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小林謙五

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
小林 謙五
聯合艦隊参謀副長時代
生誕 1893年3月22日
日本の旗 日本 東京府東京市
死没 (1948-04-23) 1948年4月23日(55歳没)
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦 ホール市ドイツ語版
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴 1914 - 1948
最終階級 海軍中将
墓所 多磨霊園
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小林 謙五(こばやし けんご、1893年3月22日 - 1948年4月23日)は、日本海軍軍人。最終階級は海軍中将

経歴

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本籍滋賀県中村覚陸軍大将の五男として東京府東京市四谷区鮫河橋南町(現・東京都新宿区南元町)に生まれ[1]、小林陣八郎の養子となる。東京府立一中を経て、1914年12月、海軍兵学校42期)を次席で卒業し、1915年12月、海軍少尉に任官。海軍水雷学校高等科で学ぶ。給油艦神威分隊長、「峯風」水雷長、呉鎮守府参謀などを歴任し、1926年11月、海軍大学校(甲種24期)を卒業。

艦長アメリカ駐在、アメリカ大使館付武官補佐官、横須賀鎮守府参謀などの後、海軍省副官海相秘書官となり加藤友三郎大臣に仕えた。さらに、侍従武官、給油艦「鶴見」艦長、アメリカ大使館付武官、「球磨」「高雄」「陸奥」の各艦長などを歴任。1941年10月、海軍少将に進級し、第1艦隊参謀長として太平洋戦争を迎えた。

その後、呉鎮守府参謀長、連合艦隊参謀副長などを勤め、1944年10月、海軍中将となった。旅順方面特別根拠地隊司令官として終戦を迎え、ソ連軍の捕虜となり、ハバロフスクの特別第四十五収容所に送られた[2]シベリア抑留中の1948年4月23日、ハバロフスクの南方70キロメートルほどの所にあるホール市の抑留者専用病院において戦病死した[3]。国内では公職追放の仮指定を受けた[4]

親族

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脚注

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  1. ^ 『桜華余芳 : 殉国水桜会会員の記録』p.344
  2. ^ 『桜華余芳 : 殉国水桜会会員の記録』p.349
  3. ^ 『桜華余芳 : 殉国水桜会会員の記録』p.351
  4. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「正規海軍将校並びに海軍特別志願予備将校 昭和二十三年三月三十一日 仮指定者」106頁。

参考文献

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  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。
  • 『桜華余芳 : 殉国水桜会会員の記録』(水桜会、1963年)