小松緑
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こまつ みどり 小松 緑 | |
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生誕 |
1865年10月26日 福島県若松町 |
死没 | 1942年1月16日(76歳没) |
出身校 | 慶應義塾、エール大学、プリンストン大学 |
職業 | 外交官、著述家 |
配偶者 | 高山壽子 |
小松 緑(こまつ みどり、慶応元年9月7日(1865年10月26日)- 昭和17年(1942年)1月16日)は明治・大正期の外交官で退官後は著述家として活躍した[1]。号は霞南。
人物略歴
[編集]陸奥国会津地方(福島県)出身。鹿目政恒の長男で、会津藩士・小松光明の養子として絶家を再興する[2]。慶應義塾を卒業[1]後、米国に留学し、政治学をまなんだ[1]。留学期間は8年に及びエール大学で法学士、プリンストン大学でマスターオブアーツを取得[3]。帰国後は明治学院教授を短期間務め[3]たのち外務省にはいり、駐米日本公使館の書記官や朝鮮総督府の外務部長などを歴任した[1]。日露戦争では遼東守備軍司令部付であった。1916年(大正5年)総督府中枢院書記官長を最後に退官、その後は著述家として活動した。
1927年(昭和2年)、「櫻雲閣主人」の名で『明治史實外交秘話』を中外商業新報社より刊行している[注釈 1]。1936年(昭和11年)には伊藤博文の言葉を集めた『伊藤公直話』の編集をおこない、千倉書房より出版した。1929年(昭和4年)、スイスのジュネーヴで開かれた国際労働会議[注釈 2]では、資本家代表の顧問として出席している[1]。会津会会員。春畝公(伊藤博文)追頌会理事[2]。
栄典・授章・授賞
[編集]- 1909年(明治42年)4月18日 - 皇太子渡韓記念章[4]
- 1912年(大正元年)8月1日 - 韓国併合記念章[5]
- 1915年(大正4年)1月23日 - 金杯一組[6]
- 1916年(大正5年)12月1日 - 正四位[7]
- 外国勲章佩用允許
- 1905年(明治38年)2月27日 - シャム王国:白象第四等勲章[8]
- 1908年(明治41年)5月19日 - 大韓帝国:韓国皇帝陛下即位礼式記念章[9]
- 1910年(明治43年)4月1日 - 大韓帝国:韓国皇帝陛下南西巡幸記念章[10]
- 1915年(大正4年)7月30日 - 支那共和国:二等嘉禾章[11]
脚注
[編集]参照
[編集]- ^ a b c d e 「小松緑とは」(コトバンク)
- ^ a b 『大衆人事録 東京篇』「小松緑」
- ^ a b 『戦前日本官僚制の制度・組織・人事』「小松緑」
- ^ 『官報』第7771号「叙任及辞令」1909年5月24日。
- ^ 『官報』第205号・付録「辞令」1913年4月9日。
- ^ 『官報』第743号「叙任及辞令」1915年1月26日。
- ^ 『官報』第1301号「叙任及辞令」1916年12月2日。
- ^ 『官報』第6502号「叙任及辞令」1905年3月7日。
- ^ 『官報』第7475号「叙任及辞令」1908年5月29日。
- ^ 『官報』第8034号「叙任及辞令」1910年4月7日。
- ^ 『官報』第902号「叙任及辞令」1915年8月4日。
参考文献
[編集]- 秦郁彦編『戦前日本官僚制の制度・組織・人事』東京大学出版会
- 帝国秘密探偵社『大衆人事録 東京篇』(第13版)1939年。