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小林清親

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
小林 清親
1873年頃、下岡蓮杖撮影とされる[1]
生誕 (1847-09-10) 1847年9月10日
江戸本所
死没 (1915-11-28) 1915年11月28日(68歳没)
東京府
国籍 日本の旗 日本
著名な実績 浮世絵風刺漫画
運動・動向 光線画
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小林 清親(こばやし きよちか、1847年9月10日弘化4年8月1日)- 1915年大正4年)11月28日[2] )は、明治時代浮世絵師明治10年(1877年)頃に、江戸から移り変わる東京の様子を版画で表現した。

略歴

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新橋ステンシヨン。1881年。
両国大火浅草橋。1881年。
武蔵百景の内、江戸橋より日本橋の景。1884年。
平壌攻撃電気使用之図。1894-95年。
雨のお茶の水。紙本著色。明治30年代以降。ロサンゼルス郡美術館蔵。

浮世絵師となるまで

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江戸本所にて幕臣で本所御蔵小揚頭取を務める小林茂兵衛の子として生まれる。母は浅草御蔵方小揚頭を務めた松井安之助の長女ちか。9人兄弟の末子で、幼名は勝之助。小林家は足軽級の軽輩であったが、蔵米を扱う職務上、番方の同心より裕福であり、家には剣客の居候がおり、また出入りの医師もいるほどであった[3]。 1862年(文久2年)、15歳の時に父が亡くなった為、勝之助が元服し、清親を名乗り、家督を継ぐ[4]。末子である清親が家督を継ぐこととなった理由は3人の兄が茂兵衛の律義さを嫌い別居し独立していたからである[5]

1865年(元治2年・慶応元年)の徳川家茂上洛(第二次長州征討)に御勘定下役として随行し、[6]そのまま大坂に留まる。1868年(慶応4年)1月の鳥羽・伏見の戦いに加わった[7]。鳥羽・伏見の戦いの後、汽船にて大坂から江戸へ帰還。江戸では再び御蔵役の職に就いた。 同年5月の上野戦争時には蔵奉行の命令により戦況偵察を下谷広小路伊勢屋(雁鍋)付近にて行ったが、流れ弾が自身の側を通過するなど間一髪で難を逃れている[8]。幕府消滅後、浅草御蔵は新政府に引き渡され清親も無禄の身となり、母ちかの「公方様の先途を見届け無いのは不忠だ。慶喜様の跡を追え」との言に従い、徳川慶喜らを追って静岡に下る[8]。 1870年(明治3年)12月から翌71年(同4年)4月頃まで、食客となった鷲津(わしづ)村(現:湖西市鷲津)にて、同居者の子孫から、清親は「暇な時は絵を描いていた」との証言がある[9]

生計を立てる為、1874年(明治7年)、母とともに東京に戻る[10][8]。東京では6尺余りの長身や特技である剣術の腕を活かして榊原健吉撃剣興行団に参加することでその日の糧を得ていた[8][11]

浮世絵師としての活動

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帰京後、その年のうちに母が死去。母亡き後本格的に絵師を志し、[8]河鍋暁斎柴田是真らと席画会(後援者の前にて、即興で書画を揮毫すること。)を共にしたと言われる[12][4]チャールズ・ワーグマンに西洋画法を習った逸話もある[13]が、2010年代では、否定的に取られており[14]、明確な師は居なかったと考える説が複数が出てきている[15][16]

1876年(明治9年)1月、版元大黒屋松木平吉から「東京江戸橋之真景」「東京五大橋之一両国真景」を版行、同年8月に『東京名所図』シリーズを版行する。明暗を強調し、先達の「開化絵」とは異なる、洋紅を多用しない、上品な色使いと、輪郭線を用いない(使っても墨ではなく、茶色)[17]空間表現で、東京の発展と人々の変化を描き、「光線画」と呼ばれ[注釈 1]、人気絵師となる[19]

1881年(明治14年)、『團團珍聞』に入社。「ポンチ絵」と呼ばれる社会風刺漫画を、木版錦絵だけでなく、石版画[注釈 2]銅版画[注釈 3]による新聞挿絵でも表現した[21][22]。それによって「光線画」は90数点で終えることになる[23][注釈 4]

1884-85年(明治17-18年)には、「近接拡大法」と呼ばれる、近景を極端に大きく描いた、歌川広重名所江戸百景』の影響が顕著な[注釈 5]『武蔵百景之内』全34図を版行し[27]、「光線画」の「革新」から、懐古的画風に変わる[注釈 6]

1894(明治27年)に團團珍聞を退社し、「清親画塾」を開く(1896年まで)。『淡墨絵独習法』『毛鉛画独稽古』[注釈 7]等の教本も出版している[29]

日清戦争時、戦闘場面を描いた錦絵を80点以上版行した。中には5枚続きものもある[30]。多くの絵師が戦争画を描き、その中には清親の門人、田口米作もいた[31]。戦争絵全体の版行数は300点以上で、清親のそれが最も多かった[32]。画風は嘗ての「光線画」を思わせる[33]日露戦争時にも「光線画」風戦争画を描いた[34]

その後は新聞写真石版画等の新媒体に市場を奪われ、錦絵の注文は無くなる。各地を旅し、肉筆画揮毫するようになった[35][36]

1900年(明治33年)、『二六新報』に入社するが、そこでの連載記事掲載を止めてもらう為の賄賂を受け取ったとして、妻ヨシ共々逮捕され、1903年に裁判を受ける[37][38][39]。その後、肺炎の為、伴侶と共に寝込むことになり、『二六新報』を退社する[40][41][注釈 8]

1915年(大正4年)、68歳で没す。法名は真生院泰岳清親居士。墓は台東区元浅草の竜福院にあり[42]渡辺庄三郎建立による「清親画伯之碑」もある[43][44]

弟子

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光線画を継承した井上安治、ポンチ絵や戦争画を描いた田口米作、詩人の金子光晴、30年間に渡って師事した土屋光逸、珍品収集家の三田平凡寺[45]らがいる。この他に武田保太郎、岡本源太郎、鈴木兵太郎、近藤鶴次郎、西川栗枝、大須賀登枝、篠原清興、上沼勝太郎、山内弥次郎、吉田美芳高橋芝山牧野昌広、相木清舟、等の名が伝わっている。[46]また、清親に私淑(直接の師弟関係は無いが、個人的に師と仰ぐこと。)した者として、小倉柳村野村芳国が挙げられる[47]

家族

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1870年(明治3年)に最初の妻きぬと結婚、2女を生む。1883年(同16年)にきぬと離婚し、翌84年(同17年)に田島芳子と結婚する。3女をもうける。五女の哥津子は、仏英和高等女学校(現・白百合学園中学校・高等学校)在学中に、平塚雷鳥らの『青鞜』の編集に携わった[48]

論評・研究

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清親作品を「古典」として論評した、最初期の著述者として、木下杢太郎が挙げられる。

錦絵5・60枚を入手し、1913年(大正2年)に清親論を記した[49]のがきっかけで、清親と二度面会し、昔話を聞き、写生帖5冊を貸して貰った[50]。杢太郎は『東京名所図』シリーズを、「古東京」[51]を描いたとし、「当時の市街情調を画くもの、他に国輝あり、三代広重あり、芳年あり、芳虎あり、国政あり、孰れも清親に及ばず。唯外像を模写するを知りて毫も時人の心情を蔵せざりしを以てなり。思ふに清親の画を喜ぶ所以は平民の詩境を喜ぶなり(略)清親が画は明に時期に画せる一太平時代、明治十幾年前後の社会情緒を現はす(以下略。正字を新字に改めた。以下同じ。)」と述べる[52]

杢太郎の論を受け、永井荷風は、「当時都下の平民が新に皇城の門外に建てられたこの西洋造を仰ぎ見て、いかなる新奇の念とまた崇拝の情に打れたか。それ等の感情は新しい画工の云はゞ稚気を帯びた新画風と古めかしい木版摺の技術と相俟つて遺憾なく紙面に躍如としてゐる(略)小林翁の東京風景画は(略)明治初年の東京を窺ひ知るべき無上の資料である(略)然し小林翁の版物に描かれた新しい当時の東京も、僅か二三十年とは経たぬ中、更に更に新しい第二の東京なるものゝ発達するに従つて、漸次跡方もなく消滅して行きつゝある。」と語る[53]

また高橋誠一郎は、明治20年代の尋常小学校時代から錦絵蒐集をしていた経験[54]から、清親を「日本版画にこれまでなかった」「木版技術で表現された西洋画」と評し、「一番思い出の深いのは、小林清親と月岡芳年の二人である。」と語る[55]

そして複数の論者が、歌川広重と清親を比較するようになる。

例えば森口多里は、「広重の旅愁に対して、明治の名所絵画家小林清親は飽くまで都会の情調に生きてゐる。清親は人工と自然との美妙な結合に多くの興味を寄せてゐる。両国の川開きの絵に於ては、花火の強烈な光輝が夜の闇に作用するときの美観を描いてゐる(略)広重も亦両国の花火を描いてゐるけれども、清親のとは反対に大自然の中の人間の所業といふ感じに誘うて行く(略)彼の版画には、人工の光の効果を現はしたものが多い。彼は、人工の光の美観から画因を捉へたる最初の日本画家である。」と述べる[56]

竹内原風は「一立齋広広(ママ)重を江戸末期の代表的風景画家と云ひ得るならば、小林清親は明治初期の代表的風景画家と云つて宜しからう。彼等両人の試みた風景版画は、芸術的価値に豊かなもので、我が版画史上特筆大書に値ひするものであるが、更に懐古、乃至風俗史的意味の上から云つても、亦好個のドキユーメントとして尊重せざるを得ない。/仮に、私共が東海道を旅するとする、どこに広重の五十三次に見るやうな俤があるか。また東京市内を歩いて見るとする。広重の江戸名所はおろか、どこに清親の東京名所に見るやうな情趣が残つて在るか。それはいともありがたい『文明開化』のおかげで、殆んど出鱈目に破壊されてしまつたのである(略)明治の新時代に入り、小林清親の試みた風景版画のそれを見るに、彼が流浪の旅より戻つて東京に居を定め、多年の造詣と情熱とを傾倒して製作に従事し、佳作を頻発したのは九年頃より十四年頃へかけてのことで、馬車人力車練瓦造瓦斯燈鉄橋岡蒸汽蒸汽船、バツテーラ[注釈 9]山高シヤツポトンビフロツクコートステツキ、蝙蝠傘[注釈 10]、写真、饅重時計[注釈 11]夜会巻、フアンシーボール[注釈 12]等々。斯うしたボキヤブラリーの蕪雑な羅列そのまゝ。文明史家の所謂『猿芝居時代』なる過渡、新様相の社会生活を綯ひ交ぜて伝へたのが、彼の新風景版画そのものにほかならない。/清親も亦広重に劣らぬ美的情藻と、尖鋭且つ繊細な感覚に生きた詩人肌の人であつた。」(「/」は段落変え。)と、広重と清親を等価にとらえている[62]

この二人等の比較を基に、清親は「明治の広重」と呼ばれるようになる[47]

1970年代以降は、静岡時代の動向[63][64]、暁斎との繋がり[65]、作品にみる開化期の交通機関[66]、風刺画の研究[67]、アメリカ版画からの影響[68]、戦争画[69]、肖像画[70]、版木[71]など、多様な研究がなされている。

清親は「最後の浮世絵師」と言われることがある[72][73]。ただし、同様に呼ばれる浮世絵師は複数いる[注釈 13]。それに対して内藤正人は、明治の浮世絵師を一括して「最後の浮世絵、あるいは、新たな表現の可能性を模索した絵師」としている[83]

鈴木重三は、清親を「洋画を専攻した画家」として、輪郭線に頼らない「光線画」を評価し、彼を「浮世絵師」と見なしていない[84]

作品

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錦絵

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イルミネーション 東京国立博物館提供
ガス灯実演(ガスミュージアム)

銅版画

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  • 「甲州申橋」 1879-81年 この他に9点の銅版画が知られている[要出典]

石版画

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  • 「富士十二景」 横中判 12枚揃い 1890年[要出典] 

肉筆画

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  • 「開化之東京 両国橋之図」 絹本着色 1幅 114.3×36.2cm 太田記念美術館所蔵 1877年‐1882年ころ
  • 「獅子図屏風」 絹本着色 二曲一双 千葉市美術館所蔵 1884年
  • 「富士川上流秋景図」 絹本着色 1幅 「清親」 「真生」朱文方印
  • 「漁り火図」 絹本着色 1幅 106.0cm×40.2cm 太田記念美術館所蔵 「清親」
  • 鍾馗図」 絹本着色 1幅 113.5cm×35.2cm 太田記念美術館所蔵 明治40年代作 「清親」「真生」朱文円印
  • 「源氏浮舟之巻」 絹本着色 1幅 太田記念美術館所蔵 「清親」 印あり
  • 「雪月花図」 絹本着色 3幅対 日本浮世絵博物館所蔵 「清親」「真」白文方印
  • 「大川岸一之橋遠景図」 絹本着色 日本浮世絵博物館 「小林清親筆(横書き)」
  • 「墨堤さくら餅舗図」 絹本着色 日本浮世絵博物館 「清親」「真生」朱文方印 
  • 「馬上武人と供図」絹本着色 日本浮世絵博物館 「清親」 「真生」朱文方印
  • 「桜下三美人図」絹本着色 日本浮世絵博物館 「清親」 「真生」朱文方印
  • 「月下三美人舞踊図」絹本着色 日本浮世絵博物館 「清親」 「真」白文方印
  • 「熊谷直実と敦盛図」絹本着色 日本浮世絵博物館 「清親」 「清親之印」朱文方印
  • 「観音と仁王図」 紙本着色 日本浮世絵博物館 「清親」「真生」朱文円印
  • 「東下り図小襖」 紙本着色 4面 23.4x34.2(各)和泉市久保惣記念美術館「清親筆」 「清」朱文方印
  • 「橋本左内像」 ボードに油彩・和墨・テンペラ 1面 39.4x29.4 星野画廊 明治前期頃、土居次義旧蔵。清親の油彩作品は珍しい
  • 「化粧美人図」 絖本淡彩 1幅 52.5x33.5 熊本県立美術館(今西コレクション)「清親」「清親」朱文方印
  • 「川中島合戦図(裏:龍虎墨竹図)」 表:絹本金地着色(裏:紙本墨画淡彩)六曲一双 166.0×358.8(各) 静岡県立美術館 1910年(明治43年)
  • 「頼豪阿闍梨」 絹本着色 1幅 ウェストン・コレクション(シカゴ)
  • 「祭芸者図」 絹本着色 1幅 ウェストン・コレクション(シカゴ)

脚注

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注釈

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  1. ^ 『東京名所図』版行時に、光線画と呼ばれていたかは、不詳である。吉田洋子の調べでは、1895年(明治28年)の『教科適用 毛鉛画独稽古 附教授法』が、清親による「光線画」の初出としている。そこでは、球体等を鉛筆で描く場合の、濃淡で立体感を表現することを「光線画」と呼んでいる。西洋絵画技法での「キアロスクーロ」であり、『東京名所図』でのそれとは意味あいが異なる。[18]
  2. ^ ジョルジュ・ビゴーの指導があったと思われる[20]
  3. ^ 自刻もしたが、成功したとはいいがたく、3点で終わった[20]
  4. ^ 「光線画」を止めた理由として、かつては同年1・2月の大火で、自宅とこれまでの作品・道具が燃えたから、との説があったが、その火事自体を版行しているのだから、その説はあたらない[24]。また吉田漱は、光線画は版木枚数が多く、コストがかかるため、版元の意向で手を引いたのではと推察する[25]
  5. ^ それゆえもあり、大正末期から太平洋戦争頃まで、清親を「明治の広重」と形容することがあった[26]。後述する。
  6. ^ 山梨は、1881年(明治14年)に「光線画」を止め、広重風名所絵に回帰した理由として、旧幕臣だった清親が、政府内での薩摩閥への権力集中、それに伴う大隈重信派の失脚に納得出来ず、「四民平等」理念の乖離を感じたからではと、指摘する。東京の発展を描く「光線画」は、新政府礼賛に繋がりかねず、政府を批判する「ポンチ絵」制作に移行した理由も、それで説明がつく[28]。また注釈5にて吉田漱が指摘したように、コストの問題も関係する。
  7. ^ 注釈2参照。
  8. ^ 判決は『日本』・『二六新報』誌未掲載で、判例データベースでもヒットせず。TKCローライブラリー”. 2020年7月9日閲覧。
  9. ^ 上陸用の小船。端艇[57]。幕末明初に国産化。ポルトガル語のbateiraに由来[58]
  10. ^ 「(ひろげたとき、蝙蝠の翼をひろげた姿に似ているところからいう。)西洋から伝わった雨よけ、または日よけの傘(略)こうもり。洋傘。」[59]
  11. ^ 「まんじゅう」項(一)の8より「懐中時計をいう。盗人仲間の隠語。」[60]
  12. ^ 仮装舞踏会。仮装会。」[61]
  13. ^ 例えば、河鍋暁斎[74]・月岡芳年[75]・豊原国周[76]歌川国松[77]。また清親より後の世代の鏑木清方[78]伊東深水[78]鳥居清忠 (5代目) [79] [80]神保朋世[81][82]などもいる。
  14. ^ 清親は、吟香が販売する目薬「精鈳水」等の薬品を宣伝する引札を制作している[85]。また、清親「光線画」シリーズの中でも代表作と言える、「海運橋 第一銀行」(1876・明治9年)での女性が持つ和傘には、「岸田」「銀座」の文字が記れている。銀座は吟香の居住地かつ店舗であり、二人の親密さが分かる[86][87]

出典

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  1. ^ 吉田 1964, p. 3.
  2. ^ 山梨絵美子 (1994-11), “小林清親”, 朝日日本歴史人物事典, 朝日新聞出版, https://archive.is/YhyGV#29% 
  3. ^ 笹間 1991, pp. 248–250.
  4. ^ a b 練馬区立美術館・静岡市美術館 2015, p. 203.
  5. ^ 笹間 1991, p. 249.
  6. ^ 笹間 1991, p. 250.
  7. ^ 山梨 1997, pp. 30、92.
  8. ^ a b c d e 笹間 1991, p. 251.
  9. ^ 静岡県立湖西高等学校郷土研究部 2002, p. 114.
  10. ^ 山梨 1997, pp. 31、92.
  11. ^ 版画家図鑑:小林清親(こばやしきよちか)KOBAYASHI Kiyochika”. www.hanganet.jp. 2023年2月6日閲覧。
  12. ^ 山梨 1997, p. 31.
  13. ^ 木下 1981b, p. 80.
  14. ^ 角田 2019, p. 39.
  15. ^ 桑山 2012, p. 5.
  16. ^ 太田記念美術館 2015, p. 148赤木美智「小林清親『武蔵百景』に見る広重学習」
  17. ^ 桑山 2012, p. 6.
  18. ^ 吉田 2012, pp. 136-137、240-242.
  19. ^ 山梨 1997, p. 33.
  20. ^ a b 清水 1997, p. 88.
  21. ^ 山梨 1997, pp. 50–53.
  22. ^ 清水 1997, pp. 86–91.
  23. ^ 加藤 2015, p. 195.
  24. ^ 山梨 1997, pp. 38–48.
  25. ^ 吉田 1964, pp. 225–229.
  26. ^ 山梨 1997, pp. 65–66.
  27. ^ 山梨 1997, pp. 55–63.
  28. ^ 山梨 1997, pp. 48-49、55-63.
  29. ^ 練馬区立美術館・静岡市美術館 2015, pp. 204-205、214.
  30. ^ 濱田 2017, p. 78.
  31. ^ 日野原 2016, p. 73.
  32. ^ 日野原 2016, p. 65、100.
  33. ^ 日野原 2016, p. 66-95.
  34. ^ 日野原 2016, pp. 102–122.
  35. ^ 加藤 2015, p. 196.
  36. ^ 練馬区立美術館・静岡市美術館 2015, p. 205.
  37. ^ 無署名 1900.
  38. ^ 無署名 1903.
  39. ^ 吉田 1964, p. 248-249.
  40. ^ 大曲 1931, p. 24.
  41. ^ 小林 1977, pp. 115–118.
  42. ^ 山梨 1997, p. 96.
  43. ^ 吉田 1964, p. 253.
  44. ^ 林 2011, p. 48.
  45. ^ 山口 2010, p. 69.
  46. ^ 『日本の美術368 清親と明治の浮世絵』68頁。
  47. ^ a b 山梨 1997, p. 66.
  48. ^ 中山 2009.
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  50. ^ 木下 1981b, p. 72.
  51. ^ 木下 1981b, p. 76.
  52. ^ 木下 1981a, p. 146.
  53. ^ 永井 1963, pp. 353–354.
  54. ^ 高橋 1984, p. 431.
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  65. ^ 吉田 1980.
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  67. ^ 前田・清水 1985.
  68. ^ 山梨 1987.
  69. ^ 日野原 2016.
  70. ^ 村瀬 2017.
  71. ^ 小山 2019.
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  74. ^ 及川 1998.
  75. ^ 平松 2017.
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  84. ^ 鈴木 2017, p. 442.
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  86. ^ 高嶋 2014, p. 103.
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  88. ^ 高嶋 2014, p. 121.
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参考文献

[編集]
  • 無署名「神田鍛冶町草履屋騒動」『二六新報』1900年10月26日、29日、31日、11月1日までの4回連載。 
  • 無署名「小林淸親に係る草履屋醜猥事件」『日本』1903年2月12日。 
  • 木下杢太郎「小林淸親が東京名所圖繪」『藝術』第2号、1913年5月1日。 
    • 木下杢太郎「小林淸親が東京名所圖繪」『木下杢太郎全集 8』岩波書店、1981年9月18日、144-147頁。 
  • 永井荷風「空地」『三田文学』第5巻第12号、1914年12月。 
    • 「日和下駄-名散策記 第八 閑地」『荷風全集13』岩波書店、1963年2月8日、350-364頁。 
  • 森口多里「広重と清親」『仮面』第24号、1915年1月、1-10頁。 
  • 木下杢太郎「故小林淸親翁の事」『中央美術』第2巻第2号、1916年2月、34-41頁。 
    • 木下杢太郎「故小林淸親翁の事」『木下杢太郎全集 9』岩波書店、1981年11月18日、70-82頁。 
  • 大曲駒村「小林清親」『浮世絵志』第27号、1931年4月1日、2-43頁。 
  • 竹内原風「広重と清親」『書画骨董雑誌』第340号、1936年10月、16-17頁。 
  • 吉田漱『清親 開化期の絵師』緑園書房、1964年12月15日。 
  • 高橋誠一郎「私の履歴書」『日本経済新聞』第1-19号、1967年1月。 
    • 高橋誠一郎 著「私の履歴書」、日本経済新聞社 編『私の履歴書 文化人16』日本経済新聞社、1984年5月2日、353-455頁。 
  • 江口正一「最後の浮世絵師・歌川国松」『Museum』第204号、東京国立博物館、1968年3月、14-20頁。 
  • 鈴木重三 著「風景画小史」、山根有三ほか 編『原色日本の美術24 風俗画と浮世絵師』小学館、1971年3月。 
    • 鈴木重三「浮世絵風景版画小史」『改訂増補 絵本と浮世絵』ぺりかん社、2017年10月、431-443頁。 
  • 吉田漱「静岡県在住期の清親」『浮世絵芸術』第32号、国際浮世絵学会、1972年、27-32頁。 
  • 無署名「元禄の芝居絵を伝える最後の浮世絵師-鳥居清忠」『サンデー毎日』第53巻第46号、毎日新聞出版、1974年11月、36-37頁。 
  • 高橋誠一郎 著「総説・明治版画」、高橋誠一郎・吉田漱 編『浮世絵大系12 清親』集英社、1975年、74-88頁。 
  • 吉田漱監修『小林清親名作集 第1・2期』アート社出版、1976年。 
  • 小林哥津 著「『清親』考」、吉田漱編著 編『最後の浮世絵師 小林清親』蝸牛社、1977年11月。 
  • 村松梢風『本朝画人伝 6巻』中央公論社中公文庫〉、1977年。 
  • 利倉幸一「鳥居派最後の浮世絵師」『版画芸術』第17号、阿部出版、1977年4月。 
  • 酒井忠康『開化の浮世絵師 清親』せりか書房、1978年。 
    • 酒井忠康『時の橋 小林清親考(「開化の浮世絵師 清親」増補版)』小沢書店、1987年。 
  • 吉田漱「暁斎と清親」『暁斎』第2号、1980年7月、2-11頁。 
  • 貴志真人「清親版画に見る開化期の交通機関」『研究紀要』第1号、福井県立美術館、1982年3月、39-66頁。 
  • [[前田愛 (文芸評論家) |前田愛 (文芸評論家)[要曖昧さ回避]]]、清水勲編『自由民権期の漫画-本田錦吉郎・小林清親』筑摩書房、1985年5月20日。 
  • 山梨絵美子「小林清親『高輪牛町朧月景』をめぐって―明治期におけるアメリカ美術の影響(上)―」『美術研究』第338巻、1987年3月、35-44頁、CRID 1050001201684828544 
  • 太田記念美術館 編『小林清親展-日本印象派の先駆者』1989年10月1日。 
  • 笹間良彦 『下級武士 足軽の生活』 雄山閣、1991年 ISBN 978-4-639-01004-3
  • 野田市郷土博物館 編『豊原国周展:最後の浮世絵師』1993年10月。 
  • 小林忠編 『肉筆浮世絵大観(10) 千葉市美術館講談社、1995年 ISBN 978-4-062-53260-0
  • 山崎記念中野区歴史民俗資料館編『役者絵の極み-豊原国周の世界』中野区教育委員会、1996年10月。 
  • 山梨絵美子「清親と明治の浮世絵」『日本の美術』第368号、至文堂、1997年1月15日、ISBN 978-4-784-33368-4 
    • 清水勲「清親と明治の浮世絵」『日本の美術』第368号、1997年、86-91頁。 
  • 弥生美術館 編『神保朋世展:最後の浮世絵師:芳年・年英・英朋・朋世の系譜をたどる』1997年4月。 
  • 及川茂『最後の浮世絵師-河鍋暁斎と反骨の美学』日本放送出版協会NHKブックス〉、1998年。ISBN 4-14-001848-8 
  • 小学館国語辞典編集部編「こうもりがさ」『日本国語大辞典第2版 5巻』小学館、2001年、454頁。ISBN 4-09-521005-2 
  • 小学館国語辞典編集部編「ばってら」『日本国語大辞典第2版 10巻』小学館、2001年、1236頁。ISBN 4-09-521010-9 
  • 小学館国語辞典編集部編「ふぁんしーぼーる」『日本国語大辞典第2版 11巻』小学館、2001年、671頁。ISBN 4-09-521011-7 
  • 小学館国語辞典編集部編「まんじゅう」『日本国語大辞典第2版 12巻』小学館、2001年、573頁。ISBN 4-09-521012-5 
  • 静岡県立湖西高等学校 郷土研究部「光線画家小林清親と鷲津」『駿遠豆』第14号、2002年3月、109-115頁。 
  • 川越市立美術館編『小江戸文化シリーズ 清親と安治 近代錦絵の光芒』、2005年2月
  • 小林忠監修 『浮世絵師列伝』 平凡社<別冊太陽>、2006年1月 ISBN 978-4-5829-4493-8
  • 国際浮世絵学会 編『浮世絵大事典』東京堂出版、2008年6月30日。ISBN 978-4-4901-0720-3 
  • 中山修一「富本憲吉と一枝の家族の政治学(2)」『表現文化研究』第8巻第2号、神戸大学表現文化研究会、2009年3月、159-200頁、doi:10.24546/81002899hdl:20.500.14094/81002899ISSN 13468103CRID 1390572174881055616 
  • 菅原真弓『浮世絵版画の十九世紀 : 風景の時間、歴史の空間』ブリュッケ, 星雲社 (発売)、2009年。ISBN 9784434138928全国書誌番号:21685314https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000010622353-00 
  • 山口昌男『内田魯庵山脈(下)』岩波書店岩波現代文庫〉、2010年。 
  • 林えり子『江戸御府内八十八ヶ所東京お遍路大江戸めぐり』主婦の友社、2011年。ISBN 978-4-072-75412-2 
  • 桑山童奈 著「『東京名所図』の世界-懐かしき東京への誘い」、町田市立国際版画美術館監修 編『小林清親 東京名所図』二玄社、2012年3月25日、4-8頁。ISBN 978-4-544-21207-5 
  • 山口県立萩美術館・浦上記念館 編『清親と安治-光線画の時代』2012年9月6日。 
    • 吉田洋子 著「光線画の時代」、山口県立萩美術館・浦上記念館 編『清親と安治』2012年9月6日、239-243頁。 
  • 高木凛『最後の版元-浮世絵再興を夢みた男・渡邊庄三郎』講談社、2013年6月。ISBN 978-4-06-218413-7 
  • 山下裕二 編『日本美術全集16 激動期の美術』小学館、2013年10月30日。ISBN 978-4-09-601116-4 
  • 高嶋雄一郎 著「岸田吟香」、世田谷美術館岡山県立美術館毎日新聞社 編『岸田吟香・劉生・麗子-知られざる精神の系譜』2014年2月8日。 
  • 練馬区立美術館 著、静岡市美術館 編『小林清親 文明開化の光と影をみつめて』青幻舎、2015年2月20日。ISBN 978-4-86152-480-6 
    • 加藤陽介 著「小林清親の画業」、練馬区立美術館・静岡市美術館 編『小林清親 文明開化の光と影をみつめて』2015年2月、194-197頁。 
    • 山本香瑞子 著「浮世絵版画の死と再生-清親の評価の変遷」、練馬区立美術館・静岡市美術館 編『小林清親 文明開化の光と影をみつめて』2015年2月、198-202頁。 
  • 太田記念美術館編『広重と清親-清親没後100年記念』2015年4月1日。 
  • 吉田洋子監修『小林清親』平凡社別冊太陽229〉、2015年5月25日。ISBN 978-4582922295 
  • 日野原健司『戦争と浮世絵』洋泉社、2016年8月17日。ISBN 978-4-8003-0958-7 
  • 菅原真弓「豊原国周研究(2)国周描く美人画作品について」(PDF)『名古屋芸術大学研究紀要』第37巻、名古屋芸術大学、2016年、173-188頁、ISSN 03884511CRID 1520290883485366144 
  • 村瀬可奈「小林清親の肖像表現に関する一考察」『浮世絵芸術』第173巻、国際浮世絵学会、2017年1月20日、5-21頁、doi:10.34542/ukiyoeart.1727ISSN 00415979CRID 1390287629000494336 
  • 植松有希『長崎版画と異国の面影』板橋区立美術館ほか、2017年2月25日。 
  • 内藤正人『うき世と浮世絵』東京大学出版会、2017年4月28日。ISBN 978-4-13-083071-3 
  • 星野桂三、星野万美子編『大政奉還150周年記念展 新発見!《戊辰之役之図》鳥羽伏見の戦い勃発の夕、京都御所では何が起きていたのか150年目の証言 併催・明治絵画拾遺選2』星野画廊、2017年9月29日。 
  • 平松洋『最後の浮世絵師月岡芳年』KADOKAWA角川新書〉、2017年11月。 
  • 濱田信義 著、河出書房新社編集部 編『小林清親-光と影をあやつる最後の浮世絵師』河出書房新社、2017年11月24日。ISBN 978-4309623269 
  • 小山周子「明治期の錦絵版元の活動 ―当館所蔵小林清親「東亰江戸橋之真景」版木より―」『東京都江戸東京博物館紀要』第9巻、東京都江戸東京博物館、2019年3月、79-88頁、ISSN 21859981CRID 1050858364030802944 
  • 角田拓郎 著「チャールズ・ワーグマンとその弟子たち」、府中市美術館 編『おかえり美しき明治』2019年9月14日。 

関連項目

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外部リンク

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