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'''ニシノフラワー'''(欧字名:{{Lang|en|Nishino Flower}}、[[1989年]][[4月19日]] - [[2020年]][[2月5日]])は、[[日本]]の[[競走馬]]、[[繁殖牝馬]]。[[アメリカ合衆国]]からの[[持込馬]]である。
'''ニシノフラワー'''は[[日本]]の[[競走馬]]、[[繁殖牝馬]]。[[1991年]]に[[阪神3歳牝馬ステークス]]を制し、同年の[[JRA賞最優秀2歳牝馬|JRA賞最優秀3歳牝馬]]に選出、翌[[1992年]]には[[桜花賞]]と[[スプリンターズステークス]]に優勝し、同年[[JRA賞最優秀3歳牝馬|最優秀4歳牝馬]]および[[JRA賞最優秀短距離馬|最優秀スプリンター]]に選出された<ref group="注">JRA賞の部門賞名はいずれも当時のもの。</ref>。[[アメリカ合衆国]]からの[[持込馬]]である<ref group="注">母馬が日本国外で受胎し、日本国内で出産された馬のこと。</ref>。


1991年の[[JRA賞最優秀2歳牝馬|JRA賞最優秀3歳牝馬]]、1992年の[[JRA賞最優秀3歳牝馬|JRA賞最優秀4歳牝馬]]及び[[JRA賞最優秀スプリンター|最優秀スプリンター]]である。
※[[馬齢]]は2000年以前に使用された旧表記([[数え年]])で統一して記述する。

== 概要 ==

1989年4月19日、[[北海道]][[鵡川町]]の[[西山牧場]]で生産された牝馬である。父マジェスティックライト、母デュプリシト、母父ダンジグ、そして母系は、[[サーゲイロード]]、[[セクレタリアト]]などと同じだった。

オーナーブリーダーの西山牧場は、自家生産馬を大量生産、大量出走させながら、これといった大物がいなかった。そこで設備投資や人材の入れ替え、血統更新を実行していた。その改革の一環で輸入されて、西山牧場で生まれていた。[[栗東トレーニングセンター]]の松田正弘厩舎に入厩した。

3歳、1991年夏に[[札幌競馬場]]でデビューし初勝利を挙げ、続く[[札幌3歳ステークス]](GIII)も優勝し、[[重賞]]初勝利。本州に戻って秋の[[デイリー杯3歳ステークス]](GII)、そして[[阪神3歳牝馬ステークス]](GI)も優勝。4連勝でGI戴冠を果たし、騎乗した[[佐藤正雄]]や、松田、西山牧場にGI初勝利をもたらした。

続いて4歳、1992年は本命視されて[[中央競馬クラシック三冠|牝馬クラシック]]に参戦。前哨戦の[[チューリップ賞]](OP)で不利など重なり、[[アドラーブル]]に敗れる2着となり、初敗戦を喫したが、佐藤が降板し[[河内洋]]と臨んだ本番の[[桜花賞]](GI)でアドラーブルらを突き放して優勝。西山牧場にクラシック初優勝をもたらした。

同年秋には、[[スプリンターズステークス]](GI)で年上古馬に挑戦。直線コースを大外から追い込み、抜け出していた[[ヤマニンゼファー]]を寸前で差し切る逆転優勝を成し遂げ、GI昇格後初めてとなる4歳牝馬による優勝を果たした。翌5歳、1993年も出走を重ね、[[マイラーズカップ]](GII)を優勝するなどして引退。通算成績16戦7勝、約4億7000万円を稼ぎ出した。

引退後は、西山牧場に戻って[[繁殖牝馬]]となり、重賞2着のニシノマナムスメ(父:[[アグネスタキオン]])や、同じ西山所有馬[[セイウンスカイ]]産駒のニシノミライなどを生産。ニシノミライから血は継承され、2022年[[中山大障害]](J-GI)を優勝した[[ニシノデイジー]]の曾祖母にもなった。


== デビューまで ==
== デビューまで ==
本馬の生産者である[[西山牧場]]は、日本において[[社台グループ]]に次ぐ第2位の生産規模を持った牧場であったが、大雑把な牧場経営から長らく目立った活躍馬が現れなかった。この状況を打開するため、1987年より生産・育成各部門の改革に着手<ref>『優駿』1992年8月号 p.16</ref>。1989年2月、その一環として約2億円<ref>『サラブレッド怪物伝説・平成版』p.184</ref>を投じて[[アメリカ合衆国|アメリカ]]より4頭の繁殖牝馬を輸入した。各牝馬はいずれも産駒を受胎した状態で購買され、そのうちの1頭に本馬の母・デュプリシトがいた。


=== 誕生までの経緯 ===
同年4月、デュプリシトは牝駒を出産。期待を受けての誕生であったが、細身の体格で目立つ所はなかった<ref name="nishino">『サラブレッド怪物伝説・平成版』p.185</ref>。数名の調教師に管理を断られた<ref name="nishino" />のち、最終的に[[滋賀県]][[栗東トレーニングセンター]]・[[松田正弘]]の管理馬と決まった。松田は初めて本馬を見たときの印象を「脚ばかりヒョロッと長くて幅のない、[[バンビ (映画)|バンビ]]みたいな馬」と語っている<ref name="nishino2">『忘れられない名馬100』p.140</ref>。1991年、競走年齢の3歳に達し、ニシノフラワーと命名されて松田厩舎に入ったが、調教でも目立った動きはなかった<ref name="nishino2" />。


== 戦績 ==
==== 西山牧場 ====
[[西山牧場]]は、[[北海道]][[勇払郡]][[鵡川町]]にあった競走馬生産牧場である。1966年に、[[冠名]]「シロー」などを用いる[[馬主]]の[[西山正行]]が開業し、[[オーナーブリーダー]]を始めていた。日本一の面積を抱えて開業直後から急速に拡大し、三桁の[[繁殖牝馬]]を抱える大規模生産のもと運営されていた<ref>『優駿』1992年8月号 15頁</ref>。1973年には、同じように大規模生産を行い、毎年のようにリーディングブリーダーの[[社台ファーム]]を上回ったこともあった。リーディング奪取は一時的だったが、社台ファームに次ぐ勢力だった<ref name="名馬2-73">『名馬を読む2』73頁</ref><ref name="優駿-1992-3-15">『優駿』1992年3月号 15頁</ref>。
=== 3歳時(1991年) ===
[[1991年]]7月7日、[[札幌競馬場|札幌開催]]の新馬戦で、[[佐藤正雄]]を鞍上にデビュー。これより前に[[骨膜炎]]を生じており、脚の状態を考慮して負担の少ない[[ダート]]競走が選ばれた<ref>『優駿』1998年5月号 p.90</ref>。当日は[[投票券 (公営競技)#単勝式|単勝]]4番人気であったが、2着に4馬身差を付けて初戦勝利を挙げた。次走には[[競馬の競走格付け|GIII競走]]の[[札幌3歳ステークス]]に出走。「使える適当な番組がない<ref name="nishino2" />」からという消極的なレース選択だったが、道中2番手から直線で後続を突き放し、[[ディスコホール (競走馬)|ディスコホール]]に3馬身半の差を付けて優勝。[[重賞]]初勝利を収めた。騎乗した佐藤にとっても、これがデビュー22年目で初めての重賞制覇となった。


オーナーブリーダーゆえに、自ら生産した馬――例えば牝馬は引退後、里帰りさせて繁殖牝馬にしていた。そしてその牝馬の交配相手として、外国からの[[種牡馬]]の導入にも積極的に取り組んでいた<ref name="優駿-1992-3-15" /><ref name="優駿-1992-6-85">『優駿』1992年6月号 85頁</ref>。この2つの行動が重なると、やがて牧場の抱える血統が似た構成になっていた。独りよがりなオーナーブリーダーは、避けて通れない問題だった<ref name="優駿-1992-3-15" />。外国から連れてきた期待の種牡馬を妄信して、牧場の繁殖牝馬に片っ端から交配させたためだった<ref name="優駿-1998-8-44">『優駿』1998年8月号 44頁</ref>。牧場独自の血統の量産は、当てれば大きな強みになるが、外れれば揃って失敗する危険も孕んでいた<ref name="優駿-1992-1-160" />。
連勝で松田も本馬の素質を認め、いったん休養に出された。帰厩後、3歳女王戦[[阪神3歳牝馬ステークス]]への前哨戦として、[[デイリー杯3歳ステークス]]に出走。騎乗停止中だった佐藤に代わって[[田原成貴]]が手綱を執り、前走と同じく3馬身半差で圧勝した。次走に迎えた阪神3歳牝馬ステークスでは騎手が佐藤に戻り、1番人気に支持された。レースは道中5-6番手から直線で抜け出し、ゴール前で追い込んだ[[サンエイサンキュー]]、[[シンコウラブリイ]]を退けて優勝。人馬ともに初のGI制覇を果たした。また、この勝利は西山牧場にとっても開業25年目で初めてのGI優勝となった。当年4戦4勝・うち重賞3勝の成績で、翌年1月には当年の最優秀3歳牝馬に満票で選出された。


翻って、競馬ファンからすれば、異端の血統を持つ存在は歓迎された。西山の所有馬は高配当を運んでくる印象が強かった<ref name="優駿-1998-8-43">『優駿』1998年8月号 43頁</ref>。しばらくの間所有した[[カブトシロー]]が、1967年[[天皇賞(秋)]]を8番人気で制するなどしていた<ref name="優駿-1998-8-43" />。このため西山牧場の生産馬も、その印象を引き継ぎ、時折とんでもない大穴馬券をもたらすファンに夢を与える存在、あるいは梶山隆平によれば「『穴馬製造牧場』などの陰口を耳にする<ref name="優駿-1991-9-143" />」ような存在だった<ref name="優駿-1998-8-43" />。
=== 4歳時(1992年) ===
翌[[1992年]]、[[中央競馬クラシック三冠|4歳クラシック戦線]]へ向けて[[チューリップ賞]]([[桜花賞]][[トライアル競走|トライアル]])から始動。当日は単勝[[オッズ]]1.2倍という圧倒的1番人気に支持された。しかし佐藤が第3コーナーで仕掛けを遅らせた結果、最終コーナーから馬群に包まれて抜け出せない状態となった。[[アドラーブル]]が先頭に立ったころに外へ抜け出して追い込んだが、同馬から3馬身半差の2着となり、初の敗戦を喫した。他馬と一緒に進出しなかった理由は「今から脚を使って、ゴール前で差されたらみっともない」というものだった<ref>『優駿』1998年5月号 p.91</ref>。また後に佐藤は「桜花賞を勝つために一度馬群を経験させようと思ったら、出られなくなってしまった」とも語っている<ref name=takarajima>[[別冊宝島]]1005『競馬裏事件史 これが真相だ!』([[宝島社]]、[[2004年]])pp.52 - 61</ref>。


大量生産、大量出走の西山牧場において、大物は稀に出現したが、GIタイトル獲得はできなかった<ref name="優駿-1992-3-15" />。生産馬キョウエイグリーンや[[サクライワイ]]は、[[スプリンターズステークス]]や[[安田記念]]も制していたが、いずれも1970年代で[[グレード制]]導入前の出来事だった<ref name="名馬2-73" /><ref name="優駿-1992-3-15" />。また[[ニシノライデン]](父:[[ダイコーター]])は、1987年[[天皇賞(春)]]にて優勝寸前で斜行して失格となった<ref name="優駿-1992-3-15" /><ref name="優駿-1992-6-84">『優駿』1992年6月号 84頁</ref>。さらに正行の息子で後の後継者となる[[西山茂行]]が「絶対ダービーを取れる<ref name="優駿-1992-6-85" />」と感じたニシノバルカン(父:[[ホウシュウエイト]])は、1984年[[阪神3歳ステークス]]で1番人気に推されながら、レース中に骨折して競走中止、安楽死となっていた<ref>{{Cite web |title=ニシノバルカン|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000145587/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2023-03-22}}</ref><ref name="優駿-1992-6-85" />。このようにGIタイトルには縁がなかった。そう足踏みをしている間に、生産馬の成績が悪化する<ref name="優駿-1992-8-16">『優駿』1992年8月号 16頁</ref>。そしてやがて重賞タイトルすら遠い存在になり果てていた。大レースで主役を張れるような大物も送り出せなくなり、アイアンシローが12番人気で制した1988年[[金杯(東)]]を最後に、数年間重賞優勝から見放されるようになった<ref name="優駿-1992-1-160" /><ref name="優駿-1992-2-150" />。
競走2日後、自信を喪失した佐藤から松田へ、桜花賞の騎乗を辞退したい旨が要請され<ref name="nishino3">『優駿』1998年6月号 p.88</ref>、佐藤自身の薦めでニシノフラワーの騎手は[[河内洋]]に変更となった<ref name="nishino3" />。のちに佐藤は「(チューリップ賞は)私のミスです。これは桜花賞に乗るのは荷が重いなと思って、交代を申し出たんです」と内実を語っている<ref name="nishino3" />。また馬主である[[西山正行]]の息子・[[西山茂行|茂行]]はインタビューに対し「どうしても心情的には佐藤騎手を乗せてやりたいんだけど、チューリップ賞を見た限り、ちょっと荷が重いということになったんです。(中略)本当は佐藤正雄騎手で勝ちたかったです。佐藤騎手で桜花賞を勝って、一緒に喜びたいというのが大きなテーマでした」と語った<ref>『優駿』1992年6月号 p.83</ref>。


==== デュプリシト ====
ただ一方で、茂行が後に語ったところでは、正行は佐藤に対して怒り心頭で、チューリップ賞のレース直後には検量室で正行が「このへたくそ!」と叫びながら佐藤の頭を丸めた競馬新聞で叩いていたという。このためレース直後には既に騎手の乗り替わりの検討が進められていたといい(従って佐藤が騎乗を辞退したのは、正行の本音を察した結果ともいえる)、正行は3歳時に騎乗経験のある田原を推していたが、最終的に調教師の判断を尊重することになった<ref name=takarajima />。
そんな頃、西山茂行が牧場改革に着手する。育成段階の強化に乗り出し、新しい育成牧場を建設したり、先進的な獣医師を雇い入れたりしていた<ref name="優駿-1992-3-15" /><ref name="優駿-1992-8-16" />。さらに生産段階においても、交配する種牡馬の選定に明確な基準を設けるようになり、外部の牧場の種牡馬にも交配するようになった<ref name="優駿-1998-8-44" />。そして繋養する繁殖牝馬の入れ替えにも取り組み、血統の更新に努めた<ref name="優駿-1992-8-16" />。


その一環として、約2億円の予算をつぎ込み、[[アメリカ合衆国]]の[[ケンタッキー州|ケンタッキー]]の繁殖牝馬セールにて受胎済みの4頭を手に入れていた<ref name="優駿-1991-9-150" /><ref>『サラブレッド怪物伝説・平成版』184頁</ref>。そのうちの1頭がデュプリシト(後のニシノフラワーの母)だった。デュプリシトは、既にマジェスティックライトとの仔(後のニシノフラワー)を孕んでいた。その4頭は、1988年秋の輸入を予定していたが、後にバブルとなる好景気の影響で繁殖牝馬の輸入が立て込んでおり、[[成田国際空港]]の検疫所が詰まっていた<ref name="優駿-2002-12-47">『優駿』2002年12月号 47頁</ref>。このため遅れに遅れ、1989年2月の輸入となる<ref name="優駿-1991-9-150" />。牧場では、隔離厩舎を設けるなどして、デュプリシトらを万全な状態で迎え入れていた<ref name="優駿-1992-3-15" />。
4月12日の桜花賞では前走より人気を落としながらも、オッズ2.3倍の1番人気に推された。レースは打って変わった先行策から直線入り口で先頭に並ぶと、アドラーブルに対して、前走から逆転となる3馬身半差を付けて優勝した。乗り替わりの責務を果たし、史上最多記録となる4度目の桜花賞制覇となった河内はのちに「(牝馬三冠を獲得した)[[メジロラモーヌ]]以上のプレッシャー」だったと回顧している<ref>河内/加賀谷(2003)p.84</ref>。


デュプリシトは、アメリカで生産された父ダンジグの牝馬である。競走馬とならないままに繁殖牝馬となっていた、自ら優れた成績を残すことは叶わなかったが、良血馬だった。父ダンジグは、[[ノーザンダンサー]]の仔であり、北アメリカのリーディングサイアーだった<ref name="優駿-1992-4-10">『優駿』1992年4月号 10頁</ref>。またアメリカの名牝系に属しており、曾祖母の[[サムシングロイヤル]]は、[[サーゲイロード]]、ファーストファミリー、シリアンシー、[[セクレタリアト]]の母として知られていた<ref name="優駿-1992-2-153">『優駿』1992年2月号 153頁</ref>。
次走には牝馬クラシック二冠を目指して[[優駿牝馬|優駿牝馬(オークス)]]に臨んだ。しかし桜花賞後から急激に食が細り、馬体の維持に時間を割かれ、強い調教ができないままの出走となった<ref name="nishino5">『忘れられない名馬100』p.141</ref>。レースでは抑えようとする河内との折り合いも欠き、最後の直線入り口では先頭に立つも、直線半ばで失速して7着と敗れた。


そして交配されたマジェスティックライトは、アメリカで生産された父[[マジェスティックプリンス]]の牡馬だった<ref name="優駿-1992-2-153" />。競走馬として、1977年の[[マンノウォーステークス]]や[[ハスケルステークス|ハスケルハンデキャップ]]などG1級競走4勝を挙げ、31戦11勝という成績を残した<ref name="優駿-1992-2-153" />。種牡馬としても活躍し、[[フランスオークス]]や[[サンタラリ賞]]を制したラコヴィア、[[CCAオークス]]や[[ケンタッキーオークス]]を制した{{仮リンク|ライトライト|en|Lite Light}}など世界各地でG1級競走優勝産駒を数多く輩出していた<ref name="優駿-1992-2-153" />。マジェスティックライトの父系は、[[レイズアネイティヴ系]]、さらに遡って[[ネイティヴダンサー系]]だった<ref name="優駿-1992-5-26">『優駿』1992年5月号 26頁</ref>。
夏の休養を経て体調を戻したが、秋緒戦[[ローズステークス]]は4着、11月15日の牝馬三冠最終戦・[[エリザベス女王杯]](当時は3歳牝馬限定戦)も3着と、勝利には至らなかった。桜花賞まで1600メートル以下の距離であったのに対し、オークス以降はいずれも2000メートル以上の距離で連敗した。河内は「距離に限界があった」とし<ref>河内/加賀谷(2003)p.86</ref>、松田は「典型的なマイラー(1600メートル前後を得意とする馬)だった」としている<ref name="nishino5" />(各競走距離については成績表を参照)。


この当時の世界は、[[ネアルコ系]]から分岐した[[ナスルーラ系]]と[[ノーザンダンサー系]]が拡大して主流となっていた<ref>『優駿』1992年5月号 25頁</ref>。対してネイティヴダンサー系は、傍流に過ぎなかったが、アメリカでは、1970年代に[[ミスタープロスペクター]]や[[アリダー]]といった大種牡馬が誕生し、徐々に失地回復を果たしていた<ref name="優駿-1992-5-26" /><ref name="優駿-1991-9-142">『優駿』1991年9月号 142頁</ref>。日本でも同様にネアルコ系の二系統が跋扈していたが、アメリカと同じようなネイティヴダンサー系の復権は始まらなかった。ネイティヴダンサー系種牡馬が相次いで輸入されたが、大きな成功を挙げられていなかった<ref name="優駿-1992-5-26" />。ところが1980年代晩期に差し掛かって、[[オグリキャップ]]が出現し、その風穴を開ける活躍を見せた<ref name="優駿-1991-9-142" />。後にこのデュプリシトに宿る仔(後のニシノフラワー)は、日本競馬におけるネイティヴダンサー系の活躍馬として、オグリキャップや[[リンドシェーバー]]に続く存在を担うことになった<ref name="優駿-1992-5-26" /><ref name="優駿-1991-9-142" />。
12月20日、シーズン最終戦として初の古牡馬混合戦となる[[スプリンターズステークス]]に出走。1200メートルという短距離で、[[マイルチャンピオンシップ]]を連覇していた[[ダイタクヘリオス]]に次ぐ2番人気に推された。レースでは「古馬と真っ向勝負では分が悪い」という河内の判断から、長所の瞬発力を活かすため後方に控える作戦を採った<ref>河内/加賀谷(2003)pp.86-87</ref>。最後の直線では大外から先行勢を次々と交わし、ゴール前で[[ヤマニンゼファー]]を差し切り優勝。GI競走3勝目を挙げた。河内は前年騎乗した[[ダイイチルビー]]に続く連覇ともなった。


1989年4月19日、北海道[[鵡川町]]の西山牧場にて、[[黒鹿毛]]の[[牝馬]]である仔(後のニシノフラワー)が誕生する。この仔は、アメリカ合衆国で交配されたものの、日本で生を受けたため、内国産の扱いを受ける[[持込馬]]に分類された<ref name="優駿-1992-4-10" />。ゆえに外国で生まれ輸入された[[外国産馬]]とは異なり、クラシック競走に参戦することが可能だった<ref name="優駿-1992-4-10" />。
翌年1月に発表されたJRA賞表彰では、最優秀4歳牝馬と最優秀スプリンターの2部門を受賞した。


=== 5歳(1993年) ===
=== 幼駒 ===
牧場改革の滑り出しを担うことになるこの仔は、将来の牧場の基礎繁殖牝馬としての役割が主に期待されていた<ref name="優駿-2002-12-47" />。しかしその前に競走馬となる。オーナーブリーダーのもとで生まれたために、当然の成り行きで西山所有の競走馬となった。西山は、冠名「ニシノ」を用いて「フラワー」を組み合わせた「'''ニシノフラワー'''」という競走馬名が与えていた。
5歳となった[[1993年]]は[[マイラーズカップ]]から始動、前走で退けたヤマニンゼファーとの再戦となった。レースは先行するニシノフラワーをヤマニンゼファーがマークする形となったが、最終コーナーでニシノフラワーが後続を楽に突き離し、同馬に3馬身半差を付けて圧勝した。


ニシノフラワーは、上述のような事情から、牧場では異色の血統、背景の持ち主であり、大きな期待を集めていた。しかし体が小さく、細身の体格だった<ref name="伝説-185">『サラブレッド怪物伝説・平成版』185頁</ref><ref name="優駿-1992-3-16">『優駿』1992年3月号 16頁</ref>。西山茂行は「足の長い、大した馬じゃなかった(中略)馬格もなくて。でも筋肉はしっかりしてました<ref name="優駿-1992-6-83">『優駿』1992年6月号 83頁</ref>」と回顧している。輸入された4頭の繁殖牝馬は、日本でそれぞれ仔を産み、牧場に4頭の持込馬をもたらしたが、ニシノフラワーは、その4頭の中でも下から2番目の評価だった<ref name="優駿-1992-3-16" />。病気もせずに順調に育ったが、これといった良い点も挙がらず、牧場に大量にいる同期の中の平凡な1頭に過ぎなかった<ref name="優駿-1992-3-17">『優駿』1992年3月号 17頁</ref>。牧場では毎年アルバムを制作して生産馬の記録を残しており、主だった生産馬の写真を掲載していたが、目立たない平凡なニシノフラワーにその枠は与えられなかった<ref name="優駿-1992-3-17" />。
その後、当年より国際競走となった[[安田記念]]に向けて調整が続けられ、5月に迎えた同競走では1番人気に支持された。しかし先団でのレース運びから直線で伸びず、10着と大敗を喫した。以後調子を落とし、春のグランプリ・[[宝塚記念]]で8着。休養を経た秋緒戦・[[スワンステークス]]では3着と復調の兆しを見せたが、続くGI・マイルチャンピオンシップでは13着と再び大敗した。連覇を目指した年末のスプリンターズステークスでは3着となり、これを最後に競走馬を引退。翌1994年1月9日、[[阪神競馬場]]で[[引退#競馬|引退式]]が行われた。


牧場では、茂行が断行した改革の恩恵を受けている。屋根付きの馬場が新設されたおかげで、旧世代まではしていなかった冬季期間中のトレーニングをすることができた<ref name="優駿-1992-6-83" />。それに前々世代まではしていなかった昼夜放牧もなされた<ref name="優駿-1992-3-17" />。またこれまではスタッフの勘や経験を頼るところが多かったが、最新の知見を取り入れてカルテを作成するようになる。データに基づいた育成がなされていた<ref>『優駿』1992年8月号 18頁</ref>。
== 競走成績 ==
以下の内容は、netkeiba.com <ref name="netrcd">{{Cite web|url= https://db.netkeiba.com/horse/result/1989107262/ |title=netkeiba ニシノフラワーの競走成績|publisher=Net Dreamers Co., Ltd.|accessdate=2019-08-20}}</ref>およびJBISサーチ<ref name="jbisrcd">{{Cite web|url= https://www.jbis.or.jp/horse/0000224549/record/ |title=ニシノフラワー 競走成績|work=JBISサーチ |publisher=公益社団法人日本軽種馬協会|accessdate=2019-08-20}}</ref>の情報に基づく。


ニシノフラワーがデビューするには、管理してくれる調教師に出会う必要があった。しかし牧場の期待とは裏腹に、調教師からの視線は冷たかった。生後1か月が経過した頃に、[[調教師]]3人が検分に訪れたが、細身の体格が敬遠されて、悉く縁がなかった<ref name="伝説-185" /><ref name="優駿-1992-3-16" />。そして4人目、ニシノフラワーの姿を見た[[栗東トレーニングセンター]]所属の調教師松田正弘が検分に訪れる。3人の調教師に続いて、管理を依頼するも、松田もまた体格を見て、引き受けを躊躇っていた<ref name="優駿-2002-12-47" />。松田は後に「脚ばかりヒョロッと長くて幅のない、[[バンビ (映画)|バンビ]]みたいな馬<ref name="忘れられない-140">『忘れられない名馬100』140頁</ref>」「くしゃみをすると、その勢いで倒れてしまいそうだった<ref name="優駿-2002-12-47" />」と回顧している。
{| style="font-size: 90%; text-align: center; border-collapse: collapse;"

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しかし松田は、その姿に直感めいたものがあったという。その直感を、母父ダンジグ、皮膚が薄いという客観的事実で補強して、正当化していた<ref name="優駿-1992-3-16" />。これまでは牝馬を管理したがらない傾向にあったが、その不確かな直感を手掛かりにして、牝馬のニシノフラワーを引き受けることとなった<ref name="優駿-2002-12-47" />。松田は後に「小さな馬だったんですよ。本当に競走馬として仕上がるのかなというくらい(中略)今にして思うと、何故この馬を気に入ったのか。間違っても強烈な印象はなかった<ref name="優駿-1992-3-16" />」と回顧している。
!colspan="3"| 年月日!!開催場!!レース名!![[競馬の競走格付け|格]]!!頭<br>数!!枠<br>番!!馬<br>番!!人気!!着順!!距離([[馬場状態|状態]])!!タイム([[上がり (競馬)|上がり]])!!着差!![[騎手]]!![[負担重量|斤量]]!!馬体重!!勝ち馬/(2着馬)

ニシノフラワーは、3歳となったばかりの1991年1月<ref name="優駿-2002-12-47" />、もしくは3月<ref name="優駿-1998-5-89">『優駿』1998年5月号 89頁</ref>に栗東の松田厩舎に入厩する。厩舎では、大戸希昭や石崎修が厩務を担った<ref name="優駿-1992-2-8" /><ref name="優駿-1992-6-136" />。石崎は、[[厩務員]]と[[調教助手]]を兼ねる「持ち乗り調教助手」だった。さらに元騎手であり、1953年に[[ダイナナホウシユウ|タマサン]]で3歳戦を8連勝した過去があった<ref name="優駿-1992-5-131">『優駿』1992年5月号 131頁</ref>。タマサンは、翌1954年から「[[ダイナナホウシユウ]]」に名を改めると同時に[[上田三千夫]]に乗り替わり、クラシック二冠を達成、通算23勝を挙げて、殿堂入り候補にまで上り詰める活躍を見せていた。石崎は乗り替わりの後も、ダイナナホウシユウに調教担当として関与を継続、活躍を陰から支えた一人だった<ref name="優駿-1992-6-136">『優駿』1992年6月号 136頁</ref>。やがて騎手を引退した石崎は、調教助手となっていた。そして時が経過して、ベテラン60代に突入。そんなとき、ニシノフラワーと出会っていた<ref name="優駿-1992-5-131" />。

牧場で平凡だったニシノフラワーが、才能の片鱗を見せ始めたのは、トレーニングセンターに入厩してからだった<ref name="優駿-1992-3-18">『優駿』1992年3月号 18頁</ref>。身長が伸びて脚はさらに長くなっていた<ref name="優駿-1992-3-18" />。直後から動きも良く<ref name="優駿-1998-5-89" />、同期で同じような過程を踏んでいたアステリアダンサー{{Efn|父[[ノーザンディクテイター]]、母父[[ダンサーズイメージ]]、1968年[[桜花賞]]並びに[[優駿牝馬]](オークス)3着のマルシゲの孫にあたる牡馬である。同じく佐藤が騎乗してデビューし2戦目で初勝利、[[函館スプリントステークス]](GIII)では5着となった。中央競馬でしばらく走り、1995年山城特別(900万円以下)優勝まで出世した。[[南関東公営競馬]]に移籍しても活躍した。中央地方併せて通算成績70戦5勝<ref>{{Cite web |title=アステリアダンサー|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000223353/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2023-03-23}}</ref>。}}と併せ馬をしたら、3馬身突き放していた<ref name="優駿-1992-3-18" />。早い時期の入厩で仕上がりも順調だったころから、夏の北海道開催でのデビューが決定、遠征して札幌競馬場に入厩した<ref name="優駿-1991-9-150" />。

デビューを前に西山茂行は、[[ステイヤー]]ないし「距離が延びてよくなるタイプの馬<ref name="優駿-1993-5-41">『優駿』1993年5月号 41頁</ref>」だと考えていた<ref name="優駿-1993-5-41" />。また松田は、高井克敏の「ニシノフラワーを人間にたとえると、どんな女性になりますか<ref name="優駿-1992-3-19">『優駿』1992年3月号 19頁</ref>」という問いにこのように答えている<ref name="優駿-1992-3-19" />。{{Quotation|スタイルはいいけど、美人じゃないな。ただ根性はあるし、普段はおとなしいけど、怒ると怖いタイプ、嫁さんにするよりはキャリアウーマン向きだろうな|松田正行<ref name="優駿-1992-3-19" />}}

== 競走馬時代 ==
=== 3歳(1991年) ===

==== 札幌3歳ステークス ====
デビューが近づくにつれて、調教の負荷が増えていったが、脚が耐えられなかった。両前脚にソエを患って<ref>『週刊100名馬』 12頁</ref>、目一杯の調教ができなくなっていた。そのため、仕上がり途上でのデビューとなった<ref name="優駿-2002-12-47" />。当初は、第1回の[[札幌競馬場]]開催の初日、6月8日の新馬戦でデビューする予定だった<ref name="優駿-2002-12-47" />。しかしソエのために延期となり、第2回札幌開催の2日目、7月7日の新馬戦でデビューとなった<ref name="優駿-2002-12-48">『優駿』2002年12月号 48頁</ref>。ソエの治癒がまだ完全ではなかったために、脚元への負担が小さいダートの1000メートルに参戦した。[[佐藤正雄]]が騎乗し4番人気だった<ref name="優駿-2002-12-47" />。好スタートからハナを奪って逃げて、後続の接近を許さなかった。4馬身差をつけて初勝利を挙げた<ref name="優駿-2002-12-47" />。

この後はソエが解消されるようになり、遠慮していた芝への参戦が決定する<ref name="優駿-2002-12-47" />。次なる出走には、9月下旬の[[函館3歳ステークス]]も検討されていた。しかし函館3歳ステークスが行われる[[函館競馬場]]は、馬場の出来が悪く、荒れている場合が多かった。そのため前倒しして、引き続き札幌に参戦する<ref name="優駿-2002-12-47" />。7月28日の[[札幌3歳ステークス]](GIII)で重賞に挑んでいた。[[シンボリルドルフ]]産駒のハギノグランドールや、[[新潟競馬場|新潟]]で勝ち上がった[[ノーザンテースト]]産駒の[[アドラーブル]]などが、評判馬として立ちはだかっていた<ref name="優駿-1991-9-150">『優駿』1991年9月号 150頁</ref>。

札幌競馬場の芝コースが使用され始めたのは、前年の1990年からだった<ref>『優駿』1990年8月号 6頁</ref>。芝コースで行われた初年度の3歳ステークスには、優勝した[[スカーレットブーケ]]、1番人気5着となった[[ノーザンドライバー]]がいた<ref name="優駿-1991-9-150" />。この2頭は後に出世し、クラシック戦線でも上位に絡む活躍を見せていた。寒冷地の札幌にある芝は、冬に枯れない洋芝が主体となっていた。洋芝は反発が小さく、脚への負担が軽くなり、馬の消耗をいくらか防ぐことが可能だった<ref name="優駿-1991-9-150" />。また3歳夏の重賞は、優勝すれば、クラシック参戦をほとんど確定させるほどの賞金を得ることが可能だった。すなわち、少ない負担ながら、大きな便益が得られる資格を懸けた争いであった<ref name="優駿-1991-9-150" />。

このため、クラシック戦線を展望するうえで重要な立場に成り上がっており、芝となって2年目の札幌3歳ステークスは、大きな注目を集めていた<ref name="優駿-1991-9-99">『優駿』1991年9月号 99頁</ref>。吉川彰彦によれば「『この中にダービー馬がいる!』そんな見出しで各新聞社が大いに盛りあげた<ref name="優駿-1991-9-150" />」のだという。しかしニシノフラワーには、注目は集まっていなかった<ref name="優駿-2002-12-48" />。重賞未勝利の佐藤を背負って、4番人気という信頼だった<ref name="優駿-1998-5-90">『優駿』1998年5月号 90頁</ref>。{{External media|width=300px|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=VFeD7bcohRQ&ab_channel=JRA%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB 1991年 札幌3歳ステークス({{GIII}})<br />レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画]}}最も内側の枠から好スタートを切って先行<ref name="優駿-1991-9-150" />。ハイペースで逃げるイイデザオウに離された好位の3番手を折り合って追走した<ref name="優駿-1991-9-150" /><ref name="優駿-1991-9-99" />。最終コーナーからイイデザオウが垂れて後退すると、代わって先頭を奪取していた<ref name="優駿-1991-9-150" />。直線では、馬場の最も内側を突いて進出した<ref name="優駿-1991-9-150" />。後方勢の追い込みはなく、先頭を得てからは独走となった<ref name="優駿-1991-9-99" />。後方に3馬身半差をつけていた<ref name="優駿-1991-9-151">『優駿』1991年9月号 151頁</ref>。

連勝、重賞初勝利となり、おまけに走破タイム1分10秒5は、コースレコードを樹立していた<ref name="優駿-1991-9-151" />。この勝ちっぷりは、前年優勝馬で桜花賞4着、優駿牝馬5着となったスカーレットブーケを上回るものとの評価がなされたり、桜花賞優勝候補との言説も上がり始めていた<ref name="優駿-1991-9-99" /><ref>『優駿』1991年9月号 24頁</ref>。またデビュー23年目の佐藤に、初重賞勝利をもたらしていた<ref name="優駿-1991-9-143">『優駿』1991年9月号 143頁</ref>。

佐藤は1969年にデビューして勝利を重ね、1971年には見習騎手を脱して、八大競走の一つである優駿牝馬(オークス)の騎乗を果たしていた<ref name="優駿-1991-9-143" />。しかも騎乗した人気薄のバンブーキャッチャを、[[カネヒムロ]]、サニーワールドに次ぐ3着に導いていた。しかしその後は恵まれず、重賞未勝利でベテランの域に突入。徐々に起用される回数が減少していた。そんな中で、クラシック候補のニシノフラワーに出会っていた<ref name="優駿-1991-9-143" />。重賞初勝利に佐藤は「もう勝負服を脱いでもいいくらい<ref name="優駿-1991-9-150" />」と述べていたという。

==== デイリー杯3歳ステークス ====
ニシノフラワーと陣営にとって、早い時期での出世は、クラシック参戦には有利だった<ref name="優駿-1998-5-90" />。しかし同時に能力の早熟性も証明していた。松田によれば「他馬より半年くらいはお姉さんだったからね<ref name="優駿-1998-5-90" />」と回顧している。そのため陣営は、早熟のアドバンテージを活かして、暮れの3歳牝馬チャンピオン決定戦である阪神3歳牝馬ステークスを目標に定めた<ref name="優駿-1998-5-90" />。
休養を経て、栗東に帰厩。そして11月2日、阪神3歳牝馬ステークスの前哨戦として[[デイリー杯3歳ステークス]](GII)に、[[田原成貴]]に乗り替わって参戦する。この前週、佐藤が騎乗停止処分を受けたための代打だった。出走メンバーは「近年にない豪華な充実したメンバー<ref name="優駿-1992-1-160">『優駿』1992年1月号 160頁</ref>」(坂本忠敏)となっていた。ローカルの3歳ステークス優勝馬、札幌のほかに、函館のアトムピット、[[小倉3歳ステークス|小倉]]のジンクタモンオー、[[新潟3歳ステークス|新潟]]のユートジェーンが、そして各地の3歳ステークス上位陣も揃っていた<ref name="優駿-1992-1-99">『優駿』1992年1月号 99頁</ref>。そんな中でニシノフラワーは、1番人気に支持される<ref name="優駿-1992-1-160" />。ただし、ジンクタモンオーが感冒のために回避、フリークフィールドが登録ミスで乗り替わっている{{Efn|[[安田隆行]]が騎乗する予定だったが、ミスにより[[田島信行]]に乗り替わって参戦していた<ref name="優駿-1992-1-160" />。}}など、手落ちの相手がいながらの信頼だった<ref name="優駿-1992-1-160" />。{{External media|width=300px|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=hbRuj-JPUW8&ab_channel=JRA%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB 1991年 デイリー杯3歳ステークス({{GII}})<br />レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画]}}好スタートから先行したが、ハナを奪わず控えて好位を確保<ref name="優駿-1998-5-90" />。スローペースを追走していた<ref name="優駿-1992-1-160" />。ワンターンを経て、最終コーナーに差し掛かる頃に、逃げ馬に接近して2番手にまで進出した<ref name="優駿-1992-1-160" />。直線でスパートして先頭を奪取、残り200メートルで抜け出して突き放していた<ref name="優駿-1992-1-99" />。後は独走だった。後方に3馬身半差をつけて先頭で決勝線に到達していた<ref name="優駿-1992-1-161">『優駿』1992年1月号 161頁</ref>。3連勝、重賞連勝を成し遂げた<ref name="優駿-1992-1-161" />。

==== 阪神3歳牝馬ステークス ====
続いて12月1日、本番の阪神3歳牝馬ステークス(GI)に参戦する。この年は、3歳重賞に関する競馬番組改革が断行されたばかりであり、阪神3歳牝馬ステークスが初めて開催されていた。これまで、暮れに行われる3歳馬のGI競走は2つあったが、その割り当ては所属するトレーニングセンターによって大枠決まっていた。美浦所属の関東馬は中山競馬場の朝日杯3歳ステークス、栗東所属の関西馬は阪神の阪神3歳ステークスに臨むことが自然な流れであった。しかし番組改革を経て、区別が東西から性別に変わり、牡馬と[[騸馬]]には朝日杯が、そして牝馬には、阪神が割り当てられていた<ref>『優駿』1991年1月号 11頁</ref>。したがってJRA史上初めてとなる3歳牝馬によるGI競走である阪神3歳牝馬ステークスが誕生していた<ref name="優駿-1992-1-46">『優駿』1992年1月号 46頁</ref>。設けられた舞台は阪神の芝1600メートルであり、翌年のクラシック初戦・桜花賞と同じだった。

またこの開催は、阪神競馬場が改修直後だった。スタンド、そしてコースが改められていた。第3、4コーナーが緩やかになり、直線には坂が設けられていた<ref name="優駿-1992-4-8">『優駿』1992年4月号 8頁</ref>。さらに芝が緑色になっていた。冬でも枯れない洋芝も用いて、季節に囚われることなく、緑色の芝の上での競走が可能となっていた<ref name="優駿-1992-4-8" />。阪神3歳牝馬ステークスは、そんなリニューアルの後に初めて行われた重賞でもあった<ref name="優駿-1992-2-150" />。

東西の15頭の牝馬が集まる中、ニシノフラワーは、1.9倍の1番人気に支持される<ref name="優駿-2002-12-48" />。次いで2.8倍の2番人気は、クラシック参戦不能な外国産馬であり、[[福島3歳ステークス]]優勝から臨む2戦2勝、関東馬の[[シンコウラブリイ]]だった。東西が筆頭が並び立ち、それ以下はオッズが飛躍。10倍台からサンエイサンキュー、ディスコホール、ユートジェーンとなっていた。騎乗停止明けの佐藤が舞い戻り、GIに本命として参戦となる。佐藤は、19歳となる息子を競馬場に呼び寄せるなど、気合を入れて臨んでいた<ref name="日刊-阪神3歳牝馬S">{{Cite web |title=【G1復刻】ニシノフラワー無傷4連勝で頂点 壮絶追い比べ制す/阪神JF|極ウマ・プレミアム |url=https://p.nikkansports.com/goku-uma/biglobe3/news/article.zpl?topic_id=1&id=202112080001022&year=2021&month=12&day=10 |website=p.nikkansports.com |access-date=2023-03-18 |language=ja}}</ref>。{{External media|width=300px|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=X9WOAsMy45o&ab_channel=JRA%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB 1991年 阪神3歳牝馬ステークス({{GI}})<br />レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画]}}
3枠4番からスタートして先行。バックストレッチに差し掛かるあたりで外側からの圧力がかかり、進路を失ってブレーキを余儀なくされた<ref name="優駿-1992-2-150" />。ブレーキは、走る気溢れる馬にとっては不利であり、折り合いを欠く危険があったが、佐藤が鎮めてニシノフラワーをかかることなく走らせることができた<ref name="優駿-1992-2-150" />。おかげで好位、逃げるファンドリエバート、2番手のユートジェーンに次ぐ3番手を確保していた<ref name="優駿-1992-2-150" />。

やがて最終コーナーにてファンドリエバートが垂れると、代わって抜け出したユートジェーンを追う2番手となった<ref name="優駿-1992-1-46" />。直線ではしばらくユートジェーンの独走となっていたが、すぐには詰め寄らなかった。直線半ばを過ぎてからスパートし、ユートジェーンをかわして抜け出した<ref name="優駿-1992-2-150" />。ニシノフラワーの背後には、サンエイサンキューやディスコホール、そしてシンコウラブリイがおり、後れてスパートしてニシノフラワーに迫ってきた<ref name="優駿-2007-10-67">『優駿』2007年10月号 67頁</ref>。それまで3馬身以上の差をつけて勝ち続けたニシノフラワーにとっては、初めてとなる接戦に直面したが、先頭を譲らなかった<ref>『優駿』1992年4月号 11頁</ref><ref name="優駿-1992-1-46" />。新設された坂を踏破し、サンエイサンキューやシンコウラブリイより4分の3馬身先に決勝線へ到達していた<ref name="優駿-1992-2-150" /><ref>『優駿』1992年2月号 152頁</ref>。

4連勝、GI戴冠を果たした。1970年ロングワン、1977年[[バンブトンコート]]に次いで史上3頭目、そして牝馬として史上初めて、重賞3連勝で阪神3歳牝馬ステークス{{Efn|前身の[[阪神3歳ステークス]]は、牝馬限定ではなかった。}}優勝を成し遂げていた<ref name="優駿-1992-1-47">『優駿』1992年1月号 47頁</ref><ref name="優駿-1992-2-150">『優駿』1992年2月号 150頁</ref>。佐藤は43歳、5回目のGI級競走騎乗で1番人気を初めて背負い、JRAGI初優勝<ref name="日刊-阪神3歳牝馬S" />。また松田は、厩舎開業16年目でJRAGI初優勝<ref name="優駿-1992-1-47" />。さらに西山牧場も「名門牧場だが、驚くことにこれが初めてのGI優勝<ref name="優駿-1992-1-47" />」(『[[優駿]]』)であった。

この年の[[JRA賞]]では、[[JRA賞最優秀2歳牝馬|JRA賞最優秀3歳牝馬]]を受賞している<ref name="優駿-1992-2-7">『優駿』1992年2月号 7頁</ref>。全176票中176票を得る満票選出だった<ref name="優駿-1992-2-7" />。またフリーハンデでは、世代トップタイの「56」が与えられている<ref name="優駿-1992-2-15">『優駿』1992年2月号 15頁</ref>。「56」は同世代の牡馬、3戦3勝で[[朝日杯3歳ステークス]]を優勝した[[ミホノブルボン]]と並ぶ評価であった<ref name="優駿-1992-2-15" />。さらに牝馬による「56」は、1979年[[ラフオンテース]]{{Efn|5戦5勝、[[阪神3歳ステークス]]、[[デイリー杯3歳ステークス]]優勝<ref>{{Cite web |title=ラフオンテース|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000095765/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2023-03-23}}</ref>。}}、1985年[[ダイナアクトレス]]{{Efn|3戦3勝、[[函館3歳ステークス]](GIII)優勝<ref>{{Cite web |title=ダイナアクトレス|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000158545/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2023-03-23}}</ref>。}}の「55」を上回る評価であり、同じように4戦4勝でデイリー杯3歳ステークスと阪神3歳ステークスを制した1972年[[キシュウローレル]]と同等の評価が与えられた<ref name="優駿-1992-2-15" /><ref>{{Cite web |title=キシユウローレル|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000035645/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2023-03-23}}</ref>。

=== 4歳(1992年) ===

==== チューリップ賞 ====
クラシック初戦の桜花賞に向けた始動戦は、同じ阪神芝1600メートル、されど牝馬限定競走ではない新設重賞[[アーリントンカップ]](GIII)となることも考えられていたが<ref name="日刊-阪神3歳牝馬S" /><ref>『優駿』1992年2月号 151頁</ref>、3月15日の「桜花賞指定オープン」である[[チューリップ賞]](OP)での始動となる<ref name="優駿-1992-4-10" />。相手はアドラーブルや、[[オグリキャップ]]の妹で同じように[[笠松競馬場|笠松]]で成り上がり、兄の叶わなかったクラシック参戦を目指すオグリホワイトであり、それらは2着までに与えられる優先出走権を目指していた。しかしニシノフラワーは、賞金に余裕があるために桜花賞参戦を確定させており、ただの前哨戦に過ぎなかった<ref name="優駿-1998-5-91">『優駿』1998年5月号 91頁</ref>。それでも単勝オッズ1.2倍の1番人気という支持だった<ref name="優駿-1998-5-91" />。

スタートからいつものように先行。3番手を確保したが、直後に外側から寄られ、後退せざるを得なかった<ref name="優駿-2002-12-49" />。ワンターンを経て、最終コーナーに差し掛かり、後退した分を取り戻そうと追い上げた。しかし前方の馬たちに阻まれて、進路を失う不利を被っていた<ref name="優駿-1998-5-91" />。度重なる不利によって追い遅れ、直線では先に抜け出していたアドラーブルに独走を許した<ref name="優駿-2002-12-49" />。残り300メートルでようやく進路を見出して追い上げたが、既にアドラーブルがセーフティリードを築いていた<ref name="優駿-1998-6-88">『優駿』1998年6月号 88頁</ref>。アドラーブルに詰め寄ったものの、3馬身半及ばず2着<ref name="優駿-1998-6-88" />。初めてとなる敗北だった。

主だった敗因は、ニシノフラワーの実力不足ではなく、不利が重なったためであった。そのため敗北したものの、クラシック戦線の主役の立場が揺らぐことはなかった。途中で後退し、最終コーナーでの追い上げを狙った佐藤の騎乗は、終いまで末脚を持たすため、そして本番を見据え、馬群で落ち着いて走る経験をさせようとしたためだった<ref name="宝島-5261">『競馬裏事件史 これが真相だ!』-61頁</ref>。

しかし佐藤は、この敗戦に大きな責任を感じていた。やがて自信を喪失していた<ref name="優駿-1998-6-88" />。そして本番を前にニシノフラワーの鞍上を誰かに譲り渡すことを決意し、佐藤は自ら後任を探して、[[河内洋]]に託すことになった<ref name="優駿-1998-6-88" /><ref>『優駿』1992年6月号 137頁</ref>。河内は、これまで1986年[[メジロラモーヌ]]、1988年[[アラホウトク]]、1990年[[アグネスフローラ]]で桜花賞を制しており、桜花賞はもとより牝馬の騎乗に定評があった<ref name="優駿-1998-6-89" />。にもかかわらず、この年は騎乗馬がおらず、空いていた<ref name="優駿-1992-6-129">『優駿』1992年6月号 129頁</ref>{{Efn|河内はチューリップ賞で[[タケノベルベット]](3着)に騎乗しており、桜花賞の出走権利(2着以内)が取れれば同馬で桜花賞に騎乗予定であった<ref>『週刊100名馬』 30頁</ref>。}}。佐藤は後に「(チューリップ賞は)私のミスです。これは桜花賞に乗るのは荷が重いなと思って、交替{{ママ}}を申し出たんです<ref name="優駿-1998-6-88" />」と語っている。

==== 桜花賞 ====
4月12日、新たに河内を迎えて桜花賞(GI)に参戦する。前哨戦の敗戦は、牝馬クラシック戦線を複雑なものにし、「混戦」との報道がなされていた<ref name="優駿-1992-5-6">『優駿』1992年5月号 6頁</ref>。ニシノフラワーは、1番人気を守ったものの、筋の通った揺るぎない本命というわけではなく、単勝オッズ2.3倍だった<ref name="優駿-1998-6-89" /><ref name="優駿-1992-5-6" />。外国産馬のためシンコウラブリイは不在<ref name="優駿-2007-10-67" />、次いでサンエイサンキュー、ディスコホール、エルカーサリバー、ダンツセントー、アドラーブルが推されていた<ref>{{Cite web |title=桜花賞|1992年4月12日|url=https://db.netkeiba.com/race/199209020610/ |website=db.netkeiba.com |access-date=2023-03-18}}</ref>。河内は、佐藤から託されて「(牝馬三冠を獲得した)[[メジロラモーヌ]]以上のプレッシャー<ref>河内/加賀谷(2003) 84頁</ref>」を感じながらの参戦となる。出走10日前に調教に跨り、感触を確かめていた。当初の予定では、10日前に仕上げ、直前3日前の調教は、軽くする予定だった<ref name="優駿-1992-5-8" />。しかし10日前の河内の感触が良くなかったため、3日前も連続して強い調教を課したうえで臨んでいた<ref>『優駿』1992年6月号 82頁</ref>。当日は、松田によれば「輸送減りして<ref name="優駿-1992-6-136" />」チューリップ賞より12キログラム減少、デビュー以来最低の420キログラムでの出走となった<ref name="優駿-1992-5-8" />。{{External media|width=300px|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=XgFdoiDDDTk 1992年 桜花賞({{GI}})<br />レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画]}}

5枠9番からスタートから先行し3番手を確保<ref name="優駿-1992-5-8">『優駿』1992年5月号 8頁</ref>。しかし外側から主張する数頭に前を譲り、5、6番手を追走した<ref name="優駿-1992-5-8" />。ハイペースとなりながらワンターンに差し掛かり、第3コーナーを過ぎたところから早めに動き出した<ref name="優駿-2002-12-49">『優駿』2002年12月号 49頁</ref>。ワンターンの中間で逃げるウィーンコンサートを捉える位置まで進出し、直線に差し掛かると同時にかわして先頭となり、スパートを開始した。最終コーナーの時点で半馬身背後には、アドラーブルがいてマークされていた<ref name="優駿-1998-6-89">『優駿』1998年6月号 89頁</ref>。しかしスパートしてそのマークを振り切り、アドラーブル以下を突き放して独走となり、たちまちセーフティリードを築いていた<ref name="優駿-1992-5-8" />。終いは余力無く伸びあぐねたが、独走保って決勝線に到達する<ref name="優駿-2002-12-49" />。アドラーブルに3馬身半差をつける意趣返しを果たした<ref>『優駿』1992年6月号 138頁</ref>。

クラシック、桜花賞戴冠を成し遂げた。河内は桜花賞4勝目であり、松田や西山は、クラシック初勝利だった<ref name="優駿-1992-6-129" /><ref>『優駿』1992年5月号 9頁</ref>。最優秀3歳牝馬による桜花賞優勝は、1975年[[テスコガビー]]、1976年[[テイタニヤ]]、1986年[[メジロラモーヌ]]に次いで史上4頭目だった<ref name="優駿-1992-5-10">『優駿』1992年5月号 10頁</ref>。

==== 3連敗 ====
続いて5月24日、牝馬クラシック第二弾の優駿牝馬(オークス)(GI)に臨んだ。これまで最優秀3歳牝馬で桜花賞も制した先の3頭は、いずれも続く優駿牝馬も制して連勝し、牝馬クラシック二冠を果たしていた。この前例に則り、ニシノフラワーにも二冠が大いに期待されていた<ref name="優駿-1992-5-10" />。ただ桜花賞の後のニシノフラワーは、疲労が溜まり、食欲が失せてしまっていた<ref name="優駿-1992-6-84" /><ref name="nishino5" />。デビュー以来最低の420キログラムでの出走は、ギリギリの状態だった<ref name="優駿-1992-5-8" />。そのため陣営は、優駿牝馬参戦に向けて、主に馬体の維持を重視し、調教をいくらか加減したり対策する<ref>『優駿』1992年7月号 143頁</ref><ref name="nishino5" />。消耗を防ぐために前哨戦を用いず、直行することとなった<ref>『優駿』1992年5月号 11頁</ref>。{{External media|width=300px|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=gg_Z9WSHomI&ab_channel=JRA%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB 1992年 優駿牝馬(オークス)({{GI}})<br />レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画]}}当日、ニシノフラワーは桜花賞よりも8キログラム増やして臨んでいる<ref name="netkeiba-優駿牝馬">{{Cite web |title=優駿牝馬|1992年5月24日|url=https://db.netkeiba.com/race/199205030210/ |website=db.netkeiba.com |access-date=2023-03-18}}</ref>。しかし仕上がり途上で、完調ではない状況での参戦だった<ref name="nishino5">『忘れられない名馬100』141頁</ref>。二冠を期待して単勝オッズ3.0倍に推され、前哨戦を好走したキョウワホウセキやタイコサージュ、桜花賞組のアドラーブルやサンエイサンキューを差し置く1番人気だった<ref>『優駿』1998年6月号 90頁</ref>。スタートから先行して好位を確保<ref name="優駿-1992-7-26">『優駿』1992年7月号 26頁</ref>。最終コーナーで早めに進出して直線に入ってすぐに先頭を奪取した<ref name="優駿-1992-7-26" />。しかしそれ以降は、失速して後退した<ref>『優駿』1992年7月号 150頁</ref>。アドラーブルに優勝を許し、それに大きく後れを取る7着<ref>『優駿』1992年7月号 152頁</ref>。初めてとなる大敗で、牝馬クラシック二冠は叶わなかった<ref name="優駿-2002-12-50">『優駿』2002年12月号 50頁</ref>。

この後は、北海道の西山牧場に戻り夏休み、秋は牝馬三冠競走の最終戦であるエリザベス女王杯が目標となった<ref>『優駿』1992年9月号 37頁</ref>。秋は、エリザベス女王杯のトライアル競走であるローズステークス(GII)で始動し1番人気となった<ref name="優駿-1992-12-144">『優駿』1992年12月号 144頁</ref>。スタートから先行し2番手を追走。しかし伸びあぐねて、エルカーサリバーにかわされた<ref name="優駿-1992-12-144" />。エルカーサリバーに突き放され、おまけにサンエイサンキューやファンタジースズカにも終いでかわされる4着だった<ref>『優駿』1992年12月号 145頁</ref>。

目標は、2400メートルで行われるエリザベス女王杯だったが、陣営は距離適性を、もう少し短い距離にあると考えていた。このため適性を重視して、同時期に行われるマイルチャンピオンシップで古馬に挑戦することも選択肢の一つだった<ref name="優駿-1993-4-47">『優駿』1993年4月号 47頁</ref>。しかし翌年は出走できない方を選択していた<ref name="優駿-1993-4-47" />。当初の予定通り11月15日、本番のエリザベス女王杯(GI)に参戦していた。春に大敗した2400メートルに再び参戦となっていた<ref name="優駿-1993-4-47" />。エルカーサリバーが1番人気に対して、ニシノフラワーは6番人気の支持だった。スローペースを折り合いをつけて追走し<ref>『優駿』1993年2月号 147頁</ref>、直線に向いたが、不利もあって抜け出せず、後方から追い込んだ17番人気[[タケノベルベット]]にかわされた<ref name="優駿-2002-12-50" />。タケノベルベットに約3馬身半敵わず、[[二冠馬|牝馬二冠]]はならなかった<ref name="優駿-1998-6-91">『優駿』1998年6月号 91頁</ref>。メジロカンムリにもハナ差及ばず3着だった<ref name="優駿-1998-6-91" />。後に河内は「距離に限界があった<ref>河内/加賀谷(2003) 86頁</ref>」、松田は「典型的なマイラーだった<ref name="nishino5" />」と回顧している。

==== スプリンターズステークス ====
エリザベス女王杯を以て世代限定戦が終了し、これからは古馬との対決が強いられることになったが、陣営は、ニシノフラワーにどの進路を歩ませるのかを迷っていた。4歳のうちにもう一度出走を考えており、暮れの時期を検討していたが、どの距離帯へ参戦するかを決めかねていた。これまで長距離からマイル、そして短距離などあらゆる距離をこなしてきた。ただし適性の問題から、長距離のビッグレースでこの年のフィナーレを飾る[[有馬記念]]参戦は真っ先に選択肢から外れる<ref name="優駿-2002-12-50" />。そして選択肢に最後まで残ったのは、12月20日に行われる二つ、短距離と中距離の重賞だった<ref name="優駿-1993-2-146" />。

短距離、中山で行われて一線級の古牡馬も参戦する[[スプリンターズステークス]](GI)か、中距離、阪神で行われて牝馬限定、格も低い[[ハンデキャップ競走]]の[[阪神牝馬特別]](GIII)の二つだった。陣営はどちらに向かうか悩みに悩み、結局両方に出走登録を敢行する<ref name="優駿-2002-12-50" />。陣営自らが結論を下すのではなく、阪神牝馬特別を担当する[[ハンデキャッパー]]にその判断を委ねることになった。阪神牝馬特別で課されるハンデが55キログラム以下なら阪神牝馬特別に、56キログラム以上ならスプリンターズステークスを選択することに決めていた<ref name="優駿-2002-12-50" />。12月20日日曜日の本番が間近に迫った水曜日、阪神牝馬特別のハンデキャッパーは、ニシノフラワーに56キログラムを課す<ref name="優駿-1993-2-146" />。ハンデキャッパーの裁定が、松田を安定ではなく挑戦の道を選ぶ後押しになっていた<ref name="優駿-1993-2-146" /><ref name="優駿-1993-4-47" />。

かくして12月20日、スプリンターズステークス(GI)に参戦する。2400メートルのエリザベス女王杯から距離を半分短縮する1200メートル戦だった。中山競馬場は、この年の12月からオーバーシードを実践し、阪神などに遅れて洋芝を採用したばかり、冬でも緑色の芝の上を走れるようになっていた<ref>『優駿』1993年3月号 46頁</ref>。関西遠征は、前日までに栗東から中山への輸送を済ませ、当日を迎えるのが通常だった。しかし中山は入厩頭数制限があり、事前の競馬場入厩ができなかった<ref name="優駿-1993-2-136">『優駿』1993年2月号 136頁</ref>。そのため、栗東からいったん美浦に入厩した後、当日に競馬場に入厩してレースに挑んでいた<ref name="優駿-1993-2-136" />。

マイルチャンピオンシップ連覇中の[[ダイタクヘリオス]]や、同期の[[クリスタルカップ]]優勝馬[[サクラバクシンオー]]、[[安田記念]]優勝馬の[[ヤマニンゼファー]]、[[CBC賞]]優勝馬のユウキトップランなどが立ちはだかる16頭立てだった。そんな中、ニシノフラワーは単勝オッズ4.9倍、ダイタクヘリオスに次ぐ2番人気となる<ref>{{Cite web |title=スプリンターズS|1992年12月20日|url=https://db.netkeiba.com/race/199206050610/ |website=db.netkeiba.com |access-date=2023-03-18}}</ref>。ただしダイタクヘリオスなどの古牡馬が57キログラムを背負うのに対して、4歳牝馬のニシノフラワーは、53キログラムで負担が小さかった。負担重量で恩恵があるとはいえ、松田と河内は、距離短縮での参戦で一線級のスプリンターには、分が悪いと考えていた。そこで河内は、これまで先行策で勝利を積み重ねてきたニシノフラワーに、打って変わって後方待機策を敢行しようと決意する<ref>河内/加賀谷(2003) 86-87頁</ref>。{{External media|width=300px|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=v1I0tNFrdPA&ab_channel=JRA%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB 1992年 スプリンターズステークス({{GI}})<br />レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画]}}4枠8番からスタートしたが、2400メートルの後のスプリント戦ではペースについていくことができず、やはり後方の12番手となった<ref name="優駿-1993-2-146" />。サクラバクシンオーやユウキトップラン、ダイタクヘリオス、ヤマニンゼファーらが先手を主張して築いたハイペースを追走。後方と言えど、河内は盛んに促して、適度な前目の位置確保を試みたが、ニシノフラワーは進みが悪く、後方から脱することができないままに最終コーナーに到達していた<ref name="優駿-1993-2-146" /><ref name="優駿-1993-2-35">『優駿』1993年2月号 35頁</ref>。そして最後の直線を後方の9番手、先行するサクラバクシンオーやヤマニンゼファーと離れた位置で、かつ進路が大外しかない状態で迎えていた<ref name="優駿-2002-12-51" />。

ニシノフラワーは、大外から末脚を発揮し、追い上げていた<ref name="優駿-1993-2-146" />。前方では、最も内側からヤマニンゼファーが先頭争いを制して単独先頭となっていた<ref>『優駿』2002年7月号 56頁</ref>。ハイペースをこなした先行勢は、坂に突入して脚が止まっており、その間にニシノフラワーは徐々に差を縮めていたが、決勝線が眼前に迫っていた<ref name="優駿-2002-12-51" />。単独先頭ヤマニンゼファーは「九分九厘勝利をものにしたかと思われた<ref name="優駿-1997-11-91">『優駿』1997年11月号 91頁</ref>」(阿部珠樹)状態のリードを築いていた<ref name="優駿-1997-11-91" />。しかしニシノフラワーは、末脚で以てもう一伸びを遂げ、ヤマニンゼファーに急速に接近<ref name="優駿-1993-2-35" />。先頭を脅かすのみならず、寸前で差し切っていた<ref name="優駿-1993-2-35" />。ヤマニンゼファーよりクビ差先に決勝線通過を果たしていた<ref>『優駿』1993年2月号 148頁</ref>。

GI3勝目、スプリンターズステークスを戴冠する。GI昇格後史上初めてとなる4歳牝馬によるスプリンターズステークス優勝を成し遂げていた<ref>『優駿』2007年11月号 57頁</ref>。そして洋芝のGI3勝目だった<ref>『優駿』1993年3月号 48頁</ref>。河内は「直線は本当によく伸びてくれました。素晴らしい脚でしたね。けた違いの瞬発力のある馬<ref name="優駿-1993-2-146">『優駿』1993年2月号 146頁</ref>」だったと回顧している。
==== 強い同期の牝馬たち ====
この年のJRA賞では、[[JRA賞最優秀4歳牝馬]]並びに[[JRA賞最優秀スプリンター]]を受賞している。最優秀4歳牝馬は全176票中146票{{Efn|次点で[[タケノベルベット]]が19票、以下[[シンコウラブリイ]]4票、[[サンエイサンキュー]]3票、[[アドラーブル]]3票<ref name="優駿-1993-2-7">『優駿』1993年2月号 7頁</ref>。}}を、最優秀スプリンターは126票{{Efn|次点で[[ダイタクヘリオス]]が33票。以下、[[ヤマニンゼファー]]15票、[[シンコウラブリイ]]1票。そして該当馬なし1票<ref name="優駿-1993-2-7" />。}}を集めており、共に過半数超えであり、選考委員会の審議を必要としない自動受賞だった<ref name="優駿-1993-2-7" />。またフリーハンデでは、短距離部門で「61」、4歳馬部門で「60」が与えられている<ref name="優駿-1993-2-22">『優駿』1993年2月号 22頁</ref>。短距離の「61」は、「62」の6歳牡馬ダイタクヘリオスに次ぐ2番目、エイジアローワンスやセックスアローワンスを考えれば、世代トップの評価となった<ref name="優駿-1993-2-22" />。

さらに4歳の「60」は、同期の牡馬で[[皐月賞]]と[[東京優駿]](日本ダービー)の二冠を果たした[[ミホノブルボン]]の「65」、[[菊花賞]]を制した[[ライスシャワー]]の「61」に次いで世代3番目だった<ref name="優駿-1993-2-20">『優駿』1993年2月号 20頁</ref>。また牝馬に限定すれば世代トップの評価だった<ref name="優駿-1993-2-20" />{{Efn|つまり世代トップは、牡馬がミホノブルボン、牝馬がニシノフラワーだった。この2頭は、前年の3歳部門も世代トップであり、2年にわたって世代トップを守っている。『[[優駿]]』によれば「これは非常に稀なケース」だという。}}<ref name="優駿-1993-2-22" />。この世代の牝馬は、ニシノフラワーを始め、[[札幌記念]]を制したサンエイサンキュー、[[鳴尾記念]]を制したタケノベルベットなど古馬相手に勝利を挙げた事例が多かった<ref name="優駿-1993-2-19">『優駿』1993年2月号 19頁</ref>{{Efn|他にも、[[チェリーコウマン]]が[[ウインターステークス]]優勝、ワンモアラブウエイが[[カブトヤマ記念]]優勝した。さらに[[シンコウラブリイ]]が[[マイルチャンピオンシップ]]2着、メジロカンムリが[[府中牝馬ステークス]]2着、オークツリーが[[福島記念]]2着となるなど、古馬相手に善戦していた。}}<ref name="優駿-1993-2-136" />。また桜花賞の出走可能ボーダーも例年よりも高かった<ref name="優駿-1993-2-19" />。

このため世代牝馬全体のレベルが、[[インターグロリア]]や[[リニアクイン]]が活躍した1974年生世代に匹敵する程度の高さにあると考えられていた<ref name="優駿-1993-2-19" />。それに呼応するように、全体的な数値は高く設定され、アドラーブルやシンコウラブリイ、タケノベルベットには、直後の「59」が与えられている<ref name="優駿-1993-2-20" />。ニシノフラワーの「60」は、1986年「62」のメジロラモーヌ、1987年「61」の[[マックスビューティ]]には及ばないが、1991年「59」の[[シスタートウショウ]]には優れている、という基準を拠り所に与えられた数値だった<ref name="優駿-1993-2-19" />。

=== 5歳(1993年) ===
2月28日のマイラーズカップ(GII)で始動、ヤマニンゼファーとの再戦となる<ref>『優駿』1997年12月号 88頁</ref>。古馬となったニシノフラワーは、もうエイジアローワンスの恩恵を受けることができなくなった<ref name="優駿-1993-4-100">『優駿』1993年4月号 100頁</ref>。スプリンターズステークスでは、4キログラム差をクビ差で下して勝利していたが、今回はセックスアローワンスのみの2キログラム差に縮まっていた<ref name="優駿-1993-4-100" />。それでもニシノフラワーが支持を集めた。2.1倍の1番人気、次いで3.3倍がヤマニンゼファー、4.2倍が同期のキョウワホウセキだった<ref>{{Cite web |title=読売マイラーズカップ|1993年2月28日|url=https://db.netkeiba.com/race/199309010211/ |website=db.netkeiba.com |access-date=2023-03-19}}</ref>。{{External media|width=300px|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=UZrD5bt2rgI&ab_channel=JRA%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB 1993年 マイラーズカップ({{GII}})<br />レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画]}}3枠3番からスタートして先行。逃げる[[ナルシスノワール]]に付き従う3番手、スローペースとなっていた<ref name="優駿-1993-4-148">『優駿』1993年4月号 148頁</ref>。短距離からマイルへの距離延長に、スローペースも重なり、ニシノフラワーは掛かる場面があった。しかし河内が宥めて、折り合いをつけて追走していた<ref name="優駿-1993-4-148" />。ヤマニンゼファーは、ニシノフラワーを背後でマークしながら追走していた。このため直線では、ニシノフラワーが逃げ、ヤマニンゼファーがそれを追いかけるという、スプリンターズステークスとは正反対の展開となっていた<ref name="優駿-1993-4-100" />。

しかし直線のニシノフラワーは、ヤマニンゼファーに並びかけることを許さなかった<ref name="優駿-1993-4-100" />。スパートすればたちまち突き放し、その他大勢も千切って独走を実現する<ref name="優駿-1993-4-100" />。ヤマニンゼファーより3馬身半差先に決勝線に到達していた<ref>『優駿』1993年4月号 149頁</ref>。ヤマニンゼファーを再び下して、重賞6勝目を挙げていた<ref name="優駿-1993-4-148" />。

マイラーズカップの勝利は、陣営の自信となり、前哨戦の[[京王杯スプリングカップ]]には出走することなく、5月16日の本番、安田記念(GI)に直行する<ref>『優駿』1993年5月号 18頁</ref>。安田記念はこの年から国際競走となり、外国調教馬にも門戸を開くようになっていた<ref name="優駿-1993-7-130">『優駿』1993年7月号 130頁</ref>。初年度は、フランスのキットウッド、アメリカのロータスプールという2頭の外国調教馬を迎えており、既に千切り捨てたヤマニンゼファーやシンコウラブリイなどの他に、未知の相手との戦いを余儀なくされた。それでも外国調教馬を上回る1番人気だった<ref>『優駿』1993年7月号 37頁</ref>。

スタートから先行したが、馬群の中で掛かる様子を見せながらの追走だった<ref>『優駿』1993年7月号 40頁</ref><ref name="優駿-1993-7-130" />。そして他の馬にぶつけられる不利も被り、直線では見せ場も作ることができずに後退、ちぐはぐな競馬で10着敗退した<ref>『優駿』1993年7月号 32頁</ref><ref name="優駿-2002-12-51">『優駿』2002年12月号 51頁</ref>。ヤマニンゼファーに安田記念連覇を許した<ref name="優駿-1993-7-130" />。続いて6月13日、宝塚記念(GI)に臨み、[[メジロマックイーン]]と[[メジロパーマー]]に次ぐ3番人気だったが8着、途中で掛かって余力がなくなった<ref>『優駿』1993年7月号 45頁</ref>。夏休みは北海道の西山牧場に戻り、夏休みを過ごした<ref>『優駿』1993年9月号 50頁</ref>。{{External media|width=300px|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=5iA3FSzeZmM&ab_channel=JRA%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB 1993年 安田記念({{GI}})<br />レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画]|video2=[https://www.youtube.com/watch?v=E-cp_aomkGY&ab_channel=JRA%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB 1993年 宝塚記念({{GI}})<br />レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画]}}

秋は、10月30日の[[スワンステークス]](GII)で始動し、シンコウラブリイとの再戦となった。同期のシンコウラブリイは、阪神3歳牝馬ステークスで既に下しており、春の安田記念はニシノフラワーを下回る3番人気に過ぎなかった<ref>『優駿』2007年10月号 68頁</ref>。GII優勝、GI2着止まりでニシノフラワーよりも格下の存在だった<ref>『優駿』2007年10月号 69頁</ref>。しかしシンコウラブリイは、この一年間で6勝を挙げてすべて3着以内、ヤマニンゼファーなどを下して[[毎日王冠]]を制するなど上昇中だった。一方のニシノフラワーは、3歳時から活躍し、既に完成して伸びしろが期待できなかった<ref name="優駿-2002-12-51" />。

このスワンステークスでニシノフラワーとシンコウラブリイの力関係が逆転、ニシノフラワーはシンコウラブリイに劣る2番人気となっていた<ref>『優駿』2007年10月号 67頁</ref>。スタートから好位を進むシンコウラブリイの背後を追走し、直線で追い上げたが、抜け出したシンコウラブリイに届かなかった<ref name="優駿-1993-12-162">『優駿』1993年12月号 162頁</ref>。8歳のステイジヒーローにも先着を許す3着だった<ref name="優駿-1993-12-162" />。

続く11月21日のマイルチャンピオンシップでも、シンコウラブリイに劣る2番人気に支持されていた<ref name="優駿-2007-10-70">『優駿』2007年10月号 70頁</ref>。しかし当日は不良馬場であり、スピードに勝るニシノフラワーには不得手な舞台となっていた<ref name="優駿-2007-10-70" />。道中を折り合いをつけて追走することはできたが、第3コーナーの坂の下りからのめるような走りとなり、たちまち走る気を喪失していた<ref>『優駿』1994年1月号 150頁</ref>。終いを活かせず後退し13着だった<ref>『優駿』1994年11月号 80頁</ref><ref>『優駿』1994年1月号 50頁</ref>。これが引退レースのシンコウラブリイに戴冠を許した<ref>『優駿』2007年10月号 71頁</ref>。

そして12月19日には、スプリンターズステークスで連覇に挑んだ。安田記念で敗れたヤマニンゼファー、同期でオープン競走出走を重ねたサクラバクシンオーが立ちはだかり、それに続く3番人気だった<ref name="優駿-1994-2-32">『優駿』1994年2月号 32頁</ref><ref>『優駿』1994年2月号 140頁</ref>。上昇中のサクラバクシンオーが実績のあるニシノフラワーとヤマニンゼファーに挑む形だった<ref name="優駿-1994-2-32" />。{{External media|width=300px|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=5M3q2CwGbEo&ab_channel=JRA%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB 1993年 スプリンターズステークス({{GI}})<br />レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画]}}ニシノフラワーは中団を追走して直線でスパート<ref name="優駿-1994-2-32" />。先行するサクラバクシンオーとヤマニンゼファーを追いかけたが、2頭には及ばなかった<ref name="優駿-1994-2-32" />。ヤマニンゼファーに4分の3馬身、サクラバクシンオーに約3馬身以上後れを取る3着だった<ref>『優駿』1994年2月号 142頁</ref>。連覇の夢が潰えたのを最後に、ニシノフラワーは競走馬引退となる<ref name="優駿-2002-12-51" />。年をまたいで6歳となった翌1994年の1月9日、阪神競馬場で[[引退式]]が催行された<ref name="優駿-1994-2-62">『優駿』1994年2月号 62頁</ref>。桜花賞のときのゼッケン「9」を着用した河内が騎乗した姿がお披露目された<ref name="優駿-1994-2-62" />。

現役最終年のJRA賞では、最優秀5歳以上牝馬部門で票こそ得ているが、全171票中1票{{Efn|165票を集めた[[シンコウラブリイ]]が受賞。以下[[エルカーサリバー]]2票、[[イクノディクタス]]1票、ニシノフラワー1票。そして該当馬なし2票<ref name="優駿-1994-2-19">『優駿』1994年2月号 19頁</ref>。}}に留まり、受賞には至らなかった<ref name="優駿-1994-2-19" />。この年のフリーハンデでは、短距離部門で「59」が与えられている<ref name="優駿-1994-2-28">『優駿』1994年2月号 28頁</ref>。短距離部門では、ヤマニンゼファー、サクラバクシンオー、シンコウラブリイに次ぐ4番目の評価だった<ref name="優駿-1994-2-28" />。

== 繁殖牝馬時代 ==

=== 繁殖牝馬時代 ===

引退後は、北海道鵡川町の西山牧場で[[繁殖牝馬]]となった。初年度こそ、西山牧場が輸入した[[シェリフズスター]]と交配するも不受胎だったが、2年目からしばらく[[ブライアンズタイム]]や[[サンデーサイレンス]]、[[ラムタラ]]など名血の種牡馬と交配を続け、多数の仔を得ている<ref name="JAIRS-ニシノフラワー" />。また2002年には、1998年の[[二冠馬|クラシック二冠馬]]である[[セイウンスカイ]]と交配していた。西山は、冠名として「ニシノ」の他に「'''セイウン'''」{{Efn|西山茂行が「'''青雲'''の志」を心掛けて事業しようと考案した冠名。茂行の代から用いられるようになった<ref>『名馬を読む2』76頁</ref>。}}も用いており、西山の活躍所有馬同士による交配だった<ref>『名馬を読む2』80頁</ref>。さらに2004年には、[[シングスピール]]と交配する目的でイギリスに赴いたりもしていた<ref name="JAIRS-ニシノフラワー" />。2008年からは不受胎が続き、2011年の不受胎を最後に交配を断念し、繁殖牝馬を引退<ref name="JAIRS-ニシノフラワー" />。この後は、西山牧場で余生を過ごした<ref>{{Cite web |title=ニシノフラワーを訪ねて~西山牧場|url=https://uma-furusato.com/column/88762.html |website=uma-furusato.com |access-date=2023-03-20}}</ref>。そして2020年2月5日、北海道[[日高町 (北海道)|日高町]]の西山牧場にて[[老衰]]のため、31歳で死亡した<ref>{{Cite web |title=92年桜花賞などG1・3勝のニシノフラワー天国へ 31歳老衰に河内調教師「大往生やね」 |url=https://umatoku.hochi.co.jp/articles/20200205-OHT1T50151.html |website=スポーツ報知 |date=2020-02-06 |access-date=2023-03-20 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web |title=GI3勝ニシノフラワー死す 31歳、老衰 |url=https://race.sanspo.com/keiba/news/20200206/ope20020605000001-n1.html |website=サンスポZBAT!競馬 |date=2020-02-06 |access-date=2023-03-20 |language=ja-JP}}</ref>。{{External media|width=300px|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=TqjT_RGZ0zw&ab_channel=JRA%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB 1999年 皐月賞({{GI}})<br />レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画]}}ニシノフラワーは、2007年までに11頭の仔を遺した。うち7頭が勝利を挙げている。初仔のニシノセイリュウ(父:[[ブライアンズタイム]])は、デビュー2連勝で[[若駒ステークス]](OP)を優勝し、1999年クラシック戦線に参入。皐月賞では、[[アドマイヤベガ]]や[[ナリタトップロード]]、マイネルプラチナムに次ぐ4番人気で臨んだが、12着敗退。5番人気[[テイエムオペラオー]]に戴冠を許した<ref name="JBIS-セイリュウ" />。

続く3番仔ニシノシシオウ(父:ラムタラ)は準オープンを制してオープンクラスにまで出世<ref name="JBIS-シシオウ" />。6番仔ニシノデュー(父:ブライアンズタイム)はオープンまで出世したうえに、福島民報杯(OP)で3着となる活躍<ref name="JBIS-デュー" />。地方移籍後の2009年には、[[マイルチャンピオンシップ南部杯]](JpnI)参戦を果たしているが、[[エスポワールシチー]]に敵わなかった<ref>{{Cite web |title=競走成績:全競走成績|ニシノデュー|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000727161/record/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2023-03-20}}</ref>。
{{External media|width=300px|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=BEw773Nfxko&ab_channel=JRA%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB 2008年 マイラーズカップ({{GII}})<br />レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画]|video2=[https://www.youtube.com/watch?v=hmVyjr-Ym7M&ab_channel=JRA%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB 2008年 ヴィクトリアマイル({{JpnI}})<br />レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画]}}[[ファイル:Nishino Manamusume.jpg|サムネイル|225x225ピクセル|ニシノマナムスメ]]さらに9番仔ニシノマナムスメ(父:[[アグネスタキオン]])は、調教師に転じた河内にデビューから託されている<ref name="JBIS-マナムスメ" />。河内は、500万円以下から3連勝させてオープンクラス昇格に導いている。そして2007年の[[愛知杯]](GIII)では、[[ディアデラノビア]]に半馬身及ばず2着<ref>{{Cite web |title=愛知杯、ディアデラノビア快勝で重賞3勝目 |url=https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=25151 |website=netkeiba.com |access-date=2023-03-20 |language=ja}}</ref>。2008年の[[マイラーズカップ]](GII)では、母仔制覇がかかっていたが、[[カンパニー (競走馬)|カンパニー]]にクビ差だけ及ばず2着だった<ref>{{Cite web |title=【マイラーズC】(阪神)~カンパニーが重賞連勝|競馬実況web|競馬|ラジオNIKKEI |url=https://www.radionikkei.jp/keiba_article/news/entry-148404.html |website=ラジオNIKKEI |access-date=2023-03-20 |language=ja}}</ref>。また同年の[[ヴィクトリアマイル]](JpnI)では、[[ウオッカ (競走馬)|ウオッカ]]に次ぐ2番人気に支持されたが、[[エイジアンウインズ]]に敗れる5着だった<ref>{{Cite web |title=【ヴィクトリアマイル】(東京)~エイジアンウインズが3連勝でJpnI制覇|競馬実況web|競馬|ラジオNIKKEI |url=https://www.radionikkei.jp/keiba_article/news/entry-149734.html |website=ラジオNIKKEI |access-date=2023-03-20 |language=ja}}</ref>。重賞戦線で活躍したが、2着止まりだった<ref name="JBIS-マナムスメ" />。

このほかサンデーサイレンスの仔とイギリスで宿したシングスピールの仔の2頭が、デビューは叶わなかった<ref name="JAIRS-ニシノフラワー" />。そして残る2頭が、デビューしたものの勝利を挙げられなかった<ref name="JBIS-ミライ" /><ref name="JBIS-オフェンス" />。

=== 受け継がれる血 ===

==== 後継繁殖牝馬 ====
遺した11頭のうち、2頭の牝馬がニシノフラワーの血脈を後年に継承している。重賞2着まで上り詰めたニシノマナムスメと未勝利のニシノミライが競走馬引退後に繁殖牝馬となった。ニシノマナムスメの仔には、[[京成杯]](GIII)8着のニシノアモーレ(父:[[コンデュイット]])<ref>{{Cite web |title=ニシノアモーレ|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001187603/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2023-03-20}}</ref>、[[ダリア賞]](OP)3着のニシノベースマン(父:[[ノヴェリスト]])<ref>{{Cite web |title=ニシノベースマン|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001203615/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2023-03-20}}</ref>、[[アーリントンカップ]](GIII)4着のニシノカツナリ(父:[[ルーラーシップ]])<ref>{{Cite web |title=ニシノカツナリ|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001216435/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2023-03-20}}</ref>などが活躍した<ref name="JBIS-マナムスメ-牝系" />。[[ファイル:SeiunSky-1998-11-8.jpg|サムネイル|[[セイウンスカイ]]]]後継繁殖牝馬のもう一方のニシノミライは、先述したように西山の所有馬同士の交配で生まれた牝馬だった。ニシノミライの母ニシノフラワーは、牝馬の性質上、後継の繁殖牝馬を確保することは難しかったが、ニシノマナムスメで十分叶っていた。しかし父セイウンスカイは、種牡馬としての人気が著しく低く、後継種牡馬がいないのは当然にしても、その血を繁殖牝馬すらもなかなか生まれなかった<ref name="優駿-2018-11-89">『優駿』2018年11月号 89頁</ref>。6年間供用されたセイウンスカイの血を引く牝馬は、ニシノミライともう1頭しかいなかった<ref name="優駿-2018-11-89" />{{Efn|もう1頭はバトルバーズアイ(母:ナカミジュリアン、母父:[[モガミ]])<ref>{{Cite web |title=バトルバーズアイ|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000751456/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2023-03-20}}</ref>}}。そんなニシノフラワーとセイウンスカイの血を引くニシノミライの仔では、桜花賞のトライアル競走[[アネモネステークス]](OP)で2着となり、優先出走権を得て桜花賞12着のニシノミチシルベ(父:[[タイキシャトル]])が活躍している<ref>{{Cite web |title=ニシノミチシルベ|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001139330/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2023-03-20}}</ref><ref>{{Cite web |title=ペイシャフェリスが鮮やかに逃げ切り桜花賞への切符を獲得/アネモネS |url=https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=85150 |website=netkeiba.com |access-date=2023-03-20 |language=ja}}</ref>。

ニシノマナムスメ、ニシノミライ両名のいずれの仔にも後継繁殖牝馬がおり、ニシノフラワーの血は継承されている<ref name="JBIS-マナムスメ-牝系">{{Cite web |title=繁殖牝馬情報:牝系情報|ニシノマナムスメ|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000798787/broodmare/info/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2023-03-20}}</ref>。そしてニシノミライの子孫には、セイウンスカイの血の継承にも大きく関わっている<ref name="優駿-2018-11-89" />。

==== ニシノデイジー ====
{{競走馬血統表3代
|name={{font color||#CEF2E0|'''[[ニシノデイジー]]'''}}<ref>{{Cite web |title=血統情報:5代血統表|ニシノデイジー|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001220101/pedigree/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2023-03-20}}</ref>
|f = [[ハービンジャー]]
|ff = [[ダンシリ|Dansili]]
|fm = Penang Pearl
|fff = *[[デインヒル]]
|ffm = Hasili
|fmf = [[ベーリング (競走馬)|Bering]]
|fmm = Guapa
|m = {{font color||#CEF2E0|'''ニシノヒナギク'''}}
|mf = [[アグネスタキオン]]
|mfm = [[アグネスフローラ]]
|mff = *[[サンデーサイレンス]]
|mm = {{font color||#CEF2E0|'''ニシノミライ'''}}
|mmf = {{font color||#CEF2E0|'''[[セイウンスカイ]]'''}}
|mmm = {{font color||#CEF2E0|'''ニシノフラワー'''}}
|inf={{0|00}}{{font color||#CEF2E0|'''太字強調'''}}は、西山の所有馬。}}
[[ファイル:Nishino Daisy Nakayama Daishogai 2022(IMG2).jpg|サムネイル|213x213ピクセル|[[ニシノデイジー]]]]
この継承は、ニシノフラワーの曾孫の代で結実している。曾孫、ニシノミライ(父:セイウンスカイ)の孫にあたり、西山茂行が所有する[[ニシノデイジー]](父:[[ハービンジャー]])が活躍した<ref name="優駿-2018-11-88">『優駿』2018年11月号 88頁</ref>。2017年夏に函館でデビューし、3戦目の[[札幌2歳ステークス]](GIII)を優勝し、曾祖母ニシノフラワーと同じ重賞を制した<ref name="優駿-2018-11-88" />。そればかりか、曾祖父セイウンスカイが[[札幌記念]]を制した舞台での重賞戴冠を成し遂げていた<ref name="優駿-2018-11-89" />。{{External media|width=300px|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=AGgAi34vU3w&ab_channel=JRA%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB 2018年 ホープフルステークス(GI)<br />レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画]|video2=[https://www.youtube.com/watch?v=dIjcB-4Q1LQ&ab_channel=JRA%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB 2022年 中山大障害(J-GI)<br />レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画]}}それからニシノデイジーは、[[東京スポーツ杯2歳ステークス]](GIII)を制し、[[ホープフルステークス (中央競馬)|ホープフルステークス]](GI)では[[サートゥルナーリア (競走馬)|サートゥルナーリア]]に敗れる3着、翌2019年[[東京優駿]](日本ダービー)(GI)では[[ロジャーバローズ]]に敗れる5着となった<ref>{{Cite web |title=ニシノデイジー|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001220101/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2023-03-20}}</ref>。その後長らく低迷が続いたが、2022年に[[障害競走]]へ転向して久々の勝利を挙げ、暮れの[[中山大障害]](J-GI)を、J-GI9勝の[[オジュウチョウサン]]を下して戴冠<ref>{{Cite web |title=【中山大障害】ニシノデイジー平地重賞馬として23年ぶりV、絶対王者去った後の新時代築く|極ウマ・プレミアム |url=https://p.nikkansports.com/goku-uma/news/article.zpl?topic_id=1&id=202212240001157&year=2022&month=12&day=25 |website=p.nikkansports.com |access-date=2023-03-20 |language=ja}}</ref>。1999年[[ゴッドスピード (競走馬)|ゴッドスピード]]以来23年ぶりとなる[[平地競走|平地重賞]]優勝馬による中山大障害優勝を果たしている<ref>{{Cite web |title=【中山大障害】ニシノデイジーが23年ぶりの快挙 五十嵐「上手に乗れた」 |url=https://www.sanspo.com/race/article/general/20221225-6SXXWAC6EZKQFGSGJH4ZO6L6JU/ |website=サンスポZBAT! |date=2022-12-25 |access-date=2023-03-20 |language=ja}}</ref>。

== 競走成績 ==
以下の内容は、[[netkeiba.com]]<ref name="netrcd">{{Cite web|url= https://db.netkeiba.com/horse/result/1989107262/ |title=netkeiba ニシノフラワーの競走成績|publisher=Net Dreamers Co., Ltd.|accessdate=2019-08-20}}</ref>およびJBISサーチ<ref name="jbisrcd">{{Cite web|url= https://www.jbis.or.jp/horse/0000224549/record/ |title=ニシノフラワー 競走成績|work=JBISサーチ |publisher=公益社団法人日本軽種馬協会|accessdate=2019-08-20}}</ref>、『[[優駿]]』<ref name="優駿-2002-12-51" />の情報に基づく。
{| style="border-collapse:collapse; font-size:90%; text-align:center; white-space:nowrap"
! colspan="3" |競走日
!競馬場
!競走名
!格
!距離
(馬場)
!頭
!枠
!馬
!オッズ
人気)
!着順
!タイム
!着差
!騎手
!斤量
[kg]
!1着馬
(2着馬)
!馬体重
[kg]
|-
|-
| 1991
|[[1991年|1991]].
| {{0|0}}7.
|{{0|0}}7.
| {{0|0}}7
|{{0|0}}[[7月7日|7]]
| [[札幌競馬場|札幌]]
|[[札幌競馬場|札幌]]
| 3歳新馬
|3歳新馬
|
|
|ダ1000m(良)
| 10
| 5
|10
| 5
|5
| 4
|5
| {{0|0}}{{color|darkred|1着}}
|{{0}}6.5(4人)
|{{0|0}}{{color|darkred|1着}}
|{{0|0:}}59.8 (36.2)
| ダ1000[[メートル|m]](良)
| -0.7
| {{0|0:}}59.8 (36.2)
|[[佐藤正雄]]
|<nowiki>-0.7秒</nowiki>
|53
| [[佐藤正雄]]
| 53
| 424
|(マイネルザグレート)
|(マイネルザグレート)
|424
|-
|-
|
|
| {{0|0}}7.
|{{0|0}}7.
|[[7月28日|28]]
| 28
| 札幌
|札幌
| [[札幌3歳ステークス|札幌3歳S]]
|[[札幌3歳ステークス|札幌3歳S]]
| GIII
|GIII
|芝1200m(良)
| 14
| 1
|14
| 1
|1
| 4
|1
|10.4(4人)
| {{0|0}}{{color|darkred|1着}}
|{{0|0}}{{color|darkred|1着}}
| 芝1200m(良)
| 1:10.5 (36.4)
|1:10.5 (36.4)
| -0.6
|<nowiki>-0.6秒</nowiki>
| 佐藤正雄
|佐藤正雄
| 53
|53
|(ディスコホール)
| 424
|424
|([[ディスコホール (競走馬)|ディスコホール]])
|-
|-
|
|
| 11.
|11.
| {{0|0}}2
|{{0|0}}[[11月2日|2]]
| [[京都競馬場|京都]]
|[[京都競馬場|京都]]
| [[デイリー杯3歳ステークス|デイリー杯3歳S]]
|[[デイリー杯3歳ステークス|デイリー杯3歳S]]
| GII
|GII
|芝1400m(良)
| 10
| 8
|10
| 9
|8
| 1
|9
| {{0|0}}{{color|darkred|1着}}
|{{0}}3.5(1人)
|{{0|0}}{{color|darkred|1着}}
|1:23.2 (34.7)
| 芝1400m(良)
| -0.6
| 1:23.2 (34.7)
|[[田原成貴]]
|<nowiki>-0.6秒</nowiki>
|53
| [[田原成貴]]
|(ユートジェーン)
| 53
| 430
|430
|([[ユートジェーン]])
|-
|-
|
|
| 12.
|12.
| {{0|0}}1
|{{0|0}}[[12月1日|1]]
| [[阪神競馬場|阪神]]
|[[阪神競馬場|阪神]]
| [[阪神3歳牝馬ステークス|阪神3歳牝馬S]]
|[[阪神3歳牝馬ステークス|阪神3歳牝馬S]]
| GI
|GI
|芝1600m(良)
| 15
| 3
|15
| 4
|3
| 1
|4
| {{0|0}}{{color|darkred|1着}}
|{{0}}1.9(1人)
|{{0|0}}{{color|darkred|1着}}
|1:36.2 (36.0)
| 芝1600m(良)
| -0.1
| 1:36.2 (36.0)
|佐藤正雄
|<nowiki>-0.1秒</nowiki>
|53
| 佐藤正雄
| 53
| 424
|([[サンエイサンキュー]])
|([[サンエイサンキュー]])
|424
|-
|-
| 1992
|[[1992年|1992]].
| {{0|0}}3.
|{{0|0}}3.
|[[3月15日|15]]
| 15
| 阪神
|阪神
| [[チューリップ賞]]
|[[チューリップ賞]]
| OP
|OP
|芝1600m(稍)
| 14
| 5
|14
| 8
|5
| 1
|8
| {{0|0}}{{color|darkblue|2着}}
|{{0}}1.2(1人)
|{{0|0}}{{color|darkblue|2着}}
|1:39.1 (38.3)
| 芝1600m(稍)
|{{0|-}}0.6
| 1:39.1 (38.3)
|佐藤正雄
| {{0|-}}0.6秒
|54
| 佐藤正雄
|[[アドラーブル]]
| 54
| 432
|432
| [[アドラーブル]]
|-
|-
|
|
| {{0|0}}4.
|{{0|0}}4.
|[[4月12日|12]]
| 12
| 阪神
|阪神
| [[桜花賞]]
|[[桜花賞]]
| GI
|GI
|芝1600m(良)
| 18
| 5
|18
| 9
|5
| 1
|9
| {{0|0}}{{color|darkred|1着}}
|{{0}}2.3(1人)
|{{0|0}}{{color|darkred|1着}}
|1:37.5 (38.5)
| 芝1600m(良)
| -0.6
| 1:37.5 (38.5)
|[[河内洋]]
|<nowiki>-0.6秒</nowiki>
|55
| [[河内洋]]
| 55
| 420
|(アドラーブル)
|(アドラーブル)
|420
|-
|-
|
|
| {{0|0}}5.
|{{0|0}}5.
|[[5月24日|24]]
| 24
| [[東京競馬場|東京]]
|[[東京競馬場|東京]]
| [[優駿牝馬]]
|[[優駿牝馬]]
| GI
|GI
|芝2400m(良)
| 18
| 5
|18
| 10
|5
| 1
|10
| {{0|0}}7着
|{{0}}3.0(1人)
|{{0|0}}7着
| 芝2400m(良)
| 2:29.5 (37.1)
|2:29.5 (37.1)
| {{0|-}}0.6
|{{0|-}}0.6
| 河内洋
|河内洋
| 55
|55
|アドラーブル
| 428
|428
| アドラーブル
|-
|-
|
|
| 10.
|10.
|[[10月25日|25]]
| 25
| 京都
|京都
| [[ローズステークス|ローズS]]
|[[ローズステークス|ローズS]]
| GII
|GII
|芝2000m(良)
| 13
| 5
|13
| 8
|5
| 1
|8
| {{0|0}}4着
|{{0}}3.4(1人)
|{{0|0}}4着
| 芝2000m(良)
| 2:00.8 (36.0)
|2:00.8 (36.0)
| {{0|-}}0.6
|{{0|-}}0.6
| 河内洋
|河内洋
| 55
|55
|[[エルカーサリバー]]
| 432
|432
| [[エルカーサリバー]]
|-
|-
|
|
| 11.
|11.
|[[11月15日|15]]
| 15
| 京都
|京都
| [[エリザベス女王杯]]
|[[エリザベス女王杯]]
| GI
|GI
|芝2400m(良)
| 18
| 1
|18
| 2
|1
| 6
|2
|12.4(6人)
| {{0|0}}{{color|darkgreen|3着}}
|{{0|0}}{{color|darkgreen|3着}}
| 芝2400m(良)
| 2:27.7 (34.2)
|2:27.7 (34.2)
| {{0|-}}0.6
|{{0|-}}0.6
| 河内洋
|河内洋
| 55
|55
|[[タケノベルベット]]
| 432
|432
| [[タケノベルベット]]
|-
|-
|
|
| 12.
|12.
|[[12月20日|20]]
| 20
| [[中山競馬場|中山]]
|[[中山競馬場|中山]]
| [[スプリンターズステークス|スプリンターズS]]
|[[スプリンターズステークス|スプリンターズS]]
| GI
|GI
|芝1200m(良)
| 16
| 4
|16
| 8
|4
| 2
|8
| {{0|0}}{{color|darkred|1着}}
|{{0}}4.9(2人)
|{{0|0}}{{color|darkred|1着}}
|1:07.7 (34.1)
| 芝1200m(良)
| 1:07.7 (34.1)
| -0.1
|河内洋
|<nowiki>-0.1秒</nowiki>
|53
| 河内洋
| 53
| 432
|([[ヤマニンゼファー]])
|([[ヤマニンゼファー]])
|432
|-
|-
| 1993
|[[1993年|1993]].
| {{0|0}}2.
|{{0|0}}2.
|[[2月28日|28]]
| 28
| 阪神
|阪神
| [[マイラーズカップ|マイラーズC]]
|[[マイラーズカップ|マイラーズC]]
| GII
|GII
|芝1600m(良)
| 12
| 3
|12
| 3
|3
| 1
|3
| {{0|0}}{{color|darkred|1着}}
|{{0}}2.1(1人)
|{{0|0}}{{color|darkred|1着}}
|1:36.4 (35.6)
| 芝1600m(良)
| 1:36.4 (35.6)
| -0.6
|河内洋
|<nowiki>-0.6秒</nowiki>
|56
| 河内洋
| 56
| 434
|(ヤマニンゼファー)
|(ヤマニンゼファー)
|434
|-
|-
|
|
| {{0|0}}5.
|{{0|0}}5.
|[[5月16日|16]]
| 16
| 東京
|東京
| [[安田記念]]
|[[安田記念]]
| GI
|GI
|芝1600m(良)
| 16
| 1
|16
| 2
|1
| 1
|2
|{{0}}2.7(1人)
| 10着
|10着
| 芝1600m(良)
| 1:34.1 (35.8)
|1:34.1 (35.8)
| {{0|-}}0.6
|{{0|-}}0.6
| 河内洋
|河内洋
| 55
|55
|ヤマニンゼファー
| 430
|430
| ヤマニンゼファー
|-
|-
|
|
| {{0|0}}6.
|{{0|0}}6.
|[[6月13日|13]]
| 13
| 阪神
|阪神
| [[宝塚記念]]
|[[宝塚記念]]
| GI
|GI
|芝2200m(良)
| 11
| 6
|11
| 7
|6
| 3
|7
|14.5(3人)
| {{0|0}}8着
|{{0|0}}8着
| 芝2200m(良)
| 2:20.9 (41.2)
|2:20.9 (41.2)
| {{0|-}}3.2
|{{0|-}}3.2
| 河内洋
|河内洋
| 54
|54
|[[メジロマックイーン]]
| 424
|424
| [[メジロマックイーン]]
|-
|-
|
|
| 10.
|10.
|[[10月30日|30]]
| 30
| 京都
|京都
| [[スワンステークス|スワンS]]
|[[スワンステークス|スワンS]]
| GII
|GII
|芝1400m(重)
| 16
| 5
|16
| 10
|5
| 2
|10
| {{0|0}}{{color|darkgreen|3着}}
|{{0}}3.7(2人)
|{{0|0}}{{color|darkgreen|3着}}
|1:22.0 (35.1)
| 芝1400m(重)
| 1:22.0 (35.1)
|{{0|-}}0.1
|河内洋
| {{0|-}}0.1秒
|57
| 河内洋
|[[シンコウラブリイ]]
| 57
| 434
|434
| [[シンコウラブリイ]]
|-
|-
|
|
| 11.
|11.
|[[11月21日|21]]
| 21
| 京都
|京都
| [[マイルチャンピオンシップ|マイルCS]]
|[[マイルチャンピオンシップ|マイルCS]]
| GI
|GI
|芝1600m(良)
| 15
| 8
|15
| 14
|8
| 2
|14
|{{0}}3.6(2人)
| 13着
|13着
| 芝1600m(良)
| 1:36.6 (36.6)
|1:36.6 (36.6)
| {{0|-}}0.9
|{{0|-}}0.9
| 河内洋
|河内洋
| 55
|55
|シンコウラブリイ
| 436
|436
| シンコウラブリイ
|-
|-
|
|
| 12.
|12.
|[[12月19日|19]]
| 19
| 中山
|中山
| スプリンターズS
|スプリンターズS
| GI
|GI
|芝1200m(良)
| 14
| 2
|14
| 2
|2
| 3
|2
| {{0|0}}{{color|darkgreen|3着}}
|{{0}}5.6(3人)
|{{0|0}}{{color|darkgreen|3着}}
|1:08.4 (34.6)
| 芝1200m(良)
|{{0|-}}0.5
| 1:08.4 (34.6)
|河内洋
| {{0|-}}0.5秒
|55
| 河内洋
|[[サクラバクシンオー]]
| 55
| 436
|436
| [[サクラバクシンオー]]
|}
|}
== 繁殖成績 ==

{| class="wikitable" border="1" style="font-size: 90%"
== 繁殖牝馬として ==
!
[[繁殖牝馬]]としては、[[1999年]]に[[若駒ステークス]]を制し、同年クラシック候補にも挙げられたニシノセイリュウ、6勝を挙げたニシノデュー、[[マイラーズカップ]]など重賞で2度の2着があるニシノマナムスメを輩出している。GI・重賞に勝利した産駒は出していない。2004年には[[イギリス]]へ送られ、翌年に同地繋養の[[シングスピール]]と交配を行ったが、帰国後に誕生した牡駒は離乳後放牧中に他馬に蹴られ競走登録前に死亡した<ref>[https://ameblo.jp/nybokujo/entry-10762677087.html 西山茂行オフィシャルブログ]</ref>。
!生年

!馬名
現在8番仔のニシノミライの血統から生まれたひ孫である[[ニシノデイジー]]がJ・GⅠ[[中山大障害]]を含む重賞を3勝している。
!性

!毛色
2020年2月5日、[[老衰]]のため、繋養先である北海道日高町の西山牧場で死亡した<ref>[https://race.sanspo.com/keiba/news/20200206/ope20020605000001-n1.html GI3勝ニシノフラワー死す 31歳、老衰] - サンスポZBAT!競馬(サンケイスポーツ) 2020年2月6日</ref>。31歳没。墓は2020年5月に西山牧場(西山牧場育成センター)の[[セイウンスカイ]]の墓の隣に設置され、墓石には西山茂行の『天才少女から偉大な母へ 西山牧場を救った名牝に 感謝を込めて』という言葉が刻まれている。
!父

!馬主
=== 産駒一覧 ===
!管理調教師
[[ファイル:Nishino_Manamusume.jpg|thumb|180px|ニシノマナムスメ]]
!戦績
{| class="wikitable"
!主な成績
!供用
!出典
|-
|-
|
!&nbsp;!!生年!!馬名!!性別!!毛色!!父馬!!戦績
|1995年
|不受胎
|
|
|[[シェリフズスター]]
|
|
|
|
|
|<ref name="JAIRS-ニシノフラワー" />
|-
|-
|初仔
|初仔||[[1996年]]||ニシノセイリュウ||牡||栗毛||[[ブライアンズタイム]]||13戦3勝
|1996年
|ニシノセイリュウ
|[[牡馬|牡]]
|[[栗毛]]
|[[ブライアンズタイム]]
|[[西山牧場]]
|松田正弘(栗東)
|13戦3勝
|<small>1999年[[若駒ステークス|若駒S]](OP)優勝</small>
|抹消
|<ref name="JBIS-セイリュウ">{{Cite web |title=ニシノセイリュウ|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000308506/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2023-03-12}}</ref>
|-
|-
|2番仔
|2番仔||[[1997年]]||ニシノフラワーの97||牡||栗毛||[[サンデーサイレンス]]||(競走登録前に死亡)
|1997年
|ニシノフラワーの97
|牡
|
|[[サンデーサイレンス]]
|
|
|
|
|不出走
|<ref>{{Cite web |title=ニシノフラワーの97 |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000576302/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2023-03-12}}</ref>
|-
|-
|3番仔
|3番仔||[[1998年]]||ニシノシシオウ||牡||栗毛||[[ラムタラ]]||26戦4勝
|1998年
|ニシノシシオウ
|牡
|栗毛
|[[ラムタラ]]
|西山牧場<ref>{{Cite web |title=5R サラ系3才 新馬|2001年1月5日(金)1回京都1日|url=https://www.jbis.or.jp/race/result/20010105/108/05/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2023-03-12}}</ref><br/>→{{efn|[[西山茂行]]}}
| rowspan="2" |松田正弘(栗東)
|26戦4勝
|<small>2003年吹田特別(16下)優勝</small>
|抹消
|<ref name="JBIS-シシオウ">{{Cite web |title=ニシノシシオウ|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000324588/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2023-03-12 |language=ja |last=公益社団法人日本軽種馬協会}}</ref>
|-
|-
|4番仔
|4番仔||[[1999年]]||ニシノライメイ||牡||鹿毛||[[ダンシングブレーヴ]]||8戦2勝([[予後不良 (競馬)|競走中事故で死亡]])
|1999年
|ニシノライメイ
|牡
|鹿毛
|[[ダンシングブレーヴ]]
|西山牧場
|8戦2勝
|<small>2002年アプローズ賞(10下)2着</small>
|抹消
|<ref>{{Cite web |title=ニシノライメイ|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000620194/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2023-03-12}}</ref>
|-
|-
|5番仔
|5番仔||[[2000年]]||ニシノハーロック||牡||栗毛||[[タイキシャトル]]||87戦8勝(うち[[地方競馬|地方]]61戦6勝)
|2000年
|ニシノハーロック
|[[騸馬|騸]]
|栗毛
|[[タイキシャトル]]
|西山牧場<ref name="JBIS-ハーロック-新馬">{{Cite web |title=4R サラ系2歳 新馬|2002年11月2日(土)5回京都1日|url=https://www.jbis.or.jp/race/result/20021102/108/04/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2023-03-12}}</ref><br/>→{{efn|西山茂行<ref>{{Cite web |title=8R サラ系4歳上 500万下|2004年1月11日(日)1回京都3日|url=https://www.jbis.or.jp/race/result/20040111/108/08/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2023-03-12}}</ref><br/>→西山牧場<ref>{{Cite web |title=11R 紅葉特別 B3C1|2006年10月12日(木)6回浦和4日|url=https://www.jbis.or.jp/race/result/20061012/218/11/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2023-03-12}}</ref><br/>→[[ホースケア]]<ref name="JBIS-ハーロック-金沢">{{Cite web |title=1R サラ系一般 C46|2007年5月6日(日)3回金沢4日|url=https://www.jbis.or.jp/race/result/20070506/222/01/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2023-03-12}}</ref><br/>→酒井蔀<ref>{{Cite web |title=3R サラ系一般 C35|2007年12月23日(日)19回金沢2日|url=https://www.jbis.or.jp/race/result/20071223/222/03/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2023-03-12}}</ref><br/>→酒井幸子}}
|松田正弘(栗東)<ref name="JBIS-ハーロック-新馬" /><br/>→{{efn|[[河内洋]](栗東)<ref>{{Cite web |title=9R 日吉特別 1000万下|2006年5月21日(日)3回東京2日|url=https://www.jbis.or.jp/race/result/20060521/105/09/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2023-03-12}}</ref><br/>→内田勝義([[川崎競馬場|川崎]])<ref>{{Cite web |title=11R 紅葉特別 B3C1|2006年10月12日(木)6回浦和4日|url=https://www.jbis.or.jp/race/result/20061012/218/11/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2023-03-12}}</ref><br/>→吉井一良([[金沢競馬場|金沢]])}}
|111戦9勝
|
|抹消
|<ref>{{Cite web |title=ニシノハーロック|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000701098/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2023-03-12}}</ref>
|-
|-
|6番仔
|6番仔||[[2001年]]||ニシノデュー||牡||青鹿毛||ブライアンズタイム||50戦6勝(うち地方9戦0勝)
|2001年
|ニシノデュー
|牡
|[[青鹿毛]]
|ブライアンズタイム
|西山牧場<ref name="JBIS-デュ―-新馬">{{Cite web |title=5R サラ系2歳 新馬|2003年9月14日(日)2回札幌2日|url=https://www.jbis.or.jp/race/result/20030914/101/05/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2023-03-12}}</ref><br/>→{{efn|西山茂行<ref>{{Cite web |title=6R サラ系3歳 未勝利|2004年3月6日(土)1回阪神3日|url=https://www.jbis.or.jp/race/result/20040306/109/06/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2023-03-12}}</ref><br/>→西山牧場<ref name="JBIS-デュー-浦和">{{Cite web |title=10R ゴールドC|2009年7月1日(水)3回浦和3日|url=https://www.jbis.or.jp/race/result/20090701/218/10/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2023-03-12}}</ref><br/>→ホースケア}}
|松田正弘(栗東)<ref name="JBIS-デュ―-新馬" /><br/>→{{efn|河内洋(栗東)<ref>{{Cite web |title=10R 道頓堀S 1600万下|2006年4月1日(土)2回阪神3日|url=https://www.jbis.or.jp/race/result/20060401/109/10/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2023-03-12}}</ref><br/>→[[奥平雅士]]([[美浦トレーニングセンター|美浦]])<ref>{{Cite web |title=11R 巴賞|2008年7月13日(日)1回函館8日|url=https://www.jbis.or.jp/race/result/20080713/102/11/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2023-03-12}}</ref><br/>→内田勝義(川崎)<ref name="JBIS-デュー-浦和" /><br/>→山中輝久([[笠松競馬場|笠松]])}}
|50戦6勝
|<small>2008年福島民報杯(OP)3着</small><br/><small>など{{Efn|他に2007年都大路ステークス(OP)3着、ニューイヤーステークス(OP)3着など。主たる勝ち鞍は2006年晩春ステークス(16下)優勝。}}</small>
|抹消
|<ref name="JBIS-デュー">{{Cite web |title=ニシノデュー|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000727161/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2023-03-12}}</ref>
|-
|-
|7番仔
|7番仔||[[2002年]]||ニシノカエデマル||牡||鹿毛||[[パントルセレブル]]||23戦3勝(うち地方5戦0勝)
|2002年
|ニシノカエデマル
|牡
|鹿毛
|[[パントレセレブル]]
|西山茂行<ref name="JBIS-カエデマル-新馬">{{Cite web |title=6R サラ系3歳 新馬|2005年1月10日(月)1回京都4日|url=https://www.jbis.or.jp/race/result/20050110/108/06/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2023-03-12}}</ref><br/>→{{efn|栗原清子}}
|松田正弘(栗東)<ref name="JBIS-カエデマル-新馬" /><br/>→{{efn|[[宮本博]](栗東)<ref>{{Cite web |title=10R 利尻特別 500万下|2006年9月10日(日)2回札幌2日|url=https://www.jbis.or.jp/race/result/20060910/101/10/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2023-03-12}}</ref><br/>→冨田藤男([[浦和競馬場|浦和]])}}
|23戦3勝
|2007年西郷特別(10下)優勝
|抹消
|<ref>{{Cite web |title=ニシノカエデマル|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000742890/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2023-03-12}}</ref>
|-
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|8番仔
|8番仔||[[2003年]]||ニシノミライ||牝||鹿毛||[[セイウンスカイ]]||6戦0勝
|2003年
|ニシノミライ
|牝
|鹿毛
|[[セイウンスカイ]]
|西山茂行
|[[手塚貴久]](美浦)
|6戦0勝
|
|繁殖
|<ref name="JBIS-ミライ">{{Cite web |title=ニシノミライ|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000753633/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2023-03-12}}</ref>
|-
|-
|9番仔
|9番仔||[[2004年]]||ニシノマナムスメ||牝||青鹿毛||[[アグネスタキオン]]||22戦4勝
|2004年
|ニシノマナムスメ
|牝
|青鹿毛
|[[アグネスタキオン]]
|西山茂行
|[[河内洋]](栗東)
|22戦4勝
|2007年[[愛知杯]](GIII)2着<br/>2008年[[マイラーズカップ|マイラーズC]](GII)2着
|繁殖
|<ref name="JBIS-マナムスメ">{{Cite web |title=ニシノマナムスメ|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000798787/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2023-03-12}}</ref>
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| -
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|2005年
|(種付けせず)
|種付けせず
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|<ref name="JAIRS-ニシノフラワー" />
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|10番仔
|10番仔||[[2006年]]||ニシノフラワーの06||牡||栗毛||[[シングスピール|Singspiel]]||(競走登録前に死亡)
|2006年
|ニシノフラワーの06
|牝
|栗毛
|[[シングスピール]]
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|
|不出走
|<ref>{{Cite web |title=ニシノフラワーの06|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000999051/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2023-03-12}}</ref>
|-
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|11番仔
|11番仔||[[2007年]]||ニシノオフェンス||牡||栗毛||アグネスタキオン||7戦0勝(うち地方2戦0勝)
|2007年
|ニシノオフェンス
|騸
|栗毛
|[[アグネスタキオン]]
|西山茂行<ref name="JBIS-オフェンス-新馬">{{Cite web |title=6R サラ系3歳 新馬|2010年1月5日(火)1回京都1日|url=https://www.jbis.or.jp/race/result/20100105/108/06/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2023-03-12}}</ref><br />→{{efn|塩濱攻仁}}
|[[浅見秀一]](栗東)<ref name="JBIS-オフェンス-新馬" /><br />→{{efn|高橋道雄([[金沢競馬場|金沢]])}}
|15戦0勝
|
|抹消
|<ref name="JBIS-オフェンス">{{Cite web |title=ニシノオフェンス|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001040617/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2023-03-12}}</ref>
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| -
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|2008年
|(不受胎)
|不受胎
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|<small>[[ロックオブジブラルタル]]</small>
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|[[ロックオブジブラルタル]]
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|<ref name="JAIRS-ニシノフラワー">{{Cite web |url=https://www.studbook.jp/users/ja/Honba.php?sid=176299505 |title=ニシノフラワー(JPN) |access-date=2023-3-13 |publisher=公益財団法人 ジャパン・スタッドブック・インターナショナル |archive-url=https://web.archive.org/web/20230312061832/https://www.studbook.jp/users/ja/Honba.php?sid=176299505 |archive-date=2023-3-12}}</ref>
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|2009年
|(不受胎)
|不受胎
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|[[タニノギムレット]]
|[[タニノギムレット]]
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|<ref name="JAIRS-ニシノフラワー" />
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|2010年
|(不受胎)
|不受胎
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|[[ダイワメジャー]]
|[[ダイワメジャー]]
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|<ref name="JAIRS-ニシノフラワー" />
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|2011年
|(不受胎)
|不受胎
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|[[シンボリクリスエス]]
|[[シンボリクリスエス]]
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|<ref name="JAIRS-ニシノフラワー" />
|-
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|2012年
|種付けせず
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| rowspan="9" |<ref name="JAIRS-ニシノフラワー" />
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|2013年
|種付けせず
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|2014年
|種付けせず
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|2015年
|種付けせず
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|2016年
|種付けせず
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|2017年
|種付けせず
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|2018年
|種付けせず
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|2019年
|種付けせず
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|2020年
|種付けせず
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|}
|}


== 血統 ==
== 血統 ==
{{競走馬血統表
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|name = ニシノフラワー
|name = ニシノフラワー
501行目: 950行目:
|ref4 = [https://www.jbis.or.jp/horse/0000224549/pedigree/ JBISサーチ ニシノフラワー 5代血統表]2016年7月18日閲覧。
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}}
}}
*父Majestic Lightはアメリカで走り、[[マンノウォーステークス]]などG1競走で4勝を挙げた。産駒には[[ディアヌ賞]](フランスオークス)等を制したラコヴィア、[[コーチングクラブアメリカンオークス]]などを制した[[ライトライト|Lite Light]]など、牝馬の活躍が目立った。
*母は不出走馬だが、曾祖母The Brideはアメリカの三冠馬[[セクレタリアト|Secretariat]]の全姉であり、種牡馬として[[サーゲイロード系]]を確立した[[サーゲイロード|Sir Gaylord]]の半妹。また[[ロードカナロア]]の5代母Syrian Seaは全姉にあたる。
*祖母Fabulous Fraudの孫にマキノチーフ([[ロジータ記念]])、曾孫に[[チャームアスリープ]]([[三冠_(競馬)#3歳|南関東牝馬三冠]])がいる。

== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}

=== 注釈 ===
=== 注釈 ===
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<references group="注" />

=== 出典 ===
=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
*加賀谷修、河内洋『一生競馬』(ミデアム出版社、2003年)ISBN 978-4944001996
*加賀谷修、河内洋『一生競馬』(ミデアム出版社、2003年)ISBN 978-4944001996
*江面弘也「セイウンスカイ 西山牧場の奇跡」『名馬を読む2』(三賢社、2019年8月30日)ISBN 4908655146
*『忘れられない名馬100 - 関係者の証言で綴る、強烈な印象を残してターフを去った100頭の名馬』(学研、1997年)ISBN 978-4056013924
*『忘れられない名馬100 - 関係者の証言で綴る、強烈な印象を残してターフを去った100頭の名馬』(学研、1997年)ISBN 978-4056013924
*[[別冊宝島]]1005『競馬裏事件史 これが真相だ!』([[宝島社]]、[[2004年]])
*『[[優駿]]』1992年6月号([[日本中央競馬会]])
*『[[優駿]]』([[日本中央競馬会]])
**「[[杉本清]]の競馬談義 ゲスト西山茂行さん」
*『優駿』1992年8月号(日本中央競馬会)
** 1990年8月号
*** 「【'91ダービー、オークスをめざす3歳馬特集】札幌競馬場」
**高井克敏「'92春のGI勝ち馬の故郷 桜花賞馬の故郷・西山牧場」
** 1991年1月号
*『優駿』1998年5-6月号(日本中央競馬会)
*** 「【平成3年度競馬番組等について】3歳馬の重賞競走を一部改善します。」
**[[井口民樹]]「クラシックに咲き誇りし名花たち - ニシノフラワーVSアドラーブル」上/下
** 1991年9月号
*** 「【サマートピックス】'92クラシック戦線もスタート。北で南で、早くも話題を集める3歳馬たち」
*** 「【第26回札幌3歳ステークス】飛び出した快足娘{{ママ}}、ニシノフラワー」
*** 梶山隆平、[[柏木集保]]「げっかん評論(西)(東)」
*** 吉川彰彦「【今月の記録室】第26回農林水産省賞典 札幌3歳ステークス(GIII)ニシノフラワー」
**1992年1月号
***「【第43回阪神3歳牝馬ステークス】ニュー阪神に咲いた。速く、強い、ニシノフラワー」
***「【第26回デイリー杯3歳ステークス】向かうところ敵なし、ニシノフラワー」
***坂本忠敏([[デイリースポーツ]])「【今月の記録室】第26回デイリー杯3歳ステークス(GII)ニシノフラワー」
** 1992年2月号
*** 「【1991年度JRA賞決定】年度代表馬にトウカイテイオー」
*** 「【1991年度フリーハンデ決定】二冠馬トウカイテイオーは65キロ。」
*** 村上賢三(デイリースポーツ)「【今月の記録室】第43回農林水産省賞典 阪神3歳牝馬ステークス(GI)ニシノフラワー」
** 1992年3月号
*** 高井克敏「【近づく'92クラシック開幕】阪神3歳牝馬ステークスの勝馬 ニシノフラワー」
**1992年4月号
***三好達彦「【'92クラシック開幕】新装なった阪神競馬場・芝コースで桜花賞が変わる!?」
***「【第52回桜花賞】阪神3歳牝馬ステークスは完璧、ニシノフラワーに不安はあるのか。」
** 1992年5月号
*** 「【第52回桜花賞】ニシノフラワーには稀代の名牝の香りがした」
*** 「【第53回オークス】それでも、主役は変わらず、ニシノフラワー」
*** [[吉沢譲治]]「【'92春のGI競走 有力馬たちの父系 わかりやすい日本の種牡馬】再び大きな注目を集める ネイティヴダンサー系」
*** 梶山隆平、柏木集保「げっかん評論(西)(東)」
** 1992年6月号
*** 「【杉本清の競馬談義(87)】西山茂行さん」
*** 梶山隆平、柏木集保「げっかん評論(西)(東)」
*** 井上泰司([[スポーツニッポン]])「【今月の記録室】第52回桜花賞(GI)ニシノフラワー」
** 1992年7月号
*** 「【第53回オークス】ニシノフラワーは馬群に沈む。これはノーザンテーストの底力か アドラーブル」
*** 梶山隆平、柏木集保「げっかん評論(西)(東)」
*** 浜木俊介([[スポーツ報知|報知新聞]])「【今月の記録室】第53回オークス(優駿牝馬)(GI)アドラーブル」
** 1992年8月号
*** 高井克敏「【'92春のGI競走勝ち馬の故郷】桜花賞馬の故郷・西山牧場 "眠れる獅子"がいま目覚めた」
** 1992年9月号
*** 「【この秋注目の有力馬たちの夏】外国産馬も参戦して、エリザベス女王杯で最強4歳牝馬が決まる。」
**1992年12月号
***半澤忠之([[関西テレビ]])「【今月の記録室】第10回関西テレビ放送賞ローズステークス(GII)エリザベス女王杯トライアル エルカーサリバー」
** 1993年2月号
*** 「【1992年度JRA賞決定】年度代表馬にミホノブルボン」
*** 「【'92年度フリーハンデ決定】ミホノブルボンは高い評価で65キロ」
*** 「【第26回スプリンターズステークス】桜花賞馬・ニシノフラワーは 強い"4歳牝馬"の象徴だった」
***蔵内哲爾、柏木集保「げっかん評論(西)(東)」
*** 紺野真([[東京スポーツ]])「【今月の記録室】第26回スプリンターズステークス(GI)ニシノフラワー」
**1993年3月号
***「【誰もが知りたい競馬の一から十(九)】コースが変わった!?馬場適性が競馬を変える!?」
**1993年4月号
***畠山直毅「【スペシャルレポート】5歳牝馬は'93年を席捲するのか?」
***「【第24回マイラーズカップ】マイルの王道一直線、ニシノフラワー」
***和田伊久磨(報知新聞)「【今月の記録室】第24回読売マイラーズカップ(GII)ニシノフラワー」
**1993年5月号
***「【安田記念大特集 PART1】有力日本馬と出走予定外国馬のプロフィールを総点検!」
***[[西山茂行]]「【安田記念大特集】フラワーはステイヤーと思ってた。あの馬は母の父の血が濃いのかも。」
**1993年7月号
***「【第43回安田記念】外国馬と牝馬を従えて、ヤマニンゼファーが見せつけた日本チャンピオンマイラーの誇り」
***[[石田敏徳]]「【安田記念インサイドレポート】日本の馬は強くなったか?日本の競馬は認められたか?」
***「【皇太子殿下御成婚奉祝】第34回宝塚記念(GI)ユタカも感激の強さで、メジロマックイーン」
***吉川彰彦「【今月の記録室】第43回安田記念(GI)ヤマニンゼファー」
** 1993年9月号
*** 「【'93夏―あの話題、この話題 春に活躍した馬たちの"夏休み"】秋に雪辱を期す5歳牝馬」
**1993年12月号
***森本昭夫([[サンケイスポーツ]])「【今月の記録室】第36回スワンステークス(GII)シンコウラブリイ」
**1994年1月号
***「【第10回マイルチャンピオンシップ】GI初制覇 シンコウラブリイ 15戦10勝の成績を残し引退へ」
***末永紀元([[大阪スポーツ]])「【今月の記録室】第10回マイルチャンピオンシップ(GI)シンコウラブリイ」
**1994年2月号
***「【1993年度JRA賞決定】年度代表馬はビワハヤヒデ」
***「【'93年度フリーハンデ決定】トウカイテイオーがトップランキングの65キロ」
***「【第27回スプリンターズステークス】最優秀短距離馬をスピードで圧倒 サクラバクシンオー」
***「【今月のトピックス】ニシノフラワーら、重賞ウイナーが続々と引退」
***鈴木学(サンケイスポーツ)「【今月の記録室】第27回スプリンターズステークス(GI)サクラバクシンオー」
**1994年11月号
***横尾一彦「【サラブレッド・ヒーロー列伝(102)】愛国からのベスト・マイラー シンコウラブリイ」
**1997年11月号
***阿部珠樹「【サラブレッド・ヒーロー列伝〈レース編〉(36)】父子二代の名マイラー、ヤマニンゼファー(上)ゼネラリストへの道」
**1997年12月号
***阿部珠樹「【サラブレッド・ヒーロー列伝〈レース編〉(36)】父子二代の名マイラー、ヤマニンゼファー(下)ゼネラリストへの道」
** 1998年5月号
*** [[井口民樹]]「【サラブレッド・ヒーロー列伝〈レース編〉(41)】ニシノフラワーVSアドラーブル(上)クラシックに咲き誇り名花たち」
** 1998年6月号
*** 井口民樹「【サラブレッド・ヒーロー列伝〈レース編〉(41)】ニシノフラワーVSアドラーブル(下)クラシックに咲き誇り名花たち」
**1998年8月号
***増田英樹「【'98年春GI勝ち馬の故郷】西山牧場 古き良き時代からの前進」
** 2002年7月号
*** 井口民樹「【サラブレッド・ヒーロー列伝 20世紀を駆けた名馬たち(14)】ヤマニンゼファー 父仔二代のマイル王」
** 2002年12月号
*** 阿部珠樹「【サラブレッド・ヒロイン列伝 20世紀を駆けた名馬たち(19)】ニシノフラワー GIに三度咲いた快速牝馬」
**2007年10月号
***阿部珠樹「【サラブレッド・ヒロイン列伝(77)】シンコウラブリイ 愛国からの女神」
**2007年11月号
***「【重賞プレイバック】第41回スプリンターズステークス(GI)アストンマーチャン」
**2018年11月号
***「【重賞プレイバック】第53回農林水産省賞典 札幌2歳ステークス(GIII)ニシノデイジー」
* Gallop臨時増刊『[[週刊100名馬]]24 ニシノフラワー』[[産業経済新聞社]]、2001年8月30日


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
* {{競走馬成績|netkeiba=1989107262|yahoo=1989107262|jbis=0000224549|racingpost=704318/nishino-flower}}
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2023年4月17日 (月) 14:47時点における版

ニシノフラワー[1]
欧字表記 Nishino Flower[1]
品種 サラブレッド[1]
性別 [1]
毛色 黒鹿毛[1]
生誕 1989年4月19日[2][1]
死没 2020年2月5日(31歳没)[3]
マジェスティックライト[2][1]
デュプリシト[2][1]
母の父 ダンジグ[2][1]
生国 日本の旗 日本北海道鵡川町[1]
生産者 西山牧場[1]
生産牧場 西山牧場[4][5]
馬主 西山正行[1][5]
調教師 松田正弘(栗東[1]
調教助手 石崎修[6]
厩務員 大戸希昭[2]
石崎修(持ち乗り)[7][6]
競走成績
タイトル JRA賞最優秀3歳牝馬(1991年)
JRA賞最優秀スプリンター(1992年)
JRA賞最優秀4歳牝馬(1992年)
生涯成績 16戦7勝[1][5]
獲得賞金 4億6970万6600円[5]
勝ち鞍
GI 阪神3歳牝馬ステークス 1991年
GI 桜花賞 1992年
GI スプリンターズステークス 1992年
GII デイリー杯3歳ステークス 1991年
GII マイラーズカップ 1993年
GIII 札幌3歳ステークス 1991年
テンプレートを表示

ニシノフラワー(欧字名:Nishino Flower1989年4月19日 - 2020年2月5日)は、日本競走馬繁殖牝馬アメリカ合衆国からの持込馬である。

1991年のJRA賞最優秀3歳牝馬、1992年のJRA賞最優秀4歳牝馬及び最優秀スプリンターである。

概要

1989年4月19日、北海道鵡川町西山牧場で生産された牝馬である。父マジェスティックライト、母デュプリシト、母父ダンジグ、そして母系は、サーゲイロードセクレタリアトなどと同じだった。

オーナーブリーダーの西山牧場は、自家生産馬を大量生産、大量出走させながら、これといった大物がいなかった。そこで設備投資や人材の入れ替え、血統更新を実行していた。その改革の一環で輸入されて、西山牧場で生まれていた。栗東トレーニングセンターの松田正弘厩舎に入厩した。

3歳、1991年夏に札幌競馬場でデビューし初勝利を挙げ、続く札幌3歳ステークス(GIII)も優勝し、重賞初勝利。本州に戻って秋のデイリー杯3歳ステークス(GII)、そして阪神3歳牝馬ステークス(GI)も優勝。4連勝でGI戴冠を果たし、騎乗した佐藤正雄や、松田、西山牧場にGI初勝利をもたらした。

続いて4歳、1992年は本命視されて牝馬クラシックに参戦。前哨戦のチューリップ賞(OP)で不利など重なり、アドラーブルに敗れる2着となり、初敗戦を喫したが、佐藤が降板し河内洋と臨んだ本番の桜花賞(GI)でアドラーブルらを突き放して優勝。西山牧場にクラシック初優勝をもたらした。

同年秋には、スプリンターズステークス(GI)で年上古馬に挑戦。直線コースを大外から追い込み、抜け出していたヤマニンゼファーを寸前で差し切る逆転優勝を成し遂げ、GI昇格後初めてとなる4歳牝馬による優勝を果たした。翌5歳、1993年も出走を重ね、マイラーズカップ(GII)を優勝するなどして引退。通算成績16戦7勝、約4億7000万円を稼ぎ出した。

引退後は、西山牧場に戻って繁殖牝馬となり、重賞2着のニシノマナムスメ(父:アグネスタキオン)や、同じ西山所有馬セイウンスカイ産駒のニシノミライなどを生産。ニシノミライから血は継承され、2022年中山大障害(J-GI)を優勝したニシノデイジーの曾祖母にもなった。

デビューまで

誕生までの経緯

西山牧場

西山牧場は、北海道勇払郡鵡川町にあった競走馬生産牧場である。1966年に、冠名「シロー」などを用いる馬主西山正行が開業し、オーナーブリーダーを始めていた。日本一の面積を抱えて開業直後から急速に拡大し、三桁の繁殖牝馬を抱える大規模生産のもと運営されていた[8]。1973年には、同じように大規模生産を行い、毎年のようにリーディングブリーダーの社台ファームを上回ったこともあった。リーディング奪取は一時的だったが、社台ファームに次ぐ勢力だった[9][10]

オーナーブリーダーゆえに、自ら生産した馬――例えば牝馬は引退後、里帰りさせて繁殖牝馬にしていた。そしてその牝馬の交配相手として、外国からの種牡馬の導入にも積極的に取り組んでいた[10][11]。この2つの行動が重なると、やがて牧場の抱える血統が似た構成になっていた。独りよがりなオーナーブリーダーは、避けて通れない問題だった[10]。外国から連れてきた期待の種牡馬を妄信して、牧場の繁殖牝馬に片っ端から交配させたためだった[12]。牧場独自の血統の量産は、当てれば大きな強みになるが、外れれば揃って失敗する危険も孕んでいた[13]

翻って、競馬ファンからすれば、異端の血統を持つ存在は歓迎された。西山の所有馬は高配当を運んでくる印象が強かった[14]。しばらくの間所有したカブトシローが、1967年天皇賞(秋)を8番人気で制するなどしていた[14]。このため西山牧場の生産馬も、その印象を引き継ぎ、時折とんでもない大穴馬券をもたらすファンに夢を与える存在、あるいは梶山隆平によれば「『穴馬製造牧場』などの陰口を耳にする[15]」ような存在だった[14]

大量生産、大量出走の西山牧場において、大物は稀に出現したが、GIタイトル獲得はできなかった[10]。生産馬キョウエイグリーンやサクライワイは、スプリンターズステークス安田記念も制していたが、いずれも1970年代でグレード制導入前の出来事だった[9][10]。またニシノライデン(父:ダイコーター)は、1987年天皇賞(春)にて優勝寸前で斜行して失格となった[10][16]。さらに正行の息子で後の後継者となる西山茂行が「絶対ダービーを取れる[11]」と感じたニシノバルカン(父:ホウシュウエイト)は、1984年阪神3歳ステークスで1番人気に推されながら、レース中に骨折して競走中止、安楽死となっていた[17][11]。このようにGIタイトルには縁がなかった。そう足踏みをしている間に、生産馬の成績が悪化する[18]。そしてやがて重賞タイトルすら遠い存在になり果てていた。大レースで主役を張れるような大物も送り出せなくなり、アイアンシローが12番人気で制した1988年金杯(東)を最後に、数年間重賞優勝から見放されるようになった[13][19]

デュプリシト

そんな頃、西山茂行が牧場改革に着手する。育成段階の強化に乗り出し、新しい育成牧場を建設したり、先進的な獣医師を雇い入れたりしていた[10][18]。さらに生産段階においても、交配する種牡馬の選定に明確な基準を設けるようになり、外部の牧場の種牡馬にも交配するようになった[12]。そして繋養する繁殖牝馬の入れ替えにも取り組み、血統の更新に努めた[18]

その一環として、約2億円の予算をつぎ込み、アメリカ合衆国ケンタッキーの繁殖牝馬セールにて受胎済みの4頭を手に入れていた[20][21]。そのうちの1頭がデュプリシト(後のニシノフラワーの母)だった。デュプリシトは、既にマジェスティックライトとの仔(後のニシノフラワー)を孕んでいた。その4頭は、1988年秋の輸入を予定していたが、後にバブルとなる好景気の影響で繁殖牝馬の輸入が立て込んでおり、成田国際空港の検疫所が詰まっていた[22]。このため遅れに遅れ、1989年2月の輸入となる[20]。牧場では、隔離厩舎を設けるなどして、デュプリシトらを万全な状態で迎え入れていた[10]

デュプリシトは、アメリカで生産された父ダンジグの牝馬である。競走馬とならないままに繁殖牝馬となっていた、自ら優れた成績を残すことは叶わなかったが、良血馬だった。父ダンジグは、ノーザンダンサーの仔であり、北アメリカのリーディングサイアーだった[23]。またアメリカの名牝系に属しており、曾祖母のサムシングロイヤルは、サーゲイロード、ファーストファミリー、シリアンシー、セクレタリアトの母として知られていた[24]

そして交配されたマジェスティックライトは、アメリカで生産された父マジェスティックプリンスの牡馬だった[24]。競走馬として、1977年のマンノウォーステークスハスケルハンデキャップなどG1級競走4勝を挙げ、31戦11勝という成績を残した[24]。種牡馬としても活躍し、フランスオークスサンタラリ賞を制したラコヴィア、CCAオークスケンタッキーオークスを制したライトライト英語版など世界各地でG1級競走優勝産駒を数多く輩出していた[24]。マジェスティックライトの父系は、レイズアネイティヴ系、さらに遡ってネイティヴダンサー系だった[25]

この当時の世界は、ネアルコ系から分岐したナスルーラ系ノーザンダンサー系が拡大して主流となっていた[26]。対してネイティヴダンサー系は、傍流に過ぎなかったが、アメリカでは、1970年代にミスタープロスペクターアリダーといった大種牡馬が誕生し、徐々に失地回復を果たしていた[25][27]。日本でも同様にネアルコ系の二系統が跋扈していたが、アメリカと同じようなネイティヴダンサー系の復権は始まらなかった。ネイティヴダンサー系種牡馬が相次いで輸入されたが、大きな成功を挙げられていなかった[25]。ところが1980年代晩期に差し掛かって、オグリキャップが出現し、その風穴を開ける活躍を見せた[27]。後にこのデュプリシトに宿る仔(後のニシノフラワー)は、日本競馬におけるネイティヴダンサー系の活躍馬として、オグリキャップやリンドシェーバーに続く存在を担うことになった[25][27]

1989年4月19日、北海道鵡川町の西山牧場にて、黒鹿毛牝馬である仔(後のニシノフラワー)が誕生する。この仔は、アメリカ合衆国で交配されたものの、日本で生を受けたため、内国産の扱いを受ける持込馬に分類された[23]。ゆえに外国で生まれ輸入された外国産馬とは異なり、クラシック競走に参戦することが可能だった[23]

幼駒時代

牧場改革の滑り出しを担うことになるこの仔は、将来の牧場の基礎繁殖牝馬としての役割が主に期待されていた[22]。しかしその前に競走馬となる。オーナーブリーダーのもとで生まれたために、当然の成り行きで西山所有の競走馬となった。西山は、冠名「ニシノ」を用いて「フラワー」を組み合わせた「ニシノフラワー」という競走馬名が与えていた。

ニシノフラワーは、上述のような事情から、牧場では異色の血統、背景の持ち主であり、大きな期待を集めていた。しかし体が小さく、細身の体格だった[28][29]。西山茂行は「足の長い、大した馬じゃなかった(中略)馬格もなくて。でも筋肉はしっかりしてました[30]」と回顧している。輸入された4頭の繁殖牝馬は、日本でそれぞれ仔を産み、牧場に4頭の持込馬をもたらしたが、ニシノフラワーは、その4頭の中でも下から2番目の評価だった[29]。病気もせずに順調に育ったが、これといった良い点も挙がらず、牧場に大量にいる同期の中の平凡な1頭に過ぎなかった[31]。牧場では毎年アルバムを制作して生産馬の記録を残しており、主だった生産馬の写真を掲載していたが、目立たない平凡なニシノフラワーにその枠は与えられなかった[31]

牧場では、茂行が断行した改革の恩恵を受けている。屋根付きの馬場が新設されたおかげで、旧世代まではしていなかった冬季期間中のトレーニングをすることができた[30]。それに前々世代まではしていなかった昼夜放牧もなされた[31]。またこれまではスタッフの勘や経験を頼るところが多かったが、最新の知見を取り入れてカルテを作成するようになる。データに基づいた育成がなされていた[32]

ニシノフラワーがデビューするには、管理してくれる調教師に出会う必要があった。しかし牧場の期待とは裏腹に、調教師からの視線は冷たかった。生後1か月が経過した頃に、調教師3人が検分に訪れたが、細身の体格が敬遠されて、悉く縁がなかった[28][29]。そして4人目、ニシノフラワーの姿を見た栗東トレーニングセンター所属の調教師松田正弘が検分に訪れる。3人の調教師に続いて、管理を依頼するも、松田もまた体格を見て、引き受けを躊躇っていた[22]。松田は後に「脚ばかりヒョロッと長くて幅のない、バンビみたいな馬[33]」「くしゃみをすると、その勢いで倒れてしまいそうだった[22]」と回顧している。

しかし松田は、その姿に直感めいたものがあったという。その直感を、母父ダンジグ、皮膚が薄いという客観的事実で補強して、正当化していた[29]。これまでは牝馬を管理したがらない傾向にあったが、その不確かな直感を手掛かりにして、牝馬のニシノフラワーを引き受けることとなった[22]。松田は後に「小さな馬だったんですよ。本当に競走馬として仕上がるのかなというくらい(中略)今にして思うと、何故この馬を気に入ったのか。間違っても強烈な印象はなかった[29]」と回顧している。

ニシノフラワーは、3歳となったばかりの1991年1月[22]、もしくは3月[34]に栗東の松田厩舎に入厩する。厩舎では、大戸希昭や石崎修が厩務を担った[2][6]。石崎は、厩務員調教助手を兼ねる「持ち乗り調教助手」だった。さらに元騎手であり、1953年にタマサンで3歳戦を8連勝した過去があった[35]。タマサンは、翌1954年から「ダイナナホウシユウ」に名を改めると同時に上田三千夫に乗り替わり、クラシック二冠を達成、通算23勝を挙げて、殿堂入り候補にまで上り詰める活躍を見せていた。石崎は乗り替わりの後も、ダイナナホウシユウに調教担当として関与を継続、活躍を陰から支えた一人だった[6]。やがて騎手を引退した石崎は、調教助手となっていた。そして時が経過して、ベテラン60代に突入。そんなとき、ニシノフラワーと出会っていた[35]

牧場で平凡だったニシノフラワーが、才能の片鱗を見せ始めたのは、トレーニングセンターに入厩してからだった[36]。身長が伸びて脚はさらに長くなっていた[36]。直後から動きも良く[34]、同期で同じような過程を踏んでいたアステリアダンサー[注釈 1]と併せ馬をしたら、3馬身突き放していた[36]。早い時期の入厩で仕上がりも順調だったころから、夏の北海道開催でのデビューが決定、遠征して札幌競馬場に入厩した[20]

デビューを前に西山茂行は、ステイヤーないし「距離が延びてよくなるタイプの馬[38]」だと考えていた[38]。また松田は、高井克敏の「ニシノフラワーを人間にたとえると、どんな女性になりますか[39]」という問いにこのように答えている[39]

スタイルはいいけど、美人じゃないな。ただ根性はあるし、普段はおとなしいけど、怒ると怖いタイプ、嫁さんにするよりはキャリアウーマン向きだろうな — 松田正行[39]

競走馬時代

3歳(1991年)

札幌3歳ステークス

デビューが近づくにつれて、調教の負荷が増えていったが、脚が耐えられなかった。両前脚にソエを患って[40]、目一杯の調教ができなくなっていた。そのため、仕上がり途上でのデビューとなった[22]。当初は、第1回の札幌競馬場開催の初日、6月8日の新馬戦でデビューする予定だった[22]。しかしソエのために延期となり、第2回札幌開催の2日目、7月7日の新馬戦でデビューとなった[41]。ソエの治癒がまだ完全ではなかったために、脚元への負担が小さいダートの1000メートルに参戦した。佐藤正雄が騎乗し4番人気だった[22]。好スタートからハナを奪って逃げて、後続の接近を許さなかった。4馬身差をつけて初勝利を挙げた[22]

この後はソエが解消されるようになり、遠慮していた芝への参戦が決定する[22]。次なる出走には、9月下旬の函館3歳ステークスも検討されていた。しかし函館3歳ステークスが行われる函館競馬場は、馬場の出来が悪く、荒れている場合が多かった。そのため前倒しして、引き続き札幌に参戦する[22]。7月28日の札幌3歳ステークス(GIII)で重賞に挑んでいた。シンボリルドルフ産駒のハギノグランドールや、新潟で勝ち上がったノーザンテースト産駒のアドラーブルなどが、評判馬として立ちはだかっていた[20]

札幌競馬場の芝コースが使用され始めたのは、前年の1990年からだった[42]。芝コースで行われた初年度の3歳ステークスには、優勝したスカーレットブーケ、1番人気5着となったノーザンドライバーがいた[20]。この2頭は後に出世し、クラシック戦線でも上位に絡む活躍を見せていた。寒冷地の札幌にある芝は、冬に枯れない洋芝が主体となっていた。洋芝は反発が小さく、脚への負担が軽くなり、馬の消耗をいくらか防ぐことが可能だった[20]。また3歳夏の重賞は、優勝すれば、クラシック参戦をほとんど確定させるほどの賞金を得ることが可能だった。すなわち、少ない負担ながら、大きな便益が得られる資格を懸けた争いであった[20]

このため、クラシック戦線を展望するうえで重要な立場に成り上がっており、芝となって2年目の札幌3歳ステークスは、大きな注目を集めていた[43]。吉川彰彦によれば「『この中にダービー馬がいる!』そんな見出しで各新聞社が大いに盛りあげた[20]」のだという。しかしニシノフラワーには、注目は集まっていなかった[41]。重賞未勝利の佐藤を背負って、4番人気という信頼だった[44]

映像外部リンク
1991年 札幌3歳ステークス(GIII
レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画

最も内側の枠から好スタートを切って先行[20]。ハイペースで逃げるイイデザオウに離された好位の3番手を折り合って追走した[20][43]。最終コーナーからイイデザオウが垂れて後退すると、代わって先頭を奪取していた[20]。直線では、馬場の最も内側を突いて進出した[20]。後方勢の追い込みはなく、先頭を得てからは独走となった[43]。後方に3馬身半差をつけていた[45]

連勝、重賞初勝利となり、おまけに走破タイム1分10秒5は、コースレコードを樹立していた[45]。この勝ちっぷりは、前年優勝馬で桜花賞4着、優駿牝馬5着となったスカーレットブーケを上回るものとの評価がなされたり、桜花賞優勝候補との言説も上がり始めていた[43][46]。またデビュー23年目の佐藤に、初重賞勝利をもたらしていた[15]

佐藤は1969年にデビューして勝利を重ね、1971年には見習騎手を脱して、八大競走の一つである優駿牝馬(オークス)の騎乗を果たしていた[15]。しかも騎乗した人気薄のバンブーキャッチャを、カネヒムロ、サニーワールドに次ぐ3着に導いていた。しかしその後は恵まれず、重賞未勝利でベテランの域に突入。徐々に起用される回数が減少していた。そんな中で、クラシック候補のニシノフラワーに出会っていた[15]。重賞初勝利に佐藤は「もう勝負服を脱いでもいいくらい[20]」と述べていたという。

デイリー杯3歳ステークス

ニシノフラワーと陣営にとって、早い時期での出世は、クラシック参戦には有利だった[44]。しかし同時に能力の早熟性も証明していた。松田によれば「他馬より半年くらいはお姉さんだったからね[44]」と回顧している。そのため陣営は、早熟のアドバンテージを活かして、暮れの3歳牝馬チャンピオン決定戦である阪神3歳牝馬ステークスを目標に定めた[44]

休養を経て、栗東に帰厩。そして11月2日、阪神3歳牝馬ステークスの前哨戦としてデイリー杯3歳ステークス(GII)に、田原成貴に乗り替わって参戦する。この前週、佐藤が騎乗停止処分を受けたための代打だった。出走メンバーは「近年にない豪華な充実したメンバー[13]」(坂本忠敏)となっていた。ローカルの3歳ステークス優勝馬、札幌のほかに、函館のアトムピット、小倉のジンクタモンオー、新潟のユートジェーンが、そして各地の3歳ステークス上位陣も揃っていた[47]。そんな中でニシノフラワーは、1番人気に支持される[13]。ただし、ジンクタモンオーが感冒のために回避、フリークフィールドが登録ミスで乗り替わっている[注釈 2]など、手落ちの相手がいながらの信頼だった[13]

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1991年 デイリー杯3歳ステークス(GII
レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画

好スタートから先行したが、ハナを奪わず控えて好位を確保[44]。スローペースを追走していた[13]。ワンターンを経て、最終コーナーに差し掛かる頃に、逃げ馬に接近して2番手にまで進出した[13]。直線でスパートして先頭を奪取、残り200メートルで抜け出して突き放していた[47]。後は独走だった。後方に3馬身半差をつけて先頭で決勝線に到達していた[48]。3連勝、重賞連勝を成し遂げた[48]

阪神3歳牝馬ステークス

続いて12月1日、本番の阪神3歳牝馬ステークス(GI)に参戦する。この年は、3歳重賞に関する競馬番組改革が断行されたばかりであり、阪神3歳牝馬ステークスが初めて開催されていた。これまで、暮れに行われる3歳馬のGI競走は2つあったが、その割り当ては所属するトレーニングセンターによって大枠決まっていた。美浦所属の関東馬は中山競馬場の朝日杯3歳ステークス、栗東所属の関西馬は阪神の阪神3歳ステークスに臨むことが自然な流れであった。しかし番組改革を経て、区別が東西から性別に変わり、牡馬と騸馬には朝日杯が、そして牝馬には、阪神が割り当てられていた[49]。したがってJRA史上初めてとなる3歳牝馬によるGI競走である阪神3歳牝馬ステークスが誕生していた[50]。設けられた舞台は阪神の芝1600メートルであり、翌年のクラシック初戦・桜花賞と同じだった。

またこの開催は、阪神競馬場が改修直後だった。スタンド、そしてコースが改められていた。第3、4コーナーが緩やかになり、直線には坂が設けられていた[51]。さらに芝が緑色になっていた。冬でも枯れない洋芝も用いて、季節に囚われることなく、緑色の芝の上での競走が可能となっていた[51]。阪神3歳牝馬ステークスは、そんなリニューアルの後に初めて行われた重賞でもあった[19]

東西の15頭の牝馬が集まる中、ニシノフラワーは、1.9倍の1番人気に支持される[41]。次いで2.8倍の2番人気は、クラシック参戦不能な外国産馬であり、福島3歳ステークス優勝から臨む2戦2勝、関東馬のシンコウラブリイだった。東西が筆頭が並び立ち、それ以下はオッズが飛躍。10倍台からサンエイサンキュー、ディスコホール、ユートジェーンとなっていた。騎乗停止明けの佐藤が舞い戻り、GIに本命として参戦となる。佐藤は、19歳となる息子を競馬場に呼び寄せるなど、気合を入れて臨んでいた[52]

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1991年 阪神3歳牝馬ステークス(GI
レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画

3枠4番からスタートして先行。バックストレッチに差し掛かるあたりで外側からの圧力がかかり、進路を失ってブレーキを余儀なくされた[19]。ブレーキは、走る気溢れる馬にとっては不利であり、折り合いを欠く危険があったが、佐藤が鎮めてニシノフラワーをかかることなく走らせることができた[19]。おかげで好位、逃げるファンドリエバート、2番手のユートジェーンに次ぐ3番手を確保していた[19]

やがて最終コーナーにてファンドリエバートが垂れると、代わって抜け出したユートジェーンを追う2番手となった[50]。直線ではしばらくユートジェーンの独走となっていたが、すぐには詰め寄らなかった。直線半ばを過ぎてからスパートし、ユートジェーンをかわして抜け出した[19]。ニシノフラワーの背後には、サンエイサンキューやディスコホール、そしてシンコウラブリイがおり、後れてスパートしてニシノフラワーに迫ってきた[53]。それまで3馬身以上の差をつけて勝ち続けたニシノフラワーにとっては、初めてとなる接戦に直面したが、先頭を譲らなかった[54][50]。新設された坂を踏破し、サンエイサンキューやシンコウラブリイより4分の3馬身先に決勝線へ到達していた[19][55]

4連勝、GI戴冠を果たした。1970年ロングワン、1977年バンブトンコートに次いで史上3頭目、そして牝馬として史上初めて、重賞3連勝で阪神3歳牝馬ステークス[注釈 3]優勝を成し遂げていた[56][19]。佐藤は43歳、5回目のGI級競走騎乗で1番人気を初めて背負い、JRAGI初優勝[52]。また松田は、厩舎開業16年目でJRAGI初優勝[56]。さらに西山牧場も「名門牧場だが、驚くことにこれが初めてのGI優勝[56]」(『優駿』)であった。

この年のJRA賞では、JRA賞最優秀3歳牝馬を受賞している[57]。全176票中176票を得る満票選出だった[57]。またフリーハンデでは、世代トップタイの「56」が与えられている[58]。「56」は同世代の牡馬、3戦3勝で朝日杯3歳ステークスを優勝したミホノブルボンと並ぶ評価であった[58]。さらに牝馬による「56」は、1979年ラフオンテース[注釈 4]、1985年ダイナアクトレス[注釈 5]の「55」を上回る評価であり、同じように4戦4勝でデイリー杯3歳ステークスと阪神3歳ステークスを制した1972年キシュウローレルと同等の評価が与えられた[58][61]

4歳(1992年)

チューリップ賞

クラシック初戦の桜花賞に向けた始動戦は、同じ阪神芝1600メートル、されど牝馬限定競走ではない新設重賞アーリントンカップ(GIII)となることも考えられていたが[52][62]、3月15日の「桜花賞指定オープン」であるチューリップ賞(OP)での始動となる[23]。相手はアドラーブルや、オグリキャップの妹で同じように笠松で成り上がり、兄の叶わなかったクラシック参戦を目指すオグリホワイトであり、それらは2着までに与えられる優先出走権を目指していた。しかしニシノフラワーは、賞金に余裕があるために桜花賞参戦を確定させており、ただの前哨戦に過ぎなかった[63]。それでも単勝オッズ1.2倍の1番人気という支持だった[63]

スタートからいつものように先行。3番手を確保したが、直後に外側から寄られ、後退せざるを得なかった[64]。ワンターンを経て、最終コーナーに差し掛かり、後退した分を取り戻そうと追い上げた。しかし前方の馬たちに阻まれて、進路を失う不利を被っていた[63]。度重なる不利によって追い遅れ、直線では先に抜け出していたアドラーブルに独走を許した[64]。残り300メートルでようやく進路を見出して追い上げたが、既にアドラーブルがセーフティリードを築いていた[65]。アドラーブルに詰め寄ったものの、3馬身半及ばず2着[65]。初めてとなる敗北だった。

主だった敗因は、ニシノフラワーの実力不足ではなく、不利が重なったためであった。そのため敗北したものの、クラシック戦線の主役の立場が揺らぐことはなかった。途中で後退し、最終コーナーでの追い上げを狙った佐藤の騎乗は、終いまで末脚を持たすため、そして本番を見据え、馬群で落ち着いて走る経験をさせようとしたためだった[66]

しかし佐藤は、この敗戦に大きな責任を感じていた。やがて自信を喪失していた[65]。そして本番を前にニシノフラワーの鞍上を誰かに譲り渡すことを決意し、佐藤は自ら後任を探して、河内洋に託すことになった[65][67]。河内は、これまで1986年メジロラモーヌ、1988年アラホウトク、1990年アグネスフローラで桜花賞を制しており、桜花賞はもとより牝馬の騎乗に定評があった[68]。にもかかわらず、この年は騎乗馬がおらず、空いていた[69][注釈 6]。佐藤は後に「(チューリップ賞は)私のミスです。これは桜花賞に乗るのは荷が重いなと思って、交替〔ママ〕を申し出たんです[65]」と語っている。

桜花賞

4月12日、新たに河内を迎えて桜花賞(GI)に参戦する。前哨戦の敗戦は、牝馬クラシック戦線を複雑なものにし、「混戦」との報道がなされていた[71]。ニシノフラワーは、1番人気を守ったものの、筋の通った揺るぎない本命というわけではなく、単勝オッズ2.3倍だった[68][71]。外国産馬のためシンコウラブリイは不在[53]、次いでサンエイサンキュー、ディスコホール、エルカーサリバー、ダンツセントー、アドラーブルが推されていた[72]。河内は、佐藤から託されて「(牝馬三冠を獲得した)メジロラモーヌ以上のプレッシャー[73]」を感じながらの参戦となる。出走10日前に調教に跨り、感触を確かめていた。当初の予定では、10日前に仕上げ、直前3日前の調教は、軽くする予定だった[74]。しかし10日前の河内の感触が良くなかったため、3日前も連続して強い調教を課したうえで臨んでいた[75]。当日は、松田によれば「輸送減りして[6]」チューリップ賞より12キログラム減少、デビュー以来最低の420キログラムでの出走となった[74]

映像外部リンク
1992年 桜花賞(GI
レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画

5枠9番からスタートから先行し3番手を確保[74]。しかし外側から主張する数頭に前を譲り、5、6番手を追走した[74]。ハイペースとなりながらワンターンに差し掛かり、第3コーナーを過ぎたところから早めに動き出した[64]。ワンターンの中間で逃げるウィーンコンサートを捉える位置まで進出し、直線に差し掛かると同時にかわして先頭となり、スパートを開始した。最終コーナーの時点で半馬身背後には、アドラーブルがいてマークされていた[68]。しかしスパートしてそのマークを振り切り、アドラーブル以下を突き放して独走となり、たちまちセーフティリードを築いていた[74]。終いは余力無く伸びあぐねたが、独走保って決勝線に到達する[64]。アドラーブルに3馬身半差をつける意趣返しを果たした[76]

クラシック、桜花賞戴冠を成し遂げた。河内は桜花賞4勝目であり、松田や西山は、クラシック初勝利だった[69][77]。最優秀3歳牝馬による桜花賞優勝は、1975年テスコガビー、1976年テイタニヤ、1986年メジロラモーヌに次いで史上4頭目だった[78]

3連敗

続いて5月24日、牝馬クラシック第二弾の優駿牝馬(オークス)(GI)に臨んだ。これまで最優秀3歳牝馬で桜花賞も制した先の3頭は、いずれも続く優駿牝馬も制して連勝し、牝馬クラシック二冠を果たしていた。この前例に則り、ニシノフラワーにも二冠が大いに期待されていた[78]。ただ桜花賞の後のニシノフラワーは、疲労が溜まり、食欲が失せてしまっていた[16][79]。デビュー以来最低の420キログラムでの出走は、ギリギリの状態だった[74]。そのため陣営は、優駿牝馬参戦に向けて、主に馬体の維持を重視し、調教をいくらか加減したり対策する[80][79]。消耗を防ぐために前哨戦を用いず、直行することとなった[81]

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1992年 優駿牝馬(オークス)(GI
レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画

当日、ニシノフラワーは桜花賞よりも8キログラム増やして臨んでいる[82]。しかし仕上がり途上で、完調ではない状況での参戦だった[79]。二冠を期待して単勝オッズ3.0倍に推され、前哨戦を好走したキョウワホウセキやタイコサージュ、桜花賞組のアドラーブルやサンエイサンキューを差し置く1番人気だった[83]。スタートから先行して好位を確保[84]。最終コーナーで早めに進出して直線に入ってすぐに先頭を奪取した[84]。しかしそれ以降は、失速して後退した[85]。アドラーブルに優勝を許し、それに大きく後れを取る7着[86]。初めてとなる大敗で、牝馬クラシック二冠は叶わなかった[87]

この後は、北海道の西山牧場に戻り夏休み、秋は牝馬三冠競走の最終戦であるエリザベス女王杯が目標となった[88]。秋は、エリザベス女王杯のトライアル競走であるローズステークス(GII)で始動し1番人気となった[89]。スタートから先行し2番手を追走。しかし伸びあぐねて、エルカーサリバーにかわされた[89]。エルカーサリバーに突き放され、おまけにサンエイサンキューやファンタジースズカにも終いでかわされる4着だった[90]

目標は、2400メートルで行われるエリザベス女王杯だったが、陣営は距離適性を、もう少し短い距離にあると考えていた。このため適性を重視して、同時期に行われるマイルチャンピオンシップで古馬に挑戦することも選択肢の一つだった[91]。しかし翌年は出走できない方を選択していた[91]。当初の予定通り11月15日、本番のエリザベス女王杯(GI)に参戦していた。春に大敗した2400メートルに再び参戦となっていた[91]。エルカーサリバーが1番人気に対して、ニシノフラワーは6番人気の支持だった。スローペースを折り合いをつけて追走し[92]、直線に向いたが、不利もあって抜け出せず、後方から追い込んだ17番人気タケノベルベットにかわされた[87]。タケノベルベットに約3馬身半敵わず、牝馬二冠はならなかった[93]。メジロカンムリにもハナ差及ばず3着だった[93]。後に河内は「距離に限界があった[94]」、松田は「典型的なマイラーだった[79]」と回顧している。

スプリンターズステークス

エリザベス女王杯を以て世代限定戦が終了し、これからは古馬との対決が強いられることになったが、陣営は、ニシノフラワーにどの進路を歩ませるのかを迷っていた。4歳のうちにもう一度出走を考えており、暮れの時期を検討していたが、どの距離帯へ参戦するかを決めかねていた。これまで長距離からマイル、そして短距離などあらゆる距離をこなしてきた。ただし適性の問題から、長距離のビッグレースでこの年のフィナーレを飾る有馬記念参戦は真っ先に選択肢から外れる[87]。そして選択肢に最後まで残ったのは、12月20日に行われる二つ、短距離と中距離の重賞だった[95]

短距離、中山で行われて一線級の古牡馬も参戦するスプリンターズステークス(GI)か、中距離、阪神で行われて牝馬限定、格も低いハンデキャップ競走阪神牝馬特別(GIII)の二つだった。陣営はどちらに向かうか悩みに悩み、結局両方に出走登録を敢行する[87]。陣営自らが結論を下すのではなく、阪神牝馬特別を担当するハンデキャッパーにその判断を委ねることになった。阪神牝馬特別で課されるハンデが55キログラム以下なら阪神牝馬特別に、56キログラム以上ならスプリンターズステークスを選択することに決めていた[87]。12月20日日曜日の本番が間近に迫った水曜日、阪神牝馬特別のハンデキャッパーは、ニシノフラワーに56キログラムを課す[95]。ハンデキャッパーの裁定が、松田を安定ではなく挑戦の道を選ぶ後押しになっていた[95][91]

かくして12月20日、スプリンターズステークス(GI)に参戦する。2400メートルのエリザベス女王杯から距離を半分短縮する1200メートル戦だった。中山競馬場は、この年の12月からオーバーシードを実践し、阪神などに遅れて洋芝を採用したばかり、冬でも緑色の芝の上を走れるようになっていた[96]。関西遠征は、前日までに栗東から中山への輸送を済ませ、当日を迎えるのが通常だった。しかし中山は入厩頭数制限があり、事前の競馬場入厩ができなかった[97]。そのため、栗東からいったん美浦に入厩した後、当日に競馬場に入厩してレースに挑んでいた[97]

マイルチャンピオンシップ連覇中のダイタクヘリオスや、同期のクリスタルカップ優勝馬サクラバクシンオー安田記念優勝馬のヤマニンゼファーCBC賞優勝馬のユウキトップランなどが立ちはだかる16頭立てだった。そんな中、ニシノフラワーは単勝オッズ4.9倍、ダイタクヘリオスに次ぐ2番人気となる[98]。ただしダイタクヘリオスなどの古牡馬が57キログラムを背負うのに対して、4歳牝馬のニシノフラワーは、53キログラムで負担が小さかった。負担重量で恩恵があるとはいえ、松田と河内は、距離短縮での参戦で一線級のスプリンターには、分が悪いと考えていた。そこで河内は、これまで先行策で勝利を積み重ねてきたニシノフラワーに、打って変わって後方待機策を敢行しようと決意する[99]

映像外部リンク
1992年 スプリンターズステークス(GI
レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画

4枠8番からスタートしたが、2400メートルの後のスプリント戦ではペースについていくことができず、やはり後方の12番手となった[95]。サクラバクシンオーやユウキトップラン、ダイタクヘリオス、ヤマニンゼファーらが先手を主張して築いたハイペースを追走。後方と言えど、河内は盛んに促して、適度な前目の位置確保を試みたが、ニシノフラワーは進みが悪く、後方から脱することができないままに最終コーナーに到達していた[95][100]。そして最後の直線を後方の9番手、先行するサクラバクシンオーやヤマニンゼファーと離れた位置で、かつ進路が大外しかない状態で迎えていた[5]

ニシノフラワーは、大外から末脚を発揮し、追い上げていた[95]。前方では、最も内側からヤマニンゼファーが先頭争いを制して単独先頭となっていた[101]。ハイペースをこなした先行勢は、坂に突入して脚が止まっており、その間にニシノフラワーは徐々に差を縮めていたが、決勝線が眼前に迫っていた[5]。単独先頭ヤマニンゼファーは「九分九厘勝利をものにしたかと思われた[102]」(阿部珠樹)状態のリードを築いていた[102]。しかしニシノフラワーは、末脚で以てもう一伸びを遂げ、ヤマニンゼファーに急速に接近[100]。先頭を脅かすのみならず、寸前で差し切っていた[100]。ヤマニンゼファーよりクビ差先に決勝線通過を果たしていた[103]

GI3勝目、スプリンターズステークスを戴冠する。GI昇格後史上初めてとなる4歳牝馬によるスプリンターズステークス優勝を成し遂げていた[104]。そして洋芝のGI3勝目だった[105]。河内は「直線は本当によく伸びてくれました。素晴らしい脚でしたね。けた違いの瞬発力のある馬[95]」だったと回顧している。

強い同期の牝馬たち

この年のJRA賞では、JRA賞最優秀4歳牝馬並びにJRA賞最優秀スプリンターを受賞している。最優秀4歳牝馬は全176票中146票[注釈 7]を、最優秀スプリンターは126票[注釈 8]を集めており、共に過半数超えであり、選考委員会の審議を必要としない自動受賞だった[106]。またフリーハンデでは、短距離部門で「61」、4歳馬部門で「60」が与えられている[107]。短距離の「61」は、「62」の6歳牡馬ダイタクヘリオスに次ぐ2番目、エイジアローワンスやセックスアローワンスを考えれば、世代トップの評価となった[107]

さらに4歳の「60」は、同期の牡馬で皐月賞東京優駿(日本ダービー)の二冠を果たしたミホノブルボンの「65」、菊花賞を制したライスシャワーの「61」に次いで世代3番目だった[108]。また牝馬に限定すれば世代トップの評価だった[108][注釈 9][107]。この世代の牝馬は、ニシノフラワーを始め、札幌記念を制したサンエイサンキュー、鳴尾記念を制したタケノベルベットなど古馬相手に勝利を挙げた事例が多かった[109][注釈 10][97]。また桜花賞の出走可能ボーダーも例年よりも高かった[109]

このため世代牝馬全体のレベルが、インターグロリアリニアクインが活躍した1974年生世代に匹敵する程度の高さにあると考えられていた[109]。それに呼応するように、全体的な数値は高く設定され、アドラーブルやシンコウラブリイ、タケノベルベットには、直後の「59」が与えられている[108]。ニシノフラワーの「60」は、1986年「62」のメジロラモーヌ、1987年「61」のマックスビューティには及ばないが、1991年「59」のシスタートウショウには優れている、という基準を拠り所に与えられた数値だった[109]

5歳(1993年)

2月28日のマイラーズカップ(GII)で始動、ヤマニンゼファーとの再戦となる[110]。古馬となったニシノフラワーは、もうエイジアローワンスの恩恵を受けることができなくなった[111]。スプリンターズステークスでは、4キログラム差をクビ差で下して勝利していたが、今回はセックスアローワンスのみの2キログラム差に縮まっていた[111]。それでもニシノフラワーが支持を集めた。2.1倍の1番人気、次いで3.3倍がヤマニンゼファー、4.2倍が同期のキョウワホウセキだった[112]

映像外部リンク
1993年 マイラーズカップ(GII
レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画

3枠3番からスタートして先行。逃げるナルシスノワールに付き従う3番手、スローペースとなっていた[113]。短距離からマイルへの距離延長に、スローペースも重なり、ニシノフラワーは掛かる場面があった。しかし河内が宥めて、折り合いをつけて追走していた[113]。ヤマニンゼファーは、ニシノフラワーを背後でマークしながら追走していた。このため直線では、ニシノフラワーが逃げ、ヤマニンゼファーがそれを追いかけるという、スプリンターズステークスとは正反対の展開となっていた[111]

しかし直線のニシノフラワーは、ヤマニンゼファーに並びかけることを許さなかった[111]。スパートすればたちまち突き放し、その他大勢も千切って独走を実現する[111]。ヤマニンゼファーより3馬身半差先に決勝線に到達していた[114]。ヤマニンゼファーを再び下して、重賞6勝目を挙げていた[113]

マイラーズカップの勝利は、陣営の自信となり、前哨戦の京王杯スプリングカップには出走することなく、5月16日の本番、安田記念(GI)に直行する[115]。安田記念はこの年から国際競走となり、外国調教馬にも門戸を開くようになっていた[116]。初年度は、フランスのキットウッド、アメリカのロータスプールという2頭の外国調教馬を迎えており、既に千切り捨てたヤマニンゼファーやシンコウラブリイなどの他に、未知の相手との戦いを余儀なくされた。それでも外国調教馬を上回る1番人気だった[117]

スタートから先行したが、馬群の中で掛かる様子を見せながらの追走だった[118][116]。そして他の馬にぶつけられる不利も被り、直線では見せ場も作ることができずに後退、ちぐはぐな競馬で10着敗退した[119][5]。ヤマニンゼファーに安田記念連覇を許した[116]。続いて6月13日、宝塚記念(GI)に臨み、メジロマックイーンメジロパーマーに次ぐ3番人気だったが8着、途中で掛かって余力がなくなった[120]。夏休みは北海道の西山牧場に戻り、夏休みを過ごした[121]

映像外部リンク
1993年 安田記念(GI
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1993年 宝塚記念(GI
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秋は、10月30日のスワンステークス(GII)で始動し、シンコウラブリイとの再戦となった。同期のシンコウラブリイは、阪神3歳牝馬ステークスで既に下しており、春の安田記念はニシノフラワーを下回る3番人気に過ぎなかった[122]。GII優勝、GI2着止まりでニシノフラワーよりも格下の存在だった[123]。しかしシンコウラブリイは、この一年間で6勝を挙げてすべて3着以内、ヤマニンゼファーなどを下して毎日王冠を制するなど上昇中だった。一方のニシノフラワーは、3歳時から活躍し、既に完成して伸びしろが期待できなかった[5]

このスワンステークスでニシノフラワーとシンコウラブリイの力関係が逆転、ニシノフラワーはシンコウラブリイに劣る2番人気となっていた[124]。スタートから好位を進むシンコウラブリイの背後を追走し、直線で追い上げたが、抜け出したシンコウラブリイに届かなかった[125]。8歳のステイジヒーローにも先着を許す3着だった[125]

続く11月21日のマイルチャンピオンシップでも、シンコウラブリイに劣る2番人気に支持されていた[126]。しかし当日は不良馬場であり、スピードに勝るニシノフラワーには不得手な舞台となっていた[126]。道中を折り合いをつけて追走することはできたが、第3コーナーの坂の下りからのめるような走りとなり、たちまち走る気を喪失していた[127]。終いを活かせず後退し13着だった[128][129]。これが引退レースのシンコウラブリイに戴冠を許した[130]

そして12月19日には、スプリンターズステークスで連覇に挑んだ。安田記念で敗れたヤマニンゼファー、同期でオープン競走出走を重ねたサクラバクシンオーが立ちはだかり、それに続く3番人気だった[131][132]。上昇中のサクラバクシンオーが実績のあるニシノフラワーとヤマニンゼファーに挑む形だった[131]

映像外部リンク
1993年 スプリンターズステークス(GI
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ニシノフラワーは中団を追走して直線でスパート[131]。先行するサクラバクシンオーとヤマニンゼファーを追いかけたが、2頭には及ばなかった[131]。ヤマニンゼファーに4分の3馬身、サクラバクシンオーに約3馬身以上後れを取る3着だった[133]。連覇の夢が潰えたのを最後に、ニシノフラワーは競走馬引退となる[5]。年をまたいで6歳となった翌1994年の1月9日、阪神競馬場で引退式が催行された[134]。桜花賞のときのゼッケン「9」を着用した河内が騎乗した姿がお披露目された[134]

現役最終年のJRA賞では、最優秀5歳以上牝馬部門で票こそ得ているが、全171票中1票[注釈 11]に留まり、受賞には至らなかった[135]。この年のフリーハンデでは、短距離部門で「59」が与えられている[136]。短距離部門では、ヤマニンゼファー、サクラバクシンオー、シンコウラブリイに次ぐ4番目の評価だった[136]

繁殖牝馬時代

繁殖牝馬時代

引退後は、北海道鵡川町の西山牧場で繁殖牝馬となった。初年度こそ、西山牧場が輸入したシェリフズスターと交配するも不受胎だったが、2年目からしばらくブライアンズタイムサンデーサイレンスラムタラなど名血の種牡馬と交配を続け、多数の仔を得ている[4]。また2002年には、1998年のクラシック二冠馬であるセイウンスカイと交配していた。西山は、冠名として「ニシノ」の他に「セイウン[注釈 12]も用いており、西山の活躍所有馬同士による交配だった[138]。さらに2004年には、シングスピールと交配する目的でイギリスに赴いたりもしていた[4]。2008年からは不受胎が続き、2011年の不受胎を最後に交配を断念し、繁殖牝馬を引退[4]。この後は、西山牧場で余生を過ごした[139]。そして2020年2月5日、北海道日高町の西山牧場にて老衰のため、31歳で死亡した[140][141]

映像外部リンク
1999年 皐月賞(GI
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ニシノフラワーは、2007年までに11頭の仔を遺した。うち7頭が勝利を挙げている。初仔のニシノセイリュウ(父:ブライアンズタイム)は、デビュー2連勝で若駒ステークス(OP)を優勝し、1999年クラシック戦線に参入。皐月賞では、アドマイヤベガナリタトップロード、マイネルプラチナムに次ぐ4番人気で臨んだが、12着敗退。5番人気テイエムオペラオーに戴冠を許した[142]

続く3番仔ニシノシシオウ(父:ラムタラ)は準オープンを制してオープンクラスにまで出世[143]。6番仔ニシノデュー(父:ブライアンズタイム)はオープンまで出世したうえに、福島民報杯(OP)で3着となる活躍[144]。地方移籍後の2009年には、マイルチャンピオンシップ南部杯(JpnI)参戦を果たしているが、エスポワールシチーに敵わなかった[145]

映像外部リンク
2008年 マイラーズカップ(GII
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2008年 ヴィクトリアマイル(JpnI
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ニシノマナムスメ

さらに9番仔ニシノマナムスメ(父:アグネスタキオン)は、調教師に転じた河内にデビューから託されている[146]。河内は、500万円以下から3連勝させてオープンクラス昇格に導いている。そして2007年の愛知杯(GIII)では、ディアデラノビアに半馬身及ばず2着[147]。2008年のマイラーズカップ(GII)では、母仔制覇がかかっていたが、カンパニーにクビ差だけ及ばず2着だった[148]。また同年のヴィクトリアマイル(JpnI)では、ウオッカに次ぐ2番人気に支持されたが、エイジアンウインズに敗れる5着だった[149]。重賞戦線で活躍したが、2着止まりだった[146]

このほかサンデーサイレンスの仔とイギリスで宿したシングスピールの仔の2頭が、デビューは叶わなかった[4]。そして残る2頭が、デビューしたものの勝利を挙げられなかった[150][151]

受け継がれる血

後継繁殖牝馬

遺した11頭のうち、2頭の牝馬がニシノフラワーの血脈を後年に継承している。重賞2着まで上り詰めたニシノマナムスメと未勝利のニシノミライが競走馬引退後に繁殖牝馬となった。ニシノマナムスメの仔には、京成杯(GIII)8着のニシノアモーレ(父:コンデュイット[152]ダリア賞(OP)3着のニシノベースマン(父:ノヴェリスト[153]アーリントンカップ(GIII)4着のニシノカツナリ(父:ルーラーシップ[154]などが活躍した[155]

セイウンスカイ

後継繁殖牝馬のもう一方のニシノミライは、先述したように西山の所有馬同士の交配で生まれた牝馬だった。ニシノミライの母ニシノフラワーは、牝馬の性質上、後継の繁殖牝馬を確保することは難しかったが、ニシノマナムスメで十分叶っていた。しかし父セイウンスカイは、種牡馬としての人気が著しく低く、後継種牡馬がいないのは当然にしても、その血を繁殖牝馬すらもなかなか生まれなかった[156]。6年間供用されたセイウンスカイの血を引く牝馬は、ニシノミライともう1頭しかいなかった[156][注釈 13]。そんなニシノフラワーとセイウンスカイの血を引くニシノミライの仔では、桜花賞のトライアル競走アネモネステークス(OP)で2着となり、優先出走権を得て桜花賞12着のニシノミチシルベ(父:タイキシャトル)が活躍している[158][159]

ニシノマナムスメ、ニシノミライ両名のいずれの仔にも後継繁殖牝馬がおり、ニシノフラワーの血は継承されている[155]。そしてニシノミライの子孫には、セイウンスカイの血の継承にも大きく関わっている[156]

ニシノデイジー

ニシノデイジー[160]血統00太字強調は、西山の所有馬。
ハービンジャー
Dansili *デインヒル
Hasili
Penang Pearl Bering
Guapa
ニシノヒナギク
アグネスタキオン *サンデーサイレンス
アグネスフローラ
ニシノミライ セイウンスカイ
ニシノフラワー
ニシノデイジー

この継承は、ニシノフラワーの曾孫の代で結実している。曾孫、ニシノミライ(父:セイウンスカイ)の孫にあたり、西山茂行が所有するニシノデイジー(父:ハービンジャー)が活躍した[161]。2017年夏に函館でデビューし、3戦目の札幌2歳ステークス(GIII)を優勝し、曾祖母ニシノフラワーと同じ重賞を制した[161]。そればかりか、曾祖父セイウンスカイが札幌記念を制した舞台での重賞戴冠を成し遂げていた[156]

映像外部リンク
2018年 ホープフルステークス(GI)
レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画
2022年 中山大障害(J-GI)
レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画

それからニシノデイジーは、東京スポーツ杯2歳ステークス(GIII)を制し、ホープフルステークス(GI)ではサートゥルナーリアに敗れる3着、翌2019年東京優駿(日本ダービー)(GI)ではロジャーバローズに敗れる5着となった[162]。その後長らく低迷が続いたが、2022年に障害競走へ転向して久々の勝利を挙げ、暮れの中山大障害(J-GI)を、J-GI9勝のオジュウチョウサンを下して戴冠[163]。1999年ゴッドスピード以来23年ぶりとなる平地重賞優勝馬による中山大障害優勝を果たしている[164]

競走成績

以下の内容は、netkeiba.com[165]およびJBISサーチ[166]、『優駿[5]の情報に基づく。

競走日 競馬場 競走名 距離

(馬場)

オッズ

人気)

着順 タイム 着差 騎手 斤量

[kg]

1着馬

(2着馬)

馬体重

[kg]

1991. 07. 07 札幌 3歳新馬 ダ1000m(良) 10 5 5 06.5(4人) 01着 0:59.8 (36.2) -0.7 佐藤正雄 53 (マイネルザグレート) 424
07. 28 札幌 札幌3歳S GIII 芝1200m(良) 14 1 1 10.4(4人) 01着 1:10.5 (36.4) -0.6 佐藤正雄 53 (ディスコホール) 424
11. 02 京都 デイリー杯3歳S GII 芝1400m(良) 10 8 9 03.5(1人) 01着 1:23.2 (34.7) -0.6 田原成貴 53 (ユートジェーン) 430
12. 01 阪神 阪神3歳牝馬S GI 芝1600m(良) 15 3 4 01.9(1人) 01着 1:36.2 (36.0) -0.1 佐藤正雄 53 サンエイサンキュー 424
1992. 03. 15 阪神 チューリップ賞 OP 芝1600m(稍) 14 5 8 01.2(1人) 02着 1:39.1 (38.3) -0.6 佐藤正雄 54 アドラーブル 432
04. 12 阪神 桜花賞 GI 芝1600m(良) 18 5 9 02.3(1人) 01着 1:37.5 (38.5) -0.6 河内洋 55 (アドラーブル) 420
05. 24 東京 優駿牝馬 GI 芝2400m(良) 18 5 10 03.0(1人) 07着 2:29.5 (37.1) -0.6 河内洋 55 アドラーブル 428
10. 25 京都 ローズS GII 芝2000m(良) 13 5 8 03.4(1人) 04着 2:00.8 (36.0) -0.6 河内洋 55 エルカーサリバー 432
11. 15 京都 エリザベス女王杯 GI 芝2400m(良) 18 1 2 12.4(6人) 03着 2:27.7 (34.2) -0.6 河内洋 55 タケノベルベット 432
12. 20 中山 スプリンターズS GI 芝1200m(良) 16 4 8 04.9(2人) 01着 1:07.7 (34.1) -0.1 河内洋 53 ヤマニンゼファー 432
1993. 02. 28 阪神 マイラーズC GII 芝1600m(良) 12 3 3 02.1(1人) 01着 1:36.4 (35.6) -0.6 河内洋 56 (ヤマニンゼファー) 434
05. 16 東京 安田記念 GI 芝1600m(良) 16 1 2 02.7(1人) 10着 1:34.1 (35.8) -0.6 河内洋 55 ヤマニンゼファー 430
06. 13 阪神 宝塚記念 GI 芝2200m(良) 11 6 7 14.5(3人) 08着 2:20.9 (41.2) -3.2 河内洋 54 メジロマックイーン 424
10. 30 京都 スワンS GII 芝1400m(重) 16 5 10 03.7(2人) 03着 1:22.0 (35.1) -0.1 河内洋 57 シンコウラブリイ 434
11. 21 京都 マイルCS GI 芝1600m(良) 15 8 14 03.6(2人) 13着 1:36.6 (36.6) -0.9 河内洋 55 シンコウラブリイ 436
12. 19 中山 スプリンターズS GI 芝1200m(良) 14 2 2 05.6(3人) 03着 1:08.4 (34.6) -0.5 河内洋 55 サクラバクシンオー 436

繁殖成績

生年 馬名 毛色 馬主 管理調教師 戦績 主な成績 供用 出典
1995年 不受胎 シェリフズスター [4]
初仔 1996年 ニシノセイリュウ 栗毛 ブライアンズタイム 西山牧場 松田正弘(栗東) 13戦3勝 1999年若駒S(OP)優勝 抹消 [142]
2番仔 1997年 ニシノフラワーの97 サンデーサイレンス 不出走 [167]
3番仔 1998年 ニシノシシオウ 栗毛 ラムタラ 西山牧場[168]
[注釈 14]
松田正弘(栗東) 26戦4勝 2003年吹田特別(16下)優勝 抹消 [143]
4番仔 1999年 ニシノライメイ 鹿毛 ダンシングブレーヴ 西山牧場 8戦2勝 2002年アプローズ賞(10下)2着 抹消 [169]
5番仔 2000年 ニシノハーロック 栗毛 タイキシャトル 西山牧場[170]
[注釈 15]
松田正弘(栗東)[170]
[注釈 16]
111戦9勝 抹消 [177]
6番仔 2001年 ニシノデュー 青鹿毛 ブライアンズタイム 西山牧場[178]
[注釈 17]
松田正弘(栗東)[178]
[注釈 18]
50戦6勝 2008年福島民報杯(OP)3着
など[注釈 19]
抹消 [144]
7番仔 2002年 ニシノカエデマル 鹿毛 パントレセレブル 西山茂行[183]
[注釈 20]
松田正弘(栗東)[183]
[注釈 21]
23戦3勝 2007年西郷特別(10下)優勝 抹消 [185]
8番仔 2003年 ニシノミライ 鹿毛 セイウンスカイ 西山茂行 手塚貴久(美浦) 6戦0勝 繁殖 [150]
9番仔 2004年 ニシノマナムスメ 青鹿毛 アグネスタキオン 西山茂行 河内洋(栗東) 22戦4勝 2007年愛知杯(GIII)2着
2008年マイラーズC(GII)2着
繁殖 [146]
2005年 種付けせず [4]
10番仔 2006年 ニシノフラワーの06 栗毛 シングスピール 不出走 [186]
11番仔 2007年 ニシノオフェンス 栗毛 アグネスタキオン 西山茂行[187]
[注釈 22]
浅見秀一(栗東)[187]
[注釈 23]
15戦0勝 抹消 [151]
2008年 不受胎 ロックオブジブラルタル [4]
2009年 不受胎 タニノギムレット [4]
2010年 不受胎 ダイワメジャー [4]
2011年 不受胎 シンボリクリスエス [4]
2012年 種付けせず [4]
2013年 種付けせず
2014年 種付けせず
2015年 種付けせず
2016年 種付けせず
2017年 種付けせず
2018年 種付けせず
2019年 種付けせず
2020年 種付けせず

血統

ニシノフラワー血統 (血統表の出典)[§ 1]
父系 レイズアネイティヴ系
[§ 2]

Majestic Light
1973 鹿毛
父の父
Majestic Prince
1966 栗毛
Raise a Native Native Dancer
Raise You
Gay Hostess Royal Charger
Your Hostess
父の母
Irradiate
1966 芦毛
Ribot Tenerani
Romanella
High Voltage Ambiorix
Dynamo

*デュプリシト
Duplicit
1985 鹿毛
Danzig
1977 鹿毛
Northern Dancer Nearctic
Natalma
Pas de Nom Admiral's Voyage
Petitioner
母の母
Fabulous Fraud
1974 鹿毛
Le Fabuleux Wild Risk
Anguar
The Bride Bold Ruler
Somethingroyal
母系(F-No.) Somethingroyal系(FN:2-s) [§ 3]
5代内の近親交配 Native Dancer4×5、Nearco5×5 [§ 4]
出典
  1. ^ JBISサーチ ニシノフラワー 5代血統表2016年7月18日閲覧。
  2. ^ netkeiba.com ニシノフラワー 5代血統表2016年7月18日閲覧。
  3. ^ [188]
  4. ^ JBISサーチ ニシノフラワー 5代血統表2016年7月18日閲覧。

脚注

注釈

  1. ^ ノーザンディクテイター、母父ダンサーズイメージ、1968年桜花賞並びに優駿牝馬(オークス)3着のマルシゲの孫にあたる牡馬である。同じく佐藤が騎乗してデビューし2戦目で初勝利、函館スプリントステークス(GIII)では5着となった。中央競馬でしばらく走り、1995年山城特別(900万円以下)優勝まで出世した。南関東公営競馬に移籍しても活躍した。中央地方併せて通算成績70戦5勝[37]
  2. ^ 安田隆行が騎乗する予定だったが、ミスにより田島信行に乗り替わって参戦していた[13]
  3. ^ 前身の阪神3歳ステークスは、牝馬限定ではなかった。
  4. ^ 5戦5勝、阪神3歳ステークスデイリー杯3歳ステークス優勝[59]
  5. ^ 3戦3勝、函館3歳ステークス(GIII)優勝[60]
  6. ^ 河内はチューリップ賞でタケノベルベット(3着)に騎乗しており、桜花賞の出走権利(2着以内)が取れれば同馬で桜花賞に騎乗予定であった[70]
  7. ^ 次点でタケノベルベットが19票、以下シンコウラブリイ4票、サンエイサンキュー3票、アドラーブル3票[106]
  8. ^ 次点でダイタクヘリオスが33票。以下、ヤマニンゼファー15票、シンコウラブリイ1票。そして該当馬なし1票[106]
  9. ^ つまり世代トップは、牡馬がミホノブルボン、牝馬がニシノフラワーだった。この2頭は、前年の3歳部門も世代トップであり、2年にわたって世代トップを守っている。『優駿』によれば「これは非常に稀なケース」だという。
  10. ^ 他にも、チェリーコウマンウインターステークス優勝、ワンモアラブウエイがカブトヤマ記念優勝した。さらにシンコウラブリイマイルチャンピオンシップ2着、メジロカンムリが府中牝馬ステークス2着、オークツリーが福島記念2着となるなど、古馬相手に善戦していた。
  11. ^ 165票を集めたシンコウラブリイが受賞。以下エルカーサリバー2票、イクノディクタス1票、ニシノフラワー1票。そして該当馬なし2票[135]
  12. ^ 西山茂行が「青雲の志」を心掛けて事業しようと考案した冠名。茂行の代から用いられるようになった[137]
  13. ^ もう1頭はバトルバーズアイ(母:ナカミジュリアン、母父:モガミ[157]
  14. ^ 西山茂行
  15. ^ 西山茂行[171]
    →西山牧場[172]
    ホースケア[173]
    →酒井蔀[174]
    →酒井幸子
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  • 優駿』(日本中央競馬会
    • 1990年8月号
      • 「【'91ダービー、オークスをめざす3歳馬特集】札幌競馬場」
    • 1991年1月号
      • 「【平成3年度競馬番組等について】3歳馬の重賞競走を一部改善します。」
    • 1991年9月号
      • 「【サマートピックス】'92クラシック戦線もスタート。北で南で、早くも話題を集める3歳馬たち」
      • 「【第26回札幌3歳ステークス】飛び出した快足娘〔ママ〕、ニシノフラワー」
      • 梶山隆平、柏木集保「げっかん評論(西)(東)」
      • 吉川彰彦「【今月の記録室】第26回農林水産省賞典 札幌3歳ステークス(GIII)ニシノフラワー」
    • 1992年1月号
      • 「【第43回阪神3歳牝馬ステークス】ニュー阪神に咲いた。速く、強い、ニシノフラワー」
      • 「【第26回デイリー杯3歳ステークス】向かうところ敵なし、ニシノフラワー」
      • 坂本忠敏(デイリースポーツ)「【今月の記録室】第26回デイリー杯3歳ステークス(GII)ニシノフラワー」
    • 1992年2月号
      • 「【1991年度JRA賞決定】年度代表馬にトウカイテイオー」
      • 「【1991年度フリーハンデ決定】二冠馬トウカイテイオーは65キロ。」
      • 村上賢三(デイリースポーツ)「【今月の記録室】第43回農林水産省賞典 阪神3歳牝馬ステークス(GI)ニシノフラワー」
    • 1992年3月号
      • 高井克敏「【近づく'92クラシック開幕】阪神3歳牝馬ステークスの勝馬 ニシノフラワー」
    • 1992年4月号
      • 三好達彦「【'92クラシック開幕】新装なった阪神競馬場・芝コースで桜花賞が変わる!?」
      • 「【第52回桜花賞】阪神3歳牝馬ステークスは完璧、ニシノフラワーに不安はあるのか。」
    • 1992年5月号
      • 「【第52回桜花賞】ニシノフラワーには稀代の名牝の香りがした」
      • 「【第53回オークス】それでも、主役は変わらず、ニシノフラワー」
      • 吉沢譲治「【'92春のGI競走 有力馬たちの父系 わかりやすい日本の種牡馬】再び大きな注目を集める ネイティヴダンサー系」
      • 梶山隆平、柏木集保「げっかん評論(西)(東)」
    • 1992年6月号
      • 「【杉本清の競馬談義(87)】西山茂行さん」
      • 梶山隆平、柏木集保「げっかん評論(西)(東)」
      • 井上泰司(スポーツニッポン)「【今月の記録室】第52回桜花賞(GI)ニシノフラワー」
    • 1992年7月号
      • 「【第53回オークス】ニシノフラワーは馬群に沈む。これはノーザンテーストの底力か アドラーブル」
      • 梶山隆平、柏木集保「げっかん評論(西)(東)」
      • 浜木俊介(報知新聞)「【今月の記録室】第53回オークス(優駿牝馬)(GI)アドラーブル」
    • 1992年8月号
      • 高井克敏「【'92春のGI競走勝ち馬の故郷】桜花賞馬の故郷・西山牧場 "眠れる獅子"がいま目覚めた」
    • 1992年9月号
      • 「【この秋注目の有力馬たちの夏】外国産馬も参戦して、エリザベス女王杯で最強4歳牝馬が決まる。」
    • 1992年12月号
      • 半澤忠之(関西テレビ)「【今月の記録室】第10回関西テレビ放送賞ローズステークス(GII)エリザベス女王杯トライアル エルカーサリバー」
    • 1993年2月号
      • 「【1992年度JRA賞決定】年度代表馬にミホノブルボン」
      • 「【'92年度フリーハンデ決定】ミホノブルボンは高い評価で65キロ」
      • 「【第26回スプリンターズステークス】桜花賞馬・ニシノフラワーは 強い"4歳牝馬"の象徴だった」
      • 蔵内哲爾、柏木集保「げっかん評論(西)(東)」
      • 紺野真(東京スポーツ)「【今月の記録室】第26回スプリンターズステークス(GI)ニシノフラワー」
    • 1993年3月号
      • 「【誰もが知りたい競馬の一から十(九)】コースが変わった!?馬場適性が競馬を変える!?」
    • 1993年4月号
      • 畠山直毅「【スペシャルレポート】5歳牝馬は'93年を席捲するのか?」
      • 「【第24回マイラーズカップ】マイルの王道一直線、ニシノフラワー」
      • 和田伊久磨(報知新聞)「【今月の記録室】第24回読売マイラーズカップ(GII)ニシノフラワー」
    • 1993年5月号
      • 「【安田記念大特集 PART1】有力日本馬と出走予定外国馬のプロフィールを総点検!」
      • 西山茂行「【安田記念大特集】フラワーはステイヤーと思ってた。あの馬は母の父の血が濃いのかも。」
    • 1993年7月号
      • 「【第43回安田記念】外国馬と牝馬を従えて、ヤマニンゼファーが見せつけた日本チャンピオンマイラーの誇り」
      • 石田敏徳「【安田記念インサイドレポート】日本の馬は強くなったか?日本の競馬は認められたか?」
      • 「【皇太子殿下御成婚奉祝】第34回宝塚記念(GI)ユタカも感激の強さで、メジロマックイーン」
      • 吉川彰彦「【今月の記録室】第43回安田記念(GI)ヤマニンゼファー」
    • 1993年9月号
      • 「【'93夏―あの話題、この話題 春に活躍した馬たちの"夏休み"】秋に雪辱を期す5歳牝馬」
    • 1993年12月号
      • 森本昭夫(サンケイスポーツ)「【今月の記録室】第36回スワンステークス(GII)シンコウラブリイ」
    • 1994年1月号
      • 「【第10回マイルチャンピオンシップ】GI初制覇 シンコウラブリイ 15戦10勝の成績を残し引退へ」
      • 末永紀元(大阪スポーツ)「【今月の記録室】第10回マイルチャンピオンシップ(GI)シンコウラブリイ」
    • 1994年2月号
      • 「【1993年度JRA賞決定】年度代表馬はビワハヤヒデ」
      • 「【'93年度フリーハンデ決定】トウカイテイオーがトップランキングの65キロ」
      • 「【第27回スプリンターズステークス】最優秀短距離馬をスピードで圧倒 サクラバクシンオー」
      • 「【今月のトピックス】ニシノフラワーら、重賞ウイナーが続々と引退」
      • 鈴木学(サンケイスポーツ)「【今月の記録室】第27回スプリンターズステークス(GI)サクラバクシンオー」
    • 1994年11月号
      • 横尾一彦「【サラブレッド・ヒーロー列伝(102)】愛国からのベスト・マイラー シンコウラブリイ」
    • 1997年11月号
      • 阿部珠樹「【サラブレッド・ヒーロー列伝〈レース編〉(36)】父子二代の名マイラー、ヤマニンゼファー(上)ゼネラリストへの道」
    • 1997年12月号
      • 阿部珠樹「【サラブレッド・ヒーロー列伝〈レース編〉(36)】父子二代の名マイラー、ヤマニンゼファー(下)ゼネラリストへの道」
    • 1998年5月号
      • 井口民樹「【サラブレッド・ヒーロー列伝〈レース編〉(41)】ニシノフラワーVSアドラーブル(上)クラシックに咲き誇り名花たち」
    • 1998年6月号
      • 井口民樹「【サラブレッド・ヒーロー列伝〈レース編〉(41)】ニシノフラワーVSアドラーブル(下)クラシックに咲き誇り名花たち」
    • 1998年8月号
      • 増田英樹「【'98年春GI勝ち馬の故郷】西山牧場 古き良き時代からの前進」
    • 2002年7月号
      • 井口民樹「【サラブレッド・ヒーロー列伝 20世紀を駆けた名馬たち(14)】ヤマニンゼファー 父仔二代のマイル王」
    • 2002年12月号
      • 阿部珠樹「【サラブレッド・ヒロイン列伝 20世紀を駆けた名馬たち(19)】ニシノフラワー GIに三度咲いた快速牝馬」
    • 2007年10月号
      • 阿部珠樹「【サラブレッド・ヒロイン列伝(77)】シンコウラブリイ 愛国からの女神」
    • 2007年11月号
      • 「【重賞プレイバック】第41回スプリンターズステークス(GI)アストンマーチャン」
    • 2018年11月号
      • 「【重賞プレイバック】第53回農林水産省賞典 札幌2歳ステークス(GIII)ニシノデイジー」
  • Gallop臨時増刊『週刊100名馬24 ニシノフラワー』産業経済新聞社、2001年8月30日

外部リンク