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羊衜 (呉)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

羊 衜(よう どう、211年 - ?)は、中国三国時代の武将・政治家。字は不明。荊州南陽郡の人。羊茝とも呼ばれる。

生涯

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弁論の才能を持ち、人物眼にも優れた。黄武4年(225年)、蜀漢の使者の費禕が来訪したとき、呉側で論争を挑んだ人物の1人として名を上げた[1]

黄龍元年(229年)、孫登が皇太子になると、その賓客になった。翌年、20歳で太子中庶子に昇進した。隠蕃という人物が帰順してくると、朱拠郝普など多くの人物が彼を賞賛したが、羊衜は彼と付き合おうとしなかった。やがて隠蕃が間諜であったことが判明した。

胡綜が孫登の命を受けて太子の属官たちについて報告したとき、その中で諸葛恪顧譚謝景范慎の4人をたいへん賞賛した。しかし、羊衜は胡綜の見解に反論して「元遜(諸葛恪)は才能があるくせに、そそっかしい。子黙(顧譚)は頭がいいが、残忍だ。叔発(謝景)は弁は立つが、浮ついている。孝敬(范慎)は深い道理が分かりますが、度量が小さい」と言い、この4名を過大評価したものとみなした。このため諸葛恪らに冷遇された(一方、後の人が羊衜の結論に賛同していた)。その後、庶民出身の李衡らの人材を見出して孫権に推挙した[2]

赤烏2年(239年)、公孫淵が魏の司馬懿の攻撃を受けると、孫権に援軍を求める使者を派遣した。呉の人々はみなその使者を斬ろうとしたが、ひとり羊衜だけは援軍を送り、魏を攻撃するよう提案した。孫権は羊衜の意見を聞き入れた[3]。羊衜は鄭冑孫怡とともに援軍として遼東に派遣され、魏の将の張持や高慮を破って、その男女を捕虜として帰国した(遼隧の戦い[4]。後に始興太守に昇進した。

赤烏5年(242年)、滕胤に手紙を送り、南海太守の鍾離牧を高く評価し功績を称えた[5]。孫権は息子と大臣たちとの往来を禁止した後、羊衜がそのことについて進言した。後に羊衜は桂陽太守に転出し、在官のまま死去した[6]

脚注

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  1. ^ 『三国志』蜀書費禕伝
  2. ^ 『襄陽記』
  3. ^ 『三国志』魏書公孫度伝裴注所引『漢晋春秋』
  4. ^ 『三国志』呉書呉主伝
  5. ^ 『三国志』呉書鍾離牧伝
  6. ^ 『三国志』呉書孫登伝