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「日本近代史」の版間の差分

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そうした中で、経済の閉塞とも見られる現象も見られ、マイナス成長すら記録されるようになった。そのため「構造不況」の克服、「[[構造改革]]」の必要が各方面から叫ばれるようになった。過疎化や産業空洞化が進展し、地方経済は不振を極めた。そして[[21世紀]]に入り、政治面では[[2001年]](平成13年)に[[中央省庁再編]]という近代政治史上以来の改革が行われた。経済では、[[2006年]](平成18年)から[[2007年]](平成19年)にかけては、外需主導で企業業績が好転した。しかし企業の人件費抑制などにより、内需は冷え込んだままで、国民の生活が「豊かになっている」という実感はごく一部に限られている。更に、[[2008年]](平成20年)以後はアメリカの[[サブプライムローン]]を引き金とする[[世界金融危機 (2007年-)|世界同時不況]]により、日本の景気は内需・外需ともに八方塞がりに悪化した。
そうした中で、経済の閉塞とも見られる現象も見られ、マイナス成長すら記録されるようになった。そのため「構造不況」の克服、「[[構造改革]]」の必要が各方面から叫ばれるようになった。過疎化や産業空洞化が進展し、地方経済は不振を極めた。そして[[21世紀]]に入り、政治面では[[2001年]](平成13年)に[[中央省庁再編]]という近代政治史上以来の改革が行われた。経済では、[[2006年]](平成18年)から[[2007年]](平成19年)にかけては、外需主導で企業業績が好転した。しかし企業の人件費抑制などにより、内需は冷え込んだままで、国民の生活が「豊かになっている」という実感はごく一部に限られている。更に、[[2008年]](平成20年)以後はアメリカの[[サブプライムローン]]を引き金とする[[世界金融危機 (2007年-)|世界同時不況]]により、日本の景気は内需・外需ともに八方塞がりに悪化した。


世界同時不況下の[[2009年]](平成21年)実施の[[第45回衆議院議員総選挙|衆院選]]の結果、高まる政治不信により自民党・[[公明党]]の[[自公連立政権]]から[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]](後の[[民進党]]、[[国民民主党 (日本 2018-)|国民民主党]]、[[立憲民主党 (日本)|立憲民主党]]の前身)への[[政権交代]]が起きたが、民主党の政権運営のまずさや[[マニフェスト]]破りなどの要因によって政治不信は更に高まり、[[日本の経済|日本経済]]も回復することはなかった。そして、国民の政治不信は選挙に対する投票率の低下という形に帰結した<ref>[[2012年]](平成24年)の[[第46回衆議院議員総選挙]]の投票率は過去最低の59.32%であった。</ref>。[[2012年]](平成24年)の[[第46回衆議院議員総選挙|衆院選]]には低投票率ながら自民党が圧倒的勝利をおさめ、[[鳩山由紀夫]]、[[菅直人]]、[[野田佳彦]]首相という短命に終わった民主党政権を終焉を迎え、3年ぶりに[[自公連立政権]]が復活した。
世界同時不況下の[[2009年]](平成21年)実施の[[第45回衆議院議員総選挙|衆院選]]の結果、高まる政治不信により自民党・[[公明党]]の[[自公連立政権]]から[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]](後の[[民進党]]、[[国民民主党 (日本 2018-)|国民民主党]]、[[立憲民主党 (日本 2017)|立憲民主党]]の前身)への[[政権交代]]が起きたが、民主党の政権運営のまずさや[[マニフェスト]]破りなどの要因によって政治不信は更に高まり、[[日本の経済|日本経済]]も回復することはなかった。そして、国民の政治不信は選挙に対する投票率の低下という形に帰結した<ref>[[2012年]](平成24年)の[[第46回衆議院議員総選挙]]の投票率は過去最低の59.32%であった。</ref>。[[2012年]](平成24年)の[[第46回衆議院議員総選挙|衆院選]]には低投票率ながら自民党が圧倒的勝利をおさめ、[[鳩山由紀夫]]、[[菅直人]]、[[野田佳彦]]首相という短命に終わった民主党政権を終焉を迎え、3年ぶりに[[自公連立政権]]が復活した。


またこの間、[[2011年]](平成23年)[[3月11日]]には、[[東北地方太平洋沖地震]]により[[東日本大震災]]が発生し、未曽有の自然災害が襲った。とりわけ、[[福島第一原子力発電所事故]]の影響は凄まじいものとなった。
またこの間、[[2011年]](平成23年)[[3月11日]]には、[[東北地方太平洋沖地震]]により[[東日本大震災]]が発生し、未曽有の自然災害が襲った。とりわけ、[[福島第一原子力発電所事故]]の影響は凄まじいものとなった。

2020年11月1日 (日) 09:28時点における版

日本近代史(にほんきんだいし)では幕末以後の日本の歴史、特に天皇一代で一元号を定めた「一世一元の制」が採用された1868年慶応4年/明治元年)以降について概略的に述べる。

江戸幕府の動揺と近代化の始まり

明治(大日本帝国憲法施行前)

大日本帝国憲法下

明治

文明開化、殖産興業・富国強兵

日清・日露戦争

大正

第一次世界大戦と反動不況

1914年(大正3年)には第一次世界大戦が勃発した。日本は直接的戦闘地域は殆どなかったにもかかわらず元老の井上馨はその機会を「天佑」と言い、大隈内閣日英同盟を理由に参戦し戦勝国の一員となった。実質的損害はなく、戦火に揺れたヨーロッパの列強各国に代わり日本と当時まだまだ新興国家だったアメリカ合衆国は貿易を加速させて空前の好景気となり、日本でも大戦景気成金などが出現するなど大きく経済を発展させた。

第一次世界大戦中の1917年(大正6年)にはロシア革命が勃発し、ロマノフ王朝が打倒され、ソビエト連邦が誕生した。寺内内閣はソビエト政権を転覆する為にシベリアに出兵したが(→反革命戦争)、折から国内では米価が暴騰し、富山県から米騒動が起こり、全国に広がった。政府はようやくそれを鎮圧したが、シベリア出兵を推進した寺内正毅首相は退陣し、代わって初めて爵位がなく、また衆議院に議席を持つ立憲政友会(政友会)の原敬が首相となった(原内閣)。政友会でも、西園寺公望薩摩系と結び付きが強かったのに対し、原敬は長州系と結び付きが強かった。原敬の祖先は南部盛岡藩藩士であったが、平民宰相として人気を博したものの1922年(大正11年)、東京駅頭で一青年に暗殺された。この当時、社会問題の深刻化が見られ、社会保障をめぐる議論も盛んとなり、米騒動後には、政府・地方で社会局の創設が相次いだ。

第一次世界大戦が終わって諸列強の生産力が回復すると、日本の輸出は減少し、1920年(大正9年)以後は戦後恐慌の時代となった。その戦後恐慌時代の1923年(大正12年)には、関東大震災が発生した。この未曽有の大災害に東京は大きな損害を受けるが、震災後、山本権兵衛内閣が成立し、その内務相となった後藤新平が辣腕を振るった。震災での壊滅を機会に江戸時代以来の東京の街を大幅に改良し、道路拡張や区画整理などを行いインフラが整備され、大変革を遂げた。また、ラジオ放送が始まるなど近代都市へと復興を遂げた。しかし、一部に計画されたパリロンドンを参考にした環状道路や放射状道路等の理想的な近代都市への建設は行われず、日本は戦後の自動車社会になってそれを思い知らされることとなり、戦後の首都高速の建設につながる。一方、この震災に乗じて、暴動が生じるというデマが振り撒かれ、朝鮮人や共産主義者の虐殺が行われた亀戸事件などが起こったことは、歴史の負の側面であろう。

大正期を特色付けるのは、大正デモクラシーと称される政治の新しい動向である。明治末期にかけては軍部元老山縣有朋の下で藩閥政治が続いていたが、大正初期にかけては山県系列の桂太郎と比較的リベラルな西園寺公望が交代で組閣し、桂園時代とも呼ばれていた。1912年(明治45年)、第2次西園寺内閣の陸軍大臣上原勇作が、内閣が2個師団増設を否決したことに抗議して単独辞任し、陸軍は後任陸相を出さなかったため軍部大臣現役武官制によって陸相を欠いた西園寺内閣は総辞職した。その後、桂太郎が議会での交代のルールを無視して宮中侍従長から3度目の首相に返り咲こうとした。桂太郎は、パーティなどでニコニコしながら相手の肩をポンと叩いて情誼を通じることが癖で、「ニコポン首相」と呼ばれていた。

この桂の返り咲きに対して、都市部の知識階級を中心にその反発は強まった。そして尾崎行雄犬養毅らによる憲政擁護運動護憲運動)が起こり、新聞の批判も起こった外、民衆が国会を取り囲む事態も生じ、大正デモクラシーへと発展していった(第一次大正政変)。このため山本権兵衛(第1次)に組閣の命が下った。山本内閣は軍部大臣現役武官制を緩和するなど、事実上政友会に近い姿勢を示したが、シーメンス事件で退陣し、次いで庶民的で大衆に人気のあった大隈重信が組閣した。その後、関東大震災や虎ノ門事件の発生は、それまでの藩閥に危機意識を抱かせ、第2次山本権兵衛内閣が虎ノ門事件で倒れた後、枢密院議長から天下って清浦奎吾が内閣を組織しようとした。それに対し憲政会革新倶楽部・政友会の三派は、普選の採用、政党内閣制の樹立を掲げて、藩閥・官僚勢力を主体とした政友本党に対抗した。護憲三派は選挙で勝利し、護憲三派内閣として加藤高明内閣が成立した(第二次大正政変)。

加藤内閣は、1925年(大正14年)には、身分や財産によらず「25歳以上の成人男子全員」に選挙権を与える普通選挙法を成立させた。普選は、婦人の参政権は認めず、生活貧困者の選挙権も認めないなどの制約があった。またそれは「革命」の安全弁としての役割も期待されていたが、それと同時に治安維持法を成立させ、「国体の変革」「私有財産否定」の活動を厳重に取り締まった。しかしこれによって政党政治が定着するようになった。この後、1932年(昭和7年)に犬養内閣五・一五事件による犬養毅首相の暗殺で倒れるまで、政党政治が続き、明治以来の藩閥政治は終わり、政治は、官僚や軍部を基盤にしつつも政党を中心に動いていくこととなった。

このころまでに近代日本語が多くの文筆家らの努力で形成された。今日に続く文章日本語のスタイルが完成し、芥川龍之介有島武郎武者小路実篤志賀直哉白樺派中里介山の『大菩薩峠』や『文藝春秋』の経営にも当った菊池寛などの文芸作品が登場した。同時期の1921年(大正10年)には、小牧近江らによって雑誌『種蒔く人』が創刊され、昭和初期にかけてプロレタリア文学運動に発展した。また、1924年(大正13年)には、演劇で小山内薫築地小劇場を創立し、新劇を確立させた。新聞、同人誌等が次第に普及し、新しい絵画や音楽、写真や「活動写真」と呼ばれた映画などのエンターテイメントも徐々に充実した。

昭和・戦前戦中

関東大震災後の1927年(昭和2年)には、関東大震災の手形の焦げ付きが累積し、それをきっかけとする銀行への取り付け騒動が生じ、昭和金融恐慌となった。若槻禮次郎内閣は鈴木商店不良債権を抱えた台湾銀行の救済のために緊急勅令を発しようとしたが、枢密院の反対に会い、総辞職した。あとを受けた田中義一内閣は、高橋是清蔵相の下でモラトリアム(支払い停止令)を発して全国の銀行の一斉休業と日銀からの緊急貸し出しによって急場をしのいだ。

又、1925年(大正14年)には、中国では孫文の後を蔣介石が継ぎ、国民政府軍が北伐(中国革命で中国北部の軍閥勢力を平定すること)を開始して、華北に進出した。田中内閣はこのため3回に及ぶ山東出兵を行い、東京で外交・軍部関係者を集めて東方会議を開き、満蒙の利害を死守することを確認した。これに基づいて政府は満州の実力者張作霖と交渉し、満洲の権益の拡大を図ったが、張は応じず、関東軍は張の乗る列車を爆破して暗殺した。関東軍は当初この事件を中国国民政府軍の仕業だと公表したが、実際は関東軍参謀河本大作の仕業であったため国内の野党から「満州某重大事件」として追及された。田中は昭和天皇に事件の調査を約束しながら、陸軍の突き上げによって事態を曖昧にしようとしたため、天皇から説明を聞きたくないと不快を表明され、田中内閣はこのため総辞職した。

田中内閣はもともと前の大正政変で生まれた護憲三派内閣、特に幣原外交の中国内政不干渉政策を「軟弱外交」として批判して登場した。従って田中義一は自ら外相を兼任し、中国での革命の進展に対して強く干渉した。しかし中国での武力行使に対する列国の批判をかわすためもあって、1928年(昭和3年)に、パリで締結されたいわゆるパリ不戦条約には調印した。ただこの不戦条約は、第1条で「人民ノ名ニ於テ」戦争を放棄することをうたっており、天皇をないがしろにするものとする批判が国内に生じたため、新聞紙上でも侃々諤々の論議が行なわれた末、翌年に至って批准された。また、田中内閣は国内で思想取締強化をはかったことでも知られている。特に普選実施後、予想外の進出を示した無産政党や共産党に対する弾圧を強め、同年に三・一五事件、翌年に四・一六事件を起こして共産党系の活動家と同調者の大量検挙を行なった。その間、緊急勅令により、治安維持法を改正して最高刑を死刑とした。

世界恐慌と政党政治への不信・軍部の台頭

1920年代より文化や社会科学の研究ではマルクス主義(科学的社会主義)が隆盛となり、1932年(昭和7年)には、野呂栄太郎らによる『日本資本主義発達史講座』が岩波書店から発行され、知識層に多大の影響を及ぼした。その執筆者は「講座派」と呼ばれたが、それに対して批判的な向坂逸郎らは雑誌『労農』により、「労農派」と呼ばれた。両派は以後、活発な論戦を繰り広げたが、国家主義的革新運動の台頭に伴い、弾圧を受け、強制的に収束して行くこととなった。

そんな中の1929年(昭和4年)10月24日ニューヨークウォール街株価の大暴落し、世界恐慌が始まった。それは日本にも波及し、翌年、田中内閣の後を受けた濱口雄幸内閣が実行した金解禁を契機として昭和恐慌が引き起こされた。この恐慌は戦前の恐慌の内で最も深刻なものであった。イギリスフランスアメリカ合衆国などの「持てる国」が植民地囲い込みによるブロック経済で建て直しを図ったが、第一次世界大戦の敗戦で多額の賠償金を負っていたドイツや、目ぼしい植民地を所持しない「持たざる国」である日本などは深刻化な経済不況に陥った。このことはファシズムの台頭を招き、ドイツではナチ政権を生み出す結果となり、日本では満洲(中国東北部)は日本の生命線であると主張され、軍の中国進出を推進する要因となった。

各国が世界大戦後の財政負担に耐えかねている状況でアメリカとイギリスが中心となり、ワシントン軍縮条約が提案された。日本はイギリス・アメリカ・フランス・イタリアと共に五大軍事大国としてこれに調印し、いわゆる列強になった。しかもワシントン条約の戦艦保有率を米英の5に対して日本が3を保持したことは、世界3位の国になったことになる。この軍縮条約では、日本の中国進出を牽制する内容や日英同盟破棄も含まれていたため、軍部や官僚の中でも激しい意見対立があった。

1931年(昭和6年)には関東軍の謀略により柳条湖事件が引き起こされ、政府の戦争不拡大の方針を軍が無視する形で満州事変に発展し、ポツダム宣言受諾による降伏まで15年もの間繰り広げる十五年戦争に突き進んだ。このことで中国での権益、南方資源地帯の利権を巡り、欧米諸国との対立は深まっていった。また、1932年(昭和7年)には海軍将校らが犬養毅首相を射殺した五・一五事件や、1936年(昭和11年)に皇道派の青年将校が斎藤実内大臣と高橋是清蔵相を射殺した二・二六事件事件が起こり、軍部の暴走が目立ち、政党内閣は滅び去った。その後、軍部の台頭は強まり、廣田弘毅内閣では過去に廃止となった軍部大臣現役武官制を復活させる。このことで現役軍人しか陸軍大臣および海軍大臣のポストには就くことができず、軍の協力なしに内閣を組閣することができなくなり、議会はその役割を事実上停止する。日本の満洲建国に前後して、国際連盟リットン調査団を派遣し、その調査結果に基づいて、1933年(昭和8年)2月、日本の撤退勧告案を42対1(反対は日本のみ、ほかにシャム(タイ)が棄権し、チリが投票不参加)で可決した。これを受けた日本の全権代表松岡洋右は「もはや日本政府は連盟と協力する努力の限界に達した」ことを宣言して総会会場を去り、3月には国際連盟の脱退を表明した(1935年(昭和10年)3月27日正式脱退。)。このことにより日本は国際的に決定的に孤立の道を歩んでいった。

1937年(昭和12年)には、盧溝橋事件で日中両軍が衝突し、日中戦争支那事変)が勃発した。ヨーロッパでは1939年(昭和14年)9月、ナチス政権下のドイツがポーランドに侵入し、第二次世界大戦が勃発した。日本は当初、「欧州戦争に介入せず」と声明したが、1940年、フランスがナチス・ドイツに降伏し、ドイツ・イタリアの勢力が拡大するに及んで日独伊三国軍事同盟(三国同盟)を締結した。大西洋憲章を制定した米英の連合国に対し、日独伊は枢軸国と呼称されるようになった。

国内の文化・思想に関しては、戦時体制が強化されるにともなって治安維持法による思想弾圧が目立ち、1937年(昭和12年)には、加藤勘十鈴木茂三郎らの労農派の関係者が人民戦線の結成を企図したとして検挙される人民戦線事件が起こった。この時期には、合法的な反戦活動は殆ど不可能になっていた。

第二次世界大戦

日中戦争支那事変)勃発後の1937年(昭和12年)に、資源局企画庁を統合した企画院が設置され、満州国の経済改革(満州産業開発五カ年計画)などで功績を挙げた岸信介ら「革新官僚」が登用された。また、近衛文麿を中心とする新体制運動が進められ、1940年(昭和15年)10月には、大政翼賛会が結成され、既成政党は呼応して解党した。翼賛会は、経済新体制を創出する統制会大日本産業報国会と並んで政治面で日中戦争(支那事変)から第二次世界大戦太平洋戦争大東亜戦争)の遂行を支え、「高度国防国家体制」の創設を目指す大政翼賛運動の推進に当った。組織原則では、衆議は尽くすが最終的な決定は総裁が下すという「衆議統裁」形式が採られた。これはナチス・ドイツの組織原則を真似たものであると言われる。総裁は首相が兼任し、初代総裁には近衛が就任した。当初は総裁の指名によって事務総長に近衛側近の有馬頼寧(よりやす)が任命され、中央本部に総務・組織・政策・企画・議会の五局及び23部が設置された。地方にもこの支部が設けられ、支部長の多くは知事・市町村長が任命され、中央・地方に協力会議が設置された。しかしその後部内では主導権争いが頻発し、また1941年(昭和16年)には、公事結社とされて政治活動は禁止され、有馬らの近衛グループは退陣、内務省及び警察主導の行政補助機関に過ぎないものとなっていった。

アドルフ・ヒトラーナチ党率いるナチス・ドイツ及びベニート・ムッソリーニのファシスト率いるイタリア王国との日独伊三国同盟の締結や仏印進駐によって、日本とアメリカ合衆国イギリスオランダとの関係は悪化し、戦争中の中華民国を含め物資の入手が困難な状況に陥いり、「ABCD包囲網」を仕組ませられた。日本では、従来陸軍を中心として対ソ連戦争を目指す「北進論」と南方に進出することを目標とする「南進論」との二派があったが、北進論は国境線をめぐり紛争となっていた張鼓峰ノモンハン事件で偵察的な戦闘を行った際にソビエト連邦軍に大敗したことにより頓挫していた。日ソ中立条約を締結し北の守りを固めるなど対米戦争を準備する一方、外務省1941年(昭和16年)晩秋までフランクリン・ルーズベルト大統領(民主党)率いるアメリカ政府との日米交渉を続けた。しかし、近衛内閣総辞職により、開戦反対の意思を抱いていた昭和天皇の意向も汲み東條英機陸相に組閣の大命が下り、東條内閣にあって軍の強硬姿勢もあり交渉は難航し、国務長官コーデル・ハルより「日本の全ての植民地を返還する事(=日清・日露戦争以来、日本が獲得してきた極東における権益の全てを放棄することを意味)」などを要求する交渉案を提示され(通称「ハル・ノート」)、これを事実上の最後通牒と解釈した日本は対英米蘭開戦を決定した。こうして太平洋戦争大東亜戦争)が始まり、日本も枢軸国の一員として第二次世界大戦に参戦するに至った。

1941年(昭和16年)12月8日(現地時間12月7日)、日本はアメリカのハワイ州オアフ島真珠湾の米軍基地及び東南アジアにおけるイギリスとアメリカ、オランダ領の植民地も攻撃し、連合国側に対し宣戦布告した。しかし戦争の前途に確信があったわけではなく、日米開戦には反対の立場でありつつ開戦当初から、山本五十六は「一年間は戦況を維持しうるが、それ以上は無理であろう」と語っていたと言われる。開戦当初、日本軍は今でこそ一般的な航空母艦艦載機を主力とする航空機を巧みに使用した新しい戦法を用いて、史上初めて航空機のみの攻撃によって活動中の戦艦を撃沈させるなど、アメリカ軍、イギリス軍を相手に連戦連勝を収め、日本国民はこの緒戦の大勝利に酔いしれた。

1942年(昭和17年)にはオランダに対しても宣戦布告してインドネシアを攻略、戦線を拡大していった。東條内閣翼賛選挙を実施し、翼賛政治体制を確立した。また、大日本産業報国会農業報国連盟商業報国会日本海運報国団大日本青少年団大日本婦人会の官製国民運動6団体を翼賛会に従属させた。更に町内会部落会に世話役を、隣組に世話人を置いた。世話役は町内会長が兼任し、全国で約21万人、世話人は隣組長兼任で約154万人であった。町内会は生活必需物資の配給機構をも兼ねていたので、国民生活は隅々まで統制と監視にさらされることとなった。

当時、日本の石油備蓄量がわずか2年分であったことから、南方の石油天然資源の確保は日本の至上命令であった。当時、東南アジアは欧米諸国の植民地であったために、この戦争を独立の機会として日本に協力する動きもあったが、日本の強圧的な占領政策により、現地の反発は次第に大きくなっていった。日本はアジアにおける進出の正当性を訴えるため、1943年(昭和18年)10月に、東京でアジア地域の首脳を招請して、大東亜会議を開催し、自主独立、東アジア各国の相互協力などを謳った大東亜共同宣言を発表した。

ミッドウェー海戦を皮切りにアメリカはこれまでの劣勢を巻き返し、日本にとって次第に戦況は傾いていった。この海戦で日本は最重要の主力兵器である正規航空母艦4隻を失い、開戦以来の大敗北となった。しかし国民には虚偽の戦況が伝えられ、日本国民は負けていることを知らされていなかった。このころすでに、展望もないまま数百万の大軍を広大な大陸に送り込んでいた中国戦線での消耗も激しかった。また、最重要資源となっていた石油も、制海権を失うことで日本本国への輸送が困難となり、次第に備蓄は底をついていった。兵器・戦略物資の損失を補充するための財政力、工業生産力ともにアメリカ合衆国の数10分の1でしかない日本の戦況は、目に見えて悪化していった。大政翼賛会は本土決戦体制への移行のため、1945年(昭和20年)に解散して、国民義勇隊に改組された。

1944年(昭和19年7月にはサイパン島が陥落し、その責任を問われる形で同年7月22日東條内閣総辞職、小磯國昭首相が就任し小磯内閣が成立する。このことで日本本土は連日のように空襲に晒され(日本本土空襲)、1945年(昭和20年)3月10日には、無差別爆撃により民間人8万人以上が死亡し、焼失家屋は約27万8千戸、東京の3分の1以上の面積(40平方km)に至る惨劇となった東京大空襲が行なわれた。日本国内ではすでに燃料と材料不足で稼動停止していた工場群や道路・港湾・鉄道等の社会資本も徹底的に破壊され、生活物資すら窮乏するようになった。同年4月7日に小磯内閣総辞職、鈴木貫太郎首相が就任し鈴木貫太郎内閣が成立する。1945年(昭和20年)7月26日に、連合国日本の降伏を要求するポツダム宣言を発表するが、日本政府は「黙殺」の態度をとった。同年8月6日と9日にはアメリカ軍によって世界初の原子爆弾実戦使用として広島市への原子爆弾投下長崎市への原子爆弾投下が行われ、両市は壊滅し数十万人の民間人が死亡したほか、重い後遺症に苦しむ多数の被爆者を生んだ。

戦争の継続が困難となった日本は、中立条約を結んでいたソビエト連邦政府の仲介での和平工作を行ったが失敗した。ヨシフ・スターリンソ連共産党書記長率いるソ連はヤルタ会談での密約、連合国の要請に従って日本に宣戦布告し、満州国に侵攻した。主力を中国戦線に送り込んでいた関東軍は突然の侵攻に総崩れとなり、満州国は崩壊した。2発の原爆投下とソ連参戦を受け、日本政府は御前会議において昭和天皇によるいわゆる「聖断」によって降伏を決定し、ポツダム宣言を受諾する旨を連合国に通告した(8月14日)。翌8月15日正午、昭和天皇の肉声(録音)によるラジオ放送(玉音放送)により降伏の事実は日本国民に伝えられた。その後、日本人の引き揚げは困難を極め、多数の日本人移住者が存在した満州国においては中国残留孤児問題が生じた。ソ連軍によってシベリアに抑留されるもの、中国の国共内戦では中国共産党軍中国国民政府軍に参軍させられたり、強制労働を強いられ、多くの日本人が虐殺される通化事件のような悲劇も起きた。一方、自らベトナム独立戦争インドネシア独立戦争に身を投じるものもいた。

降伏文書の調印は、1945年(昭和20年)9月2日に、東京湾上のアメリカ海軍戦艦ミズーリ号にて行われた。

日本国憲法下

昭和・戦後

冷戦時代

連合国軍被占領時代

第二次世界大戦で敗れた日本は、それまで領土としていた、台湾朝鮮南樺太南洋群島千島列島歯舞群島色丹島を失った。このうち、千島列島および歯舞群島・色丹島については、各種の議論があり、1875年(明治8年)の樺太・千島交換条約で平和的に獲得されて日本の領土となったため、日本は千島列島全島の領土権を主張できるとの考え方もあるが、日本政府は、千島列島のうち、国後島択捉島についてのみ日本固有の領土であると主張し、歯舞・色丹の2島は北海道に属すると説明している。また、ごく一部に南樺太の領有権を主張する動きもある。

1945年(昭和20年)8月15日から1952年(昭和27年)4月27日までの7年間にわたって、有史以来初めて外国(アメリカ軍のGHQ)に占領され、連合国最高司令官としてダグラス・マッカーサー元帥が着任した。マッカーサーは政治的には共和党右派で、本来反共主義者であったが、戦後直後の民主化は戦争直後の内閣として組閣された東久邇宮稔彦王内閣の予想を超える急進的な内容を持っていた。東久邇宮内閣は戦時中の政治の継続を行っただけで、民主化の進展に対応できず、総辞職した。なおこの内閣はわずか54日間に終わったという、戦前戦後含め憲政史上最短任期の内閣としても記録されている。

アメリカ軍の占領下で、幣原喜重郎首相の幣原内閣、次いで吉田茂首相の吉田内閣を通じ、農地改革財閥解体・労働改革の3大経済改革と呼ばれる民主化措置が実施された。また、旧治安維持法が撤廃されるとともに二次にわたる公職追放が行われ、第二次世界大戦に加担した者の公職からの追放及び被選挙権の停止措置が採られた。首相の座が目前の位置にいた鳩山一郎の場合、戦前の京大滝川事件時の文相(現在の文科相)であったことを理由に、政治的活動が制約された。また、1946年(昭和21年)には、極東国際軍事裁判(東京裁判)が開廷され、戦争犯罪人は、戦争を計画し遂行した平和への罪(A級)、捕虜虐待など通例の戦争犯罪(B級)、虐殺など人道に対する罪(C級)としてそれぞれ処断された。

連合国 (Allies) の日本占領は、事実上のアメリカ軍の単独占領であったが、直接統治方式による軍政(アメリカの高等弁務官による統治)は沖縄に施行され、日本本土は間接統治方式によって日本政府を通じて占領政策が実施された。占領をめぐって、連合国内部にも意見の相違が表れ始め、ソ連ヨシフ・スターリンは、北海道の北半分のソ連占領を提案したが、アメリカのハリー・S・トルーマン大統領が拒否し、本土は統一的なアメリカの占領下に置かれた。一方、トルーマンは「共産主義」封じ込めの必要を強調する「トルーマン・ドクトリン」を発表してギリシャでの内戦に介入し、ウィンストン・チャーチル元イギリス首相が「鉄のカーテン」演説で予測した東西「冷戦」が本格化した。

日本では、同じ敗戦国でも東西に分割されたドイツオーストリアウィーン)、ソ連の単独占領となったルーマニアブルガリアハンガリーチェコスロヴァキアなどとは異なった占領形態が採られた。1951年(昭和26年)に、マッカーサーは朝鮮戦争で原爆使用の提案など強硬な主張を行ったことなどからトルーマンと対立して解任され、後任にマシュー・リッジウェイ中将が着任した。沖縄、小笠原諸島を除く日本の本土では、日本にも主権があったとされるが、全ての法令、文書は占領軍の厳しい事前検査と許可が必要であった。検閲は隠匿され、戦前のような伏せ字による出版ではなく、書き直しが命じられた。1946年(昭和21年)11月3日日本国憲法が公布・1947年(昭和22年)5月3日に施行され、1951年(昭和26年)9月8日調印・1952年(昭和27年)4月28日発効の日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)で連合国との講和が完了して後に日本は事実上の主権を回復した。しかし米軍はほぼそのまま駐留軍と称して残留し、全土基地方式と呼ばれる方法によって日本各地に米軍基地が残され、在日米軍として駐留が継続された。

GHQが起草し占領下で制定された(=押し付け憲法論憲法無効論も参照)、日本国憲法は主権は国民に存するとした国民主権(主権在民)や、基本的人権の尊重を明記した常識的な憲法であり、戦争を放棄し、国際紛争を武力や武力による威嚇によって解決しないという平和主義を加えた三大原則でなりたっている。日米安保条約自衛隊(実質上、旧日本軍の役割を継承)が日本国憲法の平和主義に違反しないかについては、戦後古くから議論があり、また国の自衛権についても議論がある。また、この憲法によってそれまでの「25歳以上の男子のみ」から「20歳以上の日本国民」に参政権が拡大され、女性の選挙権が初めて容認された。

戦争や米軍の無差別爆撃によって国内経済は壊滅し、本土空襲の甚大な被害も重なり国民生活は混迷の極みにあったが、中国革命の進展と朝鮮戦争の勃発により事態は一変した。アメリカは日本占領当初、日本の完全武装解除により、非軍事化を遂行し、「極東のスイス(=永世中立国)」を建設すると言明していた。しかし政治反動の傾向は1947年(昭和22年)には早くも現れ始めていた。その上、1949年(昭和24年)に中国大陸蔣介石に代わって毛沢東政権が成立すると、対日戦略を完全に転換し、日本の再武装を進め、東アジアの最重要軍事戦略拠点として位置づけ、「逆コース」とも呼ばれる政策の転換が次々と生じた。戦後の変化の特徴を示すのは労働運動の盛り上がりで、国鉄読売新聞等では労働組合による自主管理も行なわれた。東宝争議では、社長が2つの赤(赤字と赤旗)の追放を目標とした人員整理を行ったところ、三船敏郎池部良久我美子らの映画スターを含む社員が街頭に出て、反対運動を行った。しかしこの頃、国鉄でも大規模な整理解雇が吹き荒れ、下山事件三鷹事件松川事件などの怪事件が次々と起こり、それらが労働運動によって起こされたと宣伝された。同時にレッドパージが行われ、小中高及び大学の共産主義的教員が追放されるに至った。それは、アメリカで吹きすさんだマッカーシー旋風赤狩り)と軌を一にしていた。

文化面においては、日本映画が全盛時代を迎え、東映大映松竹東宝日活のメジャー5社が毎週競って新作を2本平均で上映する映画館は最大の娯楽施設となった。また、ラジオ放送も広範に普及し、歌謡曲やバラエティ、相撲野球の実況放送が好んで聞かれた。同時にアメリカをはじめとする外国映画やポピュラー音楽も急速に流入した(当時は一般にポピュラー音楽はみな「ジャズ」と呼ばれた)。一方、国語については1946年(昭和21年)の現代かなづかい当用漢字の制定、新聞の検閲などが行われ、制限されることとなった。

連合国軍被占領期終結から冷戦終結まで

アメリカ軍を中心とする連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)による占領が終わり、1952年(昭和27年)4月28日日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)発効に伴い主権回復を果たした後の冷戦時代も、日本はアメリカを盟主とする資本主義西側諸国に与して、ソビエト連邦を盟主とする共産主義東側諸国に対抗した。

西側諸国の盟主であるアメリカにとって最前線の重要拠点となった日本は、朝鮮戦争では海上保安官や民間船員など8000名以上を国連軍の作戦に参加させるとともに[1]、軍需の有刺鉄線やドラム缶などの補給物資の生産や輸送による特需、そして膨大な駐留米軍の生活消費など需要により、奇跡的な速度で経済が復興した。続くベトナム戦争でも特需が起きた。さらに1960年から1970年代初めまで続く驚異的な高度経済成長を遂げるに至る。「昭和元禄」と呼ばれ、週刊誌や月刊誌の創刊が目立った。子供向けの漫画や映画と並んでテレビ放送も普及した。1964年(昭和39年)の東海道新幹線の開業と東京オリンピック(1回目)の開会、1970年(昭和45年)の大阪万博の開催によって最高潮を迎えたが、中東戦争がもたらしたオイルショックによって成長が終わった。

この奇跡の復興は、米国の戦略上の必要から事実上の再軍備を行い、国内治安と国土防衛のために微小な規模で警察予備隊(後に保安隊、現在の自衛隊)を保持したとはいえ、憲法では戦力の保持を禁じていたことにより、当時の自由主義諸国の国防費の対GDP比でいえば、完全に国防費負担から解放されているというに等しい財政上の僥倖が大きく寄与している。このことはドイツ、イタリアは勿論、大戦後独立した多くのアジア諸国が、通常の国防費を支出しながらの日本と同じような速度での経済成長を望み得なかったことでも明らかである。その反面、アメリカに朝鮮戦争の戦費を終戦処理費の名目で負担させられたり、米軍駐留に膨大な資金負担を要求されてきたことは見過ごされがちである。沖縄返還の時も日本政府はアメリカに対し多額の資金を提供した。日米安保条約日米地位協定によって米軍基地が日本各地に残されており、米軍関係者犯罪時の裁判や事故などを巡ってトラブルも絶えず生じた。特に沖縄県ではこうした問題がしばしば起こった。核持込をめぐっても不明確なままに推移しており、日本の非核三原則についてもしばしば問題となるようになった。また、米軍駐留に対する日本の資金負担は、思いやり予算という形で現在も行われている。

急速な経済成長に合わせて人口はさらに増加した。戦後すぐの第一次ベビーブームを経て、人口はついに1億人を超えた。ベビーブームで生まれた世代は「団塊の世代」と呼ばれており、膨大な人口を抱えているが、地方出身者は口減らしのために都市部へ集団で送り込まれ(集団就職)、彼らは「金の卵」と呼ばれ、集団就職列車も運行された。高度経済成長期には、佐藤栄作など1900年代生まれの世代が政治・経済のトップに立ち、団塊世代を都市部の労働力に引き入れた。

1965年(昭和40年)にはベトナム戦争が勃発し、ベトナム戦争への加担に反対する青年は学生運動などで反対した。しかし、学生運動の過激派はあさま山荘事件など内ゲバによって潰滅した。その影響もあって、都市部の市民の多くは与党支持者になるか、支持政党を持たない無党派層となった。これはその後続く自由民主党の単独長期政権の存在を許し、「実力を行使して要求を勝ち取る」運動の衰亡を招いた。

高度経済成長の中期から末期は、公害の激化や社会問題の深刻となる中で、消費者や地域住民という立場からなされる新しい市民運動が盛り上がった時期でもある。社会党と共産党の革新統一の為の協定が結ばれ、東京都の美濃部亮吉を筆頭に、京都府、大阪府、神奈川県などの主要地方自治体で続々革新自治体が生まれた。京都府では蜷川虎三知事が多選を果たした。しかし後には、社共共闘の潰滅や保守の盛り返しによって、次々と保守体制に回帰した。

一方、米国側に深刻で喫緊の事情があったとはいえ、日本国憲法の条文に抵触するおそれが高い自衛隊の設置を憲法改正なしに行われたことは、国民に憲法の権威を疑わせる結果となったという声もある。これは、明治憲法の不備を歪んだ解釈で乗り切ろうとして国策を誤った失敗を、再度繰り返す危険性をはらむのではないかと心配する声も一部にある。

大戦後の世界情勢の変化の影響で石油産油国と先進諸国との関係が複雑になった結果の2度の石油ショックを乗り切り、集中豪雨的な海外輸出の拡大によって爆発的な成長を続けた日本経済は、ついには1980年代半ば、戦後わずか30数年にしてGNPレベルではアメリカ合衆国に次ぐ経済力を持つようになるという奇跡の復興を完成し、人々の生活は有史以来初めてといえる豊かさになった。しかし1970年(昭和45年)ころには、日本人の貧しさはかなり解消され、高度経済成長は一段落した。オイルショックを境に、高度成長時代は終わり、低成長時代へと変化した。しかし輸出依存の体質による円高と貿易黒字が問題視されるようになり、プラザ合意をへて内需拡大政策のもとでバブル景気に入った。

平成

1989年(平成元年)、昭和天皇が崩御し、皇太子明仁親王が第125代天皇に践祚して元号が「昭和」から「平成」に改められた。この年には東欧革命が起こり東ヨーロッパ共産主義国家が相次いで打倒し、マルタ会談で半世紀に及んだ冷戦は終結した。そして、1991年(平成3年)12月25日には、超大国の一角であったソビエト連邦が崩壊し、アメリカが絶対的な力を揮う一極体制となった。

ポスト冷戦時代が始まると、日本は、自衛隊の海外派遣を実施し、国際連合に協力して海外で国際連合平和維持活動(PKO)部隊を展開するようになったり、アメリカ主導の湾岸戦争に資金援助をしたりするようになった。冷戦期を通じて整備されていった自衛隊は、ついには驚異的な経済力と円高に比例して金額ベースでは世界屈指になったにも関わらず、行政が合憲と解釈し、裁判所も憲法判断を避けるという、明治憲法下の統帥権の解釈にも似ているとされるものが続いていたが、21世紀をむかえるころになって、湾岸戦争、国連平和維持活動、イラク戦争などで自衛隊の海外活動が活発化し、自民党の悲願であった憲法改正の議論が前よりは高まってきたといわれている。

世界屈指の経済大国となった日本は、表面的な生活と文化は欧米的に進歩し、自由と平等を謳歌し、これらの基盤の上に現代日本独自の文化が生まれるようにもなった。しかし1980年代後半からの異常な好景気が 1990年代に入るとともに崩壊し、その後10年の間に経営の建て直しができなかった数多くの企業が倒産・廃業、もしくは欧米系企業を含む大手企業に買収された。企業の国際化によって人的な国際流動が活発になり、またブラジルをはじめ南米出身の日系人(とりわけ日系ブラジル人)を中心に、低賃金で働く発展途上国出身者を肉体労働者として雇うなど、社会の国際化がいっそう進んだ。価値観の多様化、個人主義という流れの中、戦後に確立した日本の社会価値観は変化した。家族の多様化に伴う共通価値観の変化、経済不況に伴う失業者の増加が問題視され、就職難で増加した非正規雇用フリーターニートがバッシングを受けるなど、多様化した社会への不安が強まっている。社会の高齢化が深刻な社会問題となっており、主に老人医療費の高騰を理由として、増税が相次いで打ち出されようとしている。

そうした中で、経済の閉塞とも見られる現象も見られ、マイナス成長すら記録されるようになった。そのため「構造不況」の克服、「構造改革」の必要が各方面から叫ばれるようになった。過疎化や産業空洞化が進展し、地方経済は不振を極めた。そして21世紀に入り、政治面では2001年(平成13年)に中央省庁再編という近代政治史上以来の改革が行われた。経済では、2006年(平成18年)から2007年(平成19年)にかけては、外需主導で企業業績が好転した。しかし企業の人件費抑制などにより、内需は冷え込んだままで、国民の生活が「豊かになっている」という実感はごく一部に限られている。更に、2008年(平成20年)以後はアメリカのサブプライムローンを引き金とする世界同時不況により、日本の景気は内需・外需ともに八方塞がりに悪化した。

世界同時不況下の2009年(平成21年)実施の衆院選の結果、高まる政治不信により自民党・公明党自公連立政権から民主党(後の民進党国民民主党立憲民主党の前身)への政権交代が起きたが、民主党の政権運営のまずさやマニフェスト破りなどの要因によって政治不信は更に高まり、日本経済も回復することはなかった。そして、国民の政治不信は選挙に対する投票率の低下という形に帰結した[2]2012年(平成24年)の衆院選には低投票率ながら自民党が圧倒的勝利をおさめ、鳩山由紀夫菅直人野田佳彦首相という短命に終わった民主党政権を終焉を迎え、3年ぶりに自公連立政権が復活した。

またこの間、2011年(平成23年)3月11日には、東北地方太平洋沖地震により東日本大震災が発生し、未曽有の自然災害が襲った。とりわけ、福島第一原子力発電所事故の影響は凄まじいものとなった。

2012年(平成24年)12月内閣総理大臣に就任した安倍晋三は閉塞感を打破するために、看板経済政策「アベノミクス」を推進した。しかし、その手法や効果については専門家の間でも賛否両論であり、「日本復活の処方箋となった」と評価する声がある一方、「非正規雇用の増大と所得格差を拡大させただけ」と否定する声もある。安倍は、経済政策と並行して教育再生に着手、また日本国憲法とりわけ第9条について、明文改憲・解釈改憲の双方を実現させようともしている。その中で、特定秘密保護法の制定、国民一人一人に与えられる個人番号制度(マイナンバー)の導入などが行われた。

アメリカに反発している中華人民共和国ロシア連邦の強大化とアメリカ合衆国の没落[3]による一極体制終焉の兆しとともに、激動する国際情勢の中で、日本国内では戦後一貫して続いていた平和主義ならびに安全保障のアメリカ依存を見直すべきかという議論が高まっている中で、「戦後70年」にあたる2015年(平成27年)には平和安全法制(安全保障関連法)が成立し、翌2016年(平成28年)に施行、国内で様々な議論を引き起こした。

また、2016年(平成28年)6月19日には改正公職選挙法が施行され、18歳選挙権が成立し、選挙権が「25歳男子」から「20歳男女」に拡大し引き下げられて完全普通選挙が導入された1945年(昭和20年)以来、71年ぶりの選挙権年齢拡大が行われた。

2016年(平成28年)8月8日に、明仁が「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」として、国民に向けてビデオ映像を用いての自らのお気持ちを表明し、間接的ながら自身の退位譲位)の意向を示した。これをうけて、2017年(平成29年)6月16日天皇の退位等に関する皇室典範特例法が公布され、同年12月1日に開かれた皇室会議を経て、天皇退位の日が2019年(平成31年)4月30日に決定された。

令和

2019年(平成31年)4月30日、退位特例法施行により明仁が退位し、翌5月1日に皇太子徳仁親王が第126代天皇に即位した。元号は「平成」から「令和」に改まった。光格天皇から仁孝天皇への譲位以降202年ぶりの天皇退位となった。

2021年(令和3年)には、新型コロナウイルスで延期されたが、1964年(昭和39年)以来2回目となる東京オリンピックが開催される予定。2025年(令和7年)には、1970年(昭和45年)以来で、こちらも2回目となる大阪万博の開催が予定されている。

脚注

  1. ^ 朝鮮戦争と日本の関わり―忘れ去られた海上輸送― 防衛研究所 防衛研究所戦史部石丸安蔵
  2. ^ 2012年(平成24年)の第46回衆議院議員総選挙の投票率は過去最低の59.32%であった。
  3. ^ 2014年現在、アメリカの財政はかなり厳しくなっており、それを反映して軍隊への予算ならびに人員の大幅削減も決まった。

関連項目