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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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野球: 「昭和×年代~」の項目を全部除去。あまりに細部に入りすぎている上、出典もないため
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* 最後の明治生まれのプロ野球選手:[[岩本義行]]([[1957年]]引退。[[1912年]](明治45年)3月11日生)
* 最後の明治生まれのプロ野球選手:[[岩本義行]]([[1957年]]引退。[[1912年]](明治45年)3月11日生)
* 最後の大正生まれのプロ野球選手:[[関根潤三]]([[1965年]]引退。戸籍上は[[1927年]](昭和2年)3月15日の生まれだが、実際の生年月日は1926年(大正15年)12月25日。[[関根潤三#人物]]を参照されたし)<br>※戸籍上の大正生まれで最後まで現役だったのは:ともに[[1963年]]に引退した[[関口清治]]([[1925年]](大正14年)[[10月9日]]生)と[[飯田徳治]]([[1924年]](大正13年)4月6日生)
* 最後の大正生まれのプロ野球選手:[[関根潤三]]([[1965年]]引退。戸籍上は[[1927年]](昭和2年)3月15日の生まれだが、実際の生年月日は1926年(大正15年)12月25日。[[関根潤三#人物]]を参照されたし)<br>※戸籍上の大正生まれで最後まで現役だったのは:ともに[[1963年]]に引退した[[関口清治]]([[1925年]](大正14年)[[10月9日]]生)と[[飯田徳治]]([[1924年]](大正13年)4月6日生)
* 最後の昭和一桁生まれのプロ野球選手:[[ジョージ・アルトマン]]([[1975年]]引退。[[1933年]](昭和8年)[[3月20日]]生)<br>※日本人選手では共に[[1973年]]に引退した[[権藤正利]]([[1934年]](昭和9年)[[5月1日]]生)と[[小山正明]](1934年(昭和9年)[[7月28日]]生)
* 最後の昭和の戦前生まれのプロ野球選手:[[渡辺秀武]]([[1982年]]引退。[[1941年]](昭和16年)[[9月16日]]生)
* 最後の昭和の戦前生まれのプロ野球選手:[[渡辺秀武]]([[1982年]]引退。[[1941年]](昭和16年)[[9月16日]]生)
* 最後の昭和の戦中生まれのプロ野球選手:[[高橋直樹 (野球)|高橋直樹]]([[1986年]]引退。[[1945年]](昭和20年)[[2月15日]]生)
* 最後の昭和20年代生まれのプロ野球選手:[[落合博満]]([[1998年]]引退。[[1953年]](昭和28年)12月9日生)
* 最後の昭和30年代生まれのプロ野球選手:[[工藤公康]]([[2011年]]引退。1963年(昭和38年)[[5月5日]]生)
* 最後の昭和40年代生まれのプロ野球選手:[[岩瀬仁紀]]([[2018年]]引退。[[1974年]](昭和49年)[[11月10日]]生)
* 最後の昭和の戦前入団のプロ野球選手:[[日比野武]]と[[古川清蔵]](共に[[1959年]]引退)<br>※日比野は[[1939年]](昭和14年)、古川は1941年(昭和16年)入団
* 最後の昭和の戦前入団のプロ野球選手:[[日比野武]]と[[古川清蔵]](共に[[1959年]]引退)<br>※日比野は[[1939年]](昭和14年)、古川は1941年(昭和16年)入団
* 最後の昭和の戦中入団のプロ野球選手:[[別所毅彦]]([[1961年]]引退。[[1942年]](昭和17年)入団)
* 最後の1リーグ時代([[1949年]]まで)入団のプロ野球選手:飯田徳治・関口清治・[[田宮謙次郎]]・[[岡本伊三美]](何れも1963年引退)<br>※飯田は[[1947年]]、関口は[[1948年]]、田宮と岡本は1949年入団{{efn|岡本のみ、一軍デビューは[[プロ野球再編問題 (1949年)|2リーグ分裂]]後の[[1950年]]。}}
* 最後の1リーグ時代([[1949年]]まで)入団のプロ野球選手:飯田徳治・関口清治・[[田宮謙次郎]]・[[岡本伊三美]](何れも1963年引退)<br>※飯田は[[1947年]]、関口は[[1948年]]、田宮と岡本は1949年入団{{efn|岡本のみ、一軍デビューは[[プロ野球再編問題 (1949年)|2リーグ分裂]]後の[[1950年]]。}}
* 最後の昭和20年代入団のプロ野球選手:[[野村克也]]([[1980年]]引退。[[1954年]](昭和29年)入団)
* 最後の昭和30年代入団のプロ野球選手:[[古沢憲司]]([[1985年]]引退。[[1964年]](昭和39年)入団)
* 最後の昭和40年代入団のプロ野球選手:[[真弓明信]]([[1995年]]引退。1973年(昭和48年)入団)
* 最後の昭和50年代入団のプロ野球選手:[[山本昌]]([[2015年]]引退。[[1984年]](昭和59年)入団)
* ドラフト制度発足前(1965年まで)に入団した最後のプロ野球選手:[[衣笠祥雄]]([[1987年]]引退。1965年入団)
* ドラフト制度発足前(1965年まで)に入団した最後のプロ野球選手:[[衣笠祥雄]]([[1987年]]引退。1965年入団)
* ドラフト制度発足後に[[ドラフト外入団]]したプロ野球選手
* ドラフト制度発足後に[[ドラフト外入団]]したプロ野球選手
** 最後にドラフト外入団した選手:[[古河有一]]([[1992年]]入団。1991年のドラフト外入団禁止後、特例による唯一のドラフト外入団)
** 最後にドラフト外入団した選手:[[古河有一]]([[1992年]]入団。1991年のドラフト外入団禁止後、特例による唯一のドラフト外入団)
** 最後まで現役だった選手:[[石井琢朗]]([[2012年]]引退。[[1988年]]入団)
** 最後まで現役だった選手:[[石井琢朗]]([[2012年]]引退。[[1988年]]入団)
* 最後の[[昭和]]時代入団のプロ野球選手:山本昌{{efn|山本昌は[[後楽園球場]]でプレー経験のある最後の現役選手でもあった。また2019年現在最後の日本球界200勝投手でもある。}}、[[中嶋聡]]{{efn|[[オリックス・バファローズ]]の前身である阪急ブレーブスおよびオリックス・ブレーブスへの在籍経験がある最後の現役選手でもあった。}} (ともに2015年引退)<br>※昭和時代にドラフト指名された選手としては:[[谷繁元信]](1988年(昭和63年)指名、1989年(平成元年)入団。山本・中嶋と同じく2015年引退)
* 最後の昭和時代入団のプロ野球選手:山本昌{{efn|山本昌は[[後楽園球場]]でプレー経験のある最後の現役選手でもあった。また2019年現在最後の日本球界200勝投手でもある。}}、[[中嶋聡]]{{efn|[[オリックス・バファローズ]]の前身である阪急ブレーブスおよびオリックス・ブレーブスへの在籍経験がある最後の現役選手でもあった。}} (ともに2015年引退)<br>※昭和時代にドラフト指名された選手としては:[[谷繁元信]](1988年(昭和63年)指名、1989年(平成元年)入団。山本・中嶋と同じく2015年引退)
* 最後の平成一桁入団のプロ野球選手:[[福浦和也]]([[2019]]年引退。[[1994年]](平成6年)入団)
* 最後の20世紀入団のプロ野球選手:[[福留孝介]]([[2022年]]現在も現役。[[1999年]]入団)
* 最後の20世紀入団のプロ野球選手:[[福留孝介]]([[2022年]]現在も現役。[[1999年]]入団)
* 最後のプロ野球シーズン30勝投手:[[皆川睦雄]](1968年達成。31勝)
* 最後のプロ野球シーズン30勝投手:[[皆川睦雄]](1968年達成。31勝)
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* 最後の明治生まれの[[プロ野球監督]]:[[レオ・ドローチャー]](1905年(明治38年)7月27日生。ただし、[[1976年]]、[[埼玉西武ライオンズ|太平洋クラブ]]との契約直後に病気で倒れ、来日できなかったため実際に指揮は執っていない)<br>※実際に試合で指揮を執った監督では:[[三原脩]](1911年(明治44年)11月21日生。1973年、[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]監督を退任)
* 最後の明治生まれの[[プロ野球監督]]:[[レオ・ドローチャー]](1905年(明治38年)7月27日生。ただし、[[1976年]]、[[埼玉西武ライオンズ|太平洋クラブ]]との契約直後に病気で倒れ、来日できなかったため実際に指揮は執っていない)<br>※実際に試合で指揮を執った監督では:[[三原脩]](1911年(明治44年)11月21日生。1973年、[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]監督を退任)
* 最後の大正生まれのプロ野球監督:[[根本陸夫]]([[1926年]](大正15年)11月20日生。1994年、[[福岡ソフトバンクホークス|ダイエー]]監督を退任)
* 最後の大正生まれのプロ野球監督:[[根本陸夫]]([[1926年]](大正15年)11月20日生。1994年、[[福岡ソフトバンクホークス|ダイエー]]監督を退任)
* 最後の昭和の戦前・戦中生まれのプロ野球監督:高木守道(1941年(昭和16年)[[7月17日]]生。[[2013年]]、[[中日ドラゴンズ|中日]]監督を退任)
* 最後の昭和の戦前生まれのプロ野球監督:高木守道(1941年(昭和16年)[[7月17日]]生。[[2013年]]、[[中日ドラゴンズ|中日]]監督を退任)
* 最後の[[オリンピックの野球競技|オリンピック野球]]日本代表監督:[[稲葉篤紀]]([[2020年東京オリンピックの野球競技|2020年東京オリンピック]])
* 最後の[[オリンピックの野球競技|オリンピック野球]]日本代表監督:[[稲葉篤紀]]([[2020年東京オリンピックの野球競技|2020年東京オリンピック]])
<!-- オリンピックでの野球が復活した時点で除去してください。 -->
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2022年6月25日 (土) 05:15時点における版

日本最後の一覧(にほんさいごのいちらん)は、日本で最後となった物事、もしくは日本人として最後となった物事の一覧

なお、現在も可能であるが数十年あるいはそれ以上の長期間にわたって実例がなく、今後も実際に発生する可能性が著しく低いような物事は法改正や環境の変化に起因するものに限定し、単に「日本最後」と呼ばれるだけのものは除外している。

生物

政治や軍事

天皇・朝廷および律令制に由来する地位・官職

幕府および武士

近代以降の政治制度

近代以降の軍事

外交

  • 最後の満洲国駐箚大使山田乙三(大使在任中の1945年8月18日に満洲国が崩壊)
  • 最後の駐日満洲国大使:王允卿(大使在任中の1945年8月18日に満洲国が崩壊)
  • 最後の特命全権公使高橋通敏アイスランド駐箚特命全権公使、鈴木耕一ホンジュラス駐箚特命全権公使(両名とも1967年6月5日付で特命全権大使に昇格)
  • 最後の中華民国駐箚大使:宇山厚(大使在任中の1972年9月29日に日華断交)
  • 最後の駐日中華民国大使:彭孟緝(大使在任中の1972年9月29日に日華断交)
  • 最後の南ベトナム駐箚大使:人見宏(1975年6月27日に離任。後任者が赴任しないまま1976年11月6日付で在南ベトナム大使が廃止)
  • 最後の駐日南ベトナム大使:グエン・チュウ・ダン(大使在任中の1975年4月30日に首都サイゴンが陥落し、反共政権が崩壊)
  • 最後のシリア駐箚大使:鈴木敏郎(2012年6月5日にペルソナ・ノン・グラータに認定され解任。その後は人道危機のためシリア駐箚大使を任命せず)
  • 最後の駐日シリア大使:ムハンマド・ガッサーン・アル=ハバシュ(2012年6月6日にペルソナ・ノン・グラータに認定され解任。その後の大使候補者は、日本からアグレマンを得られず)

社会

過去の時代に生まれた日本人

過去の特定の時代に生まれ、最後まで生存していた日本人(日本国籍者)

日本国内における死刑

以下いずれも日本国内

その他

学問・教育施設

  • 最後の男子大学:東洋食品工業短期大学(2008年度より男女共学化)
    ※東食短大では、開学以来、力作業を伴う実習授業が多いことから永らく女子の募集は無く入学を認めていなかったが、2008年度より男女共学となった。これにより、日本の男子大学は消滅した。
  • 最後の薬学部以外の薬剤師養成課程:広島大学(2006年の薬剤師養成課程の6年制移行に伴う措置)
    ※かつての薬剤師養成課程は医学部に設置されていることが多かった[注釈 32]が、次第に薬学部として独立していった。広島大では最後まで医学部内に薬剤師養成課程(総合薬学科)を設置していたが、6年制移行に伴って医学部から分離され、薬学部薬学科となった。これにより、薬学部以外の管轄による薬剤師養成課程は消滅した。

※これ以降漢字4文字の元号が使われたことはない。また、元号法に定める元号の選定について、大平内閣下の1979年に定めた要領によって、元号は「漢字2字であること」と定められた[30]

貨幣

製品

  • 赤チンを製造・販売していた最後の企業:三栄製薬(東京都世田谷区
    ※2019年5月31日を最後にマーキュロクロム液(通称:赤チン)が日本薬局方から除外されたため、小堺製薬が製造を廃止。これにより三栄製薬が最後の製造・販売企業となった。長年親しまれてきたため、消費者からの要望もあって日本薬局方から除外された後も製造を続けていたが、成分に水銀を含んでいることから、水銀に関する水俣条約により2021年以降は規制対象となるため、2020年12月24日製造分をもって製造を終了した[31][32]

日本最後の各種施設・建築物

城郭(日本の城)

交通

鉄道

路線

列車

人物

道路

二輪車・四輪車

電気通信

エンターテインメント

テレビ

放送局

テレビ番組

ラジオ

音楽

スポーツ

ラグビー

サッカー

野球

※以下、特に断りのない限り「プロ野球」は日本野球機構を示す。また、選手・監督については、特に断りのない限り、最後まで選手・監督であった人物を示す。

相撲

ボクシング

競馬

マラソン

囲碁・将棋

  • 最後の世襲制将棋名人関根金次郎十三世名人(1935年3月26日付で世襲を廃止、実力制名人戦制に移行)
  • 最後の世襲制囲碁本因坊本因坊秀哉二十一世(1936年に選手権戦制に移行)
  • 明治生まれ最後の現役将棋棋士:小堀清一九段(1912年(明治45年)2月10日生。1987年4月引退)
  • 大正生まれ最後の現役将棋棋士:丸田祐三九段(1919年(大正8年)3月30日生。1996年3月引退)
  • 戦前生まれ最後の現役将棋棋士:加藤一二三九段(1940年(昭和15年)1月1日生。2017年6月20日引退)

脚注

注釈

  1. ^ 後桃園天皇に譲位。
  2. ^ 生没年が判明している者のみ。また松下村塾自体は1892年まで存続したが、記録が散佚しているため、松下村塾塾生で最後まで生き残りだった者は現在も不明である。
  3. ^ 金沢藩執政(藩臣最高職)本多政均の暗殺に対する加賀本多家旧臣の敵討ち(「明治の忠臣蔵」と言われている)により石川県刑獄寮の裁判で切腹の判決が下され、旧臣12人が切腹した[2][3][4][5]1872年11月4日切腹刑執行。
  4. ^ 京都市伏見区淀納所内の水茶屋で松原貞芳(京都府士族)と口論となり、一旦は収まったものの、松原が挨拶せずに立ち去ったために激高し斬殺。服部は自首し、本来ならば斬罪のところ、士族であり、自首もしたため、自裁(切腹刑)となった[6][7][8]1872年8月13日切腹刑執行。最後の切腹刑執行から数えて2番目に当たる。
  5. ^ 徳田を含む6人組は、1880年(明治13年)12月21日から翌年1月21日の約1か月の間に4件の侵入強盗を起こし、4件目の侵入強盗の際、家主の母を殺害している。この殺害の件により、改定律例第127条及び第13条により、除族の上斬首刑の判決が1881年(明治14年)12月30日松江裁判所鳥取支庁により下された[9]。なお、その2日後に旧刑法が施行されている。
  6. ^ 公布日が最後となる勅令。日本国憲法施行後、勅令を新規に公布することはできないが、過去に公布され現在も有効な勅令は複数存在する。
  7. ^ 平沼は大政奉還以前生まれの首相経験者で最後の生き残りであった(1952年8月22日没)。
  8. ^ 鈴木貫太郎は最後の非国会議員の内閣総理大臣でもあった。なお、明治改元以前生まれの首相経験者で最後の生き残りは平沼や鈴木貫太郎ではなく岡田啓介であった(1952年10月17日没)。
  9. ^ なお、19世紀生まれの首相経験者で最後の生き残りは東久邇宮稔彦王(1990年1月20日没)である。
  10. ^ 鈴木善幸は明治生まれの首相経験者で最後の生き残りでもあった(2004年7月19日没)。
  11. ^ 村山は大正生まれの首相経験者で最後の生き残りでもある。
  12. ^ 宇垣は参議院議員衆議院議員では尾崎行雄
  13. ^ 原は帝国議会時代から議席を維持し続けた最後の現職議員でもあった。
  14. ^ 同じく90歳の神奈川県寒川町の藤沢喜代治議員の不出馬による。
  15. ^ 法律上の手続きを踏まないまま参戦したため国会で問題になった。
  16. ^ 元山沖で、海上保安庁所属の掃海艇が触雷したことによる。
  17. ^ 太平洋戦争に参戦しフィリピンルバング島に派遣され、終戦後も小野田寛郎らとともに戦闘を継続。フィリピン警察軍と銃撃戦になり胸を撃たれ死亡。
  18. ^ 1948年の極東国際軍事裁判で終身禁錮刑の判決を受け巣鴨プリズンに収監されるも、7年後仮釈放ののち赦免。
  19. ^ モンテネグロ公国は日露戦争に於いて大日本帝国に宣戦布告したが実際には戦闘は行われず、講和会議にモンテネグロ王国が出席しなかったことから、国際法上モンテネグロ公国との戦争が継続していた。2006年6月3日にセルビア・モンテネグロからモンテネグロ共和国が独立する際に、外務大臣と首相特使によりモンテネグロ共和国政府へ独立の承認と戦争の終結を伝える文書が届けられた。「日本とモンテネグロの関係」を参照されたし。
  20. ^ 生年月日に確かな記録のある人としては世界最後でもあった。
  21. ^ 罪状は、381両分(現在の価値換算で約150〜380万円程[13])の二分金および25両分(同じく約10~25万円程[13])の太政官札民部省札を偽造し売ったこと、さらに5両分(同じく約2~5万円程[13])の民部省札を偽造し使ったこと。執行日は1870年(明治3年)5月27日、執行時の年齢は40歳であった[14]
  22. ^ 罪状は、父を殺し母を傷つけたこと、さらに父母以外の2人を死に至らしめたこと。執行許可日は1870年(明治3年)9月23日、許可時の年齢は28歳であった[15]
  23. ^ 罪状は、軍曹2人の銀時計を窃盗したとして営倉に入っていた東京鎮台騎兵第1大隊1等卒兵の宇留根が、脱走し工兵第1大隊営下副官室に侵入、2,572円37銭8厘(当時の1円を現在の2万円として換算した場合、約5,140万円[16])を窃盗したというもの。執行許可日は1879年(明治12年)12月3日、執行日は翌日の4日。執行許可時の年齢は23歳であった[17][18]
  24. ^ 罪状:不倫を疑い、このままでは自分を殺害し不倫相手と結ばれてしまうと思い込み、夫婦喧嘩をきっかけに就寝中の夫をを包丁山刀で13カ所の傷を負わせ殺害。1878年(明治11年)10月3日に判決が下され、同月14日静岡市内で執行され、静岡市内の安倍川湖畔で斬首された首を晒された[19][20][21][22]。執行時の年齢は48歳であった。
    執行後の82日後にあたる1879年(明治12年)1月4日に布告された明治12年太政官布告第1号[23]により梟首(獄門)が、廃止される。
  25. ^ 1886年(明治19年)12月に「青森の亭主殺し」事件の加害者である小山内スミと小野長之助の公開斬首刑が青森県弘前市青森監獄前で行われた。この時2人の斬首刑に兼平巡査が斬首刑の執行人として、死刑執行者付添役に森矯(東奥義塾教師)がそれぞれの任を果したと言わている。
    しかし、このことが事実である場合、この死刑執行は事実上の斬首刑の最後であると共に、官憲による日本国内における一般刑法犯に対する最後の非合法の死刑執行かつ公開処刑であると言わざる得ない[24]
    なお、この2人の死刑執行が行われた同じ年に激化事件である加波山事件により10月2日に3人、10月5日に3人が絞首刑により執行されている。
  26. ^ 1896年(明治29年)9月15日に検事の許可の元、死刑執行を見届けようと30人が参観している。北海道根室の刑場で行われた[25]
    また、1885年(明治18年)7月27日に赤井景韶(罪状:冤罪事件である「高田事件」により収監。その後脱獄し、逃走中の所を目撃した人力車夫を殺害)の執行を旧自由党党員を始め100余名が観覧している[26]
  27. ^ 2010年(平成22年)7月28日に2人の執行を千葉景子法務大臣が立ち会っている[27][28]
  28. ^ 不倫がばれてしまい、稲荷行者呪詛を依頼したのち、行者に唆され、1936年(昭和11年)5月に被害者(加害者の夫)の晩酌殺鼠剤を混入し殺害した。1939年(昭和14年)2月10日大審院上告棄却され確定する。第2次世界大戦終結前に執行されたかは不明。確定時41歳。因みに、不倫相手も死刑となったが、行者は無期懲役となっている[29]
  29. ^ 長岡は引き続き日本たばこ産業の初代社長に就任。
  30. ^ 真藤は引き続き日本電信電話の初代社長に就任。
  31. ^ 西川は総裁就任より前の2006年1月23日には日本郵政の初代社長に就任しており、2007年4月1日以降は兼任となっていた。
  32. ^ 医学部以外では、日本大学のように理工学部に薬剤師養成課程を設置していた大学もあった。マツモトキヨシホールディングス会長の松本南海雄がその出身者として知られる。その他、歯学部理学部工学部農学部などに置かれていた大学もあった。
  33. ^ 地方貨幣等は除く。
  34. ^ 地方貨幣等は除く。
  35. ^ 有効券だが、日本の生活文化に適合しない背景もあり、製造は既に中止。
  36. ^ 『しんせい』は2018年12月廃止、『ゴールデンバット』は2019年10月廃止。
  37. ^ ただし後継の釧路コールマインの坑内採炭はまだ続いている。また、露天掘りの炭鉱が数か所存在する。
  38. ^ 天守本壇(重要文化財)が焼失したものを再建。
  39. ^ 同じ場所にあった居館(福山館)を取り壊し、全面改築したもの。
  40. ^ 築城時の天守は焼失。現在は外観復元した建築物が建つ。
  41. ^ 陣屋からの改修。
  42. ^ 城郭の全体は未完成とされる。
  43. ^ このほか、明治初年に房総に移封された旧城主格の藩のいくつか(鶴舞藩長尾藩花房藩など)が築城に着手しているが、未完成に終わった。
  44. ^ 日本海縦貫線を全線走破する昼行特急は「白鳥」が最初で最後である。
  45. ^ 車籍は残したままである。最後にお召し列車牽引機として使用されたのは2001年3月23日。
  46. ^ 2019年現在も使用中。
  47. ^ 1970年に登場した日本初の多扉車でもある。
  48. ^ 逓信大臣との兼任。逓信省と合併後も引き続き運輸通信大臣に就任。
  49. ^ 近藤は改組後のNEXCO中日本の初代会長を2006年まで務めた。
  50. ^ 全国的には2011年7月24日12時30分00秒に終了したが、上記3県は東日本大震災のため延期されていた。
  51. ^ 関東・関西を除く地方局では福島テレビで、1963年4月1日開局。
  52. ^ 独立局以外では高知さんさんテレビさくらんぼテレビジョン。いずれも1997年4月1日開局。
  53. ^ 中国放送より後の1968年に社名変更したラジオ岐阜→岐阜放送は、テレビ開局前の変更である。
  54. ^ 録音用は現在もソニーから80分用の製品(品番:MDW80T)が継続して発売されている。
  55. ^ 岡本のみ、一軍デビューは2リーグ分裂後の1950年
  56. ^ 山本昌は後楽園球場でプレー経験のある最後の現役選手でもあった。また2019年現在最後の日本球界200勝投手でもある。
  57. ^ オリックス・バファローズの前身である阪急ブレーブスおよびオリックス・ブレーブスへの在籍経験がある最後の現役選手でもあった。
  58. ^ 戦後、セネタース(第2次)として創設された現在の北海道日本ハムファイターズとは系譜が異なる。
  59. ^ 翼軍と名古屋金鯱軍の対等合併による新設球団。共に2リーグ分裂時、大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)及び西鉄クリッパース(現・埼玉西武ライオンズ)として創設された現存2球団とは系譜が異なる。
  60. ^ 現在の横浜DeNAベイスターズに繋がる、大洋ホエールズ(第1次)との合併球団「大洋松竹(洋松)ロビンス」時代(1953 - 1954年)に在籍経験がある選手では権藤正利(1973年引退)が最後。
  61. ^ 1955年のみ、ネーミングライツにより「トンボユニオンズ」を名乗る。
  62. ^ 同球団オーナー・永田雅一は現在の千葉ロッテマリーンズの系譜に繋がる合併球団「毎日大映(大毎)オリオンズ」でも同職を務めたが、その永田オーナーの下でプレーした選手では「東京オリオンズ」時代の1968年に入団した村田兆治(1990年引退)が最後。
  63. ^ 2022年現在、大阪近鉄と対戦経験のある現役選手は和田毅中島宏之中村剛也栗山巧明石健志の5名。
  64. ^ 日比野は現役選手として18球団との対戦経験があるが、これは今後破られることのないNPB記録でもある。
  65. ^ 対戦当時の登録名は別所昭
  66. ^ 松木は4球団との対戦当時外野手兼任だったため、当時の専任監督であれば藤本定義(1968年、阪神監督を退任)が最後。
  67. ^ 水原は同球団との対戦当時内野手兼任だったため、当時の専任監督であれば松木謙治郎が最後。
  68. ^ 別当は両球団との対戦当時外野手兼任だったため、当時の専任監督であれば三原脩が最後。
  69. ^ 2007年9月30日に横浜スタジアムで横浜対ヤクルト戦のダブルヘッダーが予定されていたが雨天中止となった。実際に予定されたダブルヘッダーは同試合が最後で、それ以降は日程の消化が遅れダブルヘッダーが実施される可能性が出たことは何度かあるものの、実施および予定に至った例はない。
  70. ^ 1967年12月14日王座獲得後、在位中にWBC分立。
  71. ^ 田原は翌1984年桜花賞を優勝しており、最初のGI優勝騎手にもなっている。
  72. ^ 東京2020オリンピック・パラリンピック開催に向けての新競技場への改築のため2014年を以て閉場・解体。
  73. ^ 2007年制定の東京マラソン都庁前をスタート地点・有明ビッグサイト2017年より東京駅行幸通りに変更)をフィニッシュ地点として開催のため、同大会において旧・国立競技場が使用されることは無かった。
  74. ^ 同大会を最後に旧・国立競技場を発着点とするマラソン競技大会は完全に消滅した。

出典

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関連項目