ゴドフロワ1世 (ルーヴェン伯)
表示
ゴドフロワ1世 / ゴットフリート6世 Godefroid I / Gottfried VI. | |
---|---|
ルーヴェン伯 下ロートリンゲン公 | |
在位 |
ルーヴェン伯(1世):1095年 - 1139年 下ロートリンゲン公(6世):1106年 - 1128年 |
出生 |
1063年ごろ |
死去 |
1139年1月25日 |
埋葬 | ブラバント、アーフリゲム修道院 |
配偶者 | イド・ド・シニー |
家名 | レニエ家 |
父親 | ルーヴェン伯アンリ2世 |
母親 | アデラ・ファン・ベトゥウェ |
ゴドフロワ1世(フランス語:Godefroid I, 1063年ごろ - 1139年1月25日)またはゴットフリート6世(ドイツ語:Gottfried VI.)は、ルーヴェン伯およびブラバント方伯(1世、在位:1095年 - 1139年)、下ロートリンゲン公(6世、在位:1106年 - 1128年)。髭公(フランス語:le Barbu、ドイツ語:der Bärtige)とよばれる。
生涯
[編集]ゴドフロワ1世はルーヴェン伯アンリ2世とアデラの次男である。兄アンリ3世が1095年に死去した後、ゴドフロワはルーヴェン伯およびブラバント方伯となった。1106年には下ロートリンゲン公領およびアントウェルペン辺境伯領を与えられたが、1128年にリンブルフ伯ヴァルラム2世にこれらの支配権を譲ることを余儀なくされた。ただしロートリンゲン公の称号を名乗ることは許された。1129年にフランスのランにあるプレモントレ会のサン=マルタン修道院長となり、ルーヴェンの近くに修道院を設立するよう要請された。このために、ゴドフロワは公園と狩猟屋敷を寄付し、翌年にパーク修道院(en)が創建された。
ゴドフロワは1139年1月25日に死去し、アーフリゲム修道院に埋葬された。息子ゴドフロワ2世(ゴットフリート7世)がルーヴェン伯位を継承した。
結婚と子女
[編集]1105年ごろにシニー伯オトン2世の娘イド・ド・シニー(1117/25年没)と結婚し、少なくとも5子をもうけた。
- アデライード(1103年 - 1151年) - イングランド王ヘンリー1世と結婚、初代アランデル伯ウィリアム・ド・アルビーニーと再婚
- ゴドフロワ2世(1107年頃 - 1142年) - ルーヴェン伯、下ロートリンゲン公(7世)
- クラリス(1142年没)
- アンリ(1141年没) - 修道士
- イド(1162年没) - クレーフェ公アルノルト1世と結婚
最初の妃イドの死後、ブルゴーニュ伯ギヨーム1世の娘でフランドル伯ロベール2世の未亡人クレマンスと再婚した。この結婚で子供は生まれなかった。
また、庶子が1人いる。
- ジョスラン(1121/36年 - 1180年) - ウィリアム・ド・パーシーの娘で相続人のアグネス・ド・パーシーと結婚。パーシー家の祖。
参考文献
[編集]- Ernst Bernheim (1879). "Gottfried mit dem Barte". Allgemeine Deutsche Biographie (ドイツ語). Vol. 9. Leipzig: Duncker & Humblot. pp. 473–475.
- Kurt Reindel: Gottfried V. „der Große“. In: Neue Deutsche Biographie (NDB). Band 6, Duncker & Humblot, Berlin 1964, ISBN 3-428-00187-7, S. 663 f. (電子テキスト版).
|
|
|
|
|
|