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「公爵」の版間の差分

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=== 主要な中国の公爵 ===
=== 主要な中国の公爵 ===
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2021年3月22日 (月) 03:31時点における版

公爵(こうしゃく、: Duke: Dux: Herzog)は、爵位(五爵)の第1位である。侯爵の上位に相当する[1]ヨーロッパ貴族称号の訳語、古代中国の諸侯の称号、また明治以降から戦前まで使われた日本華族の称号として用いられる。

概要

日本ではこの「」によって(英語の場合であれば)princedukeの両方の称号を表そうとしたため混乱を生じることとなった。princeは基本的には小国の君主や諸侯、王族の称号であり、dukeは諸侯の称号である。日本語では、例えばモナコリヒテンシュタインの君主、マルタ騎士団長などのprinceを「公」ではなく「大公」と訳すことで「公爵」(duke)との区別をつけようとする場合がある。ただし、こうして便宜的に使用された場合の「大公」は、ルクセンブルクの君主がもつ称号grand dukeやロシア等のgrand prince、オーストリアarchdukeと区別される必要が改めて生じてくる。逆に、日本の華族制度における「公爵」の公式英訳にはdukeではなくprinceが当てられたが、たとえば伊藤博文近衛文麿の爵位が英米ではprinceと訳されることとなり、皇族と誤解されるような場合があった[要出典]

日本語では侯爵と発音が同じであることから区別する必要があるときは「おおやけ-こうしゃく」と呼ばれた。

中国の公爵

西周時代に設置された爵について、『礼記』には「王者之制緑爵。公侯伯子男凡五等」とあり、「公」は五つある爵の最上位に位置づけている[2]。一方で『孟子』万章下には「天子之卿、受地視侯、大夫受地視伯、元士受地視子男。」とあり、公の表記はない[3]。『礼記』・『孟子』とともに侯は公とともに百里四方の領地をもつものと定義している[3]。また『春秋公羊伝』には「天子は三公を公と称し、王者之後は公と称し、其の余大国は侯と称し、小国は伯・子・男を称す」という三等爵制が記述されている[4]。金文史料が検討されるようになって傅期年郭沫若楊樹達といった研究者は五等爵制度は当時存在せず、後世によって創出されたものと見るようになった[5]王世民が金文史料を検討した際には公侯伯には一定の規則が存在したが、子男については実態ははっきりしないと述べている[6]

代においては二十等爵制が敷かれ、「公」の爵位は存在しなかったが、特に身分の高い三つの官職は三公と呼ばれた。咸熙元年(264年)、爵制が改革され、公の爵位が復活した。「公侯伯子男」の爵位は列侯や亭侯の上位に置かれ、諸侯王の下の地位となる[7]食邑は郡公なら一万戸で諸侯王に並び、県公なら千八百戸、七十五里四方の土地が与えられることとなっている[7]。その後西晋でも爵位制度は存続し[8]恵帝期以降には公・侯の濫授が行われた[8]。このため東晋では恵帝期の爵位を格下げすることも行われている[9]

南北朝時代においても晋の制度に近い叙爵が行われている。においては国王・郡王・国公・県公・侯・伯・子・男の爵が置かれ、においては王・開国国公・開国郡公・開国県公・開国侯・開国伯・開国子・開国男の爵位が置かれた[10]

主要な中国の公爵

咸熙元年の五等爵制発足時には、公となったのは司馬氏の長老である司馬孚であり、晋王朝成立後は諸侯王となった[11]。その他では魏皇帝の外戚二名が公となっており、発足時点では公は3名のみであった[12]三公であった王祥鄭沖、そのほかの重臣賈充石苞衛瓘裴秀何曾たちが侯となったが、晋王朝成立後はいずれも公となっている[13]。またこの際には魏の諸侯王たちが公に格下げされている[14]

から降伏した孫秀歩璿も公に叙せられている[14]太康の役の論功行賞としては、王渾が公となっている[15]

以降西晋期には宰相であった張華[16]前涼の基盤を作った張軌[17]などが公となっている。東晋では建国に功のあった王導と、後に反乱を起こした王敦[18]前秦からの防衛に成功した謝安[19]、武将の陶侃[20]。そして東晋を滅ぼしを建国した劉裕[21]などがいる。

唐においては太宗即位後に長孫無忌高士廉(義興郡公)などの功臣が公となっている[10]。 また宋代以降、孔子の直系である当主は衍聖公の爵位を受け、清末まで続いた。

日本の公爵

律令制下

日本では、律令制下において、太政大臣経験者に対して令制国を与えて公爵とする国封という制度があった。

華族令

明治維新後の1884年明治17年)に華族令(明治17年宮内省達)が制定され、華族制度が定められた。同令第2条において、華族を世襲制の公侯伯子男の五等爵とし、公爵はその第1位とした。1889年(明治22年)に、貴族院令(明治22年勅令第11号)が制定されると、公爵は同令第1条2号により、公爵たる者は貴族院議員となる資格を与えられることが規定された(華族議員)。1907年(明治40年)には、華族令(明治40年皇室令第2号)が制定され、襲爵、華族の品位その他の手続きが細かく規定された。

叙爵内規

公爵は以下の基準(「叙爵内規」)によって授けられた。

  1. 皇族 - 親王より臣位に列せられた者。このような内規はあったが、実際に臣籍降下によって公爵を与えられた例はない
  2. 公家 - 旧摂関家。公家社会でも最高位に属するとされ、摂政関白に昇る資格を持っていた家柄である。近衛家九条家二条家一条家鷹司家の計5家。
  3. 武家 - 徳川宗家(徳川将軍家)徳川家達家がこれにあたる。1家のみ。
  4. 勲功者 - 国家に偉勲ある者。これは3種に大別できる。
    1. 「偉勲」がなくとも華族たる資格を持っていた家のうち、功績が加味されて本来よりも高い爵位を与えられたグループ。三条家三条実美の功績)、岩倉家岩倉具視の功績)、島津家(旧薩摩鹿児島藩主家)、毛利家(旧長門萩藩主家)の4家がこれにあたる。また、後年侯爵から陞爵した西園寺家西園寺公望の功績)、徳大寺家徳大寺実則の功績)、水戸徳川家(『大日本史』編纂の功績)の3家もこれに含めて考えられる。
    2. 本家がすでに公爵となっているにも関わらず、その人物の特別な功績が認められて別に家を立てることを許され、さらに公爵位を授けられたグループがある。具体的には、藩主ではなかったがその後見人として幕末薩摩藩に大きな影響を与えた島津久光とその子孫(玉里島津家)、大政奉還後に養子の徳川家達に家督を譲って隠棲した江戸幕府第15代将軍の徳川慶喜とその子孫(徳川慶喜家)の2家である。
    3. 家系によらず、初代の勲功によって公爵となったグループ。伊藤博文の伊藤家、大山巌の大山家、山縣有朋の山縣家、松方正義の松方家、桂太郎の桂家の五家である。いずれも子爵ないし伯爵の爵位を受け、その後、更に勲功により陞爵したものである。

有爵者一覧

家名(通称等) 受爵者
襲爵者
旧家格
出自
叙爵年
所在
その他備考
近衛家 近衛篤麿
近衛文麿
旧摂関家
藤原北家嫡流
1884年(明治17年)7月7日、叙爵。
1945年(昭和20年)12月16日、返上。
東京市淀橋区下落合
鷹司家 鷹司熙通
鷹司信輔
旧摂関家
藤原北家嫡流
1884年(明治17年)7月7日、叙爵。
東京市麹町区上二番町
九条家 九条道孝
九条道実
九条道秀
旧摂関家
藤原北家嫡流
1884年(明治17年)7月7日、叙爵。
東京市赤坂区赤坂福吉町
一条家 一条実輝
一条実孝
旧摂関家
藤原北家嫡流
1884年(明治17年)7月7日、叙爵。
東京市赤坂区福吉町
二条家 二条基弘
二条厚基
二条弼基
旧摂関家
藤原北家嫡流
1884年(明治17年)7月7日、叙爵。
東京市牛込区津久戸前町
三条家(転法輪家) 三条実美
三条公美
三条実憲
三条公輝
三条実春
清華家
藤原北家閑院流嫡流
1884年(明治17年)7月7日、叙爵。
東京市麻布区麻布鳥居坂町
徳川家(徳川宗家) 徳川家達
徳川家正
旧将軍家
清和源氏と称するが明確でない。
1884年(明治17年)7月7日、叙爵。
東京市渋谷区千駄ヶ谷
毛利家 毛利元徳
毛利元昭
毛利元道
萩藩
大江氏
1884年(明治17年)7月7日、叙爵。
東京市芝区高輪南町
島津家(島津宗家) 島津忠義
島津忠重
鹿児島藩
清和源氏と称する(本来は惟宗氏)。
1884年(明治17年)7月7日、叙爵。
東京市麹町区三年町
島津家(玉里家) 島津久光
島津忠済
島津忠承
島津宗家分家
清和源氏と称する(本来は惟宗氏)。
1884年(明治17年)7月7日、叙爵。
岩倉家 岩倉具定
岩倉具張
岩倉具栄
羽林家
村上源氏
1884年(明治17年)7月8日、叙爵。
東京市麹町区裏霞ヶ関
徳川家(徳川慶喜家) 徳川慶喜
徳川慶久
徳川慶光
徳川宗家別家
清和源氏と称するが明確でない。
1902年(明治35年)6月3日、叙爵。
東京市小石川区小日向第六天町
伊藤家 伊藤博文
伊藤博邦
伊藤博精
旧萩藩出身
越智氏と称するが明確でない。
1907年(明治40年)9月21日侯爵より陞爵
山縣家 山縣有朋
山縣伊三郎
山縣有道
山縣有信
旧萩藩出身。
清和源氏と称するが明確でない。
1907年(明治40年)9月21日、侯爵より陞爵
大山家 大山巌
大山柏
旧鹿児島藩出身
近江源氏
1907年(明治40年)9月21日、侯爵より陞爵。
徳大寺家 徳大寺実則
徳大寺公弘
徳大寺実厚
旧清華家
藤原北家閑院流
1911年(明治44年)4月21日、侯爵より陞爵。
桂家 桂太郎
桂広太郎
旧萩藩出身
大江氏
1911年(明治44年)4月21日、侯爵より陞爵。
西園寺家 西園寺公望
西園寺八郎
旧清華家
藤原北家閑院流
1920年大正9年)9月7日、侯爵より陞爵。
1946年昭和21年)7月1日 返上。
松方家 松方正義
松方巖
旧鹿児島藩出身 1922年(大正11年)9月18日、侯爵より陞爵。
1927年(昭和2年)12月19日、返上。
徳川家(水戸家) 徳川圀順 水戸藩
清和源氏と称するが明確でない。
1929年(昭和4年)11月18日 、侯爵より陞爵。

イギリスの公爵

イギリスの公爵の紋章上の冠

イングランドに確固たる貴族制度を最初に築いた王は征服王ウィリアム1世在位:1066年-1087年)である。彼はもともとフランスのノルマンディー公であったが、エドワード懺悔王在位:1042年-1066年)の崩御後、イングランド王位継承権を主張して1066年にイングランドを征服し、イングランド王位に就いた(ノルマン・コンクエスト)。重用した臣下もフランスから連れて来たノルマン人だったため、大陸にあった貴族の爵位制度がイングランドにも持ち込まれることになった[22]

イングランドの公爵(Duke)は、伯爵(Earl)と男爵(Baron)に続いて創設された爵位だった。1337年エドワード3世在位:1327年-1377年)が皇太子エドワード黒太子コーンウォール公爵(Duke of Cornwall)位を与えたのが公爵の最初である。続いて1351年に同じくエドワード3世がヘンリー3世在位:1216年-1272年)の曾孫であるヘンリーランカスター公爵(Duke of Lancaster)位を与えたことで公爵位が貴族の最上位で王位に次ぐ称号であることが明確化した[23]

臣民に公爵位が与えられた最初の事例は、1483年リチャード3世在位:1483年-1485年)よりノーフォーク公爵(Duke of Norfolk)を与えられたジョン・ハワードである(もっとも彼も先祖を遡れば王族にたどり着く)[24][25]

その後、臣民の公爵位はステュアート朝期(特に王政復古後の最初の国王チャールズ2世時代)に急増した。ハノーファー朝期にも公爵位の授与が行われ、最も多い時期には40家の公爵家が存在した。しかし家系の断絶でその数は減少していった[26]。2021年現在臣民の公爵家は24家にまで減っている。

またジャコバイト王位請求者たちが創設したジャコバイト貴族英語版の爵位にも17の公爵位がある。

公爵内の序列はまず王族公爵が別格で先頭である。その下におかれる臣民公爵たちはイングランド貴族公爵、スコットランド貴族公爵、グレートブリテン貴族公爵、アイルランド貴族公爵、連合王国貴族公爵の順番で序列付けられる[27]。宮中席次における臣民公爵の序列は、国王(女王)、王妃(王配)、皇太子、王子、カンタベリー大主教大法官ヨーク大主教首相枢密院議長庶民院議長、国璽尚書、英連邦高等弁務官及び外国大使に次ぐ13番目である[28]

侯爵から男爵までの貴族が「卿(Lord)」と尊称されるのに対し、公爵のみは「閣下(Your Grace)」と尊称される[29]。また公爵・侯爵・伯爵は従属爵位を持っているのが一般的であり、嫡男は父の持つ爵位のうち二番目の爵位を儀礼称号として称する[29]。公爵の息子は全員がLord(、ロード)を、娘はLady(レディ)が敬称として付けられる。

英国貴族の爵位は終身であり、原則として生前に爵位を譲ることはできない。爵位保有者が死亡した時にその爵位に定められた継承方法に従って爵位継承が行われ、爵位保有者が自分で継承者を決めることはできない。かつては爵位継承を拒否することもできなかったが、1963年貴族法制定以降は爵位継承から1年以内(未成年の貴族は成人後1年以内)であれば自分一代に限り爵位を放棄して平民になることが可能となった[30]。現在の公爵位はランカスター公爵(英国王が保持)とコーンウォール公爵(皇太子が保持)以外は領地が不随するわけでもなく、貴族称号を保持することの唯一の具体的な効果は貴族院議員になりえることである。かつては原則として全世襲貴族が貴族院議員となったが(ただし女性世襲貴族は1963年貴族法制定まで貴族院議員にならなかった。また1963年までスコットランド貴族アイルランド貴族貴族代表議員に選ばれた者以外議席を有さなかった。アイルランド貴族の貴族代表議員制度は1922年のアイルランド独立の際に終わり、スコットランド貴族は1963年貴族法によって全員が貴族院議員に列した)、1999年以降は世襲貴族枠の貴族院議員数は92議席に限定されている。なお公爵のうちノーフォーク公爵家の当主は軍務伯を世襲で務める関係上必ず貴族院議員になる。公爵だからと貴族院で特別に重んじられるような制度はなく、貴族院の活動において爵位の等級に重要性はない[31]

現存する公爵位

王族公爵位

紋章 爵位名
(爵位の創設年と分類)
現公爵の肖像 現公爵の名前 備考
コーンウォール公爵
1337年創設イングランド貴族
プリンス・オブ・ウェールズ
チャールズ
(1948 - )
エリザベス女王の長男、皇太子
ロスシー公爵
1398年創設スコットランド貴族
グロスター公爵
1928年創設連合王国貴族
第2代グロスター公爵
リチャード
(1944 - )
女王の従姉弟
ケント公爵
1934年創設連合王国貴族
第2代ケント公爵
エドワード
(1935 - )
女王の従姉弟
エディンバラ公爵
1947年創設連合王国貴族
初代エディンバラ公爵
フィリップ
(1921 - )
女王の王配
ヨーク公爵
1986年創設連合王国貴族
初代ヨーク公爵
アンドルー
(1960 - )
女王の次男
ケンブリッジ公爵
2011年創設連合王国貴族
初代ケンブリッジ公爵
ウィリアム
(1982 - )
チャールズ皇太子の長男
サセックス公爵
2018年創設連合王国貴族
初代サセックス公爵
ヘンリー
(1984 - )
チャールズ皇太子の次男

臣民公爵位

紋章 爵位名
(爵位の創設年と分類)
家名
現公爵の肖像 現公爵の名前
ノーフォーク公爵
1483年創設イングランド貴族
フィッツアラン=ハワード家
第18代ノーフォーク公爵
エドワード・フィッツアラン=ハワード
(1956 - )
サマセット公爵
1547年創設イングランド貴族
シーモア家
第19代サマセット公爵
ジョン・シーモア英語版
(1952 - )
リッチモンド公爵
1675年創設イングランド貴族
ゴードン=レノックス家
第11代リッチモンド公爵
第11代レノックス公爵
第6代ゴードン公爵
チャールズ・ゴードン=レノックス英語版
(1955 - )
レノックス公爵
1675年創設スコットランド貴族
ゴードン=レノックス家
ゴードン公爵
1876年創設連合王国貴族
ゴードン=レノックス家
グラフトン公爵
1675年創設イングランド貴族
フィッツロイ家
第12代グラフトン公爵
ヘンリー・フィッツロイ英語版
(1978 - )
ボーフォート公爵
1682年創設イングランド貴族
サマセット家
第12代ボーフォート公爵
ヘンリー・サマセット英語版
(1952 - )
セント・オールバンズ公爵
1684年創設イングランド貴族
ボークラーク家
第14代セント・オールバンズ公爵
マレー・ボークラーク英語版
(1939 - )
ベッドフォード公爵
1694年創設イングランド貴族
ラッセル家
第15代ベッドフォード公爵
アンドリュー・ラッセル英語版
(1962 - )
デヴォンシャー公爵
1694年創設イングランド貴族
キャヴェンディッシュ家
第12代デヴォンシャー公爵
ストカー・キャヴェンディッシュ英語版
(1944 - )
マールバラ公爵
1702年創設イングランド貴族
スペンサー=チャーチル家
第12代マールバラ公爵
ジェイミー・スペンサー=チャーチル
(1955 - )
ラトランド公爵
1703年創設イングランド貴族
マナーズ家
第11代ラトランド公爵
デイヴィッド・マナーズ英語版
(1959 - )
ハミルトン公爵
1643年創設スコットランド貴族
ダグラス=ハミルトン家
第16代ハミルトン公爵
第13代ブランドン公爵
アレクサンダー・ダグラス=ハミルトン英語版
(1978 - )
ブランドン公爵
1711年創設グレートブリテン貴族
ダグラス=ハミルトン家
バクルー公爵
1663年創設スコットランド貴族
ダグラス=スコット家英語版
第10代バクルー公爵
第12代クイーンズベリー公爵
リチャード・ダグラス=スコット英語版
(1954 - )
クイーンズベリー公爵
1684年創設スコットランド貴族
ダグラス=スコット家
アーガイル公爵
1701年創設スコットランド貴族
キャンベル家
第13代アーガイル公爵
第6代アーガイル公爵
トーキル・キャンベル英語版
(1968 - )
アーガイル公爵
1892年創設連合王国貴族
キャンベル家
アソル公爵
1703年創設スコットランド貴族
マレー家英語版
第12代アソル公爵
ブルース・マレー英語版
(1960 - )
モントローズ公爵
1707年創設スコットランド貴族
グラハム家英語版
第8代モントローズ公爵
ジェイムズ・グラハム英語版
(1935 - )
ロクスバラ公爵
1707年創設スコットランド貴族
イニス=カー家
第11代ロクスバラ公爵
チャールズ・イニス=カー
(1981 - )
マンチェスター公爵
1719年創設グレートブリテン貴族
モンタギュー家
第13代マンチェスター公爵
アレクサンダー・モンタギュー英語版
(1962 - )
ノーサンバーランド公爵
1766年創設グレートブリテン貴族
パーシー家
第12代ノーサンバーランド公爵
レイフ・パーシー英語版
(1956 - )
リンスター公爵
1766年創設アイルランド貴族
フィッツジェラルド家英語版
第9代リンスター公爵
モーリス・フィッツジェラルド英語版
(1948 - )
アバコーン公爵
1868年創設アイルランド貴族
ハミルトン家
第5代アバコーン公爵
ジェイムズ・ハミルトン
(1934 - )
ウェリントン公爵
1814年創設連合王国貴族
ウェルズリー家
第9代ウェリントン公爵
チャールズ・ウェルズリー英語版
(1945 - )
サザーランド公爵
1833年創設連合王国貴族
エジャートン家
第7代サザーランド公爵
フランシス・エジャートン英語版
(1940 - )
ウェストミンスター公爵
1874年創設連合王国貴族
グローヴナー家
第7代ウェストミンスター公爵
ヒュー・グローヴナー
(1991 - )
ファイフ公爵
1900年創設連合王国貴族
カーネギー家
第4代ファイフ公爵
デイヴィッド・カーネギー
(1961 - )

かつて存在した公爵位

フランスの公爵

フランスの公爵の紋章上の冠

フランスの諸侯はカロリング朝の地方行政官のコーメス(伯)やその下僚のヴィカリウス、あるいはカロリング権力から排除されていた地域の土着貴族層に起源が求められる。9世紀後半のポスト・カロリング期に中央権力の弱体化に乗じて私的支配領域を拡大した彼らは、最初辺境伯(marchio)を名乗っていたが、10世紀前半に公(dux)を名乗るようになった[32]

11世紀の著名な公爵には北部のノルマンディー公、西部のブルターニュ公、東部のブルゴーニュ公、南部のアキテーヌ公があった[33]。ノルマンディー公は1066年にイングランドを征服してイングランド王室となり[34]、12世紀には「アンジュー帝国」と呼ばれる英仏海峡をまたぐ巨大勢力圏を築いた[35]カペー朝末には後にブルボン朝となるブルボン公が誕生している。

オルレアン公アンジュー公ベリー公アングレーム公フランス語版アランソン公トゥーレーヌ公フランス語版などは伝統的に王族の爵位となった。

16世紀の宗教戦争時代にはシャンパーニュブルゴーニュを拠点とするギーズ公と、ラングドックプロヴァンスイル=ド=フランスに勢力を張るモンモランシー公が宗教戦争の党派の中核となり、著名な公爵だった[36]

ブルボン朝のアンリ4世以降、中央集権化が推し進められて絶対王政への移行が始まり、諸侯の独立性は低下した。アンリ4世期の著名な公爵位にはギーズ公とモンモランシー公の他にヴァンドーム公ヌヴェール公フランス語版ベルガルド公フランス語版ブイヨン公フランス語版ロアン公フランス語版などがあった[37]ルイ13世の宰相アルマン・ジャン・デュ・プレシーリシュリュー公爵フランス語版に叙位され、リシュリューの名で知られる。またルイ14世の弟の系譜のオルレアン公は、1830年の7月革命後にルイ・フィリップの一代のみだがフランス王位に就いた(オルレアン朝)。

フランス革命により貴族制度は廃止されたが[38]ナポレオン第一帝政下の1803年3月に皇帝令で大公、公爵、伯爵、男爵、シュヴァリエの五爵位から成る帝国貴族フランス語版が創設され、警察大臣ジョゼフ・フーシェオトラント公爵フランス語版)やミシェル・ネイ元帥(エルヒンゲン公爵)、オーギュスト・マルモン元帥(ラグーサ公爵)などが公爵に叙された[39]。帝国貴族には免税特権などの封建的特権は不随せず[39]、爵位は個人の功績に与えられるもので世襲のためには「貴族財産」(爵位とともに長男に譲り渡される財産)の設定が必要であるなど旧貴族とは異なったルールがあった[40]

復古王政下ではアンシャン・レジーム下で爵位を得た旧貴族が爵位を回復するとともにナポレオン下で爵位を得た新貴族も爵位を維持した。爵位に義務や負担を免れるなどの特権が不随しない点もナポレオン時代と同じであった[40]。ただし貴族院が設置され、その議員の地位は世襲だった[41]

1848年二月革命1848年憲法第二共和政になると貴族院と貴族の称号は廃止された[42]ナポレオン3世第二帝政では再び貴族称号の授与が行われるようになったが、貴族制度は復活されなかった[43]。ナポレオン3世が創設した公爵位にはマラコフ公爵フランス語版(1856年エイマブル・ペリシエフランス語版)、マジェンタ公爵フランス語版(1859年パトリス・ド・マクマオン)、オーディフレ=パスキエ公爵フランス語版(1862年ガストン・ド・オーディフレ=パスキエフランス語版)、モルニー公爵フランス語版(1862年シャルル・ド・モルニー)、 ペルシニー公爵フランス語版(1863年ヴィクトール・ド・ペルシニー)、フェルトレ公爵フランス語版(1864年シャルル=マリー=ミシェル・ド・ゴヨンフランス語版)がある。

第二帝政崩壊後、貴族称号の廃止は法律によっては宣言されていないが、1875年にフランス大統領パトリス・ド・マクマオンは貴族の称号の新設は今後は行わず、称号の継承のみ引き続き公式法令の対象となると閣議決定した[44]1955年に裁判所は合憲性ブロックフランス語版の一部である1789年の人間と市民の権利の宣言(フランス人権宣言)が出生に付随する法的区別を禁じていることから「貴族はもはや法的効力を持たない」と判示している。現在もフランス政府は貴族の称号の新設を行ってはいないが、様々な君主制のもとで誕生した称号を名前の飾りとして認識し、その保護は行っている。結婚状況や行政文書などで称号が表示される可能性があり、また法務省は後継者に叙任令を発行している[45]

スペインの公爵

スペインの公爵の紋章上の冠

スペイン貴族の階級には上からDuque(公爵)、Marqués(侯爵)、Conde(伯爵)、Vizconde(子爵)、 Barón(男爵)、Señor(卿)の6階級があり、公爵は最上位である[46]。すべての公爵位にはグランデの格式が伴い、グランデの格式を伴う爵位保有者は「閣下(Excelentísimo (Excelentísimo Señor))」の敬称で呼ばれる[46]

スペインの公爵位は現在155個存在し、有名な物には16世紀の宗教戦争時代に軍人として活躍したアルバ公爵新大陸発見者とされるクリストファー・コロンブスの子孫が保有するベラグア公爵ラ・ベガ公爵スペイン語版アステカ皇帝モクテスマ2世の子孫が保有するモクテスマ・デ・トゥルテンゴ公爵スペイン語版ナポレオン戦争時代のイギリス軍司令官ウェリントン公に与えられたシウダ・ロドリゴ公爵スペイン内戦を起こしたエミリオ・モラスペイン語版の子孫が保有するモラ公爵スペイン語版フランシスコ・フランコ総統の子孫が保有するフランコ公爵などがある。カルリスタの王位請求者によって創設された171の称号の中にも4つの公爵位が存在する[46]

1931年の革命で王位が廃されて第二共和政になった際に貴族制度が廃止されたことがあるが[47]1948年に総統フランシスコ・フランコが貴族制度を復活させ[46][48]、国王による授爵と同じ規則のもとにフランコが授爵を行うようになった[46]。王政復古後は再び国王が授爵を行っている。

公爵を含む伯爵以上の貴族の長男は他の称号を持たない場合には親の称号に由来する地名の子爵位を爵位の継承まで名乗ることができる[46]。貴族称号の放棄も可能だが、他の継承資格者の権利を害することはできず、また直接の相続人以外から継承者を指名することはできない[46]。貴族称号保持者が死去した場合、その相続人は1年以内に法務省に継承を請願する必要があり、もし2年以内に請願が行われなかった場合は受爵者が死亡した場所の州政府が政府広報で発表した後、他の承継人に継承の道が開かれる[46]

現存する公爵位


脚注

  1. ^ 新村出広辞苑 第六版』(岩波書店2011年)942頁および松村明編『大辞林 第三版』(三省堂2006年)849頁参照。
  2. ^ 石黒ひさ子 2006, p. 2-3.
  3. ^ a b 石黒ひさ子 2006, p. 3.
  4. ^ 石黒ひさ子 2006, p. 5.
  5. ^ 石黒ひさ子 2006, p. 4.
  6. ^ 石黒ひさ子 2006, p. 6.
  7. ^ a b 袴田郁一 2014, p. 86-87.
  8. ^ a b 袴田郁一 2014, p. 95.
  9. ^ 袴田郁一 2014, p. 93.
  10. ^ a b 今堀誠二, p. 422-423.
  11. ^ 袴田郁一 2014, p. 100.
  12. ^ 袴田郁一 2014, p. 98.
  13. ^ 袴田郁一 2014, p. 103.
  14. ^ a b 袴田郁一 2014, p. 102-103.
  15. ^ 袴田郁一 2014, p. 106.
  16. ^ 袴田郁一 2014, p. 107.
  17. ^ 袴田郁一 2014, p. 110.
  18. ^ 袴田郁一 2014, p. 112.
  19. ^ 袴田郁一 2014, p. 114.
  20. ^ 袴田郁一 2014, p. 113.
  21. ^ 袴田郁一 2014, p. 115.
  22. ^ 小林(1991) p.16-17
  23. ^ 森(1987) p.5
  24. ^ 森(1987) p.6
  25. ^ 小林(1991) p.18
  26. ^ 森(1987) p.7-8
  27. ^ 森(1987) p.9
  28. ^ 森(1987) p.11-12
  29. ^ a b 森(1987) p.15
  30. ^ 前田英昭 1976, p. 46-58.
  31. ^ 田中嘉彦 2009, p. 279/290.
  32. ^ 柴田三千雄, 樺山紘一 & 福井憲彦 1995, p. 290.
  33. ^ 柴田三千雄, 樺山紘一 & 福井憲彦 1995, p. 187.
  34. ^ 柴田三千雄, 樺山紘一 & 福井憲彦 1995, p. 189.
  35. ^ 柴田三千雄, 樺山紘一 & 福井憲彦 1995, p. 205.
  36. ^ 柴田三千雄, 樺山紘一 & 福井憲彦 1996, pp. 128–129.
  37. ^ 柴田三千雄, 樺山紘一 & 福井憲彦 1996, p. 156.
  38. ^ 上垣豊 1995, p. 129(617).
  39. ^ a b 柴田三千雄, 樺山紘一 & 福井憲彦 1996, p. 419.
  40. ^ a b 上垣豊 1995, p. 130(618).
  41. ^ 柴田三千雄, 樺山紘一 & 福井憲彦 1996, p. 458.
  42. ^ 山本浩三 1959, p. 46/49.
  43. ^ Éric Mension-Rigau Enquête sur la noblesse. La permanence aristocratique, éditions Perrin, 2019, page 69.
  44. ^ Marc Guillaume, Directeur des affaires civiles et du Sceau, 2006.
  45. ^ Marc Guillaume, Maître des requêtes au Conseil d’Etat, Directeur des affaires civiles et du Sceau, Le Sceau de France, titre nobiliaire et changement de nom Académie des Sciences Morales et Politiques séance du lundi 3 juillet 2006.
  46. ^ a b c d e f g h Noble Titles in Spain and Spanish Grandees
  47. ^ https://www.boe.es/datos/pdfs/BOE//1931/153/A01122-01123.pdf
  48. ^ https://www.boe.es/buscar/act.php?id=BOE-A-1948-3512

参考文献

文献資料

関連項目