コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

梅 (松型駆逐艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
基本情報
建造所 藤永田造船所
運用者  大日本帝国海軍
艦種 駆逐艦(一等駆逐艦)
級名 松型
艦歴
発注 1942年戦時建造補充(改⑤)追加計画
起工 1944年1月25日
進水 1944年4月24日
竣工 1944年7月25日
最期 1945年1月31日、バシー海峡にて戦没
除籍 1945年3月10日
要目
基準排水量 1,262 トン
公試排水量 1,530 トン
全長 100.00 m
最大幅 9.35 m
吃水 3.30 m
ボイラー ロ号艦本式缶×2基
主機 艦本式タービン×2基
出力 19,000 馬力
推進器 スクリュープロペラ×2軸
速力 27.8 ノット
燃料 重油:370t
航続距離 3,500海里/18ノット
乗員 211 - 250名[1]
兵装
レーダー 二号二型(対水上用)
一号三型(対空用)
ソナー
テンプレートを表示

(うめ)は、大日本帝国海軍駆逐艦[2]松型駆逐艦(松型(丁型)一等駆逐艦)の3番艦である[3]。日本海軍の艦名としては2代目[4](初代は二等駆逐艦樺型」)[5]

概要

[編集]

日本海軍が太平洋戦争終盤で運用した駆逐艦[6]。丁型一等駆逐艦第5483号艦として藤永田造船所で建造され[4]1944年(昭和19年)6月28日に竣工した[7][注釈 1]。訓練部隊の第十一水雷戦隊に所属し[9]、7月15日に新編の第43駆逐隊に編入された[10]。 8月20日に第三十一戦隊が編制されると[11]、第43駆逐隊も同戦隊に組み込まれた[12]。10月下旬の「梅」は姉妹艦と共に軽空母2隻(龍鳳海鷹)を護衛して台湾方面輸送作戦に従事し[13]レイテ沖海戦には参加していない[14]

11月上旬、第三十一戦隊は[15][16]第四航空戦隊日向伊勢)と共に内地を出撃[17]新南群島に進出した[18]。 同月中旬、43駆(梅、桐)は内地へ戻る第一遊撃部隊を[19][20]台湾周辺まで護衛した[15][注釈 2]マニラ進出後の12月5日、第43駆逐隊(梅、桃、杉)は第八次多号作戦に参加する[20][26]。12月7日のレイテ島揚陸決行時[27]、空襲により各艦とも小破した[28]。マニラ帰投後の12月14日に空襲を受け損傷、「梅」は香港で修理をおこなった[7]

1945年(昭和20年)1月中旬、台湾高雄に移動する[7]。1月21日、姉妹艦と対空戦闘をおこなう[29]。 1月下旬より駆逐艦3隻(梅、汐風)でフィリピン方面の航空隊関係者救助作戦に従事する[30]1月31日ルソン島北端アパリ英語版北方のバシー海峡で空襲を受け[31]、「楓」[32]と「汐風」が損傷[33]、「梅」は沈没した[34]

艦歴

[編集]

昭和19年の行動

[編集]

1943年(昭和18年)12月1日、仮称艦名第5483号艦として、藤永田造船所で起工[35]1944年(昭和19年)1月25日、日本海軍は駆逐艦3隻をそれぞれ「」「梅」「」と命名[2]。同日付で駆逐艦3隻は松型駆逐艦に類別される[3]。「梅」は呉鎮守府在籍と仮定されていたが、4月5日付で横須賀鎮守府仮在籍に改定[36]4月24日、進水[35]

5月16日、藤永田造船所の「梅」艤装員事務所は、事務を開始する[37]。 6月8日、日本海軍は前月下旬に沈没した駆逐艦「朝凪[38]の艦長大西快治少佐(1943年10月20日[39]~1944年6月1日[40])を[41]、艤装員長に任命する[42]6月28日、「梅」は竣工し[8][35]、横須賀鎮守府籍となる[43]。同日付で艤装員事務所を撤去した[44]。大西艤装員長は制式に初代艦長となる[45]

竣工後、訓練部隊の第十一水雷戦隊(司令官高間完少将)に編入される[9]。直ちに呉軍港に移動した[9][46]。7月中旬まで修理をおこなったあと、瀬戸内海で訓練に従事する[47]。 7月15日、日本海軍は第41駆逐隊(霜月冬月)および第43駆逐隊)を編制した[10][48]。第41駆逐隊司令には脇田喜一郎大佐、第43駆逐隊司令には菅間良吉大佐[13]が任命された[49]。2人とも駆逐艦「雪風」艦長を務めた経歴を持つ。 7月下旬、軽巡「長良」(十一水戦旗艦)、秋月型駆逐艦「冬月」、松型複数隻(梅、竹、桃)で訓練をおこなう[47][50]。このとき十一水戦の軽巡「長良」が南西諸島方面緊急輸送作戦に投入されることになり、高間司令官は7月30日に将旗を戦艦「扶桑」に掲げた[51][52]

8月1日、連合艦隊は新たな兵力部署を発令した[53]第五艦隊、第十一水雷戦隊、扶桑型戦艦2隻[注釈 3]、航空戦艦2隻、第21駆逐隊、第61駆逐隊などで第二遊撃部隊を編成し、機動部隊に編入した[55][56]。 8月30日、軽巡「多摩」が十一水戦に編入され、旗艦となった[57]。この頃、駆逐艦「涼月」が修理を終えて戦線に復帰、十一水戦と訓練をおこなった[58][59]

8月20日、日本海軍は第三水雷戦隊の残存艦と松型駆逐艦や海防艦を基幹とする対潜機動部隊を新編した[12][60]。これが連合艦隊付属の第三十一戦隊[61](司令官江戸兵太郎少将[62])である[63]。第43駆逐隊も第三十一戦隊隷下となった[注釈 4]。 編入後も瀬戸内海で訓練を続行した。

10月中旬の台湾沖航空戦台湾第二航空艦隊が大幅に消耗したため、内地所在の瑞鳳型空母「龍鳳」と大鷹型空母「海鷹」が航空機と基地物件や整備員を輸送することになった[14]軽空母2隻は北九州六連を発し、佐世保に移動した[68]。10月25日、松型4隻(梅、桃、)は「龍鳳」「海鷹」を護衛して佐世保を出撃し、10月27日に台湾北部基隆に到着した[69][70]。輸送任務を終えた後は10月30日に基隆を出港して佐世保を経由し[71]、11月2日に帰投した[72]

「梅」が軽空母2隻を護衛していた10月27日、連合艦隊はレイテ島決戦に関する基本方針を発令した[73]。第三十一戦隊はフィリピン方面緊急輸送と、同地進出後の南西方面部隊[74](指揮官:南西方面艦隊司令長官)編入を命じられた[75]。第三十一戦隊は旗艦の軽巡洋艦「五十鈴」と、指揮下の駆逐艦6隻[注釈 5]という艦艇で[16][78]、南方に進出する第四航空戦隊(司令官松田千秋少将)の航空戦艦2隻(日向伊勢)を護衛することとなった[18][注釈 6] [注釈 7]。 この輸送部隊を南方輸送部隊H部隊と呼称する[80]。11月9日に五島列島有川湾を出撃し、澎湖諸島馬公経由で、南沙諸島(新南群島)に到着した[84][注釈 8]

その頃、ボルネオ島ブルネイ湾に在泊中の第二艦隊(司令長官栗田健男中将)は度重なるB-24の空襲を受けていた[86]。戦艦3隻(大和長門金剛)と第二水雷戦隊(軽巡洋艦「矢矧」、第17駆逐隊浦風浜風、雪風、磯風〉)を日本本土に回航して整備を行う事となった[19][注釈 9]。 「梅」と「桐」は連合艦隊から第一遊撃部隊の護衛を命じられた[22]

当時、米軍機動部隊艦上機はマニラを頻繁に攻撃していた[90]。マニラ所在の第一水雷戦隊や輸送船は大損害を受ける[91][92]。南西方面艦隊は第五艦隊司令部と第一水雷戦隊のマニラ脱出、ブルネイ待機を命じた[21]。第四航空戦隊のブルネイ回航は中止される[93]。四航戦部隊(日向、伊勢、霜月、桐、梅)は新南群島長島錨地に移動した[94]。 11月17日に到着し、マニラから脱出してきた第一水雷戦隊[95](司令官木村昌福少将)指揮下の駆逐艦3隻[96]、竹)と合流する[97]。 同日夕刻、松型2隻(梅、桐)は、南シナ海を北上中の第一遊撃部隊(大和、長門、金剛、矢矧、第17駆逐隊)に合流した[98]。11月20日昼頃まで護衛に協力した後[99][100]、馬公に帰投した[101][102]。第43駆逐隊分離後の11月21日未明[103]、アメリカ軍潜水艦「シーライオン (USS Sealion, SS-315) 」[104]の襲撃により戦艦「金剛」と駆逐艦「浦風」[105]は撃沈された[22][106]

「梅」と「桐」が第一遊撃部隊を護衛していた11月20日付で第一水雷戦隊が解隊され[25][107]、一水戦司令官木村昌福少将が第二水雷戦隊司令官に任命された[108]。同日付で、第三十一戦隊は第五艦隊に編入された[15][109]。 続いて四航戦をふくむ第二遊撃部隊は、リンガ泊地もしくはシンガポールに移動した[25][110][25]

11月25日、「桃」と共にシンガポールを出発したばかりの第三十一戦隊旗艦「霜月」は[108][111]、米潜水艦「カヴァラ (USS Cavalla, SS-244) 」に撃沈された[104]。第三十一戦隊司令官[83][112]と第41駆逐隊司令は戦死する[76][113]。第三十一戦隊司令部も全滅した[77][18]。後任の三十一戦隊司令官は、「扶桑」艦長[114][115]等を歴任した鶴岡信道少将であった[116]。 新司令部は12月上旬に内地で新編され、空路でマニラに進出した[117][11]。大川内長官は第三十一戦隊司令部/麾下駆逐艦集合地点の台湾高雄移転を命じた[30]

その後、「梅」はルソン島マニラに進出して南西方面艦隊の指揮下に入り[118]、マニラからレイテ島西岸オルモックへの陸軍兵力輸送作戦「多号作戦」に参加する[119][120]。 マニラでは、第七次多号作戦で中破した姉妹艦「竹」が同じ桟橋に繋留されており、各艦は「竹」の損傷を目の当たりにして厳しい戦いを覚悟したという[121]。12月5日午前10時30分[122]、第八次多号作戦輸送部隊[123](駆逐艦3隻〈梅、桃、杉〉、「第11号輸送艦」、「第18号駆潜艇」「第38号駆潜艇」、輸送船4隻〈赤城山丸、白馬丸、第五真盛丸、日祥丸〉)と[124]SS艇3隻(6号、7号、9号)はマニラを出撃した[121]。輸送部隊は第43駆逐隊司令が指揮をとり[125]第68旅団(旅団長栗栖猛夫陸軍少将、主力4,000名)など、合計約6,900名が各艦に分乗した[26][126]

上陸予定日の12月7日早朝、日本陸軍航空部隊がオルモック南方に大規模船団を発見、上級司令部は多号作戦第八次部隊か判別に迷ったが、やがて敵輸送船団と判明した[127]。日本陸海軍航空部隊は、多号作戦部隊の護衛と、敵上陸船団攻撃の両方を行う羽目になった[128]。アメリカ軍はレイテ島西岸に上陸し、日本軍前線と揚陸地点(オルモック)の連絡を遮断した[129]。アメリカ軍第77師団のオルモック南方上陸でレイテ島地上戦の状況が一変した[130]。第43駆逐隊司令(「梅」座乗)はオルモック湾への接近を断念し、揚陸地をレイテ島西岸北方のサン・イシドロ英語版に変更した[131][132]。 同日午前9時、第八次輸送部隊はサン・イシドロに到着して揚陸を開始した[133]。のべ25機の日本海軍戦闘機が船団の上空直掩を実施した[134]。同地には接岸施設がなく、兵員の揚陸は成功したが重火器の揚陸は出来なかった[135]。また揚陸中にタクロバンからの陸軍機と海兵隊機の爆撃を受け、多数の死傷者を出した[136]。船団も「白馬しろうま丸」(日本郵船、2,857トン)[注釈 10]が撃沈され[131]、残りの輸送船も擱坐して失われた[27]。重装備を失ってレイテ島に上陸した第68旅団は、その後の地上戦で「消滅」した[137]。マニラへの帰投中、空襲を受け僚艦「杉」が損傷した[138]。「桃」も座礁して損傷した[139]。「梅」も小破したと記録されている[125]

12月14日、第38任務部隊ジョン・S・マケイン・シニア中将)の艦上機がマニラを襲撃し、「梅」は対空戦闘で損傷する[140][141][注釈 11]。「梅」と「桃」は香港に向けてマニラを脱出する[143][注釈 12]。梅乗組員によれば、内地帰投のため「梅」と「桃」がマニラを出発したあと、「梅」は香港での修理を命じられて「桃」と分離したという[144][注釈 13]。一方「梅」は香港回航への道中、荒天に見舞われて海南島三亜で待機し[148]、天候が回復してから香港に向かった。

昭和20年の行動

[編集]

1945年(昭和20年)1月初旬、アメリカ軍の大艦隊がルソン島西岸を北上し、1月6日にリンガエン湾集結を果たした[149][注釈 14]。 1月9日、上陸作戦を開始した[153]ルソン島の戦い[154]。 同日、第43駆逐隊司令菅間良吉大佐は舞鶴鎮守府付となる[155]。後任の43駆司令は、駆逐艦「風雲」初代艦長等を歴任した吉田正義大佐であった[155][142]。吉田大佐は43駆司令駆逐艦を「梅」に決定した[156][157]。当時の南西方面艦隊は残余の駆逐艦3隻(梅、樫、杉)のリンガエン湾突入を下令したが、まもなく取り消した[152]。1月10日、南西方面部隊指揮官は水上部隊の任務を変更した[158]。警戒部隊に対しては「警戒部隊ハ指揮官所定ニ依リ台湾海峡及呂栄海峡方面ニ於ケル敵潜水艦掃討ヲ行フト共ニ 台湾、呂栄間ノ作戦輸送ニ任ズベシ(台湾海峡およびルソン海峡方面の敵潜掃蕩、同方面輸送任務)」を命じた[30]

「梅」は1月14日まで香港で修理を行った[159]。修理完了後、1月15日に出港する[144]。南シナ海に進撃していた第38任務部隊は1月15日から16日にかけて香港に避退中のヒ87船団に大打撃を与えており[160][161]、「梅」も対空戦闘をおこなったという[144]。第38任務部隊の活動が止むまで待機した後、台湾高雄に回航された[162]。1月20日、高雄に到着して姉妹艦(樫、杉)と合流した[152]。1月21日にも空襲を受けて松型3隻(梅、杉、樫)で応戦した[29]。「梅」は戦死者1名を出したのみで船体に被害は無かったが、姉妹艦は若干の被害をうけた[29][163]。1月23日、第三十一戦隊司令部はマニラから高雄に移転した[11]。「梅」は「」とともに基隆に回航されるも[164]、「梅」はフィリピンからの搭乗員救出(パトリナオ輸送作戦)のため高雄に呼び返された[165][142]

当時、ルソン島の日本軍航空兵力は枯渇寸前であり[166]、司令部や残存兵力はフィリピンからの撤退を開始した[34][167]。 1月31日朝9時[168]、松型駆逐艦2隻(梅、)と駆逐艦「汐風」は台湾高雄を出撃[169]。ルソン島最北端のアパリ英語版[170]、アパリ防衛のための高雄陸戦隊や燃料、車両、弾薬を乗せて向かう[33][171]。速力24ノットで南下し出撃から2時間後、偵察のB-24に発見される[172]。対空砲火で追い払ったものの更なる空襲は必至となった。15時頃、台湾最南端ガランピ岬南方20海里[31][168]において第14航空軍所属のP-38に護衛された第38爆撃航空団所属のB-2512機と第35戦闘航空団所属のP-474機の空襲を受ける。当初、「梅」は輸送部隊と並行に飛行していたB-25を友軍機と誤認しており、B-25が襲撃行動に移ってから対空戦闘に入ったという[173]。最初の直撃弾で後部の爆雷が誘爆し、艦尾を喪失した[174]。ロケット弾を撃ち込まれ、艦橋上の射撃指揮所および前部砲塔と艦橋間の甲板などに被弾(至近弾を含む)、機関部も損傷して航行不能になる[175]。さらに爆撃の後は機銃掃射を受け、乗員は次々と打ち倒されていった[176]。「楓」も艦首に被弾[177]。「汐風」も至近弾により右舷高低圧タービン損傷により速力が低下する被害を受けていた。吉田司令はタバコをくわえて乗員に落ち着くよう態度で示したが[178]、船体は20度傾斜して浸水を防ぐ手立ても失われた[168]。戦死者は77名、負傷者は36名を数えた[168]。吉田司令や大西駆逐艦長など生存乗員が退艦した後[179]、「梅」は「汐風」の砲撃によって処分された[175]。沈没地点北緯20度30分 東経120度50分 / 北緯20.500度 東経120.833度 / 20.500; 120.833[180]。梅生存者を乗せた残存駆逐艦2隻は作戦の中止により高雄に引き返した[177]

2月24日、大西快治少佐は「梅」艦長の任を解かれる[181]。 3月10日、「梅」は帝国駆逐艦籍および松型駆逐艦から除籍[182][183]。第43駆逐隊からも除籍された[184]

歴代艦長

[編集]

※『艦長たちの軍艦史』362頁による。

艤装員長

[編集]
  1. 大西快治 少佐:1944年6月8日[42] - 1944年6月28日[45]

駆逐艦長

[編集]
  1. 大西快治 少佐:1944年6月28日[45] - 1945年2月24日[181]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 丁型・改丁型計画全74隻リスト ○「F55/丁型/松型」竣工順(18隻)[8]
  2. ^ 11月16日夕刻にボルネオ島ブルネイ湾を出発した時の第一遊撃部隊編成[21]は戦艦3隻(大和長門金剛)、軽巡洋艦「矢矧」、第17駆逐隊(浦風雪風浜風磯風)であった[22]
    11月20日昼頃に「梅」と「桐」は第一遊撃部隊の護衛をやめて台湾にむかった[23]
    翌11月21日未明、「金剛」と「浦風」は潜水艦「シーライオン (USS Sealion, SS-315) 」[24]に撃沈された[25]
  3. ^ 大本営海軍部は9月10日付で第二戦隊(司令官西村祥治中将:山城扶桑)を新編し、第二艦隊に編入した(9月24日、第一遊撃部隊に編入される)[54]
  4. ^ 8月20日新編時の第三十一戦隊は、軽巡洋艦「五十鈴」、第30駆逐隊卯月夕月秋風皐月夕凪)、第43駆逐隊(竹、梅、松、桃)[64]、海防艦(干珠、満珠、笠戸、三宅、第22号海防艦)であった[11]。このうち「松」は8月4日に撃沈されており[65]スカベンジャー作戦[66]、10月10日付で削除された[67]
  5. ^ 秋月型駆逐艦「霜月」(第41駆逐隊司令)[76]、松型駆逐艦(梅、、桃、、杉 )[77]
  6. ^ 本来ならば「霜月」と「涼月」で出撃するはずだったが[16]、「涼月」の修理が間に合わなかった[79]。防空駆逐艦2隻(霜月、涼月)参加とする二次資料もある[80]
  7. ^ 一部の二次資料で、H部隊の編成を四航戦(日向、伊勢)、三十一戦隊(五十鈴、霜月、梅、桐、槇、桃、桑、杉)としたり[81]、また「桐」が不在で「槇」加入とする[82]。この時点での「槇」は呉で修理中だった[83]
  8. ^ 「竹」艦長に任命されていた宇那木勁少佐は、内地出撃時から馬公までは軽巡「五十鈴」に、馬公から新南群島まで第43司令駆逐艦の「梅」に便乗した。「竹」に着任して間もなく、第五次多号作戦に従事することになった[85]
  9. ^ 第二水雷戦隊司令官早川幹夫少将が駆逐艦「島風」沈没時に戦死したので[87](11月11日、第三次多号作戦)[88]、矢矧艦長吉村真武大佐が二水戦司令官代理を務めていた[89]
  10. ^ 読みは「はくばまる」ではない(『日本郵船戦時船史 下』65ページ)。
  11. ^ 大西艦長によれば、艦首に爆弾1発命中、錨鎖庫が損傷した[142]
  12. ^ 姉妹艦(杉、榧、樫)は南沙諸島へ向かい、12月下旬の礼号作戦に参加している[20]
  13. ^ 「桃」はヘルシップの「鴨緑丸」護衛を命じられていたという[145]。12月15日夜、「桃」は高雄へ避退中[146]、米潜水艦「ホークビル (USS Hawkbill, SS-366) 」に撃沈される[147]
  14. ^ 当時、マニラにいた第52駆逐隊はアメリカ軍輸送船団攻撃のため出動[150]1月5日夜に「」が撃沈された[151]1月7日夜、「」が撃沈された[20][152]

出典

[編集]
  1. ^ #S1906十一水戦日誌(3), p.7
  2. ^ a b #達昭和19年1月(2) pp.31-33
  3. ^ a b #内令昭和19年1月(5) pp.17-18
  4. ^ a b 日本駆逐艦物語 1993, p. 291(I 一等駆逐艦つづき)梅(Ⅱ)Ume
  5. ^ 日本駆逐艦物語 1993, p. 294日本海軍駆逐艦艦名一覧/Ⅱ二等駆逐艦
  6. ^ 戦史叢書88 1975, pp. 52–56駆逐艦(丁)
  7. ^ a b c 陽炎型(光人社) 2014, pp. 331–332梅(うめ)
  8. ^ a b 歴群43、松型 2003, p. 90.
  9. ^ a b c #S1906十一水戦日誌(1) p.45(作戦経過概要、昭和19年6月28日・29日)
  10. ^ a b #内令昭和19年7月 p.21
  11. ^ a b c d 戦史叢書46 1971, pp. 330–332第三十一戦隊の編成
  12. ^ a b 歴群43、松型 2003, pp. 147–148創設時は対潜機動部隊
  13. ^ a b 秋月型(光人社) 2015, p. 309.
  14. ^ a b 日本空母戦史 1977, pp. 720–722海鷹・竜鳳
  15. ^ a b c 戦史叢書54 1972, p. 453.
  16. ^ a b c #S19.07十戦隊日誌(3) p.42 (涼月は浸水事故のため不参加)
  17. ^ #S19.07十戦隊日誌(3) p.35
  18. ^ a b c 戦史叢書93 1976, pp. 73–74南西方面艦隊、駆逐艦の不足を訴う
  19. ^ a b 撃沈戦記(Ⅱ) 1988, pp. 179–180内地へ
  20. ^ a b c d 歴群43、松型 2003, p. 153.
  21. ^ a b 戦史叢書93 1976, p. 67a第二遊撃部隊のマニラ撤退と第一遊撃部隊の内地回航
  22. ^ a b c 戦史叢書56 1972, p. 549a第一遊撃部隊の内地回航
  23. ^ #S19.11十七駆日誌(1) p.7(昭和19年11月20日項)
  24. ^ 撃沈戦記(Ⅱ) 1988, pp. 181–183二代目の「シーライン」
  25. ^ a b c d 戦史叢書54 1972, p. 452.
  26. ^ a b 岸見勇美 2010, pp. 26–27多号作戦(昭和19年マニラよりレイテ島に対する輸送作戦)の経過概要
  27. ^ a b #S1910-12経過概要 p.14(昭和19年12月)
  28. ^ 秋月型(光人社) 2015, p. 334.
  29. ^ a b c 昭和19.1~昭和20.2大東亜戦争経過概要(護衛対潜関係)其の2/昭和20年1月」 アジア歴史資料センター Ref.C16120660400  p.10(昭和20年1月)
  30. ^ a b c 戦史叢書93 1976, pp. 128–129水上部隊
  31. ^ a b 昭和19.1~昭和20.2大東亜戦争経過概要(護衛対潜関係)其の2/昭和20年1月」 アジア歴史資料センター Ref.C16120660400  p.12(昭和20年1月)
  32. ^ 陽炎型(光人社) 2014, p. 335楓(かえで)
  33. ^ a b 秋月型(光人社) 2015, p. 336.
  34. ^ a b 戦史叢書54 1972, pp. 462a-463航空兵力の比島撤収
  35. ^ a b c 戦史叢書88 1975, p. 54第5483号艦 梅(うめ)
  36. ^ #内令昭和19年4月(1) pp.14-15
  37. ^ 昭和19年4月~5月 海軍公報(部内限)(防衛省防衛研究所)5月(9)/海軍公報 第4696号 昭和19年5月23日(火)」 アジア歴史資料センター Ref.C12070477700  p.6
  38. ^ 戦史叢書46 1971, pp. 446a-447米潜水艦に撃沈されたわが駆逐艦一覧表
  39. ^ 昭和18年10月22日(発令10月20日付)海軍辞令公報(部内限)第1244号 p.20」 アジア歴史資料センター Ref.C13072093900 
  40. ^ 昭和19年6月1日(発令6月1日付)海軍辞令公報(部内限)第1497号 p.3」 アジア歴史資料センター Ref.C13072099400 
  41. ^ 歴群43、松型 2003, p. 95.
  42. ^ a b 昭和19年6月8日(発令6月8日付)海軍辞令公報(部内限)第1509号 p.18」 アジア歴史資料センター Ref.C13072099500 
  43. ^ #内令昭和19年6月 p.41
  44. ^ 昭和19年7月6日(木)海軍公報(部内限)第4732号 p.24」 アジア歴史資料センター Ref.C12070479600 
  45. ^ a b c 昭和19年7月5日(発令6月28日付)海軍辞令公報(部内限)第1526号 p.23」 アジア歴史資料センター Ref.C13072099900 
  46. ^ #S1906十一水戦日誌(1) p.6〔 (四)麾下艦船竝ニ訓練部隊一時加入艦船ノ行動(其ノ一) 〕(昭和19年6月)
  47. ^ a b #S1906十一水戦日誌(2) p.5〔 (四)麾下艦船竝ニ訓練部隊一時加入艦船ノ行動 〕(昭和19年7月)
  48. ^ #S1906十一水戦日誌(2), p. 63、雨倉, p. 93
  49. ^ 昭和19年7月21日(発令7月15日付)海軍辞令公報(部内限)第1541号 p.7」 アジア歴史資料センター Ref.C13072100100 
  50. ^ #S1906十一水戦日誌(2) p.66(昭和19年7月29日)
  51. ^ #S1906十一水戦日誌(2) pp.3-4(昭和19年7月、十一水戦軍隊区分)、同部隊戦時日誌 p.57
  52. ^ #S1906十一水戦日誌(2) p.66(作戦経過概要、昭和19年7月)
  53. ^ 戦史叢書45 1970, pp. 244–245新作戦要領と新兵力部署
  54. ^ 戦史叢書37 1970, pp. 568–569第二戦隊の編成
  55. ^ 戦史叢書37 1970, pp. 370–371第二遊撃部隊(第五艦隊)/編成
  56. ^ 戦史叢書45 1970, p. 003a付表第三(『大本營海軍部・聯合艦隊<6>』)第三段作戦兵力部署(昭和19年8月1日)
  57. ^ 戦史叢書37 1970, p. 372.
  58. ^ #S1906十一水戦日誌(3) p.5〔 (四)麾下艦船部隊竝ニ訓練部隊一時加入艦船ノ行動 〕(昭和19年8月)
  59. ^ #S1906十一水戦日誌(3) p.12
  60. ^ 戦史叢書45 1970, pp. 359–364対潜機動部隊を新編す ― 八月二十日
  61. ^ 戦史叢書37 1970, pp. 76–78対潜撃滅戦隊の創設
  62. ^ 昭和19年8月22日(発令8月20日付)海軍辞令公報(部内限)第1571号 p.40」 アジア歴史資料センター Ref.C13072100600 
  63. ^ 戦史叢書45 1970, pp. 361–364第三十一戦隊の新編
  64. ^ 歴群43、松型 2003, p. 94.
  65. ^ 秋月型(光人社) 2015, p. 332.
  66. ^ 戦史叢書37 1970, p. 78.
  67. ^ #内令(秘)昭和19年10月(2) pp.35-36
  68. ^ #S18.12呉防備戦隊(9) pp.29-30
  69. ^ #S1906十一水戦日誌(4), pp.5,31,41
  70. ^ 日本空母戦史 1977, p. 721a空母緊急輸送部隊(昭和19年10月25日~11月2日)
  71. ^ 日本空母戦史 1977, p. 721b.
  72. ^ #S1906十一水戦日誌(4), pp.33,42,51,52
  73. ^ 戦史叢書93 1976, pp. 24a-26レイテ島決戦に対する聯合艦隊の基本命令
  74. ^ 戦史叢書93 1976, pp. 9–11兵力部署
  75. ^ 戦史叢書93 1976, p. 24b.
  76. ^ a b 激闘駆逐艦隊 1987, pp. 134–135霜月の最期
  77. ^ a b 歴群43、松型 2003, p. 97.
  78. ^ #S1906十一水戦日誌(4), p.53
  79. ^ 激闘駆逐艦隊 1987, pp. 132–134凉月の突貫工事間に合わず
  80. ^ a b 大内、航空戦艦 2014, pp. 96–97.
  81. ^ 日本空母戦史 1977, p. 802aH部隊(昭和19年11月9日、北九州出撃)
  82. ^ 撃沈戦記 2013, p. 45H部隊編成(日向、伊勢、五十鈴、霜月、梅、桃、槙、桑、杉)
  83. ^ a b 歴群43、松型 2003, p. 151.
  84. ^ #四航戦戦時日誌抜粋, p.9
  85. ^ 岸見勇美 2010, p. 61.
  86. ^ 戦藻録 1968, pp. 441–442十一月十五日 水曜日 晴
  87. ^ 戦史叢書56 1972, p. 538二水戦司令官戦死、第二船団全滅
  88. ^ 戦史叢書41 1970, p. 430海上護衛経過
  89. ^ #S19.11十七駆日誌(1) p.9
  90. ^ 戦史叢書93 1976, pp. 65–66米機動部隊、マニラを頻襲/マニラ在泊艦船の被害甚大
  91. ^ 戦史叢書54 1972, pp. 450–453フィリピン沖海戦直後の水上部隊
  92. ^ 戦史叢書56 1972, pp. 543–546十一月十三日の空襲、「木曾」、駆逐艦等の沈没
  93. ^ #S19.09一水戦日誌(2) pp.51-52
  94. ^ #S19.09一水戦日誌(2) p.52
  95. ^ 岸見勇美 2010, p. 53.
  96. ^ #S19.09一水戦日誌(2) p.65〔 一七(天候略)一三二〇霞潮竹ヲ率ヰ干里堆着/一五五〇4sf霜月干里堆着 〕
  97. ^ 戦史叢書56 1972, pp. 548a-550第二遊撃部隊のマニラ撤退/ブルネイに避退す
  98. ^ #S19.11十七駆日誌(1) p.6〔 十七日(天候略)一八三〇桐梅ト合同(略) 〕
  99. ^ #S19.11十七駆日誌(1) p.7〔 二十日(天候略)一一三〇桐梅ト分離(略)〕
  100. ^ 戦藻録 1968, p. 443.
  101. ^ 日本戦艦戦史 1983, p. 592.
  102. ^ 佐藤、艦長続篇 1995, pp. 248–250粛然とした「桑」の沈没
  103. ^ 撃沈戦記(Ⅱ) 1988, pp. 183–185嵐の中の雷撃
  104. ^ a b 戦史叢書46 1971, pp. 446b-447.
  105. ^ 陽炎型(光人社) 2014, pp. 308–309浦風(うらかぜ)
  106. ^ 戦史叢書45 1970, pp. 583–585船舶および艦艇の喪失 ― 八月~十二月
  107. ^ 戦史叢書56 1972, p. 550.
  108. ^ a b #S19.11二水戦日誌(1) pp.9-10
  109. ^ 戦史叢書93 1976, pp. 67b-69第一水雷戦隊の解隊と第三十一戦隊の第五艦隊編入
  110. ^ 戦史叢書56 1972, pp. 549b-550第二遊撃部隊のリンガ泊地回航
  111. ^ #S19.11二水戦日誌(1) p.24
  112. ^ 戦史叢書54 1972, pp. 454a-455水上兵力の漸減
  113. ^ #S19.11二水戦日誌(1) p.8
  114. ^ 昭和18年6月2日(発令5月31日付)海軍辞令公報(部内限)第1134号 p.23」 アジア歴史資料センター Ref.C13072091400 
  115. ^ 昭和19年2月23日(発令2月23日)海軍辞令公報(部内限)第1337号 p.48」 アジア歴史資料センター Ref.C13072095900 
  116. ^ 昭和19年12月6日(発令12月1日付)海軍辞令公報(甲)第1661号 p.1」 アジア歴史資料センター Ref.C13072102200 
  117. ^ 歴群43、松型 2003, p. 152.
  118. ^ 佐藤、艦長続篇 1995, pp. 174–175.
  119. ^ 戦史叢書54 1972, pp. 448–449増援兵力の輸送
  120. ^ 秋月型(光人社) 2015, pp. 311–312リスクの大きい輸送作戦
  121. ^ a b 岸見勇美 2010, p. 101.
  122. ^ 日本水雷戦史 1986, p. 569.
  123. ^ 駆逐艦物語 2016, pp. 276–277.
  124. ^ 戦史叢書56 1972, p. 563a第八次多号作戦
  125. ^ a b 歴群43、松型 2003, p. 99.
  126. ^ 戦史叢書41 1971, pp. 514–515多号第七、第八次
  127. ^ 戦史叢書48 1971, p. 472-474アルヴェラ付近連合軍上陸船団の発見
  128. ^ 戦史叢書48 1971, p. 474第四航空軍のオルモック方面攻撃部署
  129. ^ 戦史叢書54 1972, pp. 455a-456連合軍、レイテ西岸に上陸
  130. ^ 戦史叢書93 1976, p. 80b米軍、オルモック南方に上陸
  131. ^ a b 戦史叢書56 1972, p. 563b.
  132. ^ 戦史叢書48 1971, pp. 475–478オルモック方面艦船攻撃の続行と第二挺進団の増援
  133. ^ 岸見勇美 2010, p. 103.
  134. ^ 戦史叢書56 1972, p. 568.
  135. ^ 戦史叢書93 1976, pp. 80a-81第八次多号作戦
  136. ^ 戦史叢書56 1972, p. 5653b.
  137. ^ 岸見勇美 2010, pp. 229–234消えた精鋭第六十八旅団
  138. ^ 岸見勇美 2010, pp. 109–112.
  139. ^ #S1912経過(護衛対潜) pp.4-5(昭和19年12月7日~8日、第八次多号作戦概要)
  140. ^ 戦史叢書56 1972, p. 573a連合軍の比島空襲、激化す
  141. ^ 秋月型(光人社) 2015, pp. 314a-315難をのがれ香港で修理
  142. ^ a b c 佐藤、艦長続篇 1995, pp. 175–176.
  143. ^ 日本水雷戦史 1986, p. 571.
  144. ^ a b c 秋月型(光人社) 2015, p. 315b.
  145. ^ 岸見勇美 2010, p. 112.
  146. ^ #S1912経過(護衛対潜) p.8(昭和19年12月)
  147. ^ 戦史叢書46, pp. 446b-447.
  148. ^ #S1912五艦隊(2), p.42
  149. ^ 戦史叢書93 1976, pp. 114–115米軍、リンガエン湾に進出
  150. ^ 歴群43、松型 2003, p. 102.
  151. ^ 戦史叢書56 1972, pp. 603–604.
  152. ^ a b c 戦史叢書54 1972, pp. 460–461.
  153. ^ 戦史叢書93 1976, pp. 118–119米軍のリンガエン上陸
  154. ^ 戦史叢書56 1972, p. 600連合軍、リンガエン湾に進入
  155. ^ a b 昭和20年1月15日(発令1月9日付)海軍辞令公報(甲)第1693号 p.14」 アジア歴史資料センター Ref.C13072144100 
  156. ^ #S1912三十一戦隊(1), p.44
  157. ^ 自昭和20年1月.至昭和20年8月 秘海軍公報(防衛省防衛研究所)2月(4)/海軍公報第4943号、昭和20年2月27日(火)」 アジア歴史資料センター Ref.C12070504100  p.1
  158. ^ 戦史叢書54 1972, p. 461a水上部隊の任務変更
  159. ^ #S1912三十一戦隊(1) , p.35
  160. ^ 戦史叢書46 1971, p. 446.
  161. ^ 戦史叢書79 1975, p. 457a〔一月十五日、十六日機動部隊香港来襲〕
  162. ^ #S1912三十一戦隊(1) , pp.37,39,40,41,42,45
  163. ^ #S1912三十一戦隊(1) , pp. 47, 48
  164. ^ #S1912三十一戦隊(1), p.49
  165. ^ #S1912三十一戦隊(1), pp. 54, 55
  166. ^ 戦史叢書54 1972, p. 461b航空兵力の減耗
  167. ^ 戦史叢書56 1972, pp. 604–605二 航空兵力の比島撤収/二航艦の解隊と一航艦の臺灣転進
  168. ^ a b c d #S1912三十一戦隊(1), p. 60
  169. ^ 佐藤、艦長続篇 1995, pp. 177a-180駆逐艦「梅」バシー海峡に消ゆ
  170. ^ 秋月型(光人社) 2015, pp. 315a-317運命をかえた一発の直撃弾
  171. ^ #S1912三十一戦隊(1) , p. 56
  172. ^ #S1912三十一戦隊(1), p. 60 、日本水雷戦史 1986, p. 614
  173. ^ 秋月型(光人社) 2015, p. 316.
  174. ^ 秋月型(光人社) 2015, p. 317.
  175. ^ a b 佐藤、艦長続篇 1995, pp. 177b-180.
  176. ^ 歴群43、松型 2003, p. 103.
  177. ^ a b 駆逐艦物語 2016, p. 278.
  178. ^ 日本水雷戦史 1986, p. 615.
  179. ^ 秋月型(光人社) 2015, pp. 318a-319夕日をあびて海底に消えた梅
  180. ^ 秋月型(光人社) 2015, p. 318b.
  181. ^ a b 昭和20年2月28日(発令2月24日付)海軍辞令公報(甲)第1733号 p.52」 アジア歴史資料センター Ref.C13072103500 
  182. ^ #秘海軍公報昭和20年3月(2) p.17
  183. ^ #秘海軍公報昭和20年1月(3) pp.40-41
  184. ^ #秘海軍公報昭和20年3月(2) p.15

参考文献

[編集]
  • 宇垣纏『戦藻録』原書房〈明治百年史叢書〉、1968年1月。 
  • 大内健二『航空戦艦「伊勢」「日向」』光人社〈光人社NF文庫〉、2014年6月。ISBN 978-4-7698-2834-1 
  • 岸見勇美『地獄のレイテ輸送作戦』光人社〈光人社NF文庫 666〉、2010年12月。ISBN 978-4-7698-2666-8 
  • 木俣滋郎『日本空母戦史』図書出版社、1977年7月。ISBN 978-4809900389 
  • 木俣滋郎『日本戦艦戦史』図書出版社、1983年。ISBN 978-4809900914 
  • 木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年3月。ISBN 978-4809901089 
  • 木俣滋郎「3. 航空戦艦『日向』『伊勢』」『撃沈戦記』光人社〈光人社NF文庫 786〉、2013年6月。ISBN 978-4-7698-2786-3 
  • 倉橋友二郎『激闘駆逐艦隊』朝日ソノラマ〈文庫版航空戦史シリーズ 95〉、1987年12月。ISBN 978-4257170952 
  • 佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争 続篇』光人社NF文庫、1995年12月。ISBN 4-7698-2106-9 
    • 「縁の下の役割」<駆逐艦「梅」艦長・大西快治少佐の証言>
    • 「勝敗の分岐点」<駆逐艦「桐」艦長・川畑誠少佐の証言>
  • 志賀博 ほか『駆逐艦物語』潮書房光人社、2016年4月。ISBN 978-4-7698-1615-7 
    • 正岡勝直「されど "雑木林艦隊" 恥ずることなかれ」
  • 重本俊一ほか『陽炎型駆逐艦』潮書房光人社、2014年10月。ISBN 978-4-7698-1577-8 
    • 伊達久「日本海軍駆逐艦戦歴一覧」
  • 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9
  • 永井喜之、木俣滋郎「第2部 第二次世界大戦/日本編 第14章 日本戦艦「金剛」」『撃沈戦記・PARTII』朝日ソノラマ、1988年10月。ISBN 4-257-17223-1 
  • 『日本郵船戦時船史 下』日本郵船、1971年
  • 福井静夫 著、阿部安雄・戸高一成 編『日本駆逐艦物語』光人社〈福井静夫著作集 軍艦七十五年回想記 5〉、1993年1月。ISBN 4-7698-0611-6 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 海軍捷号作戦<1> 臺灣沖航空戦まで』 第37巻、朝雲新聞社、1970年8月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 捷号陸軍作戦(1) レイテ決戦』 第41巻、朝雲新聞社、1970年12月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 大本營海軍部・聯合艦隊<6> ―第三段作戦後期―』 第45巻、朝雲新聞社、1970年4月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 海上護衛戦』 第46巻、朝雲新聞社、1971年5月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 比島捷号陸軍航空作戦』 第48巻、朝雲新聞社、1971年8月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 南西方面海軍作戦 第二段作戦以降』 第54巻、朝雲新聞社、1972年3月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 海軍捷号作戦<2> フィリピン沖海戦』 第56巻、朝雲新聞社、1972年6月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 中國方面海軍作戦(2) 昭和十三年四月以降』 第79巻、朝雲新聞社、1975年1月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 海軍戦備<2> ― 開戦以後 ―』 第88巻、朝雲新聞社、1975年10月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 大本營海軍部・聯合艦隊<7> ―戦争最終期―』 第93巻、朝雲新聞社、1976年3月。 
  • 山本平弥 ほか『秋月型駆逐艦<付・夕雲型・島風・丁型>』潮書房光人社、2015年3月。ISBN 978-4-7698-1584-6 
    • 遠山光一「マスプロ防空駆逐艦"松型"の誕生と背景」
    • 市川國雄「香り浅き『梅』バシー海峡に消えたり」
    • 伊達久「丁型駆逐艦船団護衛ダイアリィ」
  • 歴史群像編集部 編『松型駆逐艦』学習研究社〈歴史群像 太平洋戦史シリーズ 43〉、2003年11月。ISBN 4-05-603251-3 
    • 雨倉孝之『松型駆逐艦』、93-105頁。 
    • 中川寛之「第三十一戦隊と丁型駆逐艦部隊全史」、147-158頁。
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • 『昭和19年1月~6月達/1月(2)』。JACAR:C12070124100 
    • 『自昭和19年1月 至昭和19年7月内令/昭和19年1月(5)』。JACAR:C12070194200 
    • 『自昭和19年1月 至昭和19年7月内令/昭和19年4月(1)』。JACAR:C12070195000 
    • 『昭和19年6月内令』。JACAR:C12070195400 
    • 『自昭和19年1月至昭和19年7月内令/昭和19年7月』。JACAR:C12070195500 
    • 『昭和19年9月~12月 秘海軍公報 号外/10月(1)』。JACAR:C12070497300 
    • 『昭和19年9月~12月 秘海軍公報 号外/10月(2)』。JACAR:C12070497400 
    • 『昭和19年9月~12月 秘海軍公報 号外/11月(4)』。JACAR:C12070498000 
    • 『自昭和20年1月.至昭和20年8月秘海軍公報/1月(3)』。JACAR:C12070503700 
    • 『自昭和20年1月.至昭和20年8月秘海軍公報/2月(2)』。JACAR:C12070503900 
    • 『昭和20年1月.至昭和20年8月秘海軍公報号外/3月(2)』。JACAR:C12070504300 
    • 『昭和19.1~昭和20.2大東亜戦争経過概要(護衛対潜関係)其の2/昭和19年12月』。JACAR:C16120660300 
    • 『第2次世界大戦略歴大東亜戦争経過概要(防衛省防衛研究所)昭和19年10月経過概要~昭和19年12月経過概要』。JACAR:C16120725100 
    • 『昭和18年12月1日~昭和20年4月6日 呉防備戦隊戦時日誌戦闘詳報(9)』。JACAR:C08030370100 
    • 『昭和19年7月1日~昭和19年11月15日 第10戦隊戦時日誌(3)』。JACAR:C08030051000 
    • 『昭和19年9月1日~昭和19年11月11日 第1水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。JACAR:C08030087300 
    • 『昭和19年11月20日~昭和19年12月30日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。JACAR:C08030102400 
    • 『昭和19年11月1日〜昭和20年5月31日 第17駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。JACAR:C08030147000 
    • 『昭和19年6月1日~昭和20年6月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(1)』。JACAR:C08030127400 
    • 『昭和19年6月1日~昭和20年6月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(2)』。JACAR:C08030127500 
    • 『昭和19年6月1日~昭和20年6月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(3)』。JACAR:C08030127600 
    • 『昭和19年6月1日~昭和20年6月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(4)』。JACAR:C08030127700 
    • 『昭和19年5月1日~昭和20年3月1日 第4航空戦隊戦時日誌抜粋(旗艦日向行動等)』。JACAR:C08030742100 
    • 『昭和19年11月1日~昭和20年5月31日 第17駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。JACAR:C08030147000 
    • 『昭和19年11月1日~昭和20年2月5日 第5艦隊戦時日誌(1)』。JACAR:C08030019800 
    • 『昭和19年11月1日~昭和20年2月5日 第5艦隊戦時日誌(2)』。JACAR:C08030019900 
    • 『昭和19年12月22日~昭和20年4月30日 第31戦隊戦時日誌(1)』。JACAR:C08030074800 

関連項目

[編集]