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「尾道」の版間の差分

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{{Otheruses|広島県尾道市・備後国御調郡歴史的|当地を含む地方公共団体|尾道市}}
{{Otheruses|広島県尾道市の旧市街地|当地を含む地方自治体|尾道市}}
{{maplink2|display=title,inline|frame=yes|plain=yes|type=point|zoom=6|frame-align=right|frame-width=350|frame-height=250|coord={{coord|34| 24|32|N|133|12|18.1|E}}}}
{{Location map|Japan Mapplot|coordinates={{Coord|34.4088|133.2048}}|caption=尾道|width=256}}
[[ファイル:尾道眺望 - panoramio.jpg|350px|thumb|right|北西側からの眺望]]
{{Location map | Japan Hiroshima |width=250|label = 尾道 |lat_deg =34.4088 |lon_deg =133.2048}}
'''尾道'''(おのみち)は、[[広島県]][[尾道市]]および[[備後国]][[御調郡]]の歴史的地名。現在の[[尾道市]]の旧市街地にあたる。

== 地理 ==
[[ファイル:尾道眺望 - panoramio.jpg|250px|thumb|left|眺望]]
[[File:Onomichi Channel03s3200.jpg|250px|thumb|left|奥に見える2本の斜張橋は、手前が[[西瀬戸自動車道]]の[[新尾道大橋]]で奥が[[国道317号]]の[[尾道大橋]]。]]
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| video1 = [https://www.youtube.com/watch?v=c4VoPMnSyR8 しまなみ海道] - [[空から日本を見てみよう]]
| video1 = [https://www.youtube.com/watch?v=c4VoPMnSyR8 しまなみ海道] - [[空から日本を見てみよう]]
}}
}}
'''尾道'''(おのみち)は、[[広島県]]南東部、[[瀬戸内海]]に面する地。本項では旧[[尾道市]]市街地について述べる。
この地は3つの[[日本遺産]]に関連する。
* 「尾道水道が紡いだ中世からの箱庭的都市」<ref name="nihon_isan14">{{Cite web|publisher=文化庁|url=http://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/nihon_isan/pdf/nihon_isan14.pdf|format=PDF|title=尾道水道が紡いだ中世からの箱庭的都市|accessdate=2015-12-11}}</ref>
* 「荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間 〜北前船寄港地・船主集落〜」
* 「“日本最大の海賊”の本拠地:芸予諸島-よみがえる村上海賊“Murakami KAIZOKU”の記憶-」<ref>{{Cite web|publisher=文化庁|url=http://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/nihon_isan/pdf/nihon_isan36.pdf|format=PDF|title=“日本最大の海賊”の本拠地:芸予諸島-よみがえる村上海賊“Murakami KAIZOKU”の記憶-|accessdate=2016-06-07}}</ref>
この地区はこれらのうち[[向島 (広島県)|向島地区]]を除いた本州側尾道市中心部のことで、同認定地区の大部分を占める<ref name="asahi20150425">{{Cite web|publisher=朝日新聞|date=2015-04-25|url=http://www.asahi.com/articles/ASH4S2J1CH4SPITB001.html|title=広島)旧尾道市街地と向島地区、日本遺産に認定|accessdate=2015-12-11}}</ref>。


[[中世]]に[[荘園 (日本)|荘園]]大田庄の[[倉敷地]]として開かれ、[[近世]]に[[広島藩]]の台所と呼ばれ、[[近代]]に[[造船業]]が活気だった「港まち」「商人のまち」である{{Sfn|向上計画1|p=2}}{{r|onomichi0000003905}}。
{{See also|尾道市#地理|尾道水道|尾道糸崎港}}
[[瀬戸内海]]のほぼ中央、[[中国地方]]の広島県南東部にある{{Sfn|尾道市|向上計画 , 1|p=10}}。南側が狭い所で幅約200mの一見すると河のような細長い海峡である尾道水道<ref>{{Cite web|publisher=ひろしま文化大百科|url=http://www.hiroshima-bunka.jp/modules/newdb/detail.php?id=799|title=尾道水道(おのみちすいどう)|accessdate=2015-12-11}}</ref>、北側は尾道三山と言われる千光寺山・西国寺山・浄土寺山に挟まれた、東西に伸びる細長い町である<ref name="nihon_isan14" />。海峡を挟んで南側が[[芸予諸島]]の一つ、[[向島 (広島県)|向島]]になる{{Sfn|小田|1994|p=90}}。


[[中世]]に[[倉敷地]]として開かれた「港ち」が、[[近世]]・[[近代]]・[[現代]]の中で交易あるいは交通の要地として瀬戸内海随一の港町として発達した<ref name="nihon_isan14" />。近世に海路は[[西廻海運]]航路・陸路は[[西国街道]]と[[出雲街道]]([[石見銀山街道]])、近代では[[国道2号]]と[[山陽本線]]、現代ではこの近郊で[[尾道バイパス]]・[[山陽新幹線]]に[[山陽自動車道]]と[[西瀬戸自動車道]]および[[中国横断自動車道]]が交わる「瀬戸内の十字路」で、そうした中で豪商が生まれ活発な商業活動が行われた「商人のまち」であった<ref name="nihon_isan14" />{{Sfn|尾道市|向上計画 , 1|p=10}}。
中世に[[畿内]]との物流が始[[日明貿易]]・[[朱印船貿易]]の港近世に[[西国街道]]と[[出雲街道]]([[石見銀山街道]])の宿場・[[西廻海運]]の港、近代では[[国道2号]]と[[山陽本線]]、現代ではこの近郊で[[尾道バイパス]]・[[山陽新幹線]]に[[山陽自動車道]]と[[西瀬戸自動車道]]および[[中国横断自動車道]]が交わる「瀬戸内の十字路」であ{{Sfn|向上計画1|p=10}}。


尾道三山の峰を中心に神社仏閣、海に下るにつれ住宅地、そして商業地となり、尾道水道付近が港湾施設が形成された<ref name="nihon_isan14" />。そして数々の寺社が存在する「寺のまち」である{{Sfn|尾道市|向上計画 , 1|p=22}}。また地形的制約の中で町域は拡大したことから、南は尾道水道まで、北は尾道三山の麓とくに神社仏閣の境内ギリギリまで人家が発達し、複雑に入り組んだ路地や坂道が形成された「坂のまち」である<ref name="nihon_isan14" />{{Sfn|尾道市|向上計画 , 1|p=22}}。
地元豪商や歴代守護者あるいは将軍[[足利氏]]による庇護・[[寄進]]により数々の神社仏閣が建立された「寺のまち」であり、尾道三山の峰を中心に神社仏閣、海に下るにつれ住宅地、そして商業地となり、尾道水道付近が港湾施設が形成された{{Sfn|向上計画1|p=2}}。また地形的制約の中で市街地が拡大したことから、南は尾道水道まで、北は尾道三山の麓とくに神社仏閣の境内ギリギリまで人家が発達し、複雑に入り組んだ路地や坂道が形成された「坂のまち」である。そうした情景を多くの[[文人]]が作品に残し、現代では[[映画]]・[[アニメ]]など[[メディア (媒体)|映像メディア]]に重用される、「芸術文化のまち」である{{Sfn|向上計画1|p=2}}。


こうしたコンパクトな地形の中で発達し文化的に成熟したことにより風景は変化に富み「箱庭的」様相を呈する{{Sfn|石造物編|2018|p=1}}。
この地で財を成した豪商や歴代の権力者による庇護・[[寄進]]により数々の神社仏閣が現代まで守られ、多くの[[文人]]がその情景を自身の作品に残し、現代では[[映画]]・[[アニメ]]など[[メディア (媒体)|映像メディア]]に重用される、「芸術文化のまち」である<ref name="nihon_isan14" />{{Sfn|尾道市|向上計画 , 1|p=22}}。


== 地理 ==
こうした特異な地形的制約で旧市街地が発達し文化的に成熟したことにより尾道の風景は変化に富み「箱庭的」様相を呈する<ref name="nihon_isan14" />{{Sfn|小田|1994|p=90}}。
{{See also|尾道市#地理|尾道水道}}
{|
[[瀬戸内海]]のほぼ中央{{Sfn|向上計画1|p=10}}、[[中国地方]]の広島県南東部にある。南側が水深約10m・幅は狭い所で約200mの一見すると河のような細長い海峡である尾道水道{{r|hb799}}、北側は尾道三山と言われる通称の千光寺山(大宝山/136m)・西國寺山(愛宕山・摩尼山/116m)・浄土寺山(瑠璃山/178m)に挟まれた、東西に伸びる細長い町である{{Sfn|向上計画1|p=11}}。尾道水道を挟んで南側が[[芸予諸島]]の一つ、[[向島 (広島県)|向島]]になる。
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[[ファイル:Onomichi Channel 2015.png|200px|center|thumb|尾道旧市街地の目安]]
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{{wide image|Onomichi Channel Aerial photograph.1981.jpg|600px|1981年尾道水道周辺の空中写真。{{国土航空写真}}。中央が[[尾道水道]]、写真中央右の大きな橋が[[尾道大橋]]でその左上の山が浄土寺山、そこから左へ西国寺山、千光寺山と続く。||none|dir=rtl}}
|}


<div style="border:1px solid #aaa; margin-left:0em; padding:0em; overflow:auto">
== 沿革 ==
{{File clip | Onomichi city center area Aerial photograph.2010.jpg | width = 700 | 22 | 11 | 18 | 26 | w = 12880 | h =7116 | 2010年{{国土航空写真}}。|align=center}}
=== 地名の由来 ===
{{OSM Location map
現在一般的には「山の尾の道」説が定説となっている。江戸時代に書かれた『[[芸藩通志]]』によると
|coord = {{coord|34|24|31.0|N|133|12|14.6|E}}
{{Quotation|尾道の名義詳ならず、おもふに此地もとは海涯の地甚狹く、山足にそひて往來すれば、山の尾の道と云を以、名づけしにや、土人おもへらく、地もと玉を出す古歌に詠玉浦これなりと、[[海東諸国紀|海東諸國記]]に、尾路關とあり、圖書編、三才圖會、登壇必究、並に和奴密智と書す、皆此地を云なり|『藝藩通志』三十三備後<ref>{{Cite web |url=http://base1.nijl.ac.jp/~kojiruien/tibu2/frame/f000631.html|title=古事類苑>地部二十六>備後國>村里 |publisher=国文学研究資料館 |accessdate=2016-05-05}}</ref>|}}
|zoom = 14
この地は大宝山(千光寺山)摩尼山(西国寺山)瑠璃山(浄土寺山)の三山が海岸まで迫り平地がなく、海岸沿いつまりそれぞれの山の尾根沿いに一筋の道があったことからこの名がついたと言われている<ref name="nishiyama-b">{{Cite web|publisher=西山別館|url=http://www.nishiyama-b.jp/history/|title=尾道の歴史と文化|accessdate=2015-12-11}}</ref><ref name="NDLDC1170580">{{Cite book|和書|publisher =宇垣武治|title =沿線誌集成. 第1輯|url ={{NDLDC|1170580}}|date =1927|accessdate = 2015-12-11}}</ref>。[[尾道大橋]]付近は尾崎町というが、これは山の尾の崎([[岬]])からきたという{{Sfn|郷土史論|1932|p=145}}。
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|label1 =(浄土寺山)|label-pos1 = top|label-size1 = 12|mark-size1 = 0|mark-coord1 = {{coord|34|24|53.6|N|133|12|47.9|E}}
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}}
</div>


気候は[[瀬戸内海式気候]]であり、降水量は比較的少なく温暖な気候が続く{{Sfn|向上計画1|p=12}}

中国地方特有の地帯構造として、南西-北東方向つまり右肩上がりで山列・構造谷が発達しているが、尾道でもそれが見られる{{Sfn|島野|2020|p=101}}。小起伏の山地・丘陵地の一部が急斜面で尾道水道に接し、また急斜面ぎりぎりまで市街地が発達している{{Sfn|島野|2020|p=101}}。地質は、[[花崗岩]]と平野部が[[沖積層]]になる{{r|gbank}}{{Sfn|向上計画1|p=11}}。花崗岩質の山がフィルターとなり良質な地下水に恵まれていた{{r|onomichi0000003903}}。沖積層は花崗岩[[風化]]残留土である[[真砂土|まさ土]]などで形成されており、市街地の久保町-三軒屋町付近で厚さ5mから30mとみられている{{Sfn|島野|2020|p=102}}。中世から商業地として発展してきたことにより、沿岸部の埋立が進み海岸線が南へ移っていった。中世以前の海岸線と近世以降に埋立造成された土地では1mほどの高低差がある{{r|onomichi-u1109320130111104138}}。

流れ込む河川は[[二級河川]][[栗原川 (広島県)|栗原川]]など小規模なものしか存在しておらず、河川が作った[[沖積平野]]が小さいため平地が乏しい{{Sfn|島野|2020|p=101}}。尾道水道は、潮流が速い{{Sfn|向上計画1|p=11}}。かつては栗原川から土砂が流出して河口で堆積し、その一部が満潮になると潮流によって東側へ運ばれ向島の東側では南から北へ潮流が流れるため山波沖で巨大な洲が生じた{{r|phh25zuroku}}{{r|onomichi0000003905}}。港の東西に浅瀬ができてしまうため、各年代で[[浚渫]]・埋立・築港してきた歴史がある{{r|phh25zuroku}}{{r|onomichi0000003905}}。

=== 由来 ===
尾道の名の由来は、一般的には「山の尾の道」説が定説となっている。江戸時代に書かれた『[[芸藩通志]]』によると
{{Quotation|尾道の名義詳ならず おもふに此地もとは海涯の地甚狹く 山足にそひて往來すれば 山の尾の道と云を以 名づけしにや 土人おもへらく 地もと玉を出す古歌に詠玉浦これなりと [[海東諸国紀|海東諸國記]]に 尾路關とあり [[図書編|圖書編]] [[三才図会|三才圖會]] [[登壇必究]] 並に和奴密智と書す 皆此地を云なり|『藝藩通志』三十三備後{{r|kojiruien}}|}}
[[ファイル:Senkojiyama ropeway01n3200.jpg|200px|right|thumb|「玉の岩」と[[千光寺山ロープウェイ]]]]
[[ファイル:Senkojiyama ropeway01n3200.jpg|200px|right|thumb|「玉の岩」と[[千光寺山ロープウェイ]]]]
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47行目: 58行目:
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| video1 = [http://www.senkouji.jp/story/legend/index.html 千光寺の「玉の岩」伝説]
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}}
その他には、[[神功皇后]]が海に近い地に[[カラムシ]]で道を作ったという伝承から「苧の道」を由来とする説<ref name="NDLDC1170580" />、比較的新しい説で[[司馬遼太郎]]が唱えた船の航路を意味する[[澪]]から「澪の道」が転訛した説<ref name="nishiyama-b" />、その他にも説がある。
かつてこの地は大宝山(千光寺山)摩尼山(西国寺山)瑠璃山(浄土寺山)の三山が海岸まで迫り平地がなく、海岸沿いつまりそれぞれの山の尾根沿いに一筋の道があったことから、この名がついたと言われている{{r|nishiyama-b}}{{r|NDLDC1170580}}。その他には、[[神功皇后]]が海に近い地に[[カラムシ]]で道を作ったという伝承から「苧の道」を由来とする説{{r|NDLDC1170580}}、比較的新しい説で[[司馬遼太郎]]が唱えた船の航路を意味する[[澪]]から「澪の道」が転訛した説{{r|nishiyama-b}}、その他にも説がある。


尾道の名が出てくる最古の資料は、[[永保]]元年(1081年)に書かれた『[[西國寺]]文書』の中の「尾道浦」である<ref name="onomichi0000009790">{{Cite web|publisher=尾道市|url=http://www.city.onomichi.hiroshima.jp/open_imgs/info/0000009790.pdf|format=PDF|title=Ⅰ 港町の成立と発展|accessdate=2015-12-11}}</ref>
尾道の名が出てくる最古の資料は、[[永保]]元年(1081年)に書かれた『[[西國寺]]文書』の中の「尾道浦」である{{r|onomichi0000009790}}。


別名に、[[千光寺 (尾道市)|千光寺]]玉の岩伝説からきた「玉の浦」がある。これは、[[仲哀天皇]]8年(199年)[[三韓征伐]]で神功皇后が玉の浦に寄港し、この際に住民が水を献じたことから、この功績をたたえ水調(水をつぐ)、つまり[[御調郡|御調]]の名が生まれたとする伝承による<ref name="onomichih03">{{Cite web|publisher=海事都市尾道推進協議会|url=http://www.city.onomichi.hiroshima.jp/kaijitoshi/history/h03.pdf|format=PDF|title=海をめぐる歴史と文化 近世|accessdate=2015-12-11}}</ref>。ただし玉の浦伝承[[玉島]]や[[玉野市]][[玉 (玉野市)|玉]]など各地にあり、また御調郡の地名由来諸説あり、いずも確定できない<ref>『日本歴史大系 岡山県の地名』平凡社、『日本歴史大系 広島県の地名』平凡社</ref>。
別名に、[[千光寺 (尾道市)|千光寺]]玉の岩伝説からきた「玉の浦」がある。ただし玉の浦はの地言わ<ref>『日本歴史大系 岡山県の地名』平凡社、『日本歴史大系 広島県の地名』平凡社</ref>。「尾路關」「和奴密智」の他に、[[宋希璟]]『[[老松堂日本行録]]』には「小尾途津」{{r|hb461}}とある

[[朝鮮通信使]]の[[宋希景]]が書いた紀行文『老松堂日本行録』の中では「小尾途津」と表記されている<ref>{{Cite web|publisher=ひろしま文化大百科|url=http://www.hiroshima-bunka.jp/modules/newdb/detail.php?id=461|title=老松堂日本行録(ろうしょうどうにほんこうろく)|accessdate=2015-12-24}}</ref>。


== 沿革 ==
=== 古代 ===
=== 古代 ===
古代尾道は、小さな集落として存在していた<ref name="onomichi0000009790" />。尾道の東にある[[松永湾]]で[[縄文時代]]・[[弥生時代]]の[[貝塚]]跡が発見されており、尾道も同様にこの頃から人が住んでいたと推定されている{{Sfn|尾道市|向上計画 , 1|p=16}}<ref name="onoport">{{Cite web|publisher=尾道市港湾振興課|url=http://www.onoport.jp/portguide/history.html|title=尾道港 歴史と沿革|accessdate=2015-12-11}}</ref>
古代尾道は、小さな集落として存在していた{{r|onomichi0000009790}}。尾道の東にある[[松永湾]]で[[縄文時代]]・[[弥生時代]]の[[貝塚]]跡が発見されており、尾道も同様にこの頃から人が住んでいたと推定されている{{Sfn|向上計画1|p=16}}{{r|onoport}}。また周辺島嶼の[[古墳時代]]の遺跡から製塩土器が大量に出土しており、この頃から周辺島嶼で塩作りが盛んに行われていた{{Sfn|向上計画1|p=16}}。


[[国郡里制]]下では[[備後国]][[御調郡]]に属し、その中の者度郷の一部であったとされるが、諸説ある<ref>『日本歴史大系 広島県の地名』平凡社</ref>。[[飛鳥時代]]、郡の中心は尾道の北にある御調(尾道市御調町)にあり、そこには[[官道]](古代)[[山陽道]]が通り[[駅家]]もあったとされる{{Sfn|向上計画1|p=16}}。ただしこの地方では瀬戸内海での海路が発達し、[[租庸調|庸・調税]]の輸送も海運が利用されるようになると、官道より海路が重要視されるようになる{{Sfn|向上計画1|p=16}}。[[8世紀]]から海路整備が始まり[[行基]]によりほぼ1日航程の間隔で港が整備され、この地の東に敷名泊([[福山市]])、西に[[糸碕神社|長井の浦]]([[三原市]])が整備された{{r|uminet}}。ただしこの時点では尾道は主要港として位置づけられていない。
[[国郡里制]]下では備後国御調郡に属し、その中の者度郷の一部であったとされるが、諸説ある<ref>『日本歴史大系 広島県の地名』平凡社</ref>。


山のにもなっている代表的な寺院は以下のとおり創建している。
山の通称にもなっている代表的な寺院は以下のとおり創建している。
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Onomichi Jodoji 05.JPG|[[浄土寺 (尾道市)|浄土寺]] : [[推古天皇]]24年(616年)、[[聖徳太子]]が開いたと伝承<ref name="ermjp">{{Cite web|publisher=浄土寺|url=http://www.ermjp.com/j/temple/histry/index.htm|title=浄土寺のご紹介|accessdate=2015-12-11}}</ref>
浄土寺 - panoramio.jpg|[[浄土寺 (尾道市)|浄土寺]] : [[推古天皇]]24年(616年)、[[聖徳太子]]が開{{r|ermjp}}{{r|ononavihistory}}。『[[東京物語]]』のロケ地
Saikokuji 04.JPG|[[西國寺]] : [[天平]]年間(729年 - 749年)、[[行基]]が開山<ref>{{Cite web|publisher=西国寺|url=http://www.saikokuji.jp/history/index.htm|title=西国寺の歴史|accessdate=2015-12-11}}</ref>
Saikokuji05s3200.jpg|[[西國寺]] : [[天平]]年間(729年 - 749年)、行基が開山{{r|saikokuji}}{{r|ononavihistory}}。
Senkoji Onomichi08n3872.jpg|[[千光寺 (尾道市)|千光寺]] : [[大同 (日本)|大同]]元年(806年)、[[空海]]が開基と伝承<ref>{{Cite web|publisher=西国寺|url=http://www.senkouji.jp/guidance/index.html|title=千光寺のご案内|accessdate=2015-12-11}}</ref>
Senkoji Onomichi13n3872.jpg|[[千光寺 (尾道市)|千光寺]] : [[大同 (日本)|大同]]元年(806年)、[[空海|弘法大師]]が開基{{r|senkouji}}{{r|ononavihistory}}
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[[ファイル:Ushitora jinja 20170306-1.JPG|200px|right|thumb|[[艮神社 (尾道市長江)|艮神社]]。千光寺と同年である大同元年鎮座。[[艮]]は[[大山祗神社]]から。『[[時をかける少女 (1983年の映画)|時をかける少女]]』『[[かみちゅ!]]』などで有名。]]
また[[御袖天満宮]]は、[[延喜]]元年(901年)[[大宰府]]へ左遷される途中の[[菅原道真]]がこの地に立ち寄ったという伝承を元に起こった神社である<ref name="onomichih03" /><ref>{{Cite web|publisher=おのナビ|url=http://www.ononavi.jp/sightseeing/temple/detail.html?detail_id=331|title=御袖天満宮|accessdate=2015-12-11}}</ref>。なお浄土寺創建の伝承からこの頃には港として機能していたとして616年より前に開港していたとも考えられ<ref name="onoport" />、玉の岩伝説や神功皇后の御調や道真の伝承などから古来に船がつける場所があった可能性がある。


浄土寺創建の伝承から、尾道には616年より前に港があったと考えられている{{r|onoport}}。
古代、[[ヤマト政権]]は太宰府まで陸路と海路を整備した。主要陸路は(古代)[[山陽道]]で、この時代この地域では尾道の北を通り現在の[[府中市 (広島県)|府中市]]から尾道市[[御調町]]を通り[[三原市]]へと抜けるルートであった{{Sfn|尾道市|向上計画 , 1|p=16}}。海路は、[[8世紀]]から整備が始まり行基によりほぼ1日航程の間隔で港が整備され、この地の東に敷名泊([[福山市]])、西に[[糸碕神社|長井の浦]](三原市)とが整備され、この時点ではまだ尾道は主要港として位置づけられていない<ref name="uminet">{{Cite web|publisher=瀬戸内・海の路ネットワーク推進協議会|url=http://www.uminet.jp/know/history/index.html|title=瀬戸内海の歴史|accessdate=2015-12-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160304095941/http://www.uminet.jp/know/history/index.html|archivedate=2016年3月4日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref>。[[平安時代]]に入り[[荘園 (日本)|荘園]]制が始まると、荘園からの[[年貢]]を運び出すため[[倉敷地]](港)が更に各地に作られていった<ref name="uminet" /><ref name="onomichi0000009790" />。尾道もその中の一つである。
また[[御袖天満宮]]は、[[延喜]]元年(901年)[[大宰府]]へ左遷される途中の[[菅原道真]]がこの地に舟で立ち寄ったという伝承を元に起こった神社である{{r|NDLDC1170580}}{{r|ononavi331}}{{r|ononavihistory}}。
<gallery widths="200px">
艮神社 Ushitora shrine.jpg|[[艮神社 (尾道市長江)|艮神社]]。千光寺と同年である806年鎮座。『[[時をかける少女 (1983年の映画)|時をかける少女]]』『[[かみちゅ!]]』の舞台{{r|ononavi332}}。
Misode-tenmangu01n3872.jpg|御袖天満宮。『[[転校生 (映画)|転校生]]』『かみちゅ!』『[[てっぱん]]』の舞台{{r|ononavi331}}。
Taisan-ji 20170306-3.JPG|[[大山寺 (尾道市)|大山寺]]。[[平安時代]]初期(延暦13年(794年)-)には創建されていたとされる。のち境内に御袖天満宮が建立され[[別当寺]]となった{{r|taisanji}}。
</gallery>


=== 港町の成立 ===
=== 港町の成立 ===
平安時代、尾道は小さな漁村であったと考えられている{{Sfn|向上計画1|p=17}}。平安時代後期、西國寺は火災により大半が消失したが、永保元年(1081年)[[白河天皇]]の勅命により復興され、永保2年(1082年)白河天皇の祈願所となった{{Sfn|向上計画2-1|p=51}}。この西國寺復興を記した『西國寺文書』内に、文献上初めて尾道の名が出てくる{{r|onomichi0000009790}}。天仁元年(1108年)西國寺は白河法皇([[院政]])により[[勅願寺]]([[官寺]])となり、山陽道随一の[[伽藍]]を誇るようになった{{Sfn|向上計画2-1|p=51}}。
平安時代、尾道から北の内陸部にある現在の[[世羅郡]][[世羅町]]は「大田庄」という荘園で、[[平氏政権]]が樹立された時代[[平重衡]]の荘園だった<ref name="onomichi0000009790" /><ref name="onomichih02">{{Cite web|publisher=海事都市尾道推進協議会|url=http://www.city.onomichi.hiroshima.jp/kaijitoshi/history/h02.pdf|format=PDF|title=海をめぐる歴史と文化 中世|accessdate=2015-12-11}}</ref><ref name="ononavihistory">{{Cite web|publisher=おのナビ|url=http://www.ononavi.jp/fan/history/|title=おのみちの年表|accessdate=2015-12-11}}</ref>。ただ倉敷地は存在していなかったため、[[下司]]は尾道を用いたいと嘆願を上げていた<ref name="NDLDC1170580" /><ref name="onomichi0000009790" /><ref name="ononavihistory" />。[[永万]]2年(1166年)重衡は大田庄を[[後白河天皇|後白河院]]に[[寄進]]したことから院領荘園となり、[[嘉応]]元年(1169年)尾道が院により倉敷地として正式に認められた<ref name="onomichi0000009790" /><ref name="ononavihistory" />。「港町」尾道の歴史はここから始まる<ref name="onomichi0000009790" /><ref name="onomichih02" />。
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|label3 =金剛峯寺|label-size3 = 11|label-pos3 =right|mark3=Japanese Map symbol (Temple).svg |mark-size3= 15|mark-coord3= {{coord|34|12|48|N|135|34|48|E}}
{{Location map~|Japan|lat_deg =34.4088 |lon_deg =133.2048 |label = 尾道 |position=bottom}}
|label4 =紀伊湊|label-size4 = 11|label-pos4 = left|mark4=Japanese Map symbol (Fishing port).svg |mark-size4= 15|mark-coord4= {{coord|34|13|31|N|135|08|45|E}}
{{Location map~|Japan|lat_deg =34.5868 |lon_deg =133.0566|label = 大田庄 |position=top}}
{{Location map~|Japan|lat_deg =34.2353 |lon_deg =135.1610|label = 紀伊湊 |position=right}}
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}}
}}
尾道の北にある現[[世羅郡]][[世羅町]]には平安時代に「大田庄」という[[荘園 (日本)|荘園]]があり、[[平氏政権]]が樹立された時代[[平重衡]]の荘園だった{{r|onomichi0000009790}}{{r|onomichih02}}{{r|ononavihistory}}。ただ荘園からの[[年貢]]を運び出すための[[倉敷地]](港)は存在していなかったため、[[下司]]は尾道を用いたいと嘆願を上げていた{{r|NDLDC1170580}}{{r|onomichi0000009790}}。[[永万]]2年(1166年)重衡は大田庄を[[後白河天皇|後白河院]]に[[寄進]]したことから院領荘園となり、[[嘉応]]元年(1169年)尾道が院により倉敷地として正式に認められた{{r|onomichi0000009790}}{{r|onomichih02}}{{r|ononavihistory}}{{Sfn|向上計画1|p=17}}。「港町」尾道の歴史はここから始まる{{r|onomichi0000009790}}{{r|onomichih02}}{{r|onomichi0000003898}}{{r|onomichi0000003905}}。
[[文治]]2年(1186年)後白河院は大田庄を[[高野山]][[金剛峯寺]]に寄進、高野山根本大塔領大田庄となり尾道も高野山領となる<ref name="onomichi0000009790" /><ref name="ononavihistory" />。大田庄の年貢米や[[ゴマ]]は、倉敷地である尾道で一旦保管され良い天候まで待ち、そこから船で高野山の港である紀伊湊まで運ばれていった<ref name="onomichih02" />。この運搬は[[荘官]]の下で任務にあたっていた「問」「問丸」「舵取り」等呼ばれた海運業者によるものである<ref name="onomichih02" />。


[[文治]]2年(1186年)後白河院は大田庄を[[高野山]]([[金剛峯寺]])に寄進、尾道も高野山領となる{{r|onomichi0000009790}}{{r|ononavihistory}}。大田庄の年貢である米や[[ゴマ]]は、倉敷地である尾道で一旦保管され良い天候まで待ち、そこから船で高野山の港である紀伊湊まで運ばれていった{{r|onomichih02}}。また建久5年(1194年)高野山は大田庄へ半[[畳]]12帖貢納を命じており{{r|bingoomote}}、この頃から[[筵]]・畳([[びんご畳表|備後表]])が作られていたことになる。これらの運搬は[[荘官]]の下で任務にあたっていた“問”“問丸”“舵取り”等呼ばれた海運業者が行っていた{{r|onomichih02}}{{Sfn|向上計画1|p=17}}。[[文永]]7年(1270年)から尾道の港で独自に津料([[関税]])を徴収している{{Sfn|向上計画1|p=17}}。
[[寛元]]3年(1245年)高野山は尾道に和泉法眼[[淵信]]を荘官として派遣している<ref name="onomichi0000009790" />。淵信はここから30年近く尾道を管理し有力な荘官となっていき、[[弘安]]9年(1286年)には浄土寺[[別当]]となっている{{Sfn|尾道市|向上計画 , 1|p=17}}<ref name="nara-u">{{Cite journal|和書|author=松山 宏|publisher=奈良大学史学会|url=http://repo.nara-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/AN10086451-19891200-1001.pdf?file_id=1609|format=PDF|title=鎌倉時代の守護所|date=1989-12|accessdate=2015-10-29}}</ref>。浄土寺が[[叡尊]]の弟子・定証によって中興されるのはこの時期である<ref name="nara-u" />。ただ『高野山文書』によると[[文永]]7年(1270年)以前から尾道の港で津料([[関税]])を徴収しており、この頃になると淵信は高野山の意思とは別に独自に動き出し莫大な富を得、海運業者は仲買人からのちに商家へと発達していき、それにより尾道は独立した交易港となっていく<ref name="onomichih02" /><ref name="onomichi0000009790" /><ref name="nara-u" />。

[[ファイル:Gthumb.svg|200px|right|thumb|[[海龍寺]]。かつては曼荼羅堂と呼ばれ定證が浄土寺中興の際に安居していた。寛元3年(1245)渕信は定證に寄進、徳治2年(1307)浄土寺[[塔頭]]となった{{r|kairyuji}}。]]
[[寛元]]3年(1245年)高野山は尾道に和泉法眼[[淵信]]を[[預所]]として派遣し、年貢米の輸送と管理にあたらせた{{r|onomichi0000009790}}{{Sfn|向上計画1|p=17}}。淵信はここから30年近く尾道を管理し、弘安9年(1286年)浄土寺[[別当]]となっている{{Sfn|向上計画1|p=17}}{{r|nara-u}}。この頃になると淵信は尾道で権力を持つとともに高野山の意思とは別に独自に動き出して莫大な富を得ていた{{r|onomichih02}}{{r|onomichi0000009790}}{{r|nara-u}}。ただ淵信は正安2年(1300年)[[公文]]百姓から訴えられ預所から退いている{{r|nara-u}}。荒れ果てた浄土寺が[[西大寺 (奈良市)|西大寺]]の[[定証]]によって中興されるのはこの時期である{{r|nara-u}}{{Sfn|向上計画2-1|p=45}}。

中世の尾道は、現在の尾道本通りあたりが海岸線だった{{Sfn|向上計画2-1|p=54}}。長江・十四日と久保の2つに入江があり、入江を中心に港町が形成された{{Sfn|向上計画2-1|p=54}}。遺物の出土状況から、[[13世紀]]から[[14世紀]]初頭の尾道の中心地は、浄土寺や西國寺を後背に持つ坊地口周辺であったと考えられている{{r|onomichi0000009790}}。入江の集落から傾斜地の寺社に向けて小路が繋がっていた{{Sfn|向上計画2-1|p=54}}。この頃から尾道は港町として大きく発展し、有力な海運業者や商人が出現した{{r|onomichi0000009790}}。そして海賊(交易品を強奪する盗賊ではなく[[水先人]]として通行料を得ようとするもの)が現れ、中には地元有力者と結びつくものも現れた{{r|onomichih02}}{{r|nara-u}}{{r|onomichi0000009791}}。

備後[[守護所]]は[[鎌倉時代]]初期には瀬戸長和庄(福山市)にあり、[[長井貞重]]が治めていた{{r|nara-u}}。[[文保]]2年(1318年)西国悪党を鎮圧する目的で京都([[六波羅探題]])から使節が尾道に派遣されたが、[[雑掌]]はそれを拒否した{{r|nara-u}}。使節は翌文保3年(1319年)に帰洛するが、その1ヶ月後に悪党がいるとして守護貞重は尾道に代官円清高を派遣した{{r|nara-u}}。このときの尾道の人口は5,000人を超えており{{r|onomichi0000003898}}、代官清高らは数々の悪行をし、仏閣社殿数カ所と[[政所]]・民家1,000戸あまりを焼き払った{{r|nara-u}}。高野山が院に守護貞重の狼藉を訴えたことで収まった{{r|nara-u}}。のちに長井氏は守護所を尾道に置いた{{r|nara-u}}。


=== 中世の繁栄 ===
=== 中世の繁栄 ===
[[ファイル:Jikoji01n3872.jpg|200px|right|thumb|[[持光寺]]山門。この寺は[[承和 (日本)|承和]]年間(834年 - 848年)[[円仁|慈覚大師]]により草創。この山門の建立年度は不明で元々は[[鐘楼]]が乗っていたと考えられている。36枚の花崗岩からなり、尾道の石工を代表するものである{{r|jikouji}}{{r|nishiyama-h}}{{Sfn|石造物編|2018|p=36}}。]]
[[14世紀]]初め、尾道は港町として大きく発展し、有力な海運業者や商人が出現した<ref name="onomichi0000009790" /><ref name="ononavihistory" />。そして海賊、交易品を強奪するのではなく[[水先人]]として通行料を得ようとするもの、が現れ、中には地元有力者と結びつくものも現れた<ref name="nara-u" />。[[鎌倉時代]]初期、[[守護所]]は瀬戸長和庄(福山市)にあったが、[[文保]]2年(1318年)[[鎌倉幕府]]は[[守護]]をこの地に派遣し、後に守護所が移設されることになる<ref name="nara-u" />。
[[ファイル:Onomichi Jodoji 01.JPG|200px|right|thumb|浄土寺山門。浄土寺の寺紋が足利氏の[[引両紋|二引両]]であり、この山門の側面に二引両が刻まれている。この寺に足利尊氏により[[安国寺利生塔|利生塔]]が建立されたが現存せず。境内には尊氏供養塔といわれる宝篋印塔がある{{Sfn|向上計画2-1|p=47}}{{Sfn|向上計画2-1|p=48}}{{r|ph102010230}}。]]


鎌倉時代の尾道における交易品は塩や鉄・布製品など{{Sfn|向上計画1|p=18}}。この当時から商人だけでなく刀鍛冶や石工など職人も暮らしていた{{r|onomichi0000009791}}。中国山地で生産された鉄([[たたら製鉄]])が沼田[[小早川氏]]の三原(三原市)まで運ばれ刀鍛冶として育っていき、小早川氏等への供給による利潤獲得のため尾道でも刀鍛冶が行われるようになった{{Sfn|向上計画1|p=18}}。[[天平]]年間(729年から749年)から創業した“其阿弥家”は現在でも存続している{{r|masaie}}。当時から近年まで鍛冶業が盛んであったとわかっている{{r|onomichi0000009791}}。また石工が発達したのは鎌倉時代後期から室町時代にかけてで、現在重要文化財に指定されている宝篋印塔や五輪塔にはこの時代に造られている{{r|onomichi0000009791}}{{Sfn|石造物編|2018|p=2}}。また問丸(海運業者)は他領の年貢輸送も行っており利益を得ていた{{r|onomichi0000003898}}。
[[ファイル:Jikoji01n3872.jpg|200px|right|thumb|[[持光寺]]山門。この寺は[[承和 (日本)|承和]]年間(834年から848年)慈覚大師([[円仁]])により草創。この山門の建立年度は不明、36枚の[[花崗岩]]からなり、尾道の石工を代表するものである<ref>{{Cite web|publisher=尾道七佛めぐり|url=http://www.shichibutsu.com/jikouji/|title=持光寺〔浄土宗〕|accessdate=2015-12-11}}</ref><ref>{{Cite web|publisher=おのナビ|url=http://www.ononavi.jp/sightseeing/temple/detail.html?detail_id=1|title=持光寺〔浄土宗〕|accessdate=2015-12-11}}</ref>。]]
この時代の交易品は塩や鉄・布製品など{{Sfn|尾道市|向上計画 , 1|p=18}}。この当時から商人だけでなく刀鍛冶や石工など職人も暮らしていた<ref name="onomichi0000009791">{{Cite web|publisher=尾道市|url=http://www.city.onomichi.hiroshima.jp/open_imgs/info/0000009791.pdf|format=PDF|title=第2章 瀬戸内海の交易と海の道|accessdate=2015-12-11}}</ref>。刀鍛冶は[[天平]]年間(729年から749年)から現在まで続く“其阿弥家”が有名で<ref>{{Cite web|publisher=東山手|url=http://masaie.jp/rekisi/|title=其阿弥家の歴史|accessdate=2015-12-11}}</ref>、当時から近年まで鍛冶業が盛んであったとわかっている<ref name="onomichi0000009791" />。石工が発達したのはこの時代で、現在重要文化財として残る石塔にはこの時代に造られているものがある<ref name="onomichi0000009791" />。


[[建武 (日本)|建武]]3年(1336年)、[[建武の新政]]後九州に落ち延びる[[足利尊氏]]は途中で浄土寺に参拝、再び京へ東上の途中にまた浄土寺に参拝し戦勝祈願している<ref name="ononavihistory" /><ref name="onomichi0000009790" />。尊氏が[[鞆の浦|鞆]](福山市)で[[光厳天皇|光厳上皇]]の[[院宣]]を獲得し勢力を拡大していったのは、この後のことである。この鎌倉時代末期から[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]にかけて、鎌倉幕府の弱体化によりこの地の[[守護]]や海賊たちが力をつけ独立し、尾道の周辺にも砦そして城が造られた<ref name="onomichi0000024749">{{Cite web|publisher=尾道市|url=http://www.city.onomichi.hiroshima.jp/open_imgs/info/0000024749.pdf|format=PDF|title=第3章 城跡|accessdate=2015-12-11}}</ref>
[[建武 (日本)|建武]]3年(1336年)、[[建武の新政]]後九州に落ち延びる[[足利尊氏]]は途中で浄土寺に参拝、再び京へ東上([[建武の乱]])の途中にまた浄土寺に参拝し戦勝祈願している{{r|onomichi0000009790}}{{r|ononavihistory}}。尊氏が[[鞆の浦|鞆]](福山市)で[[光厳天皇|光厳上皇]]の[[院宣]]を獲得し勢力を拡大していったのは、この後のことになる。この鎌倉時代末期から[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]にかけて、幕府の弱体化によりこの地の守護や海賊たちが力をつけ独立し、尾道の周辺にも砦そして城が造られた{{r|onomichi0000024749}}。現在尾道で行われている[[吉和太鼓おどり]]の起源は諸説あるが、一説には尊氏が尾道から九州に向かうときに先案内人を務めたのが吉和の漁師たちで、尊氏の戦勝を祝って踊ったのが始まりされている{{Sfn|向上計画2-1|p=48}}。


[[応安]]4年(1371年)[[今川貞世|今川了俊]]の紀行文『[[道ゆきぶり]]』によると、この時代の尾道は漁師町を主体とした港町であったこと、現在のように山と海に挟まれた狭小地に民家が密集していた{{Sfn|向上計画1|p=17}}{{r|onomichih02}}。対岸の歌島(向島)沿岸部では製塩が盛んであった{{r|onomichih02}}。港には[[陸奥]]や[[筑紫]]から交易船が来ていた{{Sfn|向上計画1|p=17}}{{r|onomichih02}}。歌島(向島)や[[生口島]]など周辺島嶼部で生産された塩などの物産を取り扱うことで、尾道はさらに交易港として発展した{{r|onomichi0000009490}}。現代になって行われた発掘調査から、沿岸部の埋め立て・土地造成は[[室町時代]]から活発化したことがわかっている{{r|onomichi0000009790}}。
[[室町時代]]、[[応安]]4年(1371年)[[今川貞世]](了俊)が[[九州探題]]として下向していた時に書かれた紀行文『[[道ゆきぶり]]』によると、尾道はこの時代から現在のように民家が密集し、[[陸奥]]や[[筑紫]]から交易船が来ていた{{Sfn|尾道市|向上計画 , 1|p=17}}。この地は中国地方を勢力下においた[[山名氏]]が支配していたが[[明徳の乱]]で[[室町幕府]]に敗れ没落した。この頃、将軍[[足利義満]]が天寧寺に宿泊{{Sfn|尾道市|向上計画 , 2 , 前半|p=13}}、[[応永]]2年(1395年)義満は備後大田庄含めた6個郷[[地頭]]職、そして尾道・[[倉敷]]を高野山西塔へ寄付している<ref name="ononavihistory" />。[[応永の乱]]の手柄により再び山名氏([[山名時熙]])が守護として返り咲くと、尾道は山名氏領内の重要港として発展していく<ref name="onomichih02" />。[[日明貿易]]が始まり、尾道にも[[遣明船]]が停泊、中には尾道船籍のものも存在していた<ref name="onomichih02" />。現代になって行われた発掘調査において、この年代の地層から[[瀬戸焼]]・[[常滑焼]]・[[備前焼]]のほか、中国[[青磁]]・[[白磁]]、朝鮮青磁も出土していることから、かなりの規模の商業活動が行われていたと考えられている<ref name="onomichi0000009790" />。この時代に、将軍[[足利氏]]による新たな建立や西國寺が時熙の子で守護の[[山名宗全]]の庇護で再建されるなど「寺のまち尾道」の基盤が形成され、商人たちは彼ら権力者の庇護を受けつつ尾道を自治運営していた{{Sfn|尾道市|向上計画 , 1|p=17}}{{Sfn|尾道市|向上計画 , 2 , 前半|p=43}}<ref name="onomichih02" />。


この地は中国地方を勢力下においた[[山名氏]]が支配していたが[[明徳の乱]]で[[室町幕府]]に敗れ没落した。この頃、将軍[[足利義満]]が[[天寧寺 (尾道市)|天寧寺]]に宿泊{{Sfn|向上計画2-1|p=13}}、[[応永]]2年(1395年)義満は備後大田庄含めた6個郷[[地頭]]職、そして尾道・[[倉敷]]を高野山西塔へ寄付している{{r|ononavihistory}}。[[応永の乱]]の手柄により再び山名氏が守護として返り咲くと、尾道は山名氏領内の重要港として発展していく{{r|onomichih02}}。

[[日明貿易]]が始まり、尾道にも[[遣明船]]が停泊、中には尾道船籍のものも存在していた{{r|onomichih02}}。発掘調査において、この年代の地層から[[瀬戸焼]]・[[常滑焼]]・[[備前焼]]・[[播磨国|東播]]系[[須恵器]]のほか、中国[[青磁]]・[[白磁]]、朝鮮陶磁器も出土していることから、かなりの規模の商業活動が行われていたと考えられている{{r|onomichi0000009790}}{{r|onomichi0000009791}}{{Sfn|向上計画1|p=18}}。

この時代に、将軍[[足利氏]]による新たな建立や西國寺が守護山名氏の庇護で再建されるなど「寺のまち」の基盤が形成され、商人たちは彼ら権力者の庇護を受けつつ尾道を自治運営していた{{Sfn|向上計画1|p=17}}{{Sfn|向上計画2-1|p=43}}{{r|onomichih02}}。特に現在[[時宗]]の寺院が6ヶ寺あるのも尾道の特徴である{{r|onomichi0000009790}}。

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| caption = 中世の建築物が現存する寺院{{Sfn|向上計画2-1|p=44}}。中世には長江・十四日と久保に入江があった。尾道本通り付近がかつての海岸線であり、15世紀から16世紀前半には埋め立てられ道として整形されていた{{Sfn|向上計画2-1|p=54}}{{Sfn|教育委員会|2012|p=28}}。
|labela1 =浄土寺|labelb1 =多宝塔/本堂/阿弥陀堂/山門|label-pos1 = top|label-size1 = 12|mark1 =Japanese Map symbol (Temple).svg|mark-size1 = 15|mark-coord1 = {{coord|34|24|43.8|N|133|12|37.1|E}}
|labela2 =西國寺|labelb2 =金堂/三重塔|label-pos2 = top|label-size2 = 12|mark2 =Japanese Map symbol (Temple).svg|mark-size2 = 15|mark-coord2 = {{coord|34|24|57.3|N|133|12|12.2|E}}
|labela3 =西郷寺|labelb3 =本堂/山門|label-pos3 = top|label-size3 = 12|mark3 =Japanese Map symbol (Temple).svg|mark-size3 = 15|mark-coord3 = {{coord|34|24|50.9|N|133|12|30|E}}
|labela4 =常称寺|labelb4 =本堂/観音堂/大門|label-pos4 = top|label-size4 = 12|mark4 =Japanese Map symbol (Temple).svg|mark-size4 = 15|mark-coord4 = {{coord|34|24|44.4|N|133|12|13.1|E}}
|labela5 =天寧寺|labelb5 =塔婆|label-pos5 = left|label-size5 = 12|mark5 =Japanese Map symbol (Temple).svg|mark-size5 = 15||mark-coord5 = {{coord|34|24|34.9|N|133|12|2.3|E}}
|label6 =(坊地口)|label-pos6 = top|label-size6 = 12|label-color6 =blue|mark-size6 = 0|mark-coord6 = {{coord|34|24|45.9|N|133|12|24.5|E}}
|label7 =(久保)|label-pos7 = top|label-size7 = 12|label-color7 =blue|mark-size7 = 0|mark-coord7 = {{coord|34|24|52.8|N|133|12|23.1|E}}
|label8 =(長江・十四日)|label-pos8 = top|label-size8 = 12|label-color8 =blue|mark-size8 = 0|mark-coord8 = {{coord|34|24|38.0|N|133|12|09.6|E}}
|labela9 =↑|labelb9 =中世の海岸線|label-pos9 =bottom|label-size9 = 13|label-color9 =blue|mark-size9 = 0|mark-coord9 = {{coord|34|24|42.4|N|133|12|38.1|E}}
|label10 =↑|label-pos10 =bottom|label-size10 = 14|label-color10 =blue|mark-size10 = 0|mark-coord10 = {{coord|34|24|43.9|N|133|12|22.8|E}}
|label11 =↑|label-pos11 =bottom|label-size11 = 14|label-color11 =blue|mark-size11 = 0|mark-coord11 = {{coord|34|24|41.0|N|133|12|16.2|E}}
|label12 =↑|label-pos12 =bottom|label-size12 = 14|label-color12 =blue|mark-size12 = 0|mark-coord12 = {{coord|34|24|36.5|N|133|12|09.5|E}}
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Tenneiji Onomichi01s3872.jpg|尾道を代表する風景の一つ、天寧寺から東方向を撮影したもの。この寺は尊氏の意思を継いで[[足利義詮]]が工事を寄進、[[春屋妙葩|普明国師]]を請して開山した。左に見える塔婆は嘉慶2年(1388年)建立{{r|tenneiji}}{{r|ph102010180}}{{Sfn|向上計画2-1|p=43}}。
Onomichi Jodoji 01.JPG|国重文・浄土寺山門。側面に足利氏の[[引両紋]]が刻まれている。この寺に[[足利尊氏]]により[[安国寺利生塔|利生塔]]が建立されたが現存せず{{Sfn|尾道市|向上計画 , 2 , 前半|p=48}}<ref>{{Cite web|publisher=広島県教育委員会|url=http://www.pref.hiroshima.lg.jp/site/bunkazai/bunkazai-data-102010230.html|title=浄土寺山門|accessdate=2015-12-11}}</ref>。
Gthumb.svg|[[常称寺 (尾道市)|常称寺]]。[[遊行上人|遊行]]2代[[他阿]]により開基。尾道における時宗寺院の最高位。暦応3年(1340年)尊氏が七堂伽藍を建立したが現存せず{{Sfn|向上計画2-1|p=58}}{{r|chugoku20030523}}。
Tenneiji Onomichi01s3872.jpg|尾道を代表する風景の一つ、[[天寧寺 (尾道市)|天寧寺]]から東南方向を撮影したもの。この寺は普明国師([[春屋妙葩]])が開山した。左に見える塔婆は国重文で[[貞治]]6年(1367年)[[足利義詮]]が建立<ref>{{Cite web|publisher=広島観光ナビ|url=http://www.kankou.pref.hiroshima.jp/sys/data?page-id=5282|title=天寧寺|accessdate=2015-12-11}}</ref>。
Saigo-ji.JPG|[[西郷寺]]。遊行6代[[他阿一鎮|一鎮]]により開基。文和2年(1353年)建立の本堂は、現存最古の時宗寺院本堂になる。尊氏から院号や本尊である念持仏(阿弥陀如来立像)をもらい受けたという伝承が残る{{Sfn|向上計画2-1|p=43}}。
Saikokuji01s3200.jpg|国重文・西國寺三重塔。[[永享]]元年(1429年)[[足利義教]]が建立{{Sfn|尾道市|向上計画 , 2 , 前半|p=52}}。
Saikokuji 04.JPG|西國寺金堂。至徳3年(1386年)建立。西國寺は守護山名氏から庇護を受けた{{r|ph102010100}}。
Saikokuji01s3200.jpg|西國寺三重塔。[[永享]]元年(1429年)[[足利義教]]が建立。この寺は[[真言宗醍醐派]]大本山であり、尾道商人の寄進を多数集めた寺でもあり、中世・近世の[[伽藍]]が多数ある{{Sfn|向上計画2-1|p=52}}。
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室町後期から[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]までの間、豪族や海賊が武力で台頭していく[[下克上]]の時代である。この地を掌握できる位置にいくつか城が築かれている{{r|onomichi0000024749}}。またこの時代この地域の特色として[[因島]]を拠点とした因島村上氏([[村上水軍]])の存在がある{{r|onomichih02}}。尾道水道の中間部の島、現在は丘陵として向島と陸続きとなっている小歌島地区は“宇賀島衆”と呼ばれた海賊の拠点で、商船から関料を徴収していたが滅ぼされ、のち村上水軍の支城となったとされている{{r|onomichih02}}{{r|onomichi0000024749}}。
[[ファイル:千光寺展望台からの光景.JPG|200px|right|thumb|千光寺展望台からの向島。右手前の小さな山が小歌島地区。]]
これらの勢力は中国覇権を目指した[[毛利氏]]の傘下となった{{r|onomichi0000003897}}{{r|onomichi0000003898}}。
室町後期から[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]までの間、豪族や海賊が武力で台頭していく[[下克上]]の時代である。この地の最大勢力となる[[杉原氏]]によって千光寺山城などこの地を掌握出来る場所に幾つか城が築かれているため、尾道に杉原氏のなんらかの影響力があったと考えられている<ref name="onomichi0000024749" />。あるいは、尾道の複雑な寺社権力が武力勢力の介入を許さなかったため{{Sfn|郷土史論|1932|p=68}}、商人による自治は続いていたとも。またこの時代この地域の特色として[[因島]]を拠点とした因島村上氏([[村上水軍]])の存在がある<ref name="onomichih02" />。尾道水道の中間部の島、現在は丘陵として向島と陸続きとなっている小歌島地区は“宇賀島衆”と呼ばれた海賊の拠点で、商船から関料を徴収していたが滅ぼされ、のち村上水軍の支城となったとされている<ref name="onomichi0000024749" />。


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彼ら2つの勢力は中国覇権を目指した[[毛利氏]]の傘下となり、尾道は毛利氏直轄港となり、毛利氏御用達の商人が尾道へ入っている<ref>{{Cite web|publisher=広島観光ナビ|url=http://www.kankou.pref.hiroshima.jp/madamada/rekishi/jinbutsu/motonari/shiseki/onomichi.html|title=浄土寺|accessdate=2015-12-11}}</ref><ref name="onomichi0000003897" /><ref name="onomichi0000003898">{{Cite web|publisher=尾道商業会議所記念館|url=http://www.city.onomichi.hiroshima.jp/open_imgs/service/0000003898.pdf|format=PDF|title=第3回企画展示 「豪商の町 尾道」|accessdate=2015-12-11}}</ref>。この尾道に、[[花隈城|花隈城の戦い]]で敗れ毛利氏へ亡命してきた[[荒木村重]]が隠遁していた<ref>{{Cite web|publisher=尾道市|url=http://www.city.onomichi.hiroshima.jp/www/event/detail.jsp?id=6400|title=尾道学ミュージアム・尾道遺跡発掘調査研究所出張展示会|accessdate=2015-12-11}}</ref>。文禄4年(1595年)毛利氏は商人の中から[[代官]]を決めると、商人による自治は続いた<ref name="onomichi0000003897">{{Cite web|publisher=尾道商業会議所記念館|url=http://www.city.onomichi.hiroshima.jp/open_imgs/service/0000003897.pdf|format=PDF|title=第2回企画展示 「自治都市尾道」|accessdate=2015-12-11}}</ref>。[[朱印船貿易]]にも絡み<ref name="onomichi0000003899">{{Cite web|publisher=尾道商業会議所記念館|url=http://www.city.onomichi.hiroshima.jp/open_imgs/service/0000003899.pdf|format=PDF|title=第4回企画展示 「尾道と北前船」|accessdate=2015-12-11}}</ref>、[[豊臣秀吉]]の[[文禄・慶長の役]]の際には、尾道の商人が船を出し輸送に関わっている<ref name="ononavihistory" />。
Onomichi Station and Onomichi Castle at dusk.jpg|尾道駅から見る千光寺山。頂上にはかつて木梨杉原氏([[杉原元清]]あるいは[[杉原元恒]])により「千光寺山城」が築かれた{{r|onomichi0000024749}}。なお写真に見える[[尾道城]]は現在取り壊されている。
福善寺本堂.jpg|山城「丹花城」跡。寛永7年(1630年)[[福善寺 (尾道市長江)|福善寺]]が移転してきた。丹花城主の墓とされる巨大な五輪塔2基がある{{r|nishiyama-h}}{{Sfn|向上計画2-1|p=59}}。
尾道 - panoramio (1).jpg|千光寺展望台からの向島。中央の小さな山が小歌島(オカジマ)地区。
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=== 近世の栄華 ===
=== 近世の栄華 ===
戦国時代後期、尾道は毛利氏の支配下に置かれた{{Sfn|向上計画1|p=18}}。毛利氏は自分の家臣を配置したのではなく、尾道の豪商たちと私的な主従関係を結ぶことで尾道を支配した{{Sfn|向上計画1|p=18}}{{Sfn|教育委員会|2012|p=8}}。文禄4年(1595年)毛利氏は商人の中から[[代官]]を決め、商人による自治は続いた{{r|onomichi0000003897}}{{Sfn|向上計画1|p=18}}。[[花隈城|花隈城の戦い]]で敗れ毛利氏へ亡命してきた[[荒木村重]]が尾道で隠遁しており、古寺の庵で茶の湯を嗜んだと伝わる(尾道への[[わび茶]]文化の伝来){{r|ononavi555}}{{r|onomichi18564_55938}}。尾道の商人は[[豊臣秀吉]]の[[朱印船貿易]]にも絡み{{r|onomichi0000003899}}、[[文禄・慶長の役]]の際には尾道の商人が船を出し輸送に関わっている{{r|ononavihistory}}。
江戸時代、この地は[[広島藩]]領となる。尾道は藩内随一の港町「広島藩の台所」として最盛期を迎える<ref name="onomichih03" /><ref name="onomichi0000003897" /><ref name="onomichi0000003898" />。


江戸時代、この地は[[広島藩]]領となる。尾道は藩内随一の港町「広島藩の台所」として最盛期を迎える{{r|onomichi0000003897}}{{r|onomichih03}}{{r|onomichi0000003898}}。
;「町」の認定
;「町」の制定
:江戸時代初期、広島藩により[[検地]]が行われ尾道は農業区域として“村”と商工業区域として“町”に明確に区別された<ref name="ononavihistory" /><ref name="sub4c">{{Cite web|publisher=広島城博物館|url=http://www.rijo-castle.jp/rijo/sub4c.html|title=福島氏の入国と改易|accessdate=2015-12-11}}</ref>。時期は、[[慶長]]5年(1600年)[[福島氏]]([[福島正則]])による検地<ref name="sub4c" />、[[寛永]]15年(1638年)[[浅野氏]]による検地<ref name="ononavihistory" />によるものと2説ある。
:江戸時代初期、藩により農業区域として“村”と商工業区域として“町”に明確に区別された{{r|ononavihistory}}{{r|rijo-castle}}。慶長6年(1601年)[[福島氏]]([[福島正則]])による検地で尾道は町に定められた{{r|rijo-castle}}。のち福島氏は[[改易]]され[[浅野氏]]が入封すると、浅野氏は福島氏藩政を踏襲し補強する形で藩整備を進めた{{r|rijo-castle}}。[[寛永]]15年(1638年)[[浅野氏]]による検地で町方「尾道町」が定められた{{r|ononavihistory}}{{r|rijo-castle}}。
:福島氏時代の尾道は商人の中から5人の町年寄と12組60人の月番制行司を選出し商人だけで自治が行われていたが、福島氏が[[改易]]され広島藩は浅野氏が治め幕藩体制が強化され町奉行が置かれると年寄-組頭-月行司に再編成され、町奉行下で藩権力の介入はあったが商人による自治は続いた<ref name="onomichi0000003897" />。
:当初は5人の豪商から[[町年寄]]を、その下に12組60人の[[月行事|月行司]]を選出し、堺・京都・博多などと同様に商人による自治行政が行われていた{{r|onomichi0000003897}}{{Sfn|向上計画1|p=18}}。藩政改革「正徳新格」に伴い正徳5年(1715年)尾道に[[町奉行]]が置かれその下に商人から選出された町年寄・[[組頭]]・月行司を再編成することになり、藩権力の下ではあったが町人による町政は続いた{{r|onomichi0000003897}}{{r|onomichi0000003898}}{{Sfn|向上計画1|p=18}}。
;街道整備
{{-}}
: 福島氏は更に近世山陽道つまり「[[西国街道]]」も再整備を行い、この時から街道は瀬戸内海沿岸に移され尾道の町中に通ることになった{{Sfn|尾道市|向上計画 , 1|p=19}}<ref name="sub4c" />。のち、広島藩領は浅野氏が治め、新たに[[水野氏]]による[[備後福山藩]]が興ると、[[譜代大名]]である備後福山藩と[[外様大名]]である広島藩の国境として尾道の東にある[[防地番所跡|防地峠に関所]]が設けられている<ref name="hiroshima-bunka655">{{Cite web|publisher=ひろしま文化大百科|url=http://www.hiroshima-bunka.jp/modules/newdb/detail.php?id=655|title=石州銀山道と尾道|accessdate=2015-12-11}}</ref>。[[寛永]]10年(1633年)までに街道に[[一里塚]]が置かれるなど整備が完了し、同年には幕府から公式の[[宿場|宿駅]]に指定された<ref name="ononavihistory" />{{Sfn|尾道市|向上計画 , 2 , 前半|p=54}}。

: また福島氏時代である慶長6年、[[徳川家康]]の直轄領となった[[石見銀山]]から銀を運ぶため、銀山奉行[[大久保長安]]により[[石見銀山街道]]が整備される<ref name="ononavihistory" /><ref name="hiroshima-bunka655" />。当時はまだ海路より陸路のほうが安全であったためであり、石見から運ばれた銀は尾道で船に積み込まれ大阪まで運ばれていった<ref name="ononavihistory" /><ref name="sanin-chuo20071217">{{Cite web|publisher=山陰中央日報|date=2007-12-17|url=http://www.sanin-chuo.co.jp/shashin/modules/news/article.php?storyid=446246201|title=銀山街道・尾道道 安全な銀輸送の新陸路
{{hidden begin
|accessdate=2015-12-11}}</ref>。この道は途中[[赤名峠]]で分岐し[[出雲]]へ向かうルートとしても整備されたことから、尾道では特に「[[出雲街道]]」あるいは「[[出雲大社]]道」と呼ばれている{{Sfn|尾道市|向上計画 , 2 , 前半|pp=54-55}}<ref name="hiroshima-bunka655" /><ref>{{Cite web|publisher=コトバンク|url=https://kotobank.jp/word/出雲街道-30888|title=出雲街道|accessdate=2015-12-11}}</ref>。それにより尾道は[[山陰地方]]との人・物流の交流点となり、[[出雲藩]]の年貢米も取り扱った<ref name="hiroshima-bunka655" /><ref name="onomichi0000003898" />。
|toggle=right |title=[[官道]]整備 |titlestyle = background:lightgrey;
}}
{|
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|
[[ファイル:Street at Early modern period Onomichi.png|300px|left|thumb|近世の街道を2015年現在の地図に示したもの{{Sfn|尾道市|向上計画 , 2 , 前半|p=56}}。赤線が西国街道、青線が出雲街道、黒丸が防地峠。出雲街道が町付近で鈎状なのは、近世城郭によく見られる防衛上のためのもので、直進する部分は近代以降に作られたもの{{Sfn|尾道市|向上計画 , 2 , 前半|p=59}}。なお西国街道は尾道本通り、出雲街道のほとんどが[[広島県道363号栗原長江線]]と一致する。松永湾にあたる。]]
[[ファイル:Street at Early modern period Onomichi.png|300px|left|thumb|近世の街道{{Sfn|向上計画2-1|p=56}}を2015年時点の地図に示したもの。赤線が西国街道、青線が出雲街道、黒丸が防地峠。なお西国街道は尾道本通り、出雲街道のほとんどが[[広島県道363号栗原長江線]]と一致する。西国街道筋の常称寺南の現久保2丁目と現[[尾道郵便局]]前に[[虎口#枡形虎口|枡形]]残ってい{{Sfn|向上計画2-1|p=59}}。]]
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|caption=赤名で石見へと出雲への道に分かれる。吉舎で尾道道と笠岡道に分かれる<ref name="sanin-chuo20071217" />。
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| caption1 = 出雲街道の碑。「出雲大社道」「本道三十七里」「近道三十三里」
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| caption2 =長江の道標。「左 いづも往来」「右 天満宮道」{{Sfn|教育委員会|2012|p=35}}
}}
: 福島氏は近世山陽道「[[西国街道]]」も再整備を行い、この時から街道は瀬戸内海沿岸に移され尾道の町中に通ることになった{{Sfn|向上計画1|p=19}}{{r|rijo-castle}}。尾道は中世から沿岸の埋立が進んだため近世初期には道を通すことができるようになっていた{{Sfn|向上計画1|p=19}}。のち広島藩領は浅野氏が治め、新たに[[水野氏]]による[[備後福山藩]]が興ると、[[譜代大名]]である福山藩と[[外様大名]]である広島藩の国境として、元和5年(1619年)尾道の東にある[[防地番所跡|防地峠に関所]]が設けられている{{r|hiroshima-bunka655}}。[[寛永]]10年(1633年)までに街道に[[一里塚]]が置かれるなど整備が完了し、同年には幕府から公式の[[宿場|宿駅]]に指定された{{r|ononavihistory}}{{Sfn|向上計画2-1|p=54}}。
: また幕府直轄領となった[[石見銀山]]から銀を運ぶため、1610年代に銀山奉行[[大久保長安]]により[[石見銀山街道]]が整備される{{r|hiroshima-bunka655}}{{r|sanin-chuo20071217}}。整備当初はまだ海路より陸路のほうが安全であったためであり、石見から運ばれた銀は尾道で船に積み込まれ大阪まで運ばれていった{{r|ononavihistory}}{{r|sanin-chuo20071217}}。この道は途中[[赤名峠]]で分岐し[[出雲]]へ向かうルートとしても整備されたことから、『芸藩通志』では「石見路出雲赤名超」{{r|hiroshima-bunka655}}、尾道では特に「[[出雲街道]]」と呼ばれている{{r|kotobank30888}}{{Sfn|向上計画2-1|p=54}}。それにより尾道は[[山陰地方]]との人・物流の交流点となった{{r|onomichi0000003898}}{{r|hiroshima-bunka655}}。


{{hidden begin
;[[西廻海運]]による交易
|toggle=right |title=[[西廻海運]]による交易 |titlestyle = background:lightgrey;
:江戸時代初期、[[鎖国]]が始まり海外交易が禁止されたため、商人たちは弱体化し没落した豪商も出てきた<ref name="onomichi0000003897" /><ref name="onomichi0000003899" />。
}}
:[[寛文]]12年(1672年)、西廻海運、つまり[[北海道]]・[[東北地方]]を起点に[[日本海]]から瀬戸内海をまわり大阪そして江戸に至る海運ルートが確立し、尾道には[[北前船]]など[[廻船]]が寄港するようになる<ref name="onomichih03" />。これにより、再び商人が力をつけるどころか爆発的に成長した<ref name="onomichi0000003899" />。主な取り扱い品は以下のとおり。
{|
{|class="wikitable" style="text-align:left;"
|-
!他から尾道へ!!尾道から他へ
|-
|
|
{{OSM Location map
* 米 -- 広島藩は尾道と[[厳島|宮島]]([[廿日市市]])[[御手洗 (呉市)|御手洗]]([[呉市]])の3港のみ他国米の取引を認可したため、広島での米取引の重要拠点であった<ref name="onomichih03" /><ref name="onomichi0000003899" /><ref>{{Cite journal|和書|author=布川弘|publisher=広島大学|url=http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/files/public/16019/20141016124425766532/nk_sp02_67.pdf|title=近世後期瀬戸内における「船後家」について|date=2006|accessdate=2015-12-11}}</ref>。
|coord = {{coord|34|09|50|N|132|54|04|E}}
* [[干鰯]]<ref name="onomichih03" /><ref name="onomichi0000003899" />
|zoom =8|float = center|width =350|height = 200|nolabels=1| scalemark = 10
* 材木<ref name="onomichi0000003899" />
| caption =周辺の主な港{{r|kitamaebune}}。赤が広島藩の港。
* [[コンブ|昆布]]<ref name="onomichih03" /><ref name="onomichi0000003899" />
|label1 = 尾道|label-size1 = 18|label-pos1 = top|mark1=Japanese Map symbol (Fishing port).svg |mark-size1= 19|mark-coord1= {{coord|34|24|34|N|133|12|14|E}}
* [[ニシン|鰊]]<ref name="onomichih03" /><ref name="onomichi0000003899" />
|label2 = 御手洗|label-size2 = 14|label-pos2 = bottom|mark2=Japanese Map symbol (Fishing port).svg |mark-size2= 15|mark-coord2= {{coord|34|10|45|N|132|52|0|E}}
* [[サケ|鮭]]<ref name="onomichih03" /><ref name="onomichi0000003899" />
|label3 = 宮島|label-size3 = 14|label-pos3 = bottom|mark3=Japanese Map symbol (Fishing port).svg |mark-size3= 15|mark-coord3= {{coord|34|18|05|N|132|19|19|E}}
* [[数の子]]<ref name="onomichih03" />
|label4 = 竹原|label-size4 = 14|label-pos4 = top|mark4=Japanese Map symbol (Fishing port).svg |mark-size4= 15|mark-coord4= {{coord|34|20|43|N|132|54|36|E}}
* [[ブリ|鰤]]<ref name="onomichi0000003899" />
|label5 = 椋浦|label-size5 = 14|label-pos5 = bottom|mark5=Japanese Map symbol (Fishing port).svg |mark-size5= 15|mark-coord5= {{coord|34|19|06|N|133|12|16|E}}
|label6 = 上関|label-size6 = 14|label-pos6 = top|label-color6=black|mark6=Japanese Map symbol (Fishing port).svg |mark-size6= 15|mark-coord6= {{coord|33|49|52|N|132|06|41|E}}
|label7 = 鞆|label-size7 = 14|label-pos7 = bottom|label-color7=black|mark7=Japanese Map symbol (Fishing port).svg |mark-size7= 15|mark-coord7= {{coord|34|22|57|N|133|22|50|E}}
|label8 = 玉島|label-size8 = 14|label-pos8 = bottom|label-color8=black|mark8=Japanese Map symbol (Fishing port).svg |mark-size8= 15|mark-coord8= {{coord|34|32|41|N|133|40|23|E}}
|label9 = 広島|label-size9 = 14|label-pos9 = top|label-color9=|mark9=Japanese Map symbol (Castle).svg|mark-size9= 15|mark-coord9= {{coord|34|24|10|N|132|27|32|E}}
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* [[塩]] -- 主力交易品。北海道や北陸では魚介から干物を作り特産品としていたため大量の塩が必要であった。江戸時代初期、広島藩により[[竹原]]([[竹原市]])で、備後福山藩により松永(福山市)で[[塩田]]が整備されたが廻船での交易で需要量が増えていくと更に商人たちによって尾道周辺の島々で塩田が整備され、“浜旦那”と呼ばれた塩田の地主・経営者が誕生している<ref name="onomichih03" /><ref name="onomichi0000003899" /><ref>{{Cite web|publisher=尾道商業会議所記念館|url=http://www.city.onomichi.hiroshima.jp/open_imgs/service/0000003900.pdf|format=PDF|title=第5回企画展示 「尾道と塩田」|accessdate=2015-12-11}}</ref><ref>{{Cite web|publisher=尾道商業会議所記念館|url=http://www.city.onomichi.hiroshima.jp/open_imgs/service/0000009490.pdf|format=PDF|title=第17回企画展示「尾道あ・ら・かると~塩と鉄~」 |accessdate=2015-12-11}}</ref>。
* 石材加工品 - 尾道で中世から盛んだった石工はこの時代にも名産品だった。職人ごと廻船で移動し、当地で[[鳥居]]を作った例もある<ref name="onomichi0000003897" />。
* [[錨]] -- 尾道で中世から盛んだった鍛冶業の中で“尾道錨”という名産品を生み出した。北前船の錨にも用いられた<ref name="onomichi0000003899" /><ref name="onomichih03" /><ref name="onomichi0000003897" />。
* 綿、綿製品 -- 尾道[[帆布]]など<ref name="onomichi0000003897" />
*
* [[酢]] -- 尾道での酢の製造は安土桃山時代から始まっている。尾道三山は良質な水を生み出していたこと、そして江戸時代に入り年貢米が大量に流通していたことから、これを原料として“尾道酢”が特産品となった<ref name="onomichih03" /><ref name="onomichi0000003897" /><ref name="onomichi0000003903">{{Cite web|publisher=尾道商業会議所記念館|url=http://www.city.onomichi.hiroshima.jp/open_imgs/service/0000003903.pdf|format=PDF|title=第8回企画展示 「尾道の酢」|accessdate=2015-12-11}}</ref>。
* [[酒]] -- 酢と同様に、良質な水と大量に流通していた米を原料に酒が製造された<ref name="onomichih03" /><ref name="onomichi0000003897" />。
* [[畳]] -- 福山藩の特産“[[びんご畳表|備後表]]”。上記の松永塩も含め畳表・魚介など福山藩の特産品も尾道で取引しており、他国米の取引などでは福山藩内の鞆と競合関係にあった。また畳表は尾道でも生産されていた<ref name="onomichih03" /><ref name="onomichi0000003897" /><ref>{{Cite web|publisher=福山市|url=http://www.city.fukuyama.hiroshima.jp/site/tradition/17274.html|title=びんご畳表(びんごたたみおもて)|accessdate=2015-12-11}}</ref><ref>{{Cite web|publisher=広島県立文書館|url=http://www.pref.hiroshima.lg.jp/soshiki_file/monjokan/zuroku/h25zuroku.pdf|format=PDF|title= 海の道」の近世」|accessdate=2015-12-11}}</ref>。
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|caption=西廻海運の主な寄港地<ref name="onomichi0000003897" /><ref>{{Cite web|publisher=水産庁|url=http://www.jfa.maff.go.jp/j/kikaku/wpaper/h21_h/trend/1/zoom_p021.html|title=北前船寄港地|accessdate=2015-12-11}}</ref>
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:江戸時代初期、徳川家康の朱印船貿易で恩恵を受けたが、徳川家光が制定した[[鎖国]]制度以降海外交易が禁止されたため、商人たちは弱体化し没落した豪商も出た{{r|onomichi0000003899}}。
:[[寛文]]12年(1671年)、西廻海運、つまり[[北海道]]・[[東北地方]]を起点に[[日本海]]から瀬戸内海をまわり大阪そして江戸に至る海運ルートが確立し、尾道には[[北前船]]など[[廻船]]が寄港するようになる{{r|onomichi0000003898}}{{r|onomichih03}}。これにより商業圏が拡がり全国的な取引が可能となり、新たな豪商が台頭した{{Sfn|向上計画1|p=19}}{{r|onomichi0000003899}}。この北前船との交易によって、尾道は広島城下より繁栄し広島藩の台所と呼ばれるようになった{{r|onomichi0000009490}}。
:主な取り扱い品は以下のとおり。
{|class="wikitable" style="text-align:left;"
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!他から尾道へ!!尾道から他へ
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* 米 -- 諸藩の年貢米は江戸時代前期には大阪まで運ばれて売られていたが、江戸中後期になるとはそれが崩れ瀬戸内海沿岸の港町でも売られるようになった。広島藩は尾道と[[厳島|宮島]]([[廿日市市]])[[御手洗 (呉市)|御手洗]]([[呉市]])の3港のみ他国米の取引を公的に認可したため、広島での米取引の重要拠点であった{{r|onomichi0000003899}}{{r|onomichih03}}{{r|hunk_sp02_67}}{{r|phh25zuroku}}。
* [[金肥]] -- [[干鰯]]・[[油粕]]など{{r|onomichih03}}{{r|onomichi0000003899}}{{Sfn|向上計画1|p=19}}
* 海産物 -- [[ニシン|鰊]]・[[コンブ|昆布]]・[[サケ|鮭]]・[[数の子]]・[[ブリ|鰤]]など{{r|onomichih03}}{{r|onomichi0000003899}}
* 穀類 -- 大麦・大豆など{{Sfn|向上計画1|p=19}}
* 材木 -- {{r|onomichi0000003899}}
||
||
* 米 -- 広島藩の年貢米の積出港であった。広島藩ものは質量共に良く、大阪でブランド米として流通した{{r|onomichi0000003903}}{{r|lch1306}}。
{{Location_map_with_crop
* [[塩]] -- “備後塩”と呼ばれた主力交易品。備後ものは元々中世から畿内で需要が高かったことに加えて、近世から北海道や北陸で特産品となった塩干魚の加工に必要となったため、更に需要が高まった。江戸時代初期、広島藩により[[竹原]]([[竹原市]])で[[塩田]]が整備されたが廻船での交易で需要量が増えていくと更に商人たちによって尾道周辺の島々で塩田が整備され、“浜旦那”と呼ばれた塩田の地主・経営者が誕生している{{r|onomichi0000003899}}{{r|onomichih03}}{{Sfn|向上計画1|p=19}}{{r|onomichi0000003900}}{{r|onomichi0000009490}}{{r|phh25zuroku}}。
|Japan
* [[畳]] -- “[[びんご畳表|備後表]]”。福山藩・広島藩ともに公用表(幕府への献上表など)として生産しており、民間流通分である商用表は広島藩では尾道のみで出荷されていた。なお畳表・塩・魚介・他国米の取引などは、福山藩の主要港である鞆と競合関係にあった{{r|bingoomote}}{{r|onomichi0000003899}}{{r|onomichih03}}{{Sfn|向上計画1|p=19}}{{r|phh25zuroku}}{{Sfn|教育委員会|2012|p=35}}。
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* 綿、綿製品 -- 広島藩は新田開発とともに殖産興業を推進した。[[干拓]]で造成された土地には塩に強い[[綿花]]を植えることが奨励されたことにより、綿製品の生産量が上がり特産品“安芸木綿”として流通した。加工しない状態でも取引されていた{{r|onomichi0000003899}}{{r|mogurindai02}}{{r|lch1306}}。
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* 石材加工品 - 尾道で中世から盛んだった石工はこの時代にも名産品だった。また荷を降ろした北前船は、帰りは軽くなるため[[バラスト]]として大きな花崗岩を積んでおり、そこで石工職人は船で一緒に移動して当地で加工した{{r|onomichi0000003899}}{{Sfn|向上計画1|p=19}}{{r|cs4939}}{{r|onomichi0000003904}}{{Sfn|石造物編|2018|p=2}}。
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* [[錨]] -- 刀鍛冶は中世から盛んだったが、太平の世となった江戸時代に平和産業への転換が図られた。その中で“尾道錨”という名産品を生み出した。北前船の錨にも用いられた{{r|onomichi0000003899}}{{r|onomichih03}}{{r|onomichi0000003897}}{{r|onomichi0000009490}}。
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* [[酢]] -- 尾道での酢の製造は安土桃山時代に堺から職人を呼び寄せて始まっている。尾道三山は良質な水を生み出していたこと、そして江戸時代に入り年貢米が大量に流通していたことから、これを原料として“尾道酢”が特産品となった{{r|onomichi0000003899}}{{r|onomichih03}}{{Sfn|向上計画1|p=19}}{{r|onomichi0000003903}}。
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* [[酒]] -- 酢と同様に、良質な水と大量に流通していた米を原料に酒が製造された{{r|onomichih03}}{{r|onomichi0000003903}}。ただし近世においてこの付近の酒造の中心地は三原であった{{r|jbrewsocjapan1915}}。
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Onomichi, Hiroshima - 8407869427.jpg|長江にある畳表問屋街跡。
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Onomichi zousu.jpg|[[尾道造酢]]。天正10年(1582年)創業。
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Yoshigen shuzoujou.jpg|[[吉源酒造場]]。安政元年(1854年)創業。
{{Location map~|Japan|lat_deg =34.4088 |lon_deg =133.2048 |label = '''尾道''' |marksize=15|position=top}}
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{{Location map~|Japan |lat=34.17|long=132.86|position=bottom| label=御手洗}}
|}
{{Location map~|Japan |lat=34.28|long=132.32|position=left| label=宮島}}
[[ファイル:Gthumb.svg|200px|right|thumb|力石。沖仲仕あるいは沖背とよばれた港湾[[荷役]]作業員が年に一度、力自慢対決を行った。抱えた人の栄光を称えるため名が刻まれている。現在住吉神社、西國寺、妙宣寺、尾道市立美術館横などにある{{r|onomichi0000003899}}{{Sfn|石造物編|2018|p=38}}。]]
{{Location map~|Japan |lat=33.83 |long=132.11}}<!--上関-->
[[ファイル:Gthumb.svg|200px|right|thumb|出雲屋敷跡。[[松江藩|出雲松江藩]]は尾道に出張所を設け尾道の商人に藩米の売却にあたらせた。近世に尾道三山の斜面側に寺社以外で唯一あった建物([[#坂のまち]]参照)。のち豪商が茶園「柳陰亭」を建て、近代に個人の別荘となった。[[別子銅山]]煙害における被害者住民と[[住友家|住友本店]]との損害賠償交渉“千光寺会談”が行われた場所になる([[#近現代]]参照)。現在は旅館にリノベーションされている{{r|minatonoyado}}{{r|ku19940}}{{r|pe18onomichi}}{{Sfn|向上計画2-2|p=95}}。]]
{{Location map~|Japan |lat=33.98 |long=132.50}}<!--津和地-->
{{Location map~|Japan |lat=34.07 |long=132.55}}<!--鹿老渡-->
{{Location map~|Japan |lat=34.19 |long=132.68}}<!--三之瀬-->
{{Location map~|Japan |lat=34.33 |long=132.99}}<!--忠海-->
{{Location map~|Japan |lat=34.34|long=132.91|position=left| label=竹原}}
{{Location map~|Japan |lat=34.35 |long=133.17}}<!--布刈瀬戸-->
{{Location map~|Japan |lat=34.22 |long=133.05}}<!--鼻栗-->
{{Location map~|Japan |lat=34.26 |long=133.20}}<!--弓削-->
{{Location map~|Japan |lat=34.24 |long=133.14}}<!--岩城島-->
{{Location map~|Japan |lat=34.38 |long=133.38|position=bottom| label=鞆}}
|caption=周辺の主な港
}}
|}{{-}}
{{Vertical_images_list
|寄せ=右
|幅= 150px
|枠幅=
|1=Onomichi Jodoji 03.JPG
|2=浄土寺境内にある[[新影流]]佐野勘十郎義忠の記念碑。「柔能制剛弱能制強(柔よく剛を制し弱よく剛を制す)」の筆は[[頼山陽]]のものと言われている。両脇に[[狛犬]]を抱えたこの石碑は「一石彫」。
|3=Komyoji Onomichi05n3200.jpg
|4=[[光明寺 (尾道市東土堂町)|光明寺]]境内にある[[陣幕久五郎]]の手形碑。陣幕と尾道の縁は、[[弘化]]5年(1848年)頃に尾道の初汐久五郎に弟子入りしたこと、墓がこの寺にあることである<ref>{{Cite web|publisher=松江観光協会|url=http://www.kankou-matsue.jp/about_matsue/rekishi/hito/higashiizumo_3ketsu/page1.html|title=陣幕久五郎|accessdate=2015-12-11}}</ref>。
}}


尾道は山にも海にも通じた便利な場所となり、日本各地から様々な商品を運んだ船がやってきて、尾道の商人は中継交易して他の地へ売りさばいていった{{Sfn|教育委員会|2012|p=2}}。港の活性化とともに、豪商によって沿岸部の[[浚渫]]と埋立および築港が進められた{{r|onomichih03}}{{r|onomichi0000003905}}{{Sfn|向上計画2-1|p=54}}。大規模な埋立は広島藩営でも行われ、できた土地は商人に払い下げられるが藩は工事費より高く売ったため差額は藩財政を潤した{{r|onomichi0000003905}}。港湾利用者のため[[花街]]が形成された{{r|onomichi0000003905}}。北前船の荷主や船頭を問屋が接待するのに用いられ、たくさん北前船が来た時には芸者が足りなくなり、しかもこれがたびたびあったという{{r|onomichi0000003905}}。
以上のとおり尾道は、西廻海運・広島藩や他藩の年貢米取引・石見銀山からの銀の運搬によって商家町として、さらに主要街道の宿場町して、人と物流の拠点となった{{Sfn|尾道市|向上計画 , 1|p=19}}{{Sfn|尾道市|向上計画 , 2 , 前半|p=54}}<ref name="onomichi0000003905">{{Cite web|publisher=尾道商業会議所記念館|url=http://www.city.onomichi.hiroshima.jp/open_imgs/service/0000003905.pdf|format=PDF|title=第10回企画展示 「港まち尾道」|accessdate=2015-12-11}}</ref>。広島藩もその“台所”として積極的に投資し、町の西を流れる[[栗原川 (広島県)|栗原川]]から土砂が流出し尾道水道内の潮流によって港まで流れ港湾能力が低下するため、藩により[[浚渫]]と埋め立てを繰り返し港湾施設は守られそして拡大していった<ref name="onomichi0000003905" />。なおこれら土地は商人に払い下げられるが、藩は工事費より高く売ったため差額は藩財政を潤した<ref name="onomichi0000003905" />。こうして、海沿いが港湾施設、平地が街道沿いを中心に商家・町家、そして尾道三山の斜面側に神社仏閣、とゾーン分けがこの時代に定まり、町割りの多くが現在でも尾道の町でそのまま引き継がれている{{Sfn|尾道市|向上計画 , 2 , 前半|p=54}}。


こうして、海沿いが港湾施設、平地が西国街道沿いを中心に商家・町家、そして尾道三山の斜面側に神社仏閣、とゾーン分けがこの時代に定まり、街道から北の斜面地の寺社そして南の海をつなぐ小路がいくつもでき、町割りの多くが現在でも尾道の町でそのまま引き継がれている{{Sfn|向上計画2-1|p=54}}{{Sfn|教育委員会|2012|p=16}}。
港湾利用者のため[[花街]]が形成された<ref name="onomichi0000003905" />。元々は山の手側にあったが埋め立てにより土地が南へ拡大していくと花街も港に近い方へと移っていった{{Sfn|郷土史論|1932|p=119}}。北前船の荷主や船頭を問屋が接待するのに用いられ、たくさん北前船が来た時には芸者が足りなくなり、しかもこれがたびたびあったという<ref name="onomichi0000003905" />。


一方で、この時代は泰平の世とり海賊の心配がないこに加え廻船操船技術の向上により、陸地側を通“地乗り”航路から瀬戸内海中央部を通る“沖乗り”航路が主流となっていく{{Sfn|尾道市|向上計画 , 1|p=19}}{{Sfn|郷土史論|1932|p=104}}。航路の変更が尾道にも影響が出おり、例えば[[参勤交代]]で海路を用いた藩では、尾道に寄港し[[本陣]]を置いた記録はほぼない{{Sfn|郷土史論|1932|p=113}}。ただ尾道は、街道沿い陸路と海路を繋ぐ玄関口であったため{{Sfn|郷土史論|1932|p=114}}、交易港として衰えることはなかった。江戸時代中期になると、商人同士の競争が増え秩序が乱されるようになり、また福山藩の鞆との競合も激しくなっていった{{Sfn|尾道市|向上計画 , 1|p=19}}。更に沖乗りが主流となっていき御手洗や[[倉橋島|倉橋]]の方が取引量が上がり、それに伴い尾道停滞するようになる{{Sfn|尾道|向上計画 , 1|p=19}}。[[元文]]5年(1740年)、第13代広島藩尾道奉行[[平山角左衛門]]が着任する<ref name="onomichih03" />。町民により港の拡張要望が出されていたころで、平山は着任早々藩の事業として「住吉浜」工事を行っている<ref name="onomichih03" />。自ら陣頭指揮に当たったこと、人夫に賃金を与えたことから、多くの人がこの工事に参加したため、すべての工事を50日間という短期間で終えている<ref name="onomichih03" />平山はその他にもそれまで慣例化していた掟を問屋掟として明文化<ref name="onomichi0000003897" />、[[株仲間]]を藩公認{{Sfn|尾道市|向上計画 , 1|p=20}}とするちに名奉行と讃えられ、現在は尾道住吉神社に合祀され、尾道名誉市民第一号となっている<ref name="onomichih03" />
江戸時代中期に市場経済拡大により尾道は更に活況し新興豪商が台頭するも古い商人との対立が増え秩序が乱されようになっ{{Sfn|向上計画1|p=19}}{{Sfn|教育委員会|2012|p=3}}。そして尾道の東隣になる福山藩の港・鞆との競合も激しくなっていった{{Sfn|向上計画1|p=19}}。それに伴い尾道は港として信用が落ち停滞するようになる{{Sfn|向上計画1|p=19}}{{r|chugoku20190725}}。藩は尾道のこの状況を危惧した{{Sfn|向上計画1|p=19}}。[[元文]]5年(1740年)、第13代尾道奉行[[平山角左衛門]]が着任すると、流通機構の改革を進めた{{r|onomichih03}}{{r|onomichi0000003905}}{{Sfn|向上計画1|p=19}}ちょうど町民により港の拡張要望が出されていたころで、平山は着任早々藩の事業として「住吉浜」埋立工事を行っている{{r|onomichih03}}{{r|onomichi0000003905}}平山自ら陣頭指揮に当たったこと、人夫に賃金を与えたことから、多くの人がこの工事に参加したため、すべての工事を50日間という短期間で終えている{{r|onomichih03}}{{r|onomichi0000003905}}{{r|onomichi0000003897}}。その他にも“問屋役場”を設立されそれまで慣例化していた掟を問屋掟として明文化、[[株仲間]]を藩公認とした{{Sfn|向上計画1|p=20}}{{r|onomichi0000003897}}{{r|onomichih03}}。明和元年(1764年)広島[[藩札]]の価値が暴落し商業活動が困難となると商人たちにより資金融通機関“問屋座会所”が設立された{{r|onomichi0000003897}}{{r|onomichi0000003897}}


尾道水道を縦断する渡船が出来たはこ頃である。記録に残るものとしては、[[寛政]]から[[文化 (元号)|文化]]年間(1789年から1817年)に“兼吉渡し”が出来たのが最初であ<ref name="onomichi0000012609">{{Cite web|publisher=尾道商業会議所記念館|url=http://www.city.onomichi.hiroshima.jp/open_imgs/service/0000012609.pdf|format=PDF|title=第18回企画展示 「海と暮らす尾道の人々・・・(渡船の今昔)」|accessdate=2015-12-11}}</ref>
尾道水道を縦断する渡船の最古の記録は、[[寛政]]から[[文化 (元号)|文化]]年間(1789年から1817年)に“兼吉渡し”が出来たになる{{r|onomichi0000012609}}。これは現在の[[尾道渡船]]にあたる{{r|onomichi0000012609}}。


一方で、泰平の世となり海賊の心配がなくなったことに加え廻船の操船技術の向上により、陸地側を通る“地乗り”航路から瀬戸内海中央部を通る“沖乗り”航路が主流となっていくと、御手洗や[[倉橋島|倉橋]](呉市)など島嶼の港町の取引量が上がった{{r|hunk_sp02_67}}{{Sfn|向上計画1|p=19}}。こうなると広島藩は交易港としての尾道を軽視するようになる{{r|chugoku20190725}}。また19世紀に入ると広島藩は領内の特産品を買い上げ大阪で売る[[専売制]]政策を始めると同時に特産品の流通統制を始めると、商人の淘汰がすすんだ一方で多角経営化に成功した豪商が現れた{{r|chugoku20190725}}。ただ藩の統制はのちに藩内に[[ハイパーインフレーション|ハイパーインフレ]]を招いてしまい、藩の金融経済は悪化した{{r|lch1306}}。
なおこの時代繁栄した御手洗や鞆などの交易港は、近代以降[[機帆船|汽帆船]]の登場により存在意義がなくなり衰えていくが<ref name="yomiuri20150510">{{Cite web|publisher=読売新聞|date=2015-05-10|url=http://www.yomiuri.co.jp/local/hiroshima/feature/CO015851/20150509-OYTAT50024.html|title=<大崎下島>白壁の街 魅せられて|accessdate=2015-12-11}}</ref>、尾道は新たな交通・産業により引き続き商業地として発展していく。

文化4年(1807年)悪病が流行する([[ベッチャー祭り]]の起源){{r|ononavihistory}}。

広島県立文書館所蔵の『青木茂旧蔵文書』内に文化5年から文政13年(1808年-1830年)尾道の組頭が旅人の滞在願いをまとめた帳面が残っている{{Sfn|教育委員会|2012|p=3}}{{r|phh25zuroku}}。それによると[[大坂三郷]]からの行商人が最も多く、次いで備中・播磨・安芸とつづき、遠くでは長崎・越後・飛騨・江戸からも来ていた{{Sfn|教育委員会|2012|p=3}}{{r|phh25zuroku}}。上方からは本の行商、植木屋、浄瑠璃・座敷噺などの芸能者が多いため、様々な[[上方文化]]が尾道に伝播していたことになる{{r|phh25zuroku}}。

豪商の寄進により寺院は最盛期で81カ寺が造影されていたという{{r|ononavi1535332066}}{{r|chugoku20021029}}。多くの寺社は尾道に観光客を呼び寄せた{{r|chugoku20190725}}。現在では25カ寺が点在する{{r|chugoku20021029}}。

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Misodetenmangu-kaidan 01.JPG|御袖天満宮の55段の石段と随神門。門は享保年間、石段は江戸時代に作られたもので最上段以外は1本石の花崗岩。『転校生』の重要なシーンで登場する。天神祭はこの神社の例祭になる{{Sfn|向上計画2-1|p=63}}{{Sfn|石造物編|2018|p=26}}。
Sumiyoshi Shrine near Onomichi Central Visitor Pier.jpg|住吉神社。元々は浄土寺境内にあり、寛保元年(1741年)平山角左衛門が住吉浜を増築した際に移し港の守護神とした。角左衛門を祀る平山霊神社が合祀されている。この神社にある注連柱は国内最古のもの。例祭が[[おのみち住吉花火まつり]]、また[[尾道みなと祭]]の会場でもある{{r|ononavi336}}{{r|onomichih03}}{{r|onomichi0000003905}}{{Sfn|向上計画2-1|p=67}}{{Sfn|石造物編|2018|p=37}}。
Gthumb.svg|厳島神社(八坂神社と合祀)。八坂神社は元々常称寺境内にあり、[[神仏分離令]]により移され厳島神社と合祀された。祇園祭は八坂神社の例祭になる{{Sfn|向上計画2-1|p=52}}。
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=== 近現代 ===
=== 近現代 ===
近代に入り、欧化政策により産業構造が変化する{{r|onomichi0000003898}}。近世に廻船での交易で栄えた港町の中には、近代以降[[機帆船|汽帆船]]と鉄道の登場により存在意義がなくなり衰えていく{{r|yomiuri20150510}}。ただ尾道は新たな交通・産業により引き続き商業地として発展していく。
{{See also|尾道市#歴史}}
[[明治]]4年(1871年)[[廃藩置県]]後、広島県[[御調郡]]尾道町となる<ref name="ononavihistory" />。この時期、「御調県」構想と尾道を県庁所在地とする案が浮上している。当時、尾道は広島県の東端で、それより東側の福山は[[小田県]]に属していた<ref name="pref41455">{{Cite web|year = 2009|url=http://ns2.pref.hiroshima.jp/uploaded/attachment/41455.pdf|format=PDF|title=藩から県へ―広島県の誕生―|publisher=広島県立文書館|accessdate=2015-12-11}}</ref>。[[広島県庁舎]]は当初[[広島城]]内に置かれていたが、広島[[鎮台]]([[第5師団 (日本軍)|第五師団]])発足と仮庁舎の火事により移転を繰り返していた<ref name="pref41455" />。明治6年(1873年)[[伊達宗興 (紀州藩士)|伊達宗興]][[県令]]は県庁を尾道に移し広島県を[[御調郡|御調]]県と改称する計画を立て、[[大蔵省]]に提出した<ref name="pref41455" />。これに[[前島密]]大蔵官僚は県として手狭になることと無暗に移転することを嫌がり、強く否定したことにより実現しなかった<ref name="pref41455" />。


[[明治]]4年(1871年)[[廃藩置県]]後、広島県[[御調郡]]尾道町となる{{r|ononavihistory}}。この時期、「御調県」構想と尾道を県庁所在地とする案が浮上している。当時、尾道は広島県の東端で、それより東側の福山は[[小田県]]に属していた{{r|pref41455}}。[[広島県庁舎]]は当初[[広島城]]内に置かれていたが、[[広島鎮台]]発足と仮庁舎の火事により移転を繰り返していた{{r|pref41455}}。明治6年(1873年)[[伊達宗興 (紀州藩士)|伊達宗興]][[県令]]は県庁を尾道に移し広島県を[[御調郡|御調]]県と改称する計画を立て、[[大蔵省]]に提出した{{r|pref41455}}。これに[[前島密]]大蔵官僚は県として手狭になることと無暗に移転することを嫌がり、強く否定したことにより実現しなかった{{r|pref41455}}。明治31年(1898年)4月、県下2番目の市制施行、「尾道市」となる{{r|ononavihistory}}。尾道の代表的な景観・観光地である[[千光寺公園]]が出来たのは同じ頃で、明治36年(1903年)地元商人[[三木半左衛門]]が整備し市に寄贈した{{Sfn|向上計画1|p=21}}。
ここで、尾道に「山陽鉄道([[山陽本線]])」が登場する。商業区域を二分し寺社の参拝道が奪われることになるこの鉄道路線案は当初から反対が多く反対運動が起こっている<ref name="onomichi0000003901">{{Cite web|publisher=尾道商業会議所記念館|url=http://www.city.onomichi.hiroshima.jp/open_imgs/service/0000003901.pdf|format=PDF|title=第6回企画展示 「尾道あ・ら・かると ~通信と鉄道~」 |accessdate=2015-12-11}}</ref>。様々な問題を解決し明治24年(1891年)10月、[[福山駅]]-[[尾道駅]]間が開通した<ref name="onomichi0000003901" />。そして新たな物流手段が出来たことによりこれで儲ける商人も生まれ、さらにこの鉄道が尾道の景観を一変させる(下記坂のまち参照)<ref name="onomichi0000003901" />。
{{See also|尾道市#歴史}}
明治45年(1911年)には[[軽便鉄道]]「[[尾道鉄道]]」も開通する<ref name="onomichi0000003901" />。


ここで、尾道に山陽鉄道([[山陽本線]])が登場する。山陽鉄道はルートを5案計画した中で、経済的理由から市街地を貫通する案を進めた{{r|onomichi0000003901}}。商業区域を二分し寺社の参拝道が奪われることになる計画案は当初から反対が多く反対運動が起こり町を二分して白熱し、ほぼ1年かけて調停が行われた{{r|onomichi0000003901}}。様々な問題を解決し明治24年(1891年)10月、[[福山駅]]-[[尾道駅]]間が開通した{{r|onomichi0000003901}}。明治45年(1911年)には[[軽便鉄道]]「[[尾道鉄道]]」も開通する{{r|onomichi0000003901}}。中世以来の港町に“海の路”に加えて鉄道という新たな“陸の路”が備わることで、陸海交通の要所となり更に商業地として発展していった{{r|onomichi2354}}。そして新たな物流手段が出来たことにより新たな豪商が生まれ、さらにこの鉄道が尾道の景観を一変させる(下記坂のまち参照){{r|onomichi0000003898}}{{r|onomichi0000003901}}。
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Onomichi Station in Meiji and Taisho eras.JPG|明治・大正期の尾道駅
Onomichi Station in Meiji and Taisho eras.JPG|大正期の尾道駅(初代)
JRW Onomichi Station 2010.JPG|昭和・平成期の尾道駅<br/>昭和5年(1930年)竣工{{Sfn|尾道市|向上計画 , 2 , 前半|p=72}}
JRW Onomichi Station 2010.JPG|昭和5年(1930年)竣工の尾道駅{{Sfn|向上計画2-1|p=60}}(2代目)
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Onomichi-Station-new-South-building2020.jpg|平成31年(2019年竣工の尾道駅(3代目)
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尾道は、少なくとも明治時代までは広島県随一の商業地であった。「銀行浜」と呼ばれた当時県内随一の金融街があった{{r|ononavi35}}。明治12年(1879年)広島県初の[[国立銀行 (明治)|国立銀行]]として「[[第六十六銀行|第六十六国立銀行]]」が銀行浜で設立する{{r|ononavihistory}}{{r|pref25353}}{{r|pe18onomichi}}。のち広島市にも第百四十六国立銀行が設立されるが、尾道の国立銀行のおよそ半分の規模のものだった{{r|pref25353}}{{r|pe18onomichi}}。明治29年(1896年)には「尾道貯蓄銀行」、後の[[尾道銀行]]も銀行浜で設立する{{r|ononavi35}}。なおこれらの銀行の後身は[[広島銀行]]であり、つまり広銀の歴史で見れば創業地は尾道ということになる{{r|pref25353}}。
[[ファイル:Onomichi Historical Museum01s3200.jpg|200px|right|thumb|大正12年(1923年)竣工の旧[[尾道銀行]]本店、現[[おのみち歴史博物館]]<ref name="ononavi35" />。]]
尾道は、少なくとも明治時代までは広島県随一の商業地であった<ref name="ononavi35">{{Cite web|publisher=おのナビ|url=http://www.ononavi.jp/fan/wandering/report.html?vol=2005&id=35|title=マニア泣かせ?またまた新観光スポット誕生!尾道歴史博物館 OPEN! |date=2005-05|accessdate=2015-12-11}}</ref>。「銀行浜」と呼ばれた当時県内随一の金融街があった<ref name="ononavi35" />。明治11年(1878年)広島県初の[[国立銀行 (明治)|国立銀行]]として「第六十六国立銀行」が銀行浜で設立されている<ref name="pref25353">{{Cite web|publisher=広島県立文書館|url=http://www.pref.hiroshima.lg.jp/uploaded/attachment/25353.pdf|format=PDF|title=広島市 廣島銀行「創業百年史」編纂資料仮目録|accessdate=2015-12-11}}</ref>。のち広島市にも第百四十六国立銀行が設立されるが、尾道の国立銀行のおよそ半分の規模のものだった<ref name="pe18onomichi">{{Cite web|publisher=愛媛県|url=http://www.pref.ehime.jp/tou50144/besidouzan/18onomichi.html|title=別子銅山と尾道|accessdate=2015-12-11}}</ref>。明治29年(1896年)には「尾道貯蓄銀行」、後の[[尾道銀行]]も銀行浜で設立されている<ref name="ononavi35" />。なおこれらの銀行の後身は[[広島銀行]]であり、つまり広銀の歴史で見れば創業地は尾道ということになる<ref name="pref25353" />。


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尾道は[[住友家]]とも関係がある。明治6年(1873年)住友家は「住友尾道分店」を開設、明治25年(1892年)「住友尾道支店」に拡大する<ref name="pe18onomichi" /><ref name="onomichi-u1109320130111104138">{{Cite journal|和書|author1=小谷範人|publisher=尾道市立大学|journal=尾道市立大学経済情報論集 No.12|url=http://harp.lib.hiroshima-u.ac.jp/onomichi-u/detail/1109320130111104138|title=「住友銀行はなぜ尾道で産声を上げたのか」 -尾道と住友との古い関係-|date=2012-12-20|accessdate=2015-12-11}}</ref>。その前年に神戸から尾道まで山陽鉄道が開通しており、住友家が経営していた[[別子銅山]]の玄関口となっていたことから、住友尾道支店で銅山の物品調達と並合業(自己資金による物品抵当の金融事業)を行うことになった<ref name="pe18onomichi" /><ref name="onomichi-u1109320130111104138" />。そして、明治28年(1895年)5月住友尾道支店にて、合議制を初導入した第一回住友家重役会議いわゆる“尾道会議”が行われ、“住友銀行ヲ興ス事”つまり[[住友銀行]]の創業が決まり、同年11月住友本店銀行部が大阪で開業した<ref name="pe18onomichi" /><ref name="onomichi-u1109320130111104138" />。当時住友家の主要業だった銅山の中継基地だった尾道で、新たな主要業となる銀行の発足を決めたということになる<ref name="onomichi-u1109320130111104138" /><ref name="masaiesumitomo">{{Cite web|publisher=三原正家|url=http://masaie.jp/sumitomo/|title=尾道会議と住友銀行ヲ興ス事|accessdate=2015-12-11}}</ref>。明治35年(1902年)住友尾道分店廃止に伴い、住友銀行尾道支店が銀行浜で設立される<ref name="masaiesumitomo" />。つまり住銀尾道支店は住銀における全国初の支店であり、現在も[[三井住友銀行尾道支店]]として存続している<ref name="onomichi-u1109320130111104138" /><ref name="masaiesumitomo" />。その他にも、明治42年(1909年)には別子銅山の煙害被害者と住友本店との初めての正式交渉いわゆる“千光寺会談”が行われ、翌年賠償契約を締結している<ref name="pe18onomichi" /><ref>{{Cite web|publisher=愛媛県|url=http://ilove.manabi-ehime.jp/system/regional/index.asp?P_MOD=2&P_ECD=2&P_SNO=65&P_FLG1=3&P_FLG2=4&P_FLG3=15&P_FLG4=0|title=七 別子銅山の発展と社会問題の発生|accessdate=2015-12-11}}</ref>。大正2年(1913年)、住友肥料製造所(現[[住友化学]])が新居浜で開業した際には、尾道が荷揚げ・荷捌きの港となった<ref name="pe18onomichi" />。
Mitsui sumitomo bank onomichi 1.jpg|明治37年(1904年)竣工の住友銀行尾道支店(初代)。設計は[[野口孫市]]。現尾道市労働センター{{r|pe18onomichi}}。
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所議會業商道尾.jpg|尾道町奉行所跡に大正12年(1923年)建てられた旧尾道商業会議所、現尾道商業会議所記念館{{r|onomichi2354}}。
|
Onomichi Historical Museum01s3200.jpg|大正12年竣工の旧[[尾道銀行]]本店、現[[おのみち歴史博物館]]{{r|ononavi35}}。
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|Japan

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尾道は[[住友家]]とも関係がある。明治6年(1873年)住友家は「住友尾道分店」を開設、明治25年(1892年)「住友尾道支店」に格上げする{{r|onomichi2354}}{{r|pe18onomichi}}{{r|onomichi-u1109320130111104138}}。その前年に神戸から尾道まで山陽鉄道が開通しており、住友家が経営していた[[別子銅山]]の玄関口となっていたことから、住友尾道支店で銅山の物品調達と並合業(自己資金による物品抵当の金融事業)を行うことになった{{r|onomichi2354}}{{r|pe18onomichi}}{{r|onomichi-u1109320130111104138}}。そして、明治28年(1895年)5月住友尾道支店にて、合議制を初導入した第一回住友家重役会議いわゆる“尾道会議”が行われ、“住友銀行ヲ興ス事”つまり[[住友銀行]]の創業が決まり、同年11月住友本店銀行部が大阪で開業した{{r|onomichi2354}}{{r|pe18onomichi}}{{r|onomichi-u1109320130111104138}}。当時住友家の主要業だった銅山の中継基地だった尾道で、新たな主要業となる銀行の発足を決めたということになる。その際に住銀は神戸と尾道に初の支店を設けており、現在も[[三井住友銀行尾道支店]]として存続している{{r|onomichi-u1109320130111104138}}。その他にも、明治42年(1909年)には別子銅山の煙害被害者と住友本店との初めての正式交渉いわゆる“千光寺会談”が行われ、翌年賠償契約を締結している{{r|pe18onomichi}}{{r|i-manabi8236}}。大正2年(1913年)、住友肥料製造所(現[[住友化学]])が新居浜で開業した際には、尾道が荷揚げ・荷捌きの港となった{{r|pe18onomichi}}。なお令和2年(2020年)竣工の[[尾道市役所]]庁舎の設計は[[日建設計]]であり、その前身は住友本店臨時建築部になる{{r|onomichi2354}}。
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[[ファイル:Onomichi downtown before 1945.JPG|250px|center|thumb|尾道駅前から東方向を撮影。左の道が後に国道2号として整備される。右の道は土堂渡し場へ向かう道。住銀や尾道酢の広告が見える。]]
{{-}}
|}
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[[ファイル:KITLV - 65865 - Street in Onomichi, Japan - presumably 1900-1902.tiff|200px|right|thumb|1900年代初頭]]
{{File clip | Map of BISAN Area , Hiroshima 1929.jpg | width = 800 | 51 | 12 | 38 | 65 | w = 5280 | h =4213 | 昭和4年(1929年)尾道都市計画区域図。当時の市域になる。|align=center}}
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| topic = 昭和初期の映像
| topic = 昭和初期の映像 - RCCテレビ60年特別配信『ひろしま 戦前の風景』
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| video1 = [http://www.rcc.net/prewar-film/pref_hiroshima_content.htm#18 第1回尾道みなと祭] - 昭和10年(1935年)
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}}
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こうした中で、明治31年(1898年)4月、県下2番目の市制施行、「尾道市」となる<ref name="ononavihistory" />。尾道の代表的な景観・観光地である[[千光寺公園]]が出来たのはこの頃で、明治36年(1903年)地元商人[[三木半左衛門]]が整備し市に寄贈した{{Sfn|尾道市|向上計画 , 1|p=21}}。
Onomichi downtown before 1945.JPG|尾道駅前から東方向を撮影。左の道が後に国道2号として整備される。右の道は土堂渡し場へ向かう道。住銀や尾道酢の広告が見える。

近世での尾道の特産はそのまま近代にも受け継がれた。例えば塩は[[専売制]]となり[[大蔵省専売局]]尾道専売支局が置かれた以降も製造していた。尾道酢は、大正時代には満州・台湾・朝鮮にまで輸出されており、昭和30年代には広島銀行頭取[[橋本龍一]]と[[キユーピー]]役員[[廿日出要之進]]の偶然の出会いからキユーピーマヨネーズの原料酢に使われていた<ref name="onomichi0000003903" />。

<gallery widths="250px" heights="250px">
Onomichi 1930.jpg|昭和5年(1930年)頃、千光寺山から東方向を望む。
Onomichi 1930.jpg|昭和5年(1930年)頃、千光寺山から東方向を望む。
Onomichi 1932.jpg|昭和7年(1932年)頃、浄土寺山から西方向を望む。
Onomichi 1932.jpg|昭和7年(1932年)頃、浄土寺山から西方向を望む。
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[[ファイル:Onomichi 1947.jpg|350px|right|thumb|昭和22年(1947年)米軍撮影。市街地の中で縦長に伸びる町屋がいくつかあるが、これは江戸時代の町割<ref name="onomichi0000003898" />。線路沿いが広くなっているのは[[疎開|建物疎開]]によるもので、後に国道2号として整備されるそこより下の対岸側は日立造船で[[ドック]]が見える。中央やや左が[[向島ドック]]。左下、沿岸の方形の広い土地は塩田である。そこから上の対岸に尾道駅がある。駅の左端から上に伸びる太い道に尾道鉄道が通っていた。]]
[[ファイル:Onomichi 1947.jpg|350px|right|thumb|昭和22年(1947年)米軍撮影。市街地の中で縦長に伸びる町屋がいくつかあるが、これは江戸時代の町割{{r|onomichi0000003898}}。対岸側は日立造船で[[ドック]]が見える。中央やや左が[[向島ドック]]。左下、沿岸の方形の広い土地は塩田である。そこから上の対岸に尾道駅がある。駅の左端から上に伸びる太い道に尾道鉄道が通っていた。]]

近世での尾道の特産はそのまま近代・現代にも受け継がれた。例えば塩は[[専売制]]となり[[大蔵省専売局]]尾道専売支局が置かれた以降も製造していた。尾道酢は、大正時代には満州・台湾・朝鮮にまで輸出されており、昭和30年代には広島銀行頭取[[橋本龍一]]と[[キユーピー]]役員[[廿日出要之進]]の偶然の出会いからキユーピーマヨネーズの原料酢に使われていた{{r|onomichi0000003903}}。

近代から現代にかけて、この地域の産業の中心となったのは向島・因島での[[造船]]業である{{r|onomichi0000003905}}。これらの島では中世では村上水軍の勢力下で、近世では商人用の廻船として船製造が行われており、近代になり木造船から鉄造船に移行すると、島で育まれた造船技術と尾道において中世から受け継がれていった鍛冶の技とが結びつき飛躍的に発展した{{r|onomichi0000003902}}。因島では明治29年(1896年)土生船渠合資会社が、向島では明治39年(1906年)松場鉄工所、瀬戸田では大正4年(1916年)山陽造船が最初に起業し、以降[[日立造船]]系(現[[ジャパン マリンユナイテッド]])・[[尾道造船]]系・[[内海造船]]系の3つに集約されている{{r|onomichi0000003902}}。[[日露戦争]]・[[第一次世界大戦]]・[[第2次世界大戦]]・[[朝鮮戦争]]と戦争による特需活況と戦後の不況、その後も好況不況を繰り返したなかで成長していった{{r|onomichi0000003902}}。


この造船に活気だつ島へ尾道からの交通手段として渡船が最大で12箇所まで増えていくことになるが、現代に入り広域交通が整備される中で規模が縮小されていった{{r|onomichi0000012609}}。
近代から現代にかけて、この地域の産業の中心となったのは向島・因島での[[造船]]業である<ref name="onomichi0000003905" />。これらの島では中世では村上水軍の勢力下で、近世では商人用の廻船として船製造が行われており、近代になり木造船から鉄造船に移行すると、島で育まれた造船技術と尾道において中世から受け継がれていった鍛冶の技とが結びつき飛躍的に発展した<ref name="onomichi0000003902">{{Cite web|publisher=尾道商業会議所記念館|url=http://www.city.onomichi.hiroshima.jp/open_imgs/service/0000003902.pdf|format=PDF|title=第18回企画展示 造船のまち 尾道|accessdate=2015-12-11}}</ref>。因島では明治29年(1896年)土生船渠合資会社が、向島では明治39年(1906年)松場鉄工所、瀬戸田では大正4年(1916年)山陽造船が最初に起業し、以降[[日立造船]]系(現[[ジャパン マリンユナイテッド]])・[[尾道造船]]系・[[内海造船]]系の3つに集約されている<ref name="onomichi0000003902" />。[[日露戦争]]・[[第一次世界大戦]]・[[第2次世界大戦]]・[[朝鮮戦争]]と戦争による特需活況と戦後の不況、その後も好況不況を繰り返したなかで成長していった<ref name="onomichi0000003902" />。


昭和2年(1927年)西隣三原の糸崎港とあわせ[[尾道糸崎港]]として第2種重要港湾に指定され、昭和13年(1938年)尾道中央桟橋・西御所物揚場などが整備された{{Sfn|向上計画1|p=10}}{{r|onoport}}。更に昭和28年(1953年)尾道糸崎港は重要港湾に指定された{{Sfn|向上計画1|p=10}}{{r|onoport}}。
この造船に活気だつ島へ尾道からの交通手段として渡船が最大で12箇所まで増えていくことになるが、現代に入り広域交通が整備される中で規模が縮小されていった<ref name="onomichi0000012609" />。


そして、戦後の広域道路網整備は昭和43年(1968年)[[尾道大橋]]開通から始まり、平成27年(2015年)に[[山陽自動車道]]・[[西瀬戸自動車道]]・[[中国横断自動車道]]が結ばれた。昭和63年(1988年)山陽新幹線[[新尾道駅]]が開業、駅前再開発に合わせ平成11年(1999年)尾道駅が平成12年(2000年)[[尾道糸崎港]]が再整備された。
そして、戦後の広域道路網整備は昭和43年(1968年)[[尾道大橋]]開通から始まり、平成27年(2015年)に[[山陽自動車道]]・[[西瀬戸自動車道]]・[[中国横断自動車道]]が結ばれた。昭和63年(1988年)山陽新幹線[[新尾道駅]]が開業、駅前再開発に合わせ平成11年(1999年)尾道駅が平成12年(2000年)[[尾道糸崎港]]が再整備された。

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Onomichi Port2013.jpg|尾道ポートターミナル
Onomichi Port2013.jpg|尾道ポートターミナル
317行目: 430行目:


=== まちづくりの取り組み ===
=== まちづくりの取り組み ===
{{wide image|Onomichi Panorama.jpg|900px|[[千光寺公園]]から望む尾道と向島。}}
[[ファイル:Naoya Shiga Onomichi02n3872.jpg|200px|right|thumb|[[おのみち文学の館|志賀直哉旧居]]。志賀が過去に住んでいた長屋を資料館として整備したもの。『[[暗夜行路]]』内の風景描写をここから見ることが出来る<ref name="onomichi0000003904" />。]]
{{wide image|Onomichi.JPG|700px|向島から対岸北側の千光寺山を望む。}}


現在尾道市全体で見ると、[[少子高齢化]]がすすみ空き家が発生している{{Sfn|向上計画1|p=2}}。市街地でも同様で、特に斜面地では災害対策や[[バリアフリー]]問題など生活環境に問題がある{{Sfn|向上計画1|p=2}}。一方で尾道は数年ごとにブームが起こる観光都市でもある{{Sfn|向上計画1|p=14}}。都市開発による急激な変化を望まないものもいる。尾道市主導の開発の幾つかは市民の抗議により頓挫しており、平成に入り2度高層マンション計画が上がったが、1度目は署名活動を展開した市民団体が用地を買い取り現在はMOU尾道市立大学美術館となり、2度目は市民の抗議活動を受けて市が用地を買い取り公園になった{{Sfn|向上計画1|p=2}}{{r|wa-dan20120622}}{{r|nikkeibp20150728}}。
1980年代以降、ニチイ尾道店([[イオン尾道店]])や[[フジ (チェーンストア)|フジグラン尾道]]が開店すると、市街地中心部の[[商店街]]は衰退していく<ref name="soc.titech10M43014">{{Cite journal|和書|author =荒川佳大|date =2011|title =広島県尾道市の中心市街地にみる社会関係資本の拡大と居住空間形成の相互作用|journal = 2011年度修士論文|publisher =東京工業大学大学院真野研究室|url =http://www.soc.titech.ac.jp/publication/Theses2012/master/10M43014.pdf|format =PDF|accessdate =2015-12-11}}</ref>。1998年[[まちづくり3法]]が施行すると、市街地活性化に向け手が加わるようになる<ref name="soc.titech10M43014" />。


これらを受け、尾道市は景観を重視するようになる。[[景観法]]に基づく[[景観行政団体]]となり市街地を[[景観地区]]に指定、2007年には全国に先駆けて「尾道市景観条例」を制定、[[地域における歴史的風致の維持及び向上に関する法律|歴史まちづくり法]]施行に伴い尾道市は「歴史的風致維持向上計画」を作成し、市街地を「尾道・向島歴史的風致地区」として重点区域に指定した{{Sfn|向上計画1|p=2}}{{r|nikkeibp20150728}}。
現在尾道市全体で見ると、[[少子高齢化]]がすすみ空き家が発生している{{Sfn|尾道市|向上計画 , 1|p=13}}。市街地でも同様で、特に斜面地では災害対策や[[バリアフリー]]問題など生活環境に問題がある{{Sfn|尾道市|向上計画 , 1|p=2}}。一方で尾道は数年ごとにブームが起こる観光都市でもあり{{Sfn|尾道市|向上計画 , 1|p=14}}、都市開発による急激な変化を望まないものもいる。尾道市主導の開発の幾つかは市民の抗議により頓挫している<ref name="wa-dan20120622">{{Cite web|publisher=週刊朝日|date=2012-06-22|url=http://www.wa-dan.com/article/2012/06/30.php|title=映画作家・大林宣彦氏「尾道の発展を30年遅らせたアホ監督だ」と罵られる|accessdate=2015-12-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20121014131321/http://www.wa-dan.com/article/2012/06/30.php|archivedate=2012年10月14日}}</ref>。平成に入り、2度高層マンション計画が上がったが、1度目は署名活動を展開した市民団体が用地を買い取り現在はMOU尾道市立大学美術館となり、2度目は市民の抗議活動を受けて市が用地を買い取り公園になった{{Sfn|小田|1994|p=90}}{{Sfn|尾道市|向上計画 , 1|p=2}}。


こうした中で国による[[日本遺産]]選定の際に尾道市が作成した「尾道水道が紡いだ中世からの箱庭的都市」というストーリー案が認められ、2015年広島県初の日本遺産認定となった{{r|nikkeibp20150728}}{{r|asahi20150425}}。
これらを受け、尾道市は景観を重視するようになる。[[景観法]]に基づく[[景観行政団体]]となり市街地を[[景観地区]]に指定、2007年には「尾道市景観条例」を制定、[[地域における歴史的風致の維持及び向上に関する法律]](歴史まちづくり法)施行に伴い尾道市は「歴史的風致維持向上計画」を作成し、市街地を「尾道・向島歴史的風致地区」として重点区域に指定した{{Sfn|尾道市|向上計画 , 1|p=}}<ref name="nikkeibp20150728">{{Cite web|publisher=日経BP|date=2015-07-28|url=http://www.nikkeibp.co.jp/atclcsm/15/395085/072700001/|title=尾道の「空き家」はなぜ若者をひきつけるのか|accessdate=2015-12-11}}</ref>。それまで点在し個別に保全計画を立てていた文化財を、時代背景ごとに分類し町全体で保全する意識を高め、建物には高さ制限・目立たない広告看板を即すなど条例に定め、町並み保存や空き家利用促進などには補助金を交付している{{Sfn|小田|1994|p=97}}{{Sfn|尾道市|向上計画 , 1|p=}}。


== 風景 ==
こうした中で国による[[日本遺産]]選定の際に尾道市が作成した「尾道水道が紡いだ中世からの箱庭的都市」というストーリー案が認められ、2015年広島県初の日本遺産認定となった<ref name="asahi20150425" /><ref name="nikkeibp20150728" />。
尾道は、南北を山と海に挟まれ東西に細長い土地に港町・商都・門前町として栄え、そして[[太平洋戦争]]末期に[[空襲]]を受けていないため、中世から現代までの建物・文化財が混在し、多くの魅力的な観光資源の間を細い路地と石段・石垣が張り巡らされ、特徴的な情景を醸し出している。[[大林宣彦]]は「根っからの[[スクラップアンドビルド]]の町」と表現している{{r|wa-dan20120622}}。

== 景観 ==
尾道は、南北を山と海に挟まれ東西に細長い土地に港町・商都・門前町として栄え、そして[[太平洋戦争]]末期に[[空襲]]を受けていないため、中世から現代までの建物・文化財が混在し、多くの魅力的な観光資源の間を小さな路地が張り巡らされ、特徴的な情景を醸し出している<ref name="soc.titech10M43014" />。[[大林宣彦]]は「根っからの[[スクラップアンドビルド]]の町」と表現している<ref name="wa-dan20120622" />。
{{wide image|Onomichi Panorama.jpg|1200px|[[千光寺公園]]から望む尾道と向島。}}


=== 坂のまち ===
=== 坂のまち ===
{{Vertical_images_list
{{Vertical_images_list
|寄せ=
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|幅= 200px
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|枠幅=
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|1=Jodoji, Onomichi, Hiroshima.jpg|2=浄土寺参道。山陽本線をアンダーパスする。
|1=Onomichi castle01s3200.jpg
|3=Onomichi, Hiroshima (15710423680).jpg|4=千光寺新道。大正時代に商人が茶園(別荘)を築いた際に石垣・石段などが整備され{{Sfn|石造物編|2018|p=33}}、現代に入り再整備された。
|2=東第1踏切から千光寺山[[尾道城]]を見上げる。
|3=Jodoji, Onomichi, Hiroshima.jpg
|4=浄土寺参道。山陽本線をアンダーパスする。
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|6=千光寺新道
}}
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現在の尾道旧市街地の景観が形成された過程は以下のとおり。
現在の尾道旧市街地の景観が形成された過程は以下のとおり。
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:# 市街地中心部および尾道三山の麓近くを山陽鉄道(山陽本線)が通ったことにより南北に町が分断される。
:# 市街地中心部および尾道三山の麓近くを山陽鉄道(山陽本線)が通ったことにより南北に町が分断される。


山手側にはかつて神社仏閣以外の建物は存在していなかった。江戸時代に初めて出雲藩の出張所“出雲屋敷”が建てられた{{r|minatonoyado}}{{r|ku19940}}。江戸後期になると千光寺山斜面地に豪商が「茶園」とよばれた別邸を建てた{{Sfn|教育委員会|2012|p=23}}。
尾道は東西に細長く伸びる町であるが、そこに山陽本線が通ることにより景観は一変した。尾道三山の麓近くの寺社のいくつかは敷地に線路が通ることになったため、山門と本堂の間に踏切あるいはアンダーパスが設けられることになってしまった<ref name="onomichi0000003901" />。また明治初期である鉄道敷設以前は、尾道三山の山手側には民家は殆ど無かったが鉄道が通る事になると住宅建築が許可され、線路により立ち退きに迫られた住民が山手側に移っていった<ref name="onomichi0000003901" />。これに加え、鉄道開通に絡んで商売に成功し財を成したものが、風光明媚な山手に「茶園」と呼ばれた別荘を建てていった<ref name="onomichi0000003901" />。


明治に入りそこに山陽本線が通ることにより景観は一変した。尾道三山の麓近くの寺社のいくつかは敷地に線路が通ることになり、参道に踏切あるいはアンダーパスが設けられることになってしまった{{r|onomichi0000003901}}。特に常称寺は境内が二分された{{Sfn|向上計画2-1|p=70}}。また鉄道が通る事になると山手側への住宅建築が許可され、線路により立ち退きに迫られた住民が移っていった{{r|onomichi0000003901}}。これに加え、鉄道開通に絡んで商売に成功し財を成したものが、風光明媚な山手側に別荘を建てていった{{r|onomichi0000003901}}{{Sfn|向上計画2-1|p=64}}。
こうして、山陽本線の北側は尾道三山の麓に神社仏閣と住宅が混在しその間を細い路地と坂道が複雑に伸びる「坂のまち尾道」が形成された<ref name="onomichi0000003901" />{{Sfn|小田|1994|p=94}}。


こうして、線路の山側が中近世の建造物の周辺に近現代に建てられた和風あるいは和洋折衷住宅(群)が立地し、その間を細い路地と坂道が複雑に伸びる「坂のまち尾道」が形成された{{r|onomichi0000003901}}{{Sfn|向上計画2-1|p=70}}。逆に線路より南側は近世に宿場町・商業地だった町割を色濃く残し{{Sfn|向上計画2-1|p=54}}、尾道本通り(旧西国街道)を基準に縦長の土地区画(鰻の寝床)に小路が張り巡らされ、近世からの名残を残す商家と近現代的な建物が混ざり合う商業地に、海岸沿いの港湾施設が立地している。
{{wide image|Onomichi.JPG|600px|向島から対岸北側の千光寺山を望む。}}

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Onomichi castle01s3200.jpg|東第1踏切から千光寺山を見上げる。
Onomichi,_Hiroshima_-_8408968556.jpg|持光寺参道。
Onomichi, Hiroshima - 8407872413.jpg|天寧寺参道。
Onomichi, Hiroshima - 8408967854.jpg|浄土寺参道。
二階井戸.jpg|二階井戸。実際の井戸はこの真下、下の建物の敷地内にあり、この[[釣瓶]]で二階分上まで水を運ぶ(現在未使用)。坂道の上下の住宅で共有して井戸が使える仕組み{{Sfn|島野|2020|p=107}}{{Sfn|石造物編|2018|p=1}}。
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=== 芸術文化のまち ===
=== 芸術文化のまち ===
359行目: 473行目:
尾道は古くから多くの[[文人]]・[[芸術家]]を輩出してきた。また多くの文人が訪れ、風光明媚な景色を見て自身の作品に残している。
尾道は古くから多くの[[文人]]・[[芸術家]]を輩出してきた。また多くの文人が訪れ、風光明媚な景色を見て自身の作品に残している。
{{Quotation|ぬばたまの 夜は明けぬらし 玉の浦に あさりする鶴 鳴き渡るなり|読人しらず|『万葉集』第15巻}}
{{Quotation|ぬばたまの 夜は明けぬらし 玉の浦に あさりする鶴 鳴き渡るなり|読人しらず|『万葉集』第15巻}}
『万葉集』の中にある[[遣新羅使]]の歌である。この歌は一般には[[岡山県]][[玉島]]のこととされているが、“玉の浦”から尾道のことを歌ったとする説も存在する<ref>{{Cite web|publisher=倉敷市|url=http://mmg.city.kurashiki.okayama.jp/mail/mailmag/contents.php?gno=215&pno=1&dno=2108&year=2015|title=文化振興課:文化振興課メールマガジン|accessdate=2015-12-11}}</ref>
『万葉集』の中にある[[遣新羅使]]の歌である。この歌は一般には[[岡山県]][[玉島]]のこととされているが、尾道のことを歌ったとする説も存在する{{r|kotobank2060559}}。


[[応安]]4年(1371年)[[今川貞世]](了俊)が[[九州探題]]として下向していた時に書かれた紀行文『[[道ゆきぶり]]』の中に当時の尾道が出てくる。
[[応安]]4年(1371年)[[今川貞世]](了俊)が[[九州探題]]として下向していた時に書かれた紀行文『[[道ゆきぶり]]』の中に当時の尾道が出てくる{{r|onomichih02}}
{{Quotation|この所のかたちは北にならびて、あさぢ深く岩ほこりしける山あり。ふもとにそひて家々所せくならびつつ、あみほすほどの庭だにすくなし。西よりひんがしに入うみとをく見えて、朝夕しほのみちひもいとはやりかなり。風のきをひに従ひて、行くる舟のほかげもいとおもしろく、遥なるみちのくつくし路のふねも多くたゆたゐたるに、・・・・ |今川了俊|道ゆきぶり<ref name="nihon_isan14" />}}
{{Quotation|この所のかたちは北にならびて、あさぢ深く岩ほこりしける山あり。ふもとにそひて家々所せくならびつつ、あみほすほどの庭だにすくなし。西よりひんがしに入うみとをく見えて、朝夕しほのみちひもいとはやりかなり。風のきをひに従ひて、行くる舟のほかげもいとおもしろく、遥なるみちのくつくし路のふねも多くたゆたゐたるに、・・・・ |今川了俊|道ゆきぶり{{r|onomichih02}}{{Sfn|石造物編|2018|p=1}}}}


[[ファイル:Rotekian.jpg|250px|right|thumb|国重文・露滴庵]]
[[ファイル:Rotekian.jpg|200px|right|thumb|露滴庵{{r|onomichi0000003898}}]]
浄土寺に「露滴庵」という茶室がある。これは元々[[伏見城]]内に[[豊臣秀吉]]が所有していた茶室“燕庵”を向島の商人が[[海物園跡|海物園]]に移設した所、文化11年(1814年)浄土寺に寄進したというもの<ref>{{Cite web|publisher=広島県教育委員会|url=https://www.pref.hiroshima.lg.jp/site/bunkazai/bunkazai-data-102010490.html|title=広島県の文化財 - 浄土寺|accessdate=2015-12-11}}</ref>。つまり、[[安土桃山時代]]に花開いた[[わび茶]]文化が尾道にも伝播していたことを意味する{{Sfn|尾道市|向上計画 , 1|p=20}}。尾道の茶文化は江戸時代に「茶園」、尾道三山の山の手や向島の海岸沿いなど風光明媚なところにあった茶室や庭園付きの別荘、を生み出した{{Sfn|尾道市|向上計画 , 1|p=20}}。この茶園には多くの文人が訪れ、例えば[[頼山陽]]や[[菅茶山]]、[[田能村竹田]]や[[浦上春琴]]らは作品を残している{{Sfn|尾道市|向上計画 , 1|p=20}}。頼山陽はたびたび尾道を訪れ、文政12年(1829年)千光寺山に登った時に詩を作った
浄土寺に「露滴庵」という茶室がある。これは元々[[伏見城]]内に[[豊臣秀吉]]が所有していた茶室“燕庵”を様々な経緯を経て尾道の商人天満屋が[[海物園跡|海物園]]に移設した所、文化11年(1814年)浄土寺に寄進したというもの{{r|onomichi0000003898}}{{r|ph102010490}}。つまり、[[安土桃山時代]]に花開いた[[わび茶]]文化が尾道にも伝播していたことを意味する{{Sfn|向上計画1|p=20}}。
{{Quotation|磐石可坐松可拠<br >松翠缺処海光露<br >六年重来千光寺<br >山紫水明在指顧<br >萬瓦半暗帆影斜<br >相傳残杯未傾去<br >回首苦嘱諸少年<br >記取先生曽酔処 |頼山陽|<ref name="onomichi1940">{{Cite web|publisher=尾道市|url=http://www.city.onomichi.hiroshima.jp/www/info/detail.jsp?id=1940|title=文学のこみち|accessdate=2015-12-11}}</ref>}}


尾道の茶文化は江戸時代後期に「茶園」、邸宅内あるいは尾道三山斜面地の風光明媚な場所に作られた茶室や庭園、を生み出した{{Sfn|向上計画1|p=20}}{{Sfn|向上計画2-2|p=94}}{{Sfn|教育委員会|2012|p=23}}。この茶園には多くの文人が訪れ、例えば[[頼山陽]]や[[菅茶山]]、[[田能村竹田]]や[[浦上春琴]]らは作品を残している{{Sfn|向上計画1|p=20}}{{Sfn|向上計画2-2|p=94}}。山陽はたびたび尾道を訪れ、文政12年(1829年)千光寺山に登った時に詩を作った。
江戸時代の戯作者[[十返舎一九]]の作品である『山陽道漫遊中』の中には
{{Quotation|磐石可坐松可拠(磐石坐す可く松拠る可し)<br >松翠缺処海光露(松翠缺くる処海光露わる)<br >六年重来千光寺(六年重ねて来たる千光寺)<br >山紫水明在指顧(山紫水明指顧に在り)<br >萬瓦半暗帆影斜(萬瓦半ば暗くして帆影斜なり)<br >相傳残杯未傾去(相傳う残杯未だ傾け去らず)<br >回首苦嘱諸少年(首を回らして苦に諸少年に嘱す)<br >記取先生曽酔処(記取せよ先生曽て酔いし処と)|頼山陽|{{r|onomichi1940}}}}
{{Quotation|日のかげは 青海原を照らしつゝ 光る孔雀の 尾の道の沖|十返舎一九|山陽道漫遊中<ref name="onomichi1940" />}}


[[正岡子規]]は、[[日清戦争]]の従軍記者として尾道を通った時に一句残している。
[[正岡子規]]は、[[日清戦争]]の従軍記者として尾道を通った時に一句残している。
{{Quotation|のどかさや 小山つづきに 塔二つ|正岡子規| <ref name="onomichi1940" />}}
{{Quotation|のどかさや 小山つづきに 塔二つ|正岡子規|{{r|onomichi1940}}}}

[[ファイル:Japan - Onomichi - Path of Litterature (6).jpg|left|thumb|250x250px|志賀直哉が描写した尾道水道と向島。]]
{{Vertical_images_list
[[ファイル:Footpath of literature of Onomichi01bs3200.jpg|250px|left|thumb|[[文学のこみち|林芙美子文学碑]]。右の文章が刻まれている。背後の尾道水道とロープウェーと共に尾道を代表する風景である。]]
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|1=Japan - Onomichi - Path of Litterature (6).jpg|2=志賀直哉が描写した尾道水道と向島。
|3=Naoya Shiga Onomichi02n3872.jpg|4=[[おのみち文学の館|志賀直哉旧居]]
}}
近代文学では、[[志賀直哉]]『[[暗夜行路]]』と[[林芙美子]]『[[放浪記]]』が特に著名。
近代文学では、[[志賀直哉]]『[[暗夜行路]]』と[[林芙美子]]『[[放浪記]]』が特に著名。


志賀は尾道で暗夜行路の前身にあたる『時任謙作』を起稿、『[[清兵衛と瓢箪]]』を執筆している{{r|hb449}}{{Sfn|向上計画2-1|p=64}}。
志賀は暗夜行路の草稿をこの地で起稿しており<ref>{{Cite web|publisher=広島観光ナビ|url=http://www.kankou.pref.hiroshima.jp/sys/data?page-id=5351|title=おのみち文学の館|accessdate=2015-12-11}}</ref>、現存する草稿には特に当時の尾道の情景が描かれている<ref>{{Cite journal|和書|author1=寺杣雅人|author2=大出奈奈|author3=貝原和紗|author4=佐々木名穂|author5=立町智恵|author6=宮本奈菜|author7=渡邉春来|publisher=[[尾道市立大学]]|journal=尾道文学談話会会報 No.2|url=http://harp.lib.hiroshima-u.ac.jp/onomichi-u/detail/1040620120727101838|title=「暗夜行路草稿4」の影印と翻字|date=2012-07-27|accessdate=2015-12-11}}</ref>。
{{Quotation|景色はいい処だった。寝ころんでいて色々な物が見えた。前の島に造船所がある。其処で朝からカーンカーンと金槌を響かせている。同じ島の左手の山の中腹に石切り場があって、松林の中で石切人足が絶えず唄を歌いながら石を切り出している。その声は市まちの遥か高い処を通って直接彼のいる処に聴えて来た。|志賀直哉|暗夜行路<ref name="onomichi0000003904" />}}
{{Quotation|景色はいい処だった。寝ころんでいて色々な物が見えた。前の島に造船所がある。其処で朝からカーンカーンと金槌を響かせている。同じ島の左手の山の中腹に石切り場があって、松林の中で石切人足が絶えず唄を歌いながら石を切り出している。その声は市まちの遥か高い処を通って直接彼のいる処に聴えて来た。|志賀直哉|暗夜行路{{r|onomichi0000003904}}}}{{-}}


{{Vertical_images_list
|寄せ=右
|幅= 200px
|枠幅=
|1=Footpath of literature of Onomichi01bs3200.jpg|2=[[文学のこみち|林芙美子文学碑]]。左の文章が刻まれている。背後の尾道水道とロープウェーと共に尾道を代表する風景である。
|3=Onomichi Fumiko Museum 20180430.jpg|4=旧林芙美子居宅、おのみち林芙美子記念館
}}
若年期を尾道で過ごした林の放浪記にも尾道は出てくる。
若年期を尾道で過ごした林の放浪記にも尾道は出てくる。
{{Quotation|海が見えた。海が見える。五年振りに見る尾道の海はなつかしい、汽車が尾道の海へさしかかると、煤けた小さい町の屋根が提灯のように、拡がって来る。赤い千光寺の塔が見える。山は爽やかな若葉だ。緑色の海向うにドックの赤い船が帆柱を空に突きさしてる。私は涙があふれていた。|林芙美子|放浪記<ref name="onomichi1940" />}}{{-}}
{{Quotation|海が見えた。海が見える。五年振りに見る尾道の海はなつかしい、汽車が尾道の海へさしかかると、煤けた小さい町の屋根が提灯のように、拡がって来る。赤い千光寺の塔が見える。山は爽やかな若葉だ。緑色の海向うにドックの赤い船が帆柱を空に突きさしてる。私は涙があふれていた。|林芙美子|放浪記{{r|onomichi1940}}}}{{-}}


[[ファイル:Onomichi City Museum of Art02s3200.jpg|200px|left|thumb|[[尾道市立美術館]]新館。[[安藤忠雄]]の設計{{r|omabout}}。]]
{{ external media
尾道出身の芸術家としては[[平田玉蘊]]、[[宮原節庵]]、[[福原五岳]]など([[圓鍔勝三]]は御調、[[平山郁夫]]は瀬戸田、[[矢形勇]]は原田出身)。
| topic = 尾道市立美術館
| align = left
| width = 200px
| image1 = [http://www7.city.onomichi.hiroshima.jp/artists/index.htm 尾道の表現者達] - プロフィール右上に紹介動画がある。
}}
[[ファイル:Onomichi City Museum of Art02s3200.jpg|200px|right|thumb|[[尾道市立美術館]]新館。[[安藤忠雄]]の設計<ref>{{Cite web|publisher= おのナビ|url=http://www.ononavi.jp/sightseeing/museum/detail.html?detail_id=138|title=尾道市立美術館|accessdate=2015-12-11}}</ref>。]]
尾道出身の画家としては[[平田玉蘊]]、[[福原五岳]]など。洋画家[[小林和作]]は、尾道に移り住み創作活動を続け、自身が得意とした風景画に尾道を描いた。
<!--平山郁夫は瀬戸田の人なのでここで書くべきではない-->


洋画家[[小林和作]]は、尾道に移り住み創作活動を続け、自身が得意とした風景画に尾道を描いた。
和作以外にも尾道の風景の描いた画家は多くおり、尾道市はその写生地に案内目印を建て整備している<ref>{{Cite web|publisher= 尾道市|url=http://www.city.onomichi.hiroshima.jp/www/info/detail.jsp?id=2242|title=有名画家写生地|accessdate=2015-12-11}}</ref>。
和作以外にも尾道の風景の描いた画家は多くおり、尾道市はその写生地に案内目印を建て整備している{{r|co1258}}。
{{-}}
<gallery>
Nihon fūkei senshū, Onomichi Senkō-ji no saka by Kawase Hasui.jpg|[[川瀬巴水]]『尾之道 千光寺の坂』
(Inland Sea) Onomichi, Bingo (3109859785).jpg|[[日下部金兵衛]]
</gallery>


[[ファイル:Tokyo Monogatari 1953.jpg|250px|left|thumb|『東京物語』[[原節子]]と[[笠智衆]]。浄土寺で撮影。なお右の灯籠は同地に無く別の場所に移設されている<ref name="yomiuri20140924" />。]]
[[ファイル:Tokyo Monogatari 1953.jpg|200px|right|thumb|『東京物語』[[原節子]]と[[笠智衆]]。浄土寺で撮影。なお右の灯籠は尾道最古の灯籠で同地に無く浄土寺経堂前に移設されている{{r|yomiuri20140924}}{{Sfn|石造物編|2018|p=10}}。]]
[[ファイル:Setsuko Hara and Yasujiro Ozu in Tokyo Story.jpg|150px|right|thumb|撮影中の原節子と小津安二郎。当時地方ロケは珍しかったため多くの見物人が訪れた{{r|yomiuri20140924}}。]]
映像作品としては、まず[[小津安二郎]]『[[東京物語]]』が挙げられる。世界的に評価の高いこの作品は海外にもファンが多く、2015年現在でもロケ地見物に訪れる<ref>{{Cite web|date=2015-11-26|publisher=毎日新聞|url=http://news.biglobe.ne.jp/domestic/1126/mai_151126_0927348854.html|title=<原節子さん死去>「東京物語」ロケ 尾道はファンで大騒ぎ|accessdate=2015-12-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20151126034346/http://news.biglobe.ne.jp/domestic/1126/mai_151126_0927348854.html|archivedate=2015年11月26日}}</ref>。ただ映画公開当初は、尾道を象徴する風景がなかったため、尾道の人々は拍子抜けしたという逸話がある<ref name="yomiuri20140924">{{Cite web|publisher=読売新聞|date=2014-09-24|url=http://www.yomiuri.co.jp/local/hiroshima/feature/CO010691/20140923-OYTAT50017.html|title=小津が見た日本の原風景 <上>東京物語|accessdate=2015-12-11}}</ref>。
最初に尾道が舞台となった映像作品は、1929年公開[[木藤茂]]『[[波浮の港 (曖昧さ回避)|波浮の港]]』になる{{r|caochr07_3-5-3}}。


代表的なものとして[[小津安二郎]]『[[東京物語]]』が挙げられている{{r|caochr07_3-5-3}}。世界的に評価の高いこの作品は海外にもファンが多く、ロケ地見物に観光客が訪れている{{r|yomiuri20140924}}{{r|mainichi20151126}}。ただ映画公開当初は、尾道を象徴する風景がなかったため、尾道の人々は拍子抜けしたという逸話がある{{r|yomiuri20140924}}。
若い頃尾道で暮らしていた[[新藤兼人]]もたびたびロケをしており、出世作となった『[[裸の島]]』を始め、『[[悲しみは女だけに]]』『[[かげろう (映画)|かげろう]]』『[[落葉樹 (映画)|落葉樹]]』『[[濹東綺譚]]』『[[石内尋常高等小学校 花は散れども]]』で用いている。『石内~』では小津の『東京物語』に登場する[[竹村家]]で撮影している<ref>{{Cite web|publisher=竹村家|url=http://takemuraya.sakura.ne.jp/images/take_heisei.jpg|title=竹村家の平成|accessdate=2017-08-13}}</ref>。


若い頃尾道で暮らしていた[[新藤兼人]]はたびたびロケをしており、出世作となった『[[裸の島]]』を始め、『[[悲しみは女だけに]]』『[[かげろう (映画)|かげろう]]』『[[落葉樹 (映画)|落葉樹]]』で用いている{{r|caochr07_3-5-3}}。『[[石内尋常高等小学校 花は散れども]]』では小津の『東京物語』に登場する[[竹村家]]で撮影している{{r|take_heisei}}。
そして[[大林宣彦]]の『[[転校生 (映画)|転校生]]』『[[時をかける少女 (1983年の映画)|時をかける少女]]』『[[さびしんぼう (映画)|さびしんぼう]]』『[[ふたり]]』『[[あした (映画)|あした]]』『[[あの、夏の日]]』の尾道三部作/新尾道三部作の6作品。尾道出身の大林は、名所だけでなく歩きにくい山道など何気ない故郷の原風景、なにより坂のまち尾道をそのまま作品に活かした<ref name="wa-dan20120622" />。


そして[[大林宣彦]]の『[[転校生 (映画)|転校生]]』『[[時をかける少女 (1983年の映画)|時をかける少女]]』『[[さびしんぼう (映画)|さびしんぼう]]』『[[ふたり]]』『[[あした (映画)|あした]]』『[[あの、夏の日]]』の尾道三部作/新尾道三部作の6作品{{r|caochr07_3-5-3}}{{Sfn|向上計画2-1|p=63}}。尾道出身の大林は、名所だけでなく歩きにくい山道など何気ない故郷の原風景、なにより坂のまち尾道をそのまま作品に活かした{{r|wa-dan20120622}}。
NHK[[連続テレビ小説]]では『[[うず潮 (小説)|うず潮]]』『[[てっぱん]]』で舞台となった<ref name="ononavihistory" />。


NHK[[連続テレビ小説]]では『[[うず潮 (小説)|うず潮]]』『[[てっぱん]]』で舞台となった{{r|ononavihistory}}。
近年は[[舛成孝二]]『[[かみちゅ!]]』や[[小林俊彦 (漫画家)|小林俊彦]]『[[ぱすてる]]』、『[[龍が如く6 命の詩。]]』などアニメ・漫画・ゲームなどの舞台にもよく使われ、ファンから[[竹原]]と共に“[[巡礼 (通俗)|聖地巡礼]]”と称し尾道を訪れる<ref>{{Cite web|publisher= ASCII.jp|url=http://ascii.jp/elem/000/000/560/560660/|title=アニメファンならぜひ行きたい ! 聖地巡礼ツアー|accessdate=2015-12-11}}</ref>。

近年は[[舛成孝二]]『[[かみちゅ!]]』や[[小林俊彦 (漫画家)|小林俊彦]]『[[ぱすてる]]』、『[[龍が如く6 命の詩。]]』などアニメ・漫画・ゲームなどの舞台にもよく使われる。


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Misodetenmangu-kaidan 01.JPG|御袖天満宮の階段。『転校生』の重要なシーン登場する。この神社は『かみちゅ!』『てっぱん』の舞台
Onomichi, Hiroshima - 8408968442.jpg|JR跨線橋。『転校生』の冒頭のシーン登場する。
尾道市立長江小学校.jpg|[[尾道市立長江小学校|長江小学校]]。『時をかける少女』の主人公が通う学校シーンで用いられた。
尾道市立長江小学校.jpg|[[尾道市立長江小学校|長江小学校]]。『時をかける少女』の主人公が通う学校シーンで用いられた。
Tsuchido elementaryschool.jpg|1937年(昭和12年)竣工の[[尾道市立土堂小学校|土堂小学校]]{{Sfn|尾道市|向上計画 , 2 , 前半|p=72}}。『ふたり』『てっぱん』『かみちゅ!』などに用いられた。林芙美子、大林宣彦の母校でもある。
Tsuchido elementaryschool.jpg|1937年(昭和12年)竣工の[[尾道市立土堂小学校|土堂小学校]]{{Sfn|向上計画2-1|p=72}}。『ふたり』『てっぱん』『かみちゅ!』などに用いられた。林芙美子、大林宣彦の母校でもある。
Yamato Onomichi.jpg|向島では『[[男たちの大和/YAMATO]]』のロケが行われた。
RZ Cinema Onomichi 2021-08 (9).jpg|[[シネマ尾道]]
Onomichi-eiga-shiryokan03s3200.jpg|[[おのみち映画資料館]]
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=== 石のまち ===
=== 石のまち ===
尾道の地盤はほぼ[[花崗岩]]で形成されている{{Sfn|尾道市|向上計画 , 1|p=11}}<ref name="onomichi0000003904">{{Cite web|publisher=尾道商業会議所記念館|url=http://www.city.onomichi.hiroshima.jp/open_imgs/service/0000003904.pdf|format=PDF|title=第9回企画展示 「尾道と石工」|accessdate=2015-12-11}}</ref>。花崗岩は[[風化]]しやすく加工しやすい特性がある。尾道の自然は長い年月をかけ特異な形をした巨石群を生み出し、幾つかには伝説が生まれ名がつけられた。代表的なが上記の「玉の岩」伝説である。
尾道の地盤はほぼ[[花崗岩]]で形成されている{{Sfn|向上計画1|p=11}}{{r|onomichi0000003904}}。花崗岩は[[風化]]しやすく加工しやすい特性がある。尾道の自然は長い年月をかけ特異な形をした巨石群を生み出し、幾つかには伝説が生まれ名がつけられた。そして加工しやすい石は中世から尾道石工文化を育んでいき、石材加工品である石段・石塔・石像・狛犬などで尾道を飾った{{r|onomichi0000003904}}

そして加工しやすい石は中世から尾道の石工文化を育んでいき、石材加工品である石段・石塔・石像・狛犬などで尾道を飾った<ref name="onomichi0000003904" />。その一つが、千光寺山の遊歩道の端にある巨石に尾道に縁のある文人の作品を刻んだ「[[文学のこみち]]」である<ref name="onomichi1940" />。


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Sowa Inari Shrine near Onomichi Station.jpg|蘇和稲荷神社
Senkoji Onomichi19s3872.jpg|天狗岩
Senkoji Onomichi19s3872.jpg|天狗岩
Senkoji Onomichi02n3872.jpg|鏡岩
Senkoji Onomichi02n3872.jpg|鏡岩
Senkoji Onomichi14s3872.jpg|三重岩
Senkoji Onomichi14s3872.jpg|三重岩
Onomichi Jodoji 03.JPG|浄土寺境内にある[[新影流]]佐野勘十郎義忠の記念碑。両脇に[[狛犬]]を抱えたこの石碑は一石彫である{{Sfn|石造物編|2018|p=9}}。
Komyoji Onomichi05n3200.jpg|[[光明寺 (尾道市東土堂町)|光明寺]]境内にある[[陣幕久五郎]]の手形碑。出雲の人であるが、[[弘化]]5年(1848年)頃に尾道の初汐久五郎に弟子入りしたこと、墓がこの寺にあること、など尾道に関係がある{{r|higashiizumo_3ketsu}}。
Onagatenmangu 01.JPG|広島市[[尾長天満宮]]の玉乗り狛犬。「尾道型狛犬」と呼ばれ、北九州から瀬戸内海沿岸部に広く分布している{{r|onomichi0000003904}}。
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=== 猫のまち ===
=== 猫のまち ===
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| topic =
| topic = 広島県観光課
| align = right
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| width = 200px
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| image1 = [https://www.youtube.com/watch?v=pFULqJJCnqs 広島 CAT STREET VIEW 第1弾 --尾道篇-- コンセプトムービー / Hiroshima Cat Street View "Onomichi" - Concept Movie]
| image1 = [http://hiroshima-welcome.jp/kanpai/catstreetview/ 広島 cat street view 尾道編]
| image2 = [https://www.youtube.com/watch?v=h6huK4itjJE 【猫目線動画】猫の細道 坂 / 広島 CAT STREET VIEW 尾道編]
| image3 = [https://www.youtube.com/watch?v=AXYSjZ5BaHs 【猫目線動画】千光寺坂 / 広島 CAT STREET VIEW 尾道編]
}}
}}
尾道は、港町であり細い路地坂の町であることから、猫にとって住みやすい環境である<ref name="ononavi13">{{Cite web|publisher=おのナビ|url=http://www.ononavi.jp/fan/modelcourse/detail.html?detail_id=13|title=尾道にかくれる猫を探して歩く散歩道|accessdate=2015-12-11}}</ref>。そこで尾道観光協会を中心に、猫をテーマとした新たな観光資源を発掘した<ref>{{Cite web|publisher=読売新聞|date=2015-09-07|url=http://www.yomiuri.co.jp/life/animal/anews/20150907-OYT8T50196.html|title=尾道に来んさ 待ってにゃん! 路地めぐり猫ツアー|accessdate=2015-12-11}}</ref>
尾道は美味し町であることから、猫にとって住みやすいところである{{r|ononavi13}}。そこで猫をテーマとした新たな観光資源を発掘しいる。


観光協会は、市街散策コースに艮神社そばの福石猫で飾られた「猫の細道」や「招き猫美術館」など猫をテーマとしたものを加えた<ref name="ononavi13" />広島県は、猫の目線よるストリートビューサービス「広島cat street view」を開始している。
観光協会は、市街散策コースに艮神社そばの福石猫で飾られた「猫の細道」や「招き猫美術館」など猫をテーマとしたものを加えた{{r|ononavi13}}2017年尾道市立美術館で開催された「猫まみれ展」において企画展に入ろうとするとそれを防ぐ警備員とのやりとりがSNS上で話題となり、美術館名が世界的知られようになった{{r|bunshun20210222}}


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尾道猫猫劇場/御袖天満宮 - Panoramio 40996150.jpg|御袖天満宮と猫
尾道 猫の細道.jpg|舗装が乾く前についた猫の足跡
Footprints of a Cat 猫の足跡 - panoramio.jpg|猫の足跡
Footprints of a Cat 猫の足跡 - panoramio.jpg|艮神社に隣接する道は「猫の細道」と呼ばれている
尾道 猫の細道 福石猫.jpg|いたるところに置かれた「福石猫」
尾道 猫の細道 福石猫.jpg|いたるところに置かれた「福石猫」
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=== 空き家再生 ===
=== 空き家再生 ===
[[ファイル:Sangenyacho, Onomichi, Hiroshima Prefecture 722-0031, Japan - panoramio.jpg|200px|right|thumb|[[旧和泉家別邸]]、通称尾道ガウディーハウス。2007年から始まった空き家再生プロジェクトのシンボル<ref>{{Cite web|publisher=NPO法人尾道空き家再生プロジェクト|url=http://www.onomichisaisei.com/bukken.php?itemid=183|title=旧和泉家別邸|accessdate=2016-12-29}}</ref>。2013年国登録有形文化財。]]
[[ファイル:Sangenyacho, Onomichi, Hiroshima Prefecture 722-0031, Japan - panoramio.jpg|150px|right|thumb|[[旧和泉家別邸]]、通称尾道ガウディーハウス。2007年から始まった空き家再生プロジェクトのシンボル{{r|onomichisaisei}}。]]
2011年の資料よると、尾道の空き家は特に山手側が多<ref name="soc.titech10M43014" />。少子高齢化による住民減少、景観地区であるため用途が条例により制限されていること、傾斜地・細い道と施工が困難なことに加え[[接道義務]]を満たせないことから新築するにはハードル高すぎるためである<ref name="soc.titech10M43014" /><ref name="nikkeibp20150728" />
2015時点で南斜面地山手側立つ民家1,200戸うち300戸以上が空き家であるとう{{r|nikkeibp20150728}}。少子高齢化による住民減少、景観地区であるため用途が条例により制限されていること、傾斜地・細い道と施工が困難なことに加え[[接道義務]]を満たせないことから新築するにはハードル高すぎるためである{{r|nikkeibp20150728}}

一方で古い町並みを残す雰囲気に憧れ、地価も安いため既存の建物を改修する選択肢があること、空き家再生プロジェクトとして市やNPO団体から支援が行われていることから、移住希望者が増えている<ref name="soc.titech10M43014" /><ref name="nikkeibp20150728" />。


一方で古い町並みを残す雰囲気に憧れ、地価も安いため既存の建物を改修する選択肢があること、空き家再生プロジェクトとして市やNPO団体から支援が行われていることから、移住希望者が増えている{{r|nikkeibp20150728}}。
この一環として、長い間空き家となっていた国の登録有形文化財「[[みはらし亭]]」の改修が進められている<ref>{{Cite web|publisher=産経新聞|date=2015-09-30|url=http://www.sankei.com/photo/story/news/150930/sty1509300011-n1.html|title=廃虚旅館、25年ぶり復活へ 広島・尾道、みはらし亭|accessdate=2015-12-11}}</ref>。


<gallery>
== 文化財 ==
Miharashitei Guesthouse 20180428.jpg|[[みはらし亭]]
{{See also|尾道市#観光}}
Yuyu-Onomichi.JPG|昭和初期からある銭湯を喫茶店として改装したもの{{Sfn|向上計画1|p=56}}
''ここでは2015年現在、旧市街地範囲内で国の文化財登録されているものだけを列挙する<ref name="nihon_isan14" /><ref>{{Cite web|publisher=広島県教育委員会|url=http://www.pref.hiroshima.lg.jp/site/bunkazai/bunkazai-area-area05.html|title=広島県の文化財 - 尾道市|accessdate=2015-12-11}}</ref>。''
;国宝
<gallery widths="200px" heights="200px">
Onomichi Jodoji 08.JPG|浄土寺 本堂・多宝塔。写真は多宝塔で[[金剛三昧院]]・[[石山寺]]のものと共に日本三大多宝塔と言われる。
Fugen Enmei Jikoji.jpg|持光寺 絹本著色普賢延命像。
</gallery>
</gallery>


=== 自転車 ===
{{Vertical_images_list
[[ファイル:ONOMICHI U2 — 1.jpg|200px|right|thumb|昭和18年(1943年)竣工の西御所物揚場にある県営倉庫、現ONOMICHI U2。尾道側のサイクリング拠点の一つ。]]
|寄せ=
元々尾道市のサイクリング文化は貧弱だった{{r|inbound-shimanami-2011}}。[[西瀬戸自動車道]](しまなみ海道)で[[愛媛県]][[今治市]]と繋がり交流していく中で、そのノウハウが先行していた今治から伝播する形で尾道に定着した{{r|inbound-shimanami-2011}}。そして近年[[しまなみ海道サイクリングロード]]が呼び水となって外国人観光客が増加している{{r|inbound-shimanami-2011}}{{r|onoport}}。
|幅= 150px
|枠幅=
|1=Ryokai Mandala (Jodoji Onomichi).JPG
|2=浄土寺 絹本著色両界曼荼羅図
|3=Tenneiji Onomichi02s3872.jpg
|4=天寧寺 塔婆
|5=Onomichi bungaku-kinenshitsu01s3200.jpg
|6=文学記念室
}}
;国の重要文化財
* 浄土寺
** 浄土寺6棟・山門・阿弥陀堂・納経塔・宝篋印塔
** 絹本著色仏涅槃図
** 絹本著色両界曼荼羅図
** 木造十一面観音立像
** 木造聖徳太子立像
** 孔雀金経箱
** 孔雀文沈金経箱
** 紙本墨書観世音法楽和歌
** 紙本墨書定証起請文
** 紙本墨書浄土寺文書
** 紺紙金銀泥法華経巻第七
* 西國寺
** 金堂・三重塔
** 木造釈迦如来立像
** 木造薬師如来坐像
** 銅製五鈷鈴
** 錫杖
** 金銅五鈷鈴
* 天寧寺 塔婆
* [[西郷寺]] 本堂・山門
* [[常称寺 (尾道市)|常称寺]]
** 3棟・大門
** 紙本白描遊行上人絵
* [[光明寺 (尾道市東土堂町)|光明寺]] 木造千手観音立像


これに関連して、尾道駅の南側は老朽化した尾道港湾施設更新に加えてサイクリングロードの玄関口として、尾道ポートターミナルや県営の海運倉庫を民間でリノベーションした[[ONOMICHI U2]]などが整備され「サイクリングポート[[みなとオアシス]]尾道」として開場した{{r|onoport}}{{r|minatooasis}}。従来、尾道の観光客は尾道駅から北から北東側の山手側を回遊していたが、これらウォーターフロントの再開発により駅の南側にも人の流れができた{{r|nikkeibp20171008-2}}。
;国登録

* 文学記念室([[おのみち文学の館]])
<gallery>
* みはらし亭
Kalgan-dori Street near Onomichi Station Front Square 2.jpg|車道の左側に導線としてブルーラインが引かれている。
* 西山本館
Onomichi Station Pier of Mukaishima Ferry 2.jpg|尾道駅前渡船のりば
* [[竹村家]]
</gallery>
* 旧和泉家別邸


== 祭り ==
== 祭り・イベント ==
以下、旧市街地での主な祭り・イベントのみ列挙する<ref>{{Cite web|publisher=おのナビ|url=http://www.ononavi.jp/sightseeing/event/|title=祭り・イベント|accessdate=2015-12-11}}</ref>
''以下、[http://www.ononavi.jp/sightseeing/event/ 尾道市観光協会が紹介する旧市街地での主な祭り・イベント]を列挙する''


{{ external media
{{ external media
528行目: 621行目:
** 西國寺 柴燈護摩(火渡り神事)
** 西國寺 柴燈護摩(火渡り神事)
* 2月
* 2月
** 吉備津彦神社 節分祭
** 吉備津彦神社(一宮神社) 節分祭
** 西國寺 節分会
** 西國寺 節分会
* 3月から4月
* 3月から4月
** おのみち俳句祭り
** おのみち俳句祭り
** ([[しまなみ海道サイクリングロード#しまなみ縦走|しまなみ縦走]])
** 千光寺公園の花見
** 千光寺公園の花見
* 4月
* 4月
542行目: 636行目:
** 山脇神社 山王祭
** 山脇神社 山王祭
* 6月
* 6月
** 尾道本通り商店街 土曜夜店
** 久保八坂神社 祇園祭
** 久保八坂神社 祇園祭
** あじさいき
** 林芙美子像前 あじさいき
* 7月
* 7月
** 御袖天満宮 天神祭
** 御袖天満宮 天神祭
** 熊野権現神社 水尾町の水祭り
** [[おのみち住吉花火まつり]]
* 8月
* 8月
** [[吉和太鼓踊り]](西暦偶数年)
** (西暦偶数年)[[吉和太鼓踊り]]
* 9月
** [[おのみち住吉花火まつり]]
** 全国仮装大会inおのみち
* 10月
* 10月
** 尾道灯りまつり
** 尾道灯りまつり
** 浄土寺 尾道薪能
** 千光寺公園 尾道菊花展
** 千光寺公園 尾道菊花展
* 11月
* 11月
556行目: 655行目:
** [[お蔵出し映画祭]]
** [[お蔵出し映画祭]]


* 年中
== 食文化 ==
** 尾道七佛めぐり
** (週末の夜、祝日の前日・祝日)クレーンライトアップ

== 文化財 ==
{{See also|尾道市#観光}}
''ここでは[http://www.pref.hiroshima.lg.jp/site/bunkazai/bunkazai-area-area05.html 2021年時点旧市街地範囲内で国の文化財登録]されているものだけを列挙する。''

;国宝
<gallery widths="200px" heights="200px">
Onomichi Jodoji 05.JPG|[[浄土寺 (尾道市)|浄土寺]] 本堂。
Onomichi Jodoji 08.JPG|浄土寺 多宝塔。[[金剛三昧院]]・[[石山寺]]のものと共に日本三大多宝塔と言われる{{Sfn|向上計画2-1|p=46}}。
Fugen Enmei Jikoji.jpg|[[持光寺]] 絹本著色普賢延命像。
</gallery>

{{Vertical_images_list
|寄せ=
|幅= 150px
|枠幅=
|1=Ryokai Mandala (Jodoji Onomichi).JPG
|2=浄土寺 絹本著色両界曼荼羅図
}}
;国の重要文化財
* 浄土寺
** 浄土寺6棟・山門・阿弥陀堂・納経塔・宝篋印塔
** 絹本著色仏涅槃図
** 絹本著色両界曼荼羅図
** 木造十一面観音立像
** 木造聖徳太子立像(開山堂安置)乾元二年ノ銘アリ
** 木造聖徳太子立像(開山堂安置)
** 木造聖徳太子立像(南無仏太子像)
** 孔雀鎗金経箱
** 孔雀文沈金経箱
** 紙本墨書観世音法楽和歌
** 紙本墨書定証起請文
** 紙本墨書浄土寺文書
** 紺紙金銀泥法華経巻第七
* [[西國寺]]
** 金堂・三重塔
** 木造釈迦如来立像
** 木造薬師如来坐像
** 銅製五鈷鈴
** 錫杖
** 金銅五鈷鈴
* [[天寧寺 (尾道市)|天寧寺]] 塔婆
* [[西郷寺]] 本堂・山門
* [[常称寺 (尾道市)|常称寺]]
** 3棟・大門
** 紙本白描遊行上人絵
* [[光明寺 (尾道市東土堂町)|光明寺]] 木造千手観音立像

;国名勝
* 浄土寺 庭園

;国登録
* [[おのみち文学の館|旧福井家住宅]] 主屋・茶室・土蔵
* [[竹村家]] 主屋・門及び塀
* 旧高橋家住宅 主屋
* [[旧和泉家別邸]]
* [[みはらし亭]]
* [[西山旅館|西山本館]]
* [[長江浄水場]] 着水井・緩速ろ過池・配水池・ベンチュリー上屋
<gallery>
Onomichi bungaku-kinenshitsu01s3200.jpg|旧福井家住宅
Ryokan Nishiyama Honkan 2021-08 ac.jpg|西山本館
NAGAE Water Treatment Plant 1974.jpg|長江浄水場。1974年{{国土航空写真}}
</gallery>

この地は3つの[[日本遺産]]に認定されている。以下構成する文化財のうちこの地区、[[向島 (広島県)|向島地区]]を除いた本州側尾道市中心部にあるものを列挙する。
* [https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/stories/story014/ 尾道水道が紡いだ中世からの箱庭的都市]
** (国宝)浄土寺本堂及び境内地・多宝塔など、持光寺絹本著色普賢延命像
** (国重文)西郷寺本堂・山門・金堂・三重塔、常称寺本堂・観音堂・大門・鐘楼、天寧寺塔婆
** (県重文)西國寺仁王門
** (市重文)千光寺阿弥陀三尊像(磨崖仏)、旧尾道商業会議所(尾道商業会議所記念館)、旧尾道銀行本店(おのみち歴史博物館)
** (市名勝)爽籟軒庭園
** (市無形民俗)ベッチャー祭、吉和太鼓おどり
** (国登録)旧福井邸、竹村家、西山本館、みはらし亭
** (未指定)坂道と路地の景観、住吉祭
* [https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/stories/story036/ “日本最大の海賊”の本拠地:芸予諸島-よみがえる村上海賊“Murakami KAIZOKU”の記憶-]
** (国重文)光明寺の浪分観音、浄土寺宝篋印塔
* [https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/stories/story039/index.html 荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間 〜北前船寄港地・船主集落〜]
** (国宝ほか)浄土寺
** (未指定)港町尾道の町並み、住吉神社(尾道)の奉納物、厳島神社の玉乗り狛犬、尾道浦絵屏風

== 食 ==
一般的に認知されている、尾道の名のつく食文化は以下のとおり
一般的に認知されている、尾道の名のつく食文化は以下のとおり


562行目: 745行目:
* 尾道焼き - 尾道風の[[お好み焼き]]。『[[てっぱん]]』はこれを中心とした話である。
* 尾道焼き - 尾道風の[[お好み焼き]]。『[[てっぱん]]』はこれを中心とした話である。


観光協会は、港町であるため瀬戸内海の魚介類をメインとしている<ref>{{Cite web|publisher=おのナビ|url=http://www.ononavi.jp/eating/|title=食べる|accessdate=2015-12-11}}</ref>。また尾道の風情の中で古民家を改装したカフェが点在している<ref>{{Cite web|publisher=キナリノ|url=https://kinarino.jp/cat8-旅行・お出かけ/14723-尾道は素敵カフェの宝庫!散策途中に立ち寄りたいおすすめカフェ11選|title=尾道は素敵カフェの宝庫!散策途中に立ち寄りたいおすすめカフェ11選|accessdate=2015-12-11}}</ref>。
観光協会は、港町であるため瀬戸内海の魚介類をメインとしている<ref>{{Cite web|publisher=おのナビ|url=http://www.ononavi.jp/eating/|title=食べる|accessdate=2021-10-17}}</ref>。また尾道の風情の中で古民家を改装したカフェが点在している<ref>{{Cite web|publisher=キナリノ|url=https://kinarino.jp/cat8-旅行・お出かけ/14723-尾道は素敵カフェの宝庫!散策途中に立ち寄りたいおすすめカフェ11選|title=尾道は素敵カフェの宝庫!散策途中に立ち寄りたいおすすめカフェ11選|accessdate=2021-10-17}}</ref>。
<gallery>
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Onomochiramen2222333.jpg|尾道ラーメン
Onomochiramen2222333.jpg|尾道ラーメン
Yuyu-Onomichi.JPG|昭和初期からある銭湯を喫茶店として改装したもの{{Sfn|尾道市|向上計画 , 2 , 前半|p=56}}
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573行目: 755行目:
|幅= 200px
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|1=Onomichitosen1.jpg
|1=Onomichitosen1.jpg|2=尾道渡船
|3=Onomichi Fukumoto Ferry 02.JPG|4=福本渡船
|2=尾道渡船
|5=Mukaeshimaunkou.jpg|6=向島運航
|3=Utado1.jpg
|7=Канатная дорога в Ономити.jpg|8=千光寺山ロープウェイ
|4=歌戸運航
|5=Onomichibus skipline.jpg
|6=好きっぷライン
|7=Канатная дорога в Ономити.jpg
|8=千光寺山ロープウェイ
}}
}}
尾道市自体は、広域交通網として[[山陽自動車道]]・[[西瀬戸自動車道]]・[[中国横断自動車道]]が結ばれ「瀬戸内海の十字路」が形成されている。尾道市街地には山陽本線[[尾道駅]]・[[尾道糸崎港]]、郊外には山陽新幹線[[新尾道駅]]がある。ここでは特に、尾道特有の交通手段を列挙する。
尾道市自体は、広域交通網として[[山陽自動車道]]・[[西瀬戸自動車道]]・[[中国横断自動車道]]が結ばれ「瀬戸内海の十字路」が形成されている。尾道市街地には山陽本線[[尾道駅]]・[[尾道糸崎港]]、郊外には山陽新幹線[[新尾道駅]]がある。ここでは特に、尾道特有の交通手段を列挙する。


;渡船
;渡船
:対面の向島あるいは周辺の島々に渡る交通手段として渡船がある<ref name="onomichi0000012609" />。記録に残るものとしては江戸時代後期から整備され、明治・大正時代に向島・[[因島]]に造船所が出来ていくと渡船も増え最大で12航路存在した<ref name="onomichi0000012609" />。現代に入りしまなみ海道が整備されると廃航されていった<ref name="onomichi0000012609" />。以下、存在していた主な渡船を示す<ref name="onomichi0000012609" />
:対面の向島あるいは周辺の島々に渡る交通手段として渡船がある。記録に残るものとしては江戸時代後期から存在し、明治・大正時代に向島・[[因島]]に造船所が出来ていくと渡船も増え最大で12航路存在した{{r|onomichi0000003905}}{{r|onomichi0000012609}}
:初期(江戸時代)は船頭を乗せた手漕舟が無賃で、のち有料化され農産物による代価も可能であった。賃料1[[文 (通貨単位)|文]]銭時代は「一文渡し」と呼ばれた{{r|onomichi0000012609}}。1917年(大正17年)から発動機船への移行が進んだ{{r|onomichi0000012609}}。現代に入りしまなみ海道が整備されると廃航が続いた。以下、存在していた主な渡船を示す{{r|onomichi0000003905}}{{r|onomichi0000012609}}。
* 現航
* 現航
** [[尾道渡船]] : 旧「兼吉渡し」最古の渡し、土堂渡し場-向島町兼吉
** 南北ルート
*** [[尾道渡船]] : 旧「兼吉渡し」、土堂渡し場-向島町兼吉
** [[福本渡船]] : 旧「小浦渡し」「明神渡し」烏崎渡しを開いた福本氏が開設、土堂-向島町白石
*** [[福本渡船]] : 旧「小浦」、土堂-向島町白石
** [[向島運航]] : 旧「駅前」、尾道駅前-向島町富浜
*** [[向島運航]] : 旧「駅前渡船」、尾道駅前-向島町富浜
** それ以外
*** [[歌戸運航]] : 旧「歌渡し」、戸崎-向東歌

* 廃航
* 廃航
** 桑田渡し : 山波町桑田-向東町肥浜
** 南北ルート
*** 桑田渡し : 山波町桑田-向東町肥浜
** 小肥浜渡し : 尾崎-向東町肥浜
*** 小肥浜 : 尾崎-向東町肥浜
** 玉里 : 「東渡し」「浄土寺渡し」「ドック渡し」など、尾崎浄土寺下-向東町西谷
*** 玉里 : 「東渡し」「ドック渡し」など尾崎浄土寺下-向東町西谷
** 岸元 : 「彦ノ上渡し」、薬師堂浜-向東町彦ノ上
*** 岸元渡し : 「彦ノ上渡し」、薬師堂浜-向彦ノ上
** 烏崎渡し : 「廿五番渡し」「しまなみフェリー」、西御所-向西富浜
*** 烏崎 : 「廿五番渡し」、西御所-向島町西富浜
** 有井 : 「有井渡し」、西御所-向島町有井
*** 有井渡船 : 「有井渡し」、西御所-向島町有井
** それ以外
*** 津部田尾道間航路 : 尾道-吉和-岩子島-津部田
*** 立花尾道間航路 : 尾道-大町-干汐-立花


;広域航路
;[[おのみちバス]]
:[[瀬戸内クルージング]]が運行{{r|onomichi0000012609}}
:市内観光用の周回バス「好きっぷライン」がある<ref>{{Cite web|publisher=広島観光ナビ|url=http://www.kankou.pref.hiroshima.jp/sys/data?page-id=5355|title=尾道好きっぷライン|accessdate=2015-12-11}}</ref>。
*(生活) [[尾道糸崎港#尾道港区|尾道駅前桟橋]] - 尾道新浜 - [[重井港|重井東港]]([[因島]])- [[佐木港|須ノ上港]]([[佐木島]])- [[瀬戸田港|沢港]]([[生口島]]) - [[瀬戸田港]](生口島)
*(観光) 尾道駅前桟橋 - 十四日元町桟橋 - 鞆の浦


;[[千光寺山ロープウェイ]]
;[[千光寺山ロープウェイ]]
:昭和32年(1957年)開業<ref>{{Cite web|publisher=尾道観光協会 Facebook|date=2014-01-22|url=https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=715911061760052&id=343090379042124|title=『【昭和の尾道シリーズ】昭和32年ごろの千光寺公園のお花見風景』|accessdate=2015-12-11}}</ref>。長江口から千光寺山頂上を結ぶ。
:昭和32年(1957年)開業{{r|fb343090379042124}}。長江口から千光寺山頂上を結ぶ。


;[[尾道鉄道]]
;[[尾道鉄道]]
:近代に整備された[[軽便鉄道]]の通称「おのてつ」<ref name="onomichi0000003901" />。大正15年(1924年)4月尾道から[[御調町]]を結ぶ路線として開業、[[モータリゼーション]]の影響で昭和39年(1964年)廃業<ref name="onomichi0000003901" />
:近代に整備された[[軽便鉄道]]の通称「おのてつ」{{r|onomichi0000003901}}。大正15年(1924年)4月尾道から[[御調町]]を結ぶ路線として開業、[[モータリゼーション]]の影響で昭和39年(1964年)廃業{{r|onomichi0000003901}}

== ギャラリー ==
<gallery>
Senkoji Onomichi12n3872.jpg|千光寺境内から
Senkō-ji Temple in Onomichi 尾道 千光寺 - panoramio.jpg
尾道駅01.jpg|尾道駅と[[尾道城]]
Onomichi (14069387906).jpg
Onomichi, Hiroshima (15706089847).jpg|尾道本通り
Ichibangai.jpg|駅前本町一番街商店街
Onomichi E-no-machi street.JPG|尾道絵のまち通り
Onomichi (13905896630).jpg|蘇和稲荷神社
Onomichi senkoji-shinmichi01n3872.jpg|千光寺新道
JP34-Onomichi sloping path.jpg
Onomichi (14092476715).jpg
Stone Steps 尾道の石段 - panoramio.jpg
Sea under the Slope - panoramio.jpg
Onomichi machinami.jpg
</gallery>


== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
{{Reflist|2
|refs=
*<ref name="ononavihistory">{{Cite web|publisher=おのナビ|url=http://www.ononavi.jp/fan/history/|title=おのみちの年表|accessdate=2021-10-17}}</ref>


*<ref name="hb799">{{Cite web|publisher=ひろしま文化大百科|url=http://www.hiroshima-bunka.jp/modules/newdb/detail.php?id=799|title=尾道水道(おのみちすいどう)|accessdate=2021-10-17}}</ref>
== 参考資料 ==
*<ref name="gbank">{{Cite web|publisher=産業技術総合研究所|url=https://gbank.gsj.jp/seamless/2d3d/?center=34.4111,133.2050&z=13|title=20万分の1日本シームレス地質図|accessdate=2021-10-17}}</ref>
* [http://www.city.onomichi.hiroshima.jp/www/service/detail.jsp?id=3840 尾道市歴史的風致維持向上計画について] - 尾道市
*<ref name="kojiruien">{{Cite web |url=http://base1.nijl.ac.jp/~kojiruien/tibu2/frame/f000631.html|title=古事類苑>地部二十六>備後國>村里 |publisher=国文学研究資料館 |accessdate=2016-05-05}}</ref>
** {{Cite web|publisher=尾道市|url=http://www.city.onomichi.hiroshima.jp/open_imgs/service/0000026050.pdf|format=PDF|title=【分割版】尾道市歴史的風致維持向上計画(表紙・目次・第1章)|accessdate=2015-12-11|ref = {{sfnRef|尾道市|向上計画 , 1}}}}
*<ref name="NDLDC1170580">{{Cite book|和書|publisher =宇垣武治|title =沿線誌集成. 第1輯|url ={{NDLDC|1170580}}|date =1927|page=301-|accessdate = 2021-10-17}}</ref>
** {{Cite web|publisher=尾道市|url=http://www.city.onomichi.hiroshima.jp/open_imgs/service/0000026051.pdf|format=PDF|title=【分割版】尾道市歴史的風致維持向上計画(第2章前半)|accessdate=2015-12-11|ref = {{sfnRef|尾道市|向上計画 , 2 , 前半}}}}
*<ref name="hb461">{{Cite web|publisher=ひろしま文化大百科|url=http://www.hiroshima-bunka.jp/modules/newdb/detail.php?id=461|title=老松堂日本行録(ろうしょうどうにほんこうろく)|accessdate=2015-12-24}}</ref>
** {{Cite web|publisher=尾道市|url=http://www.city.onomichi.hiroshima.jp/open_imgs/service/0000026052.pdf|format=PDF|title=【分割版】尾道市歴史的風致維持向上計画(第2章後半)|accessdate=2015-12-11|ref={{sfnRef|尾道市|向上計画 , 2 , 後半}}|archiveurl=https://web.archive.org/web/20151222101944/http://www.city.onomichi.hiroshima.jp/open_imgs/service/0000026052.pdf|archivedate=2015年12月22日|deadlinkdate=2017年10月}}
** {{Cite web|publisher=尾道市|url=http://www.city.onomichi.hiroshima.jp/open_imgs/service/0000026053.pdf|format=PDF|title=【分割版】尾道市歴史的風致維持向上計画(第3章、第4章、第5章)|accessdate=2015-12-11}}
** {{Cite web|publisher=尾道市|url=http://www.city.onomichi.hiroshima.jp/open_imgs/service/0000026054.pdf|format=PDF|title=【分割版】尾道市歴史的風致維持向上計画(第6章、第7章、資料編)|accessdate=2015-12-11}}


*<ref name="onoport">{{Cite web|publisher=尾道市港湾振興課|url=http://www.onoport.jp/portguide/history.html|title=尾道港 歴史と沿革|accessdate=2021-10-17}}</ref>
* {{Cite journal|和書|author =小田靖之|date =1994-03|title =地方都市における景観形成の課題ー尾道市を事例としてー|journal = 第5回 研究集会報告書|publisher =広島大学大学院社会科学研究科附属地域経済システム研究センター|url =http://www-cres.senda.hiroshima-u.ac.jp/05-houkoku-05.pdf|format =PDF|accessdate =2015-12-11|ref = {{sfnRef|小田|1994}}}}
*<ref name="uminet">{{Cite web|publisher=瀬戸内・海の路ネットワーク推進協議会|url=https://www.uminet.jp/know/detail.php?id=22|title=瀬戸内海の歴史|accessdate=2021-10-17}}</ref>
* {{Cite book|和書|author =長沼賢海|publisher =尾道市教育会|title =尾道郷土史論|date=1932|url ={{NDLDC|1208969}}|accessdate =2015-12-11|ref = {{sfnRef|郷土史論|1932}}}}
*<ref name="nara-u">{{Cite journal|和書|author=松山 宏|publisher=奈良大学史学会|url=http://repo.nara-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/AN10086451-19891200-1001.pdf?file_id=1609|format=PDF|title=鎌倉時代の守護所|date=1989-12|accessdate=2015-10-29}}</ref>
*<ref name="masaie">{{Cite web|publisher=東山手|url=http://masaie.jp/rekisi/|title=其阿弥家の歴史|accessdate=2021-10-17}}</ref>
*<ref name="bingoomote">{{Cite web| title =畳表(びんご畳表)の歴史| publisher =広島県藺製品商業協同組合| url =http://bingoomote.d.dooo.jp/rekishi.htm|archivedate=2021-03-19|archiveurl=https://archive.is/VNT1X| accessdate =2015-12-24}}</ref>
*<ref name="ononavi555">{{Cite web|publisher=おのナビ|url=https://www.ononavi.jp/sightseeing/calendar/detail.html?detail_id=555|title=平成26年度尾道額ミュージアム・尾道遺跡発掘調査研究所出張展示会「戦国時代の尾道-荒木村重、備後尾道に落ちる」|accessdate=2021-10-17}}</ref>
*<ref name="rijo-castle">{{Cite web|publisher=広島城博物館|url=http://www.rijo-castle.jp/RIJO_HP/contents/05_history/01_history/r1_history02.html|title=福島氏の入国と改易|accessdate=2021-10-17}}</ref>
*<ref name="hiroshima-bunka655">{{Cite web|publisher=ひろしま文化大百科|url=http://www.hiroshima-bunka.jp/modules/newdb/detail.php?id=655|title=石州銀山道と尾道|accessdate=2021-10-17}}</ref>
*<ref name="kotobank30888">{{Cite web|publisher=コトバンク|url=https://kotobank.jp/word/出雲街道-30888|title=出雲街道|accessdate=2021-10-17}}</ref>
*<ref name="kitamaebune">{{Cite web|publisher=日本経済研究所|url=https://www.jeri.or.jp/center/treasure_box/pdf/kitamaebune.pdf|format=PDF|title=北前船の寄港地|accessdate=2021-10-17}}</ref>
*<ref name="hunk_sp02_67">{{Cite journal|和書|author=布川弘|publisher=広島大学|journal=日本研究 特集号|volume=2|url=http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/files/public/16019/20141016124425766532/nk_sp02_67.pdf|format=PDF|title=近世後期瀬戸内における「船後家」について|date=2003|page=68|accessdate=2021-10-17}}</ref>
*<ref name="cs4939">{{Cite web|publisher=佐渡市|url=https://www.city.sado.niigata.jp/site/bunkazai/4939.html|title=宿根木白山神社石鳥居|accessdate=2021-10-17}}</ref>
*<ref name="phh25zuroku">{{Cite web|publisher=広島県立文書館|url=http://www.pref.hiroshima.lg.jp/soshiki_file/monjokan/zuroku/h25zuroku.pdf|format=PDF|title= 「海の道」の近世」|accessdate=2021-10-17}}</ref>
*<ref name="lch1306">{{Cite web|publisher=広島中央図書館|url=https://www.library.city.hiroshima.jp/sp/news/chuou/2018/01/1306.html|title=浅野氏入城400年記念事業平成29年度歴史講座「江戸時代の広島~浅野家と広島藩~」(後期)第2回「広島藩の殖産興業政策」を開催しました|accessdate=2021-10-17}}</ref>
*<ref name="mogurindai02">{{Cite web|publisher=ひろしまWRB博物館|url=http://www.mogurin.or.jp/museum/hwm/details/tenzi05/9/t05_9_g1_dai02.html|title=芸備孝義伝 三編(広島市公文書館蔵)|accessdate=2021-10-17}}</ref>
*<ref name="jbrewsocjapan1915">{{Cite journal|和書|author1=広島財務局鑑定部|journal=日本釀造協會雜誌 Vol.39 |publisher=日本釀造学会|url=https://doi.org/10.6013/jbrewsocjapan1915.39.164|title=中國六縣酒造變遷發達の状況 (其二)|date=1944|pages=166|accessdate=2021-10-17}}</ref>
*<ref name="ku19940">{{Cite journal|和書|author=森本幾子|publisher=関西大学|journal=阡陵 : 関西大学博物館彙報|volume=55|url=https://kansai-u.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=19940&item_no=1&page_id=13&block_id=21|title=出雲藩屋敷と尾道商人 : 尾道・旧出雲藩屋敷跡を訪ねて|date=2007|page=4-5|accessdate=2021-10-17}}</ref>
*<ref name="higashiizumo_3ketsu">{{Cite web|publisher=松江観光協会|url=http://www.kankou-matsue.jp/about_matsue/rekishi/hito/higashiizumo_3ketsu/page1.html|title=陣幕久五郎|archivedate=2015-12-13|archiveurl=https://archive.is/YBUfY|accessdate=2021-10-17}}</ref>
*<ref name="ononavi1535332066">{{Cite web|publisher=尾道観光協会|url=https://www.ononavi.jp/upload/event/1535332066.pdf|format=PDF|title=第15回 尾道灯りまつり|accessdate=2021-10-17}}</ref>
*<ref name="pref41455">{{Cite web|year = 2009|url=http://ns2.pref.hiroshima.jp/uploaded/attachment/41455.pdf|format=PDF|title=藩から県へ―広島県の誕生―|publisher=広島県立文書館|accessdate=2015-12-11|deadlinkdate=2021-10-17}}</ref>
* <ref name="ononavi35">{{Cite web|publisher=おのナビ|url=http://www.ononavi.jp/fan/wandering/report.html?vol=2005&id=35|title=マニア泣かせ?またまた新観光スポット誕生!尾道歴史博物館 OPEN! |date=2005-05|accessdate=2021-10-17}}</ref>
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== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[竹原]] - [[御手洗 (呉市)]] - [[鞆の浦]]
* [[竹原]] - [[御手洗 (呉市)]] - [[鞆の浦]]
* [[尾道学]]
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* [[シネマ尾道]]
* [[ドビン]]
* [[ドビン]]


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2021年10月22日 (金) 07:18時点における版

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尾道(おのみち)は、広島県南東部、瀬戸内海に面する地。本項では旧尾道市市街地について述べる。

中世荘園大田庄の倉敷地として開かれ、近世広島藩の台所と呼ばれ、近代造船業が活気だった「港まち」「商人のまち」である[1][2]

中世に畿内との物流が始まり日明貿易朱印船貿易の港、近世に西国街道出雲街道石見銀山街道)の宿場・西廻海運の港、近代では国道2号山陽本線、現代ではこの近郊で尾道バイパス山陽新幹線山陽自動車道西瀬戸自動車道および中国横断自動車道が交わる「瀬戸内の十字路」である[3]

地元豪商や歴代守護者あるいは将軍足利氏による庇護・寄進により数々の神社仏閣が建立された「寺のまち」であり、尾道三山の峰を中心に神社仏閣、海に下るにつれ住宅地、そして商業地となり、尾道水道付近が港湾施設が形成された[1]。また地形的制約の中で市街地が拡大したことから、南は尾道水道まで、北は尾道三山の麓とくに神社仏閣の境内ギリギリまで人家が発達し、複雑に入り組んだ路地や坂道が形成された「坂のまち」である。そうした情景を多くの文人が作品に残し、現代では映画アニメなど映像メディアに重用される、「芸術文化のまち」である[1]

こうしたコンパクトな地形の中で発達し文化的に成熟したことにより風景は変化に富み「箱庭的」様相を呈する[4]

地理

瀬戸内海のほぼ中央[3]中国地方の広島県南東部にある。南側が水深約10m・幅は狭い所で約200mの一見すると河のような細長い海峡である尾道水道[5]、北側は尾道三山と言われる通称の千光寺山(大宝山/136m)・西國寺山(愛宕山・摩尼山/116m)・浄土寺山(瑠璃山/178m)に挟まれた、東西に伸びる細長い町である[6]。尾道水道を挟んで南側が芸予諸島の一つ、向島になる。

2010年国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成。
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2010年国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成。
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750 m
栗原川→
新尾道大橋→
←尾道大橋
尾道駅→
尾道水道
(千光寺山)
(西國寺山)
(浄土寺山)

気候は瀬戸内海式気候であり、降水量は比較的少なく温暖な気候が続く[7]

中国地方特有の地帯構造として、南西-北東方向つまり右肩上がりで山列・構造谷が発達しているが、尾道でもそれが見られる[8]。小起伏の山地・丘陵地の一部が急斜面で尾道水道に接し、また急斜面ぎりぎりまで市街地が発達している[8]。地質は、花崗岩と平野部が沖積層になる[9][6]。花崗岩質の山がフィルターとなり良質な地下水に恵まれていた[10]。沖積層は花崗岩風化残留土であるまさ土などで形成されており、市街地の久保町-三軒屋町付近で厚さ5mから30mとみられている[11]。中世から商業地として発展してきたことにより、沿岸部の埋立が進み海岸線が南へ移っていった。中世以前の海岸線と近世以降に埋立造成された土地では1mほどの高低差がある[12]

流れ込む河川は二級河川栗原川など小規模なものしか存在しておらず、河川が作った沖積平野が小さいため平地が乏しい[8]。尾道水道は、潮流が速い[6]。かつては栗原川から土砂が流出して河口で堆積し、その一部が満潮になると潮流によって東側へ運ばれ向島の東側では南から北へ潮流が流れるため山波沖で巨大な洲が生じた[13][2]。港の東西に浅瀬ができてしまうため、各年代で浚渫・埋立・築港してきた歴史がある[13][2]

由来

尾道の名の由来は、一般的には「山の尾の道」説が定説となっている。江戸時代に書かれた『芸藩通志』によると

尾道の名義詳ならず おもふに此地もとは海涯の地甚狹く 山足にそひて往來すれば 山の尾の道と云を以 名づけしにや 土人おもへらく 地もと玉を出す古歌に詠玉浦これなりと 海東諸國記に 尾路關とあり 圖書編 三才圖會 登壇必究 並に和奴密智と書す 皆此地を云なり — 『藝藩通志』三十三備後[14]
「玉の岩」と千光寺山ロープウェイ
映像外部リンク
千光寺の「玉の岩」伝説

かつてこの地は大宝山(千光寺山)摩尼山(西国寺山)瑠璃山(浄土寺山)の三山が海岸まで迫り平地がなく、海岸沿いつまりそれぞれの山の尾根沿いに一筋の道があったことから、この名がついたと言われている[15][16]。その他には、神功皇后が海に近い地にカラムシで道を作ったという伝承から「苧の道」を由来とする説[16]、比較的新しい説で司馬遼太郎が唱えた船の航路を意味するから「澪の道」が転訛した説[15]、その他にも説がある。

尾道の名が出てくる最古の資料は、永保元年(1081年)に書かれた『西國寺文書』の中の「尾道浦」である[17]

別名に、千光寺玉の岩伝説からきた「玉の浦」がある。ただし玉の浦は他の地とも言われている[18]。「尾路關」「和奴密智」の他に、宋希璟老松堂日本行録』には「小尾途津」[19]とある。

沿革

古代

古代尾道は、小さな集落として存在していた[17]。尾道の東にある松永湾縄文時代弥生時代貝塚跡が発見されており、尾道も同様にこの頃から人が住んでいたと推定されている[20][21]。また周辺島嶼の古墳時代の遺跡から製塩土器が大量に出土しており、この頃から周辺島嶼で塩作りが盛んに行われていた[20]

国郡里制下では備後国御調郡に属し、その中の者度郷の一部であったとされるが、諸説ある[22]飛鳥時代、郡の中心は尾道の北にある御調(尾道市御調町)にあり、そこには官道(古代)山陽道が通り駅家もあったとされる[20]。ただしこの地方では瀬戸内海での海路が発達し、庸・調税の輸送も海運が利用されるようになると、官道より海路が重要視されるようになる[20]8世紀から海路整備が始まり行基によりほぼ1日航程の間隔で港が整備され、この地の東に敷名泊(福山市)、西に長井の浦三原市)が整備された[23]。ただしこの時点では尾道は主要港として位置づけられていない。

山の通称にもなっている代表的な寺院は以下のとおり創建している。

浄土寺創建の伝承から、尾道には616年より前に港があったと考えられている[21]。 また御袖天満宮は、延喜元年(901年)大宰府へ左遷される途中の菅原道真がこの地に舟で立ち寄ったという伝承を元に起こった神社である[16][28][25]

港町の成立

平安時代、尾道は小さな漁村であったと考えられている[31]。平安時代後期、西國寺は火災により大半が消失したが、永保元年(1081年)白河天皇の勅命により復興され、永保2年(1082年)白河天皇の祈願所となった[32]。この西國寺復興を記した『西國寺文書』内に、文献上初めて尾道の名が出てくる[17]。天仁元年(1108年)西國寺は白河法皇(院政)により勅願寺官寺)となり、山陽道随一の伽藍を誇るようになった[32]

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150 km
紀伊湊
金剛峯寺
(大田庄)
.
尾道

尾道の北にある現世羅郡世羅町には平安時代に「大田庄」という荘園があり、平氏政権が樹立された時代平重衡の荘園だった[17][33][25]。ただ荘園からの年貢を運び出すための倉敷地(港)は存在していなかったため、下司は尾道を用いたいと嘆願を上げていた[16][17]永万2年(1166年)重衡は大田庄を後白河院寄進したことから院領荘園となり、嘉応元年(1169年)尾道が院により倉敷地として正式に認められた[17][33][25][31]。「港町」尾道の歴史はここから始まる[17][33][34][2]

文治2年(1186年)後白河院は大田庄を高野山金剛峯寺)に寄進、尾道も高野山領となる[17][25]。大田庄の年貢である米やゴマは、倉敷地である尾道で一旦保管され良い天候まで待ち、そこから船で高野山の港である紀伊湊まで運ばれていった[33]。また建久5年(1194年)高野山は大田庄へ半12帖貢納を命じており[35]、この頃から・畳(備後表)が作られていたことになる。これらの運搬は荘官の下で任務にあたっていた“問”“問丸”“舵取り”等呼ばれた海運業者が行っていた[33][31]文永7年(1270年)から尾道の港で独自に津料(関税)を徴収している[31]

海龍寺。かつては曼荼羅堂と呼ばれ定證が浄土寺中興の際に安居していた。寛元3年(1245)渕信は定證に寄進、徳治2年(1307)浄土寺塔頭となった[36]

寛元3年(1245年)高野山は尾道に和泉法眼淵信預所として派遣し、年貢米の輸送と管理にあたらせた[17][31]。淵信はここから30年近く尾道を管理し、弘安9年(1286年)浄土寺別当となっている[31][37]。この頃になると淵信は尾道で権力を持つとともに高野山の意思とは別に独自に動き出して莫大な富を得ていた[33][17][37]。ただ淵信は正安2年(1300年)公文百姓から訴えられ預所から退いている[37]。荒れ果てた浄土寺が西大寺定証によって中興されるのはこの時期である[37][38]

中世の尾道は、現在の尾道本通りあたりが海岸線だった[39]。長江・十四日と久保の2つに入江があり、入江を中心に港町が形成された[39]。遺物の出土状況から、13世紀から14世紀初頭の尾道の中心地は、浄土寺や西國寺を後背に持つ坊地口周辺であったと考えられている[17]。入江の集落から傾斜地の寺社に向けて小路が繋がっていた[39]。この頃から尾道は港町として大きく発展し、有力な海運業者や商人が出現した[17]。そして海賊(交易品を強奪する盗賊ではなく水先人として通行料を得ようとするもの)が現れ、中には地元有力者と結びつくものも現れた[33][37][40]

備後守護所鎌倉時代初期には瀬戸長和庄(福山市)にあり、長井貞重が治めていた[37]文保2年(1318年)西国悪党を鎮圧する目的で京都(六波羅探題)から使節が尾道に派遣されたが、雑掌はそれを拒否した[37]。使節は翌文保3年(1319年)に帰洛するが、その1ヶ月後に悪党がいるとして守護貞重は尾道に代官円清高を派遣した[37]。このときの尾道の人口は5,000人を超えており[34]、代官清高らは数々の悪行をし、仏閣社殿数カ所と政所・民家1,000戸あまりを焼き払った[37]。高野山が院に守護貞重の狼藉を訴えたことで収まった[37]。のちに長井氏は守護所を尾道に置いた[37]

中世の繁栄

持光寺山門。この寺は承和年間(834年 - 848年)慈覚大師により草創。この山門の建立年度は不明で元々は鐘楼が乗っていたと考えられている。36枚の花崗岩からなり、尾道の石工を代表するものである[41][42][43]
浄土寺山門。浄土寺の寺紋が足利氏の二引両であり、この山門の側面に二引両が刻まれている。この寺に足利尊氏により利生塔が建立されたが現存せず。境内には尊氏供養塔といわれる宝篋印塔がある[44][45][46]

鎌倉時代の尾道における交易品は塩や鉄・布製品など[47]。この当時から商人だけでなく刀鍛冶や石工など職人も暮らしていた[40]。中国山地で生産された鉄(たたら製鉄)が沼田小早川氏の三原(三原市)まで運ばれ刀鍛冶として育っていき、小早川氏等への供給による利潤獲得のため尾道でも刀鍛冶が行われるようになった[47]天平年間(729年から749年)から創業した“其阿弥家”は現在でも存続している[48]。当時から近年まで鍛冶業が盛んであったとわかっている[40]。また石工が発達したのは鎌倉時代後期から室町時代にかけてで、現在重要文化財に指定されている宝篋印塔や五輪塔にはこの時代に造られている[40][49]。また問丸(海運業者)は他領の年貢輸送も行っており利益を得ていた[34]

建武3年(1336年)、建武の新政後九州に落ち延びる足利尊氏は途中で浄土寺に参拝、再び京へ東上(建武の乱)の途中にまた浄土寺に参拝し戦勝祈願している[17][25]。尊氏が(福山市)で光厳上皇院宣を獲得し勢力を拡大していったのは、この後のことになる。この鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて、幕府の弱体化によりこの地の守護や海賊たちが力をつけ独立し、尾道の周辺にも砦そして城が造られた[50]。現在尾道で行われている吉和太鼓おどりの起源は諸説あるが、一説には尊氏が尾道から九州に向かうときに水先案内人を務めたのが吉和の漁師たちで、尊氏の戦勝を祝って踊ったのが始まりとされている[45]

応安4年(1371年)今川了俊の紀行文『道ゆきぶり』によると、この時代の尾道は漁師町を主体とした港町であったこと、現在のように山と海に挟まれた狭小地に民家が密集していた[31][33]。対岸の歌島(向島)沿岸部では製塩が盛んであった[33]。港には陸奥筑紫から交易船が来ていた[31][33]。歌島(向島)や生口島など周辺島嶼部で生産された塩などの物産を取り扱うことで、尾道はさらに交易港として発展した[51]。現代になって行われた発掘調査から、沿岸部の埋め立て・土地造成は室町時代から活発化したことがわかっている[17]

この地は中国地方を勢力下においた山名氏が支配していたが明徳の乱室町幕府に敗れ没落した。この頃、将軍足利義満天寧寺に宿泊[52]応永2年(1395年)義満は備後大田庄含めた6個郷地頭職、そして尾道・倉敷を高野山西塔へ寄付している[25]応永の乱の手柄により再び山名氏が守護として返り咲くと、尾道は山名氏領内の重要港として発展していく[33]

日明貿易が始まり、尾道にも遣明船が停泊、中には尾道船籍のものも存在していた[33]。発掘調査において、この年代の地層から瀬戸焼常滑焼備前焼東播須恵器のほか、中国青磁白磁、朝鮮陶磁器も出土していることから、かなりの規模の商業活動が行われていたと考えられている[17][40][47]

この時代に、将軍足利氏による新たな建立や西國寺が守護山名氏の庇護で再建されるなど「寺のまち」の基盤が形成され、商人たちは彼ら権力者の庇護を受けつつ尾道を自治運営していた[31][53][33]。特に現在時宗の寺院が6ヶ寺あるのも尾道の特徴である[17]

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中世の海岸線
(長江・十四日)
(久保)
(坊地口)

天寧寺
塔婆

常称寺
本堂/観音堂/大門

西郷寺
本堂/山門

西國寺
金堂/三重塔
.

浄土寺
多宝塔/本堂/阿弥陀堂/山門
中世の建築物が現存する寺院[54]。中世には長江・十四日と久保に入江があった。尾道本通り付近がかつての海岸線であり、15世紀から16世紀前半には埋め立てられ道として整形されていた[39][55]

室町後期から戦国時代までの間、豪族や海賊が武力で台頭していく下克上の時代である。この地を掌握できる位置にいくつか城が築かれている[50]。またこの時代この地域の特色として因島を拠点とした因島村上氏(村上水軍)の存在がある[33]。尾道水道の中間部の島、現在は丘陵として向島と陸続きとなっている小歌島地区は“宇賀島衆”と呼ばれた海賊の拠点で、商船から関料を徴収していたが滅ぼされ、のち村上水軍の支城となったとされている[33][50]。 これらの勢力は中国覇権を目指した毛利氏の傘下となった[62][34]

近世の栄華

戦国時代後期、尾道は毛利氏の支配下に置かれた[47]。毛利氏は自分の家臣を配置したのではなく、尾道の豪商たちと私的な主従関係を結ぶことで尾道を支配した[47][64]。文禄4年(1595年)毛利氏は商人の中から代官を決め、商人による自治は続いた[62][47]花隈城の戦いで敗れ毛利氏へ亡命してきた荒木村重が尾道で隠遁しており、古寺の庵で茶の湯を嗜んだと伝わる(尾道へのわび茶文化の伝来)[65][66]。尾道の商人は豊臣秀吉朱印船貿易にも絡み[67]文禄・慶長の役の際には尾道の商人が船を出し輸送に関わっている[25]

江戸時代、この地は広島藩領となる。尾道は藩内随一の港町「広島藩の台所」として最盛期を迎える[62][68][34]

「町」の制定
江戸時代初期、藩により農業区域として“村”と商工業区域として“町”に明確に区別された[25][69]。慶長6年(1601年)福島氏福島正則)による検地で尾道は町に定められた[69]。のち福島氏は改易され浅野氏が入封すると、浅野氏は福島氏藩政を踏襲し補強する形で藩整備を進めた[69]寛永15年(1638年)浅野氏による検地で町方「尾道町」が定められた[25][69]
当初は5人の豪商から町年寄を、その下に12組60人の月行司を選出し、堺・京都・博多などと同様に商人による自治行政が行われていた[62][47]。藩政改革「正徳新格」に伴い正徳5年(1715年)尾道に町奉行が置かれその下に商人から選出された町年寄・組頭・月行司を再編成することになり、藩権力の下ではあったが町人による町政は続いた[62][34][47]
官道整備
近世の街道[70]を2015年時点の地図に示したもの。赤線が西国街道、青線が出雲街道、黒丸が防地峠。なお西国街道は尾道本通り、出雲街道のほとんどが広島県道363号栗原長江線と一致する。西国街道筋の常称寺南の現久保2丁目と現尾道郵便局前に枡形が残っている[63]
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赤名
大森
出雲
尾道
銀座
.
銀座
出雲街道の碑。「出雲大社道」「本道三十七里」「近道三十三里」
長江の道標。「左 いづも往来」「右 天満宮道」[71]
福島氏は近世山陽道「西国街道」も再整備を行い、この時から街道は瀬戸内海沿岸に移され尾道の町中に通ることになった[72][69]。尾道は中世から沿岸の埋立が進んだため近世初期には道を通すことができるようになっていた[72]。のち広島藩領は浅野氏が治め、新たに水野氏による備後福山藩が興ると、譜代大名である福山藩と外様大名である広島藩の国境として、元和5年(1619年)尾道の東にある防地峠に関所が設けられている[73]寛永10年(1633年)までに街道に一里塚が置かれるなど整備が完了し、同年には幕府から公式の宿駅に指定された[25][39]
また幕府直轄領となった石見銀山から銀を運ぶため、1610年代に銀山奉行大久保長安により石見銀山街道が整備される[73][74]。整備当初はまだ海路より陸路のほうが安全であったためであり、石見から運ばれた銀は尾道で船に積み込まれ大阪まで運ばれていった[25][74]。この道は途中赤名峠で分岐し出雲へ向かうルートとしても整備されたことから、『芸藩通志』では「石見路出雲赤名超」[73]、尾道では特に「出雲街道」と呼ばれている[75][39]。それにより尾道は山陰地方との人・物流の交流点となった[34][73]
西廻海運による交易
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45 km
広島
玉島
上関
椋浦
竹原
宮島
御手洗
.
尾道
周辺の主な港[76]。赤が広島藩の港。
尾道の位置(日本内)
尾道
尾道
尾道
尾道
尾道
尾道
尾道
尾道
尾道
尾道
尾道
尾道
尾道
西廻海運の主な寄港地[67][76]
江戸時代初期、徳川家康の朱印船貿易で恩恵を受けたが、徳川家光が制定した鎖国制度以降海外交易が禁止されたため、商人たちは弱体化し没落した豪商も出た[67]
寛文12年(1671年)、西廻海運、つまり北海道東北地方を起点に日本海から瀬戸内海をまわり大阪そして江戸に至る海運ルートが確立し、尾道には北前船など廻船が寄港するようになる[34][68]。これにより商業圏が拡がり全国的な取引が可能となり、新たな豪商が台頭した[72][67]。この北前船との交易によって、尾道は広島城下より繁栄し広島藩の台所と呼ばれるようになった[51]
主な取り扱い品は以下のとおり。
他から尾道へ 尾道から他へ
  • 米 -- 広島藩の年貢米の積出港であった。広島藩ものは質量共に良く、大阪でブランド米として流通した[10][78]
  • -- “備後塩”と呼ばれた主力交易品。備後ものは元々中世から畿内で需要が高かったことに加えて、近世から北海道や北陸で特産品となった塩干魚の加工に必要となったため、更に需要が高まった。江戸時代初期、広島藩により竹原竹原市)で塩田が整備されたが廻船での交易で需要量が増えていくと更に商人たちによって尾道周辺の島々で塩田が整備され、“浜旦那”と呼ばれた塩田の地主・経営者が誕生している[67][68][72][79][51][13]
  • -- “備後表”。福山藩・広島藩ともに公用表(幕府への献上表など)として生産しており、民間流通分である商用表は広島藩では尾道のみで出荷されていた。なお畳表・塩・魚介・他国米の取引などは、福山藩の主要港である鞆と競合関係にあった[35][67][68][72][13][71]
  • 綿、綿製品 -- 広島藩は新田開発とともに殖産興業を推進した。干拓で造成された土地には塩に強い綿花を植えることが奨励されたことにより、綿製品の生産量が上がり特産品“安芸木綿”として流通した。加工しない状態でも取引されていた[67][80][78]
  • 石材加工品 - 尾道で中世から盛んだった石工はこの時代にも名産品だった。また荷を降ろした北前船は、帰りは軽くなるためバラストとして大きな花崗岩を積んでおり、そこで石工職人は船で一緒に移動して当地で加工した[67][72][81][82][49]
  • -- 刀鍛冶は中世から盛んだったが、太平の世となった江戸時代に平和産業への転換が図られた。その中で“尾道錨”という名産品を生み出した。北前船の錨にも用いられた[67][68][62][51]
  • -- 尾道での酢の製造は安土桃山時代に堺から職人を呼び寄せて始まっている。尾道三山は良質な水を生み出していたこと、そして江戸時代に入り年貢米が大量に流通していたことから、これを原料として“尾道酢”が特産品となった[67][68][72][10]
  • -- 酢と同様に、良質な水と大量に流通していた米を原料に酒が製造された[68][10]。ただし近世においてこの付近の酒造の中心地は三原であった[83]
力石。沖仲仕あるいは沖背とよばれた港湾荷役作業員が年に一度、力自慢対決を行った。抱えた人の栄光を称えるため名が刻まれている。現在住吉神社、西國寺、妙宣寺、尾道市立美術館横などにある[67][84]
出雲屋敷跡。出雲松江藩は尾道に出張所を設け尾道の商人に藩米の売却にあたらせた。近世に尾道三山の斜面側に寺社以外で唯一あった建物(#坂のまち参照)。のち豪商が茶園「柳陰亭」を建て、近代に個人の別荘となった。別子銅山煙害における被害者住民と住友本店との損害賠償交渉“千光寺会談”が行われた場所になる(#近現代参照)。現在は旅館にリノベーションされている[85][86][87][88]

尾道は山にも海にも通じた便利な場所となり、日本各地から様々な商品を運んだ船がやってきて、尾道の商人は中継交易して他の地へ売りさばいていった[89]。港の活性化とともに、豪商によって沿岸部の浚渫と埋立および築港が進められた[68][2][39]。大規模な埋立は広島藩営でも行われ、できた土地は商人に払い下げられるが藩は工事費より高く売ったため差額は藩財政を潤した[2]。港湾利用者のため花街が形成された[2]。北前船の荷主や船頭を問屋が接待するのに用いられ、たくさん北前船が来た時には芸者が足りなくなり、しかもこれがたびたびあったという[2]

こうして、海沿いが港湾施設、平地が西国街道沿いを中心に商家・町家、そして尾道三山の斜面側に神社仏閣、とゾーン分けがこの時代に定まり、街道から北の斜面地の寺社そして南の海をつなぐ小路がいくつもでき、町割りの多くが現在でも尾道の町でそのまま引き継がれている[39][90]

江戸時代中期になると市場経済の拡大により尾道は更に活況し新興豪商が台頭するも、古い商人との対立が増え秩序が乱されるようになった[72][91]。そして尾道の東隣になる福山藩の港・鞆との競合も激しくなっていった[72]。それに伴い尾道は港として信用が落ち停滞するようになる[72][92]。藩は尾道のこの状況を危惧した[72]元文5年(1740年)、第13代尾道奉行平山角左衛門が着任すると、流通機構の改革を進めた[68][2][72]。ちょうど町民により港の拡張要望が出されていたころで、平山は着任早々藩の事業として「住吉浜」埋立工事を行っている[68][2]。平山自ら陣頭指揮に当たったこと、人夫に賃金を与えたことから、多くの人がこの工事に参加したため、すべての工事を50日間という短期間で終えている[68][2][62]。その他にも“問屋役場”を設立されそれまで慣例化していた掟を問屋掟として明文化、株仲間を藩公認とした[93][62][68]。明和元年(1764年)広島藩札の価値が暴落し商業活動が困難となると、商人たちにより資金融通機関“問屋座会所”が設立された[62][62]

尾道水道を縦断する渡船の最古の記録は、寛政から文化年間(1789年から1817年)に“兼吉渡し”が出来たものになる[94]。これは現在の尾道渡船にあたる[94]

一方で、泰平の世となり海賊の心配がなくなったことに加え廻船の操船技術の向上により、陸地側を通る“地乗り”航路から瀬戸内海中央部を通る“沖乗り”航路が主流となっていくと、御手洗や倉橋(呉市)など島嶼の港町の取引量が上がった[77][72]。こうなると広島藩は交易港としての尾道を軽視するようになる[92]。また19世紀に入ると広島藩は領内の特産品を買い上げ大阪で売る専売制政策を始めると同時に特産品の流通統制を始めると、商人の淘汰がすすんだ一方で多角経営化に成功した豪商が現れた[92]。ただ藩の統制はのちに藩内にハイパーインフレを招いてしまい、藩の金融経済は悪化した[78]

文化4年(1807年)悪病が流行する(ベッチャー祭りの起源)[25]

広島県立文書館所蔵の『青木茂旧蔵文書』内に文化5年から文政13年(1808年-1830年)尾道の組頭が旅人の滞在願いをまとめた帳面が残っている[91][13]。それによると大坂三郷からの行商人が最も多く、次いで備中・播磨・安芸とつづき、遠くでは長崎・越後・飛騨・江戸からも来ていた[91][13]。上方からは本の行商、植木屋、浄瑠璃・座敷噺などの芸能者が多いため、様々な上方文化が尾道に伝播していたことになる[13]

豪商の寄進により寺院は最盛期で81カ寺が造影されていたという[95][96]。多くの寺社は尾道に観光客を呼び寄せた[92]。現在では25カ寺が点在する[96]

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.
現在の主な寺社[70]

近現代

近代に入り、欧化政策により産業構造が変化する[34]。近世に廻船での交易で栄えた港町の中には、近代以降汽帆船と鉄道の登場により存在意義がなくなり衰えていく[102]。ただ尾道は新たな交通・産業により引き続き商業地として発展していく。

明治4年(1871年)廃藩置県後、広島県御調郡尾道町となる[25]。この時期、「御調県」構想と尾道を県庁所在地とする案が浮上している。当時、尾道は広島県の東端で、それより東側の福山は小田県に属していた[103]広島県庁舎は当初広島城内に置かれていたが、広島鎮台発足と仮庁舎の火事により移転を繰り返していた[103]。明治6年(1873年)伊達宗興県令は県庁を尾道に移し広島県を御調県と改称する計画を立て、大蔵省に提出した[103]。これに前島密大蔵官僚は県として手狭になることと無暗に移転することを嫌がり、強く否定したことにより実現しなかった[103]。明治31年(1898年)4月、県下2番目の市制施行、「尾道市」となる[25]。尾道の代表的な景観・観光地である千光寺公園が出来たのは同じ頃で、明治36年(1903年)地元商人三木半左衛門が整備し市に寄贈した[104]

ここで、尾道に山陽鉄道(山陽本線)が登場する。山陽鉄道はルートを5案計画した中で、経済的理由から市街地を貫通する案を進めた[105]。商業区域を二分し寺社の参拝道が奪われることになる計画案は当初から反対が多く反対運動が起こり町を二分して白熱し、ほぼ1年かけて調停が行われた[105]。様々な問題を解決し明治24年(1891年)10月、福山駅尾道駅間が開通した[105]。明治45年(1911年)には軽便鉄道尾道鉄道」も開通する[105]。中世以来の港町に“海の路”に加えて鉄道という新たな“陸の路”が備わることで、陸海交通の要所となり更に商業地として発展していった[106]。そして新たな物流手段が出来たことにより新たな豪商が生まれ、さらにこの鉄道が尾道の景観を一変させる(下記坂のまち参照)[34][105]

尾道は、少なくとも明治時代までは広島県随一の商業地であった。「銀行浜」と呼ばれた当時県内随一の金融街があった[108]。明治12年(1879年)広島県初の国立銀行として「第六十六国立銀行」が銀行浜で設立する[25][109][87]。のち広島市にも第百四十六国立銀行が設立されるが、尾道の国立銀行のおよそ半分の規模のものだった[109][87]。明治29年(1896年)には「尾道貯蓄銀行」、後の尾道銀行も銀行浜で設立する[108]。なおこれらの銀行の後身は広島銀行であり、つまり広銀の歴史で見れば創業地は尾道ということになる[109]

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尾道

尾道は住友家とも関係がある。明治6年(1873年)住友家は「住友尾道分店」を開設、明治25年(1892年)「住友尾道支店」に格上げする[106][87][12]。その前年に神戸から尾道まで山陽鉄道が開通しており、住友家が経営していた別子銅山の玄関口となっていたことから、住友尾道支店で銅山の物品調達と並合業(自己資金による物品抵当の金融事業)を行うことになった[106][87][12]。そして、明治28年(1895年)5月住友尾道支店にて、合議制を初導入した第一回住友家重役会議いわゆる“尾道会議”が行われ、“住友銀行ヲ興ス事”つまり住友銀行の創業が決まり、同年11月住友本店銀行部が大阪で開業した[106][87][12]。当時住友家の主要業だった銅山の中継基地だった尾道で、新たな主要業となる銀行の発足を決めたということになる。その際に住銀は神戸と尾道に初の支店を設けており、現在も三井住友銀行尾道支店として存続している[12]。その他にも、明治42年(1909年)には別子銅山の煙害被害者と住友本店との初めての正式交渉いわゆる“千光寺会談”が行われ、翌年賠償契約を締結している[87][110]。大正2年(1913年)、住友肥料製造所(現住友化学)が新居浜で開業した際には、尾道が荷揚げ・荷捌きの港となった[87]。なお令和2年(2020年)竣工の尾道市役所庁舎の設計は日建設計であり、その前身は住友本店臨時建築部になる[106]

昭和4年(1929年)尾道都市計画区域図。当時の市域になる。
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昭和4年(1929年)尾道都市計画区域図。当時の市域になる。
映像外部リンク
昭和初期の映像 - RCCテレビ60年特別配信『ひろしま 戦前の風景』
第1回尾道みなと祭 - 昭和10年(1935年)
千光寺公園の花見 -昭和10年(1935年)ころ
千光寺公園ドライブ - 昭和12年(1937年)ころ
桜と尾道鉄道 - 昭和12年(1937年)ころ
日本泳法(古式泳法) - 昭和13年(1938年)
夏の鞆・福山・尾道 - 昭和15年(1940年)ころ
昭和22年(1947年)米軍撮影。市街地の中で縦長に伸びる町屋がいくつかあるが、これは江戸時代の町割[34]。対岸側は日立造船でドックが見える。中央やや左が向島ドック。左下、沿岸の方形の広い土地は塩田である。そこから上の対岸に尾道駅がある。駅の左端から上に伸びる太い道に尾道鉄道が通っていた。

近世での尾道の特産はそのまま近代・現代にも受け継がれた。例えば塩は専売制となり大蔵省専売局尾道専売支局が置かれた以降も製造していた。尾道酢は、大正時代には満州・台湾・朝鮮にまで輸出されており、昭和30年代には広島銀行頭取橋本龍一キユーピー役員廿日出要之進の偶然の出会いからキユーピーマヨネーズの原料酢に使われていた[10]

近代から現代にかけて、この地域の産業の中心となったのは向島・因島での造船業である[2]。これらの島では中世では村上水軍の勢力下で、近世では商人用の廻船として船製造が行われており、近代になり木造船から鉄造船に移行すると、島で育まれた造船技術と尾道において中世から受け継がれていった鍛冶の技とが結びつき飛躍的に発展した[111]。因島では明治29年(1896年)土生船渠合資会社が、向島では明治39年(1906年)松場鉄工所、瀬戸田では大正4年(1916年)山陽造船が最初に起業し、以降日立造船系(現ジャパン マリンユナイテッド)・尾道造船系・内海造船系の3つに集約されている[111]日露戦争第一次世界大戦第2次世界大戦朝鮮戦争と戦争による特需活況と戦後の不況、その後も好況不況を繰り返したなかで成長していった[111]

この造船に活気だつ島へ尾道からの交通手段として渡船が最大で12箇所まで増えていくことになるが、現代に入り広域交通が整備される中で規模が縮小されていった[94]

昭和2年(1927年)西隣三原の糸崎港とあわせ尾道糸崎港として第2種重要港湾に指定され、昭和13年(1938年)尾道中央桟橋・西御所物揚場などが整備された[3][21]。更に昭和28年(1953年)尾道糸崎港は重要港湾に指定された[3][21]

そして、戦後の広域道路網整備は昭和43年(1968年)尾道大橋開通から始まり、平成27年(2015年)に山陽自動車道西瀬戸自動車道中国横断自動車道が結ばれた。昭和63年(1988年)山陽新幹線新尾道駅が開業、駅前再開発に合わせ平成11年(1999年)尾道駅が平成12年(2000年)尾道糸崎港が再整備された。

まちづくりの取り組み

千光寺公園から望む尾道と向島。
向島から対岸北側の千光寺山を望む。

現在尾道市全体で見ると、少子高齢化がすすみ空き家が発生している[1]。市街地でも同様で、特に斜面地では災害対策やバリアフリー問題など生活環境に問題がある[1]。一方で尾道は数年ごとにブームが起こる観光都市でもある[112]。都市開発による急激な変化を望まないものもいる。尾道市主導の開発の幾つかは市民の抗議により頓挫しており、平成に入り2度高層マンション計画が上がったが、1度目は署名活動を展開した市民団体が用地を買い取り現在はMOU尾道市立大学美術館となり、2度目は市民の抗議活動を受けて市が用地を買い取り公園になった[1][113][114]

これらを受け、尾道市は景観を重視するようになる。景観法に基づく景観行政団体となり市街地を景観地区に指定、2007年には全国に先駆けて「尾道市景観条例」を制定、歴史まちづくり法施行に伴い尾道市は「歴史的風致維持向上計画」を作成し、市街地を「尾道・向島歴史的風致地区」として重点区域に指定した[1][114]

こうした中で国による日本遺産選定の際に尾道市が作成した「尾道水道が紡いだ中世からの箱庭的都市」というストーリー案が認められ、2015年広島県初の日本遺産認定となった[114][115]

風景

尾道は、南北を山と海に挟まれ東西に細長い土地に港町・商都・門前町として栄え、そして太平洋戦争末期に空襲を受けていないため、中世から現代までの建物・文化財が混在し、多くの魅力的な観光資源の間を細い路地と石段・石垣が張り巡らされ、特徴的な情景を醸し出している。大林宣彦は「根っからのスクラップアンドビルドの町」と表現している[113]

坂のまち

浄土寺参道。山陽本線をアンダーパスする。
浄土寺参道。山陽本線をアンダーパスする。
千光寺新道。大正時代に商人が茶園(別荘)を築いた際に石垣・石段などが整備され[116]、現代に入り再整備された。
千光寺新道。大正時代に商人が茶園(別荘)を築いた際に石垣・石段などが整備され[116]、現代に入り再整備された。

現在の尾道旧市街地の景観が形成された過程は以下のとおり。

  1. 尾道水道側から商業地・住宅地が形成。
  2. 浄土寺山・西国寺山・千光寺山の尾道三山を中心に神社仏閣が創建。
  3. 市街地中心部および尾道三山の麓近くを山陽鉄道(山陽本線)が通ったことにより南北に町が分断される。

山手側にはかつて神社仏閣以外の建物は存在していなかった。江戸時代に初めて出雲藩の出張所“出雲屋敷”が建てられた[85][86]。江戸後期になると千光寺山斜面地に豪商が「茶園」とよばれた別邸を建てた[117]

明治に入りそこに山陽本線が通ることにより景観は一変した。尾道三山の麓近くの寺社のいくつかは敷地に線路が通ることになり、参道に踏切あるいはアンダーパスが設けられることになってしまった[105]。特に常称寺は境内が二分された[118]。また鉄道が通る事になると山手側への住宅建築が許可され、線路により立ち退きに迫られた住民が移っていった[105]。これに加え、鉄道開通に絡んで商売に成功し財を成したものが、風光明媚な山手側に別荘を建てていった[105][119]

こうして、線路の山側が中近世の建造物の周辺に近現代に建てられた和風あるいは和洋折衷住宅(群)が立地し、その間を細い路地と坂道が複雑に伸びる「坂のまち尾道」が形成された[105][118]。逆に線路より南側は近世に宿場町・商業地だった町割を色濃く残し[39]、尾道本通り(旧西国街道)を基準に縦長の土地区画(鰻の寝床)に小路が張り巡らされ、近世からの名残を残す商家と近現代的な建物が混ざり合う商業地に、海岸沿いの港湾施設が立地している。

芸術文化のまち

尾道は古くから多くの文人芸術家を輩出してきた。また多くの文人が訪れ、風光明媚な景色を見て自身の作品に残している。

ぬばたまの 夜は明けぬらし 玉の浦に あさりする鶴 鳴き渡るなり — 読人しらず、『万葉集』第15巻

『万葉集』の中にある遣新羅使の歌である。この歌は一般には岡山県玉島のこととされているが、尾道のことを歌ったとする説も存在する[121]

応安4年(1371年)今川貞世(了俊)が九州探題として下向していた時に書かれた紀行文『道ゆきぶり』の中に当時の尾道が出てくる[33]

この所のかたちは北にならびて、あさぢ深く岩ほこりしける山あり。ふもとにそひて家々所せくならびつつ、あみほすほどの庭だにすくなし。西よりひんがしに入うみとをく見えて、朝夕しほのみちひもいとはやりかなり。風のきをひに従ひて、行くる舟のほかげもいとおもしろく、遥なるみちのくつくし路のふねも多くたゆたゐたるに、・・・・ — 今川了俊、道ゆきぶり[33][4]
露滴庵[34]

浄土寺に「露滴庵」という茶室がある。これは元々伏見城内に豊臣秀吉が所有していた茶室“燕庵”を様々な経緯を経て尾道の商人天満屋が海物園に移設した所、文化11年(1814年)浄土寺に寄進したというもの[34][122]。つまり、安土桃山時代に花開いたわび茶文化が尾道にも伝播していたことを意味する[93]

尾道の茶文化は江戸時代後期に「茶園」、邸宅内あるいは尾道三山斜面地の風光明媚な場所に作られた茶室や庭園、を生み出した[93][123][117]。この茶園には多くの文人が訪れ、例えば頼山陽菅茶山田能村竹田浦上春琴らは作品を残している[93][123]。山陽はたびたび尾道を訪れ、文政12年(1829年)千光寺山に登った時に詩を作った。

磐石可坐松可拠(磐石坐す可く松拠る可し)
松翠缺処海光露(松翠缺くる処海光露わる)
六年重来千光寺(六年重ねて来たる千光寺)
山紫水明在指顧(山紫水明指顧に在り)
萬瓦半暗帆影斜(萬瓦半ば暗くして帆影斜なり)
相傳残杯未傾去(相傳う残杯未だ傾け去らず)
回首苦嘱諸少年(首を回らして苦に諸少年に嘱す)
記取先生曽酔処(記取せよ先生曽て酔いし処と) — 頼山陽、[124]

正岡子規は、日清戦争の従軍記者として尾道を通った時に一句残している。

のどかさや 小山つづきに 塔二つ — 正岡子規、[124]
志賀直哉が描写した尾道水道と向島。
志賀直哉が描写した尾道水道と向島。

近代文学では、志賀直哉暗夜行路』と林芙美子放浪記』が特に著名。

志賀は尾道で暗夜行路の前身にあたる『時任謙作』を起稿、『清兵衛と瓢箪』を執筆している[125][119]

景色はいい処だった。寝ころんでいて色々な物が見えた。前の島に造船所がある。其処で朝からカーンカーンと金槌を響かせている。同じ島の左手の山の中腹に石切り場があって、松林の中で石切人足が絶えず唄を歌いながら石を切り出している。その声は市まちの遥か高い処を通って直接彼のいる処に聴えて来た。 — 志賀直哉、暗夜行路[82]
林芙美子文学碑。左の文章が刻まれている。背後の尾道水道とロープウェーと共に尾道を代表する風景である。
林芙美子文学碑。左の文章が刻まれている。背後の尾道水道とロープウェーと共に尾道を代表する風景である。
旧林芙美子居宅、おのみち林芙美子記念館
旧林芙美子居宅、おのみち林芙美子記念館

若年期を尾道で過ごした林の放浪記にも尾道は出てくる。

海が見えた。海が見える。五年振りに見る尾道の海はなつかしい、汽車が尾道の海へさしかかると、煤けた小さい町の屋根が提灯のように、拡がって来る。赤い千光寺の塔が見える。山は爽やかな若葉だ。緑色の海向うにドックの赤い船が帆柱を空に突きさしてる。私は涙があふれていた。 — 林芙美子、放浪記[124]
尾道市立美術館新館。安藤忠雄の設計[126]

尾道出身の芸術家としては平田玉蘊宮原節庵福原五岳など(圓鍔勝三は御調、平山郁夫は瀬戸田、矢形勇は原田出身)。

洋画家小林和作は、尾道に移り住み創作活動を続け、自身が得意とした風景画に尾道を描いた。 和作以外にも尾道の風景の描いた画家は多くおり、尾道市はその写生地に案内目印を建て整備している[127]

『東京物語』原節子笠智衆。浄土寺で撮影。なお右の灯籠は尾道最古の灯籠で同地に無く浄土寺経堂前に移設されている[128][129]
撮影中の原節子と小津安二郎。当時地方ロケは珍しかったため多くの見物人が訪れた[128]

最初に尾道が舞台となった映像作品は、1929年公開木藤茂波浮の港』になる[130]

代表的なものとして小津安二郎東京物語』が挙げられている[130]。世界的に評価の高いこの作品は海外にもファンが多く、ロケ地見物に観光客が訪れている[128][131]。ただ映画公開当初は、尾道を象徴する風景がなかったため、尾道の人々は拍子抜けしたという逸話がある[128]

若い頃尾道で暮らしていた新藤兼人はたびたびロケをしており、出世作となった『裸の島』を始め、『悲しみは女だけに』『かげろう』『落葉樹』で用いている[130]。『石内尋常高等小学校 花は散れども』では小津の『東京物語』に登場する竹村家で撮影している[132]

そして大林宣彦の『転校生』『時をかける少女』『さびしんぼう』『ふたり』『あした』『あの、夏の日』の尾道三部作/新尾道三部作の6作品[130][97]。尾道出身の大林は、名所だけでなく歩きにくい山道など何気ない故郷の原風景、なにより坂のまち尾道をそのまま作品に活かした[113]

NHK連続テレビ小説では『うず潮』『てっぱん』で舞台となった[25]

近年は舛成孝二かみちゅ!』や小林俊彦ぱすてる』、『龍が如く6 命の詩。』などアニメ・漫画・ゲームなどの舞台にもよく使われる。

石のまち

尾道の地盤はほぼ花崗岩で形成されている[6][82]。花崗岩は風化しやすく加工しやすい特性がある。尾道の自然は長い年月をかけ特異な形をした巨石群を生み出し、幾つかには伝説が生まれ名がつけられた。そして加工しやすい石は中世から尾道の石工文化を育んでいき、石材加工品である石段・石塔・石像・狛犬などで尾道を飾った[82]

猫のまち

画像外部リンク
広島県観光課
広島 CAT STREET VIEW 第1弾 --尾道篇-- コンセプトムービー / Hiroshima Cat Street View "Onomichi" - Concept Movie
【猫目線動画】猫の細道 坂 / 広島 CAT STREET VIEW 尾道編
【猫目線動画】千光寺坂 / 広島 CAT STREET VIEW 尾道編

尾道は魚の美味しい港町であることから、猫にとって住みやすいところである[136]。そこで猫をテーマとした新たな観光資源を発掘している。

観光協会は、市街散策コースに艮神社そばの福石猫で飾られた「猫の細道」や「招き猫美術館」など猫をテーマとしたものを加えた[136]。2017年尾道市立美術館で開催された「猫まみれ展」において、企画展に入ろうとする猫とそれを防ぐ警備員とのやりとりがSNS上で話題となり、美術館の名が世界的に知られるようになった[137]

空き家再生

旧和泉家別邸、通称尾道ガウディーハウス。2007年から始まった空き家再生プロジェクトのシンボル[138]

2015年時点で南斜面地の山手側に立つ民家1,200戸のうち300戸以上が空き家であるという[114]。少子高齢化による住民減少、景観地区であるため用途が条例により制限されていること、傾斜地・細い道と施工が困難なことに加え接道義務を満たせないことから新築するにはハードル高すぎるためである[114]

一方で古い町並みを残す雰囲気に憧れ、地価も安いため既存の建物を改修する選択肢があること、空き家再生プロジェクトとして市やNPO団体から支援が行われていることから、移住希望者が増えている[114]

自転車

昭和18年(1943年)竣工の西御所物揚場にある県営倉庫、現ONOMICHI U2。尾道側のサイクリング拠点の一つ。

元々尾道市のサイクリング文化は貧弱だった[140]西瀬戸自動車道(しまなみ海道)で愛媛県今治市と繋がり交流していく中で、そのノウハウが先行していた今治から伝播する形で尾道に定着した[140]。そして近年しまなみ海道サイクリングロードが呼び水となって外国人観光客が増加している[140][21]

これに関連して、尾道駅の南側は老朽化した尾道港湾施設更新に加えてサイクリングロードの玄関口として、尾道ポートターミナルや県営の海運倉庫を民間でリノベーションしたONOMICHI U2などが整備され「サイクリングポートみなとオアシス尾道」として開場した[21][141]。従来、尾道の観光客は尾道駅から北から北東側の山手側を回遊していたが、これらウォーターフロントの再開発により駅の南側にも人の流れができた[142]

祭り・イベント

以下、尾道市観光協会が紹介する旧市街地での主な祭り・イベントを列挙する。

映像外部リンク
祭りの様子
火渡り神事
西國寺 節分会
さくら茶会
浄土寺 春観音まつり
尾道みなと祭
あじさいき
天神祭
おのみち住吉花火祭り
吉和太鼓踊り
尾道灯りまつり
ベッチャー祭
千光寺公園の桜
ベッチャー祭りのベタ(ベッチャー)
  • 1月
    • 西國寺 柴燈護摩(火渡り神事)
  • 2月
    • 吉備津彦神社(一宮神社) 節分祭
    • 西國寺 節分会
  • 3月から4月
  • 4月
    • 千光寺公園 さくら茶会
    • 浄土寺 春観音まつり
    • 西國寺 弘法大師正御影供
  • 5月
  • 6月
    • 尾道本通り商店街 土曜夜店
    • 久保八坂神社 祇園祭
    • 林芙美子像前 あじさいき
  • 7月
    • 御袖天満宮 天神祭
    • 熊野権現神社 水尾町の水祭り
  • 8月
  • 9月
  • 10月
    • 尾道灯りまつり
    • 浄土寺 尾道薪能
    • 千光寺公園 尾道菊花展
  • 11月
  • 年中
    • 尾道七佛めぐり
    • (週末の夜、祝日の前日・祝日)クレーンライトアップ

文化財

ここでは2021年時点旧市街地範囲内で国の文化財登録されているものだけを列挙する。

国宝
浄土寺 絹本著色両界曼荼羅図
浄土寺 絹本著色両界曼荼羅図
国の重要文化財
  • 浄土寺
    • 浄土寺6棟・山門・阿弥陀堂・納経塔・宝篋印塔
    • 絹本著色仏涅槃図
    • 絹本著色両界曼荼羅図
    • 木造十一面観音立像
    • 木造聖徳太子立像(開山堂安置)乾元二年ノ銘アリ
    • 木造聖徳太子立像(開山堂安置)
    • 木造聖徳太子立像(南無仏太子像)
    • 孔雀鎗金経箱
    • 孔雀文沈金経箱
    • 紙本墨書観世音法楽和歌
    • 紙本墨書定証起請文
    • 紙本墨書浄土寺文書
    • 紺紙金銀泥法華経巻第七
  • 西國寺
    • 金堂・三重塔
    • 木造釈迦如来立像
    • 木造薬師如来坐像
    • 銅製五鈷鈴
    • 錫杖
    • 金銅五鈷鈴
  • 天寧寺 塔婆
  • 西郷寺 本堂・山門
  • 常称寺
    • 3棟・大門
    • 紙本白描遊行上人絵
  • 光明寺 木造千手観音立像
国名勝
  • 浄土寺 庭園
国登録

この地は3つの日本遺産に認定されている。以下構成する文化財のうちこの地区、向島地区を除いた本州側尾道市中心部にあるものを列挙する。

一般的に認知されている、尾道の名のつく食文化は以下のとおり

観光協会は、港町であるため瀬戸内海の魚介類をメインとしている[144]。また尾道の風情の中で古民家を改装したカフェが点在している[145]

交通

尾道渡船
尾道渡船
福本渡船
福本渡船
向島運航
向島運航
千光寺山ロープウェイ
千光寺山ロープウェイ

尾道市自体は、広域交通網として山陽自動車道西瀬戸自動車道中国横断自動車道が結ばれ「瀬戸内海の十字路」が形成されている。尾道市街地には山陽本線尾道駅尾道糸崎港、郊外には山陽新幹線新尾道駅がある。ここでは特に、尾道特有の交通手段を列挙する。

渡船
対面の向島あるいは周辺の島々に渡る交通手段として渡船がある。記録に残るものとしては江戸時代後期から存在し、明治・大正時代に向島・因島に造船所が出来ていくと渡船も増え最大で12航路存在した[2][94]
初期(江戸時代)は船頭を乗せた手漕舟が無賃で、のち有料化され農産物による代価も可能であった。賃料1銭時代は「一文渡し」と呼ばれた[94]。1917年(大正17年)から発動機船への移行が進んだ[94]。現代に入りしまなみ海道が整備されると廃航が続いた。以下、存在していた主な渡船を示す[2][94]
  • 現航
    • 尾道渡船 : 旧「兼吉渡し」最古の渡し、土堂渡し場-向島町兼吉
    • 福本渡船 : 旧「小浦渡し」「明神渡し」烏崎渡しを開いた福本氏が開設、土堂-向島町白石
    • 向島運航 : 旧「駅前渡船」、尾道駅前-向島町富浜
  • 廃航
    • 桑田渡し : 山波町桑田-向東町肥浜
    • 小肥浜渡し : 尾崎-向東町肥浜
    • 玉里渡船 : 「東渡し」「浄土寺渡し」「ドック渡し」など、尾崎浄土寺下-向東町西谷
    • 岸元渡し : 「彦ノ上渡し」、薬師堂浜-向東町彦ノ上
    • 烏崎渡し : 「廿五番渡し」「しまなみフェリー」、西御所-向島町西富浜
    • 有井渡船 : 「有井渡し」、西御所-向島町有井
広域航路
瀬戸内クルージングが運行[94]
千光寺山ロープウェイ
昭和32年(1957年)開業[146]。長江口から千光寺山頂上を結ぶ。
尾道鉄道
近代に整備された軽便鉄道の通称「おのてつ」[105]。大正15年(1924年)4月尾道から御調町を結ぶ路線として開業、モータリゼーションの影響で昭和39年(1964年)廃業[105]

脚注

  1. ^ a b c d e f g 向上計画1, p. 2.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 第10回企画展示 「港まち尾道」” (PDF). 尾道商業会議所記念館. 2021年10月17日閲覧。
  3. ^ a b c d 向上計画1, p. 10.
  4. ^ a b c 石造物編 2018, p. 1.
  5. ^ 尾道水道(おのみちすいどう)”. ひろしま文化大百科. 2021年10月17日閲覧。
  6. ^ a b c d 向上計画1, p. 11.
  7. ^ 向上計画1, p. 12.
  8. ^ a b c 島野 2020, p. 101.
  9. ^ 20万分の1日本シームレス地質図”. 産業技術総合研究所. 2021年10月17日閲覧。
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参考資料

関連項目

外部リンク