大鷹型航空母艦
大鷹型航空母艦 | |
---|---|
「大鷹」(1943年9月30日、横須賀)[1] | |
基本情報 | |
種別 | 特設航空母艦[2][3] → 航空母艦[4][5] |
建造所 |
三菱重工業長崎造船所(客船建造) 呉及び佐世保海軍工廠(改造) |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
同型艦 | 大鷹・雲鷹・冲鷹・海鷹・神鷹 |
前級 | 隼鷹型航空母艦 |
次級 | 龍鳳 |
要目 (計画) | |
基準排水量 | 17,830英トン[6] |
公試排水量 | 20,000トン[6] |
満載排水量 | 21,262.80トン[7] |
全長 | 180.24m[6] |
水線長 | 約173.70m[6] |
垂線間長 | 168.00m[6] |
最大幅 | 23.70m[6] |
水線幅 | 22.50m[6] |
深さ | 23.50m(飛行甲板まで)[6] |
吃水 |
公試平均 8.00m[6] 満載平均 8.26m[6] |
飛行甲板 |
長さ:162.0m x 幅:23.7m[6] または幅23.5m[16][注釈 2] エレベーター(13x12m)2基[17] |
ボイラー |
三菱式水管缶4基[8] 補助缶2基[8] |
主機 | 三菱ツェリー式(高低圧[9])タービン2基[10] |
推進器 | 2軸 x 140rpm[8]、直径5.000m[11] |
出力 | 25,200hp[6] |
速力 | 21.0ノット[6][注釈 1] |
航続距離 | 8,500カイリ / 18ノット[6][注釈 1] |
燃料 | 2,250トン[6] |
搭載能力 |
九一式魚雷 36本[14] 爆弾 800kg72個、250kg72個、60kg240個、30kg演習用90個[15] 飛行機用軽質油 190トン[7] |
乗員 | 計画乗員 747名[12][13] |
兵装 |
12cm単装高角砲6基[18] 25mm連装機銃4基[18] |
搭載機 |
計画(常用+補用)[16] 零式艦上戦闘機 9+2機 九七式艦上攻撃機 14+2機 合計23+4機 |
搭載艇 | 12m内火艇1隻、12m内火ランチ1隻、9mカッター2隻、13m特型運貨船1隻[17] |
客船時の要目は新田丸級貨客船を参照 |
大鷹型航空母艦(たいようがたこうくうぼかん)は、大日本帝国海軍の航空母艦の艦型。
特徴
[編集]いずれも原型となったのは商船であるが、建造に際しては、有事の際の空母への改造を前提として「優秀船舶建造助成施設」制度のもと多額の政府助成金が使われており、船体の設計には海軍艦政本部の意見が大きく作用していた。船首第一船倉は航空機用の燃料タンクへの改造が織り込んであり、第二船倉は航空機用爆弾・魚雷庫に使うことを前提にしていた。前後の船倉の位置もエレベーターの隔壁位置に合わされている。ただし正規の航空母艦と同様の防御構造はなく、防弾甲板、燃料タンク、爆弾倉の防御などは最低限のものでしかなかった。 改造は遊歩甲板以上を撤去して格納庫甲板とし、その上5メートルの位置に飛行甲板を設けた。主機は客船時のままとしたため速力は21ノットにとどまった。
しかし、ベースとなった船には新田丸級貨客船の3隻に加えて、一回り以上小さなあるぜんちな丸に、ドイツで設計建造された客船シャルンホルストまで含まれ、一見すると雑多な寄せ集めにも思えるが、新田丸級はシャルンホルストに対抗して、これをベンチマークして建造された経緯があり、要目も近かった。
大鷹、神鷹、海鷹は客船改造の空母であるが、日本海軍はこれらを正規航空母艦と同様に用いるつもりがあった。しかしながら船体が小型で、機関を強化せず最大速力21ノットと低速であることから、一線級の艦上機を運用することは難しかった。(アメリカ海軍の特設航空母艦、ボーグ級航空母艦やカサブランカ級航空母艦は全長160m程度の小型艦であり、大鷹型よりさらに一回り小さく低速だったが、これらは油圧式カタパルトを用いて機数は少ないながらも一線級の艦上機を運用することができた)
歴史
[編集]元は日本郵船が欧州航路用客船として三菱重工業長崎造船所で建造した新田丸級貨客船。1940年(昭和15年)秋より建造中の春日丸が改造を開始、その後に八幡丸、新田丸が改造され、それぞれ大鷹、雲鷹、冲鷹となった。艦型が空母としては小型であること、速力も低いことから太平洋戦争中は航空機の運搬を主とし、内地とトラックの間を往復した。
大鷹型航空母艦は、当時の一線級の艦上機を実戦運用できない。これは低速小型であることから、少数機を飛行甲板いっぱいに滑走させての離着艦は可能であっても、多数機を飛行甲板上に並べて一挙に発艦させられないためであった。したがってこれらの空母は主に航空機輸送任務に使用された。海軍機だけではなく陸軍機、双発爆撃機、双発複座戦闘機なども輸送している。主たる輸送先はパラオ、トラック、ラバウル、フィリピン、ジャワ、シンガポール等である。船団哨戒任務としては、1942年(昭和17年)まで大鷹は、九六式艦上戦闘機と九六式艦上爆撃機を搭載していた[19]。
大鷹は1942年(昭和17年)3月から1943年(昭和18年)12月までに18度の輸送任務を行った。内訳はトラックに12度、カヴィエンに3度、ラバウルに1度、パラオに1度である。1942年(昭和17年)9月28日には米潜水艦の雷撃で危うく沈没しかけるも、総計で720機の航空機を輸送した。雲鷹は21度の輸送を行っている。内訳はトラックへ17度、ラバウルへ2度、バリクパパンへ2度である。冲鷹はトラックへ13度の輸送を行った。3隻の大鷹型空母が南方へ輸送した航空機は2,000機以上であった。また、大鷹は瀬戸内海で発着艦訓練用に用いられた。
1943年(昭和18年)12月、これらの大鷹型航空母艦は輸送から船団護衛の任に就くこととされたが、冲鷹が12月中に八丈島沖で米潜水艦の雷撃により撃沈された。1944年(昭和19年)5月から大鷹と雲鷹は船団護衛に専門に投入された。護衛にあたり使用したのは九七式艦上攻撃機で、搭載機数は12から17機であった。哨戒に当たっては爆雷や対潜爆弾を装備し、2機程度が発艦、船団の周囲を索敵した。1度の哨戒は2時間から3時間である。これをローテーションで繰り返した。
1944年(昭和19年)5月から6月にかけ、大鷹はヒ61船団の護衛に従事した。この船団はタンカー10隻と貨物船1隻からなり、行程は門司からシンガポールである。大鷹は護衛艦艇8隻とともに随伴し、途上タンカー1隻が魚雷攻撃を受けるがシンガポールへ到達した。折り返し8隻の輸送船と護衛艦艇5隻とともに日本へ向かい、全ての船が無事に帰還した。
しかし、日の出から日没までの護衛は可能であっても夜間の対潜哨戒は行えなかった。1944年(昭和19年)8月18日夜の午後10時に、ヒ71船団を護衛していた大鷹は米潜水艦の放った魚雷が航空機用燃料タンクに被雷し撃沈された。また雲鷹も1944年(昭和19年)9月17日、ヒ74船団を護衛中に米潜水艦の魚雷2発を受けて沈没した。時間は未明であった。
同型艦
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ a b #海軍造船技術概要p.275では、速力22ノット、航続距離は18ノットで8,000カイリとしている。
- ^ 阿部安雄「日本海軍航空母艦・水上機母艦要目表」(#日本空母物語pp.442-443)によると飛行甲板の大きさは、大鷹・雲鷹が162.0x23.5m、冲鷹が172.0x25.7m。
出典
[編集]- ^ #海軍艦艇史3p.162
- ^ #内令昭和16年5月(1)画像8、内令第四百七十一號 汽船 春日丸 右特設航空母艦トシ佐世保鎮守府所管ト定メラル 昭和十六年五月一日 海軍大臣 及川古志郎
- ^ #内令昭和16年11月(5)画像26、内令第千五百三十六號 汽船 八幡丸 右特設航空母艦トシ呉鎮守府所管ト定メラル 昭和十六年十一月二十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎
- ^ #内令昭和17年8月(2)画像48-49、内令第千五百五十四號 艦艇類別等級別表左ノ通改正ス 昭和十七年八月二十日 海軍大臣 嶋田繁太郎 (中略)同、航空母艦ノ項中「飛鷹」ノ下ニ「、冲鷹」ヲ加フ(以下略)
- ^ #内令昭和17年8月(3)画像45、内令第千六百十四號 艦艇類別等級別表左ノ通改正ス 昭和十七年八月三十一日 海軍大臣 嶋田繁太郎 軍艦、航空母艦ノ項中「飛鷹」ノ下ニ「、大鷹、雲鷹」ヲ加フ
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」 p.4
- ^ a b 「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」 p.57
- ^ a b c 「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」 p.35
- ^ #昭和造船史1pp.780-781
- ^ #日本航空母艦史p.64
- ^ #海軍造船技術概要p.1678
- ^ 「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」 p.42、士官37、特務士官25、准士官31、下士官兵654
- ^ #内令巻1昭和16年4月(5)(C12070150500)画像39、内令第四百三十九號 特設艦船部隊定員令中左ノ通改正セラル 昭和十六年四月二十六日 海軍大臣及川古志郎 特設航空母艦定員表ヲ別表ノ如ク改ム(別表二葉添)。同画像42、特設航空母艦定員表 其ノ二 春日丸級、(詳細略)計 士官37人、特務士官25人、准士官31人、下士官187人、兵467人。#内令昭和16年4月(6)(C12070156500)画像1、画像4も同一内容
- ^ 「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」 p.12
- ^ 「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」 p.31
- ^ a b #海軍造船技術概要p.296
- ^ a b 「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」 p.46
- ^ a b 「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」 p.8
- ^ 小八重幸太郎ほか『零戦搭乗員空戦記』(光人社、2000)37頁。空母隼鷹の零戦搭乗員だった小八重幸太郎は大鷹転勤で九六式艦上戦闘機搭乗となり、大いに落胆した。先任搭乗員は「F4Fなら九六式でも勝てる」と励まして士気を回復させている。大鷹戦闘機隊は1942年(昭和17年)10月7日に解散した。
参考文献
[編集]- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
- Ref.C12070150500『昭和16年1月~4月 内令 1巻>4月(5)』。
- Ref.C12070156500『昭和16年2月~5月 内令>昭和16年4月(6)』。
- Ref.C12070156600『昭和16年2月~5月 内令>昭和16年5月(1)』。
- Ref.C12070159400『昭和16年10月~12月 内令>昭和16年11月(5)』。
- Ref.C12070172100『昭和17年5月~8月 内令>昭和17年8月(2)』。
- Ref.C12070172200『昭和17年5月~8月 内令>昭和17年8月(3)』。
- 大内建二『特設艦船入門』(光人社NF文庫、2008年)ISBN 978-4-7698-2565-4
- 『日本航空母艦史』 世界の艦船 2011年1月号増刊 第736集(増刊第95集)、海人社、2010年12月。
- (社)日本造船学会 編『昭和造船史(第1巻)』 明治百年史叢書 第207巻(第3版)、原書房、1981年(原著1977年10月)。ISBN 4-562-00302-2。
- 長谷川藤一『軍艦メカニズム図鑑-日本の航空母艦』(グランプリ出版、1997年)
- 福井静夫『海軍艦艇史 3 航空母艦、水上機母艦、水雷・潜水母艦』KKベストセラーズ、1982年4月。ISBN 4-584-17023-1。
- 牧野茂、福井静夫 編『海軍造船技術概要』今日の話題社、1987年5月。ISBN 4-87565-205-4。
- 雑誌「丸」編集部『写真|日本の軍艦 第4巻 空母Ⅱ』(光人社、1989年)
- 『帝国海軍 真実の艦艇史』 〈歴史群像〉太平洋戦史シリーズ Vol.45、学習研究社、2004年5月。ISBN 4-05-603412-5。
- 「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」