「第二次日韓協約」の版間の差分
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なお保護国化というのは英国のエジプト保護国化、フランスのカンボジア保護国化などで分かる通り、他国の外交権などを奪うことを意味し、よい意味ではない<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1281154/71 矢内原忠雄「植民及植民政策]」では「保護条約」について「全然保護国の好意に出づるものではない」(119頁)とする。</ref>。よって現代では新規の保護国化は無い<ref>1993年にスペイン・フランス両国を保護国としていたアンドラが独立し、被保護国は姿を消した |
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[https://kotobank.jp/dictionary/nipponica/1350/ 日本大百科全書(ニッポニカ)「保護国」の解説]</ref>。 |
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== 概要 == |
== 概要 == |
2021年11月6日 (土) 06:37時点における版
日韓交渉条約 韓日協商條約 | |
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通称・略称 |
第二次日韓協約 乙巳条約 |
署名 | 1905年11月17日 |
署名場所 | 漢城 |
締約国 |
大日本帝国 大韓帝国 |
言語 | 日本語/朝鮮語 |
主な内容 | 日本による韓国の保護国化 |
条文リンク | 中野文庫 |
ウィキソース原文 |
第二次日韓協約(だいにじにっかんきょうやく、朝鮮語: 제2차 한일협약 / 第二次韓日協約)は、日露戦争終結後の1905年(明治38年)11月17日に大日本帝国と大韓帝国が締結した協約。日韓保護条約とも言う。これにより大韓帝国の外交権は、ほぼ大日本帝国に接収されることとなり、事実上保護国となった。
概要
日韓保護条約、韓国保護条約ともいい、乙巳年に締結したという意味で、乙巳条約(いつしじょうやく)、乙巳五条約(いつしごじょうやく)、乙巳保護条約(いつしほごじょうやく)とも。締結当時の正式名称は日韓交渉条約(にっかんこうしょうじょうやく)であった。韓国は「韓日協商条約」として公表される。韓国側は現在、「乙巳条約」「乙巳五条約」「乙巳協約」「乙巳勒約」等と呼称している。
大日本帝国側代表は特命全権公使林権助、大韓帝国側代表は外部大臣朴斉純。
1965年、本条約は日韓の国交を正常化する日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約(日韓基本条約)の第2条で「もはや無効」であることが確認された[注釈 1]。
条約に至る経緯
日本の韓国保護国化方針と列強に対する承認交渉
1901年6月成立した第一次桂太郎内閣は、その当初から韓国保護国化を目標としていた。「公爵桂太郎伝」では次のように述べる。
公が内閣を組織するに当り、先づ内治外交に対する大方針を確定せり。其の政綱を掲ぐれば、大略左の如し。
一 財政上の基礎を鞏固にし、商工業の発達を謀る事。
一 海軍は八万噸を限度とし之を拡張する事。
一 独力極東の大局を担当するは困難なるを以て、機会を見て欧州の一国(英国)と或種の協約を締結するに注意する事。
一 韓国は我が保護国たるの目的を達する事。[1]
1905年4月8日、第一次桂太郎内閣は「韓国保護権確立の件」を閣議決定した[2]。その内容は「韓国の対外関係は全然帝国に於て之を担任し」「韓国は直接に外国と条約を締結するを得ざること」などであった。
対英交渉
4月16日、小村寿太郎外務大臣は林董在英公使に訓令を出した[3]。内容は「帝国政府は韓国の対外関係並に外交事務の監督指導を収握」する方針なので、英国政府と「直に本問題に関する意見交換を開始」「前述帝国政府の意見服膺の上談判を開かるべし」と指示したものであった。
5月24日、桂内閣は「日英同盟の強化、拡張」を閣議決定した[4]。そこには「(日本が韓国に対し)保護権を確立するときは英国は之を承認すること」という項目があった。
8月12日、第二回日英同盟協約調印[5]。第3条では、日本が韓国に対して「指導、監理及保護の措置」を行う権利を英国が承認するとある。
対米交渉
7月29日 桂・タフト協定。韓国について日本の宗主権(原文ではsuzerainty)確立と保護国化(原文ではno foreign treaties without the consent of Japan=日本の同意無しに条約を結ばない)をアメリカが容認[6]
8月7日 タフト特使が、協定の米大統領追認を桂に電報[7]
9月8日 ポーツマス条約で渡米中の小村外相がルート米国務長官と会談。韓国保護国化の承諾を取り付けた[8]。
9月9日 小村外相が高平小五郎駐米公使と共に米大統領セオドア・ルーズベルトに謁見。韓国保護国化の承諾を取り付けた[8]。
対露交渉
9月5日 ポーツマス条約調印。韓国における日本の「政事上、軍事上及経済上の卓絶なる利益」「必要と認むる指導、保護及監理の措置」をロシアが容認。
こうして日本は列強への根回しを済ませ、韓国保護国化の準備を整えた。
韓国側の反対・排日の動き
7月25日、韓国皇帝から在外公館宛電報。日露開戦以降に日韓が締結した条約は日本の強圧によるものだと批判[9]
9月25日、林権助在韓公使から桂太郎外務大臣へ「意見上申」[10][11]。その中で「韓国皇帝は東京擾乱(日比谷焼打事件)を聞いて、ポーツマス条約が批准に至らずロシアが勝ち日本は掃蕩されると喜んでいる」「皇帝は排日に傾きつつある」と報告。日本側としては「此後の機会に於て多少强圧を加ふるとも宮中枢要の地に悉く我官吏を配置」すべきなどと具申。
10月11日、萩原守一在韓臨時代理公使から桂臨時兼任外務大臣宛の電報[12]で、現地韓国の反応について報告している。そこでは「韓国保護問題」について「当国の宮中府中は勿論一般人民中にも悲観的観念を抱くもの漸く多く」、「排日主義」「義兵」の動きがあると述べている。
10月17日、萩原代理公使から桂宛の電報[13]で、第二回日英同盟協約の韓国条項について韓国外相が英国公使に抗議したと報告している。報告では日本に対しても同様の抗議があったこと、その抗議を「イグノヲア」する積りであることも付記している。
同じく10月17日、萩原代理公使から桂宛の電報[14]で韓国皇帝や韓国政府大臣らの動きを報告している。萩原は「韓国保護問題」について「皇帝は益々日本の態度を疑ひ近き将来に於て日本は其の目的を達せんが為強圧を加ふべしと予想し雑輩等の説を聞き他館に播遷若くは地方避難策を内密に講ぜらるるやの疑ひあり」と述べている。
10月20日、萩原代理公使から小村外務大臣宛電報で、仏語教師が露・仏政府宛の皇帝密書を発送するため芝罘か上海に向った」という情報[15]
10月22日、萩原代理公使から小村外務大臣宛電報で、韓国人李起鉉が宮中の内命で英国に向う、また米国人ハルバートも韓国での仕事を急に辞めて帰国する、韓国皇帝が動いているのではないかという報告[16]
10月23日、萩原代理公使から小村外務大臣宛電報で、英国公使が李起鉉よりハルバートの方が重大だと語ったという報告[17]
10月28日、萩原代理公使から小村外務大臣宛電報で、日本が韓国を保護国にすると韓国では悲観している、李起鉉・ハルバート・マアテルについてそれぞれ宮中・政府内の誰それが背後にいるという情報[18]
条約締結後12月2日付文書[19]で林公使が韓国側の条約拒否の動きが交渉前からあったと報告。
保護国化実行・伊藤博文派遣
10月27日、桂内閣が保護国化実行の詳細を閣議決定[20]。内容は「実行の時機は十一月初旬となすこと」「帝国軍隊を可成本件着手以前に悉皆入京(※京城)せしむること」「韓国政府の同意を得る見込なき時は最後の手段として一方韓国に向ては保護権を確立したる旨を通告し……」など。
11月2日、明治天皇が枢密院議長伊藤博文を招き、韓国へ行くことを命令[21]。
交渉過程
伊藤の強圧
11月15日、伊藤博文が韓国皇帝に謁見した。その内容は翌16日に林権助在韓公使が本国桂臨時兼任外務大臣宛に電報で報告した[22]。それによると、韓国皇帝は「哀訴」して伊藤の保護国化要求をかわそうとしたが、伊藤は「最早寸毫変改の余地なきを述べて之を拒否」した。
皇帝は……哀訴的情実談を持出し大使(※伊藤)使命の条件を可成緩和軽減せむことを極力努めらるるものの如く……陛下は既に大勢の然らしむる所敢て之(※保護国化)を絶対に拒絶の意にあらずと雖も要は只形式を存し其内容に至ては如何様に協定せらるるも敢て辞する所にあらずとて数回となく形式保存説を以て哀訴し其困難の情況を弁疏せらるるに過ぎざりしかば大使は……最早寸毫変改の余地なきを述べて之を拒否し該約案を皇帝に内示し……皇帝は終に大使の意翻すべからざるを知り兎も角外部大臣に命じ妥協の途を講ぜしむべき旨承諾せらる。 — 林公使報告「伊藤特派大使韓帝ニ内謁見シテ日本ニ外交権委任ノ必要ニ付陳奏ノ件」
また伊藤博文自身が提出した復命書[23](出張報告書)には伊藤と皇帝のやりとりが詳細に記されている。それによると伊藤が強圧的に保護国化を迫り、皇帝がなんとか逃れようとして様子がうかがえる。
大使(伊藤) 本案は帝国政府が種々考慮を重ね最早寸毫も変通の余地なき確定案にして……断じて動かす能はざる帝国政府の確定議なれば今日の要は唯だ陛下の御決心如何に存す。之を御承諾あるとも又或は御拒みあるとも御勝手たりと雖も若し御拒み相成らんか、帝国政府は已に決心する所あり。其結果は果して那辺に達すべきか。蓋し貴国の地位は此条約を締結するより以上の困難なる境遇に坐し一層不利益なる結果を覚悟せられざるべからず陛下(韓国皇帝) 朕と雖も豈其理を知らざらんや。然りと雖ども 事重大に属す。朕今自ら之を裁決することを得ず。朕が臣僚に諮詢し又一般人民の意向をも察するの要あり
大使 人民意向云々とあるも定めて是れ人民を扇動し日本の提案に反抗を試みんとの御思召と推せらる。是れ容易ならざる責任を陛下自ら執らせらるるに至らんことを恐る
大使 事の緩慢なるは事情の許さざる所なれば今夜直ちに外部大臣を御召しありて林公使の提案に基き直に協議を纏め調印の運びに取計ふべき旨勅命を下されたし — 伊藤復命書中「伊藤大使内謁見始末」
翌16日には、伊藤は韓国政府の各大臣・元老と会談している[24]。そこでも伊藤は強圧的に話を進めている。
韓参政 韓国の独立は……大使の同情を待てせめては形式上なりとも其名を保全したき希望なり。日本政府の這回の提案は大勢実に止むえお得ざるに出づることを諒とせざるに非ずと雖も我方の事情も亦少しく顧慮せられんことを望む大使(伊藤) 帝国政府自ら決する所あって此提案を敢てせし上は貴国政府が之を承諾せられずとて其儘黙止するものにあらざることを記憶せられよ
農商工部大臣権重顕 若し仮りに貴方提案を我方に於て容るるとせんか我国の独立は名実共に失し昔日清国の属邦たりし時代より今一層劣りたるものと為る恐れなき乎
大使 諸君が十年乃至二十年前の旧夢を想起し時世の変遷を察せずして自分勝手の判断を下すが如きは時勢に通ぜざるの甚しきものなり。貴国は其独立に必要なる実力を有せず実に虚名の独立に過ぎず……貴国が他の勢力を頼み若し此案の決定を荏苒に付せんとせらるる如きことあれば是全く空頼みに過ぎずして何等利益する所なきや明なり
参政韓圭卨 夫れ韓国現下の状況は気息奄々瀕死に等し。唯だ纔に一縷の余命を存せるは一に是れ外交関係を親らするに在るなり。其外交をすら貴国に委任せんか全く命脈断絶するの悲境に沈むべし。
大使 到底其御希望には応ずる能はざる次第を奏聞し陛下も已に御了解ありたることと信ず。 — 十一月十六日伊藤特派大使韓国大臣元老談話筆記
林公使報告書[25]は韓国各大臣の反対、特に韓参政と閔泳綺の二名の絶対反対を記している。協議中の王宮内外は不穏な状態で、「已むなかるべき」と承諾の意を示した李完用宅が襲われ放火された。
韓参政は本官に対して御前会議の経過を告げたり其要は各大臣一致の意見として本約案拒絶の奏上を二回迄為したるに陛下は拒絶の議を容れられず政府大臣尚進で本官との間に協商を凝らすべしとの勅諚ありたるに付此上は一両日の猶予を請ひ更に政府の議を纏めて本官に協議することとしたしと…外部大臣は自分一己としては不賛成なるも勅命あらば調印すべしと答へ韓参政及度支大臣閔泳綺の二人が絶対に不賛成を唱へたる外李址鎔李完用李夏栄権重顕及び李根澤の御大臣は情勢已むを得ずとの意見にて殊に学部大臣李完用は最も明晰に同意の已むなかるべき意見を表したり右の次第李址鎔及宮内大臣李載克に依り奏上せられたる結果陛下に於ても亦議決を嘉納せられ…調印を了へたるは本朝一時半なりし
宮中にての論議中韓参政は精神衰弱症に陥りて別席に移り又宮城内外不穏の兆候あり且条約案に明晰なる賛成を表したる学部大臣李完用の留守宅は暴漢数十名の襲ふ所となり放火の難に遭へりとの急報ありて各大臣も調印前に大に躊躇狼狽の態度を現はしたるに付… — 林公使報告書「日韓協約調印事情報告ノ件」
11月17日、第二次日韓協約調印。韓国側は更なる協議のため数日猶予を求めたが日本側が拒否した[25][26][27]。伊藤は日記「伊藤大使韓国往復日誌」で、日本側が一気呵成にやろうとして韓国側がためらったと書いている[28]。
十一月十七日 金曜日 晴 大使は依然長谷川大将邸に在り本日午前十一時韓国各大臣は林公使の招に応じて日本公使館に来り午餐を共にし懸案談判に関し林公使と熟議したる後午後三時一同相伴ひて参内す萩原・国分両書記官前間・塩川両通譯亦之に従ふ公使は一気呵成に本日保護條約の調印を了せんとせしも韓官の派遣逡巡によりて容易に其の解決を視る能はざるを以て午後七時半伊藤大使の参内を促せり — 伊藤の日記「伊藤大使韓国往復日誌」
戦前語られていた様子
条約締結当時に京城日本人居留民長だった中井錦城は、条約から10年後の著書[29][注釈 2]でこう述べている。
談判依然として捗取らないので、(長谷川)大将は参政大臣と外部大臣を指し、憲兵隊長に向って何事をか命令すると、日本語の分る大臣は、之を聞て戦慄した、此場の状況を看て取った、大臣の末席文部大臣李完用は、今日の時勢已を得ないから、新条約を承認しては如何と、始て口を切った。 — 中井錦城「朝鮮回顧録」182頁
また西四辻公堯は1930年の著書「韓末外交秘話」で「所謂朝鮮人の併合観なり」[30]と前置きしつつこう描写している[31]。
こうして皇帝の聖断を暫く待って居る間に、突然、韓参政大臣が声を掲げて哀号しだし、遂に別室に連れ出された。此時、伊藤侯は他を顧みて、「余り駄々を捏ねる様だったら殺ってしまへ」と大きな声で囁いた。然るに愈々御裁可が出て調印の段となっても、参政大臣は依然として姿を見せない。そこで誰かが之を訝ると、伊藤侯は呟く様に「殺っただらう」と澄している。列席の閣僚中には日本語を解する者が二、三人居て、之を聞くと忽ち其隣へ其隣へと此事を囁き伝へて、調印は難なくバタバタと終ってしまった。
海野福寿は西四辻記述について「二次史料」としつつも、中井記述と「共通する筋立て」[32]であり、「伊藤や長谷川駐箚軍司令官が脅迫的言辞を弄したことを否定するものではない」[32]としている。
日本軍の包囲・監視
当時王宮内外には多数の日本軍兵士・巡査らがいた。林公使によると「見張り」「逃げ出さぬやうに監視」の目的であった(林公使回想[33])。皇帝が退去命令を出したが日本兵らは言うことを聞かなかった(警務顧問丸山警視11月20日付報告[34][35])。韓国の「大韓季年史」では日本兵らは「恐喝気勢」[36]であったとする。また当時の報道によると、日本兵は王宮内外を「包囲」[37]するだけでなく王宮前で演習も行った[38]。
また林公使は王宮内各所にスパイを配置して韓国側の動きを報告させたと述べている(林公使回想[39])。
調印に必要な印章を誰がどう入手したか
条約締結には調印が必要だが、韓国王宮内には印章が無かった。上海の英字紙チャイナ・ガゼットは調印後11月23日夕刊で日本側が印章を強奪したと報じ[40]、具体的に「沼野(安太郎)」の名を挙げている。ベルリン紙ロカール・アンツァイゲル[41]も国璽に関する問題を取り上げた。
林公使は11月28日付文書でその2つの海外報道に反論し、韓国側保管者が印章を宮中に持ってきたと述べている[42]。しかし林は後年の回想[43]では印章保管者を見張らせたと打ち明けている。
中井錦城は、沼野が印章を自宅に持ち帰っていてそれを宮中に持ってきたと述べている[44][注釈 2]。
スチーブンス銃撃事件
1908年に韓国外交顧問スチーブンスが韓国人独立運動家張仁煥らに銃撃され死亡したが、その裁判で被告側は、被害者らが国璽を横奪したと主張した[45]。そして韓国外交顧問補佐官[46]としてスチーブンス側近だったのがチャイナ・ガゼット紙報道に出てきた沼野である。
スチーブンスは井上馨外務卿の秘書官など務めた「親日家」[47]で、1904年に日本が推薦して以降、韓国外交顧問を務めており、契約書によれば韓国の「一切」の外交文書を閲覧する権限を有し、また韓国は「一切」の外交案件について予めスチーブンスの同意を得る必要があった[48]。
伊藤博文の日記[49]によると、スチーブンスは条約交渉開始前の11月10日に伊藤を訪問、16日に林公使の晩餐会に出席、調印後20日には米国公使館の晩餐会で伊藤・林と同席している。沼野は10日に(スチーブンスに付いて?)伊藤を訪問、13日の韓国側の晩餐会で伊藤・林と同席している。また条約交渉前に韓国は第二回日英同盟協約の韓国条項について日英両国に抗議していた[13](→第二次日韓協約#韓国側の反対・排日の動き)が、その際韓国は「英国公使宛のものは同外交官補(※沼野)に秘して発送したるものなる可し」と沼野に知らせておらず、沼野を警戒していた可能性がある。
以上の経緯から、海野福寿は「韓国保護条約の強要」[50]「両国対等の立場で合意妥結したのではなく、強制締結といわなければならない」としている[51]。
伊藤之雄は「韓国に第二次日韓協約を強いて、外交権を奪い」と表現している[52]。
条約全文と内容
原文
- 日本國政府及韓國政府ハ兩帝國ヲ結合スル利害共通ノ主義ヲ鞏固ナラシメムコトヲ欲シ韓國ノ富強ノ實ヲ認ムル時ニ至ル迄此目的ヲ以テ左ノ條款ヲ約定セリ
- 第一條 日本國政府ハ在東京外務省ニ由リ今後韓國ノ外國ニ對スル關係及事務ヲ監理指揮スヘク日本國ノ外交代表者及領事ハ外國ニ於ケル韓國ノ臣民及利益ヲ保護スヘシ
- 第二條 日本國政府ハ韓國ト他國トノ間ニ現存スル條約ノ實行ヲ全フスルノ任ニ當リ韓國政府ハ今後日本國政府ノ仲介ニ由ラスシテ國際的性質ヲ有スル何等ノ條約若ハ約束ヲナササルコトヲ約ス
- 第三條 日本國政府ハ其代表者トシテ韓國皇帝陛下ノ闕下ニ一名ノ統監(レヂデントゼネラル)ヲ置ク統監ハ專ラ外交ニ關スル事項ヲ管理スル爲京城ニ駐在シ親シク韓國皇帝陛下ニ内謁スルノ權利ヲ有ス日本國政府ハ又韓國ノ各開港場及其他日本國政府ノ必要ト認ムル地ニ理事官(レヂデント)ヲ置クノ權利ヲ有ス理事官ハ統監ノ指揮ノ下ニ從來在韓國日本領事ニ屬シタル一切ノ職權ヲ執行シ並ニ本協約ノ條款ヲ完全ニ實行スル爲必要トスヘキ一切ノ事務ヲ掌理スヘシ
- 第四條 日本國ト韓國トノ間ニ現存スル條約及約束ハ本協約ノ條款ニ抵觸セサル限總テ其效力ヲ繼續スルモノトス
- 第五條 日本國政府ハ韓國皇室ノ安寧ト尊嚴ヲ維持スルコトヲ保証ス
- 右証據トシテ下名ハ本國政府ヲリ相當ノ委任ヲ受ケ本協約ニ記名調印スルモノナリ
- 明治三十八年十一月十七日 特命全權公使 林權助
- 光武九年十一月十七日 外部大臣 朴齊純
内容(口語訳)
- 第1条:日本国政府は、東京にある外務省により今後韓国の外国に対する関係および事務を監理指揮するものとし、日本国の外交代表者および領事は、外国における韓国の臣民および利益を保護するものとする。
- 第2条:日本国政府は、韓国と他国との間に現存する条約の実行を全うする任務に当たり、韓国政府は、今後日本国政府の仲介によらずして国際的性質を有する何らの条約もしくは約束をしないことを約する。
- 第3条:日本国政府は、その代表者として韓国皇帝陛下の下に統監(resident general)を置く。統監は、外交に関する事項を管理するため京城に駐在し親しく韓国皇帝陛下に内謁する権利を有する。日本国政府は韓国の各開港場およびその他日本国政府の必要と認める地に理事官(resident)を置く権利を有する。理事官は、統監の指揮の下で、従来在韓国日本領事に属した一切の職権を執行し、ならびに本協約の条款を完全に実行するために必要とすべき一切の事務を掌理するものとする。
- 第4条:日本国と韓国との間に現存する条約および約束は本協約の条款に抵触しないかぎり全てその効力を継続するものとする。
- 第5条:日本国政府は韓国皇室の安寧と尊厳を維持することを保証する。
締結後
韓国の嘆き・抗議・自決・排日
韓国内
調印後の韓国皇帝の落胆ぶりについて、丸山警視報告[34][35]で伝えている。それによると皇帝は「千載の遺恨」と嘆き「発熱苦悶」したという。また丸山は同報告で韓国民の反応が「到る処慨嘆の声」であるとし、宮城門外で排日演説があり群衆が集まったとも知らせている。
一、去十七日夜宮中に於て新条約調印後宮内大臣より調印済の旨を上奏したるに韓皇は如此重要なる条約を斯くも容易に急劇に締結を見るに至りしは実に千載の遺恨なり素より今日の場合各大臣の措置と雖も詮方なかるべし唯茲に日本の要求を容るると仝時に自国よりもまた何をか反対利権を要求するの掛引は此の際予め各大臣の腹案に存ぜざるべからず然るを其の事なく遂に軽々に締結を終へしは大臣等の無能無気力なる心外に堪へずと慨嘆せられたりと而て前来の疾患俄かに発熱苦悶に陥られ今尚、悩まれつゝありと一、新条約調印後一般の民心は大に悲観的感想を抱き亡国を以て自認し大小の官吏を目して亡国の奴となし到る処慨嘆の声あり刻下不穏の患は中流以下に在るものゝ如く中流以上に在りては比較的稍々静穏に向はんとし寧ろ経済界の不振を嘆ずるの声囂々たり尚一般警戒中
一、一昨十八日午後宮城布徳門外公道に於て排日主義の演説をなす韓人あり多数の者為めに群衆せるを発見し直に解散を命じ弁士は之を取押へ目下取調中なり — 丸山警視報告
韓国各大臣は辞表を提出した。しかし伊藤が止めさせたと自身の日記に記している[53]。
十一月十八日 土曜日 晴 本日午後內閣動搖各大臣辭表提出ノ報ニ接シタルヲ以テ大使ハ都筑書記官長ヲシテ國分書記官ヲ伴ヒ宮中ニ赴キ此ノ際猥ニ內閣大臣ヲ動カサルゝ樣ノコトアリテハ徒ニ人心ヲ不安ナラシムルノ虞アルヲ以テ現狀ヲ維持セサル可カラス若是非共國務大臣ヲ交迭スルノ必要生シタルトキハ博文當地ニ滯在中ハ御下問アリタル上ニテ御決行アリタシト奏上セシメタルニ陛下ハ其ノ意ヲ諒シタル旨勅答アリタリ — 伊藤大使韓国往復日誌
また韓国元老等は韓国皇帝に意見上申し「君臣共に死すべき」「殉死」の意を表明した[54]。
十一月十八日 土曜日 晴(181) 時局ニ關スル件 祕第一二四號 (中略) 一. 去三日ノ夜李根命其ノ他ノ元老カ入闕シテ韓皇ヘ上疏シタル顚末ナリトリ沈相薰カ近親ニ語リタル要領左ノ如シ
「元老等ハ韓皇ニ對シ韓國三千里ノ疆土二千萬ノ同胞臣民ハ陛下ノ造ラレタルモノニアラス祖宗大王ノ讓リ給ヘル國家ナリ然ルヲ今日本ノ爲ス處ニ一任シタルハ大王始メ二千萬衆ノ憤慨ニ堪ヘサル處ナリ若シ新條約ニシテ破毀スル能ハスンハ陛下先ツ自盡シテ罪ヲ上下ニ謝セラルヘク君臣共ニ死スヘキハ今日ナリ陛下死セハ臣等又殉死スヘシト奏上シ爲メニ甚シク陛下ノ震怒ニ觸レ汝等何ヲ云々スルカ今回ノ條約ハ朕深ク之ヲ熱考シ最早汝等ノ容喙スヘキ餘地ナシ況ンヤ自盡ヲ迫マルカ如キハ其ナ罪眞ニ輕カラストテ遂ニ上奏セル元老等ニ對シ黜門ノ典ヲ施サレタリト」(中略)右及報告候也 明治三十八年十二月六日 警務顧問丸山重俊 特命全權公使林權助殿
侍従武官長閔泳煥と元老趙秉世は自決した[55][56]。閔泳煥の遺書には「自分ハ國事ノ爲メニ殉死スニチ萬同胞ハ一心ニ事ヲ擧ケヨ」[57]との文意が記されていた。日本側は「一般の感情を融和」するため閔泳煥を国葬にするよう皇帝に要請した[58]。皇帝は閔泳煥・趙秉世の二人に諡号を追贈した[59]。本国の桂太郎首相はこうした事態を重く見て、林公使に対し「貴官は韓帝をして将来斯る不心得の行動を厳重に戒むるの詔勅を発せしめんが為至急必要の措置を執らるべし」と指示した[60]。
京城の日刊紙皇城新聞は11月20日に条約を批判する論説・記事を掲載し差押え・発行禁止処分を受けた[61]。主筆張志淵によると、前夜の検閲で塗りつぶしを指示されたが処罰覚悟で発行した。
11月30日には京城鍾路で「多数の韓民集合」し取締の巡査、憲兵が負傷した。また「暴民の一部は鍾路日本憲兵屯所に至り前面の硝子障子等を破壞」「約百名を逮捕」[62]。
朝鮮総督府「朝鮮の保護及併合」(1917年2月)ではこう述べている。
第一章朝鮮の保護 第四節排日の騒擾 韓国の官民多くは固陋頑冥にして大勢に通暁せず明治三十八年十一月の協約締結以来我が保護国と為りたるを憤慨し百方術を講じ策を回らし其の覉絆を脱せむと欲し上は皇帝より下群衆に至るまで努めて我が対韓政策を誹謗し我が施設を阻害し流言浮説を捏造し人心を扇動し…以て明治四十年の前半は韓国上下を通じて滔滔として之に和し之に奔りて皆是れ排日の徒にあらざるなきの観を呈し… — 朝鮮総督府「朝鮮の保護及併合」32頁
韓国の民間政治団体一進会は協約締結に際し交渉前[63]にあるいは締結後[64]に賛意を示したが、それにより「勢力を失墜」[65]した。日韓合邦声明を主謀した内田良平は1905年12月から韓国統監府嘱託、1906年10月から一進会顧問を務めていた[66]が、その内田の1907年4月15日付報告書[67]によると、「一進会支部長等」は「二十三郡十万余名の会員は今や減退して三万余名に過ぎず」と述べたという。またその後も保護国時代を通じて「国賊」「売国奴」扱いされ、殺された会員も多かった[68][69][70][71]。
列強への訴え
早くも11月中には韓国側外交官が仏・露に対して条約が強制であると主張した[72]。
また韓国皇帝特使の米国人ハルバートは韓国から帰米し、保護国化に反対する内容の韓国皇帝親書を11月中に米国務長官エリフ・ルートを通じて米大統領セオドア・ルーズベルトに届けた。しかし日本側が既に根回しを済ませていた事もあり、11月25日付でルート長官から示された回答はよいものではなかった[73]。ハルバートはルートに直接会ったが、ルートは「Do you want us to get into trouble with Japan?(我々を日本との揉め事に巻き込みたいのか?)」と述べたという[74]。ルートの回答翌日、ハルバートは韓国皇帝からの電報を受け取ったが、そこには第二次日韓協約は無効であり認めないと記されていた。ハルバートはそれを米国務省で国務次官補に渡した[75]。
パリにいた閔泳瓚駐仏韓国公使も渡米して12月11日にルート国務長官を訪ね、第二次日韓協約は「was procured from the Emperor of Korea by duress and should therefore be ignored(皇帝が強要されたもので無効となるべき)」[76]と訴えたが、これも受け入れられなかった。
12月11日付米現地紙イヴニング・スターは閔泳瓚の国務省訪問を取り上げ、翌12日付ワシントン・ポスト紙は閔泳瓚とハルバートのワシントンにおける言動を記事にしている。また13日付イヴニング・スターは韓国皇帝からハルバートへの電報の内容を報じた[77]13・14日のニューヨークタイムズ紙もハルバートを記事にして韓国側の主張を伝えている[78]。
また1906年1月29日付で作成されたという韓国の国璽入り文書が、1907年1月16日付の大韓毎日申報に掲載された[79]。これも第二次日韓協約が無効であることを主張する内容で、ロンドンのトリビューン紙に掲載されたものの転載[80]だという。
またハルバートは、1907年6月にも同内容の欧米各国宛皇帝親書(1906年6月22日付)を託されている
[81]。ハルバートはシベリア鉄道経由でパリに到着し[82][83]、そこから平和会議が行われているハーグへ向い[84]、そして渡米したが、彼に親書を託した皇帝が退位させられて不首尾に終わったという[85]。
一連の韓国皇帝高宗の抵抗の最後が、李儁・李相・李瑋鍾3人を皇帝特使として派遣したハーグ密使事件だった。
日本側の喜びと韓国への威嚇
林権助公使は調印後の報告で、韓国に妨害される前に機先を制したと自画自賛した[19]。伊藤博文特派大使、長谷川好道韓国駐剳軍司令官も調印後の宴席で功を自慢したという[注釈 2]。
また伊藤は11月29日韓国各大臣との会見で、陰で変な動きをしても全部分かってるからやめろと威嚇した[86]。伊藤は1907年5月22日にも、韓国皇帝に対してハルバートなどを使って列強に訴えるのは協約違反で責任を問うと威嚇している[87]。
政局の推移
大日本帝国は日露戦争中である1904年の第一次日韓協約締結により大韓帝国の財政・外交に対し関与する立場となっていたが、その間、桂・タフト協定が締結された。
日露戦争に勝利し、その講和条約であるポーツマス条約(1905年9月5日)により大韓帝国に対する優越権をロシアから承認され、また高宗が他の国に第一次日韓協約への不満を表す密使を送っていたことが問題となったこともあり、大日本帝国からの信頼を無くしていた大韓帝国に対し、より信頼できる行動をとることを求めるため、この協約を結ぶこととなった。
協約締結後の1907年に、協約は強制されたもので無効と主張する高宗の親書を携えた密使が万国平和会議に派遣されたが国際的には有効な協約であったため、拒絶された(ハーグ密使事件)。
この密使の派遣が問題となり、高宗は李完用らに責任を問われ純宗に譲位することとなり、第三次日韓協約の調印へと進むこととなった。
同年11月23日、日本国内では同条約の告示とともに、条約に準じて韓国統監府及び理事庁を設置する旨の勅令第240号が公布された。韓国では、締結後の1905年11月末に駐韓英国公使館、12月に米国公使館などの各公使館が韓国を撤退し、清国の曾廣銓やロシア帝国公使なども本国へ呼び戻された。初代韓国総監に伊藤博文、初代総務長官に鶴原定吉が任命され、翌年の1906年(明治39年)に李氏朝鮮の高宗に拝謁、後に宮廷顧問官と韓国総監府管制などを協議した。韓国統監府において、伊藤は教育の設備改善をはじめ諸事の事柄を上奏し、諸事のための資金1千万円を日本興業銀行から韓国へ融資させ、改善に取り組んだ。
無効論
本協約は、1965年に結ばれた日韓基本条約第2条により、他の条約とともに「もはや無効」であることが確認されたが、この解釈においても日本と韓国(大韓民国)では割れている。日本では1965年の条約締結以降に無効になったと考えている。一方、韓国政府は「日韓併合条約が当初から無効であった(締結時から条約としての効力を発していない)」という立場を取っている。
協約締結時の高宗皇帝
李完用らが上疏した「五大臣上疏文」では、締結交渉自体を拒否しようとした強硬派大臣たちに対し、高宗自らこれを戒め「交渉妥協」を導いた様子が報告されている。また、高宗は少しでも大韓帝国に有利になるように協約文の修正を行うこととし、李らの修正提案を積極的に評価している。大日本帝国側も大韓帝国側からなされた4カ所の修正要求を全て受け入れ協約の修正を行った[88]。
ただし原田は別の論文[89]で、それは調印当日の「(11月)17日午後の御前会議」の話であり、15日の伊藤・皇帝交渉後に皇帝が方針「転換」したものだとする。原田は別の発表[90]でも同様の話をしている。つまり15日交渉時の伊藤の強圧が先であり、それを受けての方針転換である。 朝鮮大学の歴史地理学部長である康成銀は「五大臣上疏文」自体が李完用ら協約賛成派によって記され、協約に賛成する事で売国奴と糾弾された乙巳五賊自身の皇帝に対する弁明を記した上疏文に過ぎない事などを指摘している。1906年1月5日に提出された「呉炳序等上疏文」は「五大臣上疏文」を批判して、五大臣が責任を皇帝に被せようとした諸事実を指摘しており、皇帝はこの「呉炳序等上疏文」に批答を与え「爾(なんじ)の言葉は詳しく明らかであり、条里(ママ)がある」と肯定的に評価している。また1905年11月25日に乙巳五賊のひとりである当の権重顕が提出した「権重顕上疏文」には「乙巳五条約」が定められた条約手続きを踏んでいないことや、皇帝の裁可を経ずに調印されたことなど、後に提出された「五大臣上疏文」とはまったく正反対の内容が記されている。康成銀はこれらの事実を以って「五大臣上疏文」の資料としての信頼性に疑問を呈している。
協約締結後の高宗皇帝
1905年11月18日に勒約が締結されると、皇帝はこれが「無効であること」をただちに明らかにするために、芝罘経由で11月26日に緊急電文をイギリスのハーバート・ヘンリー・アスキスに送った。その内容は「朕は銃剣の威嚇と強要のもとに最近韓日両国間で締結した、いわゆる保護条約が無効であることを宣言する。朕はこれに同意したこともなければ、今後も決して同意しないであろう。この旨を米国政府に伝達されたし。」というものであった[91]。第二次日韓協約の無効を訴えるイギリス宛親書後、高宗は第二次日韓協約締結の不当性を国際社会に訴えようと努力したが、当時の国際情勢によって皇帝の密書などは支持を得られなかった。高宗の第二次日韓協約無効を主張する書簡には1906年1月29日に作成された国書、1906年6月22日にハルバート特別委員に渡した親書、1906年6月22日にフランス大統領アルマン・ファリエールに送った親書、1907年4月20日ハーグ密使李相卨[注釈 3]への皇帝の委任状などがある。
国際法上の評価
当時の国際法においては、国家への武力による条約の強制があっても有効であるが、国家代表者に対する脅迫があった条約は無効原因となるとされている。 第二次日韓協約の締結と同一年に刊行された英国の国際法の教科書であるオッペンハイム(L. Oppenheim)には「真正の同意がない場合には条約は拘束力を欠くので、締約国には絶対的な行動の自由がなければならない。しかし、『行動の自由』という表現は、締約国の代表者に対してのみ適用される。当事国の代表者に対する脅迫に基づき締結された条約は、この者の代表する国家を拘束するものではない」との説明が見られる。同時代の代表的国際法学者であったホール(W.E. Hall)の他に、ブルンチュリ(M. Bluntschili)やフィオレ(P. Fiole)、倉知鉄吉や高橋作衛といった学者も同様の見解を示していた。このように、国の代表者に対して個人的に加えられた強制や脅迫の結果として結ばれた条約が無効となるということは、第二次日韓協約締結当時の国際慣習法として成立していたものと思われる。[92]
今日における無効論の大多数は、以下の2点を主張し、その根拠としている[93]。
- 本協約は当事国の代表者への脅迫に基づいて強制的に調印させた条約である。
- 本協約朝鮮には皇帝の承認(署名・調印)がない。
韓国の学者やフランス国際法学者フランシス・レイは「第二次日韓協約締結時に国家代表たる高宗に強迫が使われた」ことと「日本の韓国に対する保証義務」をあげて ‘1905年条約が無効’と主張している[94]。また、1935年にハーバード大学法学部が米国の国際法学会から委託を受け、条約法制定に関してまとめた「ハーヴァード草案」では、条約強制に関する部分でフランシス・レイの理論をそのまま採択し、第二次日韓協約を相手国代表を強制した効力を発生しえない条約の事例として挙げた[95]。更に1963年に国連ILC報告書の中で、ウォルドック特別報告官は第二次日韓協約を国家代表個人の強制による絶対的無効の事例としていた[96]。ここで言う代表者個人への強制の事例としては、強硬な反対派であった参政大臣の韓圭ソル(ハン・ギュソル)の別室への監禁と脅迫、憲兵隊を外部大臣官邸に派遣し、官印を強引に奪い取極書に押捺した事などがあったとされており、その様子がロンドンデイリーメイル紙の記者マッケンジーの著書『朝鮮の悲劇』や、11月23日付けの『チャイナ・ガジェット』(英字新聞)に記載されている[97][98]。一方、海野福寿(明治大教授)は協約調印の当日に韓国駐箚軍が王宮前広場で演習などを行ったりはしていたが、この日は李完用学部大臣の邸宅が焼き討ちされる等の状況にあり、過剰警備であったとしても、それが国家代表者への脅迫とはいえず、また、無効論者が強制の根拠としている『韓末外交秘話』は、その著者自身が噂をまとめたものと記しているように資料的価値がないとし、更に、条約に署名・調印する者は、国際法では皇帝でなくとも特命全権大使や外務大臣でもよいため、韓国側の外部大臣と日本側の駐韓公使が署名調印した同条約は国際法的に問題はないとしている。また、海野は1966年の国連国際法委員会で採択された条約法『国の代表者に対して強制があった条約は無効とする法』に同条約への言及がないことを指摘し、国家への強制性は認められるが、国際法的に無効原因となる国家代表者個人に対する脅迫の事実を史料的に確認することはできないとしている[93][99]。また、上述(#協約締結時の高宗皇帝)のように原田環(県立広島女子大教授)からは、『五大臣上疏文』などの史料調査から皇帝の高宗は「日本の協約案を修正して調印する方向に韓国の大臣達を動かしていた」とし、脅迫をされたという皇帝自ら協約締結のリーダーシップをとっていたとの指摘がなされている[88]。
2001年、この問題を検討するために韓国側の強い働きかけにより開催された国際学術会議、「韓国併合再検討国際会議」では、日韓および欧米の学者が参集し問題を検討している。韓国の学者は一致して不法論を述べ、また日本から参加の笹川紀勝も持論の違法論を述べるなどしたが、ダービー大学のキャティ教授が帝国主義全盛の当時において「国際法が存在していたかどうかさえ疑わしい」とし、ケンブリッジ大学のクロフォード教授(国際法)は「強制されたから不法という議論は第一次世界大戦(1914年-1918年)以降のもので当時としては問題になるものではない」、「国際法は文明国間にのみ適用され、非文明国には適用されない」とし、「英米などの列強の承認があった以上、当時の国際法慣行からするならば、無効ということはできない」としている[100][101]。
戸塚悦朗は条約調印当時の国際法学説を検討し、「当時の学説は、『批准必要説』で一致」「1905年『韓国保護条約』を含む日韓の五つの旧条約は、いずれも批准を欠いている故に、国際法上は有効に成立していなかったと考えるしかない」と指摘し、併せて日本における研究の現状を「沈黙と研究の不在」と批判している[102]。
脚注
注釈
- ^ 日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約:第2条 千九百十年八月二十二日以前に大日本帝国と大韓帝国との間で締結されたすべての条約及び協定は、もはや無効であることが確認される。
- ^ a b c ただし海野福寿は、これは条約調印後の祝賀会で伊藤・長谷川が酔って話したのを中井が聞いたのだろうとする(海野福寿「外交史料韓国併合(上巻)288頁)。祝賀会については中井の著書182・183頁を以下引用する。 「遂に調印を了した。それから数日の後、京城仁川連合して大使を花月楼に招待した…大使は非常に酩酊されて、大分新条約の自慢話が出た、すると陪席だった長谷川大将が怒り出し、自分を捕まへて、何だ伊藤が、新条約締結を己れ一人の功にしゐる、決して伊藤一人の功ではないぞ、伊藤をこゝへ連れて来いと、自分は漸くの事で大将を宥め、大使と同伴して帰らした、そして大将不平の事を其時林公使に話した、数日後長谷川大将にも林公使にも、新条約締結の功労に対して詔勅が下った。
- ^ 韓国政府はこれを「特使」と呼んでいるが、当時その事実を認めた国はない。
出典
- ^ 徳富猪一郎編 編『公爵桂太郎伝. 乾巻』故桂公爵記念事業会、1917年、995-996頁 。
- ^ “日本外交文書デジタルアーカイブ第38巻第1冊(明治38年/1905年)「11 日韓協約締結並統監府設置ノ件附在韓各国公使館撤廃ノ件」519頁「ニ五〇 韓国保護権確立ノ件」”. 外務省外交史料館. 2021年9月1日閲覧。
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- ^ “日本外交文書デジタルアーカイブ第38巻第1冊(明治38年/1905年)「1 第二回日英同盟協約締結一件」15‐17頁「一八 日英同盟ノ強化、拡張ニ関シ閣議決定ノ件」”. 外務省外交史料館. 2021年9月1日閲覧。
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- ^ “日本外交文書デジタルアーカイブ第38巻第1冊(明治38年/1905年)「6 桂タフト了解ニ関スル件」の450頁「一九三 桂タフト了解ニ関シ米大統領追認ノ件」”. 外務省外交史料館. 2021年9月3日閲覧。
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- ^ “日本外交文書デジタルアーカイブ第38巻第1冊(明治38年/1905年)「13 韓帝密使発遣ニ関スル件」”. 外務省外交史料館. p. 661. 2021年9月29日閲覧。 “大要左の如き暗号電報を内示せり。朕現に圍城の裡裡に在り、国政悉く掣肘を受く。日露開戦以来日韓間に締結せられたる国際条約及利権に関する条約等は朕の与り知る所に非ず。政府大臣も挙て日本の指揮を受けつゝあり其間傭外国人解雇の事及公使撤退の如きも是れ朕が真意に非らず、即日本の強圧に由る。縦令政府より之に関し電訓する所あるも敢て施行することなかれ 右宮中より発電”
- ^ “한국사데이터베이스 비교보기 > (52) 궁중 내용 및 그 정리에 관한 의견 上申”. db.history.go.kr. 2021年9月4日閲覧。 “近來宮中ノ內容ヲ探偵シタルモノゝ報告ニ據ルニ皇帝ハ東京擾亂ノ情報陸續宮中ニ達スルヤ此次媾和條約ハ批准ニ至ラスシテ止ムヘク平和克復ハ猝ニ望ムヘカラサルモノト速斷シ果シテ然ランニハ戰爭ハ依然繼續セラレ露國ハ最後ノ戰勝ヲ得日本軍ハ滿韓地方ヨリ掃蕩セラルヘシト滿面喜色ヲ帶ヒテ揚言セラレ嬖臣等亦帝ノ意ニ阿諛シテ多ク之ニ和スル等一時奇觀ヲ呈シタル趣ニ有之候 又最近日本ヨリ歸來シタル度支大臣閔泳綺氏ノ內密ノ報道ニ基クニ宮中ノ形勢咋今稍一變シ帝ノ意漸ク排日主義ニ傾キ種々ノ手段ハ祕密ニ宮中ニ講セラレツゝアリ察スルニ英人 「ベツセル」 ニ內々內帑ヲ下賜シ其主宰ニ係カル韓英日刊新聞ヲ買收シ主トシテ排日論ヲ鼓吹セシメ又一方ニハ李容翊ノ輩ヲシテ露國官憲ニ何等運動セシムル所アルモノゝ如シ形勢如此ナルヲ以テ宮中ハ漸次日本ヲ疎外シ再ヒ露國ニ昵近セントスル狀アリ 此後ノ機會ニ於テ多少强壓ヲ加フルトモ宮中樞要ノ地ニ悉ク我官吏ヲ配置シ一方ハ帝ノ動作ヲ看守スルト同時ニ他方ニハ宮中ヲ秩序的ニ釐革スルコト最モ機宜ニ適シ且ツ必要ノ措置ト認メ候斯クシテ宮中ノ專橫ヲ制肘シ雜輩ノ出入ヲ禁遏シ陰謀ヲ企而種々ノ狂態ヲ演スルノ途ヲ杜絶シ始メテ韓國ノ經營ヲ平靜ニ實行シ得ヘクト存候”
- ^ “韓国宮廷改善一件”. www.jacar.archives.go.jp. 2021年9月4日閲覧。
- ^ “日本外交文書デジタルアーカイブ第38巻第1冊(明治38年/1905年)「11 日韓協約締結並統監府設置ノ件 附 在韓各国公使館撤廃ノ件」523‐524頁「ニ五五 日本ノ韓国保護ニ対スル韓国人ノ反対運動ニ関スル件」”. 外務省外交史料館. 2021年9月1日閲覧。
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- ^ “日本外交文書デジタルアーカイブ第38巻第1冊(明治38年/1905年)「11 日韓協約締結並統監府設置ノ件 附 在韓各国公使館撤廃ノ件」524-525頁「ニ五七 日本ニ依ル韓国保護ノ強行を疑惧シ韓帝蠢動並ニ各大臣ヨリ内政粛正二関シ奏請ノ件」”. 外務省外交史料館. 2021年9月1日閲覧。
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- ^ “日本外交文書デジタルアーカイブ第38巻第1冊(明治38年/1905年)「13 韓帝密使発遣ニ関スル件」”. 外務省外交史料館. pp. 662‐663. 2021年9月29日閲覧。 “李起鉉なるものは…密かに宮中の内命を帯びて英国に向ふ由なり。又当地中学校教師米人ハルバアト(コリアレビュウの主筆)は数日前突然辞表を呈し本日当地出発…彼れの出発前後の態度に照し何等宮中との関係あるものと認め得べき理由多し。…国王は近く決定せらるべき韓国の地位に関し外国の援助を求むる為め各種の手段を講じつゝあるは事実らしく前電仏語教師の芝罘行と相対して前述の二人も亦其の手段の一と見て可なり。”
- ^ “日本外交文書デジタルアーカイブ第38巻第1冊(明治38年/1905年)「13 韓帝密使発遣ニ関スル件」”. 外務省外交史料館. p. 663,664. 2021年9月29日閲覧。 “英公使はハルバアトの内密の使命に関しては確信するところあるものの如く其結果は李起鉉鉉に比し甚だ重大なりとの意見なり。ハルバアトの素性及近来の行動に関しては在米公使に通知の上、米国政府をして彼の申分に信頼せしめざる様御措置あらば好都合なり。”
- ^ “日本外交文書デジタルアーカイブ第38巻第1冊(明治38年/1905年)「13 韓帝密使発遣ニ関スル件」”. 外務省外交史料館. pp. 665-666. 2021年9月29日閲覧。
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- ^ a b “日本外交文書デジタルアーカイブ第38巻第1冊(明治38年/1905年)「11 日韓協約締結並統監府設置ノ件 附 在韓各国公使館撤廃ノ件」534頁「ニ六八 日韓協約調印事情報告ノ件」”. 外務省外交史料館. 2021年9月3日閲覧。
- ^ “日本外交文書デジタルアーカイブ第38巻第1冊(明治38年/1905年)「10 伊藤特派大使遣韓ノ件」中の「日韓新協約調印始末」503頁”. 外務省外交史料館. 2021年9月1日閲覧。 “十一月十七日午後八時伊藤大使は長谷川大将を同伴参内し各大臣と会見の結果林公使は朴外部大臣と共に日韓新協約書に調印を了したり。其始末大要左の如し。先是宮内府大臣李載克は通訳を伴ひ大使を訪ひ陛下勅命を奉じて協約案の決定を数三日間延期せんことを求めたるも大使は林公使報告に由り已参内の準備整ひ居りたるを以て李宮相をして其参内の趣を伝へしむる為大使に先って宮中に帰へらしめたり。”
- ^ 林権助『わが七十年を語る』第一書房、1935年、227頁 。「「(密使の報告によれば)いま大様が、宮内大臣を伊藤公の宿舎に特使させることを言ひ付けてをられる。その目的は今王城内で協議してゐる問題を二、三日日延べして下さらぬかといふ王様の御希望を伊藤公に伝へる役らしいといふのである。…」(林が伊藤に)「之を延期するといふ説もあるやうです。しかもそれが国王陛下の御内意だとのことですが…」「伊藤さんはこのわたしの言につづいて、段々と急ぎ決定すべき必要を説き出した。」」
- ^ “한국사데이터베이스 비교보기 > (3) 伊藤大使韓國往復日誌”. db.history.go.kr. 2021年9月3日閲覧。
- ^ “朝鮮回顧録 - 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2021年9月7日閲覧。
- ^ 海野福寿編『外交史料韓国併合(上巻)』不二出版、2003年、289頁。「その序文には「韓国末期ノ枢機に参画セル朝鮮歴々ノ回顧談ヲ骨子として余が特に纂録せしめたる処にして、所謂朝鮮人の併合観なり」とある。西四辻が伝聞や聞き取りをもとにして物語風に仕立てた二次史料というべきである。」
- ^ 海野福寿編『外交史料韓国併合(上巻)』不二出版、2003年、392頁。
- ^ a b 海野福寿編『外交史料韓国併合(上巻)』不二出版、2003年、289頁。
- ^ “わが七十年を語る - 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. p. 224. 2021年9月6日閲覧。 “「もう一つの手配としては長谷川大将に頼んで或る見張りをすることなんです。それは筋書どほりわたしの所に各大臣が集る。その話の内容は朝鮮としては非常に大きい問題であることとて、無論列席した大臣等は嫌がるに違ひありません。一先す引きあげて公使館より宮中にゆくといふ事にもなれば、その途中で逃げてしまふものも出来るに相違ない。この用慎のために憲兵か何かを予め手配しておいて、途中逃げださぬやうに監視して貰ひたい。勿論名目は護衛といふ形を取るのです。”
- ^ a b 『「外交史料 韓国併合(上巻)」「Ⅳ 第二次日韓協約」の「31 調印後の状況につき丸山警務顧問報告」』不二出版、2003年、355-356頁。
- ^ a b “한국사데이터베이스 비교보기 > (69) 伊藤 侯 來韓에 대하여 제6회 보고”. db.history.go.kr. 2021年9月3日閲覧。 “一. 当夜調印済に至るも各大臣の護衛として日本警察官吏及憲兵等多数宮城内に在り警戒せるを韓皇は深く嫌忌せられ撤退すべき旨を通ぜられたるも何れも上官の命なりとて出門せず大使等退出後最早必要なかるべきを以て速に撤退すべきことを要求せられしも更ニ応ずる処なかりしを以て遂に韓皇は各大臣にして退出せざれば憲兵巡査も尚出門せざるを以て各大臣に対し速に退出すべきことを命ぜられたりと”
- ^ “한국사데이터베이스”. db.history.go.kr. 2021年9月6日閲覧。 “伊藤博文及其隨員長谷川好道及其部下各武官多數歩兵・騎兵・憲兵與巡査及顧問官・輔佐員, 連續如風雨, 而馳入闕中, 把守各門, 漱玉軒咫尺重重圍立, 銃刀森列如鐵桶, 内政府及宮中, 日兵亦排立, 其恐喝氣勢, 難以形言”
- ^ “Yamato Shinbun 1905.11.20 — Hoji Shinbun Digital Collection”. hojishinbun.hoover.org. 2021年9月6日閲覧。 “本日午前の電報 日本兵遂に示威行動を執る 韓帝及びニ大臣我要求に応ぜず▲三千の日本兵京城王宮を包囲す 京城十一月二十日発 韓国皇帝及び二名の大臣は韓国独立の放棄に対する日本の要求に向ひ其承認の調印を拒めり、茲に於て三千の日本兵は談判進行中王宮を包囲せり。日本の要求を承認せし大臣等は賄賂を受けたりとの説あり。”
- ^ “Meiji Repository: 一九〇五年「第二次日韓協約」”. m-repo.lib.meiji.ac.jp. p. 5. 2021年9月6日閲覧。
- ^ 『わが七十年を語る』第一書房、1935年、226頁。「わたしは予め、かうした会議の間でも王様の大奥の方で、どんな企てを巡らされてゐるかを刻々知る必要があるので、ちゃんと人を配置させておいた。その密使が、そのたそがれの通り魔の刻に、かういふ報告を齎した。」
- ^ “日本外交文書デジタルアーカイブ第38巻第1冊(明治38年/1905年)「11 日韓協約締結並統監府設置ノ件 附 在韓各国公使館撤廃ノ件」550・551頁「日韓協約調印事情に関する新聞記事に付報告の件」”. 外務省外交史料館. 2021年9月7日閲覧。 “本日二十三日夕発刊チャイナ、ガゼットに京城電報として左の意味の長文電報を掲載せり。本日十七日日本公使等は保護条約に調印せしむる為め宮中に伺候せるも皇帝始め内閣員は極力之に反抗し調印を拒むより午後八時伊藤侯爵は林公使の請により長谷川大将と共に日本兵及巡査の一隊を率ひ宮中に赴きたるも尚ほ成功の望みなく遂に憲兵隊を外務大臣官邸に派し翌十八日午前一時外交官補沼野は其官印を奪ひ宮中に帰り紛擾の末同一時半日本全権等は擅に之を取極書に押捺し其調印済となりたることを内閣員に宣言せり。而して皇帝は尚ほ国璽の押捺を拒みしも日本の強圧に威怖し遂に調印するに至れるものにして実に之が調印は詐術を以て為されたるものなりと”
- ^ “日本外交文書デジタルアーカイブ第38巻第1冊(明治38年/1905年)「11 日韓協約締結並統監府設置ノ件 附 在韓各国公使館撤廃ノ件」554・555頁「日本は韓帝及初代人を強圧して日韓協約に調印せしめたりとの新聞報道に関する件」”. 外務省外交史料館. 2021年9月7日閲覧。 “伯林ロカール、アンツァイゲル新聞は左の意味の記事を掲載せり。時事に精通せる方面より得たる報道に拠れば十一月十九日には京城に於て一大惨劇演出せられたり。当日伊藤侯は林公使長谷川大将と共に日本兵一大部隊を随へて参内し韓帝をして同侯等に於て予め調製し置きたる新協約案に記名せしめたり。而して韓国諸大臣は自国の独立を奪去する所の文書に国璽を鈐することを避けむが為王城より奔逃せしに日本兵の為に追躡引致せられ強て鈐璽せしめられたり。此の暴挙は韓国民の間に騒擾を惹起せり。”
- ^ “日本外交文書デジタルアーカイブ第38巻第1冊(明治38年/1905年)「11 日韓協約締結並統監府設置ノ件 附 在韓各国公使館撤廃ノ件」556・557頁「日韓協約調印情況に関する新聞報道に関連し実情報告の件」”. 外務省外交史料館. 2021年9月7日閲覧。 “条約書には各大臣列席の上外部大臣朴斉純自ら署名を署し且つ印章を捺押したり。外部大臣は条約各項を議了したる後其署名をなすに先ち印章を持ち来る様外部に数回電話を掛けたるも印章の保管者たる秘書課長不在の為印章は二時間後れて初めて保管者により宮中に持ち来られたり。”
- ^ “わが七十年を語る - 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. p. 224. 2021年9月7日閲覧。 “「それからもう一つのことは邸璽です。国の印形といふものは非常に大切にしてあるものと見えて、宮内大臣と雖も自ら持ってゐません。別に邸璽を預ってゐる責任の司が居ります。それで、わたしは外務省に早朝から人をやって、その邸璽保持官を見張ってゐねばなりません。”
- ^ 『朝鮮回顧録』糖業研究会出版部、1915年、182頁 。「間もなく調印の場合となると、外部大臣は其印を取て堀の中へ投ずる積りであったが、沼野外部御傭が其印を自宅へ持て帰ってゐたので、其志を達するを得ず、沼野氏は電話に応じて宮中に入り、遂に調印を了した。」
- ^ “日本外交文書デジタルアーカイブ第41巻第1冊(明治41年/1908年)20「韓国外交顧問『スチーヴンス』遭難一件」843頁「『スチーヴンス』殺害犯人張仁煥裁判状況報告の件」”. 外務省外交史料館. 2021年9月7日閲覧。 “韓国の此の窮状に陥るは一にス氏の奸策によるものにして、証人の言に徴するに彼等は日韓条約訂結に際し国璽を横奪して擅に之を約書に鈐し韓国千載の恥を胎す。彼は名を韓国顧問に借り陰に陽に日本を佐けて尽さざる所処なく、韓国独立の滅亡は実に彼の手によって画せらる。”
- ^ “外交官補沼野安太郎韓国政府ノ聘用ニ応シ俸給ヲ受ケ明治三十七年勅令第百九十五号ニ依リ在職者ニ関スル規定適用ノ件”. 国立公文書館アジア歴史資料センター. 2021年9月7日閲覧。 “号外 外交官補沼野安太郎 右今般韓国外交顧問補佐官として同国政府の聘用に応ずる許可を与ヘ候処…(4画像目)”
- ^ 海野福寿『伊藤博文と韓国併合』青木書店、2004年、34頁。
- ^ “日本外交文書デジタルアーカイブ第37巻第1冊(明治37年/1904年)「6 日韓協約締結ノ件 附 韓国ニ於テ財政外交顧問招聘ノ件」”. 外務省外交史料館. p. 380. 2021年9月29日閲覧。 “契約書の和訳文 第二条 スチーヴンスは韓国外交に関する一切の往復文書及其他の書類を故障なく閲覧することを得、前条に記載せる一切の外交上及其の他の案件は必ず予めスチーヴンスの同意を経て処理せらるべきものとす。”
- ^ “한국사데이터베이스”. db.history.go.kr. 2021年9月7日閲覧。
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- ^ “한국사데이터베이스 비교보기 > (336) [韓日協約을 반대한 閔泳煥 自殺 件]”. db.history.go.kr. 2021年9月8日閲覧。 “第四八三號 明治三十八年十一月三十日 午後一時 發 (東京北京ヘハ同三時) 林公使 東京桂大臣, 在釜山伊藤大使, 在北京小村大臣 侍從武官長閔泳煥ハ趙秉世等ト共ニ今回協約ニ反對ノ上疏ヲナシ一昨夜韓帝ヨリ解散ヲ命セラレタルモ直ニ之ニ服從セサリシカ爲韓帝ハ該上疏者ニ對シ法ニ依リ處分スヘキノ勅命ヲ下サレ同人ハ沈相薰等ノ一同ト平理院ニ罪ヲ待チツゝアリ伊藤大使及本官ノ忠告ニ依リ昨夜韓帝ハ罪ヲ待ツニ及ハサルカ故各自退散スヘキ旨ヲ命セラレ一同一先ツ解散シタリ然ルニ閔ハ自宅ヘハ歸ラスシテ其知己某方ニ立寄リ宿泊シ本朝ニ至リ同家家人ヲ退ケ小刀ヲ以テ自殺ヲ遂ケタリ此遺憾ナル出來事ハ今回協約ノ結果トシテ或ハ一般ニ喧傳セラルゝニ至ルヘク同人ニ於テモ亦該協約反對運動ヲナシツゝアリシ次第ナレハ勿論其意味ヲ有シタルヘキモ…”
- ^ “한국사데이터베이스 비교보기 > (155) [韓日協約 파기 상소 운동자에 관한 件]”. db.history.go.kr. 2021年9月8日閲覧。 “往電第四八七號 明治三十八年十二月二日 午前一一時○○分 發 明治三十八年十二月二日 午後 二時五○分 着 林公使 北京小村大臣, 桂外務大臣 閔泳煥始メ元老大臣ヲ戴ケル上疏者一群カ其皇帝ヘ上疏ノ趣意要領トシテ主張スル所ハ新協約ヲ破毀シ五大臣卽朴齊純.李址鎔.李完用.權重顯.李根澤 (李夏榮ハ協約調印ノ際寧ロ拒絶論ニ傾キ居タリト見做サレタリ) ヲ斬ニ處スヘシト云フニアリテ其疏首タル閔泳煥ノ如キスラ其實行ノ難キヲ知リ之ヲ拒ミタルモ群衆ハ堅ク執ツテ動カサル結果右上疏ヲ奉ツルニ至レリ而シテ疏首閔泳煥ノ自殺ト共ニ之レニ代ツテ疏首タリシモノハ元老沈舜澤ニシテ是亦タ閔ト同一ノ最後ヲ期シ其次ハ同趙秉世ト決定シ孰レモ阿片藥ヲ懷ニセル事實ヲ探知シタルニ付我憲兵及警官ハ昨日來嚴密ニ其擧動ニ注意ヲ怠ラサリシモ趙秉世ハ今朝其疏廳卽表勳院ヲ出テ乘轎歸路中轎內ニアツテ窃ニ所持ノ阿片藥ヲ仰キ終ニ自殺ヲ遂ケタルハ (未タ死ニ至ラス) 遺憾トスル所ナリ…”
- ^ “한국사데이터베이스”. db.history.go.kr. 2021年9月8日閲覧。 “本日表勳院ニ於テ趙南升ナル者カ自殺セシ閔泳煥ノ着衣中ニ遺書ヲ發見シタリ同遺書ニヨレハ (自分ハ國事ノ爲メニ殉死スニチ萬同胞ハ一心ニ事ヲ擧ケヨ) トノ文意ナリシトノ演說ヲナシタリ而シテ該演說ハ一般ノ民心ニ至大ノ感動ヲ與ヘタルモノゝ如ク鍾路ニ於ケル椿事モ亦是等ノ憤慨ニ基因スル處アルカ如シ”
- ^ “한국사데이터베이스”. db.history.go.kr. 2021年9月10日閲覧。 “閔泳煥自殺ヲ遂ケタルニ對シテハ一般ノ感情ヲ融和スルノ策トシテ本使並ニ長谷川大將一致ノ意見ヲ以テ同人ノ死後ニ對スル優遇ヲ賜ハリ國喪ニ付セラレ度キ旨皇帝ニ奏請シタル結果皇帝ハ昨日詔勅ヲ發シ忠文公ノ諡號ヲ追贈シ並ニ一等禮喪ヲ給スル旨ヲ發表セリ”
- ^ “한국사데이터베이스”. db.history.go.kr. 2021年9月10日閲覧。 “又元老大臣趙秉世ノ自殺ニ對シ昨夜皇帝ハ詔勅ヲ下シ畧ホ閔泳煥ト同一事例ニ由ト忠正公ノ諡號ヲ追贈シ且ツ古例ヲ案シ吊意ヲ表スル爲メ三日間朝市ヲ罷メ刑戮ヲ忌ルヘキ旨ヲ仰出サレタリ”
- ^ “한국사데이터베이스”. db.history.go.kr. 2021年9月10日閲覧。
- ^ “한국사데이터베이스 비교보기 > (77) 신문발행 금지 및 압수의 件”. db.history.go.kr. 2021年9月8日閲覧。 “(77) 新聞紙發行禁止幷ニ差押ノ件 祕第九四號 昨二十日發兌ノ皇城新聞第二千一百一號第二頁ノ冒頭論設欄ニ 「今日也放聲大哭」 ト題シ又同紙雜報欄ニ 「五件條約請締顚末」 ト題シ新條約成立ニ關シ頗ル激烈悲痛ナル記事ヲ揭載シタリ然ルニ同紙ハ前夜其ノ原稿ヲ檢閱シタル際之レカ揭載ヲ禁止シ塗抹ヲ命シタルモノ若クハ檢閱ヲ經サル記事ニシテ全ク禁令ヲ無視シテ其ノ全部ヲ揭載發行シタルヲ發見シ當日午前六時三十分警部巡査ヲ同新聞社ニ派遣シ檢閱ヲ行ヒタルニ發行シタル新聞中約八百枚ハ已ニ京城內ニ配布シ終リシモ方サニ地方ニ配付セントスル二千二百八十八枚ヲ現存ノ儘差押ヘ且ツ印刷器械ノ全部ヲ閉鎖封印ヲ施シ社長張志淵及植字係柳九用洪宜敏ノ三各ヲ警務廳ニ引致シ取調ヲ爲シ同新聞ハ其ノ發行ヲ禁止シタリ本件取調ノ槪要左ニ 一. 社長張志淵ハ同新聞ノ主筆ト發行人トヲ兼ネ本業ニ對スル全責任ヲ有スルモノナリ 一. 張社長ハ曰ク同新聞ノ記事ニ付前夜ノ檢閱ニ於テ塗抹ヲ命セラレタル事ヲ了知シ之ヲ揭載スルノ不法タルコトハ篤ク承知ノ上發行シタルモナレハ違犯ノ處罰ヲ受クルハ覺悟ノ前ナリト 一. 此違犯ニ基ク新聞紙ノ發行禁止器械及同新聞紙ノ差押處分ニ對シテハ異存ナク服從スト云ヘリ 一. 同新聞ノ記事中論說ハ張自身ノ起稿ニカゝルモ雜報ハ成樂英ノ探訪ニカゝルモノナリト云ヘリ 右ノ顚末及御報告候也 明治三十八年十一月二十一日 警務顧問 丸山重俊 印 特別全權公使 林權助 殿”
- ^ “한국사데이터베이스”. db.history.go.kr. 2021年9月8日閲覧。 “(154) 韓民暴行幷巡査負傷ニ關スル件 本朝來鍾路ニ於テ多數ノ韓民集合シ殆ント人馬ノ交通ヲ杜絶スルヲ以テ小職現場ニ出張シ一旦解散セシメタルモ再ヒ多數者ノ各所ニ散在シ動モスレハ不穩ノ擧動ニ出ントスルヨリ警部巡査ヲ派シ警戒中午後三時半頃群象益々加ハリ一方ニハ政治ニ關スル路傍演說ヲ爲ス者アリ群衆爲メニ動搖シ治安上難捨置ニヨリ之ヲ制止シタルニ群衆中怱チ投石抵抗スル者アリ玆ニ一場ノ格鬪トナリ當時取締ニ從事セシ補助員竹村彦次郞 (滋賀縣巡査) ハ群衆ニ取卷カレ毆打杸石ヲ受ケ衆寡敵セス帶釰ヲ奪取セラレ地上ニ倒サレ且ツ亂蹴セラルゝ等一時人事不省ニ陷リシモ他ノ巡査及憲兵ニ救助セラレ危急ヲ脫スルヲ得タリ之レト同時ニ內部憲兵大尉及憲兵一名ニ投石ノ爲メ負傷スルニ至レリ 竹村巡査ノ創傷ハ頭部ニ二ケ處アリ且ツ亂打セラレタル爲メ頭部及ヒ面部ハ腫大トナリ創口及鼻穴ヨリ多量出血シテ今尙止マス目下ノ處餘症倂發ナクンハ生命ニ別條ナカルヘシ漢城病院ニ送リ治療ヲ加ヘツゝアリ 此ノ暴行ト同時ニ暴民ノ一部ハ鍾路日本憲兵屯所ニ至リ前面ノ硝子障子等ヲ破壞シ狼藉ヲ極ムルニ至レリ玆ニ於テ憲兵ハ遂ニ發砲シテ防禦シタリ 暴行者ノ逮捕ニ付テハ憲兵ト協力ノ上現場及附近ノ住家ニ遁込シタル者等ヲ搜索シ約百名ヲ逮捕シタリ尙ホ同所ニハ日本步兵一ケ中隊來リテ警戒スルアリ漸次鎭定ヲ見ルニ至レリ”
- ^ “韓國外交委託協約締結에 의한 韓國外部大臣과의 交涉 件”. 2021年9月4日閲覧。 “往電第四四四號 明治三十八年十一月十六日 午後一時二○分 發 林 公使 桂 大臣 外交問題ニ關シ本日外部大臣ヲ呼寄セ約定案ヲ添エタル外部大臣宛公文ヲ示シ該案ノ締結ヲ要スルニ至リシ理由ト其結果韓國ノ平和ハ勿論東洋ノ平和ヲ永遠ニ維持スルニ至ルヘキ關係及大勢ノ赴ク所ヲ仔細ニ說明シタリ然ルニ本問題ハ旣ニ一進會ノ宣言書ニヨリ一ノ問題トナリテ喧傳セラレ又昨日伊藤大使ノ韓帝ニ提言セラレタルトニヨリ政府各大臣ハ昨夜ニ於テ協議ヲ凝ラセシモノゝ如ク外部大臣ハ此案ヲ承諾スルニ於テハ國家ヲ滅亡ニ至ラシムルモノトシテ民間ノ强キ攻擊ヲ受クルハ必定ニテ或ハ暗殺ノ厄ニ遭フモ計ラレス”
- ^ “한국사데이터베이스 비교보기 > (33) [一進會 評議員會 決議項 송부 건]”. db.history.go.kr. 2021年9月5日閲覧。 “決議案 (譯文) 日韓兩國ノ關係ヲ益ス緊密ニシ以テ東洋ノ平和ヲ永久ニ維持センカ爲メ日本政府ノ提案シタル新約款ニ對シ我皇上陛下カ遠ク世界ノ大勢ニ鑑ミ深ク國家ノ前途ニ軫念シ給ヒ我政府カ愼重審議遂ニ聖旨ヲ奉シテ可決調印スルニ至リタルハ吾人國民カ滿腔ノ熱誠ヲ以テ陛下ノ英斷聖明ヲ頌シ奉リ又深ク當局大臣カ國家ノ危機ニ際シ能ク其措置ヲ誤ラサリシコトヲ承認シ切ニ靜謐ヲ守ルヲ以テ國民ノ義務ナリト信ス 光武九年十一月二十一日決議 一進會”
- ^ “韓国警察報告資料巻の3”. 国立公文書館アジア歴史資料センター. 2021年9月4日閲覧。 “右の如く一進会は一時地方に勢力を有したりしも光武九年(明治三十八年)日韓保護条約締結当時進で日本の保護を仰ぐの可なるを宣言してより大に勢力を失墜し隆熙元年(明治四十年)日韓新協約発布せられ軍隊解散と共に各地に暴徒蜂起するや日本官憲に反抗的態度を執ると共に売国奴一進会員を殺すべしと唱へ会員中其毒刃に斃れたる者多く殆んど一進会員たるの甚危険なるを感ずるに至らしめたり。昨隆熙三年十二月日韓合邦論を提唱してより世論益売国奴を以て之を目し攻撃一層甚しきに至れり。只一進会が今日尚相当勢力を保ちつゝある所以は宋秉畯は親日派として常に日本官憲に接近し其後援を有せりと称せらるゝと勢力盛なる当時種々の口実の下に獲得したる利権あるに依り、尚日韓合邦は近き将来に実行せらるべく其暁には再び我党の天下たるべしと夢想し会員の離散を防ぎつゝあり。 一進会は官吏の㧙政及両班の横暴に反抗せんが為めに起ちたるものなるを以て其会員の多数は常民なりとす。従て宋秉畯、李容九等二三の輩を除くときは殆んど有力の士なし。(443・444画像目)”
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- ^ “한국사데이터베이스 비교보기 > (10) [平壤지방 정세시찰보고서 제출 건]”. db.history.go.kr. 2021年9月5日閲覧。 “一進會支部長等ノ言 一進會支部長等ノ言ニ曰ク吾等ハ李容九宋秉畯ノ言ニ聽キ毆傷ニ耐ヘ瀕死ヲ忍ヒ唾罵捽擊セラルゝヲ顧ミス一意日本ニ信賴スレハ暴政必ス除カルヘク文明決シテ進趣スヘシト斷決シタリ果然制度日ニ革マリ虐吏氣ヲ斂メ開花ノ運豫期スヘキヲ祝スルニ逢ヘリ然ルニ宋秉畯ノ明夷ト俱ニ西敎猝カニ勢ヲ逞フクシ一進會ハ日ニ衰ヘ貪官汚吏ハ再ヒ良民ヲ戕賊シ生靈ノ塗炭却テ舊ニ勝サルモ匡正ノ力ナク會員ヲ目スルニ國賊ニ汚名ヲ以テスルニ至ル二十三郡十萬餘名ノ會員ハ今ヤ減退シテ三萬餘名ニ過キス且ツ會員タルモ義務ヲ視ルコト恬然タリ故ニ內ハ財計ニ窮シ外ハ西敎ト官吏トニ迫害セラレテ此衰弱ノ狀ヲ呈セリト…右報告上申ス 明治四十年四月十五日 內田良平 統監伊藤侯爵閣下”
- ^ “한국사데이터베이스 비교보기 > (10) [平壤지방 정세시찰보고서 제출 건]”. db.history.go.kr. 2021年9月5日閲覧。 “一進會支部長等ノ言 一進會支部長等ノ言ニ曰ク吾等ハ李容九宋秉畯ノ言ニ聽キ毆傷ニ耐ヘ瀕死ヲ忍ヒ唾罵捽擊セラルゝヲ顧ミス一意日本ニ信賴スレハ暴政必ス除カルヘク文明決シテ進趣スヘシト斷決シタリ果然制度日ニ革マリ虐吏氣ヲ斂メ開花ノ運豫期スヘキヲ祝スルニ逢ヘリ然ルニ宋秉畯ノ明夷ト俱ニ西敎猝カニ勢ヲ逞フクシ一進會ハ日ニ衰ヘ貪官汚吏ハ再ヒ良民ヲ戕賊シ生靈ノ塗炭却テ舊ニ勝サルモ匡正ノ力ナク會員ヲ目スルニ國賊ニ汚名ヲ以テスルニ至ル二十三郡十萬餘名ノ會員ハ今ヤ減退シテ三萬餘名ニ過キス且ツ會員タルモ義務ヲ視ルコト恬然タリ故ニ內ハ財計ニ窮シ外ハ西敎ト官吏トニ迫害セラレテ此衰弱ノ狀ヲ呈セリト…右報告上申ス 明治四十年四月十五日 內田良平 統監伊藤侯爵閣下”
- ^ “(32) [乙巳保護條約後 韓國社會 動靜報告 件]”. db.history.go.kr. 2021年9月4日閲覧。 “一進會ハ今回ノ宣言ニ付世上ノ攻擊ヲ受ケ會員中異論者ヲ生シ一ト先解散說ヲ唱フル者アルモ會長之ニ肯セス國民敎育會ハ之ヲ傳聞シ頻リニ一進會ノ解散說ヲ鼓吹シツゝアリ… 右及報告候也 明治三十八年十一月十六日 警務顧問 丸山重俊 印 特命全權公使 林權助 殿”
- ^ “韓国警察報告資料巻の3”. 国立公文書館アジア歴史資料センター. 2021年9月4日閲覧。 “右の如く一進会は一時地方に勢力を有したりしも光武九年(明治三十八年)日韓保護条約締結当時進で日本の保護を仰ぐの可なるを宣言してより大に勢力を失墜し隆熙元年(明治四十年)日韓新協約発布せられ軍隊解散と共に各地に暴徒蜂起するや日本官憲に反抗的態度を執ると共に売国奴一進会員を殺すべしと唱へ会員中其毒刃に斃れたる者多く殆んど一進会員たるの甚危険なるを感ずるに至らしめたり。昨隆熙三年十二月日韓合邦論を提唱してより世論益売国奴を以て之を目し攻撃一層甚しきに至れり。只一進会が今日尚相当勢力を保ちつゝある所以は宋秉畯は親日派として常に日本官憲に接近し其後援を有せりと称せらるゝと勢力盛なる当時種々の口実の下に獲得したる利権あるに依り、尚日韓合邦は近き将来に実行せらるべく其暁には再び我党の天下たるべしと夢想し会員の離散を防ぎつゝあり。 一進会は官吏の㧙政及両班の横暴に反抗せんが為めに起ちたるものなるを以て其会員の多数は常民なりとす。従て宋秉畯、李容九等二三の輩を除くときは殆んど有力の士なし。(443・444画像目)”
- ^ “Chōsen Shinpō 1908.08.04 — Hoji Shinbun Digital Collection 「一進会の追悼式」”. hojishinbun.hoover.org. 2021年9月6日閲覧。 “昨年来一進会員の暴徒の為殺害されし者一千余名に達せるは既報の如くなるが同会本部にては来る八日午後一時より独立館に於て之が追悼の式を挙ぐる由”
- ^ “日本外交文書デジタルアーカイブ第38巻第1冊(明治38年/1905年)「11 日韓協約締結並統監府設置ノ件 附 在韓各国公使館撤廃ノ件」558頁「11月29日付 在仏国本野公使より桂臨時兼任外務大臣宛 在仏韓国公使より日韓協約に関し仏国政府に抗議提出の件」”. 外務省外交史料館. 2021年9月7日閲覧。 “当地(※フランス)の新聞に依れば、在仏韓国公使は日韓条約に関し仏国政府に対し抗議を提出したる由なりしにより、右事実の有無外務大臣に問合せたる所、右は果して事実に相違なけれども其抗議の出所に付ては大に疑いあり、又右の抗議は露国政府へも書面を以て提出したる由なりと云はれたり。右抗議の趣意は日韓協約は暴力を以て韓国皇帝に調印せしめたりと云ふにありしとのことなりしを以て…”
- ^ “August 18, 1919 66th Congress, 1st Session Vol. 58, Part 4 — Bound Edition(1919年8月18日米上院会議録のうち、ハルバートが提出した宣誓供述書「WHAT ABOUT KOREA?」)”. 米国議会図書館 立法情報提供システム. p. 3925. 2021年9月30日閲覧。 “The letter from the Emperor of Korea which you intrusted to me has been placed in the President's hands and read by him.…it seems quite impracticable that any action should be based upon it.(※ルート国務長官からハルバート宛の文書「あなたが私に託した韓国皇帝親書は大統領に手渡され、大統領は読みました。…何らかの措置をとることは不可能のようです。」)”
- ^ John Edward Wilz (1985). “Did the United States Betray Korea in 1905?”. Pacific Historical Review 54 (3): 260.
- ^ “August 18, 1919 66th Congress, 1st Session Vol. 58, Part 4 — Bound Edition(1919年8月18日米上院会議録のうち、ハルバートが提出した宣誓供述書「WHAT ABOUT KOREA?」)”. 米国議会図書館 立法情報提供システム. p. 3925. 2021年10月1日閲覧。 “The next day I received the following cablegram from the Emperor. It was taken across from Korea to Cheefoo, so as not to be sent over Japanese wires: "I declare that the so-called treaty of protectorate recently con-cluded between Korea and Japan was extorted at the point of the sword and under duress, and therefore is null and void. I never consented to it and never will. Transmit to American Government. " THE EMPEROR OF KOREA." I took that cablegram to the State Department and put it into the hands of the Assistant Secretary of State, who merely said that he would put it on file. (翌日、私は次の内容の韓国皇帝からの電報を受け取った。これは日本の電線を避けるために韓国から中国の芝罘を経由したものである。「私は宣言する。最近韓国と日本の間で結ばれたいわゆる保護国化条約は武力と脅しにより強要されたもので無効である。私は決して同意していないしこれからも同意するつもりはない。米政府に伝えるように」私はこれを米国務省に持って行き国務次官補に手渡したが、次官補は「ファイルして置く」と答えただけだった。”
- ^ “(288) 韓帝密使 閔泳瓚ニ關スル件”. db.history.go.kr. 2021年9月29日閲覧。
- ^ “日本外交文書デジタルアーカイブ第38巻第1冊(明治38年/1905年)「13 韓帝密使発遣ニ関スル件」”. 外務省外交史料館. pp. 669-672. 2021年9月29日閲覧。
- ^ “Hulbert Society discloses NY Times articles on 1905 Eulsa Treaty”. The Korea Times. (2020年11月16日)
- ^ 金基奭(日本語訳 金恵栄) (1995). “光武帝の主権守護外交・一九〇五年~一九〇七年”. 海野福寿編「日韓協約と韓国併合 朝鮮植民地支配の合法性を問う」所収: 175.
- ^ “(3) [大韓每日申報所載記事 取消對策에 관한 件]”. 韓国・国史編纂委員会. 2021年9月30日閲覧。 “英人「ベッセル」ノ主宰スル大韓每日申報ノ一昨日十六日ノ紙上ニ於テ曩ニ倫敦「トリビユーン」ニ揭載セル通信員「ストーリー」ニ附與セラレタル日韓協約ヲ否認シタル韓帝ノ御親書ト稱シ六箇條ヲ轉載セリ”
- ^ “August 18, 1919 66th Congress, 1st Session Vol. 58, Part 4 — Bound Edition(1919年8月18日米上院会議録のうち、ハルバートが提出した宣誓供述書「WHAT ABOUT KOREA?」)”. 米国議会図書館 立法情報提供システム. p. 3925. 2021年10月1日閲覧。 “Although a prisoner in his palace in the hands of the Japanese, he delivered into my hands in June 1907, a letter to each of the great powers, the United States,Great Britain, France, Belgium, Germany, Russia, Austria-Hungary, and Italy, …(日本人により王宮で囚われの身の状態でありながら、韓国皇帝は1907年6月に、米英仏ベルギードイツロシアオーストリア=ハンガリーそしてイタリアという欧米各国宛の手紙を、私に託した。)”
- ^ “日本外交文書デジタルアーカイブ第40巻第1冊(明治40年/1907年)「11 海牙平和会議ヘ韓帝密使派遣一件」中の「四三七 韓帝密使ハルバートの画策に付厳重注意方訓令の件」”. 外務省外交史料館. p. 428. 2021年10月1日閲覧。 “ハルバートは専ら露国に依り目的を達せんと計り一切の資料を蒐集して之を齎し既に西比利亜経由にて欧州に向へり…”
- ^ “日本外交文書デジタルアーカイブ第40巻第1冊(明治40年/1907年)「11 海牙平和会議ヘ韓帝密使派遣一件」中の「四四一 韓帝密使ハルバート巴里に於て日本非難の件」”. 外務省外交史料館. p. 430. 2021年10月1日閲覧。 “papers reports that Hulbert arrived in Paris by trans-Siberian.…(報告によるとハルバートはシベリア横断鉄道でパリに到着)”
- ^ “日本外交文書デジタルアーカイブ第40巻第1冊(明治40年/1907年)「12 日韓協約締結一件(韓帝譲位一件)」中の「四五九 韓帝密使米人ハルバートの海牙に於ける言動に関する件(一)(二)」”. 2021年10月1日閲覧。
- ^ “August 18, 1919 66th Congress, 1st Session Vol. 58, Part 4 — Bound Edition(1919年8月18日米上院会議録のうち、ハルバートが提出した宣誓供述書「WHAT ABOUT KOREA?」)”. 米国議会図書館 立法情報提供システム. p. 3925. 2021年10月1日閲覧。 “When I left Korea with this in the summer of 1907 the Japanese again suspected, and the very day I landed in America they forcibly deposed the Emperor, and thus automatically canceled my credentials.(1907年夏に私が親書を携え韓国を出発したとき、日本は再び疑いの目を向け、そしてアメリカに到着したまさにその日、皇帝を強制的に退位させ、私の特使としての資格も自動的に失われてしまった)”
- ^ “日本外交文書デジタルアーカイブ第38巻第1冊(明治38年/1905年)「10 伊藤特派大使遣韓ノ件」516頁”. 外務省外交史料館. 2021年9月29日閲覧。 “此次米人某(※ハルバート)をして米国に赴き密に運動せしめられつつありとのこと、予は疾く此等の事実を探知せり。陛下は恐らく日本政府は此事を知らずと御思召居らるるかも知れずと雖ども時々刻々夫れ等の事実は各所より電報に接し皆熟知し居る次第なれば爾来此の如き小策は一切断念せらるる方却て日本の感情を柔げ得策と認む。依て今後は万事を予に聞き且つ之を実行せらるるに於ては予も亦決して貴帝室を疎外するものにあらず、貴帝室の為を慮かり必ず遠永に其安寧と尊厳とを維持することに全力を傾注すべし。若し夫れ然らずして陛下は依然前様を逐ひ曖昧の態度を執て終始せられんには申すも恐れ多き事ながら終に帝室の前途も想像せられ得るなり。深く貴帝室の為御顧慮を要す。”
- ^ 海野福寿編『外交史料韓国併合(下)』不二出版、2003年、462-463頁。「「陛下は米国人ハルバアトに託するに万国平和会議に韓国国権回復のことを運動すべきを以てし…此の如き陛下のご行為は、是れ取も直さず日韓協約に違反するものにして…陛下に向て其の背約の責を糾問せざるを得ず。…如何に小策を弄せらるるも其の効なきなり。…世間何人か能く人命を賭し巨財を擲て貴国の為、義侠的に其の国権回復を助成せんとするものあるべき乎。」「独り此の事のみならず、昨年秋、倫敦トリビュン記者ストリーなる者が…」」
- ^ a b 原田環「第二次日韓協約調印と大韓帝国皇帝高宗」青丘学術論集24, 2004年4月
- ^ 日韓文化交流基金, 公益財団法人. “日韓歴史共同研究報告書(第2期)第3分科会(近現代史)篇「大韓国国制と第二次日韓協約反対運動―大韓帝国の国のあり方」”. 公益財団法人 日韓文化交流基金. p. 13. 2021年9月8日閲覧。
- ^ “第12回研究会・原田環報告”. www.hmn.bun.kyoto-u.ac.jp. 2021年9月8日閲覧。
- ^ 「日韓協約と韓国併合ー朝鮮植民地支配の合法性を問う」海野福寿編(明石書店)1995年 ISBN 978-4-7503-0704-6
- ^ 日韓歴史共同研究報告書 日韓間の諸条約の問題―国際法学の観点から 坂元茂樹 著
- ^ a b 海野福寿『韓国併合』(岩波新書)
- ^ Francis Ray, "La Situation Internationale de la Coree", Revue General de Droit International Public, Tome XIII, 1906, pp.40-58.
- ^ 東北亜歴史財団 国際法からみた韓日歴史問題 I. 李泰鎮, 日本の大韓帝国国権侵奪と条約強制
- ^ 国連 ILC1963年総会宛報告書:UN Document:-A/CN.4/163, Yearbook of the International Law Commission: 1963, vol.II, p. 139. UN Doc.
- ^ 朝鮮の悲劇 (東洋文庫 222) [新書]F.A.マッケンジー (著), 渡部 學 (翻訳)
- ^ チャイナガジェット 11月23日 406面(108) 来電欧第258号、韓日協約調印背景に関する新聞記者報告
- ^ 『伊藤博文と韓国併合』(青木書店)
- ^ 木村 幹, 日本植民地研究第14号, 2002年, pp.37
- ^ 2001年11月27日付 産経新聞
- ^ 戸塚悦朗 (2010). “「韓国併合」100年の原点と国際法――日韓旧条約の効力問題と「批准必要説」に関する文献研究―”. 現代韓国朝鮮研究 (10) .
参考文献
- 中塚明『近代日本と朝鮮 第三版』三省堂選書、1994年。
- 坂元茂樹「日韓保護条約の効力」『関西大学法学論集』第44巻4・5合併号、1995年。
- 琴秉洞「乙巳保護条約の強制調印と問題点」海野福寿編『日韓協約と韓国併合』明石書店、1995年。
- 海野福寿編『外交史料 韓国併合-上-』不二出版、2004年。
- 海野福寿 (1994), 一九〇五年「第二次日韓協約」