イラリオ・サパタ
基本情報 | |
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通称 | Bujía |
階級 | フライ級 |
身長 | 169cm |
国籍 | パナマ |
誕生日 | 1958年8月19日(66歳) |
出身地 | パナマ県パナマシティ |
スタイル | サウスポー |
プロボクシング戦績 | |
総試合数 | 54 |
勝ち | 43 |
KO勝ち | 14 |
敗け | 10 |
引き分け | 1 |
イラリオ・サパタ(Hilario Zapata、1958年8月19日 - )は、パナマの元プロボクサー。パナマシティ出身。元世界2階級制覇王者(ライトフライ級、フライ級)。
「軟体動物」[1]とも形容されたディフェンスワークに優れた技巧派の選手。
来歴
[編集]1977年10月28日、プロデビュー。
1980年3月24日、12戦目でWBC世界ライトフライ級王者中島成雄に挑戦し、15回判定勝ちで王座を獲得した[1]。
1980年9月17日、防衛戦で中島成雄と再戦し、11回KO勝ちで3度目の防衛に成功した[2]。
1981年2月14日、防衛戦でジョーイ・オリボと対戦し、14回KO勝ちで5度目の防衛に成功した。
1981年8月15日、防衛戦でヘルマン・トーレスと対戦し、15回判定勝ちで7度目の防衛に成功した。
1981年11月7日、防衛戦でネトルノイ・ソー・ボラシングと対戦し、10回KO勝ちで8度目の防衛に成功した。
1982年2月26日、9度目の防衛戦でアマド・ウルスアと対戦し、2回KO負けで王座から陥落した。
1982年7月10日、ウルスアから王座を奪取した友利正とタイトルマッチで対戦し、15回判定勝ちで王座に返り咲いた[3]。
1982年9月18日、防衛戦で張正九と対戦し、15回判定勝ちで初防衛に成功した。
1982年11月30日、防衛戦で友利正と再戦し、8回KO勝ちで2度目の防衛に成功した[4]。
1983年3月26日、3度目の防衛戦で張正九と再戦し、3回KO負けで王座から陥落した。
1984年12月8日、1階級上のWBA世界フライ級王者サントス・ラシアルに挑戦し、15回判定負けで2階級制覇に失敗した。
1985年10月5日、WBA世界フライ級王座決定戦でアロンソ・ゴンザレスと対戦し、15回判定勝ちで2階級制覇を果たした。
1986年4月7日、防衛戦で穂積秀一と対戦し、15回判定勝ちで2度目の防衛に成功した[5]。
1986年7月5日、防衛戦でドディ・ボーイ・ペニャロサと対戦し、15回判定勝ちで3度目の防衛に成功した。
1987年2月13日、6度目の防衛戦でフィデル・バッサと対戦し、15回判定負けで王座から陥落した。
1987年8月15日、フィデル・バッサとタイトルマッチで再戦し、15回判定ドローで王座返り咲きならず。
1993年2月27日、WBC世界スーパーフライ級王者文成吉と対戦し、1回TKO負けで王座獲得ならず。この試合を最後に引退した。
獲得タイトル
[編集]逸話
[編集]父親はレンガ職人で、ケンカに明け暮れる少年時代のサパタを持て余していた。ある時、父は得意先から「おたくの息子はケンカばかりしているそうだな。このグローブを渡して、息子に練習するように伝えてくれ」と16オンスの黄色いグローブを託される。その得意先とは時の世界王者ロベルト・デュランで、サパタはこの出来事に感激し、ボクシングへの道を歩み始めることとなる[6]。
脚注
[編集]- ^ a b 日本プロボクシング史2002, p. 51頁下段.
- ^ 日本プロボクシング史2002, p. 52頁下段.
- ^ 日本プロボクシング史2002, p. 56頁上段.
- ^ 日本プロボクシング史2002, p. 57頁上段.
- ^ 日本プロボクシング史2002, p. 104頁下段.
- ^ 石の拳一代記, p. 500頁.
参考文献
[編集]- ボクシング・マガジン編集部『日本プロボクシング史 世界タイトルマッチで見る50年』ベースボール・マガジン社、2002年6月。ISBN 978-4583036953。
- 著:クリスチャン・ジューディージェイ、訳:杉浦大介『ロベルト・デュラン 石の拳一代記』白夜書房、2013年3月11日。ISBN 978-4583036953。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]前王者 中島成雄 |
WBC世界ライトフライ級王者 1980年3月24日 - 1982年3月26日 |
次王者 アマド・ウルスア |
前王者 友利正 |
WBC世界ライトフライ級王者 1982年7月20日 - 1983年3月26日 |
次王者 張正九 |
空位 前タイトル保持者 サントス・ラシアル |
WBA世界フライ級王者 1985年10月5日 - 1987年2月13日 |
次王者 フィデル・バッサ |