大山氏
大山氏(おおやまし)は日本の氏族[1]。 「新編姓氏家系辞典」などでは以下が見える
清和源氏佐竹氏族の大山氏
[編集]常陸国の大山氏清和源氏(河内源氏)の傍系常陸源氏(佐竹氏)の傍流にあたる。新羅三郎義光の子 進士判官義業が常陸国に土着した後、その子昌義が佐竹と名乗り、その9代佐竹義篤(義敦)の5男左京介義孝がはじめて大山姓を名乗る[2]。 義孝のきょうだいには、10代当主佐竹義宣(義信)、小場義躬、石塚宗義、藤井義貫(義實)がおり、兄である4男は若くして死亡した。他に女子が3人いるが、嫁ぎ先などは不明とされる。
義孝の子、義通は正長元年(1428年)、高久義景、檜澤助次郎を討ち、翌2年(1429年)、小里の戦いに臨んだ。その子の義兼は嘉吉年間(1441年 - 1444年)には藤井、中原の地を加増されたといい、隠居して孫根氏を称したという。家督は弟の義定が継ぎ、子の義長と共に文亀2年(1502年)以降は佐竹義舜を助け戦ったといい、その子の義成は天正2年(1574年)、一族の石塚義辰(義国と改名)と争いを起こし、子の常義、孫の義有とともに頓化原にて石塚氏と戦ったという[2]。
代々、一族で近親結婚をしており、元々は同族ではあるが、所領が近かった小場氏、石塚氏とは度々争ったという。子孫は国替の後に角館に移住し、後に佐竹宗家の命で院内を守ることになったが、義休(よしやす)が自害し、義休の子が夭折しており、大山氏の血筋は途絶えた。茂木治貞の次男が大山姓を継ぎ、大山義武と名乗った。
佐竹氏族大山氏の系譜
[編集]大山氏の系譜は以下の通り[2]。
- 大山氏嫡流
系譜 ◎佐竹義篤―○大山左京介義孝―義通―義兼=義定―義長―義成―常義―義有
- 大山重光流
系譜 ◎大山義成―○義行―弥太夫義次―采女正重光―重次―重房―重利
- 大山義武流
当該家系は佐竹氏の秋田転封後、出羽国仙北郡角館に住まうという[4]。
系譜 ○義武(茂木治貞の次男)―義次―義門―義福―十郎義雅―…
- 大山重祐流
系譜 ◎大山重房―○重祐―重張―重庸―重是―重廣―重持
- 大山義景流
また、別系として、大山因幡、弥五衛門の系譜が派生している[3][4]。
系譜 ○大山義景一定成一定侯一定方(定堅)―景昆―景安
- 大山照岩流
さらに、支族系図では以下の通り、載せる[5]。
系譜 ◎佐竹義篤―○大山左京介義孝―照岩―古山―高岩―常金―義成―常義―義在―孫次郎
- 大山河内守義勝流
大山古山の流れを汲む大山河内守義勝の家系は以下の通り[4]。
系譜 ◎大山古山…○大山河内守義勝―三河孝勝―隼人孝信
- 大山三郎兵衛信包
大山三河孝勝の次男 三郎兵衛信包の血筋として以下の系譜を載せる。源五左衛門信行の子は女子のみにて岡半左衛門忠景の子 又右衛門武行を婿とする。信行女との間に三郎兵衛及び信太氏を継ぐ、強右衛門、八太郎がいた[6]。
系譜 ◎三河孝勝―三郎兵衛信包―隼人孝信―源五左衛門信行=又右衛門武行―三郎兵衛
- 大山信忠流
系譜 ◎隼人孝信―○信忠―武敬―武定―武邉―武景一武隣―武運
- 大山重久流
系譜 ◎大山重光―○大山重久―重長―重寛―重孝―重教―重期―重仲―勘兵衛重至―
- 大山重為流
系譜 大山重為―重隣―重久―重泰―矢五郎重憲―
- 大山重国流
系譜 大山重国―重通―重珍―重綱―…
- 大山景惇流
大山景惇は定侯の次男であるという[4]。
系譜 大山景惇―景伴―景経―…
- 大山武次流
大山武次流は三郎兵衛信包流の分流である[4]。
系譜 ◎大山信忠―○武次―武家―武忠―武慶―武久―武成―鉄蔵某
- 大山信次流
大山信次の系統は三郎兵衛信包流の分流にあたる[4]。
系譜 信次―武宗―武重―武房―甚兵衛武道―
宇多源氏佐々木氏族の薩摩大山氏
[編集]大山家 | |
---|---|
大山巌家の家紋[7] | |
本姓 | 宇多源氏佐々木氏庶流 |
家祖 | 大山友綱 |
種別 |
武家 士族 華族(公爵) |
出身地 | 薩摩国頴娃郡大山村 |
主な根拠地 |
薩摩国 東京市渋谷区穏田 東京都渋谷区神宮前 |
著名な人物 | 大山巌 |
凡例 / Category:日本の氏族 |
大山氏(おおやまし)は、宇多源氏佐々木氏の庶流と伝わる武家・士族・華族だった日本の氏族。薩摩国頴娃郡大山村に住して大山と称し、封建時代を通じて島津氏に仕えた。近代には庶流から大山巌元帥を輩出し、巌の勲功により巌の家系は華族の公爵家に列した[7]。
大山氏を名乗る前
[編集]昭和10年発刊の『元帥公爵大山巌』(大山元帥伝刊行会著)は、大山巌の出身氏族である薩摩大山氏について詳しく解説している。それによれば同氏の来歴は以下のとおりである。
源頼朝に仕えた宇多源氏佐々木氏の武将佐々木高綱の次男光綱の次男行綱が鎌倉時代に薩摩国に下向したことが『諸家系譜遺稿』に見えるという[8]。『鹿児島外史』(伊加倉俊貞著)は、建久7年(1196年)に薩摩国に初入封した島津忠久に騎従した33姓の中に佐々木氏があり、これは行綱の入薩のことを指しているのではないかと推測している[9]。
行綱の跡は、孝綱、綱文を経て、乗綱に至り、彼の代に薩摩から日向国白糸荘へ移住したが、蒙古襲来時に乗綱は他の薩隅日の武士たちとともに元軍と戦って戦功をあげたことで島津久経より大隅国西俣城を拝領して白糸荘から移住した[10]。
乗綱の跡は、清綱、時綱と続いたが、友綱の代の応永30年(1423年)に肝付氏によって西俣城を落とされ、島津氏から薩摩国頴娃郡大山村を拝領して船でそこに移住したことが『続群書類従』巻百三十二の佐々木氏系図大山の部に記されている。これ以降「大山」を称するようになったという[11]。
大山氏を称した後
[編集]大山氏の祖である大山友綱の後、元綱(日向野々美谷城の戦いで戦死)、綱次(永正14年松尾城の戦いで戦死)、解綱(天文23年岩剣城の戦いで戦死)の3代は、いずれも島津氏のために戦い、戦死した[12]。
解綱の戦死後には弟の某が分家を作ったことが家伝に伝わり、これが大山本家になった。文禄・慶長の役(朝鮮出兵)では大山幸綱と大山綱宗の兄弟が戦功をあげ、それぞれ分家を作った[13]。『島津国史』文禄2年9月の条は、島津久保が朝鮮で虎狩りをしていた時、虎が久保に向けて走ってきたが、幸綱が久保の前に立ちはだかって「銃を臣の肩に架して発し給へ」と叫んだと記しており、幸綱の沈勇や忠誠を讃えている[13]。
解綱の弟の某には子供がなく、宗圓が養子に入って継いだ。宗圓の子彦兵衛は軽使と偽って明国へ渡航したと伝わる(ただし『元帥公爵大山巌』は、軽使の件は薩摩の官職考に見当たらないので研究中としている)。そのため弟の九郎兵衛が養子として跡を継ぎ、以降大山家は九郎兵衛の系譜で薩摩藩士として続いた[13]。
安政5年(1858年)には大山氏の嫡流である大山六右衛門が戦死した元綱、綱次、解綱の追賞の恩典を薩摩藩主島津斉彬より受けている[14]。この嫡流家の昭和前期の当主は鹿児島市在住の大山武彦であった[14]。
大山巌公爵家
[編集]大山巌の生家は、江戸時代後期に大山綱道の次男綱毅から分かれた分家である。西郷龍右衛門(西郷隆盛・従道兄弟の祖父)の子綱昌が綱毅の娘を室に迎えて養子としてその跡を継ぎ、その綱昌の次男が大山巌だった[15]。
巌は維新に際して国事に奔走し、戊辰戦争でも戦功をあげ、明治4年に陸軍大佐に任じられて以降、陸軍軍人としてキャリアを積んで累進し陸軍大将まで昇進する[16][17]。その間、西南戦争でも軍功をあげ、明治13年には陸軍卿に任じられた[17]。明治17年7月7日には戊辰戦争における勲功により華族の伯爵位が与えられた[18]。その後第1次伊藤内閣、黒田内閣、第1次山縣内閣、第1次松方内閣、第2次伊藤内閣、第2次松方内閣で陸軍大臣として入閣[17]。日清戦争では第二軍司令官として出征し、その戦功により明治28年8月5日に侯爵に陞爵[18]。明治31年には元帥府に列する。日露戦争でも満州軍総司令官として大功があり[17]、その勲功により明治40年9月21日に公爵に陞爵[18]。晩年には内大臣も務めた[17]。
大正5年に巌が死去し、次男の柏が家督を相続して襲爵。彼も陸軍軍人で陸軍少佐まで昇進したが、昭和3年に予備役入りし、貴族院の公爵議員となる[16]。夫人は近衛篤麿公爵の長女武子[17]。昭和前期に大山公爵家の住所は東京市渋谷区穏田[16]。柏の長男梓は歴史学者、次男桂は生物学者である。平成前期の梓未亡人の大山智子(浜治秋太郎の娘)の住所は東京都渋谷区神宮前[17]。
佐々木氏族大山氏の系譜
[編集]- 実線は実子、点線(縦)は養子。系図は『元帥公爵大山巌』[19]や『平成新修旧華族家系大成 上巻』に準拠[17]。
大山友綱 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
元綱 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
綱次 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
解綱 | 某 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
宗圓 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
彦兵衛 | 九郎兵衛 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
綱通 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
綱広 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
綱栄 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
綱道 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
綱方 | 綱毅 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
綱昌[† 1] | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
〔大山公爵家〕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
成美 | 国子 | 巌 | 誠之助 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
柏 | 信子 | 芙蓉子 | 留子 | 久子 | 高 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
梓 | 桂 | 檀 | 健次[† 2] | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
由美子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
系譜注
[編集]脚注
[編集]出典
[編集]- ^ 太田亮 1934, p. 1338.
- ^ a b c 太田亮 1934, p. 1339.
- ^ a b 秋田県公文書館編『系図目録I (PDF) 』 (秋田県、2001年)11頁参照。
- ^ a b c d e f g h i j k 秋田県公文書館編『系図目録II (PDF) 』(秋田県公文書館、2002年)38頁参照。
- ^ 常陸太田市史編さん委員会編『佐竹家臣系譜』(常陸太田市、1982年)124頁参照。
- ^ 常陸太田市史編さん委員会前掲書(常陸太田市、1982年)124頁、125頁参照。
- ^ a b 霞会館華族家系大成編輯委員会 1996, p. 418.
- ^ 大山元帥伝刊行会 1935, p. 3-4.
- ^ 大山元帥伝刊行会 1935, p. 4.
- ^ 大山元帥伝刊行会 1935, p. 6.
- ^ 大山元帥伝刊行会 1935, p. 7.
- ^ 大山元帥伝刊行会 1935, p. 13.
- ^ a b c 大山元帥伝刊行会 1935, p. 17.
- ^ a b 大山元帥伝刊行会 1935, p. 16.
- ^ 大山元帥伝刊行会 1935, p. 18-19.
- ^ a b c 華族大鑑刊行会 1990, p. 10.
- ^ a b c d e f g h 霞会館華族家系大成編輯委員会 1996, p. 332.
- ^ a b c 小田部雄次 2006, p. 324.
- ^ 大山元帥伝刊行会 1935, p. 21.
参考文献
[編集]- 太田亮 著「国立国会図書館デジタルコレクション 大山 オホヤマ」、上田, 萬年、三上, 参次 監修 編『姓氏家系大辞典』 第1巻、姓氏家系大辞典刊行会、1934年、1338-1340頁。 NCID BN05000207。OCLC 673726070。全国書誌番号:47004572 。
- 常陸太田市史編さん委員会編『佐竹家臣系譜』(常陸太田市、1982年)
- 「新編姓氏家系辞典」(大田亮、丹羽基二 昭和49年初版、秋田書店)
- 「佐竹史探訪」(土居輝雄 平成9年初版、秋田魁新報社)
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 上巻』霞会館、1996年(平成8年)。ISBN 978-4642036702。
- 華族大鑑刊行会『華族大鑑』日本図書センター〈日本人物誌叢書7〉、1990年(平成2年)。ISBN 978-4820540342。
- 小田部雄次『華族 近代日本貴族の虚像と実像』中央公論新社〈中公新書1836〉、2006年(平成18年)。ISBN 978-4121018366。
- 大山元帥伝刊行会『元帥公爵大山巌』大山元帥伝刊行会、1935年(昭和10年)。
- 松田敬之『〈華族爵位〉請願人名辞典』吉川弘文館、2015年(平成27年)。ISBN 978-4642014724。