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→野球: 「昭和×年代~」の項目を全部除去。あまりに細部に入りすぎている上、出典もないため |
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* 最後の明治生まれのプロ野球選手:[[岩本義行]]([[1957年]]引退。[[1912年]](明治45年)3月11日生) |
* 最後の明治生まれのプロ野球選手:[[岩本義行]]([[1957年]]引退。[[1912年]](明治45年)3月11日生) |
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* 最後の大正生まれのプロ野球選手:[[関根潤三]]([[1965年]]引退。戸籍上は[[1927年]](昭和2年)3月15日の生まれだが、実際の生年月日は1926年(大正15年)12月25日。[[関根潤三#人物]]を参照されたし)<br>※戸籍上の大正生まれで最後まで現役だったのは:ともに[[1963年]]に引退した[[関口清治]]([[1925年]](大正14年)[[10月9日]]生)と[[飯田徳治]]([[1924年]](大正13年)4月6日生) |
* 最後の大正生まれのプロ野球選手:[[関根潤三]]([[1965年]]引退。戸籍上は[[1927年]](昭和2年)3月15日の生まれだが、実際の生年月日は1926年(大正15年)12月25日。[[関根潤三#人物]]を参照されたし)<br>※戸籍上の大正生まれで最後まで現役だったのは:ともに[[1963年]]に引退した[[関口清治]]([[1925年]](大正14年)[[10月9日]]生)と[[飯田徳治]]([[1924年]](大正13年)4月6日生) |
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* 最後の昭和一桁生まれのプロ野球選手:[[ジョージ・アルトマン]]([[1975年]]引退。[[1933年]](昭和8年)[[3月20日]]生)<br>※日本人選手では共に[[1973年]]に引退した[[権藤正利]]([[1934年]](昭和9年)[[5月1日]]生)と[[小山正明]](1934年(昭和9年)[[7月28日]]生) |
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* 最後の昭和の戦前生まれのプロ野球選手:[[渡辺秀武]]([[1982年]]引退。[[1941年]](昭和16年)[[9月16日]]生) |
* 最後の昭和の戦前生まれのプロ野球選手:[[渡辺秀武]]([[1982年]]引退。[[1941年]](昭和16年)[[9月16日]]生) |
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* 最後の昭和の戦中生まれのプロ野球選手:[[高橋直樹 (野球)|高橋直樹]]([[1986年]]引退。[[1945年]](昭和20年)[[2月15日]]生) |
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* 最後の昭和20年代生まれのプロ野球選手:[[落合博満]]([[1998年]]引退。[[1953年]](昭和28年)12月9日生) |
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* 最後の昭和30年代生まれのプロ野球選手:[[工藤公康]]([[2011年]]引退。1963年(昭和38年)[[5月5日]]生) |
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* 最後の昭和40年代生まれのプロ野球選手:[[岩瀬仁紀]]([[2018年]]引退。[[1974年]](昭和49年)[[11月10日]]生) |
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* 最後の昭和の戦前入団のプロ野球選手:[[日比野武]]と[[古川清蔵]](共に[[1959年]]引退)<br>※日比野は[[1939年]](昭和14年)、古川は1941年(昭和16年)入団 |
* 最後の昭和の戦前入団のプロ野球選手:[[日比野武]]と[[古川清蔵]](共に[[1959年]]引退)<br>※日比野は[[1939年]](昭和14年)、古川は1941年(昭和16年)入団 |
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* 最後の昭和の戦中入団のプロ野球選手:[[別所毅彦]]([[1961年]]引退。[[1942年]](昭和17年)入団) |
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* 最後の1リーグ時代([[1949年]]まで)入団のプロ野球選手:飯田徳治・関口清治・[[田宮謙次郎]]・[[岡本伊三美]](何れも1963年引退)<br>※飯田は[[1947年]]、関口は[[1948年]]、田宮と岡本は1949年入団{{efn|岡本のみ、一軍デビューは[[プロ野球再編問題 (1949年)|2リーグ分裂]]後の[[1950年]]。}} |
* 最後の1リーグ時代([[1949年]]まで)入団のプロ野球選手:飯田徳治・関口清治・[[田宮謙次郎]]・[[岡本伊三美]](何れも1963年引退)<br>※飯田は[[1947年]]、関口は[[1948年]]、田宮と岡本は1949年入団{{efn|岡本のみ、一軍デビューは[[プロ野球再編問題 (1949年)|2リーグ分裂]]後の[[1950年]]。}} |
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* 最後の昭和20年代入団のプロ野球選手:[[野村克也]]([[1980年]]引退。[[1954年]](昭和29年)入団) |
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* 最後の昭和30年代入団のプロ野球選手:[[古沢憲司]]([[1985年]]引退。[[1964年]](昭和39年)入団) |
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* 最後の昭和40年代入団のプロ野球選手:[[真弓明信]]([[1995年]]引退。1973年(昭和48年)入団) |
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* 最後の昭和50年代入団のプロ野球選手:[[山本昌]]([[2015年]]引退。[[1984年]](昭和59年)入団) |
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* ドラフト制度発足前(1965年まで)に入団した最後のプロ野球選手:[[衣笠祥雄]]([[1987年]]引退。1965年入団) |
* ドラフト制度発足前(1965年まで)に入団した最後のプロ野球選手:[[衣笠祥雄]]([[1987年]]引退。1965年入団) |
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* ドラフト制度発足後に[[ドラフト外入団]]したプロ野球選手 |
* ドラフト制度発足後に[[ドラフト外入団]]したプロ野球選手 |
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** 最後にドラフト外入団した選手:[[古河有一]]([[1992年]]入団。1991年のドラフト外入団禁止後、特例による唯一のドラフト外入団) |
** 最後にドラフト外入団した選手:[[古河有一]]([[1992年]]入団。1991年のドラフト外入団禁止後、特例による唯一のドラフト外入団) |
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** 最後まで現役だった選手:[[石井琢朗]]([[2012年]]引退。[[1988年]]入団) |
** 最後まで現役だった選手:[[石井琢朗]]([[2012年]]引退。[[1988年]]入団) |
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* 最後の |
* 最後の昭和時代入団のプロ野球選手:山本昌{{efn|山本昌は[[後楽園球場]]でプレー経験のある最後の現役選手でもあった。また2019年現在最後の日本球界200勝投手でもある。}}、[[中嶋聡]]{{efn|[[オリックス・バファローズ]]の前身である阪急ブレーブスおよびオリックス・ブレーブスへの在籍経験がある最後の現役選手でもあった。}} (ともに2015年引退)<br>※昭和時代にドラフト指名された選手としては:[[谷繁元信]](1988年(昭和63年)指名、1989年(平成元年)入団。山本・中嶋と同じく2015年引退) |
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* 最後の平成一桁入団のプロ野球選手:[[福浦和也]]([[2019]]年引退。[[1994年]](平成6年)入団) |
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* 最後の20世紀入団のプロ野球選手:[[福留孝介]]([[2022年]]現在も現役。[[1999年]]入団) |
* 最後の20世紀入団のプロ野球選手:[[福留孝介]]([[2022年]]現在も現役。[[1999年]]入団) |
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* 最後のプロ野球シーズン30勝投手:[[皆川睦雄]](1968年達成。31勝) |
* 最後のプロ野球シーズン30勝投手:[[皆川睦雄]](1968年達成。31勝) |
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* 最後の明治生まれの[[プロ野球監督]]:[[レオ・ドローチャー]](1905年(明治38年)7月27日生。ただし、[[1976年]]、[[埼玉西武ライオンズ|太平洋クラブ]]との契約直後に病気で倒れ、来日できなかったため実際に指揮は執っていない)<br>※実際に試合で指揮を執った監督では:[[三原脩]](1911年(明治44年)11月21日生。1973年、[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]監督を退任) |
* 最後の明治生まれの[[プロ野球監督]]:[[レオ・ドローチャー]](1905年(明治38年)7月27日生。ただし、[[1976年]]、[[埼玉西武ライオンズ|太平洋クラブ]]との契約直後に病気で倒れ、来日できなかったため実際に指揮は執っていない)<br>※実際に試合で指揮を執った監督では:[[三原脩]](1911年(明治44年)11月21日生。1973年、[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]監督を退任) |
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* 最後の大正生まれのプロ野球監督:[[根本陸夫]]([[1926年]](大正15年)11月20日生。1994年、[[福岡ソフトバンクホークス|ダイエー]]監督を退任) |
* 最後の大正生まれのプロ野球監督:[[根本陸夫]]([[1926年]](大正15年)11月20日生。1994年、[[福岡ソフトバンクホークス|ダイエー]]監督を退任) |
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* 最後の昭和の戦前 |
* 最後の昭和の戦前生まれのプロ野球監督:高木守道(1941年(昭和16年)[[7月17日]]生。[[2013年]]、[[中日ドラゴンズ|中日]]監督を退任) |
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* 最後の[[オリンピックの野球競技|オリンピック野球]]日本代表監督:[[稲葉篤紀]]([[2020年東京オリンピックの野球競技|2020年東京オリンピック]]) |
* 最後の[[オリンピックの野球競技|オリンピック野球]]日本代表監督:[[稲葉篤紀]]([[2020年東京オリンピックの野球競技|2020年東京オリンピック]]) |
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<!-- オリンピックでの野球が復活した時点で除去してください。 --> |
<!-- オリンピックでの野球が復活した時点で除去してください。 --> |
2022年6月25日 (土) 05:15時点における版
日本最後の一覧(にほんさいごのいちらん)は、日本で最後となった物事、もしくは日本人として最後となった物事の一覧。
なお、現在も可能であるが数十年あるいはそれ以上の長期間にわたって実例がなく、今後も実際に発生する可能性が著しく低いような物事は法改正や環境の変化に起因するものに限定し、単に「日本最後」と呼ばれるだけのものは除外している。
生物
- 野生のトキ:キン。2003年10月10日に死亡。
- 野生のコウノトリ:1971年5月25日に兵庫県豊岡市で保護された個体。
- ニホンオオカミ:1905年1月23日に奈良県東吉野村鷲家口で捕獲された若いオス。これ以降、公式的に確認された生存情報がない。
- マミジロクイナ:日本では小笠原諸島の硫黄島に生息していたが、1924年頃に絶滅[1]。
- ニホンアシカ:1975年に竹島で2頭の目撃例があったのを最後に確実な目撃例はなく、1991年の環境庁レッドデータブックでは「絶滅種」と記載された。
- ニホンカワウソ:1979年以降確実な目撃例がなく、2012年に絶滅種に指定された。
政治や軍事
天皇・朝廷および律令制に由来する地位・官職
- 最後の法皇:霊元天皇(正徳3年(1713年)8月に落飾)
- 最後の女性天皇:後桜町天皇(在位 1762年 - 1770年)[注釈 1]
- 最後の太政大臣:三条実美(在任 1871年 - 1885年)
- 最後の斎院:礼子内親王(在任 1204年 - 1212年)
- 最後の斎宮:祥子内親王(在任 1333年 - 1334年)
- 最後の陰陽師:土御門晴雄(在任 1842年 - 1869年)
幕府および武士
- 幕府:江戸幕府(終焉 慶応3年10月14日(1867年11月9日))
- 武家法:武家諸法度
- 征夷大将軍:徳川慶喜(在任 1866年 - 1867年)
- 大老:酒井忠績(在任 1865年)
- 西国筋郡代:窪田鎮勝
- 幕藩体制下で最後に発足した藩:高徳藩(1866年成立)
- 最後まで生存していた大名:林忠崇(1941年1月22日没)
※考え方によっては:分部光謙(1944年11月29日没) - 最後まで生存していた戦国大名:伊達政宗(1636年6月27日没)
※考え方によっては:真田信之(1658年11月12日没) - 最後まで生存していた新選組隊士:池田七三郎(1938年1月16日没)
- 最後まで生存していた松下村塾塾生(吉田松陰時代)[注釈 2]:渡辺蒿蔵(1939年9月7日没)
- 最後に切腹した人物(日本法制史上):加賀本多家旧臣12人(本多弥一、富田総、鏑木勝喜知、吉見亥三郎、矢野策平、西村熊、舟喜鉄外、浅井弘五郎、廣田嘉三郎、湯口藤九郎、芝木喜内、藤江松三郎)[注釈 3]
- 最後に単身で切腹した人物(日本法制史上):服部盛能(京都府士族)[注釈 4]
- 最後に除族の上、斬首刑の判決が下された人物(日本法制史上かつ記録上):徳田徹夫[注釈 5]
近代以降の政治制度
- 最後の元老:西園寺公望(1940年11月23日没)
- 最後の枢密院議長:清水澄(在任 1946年6月13日 - 1947年5月2日。枢密院は日本国憲法施行で廃止)
- 最後の貴族院議長:徳川家正(在任 1946年6月19日 - 1947年5月2日。貴族院は日本国憲法施行で廃止)
- 最後の叙爵者:原嘉道(1944年(昭和19年)8月7日叙爵。華族制度は日本国憲法施行で廃止)
- 最後の勅令[注釈 6]:外国人登録令(昭和22年勅令第207号)1947年5月2日公布。
- 内閣総理大臣
- 最後の大政奉還以前生まれの総理大臣:平沼騏一郎(1867年10月25日生。1939年8月30日退任)[注釈 7]
- 最後の明治改元以前生まれの総理大臣:鈴木貫太郎(1867年12月24日生。1945年8月17日退任)[注釈 8]
- 最後の19世紀生まれの総理大臣:池田勇人(1899年12月3日生。1964年11月9日退任)[注釈 9]
- 最後の明治生まれの総理大臣:鈴木善幸(1911年1月11日生。1982年11月27日退任)[注釈 10]
- 最後の大正生まれの総理大臣:村山富市(1924年3月3日生。1996年1月11日退任)[注釈 11]
- 最後の昭和・戦前生まれの総理大臣:麻生太郎(1940年9月20日生まれ。2009年9月16日退任)
- 中央省庁再編により消滅した省庁の最後の大臣・長官・委員長(任期終了は防衛庁長官を除き2001年1月6日、防衛庁長官のみ2007年1月8日)
- 郵政大臣・自治大臣・総務庁長官:片山虎之助(2000年12月5日就任)
- 大蔵大臣:宮澤喜一(1998年7月30日就任)
- 厚生大臣・労働大臣:坂口力(2000年12月5日就任)
- 建設大臣・運輸大臣・北海道開発庁長官・国土庁長官:林寛子(扇千景)(2000年7月4日就任)
- 通商産業大臣:平沼赳夫(2000年7月4日就任)
- 文部大臣・科学技術庁長官:町村信孝(2000年12月5日就任)
- 環境庁長官:川口順子(2000年7月4日就任)
- 金融再生委員会委員長:柳澤伯夫(2000年12月5日就任)
- 沖縄開発庁長官:橋本龍太郎(2000年12月5日就任)
- 経済企画庁長官:額賀福志郎(2000年12月5日就任)
- 防衛庁長官:久間章生(2006年9月26日就任)
- 国会議員
- 国政選挙立候補者
- 最後の大正生まれの国政選挙立候補者:川島良吉(1918年8月1日生。2012年衆議院議員選挙に出馬)
- 地方議員
- 最後の国葬:吉田茂(1967年)
- 最後に特例市に指定された市:佐賀市(2014年4月1日指定。特例市制度は2015年に廃止)
近代以降の軍事
- 日露戦争で戦った軍人で最後まで生存していた者:衛藤衛(1992年2月16日没)
- 第一次世界大戦で戦った軍人で最後まで生存していた者:高木惣吉(1979年7月27日没)
※ただし場合によっては:和田秀穂(1972年4月3日没) - 最後の内戦:西南戦争(1877年)
- 最後に就任した陸軍大将:牛島満(1945年6月20日就任、1945年6月23日没)
- 最後に就任した海軍大将:井上成美(1945年5月15日就任、1975年12月15日没)
- 最後の連合艦隊司令長官:小沢治三郎(1945年5月29日就任、1966年11月9日没)
- 編成が発令された最後の大日本帝国陸軍師団:第158師団(1945年8月10日編成発令)
- 最後に建造された戦艦:武蔵(1942年8月5日竣工)
- 最後に就役した正規空母:信濃 (空母)(1944年11月19日就役)
※当初から航空母艦として設計された艦では:葛城(雲龍型)(1944年10月15日竣工)。 - 最後に就役した艦艇:伊王(1945年3月24日就役)
- 最後の空襲:熊谷空襲(埼玉県熊谷市)(1945年8月15日午前0時23分 - 1時39分)
- 最後の空中戦:伊豆諸島上空でのB-32に対する迎撃戦(1945年8月18日)
- 最後の地上戦:南樺太での日本軍とソ連軍との戦い(1945年8月23日に終了)
- 戦争への参戦:朝鮮戦争。海上保安庁の掃海部隊からなる日本特別掃海隊が派遣された(1950年)[注釈 15]
- 日本が参戦した戦争による日本人最後の戦死者:朝鮮戦争における中谷坂太郎(1950年10月17日没、当時21歳)[注釈 16]
※解釈によっては:小塚金七(1972年10月19日没、当時51歳)[注釈 17] - 第二次世界大戦終結後A級戦犯として起訴された被告人で最後まで生存していた者:鈴木貞一(1989年7月15日没、享年100)[注釈 18]
- 最後の交戦:九州南西海域工作船事件(2001年12月22日)
- 戦争の終結:モンテネグロ公国との間の戦争終結(2006年6月16日)[注釈 19]
外交
- 最後の満洲国駐箚大使:山田乙三(大使在任中の1945年8月18日に満洲国が崩壊)
- 最後の駐日満洲国大使:王允卿(大使在任中の1945年8月18日に満洲国が崩壊)
- 最後の特命全権公使:高橋通敏アイスランド駐箚特命全権公使、鈴木耕一ホンジュラス駐箚特命全権公使(両名とも1967年6月5日付で特命全権大使に昇格)
- 最後の中華民国駐箚大使:宇山厚(大使在任中の1972年9月29日に日華断交)
- 最後の駐日中華民国大使:彭孟緝(大使在任中の1972年9月29日に日華断交)
- 最後の南ベトナム駐箚大使:人見宏(1975年6月27日に離任。後任者が赴任しないまま1976年11月6日付で在南ベトナム大使が廃止)
- 最後の駐日南ベトナム大使:グエン・チュウ・ダン(大使在任中の1975年4月30日に首都サイゴンが陥落し、反共政権が崩壊)
- 最後のシリア駐箚大使:鈴木敏郎(2012年6月5日にペルソナ・ノン・グラータに認定され解任。その後は人道危機のためシリア駐箚大使を任命せず)
- 最後の駐日シリア大使:ムハンマド・ガッサーン・アル=ハバシュ(2012年6月6日にペルソナ・ノン・グラータに認定され解任。その後の大使候補者は、日本からアグレマンを得られず)
社会
過去の時代に生まれた日本人
過去の特定の時代に生まれ、最後まで生存していた日本人(日本国籍者)
- 最後の江戸時代生まれ ※江戸時代から明治時代に切り替わった日付については複数の解釈が存在するため、その解釈の違いによる差異がある。
- 最後の19世紀生まれ:田島ナビ(1900年8月4日 - 2018年4月21日)[注釈 20]
日本国内における死刑
以下いずれも日本国内
- 最後に引回された上で死刑執行された日本人(記録上):久右衛門[注釈 21]
- 最後に国の機関により磔刑による執行許可が出た日本人:耕雲[注釈 22]
- 最後に窃盗の罪により死刑執行された日本人(軍事裁判含む):宇留根利吉[注釈 23]
- 最後に梟首(獄門)により執行された日本人女性(日本法制史上):稲イシ[注釈 24]
- 最後に斬首刑により執行された日本人(日本法制史上、官憲による非合法の死刑執行を含む場合):小山内スミと小野長之助[注釈 25]
- 最後に公開処刑された日本人(日本法制史上、執行者以外の第三者が観覧した状態での死刑執行)
- 検察による許可の元、2人以上の民間人が参観していた状態での執行:斎藤甚吉[注釈 26]
- 検察又は刑事施設の長の許可の元、死刑執行参観者が立ち会っての執行:宇都宮宝石店放火殺人事件と熊谷男女4人殺傷事件加害者[注釈 27]
- 官憲による非合法の死刑執行 - 小山内スミと小野長之助(上記)
- 戦前(第2次世界大戦終結前)最後に死刑が確定した女性:「桐生夫殺し」の加害者[注釈 28]
その他
- 最後の越後瞽女:小林ハル(2005年4月25日没)
- 最後に不敬罪が適用された事件:プラカード事件(1946年5月19日)
- 最後の日本専売公社総裁:長岡實(在任 1982年6月30日 - 1985年3月31日。1985年の日本たばこ産業株式会社への民営化・改組により職位廃止)[注釈 29]
- 最後の日本電信電話公社総裁:真藤恒(在任 1981年1月 - 1985年3月31日。1985年の日本電信電話株式会社設立により廃止)[注釈 30]
- 最後の日本郵政公社総裁:西川善文(在任 2007年4月1日 - 2007年9月30日。2007年の日本郵政株式会社への移管・分割により廃止)[注釈 31]
学問・教育施設
- 最後の男子大学:東洋食品工業短期大学(2008年度より男女共学化)
※東食短大では、開学以来、力作業を伴う実習授業が多いことから永らく女子の募集は無く入学を認めていなかったが、2008年度より男女共学となった。これにより、日本の男子大学は消滅した。
→「東洋食品工業短期大学」を参照
- 最後の薬学部以外の薬剤師養成課程:広島大学(2006年の薬剤師養成課程の6年制移行に伴う措置)
※かつての薬剤師養成課程は医学部に設置されていることが多かった[注釈 32]が、次第に薬学部として独立していった。広島大では最後まで医学部内に薬剤師養成課程(総合薬学科)を設置していたが、6年制移行に伴って医学部から分離され、薬学部薬学科となった。これにより、薬学部以外の管轄による薬剤師養成課程は消滅した。
→「広島大学」を参照
暦
- 最後の公式な太陰太陽暦:天保暦
- 最後の公式な太陰太陽暦の閏月:明治3年閏10月(グレゴリオ暦1870年11月23日 - 12月21日)
- 最後の公式な太陰太陽暦の日付:明治5年12月2日(グレゴリオ暦1872年12月31日)
- 最後の漢字4文字の元号:神護景雲(767年8月16日 - 770年10月1日)
貨幣
- 最後の皇朝銭:乾元大宝(958年(天徳2年)鋳造)
- 最後の穴銭(銭銘の種類として):文久永宝(文久3年 - 慶応3年鋳造)[注釈 33]
- 最後の大判:万延大判(万延元年発行)
- 最後の小判:万延小判(万延元年発行)
- 最後の秤量貨幣:安政丁銀・安政豆板銀(安政6年発行)[注釈 34]
※地方貨幣では、安政銀より後に発行された秋田波銭や秋田鍔銭などに秤量貨幣の可能性がある。 - 最後の本位金貨の年銘:新20円金貨昭和7年銘
- 新円切替前(旧円)の最後の紙幣:日本銀行券甲千圓券・ろ百圓券・ろ拾圓券(1945年8月17日発行)
- 最後の銭単位の硬貨:小型50銭黄銅貨(1947年 - 1948年発行)
- 最後の銭単位の紙幣:日本銀行券A五銭券(1948年5月25日発行)
- 最後の政府紙幣:板垣退助50銭紙幣(1948年3月10日発行)
- 最後まで法的に有効だった江戸時代発行の貨幣:寛永通宝銅一文銭(1厘)・寛永通宝真鍮四文銭(2厘)・文久永宝(1厘5毛)(1953年、小額通貨整理法により通用停止)
- 最後の一般流通用の銀貨:稲100円銀貨(1959年 - 1966年発行)
- 最後まで法的に有効だった戦前発行の硬貨:新貨条例・貨幣法による本位金貨全種類(1988年、通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律により通用停止)
→「日本の金貨」を参照
製品
- 赤チンを製造・販売していた最後の企業:三栄製薬(東京都世田谷区)
※2019年5月31日を最後にマーキュロクロム液(通称:赤チン)が日本薬局方から除外されたため、小堺製薬が製造を廃止。これにより三栄製薬が最後の製造・販売企業となった。長年親しまれてきたため、消費者からの要望もあって日本薬局方から除外された後も製造を続けていたが、成分に水銀を含んでいることから、水銀に関する水俣条約により2021年以降は規制対象となるため、2020年12月24日製造分をもって製造を終了した[31][32]。
→「マーキュロクロム液」を参照
- 最後の国産両切りタバコ:ピース (2代目)
※2016年5月末までに『しんせい』と『ゴールデンバット』がフィルター化[注釈 36]したため、2016年6月1日以降、国産タバコ最後の両切りタバコとなった。
日本最後の各種施設・建築物
- 最後の(坑内掘りの)炭鉱:北海道釧路市の太平洋炭礦(2002年1月30日閉山[注釈 37])
- 最後の銅山:温川鉱山・花岡鉱山(1994年3月閉山)
- 最後に完成したバットレスダム:三滝ダム(1937年完成。中国電力所有)
- 最後の灯台守駐在の灯台:女島灯台(2006年11月12日に無人化)
城郭(日本の城)
- 最後に完成した、完全な(天守が現存する)城郭建築:松山城(天守本壇が1854年2月落成[注釈 38])[33]
- 最後に完成した[注釈 39]、天守を有する[注釈 40]日本式城郭:松前城(1849年幕府が築城許可。1854年9月完成)[34]
- 最後に完成した、幕藩体制下の藩による日本式城郭:石田城(1849年幕府が築城許可、1863年6月完成)[35]
- 最後に完成した日本式城郭[注釈 41]:園部城(1868年に明治政府が築城許可、1869年8月に完成)[36][37]
- 最後に完成した、藩が建築した城(稜堡式城郭):松尾城(1869年9月着工、1870年藩庁などが完成[38][注釈 42])[注釈 43]
- 個人所有であった最後の城:犬山城(現存天守。旧城主の成瀬家所有であったが2004年より財団法人所有となる)
交通
鉄道
路線
列車
- 最後の蒸気機関車牽引の定期旅客列車:1975年12月14日、日本国有鉄道(国鉄)室蘭本線225列車室蘭駅 - 岩見沢駅
- 最後の蒸気機関車牽引の定期貨物列車:1975年12月24日、日本国有鉄道夕張線6788列車
- 最後の混合列車:1987年7月22日、最後まで運行していた三菱石炭鉱業大夕張鉄道線の路線廃止に伴い
- 最後の日本海縦貫線全線走破の昼行定期電車特急 - 白鳥(2001年3月2日で運行終了)[注釈 44]
- 最後のお召し列車専用牽引機関車:JR東日本EF58形61号機(2008年退役)[注釈 45]
- JRにおける最後の昼行定期気動車急行:つやま(2009年3月運行終了)
- 最後の日本海縦貫線全線走破の旅客列車:トワイライトエクスプレス(2015年3月12日出発分をもって運行終了)
- 最後のブルートレイン:北斗星(2015年3月13日出発分をもって定期運行が終了。下りは2015年8月21日出発分、上りは2015年8月22日出発分をもって臨時便も終了し、完全引退となった。運行の設定が無いながらも正式な廃止がアナウンスされていない『日本海』を除くと最後のブルートレインである)
- JRにおける最後の定期急行列車、および、機関車牽引の定期客車列車:はまなす(運行終了はダイヤ上は2016年3月26日だが、実質的には3月20日が上り・翌21日が下りの最終運行日となり、22日以降は運休扱いとなった。運行中止となっている『能登』を除くと、定期・臨時を含め、最後の定期夜行急行列車である)
- 最後のエル特急:しらさぎ、しなの、ひだ(2018年3月17日のダイヤ改正で指定解除、特急となった)
- 最後の国有の鉄道車輌:国土交通省立山砂防工事専用軌道で使用されている車両[注釈 46]
- 最後のトロリーバス - 立山トンネルトロリーバス
- 最後の多扉車両(側面5扉以上の車両):京阪5000系電車(2021年9月4日営業運転終了)[注釈 47]
人物
- 最後の鉄道大臣:八田嘉明(在任 1941年12月2日 - 1943年11月1日)[注釈 48]
- 最後の南満州鉄道総裁:山崎元幹(在任 1945年5月5日 - 1945年9月30日在任。ポツダム宣言受諾による解散により廃止)
- 最後の日本国有鉄道総裁:杉浦喬也(在任 1985年6月25日 - 1987年3月31日。旅客鉄道株式会社グループへの改組に伴い職位廃止)
- 最後の帝都高速度交通営団総裁:土坂泰敏(在任 2000年6月30日 - 2004年4月1日。東京地下鉄株式会社の発足により廃止)
道路
- 自動車の通行が可能だった最後の未舗装国道:国道458号、十部一峠
- 最後の日本道路公団総裁:近藤剛(在任 2003年11月20日 - 2005年9月30日。ネクスコへの改組に伴い職位廃止)[注釈 49]
二輪車・四輪車
- 最後の2ストロークエンジン搭載モデル:ヤマハ・RZ50(2007年生産終了)
※四輪車では:スズキ・ジムニー SJ30(1987年販売終了) - 最後のキャブレターエンジン搭載車
- 最後のリトラクタブル・ヘッドライト車:マツダ・RX-7(2002年販売終了)
- 最後の手動式チョーク車:マツダ・ボンゴ (3代目)
- 最後の4気筒エンジン搭載軽自動車:ダイハツ・コペン (初代)(2012年8月生産終了)
- 最後の販売チャンネルごとに取り扱い車種が異なった自動車メーカー:トヨタ自動車(2020年5月より全店併売開始)
電気通信
- 最後の手動交換式電話、小笠原諸島(1983年自動化)、本土では北海道増毛町雄冬(1978年)
- 最後のワープロ専用機:書院(シャープ)(2001年末に生産終了)
- 最後の非電化集落:タイマグラ(岩手県宮古市江繋字向神楽)集落(1988年に電気開通)
- 最後のオフライン郵便局:東の川簡易郵便局(2005年廃止)
- 最後の民生用DAT製品生産メーカー:ソニー(2005年12月に生産出荷終了、2006年9月に販売終了)
- 最後のフロッピーディスク生産メーカー:ソニー(2011年3月に生産終了)
- 最後の録音・再生対応ポータブルMD:MZ-RH1(ソニー)(2011年8月に生産終了)
- 最後の国産VHSデッキ:DXR170V(船井電機)(2016年7月に生産終了)
エンターテインメント
テレビ
放送局
- 最後のアナログ放送:2012年3月31日12時30分00秒(岩手・宮城・福島)[注釈 50]
- 親局がVHF波として開局した最後の民放テレビ局:財団法人日本科学技術振興財団テレビ事業本部東京12チャンネル(科学テレビ)(現在のテレビ東京)(1964年4月12日開局)[注釈 51]
- 親局がアナログで開局した最後の民放テレビ局:とちぎテレビ(1999年4月1日開局)[注釈 52]
- 最後のアナログハイビジョン放送:2007年10月1日1時00分00秒
- 最後のラジオ・テレビ兼営局:近畿放送(現:京都放送)(ラジオは1951年12月25日、テレビは1969年4月1日にそれぞれ開局)
- ラジオ・テレビ兼営局で社名に「ラジオ」が付いた最後の局:ラジオ中国(現:中国放送)(1967年3月31日まで。翌日現社名に変更)[注釈 53]
テレビ番組
- 最後のセルアニメ:『サザエさん』(1969年10月5日から2013年9月29日放映分まで、フジテレビ系)
※完結までセルアニメだった最後の作品:『アストロボーイ・鉄腕アトム』(2003年4月6日から2004年3月28日まで、フジテレビ系) - 最後のモノラル放送のテレビドラマ:『SALE!』(1995年4月18日から6月27日まで、朝日放送制作・テレビ朝日系『火曜ドラマ』)
ラジオ
- 最後の常設AMラジオ局:茨城放送、栃木放送(1963年4月1日開局)
- 最後のCS-PCM音声放送:ミュージックバード(2011年7月31日PCM音声放送を停止)
音楽
- 最後のSPレコード:日本コロムビアが1962年に生産終了
- 最後の国産ソノシートレコード:『Dear My Friend 〜Love like powderly snow〜』の初回特典として封入されたもの(2005年発売。現在は販売終了)
- 最後のレーザーディスク:川中美幸『金沢の雨』(2007年3月末に生産終了)[39]
- 最後のミニディスク:倉木麻衣『ALL MY BEST』(品番:VNYM-9001-2)(2009年発売。現在は販売終了)[注釈 54]
スポーツ
ラグビー
- 最後の日本ラグビーフットボール選手権大会優勝大学:早稲田大学(1987年度大会、1988年1月15日)
サッカー
- 最後のJリーグレギュラーシーズンのPK戦:1998年11月3日に日本平スタジアムで行われた清水対V川崎戦(このシーズンを最後にレギュラーシーズンのPK戦廃止)
- 最後のJリーグレギュラーシーズンの延長戦:2002年11月30日に札幌ドームで行われた札幌対広島戦(このシーズンを最後にレギュラーシーズンの延長戦廃止。Vゴールで決着した最後の試合でもある)
- 最後の天皇杯のVゴール:2004年12月19日に香川県立丸亀競技場で行われた準々決勝の札幌対磐田戦(この大会を最後にVゴール廃止)
野球
※以下、特に断りのない限り「プロ野球」は日本野球機構を示す。また、選手・監督については、特に断りのない限り、最後まで選手・監督であった人物を示す。
- 最後の明治生まれのプロ野球選手:岩本義行(1957年引退。1912年(明治45年)3月11日生)
- 最後の大正生まれのプロ野球選手:関根潤三(1965年引退。戸籍上は1927年(昭和2年)3月15日の生まれだが、実際の生年月日は1926年(大正15年)12月25日。関根潤三#人物を参照されたし)
※戸籍上の大正生まれで最後まで現役だったのは:ともに1963年に引退した関口清治(1925年(大正14年)10月9日生)と飯田徳治(1924年(大正13年)4月6日生) - 最後の昭和の戦前生まれのプロ野球選手:渡辺秀武(1982年引退。1941年(昭和16年)9月16日生)
- 最後の昭和の戦前入団のプロ野球選手:日比野武と古川清蔵(共に1959年引退)
※日比野は1939年(昭和14年)、古川は1941年(昭和16年)入団 - 最後の1リーグ時代(1949年まで)入団のプロ野球選手:飯田徳治・関口清治・田宮謙次郎・岡本伊三美(何れも1963年引退)
※飯田は1947年、関口は1948年、田宮と岡本は1949年入団[注釈 55] - ドラフト制度発足前(1965年まで)に入団した最後のプロ野球選手:衣笠祥雄(1987年引退。1965年入団)
- ドラフト制度発足後にドラフト外入団したプロ野球選手
- 最後の昭和時代入団のプロ野球選手:山本昌[注釈 56]、中嶋聡[注釈 57] (ともに2015年引退)
※昭和時代にドラフト指名された選手としては:谷繁元信(1988年(昭和63年)指名、1989年(平成元年)入団。山本・中嶋と同じく2015年引退) - 最後の20世紀入団のプロ野球選手:福留孝介(2022年現在も現役。1999年入団)
- 最後のプロ野球シーズン30勝投手:皆川睦雄(1968年達成。31勝)
- 最後のプロ野球通算300勝投手:鈴木啓示(1985年引退。通算317勝)
- 最後の明治生まれのプロ野球監督:レオ・ドローチャー(1905年(明治38年)7月27日生。ただし、1976年、太平洋クラブとの契約直後に病気で倒れ、来日できなかったため実際に指揮は執っていない)
※実際に試合で指揮を執った監督では:三原脩(1911年(明治44年)11月21日生。1973年、ヤクルト監督を退任) - 最後の大正生まれのプロ野球監督:根本陸夫(1926年(大正15年)11月20日生。1994年、ダイエー監督を退任)
- 最後の昭和の戦前生まれのプロ野球監督:高木守道(1941年(昭和16年)7月17日生。2013年、中日監督を退任)
- 最後のオリンピック野球日本代表監督:稲葉篤紀(2020年東京オリンピック)
- 現役として消滅球団に在籍経験がある最後のプロ野球選手
※消滅順。譲渡などによる球団名のみの消滅(球団存続と見なす)は除く- 東京セネタース~翼軍[注釈 58](1940年球団消滅):野口明(1956年引退)
- 名古屋金鯱軍(1940年球団消滅):長島進(1952年引退)
- イーグルス(戦前)~黒鷲軍~大和軍(1943年球団消滅):小松原博喜(1957年引退)
- 大洋軍~西鉄軍[注釈 59](1943年球団消滅):野口明(先述)
- 西日本パイレーツ(1950年球団消滅):関口清治(1963年引退)
- 大東京軍~松竹ロビンス[注釈 60](1952年球団消滅):後藤修(1963年引退)
- 高橋ユニオンズ[注釈 61](1956年球団消滅):石川進(1969年引退)
- ゴールドスター~大映ユニオンズ[注釈 62](1957年球団消滅):八田正(1971年引退)
- 近鉄パールス~大阪近鉄バファローズ(2004年球団消滅):坂口智隆(2022年現在も現役)
- 現役として上記消滅球団(大阪近鉄[注釈 63]除く)との対戦経験がある最後のプロ野球選手
- 監督として上記消滅球団との対戦経験がある最後のプロ野球監督
- 最後のプロ野球(一軍)の没収試合:1971年7月13日に西宮球場で行われた阪急対ロッテ戦(規定は現在もあるが、これ以降実際に適用された例はない)
- 最後のプロ野球のサスペンデッドゲーム:1987年5月23日に行われた南海対ロッテ戦。7月8日再開試合(パシフィック・リーグのみ規定されていたが、これ以後実施例がなく、2012年限りで規定自体が廃止された)
- 最後のプロ野球のダブルヘッダー:1998年10月10日に横浜スタジアムで行われた横浜対中日戦[40](規定は現在もあるが、これ以降実施された例はない[注釈 69])
- ダブルヘッダーを経験した最後の現役選手:福浦和也(2019年引退)
- 両チームが9人制で戦った最後のパシフィック・リーグ公式戦:1974年10月9日に宮城球場で行われたプレーオフ第3戦の阪急対ロッテ戦(翌1975年からパ・リーグではDH制が導入されたため)
- セントラル・リーグ最後の引き分け再試合:2000年10月10日に行なわれたヤクルト対横浜の28回戦(翌2001年から引き分け再試合が廃止されたため)
相撲
- 最後の看板大関:鉄石城五郎(文化10年(1813年)初土俵)
- 江戸相撲において無勝負が記録された最後の場所:元治2年(1865年)2月場所
- 大関から直接平幕へ陥落した最後の力士:鳳凰馬五郎(1900年(明治33年)5月場所)
- 大関から直接小結へ陥落した最後の力士:能代潟錦作(1933年(昭和8年)1月場所)
- 旧両国国技館における最後の大相撲本場所幕内優勝力士:羽黒山政司(1946年(昭和21年)11月場所)
- 蔵前国技館における最後の大相撲本場所幕内優勝力士:多賀竜昇司(1984年(昭和59年)9月場所)
- 蔵前国技館での本場所を経験した最後の力士:栃天晃正嵩(2011年5月場所限りで引退。出場場所としては同年1月場所が最後)
- 昭和時代に幕内を経験した最後の力士:安芸乃島勝巳(2003年5月場所限りで引退)
- 横綱免許を与えられた最後の大相撲横綱力士:千代の山雅信(第41代)
- 二枚鑑札で相撲部屋を継承した最後の力士:栃錦清隆(1959年(昭和34年)継承。二枚鑑札自体は前年の1958年(昭和33年)に廃止されたが、親方の死去によって特例として認められた)
- 昭和時代に本場所で白星を挙げた最後の力士:大乃国康(1988年九州場所結びの一番で千代の富士貢に勝利)
- 平成時代に本場所で白星を挙げた最後の力士:白鵬翔(2019年春場所結びの一番で鶴竜力三郎に勝利)
- 昭和時代に初土俵を踏んだ最後の力士:華吹大作(1986年3月場所初土俵。2022年1月場所で引退)[41]
- 昭和時代に初土俵を踏んだ最後の関取経験力士:魁皇博之(1988年3月場所初土俵、2011年7月場所引退)
- 張出前頭の最後の適用例:太寿山忠明(1983年7月場所。東張出前頭9枚目)
- 番付に張出が設けられた最後の場所:1994年(平成6年)5月場所
- 旧基準の幕下付出(幕下60枚目格付出)で初土俵を踏んだ最後の力士:雅山哲士(2013年3月場所引退)
- 最後の預りの取組:東富士 - 吉葉山戦(1951年9月場所12日目)
- 関取での最後の引分の取組:三重ノ海 - 二子岳戦(1974年9月場所11日目、幕内)
- 幕下以下も含めた最後の引分の取組:市ノ渡 - 梅の里戦(1986年7月場所5日目、幕下)
- 関取での最後の痛み分けの取組:宮柱 - 清乃森戦(1964年11月場所7日目、十両)
- 幕下以下も含めた最後の痛み分けの取組:総ノ浪 - 秀錦戦(1999年1月場所14日目、序二段)
- 戦前・戦中生まれの最後の力士:高見山大五郎(1944年6月16日生まれ、1984年5月場所引退)
- 戦前・戦中生まれの最後の日本出身力士:牧本英輔(1941年8月13日生まれ、1982年11月場所引退)
- 戦前・戦中生まれの最後の三役経験力士:高見山大五郎(最高位・東関脇)
- 公傷制度が適用された最後の力士:琴ノ若晴將(2003年11月場所)
ボクシング
- 最後の15ラウンド制のプロボクシング公式試合:WBA世界バンタム級タイトルマッチ、六車卓也VS朴讃栄(1987年5月24日)。朴の11回TKO勝利。
- 13ラウンド以上で決着になった最後の試合:WBA世界フライ級タイトルマッチ、イラリオ・サパタVS穂積秀一(1986年4月7日)。サパタの15回判定勝利。
- WBA・WBC分立前最後の世界チャンピオン:小林弘(1971年7月29日王座陥落)[注釈 70]
- 最後の昭和デビューのプロボクシング世界チャンピオン:星野敬太郎(2002年7月29日王座陥落。1988年(昭和63年)11月3日デビュー)
※JBC非公認を含めると:西澤ヨシノリ(2013年8月5日王座返上、1986年(昭和61年)10月21日デビュー)
競馬
- グレード制導入前の最後の八大競走優勝馬:リードホーユー(1983年有馬記念)
- グレード制導入前の最後の八大競走優勝騎手:田原成貴(1983年有馬記念。上記のリードホーユーに騎乗)[注釈 71]
- 最後のアラブ系限定競走:開設60周年記念アラブ特別レジェンド賞(2009年9月27日、福山競馬場)
- 単枠指定制度が適用された最後の馬:レオダーバン(1991年セントライト記念)
マラソン
- 旧・国立競技場[注釈 72]を発着点とするマラソン競技大会[注釈 73]における最後の優勝選手
- 旧・国立競技場を発着点とするマラソン競技大会における最後のフィニッシュランナー(同競技場のマラソンゲートをくぐった最後の選手):石倉ミキ(チーム怪速亭、2008年第30回東京国際女子マラソン総合174位)[42]
囲碁・将棋
- 最後の世襲制将棋名人:関根金次郎十三世名人(1935年3月26日付で世襲を廃止、実力制名人戦制に移行)
- 最後の世襲制囲碁本因坊:本因坊秀哉二十一世(1936年に選手権戦制に移行)
- 明治生まれ最後の現役将棋棋士:小堀清一九段(1912年(明治45年)2月10日生。1987年4月引退)
- 大正生まれ最後の現役将棋棋士:丸田祐三九段(1919年(大正8年)3月30日生。1996年3月引退)
- 戦前生まれ最後の現役将棋棋士:加藤一二三九段(1940年(昭和15年)1月1日生。2017年6月20日引退)
脚注
注釈
- ^ 後桃園天皇に譲位。
- ^ 生没年が判明している者のみ。また松下村塾自体は1892年まで存続したが、記録が散佚しているため、松下村塾塾生で最後まで生き残りだった者は現在も不明である。
- ^ 金沢藩執政(藩臣最高職)本多政均の暗殺に対する加賀本多家旧臣の敵討ち(「明治の忠臣蔵」と言われている)により石川県刑獄寮の裁判で切腹の判決が下され、旧臣12人が切腹した[2][3][4][5]。1872年11月4日切腹刑執行。
- ^ 京都市伏見区淀納所内の水茶屋で松原貞芳(京都府士族)と口論となり、一旦は収まったものの、松原が挨拶せずに立ち去ったために激高し斬殺。服部は自首し、本来ならば斬罪のところ、士族であり、自首もしたため、自裁(切腹刑)となった[6][7][8]。1872年8月13日切腹刑執行。最後の切腹刑執行から数えて2番目に当たる。
- ^ 徳田を含む6人組は、1880年(明治13年)12月21日から翌年1月21日の約1か月の間に4件の侵入強盗を起こし、4件目の侵入強盗の際、家主の母を殺害している。この殺害の件により、改定律例第127条及び第13条により、除族の上斬首刑の判決が1881年(明治14年)12月30日に松江裁判所鳥取支庁により下された[9]。なお、その2日後に旧刑法が施行されている。
- ^ 公布日が最後となる勅令。日本国憲法施行後、勅令を新規に公布することはできないが、過去に公布され現在も有効な勅令は複数存在する。
- ^ 平沼は大政奉還以前生まれの首相経験者で最後の生き残りであった(1952年8月22日没)。
- ^ 鈴木貫太郎は最後の非国会議員の内閣総理大臣でもあった。なお、明治改元以前生まれの首相経験者で最後の生き残りは平沼や鈴木貫太郎ではなく岡田啓介であった(1952年10月17日没)。
- ^ なお、19世紀生まれの首相経験者で最後の生き残りは東久邇宮稔彦王(1990年1月20日没)である。
- ^ 鈴木善幸は明治生まれの首相経験者で最後の生き残りでもあった(2004年7月19日没)。
- ^ 村山は大正生まれの首相経験者で最後の生き残りでもある。
- ^ 宇垣は参議院議員。衆議院議員では尾崎行雄。
- ^ 原は帝国議会時代から議席を維持し続けた最後の現職議員でもあった。
- ^ 同じく90歳の神奈川県寒川町の藤沢喜代治議員の不出馬による。
- ^ 法律上の手続きを踏まないまま参戦したため国会で問題になった。
- ^ 元山沖で、海上保安庁所属の掃海艇が触雷したことによる。
- ^ 太平洋戦争に参戦しフィリピンのルバング島に派遣され、終戦後も小野田寛郎らとともに戦闘を継続。フィリピン警察軍と銃撃戦になり胸を撃たれ死亡。
- ^ 1948年の極東国際軍事裁判で終身禁錮刑の判決を受け巣鴨プリズンに収監されるも、7年後仮釈放ののち赦免。
- ^ モンテネグロ公国は日露戦争に於いて大日本帝国に宣戦布告したが実際には戦闘は行われず、講和会議にモンテネグロ王国が出席しなかったことから、国際法上モンテネグロ公国との戦争が継続していた。2006年6月3日にセルビア・モンテネグロからモンテネグロ共和国が独立する際に、外務大臣と首相特使によりモンテネグロ共和国政府へ独立の承認と戦争の終結を伝える文書が届けられた。「日本とモンテネグロの関係」を参照されたし。
- ^ 生年月日に確かな記録のある人としては世界最後でもあった。
- ^ 罪状は、381両分(現在の価値換算で約150〜380万円程[13])の二分金および25両分(同じく約10~25万円程[13])の太政官札・民部省札を偽造し売ったこと、さらに5両分(同じく約2~5万円程[13])の民部省札を偽造し使ったこと。執行日は1870年(明治3年)5月27日、執行時の年齢は40歳であった[14]。
- ^ 罪状は、父を殺し母を傷つけたこと、さらに父母以外の2人を死に至らしめたこと。執行許可日は1870年(明治3年)9月23日、許可時の年齢は28歳であった[15]。
- ^ 罪状は、軍曹2人の銀時計を窃盗したとして営倉に入っていた東京鎮台騎兵第1大隊1等卒兵の宇留根が、脱走し工兵第1大隊営下副官室に侵入、2,572円37銭8厘(当時の1円を現在の2万円として換算した場合、約5,140万円[16])を窃盗したというもの。執行許可日は1879年(明治12年)12月3日、執行日は翌日の4日。執行許可時の年齢は23歳であった[17][18]。
- ^ 罪状:不倫を疑い、このままでは自分を殺害し不倫相手と結ばれてしまうと思い込み、夫婦喧嘩をきっかけに就寝中の夫をを鉈と包丁と山刀で13カ所の傷を負わせ殺害。1878年(明治11年)10月3日に判決が下され、同月14日に静岡市内で執行され、静岡市内の安倍川湖畔で斬首された首を晒された[19][20][21][22]。執行時の年齢は48歳であった。
執行後の82日後にあたる1879年(明治12年)1月4日に布告された明治12年太政官布告第1号[23]により梟首(獄門)が、廃止される。 - ^ 1886年(明治19年)12月に「青森の亭主殺し」事件の加害者である小山内スミと小野長之助の公開斬首刑が青森県弘前市の青森監獄前で行われた。この時2人の斬首刑に兼平巡査が斬首刑の執行人として、死刑執行者付添役に森矯(東奥義塾教師)がそれぞれの任を果したと言わている。
しかし、このことが事実である場合、この死刑執行は事実上の斬首刑の最後であると共に、官憲による日本国内における一般刑法犯に対する最後の非合法の死刑執行かつ公開処刑であると言わざる得ない[24]。
なお、この2人の死刑執行が行われた同じ年に激化事件である加波山事件により10月2日に3人、10月5日に3人が絞首刑により執行されている。 - ^ 1896年(明治29年)9月15日に検事の許可の元、死刑執行を見届けようと30人が参観している。北海道根室の刑場で行われた[25]。
また、1885年(明治18年)7月27日に赤井景韶(罪状:冤罪事件である「高田事件」により収監。その後脱獄し、逃走中の所を目撃した人力車夫を殺害)の執行を旧自由党党員を始め100余名が観覧している[26]。 - ^ 2010年(平成22年)7月28日に2人の執行を千葉景子法務大臣が立ち会っている[27][28]。
- ^ 不倫がばれてしまい、稲荷行者に呪詛を依頼したのち、行者に唆され、1936年(昭和11年)5月に被害者(加害者の夫)の晩酌に殺鼠剤を混入し殺害した。1939年(昭和14年)2月10日に大審院に上告棄却され確定する。第2次世界大戦終結前に執行されたかは不明。確定時41歳。因みに、不倫相手も死刑となったが、行者は無期懲役となっている[29]。
- ^ 長岡は引き続き日本たばこ産業の初代社長に就任。
- ^ 真藤は引き続き日本電信電話の初代社長に就任。
- ^ 西川は総裁就任より前の2006年1月23日には日本郵政の初代社長に就任しており、2007年4月1日以降は兼任となっていた。
- ^ 医学部以外では、日本大学のように理工学部に薬剤師養成課程を設置していた大学もあった。マツモトキヨシホールディングス会長の松本南海雄がその出身者として知られる。その他、歯学部・理学部・工学部・農学部などに置かれていた大学もあった。
- ^ 地方貨幣等は除く。
- ^ 地方貨幣等は除く。
- ^ 有効券だが、日本の生活文化に適合しない背景もあり、製造は既に中止。
- ^ 『しんせい』は2018年12月廃止、『ゴールデンバット』は2019年10月廃止。
- ^ ただし後継の釧路コールマインの坑内採炭はまだ続いている。また、露天掘りの炭鉱が数か所存在する。
- ^ 天守本壇(重要文化財)が焼失したものを再建。
- ^ 同じ場所にあった居館(福山館)を取り壊し、全面改築したもの。
- ^ 築城時の天守は焼失。現在は外観復元した建築物が建つ。
- ^ 陣屋からの改修。
- ^ 城郭の全体は未完成とされる。
- ^ このほか、明治初年に房総に移封された旧城主格の藩のいくつか(鶴舞藩・長尾藩・花房藩など)が築城に着手しているが、未完成に終わった。
- ^ 日本海縦貫線を全線走破する昼行特急は「白鳥」が最初で最後である。
- ^ 車籍は残したままである。最後にお召し列車牽引機として使用されたのは2001年3月23日。
- ^ 2019年現在も使用中。
- ^ 1970年に登場した日本初の多扉車でもある。
- ^ 逓信大臣との兼任。逓信省と合併後も引き続き運輸通信大臣に就任。
- ^ 近藤は改組後のNEXCO中日本の初代会長を2006年まで務めた。
- ^ 全国的には2011年7月24日12時30分00秒に終了したが、上記3県は東日本大震災のため延期されていた。
- ^ 関東・関西を除く地方局では福島テレビで、1963年4月1日開局。
- ^ 独立局以外では高知さんさんテレビ、さくらんぼテレビジョン。いずれも1997年4月1日開局。
- ^ 中国放送より後の1968年に社名変更したラジオ岐阜→岐阜放送は、テレビ開局前の変更である。
- ^ 録音用は現在もソニーから80分用の製品(品番:MDW80T)が継続して発売されている。
- ^ 岡本のみ、一軍デビューは2リーグ分裂後の1950年。
- ^ 山本昌は後楽園球場でプレー経験のある最後の現役選手でもあった。また2019年現在最後の日本球界200勝投手でもある。
- ^ オリックス・バファローズの前身である阪急ブレーブスおよびオリックス・ブレーブスへの在籍経験がある最後の現役選手でもあった。
- ^ 戦後、セネタース(第2次)として創設された現在の北海道日本ハムファイターズとは系譜が異なる。
- ^ 翼軍と名古屋金鯱軍の対等合併による新設球団。共に2リーグ分裂時、大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)及び西鉄クリッパース(現・埼玉西武ライオンズ)として創設された現存2球団とは系譜が異なる。
- ^ 現在の横浜DeNAベイスターズに繋がる、大洋ホエールズ(第1次)との合併球団「大洋松竹(洋松)ロビンス」時代(1953 - 1954年)に在籍経験がある選手では権藤正利(1973年引退)が最後。
- ^ 1955年のみ、ネーミングライツにより「トンボユニオンズ」を名乗る。
- ^ 同球団オーナー・永田雅一は現在の千葉ロッテマリーンズの系譜に繋がる合併球団「毎日大映(大毎)オリオンズ」でも同職を務めたが、その永田オーナーの下でプレーした選手では「東京オリオンズ」時代の1968年に入団した村田兆治(1990年引退)が最後。
- ^ 2022年現在、大阪近鉄と対戦経験のある現役選手は和田毅、中島宏之、中村剛也、栗山巧、明石健志の5名。
- ^ 日比野は現役選手として18球団との対戦経験があるが、これは今後破られることのないNPB記録でもある。
- ^ 対戦当時の登録名は別所昭。
- ^ 松木は4球団との対戦当時外野手兼任だったため、当時の専任監督であれば藤本定義(1968年、阪神監督を退任)が最後。
- ^ 水原は同球団との対戦当時内野手兼任だったため、当時の専任監督であれば松木謙治郎が最後。
- ^ 別当は両球団との対戦当時外野手兼任だったため、当時の専任監督であれば三原脩が最後。
- ^ 2007年9月30日に横浜スタジアムで横浜対ヤクルト戦のダブルヘッダーが予定されていたが雨天中止となった。実際に予定されたダブルヘッダーは同試合が最後で、それ以降は日程の消化が遅れダブルヘッダーが実施される可能性が出たことは何度かあるものの、実施および予定に至った例はない。
- ^ 1967年12月14日王座獲得後、在位中にWBC分立。
- ^ 田原は翌1984年に桜花賞を優勝しており、最初のGI優勝騎手にもなっている。
- ^ 東京2020オリンピック・パラリンピック開催に向けての新競技場への改築のため2014年を以て閉場・解体。
- ^ 2007年制定の東京マラソンは都庁前をスタート地点・有明ビッグサイト(2017年より東京駅前行幸通りに変更)をフィニッシュ地点として開催のため、同大会において旧・国立競技場が使用されることは無かった。
- ^ 同大会を最後に旧・国立競技場を発着点とするマラソン競技大会は完全に消滅した。
出典
- ^ 戦え絶滅動物
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