パーシー家
パーシー家(英語: Percy family、 古フランス語では"Perci")は、イギリスの貴族の家系。中世期にはネヴィル家と双璧するイングランド北部の最有力貴族だった。嫡流は代々ノーサンバランド伯爵位を継承したが、1670年に廃絶した。その後、パーシー家の女系子孫のサマセット公シーモア家の娘と結婚したスミソン準男爵家の当主第4代準男爵ヒュー・スミソンがパーシーと改姓してノーサンバランド公爵に叙された。彼の子孫のノーサンバランド公パーシー家は2020年現在まで続いている。
歴史
[編集]貴族になる前のパーシー家
[編集]パーシーの家名はフランス北部ノルマンディー地方に複数存在する地名ペルシーに由来する。由来地として最も有力なのはペルシー・アン・オージュである[1]。伝承ではパーシー家は9世紀のデーン人の海賊メインフレッド(Mainfred)を遠祖とし、その息子のジェフリーが初代ノルマンディー公ロロに従ってフランス北部に移住したのだというが、この経緯は伝承の域を出ていない[2]。
家祖のウィリアム・ド・パーシー(?-1096/9)はノルマンディー公の家臣だったが、ノルマン・コンクエスト後の1067年にイングランドに渡った[3]。1086年の土地台帳にはヨークシャーに荘園を所有している人物として彼の名前が出てくる[1]。1072年にはウィリアム1世のスコットランド遠征に従軍し、1096年には十字軍に参加してエルサレムで死去している[1]。
彼の子孫たちはヨークシャーやノーサンバランドなどの荘園を世襲し続け、イングランド北東部に大きな影響力を持った[4]。彼の同名の孫であるウィリアム・ド・パーシー(?-1174/5)が死去した際に最初の男系の断絶が起こり、娘のアグネス・ド・パーシー(1134-1205)と結婚していたジョスリン・オブ・ルーヴァンがパーシー家の領地を継いだ。彼はフランドル貴族ルーヴァン伯爵家の出身であり、ヘンリー1世の王妃アデライザ・オブ・ルーヴァンの兄弟でもあったので、ルーヴァン家の方が当時のパーシー家より家格が上だったと思われるが、この夫妻の子孫はルーヴァンではなくパーシーを名乗っている[5]。
夫妻の子であるリチャード・ド・パーシー(1170頃-1244)は、ジョン王の失政を糾弾して大憲章(マグナカルタ)の履行を監視する25人のバロンの一人となった[3]。その甥のウィリアム・ド・パーシー(1183頃-1245)も反乱バロンたちに加わってジョン王に対抗したが、後に恭順している[3]。その子ヘンリー・ド・パーシー(1228頃–1272)は、ヘンリー3世に忠実で1264年にルイスの戦いで王に与して敗れている[3]。
パーシー男爵パーシー家
[編集]その子ヘンリー・ド・パーシー(1273–1314)は、1299年2月6日にパーシー男爵として議会招集令状を受けた[6]。また1309年にはダラム司教よりアニック城を購入した。以降この城はパーシー家所有の城の中でももっとも有名なものとなる[7]。彼はエドワード1世とエドワード2世のスコットランドへの計略に重要な役割を果たしたが、1314年のバノックバーンの戦いに参加して敗れている[3]。エドワード2世の寵臣政治に反対し、1312年にはエドワード2世を捕虜にし、1316年にはギャヴィストンを逮捕した貴族の一人である[6]。
その息子の2代パーシー男爵ヘンリー・ド・パーシー(1299–1352)は、1328年に辺境警備長官に任じられ、第2代ネヴィル男爵ラルフ・ネヴィルとともにスコットランド国境の守備にあたり、1346年にネヴィルズ・クロスの戦いでスコットランド軍を撃破するのに貢献した[3]。
その息子の3代パーシー男爵ヘンリー(1320–1368)は、百年戦争のウィンチェルシーの海戦でスペインを撃破するのに貢献した[6]。また辺境警備長官としてスコットランド軍とも戦火を交えた[3]。
ノーサンバランド伯爵パーシー家
[編集]その息子の4代パーシー男爵ヘンリー・パーシー(1341–1408)は、リチャード2世即位直後の1377年7月16日にノーサンバランド伯爵に叙位された[8]。彼の代がパーシー家の最盛期と考えられ[9]、その息子で「ホットスパー(短気者)」の呼び名で知られるヘンリー・パーシー(1364–1403)や、宮廷官僚として活躍した弟の初代ウスター伯トマス・パーシー(1343–1403)とともに絶大な権勢を握った[10]。
しかしリチャード2世はイングランド北部のパーシー家の勢力の大きさを好ましく思わず、北部においてパーシー家に次ぐ勢力であるネヴィル家やクリフォード家と均衡させようとしたり、パーシー家が代々継承してきた辺境警備長官の職を解くなどしたため、リチャード2世と対立を深め[11]、1399年のヘンリー4世による王位簒奪を支持し、ランカスター朝の樹立に貢献した[3]。しかしその後パーシー家はヘンリー4世とも対立し、3度にわたって反乱を起こした[3]。
最初の反乱の1403年夏のシュルーズベリーの戦いで「ホットスパー」が戦死し、ウスター伯も捕らえられて後に処刑されている[12]。1405年に二度目の反乱を起こしたが、失敗してスコットランドへ亡命[12]。1406年に私権剥奪で爵位を剥奪されている[8]。1408年に故郷に戻るも発見されて[12]、ブラマム・ムーアの戦いで敗死した[8]。
パーシー家は滅亡こそしなかったが、この反乱が原因で以降イングランド北部における勢力はネヴィル家に押され気味となる[12]。
「ホットスパー」の息子であるヘンリー・パーシー(1394–1455)は、1416年に領地と称号を回復している[13]。ただ祖父の私権剥奪が議会によって取り消されたという証拠がないため[8]、「2代ノーサンバランド伯」ではなく、改めて新規に「初代ノーサンバランド伯」に叙されたとみなす見解もある[13]。ヘンリー5世に従って百年戦争に従軍してノルマンディー地方で戦い、1417年には北部に転じてスコットランド南部へ侵入した[14]。1422年にヘンリー5世が崩御した際にはその遺言執行人を務めている[14]。薔薇戦争の始まりである1455年の第一次セント・オールバンズの戦いにはランカスター派(ヘンリー6世支持派)として参加したが、戦死した[3][14]。
その息子の3代ノーサンバランド伯ヘンリー・パーシー(1421-1461)もランカスター派としてヘンリー6世に仕え、1460年のウェイクフィールドの戦いと1461年の第二次セント・オールバンズの戦いでヨーク派を撃破したが、同年タウトンの戦いで3人の弟とともに敗死した[3][14]。死後、ヨーク派のエドワード4世によって領地と爵位をはく奪され[13]、ライバルのネヴィル家の一族であるジョン・ネヴィルが代わりにノーサンバランド伯に叙位された[14]。
その息子のヘンリー・パーシー(1449–1489)は、最初エドワード4世によってロンドン塔に投獄されていたが[3][14]、エドワード4世とネヴィル家が不和になってきたことから[15]、ヨーク派に転じることで赦免され[3]、1470年に爵位と領地をジョン・ネヴィルから取り戻し、式部卿に任命された[13]。以降エドワード4世に従って1475年のフランス遠征、1482年のスコットランド遠征に従軍した[14]。1485年のボズワースの戦いではリチャード3世側で出陣したが、戦闘に参加せず[16]、ヘンリー7世即位後、数カ月監禁されるも年末には釈放された。その後1489年に新税の徴税でヨークシャーで暴動が起きた際に暴徒に殺害されている[17]。
その息子の5代ノーサンバランド伯ヘンリー・アルジャーノン・パーシー(1478–1527)は、ぜいたくな生活を送って多額の借金を残した。しかし久しぶりにベッドの上で死んだ当主となった[18]。
その息子の6代伯ヘンリー・パーシー(1502-1537)は、少年時代にはトマス・ウルジー枢機卿の宮殿で暮らしており[19]、襲爵前にアン・ブーリンと恋人となったが、ウルジー枢機卿から叱責され、父の5代ノーサンバランド伯からも廃嫡すると脅され、この恋を断念している[20]。宗教改革に対する反発が原因で発生した1536年の恩寵の巡礼には参加しなかったが、弟2人が参加し、長弟トマス・パーシー(1504頃–1537)は1537年に私権剥奪されて処刑された。6代伯もその翌年に死去した[21]。
6代伯には子供がなく、自分の死後所領を王室に寄贈することを申し出ていた[22]。さらに相続人である弟トマス・パーシーは私権剥奪されていたため、当時の法の下ではその子(6代伯の甥)であるトマス・パーシー(1528–1572)に継承資格がなかった。そのため6代伯の死とともにノーサンバランド伯は一度廃絶となった[13][23]。その所領も王室のものとなった[22]。
以降20年ほどノーサンバランド伯の称号はパーシー家を離れたが、その間にジョン・ダドリーがノーサンバランド公に叙せられている[24]。
6代伯の甥トマス・パーシーは、カトリックであったことからメアリー1世の寵遇を得[3]、1557年4月30日にパーシー男爵、同年5月1日にノーサンバランド伯に叙位された。両爵位とも男子なき場合に弟ヘンリー・パーシーを特別継承者とする規定があり、またノーサンバランド伯位については以前のノーサンバランド伯位の継承資格者も継承可能であり[25]、7代伯爵の名乗りも許されていた[24]。しかしメアリー崩御後、プロテスタント化政策を推し進めるエリザベス1世と対立を深め、1569年に同じく北部カトリック貴族の6代ウェストモーランド伯爵チャールズ・ネヴィルとともに北部諸侯の乱を起こしたが、失敗し、1572年に大逆罪で処刑された。カトリックの殉教者と見なされ、後世カトリック教会から列福されている[26]。
7代伯には男子がなく、弟のヘンリー・パーシー(1532–1585)が8代伯となった[25]。彼は襲爵前にノーサンバランド州選挙区選出の庶民院議員を務めており、兄の反乱にも参加しなかったが、1571年に元スコットランド女王メアリー・ステュアートと共謀したとされ、ロンドン塔に送られた。獄中で襲爵し、1573年に釈放されるも1583年末にスロックモートン事件に連座して再度ロンドン塔に投獄され、1585年に自殺した(他殺説もあり)[27]。
その息子の9代伯ヘンリー・パーシー(1564–1632)は、エリザベス朝時代にレスター伯ロバート・ダドリーの指揮下でオランダで戦い[28]、1594年にはエリザベス1世からサイオン・ハウスを与えられた[29]。しかしステュアート朝時代の1605年、火薬陰謀事件に分流のトマス・パーシーが加わったために関与を疑われてロンドン塔に投獄され、1621年に釈放されるまで16年近く監禁生活を送った[30]。
10代伯アルジャーノン・パーシー(1602–1668)は、清教徒革命前夜の頃、チャールズ1世に厚遇され、枢密顧問官や海軍司令長官やスコットランド遠征軍司令官に任命された。しかし議会派と王党派の内戦が起きると議会派に味方し、それを知ったチャールズ1世は「私は奴に情婦のごとく阿ったのに、奴は裏切った」と怒りを露わにしていたという。伯は父を無実で投獄したステュアート朝が今更すり寄ってきたところで恩義など一切感じていなかったといわれる[31]。議会派に転じたとはいえ、貴族である以上共和国政界での活躍は限界もあり、結局政界から退いた。王政復古後には枢密院に復帰したが、1668年に死去した[32]。
その息子の11代伯ジョスリン(1644–1670)は襲爵後わずか2年で25歳にして死去[32]。生存している男子は亡く彼の死去と共に爵位は廃絶した[25][33]。
11代伯の死去の翌年の1671年にアイルランド・ダブリン市のトランク製造業者ジェイムズ・パーシーという男が8代伯の五男リチャード・パーシー(Richard Percy, ?-1648)の曽孫を名乗って貴族院に12代ノーサンバランド伯爵位を請求した。11代伯の未亡人エリザベス・パーシー(旧姓リズリー)(1646-1690)が抗議し、結局貴族院は1672年にジェイムズ・パーシーの請求を根拠なしとして退けた。その後もジェイムズは6代伯の弟インジェルラム・パーシー(Ingelram Percy, 生年不詳-1538)の子孫と主張して王座裁判所に申し立てているが、やはり敗訴している。インジェルラムは生涯独身で子供はなかった[34]。
エリザベス・パーシーとサマセット公シーモア家
[編集]11代ノーサンバランド伯は男子を残さなかったが、娘エリザベス・パーシー(1667-1722)があった。彼女は中世・近世のノーサンバランド伯パーシー家と近代のノーサンバランド公パーシー家(スミソン家)を繋ぐ存在である。ノーサンバランド伯爵位は男系男子に限られるので彼女が爵位を継承することはできなかったが、アニック城をはじめとする北部の所領、サセックス州南部のペットワース荘園、ノーサンバランド・ハウスやサイオン・ハウスなどロンドンの邸宅といったノーサンバランド伯爵家の財産は彼女が相続した[35]。
彼女はスキャンダルな人生を送ったことで知られる。1679年に第2代ニューカッスル公爵ヘンリー・キャヴェンディッシュの息子オーグル伯ヘンリー・キャヴェンディッシュと結婚したが、この最初の夫は父から爵位を継承する前に1680年に死去[36]。翌1681年にウィルトシャーの富豪トマス・シンと秘密結婚したが、その直後にオランダへ出奔し、そこでスウェーデン貴族のケーニヒスマルク伯爵カルル・ヨーハンと知り合った。エリザベスの敵によれば彼女はケーニヒスマルク伯爵に夫の殺害を依頼し、伯爵は3人の刺客にトマス・シンの馬車を襲撃させ、彼に致命傷を負わせた。伯爵と3人の実行犯は逮捕されたが、伯爵は外国貴族の特権を行使して釈放され、3人の実行犯のみ死刑となったが、これ以来エリザベスには「殺人者」という疑惑が付きまとった[37][38]。
その後彼女はイングランドに帰国し、1682年に第6代サマセット公チャールズ・シーモア(1662-1748)と三度目の結婚をした。さらにサマセット公夫人としてアン女王の宮廷で女官として活躍した。トーリー党支持者であるジョナサン・スウィフトはホイッグ党系の彼女を毛嫌いし、彼女のことを「殺人者」と非難したことでサマセット公爵夫人と仲の良いアン女王に嫌われ、イングランド主教や首席司祭への出世の道が閉ざされている[39]。
6代サマセット公とエリザベスの間の子であるアルジャーノン・シーモア(1684-1750)は、1722年の母の死後の1723年1月21日にパーシー男爵として議会招集されているが、これは当時、エリザベスが11代伯から1299年の議会召集令状によるパーシー男爵を継承していると誤認されていたからである。実際には1299年創設のパーシー男爵は1406年の私権剥奪で剥奪されており、11代伯が保持していたパーシー男爵位は1557年に勅許状で新設されたものであるため男系男子に限定されるものであり、ノーサンバランド伯位と一緒に廃絶している[25]。したがってこの時のパーシー男爵位は新設の物と見なされる(錯誤により創設された男爵)[25][40]。1748年に父が死去して第7代サマセット公爵位を襲爵したが、彼には男子がなかったので1749年10月2日に彼の娘エリザベスの夫である第4代準男爵ヒュー・スミソン(1714頃-1786)を特別継承者とするノーサンバランド伯爵とノーサンバランド州におけるワークワース城のワークワース男爵に叙位された[40][41]。
ノーサンバランド公爵パーシー家 (旧スミソン家)
[編集]1750年2月に7代サマセット公が死去すると、特別継承者の規定に基づいてヒュー・スミソン準男爵が第2代ノーサンバランド伯と第2代ワークワース男爵を継承するとともに議会の議決によりパーシーに改姓した[42][43]。スミソン家はイングランド内戦の際に王党派に尽くした功績で王政復古後の1660年に準男爵に叙せられていた家柄でヨークシャーのスタニックに6000エーカーの土地を所有した中規模の地主だった[44]。彼がパーシーに改名したことで80年ぶりに「ノーサンバランド伯パーシー家」が「復活」する形となった[45]。彼はその後もトーリー党の政治家として活躍し、1766年10月22日にはグレートブリテン貴族爵位ノーサンバーランド公爵に叙せられた[42][43]。
初代公の死後はその嫡出子の息子のヒュー・パーシー(1742-1817)が2代公を継承する。彼は陸軍大将まで昇進した陸軍軍人であり、トーリー党の政治家でもあった[43][46]。彼は父から公爵位を継承する前の1776年12月5日に母から前述のパーシー男爵を継承している[43]。
また初代公には非嫡出子があり、その一人が科学者のジェームズ・スミソンである。彼はパーシー家の血を引いていないため、父の元来の姓スミソンを名乗った。彼の遺産はアメリカ合衆国に寄贈され、この遺産をもとに1846年にスミソニアン協会が創設されている。ワシントンD.C.にあるスミソニアン博物館はスミソニアン協会が運営しているものである。ジェームズ・スミソンは生前「ノーサンバランドの爵位が絶え、パーシーの名が忘れ去られても、私の名前は人類に記憶されるだろう」と述べたという[47]。
2代公の息子の3代公ヒュー・パーシー(1785-1847)もトーリー党の政治家であり、1829年から1830年にかけてアイルランド総督を務めた[43]。しかし反動保守的な人物であり、1832年の選挙法改正に反対している[48]。
その弟の4代公アルジャーノン・パーシー(1792-1865)も保守党の政治家であり、公爵位を継承する前の1816年11月27日には連合王国貴族爵位のノーサンバーランド州におけるプルードホー城のプルードホー男爵に叙されていた。公爵襲爵後の1852年には第一次ダービー伯爵内閣で海軍大臣を務めている[43][49]。
4代公が死去するとプルードホー男爵位は廃絶し、また女系継承が可能なパーシー男爵位は第7代アソル公爵ジョン・ステュワート=マレーに継承された。ノーサンバランド公爵位は初代公の次男初代ビバリー伯アルジャーノン・パーシーの息子である2代ビバリー伯ジョージ・パーシー(1778-1867)が継承した[43]。
その息子である6代公アルジャーノン・パーシー(1810-1899)はヴィクトリア朝の保守党政権下で閣僚職を歴任した[43]。トーリー気質の者が多いノーサンバーランド公爵家の歴代当主の中でも特に保守反動的だったことで知られ、1867年の第二次選挙法改正や1886年に提出されたアイルランド自治法案に強く反対した[50]。
その孫である8代公アラン・パーシー(1880-1930)は、貴族院の極右グループの指導者となり、『愛国者』と名付けた定期刊行物を発行し、「大英帝国をユダヤ人とボルシェヴィズムから守る」と称して反ユダヤ主義と反共主義の宣伝を行った[51]。
その長男の9代公ヘンリー・パーシー(1912-1940)は、第二次世界大戦に従軍したが、1940年5月のドイツ軍の西方電撃戦の際にベルギー・エスケルムで戦死している[52]。
その弟である10代公ヒュー・パーシー(1914-1988)は、1957年の第9代アソル公爵ジェイムズ・ステュワート=マレーの死去時に彼が所持していたパーシー男爵を継承した。アソル公爵家に移っていたパーシー男爵位が再びノーサンバーランド公爵家に戻る形となった[43][53]。
2020年現在の当主は10代公の次男である12代公ラルフ・パーシー(1956-)である[43][54]。
初代公が領地で鉱山開発に励み、子孫たちが鉱山を賃貸して金を稼いだため、非常に裕福な貴族である。20世紀には経済的に没落する貴族が増え、領地売却が盛んになったが、ノーサンバーランド公爵家はうまく立ち回って大きな没落を防いだ。18万エーカーもの領地を有した19世紀後半の最盛期と比べると減少したものの、いまだ10万5000エーカー(1976年の発表)にもおよぶ領地を所有する大地主である[55]。ノーサンバランド州に広大な領地を持ち、ノーサンバランド伯パーシー家時代から伝わるアニック城やサイオン・ハウスを所有し続けている[29]。
備考
[編集]- 近代のノーサンバランド公パーシー家(スミソン家)と中世のノーサンバランド伯パーシー家の繋がりの薄さのためにしばしばノーサンバランド公パーシー家は新興貴族扱いを受けた。例えば作家サマセット・モームは甥のロビン・モーム(同じく作家で後に第2代モーム子爵)に宛てた、ロビンの父が爵位を与えられることにロビンが反対していることに関する手紙の中で次のように皮肉っている。「お前のお父さんに爵位が与えられるなら、息子のお前がとやかく批判するのは馬鹿げているよ。法廷弁護士を目指すお前にとっても、爵位は決して邪魔にはならんさ。競争相手にぶつかった時、この世の中は爵位の所有者には多少は有利に働くものだ。お前は自分の家が中産階級の出身だとか言っているが、そんなのは戯言だ。パーシーやグローヴナーの出自を知っているか。パーシーなんて名乗っているけど、本当の名前はスミなんとかいうんだぞ」[56]。
- イングランド・プロサッカーチームトッテナム・ホットスパーFCの「ホットスパー」はパーシー家がトッテナム湿地を所有していたことから同家の祖先である「ホットスパー」ヘンリー・パーシーから取ったものである[57]。
系図
[編集]ウィリアム・ド・パーシー[58] (1034頃-1096/9) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アラン[59] (1067頃-1130/5頃) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ウィリアム[60] (1088頃-1174/5) | ゴドフロワ1世 (1060頃-1139) | アイダ・オブ・シニー (1078–1117) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アグネス[61] (1134-1205頃) | ジョスリン・オブ・ルーヴァン[62] (1123頃-1180) | アデライザ・オブ・ルーヴァン (1103-1151) | ヘンリー1世 (1068-1135) | マティルダ・オブ・スコットランド (1080頃-1118) | ブラバント公 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ヘンリー[63] (1156頃-1198頃) | リチャード[64] (1170頃-1244) | マティルダ皇后 (1102-1167) | ウィリアム・アデリン (1103-1120) | ヘッセン家 マウントバッテン家 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ウィリアム[65] (1193頃-1245) | ヘンリー2世 (1133-1189) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ヘンリー[66] (1235頃–1272) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ヘンリー[67] 初代パーシー男爵 (1273–1314) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ヘンリー[68] 2代パーシー男爵 (1299–1352) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ヘンリー[69] 3代パーシー男爵 (1320–1368) | メアリー・オブ・ランカスター | トマス[70] ノリッジ司教 (1333-1369) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
マーガレット・ネヴィル | ヘンリー 初代ノーサンバランド伯 (1341–1408) | モード・ルーシー エグリモントと結婚 | トマス 初代ウスター伯爵 (1343–1403) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ヘンリー 「ホットスパー」 (1364–1403) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
エリザベス (1390頃–1437) | ヘンリー 2代ノーサンバランド伯 (1394–1455) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ヘンリー 3代ノーサンバランド伯 (1421-1461) | トマス 初代エグリモント男爵 (1422 – 1460) | キャサリン (1423-1475) | ジョージ (1424-1474 ) | ラルフ (1425-1464) | ウィリアム カーライル司教 (1428–1462) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ヘンリー 4代ノーサンバランド伯 (1449–1489) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ヘンリー 5代ノーサンバランド伯 (1478–1527) | アラン・パーシー (1480頃–1560) | ジョスリン (?-1532) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ヘンリー 6代ノーサンバランド伯 (1502–1537) | トマス (1504頃–1537) | エドワード (?-1590) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
トマス 7代ノーサンバランド伯 (1528–1572) | ヘンリー 8代ノーサンバランド伯 (1532–1585) | トマス (1560頃 – 1605) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ヘンリー 9代ノーサンバランド伯 (1564–1632) | ウィリアム (1574 – 1648) | ジョージ (1580–1632) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アルジャーノン 10代ノーサンバランド伯 (1602–1668) | ヘンリー アニックのパーシー男爵 (?-1659) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ジョスリン 11代ノーサンバランド伯 (1644–1670) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ヘンリー パーシー卿 (1668–1669) | エリザベス (1667 – 1722) | チャールズ・シーモア 6代サマセット公 (1662-1748) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アルジャーノン・シーモア 7代サマセット公 初代パーシー男爵 (1684 – 1750) | スミソン準男爵家 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ジョージ・シーモア ビーチャム子爵 (1725 – 1744) | エリザベス 2代パーシー女男爵 (1730 - 1776) | ヒュー・スミソン(パーシー) 4代準男爵 初代ノーサンバランド公 (1714 – 1786) | エリザベス・ケイト (1728-1800) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ヒュー 2代ノーサンバランド公 (1742 – 1817) | アルジャーノン 初代ビバリー伯 (1750 – 1830) | ジェームズ・スミソン (1765-1829) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ヒュー 3代ノーサンバランド公 (1785 – 1847) | アルジャーノン 4代ノーサンバランド公 (1792–1865) | ジョージ 5代ノーサンバランド公 (1778 – 1867) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アルジャーノン 6代ノーサンバランド公 (1810 – 1899) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ヘンリー 7代ノーサンバランド公 (1846 – 1918) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アラン 8代ノーサンバランド公 (1880 – 1930) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ヘンリー 9代ノーサンバランド公 (1912 – 1940) | ヒュー 10代ノーサンバランド公 (1914 – 1988) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ヘンリー 11代ノーサンバランド公 (1953 – 1995) | ラルフ 12代ノーサンバランド公 (1956 -) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ジョージ パーシー伯 (1984 – ) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
紋章
[編集]-
パーシー家の元来の紋章
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ジョスリン・オブ・ルーヴァン以降のパーシー家の紋章
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ガーター騎士団員としてのヘンリー・パーシー(ホットスパー)の紋章
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ガーター騎士団員としての4代ノーサンバランド伯ヘンリー・パーシーの紋章
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ガーター騎士団員としての5代ノーサンバランド伯ヘンリー・アルジャーノン・パーシーの紋章
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ガーター騎士団員としての6代ノーサンバランド伯ヘンリーパーシー
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ガーター騎士団員としての7代ノーサンバランド伯トマス・パーシーの紋章
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ガーター騎士団員としての9代ノーサンバランド伯ヘンリー・パーシーの紋章
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ガーター騎士団員としての10代ノーサンバランド伯アルジャーノン・パーシーの紋章
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スミソン準男爵家の紋章[71]
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初代ノーサンバランド公爵ヒュー・パーシーの紋章
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ノーサンバランド公爵パーシー家の紋章
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現在のノーサンバランド公爵パーシー家の紋章
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c 海保眞夫 1999, p. 50.
- ^ 海保眞夫 1999, p. 48.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 松村赳 & 富田虎男 2000, p. 573.
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- ^ a b c d e Heraldic Media Limited. “Northumberland, Earl of (E, 1416 - 1537)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2020年5月14日閲覧。
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- ^ Lundy, Darryl. “Thomas de Percy” (英語). thepeerage.com. 2020年5月14日閲覧。
- ^ Collins' Baronetage of England; The old arms can be seen carved in wood impaling the arms of Fairfax (A lion rampant) on the staircase of Moulton Hall, Richmond, York, made following the 1653 marriage of George Smithson. See image in: Smithson, George R., Genealogical notes memoirs of the Smithson family, London, 1906, plate between pp.24&25 [1]
- ^ Collins, Arthur, The English Baronetage, vol.3, part 1; Victoria County History, Stanwick St John
参考文献
[編集]- 青山吉信 編『イギリス史〈1〉先史~中世』山川出版社〈世界歴史大系〉、1991年(平成3年)。ISBN 978-4634460102。
- 海保眞夫『イギリスの大貴族』平凡社〈平凡社新書020〉、1999年(平成11年)。ISBN 978-4582850208。
- 松村赳、富田虎男『英米史辞典』研究社、2000年(平成12年)。ISBN 978-4767430478。
- 森護『英国の貴族 遅れてきた公爵』大修館書店、1987年。ISBN 978-4469240979。