第3艦隊司令長官、通報先キング合衆国艦隊司令長官、キンケイド第7艦隊司令長官
第34任務部隊の位置を知らせよ(where is Task Force Thirty Four?) RR
全世界は知らんと欲す (The world wonders)
文面をそのまま受け取ったハルゼーは侮辱だと受け取り[341]、怒りで顔を真っ赤にして軍帽を甲板に投げつけ、電文を握りつぶしながら涙声で「チェスターにこんなひどい通信文を私に送るどんな権利があるんだ」とどなった[342]。
9時55分、ハルゼーはまずボーガン少将指揮の第2群に反転を命じ、10時15分にはリーの第34任務部隊にも反転を命じた。リーは当初20ノットでの航進を命じたが、高速の機動を繰り返していたため小型艦の燃料に支障をきたし、12時から12ノットに減速して給油を開始、15時22分に完了している。
またハルゼーは座乗するニュージャージー以下第7戦艦戦隊の戦艦2隻[注釈 78]、第14巡洋艦戦隊の軽巡3隻、他駆逐艦8隻を抽出して第34任務部隊第5群を臨時編成、第7戦艦戦隊司令官オスカー・ バッジャ少将を指揮官に命じて自身と共に先行、リーの本隊はこの後詰という形にした[343]。
追撃中止
8時51分、進撃する鳥海の左舷中部に被弾、同艦はにわかに左に旋回し落伍する[注釈 79]。同じ頃筑摩も敵艦載機の攻撃を受け左舷艦尾に魚雷が命中、艦尾が大破し沈下、舵も故障し左に旋回して落伍した[344]。同じ頃、榛名と金剛の目撃情報を受け大和はもう1機の観測機(安田親文飛曹長機)を射出し南東の空母部隊に向かわせる。同機は8時55分に敵空母発見を報告、栗田は南東と南西に2個空母部隊がおり、自軍はその中間にいることを知る[345]。
8時53分頃、筑摩は魚雷1本を艦尾に受けて火災が発生した[346][347]。 艦艇研究家木俣滋郎によれば、この攻撃は護衛空母ナトマ・ベイから発進したTBF アヴェンジャーによる雷撃で[348]、これにより舵故障と速力低下のため艦隊より落伍[349]したが、利根は羽黒に続行した[350]。
9時の段階でタフィ3に肉薄して攻撃するのは重巡2隻だけとなった。2隻は果敢にタフィ3を攻撃し数隻の撃沈を報じているが、アメリカ側の記録では損害はヒーアマンが筑摩からの攻撃を受け命中弾多数(筑摩落伍により難をのがれる)と上記のジョンストンと第十戦隊の交戦だけである[351]。
この時点で栗田艦隊には各部隊から戦況報告は無く、海域に散ばっている状況で統制が取れなくなりつつあった。また攻撃開始から2時間が経過し、敵を高速機動部隊だと思い込んでいたこともあり、このままではいたずらに燃料を消費してしまうだけだと思われた。そこで栗田は9時11分に各艦艇に「逐次集まれ」と下令。艦隊の再集結を命じる。
この集結運動の合間にもアメリカ軍機による空襲は継続していた。10時17分、20機ほどの艦載機が攻撃を仕掛け大和に至近弾2発、長門は艦尾に至近弾4発を受ける。10時35分には雷撃機約30機が襲来し大和・長門・榛名・能代が攻撃されるが回避した[352]。10時50分頃、鈴谷に対し艦爆約30機が襲来、左舷中部に至近弾を受け火災が発生、これに装填中の九三式酸素魚雷が誘爆、11時15分、艦長の寺岡正雄大佐は総員退艦準備を指示する。白石司令は利根への旗艦移乗を決断し利根から短艇を呼び寄せる。司令は艦長の寺岡大佐へ総員退艦を指示するも艦長は応じなかった。しかし司令部移乗直後にアメリカ軍機の空襲が再開され鈴谷の誘爆も再発、12時30分、鈴谷は沈没し救助に駆けつけた沖波に艦長以下415名が収容される[353]。沖波は救助作業により本隊と離れてしまい単独で撤退を開始する。
この他に戦闘で損傷した鳥海、筑摩などの落伍艦のうち、熊野は自力航行が可能だったため既にサンベルナルジノ海峡に向けて退却していた。戦場に取り残された鳥海、筑摩のうち10時6分に鳥海に対して駆逐艦藤波が、11時40分には筑摩に対して駆逐艦野分が救援に派遣された[354]。藤波の発した無電によると鳥海はサンベルナルジノ海峡への退却を始めるが21時40分頃に航行不能となり藤波が生存者を救助の後雷撃処分、藤波はコロン湾に向かった。しかし27日に座礁した駆逐艦早霜の救援に向かうも米軍機の空襲を受け轟沈、藤波と鳥海の乗員は全員戦死した。
筑摩の方は野分が到着した時点で沈没していたとも言われている。野分は生存者の救助後、退却する栗田艦隊本隊を追尾するが、小沢艦隊の攻撃から反転南下してきたハルゼー直卒の高速戦艦部隊に25日の深夜に捕捉される。野分は軽巡ヴィンセンス、ビロクシー、マイアミ、駆逐艦オーエン、ミラーによるレーダー射撃を受け大破[355]、最後は駆逐艦の魚雷を受けて沈没した。艦長以下272名[356]全員が戦死した[357]。筑摩乗員も野分に乗艦していた120-130名[358]は全員戦死し、野分に救助されずに漂流しアメリカ軍に救助された1名のみ生還した。
10時56分、栗田艦隊は集結を終え、レイテ湾への進撃を開始する。レイテ湾進撃を再開したことは宇垣中将には意外だったようで、自身の日誌戦藻録にも「11時20分の頃に至り『何を考えたか』針路を225度としてレイテ湾に突入すと信号せる」とレイテ湾突入の命令に不満があったことを書いている[359]
結局栗田艦隊の約2時間の攻撃で、タフィ3は護衛空母ガンビア・ベイと駆逐艦ジョンストン、ホーエル 、護衛駆逐艦サミュエル・B・ロバーツ が沈没し、他の護衛空母はファンショウ・ベイが20cm砲弾4発被弾、カリニン・ベイが20cm砲弾13発、キトカン・ベイとホワイト・プレインズが至近弾を受けて損傷したに留まった[360]。ただし栗田艦隊は、戦艦の砲撃で撃沈・正規空母1隻、重巡洋艦1隻、大型駆逐艦1隻、撃破空母2隻、巡洋艦1隻、駆逐艦1隻[361]。第十戦隊が正規空母2隻・駆逐艦3隻撃沈[362]と誤認している。また西村部隊の得た戦果を、撃沈空母3・巡洋艦3・駆逐艦4、撃破空母2・巡洋艦または駆逐艦2 - 3と判断していた。小沢艦隊も空母1撃沈、空母1撃破の戦果があったとしている[363]。この理由は概ね下記に纏められる。
- タフィ3の各護衛空母がスコールを利用して度々姿を隠したこと
- 各護衛空母が、「一度砲弾が落ちたところには、二度は落ちない」という経験則による着弾観測修正を逆用した回避運動を懸命におこなったこと
- 各艦が煙幕を展開し駆逐艦が進路妨害のため雷撃をおこなったこと[364][365][366]
- 航空機が弾切れとなったにもかかわらず投弾のフェイントをおこなったり機銃掃射を行って阻止行動に出たこと[367][368]
- 矢矧と、同艦に従う第十七駆逐隊がアメリカ空母に接近せず遠距離雷撃を行ったこと。
また、アメリカ戦史研究家のRobert Lundgrenの研究成果では大和個別での戦果は以下の通りであると述べている。
- ホワイト・プレインズ :至近弾数発。右舷機関室が破壊。
- ジョンストン:46cm砲弾3発被弾、15cm砲弾3発被弾 [369]
10月25日 レイテ上陸地点の戦況
この日も日本側の航空攻撃は散発的であり、地上の第十六師団は苦戦を強いられていた。師団長である牧野中将は第二線陣地への後退を命じたが、アメリカ軍の猛追を受けて師団司令部のあるダガミ付近まで押し上げられてしまった。師団が掌握している兵力は約三千にまで損耗し、火砲も食糧も大部を失い、将校も多くが戦死した[370]。それでも一部の取り残された兵力がブラウエン北飛行場地区などで抵抗を続けており、カトモン山(沿岸から約5km)でも日本軍の残余が抵抗を続けていた[371]。上陸地点は日米両軍が入り乱れて戦い、それに伴う砲爆煙に覆われている状況だった[370]。また前日よりブラウエン地区に侵攻した戦車およそ40両を先頭とするアメリカ軍2個大隊は同地の日本軍を駆逐しドラッグ方面の制圧を完了した。
栗田艦隊の北上
進撃の再開
進撃を再開する前の10時、栗田艦隊はサマール沖での海戦の戦果を撃沈確実空母2隻(内正規空母1隻含む)、同甲巡1隻、駆逐艦2隻、命中弾確実空母1〜2隻と報告、11時には集結した各部隊からの情報を統計して撃沈確実空母4隻(内正規空母2隻)・甲巡1隻・乙巡1隻・駆逐艦4隻・撃破空母2隻(内1隻は正規空母もしくは戦艦)・巡洋艦もしくは駆逐艦2 - 3隻と報告している[372]。報告を受けた大本営や連合艦隊は、水上艦隊が単独で米機動部隊の1個群を撃滅したことに歓喜した。実際は護衛空母数隻の艦隊で撃沈は護衛空母1隻、駆逐艦3隻であったが日本側は戦後になるまで誰もその事実に気づかなかった[373]。11時20分、栗田艦隊は「我地点ヤヒマ37針路南西レイテ泊地へ向かう。北東30浬に空母を含む機動部隊及び南東60浬に大部隊あり」[374]と打電し関係各部隊に進撃を再開したことを通達した。
進撃再開前後、大和の見張り員から「北東方面に数本のマスト発見」という報告が上がり、第一戦隊の末松虎雄参謀も確認[375]したので宇垣から「北東の敵を討つべく直ちに反転すべき」と意見具申がされたが、栗田はレイテ湾への進撃を継続させている[376][377]。
11時前、南西方面艦隊から栗田艦隊の北100kmの地点「ヤキ1カ」に、9時45分時点で機動部隊が存在するという電文が届いた。参謀達が協議に入る中、11時45分、栗田は所属各艦に輸送船団への突入を行うことを指示している。
11時50分、栗田艦隊は南西方面艦隊、第一第二両航空艦隊宛に報告のあった敵機動部隊を攻撃し無力化するべく、「ヤキ1カの敵を攻撃されたし」の電報をうつ[378]。また11時54分、大和の見張り員が東方にマスト5本を発見、宇垣は進撃してきた西村部隊の残余ではと考え近寄ることを助言するが、栗田はそれを拒否した[379]。12時7分、敵機約50機が襲来、空襲は約40分続き大和・長門・金剛・榛名・利根・羽黒・能代が狙われる。このうち利根が12時41分、直撃弾1発を蒙る。
反転
空襲の最中の12時26分、栗田は参謀の進言を受けヤキ1カの敵を攻撃すべく反転する。いわゆる「栗田ターン」である。 12時36分、栗田艦隊は「1YBはレイテ突入を止め敵機動部隊を求め決戦」と無電し反転を各部隊に通達する[380]。しかしその位置に機動部隊は存在せず、この点は戦後論議の対象となった。
12時50分、通算して8度目の空襲を終えるが、程なく13時10分に接近する新たな敵編隊を探知、13時22分に9度目の対空戦闘が開始される。金剛が至近弾5発を受け燃料が流出、榛名、利根も至近弾を複数発受ける[381]。14時30分、敵機が立ち去る先の水平線に着艦作業をする空母を大和見張り員が発見、これが目標の敵機動部隊だと考えた栗田は14時45分に「我1430地点モツ三ツ30度方向視界限度付近にヤキ1カの敵空母群らしきもの発着艦をなしつつあり」と打電している[382]。15時15分、大和が敵編隊を探知、30分に再度捉え15時50分より2群に分かれた敵艦載機の空襲を受ける。大和などが狙われるが損害は無かった[383]。
栗田艦隊のレイテ湾突入意思の喪失が何時起こったかは諸説ある。一般的に伝えられる話としては、最初に反転を進言したのは作戦参謀大谷藤之助中佐であり、それを受けて先任参謀山本祐二大佐が栗田に伝えた。栗田は自分ひとりで決定したと伊藤正徳に述べたが(詳しくは後述)[384]、小柳は参謀会議を開いて全員一致で決定したと戦略爆撃調査団に陳述している[385](一般的な決定経過は原勝洋『日米全調査 決戦戦艦大和の全貌』など多くの書籍に記されている。その議論の詳細は下記)。
小柳の陳述によれば、反転した理由は下記の6点に纏められる。
- 志摩艦隊から西村部隊の全滅を知らされたこと
- 栗田艦隊のレイテ湾接近が大幅に遅延したこと
- アメリカ空母から発信されたと思われる増援要請の電話傍受により2時間後に航空機が飛来すると予想されたこと
- 空母機にレイテ島の野戦基地に着陸するよう命じた電話の傍受により基地機との共同攻撃が予想されたこと
- 別の機動部隊が北方から接近すると考えられたこと
- レイテで戦闘を継続した場合、更に多量の燃料を消費すると予想されたこと
当時大和に通信士官として乗り組んでいた都竹卓郎によれば、反転北上の頃に栗田艦隊など日本海軍でイメージされていたのは次のような態勢であった。
- 敵機動部隊は北、中央、南の3群に分かれている
- そのうち南方群が明け方栗田艦隊と交戦(77.4任務部隊のこと)
- 中央群は南方群救援のため南下を開始、昼過ぎから栗田艦隊に攻撃を加えている(第38.2任務部隊のこと)
- 北方群(中央群から分離)が、小沢艦隊に向かいつつある(第38.3および4任務部隊のこと)
という構図である[注釈 80]。
軍令部の状況判断
この時の軍令部の状況認識も第一遊撃部隊と同様であった。まず機動部隊本隊からのこの日の報告電文は軍令部にも未達が多くあり、この時点で届いていたのは0732番電の敵艦上機の触接を受けたというのと、1107番電の旗艦が大淀に替わったという報告との2通だけであった。しかし、これらはハルゼー機動部隊の誘致成功を示唆する内容ではなく[注釈 81]、そのため大本営でも機動部隊本隊の敵の北方誘致は成功していないと判断していた[386]。また「スルアン島灯台の5度113浬」付近に0930時敵空母3、戦艦多数ありとの情報はこの時軍令部も把握しており、昨夜サンベルナルジノ海峡東方にいた敵機動部隊は南下したと考えていた[298]。
これらの状況判断により、第一遊撃部隊からレイテ湾突入を取りやめて反転北上をする旨の電報が届いたとき、軍令部も連合艦隊もこれに対する措置は何も執らなかった。それどころか栗田艦隊の反転北上は、南下するハルゼー機動部隊の大群に航空援護もなく自艦隊だけで突っ込んでいくものと認識され、伊藤整一軍令部次長は「却って危険だ」と発言している。軍令部では第一遊撃部隊は単独でアメリカ軍全力を相手にしていると考えていたのである[387]。また、現場指揮官が状況に応じて判断した措置を、遠く離れて状況を知らない司令部がそれに対して指示を与えることは現実問題として不可能だったという理由もある。
アメリカ第3艦隊の追撃
16時16分、サンベルナルジノ海峡に退避する栗田艦隊の上空を第6基地航空部隊の攻撃隊約60機が通過する。サマール沖で栗田艦隊が会敵したアメリカ艦隊を攻撃するために出撃した部隊だったが、今作戦で始めてみる友軍編隊の雄姿に疲れきった艦隊将兵の生気が蘇ったという[388]。16時40分、約40機の艦載機の空襲を受ける。榛名に至近弾によって第一煙突近くで黒煙があがり、矢矧で火災が発生、駆逐艦早霜は被弾し栗田は秋霜をつけてコロン湾への退避を命じる。また友軍の九九式艦爆数機が友軍による敵艦隊への空襲と誤認し攻撃に参加、羽黒を攻撃してしまう。栗田は17時10分に基地航空隊に誤爆されている旨の警告文を発した[389]。
サマール沖で大破し単艦で退避する熊野も正午前に瑞雲2機、天山艦攻1機の誤爆を受けている。同艦は翌26日早朝にもアメリカ空母ハンコック艦載機の空襲を受け煙突付近に爆弾を受け速力が2ノットまで低下する。しかし午後には退却してきた第二遊撃部隊から駆逐艦霞と重巡洋艦足柄が救援に駆け付け、応急修理で9ノットまで出せるようになり、夕刻には無事にコロン湾に到着した。
ハルゼーは16時1分に速力28ノットを命じ続いて夜戦準備を下令、26日1時に海峡に到達することを予告した。第2群には東方海上で待機し航空機による支援体制を整えた。これによってバッジャの第5群は撤退しつつある栗田艦隊を追ったものの、栗田艦隊は21時5分頃に海峡を通過しており、第34任務部隊第5群との時間差は3時間あった。
19時25分、栗田は連合艦隊司令長官よりGF機密第251647番電を受信、これは栗田艦隊の反転北上を追認するものだった[390]。20時07分には軍令部より軍令部機密第251715番電を受信、一連の戦闘経過が奏上され、陛下より満足である旨のお言葉を賜ったことを知らされている[391]。
21時35分、サンベルナルジノ海峡を通過した艦隊は26日8時35分、20数機のアメリカ艦載機の攻撃を受ける。この攻撃で大和に2発の直撃弾、能代は直撃弾1発、魚雷1発を受け航行不能となる。栗田はこのままコロン湾に戻って補給するのは危険と判断、9時15分、ブルネイへ帰還することを決断する。既にコロン湾に入港していた妙高と長波には緊急出港を命じ、2隻は27日11時に出港、29日にブルネイに入港した[392]。
10時30分、艦隊は20数機の敵機の空襲をうける。攻撃は航行不能の能代に集中し魚雷1本が命中、艦長の梶原季義大佐は11時5分に軍艦旗降下、総員退艦を指令。能代は11時13分に沈没した。この頃早霜の警戒をやめて主力を追従していた秋霜は能代の沈没点に到達、近くにいた駆逐艦浜波と共に生存者の救助に当たり早川第二水雷戦隊司令以下司令部要員、艦長ほか乗員を救助した[393]。
秋霜と分かれた早霜はアメリカ艦載機の攻撃を受け2発命中、損傷したので付近の無人島に座礁させた。翌27日、付近を通過した沖波がこれを発見し、燃料の少ない早霜に自艦の燃料を分けるために横付けする。その途中、早霜の救援に向かった藤波が接近してくるがアメリカ軍機の攻撃を受け撃沈され乗組員全員が戦死した[注釈 82]。その後沖波は離れていくが、早霜は付近を航行する不知火を発見、しかし同艦も早霜の目前で空襲により撃沈される。結局、早霜は11月1日に那智水上機に発見され救援隊が派遣される。艦長平山敏夫中佐他生存者は生還した。
栗田艦隊は28日21時30分、ブルネイに帰投し、萬栄丸・八紘丸・雄鳳丸から一週間ぶりの給油を受けた。各艦の燃料は枯渇しかけており、戦艦は188 - 1,300トン、巡洋艦では40 - 190トン、駆逐艦では100 - 150トンだったとされる[394]。
基地航空隊の攻撃と神風特別攻撃隊の初出撃
24日の敵機動部隊攻撃に失敗した第六基地航空部隊は25日の総攻撃のため、24日20時30分以降、翌25日0時にかけて3機の飛行艇を夜間索敵に出撃させていた。そのうちの1機(山之内茂美大尉機長の97式飛行艇)が1時40分に「ヤリ3ス(マニラの90度290浬)に大型艦4隻含む約20隻の艦隊発見を報告し消息を絶った。2時にはその南方を飛ぶ機(小林鹿一少尉機長の97式飛行艇)からも搭載する電探がムエ2イ及びモエ1カに敵大部隊を探知したと通報が入った。同機は3時20分には「ノエ3ス」、同50分には「ヤイ4ケ」にも敵を探知したと報告する[395]。
計5か所に敵を発見したという報告を受け、福留長官は攻撃隊の準備を進めるとともに、電探で捉えた敵を捕捉すべく索敵機を次々と出撃させた。7時には第一次攻撃隊として戦爆連合約104機(零戦47機、爆装零戦28機、99式艦爆24機、彗星5機)が出撃し、敵がいるとされるレガスピー東方海面へ向かった。ところがそれから30分後、第一遊撃部隊よりサマール島南東海域で米空母部隊と遭遇し交戦に入ったという連絡が届く。既に出撃させた第一次攻撃隊をそれに向かわせるには航続距離が足りなかったので、夜間攻撃に予定していた第二次攻撃隊の一式陸攻、銀河計10機を急きょこれに向かわせることにしたが、部隊指揮官にこの指令が届いたのが翌26日と大幅に遅れたため、結局同部隊は予定通り夜間攻撃に出撃し、敵を発見できずに帰投した[396][注釈 83]。
この頃、司令部に「ウキ5ソに空母3隻を含む敵部隊あり」という情報が届き、福留は24日にハルゼー機動部隊攻撃後、ツゲガラオ基地に帰投していた第三航空戦隊の残余機(零戦18機、彗星艦爆13機、彩雲2機)に攻撃を要請したが、これも電報の遅延や整備の遅れなどがあり出撃はなかった[397]。
第一次攻撃隊はレガスピー東方を進撃し、9時ごろには予定針路の先端に到達したが敵を発見できず、そこから真西に針路をかえて進撃したが発見できないまま、レガスピー基地に全隊が帰還した。なおその間彗星艦爆2機が失われた[398]。
神風特別攻撃隊
第六基地航空部隊がレガスピー東方へ全力出撃している頃、第一遊撃部隊と交戦したタフィ3に攻撃を仕掛けた航空隊がいた。後に「統率の外道」と指揮官である第五基地航空部隊大西瀧治郎中将自らが呼んだ神風特別攻撃隊。通称「特攻隊」と呼ばれる航空機による体当たり攻撃部隊である。これは台湾沖航空戦により稼動機数が僅か零戦30機程度にまで激減した航空戦力で栗田艦隊のレイテ湾突入を援護しなければならなかった大西が、苦肉の策として発令したものと言われている[注釈 84]。人事及び機材改造など準備に時間がかかることから、作戦の一つとして元々軍令部が準備していたことは疑いないが、どのようにして大西中将が特攻戦術導入に至ったのか[注釈 85]などは、彼が終戦直後に何も語らずに自決したことにより未だに謎に包まれている。なお、陸軍は富永恭次中将を司令官とする部隊が"万朶隊"及び"富嶽隊"の2隊を特別攻撃隊として出撃させているが、これは海戦後の11月に入ってからのことであり、海戦時は実行部隊は未だ内地で編成中であった。
特別攻撃隊は20日、「敷島隊」(隊長関行男大尉)・「大和隊」(同久納好孚中尉)・「朝日隊」・「山桜隊」が編成された。21日朝、各地から出撃したが天候不良などで会敵できず、以後24日まで3回出撃しているがどれもが帰還している。その間大和隊は2機の未帰還機が出ている[注釈 86]。22日にはマバラカット基地で新たに「菊水隊」・「葉桜隊」・「若桜隊」が編成された。
そして25日、通算4度目の出撃が行われた。6時30分、最初に出撃したのは朝日隊・山桜隊・菊水隊だが、そのうち菊水隊がシアルガ島沖のアメリカ護衛空母群「タフィ1」を発見し攻撃、1機が空母サンティーの飛行甲板左舷前部に命中、火災を発生させた。更にもう1機ずつが空母サンガモン、ペトロフ・ベイに突入するが空母スワニーの対空砲火で撃墜された。しかしそのスワニーに最後の突入があり後部エレベーター付近に命中、菊水隊は2隻の護衛空母に損傷を与えた[399]。これらの攻撃は本来なら『神風特別攻撃隊の最初の戦果』ではあったのだが、戦果確認に手間取り、連合艦隊司令部への報告が遅れたので、以後の敷島隊の攻撃が最初の特攻とされた。なお同日に出撃した朝日隊・山桜隊は敵を発見できず、直掩機2機を失い帰還した。
7時25分、敷島隊の零戦9機(突入隊:関行男大尉以下5機、直掩隊:西澤広義飛曹長以下4機)が出撃、10時40分、第一遊撃部隊の追撃を脱したタフィ3を発見し、直ちに突入を開始する。旗艦キトカン・ベイが最初に狙われ1機が突入する。これを辛くも回避するが搭載していた爆弾が炸裂し損害を受けた。更に空母ホワイト・プレインズを狙った2機のうち、1機が被弾後目標を替えて空母セント・ローに突入、飛行甲板を貫通して内部で爆発し、航空燃料や弾薬が誘爆、同艦は大火災を発生させ11時15分に沈没した[400]。
同隊はセント・ロー沈没直後、2隊目の特別攻撃隊の攻撃を受ける。9時に出撃した大和隊(同隊は直掩機を含めて全機が未帰還となり、戦果確認ができていない)もしくはこの日に急きょマバラカット基地で編成された彗星艦爆2機による特攻と思われる。この攻撃によりキトカン・ベイに2機が命中(飛行甲板、及び後部煙突)した[401][注釈 87]。
この攻撃で護衛空母1隻を撃沈、3隻を撃破した。だが海軍は正規空母の撃沈破と誤認。この後日本軍は終戦までこの戦法を正規の戦術として作戦展開していくこととなる。こうしてタフィ3は護衛空母2隻の沈没に加え戦死者は約1,200人、負傷者800人、飛行機の損失100機などの大損害を受けて撤退し、かわりに第38任務部隊第4群が護衛にあたった。この艦隊も特攻機に攻撃され、29日に空母フランクリンおよび軽空母ベロー・ウッドが損傷して避退した。
誤認・誤報が飛び交う敵情報告
13時頃、福留の下に第一遊撃部隊より11時50分発の「0945ヤキ1カの敵を攻撃されたし」の要請文が届く。9時45分発見のこの敵の情報が、9時40分発見のウキ5ソの敵と場所が近いこともあり、福留は迷うことなく「1305 6FGB攻撃可能全力敵空母攻撃実施」と電令を発し、大西第一航空艦隊司令長官も「全力地点『ヤキ1カ』の敵機動部隊を攻撃せよ」と麾下の部隊に命令した[401]。
だがヤキ1カの敵もウキ5ソの敵も、早朝に発見した5カ所の敵も、全て誤認もしくは誤報であった。このうちヤキ1カの所在については後述するが、福留長官が手に入れていた「0940地点『ウキ5ソ』に敵空母3隻見ゆ」という情報も発信者の記録も受電の記録もない、第三航空戦隊の残余機に対して発信した「6FGB機密第251103番電」で初めて出てくる内容である[402]。この他にも第六艦隊では11時37分頃に麾下の潜水艦に宛てて出した「6F機密第251137番電」で触れている「0900地点「ヤンメ55」に敵空母3隻南下中」という情報もある。ヤンメ55は艦船用地点略語であり航空用にするとノキ5ソで、ヤキ1カ、ウキ5ソのおおよそ中間に位置する場所であるが、これも情報源が何処かは記述がない[403]。
こういった発信者の記録の無い敵空母発見の報がほぼ同時刻にマニラや内地で受電され、各隊がそれに則って行動を起こしている。この他にも第61航空戦隊より麾下の彩雲偵察機からの情報として9時から9時6分にかけてヤキ1カやウキ5ソに近い4地点(ノテ4ケ、ノキ4エ、ヤキ3ク、ノツ4エの4カ所。彩雲が帰着後に報告され同戦隊より発信された)で敵を発見したという情報が11時ごろに出されており、どの地点にも実際には米艦隊は存在しなかった。これらの情報に基地航空隊は振り回され、第一次攻撃隊は全くの空振りに終わった。
帰還した第一次攻撃隊は補給の後、第一遊撃部隊からの「ヤキ1カ」点への攻撃のため随時出撃した。まず13時50分よりクラーク基地より第一次攻撃の零戦28機、99式艦爆2機が出撃、次いで14時50分よりレガスピー基地より第二次攻撃の彗星艦爆4機、15時には第三次攻撃として零戦35機、99式艦爆23機が天山2機の先導の元出撃した[404]。しかし第一第二次攻撃隊はどれも敵を発見できず帰還する。第三次攻撃隊は16時16分に第一遊撃部隊の上空を通過し同隊の士気を上げるが、敵を発見せぬまま17時にアメリカ戦闘機35機と遭遇し空戦となり、零戦6機と99式艦爆2機を失い退却、19時30分にレガスピー基地に帰還した。また同攻撃隊の一部は16時40分頃より空襲を受けた第一遊撃部隊を『日本軍機に攻撃を受ける米艦隊』と誤認して羽黒に攻撃をかけている(実際653空戦闘詳報に敵艦隊攻撃戦果不明の記述がある)[405]。
この後も基地航空隊は薄暮・夜間攻撃を企図して攻撃隊(零戦35機、天山9機、一式陸攻13機)を出したが、どれも敵を捕捉できずに帰還した。しかし退避する重巡熊野が友軍機の誤爆を受けたという情報が入り、第一遊撃部隊からも二度に渡り誤爆があったという報告が入ったことを受け、20時に福留より「今夜の攻撃を取止めよ。味方撃ち多し」の指令がでる。大西も第一遊撃部隊に誤爆があったとし、味方識別を注意するよう麾下部隊に注意を喚起している[406]。
こうして25日の攻撃はまたしても失敗に終わった。しかし第一航空艦隊の神風特別攻撃は成功を収めた。これにより大西の「第二航空艦隊での特別攻撃の編成要請」に頑なに首を振らなかった福留も、従来の作戦ではもはや通用しないことを悟らざるを得ず、第51航空戦隊所属の艦爆隊による「第二神風特別攻撃隊」を編成する[407]。同隊は10月27日より随時編成され特攻作戦を開始、こうして神風特別攻撃は継続して実施されていくことになり、以後の沖縄戦などで大々的に行われていくことになる。
結果とその後
結論を言えば日本軍は、作戦本来の目的である輸送船団の撃滅およびアメリカのフィリピン奪還阻止を達成できなかった。アメリカ軍に一矢報いようとする日本軍の最後の試みは文字通り水泡に帰した。これにより、アメリカ軍はレイテ島に足場を築くことに成功し、フィリピン奪回を進めることとなった。日本軍はアメリカ軍に一応の損害を与えることはできたものの、与えた損害をはるかに上回る損害を被った。しかし当時の日本側は状況把握ができず、10月27日に大本営海軍部は敵艦隊を撃破したと発表した。この誇大戦果は先の台湾沖航空戦の誇大戦果と合わせてますます日本側の状況判断を誤らせることになった[408]が終戦までそのことは日本側は殆ど気付いていなかった。日本軍は空母4隻、戦艦3隻、重巡6隻他多数の艦艇を失い、残存艦艇は燃料のない本土と燃料はあっても本格的な修理改装のできない南方とに分断され、組織的攻撃能力を失った。さらに本海戦後、マニラ湾に集まっていた艦艇のうち、10月29日の米軍空襲で重巡洋艦那智が大破、11月5日に再度空襲を受け沈没した。同じくマニラにいた重巡洋艦熊野、青葉は29日の空襲後本土に撤退するが熊野は米軍機の空襲に晒され沈没、青葉のみ無事帰還した[注釈 88]。また、ブルネイに避退した部隊の中でも、戦艦金剛が本土への帰航中にアメリカ潜水艦シーライオン に雷撃されて沈没している。
戦果と戦況判断
実際の戦果とは裏腹に、日本軍はアメリカ軍に対して一定の戦果をあげたと考えていた。10月26日午前の軍令部での戦況報告会で、海軍は連合艦隊は大打撃を受け、第一遊撃部隊のレイテ湾突入による敵攻略部隊撃滅は達成できなかったが、敵の機動部隊に大打撃を与えたことが明確となったと報告し、続く作戦担当部の部内会議ではアメリカ高速空母部隊の残存空母数を正規、巡洋艦改装空母を合わせても6隻程度と判断している[409]。10月27日、軍令部は本海戦における戦果並びに被害を大本営発表として示し、併せて本海戦をフィリピン沖海戦と呼称することを発表した[410]。発表された戦果は撃沈・空母8隻、巡洋艦3隻、駆逐艦2隻、輸送船4隻以上。撃破・空母7隻、戦艦1隻、巡洋艦2隻。撃墜約500機であるが、これは軍令部第一部が各部隊の報告を集計した総合戦果と殆ど一致しており、当時の海軍部内の認識は作戦は失敗したという認識よりも敵に大打撃を与えた認識をしていたことが判る[注釈 89]。統合戦果のうち、第一遊撃部隊は自艦隊だけでも撃沈・空母4隻(内大型正規空母1隻)、重(甲)巡洋艦1隻、軽(乙)巡洋艦1隻、駆逐艦4隻。撃破・空母2隻、巡洋艦又は大型駆逐艦2隻乃至3隻の戦果をあげたと判断していた[411]。
こうしたことから、戦後になって実情が判明するまで栗田と小沢の本作戦における海軍内での評価は現在と大きく異なり栗田への評価は高かったと言われている[412][注釈 90]。只、連合艦隊の情報部門はアメリカ海軍の無線傍受から第一遊撃部隊が攻撃したのはアメリカ第七艦隊の護衛空母群であることに気付いていたが、戦果を訂正するまでには至らなかった。10月27日には及川軍令部総長と米内光政海軍大臣が連合艦隊司令長官の豊田大将に対してそれぞれ大戦果を挙げたことを祝し激励の電文を送っている[注釈 91][413]。
軍令部ではこのような戦況判断を基に、事後の捷一号作戦の方針を
- 基地航空隊をもって中南比、特にレイテ方面の制空権の確保に努め、好機を得たら敵機動部隊に対して攻撃を行う
- 敵のレイテ方面への補給増援の遮断
- 陸軍地上兵団のレイテ増援の支援
- 水上兵力をマニラ、リンガ方面に配置して敵海上兵力に対する反撃に備える
- 潜水艦部隊は敵のレイテ増援補給を遮断するとともに前進根拠地に在泊の艦船、特に空母への奇襲作戦を実施する
と定めた[414]。これは打撃を与えた空母機動部隊にとどめをさし制海空権を確保、上陸した部隊は補給路遮断と陸軍兵団の増強で対処するというもので、空母機動部隊への攻撃を重視するととれるものだった。
連合艦隊側は比島中南部の制海空権が敵の手に渡った場合はルソン島での地上決戦は成立しないという考えをもっており、陸軍のレイテ決戦への方針転換に賛同していた。10月27日にフィリピン周辺での一連の海戦を見届けると、10月27日夕刻に「GF機密電第271715番電」にて
- 陸軍と共同して第一第二十六各師団などの兵力のレイテ移送への協力
- 南西方面艦隊は所在基地航空部隊と協力して上陸部隊の直掩護衛空母や輸送船の撃滅すること
- 第一遊撃部隊は比島又は北部ボルネオ方面を拠点として陸軍上陸部隊の間接護衛を行うこと
- 潜水艦部隊は全力を比島方面に集中し敵輸送路の遮断と敵機動部隊の捕捉撃滅を行うこと
- 機動部隊本隊は一部は補給の上内海西部に回航。4航戦、第31戦隊は特別攻撃隊兵力を比島方面に急送すること
などを指示した[415]。 これを受けて南西方面艦隊では麾下の第二遊撃部隊と第一連合航空部隊(第五第六基地航空部隊の合同部隊で福留長官が指揮官、大西長官が次席指揮官兼参謀長を務める)でレイテ増援の陸軍部隊の海上護衛任務を遂行、海戦に生き残った艦艇で輸送任務に適した中小艦艇をマニラに集結させ多号作戦を実施する[416]。しかし9次にわたるこの輸送作戦でも日本軍は多くの艦艇を喪失し、レイテ島上陸のアメリカ軍の撃退は叶わなかった[注釈 92]。
一方で海戦で損害を受けた損傷艦への修理は、継続するレイテ島での戦いに支障になることが懸念されたので、タンカーや海防艦、駆逐艦などの小艦艇の修理が優先され、大艦の修理は後回しにすることが海軍次官だった井上成美中将を中心に決定される。これに対して軍令部などでは次長の伊藤整一などから反対があり、議論の末戦艦などの修理は後回しとするが余力ができれば行うこととされた[417]。また壊滅した空母戦力は、その再建が長期化することなどから、軍令部は第三艦隊を解隊することを決断、これに伴い第一機動艦隊も解隊となり、同じく第一機動艦隊を構成していた第二艦隊は連合艦隊直轄となった。こうして開戦以来日本とその周辺を席巻した「空母機動部隊」は消滅した[418]。
戦訓
この海戦での連合艦隊の指導した「航空支援のない水上艦艇による突入作戦」は、制空権が重要となった第二次世界大戦では成功はほぼ不可能というのが常識となっており、小沢や栗田ら開戦以来前線で戦ってきた前線指揮官たちもそのように考えていた。作戦前の9月10日に小沢より「第一遊撃部隊に航空協力をする航空戦隊1個を配属すべき」と意見具申がなされているのもそれが理由である。
しかし連合艦隊は当初の作戦内容では基地航空隊と機動部隊による航空支援を盛り込んではいたが、台湾沖航空戦の誤報戦果に踊らされて捷号作戦用に用意されたそれら航空戦力を磨り潰してしまい、続けてアメリカ軍がレイテに侵攻すると後手後手に回り、結局航空支援のない突入を前線部隊に強要した。このことは連合艦隊と前線部隊、特に第二艦隊との間にしこりを残した。
水上艦船が航空機に対抗することの至難さを改めて痛感した前線部隊各指揮官は、各々戦闘詳報で
- 機動部隊本隊戦闘詳報
- 水上部隊の作戦行動能力は、航空兵力の協力なくしては極めて小である
- 防空火器のみで水上部隊が敵機に対応するのは到底不可能
- 第一遊撃部隊戦闘詳報
- 水上艦艇の対空兵装をいくら強化しても、雷爆撃回避を如何に巧妙に極めても、空中攻撃に対抗することはできない
- 使い道の多き有力な水上部隊を長時間裸のまま敵機の空襲下に置くのは得策に非ず
- 機動部隊本隊戦闘詳報
と報告した[419]。
だがこういった現場の意見に対し、連合艦隊の反応は冷淡だった。当時軍令部第一課長だった山本親雄大佐の回想手記によると、第一遊撃部隊が内地に帰還し軍令部に出頭した際、第二艦隊参謀山本祐二大佐より、航空支援の無い状況で水上艦艇を突入させることが如何に無謀で実施困難であるかが改めて報告され
山本祐二 第二艦隊作戦参謀
- 味方航空兵力の支援のない場合、航空兵力優勢な敵を相手として戦闘するのは無謀も甚だしい。今後は一切今回のような無謀な戦闘は(連合艦隊司令部に)やらせぬようにしてもらいたい
(山本親雄『大東亜戦争回想手記』より)
と、軍令部より連合艦隊司令部へ指導して欲しいと強く要望された。
山本親雄大佐はこの意見を尊重すべきと考え、中沢佑軍令部第一部長、伊藤整一同次長、及川古志郎同総長の承認を得て連合艦隊司令部に出向き、草鹿参謀長以下の参集を席上で「今日までの実績を鑑み、味方航空兵力著しく劣勢なる場合、戦艦巡洋艦を以って局地戦に参加せしめることは適当と認めざるにより、大本営としては連合艦隊司令長官がかかる兵力使用を行われざる様希望す」と申し入れた。しかし神重徳大佐は「これまでの戦闘において失敗したのは当事者の勇気が欠けていたためである。勇気さえあれば優勢な敵航空兵力であっても大艦をもって上陸作戦時の攻防戦に参加させることは必ずしも不可能ではない」と反論、山本親雄大佐が過去の戦訓を挙げて「これは単に勇気だけの問題ではない。連合艦隊司令部において慎重に考慮してもらいたい。」と説明したが、神大佐は納得しなかった[420][421]。
結局レイテ沖海戦後も、神の航空支援の重要性の無理解さ(悪く言えば客観的根拠のない精神論・根性論)は続き、1945年4月からの沖縄戦では再び航空支援の無い突入を立案し、レイテ沖海戦の失敗はまた繰り返されて第二艦隊は大和、矢矧など6隻を失い、約3,700名の将兵が死んでいった。前記の山本祐二大佐もこの時大和と運命を共にしているが、山本はこの作戦計画を草鹿から伝えられた際に同席しており、草鹿に同行していた連合艦隊参謀三上作夫中佐が「私も連れて行って下さい」と申し出たのを「お前たち連合艦隊司令部の監視を受けなくても、我々は立派にやって見せる」と拒否している[422]。
なおレイテ、フィリピンでの一連の戦闘が終局した1945年4月30日、海軍大臣米内光政が人事内奏を行った際に昭和天皇より航空援護のない水上艦隊を敵上陸地点に突入させた本作戦について「レイテ作戦に於ける水上艦船の使用不適当なりや否や」と下問があった。軍令部側はこの下問に対し
- 捷一号作戦の構想である『基地航空隊による敵機動部隊の撃破』と『同時に味方機動部隊の敵艦隊北方牽引と呼応した水上艦隊の上陸地点突入と攻略部隊撃破』は不適応とは称しがたい。
- しかし連合艦隊は水上艦隊の突入と連携するはずの基地航空隊の戦術指導が不適切であり、司令部を高雄もしくはフィリピンに進出させ作戦指揮をしやすいようにすべきであった。連合艦隊の作戦指導でこの点適切ではなかった」
という旨を奏上し、連合艦隊の作戦指導に問題があったことを認めている[423]。
海戦への評価
アメリカ
第3艦隊はこの海戦の途中から日本側の作戦通り、囮である小沢艦隊を求めて北上、栗田艦隊の侵入を許し、急遽南下したもののその完全な撃破にも失敗した。 ハルゼーは24日夜の段階では栗田艦隊を撃破し退却させたと思い込んでいたが、戦いの後「明確な意図を持って進む強力な水上戦力を、航空攻撃によってのみ阻止するのは困難」と発言し、自身の正しさについて弁明した。戦後は回顧録の中でトーマス・C・キンケイド中将を批判したため、怒ったキンケイド中将がそれに反論、それに乗っかった「野次馬」の間で、レイテ沖でのハルゼーの取った行動の是非を問う論争が勃発した。なお、上官のニミッツは上記のように海戦前、ハルゼーに日本艦隊を叩くように指示を出していた。
アメリカ側ではこの件に関しての議論が多くなされる。問題の一つには、第3艦隊が多様な任務を要求され、目的が不明確になったことがあった。カール・ソルバーグによれば、キングは厳格に指揮権を分割されたことに責任を感じたため、ニミッツは「全世界は知らんと欲す」により第3艦隊を栗田艦隊への無意味な追撃戦に差し向けた責任からか、戦後は目立った発言がなかったのだと推測している。キンケイドは第7艦隊の基本的な任務である両用作戦の護衛と支援に意識が集中しており、当時第3艦隊がサンナルベルナジノ海峡を封鎖していると思い込んでいた。他の将官と異なり、回顧録の類は書かなかった。
戦時中に控えられていたハルゼーへの批判は、戦後になって日本軍側の事情も明らかになると次第に激しくなっていった。アメリカ海事史研究の第一人者であったサミュエル・モリソンは戦時中はハルゼーと懇意にしていたが、1950年になると、海軍士官への講義で、サンナルベルナジノ海峡を無防備にしたハルゼーの決断を大失敗と断じた。ハルゼーはこの事を知るとモリソンに激しく抗議したが、モリソンが持論を覆すことはなく、自分の著書である「第二次世界大戦におけるアメリカ海軍作戦の歴史」の第12巻で「ハルゼーは彼を北へおびき寄せる日本軍の策略に引っかかったのであって、サマール海のかろうじて避けられた総崩れはハルゼーに一番の責任がある」とはっきりと断じた。激怒したハルゼーは海軍高官に昇進していたかつての部下を使って反論しようと考えたが、その部下は「モリソンの評判は難攻不落です」「あなたのどんな一撃も、どんなに筋が通っていようとも、あの建造物(モリソンの評判)を破壊することはないでしょう、それよりもブーメランとなる可能性が高い」とハルゼーに思いとどまるよう説得している[424]。
ノルマンディ上陸作戦や沖縄戦など第二次世界大戦の主要な戦いを従軍記者として取材し、ピューリッツァー賞を受賞したアメリカの軍事評論家ハンソン・ボールドウィンは、アメリカ国内における議論を見たうえで下記の様に総括している[425]。
- ハルゼー艦隊もしくは第7艦隊、あるいは両艦隊がサンベルナルジノ海峡を厳しく哨戒すべきであった。
- ハルゼーは北方におびき出され、サンベルナルジノ海峡を栗田艦隊に開け放しにしてしまった。
- 栗田提督の小心、拙劣さのため、また護衛空母と駆逐艦の勇敢な遅延作戦のため、日本の中央艦隊のレイテ湾侵入が阻止された。
- たとえ栗田艦隊がレイテの橋頭保とレイテ湾の輸送船団に砲撃を加えることに成功しても、上陸作戦に若干の遅延をもたらすにとどまっただろう。
そして、ハルゼーが小沢艦隊におびき出されたことに対しては、航空畑出身であったハルゼーは日本の空母艦隊こそが最も恐るべき危険な艦船と信じており、小沢艦隊の艦載機があれほど少なかったとは認識していなかった。そのため、小沢艦隊を日本軍の主力と思い込み、その撃滅が自分の主たる任務と考えたと指摘している。これはマリアナ沖海戦で、水上部隊出身のスプルーアンスが、本来の任務をサイパン島上陸部隊に対する支援と考え、敗走する日本艦隊を追撃しなかったことと対照的であった。ボールドウィンはこの両指揮官の対比もしており、ハルゼーは能動的な指揮を行うため日本軍空母艦隊の撃滅といった絶好の機会を見逃すことは絶対にできなかったうえ、ネルソン提督のような親分肌の指揮官であるが、スプルーアンスのような冷静な計算と徹底性に欠けていた。一方でスプルーアンスは、ハルゼーの様なダイナミックで派手な指導力を持ち合わせず、ハルゼーほどの人気も知名度もなかったと指摘している。しかし二人ともそれぞれのやり方とスタイルで傑出した人物と評価している[426]。
日本軍に対しては、海戦史上もっとも複雑な計画の一つを試みたが、その成功のためには完ぺきなタイミング、優れた通信連絡と犠牲的勇気が必要であったが、着想の大胆さに対して実施が拙劣であったと指摘、実施の拙劣さの詳細としては、通信連絡の不備、航空部隊の援護の欠如、海空作戦の調整欠如、タイミングにおける恐るべき欠如、拙劣な判断、そして作戦を指揮下4人の主な指揮官のなかで、真に任務を完遂したのは囮となった小沢だけで他の3人はとんでもないしくじりを犯した。とかなり厳しい評価を下している[425]。そして、レイテの戦いは、巨砲の大艦が主要な役割を演じた最後の海戦となり、戦艦に雄大なる告別の辞を読み上げたと同時に日本の運命を封じ、太平洋戦の最終ページを開いたとまとめている[427]。
マッカーサーは、固唾をのんで海戦の経緯を見守っていたが、栗田艦隊がサン・ナルベルナジノ海峡に達したと聞くとマッカーサー司令部には絶望感が蔓延したという。マッカーサーの幕僚の1人であった先任海軍参謀のレイ・ターバック大佐は「我々は弾丸も撃ち尽くしたも同然な状態にあり、魚雷もつかってしまい、燃料の残りは少なく、状況は絶望的である」と当日の日記に記している[428]。栗田艦隊は反転しマッカーサーの危機は去ったが、その夜の幕僚との夕食の席で、マッカーサーの幕僚たちは自分らを危機に陥れたハルゼーに対する非難を始め、「大馬鹿野郎」や「あのろくでなしハルゼー」など罵ったが、それを聞いていたマッカーサーは激怒し握った拳でテーブルを叩くと大声で「ブル(ハルゼーのあだ名)にはもう構うな。彼は私の中では未だに勇気ある提督なのだ」と擁護している[429]。マッカーサーは戦後に「切羽詰まった日本軍は、虎の子の大艦隊を繰り出して、レイテの侵入を撃退し、フィリピン防衛態勢を守り抜こうという一大博打に乗り出してきた。アメリカ軍部隊をレイテの海岸から追い落とそうという日本軍の決意は、実際に成功の一歩手前までいった」[430]「豊田提督が立てた計画は、みごとな着想に基づいたすばらしく大きい規模のものだった」と評した[431]。そして自分の指揮下であった第7艦隊司令のキンケイドに対して「私の第7艦隊は、この海戦の以前も以後も一貫して見事なはたらきを見せているが、この時もそうであり、キンケイド提督はこの戦闘でアメリカ海戦史上の偉大な指揮者たちの間に名を連ねた」と最大の賛辞を送っている[432]。一方で、海戦中に発生したアメリカ軍側の問題については、同一作戦の指揮系統の分断、通信不達・遅延を指摘、その責任はワシントンにあると断じた[433]。
タフィ3の司令官スプレイグは「栗田が反転を決めた理由は単純で、栗田は被害がこのままずっと続くかもしれないと恐れただけなのだ」と見なしていた[434]。なお、スプレイグはサマール沖海戦を振り返って「敵主力および包囲態勢をとっていた敵の軽量艦艇が、我々の機動部隊の全艦船を完全に抹殺してしまえなかった原因は、我々がうまく煙幕を張り、魚雷で反撃し、砲撃と雷撃と空中掃射で間断なく敵を苦しめ、的確な艦隊操作を行ったこと、および明らかに全能の神が我々をえこひいきしてくれたことにある」と総括している[435]。スプレイグは栗田艦隊との交戦の後も、神風特別攻撃隊から大きな損害を被って、この海戦のアメリカ軍のなかで最も受難を味わった艦隊となったが、スプレイグはこの海戦を「我々はそのときまで散々な目に会い通しだったんで、護衛部隊がいてもいなくても、やられるのに変わりがないような気がした」としみじみと述懐している[436]。
日本
敗北した日本では戦後、多くの議論がなされてきたことが出版の記録から明らかである。日本側では議論のほとんどは栗田艦隊の行動に集中しており、戦後は擁護、批判、中間的意見など様々な見解が交互に披瀝されてきたと言える。また歴史観や実証性に関わる問題として、弾薬問題、当時の現場指揮官の状況認識については現在でも新資料に光が当てられ、従来の説が俗説として批判されたりしている。
公式資料としては日米の戦闘記録(戦闘詳報)などの一次資料、海戦後にアメリカ軍内で行なわれた一部指揮官への陳述記録、終戦直後にGHQと第二復員省などの手で行なわれた日本側指揮官の陳述記録、それらを元にした公刊戦史(複数)などがある。この他上は将官、下は兵卒や民間の船員に至るまで、日本側で個人的にこの戦いの記録を残した者は多く確認されており、自費出版などの事例も多い。一方で、対戦国であるアメリカ側にも多くの史料が存在し、その中には翻訳されたものもある。しかしこれらは需要や価格の面から出版されても衆目に触れられない物が多い。そのため2000年代に入って初めて発掘、翻訳などがなされて刊行されることもある。
日米以外の当事者であるフィリピン人などの手になる文献も存在する。
日本海軍初のレーダー射撃について
レイテ沖海戦時において、海軍が各大型水上艦に搭載した仮称二号電波探信儀二型改四は、戦艦程度の目標であれば、夜間15,000m、昼間25,000m(34,000〜35,000m説もある)の捕捉距離があり、大和を初めとする戦艦群は初めてといえるレーダー射撃をおこなっている。その性能は「まずまず信頼して使いうる程度」といわれているものの各艦ごとの評価にはばらつきがあり、戦艦榛名の戦闘詳報では「味方艦の電波が干渉しあって妨害される場合が多く、言われるような性能が安定して発揮できない」とある一方、戦艦金剛の戦闘詳報では「電測(レーダー)射撃は相当に有効。敵の電測射撃はわが方と大差ない」としている。戦艦大和でも、長距離で10m測距儀を上回る精度が記録されている。
一般的に、アメリカ海軍ではレーダー射撃が実用可能な水準になっている一方で、日本海軍ではレーダー技術が遅れておりその性能は劣っていたと言われている。一方で、初月や西村部隊へのレーダー射撃(下記)を例に挙あげ、アメリカ海軍のレーダー射撃も命中率の高さが証明されていないという主張がある。前者の場合、初月単艦を撃沈するのに巡洋艦4隻を含む13隻の艦艇で、2時間もの時間を必要とし、巡洋艦だけで主砲弾1,200発を消費していることからレーダー射撃の正確さを疑っている。
栗田艦隊とオルデンドルフ艦隊の戦闘力に関する議論
もし栗田艦隊が反転せずにレイテ湾への突入を継続していた場合、西村部隊を撃滅して北上する第77任務部隊第2群(Task Group 77.2)、通称「オルデンドルフ艦隊」とレイテ湾口前で交戦しただろう、というのは多くの関係者・研究家・作家が認めている[437]。その場合の結末がどうなったかについては多くの議論がなされているが、かつてオルテンドルフ艦隊砲弾の残量の事や、戦艦大和の性能への過度な評価もあって、栗田艦隊は簡単に湾口に突入できるという意見が多かった。
だが昨今の研究ではその定説を覆す資料や調査結果も出てきている。
①オルデンドルフ艦隊の砲弾・魚雷残数について
「レイテ突入を実行すれば弾薬が欠乏していたオルデンドルフ艦隊を撃滅できた」という根強い通説がある。例えば半藤一利は「相手に弾がないんですから、恐いことはちっともありません」と発言し[438]、谷光太郎は「砲弾の残量に乏しかった。第七艦隊(オルデンドルフ艦隊)は簡単につぶされただろう」と述べている[439]。
確かに、スリガオ海峡海戦に参加したオルデンドルフ艦隊は西村部隊を深追いしつつあり、これを呼び戻すのには時間がかかると見込まれ、また、弾薬の心配もあったとされる。そのため、受信したスプレイグの無電を読んだキンケイドは7時25分、ハルゼーに「第7艦隊は弾薬が欠乏している」と通信を送った[440]。
一方こういった説に対して、評者から次のような事実が提示され、反証されている。
- 不足していたと言われるオルデンドルフ艦隊の砲弾数だが、中核をなす戦艦に関しては一会戦する程度の分量は保有していた[441]。
- スリガオ海峡海戦前
- 6艦合計徹甲弾1,637発・高性能弾1,602発
- スリガオ海峡海戦後
- 6艦合計:徹甲弾1,352発・高性能弾1,513発[注釈 93]
- スリガオ海峡海戦前
- 巡洋艦の砲弾については各艦各砲当たり50〜80発の徹甲弾が残っていた[442]
- 数時間後に到着した弾薬補給艦より戦艦部隊は徹甲弾48発、高性能弾1,000発の補給を受け、他艦艇にも補給は行われていたという。
- 栗田艦隊をはじめとする日本側は後世の評者達と異なりオルテンドルフ艦隊の弾薬状況について知ることなどできないので、「恐いことはちっともない」相手だと認識する事はできない。
- オルデンドルフ艦隊は、栗田艦隊に対して戦艦で1.5倍、巡洋艦で2倍以上、駆逐艦で3倍の戦力を有している[443]。戦艦部隊で見ても性能的に勝っているのは大和だけで、長門はメリーランド、ウエストバージニアと同程度、金剛、榛名はペンシルベニア、テネシー、カリフォルニアよりも戦艦としての性能では劣る。巡洋艦や駆逐艦は数で圧倒されている。仮に双方の状態が万全な状態であったとしても、この戦力差では日本が圧倒できるような事にはならない。
このように、戦艦や巡洋艦との対艦戦闘に必要な徹甲弾は一定数が残されており、榴弾は装甲貫徹力はないものの、測距儀など、非装甲部分を破壊して戦闘力を奪うことができる。スリガオ海峡海戦では砲弾の不足を補うために陣形を調整し待ち伏せを行い、中〜近距離戦へ持ち込むことに決めたという指摘もある[444]。一口に砲弾の不足と言っても「戦えない」わけではない。また半藤が説明している「弾がない」状態と、現実の「砲弾が不足」というのは全く異なる状態である。
一方、水雷戦の要である駆逐艦27隻については、スリガオ海峡海戦前の時点で5インチ砲弾は定数の20パーセントしかなかったとされる[445]。一方魚雷は従来撃ち尽くしたと考えられてきた(例えば『レイテ戦記 上巻』P261に「確かに駆逐艦は魚雷を使い尽くしていた」とある[446])が、アメリカ軍の戦闘報告書からは搭載魚雷をすべて発射したのは3隻のみ、1本を残して発射した艦を含めても6隻のみが「ほぼ消耗した状態」であり、その他の艦は各艦当たり5 - 10本の魚雷を残していた事が判明しており[442]、この説も間違いであることが分かる。
②オルデンドルフ艦隊で発生したトラブルついて
スリガオ海峡海戦時には次のようなトラブルが生じていたという意見もある[442]。
- ウェストバージニア:射撃中前部Mk.8レーダー故障。1・3番砲塔揚弾機故障。1・3番砲塔で一門ずつ発火ミスで以後射撃不能。
- メリーランド:レーダー目標識別できず、ウエストバージニアの水柱(スクリーン上の虚像)を目標に射撃、効果なし。
- カルフォルニア:大部分の射撃は9門で実施。1番砲塔で装薬に破損。2・4番砲塔で発火ミスで砲塔故障、以後射撃不能。
- ミシシッピ:レーダー目標識別できず。一斉射で終了。
- ペンシルベニア:目標識別できず射撃不能。
このうち、ウェストバージニアの前部レーダー故障は一時的なもので、素早く後部レーダーへの切り替えが行われた上、すぐに修復されたので砲撃に支障はなかった[447]。メリーランド、ミシシッピ、ペンシルベニアの3隻が目標を識別できなかった原因は故障などではなく、搭載していたレーダーが旧式のMark 3で、元々そういう能力がなかっただけでトラブルなどではない[448]。効果的に砲撃を行えたのは新式のMark 8を搭載したウェストバージニア、カルフォルニア、テネシーの3隻だった。
③戦艦部隊の砲撃成果について
戦艦部隊による射撃が弾数279発中、命中弾数2発として(命中率0.68%)、レーダー射撃が効果的ではなかったという主張も存在するがこれは事実ではない。戦艦ウェストバージニアの戦闘報告書では最初とその次の斉射でそれぞれ複数の命中弾を記録している。同報告書では13回行われた斉射すべてが目標を夾叉[注釈 94]し、1・2・6番目の斉射で命中が確認されている。
日米ともに公算射撃であった当時の砲撃で、初弾から夾叉となるのは非常に優秀な射撃であり、同報告書も「非常に効果的(very effective)」と記述している[449]。また、この報告ではウエストバージニアだけで命中弾を3発と報告しており、「戦艦部隊全体の主砲弾命中数が2発」という話は出鱈目であることが明らかであり、命中弾の有無は別にしてもウェストバージニアがすべての斉射で夾叉に成功した事実から見てもアメリカ戦艦部隊の射撃は良好なものだったことが証明されている。
栗田艦隊がレイテ湾に到達する間に故障砲の回復をさせ戦闘能力を回復させた場合、新式のレーダーを搭載した戦艦3隻だけが効果的に砲撃を行えたスリガオ海峡とは違い旧式のレーダーを搭載した3隻も光学測距による測距を行い戦闘を行うため日中近距離の戦闘での戦力低下はないと予想される。また航空機の空襲を受けた場合、日本艦隊はより砲撃命中率で不利と予想されてもいる。
その他の点としては、サマール沖海戦など他の戦いではアメリカ駆逐艦隊は高い戦意を示しており日本側で問題になる燃料の面もロジスティクスは万全であることがある。旧来の研究でも砲弾について述べた文献では日本艦隊の圧勝を予測しているものはない[442]。
④栗田艦隊の状態に関する議論
一方で反転時の栗田艦隊の状態に関しては、アメリカ側よりもマイナス要素が多かった事が判明している。
- 将兵の疲労:栗田艦隊は作戦開始以来丸三昼夜をほぼ不眠不休の緊張状態で過ごし、栗田以下将兵は疲労と消耗の極みにあった[450]。その結果、既に25日朝のサマール島沖海戦で、護衛空母と正規空母、敵煙幕と直撃弾の識別さえできない、焦って気が逸るばかりな、技量や命中率云々以前の状態に陥っていたと言われる[注釈 95]。そのままレイテ湾に突入した場合、将兵がさらに疲労・消耗し、さらに能力が低下した状態で敵と交戦することになる点も、しばしば指摘される。また、駆逐艦などの航続力の短い艦船では燃料が減少しており[451]、その後、栗田艦隊は給油を行ないつつ艦隊を分割してブルネイに帰還している。
- 砲弾魚雷の残量:砲弾残量についてはアメリカ側よりも深刻な状態であった。戦艦には砲弾が残されているものの、他艦艇は砲弾や魚雷をかなり消費しており[452]、重巡洋艦羽黒は二番砲塔を失い、四番砲塔は弾薬切れ、健全3砲塔で残合計125発[注釈 96]、利根も4割近い砲弾(408発)を消費している[453]。魚雷も羽黒は全弾発射し利根も4本を発射している[454]。水雷部隊では、軽巡洋艦矢矧は魚雷7本を発射(うち1本は不発による投棄)、第十七駆逐隊も矢矧からの「発射本数四トス」の命令に従って同時刻に魚雷16本を発射と報告[455]。うち磯風は魚雷8発を発射したと同艦水雷長が記録しており[456]、第十戦隊の発射魚雷数は27本である。残魚雷は、矢矧9本(うち3本が機銃掃射で使用不能)・第十七駆逐隊28本(実数)[457]。第二水雷戦隊の魚雷残量は第十戦隊より多い。
- その他の兵装について:また、金剛は7時過ぎに敵戦闘機の機銃掃射により前檣楼トップに据えられた測距儀を破壊されており、以後砲塔測距儀による射撃によらざるを得なくなった[458]。榛名はマリアナ沖海戦での損傷修理が十分ではなく、26ノット以上を出せなかった。それでも第7艦隊の戦艦群よりは優速であるが、第7艦隊の戦艦群とほぼ変わらない速力しか出せない護衛空母の追撃においても支障が生じていた[459]。
- 行き過ぎた性能秘匿:水上艦艇の能力を活用した作戦であるにもかかわらず、その中核である大和型戦艦については日本海軍内でも作戦を計画・指揮する部署にて正確な情報が共有されていなかった。栗田は「主砲口径が46cmであることを知らなかった」とアメリカ軍の調査団に陳述している[460]。砲術参謀宮本鷹雄少佐も同様で、艦隊の参謀団の全員或いは大半が、指揮下の戦艦の攻撃能力を知らなかった可能性が高い。これでは艦隊司令長官に46㎝砲の威力・性能を基にした作戦運用は不可能であり、戦後よく言われる「大和の超大口径主砲がものをいって、オルデンドルフの旧式戦艦群6隻をアウトレインジ出来た」という話[461][462]も、指揮官が知らない以上実現は難しい。もっとも30,000m以遠での砲戦例は機会が極めて限られており、命中弾を得た戦例はない[注釈 97][注釈 98][注釈 99]。→詳細は「大和型戦艦」を参照
- 艦隊旗艦の変更:23日に旗艦愛宕が米潜水艦の雷撃で沈み、艦隊司令部が大和に移乗した事も、結果的にマイナスに働いた。司令部移乗の際、栗田らを救助した駆逐艦岸波はそのまま大和に栗田らを移乗させたが、司令部通信要員などを多く救助した朝霜は、そのまま損傷した高雄の護衛について戦列を離れたので、艦隊司令部の通信要員の多くが戦線離脱してしまった。このため大和の通信要員から一部を司令部通信員として提供したが、結果双方の通信員の質や員数が逼迫し、それが能力の低下に繋がった。元々艦隊司令部は旗艦を通信能力・防御力に優れた大和型戦艦、特に旗艦としての司令部施設に優れる武蔵とする要望を作戦前から上申していたが、連合艦隊は第二艦隊が夜戦部隊であり速力の遅い大和型戦艦を旗艦にはできないこと、第一戦隊を中核に艦隊の別働隊を作る計画があることを理由として却下した[463][464]。だが愛宕が沈んだことで作戦中に旗艦を大和に変更することになり、後の通信不達問題を多発させ、サマール海戦の時点で適切な指揮ができなかった一因となったと、佐藤和正などが指摘している。
⑤突入を継続したらどうなっていたか
これまでの記述で書いたように、双方の艦隊の実情からみると栗田艦隊がオルデンドルフ艦隊を突破してレイテ湾に突入するのは実際は困難であった。近年ではそう紹介する識者や著書も多くなっている[465]。実戦で示されたようにアメリカ軍の索敵能力は日本側を凌駕し、戦意も高かった[466]。サマール沖海戦で、タフィ3の数10機でしかない艦載機による反覆攻撃で、栗田艦隊は進撃を阻止され逆に大きな損害を受けていることから見ても、航空支援の無い水上艦隊にとっては護送空母が数隻いるだけでも脅威だった。その護送空母群タフィ1及び2がレイテ湾口近海に健在で、栗田艦隊への空襲を継続実施していたのだから、これに加えてオルデンドルフ艦隊との交戦が起こった場合、栗田艦隊の方が逆に壊滅的損害を被ったであろうことは容易に想像がつく[注釈 100]。
小柳は著書の中で栗田艦隊は空襲を脅威と認識し「輸送船団も揚陸を終えているだろうから期待しえる戦果は極めて少ない」と考えていた[467]。 佐藤和正や外山三郎は、栗田艦隊の突入は小沢機動部隊の囮作戦及び味方基地航空隊の航空攻撃による、言わば事前のお膳立てと連携したものであったが、成功するかはやってみなければ分からない、戦況次第の流動的なものと指摘している[468]。
栗田艦隊の10月25日の反転北上について
この問題は本海戦の評価の中でも最も多く議論の的となってきた。ここでは、この議論を幾つかの争点に分割して記述する。栗田艦隊のサマール島沖海戦後の反転の意図は戦史研究家などの間では「謎の反転」と呼ばれ、題名にその名を冠して記事を執筆する人物もいる。海軍研究家として名高い池田清(重巡摩耶砲術士)は「レイテ沖海戦に寄せられる深い関心の大半は、この「なぞの反転」のなぞ解きにあると言っても過言ではない」と指摘している[469]。これに関連して幾つかの議論が起こった。各艦隊の状況を列挙した後、主に反転と栗田中将についての議論を記す。
ヤキ1カ電の存在
反転を決断するきっかけとなった、南西方面艦隊から発電されたとされる「0945スルアン灯台5度113浬ヤキ1カ機動部隊アリ」は他の戦闘詳報には記載がなく、誰が打ったのか、本当に存在したのか議論が続いている。大和戦闘詳報にしか記述がないことから、栗田艦隊の捏造であると小島清文[470]や深井俊之助[471]などは主張している。
ヤキ1カ電は電報自体の受電記録は、参加各部隊の何処にも記録はない。第一遊撃部隊の戦闘記録にも、旗艦だった戦艦大和や同乗していた第一戦隊などの戦闘記録にも何処にも受電の記録は無い。唯一第一遊撃部隊の記録に11時50分に南西方面艦隊及び第一第二航空艦隊に対して「ヤキ1カの敵を攻撃されたし」と打電したという記録、そしてそれを受けて各部隊に「ヤキ1カの敵機動部隊を攻撃せよ」と命じた大西瀧治郎中将の命令記録だけである[401]。これが捏造ではといわれる理由なのだが、当時電報自体を見たという証言は複数ある。当時大和の水上観測機長だった伊藤敦夫少佐はこの時艦橋裏の作戦室に居てこの電文が読み上げられるのを聞き、その後海図台にあるその電報を見たと証言している[472]。大和以外の艦でも例えば摩耶主計長で摩耶沈没後、武蔵を経て島風に移乗していた永末英一は、この時島風艦橋にいて、「スルアン島5度113浬に敵機動部隊アリ」の電報が入ったことを記憶している。他にも当時軍令部第一部の作戦記録係だった野村実は軍令部の地図にヤキ1カ地点辺りに敵機動部隊の表記があり、その後栗田艦隊の反転北上の報告を受けても「これに行くんだな」と思って何ら疑問に思わなかったと述べている。つまり栗田艦隊が反転北上を報告する以前に、軍令部に同様の情報が届いていた事になる。この海図のヤキ1カ点付近のアメリカ軍機動部隊ありの表記は軍令部作戦部長の中沢祐も見ていて自身のノートに記載している[473]。
またヤキ1カ電と同様、受電記録がないが参加各部隊の中で同時刻にヤキ1カ近辺に敵艦隊ありの情報を得て麾下の各部隊に通報しているという他部隊の記録もある。栗田艦隊より11時50分発の「0945ヤキ1カの敵機動部隊ヲ攻撃サレ度」の電報を受けた大西は迷うことなく全力出撃を下命しており、栗田艦隊の言う「ヤキ1カ点の敵機動部隊」に関して何ら疑問も持っていない。第一航空艦隊にもヤキ1カかそれに類する情報が届いていたと考えられる[474]。第二航空艦隊には「0940地点『ウキ5ソ』に敵空母3隻見ゆ」というヤキ1カ電の時刻に近い時間帯にそこから近い海域で敵を発見したという連絡(発信源もヤキ1カ電と同じく不明)が入り、福留長官は前日に機動部隊本隊から出撃し、付近の味方飛行場に着陸していた第三航空戦隊の残余航空隊にこれを攻撃するよう指示を出している[402]。第六艦隊では敵機動部隊をヤキ1カに近いヤンメ55に発見、南下中であるとの偵察情報(これも情報元は記録がない)が入り、11時37分に配下の潜水艦宛に打電している記録がある[475]。
当時大和の副砲長で捏造説を唱えている深井俊之助は著書で当時の状況は
- 副砲射撃指揮所(場所は大和第一艦橋の3階下)で指揮を取っている最中、大和が反転北上しだす
- 空襲による回避行動(実際このとき艦隊は対空戦闘中だった)だと最初は思ったがいつまでたっても針路を戻さないので不審に思い、戦闘が一段落したときに第一艦橋に向かった
- そこでは第一戦隊司令官の宇垣中将が「レイテ湾に行くのではないのか」と叫んでいて、長官の栗田中将以下第二艦隊司令部(小柳少将は不在)は沈黙し艦長副長以下大和幹部も沈黙していた
- 深井と同時期に艦橋に来た士官と共に第二艦隊参謀に問いただすと敵機動部隊を攻撃に向かうと言われたので抗議する
- すると大谷中佐が作戦室よりヤキ1カ電の電報を持ち出し「ここの敵を攻撃にいくのだ」「若い者は黙れ」と言われた
と証言している[476]。
深井はそのうえで、自著で電報は大谷中佐による捏造ではないかと述べ、その根拠として
- ①大和の通信施設は充実しており、5 - 60名の熟練の要員がいる。対して愛宕から移乗してきた第二艦隊の通信要員は15,6名で通信機能は弱かった。それなのに大和の通信班はヤキ1カ電を傍受できず、艦隊司令部の通信班が傍受できたのは不自然
- ②出撃前の連合艦隊の参謀である神重徳大佐から許可を引き出したこと自体が撤退の口実にするためだった
- ③撤退のタイミングがレイテ湾の眼前から翌日にシブヤン海を通ってパラワン水道の西へ抜けて敵の航空攻撃を避けられるきわどいタイミングであり、大谷参謀はそれを見越してこのタイミングで撤退を進言した。
と証言している[477]。
しかし、大和通信士で第一艦橋に居た都竹卓郎は大和に第二艦隊司令部が移乗し、通信班が散り散りで少ないことを受けて大和通信班から補充要員を出したと述べており、深井の①の論拠は当事者の証言と大きく食い違っている。 都竹は他にも
- この作戦で艦隊用一般短波に指定された七九一〇KCは、マニラの気象放送七九〇七・五KCと余りにも近く、混信のため31通信隊との通信が困難であった。
- 海戦前の大和に施された対空砲の増設により、上甲板の第一受信室は轟音と振動で戦闘中の受信は不可能になっていた。
- 連日繰り返される空襲で大和の通信線は断絶し通信線の大半である60本にも及び、空襲の合間を縫って復旧作業を行ったが張替え終わっても、落下した空中線が、電磁誘導や浮遊容量による雑音を引き起こし受信に悪影響を与えた。
- 電信員の数は一応定員を満たしていたが、前述の通り艦隊司令部の通信要員の不足により人員を割いていて定数切れだったうえに人員は速成教育を受けただけで、当直を任せられない新兵が多く、戦闘中でも最低2直交代という原則を1直半にせざるを得ず、その上切断空中線の復旧といった応急作業が頻繁に飛び込み、古参兵は疲労困憊(こんぱい)の極に達していた。
と、当事者の立場として当時の大和の通信能力の実情を証言しており[478]、深井の論拠が的外れであることを明かしている。
大和の通信能力は、都竹の言うように機能も麻痺しているに近い状況であり、栗田艦隊の他艦では受信できていながら大和では栗田艦隊司令部側の記録にはあって大和側の記録にはない電文もある[479]。
都竹は深井の数々の証言に対して月刊「歴史街道」2015年1月号において、「最近大和の元高級将校と自称する人物」と遠回しに深井を名指し、彼が証言している「艦橋にきて参謀達に激しく抗議した」とか「小沢治三郎中将から貰った短刀の話」など数々のについて否定している。都竹は「私は艦橋の配置で戦闘中終始その場に居たが、深井の言うような光景は目撃していない」「大和は捷号作戦が作成された時点で既に外地にいて、内地にいた小沢中将と深井が合い、軍刀をもらうことなど出来ない」などと反論している[480][注釈 101]。
当時戦死した副官の替わりに栗田中将の副官業務を兼務した石田恒夫主計長は、深井と異なり実際に第一艦橋にいて当時の状況を見ていた人物だが、その証言では反転前後の艦橋の様子は深井の説明と異なり、
- 1130頃、防空指揮所から大谷中佐が降りてきた所、通信士官が入室して一通の電報を渡し大谷中佐は一読し栗田中将へ差し出した。
- そのあと大谷中佐は小柳少将を促して先任参謀の山本祐二大佐と3人で艦橋一段下の後方にある作戦室に入り、栗田中将は艦橋に留まった。
- この時第一戦隊司令の宇垣中将も艦橋に居て「何事か」という動きを見せたが彼も艦橋に留まった。
- 作戦室内での会議には小柳少将・大谷中佐・山本祐二大佐の他、宮本鷹雄・森卓次両参謀。八塚清先任副官・第一戦隊司令部の野田六郎・末松虎雄両参謀・大迫隼人機関参謀も参加した。
- しばらくして小柳少将と大谷中佐が艦橋に戻り大谷中佐が栗田中将に意見具申した(小柳少将は愛宕沈没時に負傷していて立っているのがやっとの状態だった)。
- この時点で艦橋に居た幹部士官は栗田中将・宇垣中将・小柳少将・大谷中佐・石田少佐の5人だけ、艦長の森下は防空指揮所に上がって操艦の指揮を執り、他の幹部も出払っていた(特に大和の幹部士官は第二艦隊司令部を大和に収容した際に、艦橋に二つの司令部が入って手狭になり必要最低限だけ残して分散配置している)。
- 意見具申を受けて栗田中将は反転を決意。12時30分頃に森下艦長に大谷中佐から面舵一杯の指示が出る。
- これに対して宇垣中将より「参謀長、敵はあっちだぞ」という叱咤があったが栗田中将が「いや、貴官の進言通り、北東の機動部隊に向かう」と答えた[481]。
と証言している。第一戦隊航空参謀兼大和飛行長だった伊藤敦夫は深井の証言しているような「宇垣第一戦隊司令が怒鳴っていた」という事実は無く、レイテ突入を主張したことについては記憶に無いと証言している[482][注釈 102]。
深井の捏造だという根拠②③にしても、②は小柳少将の当時の言動にもあるように、例え小沢艦隊がハルゼー機動部隊の北方への誘致を成功させたとしても、日米の戦力差は数倍以上なのだから、常識的に考えてハルゼーが輸送船団の護衛全てを引き連れることは考えられず、接近する栗田艦隊に対抗できる程度の護衛戦力は残すと考える方が自然である。それらは栗田艦隊が接近してきたら当然阻止行動にでるし、仮にそれをかわせて湾に突入できたとしても、追いかけて妨害してくるのは当然考えられることである。そういった湾周辺の脅威を排除するのは作戦を施行するための当然の措置であり、小柳少将らの考えもその了承を得るものであって、神参謀らがすんなり了承したのも、それが分かっていたからである。(詳細については「作戦目的に関する議論」に記載)
③の撤退のタイミングにしても、そもそも当時の日本軍はハルゼー機動部隊の正確な位置は把握できておらず、基地航空隊などは複数の誤報に踊らされて攻撃隊を出撃させて空振りに終わるなどしており、敵航空隊の攻撃範囲を知ることすら不可能な状況であった。その様な状況下で大谷中佐がそれを知りえるとは考えづらい。
なお栗田と対談したこともある海兵78期の大岡次郎は、従来「ヤキ1カ電を南西方面艦隊は打電していない」と言われているが、南西方面艦隊の当事者の死亡や戦後の資料散失で南西方面艦隊に関する当時の資料が多く失われている状態であり、本当に電文を発信いないのかどうかは実は判っていない。そもそも「ヤキ1カ電を打電していない」と言ったのは誰で、何を根拠にしたものなのか、証明はされていないと主張している[483]。
反転は命令違反か?
なお、栗田中将のこの反転行為を「命令違反」と断じる者も居る。しかし上記のように敵水上部隊を先に攻撃する行為は連合艦隊参謀である神大佐が承認を与えており、また現場で作戦継続の可否を判断するのは前線指揮官の指揮権の許容範囲に含まれるもので妥当ではない。艦隊司令長官に作戦中止の権限が無いのは事実だが、反転行為自体は北方にいるとされた敵機動艦隊への攻撃であり、これの殲滅は海軍全体の作戦目的(本来は基地航空隊が担当)ではあるので、割り振られた作戦目的ではないにしても「命令違反」だとはいえない。むしろ基地航空隊の失敗を栗田艦隊が一部挽回(サマール沖海戦のこと)し、湾内突入が無理でも基地航空隊の代わりにそれを完遂しようとしたと判断できる。 結果的に敵の存在は虚報であったのだが、だからといって命令違反、勝手に作戦を中止したと論じるのは適切ではない[注釈 103]。栗田中将の上官である当時の連合艦隊司令長官である豊田副武自身も著書「最後の帝国海軍」で栗田中将の判断を擁護し、前線指揮官の判断を尊重する立場をとっている[484]。
栗田艦隊は真偽はともかく北方機動部隊の電報を前提に動いた。これは放置したら突入の脅威となることを踏まえた判断である[485]。半藤は著書で最悪のケースとして作戦目的である船団攻撃不達成のまま全滅を想定しているが、それでも「敵艦を1隻も沈めないことはない、命令を守ればよい」と目的合理性に反する見解を述べている[486]。
栗田艦隊をはじめ日本側は、直前のサマール沖海戦でアメリカ正規空母部隊の一群を撃破したと認識している[487]。この種の誤認は戦場では多発するものであり、偵察を重視していたアメリカ海軍でも多発した[注釈 104]。小沢艦隊からの囮成功の連絡もなく、自分の艦隊が(小沢艦隊が囮となって誘引するはずの)アメリカ軍機動部隊の一群をすでに捕捉・撃破している(という認識を持つ)状況下で、小沢艦隊のアメリカ軍機動部隊誘引作戦が成功しているなどという「正しい」認識を持つのは不可能であり、戦果を挙げたと認識している以上海軍上層部が作戦後に艦隊司令部などに処罰を行うことはありえない[488]。
作戦目的に関する議論
栗田本人はレイテ湾を目前とした反転行動の理由について、「敗軍の将は兵を語らず」といった立場で、戦後、あまり多くを語らなかった[489]。だが戦後10年経った頃に、旧知の仲であった戦史研究家・軍事評論家である伊藤正徳の問いに答えるかたちで、当時の心境を簡潔に語っている。しかし後に児島襄の取材で伊藤の記述に対し、栗田は彼が20年ぶりにいきなり現れノートも何もとらずに取材し書いたものだと述べ、記述に一部誤りがあることを述べている[490]。
小柳は著書で追撃を中止した理由として「最後まで敵を機動部隊の高速空母群と誤観測していた」[491]と述べ、もし敵情を正しく把握できていれば当然追撃は続行していたであろうとしている(このことはのちにまとめて触れる)。また、第7艦隊作戦参謀リチャード・クルーゼン大佐は、空母機動部隊の接近を知れば栗田艦隊が退却するかもしれないと考え、ハルゼー大将宛ての救援依頼の他に「2時間以内に救援に向かう」という返事を平文で電話する謀略を講じていた[492]。
最も議論の焦点となってきた説として、マニラで8月11日に行われた計画の打ち合わせの段階で連合艦隊司令部と栗田艦隊の意思疎通の欠如が見られ、作戦目的の認識に影響したというものがある[493]。つまり、海軍中央では比島上陸部隊の輸送船団を叩くことを主目的とし、打ち合わせでも神大佐は「艦隊が全滅しても構わない、以後の作戦は一切考慮しない」と述べた。しかし栗田艦隊では機会さえあれば敵主力艦隊を撃滅することを望み、また、被害が大きくなって来ると、以後の作戦のために1隻でも多くの艦艇を保全することを考え、この齟齬が反転につながったというのである。
しかし栗田は戦後の会見などで船団も重視していたことを述べており、小柳ら他の首脳部も著書などで船団の価値を否定してはいない。そもそも上陸作戦では船団に十重二十重に支援艦隊がつけられるのは常識であり、日中戦争や開戦初期の日本軍の侵攻作戦でも行なわれてきた。ハルゼー機動部隊を北方に誘致したとしても、ハルゼーが支援戦力も全て引き連れて北上するような軽率な判断をするとは考えられず、栗田艦隊に対抗できる程度の戦力は残っていると考えるのが当然だった[注釈 105]。
囮作戦の成否に関わらず、栗田艦隊にとって脅威となる規模の支援艦隊[注釈 106]が、付近を固めているであろう事は十分考えられ、それを排除しないと突入は難しい以上、栗田艦隊はその支援艦隊との決戦を強いられる事は確実であり、「決戦を回避してでも突入を優先」するというのは至難だった。会議の席上で小柳が確認したのはそれを指しているものであって「敵主力艦隊との決戦に未練があった」訳ではない[注釈 107]。
むしろ連合艦隊側が前線部隊への作戦指導に徹底を欠いており、そちらの方が問題であった。この打ち合わせはフィリピンの南西方面艦隊司令部で行われ、三川軍一艦隊司令長官以下司令部要員、第二艦隊からは参謀長の小柳、参謀の大谷、内地からは連合艦隊参謀の神、榎尾義男軍令部参謀らが出席したが、連合艦隊参謀陣の長である草鹿は参加せず、小柳の要望に神のほとんど独断で承認を与えている。神はかつて第一次ソロモン海戦の時に第八艦隊参謀を務め突入作戦を作成した中心人物であり、アメリカ艦隊殲滅後に輸送船団への攻撃を中止して引き上げるよう進言した張本人だった。このことは当時第八艦隊司令長官であった三川も覚えており、神は小柳少将の要請を断りづらい状況(断ることは第一次ソロモン海戦での自分の判断が間違いだったことを認めることになる)だった[494]。
栗田は開戦以来数多くの作戦に参加し、上陸作戦やその護衛作戦も経験がある提督であり、支援部隊を排除しないと突入は覚束無いことを認識していた。だが水上艦隊との決戦を望む考えが第二艦隊麾下の戦隊指揮官、各艦長の中にあったのは事実である。宇垣纏は作戦前の9月20日、小柳、山本を旗艦大和に迎えた際に輸送船団攻撃よりも敵主力艦隊との決戦をしたほうが良いという自身の考えを伝えている[495]。また海戦当日の記述でも、サマール沖海戦で敵を追撃中に、栗田が追撃を中止してレイテ湾への突入を再開することを指示した時、これを「何を考えたか〜」と意外だった様に書いており、宇垣自身は湾突入よりも追撃を継続して敵主力との決戦を望んでいたかのような記述をしている。重巡利根の艦長であった黛治夫も栗田の反転は当然の考えであり、「謎」でもなんでもないと否定している[496]。むしろそういった指揮官たちの考えを栗田らが抑えてきた面もある。
批判的評価と肯定的評価
作戦目的の不徹底を反転の原因とし、批判的な立場を表明したのは半藤一利[注釈 108]・外山三郎・谷光太郎[497]・原勝洋・菊澤研宗・佐藤大輔・佐藤晃・江戸雄介などである。『失敗の本質』は物量格差、計画との差異に言及しつつ、目的解釈については中央と現場が分裂したという立場をとっている。佐藤晃は持論の政戦略面を基調とする海軍批判(および陸軍擁護)の一環として本海戦を採り上げ、作戦目的への無理解を批判し、栗田を命令違反のかどで軍法会議にかけるべきだったと述べた[498]。これに近い強い批判は江戸雄介も行っている。
しかし連合艦隊側の作戦指導の徹底が及ばなかった面も大きいのは前述した通りであり、一方的に第二艦隊側の作戦の無理解だと決め付けるのには無理がある。佐藤和正は著書『レイテ沖海戦』で容認した参謀の神も第一次ソロモン海戦で船団を支援する敵艦隊との戦闘を経験している点を挙げ「敵艦隊と遭遇した時、これを回避して輸送船団を攻撃することの困難さを神参謀は熟知していた」と述べた。著書自体もマリアナ沖海戦の敗戦時点から説き起こし、シブヤン海に進出するまでに文庫本1冊の分量を充てて背景説明に重きをおき、日本軍全般の不利な情勢の他、マニラでの打ち合わせ後、栗田艦隊司令部が船団攻撃の研究を行い、艦隊の訓練内容も完全に船団攻撃向きに変えたことが描写された。佐藤和正は最後に「反転は“正解”だった」という節を設けており、それにとどまらず反転批判論者に対して当時の情報の不完全性などを指摘しつつ、「結果から導き出した栗田部隊への批判は、難詰であって、きわめて厚顔、無礼なもの」という旨の批判を行っている。ほぼ同様の立場としては『やっぱり勝てない?太平洋戦争』があり、同書は当該の章の副題にも「レイテ湾口で全滅」の表現を入れている。
半藤、谷は突入すれば日本艦隊は輸送船団を撃滅できたと主張し、オルデンドルフ艦隊は弾薬切れであることを有力な材料の一つに挙げている[499][500]。但し実際はアメリカ艦隊にはあと1回は戦えるだけの燃料弾薬があり、しかも一部は補給を済ませていることは前述した通りであり、このことは1971年刊行の「戦史叢書 大本営海軍部・連合艦隊(6)第三段作戦後期」にも記載されている[387]。この半藤・谷のようなちゃんとした考証もされずに行われた栗田への批判は、その後の関連著書でもそのまま取り上げられる場合があり、それが栗田批判が根強く行われる理由の一つにもなっている[注釈 109]。
江戸は成功の可能性に言及しつつ、撃滅に失敗しても海軍の任務としてやるべきだったことを主張している。原は命令の絶対性を根拠とした。児島襄は弾薬の欠乏については認める記述をし「明確な目標と任務の認識を欠いた栗田艦隊が決戦、突入のいずれも果たせず終わったのは当然」[501]と評した。なお、外山三郎は栗田艦隊だけではなく、連合艦隊司令部でも草鹿のように艦隊決戦への未練があった者がいた可能性を指摘している[502]。
しかし前線指揮官が中央の指示を待たずに実質的な作戦中止の判断を下した事例はあるし(珊瑚海海戦での第四艦隊司令長官井上成美や、第一次ソロモン海戦での三川中将など)その後にそれら提督が処分を受けてはいない。また現場指揮官が現地の状況から判断した措置を、遠く遠方にいて把握できていない総司令部が、それについて意見するのは現実問題として不可能であり、そのため軍令部も連合艦隊も栗田の反転報告に対し突入を再度実施するよう督促していない[387]。軍人が命令を守るというのはあくまでも原則論であり、現場指揮官が状況判断で作戦を変更したり、実質中止を決断するのは正しい権限であり、それを「作戦内容厳守」「命令は絶対であり、突入中止・反転の決断は命令違反だ」と言い立てるこれらの論調は、当時の実情を全く無視した暴論ともいえる。
またレイテ湾近辺に敵艦隊を見つけたらそれを攻撃するのを優先してよいことは神から承認を得ていることであり、行為自体は命令違反には当たらない。そのことは連合艦隊司令長官であった豊田副武も著書で述べている[503][504]。
作戦目的関連の批判と絡めて、栗田の資質に関する議論も生まれた(詳細は栗田健男の項を参照)。半藤は、栗田艦隊司令部が反転のために嘘をついていると述べ、栗田には過去の戦闘でも逃げ癖があったと主張し、本海戦での行動についても疑念をあからさまに述べている[505][506]。こうした栗田中将個人の資質に関わる批判は旧海軍軍人の小島秀雄もしている[507]。高木惣吉は「レイテの敗将を兵学校の校長に据えた」と批判した。
これに対し森本忠男は『歴史と人物』の「誰が真の名提督か」での小島秀雄の栗田評を取り上げた際(小島が)「嘲笑を込め」ていたと表現し、同じ座談会に参加した黛を擁護派に数えて自身の栗田擁護論の根拠の一つに使っている。また、『失敗の本質』で栗田を「戦略不適応」「作戦全体の戦略的目的と自分に課せられた任務とを十分に理解していたとはいえなかった」という戸部良一の栗田評を取り上げ、「まったく的を得ていないと筆者は思う。栗田提督は作戦の目的や任務を理解していなかったのではなくて、作戦と任務そのものに反対していたのだ」と批判を行っている[508]。
帝国海軍の将官クラスが未だ健在であった時期に多数の取材を行った亀井宏は、海軍関係者で栗田を表立って批判する者は皆無に近かったと述べ、そういった将官が亡くなって以後、元軍人達が「内心は反対だった」と発言するケースが増えだしたことを指して「あまり上等な人間のすることではない」と述べ、続けて簡単に反省されたのでは戦死者は浮かばれない、腹を切るか、弁解せずに黙っている方がより正しい姿勢である旨を書き栗田を擁護した。佐藤和正は『レイテ沖海戦』にて栗田中将の反転決断を正しいと述べ、好意的記述が多い。2000年代に入ってレイテ沖海戦について書いた元通信士官の左近允尚敏、都竹卓郎などもいずれも栗田に理解を示し、擁護している。
海大甲種では無かった栗田に海大甲種卒の人間が責任を押し付ける向きがあったことは奥宮正武の他、黛治夫などが指摘している。奥宮は上述の高木惣吉の批判に対して、当時は全員が敗将だったと批判を行っている(高木の戦後の証言に関しては現場経験者などから否定意見も多く、当人もそう証言している[注釈 110]。また全員が敗将という指摘は児島襄も行っている)。佐藤清夫のように、研究を進める過程で批判一辺倒ではなく擁護的に変わった者もいる。児島は指揮官としての適性には否定的だが、海軍上層部の人選に問題があった可能性を指摘し、栗田中将の境遇には同情している。
栗田を擁護し評価する人々では他に上記の小柳冨次(但し小柳は「すぐれた軍事史家の公正な批判に待つ」とし、判断を世に問う形としている[509])や黛治夫(利根艦長)[510][511]が居る。黛は、自分が栗田の立場だったら同じ判断をすると答え[512]、「戦さの判断というものは難しい。栗田はさすがにえらかった」と述懐した[512]。海戦に参加した栗田艦隊の尉官として、左近允尚敏が通信状況や自らの体験から栗田を擁護している。愛宕の主計中尉だった村井弘司は、レイテ沖海戦に参加した者だけが反転理由を知るものとした上で、反転の決断は「是」[512]とし、栗田艦隊将兵は、多くが反転に肯定的であったと証言している[513]。大和艦橋で栗田の判断を観察していた石田は、栗田の葬儀で「レイテ沖の反転は敵を求めての反転であり、長官の自信ある用兵、決断による作戦行動であったことは、かの激しい戦場にあった者のみ知るところでありましょう」と述べている[514]。
栗田艦隊以外に目を向けると、連合艦隊司令長官の豊田副武は本海戦のような状況は現地指揮官が判断すべきものであり「栗田君から弁明は聞いてはおらない」旨を述べており、佐藤和正がこの言葉を擁護的文脈で自著に引用した[503][504]。その他に福留繁[515]、奥宮正武[516]が擁護し、左近允と同じく尉官だった佐藤清夫などが若干の擁護をしている。佐藤清夫の場合は、当初は批判的立場のみであったが後に調べを重ねて考えを変えたことを述べている。なお、佐藤和正は『戦藻録』の解釈から宇垣纏も反転を是とする考えを前提にしていたと推量している。
古村啓蔵(当時は第一航空戦隊司令官で小沢艦隊所属だが作戦には未参加)は亀井宏のインタビューに対し、レイテ沖海戦は一種の特攻であり、「栗田さんほどの人を殺すためには、連合艦隊もそれ相応の挨拶があっていい。豊田副武長官が乗って突っ込めば良かった。豊田ぐらい(かわりは)いくらでもいる。」と怒気を含んで栗田を擁護している[517]。
中間的評価
批判と肯定が混在し、一概にどちらよりと見なせない者も居る。大岡昇平はこのやりとりについて『レイテ戦記』でコメントを残していないが、栗田艦隊の戦意の不足、当事者達の弁明に懐疑的で「旧軍人の書いた戦史および回想は、作為を加えられたものである」と述べ、当事者の恐怖心への推論を行っている[461]。また栗田中将の逡巡を「当時の大本営海軍部にとっては勿論、現在の日本人にとって感情的に受け入れることは出来ないであろう」と述べ艦隊の反転を「出先の戦闘単位に命令違反が現れた。大和以下の主力艦群は自爆を拒否したのである。」[518]と述べた。一方で、作戦目的については日米両艦隊の指揮官が揚陸と「決戦」の狭間で引き裂かれた[519]ことを指摘、反転せず南下した場合の船団攻撃の勝算も悲観的な立場をとった。栗田については「司令官に逡巡が現れた原因は、性格、指揮の経験不足に求めるべきではなく、歴史の結果にもとめるべき」旨を述べ、「氏の逡巡を批判する者ではない」[520]と述べた。対戦国である英国の首相であったチャーチルは回顧録の中で「救援は遙か遠方にあり栗田のレイテ湾突入を妨げる者は何もなかった」とした上で、栗田が心理的圧迫を受け混乱したのかもしれないと指摘した[521]。その理由として栗田が攻撃を三日間受け続け多大な損害を被ったこと、栗田の旗艦が出航直後に撃沈されたことを挙げ「同じ試練を耐え抜いた者だけが、彼を審判することができるであろう(Those who have endured a similar ordeal may judge him.)[522][523]」とした。
また、他者の批評に対する批評は佐藤和正以外の評者にも見られる。大岡昇平はスリガオ海峡の戦闘の評価に関連してだが、史料批判を行なう際にモリソンの『太平洋戦争アメリカ海軍作戦史』15巻を指して「米海軍公史の性格をもつものだが、それだけに迎合的筆致が見られ、聯合艦隊に対して嘲笑的」と述べジェームス・フィールドJrの著書を「好意がもてる」と評した。伊藤正徳『連合艦隊の最後』については「聯合艦隊への愛惜が感じられる好著」だが、戦略調査団に迎合的答弁をした旧軍人への反感を指摘し「やや偏っている」と述べた[524]。
そのほかの評価
これらのいずれとも異なる(或いは別の特徴的な観点からの)見方もある。大和で偵察員をしていた岩佐二郎は著書にて上官の批判は行なっておらず、むしろその心情を慮る記述をしているものの、主に心情的な理由から反転せず突入するべきだった旨を主張している。また、本海戦での物量格差は複数の者の指摘するところであり、戦時経済など戦争全体について扱った議論で提示された事実から、太平洋戦争について一定以上の知識を持つ者にとっては暗黙の前提ともなっているが、例えば森本忠夫は物質的な困窮が本海戦以降特攻戦術の拡大に繋がったという点に着目しており、作戦計画をその流れで解釈したことを挙げている[525]。
一方、日本側には捷号作戦の意義自体を批判する者もいる。大井篤は連合艦隊艦船などの「目に見える損害よりも、かくれた損害の方がズッと重大である」と指摘、作戦に投じた兵力をフィリピンでの輸送作戦、護衛作戦に投じたら、護衛艦艇が倍増することにより輸送も遥かに活発になり、より多くの南方資源を日本に送り込み、南方資源船団とフィリピン軍事輸送船団を別個に編成して航路も変えることにより敵潜水艦の攻撃を分散できた旨を主張、作戦の「殴りこみ」の性格や海戦後海軍の作戦指導者達が「あれでもやらなかったよりましだ」と思い込んでいるかのように見えたことを批判した[526]。
奥宮正武は栗田を反転論議におけるつくり話などの被害者であると評した。また「最近は旧海軍についての常識がないためそれを史実と信じるおそれがある」と主張、作戦については「航空のことを無視した大艦巨砲主義者たちによって計画され、強硬された」と評した[527]。責任については連合艦隊司令部が最も大であり、本作戦に限らず戦争で栗田が参加した多くの戦いについても「不適切な作戦指揮の後始末をしたようなもの」とし、作戦中の評価については、突入命令より先に手探りで敵艦隊を求め、空母の掩護もなかった栗田艦隊に敵情を示すべきであった旨を述べた。宇垣については戦藻録で批判をしているが、意見具申をしていないと指摘し、理由を敵情不明に求めた。また、このような事態になった遠因をマリアナ沖海戦時の小沢の失策に求め、小沢は航空戦に無理解で印象と実態の落差が激しいと批判した。海戦自体については「敗戦処理」「消化試合」であり、最大の海戦と見ているアメリカ人や決戦と見ている一部の海軍軍人を批判した。
大和の防空指揮所でレイテ沖海戦に参加した小板橋は、栗田艦隊のレイテ突入が作戦の目的であるにも関わらず、航空機の援護計画がなかったことを批判している[528]。さらに栗田艦隊がレイテ湾に突入したとしても、西村部隊と同じく全滅したであろうと推測し、「アメリカ軍を壊滅させて戦局逆転云々」は海戦に参加していない第三者の単純な見方であると評している[529]。
反転については左近允尚敏もコメントしている[530]。左近允尚敏は西村が繰上げ突入を独断したことについて、何の戦果もなく全滅したことを批判し、明るくなってから攻撃するべきだったと述べた。
通信不達に関する議論
本海戦ではあまり知られていないものも含めて、日米双方で通信の不達、或いは着電の著しい遅延する事例が発生した。日本側の状況は日本語文献ではかなり明らかになっており、実態としてはこの問題があらゆる局面で指揮官や司令部の判断に重大な影響を与えていた。終戦直後米国戦略爆撃調査団により行われた聞き取り調査でも多くの参謀、艦長、司令官が揃って述べたのがこの通信体制の不備であった。
疑念
栗田艦隊は北方機動部隊が存在するという電文を受信したのか、また小沢艦隊の誘出成功の電文を栗田艦隊司令部は知らなかったのかどうか、という論点について以下の説がある。
半藤一利によれば、サマール沖海戦で戦闘を行いつつエンガノ沖海戦中の小沢艦隊から発信された電報は次の通りである[531]。
- 十月二十四日に敵機動部隊に対する航空攻撃開始を知らせた電報(1KdF機密第241138番電[注釈 111]。24日1241時着電)
- 日向、伊勢を中核とする前衛部隊の派遣を知らせる電報(1KdF機密第241439番電[注釈 112]。24日1603時着電。)
- 日向、伊勢をふくむ前衛部隊を本隊に呼び戻す電報(1KdF機密第242127番電[注釈 113]24日2213時着電。)
- 小沢艦隊上空に敵偵察機が現れ、ハルゼー大将に発見されたことを知らせた電報(KdMB機密第241715番電[注釈 114]。第一遊撃部隊に着電記録なし)
- 241439番電に続いて打電した前衛部隊の動向と自隊の位置などを知らせる電報(1KdF機密第241715番電[注釈 115]。24日1831時金剛にて着電[注釈 116])
- 二十五日朝、ふたたび敵艦上機の触接を受け、ハルゼー大将の攻撃が近いことを知らせた電報(1KdF機密第250732番電[注釈 117]。第一遊撃部隊に着電記録なし)
- 敵艦上機八十機来襲、交戦中であることを知らせた電報(1KdF機密第250815番電[注釈 118]。小沢艦隊所属艦艇以外に着電記録なし)
- 瑞鶴に魚雷命中を知らせた電報(1KdF機密第250937番電[注釈 119]。小沢艦隊所属艦艇以外に着電記録なし)
- 小沢長官が大淀に移乗、作戦を続行中であることを知らせた電報(1KdF機密第251107番電[注釈 120]。25日1241時第一遊撃部隊に着電)
- 敵機一〇〇機の攻撃を受け、秋月沈没、多摩落伍を知らせた電報(1KdF機密第251231番電[注釈 121]。25日1430時第一遊撃部隊に着電)
このうち7と8は発信前に瑞鶴が沈没したが、残りの電報でも囮作戦の成功だと判断することができ、1、2、3、9、10は大和の電報綴に記録があるから瑞鶴の通信機は故障していない、したがって、通信不達はあったものの小沢艦隊が空襲を受けていることは分かった筈だと半藤は主張した[531]。また、電報の不着や遅延が重なると不自然で、それを理由に全てを隠蔽したと述べた[506]。田村俊夫は半藤説を採りつつ栗田に情報が届かなかった理由は参謀の陰謀によるものだと述べた。
大岡昇平は、瑞鶴の通信機が故障していたと述べた小柳冨次の証言が誤りであること、瑞鶴の通信長が戦死していること、モリソン戦史が戦艦大和の電報綴を元に書かれているが小沢艦隊が敵と接触した報告がこの綴りにはあるのに栗田艦隊の戦闘詳報にはないこと、などを疑問点としてあげている[532](一部は半藤が『全軍突撃 レイテ沖海戦』で挙げた点を援用している)。また、大岡は、例え愛宕に乗組んでいた第二艦隊の通信班が一部しか大和に移乗できなかったとしても大和の通信設備は完備されているし、愛宕の通信班も使えば通信業務はできた筈である旨を主張した。
大和の通信班に所属していた元予備少尉の小島清文は、北方機動部隊の電報を見ていないことや彼が見たという大和の艦橋の様子などを根拠に、電文は捏造であると結論した[533]。また『戦史叢書』では北方機動部隊の電文について「問題の空母情報は第一遊撃部隊だけではなく、マニラでも内地でも受領されたことは紛れもない事実であるが、その情報源は分からない」と記されているが[534]、小島はこれも戦史叢書が誤っていると主張した。
反論
当時熊野に士官として乗組み、戦後海上自衛隊で統合幕僚会議事務局長などを務めた左近允尚敏は艦艇研究家の田村俊夫が半藤の主張を汲み入れて『海交』で疑念を呈した際に反論している[535]。
- 大和に着電した1.2.3.5.9.10のうち、1〜5の無電は交戦とは無関係であり、囮が成功しているのかは当然ながら断定できない。9.10は反転北上を開始した後の着電であり、反転決断には関係がない。
- 7.8は発信前に瑞鶴が沈み送信はできないと述べているが、小沢艦隊に所属する航空戦艦「伊勢」の戦闘詳報には受電の記録がありそれは間違いである。しかしそれ以外には第一遊撃部隊司令部の他にも受信記録は無く、送信はなされたが受信は伊勢以外はできていないと考えられる[注釈 122]。
- 9は反転の無電を打電した直後に受電していることになっているが、内容は旗艦変更を述べているだけで瑞鶴の被害状況は説明していない。「旗艦変更=旗艦が沈没の危機にある」とは限らないことは多くの事例があるし、実際旗艦変更時点で瑞鶴は爆弾1、小型爆弾2、魚雷1を受け通信設備が損傷した程度であり速力も24ノット出せれる状態だった。それまで2回あった空襲も1回は回避に成功してすらいる。瑞鶴が致命傷を蒙り沈没が確実となったのは小沢中将が退艦した後である。
以上から受電文から分かるのは100機に空襲されて旗艦が変更されたということだけであり、「ハルゼー機動部隊が北につり上げられ、敵主力は南方にいないことが十分に読みとれるはず」という半藤の推理は結果が判っているからこそ言える思い込みであり、これだけの情報でハルゼー機動部隊の北方への吊り上げに成功していると読み取ることはできないと否定した[535]。
また、8時46分に瑞鶴は送信不能となり、以降は大淀からの送信だったと指摘した。瑞鶴の状態についての同種の指摘は佐藤和正も行っている。また左近允は小島が7の「大淀ニ移乗 作戦ヲ続行ス 一一〇〇」を翻訳して敵機動部隊だと即断したと証言している事など数点を挙げて、どのような手段(航空機か潜水艦か)で攻撃されたのかも、被害の程度も書かれていないのに何故旗艦変更したという内容だけで敵の北方誘致作戦が成功したと判断できるのか矛盾があることを指摘している。
当の機動部隊側も、戦闘後に提出された「機動部隊戦闘詳報」において7.8の無電を含む複数の無電が、他の各部隊には「不達」であったことを認めている[536]。
小島清文証言に対する疑念に関しては、当時大和で通信士官で小島の上官であり、彼の書籍にも登場している艦橋付通信士官だった都竹卓郎が、小島の著書の内容に脚色が多くあることを指摘し「嘘をついている」と批判している[注釈 123]。
これ以外にも都竹は「小島は海軍の通信系の仕組みを全く知らず、『大和』が聯合艦隊や各艦隊の司令部と、ダイヤル即時通話さながらに、直接交信しているものと思い込んでいたようである」と述べ、その上で大和戦闘詳報の資料批判と日本側の作戦行動の問題点を指摘した。また小島が不戦兵士を自称して戦時中の自分の行動を美化し、中帰連などで反戦活動を行なったことを批判した[537]。
左近允尚敏も、小島の戦史叢書の内容についての疑惑に関して「なにわ会ニュース92号」にて、小島の証言(ヤキ1カ電の真偽など)の多くの間違いを指摘したうえで、批判の意味を込めて「(そんな)小島少尉によると戦史叢(そう)書がすべて間違っているそうである」と批判している[注釈 124]。
他にもこういった説に対する反論を述べる人は多い。そもそも捏造であるというのなら、その捏造情報を基に栗田艦隊が基地航空隊に攻撃要請(1YB機密第251150番電)をするのはあり得ないし、基地航空隊側もそれに対して何の疑問ももっていない。そもそも捏造したのなら当然作戦後に問題視されるはずであり、それが作戦の成否を決める決断に関わったのなら尚更であるが、このことを当時問題になることはなかった。またヤキ1カ電の記録はないが、前述の通りノキ5ソやヤンメ55というヤキ1カの近くで、ほぼ同時刻に敵を発見したという情報は第二航空艦隊や第六艦隊、軍令部など他部隊に伝わっていることは多くの当事者の証言にあり、小島の説を信じるのなら、栗田艦隊だけでなく周辺部隊全てが捏造したことになり、全くあり得ないことである。佐藤和正はこうした捏造論について強い反論を行ない、後年左近允尚敏、都竹卓郎も目的としては同趣旨の反論を行なっている。佐藤は受信状況などについて考察し結論として自軍の偵察機が栗田艦隊を見て当該の電文を発信したという説を採っている。
なお、当事者である機動部隊本隊が作戦後に提出した「機動部隊戦闘詳報」では、重要通信の複数で不達があった事を認めており、25日の瑞鶴被弾後は瑞鳳に通信中継を依頼していた事も記載しており、大岡の「瑞鶴の通信機が故障していたと述べた小柳冨次の証言が誤り」という考えが誤りである事も分かっている。通信不達の原因として詳報では
- 旗艦瑞鶴の送信能力の不十分
- 使用電波に味方の別通信の混信が相当発生した事
- 通達確認の際の電信部と通信指揮官との間の錯誤があり、不達が司令部に報告されず対策を講じなかった事
- 中継する通信隊の受信状況に差異が出て受信できない時が発生した
としていて捏造を示唆する様な文言は何処にも記載されていない。また25日の瑞鶴被害後は応急電信機により瑞鳳をして中継させていたが、瑞鳳側幹部の戦死によりその際の不達に関しては詳細は不明としている[538]。
当時の無電の送受信に関して
現代の人々の中には当時の海軍の無電の送受信に関して、当事者同士がダイレクトに送受信していると誤解している人も多い。そのため上記の小島の証言のような、批判論の矛盾に気づかない場合が多い。そこでまず海軍の通信について通信士として大和艦橋で通信関係を取り扱った都竹の説明を元に述べる。
通信には短波を主用するが、洋上に出た艦隊は敵の無線方位測定(受信した際に電波が飛んできた方向と電波の強さにより発信者の位置を探る方法)を避けるため、傍受能力は当然維持されているが、原則として電波を発射しない。
艦隊間の交信には、まず打ちたい電文をあらかじめ設けられている通信区にある中継局、今回ならフィリピン方面を担当するマニラの第31通信隊(南西方面艦隊司令部麾下の第3南遣艦隊第31特別根拠地隊所属の部隊)に向けて、遠達性の低い指向性の短波で発信する。通信隊は受信するとそれを丸ごと広域短波放送にして発信する。受信者は通信隊からの放送に聞き耳を立てていて、自分たち宛の電文があればそれを傍受解読するのである。
こういった形にしている理由は暗号化していようがいまいが、電波を発するという行為自体が敵に自隊の位置を晒す行為であるからで、そのため発信は極力傍受されにくい方法で自軍勢力圏内にある安全な中継基地に送り、そこから自軍の部隊へ届くような強力な電波で送るようにしていたのである。作戦中、通信所は大量の電報を取り扱い、時には輻輳(ふくそう「重複」と同意語)するが、放送の仕方は当該通信隊の戦務処理に委ねられており、特定の電報が優先されることもあるし、他の中継局を経由して出すこともある。また受信側が受電できていないことも考慮して、多少の時隔を置いて複数回流されたりもする。
このような放送系を介した通信の仕組みであるため、発信から相手が受信するまでそれなりの時間を要し、到達には1時間以上かかる場合もある。これはアメリカ軍側も同じで、25日朝の第7艦隊からハルゼー艦隊宛の幾つかの救援要請電は、平文であったにもかかわらず到達に1時間前後を要している。
なお、電報番号で表示される発信日時は、電波に乗る前の「起案」時刻であり、実際に電波が出された時刻ではない。また受信日時は電信員がその暗号電報を取り終わった、いわば「着電」時刻であり、そこから暗号解読などの作業を経て文章化されて司令部に届くまで更に時間を要するので、記載された時間と実際のとは相当のタイムラグがある。佐藤和正は、放送を介した通信の仕組みとは明言していないが、無電は一回だけ相手を呼び出すのではなく、呼び出しは無しで定められた周波数によって数回に亘り連続打電するものであり、呼び出しが一日半に及ぶこともあると述べた。
栗田当人は、昭和46年4月第一回フィリピン方面海上慰霊巡拝団に参加した際[539]、「北方ニ大部隊アリ」は陸軍索敵機がサマール沖の栗田艦隊をアメリカ軍機動部隊と誤認し、陸軍司令部を通さず大和に直接送信してきたものだと語った[540]。
小沢司令部の認識
栗田司令部に小沢艦隊からの敵誘致成功の電文が届かなかったのが事実だとして、それ以前の問題として小沢艦隊が栗田艦隊の再反転の無電を受信していないのではないか、という疑念がある。つまり小沢司令部が栗田艦隊の反転を知らず、栗田艦隊は撤退していると考えていたがために、自艦隊の状況を積極的に打電しなかったのではないか、だから栗田艦隊で受信できなかったのではないか、ということである。これは佐藤和正の「艦長たちの太平洋戦争」内で第四航空戦隊司令官の松田千秋少将が「戦闘終了後小沢が『栗田の再反転を知らなかった』と言っていた」と証言しており、また「小沢艦隊は再反転の電報を受信していない」とも言っていることが根拠となっている。
栗田艦隊が反転したのが24日16時前、これを報じたのが同16時、この電文を小沢艦隊が受信したのが20時であった。それ以前に小沢は2の電文を打っており17時15分に大和に着電したことは確認されている。この1分前に栗田は再反転命令を出していたのだが、これはすぐに発信されなかった。既に連合艦隊司令部からは栗田艦隊宛に再反転命令の電文が打たれており、これは受信していた小沢も栗田艦隊の再反転に期待していたようだが21時を過ぎてもそれが着信しないため、単独の進撃は危険と考えた小沢は21時30分、先行して南下していた四航戦に対して反転、北上するよう命令した上で、22時30分部隊を一旦全艦北上させた。このとき四航戦はシャーマン隊の至近距離まで接近しており、これに両軍は全く気づかなかった(戦後になって両軍記録より判明)。もし、栗田艦隊の反転電文が達せず、四航戦が進撃を続けていればアメリカ軍機動部隊に対して砲撃戦を仕掛けることができたということになる。
栗田は19時39分になってミンドロ島サンホセ基地の水上機部隊に対して自隊への敵情報告命令を出し(連合艦隊司令部では受信せず)、これが初めて再反転を示唆する電文となったが、連合艦隊に宛てて直接再反転を報告したのは21時45分になってからだった(連合艦隊司令部では受信)。しかし、この2本とも小沢艦隊では受信していないのである。従って小沢は栗田の再反転を知らぬまま25日の敵空襲を受けることとなった。小沢は25日7時32分に4の電文を発し、同8時15分に5の電文を発しているが、いずれも短い電文であり二報しか打電していない。これは小沢が栗田艦隊が再反転したことを知らなかった証左であると、佐藤は述べている。もし小沢が、栗田が進撃していることを知っていれば「敵誘致成功」の電文は栗田が確実に受信できるようにもっと多く、長く伝えていたはずだとし、瑞鶴被弾後に四航戦や大淀に打電を代行委任せず、大淀に移乗するまで現況を打電しなかったこともこれで説明が付くとしている。「栗田司令部が再反転の電文をすぐに打たなかったこと」これが栗田司令部の"小沢艦隊の状況不明"の原因となったと佐藤は指摘している[注釈 125]。
電波伝播
当時日米両軍が多用した短波通信は、電離層の反射を利用して見通し距離外との通信を行うものである。しかし大戦中は太陽黒点活動が活発となり、電離層が不安定な時期が続き、しかも低緯度地方にその影響が集中したと述べた。周波数によってこの悪影響は程度が異なるが、日本海軍は2-4MHzの短波帯であれば影響が低いことを突き止め、同周波数帯の無線機の開発にかかったが、その前に戦争が始まったため電波予報を出して次善策としていた。また、大和のアンテナは地上に設置されたものに比べて設置上の制約が大きく、10m程度のものであり、しかも常に移動するという悪条件である。船舶通信についての教育テキストでは 日本標準時プロジェクト のような「報時」について言及がなされるが、リンク先にも示されているように一つの周波数のみでは伝播しない区域があることを考慮し、短波では複数の周波数で発信を行っている。この他短波の受信状況は日中か夜かでも変化し、その傾向分析を行っている事例もある。また遠方で受信できた場合に近距離であれば必ず受信できるとも限らない(鈴木治『船舶通信の基礎知識』)。佐藤の記述には「電波の突き抜け現象」による記述もある(デリンジャー現象ないしスキップ・フェージングを指すと思われる)。
なおレイテで戦う陸軍でも通信不達が発生しており、例えばレイテ島を防衛する第十六師団と大本営とはアメリカ軍が砲撃を開始した19日より通信が断絶し、23日に一時的に回復したがそれも直ぐに断絶した。26日に牧野師団長より鈴木宗作第三十五軍司令官に電報が届いたのは8日後の11月3日になるほどであり、電報の遅延は陸軍でも発生していたことが判明している[541]。
送受信組織の状況
受信状況については、愛宕沈没により電測士は清水少尉、司令部付暗号士の小林(剛)、広瀬両少尉が戦死、小林(敏)少尉は救助されたが高雄でブルネイに帰投した。大和に移乗できた通信班員は小島を含む2人の予備少尉だけであり、大和が旗艦となったことで通信班が艦隊司令部付と第一戦隊司令部付に分けられたため、オーバーワークとなり、且つはじめて聞く送信員の打電を処理しなければならなかったことで通信能力が低下した。このことは都竹によれば大和戦闘詳報の「戦訓の部」に記されており、電信員の数は一応定員を満たしていたが、速成教育を受けただけで、当直を任せられない新兵が多いため、戦闘中でも最低1直交代という原則を1直半にせざるを得ず、その上切断空中線の復旧といった応急作業が頻繁に飛び込み、古参兵は疲労困憊(ぱい)の極に達した(なお、無線通信士の間ではしばしば電信員固有の癖について指摘される[542])。この癖により、暗号数字の誤受信、ノイズ混入による欠字などにより、年間受信量の30%が受信不能となっていたという。佐藤は欠字が多い場合は暗号士に回送されても翻訳不能として没にされたと推定している。なお、『海軍艦隊勤務』では大和の定員表を推定する記事が掲載されており、機密性の高かった同艦の詳細な定員は不明な部分が多い。
従って、半藤が自著で大和の通信設備に被害がなかったように記しているのは明確な誤りである。
佐藤和正は瑞鶴が第一報を発信した午前7時32分頃は栗田艦隊は海戦中で、その指揮に追いまくられていたと述べ、瑞鶴のアンテナが第一次空襲で損傷し、補修したことを挙げた。また佐藤は「ヤキ1カ」を栗田艦隊を敵艦隊と誤認した味方航空機によるものと推定している。(実際、栗田艦隊は撤退時に、敵味方識別のために甲板に日の丸を掲げたにも関わらず味方機から爆撃を受けている)
神野正美の『空母瑞鶴』によれば、小沢艦隊は戦闘詳報でこの件について指摘し、問題があった電文として5件を挙げている。呉に帰還後調査も行なわれた。その原因分析としては次のような点が挙げられ、通信能力に優れた艦を旗艦とするべきことや台湾の高雄に展開していた通信隊の能力強化が戦訓として指摘されていた。
- 瑞鶴の送信勢力不充分
- 味方との混信
- 電信部通信指揮官間の錯誤
- 通信隊における受信状況の差異
- また神野によれば、同艦隊の情報参謀であった山井實夫はこの問題について次のような点を指摘している。
- 使用電波、周波数の種類による時刻別の伝播特性
- 発信源のアンテナ効果(指向性、空母についてはアンテナマストの起倒状態、倒れていると見通しが非常に悪化する)
- 戦闘中の艦内伝達の難易
- 電波の伝播経路の空間状態
なお、佐藤和正は司令部が大淀に移乗した後には不達はなくなったと述べている。
これに関連して松井宗明によれば、艦艇は秘匿性が要求されたり遠距離の特定海域から本国に通信する場合などは八木アンテナなどの指向性アンテナを用いるが、通常は無指向性アンテナを使用する。マストや上部構造物を利用して展張する展張型アンテナは、ほぼ無指向性である[543]。
原勝洋によれば、大和はシブヤン海海戦時に展張していたアンテナケーブルが断線し、被害が重大なものであったため予め積み込んでおいた修理部品も不足したと述べている。断線したケーブルは雑音を誘起し、通信の障害となった[544]。また、自艦の対空砲火による震動が無線機に悪影響を及ぼし、2つある受信室のうち一つは業務が不可能となっていた。都竹は、増強された高角砲が発砲振動を強め、通信環境には悪影響であった可能性を指摘している。このことにより大和は10月24日は送受信に著しい障害があり、31通の電文に問題があったという(31通の内訳について、原は本海戦を扱った『決戦戦艦大和の全貌』で述べていない)。原は、戦闘時の通信対策で課題を残したと総括した。「軍艦大和に於ける捷一号作戦通信戦訓」では、通信線の対策が「絶対に必要」と強く指摘している。
総論
時代により入手可能な資料や価値観が異なる面もあるが、概ね上記のような種々の視点が提供されてきた。かつては栗田中将の反転の決断を批難する論調が多かったが、昨今では客観的な考証から、栗田中将の反転の決断を肯定もしくは同情的に捉える論調もある。
日本側では総じて事前準備、組織間の情報伝達、連携の調整の失敗が多くの者に指摘され、外山三郎も兵力差の他の重要な要因として挙げている[545]。最終段階の栗田艦隊の行動を中心に意見が分かれる部分もあるが、資料批判を行なう評者の中には一部の批判に対しての反論もあり、日本軍批判であれば中身は何でも良いわけではない旨が指摘されることもある[546]
昭和天皇は戦後、「海軍は無謀に艦隊を出し、非科学的に戦をして失敗した」と評している[547]。
伊藤正徳は、本海戦を「無理の集大成であり、そして無理は通らないという道理の証明に終わった」と評価している[548]。
公判戦史である戦史叢書での本海戦を扱っている第56巻「海軍捷号作戦⑵フィリピン沖海戦」では、最後に本海戦の趨勢を決した第一遊撃部隊の突入中止について、以下の点を判断の要因に挙げ、本海戦のまとめとしている[549]。
- 第一遊撃部隊や基地航空部隊が護送空母群を正規空母群と誤認した
- サマール沖海戦では羽黒、利根、第十戦隊が最も近づいて攻撃しているが、相手を護送空母だと認識していたのは羽黒だけであり、他は全て「エンタープライズ級」や「インディペンデンス級」と認識して報告している。このため第一遊撃部隊司令部は交戦したのは正規空母の一群だと考え、周辺海域に未だ有力な空母機動群が展開していると考えてしまった。
- 誤認については、敵が砲煙や煙幕で姿を隠し、スコール等で巧妙に姿を隠しながら短時間だけ姿を見せて攻撃してくるなど、識別が非常に困難な状況だったとはいえ、日頃航空機識別に非常に努力を払っていた事と比較して、艦艇識別の努力が足りなかったといえる。
- ハルゼー機動部隊が全軍を率いて機動部隊本隊へ向かった事を第一遊撃部隊や基地航空部隊、とうの機動部隊本隊ですら正確に把握していなかった。
- 機動部隊本隊は25日8時から始まった空襲を、実際は述べ200機以上の大編隊の襲来だったのに何故か100機ほどの襲来であると、1231時発「機動部隊本隊戦闘速報」で報告した。この機数から導き出される常識的な敵兵力判断は1個機動群であり、3個群からなるハルゼー機動部隊の全軍が攻撃してるとは判断できない。
- 実際この電文を受電した第六基地航空部隊は上記のように判断し、敵機動部隊の多くは未だサマール島沖に展開していると判断している
- 栗田には「機動部隊本隊戦闘速報」が同日夕刻に届くという不手際があったが、仮に着電(1430時)後すぐに届いていたとしても、第六基地航空部隊のように判断した可能性が高い
- 第一遊撃部隊はサマール沖海戦後進撃を再開して以降も、米軍の空襲に晒され一方的な攻撃を受け続けた。
- これは周辺に展開していた護送空母群からの波状攻撃だったのだが、第一遊撃部隊側にそれを知る術はなく、規模も先日以来のものと変わらなかった事もあり、ハルゼー機動部隊による攻撃と判断した。
そして、仮に第一遊撃部隊が反転せず突入を継続していたとしても
- 元々第一遊撃部隊の突入は基地航空部隊の掩護下で実施される作戦だったが、基地航空隊はこれに失敗した。
- サマール沖海戦後から第一遊撃部隊への空襲が再活発化した。
- いまだ100浬の行程(レイテ湾口まで40浬、そこから目的地まで60浬)があるので、その間空襲に晒され更に進撃の遅延と損害を増やしてしまう事が予測される。
- その間に西村部隊を殲滅して北上しているオルデンドルフ艦隊が第一遊撃部隊を捕捉攻撃するので、空襲と砲撃の両方に晒されてしまう。
といった問題があり、第一遊撃部隊が敵輸送船団までたどり着くのは至難の業と評し、突入を継続していたらレイテ湾に突入できたと言う栗田への批判に対して疑念を呈している[550]。また、連合艦隊司令部が比島に進出して指揮を執ったとしても、通信能力自体が不足している状態である以上、適切な指揮がとれたかは疑わしいとも述べている[549]。
戦闘序列(日本軍)
海上部隊については軍隊区分[注釈 126]上での編成を以下に明記する。
連合艦隊
-
豊田副武
-
草鹿龍之介
-
小林謙五
-
高田利種
-
神重徳
-
淵田美津雄
第一遊撃部隊
第二艦隊を基幹に第三艦隊所属の第十戦隊を加えて編成
- 司令長官:栗田健男中将
第一部隊
- 指揮官:栗田健男中将(兼務)
-
栗田健男
-
宇垣纏
-
小柳富治
-
橋本信太郎
-
山本祐二
第二部隊
- 指揮官:鈴木義尾第三戦隊司令官
-
鈴木義尾
-
白石萬隆
-
木村進
第三部隊
- 指揮官:西村祥治第二戦隊司令官
-
西村祥治
補給部隊
随行する油槽船
- 萬栄丸、御室山丸、日栄丸、厳島丸、日邦丸、良栄丸
- この6隻はブルネイまで随行の予定であったが実際には部隊と合流できなかった。
- 雄鳳丸、八紘丸
- この2隻はブルネイ進出の予定はなかったが、上記6隻が間に合わないと予想した栗田長官の独断でブルネイ進出が指示され、予定の1日遅れで到着し艦隊に補給を行う。
機動部隊本隊
第三艦隊を基幹に連合艦隊直轄の第三十一戦隊を加えて編成
主隊
-
小澤治三郎
-
松田千秋
第二補給部隊
- 司令:山崎仁太郎少佐(秋風艦長と兼務)
- 駆逐艦 秋風
- 油槽船 仁栄丸 たかね丸
- 海防艦 22号 29号 31号 33号 43号 132号
先遣部隊(第六艦隊基幹)
- 司令長官:三輪茂義中将
-
三輪茂義
南西方面部隊(南西方面艦隊基幹)
- 司令長官:三川軍一中将
- 参謀長:西尾秀彦少将
- 参謀副長:北川政少将
- 参謀:大谷稲穂大佐
-
三川軍一
第五基地航空部隊(第一航空艦隊基幹)
- 司令長官:大西瀧治郎中将
- 参謀長:小田原俊彦大佐
- 第一五三航空隊 - 月光夜間戦闘機一一型×1機
- 第二〇一航空隊 - 零式艦上戦闘機二二型×16機
- 第七六一航空隊 - 銀河陸上爆撃機一一型×2機、天山艦上攻撃機一二型甲×7機、一式陸上攻撃機二四型×3機
- 第一〇二一航空隊 - 九六式陸上輸送機一一型×1機
-
大西滝治郎
第二遊撃部隊
第五艦隊を基幹に南西方面艦隊直轄の第十六戦隊を加えて編成
- 司令長官:志摩清英中将
- 参謀長:松本毅少将
- 首席参謀:天野盛高大佐
- 砲術参謀:松永力大佐、貞閑勝見少佐
- 機関参謀:岩部六郎中佐、佐藤良明中佐(副官も兼務)
- 水雷参謀:森幸吉中佐
- 航空参謀:大野義高少佐
- 通信参謀:津田威德少佐
- 艦隊軍医長:赤木武夫中佐
- 艦隊主計長:山本藤平主計中佐
-
志摩清英
-
木村昌福
-
左近允尚正
第六基地航空部隊(第二航空艦隊基幹)
- 司令長官:福留繁中将
- 参謀長:杉本丑衛大佐
- 第一四一航空隊(月光12機、二式艦上偵察機6機:ルソン島二コルス飛行場)
- 第二二一航空隊(零式艦上戦闘機70機:ルソン島クラーク、アンヘレス飛行場)
- 第三四一航空隊(紫電約40機:ルソン島マルコット飛行場)
- 第六三四航空隊(彗星12機、瑞雲31機:ルソン島キャビテ飛行場)[注釈 139]
- 第六五三航空隊(零式艦上戦闘機約40機、天山21機:ルソン島クラーク、マバラカット飛行場)[注釈 140]
- 第七〇一航空隊(彗星8機、九九式艦上爆撃機34機、一式陸上攻撃機24機:ルソン島マバラカット飛行場)
- 第七六二航空隊戦闘三〇三、戦闘三〇四飛行隊(零式艦上戦闘機約30機:ルソン島バムバム、マバラカット飛行場)[注釈 141]
- 第七六三航空隊(銀河10機:ルソン島クラーク飛行場)
- 第一〇二二航空隊(輸送機8機:本作戦には不参加)
-
福留繁
南方軍
第四航空軍
-
富永恭次
第十四方面軍
-
山下奉文
第三十五軍
- レイテ島
- ミンダナオ島
-
鈴木宗作
-
牧野四郎
戦闘序列(連合軍)
総計862隻(戦闘艦艇157隻、輸送船420隻、特務艦船157隻、その他128隻)[551]。
第二次ケベック会談でレイテ攻略を最終決定した1944年9月、連合幕僚長会議の決定によりダグラス・マッカーサー大将指揮の第7艦隊が上陸作戦の指揮を執ることとなった。この際、ウィリアム・ハルゼー・ジュニア大将の上陸部隊移管の進言もあり太平洋艦隊からはウィルキンスン中将の両用戦部隊が移管されたが、第3艦隊を中心とする空母機動部隊とその補給部隊はチェスター・ニミッツ大将の指揮下の太平洋艦隊にとどめ置かれ、その任務は第7艦隊を支援し、日本艦隊が出現した場合にはその撃滅を優先するものとなっていた。従って第3艦隊と第7艦隊では指揮系統が大きく異なる[552]。
第3艦隊
- 司令長官:ウィリアム・ハルゼー・ジュニア大将 旗艦:戦艦ニュージャージー 以下204隻
- 参謀長:ロバート・カーニー少将 (Robert Carney)
- 作戦主任参謀:ラルフ・ウィルソン大佐
- 航空参謀:ホレスト・モルトン大佐
- 通信参謀:レオナルド・ドウ大佐
- 情報参謀:マリオン・チーク大佐
- 作戦副参謀:ハーバート・ホーナー大佐
- 戦務副参謀:ハロルド・スタッセン大佐
-
ウィリアム・F・ハルゼー
-
ロバート・カーニー
第38任務部隊(TASK FORCE 38)
- 司令官:マーク・A・ミッチャー中将、
- 参謀長:アーレイ・A・バーク代将、旗艦:空母レキシントン
-
マーク・A・ミッチャー
-
アーレイ・A・バーク
第1群(TASK GROUP 38.1)
- 司令官:ジョン・S・マケイン中将、旗艦:空母ホーネット
- 空母部隊
- 第5巡洋隊(Cruiser Division 5)
- 第6巡洋隊(Cruiser Division 6)
- 重巡洋艦 ウィチタ
- 第10巡洋隊(Cruiser Division 10)
- 第46駆逐戦隊(Destroyer Squadron 46)
- 駆逐艦 12隻
- 第12駆逐戦隊(Destroyer Squadron 12)
- 駆逐艦 3隻
- 第4駆逐戦隊(Destroyer Squadron 4)、(第30任務部隊第2群、TASK GROUP 30.2)
- 駆逐艦 6隻
- (日本側文献では駆逐艦数は海戦当時14〜17隻)
-
ジョン・S・マケイン
第2群(TASK GROUP 38.2)
- 司令官:ジェラルド・F・ボーガン少将、旗艦:空母イントレピッド
- 空母部隊
- 第7戦隊(Battleship Division 7)
- 第14巡洋隊(Cruiser Division 14)
- 第52駆逐戦隊(Destroyer Squadron 52)
- 駆逐艦 4隻
- 第50駆逐戦隊(Destroyer Squadron 50)
- 駆逐艦 5隻
- 第104駆逐隊(Destroyer Division 104)
- 駆逐艦 5隻
- 第106駆逐隊(Destroyer Division 106)
- 駆逐艦 4隻
- (日本側文献では駆逐艦数は海戦当時16〜17隻)
-
ジェラルド・F・ボーガン
第3群(TASK GROUP 38.3)
- 司令官:フレデリック・C・シャーマン少将、旗艦:空母エセックス
- 空母部隊
- 第8戦隊(Battleship Division 8)
- 戦艦 マサチューセッツ
- 第9戦隊(Battleship Division 9)
- 戦艦 サウスダコタ
- 第13巡洋隊(Cruiser Division 13)、(L.T.デュポーズ少将指揮)
- 第50駆逐戦隊(Destroyer Squadron 50)
- 駆逐艦 5隻
- 第55駆逐戦隊(Destroyer Squadron 55)
- 駆逐艦 5隻
- 第110駆逐隊(Destroyer Division 110)
- 駆逐艦 4隻
- (日本側文献では駆逐艦数は海戦当時12隻)
-
フレデリック・C・シャーマン
第4群(TASK GROUP 38.4)
- 司令官:ラルフ・E・デヴィソン少将、旗艦:空母フランクリン
- 空母部隊
- 第6巡洋隊(Cruiser Division 6)
- 第6駆逐戦隊(Destroyer Squadron 6)
- 駆逐艦 4隻
- 第12駆逐隊(Destroyer Division 12)
- 駆逐艦 4隻
- 第24駆逐隊(Destroyer Division 24)
- 駆逐艦 3隻
- (日本側文献では駆逐艦数は海戦当時11〜15隻)
役務部隊
- 護衛空母11隻、駆逐艦18隻、護衛駆逐艦27隻、曳船10隻、給油艦35隻
※12のグループに分割し日本軍哨戒圏外の指定海域〜ウルシー間にて移動・待機
第34任務部隊(TASK FORCE 34)
水上打撃任務部隊
司令官:ウィリス・A・リー中将 (Willis A. Lee)
10月24日15時30付けで第38任務部隊第2群、第3群、第4群から水上部隊(戦艦6、巡洋艦7、駆逐艦17)を抽出して編成。ただし編成を宣言したものの実施されなかったという[553]。また、24日夕刻の時点では第3群の艦船は集結地点近海にいなかった。
- 第7戦隊(Battleship Division 7)
- 第8戦隊(Battleship Division 8)
- 第9戦隊(Battleship Division 9)
- 第6巡洋隊(Cruiser Division 6)
- 第13巡洋隊(Cruiser Division 13)
- 第14巡洋隊(Cruiser Division 14)
- 第52駆逐戦隊(Destroyer Squadron 52)
- 駆逐艦 4隻
- 第104駆逐隊(Destroyer Division 104)
- 駆逐艦 4隻
- 第100駆逐戦隊(Destroyer Squadron 100)、(第46駆逐戦隊、第12駆逐戦隊の一部の艦で編成)
- 駆逐艦 6隻
- 第50駆逐戦隊(Destroyer Squadron 50)
- 駆逐艦 4隻
-
ウィリス・A・リー
第7艦隊
南西太平洋方面最高司令官指揮下(最高司令官:ダグラス・マッカーサー陸軍大将、旗艦:軽巡洋艦ナッシュビル)
兵員輸送船53隻、貨物輸送船54隻[554]、その他含め攻略部隊艦船計658隻、戦闘艦艇計157隻[555]
司令官:トーマス・C・キンケイド中将、旗艦ワサッチ(水陸両用作戦部隊旗艦)
-
トーマス・C・キンケイド
第70任務部隊(TASK FORCE 70)
- 揚陸指揮艦ワサッチ
- 軽巡洋艦ナッシュビル
- 駆逐艦4隻
第1群(Task Group 70.1)
- 高速魚雷艇戦隊(MTB Squadrons)、(司令:レッスン少佐)
- 魚雷艇 39隻(3隻・13個小隊)
- 高速魚雷艇戦隊(MTB Squadrons)、(司令:レッスン少佐)
第77任務部隊(TASK FORCE 77)
第1群(Task Group 77.1)
司令官:ラルフ・W・クリスティ少将
-
ラルフ・W・クリスティ
第2群(Task Group 77.2)
- 支援射撃部隊(下記中央隊他はスリガオ海峡海戦時のもの)
- 司令官:ジェシー・B・オルデンドルフ少将、旗艦:重巡洋艦ルイビル
- 中央隊(司令官:ウェイラー少将 旗艦:戦艦ミシシッピ)
- 左翼隊(オルデンドルフ少将直率)
-
ジェシー・B・オルデンドルフ
第3群(Task Group 77.3)[注釈 142]
司令官:ラッセル・S・バーキー少将、旗艦:軽巡洋艦フェニックス
-
ラッセル・S・バーキー
第4群(Task Group 77.4)
- 護衛空母部隊
- 司令官:トーマス・L・スプレイグ少将 (Thomas L. Sprague)、 旗艦:護衛空母サンガモン
-
トーマス・L・スプレイグ
-
フェリックス・B・スタンプ
- 第3集団-タフィ3(TASK UNIT 77.4.3-TAFFY THREE)、(司令官:クリフトン・スプレイグ少将、旗艦:護衛空母 ファンショー・ベイ)
- 第25空母隊(Carrier Division 25)
- 護衛空母 4隻 ファンショー・ベイ、ホワイト・プレインズ、カリニン・ベイ、セント・ロー(10/25 没 サマール沖 特攻機)
- 第26空母隊(Carrier Division 26)
- 駆逐艦 3隻 ホーエル(10/25 没 サマール沖 砲撃)、ヒーアマン、ジョンストン(10/25 没 サマール沖 砲撃)
- 護衛駆逐艦 4隻 デニス、ジョン・C・バトラー、レイモンド、サミュエル・B・ロバーツ(10/25 没 サマール沖 砲撃)
- 第25空母隊(Carrier Division 25)
- 第3集団-タフィ3(TASK UNIT 77.4.3-TAFFY THREE)、(司令官:クリフトン・スプレイグ少将、旗艦:護衛空母 ファンショー・ベイ)
-
クリフトン・A・F・スプレイグ
第5群(Task Group 77.5)
- フリゲート1隻、駆逐艦1隻、高速掃海艇7隻、機雷掃海艇12隻、機雷敷設艦2隻、補助掃海艇26隻、港湾防衛船1隻
第6群(Task Group 77.6)
- 駆逐艦11隻
第7群(Task Group 77.7)
- 主力艦隊:給油艦7隻、弾薬輸送艦5隻
- 護衛艦隊:護衛駆逐艦3隻
- レイテ湾艦隊:タンカー6隻、給油艦1隻、敷設網艦4隻、工作船2隻、サルベージ船1隻、移動式乾ドック1隻、弾薬輸送艦4隻、徴用貨物船9隻、病院船2隻
第78任務部隊(TASK FORCE 78)
北部攻撃(司令官:バーベイ少将)
- 旗艦:揚陸指揮艦ブルー・リッジ
第1群(Task Group 78.1)
- 第24輸送隊:攻撃輸送艦4隻、輸送艦1隻、攻撃貨物輸送艦1隻、ドック型揚陸艦1隻
- 第6輸送隊:攻撃輸送艦3隻、攻撃貨物輸送艦1隻、貨物船1隻、ドック型揚陸艦2隻
- 護衛駆逐隊:駆逐艦4隻
- 支援艦隊:鋼製駆潜艇3隻、木製駆潜艇1隻、歩兵揚陸艦9隻、ロケット搭載揚陸艦5隻、火力支援揚陸艦2隻、哨戒艇3隻、フリゲート艦1隻、中型揚陸艦3隻、タグボート2隻
第2群(Task Group 78.2)
- 第32輸送隊:攻撃輸送艦4隻、輸送艦1隻、攻撃貨物輸送艦1隻、ドック型揚陸艦1隻
- 第20輸送隊:攻撃輸送艦3隻、輸送艦1隻、攻撃貨物輸送艦1隻、ドック型揚陸艦1隻、中型揚陸艦9隻
- 駆逐隊:駆逐艦4隻、タグボート1隻、ロケット搭載揚陸艦6隻、火力支援揚陸艦2隻、戦車揚陸艦14隻
第3群(Task Group 78.3)
- 主力艦隊:駆逐艦5隻、歩兵揚陸艦3隻、機雷敷設艦1隻
第4群(Task Group 78.4)
- 主力艦隊:駆逐艦7隻、タグボート1隻、フリゲート艦2隻
第6群(Task Group 78.6)
- 主力艦隊:攻撃輸送艦6隻、輸送艦1隻、貨物船1隻、工作船1隻、商船4隻、戦車揚陸艦32隻、歩兵揚陸艦12隻
- 護衛艦隊:駆逐艦4隻、フリゲート艦2隻
第7群(Task Group 78.7)
- 主力艦隊:戦車揚陸艦32隻、商船24隻
- 護衛艦隊:駆逐艦4隻、フリゲート艦2隻
第9群(Task Group 78.9)
- 主力艦隊:戦車揚陸艦62隻、商船19隻
- 護衛艦隊:駆逐艦5隻、フリゲート艦4隻
第79任務部隊(TASK FORCE 79)
南部攻撃(司令官:ウィルキンソン中将)
- 旗艦:揚陸戦指揮艦:マウント・オリンパス、アパラチアン
第1群(Task Group 79.1)
- 第7歩兵師団
- 徴用船64隻
第2群(Task Group 79.2)
- 第96歩兵師団
- 徴用船64隻
第3群(Task Group 79.3)
- 第7輸送船団:攻撃輸送艦3隻、輸送艦1隻、攻撃貨物輸送艦1隻、ドック型揚陸艦1隻
- 第30輸送隊:攻撃輸送艦3隻、避難輸送艦1隻、攻撃貨物輸送艦1隻、ドック型揚陸艦1隻
- 第38輸送隊:攻撃輸送艦3隻、輸送艦2隻、攻撃貨物輸送艦1隻
- Xレイ輸送隊:攻撃輸送艦2隻、貨物船1隻
- 護衛駆逐隊:駆逐艦8隻
第4群(Task Group 79.4)
- 第10輸送隊:攻撃輸送艦4隻、輸送艦1隻、攻撃貨物輸送艦1隻、車両揚陸艦1隻
- 第18輸送隊:攻撃輸送艦3隻、輸送艦1隻、攻撃貨物輸送艦1隻、ドック型揚陸艦2隻
- 第28輸送隊:攻撃輸送艦3隻、輸送艦1隻、攻撃貨物輸送艦1隻、ドック型揚陸艦1隻
- 護衛隊:駆逐艦9隻
第17任務部隊(太平洋艦隊司令部直轄)
太平洋艦隊潜水艦部隊司令官:チャールズ・A・ロックウッド中将
-
チャールズ・A・ロックウッド
上陸部隊
アメリカ陸軍第6軍[556]
総兵力20万2,500名(司令官:W.クルーガー中将)
- 第10軍団 53,000名(司令官:F.シバート中将)
- 第1騎兵師団 サンホセ、ドラグ方面に上陸(司令官:B.マッジ少将)
- 第24師団 タクロバン、パロ方面に上陸 1個連隊はパナオン水道方面に上陸(司令官:F.アービング少将)
- 第24軍団 51,500名(司令官:J.ホッジ中将)
- 第7師団 サンホセ、ドラグ方面に上陸(司令官:A.アーノルド少将)
- 第96師団 サンホセ、ドラグ方面に上陸(司令官:J.ブラッドリー少将)
- 軍直轄支援部隊
- 第6レンジャー歩兵大隊
- 軍予備部隊 28,500名
- 第32師団(司令官:W.ギル少将)
- 第77師団(司令官:A.ブルース少将)
-
ウォルター・クルーガー
損害
日本軍
- 損失[注釈 143]
- 戦艦:武蔵、扶桑、山城
- 航空母艦:瑞鶴、瑞鳳、千歳、千代田
- 重巡洋艦:愛宕、摩耶、鳥海、最上、鈴谷、筑摩
- 軽巡洋艦:能代、多摩、阿武隈、鬼怒
- 駆逐艦:野分、藤波、早霜、朝雲、山雲、満潮、初月、秋月、若葉、不知火、浦波
- 潜水艦:伊26、伊45、伊54
- 損傷により後退した艦艇
- 重巡洋艦:高雄、妙高、熊野、青葉、那智
- 駆逐艦:初霜、浜風
- ※この他にも参加艦艇の多くに損傷有り。
連合軍
- 損失
- 軽空母:プリンストン
- 護衛空母:ガンビア・ベイ、セント・ロー
- 駆逐艦:ホーエル、ジョンストン
- 護衛駆逐艦:サミュエル・B・ロバーツ
- 魚雷艇(PTボート):PT-493
- 艦隊曳航船:ソノマ
- 歩兵揚陸艇:LCI-1065
- 潜水艦:ダーター
- 損傷
- 護衛空母:サンガモン、ファンショウ・ベイ、カリニン・ベイ、キトカン・ベイ、ホワイト・プレインズ、サンティー、スワニー
- 重巡洋艦:オーストラリア
- 軽巡洋艦:ホノルル、バーミングハム、
- 駆逐艦:ロス、オーリック、ベニオン、アルバート・W・グラント、デニス
- 魚雷艇(PTボート):PT-490
レイテ沖海戦に関する作品
映画
文学作品(小説)
小説
- 伊藤正徳『連合艦隊の最後』光人社、2000年。ISBN 4-7698-0979-4。
- 実質は戦史評論的な内容。初出1956年。栗田への取材付。
- 大岡昇平『レイテ戦記 (上巻)』中公文庫、1974年、初出1971年。ISBN 4-1220-0132-3。
- 小説と分類されているが、レイテ海戦を述べた部分は文中でその都度参考文献を明示しており、日米両軍への評価が見られる。
- 佐藤和正『レイテ沖の日米決戦 日本人的発想vs欧米人的発想』光人社、初出1988年。ISBN 4769803745
- 関係者等の取材を基に小説の形で出版。1998年に光人社NF文庫より『レイテ沖海戦(上下巻)』と改題されて出版。
空想戦記
- 佐藤大輔『目標、砲戦距離四万!』徳間文庫、1993年。ISBN 4-19-567506-5。
- レイテ沖海戦を扱った部分の前半は史実に対する佐藤の評論であり、後半は小説である。佐藤は戦史評論も複数の実績がある。1991年の単行本の文庫化。
- 佐藤大輔『征途(愛蔵版)』中央公論新社、2017年、初出1993年。ISBN 978-4-1200-5006-0。
ボードゲームおよび関連記事
- 『太平洋艦隊』ホビージャパン。
- 『パシフィック・ウォー』VG。
- 『日本機動部隊2』国際通信社、1999年。
- 上田暁「コンピューターゲームデザイナーズノート 連合艦隊の栄光」『シミュレイター No.5 1986 Early Summer』翔企画。
- 『コマンドマガジン 第10号』国際通信社、1996年。
- 特集は「レイテ」である。
脚注
注釈
- ^ 当時の戦闘詳報や大本営による発表でも「フィリピン沖海戦」とされ、当時のニュース映像でもそう紹介されている。戦後に製作された太平洋戦争の公刊戦史である「戦史叢書」でも海戦名を『フィリピン沖海戦』としており、レイテ沖海戦とは呼称していない。
- ^ 1、陸軍1個師団を載せた輸送船団(8万総トン)と北方方面を担当する第五艦隊に乗船した陸軍1個連隊をサイパン島に向かわせる。 2、第一機動艦隊の残存空母瑞鶴・瑞鳳・龍鳳・隼鷹・千歳・千代田に練習航空隊や陸軍の戦闘機を中心とした約200機を搭載し、第二艦隊と共に出撃させる。艦載機は発艦のみとする。 3、第一機動部隊の約200機・硫黄島の八幡空襲部隊を中心とする約100機・ヤップ島の約50機、計350機をもってサイパンを攻撃し制空権を奪還、帰路は周辺のグアム、テニアン、ロタの友軍基地に着陸する。 4、第二艦隊はサイパンに接近し所在の敵艦隊を撃破。その後第五艦隊をサイパンに突入させ、その支援の下、陸軍1個連隊を上陸させアメリカ上陸部隊を駆逐する。5、輸送船団をサイパンに入泊させ防御を固める(光人社NF文庫 佐藤和正著「レイテ沖海戦」48・9p)というものだった。
- ^ この作戦要領は原本は終戦時に破棄されて存在せず、当事者たちの記憶をもとに戦後記録されたものである。そのため記憶違いな点もある可能性や、発令後の関係各部隊との作戦打ち合わせ等での修正点などが盛り込まれているか判定されておらず、実施時とは異なる可能性もあるので注意
- ^ 結局、台湾沖航空戦において連合艦隊は独断で「基地航空部隊捷一号作戦」を発動する。結果は航空戦力の多くを失うが逆に米機動部隊の損害は殆どない完敗となってしまい、「敵の先制攻撃を耐えて引き付けてからの総反撃」だった作戦が、「米軍引き付けた時点で航空戦力が壊滅している」という陸軍が指摘してきた問題をほぼそのまま繰り返してしまい、事後の作戦に重大な影響を与えてしまう[9]
- ^ それまで連合艦隊と同じく天皇に直接隷属する立場であった支那方面艦隊・海上護衛総隊や各鎮守府・警備府を連合艦隊司令長官の指揮下に置くことで、指揮権の一元化を図った。
- ^ それまで海上機動部隊所属の航空隊に採用されていた空地分離方式を基地航空隊にも採用した。
- ^ 3月頃より内密に進められていた水上、水中各種特殊攻撃兵器(後の震洋・回天・桜花など)の研究開発を本格化する。但し実際にレイテ沖海戦で行われた神風特別攻撃の採用ではなく、専用の特攻兵器の開発とその運用法の研究を始めたという意味である。
- ^ 1943年(昭和18年)頃より本格化しだしたアメリカ潜水艦による通商破壊戦により、損害を肥大化させ、マリアナ沖海戦頃には軍艦艇ですら損害を被るようになっていた。そのためサイパンの戦いに巻き込まれて司令部が全滅した第三水雷戦隊を解隊し、対潜機動部隊第三十一戦隊を設立した。
- ^ この時点では第一遊撃部隊(栗田艦隊)、第二遊撃部隊(志摩艦隊)は機動部隊本隊(小沢艦隊)と共に機動部隊(小沢治三郎中将が指揮官)の指揮下だった。
- ^ 後年小沢はGHQの調査による陳述書において、この時の事を「中略…余りにも拙い微力な航空戦力を以てしては、全水上部隊の主力となりえず、僅かに水上艦艇の偵察か上空警戒を担当する程度の実勢にすぎないであろう。このような航空戦隊に乗艦して、私が戦艦部隊を含めて水上部隊の最高指揮官となることは砲戦力を主とする栗田中将の自由な指揮を拘束するばかりでなく、その作戦遂行上も不利が多いと考え、豊田大将の希望案に対して強く反対した。」と述べている
- ^ 同司令はこの他にもサマール沖海戦当日の記述で、栗田長官が米機動部隊(実際は米護衛空母の1群だったが)への追撃を取りやめてレイテ湾への突入を再開する指令を出した事を「何を考えたか〜」と意外であったととれる記述をしている。利根艦長として参加した黛治夫も栗田司令部が25日昼にレイテ湾突入を取りやめて敵主力部隊攻撃に向かう決断をしたことを「当然である」と戦後に述べており、指揮官たちもレイテ湾に突入して輸送船団と刺し違える事に完全に納得はしていない者も居たことが判っている。
- ^ マリアナ沖海戦までは他に第10、61駆逐隊がいたが第10駆逐隊はマリアナ沖海戦後には駆逐艦朝雲のみとなったので7月10日に解隊され、秋月型駆逐艦(初月、若月、秋月)で構成される第61駆逐隊は同じく1隻だけ(霜月のみ)となった第41駆逐隊と共に、臨時に第二駆逐連隊を編成(司令は第61駆逐隊司令が兼務)して第三艦隊に残留したので第一遊撃部隊への移籍には第17駆逐隊のみが加わった。
- ^ 足柄・木曾・多摩
- ^ 不知火・薄雲
- ^ 曙・潮・霞
- ^ 若葉・初春〈※初霜は別海域で船団護衛任務中〉
- ^ 元々フィリピンは「マッカーサー王国」などと揶揄されるほど、マッカーサーにとっては父親の代より利権を多く握っていた国だった。マッツカーサー自身も米陸軍復帰前はフィリピン軍元帥であり、更に緒戦で日本陸軍に敗北した際に、自分を含む高級軍人達だけが脱出し「私は戻ってくる」と宣言した手前もあった。そのため、マーシャルはマッカーサーの個人感情をたしなめる書簡を送っている
- ^ なお、この大戦の間、アメリカ本国の政軍関係者には軍の動員限界についての考えが背景にあり、労働人口との兼ね合いから他の連合国への武器供給を含めた生産計画と睨みつつ、動員を行っていた。1943年から44年にかけては本国に留保している予備戦力を含めて、陸軍総兵力を90個師団770万人(海軍は200万人)に制限する決定も出され、これを世界にどう配分するかが戦略討議の前提条件であった。更にこの動員限界を超えて徴兵を行うのは、1944年11月の大統領選挙後でなければ不可能との統合参謀本部の見解もあった。そのためマーシャル大将はやや後の9月末にレイテ島上陸以後の作戦を計画した際にも、この件を考慮した上で作戦を検討するべき旨を主張している。(谷光太郎『アーネスト・キング』第12章、『第2次大戦の米軍事戦略』第2章P74、第3章P161、第4章P212-213等も参照。)
- ^ これは選挙中に前線基地に赴くことで、自分を戦争指導者として国民にアピールする狙いがあった。
- ^ 攻略予定は9月15日にモロタイ、10月15日にタラウド、11月15日にサランガニ、12月20日にレイテ、などとなっており、リンガエンへの上陸時点でレノ5号に比較し40日短縮されていた。
- ^ なお、オーバーロード作戦実施直前(計画策定の最終段階)では、ノルマンディー上陸後90日でドイツ本国進撃の態勢を整え10月にはドイツ打倒を実現するスケジュールであったが、上陸から90日を経過した9月初めの段階では、それが不可能なことは明白となった。そのため、ドイツ打倒後3ヶ月で移動を開始し6ヶ月までの間に到着とされたヨーロッパ方面の兵力を当てにすることはできなくなった(福田茂夫『第二次大戦の米軍事戦略』第四章 三、谷光太郎『アーネスト・キング』第11章等に拠る)
- ^ 戦闘901航空隊飛行隊長で、のちに芙蓉部隊の指揮官として有名となった美濃部正少佐が、自分が偵察飛行を行い誤報であることが判明したと戦後に出版した著書などで主張し、戦史叢書(海軍側の37巻「海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで」だけ、陸軍側の41巻「捷号陸軍作戦(1)レイテ決戦」には美濃部の名前は登場せず)にも同様の記述があるが、この記述の殆どは美濃部自身の証言に基づくもので、事件後まもなく、ダバオに出向き事件の調査をした軍令部参謀の奥宮正武中佐も、誤報は玉井の偵察飛行で判明したことや、玉井の「陸・海軍を合わせて、大ぜいの参謀がいるのだから、誰か高いところに上がって、状況を確かめればよかった。机の上の作戦とはそんなものだよ。」などの愚痴も聞いたと記述している。美濃部の著書では、美濃部が奥宮から事情聴取を受けたと記述しているが、奥宮の著書には美濃部からの事情聴取の記述はない
- ^ 実際には、比島寄りの部隊とされたミッチャーの部隊はキンケイド中将麾下の第7艦隊であり、18隻の護衛空母を機動部隊と見誤っていた。ミッチャーはハルゼー機動部隊の第38高速空母部隊指揮官でハルゼー大将の指揮下にいた
- ^ なおマッカーサーは翌日以降も上陸して戦線を視察するもその都度乗艦に戻っており、彼が上陸してタクロバンに指揮所を設けたのは、栗田艦隊が湾前で反転する少し前の25日10時頃だった
- ^ 19日午後に草鹿参謀長よりX日を24日黎明時に変更する事が可能か確認の電文(GF機密第191453番電)が届くが、この時点ではブルネイに計画通り油槽船がいるか確証がなく、24日黎明の突入ができるかどうかは判断できない状況だったので直ぐの返信を避けている
- ^ 第五戦隊にはこのほか最上が第五戦隊指揮下のもとリンガ泊地で訓練等に従事していた
- ^ 連合艦隊捷号作戦要領では第一遊撃部隊の上陸地点の突入は上陸開始から2日以内とされ、それを過ぎると上陸部隊は内陸に進軍して射程圏外に移動している可能性が高く物資も揚陸されて何処にあるか把握できない状態となり、突入の効果がないと判断されていた。このため作戦通りで言うなら突入は22日までに実施するものとされていた。しかし連合艦隊は期日内での突入が無理となっても作戦計画を予定通りに実施する決断を下し、これが第一遊撃部隊の指揮官たちの中にくすぶっていた「突入しても既に敵は奥地に進撃していて効果はないのではないか」という疑念を増すことになり、後々反転を決断する遠因の一つとなった。
- ^ 軍令部は第二艦隊のため、20日に萬栄丸、御室山丸、日邦丸、厳島丸に5隻の海防艦千振(旗艦)、十七号、十九号、二十七号、怒和島を護衛につけシンガポールから回航を命じていたが、この手配は栗田艦隊の出撃に間に合わなかった。その後日邦丸、厳島丸はコロン湾への進出を命じられ、両船共25日にブルネイを出港したが、27日バランバンガン島沖でアメリカ潜水艦バーゴールの雷撃を受け、日邦丸は沈没、厳島丸も航行不能となった後31日に空襲で沈没した。
- ^ 二手に分かれて進撃する事自体は第一遊撃部隊のなかで初期より検討されており、連合艦隊でも挟撃の効果とリスク分散の見方から二手に別れて進撃するよう要望していた。第一遊撃部隊がリンガ泊池を出撃した時点で部隊を第一第二部隊に分けて編成しているのもその点を考慮したものである
- ^ 進撃航路は4つの案が検討されたが、大きく迂回する第一航路は期日通りに突入することが不可能なので除外され、第三航路は第二航路よりも敵制空圏に早く侵入するので見つかる危険が高いので主力の進路候補から除外された。一方第三部隊の進む第四航路は距離は最短であるが敵潜水艦と会敵する危険が大きく、最も早くに敵制空圏に入ってしまうので大部隊だと早期に発見される可能性が高かった。小柳冨次は「まる一日無駄に過ごした」と述べている。栗田は戦後『決断』の会見記で「パラワン水道を行かずに、第一航路の西方の南沙諸島をまわれば、その付近には岩礁が多いので、敵潜水艦が出没せず、安全であることがわかっていました。だが、そうすれば、1日遅れるのです。その時間がなかったのです」と述べた。
- ^ 第三夜戦隊配属となった第四駆逐隊から野分を分離、同じく二水戦第二駆逐隊の清霜を臨時に第十戦隊麾下に加え、野分と共に三番隊を編成した
- ^ 原文「①第一遊撃部隊主力(4S、5S、7S、1S、2Sd、10S)22日0800ブルネイ出撃 実速力16ノット パラワン北航路、24日ミンドロ南方 爾後実速20ないし24ノット 同日日没時サンベルナルジノ東口 X日0400スルアン付近到達 泊地突入 ②第三部隊(2S、最上、駆逐艦4)22日午後ブルネイ出撃 スル海経由Xマイナス1日日没時ミンダナオ海西口 スリガオ海峡経由 第一遊撃部隊主力に策応しX日黎明時泊地突入」
- ^ 第三十一戦隊から五十鈴を、第十一水雷戦隊から多摩を分離し臨時編成
- ^ 多摩艦長が兼務
- ^ 秋風艦長が兼務
- ^ うち1機は沖縄大東島付近に不時着するも搭乗員は死亡、1機は沖永良部島付近に不時着しこちらの搭乗員は生還した
- ^ この時点では別行動中
- ^ 補給点(Fueling Area)には常時9〜10隻のタンカーなどが待機し、残量が所定のレベルに下がると、残りを次のタンカーに移載し、3 - 4日ごとにウルシーに後退、そこで本国から派遣されてきた商用タンカーから燃料を受け取るというものであった。一方空母は、グアム、エニウェトク、マヌスから、高速空母への補充機と搭乗員を運び、弾薬、需品なども補給していた。冷蔵船や郵便船なども存在していた。
- ^ 左舷高角砲指揮官と見張り員の一部が魚雷発射の気泡のようなものを至近で発見していたが報告のいとまもなく魚雷を受けた
- ^ 面舵を切るよりも取舵をとった方が躱せると判断したうえでの指示
- ^ 藤波自体は27日に撃沈され総員戦死しており同艦自体の記録はない[181]
- ^ 航空攻撃に策応し第一遊撃部隊主力は日没一時間後サンベルナルジノ海峡強行突破の予定にて進撃するも0830より1530敵艦上機来襲延機数約250機、暫次頻度及機数増大しあり、今迄のところ航空索敵、攻撃の成果も期しえず逐次被害累増するのみにして、無理に突入するも徒に好餌となり成算期し難きを以って、一時敵機の空襲圏外に避退し友隊の成果に策応し進撃するを可と認めたり
- ^ この電報の発電時間に関して当時大和の通信士官だった小島清文は著書「栗田艦隊」などで受け取ったのはガンルームで夕食をとった後の17時30分ごろで、電信室に回して打電し終えたのは18時前後であると書いているが、小島の上官で上記著書にも出てくる通信士都築卓郎はこれを明確に否定している。都築によるとこの時間帯の大和は総員戦闘配備中で悠長にガンルームで夕食をとるはずがない。小島は無電を打って10数分後に都築に呼ばれて艦橋に行き、栗田長官から18時15分連合艦隊司令部発の「天佑を信じ全軍突撃せよ」の電報を見せられ「この電報はこちらが(18時に)打った電報を見た上でのものか、どうか」と尋ねられ、「時間的に見てそうだと思う」と回答したとも書いているが、「天佑を信じ〜」の電報は18時15分発だが大和への受電は18時55分であり、小島のいう18時発電から10数分後にはまだ大和以下栗田艦隊司令部にはその電報は届いていない。また海軍の無電の送受信方法(後述)から考えて18時頃に打った電報が10数分で相手に着信して暗号解読を経て内容が判明し、その返信を打つのは物理的に不可能であり通信士官たるものがそのような事を理解せず「そうだと思う」と発言するのはおかしい。そもそも都築自身この時艦橋に小島を呼んだ記憶もないし電信室の責任者は別におり小島はその一員に過ぎず、長官が真偽を確かめるのに責任者を呼ばず小島を呼ぶのも不自然である。都築は以上の事からこの内容は小島の創作であり、自身の存在を大きく見せる(栗田長官に直接呼ばれるほど)売名行為であると「なにわ会」会報97〜99号にかけて述べている[186]。
- ^ 栗田艦隊所属の利根艦長だった黛治夫大佐は「今時天祐などあるものか!確信などあるものか!」と激怒している。
- ^ ただし、この時合流した艦隊が実際には主隊から分離した伊勢以下の前衛艦艇6隻だったのではないか、という指摘も存在する[212]。
- ^ 第1群は先鋒としてフィリピンや台湾等を攻撃して消耗していたため、補給のため別行動をとっていた
- ^ ハルゼーが小沢艦隊撃滅を優先したのは、ニミッツの命令もあったが、航空畑出身であったハルゼーは日本軍空母が最も優先される攻撃目標と考えており、その撃滅を優先したことと、小沢艦隊の戦力を見誤ったからであった(詳細は#海戦への評価で後述)。戦後に小沢中将は米国戦略爆撃調査団からの尋問で「囮、それが我が艦隊の全使命でした。何よりも大きな関心事は、少しでも北方に敵艦隊を引き寄せることにありました」と証言しているが、この証言を知っててなおハルゼーは「小沢の空母部隊がもっと善戦しなかったことに戸惑っている」「この交戦の興味深い特徴は、空の対決がついに生起しなかったことである」と小沢中将の囮作戦に嵌ったことは、はぐらかしている。しかし「こちらの攻撃隊は敵空母の甲板にかろうじて一握りの飛行機と、飛行中のわずか15機を発見した」と日本軍空母隊の航空戦力が思いのほか乏しいという報告を受けていたことは認めている
- ^ 第34任務部隊編成の電文は「予令」であり、実行命令ではない。
- ^ 栗田艦隊のサンベルナルジノ海峡通過とこの後に続くサマール島沖での不意の交戦は、アメリカ海軍側の下記の不手際が続いた結果招いたものであり、戦後に大きな論争を巻き起こすこととなった
- ^ 全機が九九式双発軽爆撃機で編成
- ^ 全機が九七式重爆撃機で編成
- ^ 従来の説では西村隊にも栗田艦隊の突入を支援するための囮の任務が与えられていたというものもあるが、21日の栗田艦隊司令部からの作戦司令にも、第三部隊が翌23日に出した作戦説明の電報「第三部隊命令作第1号」にも囮もしくはそれに類する作戦内容の記載はなく、あくまでも主隊と連携してレイテ湾に突入して挟撃するのが任務であるとしている
- ^ この2隻以外の戦闘詳報は乗員が殆ど戦死したなどの理由で作成されておらず、旗艦山城がこの無電を着電し、西村司令がこの電文内容をこの時点で把握していたかは不明である
- ^ 21日に行われた作戦会議で提示された機密1YB命令作第4号や、その後に連合艦隊や関係各部隊へ通達されたラブアン基地機密212053番電など
- ^ 黎明は日の出の約2時間前を指す。当時の日の出については駆逐艦時雨戦闘詳報6Pに10月26日の日の出時刻として6時40分の記載があるので、そこから考えると25日黎明は4時半過ぎとなり、ほぼほぼ近い時間帯となる
- ^ これについて、西村が突入時間を繰り上げたという指摘がなされる事があるが、実際は記載の通り第一遊撃部隊のレイテ湾突入は25日4時若しくは黎明時と出撃前から明示されており、この指摘は正しくない。只、出撃日の22日に部隊内に通達した「第三部隊命令作第1号」では「…スリガオ海峡よりタクロバン泊地に突入し日の出前後にわたり敵船団及び上陸軍を捕捉殲滅す」とあり[228]、軍艦最上戦闘詳報8Pにも「第三部隊は0430ドラック(米軍上陸地点の一つ)沖着の予定にて、当初の計画よりも数時間繰り上げられたり(如何なる情況判断なりや司令部の意図不明)」の一文がるので、部隊内では突入が繰り上がったと思われていたと思われる。
- ^ 大和戦闘詳報によると、この電報は発信手続きがとられたのが同時刻で、実際の発信は22時42分であったと記載している。その時点で第三部隊は敵魚雷艇と交戦中で、受信自体は最上に記録があるが時刻の記載がなくどの時点で西村部隊に届いていたかは不明
- ^ 西野氏はこの違いを、後方から続行していた第二遊撃部隊が「第三部隊は単縦陣で突入した」と報告し、一艦長の西野氏の証言より艦隊司令部の証言の方を戦史叢書が採用したからと、佐藤和正著「艦長たちの太平洋戦争」で述べている。しかしレイテ沖海戦の各戦闘詳報で、第三部隊の態勢を詳細に報告しているのは当の西野が艦長を務めた時雨の戦闘詳報だけであり、それには単縦陣と図入りで報告している。戦史叢書も恐らくこれを基に作成していると思われ、海戦当時と戦後で西野の証言が食い違う事になる。「艦長たちの太平洋戦争」での西野のインタビューは終戦から20年以上も経過し、老境にさしかかった頃のものであり、西野の記憶違いの可能性が高い
- ^ アメリカ海軍第33魚雷艇戦隊のPTボートPT-490、PT-491、PT-493の3隻
- ^ 死者2名、艇長を含む全士官が負傷し機関室に浸水。
- ^ 栗田が再反転を報じている1YB機密第241939番電及び1YB機密第242145番電は連合艦隊などには届いているが、機動部隊本隊の記録にはない。当時第四航空戦隊司令として戦艦日向にいた松田千秋少将は「海戦後本土に帰港して小沢とあったとき、小沢が「栗田艦隊が再反転してレイテ湾に向かっているとは知らなかった」と言ったと証言している
- ^ この無電は第四航空戦隊戦闘詳報には8時1分に着電の記述があるが、栗田艦隊には着電の記録はない。旗艦大和の記録だけではなく、所属艦艇の記録にもこの電報の着電の記録はない
- ^ 瑞鶴13機:小林保平大尉・峰善輝大尉・窪田晴吉飛曹長他、千歳2機:千田光夫一飛曹他、千代田3機:南義美少尉他
- ^ この様子は乗艦していた報道班員により録画されており、日本ニュース第232号「比島沖海戦」の中の1シーンとして上映されている
- ^ そもそも大淀に移乗したのがどういう理由によるものかも判断できない。航空機の攻撃によるものか、マリアナ沖海戦での大鳳や翔鶴のように潜水艦の奇襲攻撃をうけたためか、攻撃による損害ではなく何かしらの故障によるものなのか、文面に記述がなく、それ以前の電文が届いていてない受信者側にはこの一文だけでは状況を判断する事は難しい
- ^ 但し第1群はマケイン中将の判断で既にレイテに向けて急行していた
- ^ 現時点で小沢中将が掌握している艦艇は大淀・伊勢・日向・霜月の4隻
- ^ 当時大和通信士だった都竹卓郎は、小沢艦隊の囮作戦一応は図に当たったとしつつも、その一方で栗田艦隊が大規模な空襲を受け難戦を強いられたことも触れ、小沢艦隊の牽制行動に効果があったとは考えにくいと述懐している(PHP研究所 月刊歴史街道2015年1月号71pより)
- ^ 小沢艦隊からの連絡が届かなかった事もあるが、ハルゼー機動部隊だけでなく、キンゲイトの第7艦隊所属の護送空母からの空爆が25日も断続的に続いており、栗田艦隊側から見たら米移動部隊の脅威は排除されていないとみられた
- ^ 小沢艦隊司令部を収容した軽巡洋艦大淀の戦闘詳報でもこの問題が触れられており、同詳報では連合艦隊司令部の杜撰な指導に対する批判もある一方で、小沢艦隊がハルゼー機動部隊に対する牽制、誘致に努めるべき時機や期間、すなわち、栗田艦隊に対して敵航空攻撃の脅威を、どの期間逸らして自隊に引き付けるのか?という観念を機動部隊側が欠いていたと記述し、小沢の指揮への批判を書いている(吉田昭彦「比島沖海戦における機動部隊本隊の牽制作戦」『波濤』1995年7月)(アジア歴史資料センター「昭和19年10月20日〜昭和19年10月28日 軍艦大淀捷1号作戦戦闘詳報」40〜41p)
- ^ ただし各艦戦闘詳報や艦橋勤務員の手記に記録なし
- ^ 宇垣中将の『戦藻録』には「30機あまり発進したと見え」とあり、都竹も同様の感想を抱いていた。都竹は戦後に記録を見て本当の機数を知り、驚いたという
- ^ これはマリアナ沖海戦で榛名が被弾して速力が最大26-7ノット迄しか出なくなり、修理されずにレイテ沖海戦に臨んだため、僚艦金剛と速力に差がでていたため。この為榛名は同程度の速力である第一戦隊と行動を共にし、それよりも速力が出る金剛は別に行動するため独自に変針した
- ^ 戦後になってハルゼーはこのときは「動揺しなかった」と回想しているが、情報参謀としてハルゼーに仕えていたカール・ソンバーグは、報告を聞いたハルゼーは「顔面蒼白」で「ひどく打ちのめされた」様子であったと回想している。これは、ハルゼーが栗田艦隊に与えた損害を過大評価していたことを認識し、自分の決断に疑問を抱いていたからであると指摘している
- ^ これは、ハルゼーの第3艦隊はニミッツの指揮下なのに対して、キンケイドの第7艦隊はマッカーサーの指揮下という、アメリカ軍内のセクショナリズムも影響しており、マッカーサーも後年指揮系統の不統一について批判している(マッカーサー大戦回顧録p288)
- ^ この時ハルゼーは「なぜもっと早く言わなかったのか」と疑問に思ったが、実はこの無線は1番目の無線をハルゼーが受け取る前の7時25分にキンケイドから打電されたものであって、戦闘による無線量の激増で両艦隊間の交信が大混乱しており、無線が打電した順番には相手側に届かないという問題が生じていたからであった(イアン・トール『太平洋の試練 レイテから終戦まで 上』)
- ^ 元々暗号電文を作成する際、その前後には敵の暗号解読を混乱させるため、“詰め物(もしくは埋め草)”と呼ばれる意味のない文言を入れる決まりとなっていた。今回の通信文では本文の前に「七面鳥は水辺に急ぐ」後ろのに「全世界は知らんと欲す」の“詰め物”があり、受信側で取り除くことになっていた。またRRは、直前の重要な文章を間違った意味にとられないように強調するための“繰り返し”の表記である。だが通信員は「全世界は知らんと欲す」が詰め物かは判断できず、RRも文字化けの可能性があると考えてしまったため、司令部に送って判断を委ねたのだが、司令部ではそのままハルゼーの元に届けてしまっていた
- ^ ニュージャージー、アイオワ
- ^ 鳥海の被弾については、後方から射撃した金剛の砲弾が命中した誤射であったともいわれる。詳細は鳥海を参照
- ^ このほかにも呉に在泊していた第6艦隊旗艦筑紫丸には、空母を含む大部隊が9時0分、ヤキ1カに近い地点ヤンメ55を南下中との偵察情報が入り、11時37分に配下の潜水艦宛に打電している。ただし都竹はこの情報が大和に届いたか記憶していない
- ^ 0732番電は「敵機に見つかった」という内容であり、それでハルゼー機動部隊が全軍で北上したと判断は出来ない。1107番電もどういう状況で旗艦を変更したのか記述がなく、瑞鶴がどういう状況になったかすら不明である。仮に瑞鶴が攻撃を受けたとしても、敵航空機なのか、水上艦なのか、潜水艦なのかもこの電文では判断できない。
- ^ 藤波に救助されていた鳥海の乗組員も全員戦死した
- ^ この日も司令部の連絡が不達であったりする通信障害が発生しており、第一次攻撃隊でもレガスピーとは別方面に進出するよう指示していた特第三攻撃隊が指示通りに編成されることもなく、第一次攻撃隊と一緒に出撃してしまったりしている
- ^ 特攻作戦については大西が第一航空艦隊司令長官になる以前より中央で研究されており、記述のように特攻作戦を最初に発令したのは大西だが、「生みの親」というには少し誤りがある
- ^ 例えば1943年6月から7月にかけて、たびたび侍従武官の城英一郎大佐が特攻隊の必要性を大西に訴えに来たが、その頃は賛意を与えず慎重であった。(栗原俊雄著『特攻-戦争と日本人』15-16頁)
- ^ 10月21日に大和隊隊長久納好孚中尉、23日には佐藤馨上飛曹機が未帰還となる。なお久納好孚中尉の未帰還に関しては同日にオーストラリア海軍の重巡洋艦オーストラリアに日本機が体当たりして艦長以下約30名の死傷者が出ており、これが久納機ではないかという説もある
- ^ この攻撃が大和隊か彗星隊かどちらだったのかについては意見が分かれている。米側の記録では突入したのは5機で、最初に突入した1機は対空砲火に撃墜されたが、その時搭載した爆弾が外れて空母の近くに着水して炸裂したという証言があり、零戦だけで構成され爆弾を搭載していない大和隊では起こりえない。また9時に出撃した同隊が11時過ぎになってようやく交戦しているのも時間がかかりすぎている。かといって彗星隊だとするにしては、2機しかいない同隊を5機と米側が数えているのは不自然である。むしろ大和隊、彗星隊が偶々同時攻撃になった可能性の方が高いかもしれない
- ^ この他にも駆逐艦曙、沖波、秋霜、初春、が11月13日までのマニラ湾への断続的な空襲の中で失われ、レイテ沖海戦後より始まった「多号作戦」に参加した艦艇も11月11日に駆逐艦島風、長波、浜波、若月が沈んでおり、レイテ沖海戦後もレイテ島の攻防戦の中で多くの艦艇が輸送作戦に関わり続け、損害をだしていった
- ^ 10月31日には更に撃沈・巡洋艦1隻、駆逐艦2隻。撃破・空母2隻、巡洋艦又は駆逐艦3隻を追加で発表している。
- ^ 戦後の関連書籍の中には栗田が同海戦後に海軍兵学校長に人事異動している点を指して、現場から遠ざける海軍側の遠回しの「左遷」と書くものもあるが、海軍兵学校長は海軍内でも重要なポストであり、海軍士官を養成するという重要な教育機関の代表職が左遷先であるという海軍は何処の国にも存在しない。歴代学校長も島村速雄、山下源太郎、鈴木貫太郎、永野修身、草鹿任一、井上成美などといった著名な提督が名を連ねており、海軍大学校でもエリートコースである甲種ではなく乙種(乙種は海軍兵学校卒業生ならだれでもなれる)出身でしかない栗田が就任するのは前例が少なく、左遷ではなく出世ととらえる方が妥当である(出世という点では乙種卒でしかない栗田が第二艦隊司令長官に抜擢されている時点で『異例の出世』であり、当人もその前職である第三戦隊司令でもって予備役になると思っていた)
- ^ 大海機密第271158番電及び官房機密第271947番電
- ^ なおレイテ沖海戦の直後、軍令部では、特攻機と護衛機を積んだ雲龍型航空母艦と駆逐艦で機動部隊を編成し、再びレイテ沖に殴りこむという「神武作戦」計画が企画されたが、実行されなかった
- ^ 内訳:ウェストバージニア:徹甲弾107発・高性能弾(榴弾)171発、メリーランド:徹甲弾192発・高性能弾445発、テネシー:徹甲弾327発・高性能弾262発、カリフォルニア:徹甲弾177発・高性能弾78発、ミシシッピ:徹甲弾189発・高性能弾543発、ペンシルベニア:徹甲弾360発・高性能弾14発
- ^ 斉射された砲弾が着弾した散布界内に目標全体を捉えてる状態を指す言葉。誘導装置もない当時の射撃は初弾を撃ってできた水柱と目標の位置を計測して修正し、散布界内に目標を捉えるまでこれを繰り返す。捉えた状態を「夾叉」と言い、以後はこの状態を維持しながら命中するまで射撃を繰り返す。当時は程度の差こそあれどの海軍もこういった砲戦術であり、レーダーを使った射撃というのも、当時は敵艦の位置をより正確に得る測的のために使われていて、照準などは日本と同様方位盤や光学照準器を使用していた。当然ながら夜戦の際は探照灯や照明弾が必要になる
- ^ 他にも重巡洋艦利根は、アメリカ護衛部隊や小型護衛駆逐艦を「レンジャー型空母」や「バルチモア級軽巡洋艦」と報告し、第十戦隊は利根と羽黒の砲撃による水柱を魚雷命中と判断して台湾沖航空戦に並ぶ誤認戦果を報告している
- ^ 残数の内訳は第一砲塔40発、第二砲塔0発、第三砲塔45発、第四砲塔0発、第五砲塔40発である
- ^ 「机上の空論だった戦艦大和のアウトレンジ戦法」では、日本海軍が30,000m以上の「遠大距離」での砲戦演習を1937年より開始したが、1941年には25,000mに戻した旨が述べられている。理由は散布界の収束問題や敵艦の測的から射撃、弾着観測までの一連のシークエンスを短縮する目処がつかなかったからである。また、「命中率3倍説はなぜ生まれたか」ではサマール沖海戦を事例に実戦では演習時より命中率が大幅に低下するとしている
- ^ 北村賢志も史実では起こらなかったような戦艦同士の遠距離砲戦が仮にあったとしても、実績から命中弾が出ることに期待出来ない旨主張している(北村賢志「戦艦大和の虚像」『虚構戦記研究読本』光人社 1998年)
- ^ 石橋孝夫もまた、戦例の少なさから、特定の状況を仮定しその中で勝利条件を提示している。モデルにはレイテ沖海戦も挙げられている。結論としては、遠距離砲戦は不確定要素が多く、搭載機による弾着観測が行えることが条件であるが、実際の大和は常に航空機の脅威に晒されながら作戦行動していた旨が説明されている(石橋孝夫「大和型、アイオワ級もし戦わば」『大和型戦艦』歴史群像太平洋戦史シリーズ)
- ^ レイテ湾は南北130km、東西60kmに及ぶ巨大な湾であり、仮にオルテンドルフ艦隊を突破して湾に侵入したとしても、米軍の上陸地点を射程に捉えるまで更に2時間ほどを必要とする。周囲に敵空母を残したまま突入を継続するとこの間にも空襲を受けることになり、栗田艦隊は大損害を蒙ったと考えられる
- ^ なお深井の当時の役職である大和副砲長の戦闘時の配置は第二艦橋の1階上の副砲射撃指揮所であり、栗田や都竹の配置である第一艦橋はその3階ほど上になる。当時大和の艦橋は栗田艦隊司令部と第一戦隊司令部が同居する事になって手狭となり、大和固有の幹部は艦長も含め必要最低限の者以外は別の配置に移動していた。必要最低限の者とは操艦上艦橋に居なければならない航海長とその部下、都竹のように通信関係で配置されている者(海軍では通信科は航海科の一部門となる)、石田恒夫主計長や伊藤敦夫飛行長のように司令部の業務も兼務していた者(石田は戦死した栗田副官の業務を兼務、伊藤は第一戦隊航空参謀を兼務)であり、それ以外のものは基本第一艦橋にはいない。反転の一連の経緯の頃、栗田艦隊は幾度となく空襲を受けていたり、誤認ではあったが敵影の目撃報告なども発生していた頃であり、そういった臨戦態勢の時に副砲の指揮を執らなければならない立場の副砲長が配置を外れて第一艦橋にいる事はありえない。なお、当時艦橋に実際に居た人物では石田や伊藤なども戦後に多くの証言や著書を残しているが、彼らの証言にも深井の言うような事実があったと証言しているものはない
- ^ 宇垣自身の日誌「戦藻録」でもそのような記述はなく、むしろ輸送船団殲滅よりは艦隊決戦を目指した方がよいと艦隊司令部に進言したと海戦前に記述が見受けられる。
- ^ なお、「日本海軍の歴史で前線指揮官が勝手に作戦を中止した」という事例はレイテ沖海戦後の坊の岬沖海戦で第二艦隊司令長官伊藤整一が作戦中止を指示したのが唯一の事例とされており、レイテ沖海戦での栗田の行為は含まれないのが通例である。
- ^ 一例としてはマリアナ沖海戦時、敵は発見したものの大和型戦艦を主力とする日本艦隊を艦のサイズを見誤ってその戦力を過小に報告したことがある
- ^ フィリピンでの作戦打ち合わせで小柳参謀長が「好むと好まざるとを問わず、敵主力との決戦なくして突入作戦を実現するなどということは不可能」と発言しているのは、これを指している
- ^ 実際にはハルゼー機動部隊(第3艦隊)以外に上陸支援をするキンケイドの第7艦隊がおり、その規模は栗田艦隊を凌駕している。
- ^ 論者の中にはこういった支援戦力を無視してでも突入をするべきだったというのもいるが、支援艦隊は全力で栗田艦隊阻止への行動に出るわけで艦隊に損害が出てしまう。そのリスクを無視してでも突入しろというのは、船団に接触する以前に全滅するほどの損害を受けるリスクを無視しており、前線指揮官として選べる選択とは言えないものである。
- ^ 半藤は秦郁彦、横山恵一と『日本海軍 戦場の教訓』という鼎談本を出版しその中でも辛辣に批判をしている。
- ^ 前述の歴史群像太平洋戦史シリーズなどは1971年から大分経過してからの刊行である
- ^ 高木はその海軍士官人生の殆どを陸上勤務で過ごしていて現場経験は乏しかった。
- ^ 機動部隊本隊1145地点「ヌア二シ」攻撃隊全力発進 地点「フシ二カ」の敵機動部隊を攻撃す 当隊針路西速力20ノット 敵情に応じ機宜行動す
- ^ 前衛は南方に進出好機に乗じ残敵を攻撃撃滅すべし 本隊は1600頃まで西行飛行機を収容したるのち南東に向かい翌朝戦を続行す
- ^ 前衛は速やかに北方に避退せよ
- ^ 敵艦上機我に接触中 機動部隊本隊1645位置 地点「レヨ四ケ」
- ^ 機動部隊本隊前衛(日向、伊勢、初月、若月、秋月、霜月)今夜左により行動「ルソン」島東方海面の残敵を撃滅戦とす。24日1900地点「ヘワレ24」事後敵情に応じ機宣行動す。25日0600地点「ヘンモ55」に達す
- ^ この記録に関しては旗艦では「第一遊撃部隊戦闘詳報」「軍艦大和戦闘詳報」共に記述はないが、「第一戦隊戦闘詳報」には記述がある。しかし「第一戦隊戦闘詳報」は各電報を発信時刻しか記録していないため、この電報を何時受電したのか不明
- ^ 機動部隊本隊敵艦上機の蝕接を受けつつあり 地点「ヘンホ41」0713
- ^ 敵艦上機約80機来襲 ワレ之卜交戦中 地点ヘンニ13 0815
- ^ 瑞鶴魚雷命中1 人力操舵中 瑞鳳爆弾1命中 速力14節 ソノ他20節付近 航行差シ支エナシ
- ^ 大淀に移乗作戦を続行す 1107
- ^ 0830カラ1000マデ敵機約100機ノ来襲ヲ受ク 戦果撃墜10数機被害秋月沈没 多摩落伍 ソノ他損害アルモ概ネ18節航行可能 瑞鶴通信不能
- ^ 後述する当時の艦隊間の通信系統から考えて中継所自体に通信が届かず、周囲に居た伊勢の受信機が偶々発信された無電を直接傍受したのではないかと考えられる
- ^ 1例として小島は自書で、10月24日18時頃、ガンルームで食事をして通信室に戻ると聯合艦隊宛「反転報告」の暗号化を命じられ、十数分後に、艦橋の都竹中尉に呼ばれて上がってゆくと、栗田長官からじきじき、連合艦隊からの全軍突撃命令(18時13分発)は、「こちらの(18時発信の)報告をみて出されたものと思うか」と問われ、「そう思う」旨を答えたと記述している。これに対して都竹は「当時は全員が戦闘配置に就いている状態であり、少尉が悠長に平時と同じようにガンルームに行って食事をとるような事は有り得ず、戦闘配食が配られ持ち場で食事をとっていた。反転報告の電文も発信は16時であって18時ではない。聯合艦隊の「全軍突撃」命令の発信は18時13分だが大和への着信は18時55分だから、彼が長官の諮問を受けたと称する18時15〜20分頃は、「大和」では誰もその全軍突撃の電報の存在すら知らないはずであり、全く事実と反している。この話は自体が彼の捏造である」と反論している。
- ^ 小島の捏造説自体、当時の各部隊の行動と矛盾するのは前述の通り
- ^ 松田少将の第四航空戦隊の記録には再反転したと判断できる無電(23時55分着の1YB機密第242145電)の受電記録はある。しかしこの時第四航空戦隊は前衛部隊として小沢本隊と分離行動しているので、第四航空戦隊の記録をもって、小沢司令部も知っていた筈だと断じる事は出来ない。25日合流後、程なく米軍の空襲が始まったので、四航戦側が小沢司令部に確認した可能性も低い
- ^ 作戦遂行の際の編成で、作戦に合わせて各艦隊から戦隊や艦艇が派遣されて部隊を編制する。第一艦隊、第二艦隊といった艦隊区分での編成とは厳密には異なる
- ^ 清霜艦長、先任として隊を指揮する
- ^ 戦闘爆撃機型である零戦六二型の生産開始はレイテ沖海戦後の1945年2月からなので、この「爆装零戦」は零戦21型を改修して爆弾搭載能力を付与した型
- ^ 全機瑞鶴に収容
- ^ 瑞鳳、千歳、千代田に収容。内訳は瑞鳳(零戦8機、爆装零戦4機、天山5機)、千歳(零戦8機、爆装零戦4機、天山6機)、千代田(零戦8機、爆装零戦4機、九七式艦攻4機)
- ^ 多摩艦長。先任として隊を指揮する。なお作戦中の10/25に定例人事で少将に昇進している
- ^ 第三十一戦隊を以て編成
- ^ 第三十一戦隊司令官
- ^ 第三十一戦隊参謀
- ^ 第一遊撃戦隊に編成された第十戦隊を離れ、第三艦隊に残留した第四十一、第六十一駆逐隊をもって編成
- ^ 呂112が故障と練度不足のため出撃延期となり1隻のみの出撃
- ^ 第二十一駆逐隊はセブ島への航空機材などの輸送のため21日朝馬公から高雄へ出港し突入には不参加
- ^ 元々第一遊撃部隊と行動を共にしていたが、編成替えにより第二遊撃部隊の指揮下となる。「青葉」被雷のためマニラに回航され、旗艦を「鬼怒」に変更後、レイテ島オルモックへの兵員輸送を行う
- ^ 台湾沖航空戦で一時的に第三艦隊より第二航空艦隊に編入
- ^ 台湾沖航空戦で一時的に第三艦隊より第二航空艦隊に編入
- ^ 台湾沖航空戦で壊滅したため第二〇三航空隊から編入していた両飛行隊のみ参加
- ^ スリガオ海峡海戦時は右翼隊として第2群と共闘
- ^ なお作戦参加後の内地帰還時に戦艦金剛(11/21)、駆逐艦浦風(11/21)、重巡洋艦熊野(11/25)がアメリカ軍の攻撃により沈没。一部の艦艇は内地帰還前にマニラ湾に集結して多号作戦などに投入され、重巡洋艦那智(11/5)、駆逐艦島風(11/11)、若月(11/11)、長波(11/11)、浜波(11/11)、初春(11/13)、沖波(11/13)、秋霜(11/14)、曙(11/14)、桑(12/3)、岸波(12/4)、らが失われた。
- ^ 作中では最終的に日本海軍はレイテ湾突入を成功させてアメリカ陸海軍に大打撃を与えるが、結果的に大戦後の日本の南北分断を招く遠因となった。
出典
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- ^ 『第二次大戦の米軍事戦略』第四章 三。なお、マッカーサー、ニミッツの提出した両計画の意図、両者の見解などはそれぞれの回顧録に詳しい。
- ^ 谷光太郎『アーネスト・キング』第11章。
- ^ 『駆逐艦「野分」物語』第七章 「ハルゼーの猛進」。ただし、ハワイ会談の日付については、他の多くの文献が指している日付とした。
- ^ ハワイ会談については他節で挙げたものの他『レイテ沖海戦 (歴史群像太平洋戦史シリーズ9)』 学習研究社 の谷光太郎の記述にもよる。
- ^ 『マッカーサー大戦回顧録[下]』
- ^ 1942年1月の第一次ワシントン会談(アルカディア)で設けられたもので、英米を中心とする連合軍の、日本風に表現すれば主に軍政レベルでの折衝を行なうための会議であり、統合参謀本部(書によっては統合参謀会議)などとは別である。英国幕僚長会議、米統合参謀本部はこの会議の下位に位置する
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- ^ 「捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(6)」第65画像「煙幕の展開利用は巧みにして我攻撃効果を著しく減殺せり」
- ^ 「軍艦矢矧捷1号作戦戦闘詳報(1)」第9画像「煙幕の為視認極めて困難なり」。「軍艦矢矧捷1号作戦戦闘詳報(2)」第42画像「発射前後目標視認状況」
- ^ 戦後、栗田、小柳ともに戦略爆撃調査団に煙幕が非常に有効であったと陳述している。
- ^ バレット・ティルマン「サマール沖のまちぶせ」『第二次大戦のTBF/TBMアベンジャー』P42には魚雷発射管の誘爆を狙ったと記されている。
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- ^ 外山三郎『図説 太平洋海戦史 3』P223
- ^ 佐藤和正『レイテ沖海戦下巻』P353にて「あの時はそれが正解だったし今でもそう信じている」と記載あり。
- ^ 小板橋孝策 1985, p. 216。戦後、著者と黛の対談より。
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- ^ なお、小島の活動については現在 中帰連 などで確認ができる
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- ^ 艦船用の通信設備についての一般的な解説は『世界の艦船1989年2月号』「特集・艦隊通信」他に拠る。
- ^ 「捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(5)」第69画像「軍艦大和に於ける捷一号作戦通信戦訓」
- ^ 『太平洋戦史シリーズ 9』P123で谷光太郎が米側専門家の指摘に同意する形で纏めた部分。『図説 太平洋海戦史』P221等
- ^ 大岡昇平『レイテ戦記 上巻』佐藤和正『レイテ沖海戦 下巻』『やっぱり勝てない?太平洋戦争』など。
- ^ 寺崎英成「昭和天皇独白録」 118頁
- ^ 伊藤正徳『連合艦隊の最後』昭和30年
- ^ a b 防衛研修所1972, p. 609.
- ^ 防衛研修所1972, p. 607-609.
- ^ 数は児島襄 1974, p. 247による
- ^ 指揮系統の2元問題については下記を参照
新見政一「23 沖縄上陸に至るまでの米国の太平洋戦争指導の概要」『第二次世界大戦戦争指導史』P507-508
佐藤和正『レイテ沖海戦 下巻』第十一章P158-159
『学研太平洋戦史シリーズ9 レイテ沖海戦』P81,84,P123 - ^ 外山三郎『太平洋海戦史 3』
- ^ 谷光太郎『アーネスト・キング』による
- ^ 『レイテ沖海戦 上』P158
- ^ 陸軍部隊は児島襄 1974, p. 249および『太平洋戦史シリーズ 9』P88等による。上陸地点は文献は多いが佐藤和正『レイテ沖海戦 上』P193など
参考文献
- 米国海軍省戦史部 編、史料調査会 訳『第二次大戦米国海軍作戦年誌 1939-1945』出版協同社。
- ジェームス・フィールドJr 著、中野五郎 訳『レイテ沖の日米大決戦 捷号作戦の真相記録 太平洋戦争の大海戦史』妙義出版、1956年、初出1949年。
- 『The Japanese at Leyte Gulf』の邦訳。著者はハーバード大出身の戦史研究者。訳者は朝日新聞記者として開戦時ワシントンに駐在。
- 生田惇『別冊1億人の昭和史 特別攻撃隊 日本の戦史別巻4「陸軍特別攻撃隊史」』毎日新聞社、1979年9月。NCID B007ZY6G8O識別子"B007ZY6G8O"は正しくありません。。
- 生田惇『陸軍航空特別攻撃隊史』ビジネス社、1977年。ASIN B000J8SJ60。
- 伊沢保穂、航空情報編集部『日本海軍戦闘機隊―付・エース列伝』酣燈社、1975年。ASIN B000J9F9F8。
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- 猪口力平、中島正『神風特別攻撃隊』日本出版協同、1951年。ASIN B000JBADFW。
- 大岡昇平『レイテ戦記上巻』中央公論新社、1974年。ISBN 978-4122001329。
- 大岡昇平『レイテ戦記中巻』中央公論新社、1974年。ISBN 978-4122001411。
- 大岡昇平『レイテ戦記下巻』中央公論新社、1974年。ISBN 978-4122001527。
- 『実録太平洋戦争〈第4巻〉マリアナ沖海戦からレイテ特攻まで』中央公論社、1960年。
- 草鹿龍之介『連合艦隊参謀長の回想』光和堂、1979年。
- 1952年、毎日新聞社『聯合艦隊』、および1972年行政通信社『聯合艦隊の栄光と終焉』の再版。戦後明らかになったアメリカ軍側の情報などは敢えて訂正していないという(p.18)。
- 児島襄『悲劇の提督 南雲忠一中将栗田健男中将』中央公論社、1967年。
- 防衛研修所戦史室 編『海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで』朝雲新聞社〈戦史叢書37巻〉、1970年。
- 防衛研修所戦史室 編『捷号陸軍作戦(1)レイテ決戦』朝雲新聞社〈戦史叢書41巻〉、1970年。
- 防衛研修所戦史室 編『大本営海軍部・連合艦隊(6)第三段作戦後期』朝雲新聞社〈戦史叢書45巻〉、1971年。
- 防衛庁防衛研修所戦史室 編『比島捷号陸軍航空作戦』朝雲新聞社〈戦史叢書48〉、1971年。
- 防衛研修所戦史室 編『海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦』朝雲新聞社〈戦史叢書56巻〉、1971年。
- 防衛研修所戦史室 編『大本営海軍部・連合艦隊(7)戦争最終期』朝雲新聞社〈戦史叢書93巻〉、1976年。
- 「栗田中将会見記 - ウェイバックマシン(2007年11月12日アーカイブ分)」『決断 8月号(Vol.3)』(1971年、「君はアニメンタリー決断を知っているか」内に転載)。
- 「レイテ海戦の戦史的考察 -上、下-」『軍事史学 7(1)〜(2)』、1971年6月、9月。
- ドナルド・マッキンタイヤー 著、大前敏一 訳『第二次世界大戦ブックス5 レイテ 連合艦隊の最期・カミカゼ出撃』サンケイ新聞社出版局、1971年。
- 冨永謙吾、安延多計夫『神風特攻隊 壮烈な体あたり作戦』秋田書店、1972年。ASIN B000JBQ7K2。
- 『写真集・日本の重巡「古鷹」から「筑摩」まで全18隻の全て』(光人社、1972)42-45頁
- 浅井秋生 元海軍中佐、羽黒砲術長。サマール沖海戦、護衛空母追撃部分の証言。
- 文藝春秋臨時増刊『目で見る太平洋戦争史』1973年(昭和48年12月増刊号)170-171頁
- 都竹卓郎 元海軍中尉。サマール沖海戦における大和の砲撃開始から終了まで。反転については語っていない。
- 児島襄『太平洋戦争 下巻』中央公論社〈中公文庫, [こ-8-1,2]〉、1974年。ISBN 412200117X。
- 政治的経緯との関係が充実、(上)のまえがきで発言まで含め史料に拠ったことを明記、初版は中公新書、1966年
- 小島清文 「栗田艦隊反転は退却だった「ナゾの反転」の神話はかくて崩壊した (昭和史・最後の証言)」『文藝春秋』1978年3月号、文藝春秋
- 小島清文『栗田艦隊』図書出版社、1979年。
- 著者は大和の暗号士、その経験から栗田艦隊司令部による電文捏造説を主張
- 福田茂夫「第四章 三 オーバーロード開始とレイテ作戦決定」『第二次大戦の米軍事戦略』叢書、国際環境、中央公論社、1979年。
- 福田幸弘「「栗田艦隊」反転の謎-1-〜-5-」『ファイナンス』大蔵財務協会、1979年7月号〜10月号に連載。
- 著者は羽黒の主計士官で本海戦の戦闘記録係でもあった。羽黒の戦闘詳報はこの記録を元に作成され終戦後も残存、それと著者の記憶などを元に執筆した物。
- 『丸 昭和56年4月 特集レイテ沖海戦』潮書房、1981年。
- 木俣滋郎『日本戦艦戦史』図書出版社、1983年。
- 小板橋孝策『戦艦大和いまだ沈まず』光人社、1984年。ISBN 4769802242。 愛宕航海士。大和移乗後、防空指揮所見張員。サマール沖海戦後に負傷。
- 小板橋孝策『下士官たちの戦艦大和』光人社、1985年。ISBN 4769802676。
- 細谷四郎『戦艦武蔵戦闘航海記』八重岳書房、1988年。ISBN 4896461142。
- ジョン・トーランド(John Toland (author))『大日本帝国の興亡〈4〉』ハヤカワ文庫(ノンフィクション)、1984年、初版は1971年(毎日新聞社)。
- 『丸スペシャル 比島沖海戦1 太平洋戦争海空戦シリーズ』丸スペシャル105、潮書房、1985年。
- 『丸スペシャル 比島沖海戦2 太平洋戦争海空戦シリーズ』丸スペシャル106、潮書房、1985年。
- 豊田穣『空母瑞鶴の生涯』集英社文庫、1985年、ISBN 4-0874-9009-2。のち光人社で著作集
- 外山三郎『敗因究明に主論をおく太平洋海戦史〈5〉マリアナ沖海戦、レイテ海戦、及び特攻攻撃並びに敗因の底にあるもの』教育出版センター、1986年。ISBN 4-7632-6804-X。
- 森本忠夫「レイテ沖"謎の反転"の真相」『潮』、1986年9月号。
- W・P・ブリューア 著、井上寿郎 訳『悪魔の魚雷艇』朝日ソノラマ、文庫版新戦史シリーズ、1988年。ISBN 4-2571-7206-1。
- 佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争(全)』光人社、1989年。ISBN 4-7698-0445-8。
- 佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争:34人の艦長が語った勇者の条件』光人社〈光人社NF文庫〉、1993年。ISBN 4-7698-2009-7。
- 福田幸弘『最後の連合艦隊 レイテ海戦記(上巻)』角川文庫、1989年。ISBN 4-04-174401-6。
- 福田幸弘『最後の連合艦隊 レイテ海戦記(下巻)』角川文庫、1989年。ISBN 4-04-174402-4。
- 『ファイナンス』の連載を大幅に改稿し『連合艦隊―サイパン・レイテ海戦記』(1981年)として単行本としたものの文庫化。栗田の陳述禄付(『海軍経理学校第36期のホームページ』内の 引用、紹介)
- 読売新聞社 編集『昭和史の天皇 レイテ決戦〈上〉』角川書店、1989年。ISBN 4-04-173902-0。
- 読売新聞社 編集『昭和史の天皇 レイテ決戦〈下〉』角川書店、1989年。ISBN 4-04-173903-9。
- 1970年読売新聞に連載、同年単行本発売。
- 『写真太平洋戦争 第四巻』光人社、1989年。ISBN 4-7698-0416-4。
- 戸部良一、寺本義也、鎌田伸一、杉之尾 孝生、村井友秀、野中郁次郎「1章5 レイテ海戦 自己認識の失敗」「第2章」「第3章」『失敗の本質 日本軍の組織論的研究』中公文庫、1991年、1984年に出版した単行本の文庫化。ISBN 4-1220-1833-1。
- E・B・ポッター 著、秋山信雄 訳「第18章 レイテ湾」『キル・ジャップス! ブル・ハルゼー提督の太平洋海戦史』1991年。ISBN 4-7698-0576-4。
- C.W.ニミッツ、E.B.ポッター『ニミッツの太平洋海戦史』実松譲、富永謙吾(共訳)、恒文社、1962年。ASIN B000JAJ39A。
- 柳田邦男『零戦燃ゆ〈5〉』文春文庫、1993年。ISBN 4-1672-4013-0。
- 『零戦燃ゆ〈渾身篇〉』(1990年初出)を改題、分冊して文庫化。
- 福田誠、伊藤健太郎、牧啓夫、石橋孝夫「第7章」「第8章」『太平洋戦争海戦ガイド』新紀元社、1994年。ISBN 4-8831-7230-9。
- 中尾裕次「捷号作戦準備をめぐる南方軍と第十四軍との葛藤」『軍事史学』第30巻第1号、1994年
- 小柳富次『栗田艦隊』光人社NF文庫、1995年、初出は1950年、1956年再版。ISBN 4-7698-2095-X。
- 外山三郎『図説 太平洋海戦史〈3〉』光人社、1995年。ISBN 4-7698-0711-2。
- 小林昌信ほか『証言・昭和の戦争 戦艦「大和」檣頭下に死す』(光人社、1995) ISBN 4-7698-2087-9
- 渡辺義雄『ああ「瑞鶴」飛行隊帰投せず」(瑞鶴戦闘機整備科員。エンガノ沖海戦に参加)
- 伊藤由己『検証・レイテ輸送作戦』近代文藝社、1995年。ISBN 4-7733-4387-7。
- 『レイテ沖海戦 (歴史群像太平洋戦史シリーズ9)』学習研究社、1995年。ISBN 4-0540-1265-5。
- 奥宮正武『日本海軍が敗れた日〈下〉―レイテ沖海戦とその後』PHP研究所、1996年。ISBN 978-4569569581。 初出1993年。
- 佐藤和正『レイテ沖海戦 上巻』光人社NF文庫、1998年。ISBN 4-7698-2196-4。
- 佐藤和正『レイテ沖海戦 下巻』光人社NF文庫、1998年。ISBN 4-7698-2198-0。
- 雑誌『丸』に1984年9月から1987年12月まで連載したものを『レイテ沖の日米決戦(日本人的発想VS欧米人的発想)』ISBN 4-7698-0374-5(1988年刊行)として単行本化。文庫化にあたり改題。
- 原勝洋『戦艦大和建造秘録』KKベストセラーズ、1999年。ISBN 4-5841-7076-2。
- カール・ソルバーグ 著、高城肇 訳『決断と異議 : レイテ沖のアメリカ艦隊勝利の真相』光人社、1999年。ISBN 4769809344。
- 原書 Carl Solberg (1995). Decision and dissent: with Halsey at Leyte Gulf. Naval Institute Press. ISBN 978-1-55750-791-4
- 著者はTIME誌記者を経て軍に志願、空中戦闘情報(ACI)将校として南西太平洋軍に勤務、本海戦時は第3艦隊司令部に配属され旗艦ニュージャージーに乗組み従軍した。訳者は光人社創業者。
- 谷光太郎『米軍提督と太平洋戦争』学習研究社、2000年。ISBN 4-05-400982-4。
- 利根川裕「それは臆病風に吹かれたのではなく、古き海軍の思想と美学ゆえだった レイテ沖海戦--栗田健男「謎の反転」の心理を読む」『プレジデント』2000年3月号。
- 青山弘「戦史豆知識 栗田艦隊の謎の反転を考える」『鵬友』航空自衛隊幹部学校幹部会、2000年7月号。
- 木俣滋郎『潜水艦攻撃 日本軍が撃沈破した連合軍潜水艦』P128-142、P256、光人社NF文庫、2000年、1989年に出版した単行本の文庫化。ISBN 4-7698-2289-8。
- 半藤一利 『レイテ沖海戦』PHP研究所、2001年。ISBN 4-569-57616-8。
- 半藤一利、吉田俊雄共著『全軍突撃 レイテ沖海戦』(初版1970年)を改題し、後半部の半藤著述部分を抜粋した版。吉田が記述した前半部は作成の背景や計画についての経緯が詳述されたが、再版に当たり現在の読者にはそういった文章は受け入れづらいという(編集者出身の)半藤の判断で、吉田の了承を得て削除された。半藤は自らの著述部分については「海戦記」を目指した旨を述べている。
- 大井篤『海上護衛戦』学習研究社〈学研M文庫〉、2001年2月。ISBN 978-4-05-901040-1。「第7章 南方ルート臨終記」
- 初出1953年、以後1975年、1983年、1992年に再版。
- 宇垣纏『戦藻録後編』日本出版協同、1953年。ASIN B000JBADFW。
- 宇垣纏『戦藻録 宇垣纏日記[新装版]』原書房、2001年第2版、初出1953年、1968年再版、1996年新装版初版。ISBN 4-562-02783-5。
- 外山三郎「戦史 太平洋諸海戦の我が敗因に潜む「迂闊」と「不覚」の史例の考察(2)サマール島沖海戦後レイテ湾を背に針路を「北」にとった栗田艦隊の部隊集結」『波涛 Vol.27, No.2』兵術同好会、2001年7月。
- 神野正美『空母瑞鶴』光人社、2001年。ISBN 4-7698-1026-1。
- 1992年初出、1995年文庫化した本の改訂版。書名は個艦名がつけられているが、エンガノ岬沖海戦をアメリカ軍のアクションレポートを和訳し日本側戦闘詳報と比較、通信不達についても新証言などがある。
- E・P・ホイト 著、戸高文夫 訳『空母ガムビアベイ』学研M文庫、2002年。ISBN 4-05-901140-1。
- 江戸雄介『激闘レイテ沖海戦 提督ブル・ハルゼーと栗田健男』光人社NF文庫、2002年、初出1993年。ISBN 4-7698-2336-3。
- 『歴史群像55 特集レイテ沖海戦』2002年10月号、学習研究社。
- ダグラス・マッカーサー 著、津島一夫 訳『マッカーサー大戦回顧録[下]』中公文庫、BIBLO20世紀、2003年、日本での初出版は1964年。ISBN 4-12-204239-9。
- ダグラス・マッカーサー; 津島一夫 訳『マッカーサー大戦回顧録』中央公論新社〈中公文庫(改版)〉、2014年。ISBN 978-4122059771。
- 半藤一利、横山恵一、秦郁彦『日本海軍 戦場の教訓』PHP文庫、2003年、2001年単行本初出。ISBN 4-569-66001-0。
- ハンソン・ボールドウィン『勝利と敗北 第二次大戦の記録』朝日新聞社、1967年。ASIN B000JA83Y6。
- 左近允尚敏「レイテ海戦における重巡熊野の戦闘 航海士 左近允中尉手記 第1回〜第4回」『波涛 Vol.29, No.2〜5』兵術同好会、2003年7月、9月、11月、2004年1月。
- 岩佐二郎『戦艦「大和」レイテ沖の七日間 「大和」艦載機偵察員の戦場報告』光人社NF文庫、2004年、初出1998年、以前にも自費出版歴あり。ISBN 4-7698-2414-9。
- 原勝洋「第二部 レイテ沖海戦における大和艦隊の実態」『日米全調査 決戦戦艦大和の全貌』三修社、2004年。ISBN 4-3840-3389-3。
- 第二部にて日米の一次資料を駆使しアメリカ側の作戦計画、栗田艦隊の動きを記述。
- 「やっぱり勝てない?太平洋戦争」制作委員会 著『やっぱり勝てない?太平洋戦争』シミュレーションジャーナル、並木書房、2005年。ISBN 4-89063-186-0。
- 酒井直行、本多秀臣、文殊社(編)、2006、『戦艦大和 激闘の軌跡』28号 第31巻第2号 通巻721号、新人物往来社〈別冊歴史読本〉
- 志柿謙吉『回想レイテ作戦 海軍参謀のフィリピン戦記』光人社NF文庫、2005年、初出1996年。ISBN 4-7698-2462-9。
- 佐藤晃「16章 フィリピンの戦い」『帝国海軍が日本を破滅させた(下) Incompetent Japanese Imperial Navy』光文社ペーパーバックス、2006年。ISBN 4-3349-3388-2。
- 菊澤研宗『「命令違反」が組織を伸ばす』光文社、2007年。ISBN 4-3340-3413-6。
- 井川聡『軍艦「矢矧」海戦記: 建築家・池田武邦の太平洋戦争』光人社、2010年8月。ISBN 978-4-7698-1479-5。
- 第三章レイテ沖海戦「反転の謎を追って」「『大和』艦橋での激論」深井俊之助(大和副砲長)の証言。
- 井上陽介「陸軍による海戦情報入手とその後の意志決定--ミッドウェー・レイテ沖両海戦」『東京大学日本史学研究室紀要』第14号、東京大学大学院人文社会系研究科・文学部日本史学研究室、2010年3月、183-197頁、NAID 40017143241。
- 大岡次郎『正説レイテ沖の栗田艦隊』新風書房、2010年4月。ISBN 978-4-8826-9706-0。
- 冨井篤弥『松型駆逐艦「桐」〜戦中戦後の大洋を駆けた桐の物語〜』MyISBN デザインエッグ社、アマゾン、2018年2月。ISBN 978-4-8150-0400-2。
- 第二章 初陣の捷一号作戦
- 石川真理子『五月の蛍』内外出版社、2016年。ISBN 978-4862572899。
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- 渡辺洋二『幻の海軍夜間戦闘機隊始末記 彗星夜戦隊』図書出版社、1985年。ASIN B000J6U0R8。
- 渡辺洋二『彗星夜襲隊 特攻拒否の異色集団』光人社〈光人社NF文庫〉、2003年。ISBN 4769824041。
- 渡辺洋二『日本海軍夜間邀撃戦』大日本絵画、2004年。ISBN 978-4499228671。
- 渡辺洋二『非情の操縦席』光人社〈光人社NF文庫〉、2015年。ISBN 978-4769829157。
- デニス・ウォーナー『ドキュメント神風』 上、時事通信社、1982a。ASIN B000J7NKMO。
- デニス・ウォーナー『ドキュメント神風』 下、時事通信社、1982b。ASIN B000J7NKMO。
- 門司親徳『空と海の涯で―第一航空艦隊副官の回想』毎日新聞社、1978年。
- 服部卓四郎『服部卓四郎「大東亜戦争全史(六)」―比島決戦、本土決戦』響林社、2017年8月。ASIN B07515V498。
- 境克彦『特攻セズー美濃部正の生涯』方丈社、2017年。ISBN 978-4908925160。
- 吉野泰貴『海軍戦闘第八一二飛行隊―日本海軍夜間戦闘機隊“芙蓉部隊”異聞 写真とイラストで追う航空戦史』大日本絵画、2012年。ISBN 978-4499230964。
『機関誌水交』掲載記事
- 石川寿雄「比島沖海戦における「瑞鶴」の最後」337号、1981年。
- 久原一利「若い世代へ遺すもの(6)レイテ湾における栗田艦隊」533号、1999年。
- 久原一利「栗田艦隊レイテ反転の疑問について」535号、1999年。
- 左近允尚敏「「栗田艦隊の謎の反転」ほか」584号、2005年。
- 櫻井正「比島沖海戦における第五艦隊と志摩清英司令長官」589号、2006年。
- 池田清『最後の巡洋艦・矢矧』新人物往来社、1998年12月28日。ISBN 978-4-404-02692-7。
日本国外文献(主に未邦訳もの)
- Woodward C.Vann 『The Battle for Leyte Gulf』 McMillan Press (1947)
- Samuel en:Samuel Eliot Morison『Leyte: June 1944-January 1945 (History of United States Naval Operations in World War II, Volume 12)』(2001)
- いわゆる『モリソン戦史』。レイテ海戦は12巻。フィリピン戦は13巻。
- Richard Bates『The Battle for Leyte Gulf, October 1944. Strategical and Tactical Analysis. Volume I. Preliminary Operations until 0719 October 17th, 1944 Including Battle off Formosa』(1953)PDF文書
- アメリカ 防衛技術情報センター 内登録番号ADA003026
- 上記カール・ゾルバーグによれば海大のベイツ准将が作成。膨大な戦闘詳報、通信記録をもとに編纂され、後にモリソンもこれを著書の参考にした。
- [The Battle of Leyte Gulf]『World War II Naval Histories and Historical Reports』 Naval War College, Battle Analysis Series (1953〜1958)
- 海軍大学戦闘分析シリーズ(国会図書館 による日本語仮訳)。海軍士官の訓練と教育のために、海軍大学が作成。同図書館では2002年度購入、2003年公開
- Stanley Falk 『Decision at Leyte』 W.W.Norton Press (1966)
- Stewart Adrian『The Battle of Leyte Gulf』 Scribner's Press (1980)
- Charles D.Crowell『SHO-1 versus KING II - Victory at Leyte Gulf - Was it United States Luck or Japanese Mistakes?』(1989)
- Study project アメリカ 防衛技術情報センター 内登録番号ADA209582
- Gerald E. Wheeler 『Kinkaid of the Seventh Fleet: A Biography of Admiral Thomas C. Kinkaid, U.S. Navy』Naval Historical Center ISBN 1557509360 (1996)
- Rafael Steinberg『Return to the Philippines (World War II)』Time Life Education ISBN 0783557094(1998、初出1979年)
- 『Afternoon of the Rising Sun: The Battle of Leyte Gulf』Presidio Press ISBN 0891417567 (2001)
- Thomas J. Cutler『The Battle of Leyte Gulf: 23-26 October 1944 (Bluejacket Books)』Naval Inst Press ISBN 1557502439 (2001、1994年初出)
- H. P. Willmott『The Battle Of Leyte Gulf: The Last Fleet Action (Twentieth-Century Battles)』Indiana Univ Press ISBN 0253345286(2005)
- Paul Dull『A Battle Hisitory of THE IMPERIAL JAPANESE NAVY(1941-1945)』Naval Inst Press ISBN 1591142199 (2007)
- [Leyte:The Return to the Philippines]"U.S.Army in World War II"
- アメリカ側の公式戦史のひとつ
関連項目
- レイテ島の戦い - ルソン島の戦い - ミンダナオ島の戦い
- 捷号作戦
- キングII作戦
- 多号作戦
- 礼号作戦
- 海軍乙事件
- 太平洋戦争の年表
- 大日本帝国海軍艦艇一覧 - アメリカ海軍艦艇一覧
- 第二次世界大戦 - 太平洋戦争 - 大東亜戦争
- 海軍 - 大日本帝国海軍 - アメリカ合衆国海軍
- 電波伝播
- 大岡昇平 - 作品に レイテ戦記、野火
外部リンク
- NHK 戦争証言 アーカイブス 証言記録 兵士たちの戦争
- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
- 第一遊撃部隊関連の戦闘詳報他
- 「昭和19年10月16日~昭和19年10月28日 戦闘詳報.第1遊撃部隊 捷号作戦(菲島沖海戦を含む)(1)」 アジア歴史資料センター Ref.C08030714600
- 「昭和19年10月16日~昭和19年10月28日 戦闘詳報.第1遊撃部隊 捷号作戦(菲島沖海戦を含む)(2)」 アジア歴史資料センター Ref.C08030714700
- 「昭和19年10月17日〜昭和19年10月31日 捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(1)(第十戦隊)」 アジア歴史資料センター Ref.C08030037400
- 「昭和19年10月17日〜昭和19年10月31日 捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(2)(第十戦隊)」 アジア歴史資料センター Ref.C08030037500
- 「昭和19年10月17日〜昭和19年10月31日 捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(3)(第十戦隊)」 アジア歴史資料センター Ref.C08030037600
- 「昭和19年10月20日〜昭和19年10月28日 捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(4)(第一戦隊)」 アジア歴史資料センター Ref.C08030036900
- 「昭和19年10月20日〜昭和19年10月28日 捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(5)(第一戦隊)」 アジア歴史資料センター Ref.C08030037000
- 「昭和19年10月20日〜昭和19年10月28日 捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(6)(第七戦隊)」 アジア歴史資料センター Ref.C08030037100
- 「昭和19年10月1日〜昭和19年10月31日 捷号作戦戦時日誌(4)第10戦隊」 アジア歴史資料センター Ref.C08030039400
- 「昭和19年10月24日 軍艦武蔵戦闘詳報」 アジア歴史資料センター Ref.C08030575400
- 「昭和19年10月1日〜昭和19年11月5日 捷号作戦戦時日誌(7)軍艦能代・軍艦妙高」 アジア歴史資料センター Ref.C08030038600
- 「昭和19年10月23日〜昭和19年10月26日 軍艦羽黒戦闘詳報(1)」 アジア歴史資料センター Ref.C08030568000
- 「昭和19年10月24日 軍艦妙高戦闘詳報」 アジア歴史資料センター Ref.C08030567900
- 「昭和19年10月22日〜昭和19年10月28日 軍艦矢矧捷1号作戦戦闘詳報(1)」 アジア歴史資料センター Ref.C08030577600
- 「昭和19年10月22日〜昭和19年10月28日 軍艦矢矧捷1号作戦戦闘詳報(2)」 アジア歴史資料センター Ref.C08030577700
- 「昭和19年10月18日~昭和19年10月25日 軍艦最上戦闘詳報」 アジア歴史資料センター Ref.C08030575400
- 「昭和19年10月23日~昭和19年10月27日 駆逐艦時雨戦闘詳報」 アジア歴史資料センター Ref.C08030589500
- 機動部隊本隊関連の戦闘詳報他
- 「昭和19年10月20日〜昭和19年10月28日 捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(1)」 アジア歴史資料センター Ref.C08030036600
- 「昭和19年10月20日〜昭和19年10月28日 捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(2)」 アジア歴史資料センター Ref.C08030036700
- 「昭和19年10月20日〜昭和19年10月28日 捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(3)」 アジア歴史資料センター Ref.C08030036800
- 「昭和19年10月20日〜昭和19年10月25日 軍艦瑞鶴捷1号作戦戦闘詳報(1)」 アジア歴史資料センター Ref.C08030582100
- 「昭和19年10月20日〜昭和19年10月25日 軍艦瑞鶴捷1号作戦戦闘詳報(2)」 アジア歴史資料センター Ref.C08030582200
- 「昭和19年10月25日 軍艦伊勢捷1号作戦戦闘詳報(1)」 アジア歴史資料センター Ref.C08030576900
- 「昭和19年10月25日 軍艦伊勢捷1号作戦戦闘詳報(2)」 アジア歴史資料センター Ref.C08030577000
- 「昭和19年10月20日〜昭和19年10月29日 軍艦日向捷号作戦戦闘詳報」 アジア歴史資料センター Ref.C08030577100
- 「昭和19年10月20日〜昭和19年10月28日 軍艦大淀捷1号作戦戦闘詳報」 アジア歴史資料センター Ref.C08030577500
- 「昭和19年10月20日〜昭和19年10月29日 軍艦五十鈴フィリピン沖海戦戦闘詳報」 アジア歴史資料センター Ref.C08030579200
- 「昭和19年10月20日〜昭和19年10月29日 捷号作戦戦時日誌(1)軍艦瑞鳳」 アジア歴史資料センター Ref.C08030038000
- 「昭和19年10月20日〜昭和19年10月29日 捷号作戦戦時日誌(2)軍艦千歳」 アジア歴史資料センター Ref.C08030038100
- 「昭和19年10月1日〜昭和19年11月5日 捷号作戦戦時日誌(3)軍艦瑞鶴・軍艦日向」 アジア歴史資料センター Ref.C08030038200
- 「昭和19年10月1日〜昭和19年11月5日 捷号作戦戦時日誌(4)軍艦大淀・軍艦鈴谷」 アジア歴史資料センター Ref.C08030038300
- 「昭和19年10月1日〜昭和19年11月5日 捷号作戦戦時日誌(6)軍艦五十鈴」 アジア歴史資料センター Ref.C08030038500
- 第二遊撃部隊関連の戦闘詳報他
- 「昭和19年10月18日〜昭和19年10月26日 軍艦鬼怒フィリピン沖海戦戦闘詳報」 アジア歴史資料センター Ref.C08030579300
- 「昭和19年10月1日〜昭和19年11月5日 捷号作戦戦時日誌(5)軍艦那智・軍艦武蔵」 アジア歴史資料センター Ref.C08030038400
- 「昭和19年10月1日〜昭和19年11月5日 捷号作戦戦時日誌(8)軍艦阿武隈・駆逐艦清霜 」 アジア歴史資料センター Ref.C08030038700
- 「昭和19年10月24日~昭和19年10月25日 第18駆逐隊(霞)戦闘詳報 」 アジア歴史資料センター Ref.C08030589900
- 海軍捷号作戦/フィリピン沖海戦(米軍呼称 レイテ湾海戦) - ウェイバックマシン(2010年1月1日アーカイブ分)大東亜戦争研究室
- 柴田芳三「比島周辺の戦い」『わが青春の追憶』内
- 水兵の回顧録。本海戦時磯風に乗組。1997年子息により自費出版
- 黒澤丈夫「第三八一海軍航空隊(バリックパパン) - ウェイバックマシン(2005年1月17日アーカイブ分)」『ボルネオ研究』内
- 「戦記目次 - ウェイバックマシン(2005年4月10日アーカイブ分)」『なにわ会』内
- 海軍兵学校72期、海軍機関学校53期、海軍経理学校33期の合同クラス会。レイテ海戦時の各艦乗組員の回顧録多数。特に大和に通信士官として乗艦し、戦後日本大学理工学部教授となり、各文献を丹念に検討した都竹卓郎「「大和」艦橋から見たレイテ海戦 - ウェイバックマシン(2011年4月19日アーカイブ分)」を参考とした。
- 菊池金雄「スルー海で爆沈」『硝煙の海 - ウェイバックマシン(2016年3月4日アーカイブ分)』内
- 陸・海軍徴用船乗組員(通信士官)の記録、既出版物のウェブ化
- 由岐真「フィリピン沖海戦 栗田艦隊と神風特別攻撃隊」『日本史随想』内
日本国外(日本語以外)
- Return to the Philippines
- Battle Experience: Battle for Leyte Gulf [Cominch Secret Information Bulletin No. 22]
- Task Force 77 Action Report: Battle of Leyte Gulf
- 第77任務部隊作戦行動報告:レイテ湾海戦
- Orders of battle: Sibuyan Sea, Surigao Strait, Cape Engano, Samar.
- Battle of Leyte Gulf 『USS Gambier Bay & Composite Squadron VC-10』
- ガンビア・ベイの戦闘報告書
- The Battle Off Samar
- The Battle for Leyte Gulf(23-26 October 1944)
- Robert Ross Smith Chapter 21 Luzon Versus Formosa
- アメリカ陸軍歴史センター公式ウェブサイトのオンライン本棚に転載された戦史
- National Archives and Records Administration 米ナショナル・アーカイブス