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「環州」の版間の差分

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本節では、唐初に現在の[[江蘇省]][[連雲港市]]一帯に設置された環州について述べる。
本節では、唐初に現在の[[江蘇省]][[連雲港市]]一帯に設置された環州について述べる。


[[621年]](武徳4年)、隋の[[東海郡]][[東海県]]の地に環州が置かれた。環州は東海・[[カン楡区|青山]]・[[カン楡区|石城]]・[[カン楡区|贛楡]]の4県を管轄した。[[625年]](武徳8年)、環州は廃止され、青山・石城・贛楡の3県は廃止されて東海県に併合された。東海県は[[海州 (江蘇省)|海州]]に転属した<ref name="kutoujo38"/>。
[[621年]](武徳4年)、隋の[[東海郡]][[東海県]]の地に環州が置かれた。環州は東海・[[楡区|青山]]・[[楡区|石城]]・[[楡区|贛楡]]の4県を管轄した。[[625年]](武徳8年)、環州は廃止され、青山・石城・贛楡の3県は廃止されて東海県に併合された。東海県は[[海州 (江蘇省)|海州]]に転属した<ref name="kutoujo38"/>。


== 脚注 ==
== 脚注 ==

2020年8月17日 (月) 07:49時点における最新版

環州(かんしゅう)は、中国にかつて存在した。歴史上に同名の州が複数存在した。

寧夏の環州

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本節では、隋代から初にかけて現在の寧夏回族自治区中衛市一帯に設置された環州について述べる。

599年開皇19年)、隋により環州と鳴沙県が置かれた。607年大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、環州は廃止され、その属県は霊武郡に編入された[1]

619年武徳2年)、唐により隋の霊武郡鳴沙県の地に西会州が置かれた。632年貞観6年)、西会州は環州と改められた。635年(貞観9年)、環州は廃止され、その属県は霊州に編入された[2]

広西の環州

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本節では、唐代から宋代にかけて、現在の広西チワン族自治区河池市一帯に設置された環州について述べる。

638年(貞観12年)、唐の清平公李弘節が当地の少数民族を帰順させ、環州が置かれた。742年天宝元年)、環州は正平郡と改称された。758年乾元元年)、正平郡は環州の称にもどされた。環州は嶺南道安南都護府に属し、正平福零竜源饒勉思恩武石蒙都歌良の8県を管轄した[3]

宋のとき、環州は慶遠府の羈縻州となった[4]

甘粛の環州

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本節では、五代十国時代から初にかけて、現在の甘粛省慶陽市一帯に設置された環州について述べる。

939年天福4年)、後晋により立てられた威州を前身とする。952年広順2年)、後周により威州は環州と改称された。957年顕徳4年)、環州は通遠軍に降格した[5]

994年淳化5年)、北宋により通遠軍は環州の称にもどされた。環州は永興軍路に属し、通遠県と興平城・安辺城・清平関・羅溝堡・阿原堡・朱台堡・安辺寨・大抜寨・方渠寨・流井堡・帰徳堡・木瓜堡・麝香堡・通帰堡・恵丁堡を管轄した[6]

のとき、環州は慶原路に属し、通遠県と木瓜・帰徳・興平の3堡と定辺・平遠・永和・洪徳・烏倫・安辺の6寨と合道・馬嶺・木波の3鎮を管轄した[7]

1270年至元7年)、により通遠県が廃止された。環州は陝西等処行中書省に属し、属県を持たなかった[8]

1369年洪武2年)、明により環州は環県に降格した。環県は慶陽府に編入された[9]

江蘇の環州

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本節では、唐初に現在の江蘇省連雲港市一帯に設置された環州について述べる。

621年(武徳4年)、隋の東海郡東海県の地に環州が置かれた。環州は東海・青山石城贛楡の4県を管轄した。625年(武徳8年)、環州は廃止され、青山・石城・贛楡の3県は廃止されて東海県に併合された。東海県は海州に転属した[2]

脚注

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  1. ^ 隋書』地理志上
  2. ^ a b 旧唐書』地理志一
  3. ^ 『旧唐書』地理志四
  4. ^ 宋史』地理志六
  5. ^ 旧五代史』郡県志
  6. ^ 『宋史』地理志三
  7. ^ 金史』地理志下
  8. ^ 元史』地理志三
  9. ^ 明史』地理志三