衛温
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衛 温(えい おん、? - 231年)は、中国三国時代の呉の将軍。
生涯
[編集]黄龍2年(230年)春、孫権は衛温と諸葛直に武装兵1万を率いさせ、夷洲[1]・亶洲[2]へ向かわせた上で、未知地域の調査と現地民との交誼を行なう事を計画した。陸遜と全琮が反対したが、孫権の命により計画は実行に移された。
約1年後、衛温と諸葛直は帰国したが、亶洲へは遠すぎたため到達できなかった。また兵の八割から九割を疫病で失い(『呉主伝』)、成果は夷洲の現地民を数千人連れ帰っただけであった。衛温と諸葛直は、詔に背いて目的が果たせなかったとして、二人とも獄に繋がれ誅殺された。
脚注
[編集]- ^ 夷洲は沈瑩の『臨海水土異物志』に記述がある。「夷洲は臨海郡の東南二千里にあり、土地に霜や雪がなく、草木も死なない。四方は山と谷である。人が皆、髪を剃り、耳たぶに穴を開けているが、女性は耳に穴を開けない。土地が肥沃で、元から五穀(麻、キビ、アワ、麦、豆)が生えていて、また魚肉も多い。犬は尾が短く、のろの尾みたいである。この異民族の舅・姑・子・嫁は一つの大きな寝床で眠り、ほとんどお互いを避けようとしない。土地に銅鉄があるが、ただ戦闘においてシカの角を矛として使い、摩礪青石で矢じりをつくる。生の魚肉を取り、大きな瓦器の中に塩を入れ混ぜて蓄え、一ヶ月と数日を経て、それをご馳走と思い食べる。」
- ^ 亶洲は日本の本州や種子島などの説がある。秦の時代、徐福は始皇帝に不老長寿の薬を捜すことを命じられた。徐福は、童子・童女数千人を連れ亶洲に辿り着いたが、そのまま戻らなかった。時々、その子孫が会稽郡に来て商い事をしたりした。また会稽の人間が嵐に遭った時、偶然亶洲に辿り着くことがあったという。