「孫権」の版間の差分
m Bot作業依頼: 劉姓の記事の改名に伴うリンク修正 (劉繇) - log |
|||
80行目: | 80行目: | ||
[[趙咨]]を曹丕へ使者として派遣し、魏の内情を調査した。趙咨が呉に還ってから孫権に魏が盟約を守らないだろうから独立して漢を継ぎ新たな元号を定めるよう進言した<ref>趙咨が孫権に「北方を観たところ、魏が最後まで盟を守ることはできないでしょう。今日の計は、我が朝廷が漢四百の際(四百年続いた漢朝の後、最期の時)を継承し、東南の運に応じることです。年号を改めて服色を正し、そうすることで天に応じて民に順じるべきです」と進言した。</ref>。 |
[[趙咨]]を曹丕へ使者として派遣し、魏の内情を調査した。趙咨が呉に還ってから孫権に魏が盟約を守らないだろうから独立して漢を継ぎ新たな元号を定めるよう進言した<ref>趙咨が孫権に「北方を観たところ、魏が最後まで盟を守ることはできないでしょう。今日の計は、我が朝廷が漢四百の際(四百年続いた漢朝の後、最期の時)を継承し、東南の運に応じることです。年号を改めて服色を正し、そうすることで天に応じて民に順じるべきです」と進言した。</ref>。 |
||
魏を利用して北方の安全を確保した孫権は、[[222年]]([[黄初]]3年)、荊州奪還のために東進してきた劉備が自ら指揮を執る[[蜀|蜀漢]]軍を[[夷陵の戦い]]で打ち破り、荊州の領有を確実にした。ところでこの時魏は呉への援軍を名目に軍の南下を開始させていた。徐盛・潘璋・宋謙らは白帝城に逃げ延びた劉備を討つための追撃の許可して欲しいと願い出た。陸遜・朱然・駱統らは魏の曹丕の動向が不審だとして慎重論を唱えた。孫権は同じ考え方であり、その意見を同意した。それからほどなく、魏がはたして軍を進めてきた。武陵の蛮族も劉備に呼応して反乱したが、歩騭に命じて平定させた。孫権は劉備から和解の手紙を受け取り<ref>『三国志』呉志 呉主伝・鄭泉伝・陸遜伝・『呉録』・『資治通鑑』</ref>、その中で劉備が前のことに関して深く反省し謝罪したため、孫権はこれに同意し、使者の[[鄭泉]]に劉備への返事を頼んだ。劉備はこれに[[ |
魏を利用して北方の安全を確保した孫権は、[[222年]]([[黄初]]3年)、荊州奪還のために東進してきた劉備が自ら指揮を執る[[蜀|蜀漢]]軍を[[夷陵の戦い]]で打ち破り、荊州の領有を確実にした。ところでこの時魏は呉への援軍を名目に軍の南下を開始させていた。徐盛・潘璋・宋謙らは白帝城に逃げ延びた劉備を討つための追撃の許可して欲しいと願い出た。陸遜・朱然・駱統らは魏の曹丕の動向が不審だとして慎重論を唱えた。孫権は同じ考え方であり、その意見を同意した。それからほどなく、魏がはたして軍を進めてきた。武陵の蛮族も劉備に呼応して反乱したが、歩騭に命じて平定させた。孫権は劉備から和解の手紙を受け取り<ref>『三国志』呉志 呉主伝・鄭泉伝・陸遜伝・『呉録』・『資治通鑑』</ref>、その中で劉備が前のことに関して深く反省し謝罪したため、孫権はこれに同意し、使者の[[鄭泉]]に劉備への返事を頼んだ。劉備はこれに[[宗瑋]]・[[費禕]]らを何度も派遣して答礼させた。曹丕は大いに怒って親征しようとした。また、趙咨の意見を採用し、[[黄武]]という独自の[[元号]]を使い始め、魏との表向きの同盟を破棄した。 |
||
222年から223年にかけて、曹丕は[[曹休]]に張遼・[[臧覇]]・[[賈逵]]ら26軍余りの総指揮を命じて洞口に出撃させ、曹仁・[[蒋済]]らに命じて濡須に出撃させ、曹真・夏侯尚らに命じて江陵を包囲させた。これに対して孫権は呂範を派遣し、徐盛・孫韶・全琮・賀斉ら五軍を監督して洞口で曹休らを拒ませた。また、孫盛・諸葛瑾・潘璋・楊粲らに江陵を救援させ、朱桓らが濡須督として曹仁を拒んだ。[[濡須口の戦い#第四次戦役・三方面攻撃(222年 - 223年)|呉は三方向から魏に攻められ]]、呉軍が曹仁・曹休・張遼・臧覇などを撃ち破り、大勝した。包囲は半年に及び、曹真・夏侯尚・辛毗・張郃・徐晃・満寵・文聘らは朱然を降せず、魏軍は総退却した。同年4月、呉の群臣が帝位に即く事を勧めたが、孫権はこれを拒絶した。6月、叛乱を起こした晋宗を賀斉に討伐させた。賀斉は糜芳や鮮于丹を率いて蘄春を攻撃し、晋宗を生け捕った。劉備が崩御すると、益州豪族の雍闓は呉に服属していた交州の士燮を通じ呉への帰服を申し出て、[[ソウカ郡|牂牁]]一帯・南中部族と共に蜀漢に対して反乱を起こした。諸葛亮は[[鄧芝]]を派遣して孫権との友好関係を整えさせ、蜀漢と再び同盟した。 |
222年から223年にかけて、曹丕は[[曹休]]に張遼・[[臧覇]]・[[賈逵]]ら26軍余りの総指揮を命じて洞口に出撃させ、曹仁・[[蒋済]]らに命じて濡須に出撃させ、曹真・夏侯尚らに命じて江陵を包囲させた。これに対して孫権は呂範を派遣し、徐盛・孫韶・全琮・賀斉ら五軍を監督して洞口で曹休らを拒ませた。また、孫盛・諸葛瑾・潘璋・楊粲らに江陵を救援させ、朱桓らが濡須督として曹仁を拒んだ。[[濡須口の戦い#第四次戦役・三方面攻撃(222年 - 223年)|呉は三方向から魏に攻められ]]、呉軍が曹仁・曹休・張遼・臧覇などを撃ち破り、大勝した。包囲は半年に及び、曹真・夏侯尚・辛毗・張郃・徐晃・満寵・文聘らは朱然を降せず、魏軍は総退却した。同年4月、呉の群臣が帝位に即く事を勧めたが、孫権はこれを拒絶した。6月、叛乱を起こした晋宗を賀斉に討伐させた。賀斉は糜芳や鮮于丹を率いて蘄春を攻撃し、晋宗を生け捕った。劉備が崩御すると、益州豪族の雍闓は呉に服属していた交州の士燮を通じ呉への帰服を申し出て、[[ソウカ郡|牂牁]]一帯・南中部族と共に蜀漢に対して反乱を起こした。諸葛亮は[[鄧芝]]を派遣して孫権との友好関係を整えさせ、蜀漢と再び同盟した。 |
2020年8月26日 (水) 23:28時点における版
大帝 孫権 | |
---|---|
呉 | |
初代皇帝 | |
王朝 | 呉 |
在位期間 | 229年5月23日-252年5月21日 |
都城 | 武昌(229年)、建業(229年後) |
姓・諱 | 孫権 |
字 | 仲謀 |
諡号 | 大皇帝 |
廟号 | 太祖 |
生年 | 光和5年(182年) |
没年 |
神鳳元年4月26日 (252年5月21日)[1] |
父 | 孫堅(次男) |
母 | 呉夫人 |
后妃 | 潘皇后 |
陵墓 | 蒋陵 |
年号 |
黄武(222年 - 229年) 黄龍(229年 - 231年) 嘉禾(232年 - 238年) 赤烏(238年 - 251年) 太元(251年 - 252年) 神鳳(252年) |
孫 権[2](そん けん)は、三国時代の呉の初代皇帝。字は仲謀[3]。
生涯
家系について
清代の『四庫全書』の記載によると、先祖は春秋時代の兵法家・孫武に遡るとされ、実際には孫権の祖父を初めとしてどのような家柄の生まれであったのか真偽の程は不明である[4]。
幼年・少年期
182年(光和5年)、父の孫堅が下邳県丞であった時、五男三女の第四子(次男)として生まれた。
184年(光和7年)、太平道の張角によって勃発した宗教的な反乱である黄巾の乱の鎮圧のため、孫堅は漢王朝の中郎将であった朱儁の下で参戦、孫権と母の呉氏や兄弟たちを九江郡寿春県に残した。189年(中平6年)、兄の孫策に連れられ廬江郡舒県の周瑜屋敷に移住した。191年(初平2年)、孫堅が黄祖の部下に射殺された(襄陽の戦い)。葬式が終わった後、一時的に広陵郡江都県に移り住み、呉夫人はそのまま遺児を扶養した。
193年(初平4年)、孫策は袁術の旗下に入った際、呂範を遣わして家族を曲阿に住む呉景の元へ送り届けた。翌年、孫策は袁術の為に廬江を攻めた。揚州の刺史劉繇は袁術と孫策を恐れて対立の構えを取って、呉景が丹陽郡を追われた。この時、孫策の家族はことごとく劉繇の地盤に在ったため、朱治は人を曲阿に使わして呉氏および孫権と弟たちを引き連れて脱出し、これを保護した[5]。母と共に歴陽や後の阜陵に移住した。
195年(興平2年)、孫策が江東で挙兵する。劉繇軍を破った後、孫策は曲阿に入って、部将の陳宝を阜陵に派遣して一族を迎えた。その後の征戦で、孫権は常に兄に随従した。この頃孫権は士人と交流をするようになり、その名が知られるとその名望は父や兄に等しくなった。孫権は計略や謀議があるたびに参画し、孫策は彼を非常な逸材として自身でも及ばないと考えた。
196年(建安元年)、陽羨県令に任じられ、奉義校尉も代行した。
198年(建安3年)、漢王朝は臣従した孫策が遠きより職貢を修めた事で、曹操は上表して孫策に討逆将軍の位と呉侯の爵位を与え、使者の劉琬を派遣って錫命を加えた。劉琬は「自分が孫氏の兄弟を観たところ、中弟の孝廉(孫権)だけは形貌は奇偉で骨体は世のつねの人ではなく、非凡で高貴な位に上る相がある。また天寿も最も長いだろう」と言った。
199年(建安4年)、孫策の廬江太守劉勲の征伐に従った。劉勲を破ると、進んで沙羨(現在の湖北省武漢市江夏区西郊)に黄祖を討った(孫策の江東平定)。徐州広陵郡を攻めたが、広陵太守の陳登に敗れた[6]。
200年(建安5年)初、孫策と曹操が同盟を結んだ事があったが、孫権と弟の孫翊が司空である曹操に招聘されたが応じなかった。
政権を担う
200年春、19歳で父の孫堅、兄の孫策の跡を継いで江東を治理し、孫氏軍閥の家督となった。孫策が急死後、大勢の住民は江東から離れた[7]。張昭に師傅の礼を執り、父や兄から引き継いだ家臣の周瑜・程普・呂範らをまとめあげると共に積極的な人材登用を行い、巧みな人心掌握術で家臣の心を掴んでいった。周瑜から「主君は賢者に親しみ士人を尊重され、奇才を認め異能を取り上げておられます。先哲によって天命を承けて劉氏に代わる者は必ず東南に興り、最終的に帝業の基を築き上げられます」と予言され、そして魯粛を薦められた。魯粛は「漢を復興することなどは無理なことであり、曹操もそう簡単には取り除くことが出来ません。北方の騒乱に乗じて黄祖・劉表を攻めて荊州を制圧し、長江を北岸として割拠してから、自ら帝王を名乗るべきです」と提案した。その後も陸遜・諸葛瑾・歩騭・顧雍・是儀・厳畯・呂岱・徐盛・朱桓・駱統らを登用した。江東が不安定な中、軍隊を諸将に分けて山越を鎮撫し、命令に従わぬ者を討伐させた。孫権は内政を整え、兄から受け継いだ国土を安定させ、巧みな内政手腕を発揮して江東を治めた。同年、廬江太守の李術は曹操を頼っての反乱し、孫権に叛いて揚州刺史厳象を殺し、呉からの逃亡者を多く受け入れた。廬江郡の梅乾・雷緒・陳蘭らも李術に同調し、手勢数万人を集めて長江・淮水流域の郡県を破壊した[8]。孫権が逃亡者返還を求めると、李術はこれを拒絶した。そこに怒った孫権は自ら徐琨・孫河を率いて皖城に包囲すると、先に孫権が謀略によって李術の非を曹操に訴えていたため孤立し、李術は皖城に篭って曹操に助けを求めたものの、曹操の援軍は来ず、食糧は底を尽き落城した。李術を討ち取り皖城に行った兵・民衆三万人を得、勝利を収めた。
203年(建安8年)、父の仇である孫権は自ら指揮を執って江夏を討伐し、黄祖軍打ち破ったが、黄祖が城に逃げ込んでこれを固守した。しかしこの時、山越が背後で反乱が起こったため孫権は撤退した。孫権は豫章に戻り、呂範に命じてに鄱陽を平定させ、程普に楽安を討たせた。建安・漢興・南平の不服従民が再び背き、賀斉に命じて鎮圧させた。反乱の頭目は悉く捕虜となり、討ち取った首は6千にもなったという。のち黄祖の元部下甘寧が降伏してきたためこれを受け入れた。この頃、孫翊や孫河が媯覧に殺害され、従兄弟の孫暠が反乱を企て、孫輔が曹操と内通が発覚するなどした、これらを鎮圧した。腹心の顧徽を曹操へ使者として派遣し、朝廷の内情を調査した。
206年(建安11年)、孫権は周瑜・孫瑜・凌統を率いて、山越の麻屯・保屯を討伐し、1万余の捕虜を得た。
208年(建安13年)、孫権が再び江夏に自ら軍の指揮を執り討伐し、黄祖を討ち取り江夏郡の南部を落とした。
この年の年末、曹操が大軍を率いて南下すると、孫氏軍閥は抗戦か降伏かの決断を迫られた。「近ごろ罪状を数えたてて罪人を討伐せんとし、軍旗が南に向ったところ、劉琮はなんら抵抗もせず降伏した。今度は水軍80万の軍勢を整えて、将軍(あなた)とお会いして呉の地で狩猟[9]をいたそうと思う。」孫権はこの手紙を受け取ると群臣たちに示したが、震え上がり顔色を変えぬ者はなかった[10]。孫権は魯粛の進言を聞き入れ、荊州の動向を探るため、劉表の弔問使者として魯粛を派遣した。劉琮が曹操に降伏し、劉備は長坂の戦いに敗れ夏口に駐屯していた劉琦と合流したところを[11]。魯粛と面会し劉備に同盟を説いた。劉備は諸葛亮を派遣して魯粛と共に孫権に面会させた。当時、孫権の臣下は降伏派(張昭・秦松等)が多勢を占める中、孫権は抗戦派であり、降伏倫に失望していたことを打ち明け、後に周瑜・諸葛亮が群臣に両軍情勢を分析し、主戦論を唱えたため、周瑜・魯粛・朱治等と共に開戦を決断した[12]。孫権は剣を抜くと前に置かれた上奏文を載せるための案(机)を斬りつけて、「お前達の中にこれ以上降伏すべしと申す者がおれば、この案と同じ運命になると思え」と言った[10]。孫権は夜のうちに周瑜に「5万の精兵はすぐには集めるのは難しい。しかしすでに3万人を選び、艦船、武器、物資も揃っている。お前はもし勝てると判断したならば曹操と決戦せよ。もしお前が負けたなら、私の所へ退却せよ。私が自ら曹操と勝負を決めよう」と言った。周瑜・程普に3万の軍勢の指揮権を与え、魯粛を賛軍校尉に任命して、これを補佐させた。かくして孫権軍は劉備と合流し、曹操と戦う事となった。また賀斉・蒋欽を派遣って後方の山越反乱を平定させた。周瑜らは同年の赤壁の戦いで、黄蓋の火攻めにより曹操の水軍を大いに破った。江南の気候や地勢に不慣れな曹操軍は疫病に苦しめられていたこともあって、不利を悟って撤退した。曹操を追撃した孫劉軍勢は荊州の大部分を奪った。赤壁の戦いの前後に、孫権は合肥を攻撃したが、落とすことができずに撤退した。
荊州・交州の争奪
戦後、劉備は劉表の長子の劉琦を上表して荊州刺史に立て、荊州南部の武陵・長沙・桂陽・零陵の四郡を併合した。また、孫権は劉備とともに南郡を攻め取り、劉備の上奏で徐州牧・行車騎将軍に就任した。その後、程なくして劉琦が死去したために劉備自ら荊州牧となった。孫権は妹を劉備の継室として嫁がせ、劉備は京口に赴いて孫権と面会し、個人的な友誼を結ぶ。赤壁から荊州争奪戦で獲得した領地の領有権について話し合った結果、劉備と協調して曹操に対抗すべきだという魯粛の提案により、孫権は劉備に荊州の数郡を貸し与え、劉備は南郡・武陵・長沙・桂陽・零陵の荊州南部の五郡を領有することとなった。周瑜・甘寧らが孫権に蜀を取ることを勧め兵を送ったが、周瑜がその途上で病没したため、孫権は劉備に共同して益州を獲ろうと申し出てきたが、劉備は、自分自身が蜀を占拠しようと秘かに考えたためこれを断った[13]。孫権はこれを聞かず、孫瑜を派遣して益州に入ろうとしたが、劉備に止められた。劉備は孫瑜に「お前が蜀を取るつもりならば、私は髪を振り乱して山へ入り、天下に信義を失わないようにするぞ」と言った[14]。
210年(建安15年)、歩騭を交州へ交州刺史として派遣し、歩騭は蒼梧太守呉巨が異心を抱くのを見し、表面的には友好的な接し方をした上で、会見の場で呉巨を斬り、交阯の士燮一族もその威を恐れて服属を誓った。交州の南海・鬱林・交阯・日南・珠崖・儋耳・蒼梧・九真・合浦の九郡を得た。
212年(建安17年)、曹操の侵攻に先んじて、呂蒙は濡須口に濡須塢を築き上げた。翌年にかけて曹操は40余万の軍勢の指揮を執って濡須を攻撃した。孫権は自ら出陣して曹操を囲み取って敵3000余を捕虜にし、大勝した。曹操軍で戦没・溺死した者も数千人に及んだ。その後も、孫権がしばしば戦いを挑んだが、曹操は堅く守って出て来なかった。そこで孫権は自ら軽船に乗って曹操の軍営に入った。魏軍の諸将らが迎撃しようとしたところ、曹操が「これはきっと孫権が自ら我が部隊を見ようとしたものだ」とし、軍中は厳戒し、弓をみだりに撃たせなかった。孫権は行くこと五・六里で回頭し、鼓吹して帰還した。曹操は孫権の布陣に少しの乱れも無いことに感嘆し、「息子を持つなら、まさに孫権のような息子がいい」(生子当如孫仲謀)と周囲に語ったという。孫権が曹操への札簡で説くには「春はまさに水が生ず。君は宜しく速やかに去るべし」。別の紙で皮肉言うには、「足下が死なねばわしは安んずることができぬ」。曹操が諸将に語るには「孫権はわしを欺かぬ」かくして軍を徹収して帰還した[15](濡須口の戦い)。
214年(建安19年)5月、呂蒙・甘寧とともに曹操領の皖城を攻撃し、朝のうちには皖城を攻め落し、廬江太守の朱光と数万人の男女を捕虜にした。この時、曹操の援軍として張遼が夾石まで来ていたが、落城の知らせを聞き退却した。
214年-215年間(建安19年-20年間)[16]、曹操が10余万の軍勢の指揮を執り長江一帯を侵攻したが戦果なく[17]、甘寧100人に命じて曹操の軍営へ夜襲をかけ、曹操軍を撃退した[18]。後に劉備が益州刺史の劉璋を攻めて益州を領有すると、孫権は荊州の長沙・桂陽・零陵の3郡の返還を要求した。しかし、劉備は涼州を手に入れてから荊州の再分割を行おうとこれを先延ばした。涼州は益州の遥か北であり、当時で益州と涼州の間であと漢中があると、劉備がこれを奪うことはその時点で不可能に近く[19]、返すつもりが無いと言ったも同然であった。孫権は諸軍節度(総指揮)として軍の指揮を執り陸口に駐屯した。3郡を支配するため役人を送り込んだが追い返されたので、魯粛を巴丘に派遣して関羽を対抗し、一方呂蒙らの軍勢を派遣して長沙・桂陽・零陵を奪還した。一方長沙郡の呉碭と袁龍も関羽に呼応して好機を通じ再び反乱を起こし、魯粛と呂岱に命じて平定させた[20]。劉備も大軍を送り込み全面戦争に発展しそうになったが、曹操が漢中に侵攻したので、劉備は益州を失うことを恐れて[21]、孫権へ和解を申し入れてきた、劉備は長沙・桂陽を返還して孫権と停戦した。
同年、合肥城を攻めたがこれを降せず、軍の帰還中に淩統、甘寧等とともに江の北岸にいたところを張遼の奇襲にあい、危機に陥った。孫権は、魏軍によって破壊された橋を駿馬で飛び越えて難を逃れた。
216年(建安21年)、曹操の濡須攻撃に先立ち、山越が曹操に呼応して挙兵したが、賀斉と陸遜に命じて平定させた。217年(建安22年)、呂蒙と蒋欽を総司令官に任命して曹操を防がせた(濡須口の戦い)。曹操は濡須塢を攻め落れず[22]、最終的に孫権の部将らが曹操を撃ち破って敗走させた[23]。戦いの後、孫権は政策転換をはかり[24]、謀略によって徐詳を派遣して漢王朝に偽りの臣従を申し出て、休戦した[25]。209年-217年間、曹操は四度も巣湖濡須を攻め入り、孫権軍に撃退された[26]。
218年(建安23年)、孫権は曹操に帝位に就く事を勧めた。この手紙を見た曹操は「この小僧め。跪いてみせながらわしを囲炉裏の炭の上に据えようというのか」と言った[27]。
219年(建安24年)、関羽が北進し曹仁を攻めたが、孫権は先立って息子と関羽の娘との婚姻を申し入れたが、関羽はこれを断り使者を辱めていた、また長沙郡と零陵郡の境にある湘関の米を強奪したこともあったという。孫権は内に関羽を畏れ、功を挙げたいと称して曹操に関羽を自ら討ちたいと申し出た。呂蒙を先鋒として内応していた士仁、麋芳を降伏させた。関羽は益州に逃れようとしたが、孫権は元の荊州を全数が奪還わせ、関羽は当陽まで引き返したのち、西の麦城に篭った。孫権は降伏を誘う使者が派遣すると、関羽は偽って降るふりをして逃走しようとした。孫権は潘璋・朱然を派遣して関羽の退路を遮断し、退路を失った関羽を捕らえこれを斬った。その首は、使者によって曹操の下へ送られ、孫権は諸侯の礼をもって当陽に関羽の死体を葬った[15]。
三国鼎立
荊州の奪還によって劉備と敵対した孫権は、死去した曹操の後を継いだ曹丕に接近した。また、陳化・馮熙・沈珩らを使者として派遣し、魏との安定した関係を築いた。後漢の献帝から禅譲を受けて魏を建国した曹丕の皇帝位を承認し、諸侯の礼をとって呉王に封ぜられた。呉の群臣が議論し、孫権は上将軍・九州伯(九州諸侯の覇者)を称すのが相応しく、魏の封王は受けるべきではないと考えた。孫権は「九州伯とは古において聞いたことがない。昔、沛公(漢の高祖・劉邦)が楚の項羽の封を受けて漢王になったのも時宜であろう。それが天下統一に対し、何の障害になったであろう」と言った。
趙咨を曹丕へ使者として派遣し、魏の内情を調査した。趙咨が呉に還ってから孫権に魏が盟約を守らないだろうから独立して漢を継ぎ新たな元号を定めるよう進言した[28]。
魏を利用して北方の安全を確保した孫権は、222年(黄初3年)、荊州奪還のために東進してきた劉備が自ら指揮を執る蜀漢軍を夷陵の戦いで打ち破り、荊州の領有を確実にした。ところでこの時魏は呉への援軍を名目に軍の南下を開始させていた。徐盛・潘璋・宋謙らは白帝城に逃げ延びた劉備を討つための追撃の許可して欲しいと願い出た。陸遜・朱然・駱統らは魏の曹丕の動向が不審だとして慎重論を唱えた。孫権は同じ考え方であり、その意見を同意した。それからほどなく、魏がはたして軍を進めてきた。武陵の蛮族も劉備に呼応して反乱したが、歩騭に命じて平定させた。孫権は劉備から和解の手紙を受け取り[29]、その中で劉備が前のことに関して深く反省し謝罪したため、孫権はこれに同意し、使者の鄭泉に劉備への返事を頼んだ。劉備はこれに宗瑋・費禕らを何度も派遣して答礼させた。曹丕は大いに怒って親征しようとした。また、趙咨の意見を採用し、黄武という独自の元号を使い始め、魏との表向きの同盟を破棄した。
222年から223年にかけて、曹丕は曹休に張遼・臧覇・賈逵ら26軍余りの総指揮を命じて洞口に出撃させ、曹仁・蒋済らに命じて濡須に出撃させ、曹真・夏侯尚らに命じて江陵を包囲させた。これに対して孫権は呂範を派遣し、徐盛・孫韶・全琮・賀斉ら五軍を監督して洞口で曹休らを拒ませた。また、孫盛・諸葛瑾・潘璋・楊粲らに江陵を救援させ、朱桓らが濡須督として曹仁を拒んだ。呉は三方向から魏に攻められ、呉軍が曹仁・曹休・張遼・臧覇などを撃ち破り、大勝した。包囲は半年に及び、曹真・夏侯尚・辛毗・張郃・徐晃・満寵・文聘らは朱然を降せず、魏軍は総退却した。同年4月、呉の群臣が帝位に即く事を勧めたが、孫権はこれを拒絶した。6月、叛乱を起こした晋宗を賀斉に討伐させた。賀斉は糜芳や鮮于丹を率いて蘄春を攻撃し、晋宗を生け捕った。劉備が崩御すると、益州豪族の雍闓は呉に服属していた交州の士燮を通じ呉への帰服を申し出て、牂牁一帯・南中部族と共に蜀漢に対して反乱を起こした。諸葛亮は鄧芝を派遣して孫権との友好関係を整えさせ、蜀漢と再び同盟した。
224年(黄武3年)、曹丕は広陵を攻めてきたが、徐盛が長江沿岸に蜿蜒と百里偽城を築いていたため、これに驚いた10余万の魏軍は戦わずして退却した。
225年(黄武4年)、魏が広陵を再び攻めてきたが、10余万の魏軍に孫韶が500人で夜襲をしかけ、魏軍を撃退した。同年12月、鄱陽で山越の彭綺が反乱を起こし、将軍を名乗り周辺の諸県を攻め落とすと一味に加わる者が数万人に上った。
226年(黄武5年)、孫権は呂岱を派遣して士徽の反乱を平定し、交州の支配を強化した。同年、孫権・孫奐・鮮于丹は江夏を攻め、諸葛瑾は襄陽を攻めた。諸葛瑾は司馬懿らに敗れ、孫権は江夏郡の石陽城を落とすことができずに撤退した。一方で孫奐は鮮于丹に魏軍の淮水退路を断たせ、自らも呉碩・張梁の兵を指揮して先鋒となり、江夏郡の高城を攻め落として敵将三名を捕らえた。
227年(黄武6年)、周魴を鄱陽太守に任して、胡綜と協力しその討伐にあたった。周魴は彭綺の身柄を拘束し、武昌に送った。
228年(黄武7年)、周魴に命じて魏への偽りの降伏を申し出て、魏の曹休を石亭に誘い出した。曹叡は司馬懿らに命じて江陵を包囲させ、賈逵に命じて東関に出撃させた。陸遜は朱桓・全琮を率いて曹休と戦い大勝し、魏軍を大破した(石亭の戦い)。一方で司馬懿・張郃は江陵を攻め落れず撤退した。同年、曹叡は東関に賈逵を命じて再び攻めてきたが、攻め落れず退却した[30]。
229年、夏口、武昌でともに黄龍、鳳凰が見られたと報告があり。群臣一同が孫権に帝位に即く事を進言し、孫権は皇帝に即位し、元号を黄龍と改めた。これに対して、蜀は呉との同盟関係を維持することに決め、帝位を認め陳震を派遣し、武昌において孫権と会盟した。この結果、幽州・豫州・青州・徐州が呉に属し、兗州・冀州・并州・涼州が蜀に属しまた司州は函谷関で分割して、蜀が西側、呉が東側を支配し天下を分配することを誓約し合った。その後、建業に遷都した。
230年(黄龍2年)、衛温・諸葛直に兵1万を与え、夷洲と亶洲の探索を行わせた。約1年後(231年)、諸葛直と衛温は帰国したが、亶洲へは遠すぎたため到達できず、兵の八割から九割を疫病で失っていた[31]。成果は夷洲の現地民を数千人連れ帰っただけであった。諸葛直と衛温は、詔に背いて目的が果たせなかったとして、処刑された。同年、孫布に命じて魏への偽りの降伏を申し出て、魏の対呉司令官の王淩は孫布を迎えに行くために出兵し、潜伏している孫権軍に大敗した。
233年(嘉禾2年)、公孫淵が呉に戦馬を供給していた。3月、孫権が顧雍・陸遜・張昭ら重臣の諫止を聞かず、公孫淵の内通を信じて張弥・許晏・賀達らに九錫の礼物と策命書と兵1万を持たせ派遣した。結果は家臣の予想通り、公孫淵は孫権が派遣した使者を斬り、恩賞を奪った上で魏に寝返ってしまった。激怒した孫権は自ら公孫淵征伐を行おうとしたが、薛綜らの諫止により思いとどまった。
234年(嘉禾3年)、呉は蜀漢と結んで魏に対抗し、蜀の動きに呼応してたびたび魏へ侵攻した。蜀軍との同盟により、諸葛亮の北伐と共に荊州と合肥を攻めるが、曹叡の親征軍が来ると聞くと撤退した。この年から3年間、諸葛恪・陳表・顧承らを派遣して山越を討伐し、降伏した山越の民を呉の戸籍に組み込み、兵士として6万人を徴兵した。
235年(嘉禾4年)、魏は孫権に、馬と真珠・翡翠などを交換したいと申し入れてくる。孫権は「真珠や翡翠は確かに貴重な珍品であるが、私には必要のないものだ。その代わりに馬が手に入るなら拒否する必要もない」と、交易を受け入れた。
236年(嘉禾5年)に五銖銭500枚、238年(嘉禾7年)に五銖銭1,000枚の価値を持つ貨幣を発行した。
晩年
酷吏とされる呂壱を重用していたが、238年(赤烏元年)に悪事が露見して処刑した。
239年(赤烏2年)、公孫淵は魏に対して挙兵し、呉に援軍を求めた。呉の人々は皆その使者を斬ろうとしたが、ひとり羊衜だけは援軍を送り、魏を攻撃するよう提案した。孫権はこれを聞き入れ、援軍として羊衜・孫怡・鄭冑を派遣し、魏の張持・高慮を破る。公孫淵は魏に討たれたが、その後の処置は苛烈を極めるものであった。呉の援軍が遼東の人を連携として帰国した(遼隧の戦い)。
241年(赤烏4年)4月、全琮・諸葛恪・朱然・諸葛瑾・歩騭などに命じて四路から魏を攻め、5月、皇太子であった長男の孫登が33歳で病没すると、6月に全ての戦線で呉の軍勢は撤退した。しかし、六安・芍陂・樊城・柤中の破壊や労働力の掠奪やルート確保に成功するなど作戦目標に合致した戦果を挙げ、諸将に褒賞があった(芍陂の役)。
翌242年(赤烏5年)、三男の孫和を太子に立てた。しかし、当時寵愛していた四男の孫覇を孫和と同等の処遇としたため、立太子を期待する孫覇派と、廃太子を防ごうとする孫和派との対立を招いた。後継者を巡る豪族たちの対立は泥沼化し、孫権は2人の不和を案じて人の出入りを禁止し、学問に励むよう訓戒をしたが、対立は止まなかった。同年、孫権が聶友と校尉の陸凱に3万の兵を与えて珠崖・儋耳の地を討たせ、このとき珠崖郡が再び設置された。後に朱然に命じて魏の柤中へ侵攻した。呉軍を各地に分散させていたところを魏の蒲忠と胡質に襲撃されたが、朱然の果敢な戦略や800人の軍勢で前方の蒲忠が退却してしまったため、後方にいた胡質も退却した[32]。
243年(赤烏6年)6月、諸葛恪は魏を攻め、六安で謝順軍を破り、長江北岸の住民を移住させるという戦果を挙げた。孫権は気象学者の助言に従い、諸葛恪を柴桑に移らせたので、魏軍はその後呉を攻めて戦果を挙げる事が少なくなった。
244年(赤烏7年)、歩騭・朱然らは、蜀は魏と通じて呉を攻めようとしていると言上したが、孫権はこれを信ぜず、こう言った「人の言う事はあてにならぬ。私は諸君の為に家の存亡を賭けてこれを保証しよう」。果たして、蜀漢にそのような企ては無く、孫権の予想通りだった。
245年(赤烏8年)、魏からの降将である馬茂が謀反を起こす。馬茂は符節令の朱貞・無難督の虞欽・牙門将の朱志たちと共に孫権暗殺の計画を練るが、事前に事が見通して失敗に終わっている。
246年(赤烏9年)、朱然は上表して、前年に起きた魏からの投降者馬茂による孫権暗殺未遂事件の報復として、再び魏の柤中に侵攻し、曹爽討伐に出る。朱然は歩兵と騎兵を6千率いた魏の李興を撃ち破り、1000人ほどを捕虜にした [7]。朱然は曹爽と戦い大勝し、これに朱然が魏軍の数千人を斬り、魏の難民を数万余人で得た[33]。
247年(赤烏10年)、孫権は諸葛壱に命じ魏の諸葛誕を誘き寄せようと謀り、自身も軍を率いて出陣した。諸葛誕らはこれに乗らず撤退した。
248年(赤烏11年)、交州九真郡の夷賊らが呉に対して反乱を起こし、この報告を聞いた孫権は、陸胤らに命じて平定させた。陸胤が説得したことにより反乱の首魁である黄呉ら三千家余りが降伏した[34]。その後も周辺の郡の反乱を平定し、降伏者を兵士として軍に編入し強勢を誇ったという[35]。
後継者を巡る息子たちの争いに嫌気が差した孫権は、末子の孫亮を寵愛するようになり、250年(赤烏13年)に対立両派を排して彼を太子に立てた。この7年に渡る対立は、豪族団の間に亀裂を生んだほか、多くの豪族が処分に追い込まれ、国の主権が豪族に奪われるのを防ぐために、孫権は官僚の弾劾や二宮事件の豪族弾圧等によって豪族の力を削い、孫家の君主権強化を目指していた(二宮事件)。のちに孫権は、中央に孫和を帰らせるつもり、彼の名誉を回復しようと考えたが、孫和を憎悪していた長女の全公主弾劾により思いとどまっている。同年、文欽が偽の降伏を申し入れてきたが、朱異はこれを見破り、孫権に信用しないよう申し入れた。孫権は呂拠に命じ、大軍を率いて文欽の身柄を引き取りに行かせたが、文欽は現れなかった。
251年(太元元年)、長江が氾濫し城門まで水に浸かる被害が出て、孫権が視察した際、呂拠は大船をつなぎとめて被害が出るのを防ぐために尽力した。孫権はこれを喜び、呂拠を盪寇将軍とした。11月、風疾で重体になると、諸葛恪に政務の処理を一任した。諸法令への意見について、孫権はそのつど聴許した。百姓は大喜びした[36]。魏の文欽は、六安にその本営を定めると、多くの砦を設け、これを交通の要所要所に配置して、呉からの逃亡者たちをそこにまねき寄せ、国境地域で略奪をはたらいた。朱異は、こうした情況を見ると、みずからその部下の二千人を率いて、文欽のとりで七つに急襲をかけて打ち破り、数百の敵兵の首を斬った。
252年(神鳳元年)4月25日、危篤になると、諸葛恪・呂岱・孫弘・孫峻・滕胤・呂拠らに後事を託した。
翌日、孫権は崩御し、孫亮が皇帝となった。
陵墓
同年7月、蒋陵に葬られた。陵墓は、南京(建業)東の梅花山にある。
人物
風貌
- 高貴な人相であったとされ、あごが張って、口が大きく、瞳にはキラキラとした光があった[10][37]。漢の劉琬が16歳の孫権を見て、「形貌奇偉」であったと人に語ったという。野史には、司馬懿・桓温と格好が似ていると言われる[38]。
- 後世の文人によって傑出した若君として描かれている。南宋の詞人辛棄疾の『南郷子・登京口北固亭有懐』には「天下英雄誰敵手 曹劉 生子当如孫仲謀」と歌われている。 唐の「歴代帝王図巻」では、手には麈尾を持ち、その指導力が高く評価された。
性格
- 度量が広く朗らかで、優しいだけでなく決断力があり、侠気を好み士を養った[10]。
- 言動がおどけていて、無茶苦茶な冗談を飛ばしてからかった[40]
- 質素倹約を好んだ。即位後、建業に新たな宮殿を建てたりせず、今までの将軍府を使い続けていたが、やがて老朽化が進んだ。そこでやむなく、築28年ほどの武昌宮を解体して資材にして修繕した。また後宮の女性も、糸つむぎの仕事をする女官なども含めて百名に足らない程度しか置かなかった。
趣味
- 狩りが好きで、日が暮れるまで没頭するのが常だった。北宋の詩人蘇軾の『江城子・密州出猟』には「親射虎 看孫郎」と歌われている。
評価
- 諡号は大皇帝。「大」という諡は、「天の法則に従って、堯を手本とした(則天法堯)」という意味を持つ。
- 呉への使者を務めた趙咨が魏の曹丕に尋ねられた際、「聡明・仁智・雄略」と評している。
- 賈詡は「孫権は虚実を識り、陸遜が兵勢を見ており、険阻に拠って要衝を守り、江湖に舟を浮かべ、皆にわかに謀るのは困難です。用兵の常道は、先ず勝った後に戦い、敵を量って将を論じるもので、それゆえ事を挙げても遺策は無いのです。臣がひそかに群臣を料るに、劉備や孫権に対応できるものはおりません」と評している。
- 劉曄は「孫権は用兵に巧みであり、策謀変化を知ってる」と評している。
- 正史『三国志』撰者の陳寿は、「孫権は、身を低くし辱を忍び、才能ある者に仕事を任せ綿密に計略を練るなど、越王勾践と同様の非凡さを備えた、万人に優れ傑出した英雄であった。さればこそ江南の地を自らの物とし、三国鼎立をなす呉国の基礎を作り上げることができたのである」と功績を称えるも「その性格は疑り深く、容赦なく殺戮を行い、晩年に至ってそれが愈々募った」と評し、「その結果、讒言が正しい人々の行いを断ち切り、後継者(孫亮)も廃され殺されることになった。子孫達に平安の策を遺して、慎み深く子孫の安全を図った者とは言い難い。その後は代が衰微し遂には国が滅びることになるのだが、その遠因が彼の行いに無かったとは言い切れない」および、「遠くは斉の桓公を観、近くは孫権を察し、みんな優れた人物眼を持ち、傑出した人材を抜擢したが、嫡庶を分たず、家庭を錯乱させ、後嗣に禍を遺した」と評している。彼の後嗣問題に批判的な態度を示していた。
- 『三国志』の撰者陳寿は、孫権の廃嫡問題が呉の滅亡の遠因になったと評しているが、注を付けた裴松之は、それに反論し、「孫権は罪ない息子を廃して、乱の兆をつくったとはいえ、国の滅亡は、もちろん暴虐な孫晧にその原因があったのである。もし孫権が孫和を廃さなかったなら、孫晧が正式の世継ぎとなって、結局は滅亡にいたったのであって、事態に何の違いがあったであろう。」と述べている。
- 陸遜の孫の陸機は、「太祖(孫権)は徳を以て成し、聡明睿達にして、懿度深遠であった。賢者を求めるに果てしもなく、民を幼子のように哀れみ慈しみ、人に接するに優れた徳を盡し、仁者に親しむ際は心の底から愛を尽くした。呂蒙を軍隊より抜擢し、潘濬を捕虜の中に見出した。誠信なる人物を推挙し、人が自分を欺くことなど憂えず、才能を量って適所に用い、それらの権力が自分を冒すなども憂うことは無かった。馬に乗り鞭を取っても身をかがめて敬いつつしむことで、陸公(陸遜)の威厳を重くし、近衛兵まで悉く委ねることによって、周瑜の軍を救った。宮殿は質素にし、食事も粗末にして、功臣への恩賞を豊かにし、心を開き人の話によく耳を傾けて、国家の大計を唱える者の意見を容れた。それだから魯粛は一度会っただけで自らを託し、士燮は険を冒して臣下となることを望んだのである。張公(張昭)の徳を尊び、そうして狩の楽しみを減らし、諸葛瑾の言うことを尊んで、情欲の楽しみを割き、陸公の規(いましめ)に感じ入って刑罰に関する政治の煩しさを取り除き、劉基の議論を優れているとして「三爵之誓」を作り、身の置き所のないほど、おそれ慎んでいる子明(呂蒙)の病を見舞い、滋養のある物を分け与え、甘い物を減らして凌統の孤児を育て、天子の位に就き、意気上がり感激するにも、それを魯粛の功績に帰し、悪言など見向きもせずに子瑜(諸葛瑾)の忠節を信じた。こういう訳で忠臣達は競って其の謀を尽くし、志士は皆尽力することができたし、大計は遠略にして、固より区々たるに飽きぬものであった。だから百官は幾らかまとまってはいたが、庶務については未だ手が回らなかった」と評した[45]。
逸話
- 赤壁の戦いの前夜に、劉備は孫権に虚言を述べて、孫権と周瑜を離間させようとしたが、いずれも失敗に終わっている[10]。
- 濡須口の戦いの際、孫権は自ら軽船に乗って曹操の軍営に入った。孫権が大船に乗って偵察に現れたので、曹操はさかんにそれを射させた。矢は船にあたり、船が(矢の重みで)転覆しそうになった。孫権は船を反転させ、もう片方でも矢を受けることで船を水平にして、帰還した。曹操は孫権軍の舟船・武器・軍隊が整然厳粛としているのを見て、感嘆してこう言った[47]。
- 徐盛や朱然といった面々は寒門出身の周泰の指揮下に入っていたが、誰も周泰の指示に随おうとはしなかった。孫権は諸将を集めて濡須塢で宴を開き、その席上でいきなり周泰に服を脱がせ、孫権を守るために刻まれた傷の由来を一つ一つ語らせ、周泰はかつて戦闘があった場所を全て覚えており、孫権の問いに一つ一つ答えていった。孫権は周泰の腕を握って涙を流した。翌日、孫権は周泰に御用の儀仗傘を授けた。孫権が濡須を去る時は、周泰に兵馬を率いて道従(先導と後衛)を指揮させた。鼓角を鳴らし、鼓吹を為して軍営を出た。このことがあって、徐盛達は周泰の指揮下に入ることを納得するようになった[48]。
- 張飛はかつて、劉巴のもとに泊まったことがあった。劉巴が彼と話もしないので、張飛はかんかんに腹を立てた。諸葛亮が劉巴に向かって、「文武を結束して、大業を定めようとしているので、少し我慢してください」というと、劉巴は、「大丈夫がこの世に生きていくからには、当然四海の英雄と交わるべきです。どうして兵隊野郎なんかと語り合う必要がありましょうか」といった。ちなみにこの話を聞いた張昭が孫権に対して、「主君である劉備が張飛を深く信用していることを劉巴が知らない訳がないのにそうした態度を取るのは臣下としては良くない」と非難した。それに対し孫権は「劉巴が劉備の機嫌をとるために張飛などと話すようでは名士とはいえないだろう(主君の顔色を見て対応を変える方が却って人物を疑われるものである)」として劉巴を弁護している[49]。
- 孫権が荊州に入ると、劉備の部将みなは孫権に帰順したが、潘濬だけは病気を称して出てこなかった。孫権は人に命じて潘濬を担ぎ出し、ベッドごと連れてきた。潘濬はベットに横になり、顔を覆って涙が止まらない、孫権は潘濬の字で呼びかけると帰付すべきであるという理由に説明した。そして自らは手拭で彼のため涙を拭った。潘濬は心を打たれ、ベットから離れて孫権に帰順した[10]。
- 曹丕は魏王になると、賈詡を三公一つである太尉に登用した。孫権はこれを笑いました(三公は徳望の高い者に授けることが多く、賈詡が不適任とされた)[50]。
- 喪中の曹丕が呉に使者を派遣して雀頭香・大貝・明珠・象牙・犀角・玳瑁・孔雀・翡翠・闘鴨・長鳴鶏などの南方珍品を求めた。呉の群臣が孫権に「荊・揚二州の貢物の内容には決まりがあります。魏が求めた珍玩の物は礼ではないので、与えるべきではありません」と言った。孫権は「今は蜀と魏において事があり、江表の民衆は主である自分を頼りにしている。これは我が愛子ではないか。彼が求めたものは、我々にとっては瓦石に過ぎない。私がなぜ惜しむのだ。そもそも彼は喪中にいるのに、求めるものがこのようであった。どうして彼と礼を語れようか」と言って全てそろえて魏に送った。
- 孫権が呉王になったとき、祝いの宴会で大臣たちに酒を勧め、虞翻は床に酔い潰れたように見えたため孫権が通り過ぎたところ、その後平然と席に座り直した。孫権は大いに怒り、かつて曹操が孔融を処刑した例を引き合いに虞翻を脅したが、大臣の劉基が理を尽くして諭した為に遂に虞翻を許した。孫権は、側近の者たちに対し、今後、酒の後に殺すと言っても、殺してはならないように、と言ったという[51]。暑い季節、孫権は船上で酒宴を開いたが、雷雨に見舞われた。孫権は自分の上に御用の儀仗傘を差し掛けるとともに、劉基の頭上にも同じ傘を差し掛けるよう命令した。他の人々は傘の下に入ることはできなかったという[52]。
- 蜀漢の使者の費禕が来訪したとき、孫権は費禕に「楊儀、魏延は牧童のごとき小人だ。一時的な状況によって聡明と功績が認められたが、諸葛亮がいないなら、必ず災いとなります。君はぼやぼやしているものだから、それに対して予防することすら知らない」と言った。費禕はびっくりして返答することができなかった[40]。
- 孫権は郎中の鄭泉に「卿は衆人の中で面と諫めることを好むが、礼と敬意を失することがある。逆鱗を畏れることがあるのか?」「臣は君が明であれば臣は直だと聞きます。今、朝廷は上下とも無諱の時に遭っております。まことに洪恩を恃んでおり、龍鱗などは畏れておりません」鄭泉に宴会に侍り、孫権は怖れさせようと連れ出させて有司に付し、治罪を促した。鄭泉はこのときしばしば顧みた。孫権は呼び還して笑って「卿は龍鱗を畏れぬと言ったが、どうして出される時に顧みたのだ?」「まことに恩寵が篤く、死の憂いが無いと知っていたのですが、出閤の際に威霊に感応して顧みずにはおられなかったのです」[53]。
- 孫権が呉王になると、方士の介象に隠形の術を学び、姿を隠したまま殿門を出入りして見たところ、誰も孫権に気がつかなかったという[54]。
- 孫権は武昌で銅鉄を採取し、千振りの剣、一万振りの刀を製作した。どちらも長さ三尺九寸である。刀は頭の部分が四角になっており、これらはみな南方の銅、越の炭によって作られたものである。小篆による「大呉」との銘がある[55]。
- 武昌で「長安」なる巨大戦艦の進水式を行った際、孫権も船に乗っていたのだが、羅州まで向かう途中で風が激しく吹き、長江が大いに荒れた。万一を危惧した側近達は船長に樊口に向かうように命じたが、大いにはしゃいでいた孫権はそのまま羅州まで向かえと命令を出した。 見かねた側近の谷利が船長に刃を突きつけ「樊口へ向かえ。さもなくば斬る」と脅したため、結局樊口に停泊した。孫権は谷利に「利ちゃん、何故そのように水を怖がるのか」とぼやいたところ、谷利に「もし船が転覆したならば国家の事業をどうされるおつもりか。故に私はあえて死をかけてお止めしたのでございます」と諭されている。そのことから孫権は谷利を大切にする[56]。
- 陸遜が曹休を破った際、孫権は大宴を開いた。孫権は陸遜に命じ、二人で共に舞を踊った。その時着ていた白いモモンガの毛皮で作った衣服を脱いで下賜した[57]。
- 孫権は即位に「私は、周公瑾がおらねば、帝位にはつけなかったのだ」と述懐している[58]。帝位に即位できたのは周瑜のおかげだと述べた後、同意して周瑜を称賛しようとした張昭に対し「もしあの時、張公の(赤壁の戦いで曹操に降伏する)進言を聞いていたら、私は帝位に即位するどころか、今頃は乞食になっていた」と皮肉ると、張昭は酷く恥じ入ったという[10]。
- 康僧会は呉都建業についてから、秦淮の南岸の小長干で茅屋を建てて、仏教を広めた。呉帝の孫権は彼を引見してこう尋ねて「仏陀は何の効き目があるか」と。康僧会は「如来は滅寂してから、最早千年余りがたったが、しかし、今遺骨の仏舎利はまだ霊験を現すことができます。そのため、阿育王はかつて8万4千基の仏塔を建てて、それによって仏教の前代からの気風が教化されました」と答えました。孫権はこのような効き目のあることがあるとは信じないで、そこで、「もし仏舎利を得ることができるならば、それために塔を建てましょう」と言いました。それから、康僧会と沙門たちを大内の中で立壇し、香を燃やして仏像に礼拝し、仏舎利がはっきりと現れることを切に願ったという。初めの7日間の過ぎて、そして二つ目の7日間も過ぎ、なにもなかったが、二十一日目の夜の五更頃になると、供物台の上の銅瓶からリズミカルな音が出て、仏舎利はついに銅瓶の中に顕現れて、きらめいていたのであった。そして翌日の朝、康僧会は仏舎利を孫権に献呈したという。孫権は銅瓶の中の仏舎利を取り出して銅盤の中に置くと、銅盤は直ちに壊れてしてしまった。孫権はこれを見て、しきりに驚嘆したという。康僧会は「この仏舎利は火焼と金剛杵が打つことに耐える」と言った。勇士にかなづちで打つように命じて、仏舎利は少しも損なわなかった。そこで孫権は仏陀の神通力を感服して、それで、建業で建初寺を建築して、それによって仏陀を祭ったという[59]。
- 孫権の末年、揚州臨海郡羅陽県には神がいて、みずからを王表と名のっていた。この神は民間をうつり歩き、言葉を発し飲食をすることは、人間と変わりがなかったが、その姿を現すことがなかった。紡績と呼ばれる女がいて、この神に仕えていた。孫権は王表のことを聞くと中書郎李崇を派遣し、輔国将軍・羅陽王の印綬を与えて王表を都へ迎えさせた。蒼竜門の外に王表のための屋敷を建ててやり、しばしば側仕えの臣下をつかわし、酒食を持って王表のもとを訪れさせた。王表は、水害や旱などの小さな事がらについて予言をなし、それはよく的中した。孫権が病に倒れると、部将や官吏たちが王表のもとをおとずれて、孫権のために福を請うたが、王表は逃亡した[7]。
- 西晋の末年、呉の士たちの間には、孫権の治世を懐かしむ声が高まっていた。陸機は哀悼文を書いて孫権のことを記したという[60]。また華譚は「呉の武烈父子はみんな英傑の才能を持っており、大業を受け継いだ。今、陳敏の凶暴のため、桓王(孫策)や大皇(孫権)など賢人の足跡を追い越したいです。そのことは許されない」と言った[61]。
年譜
- 196年(建安元年) - 15歳のとき、朱治によって孝廉に推挙される。厳象によって茂才に推挙される。
- 200年(建安5年) - 急死した兄孫策から後継者に指名され、19歳で家督を継ぎ、江東一帯の主となる。曹操の上表により会稽太守・討虜将軍に任じられる。任地には赴かず、呉に本拠を構える。
- 208年(建安13年) - 父の仇である黄祖を討ち取る。本拠地を京口に移し、曹操に大軍で攻められ家臣には降伏を奨められるも劉備と同盟し、赤壁の戦いに勝利する。
- 209年(建安14年) - 妹を劉備に嫁がせる。
- 210年(建安15年) - 歩騭を交州刺史とし、士燮を服属させた。
- 212年(建安17年) - 本拠地を秣陵に移し、建業と改名。石頭城を改装。妹は呉に帰ってきた。
- 215年(建安20年) - 劉備から長沙・桂陽を割譲(返還)される。曹操領の最前線合肥を攻めるが、逆に曹操軍の張遼に捕捉寸前にまで追い詰められる(合肥の戦い)。
- 216年(建安21年) - 濡須口の戦い 前年の合肥の戦いの勝利に乗じて曹操が侵攻してくるも、これを食い止める。
- 219年(建安24年) - 劉備と手を切って曹操と同盟を組み、関羽を討ち取って悲願であった荊州の奪還に成功。曹操の上表により驃騎将軍・荊州刺史に任じられ、南昌侯に封じられる。
- 220年(建安25年/延康元年/黄初元年) - 春正月、曹操が逝去。曹丕が代わって丞相・魏王となり、三月に延康と改元する。冬、曹丕が皇帝を名乗り、年号を黄初と改める。
- 221年(黄初2年) - 四月、劉備が蜀において帝を称する。 本拠地を鄂に移し、武昌と改称する。十一月、魏の朝廷から策命を下され呉王に封じられる。劉備が軍を率いて攻め寄せ、武陵の異民族たちを蜀につくよう誘いかける。孫権は陸遜を総指揮官に命じ、朱然や潘璋らを指揮して進出を防ぎ止めさせる。孫登を王太子に立てる。
- 222年(黄武元年) - 正月から閏六月の間に劉備を夷陵の戦いで破る。九月、呉は三方向から魏の侵攻を受ける。改元を行い「黄武」の元号を立てて、魏から独立する(実質的な呉の建国年)。十一月、大風により溺死する者が数千名にのぼる。曹休が臧覇に命じ徐陵を襲撃させる。全琮と徐盛はこれを追撃して魏の部将尹礼を斬る。 十二月、鄭泉を使者に立てて白帝にいる劉備を聘問(へいもん)し、友好関係を回復するも依然として魏の文帝とも往来があり、次の歳になってからその交わりは絶たれる。
- 223年(黄武2年) - 三月、魏の軍がすべて撤退する。四月、群臣たちが孫権に帝位に即くようにと勧進する。劉備が白帝で逝去し、馮熙を公式の使者として弔問を行わせる。十一月、蜀の使者鄧芝と面会し、呉蜀同盟を結び魏との同盟を破棄する。
- 224年(黄武3年) - 夏、張温を公式の使者として蜀に送る。
- 228年(黄武7年) - 呉の周魴が偽りの降伏を魏に申し出て、魏の曹休を石亭に誘い出し、呉の陸遜らは曹休と戦い勝利する(石亭の戦い)。
- 229年(黄龍元年) - 皇帝に即位。建業に遷都する。
- 230年(黄龍2年) - 将軍の衛温・諸葛直らに兵1万を率いさせ、夷州および亶州(台湾、沖縄、もしくは日本という説が存在)の探索を行わせる亶州には辿り着けず、夷州の数千人を得るだけで、派遣した兵の大部分を失う。翌年、探索失敗により衛温・諸葛直らを処刑する。
- 233年(嘉禾2年) - 公孫淵に九錫を賜り、燕王に封じる。しかし使者の張弥と許晏を殺され、その首は魏に送られた。
- 237年(嘉禾6年) - 諸葛恪らを派遣して揚州の非漢民族である山越を討伐し、降伏した山越の民を呉の戸籍に組み込み、兵士として6万人徴兵した。
- 247年(赤烏10年) 武昌宮からの建材を用いて太初宮を改修した。
- 250年(赤烏13年) - 二宮事件(孫和派と孫覇派の家督争い)を決着させる。
- 252年(神鳳元年) - 71歳で崩御。蒋陵(現在の紫金山南麓。孫陵崗・梅花山とも呼ばれ、墓標や石像が残る)に葬られる。
家系図
孫鍾? | 孫羌 | 孫賁 | 孫鄰 | 孫震 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
孫輔 | 孫歆 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
孫堅 | 孫策 | 孫紹 | 孫奉 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1孫権 | 孫登 | 孫英 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
孫慮 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
孫和 | 4孫皓 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
孫謙 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
孫覇 | 孫壱 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
孫奮 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
3孫休 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2孫亮 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
孫翊 | 孫松 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
孫匡 | 孫泰 | 孫秀 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
孫朗 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
孫静 | 孫暠 | 孫綽 | 孫綝 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
孫恭 | 孫峻 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
孫瑜 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
孫皎 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
孫奐 | 孫壱 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
孫謙 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
● | ● | 孫韶 | 孫楷 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
孫河 | 孫桓 | 孫異 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
続柄
父母
- 父
- 母
兄弟姉妹
后妃
子
- 男子
- 宣太子 孫登(子高)
- 建昌侯 孫慮(子智)
- 南陽王 孫和(子孝)- 母は琅邪王夫人
- 魯王 孫覇(子威)- 母は謝姫
- 斉王 孫奮(子揚)- 母は仲姫
- 景帝 孫休(子烈)- 母は南陽王夫人
- 廃帝 孫亮(子明)- 母は潘皇后
- 女子
そのほか、滕胤に嫁いだ娘がいる。養女と考えられている[62]。
- 養子
- 凌烈、凌封(凌統の遺児)
脚注
- ^ 『三国志』諸葛恪伝
- ^ 繁体字の表記:孫權、簡体字の表記:孙权、ピン音:Sūn Quán。
- ^ ピン音:Zhòngmóu。
- ^ 『三国志』呉志 孫破虜討逆伝による。また、南朝宋に記された『異苑』によると、孫権の祖父は「瓜売り」をしていた孫鍾という人物だという。同じく南朝宋の文献される『幽明録』(現在は散逸)にも孫鍾の名が記載されている。さらに、東晋の裴啓の『裴子語林』にも孫鍾の事項が記されている。
- ^ 『三国志』呉志 朱治伝 に引く『江表伝』
- ^ 『三国志』魏志 陳矯伝
- ^ a b c 『三国志』呉志 呉主伝
- ^ 『三国志』魏志 劉馥伝
- ^ 一緒に狩猟をするというのは、戦って雌雄を決するという裏の意味。
- ^ a b c d e f g h 『江表伝』
- ^ 『三国志』蜀志 先主伝・『資治通鑑』
- ^ 『三国志』呉志 周瑜伝・『後漢紀』・『建康実録』
- ^ 『三国志』呉志 魯粛伝・『資治通鑑』 劉備は孫権に「私も劉璋殿も漢王室の流れを汲む身として、祖先の英霊におすがりし、漢王朝の再建を目指しております。今、劉璋殿に罪ありとのご糾弾を受けて、私も身もすくむ思いでありますが、攻略するなど思いも及ばぬ事で、何卒寛大なご処分をたまわりたく、どうでもお聞き届けいただけぬとあらば、私は髪をざんばらにして山林に隠れ住むほかありません」と言った。
- ^ 『献帝春秋』
- ^ a b 『呉歴』
- ^ 『三国志』呉志 甘寧伝・魏志 荀攸伝・『魏氏春秋』
- ^ 『三国志』魏志 武帝紀・『献帝春秋』・『魏氏春秋』
- ^ 『三国志』呉志 甘寧伝・『三国志集解』 なお『資治通鑑』では建安18年(213年)の出来事としている
- ^ 『三国志集解』『通論』
- ^ 『三国志』呉志 呉主伝・周魯呂伝・程黄韓蒋周陳董甘凌徐潘丁伝・『元和郡県志』 建安20年(215年)、魯粛は益陽県で関羽を牽制し、一度も関羽に付け入らせなかった。
『三国志』呉志 呂岱伝 時期不明。
『三国志集解』建安20年(215年)後で起こった事件。 - ^ 『三国志』呉志 呉主伝・『資治通鑑』
- ^ 『資治通鑑』『三国志集解』『方輿紀要』『通典』『道光巣県志』
- ^ 『三国志』呉志 呂蒙伝・周泰伝・徐盛伝・『資治通鑑』・『冊府元亀』・『太平御覧』
- ^ 晋の『古今注』
- ^ 『建康実録』
- ^ 『魏氏春秋』・『方輿紀要』・『三国志集解』・『三国志』呉志 孫皎伝・蜀志 諸葛亮伝
- ^ 『晋書』。なお『資治通鑑』では建安24年(219年)の出来事としている。
- ^ 趙咨が孫権に「北方を観たところ、魏が最後まで盟を守ることはできないでしょう。今日の計は、我が朝廷が漢四百の際(四百年続いた漢朝の後、最期の時)を継承し、東南の運に応じることです。年号を改めて服色を正し、そうすることで天に応じて民に順じるべきです」と進言した。
- ^ 『三国志』呉志 呉主伝・鄭泉伝・陸遜伝・『呉録』・『資治通鑑』
- ^ 『方輿紀要』
- ^ 『資治通鑑』
- ^ 『三国志』呉志 朱然伝。なお『三国志』魏志 明帝紀では嘉禾6年(237年)の出来事としている
- ^ 『晋紀』・『漢晋春秋』
- ^ 『三国志』呉志 陸凱伝。なお『大越史記全書』では、陸胤が到着して説得したことにより三万家余りが降伏したとなっている。
- ^ 『交趾志』交州九真郡の趙国達・趙嫗兄妹が呉に対して反乱を起こし、九真の呉軍はこの反乱軍に連戦連敗した。趙嫗が城や村を陥落させ州郡が騒然となったこと、この報告を聞いた孫権は、陸胤らを派遣した。陸胤が軍を率いてくると半年にわたる激戦となり、趙氏兄妹の反乱を平定した。
- ^ 『三国志』呉志 諸葛恪伝 に引く『呉書』
- ^ 中華民国の学者の黎東方『細説三国』では、「あごが張って、口が大きく」は四方を安定させ、「瞳にはキラキラとした光があった」は活気を体現している。象徴を意味すると言われている
- ^ 『世説新語容止』
- ^ 『三国志演義』四十三回
- ^ a b 『襄陽記』
- ^ 嫵媚とは、(女性・草花などが)美しくかわいい、なまめかしい、あでやかであるの意。
- ^ 『魏略』
- ^ 『献帝春秋』
- ^ 『書史会要』に「大帝孫氏 諱權 字仲謀 堅之子 善行草隸」という。
- ^ 『弁亡論』
- ^ 『古今注』
- ^ 『魏略』
- ^ 『三国志』呉志 周泰伝・『資治通鑑』
- ^ 『零陵先賢伝』
- ^ 『荀勗別伝』
- ^ 『三国志』呉志 虞翻伝
- ^ 『三国志』呉志 劉基伝
- ^ 『呉書』
- ^ 『神仙伝』
- ^ 『孫権伝集解』
- ^ 『三国志』呉志 呉主伝 に引く『江表伝』
- ^ 『呉書』・『太平要覧』
- ^ 『三国志』呉志 周瑜伝
- ^ 『広弘明集』・『六度集経』
- ^ 『宋書』巻十九・志第九より
- ^ 『資治通鑑』巻86
- ^ 滕胤に嫁ぐ際に公主と呼ばれている、後文には孫奐の娘である孫壱の妹が確認されている(『三国志』呉志 滕胤伝)
参考文献
- 陳寿、裴松之注『正史 三国志』、井波律子・今鷹真・小南一郎 訳・解説(ちくま学芸文庫全8巻、1992 - 93年)、※呉書は6・7・8巻、小南一郎訳。
- 王敏 編『中国歴代王朝秘史事典』、河出書房新社、1999年、ISBN 4-309-22339-7。
- 金文京『中国の歴史04 三国志の世界』、講談社、2005年、ISBN 4-06-274054-0。
関連項目
- 玄武湖 - 南京市の北東にある湖。孫権が水軍の訓練を行った場所として有名。
- 明孝陵 - 孫権墓の近くにある明の太祖洪武帝朱元璋の陵墓。孫権墓を避けるため参道が曲がったと言われる。
- 石頭城 - 212年(建安16年)に孫権により築城され、南京では数少ない三国志関連の遺跡である。別称を鬼顔城とも称す。
- 黄鶴楼 - 223年、孫権によって軍事目的の物見櫓として建築されたが。中国の『江南三大名楼』のひとつである。
外部リンク
|
|