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2021年3月22日 (月) 03:31時点における版
公爵(こうしゃく、英: Duke、羅: Dux、独: Herzog)は、爵位(五爵)の第1位である。侯爵の上位に相当する[1]。ヨーロッパの貴族の称号の訳語、古代中国の諸侯の称号、また明治以降から戦前まで使われた日本の華族の称号として用いられる。
概要
日本ではこの「公」によって(英語の場合であれば)princeとdukeの両方の称号を表そうとしたため混乱を生じることとなった。princeは基本的には小国の君主や諸侯、王族の称号であり、dukeは諸侯の称号である。日本語では、例えばモナコやリヒテンシュタインの君主、マルタ騎士団長などのprinceを「公」ではなく「大公」と訳すことで「公爵」(duke)との区別をつけようとする場合がある。ただし、こうして便宜的に使用された場合の「大公」は、ルクセンブルクの君主がもつ称号grand dukeやロシア等のgrand prince、オーストリアのarchdukeと区別される必要が改めて生じてくる。逆に、日本の華族制度における「公爵」の公式英訳にはdukeではなくprinceが当てられたが、たとえば伊藤博文や近衛文麿の爵位が英米ではprinceと訳されることとなり、皇族と誤解されるような場合があった[要出典]。
日本語では侯爵と発音が同じであることから区別する必要があるときは「おおやけ-こうしゃく」と呼ばれた。
中国の公爵
西周時代に設置された爵について、『礼記』には「王者之制緑爵。公侯伯子男凡五等」とあり、「公」は五つある爵の最上位に位置づけている[2]。一方で『孟子』万章下には「天子之卿、受地視侯、大夫受地視伯、元士受地視子男。」とあり、公の表記はない[3]。『礼記』・『孟子』とともに侯は公とともに百里四方の領地をもつものと定義している[3]。また『春秋公羊伝』には「天子は三公を公と称し、王者之後は公と称し、其の余大国は侯と称し、小国は伯・子・男を称す」という三等爵制が記述されている[4]。金文史料が検討されるようになって傅期年、郭沫若、楊樹達といった研究者は五等爵制度は当時存在せず、後世によって創出されたものと見るようになった[5]。王世民が金文史料を検討した際には公侯伯には一定の規則が存在したが、子男については実態ははっきりしないと述べている[6]。
漢代においては二十等爵制が敷かれ、「公」の爵位は存在しなかったが、特に身分の高い三つの官職は三公と呼ばれた。魏の咸熙元年(264年)、爵制が改革され、公の爵位が復活した。「公侯伯子男」の爵位は列侯や亭侯の上位に置かれ、諸侯王の下の地位となる[7]。食邑は郡公なら一万戸で諸侯王に並び、県公なら千八百戸、七十五里四方の土地が与えられることとなっている[7]。その後西晋でも爵位制度は存続し[8]、恵帝期以降には公・侯の濫授が行われた[8]。このため東晋では恵帝期の爵位を格下げすることも行われている[9]。
南北朝時代においても晋の制度に近い叙爵が行われている。隋においては国王・郡王・国公・県公・侯・伯・子・男の爵が置かれ、唐においては王・開国国公・開国郡公・開国県公・開国侯・開国伯・開国子・開国男の爵位が置かれた[10]。
主要な中国の公爵
咸熙元年の五等爵制発足時には、公となったのは司馬氏の長老である司馬孚であり、晋王朝成立後は諸侯王となった[11]。その他では魏皇帝の外戚二名が公となっており、発足時点では公は3名のみであった[12]。三公であった王祥・鄭沖、そのほかの重臣賈充、石苞、衛瓘、裴秀、何曾たちが侯となったが、晋王朝成立後はいずれも公となっている[13]。またこの際には魏の諸侯王たちが公に格下げされている[14]。
呉から降伏した孫秀、歩璿も公に叙せられている[14]。太康の役の論功行賞としては、王渾が公となっている[15]。
以降西晋期には宰相であった張華[16]、前涼の基盤を作った張軌[17]などが公となっている。東晋では建国に功のあった王導と、後に反乱を起こした王敦[18]、前秦からの防衛に成功した謝安[19]、武将の陶侃[20]。そして東晋を滅ぼし宋を建国した劉裕[21]などがいる。
唐においては太宗即位後に長孫無忌、高士廉(義興郡公)などの功臣が公となっている[10]。 また宋代以降、孔子の直系である当主は衍聖公の爵位を受け、清末まで続いた。
日本の公爵
律令制下
日本では、律令制下において、太政大臣経験者に対して令制国を与えて公爵とする国封という制度があった。
華族令
明治維新後の1884年(明治17年)に華族令(明治17年宮内省達)が制定され、華族制度が定められた。同令第2条において、華族を世襲制の公侯伯子男の五等爵とし、公爵はその第1位とした。1889年(明治22年)に、貴族院令(明治22年勅令第11号)が制定されると、公爵は同令第1条2号により、公爵たる者は貴族院議員となる資格を与えられることが規定された(華族議員)。1907年(明治40年)には、華族令(明治40年皇室令第2号)が制定され、襲爵、華族の品位その他の手続きが細かく規定された。
叙爵内規
公爵は以下の基準(「叙爵内規」)によって授けられた。
- 皇族 - 親王・王より臣位に列せられた者。このような内規はあったが、実際に臣籍降下によって公爵を与えられた例はない。
- 公家 - 旧摂関家。公家社会でも最高位に属するとされ、摂政・関白に昇る資格を持っていた家柄である。近衛家、九条家、二条家、一条家、鷹司家の計5家。
- 武家 - 徳川宗家(徳川将軍家)。徳川家達家がこれにあたる。1家のみ。
- 勲功者 - 国家に偉勲ある者。これは3種に大別できる。
- 「偉勲」がなくとも華族たる資格を持っていた家のうち、功績が加味されて本来よりも高い爵位を与えられたグループ。三条家(三条実美の功績)、岩倉家(岩倉具視の功績)、島津家(旧薩摩鹿児島藩主家)、毛利家(旧長門萩藩主家)の4家がこれにあたる。また、後年侯爵から陞爵した西園寺家(西園寺公望の功績)、徳大寺家(徳大寺実則の功績)、水戸徳川家(『大日本史』編纂の功績)の3家もこれに含めて考えられる。
- 本家がすでに公爵となっているにも関わらず、その人物の特別な功績が認められて別に家を立てることを許され、さらに公爵位を授けられたグループがある。具体的には、藩主ではなかったがその後見人として幕末の薩摩藩に大きな影響を与えた島津久光とその子孫(玉里島津家)、大政奉還後に養子の徳川家達に家督を譲って隠棲した江戸幕府第15代将軍の徳川慶喜とその子孫(徳川慶喜家)の2家である。
- 家系によらず、初代の勲功によって公爵となったグループ。伊藤博文の伊藤家、大山巌の大山家、山縣有朋の山縣家、松方正義の松方家、桂太郎の桂家の五家である。いずれも子爵ないし伯爵の爵位を受け、その後、更に勲功により陞爵したものである。
有爵者一覧
家名(通称等) | 受爵者 襲爵者 |
旧家格 出自 |
叙爵年 所在 その他備考 |
---|---|---|---|
近衛家 | 近衛篤麿 近衛文麿 |
旧摂関家 藤原北家嫡流 |
1884年(明治17年)7月7日、叙爵。 1945年(昭和20年)12月16日、返上。 東京市淀橋区下落合 |
鷹司家 | 鷹司熙通 鷹司信輔 |
旧摂関家 藤原北家嫡流 |
1884年(明治17年)7月7日、叙爵。 東京市麹町区上二番町 |
九条家 | 九条道孝 九条道実 九条道秀 |
旧摂関家 藤原北家嫡流 |
1884年(明治17年)7月7日、叙爵。 東京市赤坂区赤坂福吉町 |
一条家 | 一条実輝 一条実孝 |
旧摂関家 藤原北家嫡流 |
1884年(明治17年)7月7日、叙爵。 東京市赤坂区福吉町 |
二条家 | 二条基弘 二条厚基 二条弼基 |
旧摂関家 藤原北家嫡流 |
1884年(明治17年)7月7日、叙爵。 東京市牛込区津久戸前町 |
三条家(転法輪家) | 三条実美 三条公美 三条実憲 三条公輝 三条実春 |
旧清華家 藤原北家閑院流嫡流 |
1884年(明治17年)7月7日、叙爵。 東京市麻布区麻布鳥居坂町 |
徳川家(徳川宗家) | 徳川家達 徳川家正 |
旧将軍家 清和源氏と称するが明確でない。 |
1884年(明治17年)7月7日、叙爵。 東京市渋谷区千駄ヶ谷 |
毛利家 | 毛利元徳 毛利元昭 毛利元道 |
旧萩藩主 大江氏 |
1884年(明治17年)7月7日、叙爵。 東京市芝区高輪南町 |
島津家(島津宗家) | 島津忠義 島津忠重 |
旧鹿児島藩主 清和源氏と称する(本来は惟宗氏)。 |
1884年(明治17年)7月7日、叙爵。 東京市麹町区三年町 |
島津家(玉里家) | 島津久光 島津忠済 島津忠承 |
島津宗家分家 清和源氏と称する(本来は惟宗氏)。 |
1884年(明治17年)7月7日、叙爵。 |
岩倉家 | 岩倉具定 岩倉具張 岩倉具栄 |
旧羽林家 村上源氏 |
1884年(明治17年)7月8日、叙爵。 東京市麹町区裏霞ヶ関 |
徳川家(徳川慶喜家) | 徳川慶喜 徳川慶久 徳川慶光 |
徳川宗家別家 清和源氏と称するが明確でない。 |
1902年(明治35年)6月3日、叙爵。 東京市小石川区小日向第六天町 |
伊藤家 | 伊藤博文 伊藤博邦 伊藤博精 |
旧萩藩出身 越智氏と称するが明確でない。 |
1907年(明治40年)9月21日、侯爵より陞爵。 |
山縣家 | 山縣有朋 山縣伊三郎 山縣有道 山縣有信 |
旧萩藩出身。 清和源氏と称するが明確でない。 |
1907年(明治40年)9月21日、侯爵より陞爵 |
大山家 | 大山巌 大山柏 |
旧鹿児島藩出身 近江源氏 |
1907年(明治40年)9月21日、侯爵より陞爵。 |
徳大寺家 | 徳大寺実則 徳大寺公弘 徳大寺実厚 |
旧清華家 藤原北家閑院流 |
1911年(明治44年)4月21日、侯爵より陞爵。 |
桂家 | 桂太郎 桂広太郎 |
旧萩藩出身 大江氏 |
1911年(明治44年)4月21日、侯爵より陞爵。 |
西園寺家 | 西園寺公望 西園寺八郎 |
旧清華家 藤原北家閑院流 |
1920年(大正9年)9月7日、侯爵より陞爵。 1946年(昭和21年)7月1日 返上。 |
松方家 | 松方正義 松方巖 |
旧鹿児島藩出身 | 1922年(大正11年)9月18日、侯爵より陞爵。 1927年(昭和2年)12月19日、返上。 |
徳川家(水戸家) | 徳川圀順 | 旧水戸藩主 清和源氏と称するが明確でない。 |
1929年(昭和4年)11月18日 、侯爵より陞爵。 |
イギリスの公爵
イングランドに確固たる貴族制度を最初に築いた王は征服王ウィリアム1世(在位:1066年-1087年)である。彼はもともとフランスのノルマンディー公であったが、エドワード懺悔王(在位:1042年-1066年)の崩御後、イングランド王位継承権を主張して1066年にイングランドを征服し、イングランド王位に就いた(ノルマン・コンクエスト)。重用した臣下もフランスから連れて来たノルマン人だったため、大陸にあった貴族の爵位制度がイングランドにも持ち込まれることになった[22]。
イングランドの公爵(Duke)は、伯爵(Earl)と男爵(Baron)に続いて創設された爵位だった。1337年にエドワード3世(在位:1327年-1377年)が皇太子エドワード黒太子にコーンウォール公爵(Duke of Cornwall)位を与えたのが公爵の最初である。続いて1351年に同じくエドワード3世がヘンリー3世(在位:1216年-1272年)の曾孫であるヘンリーにランカスター公爵(Duke of Lancaster)位を与えたことで公爵位が貴族の最上位で王位に次ぐ称号であることが明確化した[23]。
臣民に公爵位が与えられた最初の事例は、1483年にリチャード3世(在位:1483年-1485年)よりノーフォーク公爵(Duke of Norfolk)を与えられたジョン・ハワードである(もっとも彼も先祖を遡れば王族にたどり着く)[24][25]。
その後、臣民の公爵位はステュアート朝期(特に王政復古後の最初の国王チャールズ2世時代)に急増した。ハノーファー朝期にも公爵位の授与が行われ、最も多い時期には40家の公爵家が存在した。しかし家系の断絶でその数は減少していった[26]。2021年現在臣民の公爵家は24家にまで減っている。
またジャコバイトの王位請求者たちが創設したジャコバイト貴族の爵位にも17の公爵位がある。
公爵内の序列はまず王族公爵が別格で先頭である。その下におかれる臣民公爵たちはイングランド貴族公爵、スコットランド貴族公爵、グレートブリテン貴族公爵、アイルランド貴族公爵、連合王国貴族公爵の順番で序列付けられる[27]。宮中席次における臣民公爵の序列は、国王(女王)、王妃(王配)、皇太子、王子、カンタベリー大主教、大法官、ヨーク大主教、首相、枢密院議長、庶民院議長、国璽尚書、英連邦高等弁務官及び外国大使に次ぐ13番目である[28]。
侯爵から男爵までの貴族が「卿(Lord)」と尊称されるのに対し、公爵のみは「閣下(Your Grace)」と尊称される[29]。また公爵・侯爵・伯爵は従属爵位を持っているのが一般的であり、嫡男は父の持つ爵位のうち二番目の爵位を儀礼称号として称する[29]。公爵の息子は全員がLord(卿、ロード)を、娘はLady(レディ)が敬称として付けられる。
英国貴族の爵位は終身であり、原則として生前に爵位を譲ることはできない。爵位保有者が死亡した時にその爵位に定められた継承方法に従って爵位継承が行われ、爵位保有者が自分で継承者を決めることはできない。かつては爵位継承を拒否することもできなかったが、1963年の貴族法制定以降は爵位継承から1年以内(未成年の貴族は成人後1年以内)であれば自分一代に限り爵位を放棄して平民になることが可能となった[30]。現在の公爵位はランカスター公爵(英国王が保持)とコーンウォール公爵(皇太子が保持)以外は領地が不随するわけでもなく、貴族称号を保持することの唯一の具体的な効果は貴族院議員になりえることである。かつては原則として全世襲貴族が貴族院議員となったが(ただし女性世襲貴族は1963年貴族法制定まで貴族院議員にならなかった。また1963年までスコットランド貴族とアイルランド貴族は貴族代表議員に選ばれた者以外議席を有さなかった。アイルランド貴族の貴族代表議員制度は1922年のアイルランド独立の際に終わり、スコットランド貴族は1963年貴族法によって全員が貴族院議員に列した)、1999年以降は世襲貴族枠の貴族院議員数は92議席に限定されている。なお公爵のうちノーフォーク公爵家の当主は軍務伯を世襲で務める関係上必ず貴族院議員になる。公爵だからと貴族院で特別に重んじられるような制度はなく、貴族院の活動において爵位の等級に重要性はない[31]
現存する公爵位
王族公爵位
紋章 | 爵位名 (爵位の創設年と分類) |
現公爵の肖像 | 現公爵の名前 | 備考 |
---|---|---|---|---|
コーンウォール公爵 (1337年創設イングランド貴族) |
プリンス・オブ・ウェールズ チャールズ (1948 - ) |
エリザベス女王の長男、皇太子 | ||
ロスシー公爵 (1398年創設スコットランド貴族) | ||||
グロスター公爵 (1928年創設連合王国貴族) |
第2代グロスター公爵 リチャード (1944 - ) |
女王の従姉弟 | ||
ケント公爵 (1934年創設連合王国貴族) |
第2代ケント公爵 エドワード (1935 - ) |
女王の従姉弟 | ||
エディンバラ公爵 (1947年創設連合王国貴族) |
初代エディンバラ公爵 フィリップ (1921 - ) |
女王の王配 | ||
ヨーク公爵 (1986年創設連合王国貴族) |
初代ヨーク公爵 アンドルー (1960 - ) |
女王の次男 | ||
ケンブリッジ公爵 (2011年創設連合王国貴族) |
初代ケンブリッジ公爵 ウィリアム (1982 - ) |
チャールズ皇太子の長男 | ||
サセックス公爵 (2018年創設連合王国貴族) |
初代サセックス公爵 ヘンリー (1984 - ) |
チャールズ皇太子の次男 |
臣民公爵位
かつて存在した公爵位
- アイルランド公爵:第9代オックスフォード伯ロバート・ド・ヴィアーが一代限りで叙される
- アルベマール公爵:マンク家が2代保有したが、1688年に絶家。
- アンカスター=ケスティーブン公爵:リンジー伯爵バーティ家が5代にわたって保有。1809年に廃絶。リンジー伯位は現存
- ウィンザー公爵:退位後のエドワード8世の爵位。
- ウォートン公爵:第2代ウォートン侯フィリップ・ウォートンが叙されるが、一代で絶家。従属爵位だったウォートン男爵位は現存。
- ウォリック公爵:第14代ウォリック伯爵ヘンリー・ビーチャムが叙位された。一代で廃絶。
- エクセター公爵:王族のホランド家が保有したが、1475年に絶家。
- オーモンド公爵:バトラー家が3代保有したが、1758年に絶家。従属爵位オーモンド伯爵は存続し、後にオーモンド侯爵を与えられるも1997年に絶家。
- オールバニ公爵:王族の爵位
- カンバーランド公爵:王族の爵位
- キングストン=アポン=ハル公爵:ピアポイント家が2代保有したが、1773年に絶家。
- キンタイア=ローン公爵:スコットランド王族ロバート・ステュアートが叙された。
- クラレンス公爵:王族の爵位
- クラレンス=セント・アンドルーズ公爵:ウィリアム4世が即位前に叙位された爵位。
- クリーヴランド公爵:フィッツロイ家が3代、ヴェイン家(後ポーレット)が4代保有したが、1891年に絶家。
- グリニッジ公爵:2代アーガイル公ジョン・キャンベルが叙されたが、一代で絶家。
- ケンダル公爵:通常は王室関係者が叙される爵位
- コノート公爵:ヴィクトリア女王の第3王子アーサーが保有した。
- サウサンプトン公爵:クリーヴランド公爵フィッツロイ家が2代保有したが、1774年に廃絶
- サフォーク公爵:チャールズ・ブランドン、ついで3代ドーセット侯ヘンリー・グレイが叙された。
- サリー公爵:第3代ケント伯爵トマス・ホランドが叙位された。一代で廃絶
- シャンドス公爵:ブリッジス家が3代保有したが、1789年に廃絶
- シュルーズベリー公爵:12代シュルーズベリー伯チャールズ・タルボットが叙されたが、一代で消滅。シュルーズベリー伯は現存。
- ションバーグ公爵:ションバーグ家が3代保有したが、1719年に絶家。
- ダグラス公爵:3代ダグラス侯アーチボルド・ダグラスが叙されたが、一代で絶家。ダグラス侯位はハミルトン公爵家が継承。
- ドーヴァー公爵 クイーンズベリー公ダグラス家が2代保有したが、1778年に廃絶
- ドーセット公爵:サックヴィル家が5代保有したが、1843年に絶家。
- ニューカッスル=アポン=タイン公爵:キャヴェンディッシュ家が2代、ジョン・ホールズが1代、トマス・ペラム=ホールズが1代保有した
- ニューカッスル=アンダー=ライン公爵:トマス・ペラム=ホールズとペラム=クリントン家が10代保有したが、1988年に絶家。従属爵位だったリンカーン伯は現存
- バッキンガム公爵:スタッフォード家が3代、ヴィリアーズ家が2代保有したが、1687年に絶家。
- バッキンガム=ノーマンビー公爵:シェフィールド家が2代保有したが、1735年に絶家。
- バッキンガム=シャンドス公爵:グレンヴィル家が3代保有したが、1889年に絶家。従属爵位だったコバム子爵は現存。
- ブリッジウォーター公爵 : ブリッジウォーター伯爵エジャートン家が2代有したが、1803年に絶家。ブリッジウォーター伯位も1829年に絶家
- ヘレフォード公爵 ヘンリー4世が即位前に叙されていた爵位。
- ポートランド公爵:ベンティンク家が9代保有したが、1990年に絶家。従属爵位だったポートランド伯爵は現存。
- ボルトン公爵:ウィンチェスター侯ポーレット家が6代保有したが、1794年に絶家。ウィンチェスター侯は現存。
- マンスター女公爵:エーレンガルト・メルジーネ・フォン・デア・シューレンブルクが1代限りで保有
- モンマス公爵:チャールズ2世の庶子ジェイムズ・スコットが1663年に叙されたが、1685年に剥奪。従属称号のドンカスター伯爵は1743年に復活し現存。
- モンタギュー公爵:モンタギュー家が保有したが、1766年に絶家。
- リーズ公爵:オズボーン家が12代保有したが、1964年に絶家。
- ロス公爵:スコットランド王族の爵位
- ロシズ公爵:7代ロシズ伯ジョン・レズリーが叙されたが、一代で絶家。ロシズ伯は現存。
- ローダーデール公爵:2代ローダーデール伯ジョン・メイトランドが叙されたが、一代で絶家。ローダーデール伯は現存。
フランスの公爵
フランスの諸侯はカロリング朝の地方行政官のコーメス(伯)やその下僚のヴィカリウス、あるいはカロリング権力から排除されていた地域の土着貴族層に起源が求められる。9世紀後半のポスト・カロリング期に中央権力の弱体化に乗じて私的支配領域を拡大した彼らは、最初辺境伯(marchio)を名乗っていたが、10世紀前半に公(dux)を名乗るようになった[32]。
11世紀の著名な公爵には北部のノルマンディー公、西部のブルターニュ公、東部のブルゴーニュ公、南部のアキテーヌ公があった[33]。ノルマンディー公は1066年にイングランドを征服してイングランド王室となり[34]、12世紀には「アンジュー帝国」と呼ばれる英仏海峡をまたぐ巨大勢力圏を築いた[35]。カペー朝末には後にブルボン朝となるブルボン公が誕生している。
オルレアン公、アンジュー公、ベリー公、アングレーム公、アランソン公、トゥーレーヌ公などは伝統的に王族の爵位となった。
16世紀の宗教戦争時代にはシャンパーニュ、ブルゴーニュを拠点とするギーズ公と、ラングドック、プロヴァンス、イル=ド=フランスに勢力を張るモンモランシー公が宗教戦争の党派の中核となり、著名な公爵だった[36]。
ブルボン朝のアンリ4世以降、中央集権化が推し進められて絶対王政への移行が始まり、諸侯の独立性は低下した。アンリ4世期の著名な公爵位にはギーズ公とモンモランシー公の他にヴァンドーム公、ヌヴェール公、ベルガルド公、ブイヨン公、ロアン公などがあった[37]。ルイ13世の宰相アルマン・ジャン・デュ・プレシーはリシュリュー公爵に叙位され、リシュリューの名で知られる。またルイ14世の弟の系譜のオルレアン公は、1830年の7月革命後にルイ・フィリップの一代のみだがフランス王位に就いた(オルレアン朝)。
フランス革命により貴族制度は廃止されたが[38]、ナポレオンの第一帝政下の1803年3月に皇帝令で大公、公爵、伯爵、男爵、シュヴァリエの五爵位から成る帝国貴族が創設され、警察大臣ジョゼフ・フーシェ(オトラント公爵)やミシェル・ネイ元帥(エルヒンゲン公爵)、オーギュスト・マルモン元帥(ラグーサ公爵)などが公爵に叙された[39]。帝国貴族には免税特権などの封建的特権は不随せず[39]、爵位は個人の功績に与えられるもので世襲のためには「貴族財産」(爵位とともに長男に譲り渡される財産)の設定が必要であるなど旧貴族とは異なったルールがあった[40]。
復古王政下ではアンシャン・レジーム下で爵位を得た旧貴族が爵位を回復するとともにナポレオン下で爵位を得た新貴族も爵位を維持した。爵位に義務や負担を免れるなどの特権が不随しない点もナポレオン時代と同じであった[40]。ただし貴族院が設置され、その議員の地位は世襲だった[41]。
1848年の二月革命と1848年憲法で第二共和政になると貴族院と貴族の称号は廃止された[42]。ナポレオン3世の第二帝政では再び貴族称号の授与が行われるようになったが、貴族制度は復活されなかった[43]。ナポレオン3世が創設した公爵位にはマラコフ公爵(1856年エイマブル・ペリシエ)、マジェンタ公爵(1859年パトリス・ド・マクマオン)、オーディフレ=パスキエ公爵(1862年ガストン・ド・オーディフレ=パスキエ)、モルニー公爵(1862年シャルル・ド・モルニー)、 ペルシニー公爵(1863年ヴィクトール・ド・ペルシニー)、フェルトレ公爵(1864年シャルル=マリー=ミシェル・ド・ゴヨン)がある。
第二帝政崩壊後、貴族称号の廃止は法律によっては宣言されていないが、1875年にフランス大統領パトリス・ド・マクマオンは貴族の称号の新設は今後は行わず、称号の継承のみ引き続き公式法令の対象となると閣議決定した[44]。1955年に裁判所は合憲性ブロックの一部である1789年の人間と市民の権利の宣言(フランス人権宣言)が出生に付随する法的区別を禁じていることから「貴族はもはや法的効力を持たない」と判示している。現在もフランス政府は貴族の称号の新設を行ってはいないが、様々な君主制のもとで誕生した称号を名前の飾りとして認識し、その保護は行っている。結婚状況や行政文書などで称号が表示される可能性があり、また法務省は後継者に叙任令を発行している[45]。
スペインの公爵
スペイン貴族の階級には上からDuque(公爵)、Marqués(侯爵)、Conde(伯爵)、Vizconde(子爵)、 Barón(男爵)、Señor(卿)の6階級があり、公爵は最上位である[46]。すべての公爵位にはグランデの格式が伴い、グランデの格式を伴う爵位保有者は「閣下(Excelentísimo (Excelentísimo Señor))」の敬称で呼ばれる[46]。
スペインの公爵位は現在155個存在し、有名な物には16世紀の宗教戦争時代に軍人として活躍したアルバ公爵、新大陸発見者とされるクリストファー・コロンブスの子孫が保有するベラグア公爵とラ・ベガ公爵(スペイン語版)、アステカ皇帝モクテスマ2世の子孫が保有するモクテスマ・デ・トゥルテンゴ公爵(スペイン語版)、ナポレオン戦争時代のイギリス軍司令官ウェリントン公に与えられたシウダ・ロドリゴ公爵、スペイン内戦を起こしたエミリオ・モラの子孫が保有するモラ公爵(スペイン語版)、フランシスコ・フランコ総統の子孫が保有するフランコ公爵などがある。カルリスタの王位請求者によって創設された171の称号の中にも4つの公爵位が存在する[46]。
1931年の革命で王位が廃されて第二共和政になった際に貴族制度が廃止されたことがあるが[47]、1948年に総統フランシスコ・フランコが貴族制度を復活させ[46][48]、国王による授爵と同じ規則のもとにフランコが授爵を行うようになった[46]。王政復古後は再び国王が授爵を行っている。
公爵を含む伯爵以上の貴族の長男は他の称号を持たない場合には親の称号に由来する地名の子爵位を爵位の継承まで名乗ることができる[46]。貴族称号の放棄も可能だが、他の継承資格者の権利を害することはできず、また直接の相続人以外から継承者を指名することはできない[46]。貴族称号保持者が死去した場合、その相続人は1年以内に法務省に継承を請願する必要があり、もし2年以内に請願が行われなかった場合は受爵者が死亡した場所の州政府が政府広報で発表した後、他の承継人に継承の道が開かれる[46]。
現存する公爵位
- メディナ=シドニア公爵(1445年)ゴンサレス・デ・グレゴリオ家
- アルブルケルケ公爵(スペイン語版)(1464年)オソリオ家(スペイン語版)
- セゴルベ公爵(スペイン語版)(1469年)メディナ家
- アルバ公爵(1472年)フィツ=ハメス・ステュアルト家
- エスカロナ公爵(スペイン語版)(1472年)ソト家
- ベナベンテ公爵(スペイン語版)(1473年)
- ウエテ公爵(スペイン語版)(1474年)ブストス家
- インファンタード公爵(スペイン語版)(1475年)アルテアガ家
- プラセンシア公爵(スペイン語版(1476年)ソリス=ベアウモント家(スペイン語版)
- ビジャエルモサ公爵(スペイン語版)(1476年)ウルサイス家
- メディナセリ公爵(スペイン語版)(1479年)ホーエンローエ=ランゲンブルク家(ドイツ語版)
- カルドナ公爵(スペイン語版)(1482年)ゲレーロ=ブルゴス家
- ナヘラ公爵(スペイン語版)(1482年)トラヴィセド家
- イハル公爵(スペイン語版)(1483年)マルティネス・デ・イルホ家(スペイン語版)
- ベハル公爵(スペイン語版)(1485年)ロカ・デ・トゴレス家
- ガンディア公爵(スペイン語版)(1485年)ウジョア家(スペイン語版)
- アリアガ公爵(スペイン語版)(1487年)マルティネス・デ・イルホ家(スペイン語版)
- フリアス公爵(スペイン語版)(1492年)ソト家
- アルコス公爵(スペイン語版)(1493年)ウジョア家(スペイン語版)
- レセラ公爵(スペイン語版)(1493年)シルバ家(スペイン語版)
- ルナ公爵(スペイン語版)(1495年)アラゴン家
- サンタンジェロ公爵(スペイン語版)(1497年)カサノバ=カルデナス家
- ソマ公爵(スペイン語版)(1502年)ルイス・デ・ブセスタ家
- テラノバ公爵(スペイン語版)(1502年)デ・ラ・シエルバ家
- モンタルト公爵(スペイン語版)(1507年)ブストス家
- セッサ公爵(スペイン語版)(1507年)バロン家
- モンテレオン公爵(スペイン語版)(1527年)アラゴン家
- マケダ公爵(スペイン語版)(1529年)カサノバ=カルデナス家
- ベラグア公爵(1537年)コロン家 (スペイン語版)
- メディナ・デ・リオセコ公爵(スペイン語版)(1538年)ラトーレ家
- フランカヴィル公爵(スペイン語版)(1555年)アルテアガ家
- ラ・ベガ公爵(スペイン語版)(1557年) コロン家(スペイン語版)
- アルカラ・デ・ロス・ガスレス公爵(スペイン語版)(1558年)ホーエンローエ=ランゲンブルク家(ドイツ語版)
- オスナ公爵(スペイン語版)(1562年)ソリス=ベアウモント家(スペイン語版)
- ウエスカル公爵(スペイン語版)(1563年)フィツ=ハメス・ステュアルト家
- バエナ公爵(スペイン語版)(1566年)ルイス・デ・アラナ家
- フェリア公爵(スペイン語版)(1567年)メディナ家
- エストレメラ公爵(スペイン語版)(1568年)ブストス家
- フェルナンディナ公爵 (スペイン語版)(1568年)ゴンサレス・デ・グレゴリオ家
- パストラナ公爵(スペイン語版)(1572年)フィナット家
- レルマ公爵(スペイン語版)(1599年)ラリオス家
- ペニャランダ・デ・ドュエロ公爵(スペイン語版)(1608年)フィツ=ハメス・ステュアルト家
- ウセダ公爵(スペイン語版)(1610年)ラトーレ家
- シウダ・レアル公爵(スペイン語版)(1613年)ホーエンローエ=ランゲンブルク家(ドイツ語版)
- マンダス・イ・ビジャヌエバ公爵(スペイン語版)(1614年)ウエルタ家
- カミナ公爵(スペイン語版)(1619年)ホーエンローエ=ランゲンブルク家(ドイツ語版)
- サン・ペドロ・デ・ガラティーノ公爵(スペイン語版)(1621年)メディニラ家
- メディナ・デ・ラス・トレス公爵(スペイン語版)(1625年)ルイス・デ・ブセスタ家
- オリバーレス公爵(1625年)フィツ=ハメス・ステュアルト家
- サン・ミゲル公爵(スペイン語版)(1625年)カスティジェホ家
- サンルーカル・ラ・マヨル公爵(スペイン語版)(1625年)アラーナ家
- モクテスマ・デ・トゥルテンゴ公爵(スペイン語版)(1627年)マルシージャ家
- モンテアレグレ公爵(スペイン語版)(1633年)カスティジェホ家
- リバス公爵(スペイン語版)(1641年)サインス家
- アブランテシュ公爵(スペイン語版)(1642年スレタ家
- アマルフィ公爵(スペイン語版)(1642年)セオアネ家
- パラタ公爵(スペイン語版)(1646年)ウルサイス家
- ノーチェラ公爵(スペイン語版)(1656年)バルボ・ベルトーネ家
- モントロ公爵(スペイン語版)(1660年)マルティネス・デ・イルホ家(スペイン語版)
- ミランダ公爵(スペイン語版(1664年)シルバ家(スペイン語版)
- リナレス公爵(スペイン語版)(1667年)ズレータ家
- アヴェイロ公爵(スペイン語版)(1681年)
- アルマサン公爵(スペイン語版)(1698年)レンカストレ家
- ソトマヨル公爵(スペイン語版)(1703年)マルティネス・デ・イルホ家(スペイン語版)
- モンテジャノ公爵(スペイン語版)(1705年)ファルコ家
- リリア・イ・ヘリカ公爵(スペイン語版)(1707年)フィツ=ハメス・ステュアルト家
- アトリスコ公爵(スペイン語版)(1708年) バロン家
- アルコ公爵(スペイン語版)(1715年) ファルコ家
- ブルノンヴィル公爵(スペイン語版)(1717年) シルバ家(スペイン語版)
- ソルフェリノ公爵(スペイン語版)(1717年)ランザ家
- アリオン公爵(スペイン語版)(1725年)コルドバ家(スペイン語版)
- アルヘテ公爵(スペイン語版)(1728年)オソリオ家(スペイン語版)
- グラナダ・デ・エガ公爵(スペイン語版)(1729年)マルトス家
- モンテマール公爵(スペイン語版)(1735年)オソリオ家(スペイン語版)
- サンティステバン・デル・プエルト公爵(スペイン語版)(1738年)メディナ家
- グリマルディ公爵(スペイン語版)(1777年)マルケス家
- アルモドバル・デル・リオ公爵(スペイン語版)(1780年)オヨス家
- パルキー公爵(スペイン語版)(1780年)オソリオ家(スペイン語版)
- サン・カルロス公爵(スペイン語版)(1780年)フェルナンデス=ビジャベルデ家
- ラ・アルクディア公爵(スペイン語版)(1792年)ルスポリ家
- ラ・ロカ公爵(スペイン語版)(1793年)フィツ=ハメス・ステュアルト家
- サン・ロレンソ・デ・バルエルモソ公爵(スペイン語版)(1794年) オソリオ家(スペイン語版)
- ゴル公爵(スペイン語版)(1803年)アルバレス・ド・ボオルケス家(スペイン語版)
- スエカ公爵(スペイン語版)(1804年)ルスポリ家
- タマメス公爵(スペイン語版)(1805年)メシーア家
- シウダ・ロドリゴ公爵(1812年)ウェルズリー家
- フェルナンド・デ・キロガ公爵(スペイン語版)(1815年)メルガレホ家
- サン・フェルナンド・ルイス公爵(スペイン語版)(1816年)レヴィ=ミルポワ家
- フェルナン=ヌニェス公爵(スペイン語版)(1817年)ファルコ家
- カストロ=テレノ公爵(スペイン語)(1825年)サンチェス・ナバーロ家
- セビリア公爵(スペイン語版)(1823年)ボルボン家
- ネミ公爵(スペイン語版)(1828年)セオドリ=ブラスキ家(スペイン語版)
- ノブレハス公爵(スペイン語版)(1829年)エガーニャ家
- アルマサン=プリースト公爵(スペイン語版)(1830年)カステラーヌ家
- アルメナーラ・アルタ公爵(スペイン語版)(1830年)マルトレル家
- サンタ・クリスティーナ公爵(スペイン語版)(1830年)マルケス家
- バイレン公爵(スペイン語版)(1833年)カロンデレ家
- サラゴサ公爵(スペイン語版)(1834年)トレド家(スペイン語版)
- アウマダ公爵(スペイン語版)(1836年)グスマン家(スペイン語版)
- ラ・ビクトリア・デ・ラス・アメスコア公爵(スペイン語版)(1836年)オラー家
- ラ・ビクトリア公爵(スペイン語版)(1837年)モンテスシーノ=エスパルテーロ家
- リアンサレス公爵(スペイン語版)(1844年)ムニョス家
- ラ・コンキスタ公爵(スペイン語版)(1847年)エガーニャ家
- タランコン公爵(スペイン語版)(1847年)パラ家
- ラ・ウニオン・デ・キューバ公爵(スペイン語版)(1847年)キロス家
- バレンシア公爵(スペイン語版)(1847年)ナルバエス家
- セルクラエス公爵(スペイン語版)(1856年)グスマン家(スペイン語版)
- カストロ=エンリケス公爵(スペイン語版)(1858年)アロスピデ家
- レグラ公爵(スペイン語版)(1859年)デル・バジェ家
- テトゥアン公爵(スペイン語版)(1860年)オドンネル家
- ラ・トレ公爵(スペイン語版)(1862年)カンプス家
- ビヴォーナ公爵(スペイン語版)(1865年)ファルコ家
- オルナチュエロス公爵(スペイン語版)(1868年)ホーセス家
- アルモドバル・デル・バジェ公爵(スペイン語版)(1871年)マルテル家
- ロス・カスティジェホ公爵(スペイン語版)(1871年)ムンタダス=プリム家
- ガリステオ公爵(スペイン語版)(1871年)メシーア家
- プリム公爵 (スペイン語版)(1871年)ムンタダス=プリム家
- エリオ公爵(スペイン語版)(1875年)エリオ家
- サントナ公爵(スペイン語版)(1875年)ミトハンス家
- ビスタ=アレグレ公爵(スペイン語版)(1876年)サンチェス・ド・トカ家
- ビスタエルモサ公爵(スペイン語版)(1879年)ガルシア=ロイゴリ家
- デニア・イ・タリファ公爵(スペイン語版)(1882年)ホーエンローエ=ランゲンブルク家(ドイツ語版)
- ドゥルカル公爵(スペイン語版)(1885年)パティーノ家
- マルチェナ公爵(スペイン語版)(1885年)ウォルフォード・ホーキンス家
- アンソラ公爵(スペイン語版)(1887年) ウォルフォード・ホーキンス家
- サント・マウロ公爵(スペイン語版)(1890年)フェルナンデス=ビジャベルデ家
- セオ・デ・ウルヘル公爵(スペイン語版)(1891年)ビラリョンガ家
- カノバス・デル・カスティーリョ公爵(スペイン語版)(1901年)コルドバ家
- アルホナ公爵(スペイン語版)(1902年)イルホ家
- アレバロ・デル・レイ公爵(スペイン語版)(1903年)ロヘンディオ家
- アンドリア公爵(スペイン語版)(1904年) トゴレス家
- アルへシラス公爵(スペイン語版)(1906年)カリソサ家
- トバル公爵(スペイン語版)(1906年)フィゲロア家
- ラス・トレス公爵(スペイン語版)(1907年)フィゲロア家
- ピノエルモソ公爵(スペイン語版)(1907年)バレラ家
- カナレハス公爵(スペイン語版)(1913年)カナレハス家
- エルナニ公爵(スペイン語版)(1914年)ボルボン家
- パルセント公爵(スペイン語版)(1914年)ラ・セルダ家
- トラヴェル・デ・ラ・レイナ公爵(スペイン語版)(1914年)シルバ家(スペイン語版)
- サンタ・エレナ公爵(スペイン語版)(1917年)ボルボン家
- ルビ公爵(スペイン語版)(1920年)ウェイレル家
- ダトゥ公爵(スペイン語版)(1921年)ロス・モンテーロス家
- マウラ公爵(スペイン語版)(1930年)ペレス=マウラ家
- カルボ=ソテーロ公爵(スペイン語版)(1948年)カルボ=ソテーロ家
- モラ公爵(スペイン語版)(1948年)モラ家
- プリモ・デ・リベラ公爵(スペイン語版)(1948年)プリモ・デ・リベラ家
- サント・ボーノ公爵(スペイン語版)(1958年)デル・アルカサル家
- カレーロ=ブランコ公爵(スペイン語版)(1973年)空位
- フランコ公爵(1975年)マルティネス=ボルディウ家
- フェルナンデス=ミランダ公爵(スペイン語版)(1977年)フェルナンデス=ミランダ家
- スアレス公爵(スペイン語版)(1981年)スアレス家
- ソリア公爵(スペイン語版)(1981年)ボルボン家
- ルーゴ公爵(スペイン語版)(1995年)ボルボン家
脚注
- ^ 新村出編『広辞苑 第六版』(岩波書店、2011年)942頁および松村明編『大辞林 第三版』(三省堂、2006年)849頁参照。
- ^ 石黒ひさ子 2006, p. 2-3.
- ^ a b 石黒ひさ子 2006, p. 3.
- ^ 石黒ひさ子 2006, p. 5.
- ^ 石黒ひさ子 2006, p. 4.
- ^ 石黒ひさ子 2006, p. 6.
- ^ a b 袴田郁一 2014, p. 86-87.
- ^ a b 袴田郁一 2014, p. 95.
- ^ 袴田郁一 2014, p. 93.
- ^ a b 今堀誠二, p. 422-423.
- ^ 袴田郁一 2014, p. 100.
- ^ 袴田郁一 2014, p. 98.
- ^ 袴田郁一 2014, p. 103.
- ^ a b 袴田郁一 2014, p. 102-103.
- ^ 袴田郁一 2014, p. 106.
- ^ 袴田郁一 2014, p. 107.
- ^ 袴田郁一 2014, p. 110.
- ^ 袴田郁一 2014, p. 112.
- ^ 袴田郁一 2014, p. 114.
- ^ 袴田郁一 2014, p. 113.
- ^ 袴田郁一 2014, p. 115.
- ^ 小林(1991) p.16-17
- ^ 森(1987) p.5
- ^ 森(1987) p.6
- ^ 小林(1991) p.18
- ^ 森(1987) p.7-8
- ^ 森(1987) p.9
- ^ 森(1987) p.11-12
- ^ a b 森(1987) p.15
- ^ 前田英昭 1976, p. 46-58.
- ^ 田中嘉彦 2009, p. 279/290.
- ^ 柴田三千雄, 樺山紘一 & 福井憲彦 1995, p. 290.
- ^ 柴田三千雄, 樺山紘一 & 福井憲彦 1995, p. 187.
- ^ 柴田三千雄, 樺山紘一 & 福井憲彦 1995, p. 189.
- ^ 柴田三千雄, 樺山紘一 & 福井憲彦 1995, p. 205.
- ^ 柴田三千雄, 樺山紘一 & 福井憲彦 1996, pp. 128–129.
- ^ 柴田三千雄, 樺山紘一 & 福井憲彦 1996, p. 156.
- ^ 上垣豊 1995, p. 129(617).
- ^ a b 柴田三千雄, 樺山紘一 & 福井憲彦 1996, p. 419.
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- ^ https://www.boe.es/datos/pdfs/BOE//1931/153/A01122-01123.pdf
- ^ https://www.boe.es/buscar/act.php?id=BOE-A-1948-3512
参考文献
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関連項目
欧州の貴族階級 |
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皇帝 / 女皇 / 王・皇帝 / 女王・女皇 / カイザー / ツァーリ |
上級王 / 上級女王 / 大王 / 大女王 |
王 / 女王 |
エァッツヘァツォーク(大公) / 皇女 / ツェサレーヴィチ(皇太子) |
ヴェリーキー・クニャージ(大公・皇太子) 大公 / 女大公 |
選帝侯 / プリンス / プリンセス / クラウンプリンス / クラウンプリンセス / プランス・エトランジェ / 血統親王 / インファンテ/ インファンタ / ドーファン / ドーフィン / クルレヴィチ / クルレヴナ / ヤール |
公爵 / 女公 / ヘルツォーク / クニャージ / 諸侯級伯 |
フュルスト / フュルスティン / ボヤール |
侯爵 / 女侯 / 辺境伯 / 方伯 / 辺境諸侯 / 宮中伯 |
伯爵 / グラーフ / シャトラン / (カステラン) / 城伯 |
ヴァイカウント / ヴァイカウンテス / ヴィダム |
バロン / バロネス / フライヘア / アドボカトゥス / ロード・オブ・パーラメント / セイン / レンドマン |
バロネット / バロネテス / スコットランドの封建領主 / リッター / 帝国騎士 |
エクィテス / ナイト / シュヴァリエ / リッデル / レディ / デイム / 自由騎士 / セニャール / ロード |
ジェントルマン / ジェントリ / エスクワイア / レアード / エードラー / ヨンクヘール / ユンカー / ヤンガー / メイド |
ミニステリアーレ |
- 公#ヨーロッパにおける公の称号
- 公#中国における公の称号
- 貴族
- プリンス(prince)
- ヘルツォーク(Herzog)
- 貴族院 (日本)#公爵議員・侯爵議員
- 公爵領
- 貴族
- 爵位
- 大公
- 侯爵
- 伯爵
- 子爵
- 男爵