長井貞重
時代 | 鎌倉時代 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 不詳 |
官位 | 掃部助、縫殿頭 |
幕府 | 備後国守護、六波羅評定衆 |
主君 | 惟康親王、久明親王、守邦親王 |
氏族 | 大江姓長井氏 |
父母 |
父:長井頼重 母:不詳 |
兄弟 | 貞重、運雅、貞頼 |
子 | 高広、勝深 |
長井 貞重(ながい さだしげ[1]、文永9年(1272年)[注釈 1]- 元徳3年2月12日[1][注釈 1][5](1331年3月21日))は、鎌倉時代後期の人物、鎌倉幕府の御家人[1][5]。長井氏の庶流、六波羅評定衆家(泰重流)の当主。
概要
[編集]長井頼重の子として生まれる[1][5]。のち元服に際して、北条氏得宗家当主(鎌倉幕府第9代執権)の北条貞時より偏諱を受け[注釈 1]、貞重と名乗る。
長井氏一族は、嫡流である長井泰秀の系統が関東に住したのに対し、庶流であった泰重の系統は京都に住して六波羅探題の下で評定衆を務めるなど重要な地位を占めていた[6]。
泰重の孫にあたる貞重[5]も京都に住し、父・頼重から評定衆と備後国守護職を引き継いだ[1][5][7]。これらに加え、生涯の間で掃部助、縫殿頭に任官さた[1][注釈 1]。
主な活動としては、永仁3年(1295年)と嘉元2年(1304年)の小五月会流鏑馬に加わっており[1]。文保2年(1318年)2月には六波羅の使者(東使)として、関東申次を務める西園寺家に赴き、公武の折衝役を務めた[1][5]ことが伝わっている。これよりまもなく元応2年(1320年)の段階では貞重が備後守護であった[7]ことが確認できる。
『常楽記』によれば、元徳3年(1331年)2月12日に60歳で死去したという[注釈 1]。
弟に長井貞頼[8][9]と長井運雅[9]、子には長井高広(たかひろ)と、僧となった勝深(しょうしん、平左衛門督律師)がいた[9]ようだが、評定衆は弟の貞頼が継いでおり[9]、理由は不明ながら家督は貞頼の系統に移ったものとみられる。貞頼の系統は後に毛利氏より養子を受けて安芸福原氏となった。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ a b c d e 長井氏泰重流の歴代当主については生没年等を伝える史料が残っていないためその元服時期を推定することは難しいが、『常楽記』元徳3年2月12日条に「長井縫殿頭他界。貞重六十」と貞重が60歳で死去したことが窺え、その元服時期を1281年~1286年と推定することができ、貞重がその当時の得宗家当主・北条貞時と烏帽子親子関係を結んだと考えることができる。よって、その名前からして泰重が泰時、頼重が時頼、貞重が貞時、高広が高時、といったように、嫡流(泰秀流)と同様に北条氏得宗家当主と烏帽子親子関係を結んでいたことが言える[2]。貞重の生没年については服部 1995, p. 418にも同様の言及がなされている。長井氏は大江広元の次男・時広を始祖とする鎌倉幕府の有力御家人であり[3]、時広の子・泰重の系統も北条氏得宗家の烏帽子親関係による一字付与による統制下にあったことが窺える[4](→北条氏#北条氏による一字付与について)。
出典
[編集]- ^ a b c d e f g h 安田 1990, pp. 431–432, 下山忍「長井貞重」
- ^ 紺戸淳「武家社会における加冠と一字付与の政治性について」『中央史学』2号、1979年、p.15系図・16-17。
- ^ 「長井氏」『世界大百科事典』(第2) 。
- ^ 山野龍太郎 著「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」、山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』思文閣出版、2012年、163頁。ISBN 978-4-7842-1620-8。
- ^ a b c d e f 「長井貞重」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』 。
- ^ 安田 1990, p. 433, 下山忍「長井泰重」
- ^ a b 西ヶ谷 1998, p. 215.
- ^ 「長井貞頼」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』 。
- ^ a b c d 服部 1995, p.417 系図T-1