「ベトナム」の版間の差分
m 曖昧さ回避ページブルームバーグへのリンクを解消、リンク先をブルームバーグ (企業)に変更(DisamAssist使用) |
m Bot作業依頼: 「鏞・埈・雒」等の改名に伴うリンク修正依頼 (甌雒) - log |
||
97行目: | 97行目: | ||
=== 青銅器文化 === |
=== 青銅器文化 === |
||
[[File:Tambour-song-da2.jpg|thumb|220px|left|[[ドンソン文化]]の[[銅鼓]]。]] |
[[File:Tambour-song-da2.jpg|thumb|220px|left|[[ドンソン文化]]の[[銅鼓]]。]] |
||
[[部族]]国家群{{仮リンク|ホンバン朝|en|Hồng Bàng Dynasty|label=鴻龐朝}}(現[[フート省]]付近の[[文郎国]]、山岳部の{{仮リンク|オーベト|vi|Âu Việt|label=甌越}}、[[紅河デルタ]]の[[雒越]]など)を形成していた。これが古越人(後の[[ベト族]])である。紀元前4世紀頃から、東南アジア最古の[[青銅器文化]]として知られる[[ドンソン文化|東山(ドンソン)文化]]が、北部ベトナムの[[紅河]](ホンハー)流域一帯に広がった。[[秦]]の[[始皇帝]]によって[[象郡]]が置かれ、郡県支配を受けた。[[蜀ハン|蜀泮]]によって文郎国・甌越・雒越が統合され、[[ |
[[部族]]国家群{{仮リンク|ホンバン朝|en|Hồng Bàng Dynasty|label=鴻龐朝}}(現[[フート省]]付近の[[文郎国]]、山岳部の{{仮リンク|オーベト|vi|Âu Việt|label=甌越}}、[[紅河デルタ]]の[[雒越]]など)を形成していた。これが古越人(後の[[ベト族]])である。紀元前4世紀頃から、東南アジア最古の[[青銅器文化]]として知られる[[ドンソン文化|東山(ドンソン)文化]]が、北部ベトナムの[[紅河]](ホンハー)流域一帯に広がった。[[秦]]の[[始皇帝]]によって[[象郡]]が置かれ、郡県支配を受けた。[[蜀ハン|蜀泮]]によって文郎国・甌越・雒越が統合され、[[甌雒]]([[紀元前257年]] - [[紀元前207年]])が成立し、[[古螺|コロア]]を王都とした。紀元前207年に[[南越国]]が成立し、甌雒を併合した。 |
||
=== 北属期 === |
=== 北属期 === |
2020年8月13日 (木) 02:47時点における版
- ベトナム社会主義共和国
- Cộng hoà Xã hội chủ nghĩa Việt Nam
-
(国旗) (国章) - 国の標語:Độc lập - Tự do - Hạnh phúc
(漢字: 独立、自由、幸福) - 国歌:Tiến Quân Ca
進軍歌 -
公用語 ベトナム語 首都 ハノイ 最大の都市 ホーチミン市 - 政府
-
党書記長 グエン・フー・チョン 国家主席 グエン・フー・チョン(兼任) 国家副主席 ダン・ティ・ゴック・ティン 首相 グエン・スアン・フック 国会議長 グエン・ティ・キム・ガン - 面積
-
総計 331,212km2(64位) 水面積率 1.3% - 人口
-
総計(2019年) 96,208,984人(14位)[1] 人口密度 290人/km2 - GDP(自国通貨表示)
-
合計(2018年) 5,535兆2,675億[2]ドン - GDP(MER)
-
合計(2018年) 2372億[2]ドル(58位) 1人あたり xxxドル - GDP(PPP)
-
合計(2018年) 7,105億[2]ドル(34位) 1人あたり 7,505[2]ドル - 独立
-
フランスより独立宣言
(ベトナム民主共和国)1945年9月2日 独立承認
(ジュネーヴ協定)1954年7月21日 南北統一、改称 1976年7月2日
通貨 ドン(VND)(₫ / Đồng; 銅) 時間帯 UTC(+7) (DST:なし) ISO 3166-1 VN / VNM ccTLD .vn 国際電話番号 84
ベトナム社会主義共和国(ベトナムしゃかいしゅぎきょうわこく、ベトナム語:Cộng Hoà Xã Hội Chủ Nghĩa Việt Nam / 共和社會主義越南)、通称 ベトナム(越南、ベトナム語:Việt Nam / 越南)は、東南アジアのインドシナ半島東部に位置する社会主義共和制国家。首都はハノイ。東南アジア諸国連合(ASEAN)加盟国、通貨はドン、人口約9,621万人(2019年)。
国土は南北に細長く、北は中華人民共和国、西はラオス、南西はカンボジアと国境を接する。東と南は南シナ海に面し、フィリピンやボルネオ島(マレーシア連邦やブルネイ、インドネシア)やマレー半島(マレーシア連邦およびタイ王国南部)と相対する。
南シナ海南部のスプラトリー諸島を「チュオンサ諸島」と呼称して自国領と主張し、一部を実効支配している。南シナ海中部のパラセル諸島(ベトナム名「ホアンサ諸島」)についても領有権を主張しているが、中国の実効支配下にある。
国名
正式名称はベトナム語で "Cộng Hoà Xã Hội Chủ Nghĩa Việt Nam" ( )。略称は "Việt Nam" (ベトナム語発音: [viət˨ næm˧] ( 音声ファイル))である。ベトナム語の漢字(チュハン)では「共和社會主義越南」・「越南」となる。
1802年に現代とほぼ変わらない領土でベトナムを統一した人物は、阮朝の創始者の阮福暎(嘉隆帝)である。1804年には清の嘉慶帝から越南国王に封ぜられ、『越南』を正式の国号とした、阮朝は最初清に「南越」の号を求めたが、嘉慶帝は「越南」という国号を与えた。「南越」という国号に阮朝の領土的野心を警戒したという見方もある。
日本語表記は「ベトナム社会主義共和国」、通称は「ベトナム」。一部文献等では「ヴェットナム」「ヴィエットナム」等の表記もみられる。漢字による表記では「越南」(えつなん)と書くこともあり、越と略す。現在の日本国の外務省では、「ベトナム」・「ベトナム社会主義共和国」の表記を用いるが、かつては「ヴィェトナム社会主義共和国」と表記していた。
公式の英語表記は "Socialist Republic of Vietnam" 、略称は "Vietnam"、または "SRV"。1976年6月24日、ベトナム戦争後初の南北統一国会(第6期国会第1回会議)が招集され、7月2日の国会決議により現在の国名が決定された[3]。2013年の憲法改正時に、「ベトナム社会主義共和国」の国名を、1945年のベトナム八月革命によって独立した時の国名「ベトナム民主共和国」に改める動きが報じられた[4][5]が、改正案から国名変更部分は除外され、変更はされなかった[6]。
歴史
石器文化
今からおよそ30 - 40万年前の地層から人類の歯がハノイ北方のタムハイにあるタムクエン洞窟(ランソン省)で発見されている。他の場所からも、例えばクアンイエンのド山(タインホア省)、スアンロク(ドンナイ省)から打製石器や剥片石器がたくさん発見されている。また、タムオム(ゲアン省)、ハンフム(イエンバイ省)、トゥンラン(ニンビン省)、ケオレン(ランソン省)などからも人類の足跡が発見されている[7]。
今からおよそ2 - 3万年前、現代人(現生人類)の祖先と言われている新人(ホモ・サピエンス)が現れた。彼らの遺跡は、グオム石窟(タイグエン省)、ソンビー(フート省)やライチャウ、ソンラ、バクザン、タインホア、ゲアンの各省にみられる。彼らの道具の主なものは石斧で、万能石器である[8]。
最終氷期が終わり、地球規模で温暖化が始まった約1万年前から4000年前の人類の遺物や洞窟が発見されている。ホアンビン、バクソン(ランソウン省)、クインバン(ゲアン省)、ハロン(クアンニン省)、バウチョー(クアンビン省)では、前段階よりも石器が改良され、多種の石材を使い様々な用途に使用できる石器が製作されるようになっていた。今までの打製石器1だけではなく刃を研磨した道具の短斧・右肩石斧などの磨製石器がつくられている。その他には、自然石の礫石器や動物の骨や歯を利用した骨角器が造られた。また、パクソン、クインバン、ハロンでは、土器を伴い、石製の鋤・鍬が見つかっている。これらの遺物から生活様式が発展したことがうかがえる。たとえば、土器の使用により、煮炊きでき、食物を保存できるようになり、生活が豊かになってきた。さらに鋤や鍬で森・土地を開墾し農業ができるようになったと推測できる。さらに動物の骨から道具を作っていることから犬や豚を飼って畜産を行っていたと考えられる。また、農業や畜産を行うことにより、一定の場所に住み着き、狩猟・採取・場所によっては漁撈が可能になっていたと考えられる[9]。
青銅器文化
部族国家群鴻龐朝(現フート省付近の文郎国、山岳部の甌越、紅河デルタの雒越など)を形成していた。これが古越人(後のベト族)である。紀元前4世紀頃から、東南アジア最古の青銅器文化として知られる東山(ドンソン)文化が、北部ベトナムの紅河(ホンハー)流域一帯に広がった。秦の始皇帝によって象郡が置かれ、郡県支配を受けた。蜀泮によって文郎国・甌越・雒越が統合され、甌雒(紀元前257年 - 紀元前207年)が成立し、コロアを王都とした。紀元前207年に南越国が成立し、甌雒を併合した。
北属期
- 北部 - 紀元前111年の漢の南越国征服で漢の武帝が遠征し南越国が滅亡。第一次北属期(en、紀元前111年 - 39年)に入り、交州(交趾郡、日南郡等9郡)と呼ばれた。40年チュン姉妹が蜂起したチュン姉妹の反乱が起こるが、後漢に制圧され第二次北属期(en、43年 - 544年)が始まる。6世紀の終わり頃に隋 (581-618) が中国を統一し、ベトナムに「交州総督府」を設けた。544年に李賁が前李朝を興し独立。602年、隋李戦争で隋が前李朝に侵攻し、第三次北属期(en、602年 - 938年)に入る。次代の唐 (618-907) に引き継がれ「安南都護府」となる(安南という呼称の始まり)。755年に唐で安史の乱が起こると支配は動揺し始め、南詔がハノイの安南都護府を占領した(862年 - 866年)。
- 中部 - 192年、オーストロネシア語族系統の古チャム人(後のチャム族)が日南郡でインド化されたチャンパ王国を形成して後漢から独立。734年に平群広成らの乗る遣唐使船第3船が暴風雨で難破し、崑崙国(チャンパ王国)に漂着して捕縛された。後に脱出して長安に戻り、渤海経由で日本に帰国した。
- 南部 - 扶南国(1世紀 - 6世紀)、真臘(6世紀 - 8世紀)。
越人王朝の形成
- 北部 - 唐末五代十国の混乱で中国の支配が後退すると939年の白藤江の戦いで最初の民族王朝呉朝が成立(北属期終る)。965年に十二使君の乱が起こり、966年に丁朝が成立。980年に黎桓が前黎朝を興し、981年の白藤江の戦いで宋軍を追い返すことに成功。1001年に李朝の成立。宋は「安南国」を朝貢国として承認した。1054年国号を大越としたが、19世紀に至るまで中国は「安南」と呼んだ。国内では「大越」(ダイベト、大いなる「越」)であった。昇竜(タンロン、後のハノイ)に遷都。以後、越人の王朝「大越」は南のチャンパと抗争を繰り返した。1225年、李朝との婚姻から陳太宗へ譲位させることに成功し、陳朝が成立。
- 中部 - チャンパ王国
- 南部 - クメール王朝
モンゴルのベトナム侵攻
モンゴル帝国に連なる元が中国を支配した13世紀に、皇帝のクビライは3度にわたるベトナム侵攻(元越戦争)を行った。1258年、第1次元越戦争。1283年、第2次元越戦争。1287年、第3次元越戦争。1288年の白藤江の戦いで敗北した元軍は敗走した。
第四次北属期
14世紀に陳朝の都昇龍(タンロン)を2度攻略した制蓬峩(チェーボンガー、Chế Bồng Nga)の死後、チャンパ王国では羅皚による王位簒奪が起こった。陳朝に代わった胡朝がチャンパ王国へ逆侵攻すると、羅皚の子である巴的吏が、元に代わった中国・明の永楽帝に援軍を求めて干渉戦争明胡戦争(明・大虞戦争)が起こり、1407年に胡朝は滅亡。第四次北属期(1407年-1427年)となり、明よって「交阯」(Jiaozhi、Giao Chỉ、交趾)との地名で呼ばれた。
南進時代
藍山蜂起(1418年 - 1428年)で明軍を追い出した黎利(レ・ロイ)により後黎朝が起こる(1428年 - 1788年)。地方王権の緩やかな連合体という形態だったチャンパ王国[10]にはヴィジャヤとパーンドゥランガの2つの核となる地域があったが、1471年に後黎朝の侵攻(チャンパ・大越戦争)によりヴィジャヤが滅亡した。
黎朝帝室が衰えると権臣の莫登庸による簒奪王朝莫朝が権力を掌握。黎朝復興勢力と莫朝が紅河を挟んで向き合う南北朝時代の戦乱を経て後黎朝は復興したが、北部は帝室を牛耳る東京鄭氏が支配し、中部には広南阮氏による半独立政権が成立し、両者の間で鄭阮戦争が起こった。このころ日本は広南阮氏と交易し、ホイアンに日本人町ができ来遠橋などが建てられた。
広南阮氏は、1611年からパーンドゥランガの領土を侵食し始める。鄭阮戦争の難民がメコンデルタへ流出すると、カンボジアのチェイ・チェッタ2世(在位:1618年-1628年)は、プレイノコール(英: Prey Nokor、現ホーチミン市)に難民を受け入れ及び徴税のために税関事務所を建設することを許可した。これによってメコンデルタのベトナム化が進行したことで、広南阮氏の南下を呼び込む結果になる。1681年、ダナン沖に明朝遺臣を名乗る楊彦迪(ズオン・ガン・ディック、Dương Ngạn Địch)、陳上川(チャン・トゥオン・スィエン、Trần Thượng Xuyên)らの率いる50隻余の艦隊が出現して広南国への亡命を申し出ると、広南国はメコンデルタへの入植に彼らを活用することとなった[11]
1693年に広南阮氏の武将阮有鏡がパーンドゥランガを征服した。1708年に現在のキエンザン省・カマウ省に勢力を伸ばしていた鄚玖の半独立国「港口国」がカンボジア王を裏切り、広南阮氏に朝貢するようになる。広南阮氏は、阮福濶の時代にカンボジア領であったメコンデルタ下流のクメール人居住領域の併合を行う。
西山朝
1771年に西山阮氏による西山党の乱が起こり1777年に広南阮氏を滅ぼした。1785年にシャムの支援を受けた広南阮氏の残党・阮福暎がメコンデルタ地帯に攻め込んだが(ラックガム=ソアイムットの戦い)、阮恵(グエン・フエ)率いる西山阮氏はこれを撃退した。阮恵は軍を北に向け鄭氏もまた滅ぼし、西山朝が成立した。1789年には、北部にかろうじて存在していた後黎朝の昭統帝が清の乾隆帝に援軍を求めて始まった干渉戦争のドンダーの戦いでも阮恵が勝利し、後黎朝も滅んだ。阮福暎は、フランス人宣教師ピニョー・ド・ベーヌを始めとする外国勢力やチャンパ遺臣の助けを得て西山朝と戦った。
阮朝
西山朝に内紛の兆しが見えると、阮福暎が1802年に西山朝を滅ぼし、阮朝(1802年 - 1945年)を興こした。1830年代には港口国が阮朝の支配下に入り、チャンパ遺臣の自治領も完全に阮朝に吸収され、現在の統一国家ベトナムの形がほぼ完成する[注 1]。
この節の加筆が望まれています。 |
フランス植民地支配
1847年4月15日、フランス軍艦がダナンを砲撃し、フランスの侵略が始まる(ダナンの戦い)。1858年9月、フランス・スペイン連合艦隊がダナンに侵攻(コーチシナ戦争、1858年-1862年)。1862年6月、第1次サイゴン条約でフランスに南部3省を割譲。1867年6月、フランス領コーチシナ成立。1874年3月、第2次サイゴン条約でフランスに紅河通商権を割譲。1882年4月、フランス、ハノイ占領。
1883年6月、トンキン戦争(1883年6月 - 1886年4月)が勃発。8月、癸未条約(第1次フエ条約、アルマン条約)でアンナンとトンキンがフランスの保護領となる。1884年5月、天津停戦協定(李・フルニエ協定)を締結。6月、甲申条約(第2次フエ条約、パトノートル条約)でベトナムは清への服従関係を絶つ。
1884年8月、清仏戦争(1884年8月 - 1885年4月)が勃発。1885年6月、天津条約で、清はベトナムに対する宗主権を放棄すると共に、癸未条約と甲申条約で定めたフランスのアンナンとトンキンへの保護権限を承認した。1887年10月、フランス領インドシナ連邦(トンキン保護領、アンナン保護領、コーチシナ直轄植民地に分割統治、カンボジア保護国と併合、1889年4月にはラオス保護国を併合)が成立(フランスによる植民地化。日本では「仏印」と呼ばれた)。
反仏独立運動
フランス支配に対して北部を中心に多くの抵抗運動が起きた。初期の代表的なものに大陳起義、安世起義などがあり、指導者としてホアン・ホア・タム(黄花探/通称:デ・タム)などが知られる。
1904年、ファン・ボイ・チャウ(潘佩珠)とクォン・デが維新会を結成。1905年、ファン・ボイ・チャウが反仏独立の支援を求めて来日(東遊運動)。1907年、en:Gilbert Trần Chánh ChiếuとFrançois-Henri SchneiderらによってLục Tỉnh Tân Văn(六省新聞、1907年 - 1908年)がサイゴンで発行される。1912年、広東でベトナム光復会を結成。
1913年、Nguyễn Văn VĩnhとFrançois-Henri Schneiderらによって初のチュ・クオック・グー新聞の『Đông Dương tạp chí』(『東洋雑誌』、1913年 - 1919年)がハノイで発行される。1916年、コーチシナ蜂起。1919年、ホー・チ・ミンが安南愛国者協会(Association des Patriotes Annamites)を組織。1923年、Diệp Văn Kỳによってチュ・クオック・グー新聞『Ðông Pháp Thời Báo』(『東法時報』、1923年 - 1928年)がサイゴンで発行される。1930年、ホー・チ・ミンが香港でベトナム共産党(インドシナ共産党)を設立。1930年に、イエンバイ省でグエン・タイ・ホックらベトナム国民党によるイエンバイ蜂起、ゲアン省とハティン省でゲティン・ソヴィエト(ベトナム語: Xô Viết Nghệ Tĩnh、Nghe-Tinh soviet)の蜂起が起こった。
1939年、フランス植民地政府がインドシナ共産党を禁止。
第二次世界大戦
1940年、ナチス・ドイツのフランス侵攻により、フランスは北部を占領され、南部にはドイツに協力するヴィシー政権が樹立された。これに伴い、日本軍が北部仏印進駐。1941年、タイ王国とフランス(ヴィシー政権)が交戦。日本政府による仲裁。直後に南部仏印進駐で米英蘭との対立を深めた大日本帝国が太平洋戦争を開戦。仏印は、マレー作戦やマレー沖海戦などにおける日本軍の策源地となった。
1944年、ヴォー・グエン・ザップが武装宣伝旅団(ベトナム人民軍の前身)を組織。凶作に加え、アメリカ軍の空襲による南北間輸送途絶や、フランス・インドシナ植民地政府及び日本軍による食糧徴発などが重なり、北部(トンキン)を中心に翌年までに200万人以上(諸説あり)が餓死したとされる(1945年ベトナム飢饉)。1945年3月11日、保大(バオ・ダイ)帝が大日本帝国の援助(明号作戦)下でベトナム帝国の独立を宣言。1945年8月15日、連合国への降伏を決めた日本がポツダム宣言を受諾した旨を声明(玉音放送)し、軍に戦闘停止を命令。8月17日、ベトナム独立同盟(ベトミン)がハノイを占拠(ベトナム八月革命)。9月2日、ベトナム民主共和国の樹立を宣言、ホー・チ・ミンが初代国家主席兼首相に就任。同日、日本が降伏文書に署名した。
アメリカの介入と南北分断時代
インドシナ戦争
1946年11月、ハイフォン(海防)でのフランス軍との衝突から、フランスに対する独立戦争(第一次インドシナ戦争、1946年 - 1954年)が始まる。1949年、フランスはサイゴンにバオダイを復位させ、ベトナム国として独立を認める。国共内戦における中国共産党の勝利で中国大陸に建国された中華人民共和国と、ソビエト連邦は、ベトナム民主共和国を承認。以後、東西冷戦下で北ベトナム及び統一ベトナムは、中ソや朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)、東欧社会主義諸国とともに東側陣営に属することとなった。
北ベトナムの土地改革(1953年 - 1956年)。1954年5月、ディエンビエンフーの戦いでフランスは敗北、7月ジュネーヴ協定を結び、ベトナムから撤退、独立戦争終結。同時に、北緯17度線で国土がベトナム民主共和国(北ベトナム)とベトナム国(南ベトナム)に分断される。10月、南ベトナムではアメリカ合衆国を後ろ盾にゴ・ディン・ジェムが大統領に就任、国名をベトナム共和国にする。1960年12月、南ベトナム解放民族戦線結成。
ベトナム戦争
1962年2月、アメリカ合衆国はサイゴンに援助軍司令部を作り、軍事介入によるベトナム戦争(第二次インドシナ戦争)が始まる。1963年11月22日にケネディ大統領が暗殺され、ジョンソンが米大統領に就任すると、1964年8月2日と4日のトンキン湾事件以降、米軍は戦争に直接介入するようになる。1965年2月、アメリカが北ベトナムの爆撃(北爆)を開始し、本格的な戦争に突入する。1968年1月、南ベトナム全土で解放戦線・北ベトナムのテト攻勢により、アメリカは大打撃を受ける。5月、パリ和平会談を開始したが、会議は中断してしまう。同年10月、ジョンソン政権が北爆を中止して会議が再開された。1969年1月20日、ニクソン政権が誕生し、南北ベトナム、解放戦線、アメリカの4者によるパリ和平会談が始まる。6月、南ベトナムで解放戦線は、南ベトナム共和国革命臨時政府を建設し、ベトナム共和国と対峙する。9月2日、ホー・チ・ミンが死去し、レ・ズアンが第一書記として党のトップとなる。1972年4月、アメリカ・ニクソン政権は北爆を再開する。1973年1月、南北ベトナム政府および臨時革命政府ならびにアメリカの4者が、パリ和平協定に調印する。1973年、日本との国交が樹立される。1975年4月30日、北ベトナムと解放戦線が春の大攻勢を行うと、南ベトナムのズオン・バン・ミン大統領は全面降伏する。サイゴンは陥落し、ベトナム共和国は崩壊に至る。南ベトナム共和国の名の下に北ベトナムが実権を掌握し、ベトナム戦争は終結した[12][13]。
南北ベトナム再統一以後
1976年4月、南ベトナム消滅による南北統一、初の南北統一選挙が行われた。1976年7月2日、ベトナム民主共和国をベトナム社会主義共和国に改名。1976年12月、ベトナム労働党第4回全国代表者大会をハノイで開き、旧名称であるベトナム共産党を再度採用した。
カンボジア・ベトナム戦争と中越戦争
ベトナム戦争時、カンボジアの共産主義勢力クメール・ルージュは北ベトナムや南ベトナム解放戦線と協力関係にあったが、1975年に内戦に勝利して民主カンプチアを建国した後はベトナムとの対立を深めた。民主カンプチアによる多くの国境侵犯やバチュク村の虐殺などにより、1978年12月にカンボジア・ベトナム戦争(第三次インドシナ戦争、1978年 - 1989年)でカンボジアへの侵攻を開始。1979年、侵攻を非難する中華人民共和国がベトナムを攻撃し、中越戦争が開始される。世界各国は援助を停止したためベトナムは孤立するが、戦争期に中ソから支援され、またアメリカや南ベトナムから鹵獲・接収した多種多様な近代兵器と実戦経験豊富な古参兵を擁するベトナムは、文化大革命で混乱・疲弊した中共軍を相手に善戦し、国連五大国の一角である中国を一度は退けた。
1986年7月、レ・ズアンが死去。12月、第6回全国代表者大会以降、チュオン・チン国家評議会議長体制は、社会主義型市場経済を目指す「ドイモイ(刷新)政策」を開始し、改革・開放路線に踏み出す。1988年3月14日、ジョンソン南礁が中華人民共和国に占領される(スプラトリー諸島海戦)。カンボジア・ベトナム戦争で勝利してヘン・サムリン率いる親ベトナム政権を成立させた代償にソ連圏を除く国際社会から孤立し、国内経済が疲弊していたベトナムは1989年9月、カンボジアから完全撤兵し、カンボジア・ベトナム戦争が終結。カンボジアからの撤退を命じたグエン・ヴァン・リンらが1990年に秘密裡に訪中し、1991年に中国を訪れたヴォー・チ・コン国家評議会議長が江沢民総書記と会談、越中関係を正常化させた。
関係改善期
1991年6月27日、ドー・ムオイが共産党書記長(最高指導者)に就任。1993年2月、ベトナムとフランスが和解(当時のフランス共和国大統領はフランソワ・ミッテラン)。1995年7月、クリントン・アメリカ大統領が、ベトナムの国家の承認と外交関係樹立を発表。1995年8月5日、ベトナムとアメリカが和解した。
7月、東南アジア諸国連合(ASEAN)がベトナムの加盟(7番目の加盟国)を認め、周辺諸国との関係も改善した。10月、所有権や契約の考え方を盛り込んだ、初めての民法ができる。1996年1月、ASEAN自由貿易地域 (AFTA) に参加。1997年12月29日、レ・カ・フューが共産党書記長に就任。1998年、アジア太平洋経済協力 (APEC) 参加。2003年7月5日 フォンニャーケーバン国立公園がユネスコ世界遺産に登録された。
2001年4月22日、ノン・ドゥック・マインが共産党書記長に就任。2003年、日越投資協定締結。2006年初頭、Bui Tien Dungが拘留される。6月27日、チャン・ドゥック・ルオン国家主席の引退に伴い、新国家主席にベトナム共産党のグエン・ミン・チェット政治局員(ホーチミン市党委員会書記)をベトナムの国会は選出した。また、引退するファン・ヴァン・カイ首相の後任にグエン・タン・ズン党政治局員を国会は選出した。6月28日、新首相の提案に基づき8閣僚の交代人事を国会は承認した。ダオ・ディン・ビン交通運輸大臣は同省傘下の汚職事件『PMU 18 scandal』で指導責任を問われ、事実上更迭された。
2007年1月11日、世界貿易機関 (WTO) に正式加盟した(150番目の加盟国)。2007年10月16日、国連総会で安全保障理事会の非常任理事国に初選出された。
政治
統治体制
政体は社会主義共和制。ベトナムの統治体制は、ベトナム共産党による一党独裁制である。ベトナム共産党の最高職である党中央委員会書記長(最高指導者)、国家元首である国家主席、政府の長である首相、立法府である国会の議長を国家の「四柱」と呼んでいる[14]。ベトナムでは原則として、中華人民共和国のように党と国家のトップを同じ人物が兼務することはなく、「四柱」を中心とした集団指導体制をとってきた。しかし、2018年10月には病死したチャン・ダイ・クアン国家主席の後任としてグエン・フー・チョン共産党書記長が国家主席を兼任し、この原則が崩れている[15]。首相はグエン・スアン・フック、国会議長はグエン・ティ・キム・ガンが務める[16]。
マルクス・レーニン主義、ホー・チ・ミン思想を基軸とするベトナム共産党は、現在のベトナム社会主義共和国憲法(2013年制定)第4条に「国家と社会の指導勢力」と明記されている。建国以来、一貫して集団指導による国家運営を行なっており、ホー・チ・ミン(初代ベトナム労働党主席兼ベトナム民主共和国主席)でさえも専制的な権力を有したことはない。1980年代までは、民主党、社会党などの衛星政党も存在するヘゲモニー政党制であったが、1980年代末には解散され、名目的な複数政党制から、純粋な一党制に移行した。現在、ベトナム共産党以外の政党の結成は禁止されている。
政府の運営は極めて官僚的であり、市場経済化しつつ政治の民主化は認めない中国共産党独裁下の中華人民共和国に類似している。近年では行政手続きを簡素化するなど、投資の透明性や効率性を向上させようとしている[17]。
立法
立法府たる一院制の国会は憲法では「国権の最高機関」とされ、定員500名、任期5年。ただし一党独裁制のため、国会は重要な役割を果たしてはいない[注 2]。全立候補者は共産党翼賛組織の「ベトナム祖国戦線」の審査で絞り込まれる[19]。投票率は9割以上だが、家族や組織の代表者による代理投票が行われており、実際の投票経験はない国民も多い[20]。
国会議員の9割以上は共産党員であり、1986年以降は政府批判の発言も見られるが、党の指導は絶対的である[20]。
人権問題
ヒューマン・ライツ・ウォッチによると、言論、精神、出版、団結、宗教といった基本的人権が制限されている。人権活動家やブロガーは、嫌がらせ、脅迫、暴力、投獄に直面している。[21]
籍
最近まで、中華人民共和国と同様に都市在住者と農村在住者の戸籍を区分していたものの、近年では形骸化しており、2017年、正式に廃止を決定した。
軍事
ベトナム人民軍 (Quân đội Nhân dân Việt Nam/軍隊人民越南) は1944年12月22日に建軍された。徴兵制度を採用しており、18歳から27歳の男子に原則として2年の兵役義務がある。主力部隊、地方部隊、民兵の三結合方式による全国民国防体制を採用する。国防安全保障評議会議長は国家主席が兼任し、首相が副議長を務める。憲法ではこの国家主席がベトナム人民軍の統帥権を持つとされるが、軍の実質的な最高意思決定機関はベトナム共産党中央軍事委員会であり、党中央軍事委員会書記を兼任するベトナム共産党書記長が事実上の最高指揮官とされる。中越戦争時には総人口5000万人台に対して正規軍だけで170万人の兵力を有していたが、現在では総人口約9000万人に対して48万4000人まで削減された。人員は陸軍が41万2000人、海軍が4万2000人、防空・空軍が3万人である。このほか、予備役と民兵が合わせて300万人から400万人いる。予備役将校の職業は様々で、高級官僚や大学教授も少なくない。国防予算は推定約32億米ドルである。
ベトナム人民軍は日本の防衛大学校に本科学生相当の留学生を多数派遣している。インド海軍はベトナム人民海軍将兵の訓練協力や海軍艦船の供与を行っており、ベトナムはインド海軍艦艇のベトナム常駐を要請している[22]。アメリカ合衆国や日本からは巡視船の供与を受け[23][24]、カムラン湾には伝統的友好国のロシア海軍は勿論、アメリカ海軍や海上自衛隊、中国人民解放軍海軍などが寄港している。2014年には国際連合平和維持活動に初参加した[25]。
国際関係
中国との関係
ベトナムは共産党の一党社会主義体制を採用しており、社会主義市場経済やネット検閲など中国と類似する政策を行なっているために『ミニ中国』の異名がある[28]。
ベトナムは中国の王朝から侵略や支配を受け938年にその支配を脱した。
第一次インドシナ戦争やベトナム戦争では、ベトナム民主共和国は中華人民共和国から支援を受け、グエン・ソンのような中国共産党党員はベトナム人民軍初の士官学校をつくった。しかし、北ベトナムに対して北爆再開など大規模な軍事攻撃を行ったリチャード・ニクソン大統領の中国への電撃訪問から中国はアメリカ合衆国に接近し、パリ協定でのアメリカ軍撤退に乗じて西沙諸島の戦いで中国が南シナ海への進出を果たすなどベトナムとの摩擦が起き始めた。中国に友好的だったホーチミンの死後になされた南北ベトナム統一後、ソ連寄りとなったベトナムによるカンボジアへの侵攻(カンボジア・ベトナム戦争)を巡っては1979年に中国との大規模な戦争を起こし(中越戦争)、中国は米国とともに民主カンプチア連合政府やフルロなどベトナムに対する抵抗活動を支援し、1989年にグエン・ヴァン・リンらがベトナム人民軍にカンボジアからの撤退を命じて中国と国交正常化交渉を開始するまでたびたび交戦(中越国境紛争)をしている状態であった。
中華人民共和国とは陸続きのため、最大の貿易相手国であり、中国製品(Made in China, Made in PRC)も多く流通しているが過去の侵略された歴史を含めて、反中感情を抱く者は非常に多い。
台湾との関係
台湾には、在台ベトナム人(在台越南人)とベトナム系台湾人(越南裔台灣人)がいる。ベトナム戦争後の難民や出稼ぎ労働者、配偶者としての台湾への移住などによって形成された。2018年時点で在台外国人約76万人のうち、在台ベトナム人は約22万人と30%を占める[注 3]。出身地では出稼ぎ労働者が主に北ベトナム出身者が多く、配偶者では主に南ベトナム女性の出身者が多い。ベトナム人配偶者は「新移民」とも呼ばれ、台湾の農村地域では配偶者が不足しており、婚姻仲介業者がベトナム人女性を紹介する場合が多く、婚姻により台湾に定住するベトナム人女性が増加しているが、生活環境の違いが問題となる場合もある。
北朝鮮との関係
朝鮮民主主義人民共和国とは、共産主義国家同士の関係で、ハノイ、平壌双方の首都に大使館が設置されており、大韓民国よりも早く国交を結んでいる。ベトナム戦争時には、朝鮮人民軍部隊が北ベトナムへ派遣された(朝鮮民主主義人民共和国のベトナム戦争参戦)[29]。また、過去にはベトナムの声の交換中継をしていた。一方でベトナムは北朝鮮の銀行関係者を追放するなど、国際連合の対北朝鮮経済制裁を実施している[30]。
このほか、2019年2月の米朝首脳会談のホスト国も担った。
この節の加筆が望まれています。 |
韓国との関係
大韓民国は、ベトナム戦争時に「ベトナム行きのバスに乗り遅れるな」のスローガンの元でベトナムに出兵し、ベトナム共和国を支援するアメリカ合衆国側の軍隊として延べ30万人の大韓民国国軍が参戦した。また、戦争中にハミの虐殺やタイビン村虐殺事件等、数々の民間人に対する大量虐殺事件を起し、ベトナム人女性や少女に対して強姦を行った。その結果多くのライダイハンが産まれたが、その子供はベトナム国内で差別の対象になっており、2013年時点でも正確な人数が判明していない。1998年にベトナムを訪問した韓国大統領金大中はベトナム戦争時の韓国軍の虐殺や強姦について「ベトナムの国民に苦痛を与えた点について申し訳なく思っている」とする謝罪の意を韓国大統領として初めて表明した[31]。
1992年に国交樹立し、2000年代以降両国は経済的な結びつきを強めている。韓国のキョンナムグループがハノイで一番高い建物京南ハノイランドマークタワーを所有し、またホーチミン市でも一番高い建物であるビテクスコ・フィナンシャルタワーをヒュンダイグループが建設するなどの件が象徴的である。またホーチミン市ではダイアモンドプラザやクムホアシアナプラザなどの韓国資本による商業ビルが多く開業している。特に中国からベトナムに携帯電話の生産拠点を移したサムスン電子はベトナムの輸出総額の2割近くを占めている[32]。
アメリカ合衆国との関係
第二次世界大戦中は、アメリカ合衆国と現政権のルーツにあたるベトミンとの関係は盟友であった。日本軍優勢の頃にインドシナに不時着したり、パラシュートで降下したりしたアメリカ軍航空隊の兵士たちは、フランス植民地政府に見つかれば日本軍に引き渡されていたが、彼らのうち何人かはベトミンの手により救出されて事なきを得ている[注 4]。また、アメリカ軍がベトナムに潜入し、タイグエンの日本軍飛行場を奪取した際には、ベトミンの戦闘部隊と作戦の協力を行っている[34]。1940年代後半のベトナム独立時に制定された憲法は、旧宗主国フランスのみならずアメリカ合衆国憲法をも参考に作られており、1950年代にアメリカでレッド・パージ(マッカーシズム)が起こった頃には、一時、ベトナムでは自らの共産党を法的に非合法組織としたことすらあった。
第一次インドシナ戦争でベトナムがフランスに勝利した後、アメリカがベトナムに介入した。ベトナムへの影響力を喪失した旧宗主国のフランスに代わり、アメリカ合衆国政府は南ベトナムに傀儡政権を樹立して、背後から操って間接支配を続けた。1954年にベトナム独立戦争が終結した後、1960年にアメリカ合衆国の傀儡政権を打倒し、ベトナム人自身による民族自決統治を求める南ベトナム解放民族戦線が、南ベトナム政府軍に対する民族独立の武力闘争を開始した。
1961年にアメリカ合衆国政府は、南ベトナムにアメリカ合衆国軍や軍事顧問団を派遣し、傀儡政権である南ベトナム政府を支援し、トンキン湾事件を口実にベトナム戦争への軍事介入、南ベトナム解放戦線に対する掃討戦を開始した。詳しくはベトナム戦争(ベトナムでは「抗米戦争」と言われている)を参照。1965年に、アメリカ合衆国政府は北ベトナムに戦線を拡大し、北ベトナムのみでなく、ベトコンが潜伏していたラオスやカンボジアに設置された「ホーチミン・ルート」も同時期に大規模爆撃した。
米中央情報局(CIA)は、秘密戦争をタイ王国、ラオス、カンボジアで開始していた。中でも、米国内で秘密にされた米軍によるロン・ノル政権支援の為のカンボジアへの大爆撃は、この一国に対してだけで、第二次世界大戦での日本本土空襲総規模の三倍に達していた事も判明している。北ベトナムとアメリカは敵対関係となった。アメリカ軍はベトナム戦争当時の1968年(昭和43年)3月16日に、クアンガイ省ソン・ティン県ソンミ村のミライ集落にて、ソンミ村虐殺事件を起こしている。
また、捕らえられた米兵は、別名「ハノイ・ヒルトン」(正式名称:ホアロー捕虜収容所)に収容され、後にアメリカ合衆国上院議員となるジョン・マケインも収容され捕虜となったのち、北ベトナム兵より拷問を受けた。(ハノイ・ヒルトンとは蔑称であり、本家「ヒルトンホテル」のことではない)。1999年に、本物のヒルトンホテルである「ヒルトン・ハノイ・オペラ」が、首都ハノイで開業している。
1975年4月30日の「サイゴン陥落」で、ベトナム戦争でのアメリカ合衆国の敗戦が確定した。事前に進軍を察知したアメリカ合衆国は「フリークエント・ウィンド作戦」を決行し、自国民の保護の他に南ベトナムの要人も保護した。アメリカが支援していた南ベトナムからは、多くの難民(ボートピープル)が流出し、カナダ、オーストラリア、フランス、アメリカ、日本へと移民した。サイゴン陥落後からソ連崩壊を経て、ドイモイ政策後の1995年8月5日、ベトナムとアメリカは和解し、当時のビル・クリントン大統領は越米両国の国交を樹立させ、通商禁止も解除された。しかしアメリカは、1973年のパリ和平協定の戦時賠償事項を、2015年時点に至っても全く履行していない。
2000年には両国間の通商協定を締結し、アメリカがベトナムを貿易最恵国としたこともあり、フォード・モーターやゼネラルモーターズ、コカ・コーラやハイアットホテルアンドリゾーツといったアメリカの大企業が、ドイモイ政策の導入後の経済成長が著しいベトナム市場に続々と進出し、2003年にベトナムの国防大臣はアメリカ国防総省(ペンタゴン)の歓迎式典で最大の敬意を払って迎えられた。
ベトナム政府は経済、外交などで対米接近を基本政策としており、ジョージ・W・ブッシュ大統領の来訪も大歓迎している。対米関係への配慮から、ベトナム戦争中の枯葉剤などについても、あえて「民間団体」に担当させて、政府は正面に出てこないくらいアメリカに気を遣っており、一般のベトナム人も、経済向上のためにはアメリカとの関係を緊密にすべきだと感じ、アメリカの観光客、企業代表などを熱く歓迎している。米軍に侵攻され、多大な被害を受けたにもかかわらず、政府・国民とも親米的な珍しい例である[35]。2010年8月には国交復活15周年を記念し、空母ジョージ・ワシントンが中部ダナン市を訪問した。しかし、薬品会社は未だ枯葉剤問題に対して棄却して未解決であり、アメリカに激しい憎しみを持つ者も存在する。
アメリカは、南ベトナムからは82万人ものベトナムの難民を受け入れた。ベトナム系アメリカ人が故郷ベトナムに旅行するなど交流は活発になっているが、基本的に南ベトナムからの難民が大多数なので共産主義のベトナム本土とは対立が根深く、ベトナム政府関係者の訪米には抗議する傾向がある。
2015年7月7日には、ベトナム戦争後、最高指導者として初めてグエン・フー・チョン党書記長が訪米して、バラク・オバマ大統領とホワイトハウスで会談した[36]。2016年にオバマ大統領はベトナムを訪問し、武器輸出全面解禁を表明した[37]。
フランスとの関係
ベトナムの植民地化を図るフランス第三共和国は、1883年の癸未条約(第一次フエ(ユエ)条約)・1884年の甲申条約(第二次フエ(ユエ)条約)によってベトナムを保護国化した。ベトナムへの宗主権を主張してこれを認めない清朝を清仏戦争で撃破し、1885年の天津条約で清の宗主権を否定した。1887年にはフランス領インドシナ連邦を成立させ、ベトナムはカンボジアとともに連邦に組み込まれ、フランスの植民地となった。阮朝は植民地支配下で存続していた。
1900年代になると、知識人の主導で民族運動が高まった。ファン・ボイ・チャウは、日本に留学生を送り出す東遊運動(ドンズー運動)を展開した。1917年にロシア革命によってソビエト連邦が成立すると、コミンテルンが結成され植民地解放を支援した。こうした中で、コミンテルンとの連携のもとでの民族運動が強まった。1930年にはインドシナ共産党が結成され、第二次世界大戦中のベトミン(ベトナム独立同盟)でもホー・チ・ミンのもとで共産党が主導的な役割を果たした。
1939年9月1日にヨーロッパで第二次世界大戦が勃発すると、その翌年1940年から、フランス領インドシナに日本軍が進駐した(仏印進駐)。当時は、日本とドイツが同盟を結んでおり、大戦勃発当初は日独両国はフランスと軍事的に敵対していたが、1940年時点では、フランスはナチスドイツに降伏しており、日本はその隙を衝いて[要出典]仏印進駐を行ったのである。
仏印進駐後のベトナムは、フランスと日本による二重支配に置かれた。日本は「大東亜共栄圏」の主張を遂行し、明号作戦の結果、カンボジアとラオスと同時期の1945年3月11日、ベトナム帝国としてフランスからの再独立を果たした。このベトナム帝国の成立は、阮朝が王政復古を果たした日でもあった。ところが、1944年秋から1945年春にかけてベトナム一帯を凶作が襲い、多数の人々が餓死した。日本のポツダム宣言受諾表明に至る1945年8月14日から15日にかけて、インドシナ共産党の全国大会がタンチャオ(トゥエンクアン省)で開かれた。そこで全国的な総蜂起が決定され、全国蜂起委員会が設立された。委員会は軍令第1号全人民に決起を呼びかけた。次の16日に各界・各団体・各民族の代表が出席する国民大会が同地で開かれた。大会は全会一致で総決起に賛成し、ベトナム民族解放委員会を設立してホー・チ・ミンを主席に選出した。同主席は全国民に書簡で総決起を呼びかけた。
その3日後にベトナム八月革命が勃発し、ベトナム帝国皇帝バオ・ダイは8月30日に退位を宣言した。そして、9月2日には、ホー・チ・ミンは臨時政府を代表してベトナム独立宣言を読み上げ、国民と世界に向けてベトナム民主共和国の誕生を宣言した。
現在のベトナムの食卓で見かける「ベトナムコーヒー」「フランスパン・バインミー」「ワイン」は、仏領インドシナの名残りであり、「シエスタ(昼寝)」の習慣、ダラットで見かける高級ホテルや別荘、カトリック教会の聖堂である、ハノイ大教会・サイゴン大教会・ダナン大教会・ホイアンの古い町並みは、フランス統治時代の面影を色濃く遺している。また、現在は世界遺産であるミーソン聖域の修復を施したのも、フランスのフランス極東学院であるが、ベトナム戦争時に、ここを拠点にしていた南ベトナム解放民族戦線(通称:ベトコン)アジト掃討のために、アメリカ空軍の爆撃機・B-52によって破壊された。
この節の加筆が望まれています。 |
日本との関係
室町時代から江戸時代
14世紀から15世紀にかけて、交易国家として栄えた琉球はチャンパ王国とも通好があった。江戸時代・17世紀になると、朱印船がベトナム方面へ進出し、江戸幕府は北ベトナムの大越黎朝や南ベトナムの広南阮氏政権とも外交文書を交換し、朱印船が出入りした。ホイアン(會安)には、1000人程の日本人町も形成されていた。朱印船はまた南遷していたチャンパ(占城)でも唐船(中国船)と出会い貿易を行っている。ベトナムの通貨の名称・ドンは、ベトナムの主要通貨であった銅銭を意味するベトナム語ドンティエンに由来する。日本の銅銭・寛永通宝はその材質の良さから、東南アジアの基軸通貨の一つとして流通し、国際取引の決済通貨として使われていた。しかし、朱印船がカトリックの宣教師の密航の手段として用いられたことや、また、朱印船を通じた武器や牢人の流出が、日本を国際紛争に巻き込む火種とみなされたことを受けて、1630年代になると江戸幕府は、長崎奉行に対する職務規定(鎖国令)の発布で、日本人の東南アジア方面への渡航を禁止した。そのため、日本人町は廃れていった。
明治時代から昭和前半
ベトナム最期の王朝である阮朝は、フランス共和国の植民地侵攻により、フランス領インドシナとなってしまった。1905年日露戦争で帝政ロシアに対する日本の勝利が、ファン・ボイ・チャウなどベトナムの知識人らに知れ渡り、ベトナムが独立するための武器援助を日本に求めるため来日した。彼らの要請は犬養毅によって拒否されたが、代わりに勉学に勤しむことを提案され、日本へ留学する「東遊運動」が盛んになった。しかし、フランスは日本に圧力をかけ、1907年日仏協約を締結させ、日本在住のベトナム人を追放させた。
第二次世界大戦
1940年(昭和15年)に、日本軍は北部仏印進駐を行い、1941年(昭和16年)には南部にも進駐した。これは、フランスのヴィシー政権との外交協議によるものであり、日本軍は太平洋戦争末期までフランス領インドシナ政府と共存していた。その後、日本軍は、1945年3月に明号作戦によりフランス領インドシナを解体し、阮朝の保大帝の下でベトナム帝国を独立させた。
戦争終結後に生じた権力の空白はベトナム独立同盟(ベトミン)に有利に作用し、1945年8月の日本敗戦直後にホー・チ・ミン(阮愛国)率いるベトミンは保大帝を退位させてベトナム八月革命を達成した。駐留期間の大半においてフランスの同盟国軍として植民地政府に加担したことで、日本もフランスと同類の帝国主義国に過ぎないと見做されている[注 5]。
第二次世界大戦末期の1945年に、トンキンを中心にベトナム北部で大飢饉が起こり、大量の餓死者が発生した。ホー・チ・ミンが独立宣言の中でフランス・日本の二重支配によって200万人が餓死したと演説しており、ベトナム国内ではこの200万人という数字は広く知られている(ベトナム独立宣言参照)が日本軍の戦後の調査では犠牲者数は40万人とされている(『ドキュメントヴェトナム戦争全史』岩波現代文庫、2005年)。戦後の日本は、南ベトナム政府に賠償として140億4000万円(3900万ドル)を供与した。北ベトナム政府に対しては1973年の国交樹立により「経済協力」の形で4500万ドル相当の賠償金を支払った。
第二次世界大戦後
第二次世界大戦後、フランスが再び進駐してくると、フランス軍とベトナム民主共和国軍の間で戦争(第一次インドシナ戦争)が始まった。仏越両軍に残留日本兵が多数参加し、ベトナムの独立に対して多大な貢献をした。当時、ベトナムには766人の日本兵が留まっており、1954年のジュネーヴ協定成立までに47人が戦病死した。中には、陸軍士官学校を創設して約200人のベトミン士官を養成した者もおり、1986年には8人の元日本兵がベトナム政府から表彰を受けた。ジュネーヴ協定によって150人が日本へ帰国したが、その他はベトナムに留まり続けた模様である。
1951年に日本政府はベトナム国(南ベトナム)と平和条約を締結し、1959年には岸信介首相(当時)が国名を変更したベトナム共和国政府と140億4000万円の戦争賠償支払いで合意した。
一方、ベトナム民主共和国(北ベトナム)は戦争賠償の請求権を留保したが、日本と北ベトナムは国交のない状況が続いた。しかし、ベトナム戦争末期の1973年7月より、フランス・パリにおいて国交交渉が開始される。同年9月21日には交換公文が交わされ、大使級の外交関係が樹立された[39][40]。また、国交樹立の合意に伴い「経済協力」の形で2年間で4500万ドル相当の賠償金を支払うこととなった。
日本共産党と全教は1993年よりフエでストリートチルドレンの保育・教育施設「ベトナムの子どもの家」(小山道夫[注 6] 主宰)を運営している。小山自身は日本共産党員であるが、旧社会党系[注 7]の活動家・政治家と親しく、1994年6月30日から1997年(平成9年)11月7日の自社さ連立政権下においては、フエ省知事顧問として複数の日本ODA事業をフエに導入することに成功し、地元の信頼を勝ち得た。支援する「ベトナムの子どもの家を支える会」の活動も盛んであり、日本民主青年同盟、革新自治体の青年・学生組織及びピースボートと交流を行なっている。
近年、日本企業のベトナム進出が相次いでいるが、その要因として中華人民共和国の半分から3分の1ともいわれる賃金、AFTA(ASEAN自由貿易地域)の推進に伴ってASEAN域内への輸出拡大が見込める点、さらには中華人民共和国一極集中のリスク(チャイナリスク)の回避などが挙げられる。
近年の日越関係
現在,日越関係は「アジアにおける平和と繁栄のための広範な戦略的パートナーシップ」の下,政治,経済,安全保障,文化・人的交流など幅広い分野で緊密に連携している。日越間の交流の増加を受けて,1997年の在大阪ベトナム総領事館開設に続き,2009年に在福岡ベトナム総領事館,2010年に在釧路ベトナム名誉領事館と在名古屋ベトナム名誉領事館が開設された。[41]
皇太子徳仁親王(当時)は2008年(平成20年)9月20日に日越国交35周年の記念イベントである「ベトナムフェスティバル2008」の開会式に臨席し[42]、翌2009年(平成21年)2月には、ハノイ、ダナン、ホイアン、ホーチミン市とベトナム各地を縦断して訪問し、明仁上皇が皇太子時代の1976年(昭和51年)に南部のカントー川支流で新種のハゼが見つかったことを明らかにした学術論文をハノイ自然科学大学に寄贈した[43]。また、「日メコン交流年2009」ではベトナムの宮廷舞踊や民俗舞踊を観覧している[44]。
査証(ビザ)に関しては、2005年5月1日、相互免除に関する口上書を締結し、公用訪日者や短期訪越者は査証が免除されている[45]。2015年1月にベトナム側の入管法改正により一旦再入国や滞在期限延長に関する規制が強化されたが、2016年1月にはある程度の緩和が実施され、良好に査証が免除されている関係である[46]。
政府開発援助・価値観外交
ODAは日本が最大の支援国であり、日本のODAによってタンソンニャット国際空港やカントー橋など、ベトナムの基幹インフラを建設・支援をしている。
ベトナムと「ホンダ」
かつてベトナム国内では本田技研工業のホンダ・カブやドリームがよく見られた。これは1970年代以降のベトナムにおいて、この種のビジネスバイクを普及させる端緒ともなった存在で、扱いやすさや燃費、修理のしやすさや経済性のみならず、本田技研工業の想定範囲や先進国の安全常識では到底考えられない異常な酷使、過積載(「100kg 単位」での重貨物搭載や、子供まで含めての3人乗り、4人乗りといった曲乗り状態も珍しくない)にも耐える高い信頼性によって、オートバイを生活の道具として重要視するベトナムのユーザーから強い支持を得たからである。現在でもホンダの二輪車は、多くの消費者の支持と圧倒的なブランド力を得ている。ベトナムでのホンダの知名度・ブランド力は1990年代まで圧倒的であり、オートバイが(一般名詞として)「ホンダ」と呼ばれていた過去があり、2015年時点でも、地方ではオートバイのことを「ホンダ」と呼んでも意味が通じる。その後はヤマハやスズキなどもベトナム国内に類似デザイン・類似設計の後発競合車種(ヤマハ発動機のメイト、スズキのバーディーなど)を投入した。2000年代以降は中国製・台湾製のオートバイや電動バイク、電動自転車もシェアを伸ばしている。
教育・文化交流事業
- 日本の広報拠点として、2002年にJICAプロジェクトとしてベトナム日本人材協力センター (VJCC) が開設され、2008年に国際交流基金のベトナム日本文化交流センターが開設された。
- 日本語教育については、1943年(昭和18年)にサイゴンで日本語が教えられていたとの記録がある。2003年に国際交流基金の「ベトナム中等学校における日本語教育試行プロジェクト」が始まる。2006年時点でベトナム全土の日本語学習者数は29,982人(2003年比1.7倍[注 8])。2007年にハノイ日本語教師会が発足した[注 9]。2009年5月時点で、ベトナムから日本への留学生数は3,199人で前年比11.3%増、国別では第4位。2009年12月の日本語能力試験受験者数は15,455人で前年比12%増。
- 2016年9月9日、「日越大学」が開校した、日本の政府、大学が協力する[47]。
地方行政区画
2011年4月の改正により、58省と、5の中央直轄城舗(市)となった。中央直轄城舗はハノイ(河内)、ホーチミン市(胡志明)、ダナン(沱㶞)、ハイフォン(海防)、カントー(芹苴)。国土最北に位置する省はハーザン省(Hà Giang, 河江)、国土最南に位置する省はカマウ省 (Cà Mau) である。ベトナムは自治体独自の旗を禁止しているため自治体ごとの旗は存在しない[48]。
主要都市
- ハノイ(Thành phố Hà Nội、城舗河内)
- ホーチミン市(Thành phố Hồ Chí Minh、城舗胡志明)
- ダナン(Thành phố Đà Nẵng、城舗沱㶞)
- ハイフォン(Thành phố Hải Phòng、城舗海防)
- カントー(Thành phố Cần Thơ、城舖芹苴)
- ヴィン(Thành phố Vinh、城舗榮)
- フエ(Thành phố Huế、城舗化)
- ホイアン(Thành phố Hội An、城舖會安)
- ニャチャン(Thành phố Nha Trang、城舖芽莊)
- ファンティエット(Thành phố Phan Thiết、城舖潘切)
- ミトー(Thành phố Mỹ Tho、城舖美湫)
- タイニン(Thành phố Tay Ninh、城舖西寧)
- ヴィンロン(Thành phố Vĩnh Long、城舖永隆)
- ダラット(Thành phố Đà Lạt、城舖沱辣)
住所表記
欧米の多くと同様に、細かい分類から順に表記し、またストリートによって住所を表す。番地は、偶数が左車線側、奇数が右車線側のように分かれ、ストリート名のない細かい路地に入る場合は、7/40(40番地にある路地内の7番目)のように表記する。例として、ホーチミン市1区人民委員会の住所を下記に記す。
- Ủy ban nhân dân Quận 1 - 47, Đường Lê Duẩn, Phường Bến Nghé, Quận 1, Tp Hồ Chí Minh, Việt Nam
- (1区人民委員会 - 47番地、レ・ズアン通り、ベンゲー坊、1区、ホーチミン市、ベトナム)
地理
概要
ベトナムの国土は南北1,650km、東西600kmに広がる。インドシナ半島の太平洋岸に平行して南北に伸びるチュオンソン山脈(アンナン山脈)の東側に国土の大半が属するため、東西の幅は最も狭い部分ではわずか50kmしかない。細長いS字に似た国土の形状を、ベトナムでは米かごを吊るす天秤棒に喩えている。天秤棒の両端には大規模なデルタが広がり、人口の7割が集中する。北のデルタは、紅河(ソンコイ川)によるもので、首都ハノイのほか港湾都市ハイフォンが位置する。南のデルタはメコン川によるもので、最大の都市ホーチミンを擁する。
沿岸の総延長距離は3,260km、北部国境(中国国境)の長さは1,150km、国境の総延長距離は、6,127kmである。
沿岸には北部・トンキン湾を除き、島嶼がほとんど存在しない。本土から離れた領土として、海南島との間にあるバクロンヴィー島、ホーチミン市から約600km東、南シナ海に浮かぶ、ベトナム語名「チュオンサ」(スプラトリー諸島、南沙諸島)と、ダナンの約400km東、南シナ海に浮かぶ、ベトナム語名「ホアンサ」(パラセル諸島、西沙諸島)の領有権を主張している。チュオンサ群島は一部を実効支配し、ホアンサ群島は全体が中華人民共和国の実効支配下にある。ベトナム最大の島は、最西端の領土となる、シャム湾に浮かぶフークォック島である。
主要な河川は紅河(支流であるカウ川、ロー川、ダー川)、タインホアに河口を持つマー川、ヴィンに近いカー川、中部のトゥイホアに河口を持つバー川、南部のドンナイ川、メコンデルタのメコン川である。天然の湖沼はデルタに残る三日月湖がほとんどである。最高峰は北部国境に近いファンシーパン山 (3,143m)。アンナン山脈中の最高峰は、中部のフエやダナンに近いアトゥアト山 (2,500m) である。
デルタ地帯
5月から11月にかけて、インド洋を渡ってやってくるモンスーン(季節風)が東南アジア大陸に大量の雨を降り注ぎ、山の土が崩れ、川に流れ込み、河川のいたるところで堆積し、河口では大きなデルタを形成する。このデルタは比較的低平なので水田耕作などに適し、穀倉地帯となっていることが多い。北部の紅河デルタや南部のメコンデルタが、重要な穀倉地帯になっている。コメ生産は北部の紅河デルタでは二期作、南部のメコンデルタでは三期作である[49]。
平野
ベトナム北部には、紅河、マー川(タインホア省)やラム川(ゲアン・ハティン省)の下流域などに大きな平野が広がっている。紅河平原の面積は約15,000平方キロメートルで一面が水田であり、人口は6,500,000人(1931年時点)を擁し、そのほとんどは農民である[50]。
気候
ベトナム全土は北回帰線よりも南に位置し、赤道近くまで伸びる(本土の最南端は北緯8度33分)。このため南西モンスーンの影響を強く受ける。7月から11月まで台風の影響を受け、特に国土の中央部が被害を受けやすい。
北部は温帯性の気候であり、4月から10月までが雨期となる。首都ハノイの平均気温は1月が16℃、7月が29℃である。年平均降水量は1,704mm。チュオンソン山脈の影響により、山岳地帯では降水量が4,000mmを超える場所もある。ケッペンの気候区分では、温帯夏雨気候(温暖冬季少雨気候) (Cw) に分類されている。
南部は熱帯性気候下にある(ケッペンによる気候区分はサバナ気候〈Aw〉)[注 10]。平均気温は1月が18℃、7月が33℃だが、平均降水量は1,000mmと少ない。
北部には紅河、黒河(ダー川)、南部には九龍江(メコン川)が広がる。
紅河デルタにあるフーリーでは、1980年から1995年の月別平均気温は、1月16℃、2月15℃、3月19℃、4月22℃、5月26℃、6月27℃、7月28℃、8月27.5℃、9月26℃、10月24℃、11月21℃、12月19℃である[51]。
- ハノイの気候(温帯夏雨気候)
ハノイ (1898-1990年)の気候 | |||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
最高気温記録 °C (°F) | 33 (91) |
34 (93) |
37 (99) |
39 (102) |
43 (109) |
40 (104) |
40 (104) |
38 (100) |
37 (99) |
36 (97) |
36 (97) |
37 (99) |
43 (109) |
平均最高気温 °C (°F) | 19.3 (66.7) |
19.9 (67.8) |
22.8 (73) |
27.0 (80.6) |
31.5 (88.7) |
32.6 (90.7) |
32.9 (91.2) |
31.9 (89.4) |
30.9 (87.6) |
28.6 (83.5) |
25.2 (77.4) |
21.8 (71.2) |
27.0 (80.6) |
日平均気温 °C (°F) | 16.5 (61.7) |
17.5 (63.5) |
20.5 (68.9) |
24.2 (75.6) |
27.9 (82.2) |
29.2 (84.6) |
29.5 (85.1) |
28.8 (83.8) |
27.8 (82) |
25.3 (77.5) |
21.9 (71.4) |
18.6 (65.5) |
24.0 (75.2) |
平均最低気温 °C (°F) | 13.7 (56.7) |
15.0 (59) |
18.1 (64.6) |
21.4 (70.5) |
24.3 (75.7) |
25.8 (78.4) |
26.1 (79) |
25.7 (78.3) |
24.7 (76.5) |
21.9 (71.4) |
18.5 (65.3) |
15.3 (59.5) |
20.9 (69.6) |
最低気温記録 °C (°F) | 3 (37) |
5 (41) |
7 (45) |
10 (50) |
16 (61) |
21 (70) |
22 (72) |
21 (70) |
17 (63) |
13 (55) |
6 (43) |
5 (41) |
3 (37) |
雨量 mm (inch) | 18.6 (0.732) |
26.2 (1.031) |
43.8 (1.724) |
90.1 (3.547) |
188.5 (7.421) |
239.9 (9.445) |
288.2 (11.346) |
318.0 (12.52) |
265.4 (10.449) |
130.7 (5.146) |
43.4 (1.709) |
23.4 (0.921) |
1,676.2 (65.991) |
平均降雨日数 | 8.4 | 11.3 | 15.0 | 13.3 | 14.2 | 14.7 | 15.7 | 16.7 | 13.7 | 9.0 | 6.5 | 6.0 | 144.5 |
% 湿度 | 78 | 82 | 83 | 83 | 77 | 78 | 79 | 82 | 79 | 75 | 74 | 75 | 78.8 |
平均月間日照時間 | 93 | 56 | 62 | 120 | 186 | 180 | 186 | 186 | 180 | 155 | 150 | 124 | 1,678 |
出典1:World Meteorological Organisation (UN),[52] BBC Weather (record highs, lows, and humidity) [53] | |||||||||||||
出典2:World Climate Guide [54] |
- ホーチミン市の気候(サバナ気候)
ホーチミンの気候 | |||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
平均最高気温 °C (°F) | 31.6 (88.9) |
32.9 (91.2) |
33.9 (93) |
34.6 (94.3) |
34.0 (93.2) |
32.4 (90.3) |
32.0 (89.6) |
31.8 (89.2) |
31.3 (88.3) |
31.2 (88.2) |
31.0 (87.8) |
30.8 (87.4) |
32.3 (90.1) |
日平均気温 °C (°F) | 26.4 (79.5) |
27.7 (81.9) |
29.2 (84.6) |
30.2 (86.4) |
29.6 (85.3) |
28.5 (83.3) |
28.2 (82.8) |
28.1 (82.6) |
27.9 (82.2) |
27.6 (81.7) |
26.9 (80.4) |
26.1 (79) |
28.03 (82.48) |
平均最低気温 °C (°F) | 21.1 (70) |
22.5 (72.5) |
24.4 (75.9) |
25.8 (78.4) |
25.2 (77.4) |
24.6 (76.3) |
24.3 (75.7) |
24.3 (75.7) |
24.4 (75.9) |
23.9 (75) |
22.8 (73) |
21.4 (70.5) |
23.7 (74.7) |
雨量 mm (inch) | 13.8 (0.543) |
4.1 (0.161) |
10.5 (0.413) |
50.4 (1.984) |
218.4 (8.598) |
311.7 (12.272) |
293.7 (11.563) |
269.8 (10.622) |
327.1 (12.878) |
266.7 (10.5) |
116.5 (4.587) |
48.3 (1.902) |
1,931 (76.023) |
平均降雨日数 | 2.4 | 1.0 | 1.9 | 5.4 | 17.8 | 19.0 | 22.9 | 22.4 | 23.1 | 20.9 | 12.1 | 6.7 | 155.6 |
% 湿度 | 69 | 68 | 68 | 70 | 76 | 80 | 80 | 81 | 82 | 83 | 78 | 73 | 75.7 |
平均月間日照時間 | 244.9 | 248.6 | 272.8 | 231.0 | 195.3 | 171.0 | 179.8 | 173.6 | 162.0 | 182.9 | 201.0 | 223.2 | 2,486.1 |
出典1:World Meteorological Organization (UN)[55] Weatherbase (humidity)[56] | |||||||||||||
出典2:(sunshine hours only)[57] |
地方区分
ベトナムでは、日本の地域と同様の慣用的な地方の区分として、ベトナム全土を地方行政区画に沿って西北部、東北部、紅河デルタ、北中部、中南部、中部高原(タイグエン)、東南部、メコンデルタの8つに分けている。
また、より大枠な地方の区分として、西北部・東北部・紅河デルタを北部地方(北ベトナム、ベトナム語:Miền Bắc / 沔北)、中北部・中南部・中部高原を中部地方(中部ベトナム、ベトナム語:Miền Trung / 沔中)、東南部・メコンデルタを南部地方(南ベトナム、ベトナム語:Miền Nam / 沔南)の3つに区分している。これらは、フランス植民地時代のトンキン、アンナン、コーチシナにそれぞれ相当するが、細部に変更がみられる。
経済
世界銀行の統計によると、2018年のベトナムのGDP(国内総生産)は2,372億ドル。一人当たりのGDPは2,387ドルである[58]
1986年12月のベトナム共産党第6回大会で、社会主義に市場経済システムを取り入れるというドイモイ政策を採択、中国の改革開放と同様に市場経済路線へと転換した。1996年のベトナム共産党第8回大会では、2020年までに工業国入りを目指す「工業化と近代化」を二大戦略とする政治報告を採択した。ドイモイ政策の導入以降、ベトナムの貧困率は大幅に改善され、1993年の58.1%から2015年には5%以下となった[59]
政府開発援助と外国投資が経済を牽引している。2007年には政府にとって重要な目標となっていたWTOに加盟した。世界金融危機で一時失速した国内総生産 (GDP) の成長率も、2010年代は平均して5~6%の安定成長が続いている。一方インフレ率は、2011年に18.7%と高い数値を記録したが、2017年には3.5%となった。中国では人件費が上昇基調にあることから、新たな投資先として注目が集まっている。欧州連合は新興国で初のFTAを結ぶ相手にベトナムを選んだ[60][61]。伝統的な友好国である旧ソ連圏であるユーラシア経済連合も初のFTAをベトナムと結んだ[62]。また、環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)では、米国政府によれば最も利益を受ける国とされ[63]、日本政府によれば交渉でも主導的な役割を果たしており[64]、世界銀行によればTPPで最も恩恵を受ける国である[65]。
NEXT11やVISTAの一角にも数えられており、今後一層経済の発展が予想されている。1日1ドル以下で生活する貧困層の割合は中国、インド、フィリピンを下回る。
労働人口の66%が第一次産業に従事しているが、近年は第二、第三次産業が急成長。観光業の伸びが特に著しく、重要な外貨獲得源となっている。
主な輸出品目は原油、衣料品、農水産物。特にコメについては、タイに次ぐ世界第二位の輸出国であったが、現在[いつ?]は輸出制限措置をとっている。カシューナッツと黒胡椒の生産は世界の1/3を占め1位。コメのほかコーヒー、茶、ゴム、魚製品の輸出も多い。しかし、農業のGDPに占める割合は他の産業が成長したため20%(2006年)に低下した。原油生産は東南アジアで第3位である。
人件費は中国のおよそ6割であり、政府も自国の売り込みを積極的に行っているが、輸送網が良いとは言えず(1988年の中国と同程度。ただし、中国も2010年現在、沿岸部では賃金が高騰しているため、輸送網の悪い内陸部に工場を移さざるを得なくなっている)、また、法律もアバウトである。こうした点から、衣料品など、低付加価値製品の生産が2010年時点に至るまで主になっているベトナムであるが、サムスン電子とキヤノンは、莫大な資金を投じてベトナムで電子機器の生産・サービス拠点の建設を進めており、ベトナムが中国に次ぐ「世界の工場」の座を射止めることができるかが世界の企業家から注目されている[66]。
社会主義国として経済の根幹をなしてきた国有企業とは別に、民間企業が台頭している。不動産会社として2001年に起業した後に小売業、製薬、学校・病院経営、農業・飼料からベトナム初の自動車生産にまで進出したビン・グループ、ベトジェットを傘下に持つソビコ・ホールディングス、不動産業のFLC、BRGなどが財閥を形成しつつある。これらを含めた大手企業の経営者は10大富豪と呼ばれる。旧ソ連への留学組が創業・経営し、政治家や政府高官との人脈を利用して事業を成長させてきた例が多いと指摘されている[67][68]。
2010年8月4日、ベトナム公安省は、乱脈経営で国営ベトナム造船グループ(ビナシン)を経営危機に陥れたとして、同グループの前会長を背任に当たるとして逮捕した。前会長は親族を重要ポストに登用するなど私利を図っていた疑いがもたれている。
2011年11月8日、2011-2015年の社会経済発展計画を政府が提案し、国会で承認された。国内総生産年平均6.5-7%の成長率を目指し、公共投資や国営企業の改善を通じた経済構造の再編を図るものである。
農業
コーヒーは、現在ではブラジルに次いで世界第二位の生産量(99万トン、2003年)に達している。大部分がインスタントコーヒー、缶やペットボトル入りの清涼飲料、製菓用途で使われる安価なロブスタ種(カネフォラ種)であるが、レギュラーコーヒーに使われる高級品のアラビカ種の栽培も始まっている。また、現地では基本的に植民地支配を受けたフランスの手法を取り入れた飲み方にてベトナムコーヒーが飲まれる。
水田水稲作地帯は北部の紅河デルタと南部のメコンデルタであり、生産性も高く、国家の重要な穀倉地帯を形成している。メコンデルタで栽培できる野菜類は、ナス、キュウリ、トマトなどのほかに、ミント類がある。
鉱業
ベトナムは石炭や南シナ海で採掘される石油を中心とした有機鉱物資源、スズを中心とした金属鉱物資源に恵まれている。北部ハロン(ホンゲイ)から産出する石炭は上質の無煙炭であり、19世紀末からホンゲイ炭として採掘が始まっている。石炭技術で釧路コールマインとの繋がりが太く釧路市に名誉領事館を設置している。2003年時点の採掘量は1670万トン。ベトナムは産油国でもあり、1660万トンの原油を産出する。輸出品目の第一位は石油であり、2002年時点では全輸出額の19.6%を占めた。天然ガスの採取量は126千兆ジュール。
金属鉱物資源は、北部デルタ周囲の丘陵地帯に主に産する。最も重要なのが世界第4位のスズ(4000トン、世界シェア1.5%、2005年)。亜鉛、金、クロム、鉄、鉛のほか、リン鉱石を産出する。
国民
ベトナム社会主義共和国憲法第5条に「ベトナム社会主義共和国はベトナムの地に共に生活する各民族の統一国家である」と、多民族国家であることを規定している。ベトナム政府が公認しているだけでも54の民族がいる。ベトナム国民は、身分証明書を一定年齢以上に達すると発給され、身分証明証には民族籍を記入する欄が設けられている[69]。
民族構成
ベトナムでは公式に認められている民族が54あり、そのうちキン族(ベトナム族)が最も多く、全人口の85%から90%を占める。キン族の言語であるベトナム語はムオン族・セダン族などと同じオーストロアジア語族(モン・クメール語派)語族に属する。ムオン族はホアンビン省、タインホア省の山間部に住み、ベトナム語のゲアン方言などとの近似性が指摘されている。[70]
その他に少数民族としてホア族(華人)、タイ系のタイー族・ターイ族・ヌン族、クメール族、ムオン族、モン族(ミャオ族)、ザオ族などがある。少数民族のうち、ホア族とクメール族以外の大半は山地に住む。
言語
言語はベトナム語(越南語)が公用語である。その他にも華語(主に広東語、閩南語、北京語)、クメール語なども使われており、フランス領インドシナ時代の影響から、少数のエリート層や高齢者の間ではフランス語が理解できる人もいる。また、ソビエト連邦など共産主義国とのつながりがあったため、ロシア語を理解できる人もいる。ただし、最近の若年者の教育は英語教育が一般的になり、町の看板などを見渡してもベトナム語以外では、欧米人観光客向け(観光客相手に生活していく上でも、英語ができないと生活が成り立たないため)に英語が目立つのが、現在の状況である。
人名
主要民族であるキン族を中心に、ベトナムの人名の多くは、漢字文化圏に属しており、人名も漢字一字(まれに二字)の漢姓と、一字か二字(まれに三字)の名からなる構造は中国と共通している。婚姻の際には基本的に夫婦別姓となる。しかし各字の機能は漢名とは異なっており、名のうち一字目は「間の名」(tên đệm、ミドルネーム)と呼ばれ、末字の名と一体化しておらず、また中国の輩行字、朝鮮の行列字のような世代の区別に使われることもない。目上や目下に対しても、呼びかけに使われるのは末字の名のみであり、間の名は含まれず、また姓を呼びかけに使うことはほとんどない。
名付けに使われる語は必ずしも漢字由来のものに限らず、庶民の間では固有語による名付けがかなり存在している。また少数民族の名前には、上記の説明にあてはまらない固有のシステムを持つものがある。
なお、40年以上にわたってベトナムでも用いられていた戸籍制度について、ベトナム政府は2017年に撤廃を発表している[71]。
文字
詳細については、各項目を参照のこと。
- チュ・クオック・グー(𡨸國語)
- 声調をもつベトナム語を表記するために発明された声調入りアルファベット(ラテン文字)であり、現在唯一の公用文字。17世紀にフランス人のイエズス会宣教師、アレクサンドル・ドゥ・ロードが、ベトナムでのカトリック教会布教の為に発明した文字。19世紀末以降のフランス植民地時代に普及し、1945年の独立時に正式に公用文字となった。現在、ベトナム語はもっぱら、この文字により表記される。
- チュハン(𡨸漢)
- ベトナムにおける漢字。上記のチュ・クオック・グーが公用文字となるまで、ベトナム語を表記する公用文字はなく、書き言葉としてはもっぱら漢文(古中国語)が用いられた。チュ・クオック・グーの普及により使用頻度が減少したが、ベトナム語の中には漢字語の影響が強く残っている。北ベトナムでは1950年の暫定教育改革により漢文教育を廃止し、1954年には漢字の公的な使用を全廃、南ベトナムでは1975年の崩壊まで中等教育での漢文科が存続していた。2014年現在では、ベトナムの僧侶か日本語や中国語の学習者しか読めなくなっている。
- 漢字の音と意味による形成
- 訓読み
- 当て字
など、複数の造字法があり複雑で、一時期を除いて公用文字に採用されることはなかったが、民族意識の高まりを背景に民間では有識者層を中心に普及し、18世紀から19世紀には多くのチュノム文学が生まれた。20世紀になると、漢字の画数が複雑過ぎる事で、初等教育に支障を来す事や、チュ・クオック・グーの普及により、急速に衰退の道を辿った。
宗教
宗教は仏教(大乗仏教)が大半を占めている。その他にも道教、カトリック教会がある。中部(旧チャンパ王国の領域)ではイスラム教やヒンドゥー教、南部にはホアハオ教や、混淆宗教としてのカオダイ教が教勢を保っている。公的に認められた宗教は、仏教、カトリック、プロテスタント、イスラム教、カオダイ教、ホアハオ教の六つである。このうち後ろの二つは、ベトナムで生まれたベトナム独自の宗教である。[72]
カトリック教会は、バチカン市国と国交を樹立しておらず、プロテスタントに関しては、アメリカ合衆国の宣教団体からの布教が強かった経緯もあり、旧南ベトナム地域および、ベトナム戦争中に南側についたバフナル族、ジャライ族、エデ族、コホ族などの山岳民族の間での信仰が中心である。
それぞれの公認教団の信徒数は、2008年の資料で仏教1,000万人、カトリック550万人、カオダイ教240万人、ホアハオ教160万人、プロテスタント100万人、イスラム教6万5千人となっている[73]。
憲法では、信教の自由を人民に保障しているが、同時に信仰に制限があることも法律に明記している。過去には2001年、2004年に、ベトナム政府に土地を奪われた山岳民族による暴動が元で、プロテスタントの弾圧が起きた。また、政府非公認教団である「統一ベトナム仏教教会」が弾圧に抗議して1992年に騒擾事件を起こす事件も発生している。2014年現在でも、非公認プロテスタント教団の活動は第三級行政区レベル(坊、社、市鎮)に留められており、より上位の行政区では活動ができないなどの各種制限が存在する[73]。
また、ベトナム共産党員はホー・チ・ミン元国家主席のみを信仰する傾向がある。無論ホー・チ・ミン信仰は『宗教ではない』が、それに匹敵する影響力を有する(ホー・チ・ミン自身は、自らが崇拝の対象になることを、徹底的に嫌っていた程であった)。
LGBTの権利
主に南部では、タイやカンボジアと同様に、トランスジェンダー文化の伝統があるが、主に儒教の影響から同性結婚は長らく認められず、2002年に国営メディアでは同性愛を売春や賭博、違法薬物などと並ぶ「社会悪」であるとの認識を表明し、同性愛の規制や同性愛カップルの逮捕を行える法整備を確約した[74]。しかし世論の高まりとともに、2009年に初の女性への性別変更と改名が認められる判例が生まれた。2013年には同性婚の禁止と罰金制度が法律から削除され[75]、また同性カップルの同居に対して、正式な結婚には劣るが、ある程度の権利が認められた。しかし後にこの権利条項は削除されている[76][77]。2014年10月時点、同性婚は禁止こそされてはいないが、法的な権利が認められているわけでもない。
教育
- 初等教育
- 6歳から始まり、小学校5年間、義務教育、学費は原則無料。
- 中等教育
- 基礎中学校(前期中等教育、日本での中学校に相当)4年間、普通中学校(後期中等教育、日本での高等学校に相当)3年間。
- 5-4-3制で、この期間を普通教育と呼ぶ。
- 高等教育
- ベトナムの大学には国家大学(首相直轄校)、国立大学(地方総合大学、専門大学:教育訓練省、厚生省、文科情報省、人民委員会等の所轄)、民立大学がある。
- 3年制の短期大学と4-6年制の大学がある。
教育行政
教育行政は、中央に教育訓練省、地方の省レベル[注 11]に教育訓練局、県レベルに教育課がある。学校段階別の管轄関係は基本的には次のようになっている。高等教育は教育訓練省、普通中学は教育訓練局、基礎中学・小学校・幼稚園・保育園は教育課。これら教育行政機関の職員は「教育管理幹部」と呼ばれ、教育経験者。教員の資格要件は、幼児教育と初等教育で中等師範学校卒、前期中等は師範短期大学卒、後期中等教育は大学卒となっている[80]。
文化
歴史文化遺産
1945年の独立後、ホーチミン主席令が出される。東洋博古学院が古跡保護の責任を持つようになった。現在は歴史文化遺跡指定制度を文化・情報省が行っており、現在の総指定件数約2800件のうち、約2000件は寺、ディン(亭、村の守護神が祀られている)、廟、デン(神社)が占めている。1957年、遺跡保護に関する議定を制定し、1962年にはじめて「歴史文化遺跡」が指定された。対象は不動産中心で、革命や抗仏戦史に関する史跡、考古学的遺跡、建築、景勝地などが指定された[81]。
食文化
概して米食文化であり、麺類も米粉製が多い。庶民の常食は米飯、麺、粥、フランスパン等である。中華料理とフランス料理の影響を受けている。また、世界第二位のコーヒー生産国であることもあり、独自のコーヒー文化が存在する。
飲酒量が多く、世界保健機関(WHO)が2018年に発表した調査結果によると、ベトナム人が1年間に摂取するアルコール量は8.3リットルと、世界平均(6.4リットル)を上回る。特にビールが好まれ、企業別生産量シェアは、タイ企業傘下のサイゴンビール・アルコール飲料総公社(サベコ)43%、ハイネケン25%、ハノイビール・アルコール飲料総公社(ハベコ)15%、カールスバーグ8%の順である。日本のサッポロビールホールディングスが2011年に進出して高級ブランドとして定着しているほか、日本円換算で1杯数十円程度の樽詰め生ビール「ビア・ホイ」が各所の大衆食堂で売られている。ベトナム政府は、国民の健康維持や飲酒運転防止のため広告などの酒類規制を進めており、2019年6月にはベトナム国会常任委員会がアルコール被害防止法案を採択した[82]。
文学
18世紀末から19世紀初め頃に文官グエン・ズーが、明末清初頃に成立した白話小説『金雲翹伝』を韻文に翻訳し、チュノムで『金雲翹』を書いた[83]。以来、『金雲翹』はベトナムの国民的な古典文学作品と看做されている[84]。
芸能
- 水上人形劇
- ハット・チェオ(Chèo) - ベトナム北部で人気の演劇。
- ハット・ボイ(トゥオン、Tuồng) - ベトナム中部、南部の演劇。
- カイ・ルオン - Cải lương - 改良劇の意。国外の物語も含む新しい演劇。
音楽
- ニャー・ニャック - ベトナムの雅楽。無形文化遺産。
- ベトナム中央高原におけるゴングの文化的空間 - 無形文化遺産。
- ベトナムの民族楽器
スポーツ
ベトナム生まれの総合武術「ボビナム」(Vovinam)が国技である[85]が、ほかにも国技的と言えるほどの人気なスポーツはプロリーグもあるサッカーや、伝統的スポーツ「ダーカウ」なども深く浸透している。他にもベトナム相撲と呼ばれる「ヴァット」がある。
1952年のヘルシンキ大会以来、夏季オリンピックに選手団を送っており、過去、射撃、テコンドー、重量挙げでメダルを獲得している。 オリンピックのベトナム選手団を参照。
世界遺産
ベトナム国内にはユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が5件、自然遺産が2件存在する。
祝祭日
日付 | 日本語表記 | 越語表記 | 備考 |
---|---|---|---|
1月1日 | 正月 | Tết Dương Lịch/Tết Tây 節陽曆/節西 |
休日。日本と違い2日より、官公庁や企業は通常営業となる。 |
旧暦1月1日 | テト(旧正月) | Tết Nguyên Đán 節元旦 |
2016年は2月8日。休日。前後一週間程度を官公庁や企業が休日にする。 |
3月8日 | 国際婦人デー | Ngày Quốc tế Phụ nữ 𣈗國際婦女 |
祝日 |
旧暦3月10日 | フンヴオン記念日 | Ngày Giỗ tổ Hùng Vương 𣈗𣋼祖雄王 |
フンヴオン(雄王、紀元前にベトナム北部を初めて統一したとされる文郎国王)を祭る日。2016年は4月16日。休日。 |
4月30日 | 南部解放記念日 | Ngày Giải Phóng miền Nam/Ngày Thống nhất 𣈗解放沔南/𣈗統一 |
サイゴン陥落(1975年)を記念する日。休日。別名:「統一の日」。 |
5月1日 | 国際労働日(メーデー) | Ngày Quốc Tế Lao Động 𣈗國際勞動 |
南部解放記念日と続き休日で、唯一の連休である。 |
旧暦5月5日 | 端午節 | Tết Đoan ngọ/Tết giết sâu bọ 節端午/節𢷄螻蜅 |
2016年は6月9日。別名:「虫封じの日(殺虫節)」。 |
5月19日 | ホー・チ・ミン主席誕生日 | Ngày sinh của Hồ Chí Minh 𣈗生胡志明 |
ホー・チ・ミンの誕生日を祝う日。祝日 |
6月1日 | 子供の日 | Ngày Quốc tế Thiếu nhi
𣈗國際少兒 |
祝日 |
旧暦8月15日 | 中秋節 | Tết trung thu
節中秋 |
2016年は9月15日。祝日 |
9月2日 | 国慶節 | Ngày Quốc Khánh 𣈗國慶 |
ベトナム独立宣言(1945年)発布を記念する日。休日。 |
11月20日 | 先生の日 | Ngày Nhà giáo Việt Nam 𣈗家教越南 |
1982年制定。先生や教師に対して感謝する日。学校では感謝パーティが催され、生徒等から先生に贈り物が渡される[注 12]。祝日。 |
通信とメディア
新聞と雑誌
全国で発行されている新聞、雑誌は600種を超えているとされる。これらの新聞・雑誌は、ベトナム共産党とその下部組織や、省庁、機関の発行物である。日刊紙では13万部の『サイゴン・ザイフォン』(「サイゴン解放」の意。ホーチミン市党委機関紙)[86]、18万部の『ニャンザン』(「人民」の意。ベトナム共産党中央委員会発行)、40万部の『タインニエン』(「青年」の意。ベトナム青年連協会発行)[87]、45万部の『トゥオイチェー』(「若者」の意。ホー・チ・ミン共産青年団発行)[88]などがある[注 13]。
前述の通りこれらは全て政権党関係の機関紙であるが、『トゥオイチェー』紙は比較的革新的な編集方針を採っており、タブー視されているホー・チ・ミンの過去の経歴を掘り下げる報道や[89]、近頃の若者はホー・チ・ミンよりビル・ゲイツに憧れているなどの報道を行い、たびたび当局と衝突を起こしている[90][91]。
報道規制
- 1975年までのベトナム共和国(南ベトナム)ではゴ・ディン・ジエム政権やグエン・バン・チュー政権などの独裁政治を批判する知識人グループ「第三勢力」の活動が続いた。しかし、1976年に南北統一によってベトナム社会主義共和国が成立した後、レ・ズアン指導部は硬直化した官僚政治を推し進め、メディアの活動を抑制する路線をとった。1980年代後半に、グエン・ヴァン・リン書記長がドイモイ路線を推し進め、新聞や雑誌にも活況を与えた。1986年3月1日にホーチミン市で新聞『タインニエン』が創刊された。
- 1989年に、中華人民共和国で六四天安門事件が発生し、東ドイツで「ベルリンの壁」が崩壊すると、ベトナムはメディアを抑制する路線に切り替えた。同年12月、「マス・メディア法」が制定され、刑法258条にて報道禁止条項が明記された[92]。
インターネット
- 2013年現在、4100万人がインターネットを使用している[93]。また、政治的発言をするブロガーが逮捕されるなどの事件を受け、『ウォール・ストリート・ジャーナル』は「スマートフォンやタブレット端末が、ベトナムで急速に普及しているものの、世界で最もインターネットを利用するのが危険な国の1つでもある」と、指摘している[94]。
脚注
注釈
- ^ ただし現在のディエンビエン省・ライチャウ省にはタイ族のムアン型国家「シップソンチュータイ」があり、これは第一次インドシナ戦争の終結まで残った
- ^ 「一党独裁支配の国であり、選挙は政治において重要な役割を果たしてはいない。国会議員選挙が5月に行われたが、候補者たちは、党の翼賛団体「ベトナム祖国戦線」の入念なチェックを受けている。当選した500人のうち共産党員でない議員はわずか42人だった」[18]
- ^ 在台居留外僑 十年增逾八成 | 綜合 | 要聞 | 聯合新聞網
- ^ 1944年末頃、アメリカの航空将校ショウ中尉は飛行機事故のためカオバン付近の山地へパラシュートで降下したが、これを知ったフランス軍が数百名の部隊を派遣して、日本軍とともにその地域を包囲し、飛行機と操縦士の捜索を始めた。しかしその包囲が完成する寸前にショウ少尉はベトミンにより救出され、ベトミン三個小隊の護衛とともに国境のベトミン基地まで脱出、そこからホー・チミンに付き添われながら昆明のアメリカ空軍司令部にたどりついたという。[33]
- ^ ホー・チ・ミンによる独立演説「1940年の秋に、ファシスト日本が連合国との戦いにおいて新しい基地を確立する為にインドシナ半島の領域を荒らした時、フランスの帝国主義者は彼らに膝を曲げてひざまずいて、我々の国を彼らに手渡した。このように、その日付から、我々の身内は、フランス人と日本人の二重の軛に服従した。」
- ^ 日教組分裂 1991.3.6 以前の都教組委員長
- ^ 現 民主党及び社民党
- ^ 国際交流基金日本語教育機関調査
- ^ 発起人は中野英之。
- ^ 熱帯の北限ラインはハティン省あたりを通っている
- ^ 地方行政は通常3段階に分かれている。60余りある省レベルの下に県レベル、その下に社レベルがある。[79]
- ^ ベトナムでは、教師の給与は極めて低く、教職は貧しいが人々から尊敬される職業の代表である。
- ^ タインニエン、トゥオイチェーともに、言葉の意味合いとしては同じ「青年、Youth」であるが、タインニエンは漢語、トゥオイチェーは固有語であるため、ここでは前者を漢語の「青年」後者を和語の「若者」と訳した。
出典
- ^ “Press realese results of the 2019 population and housing census”. ベトナム統計局 (2019年12月20日). 2019年12月30日閲覧。
- ^ a b c d “World Economic Outlook Database, April 2014” (英語). IMF (2014年4月). 2014年10月4日閲覧。
- ^ 国名、国旗、国章、首都、国歌に関するベトナム社会主義共和国国会決議第1条「ベトナムは独立し統一した社会主義の国家であり、国名をベトナム社会主義共和国とする。」
- ^ “ベトナム 国名変更案も論議へ”. 産経新聞. (2013年4月14日) 2013年5月5日閲覧。
- ^ “ベトナムが国名変更案を審議へ、「社会主義」やめる可能性も”. ブルームバーグ. (2013年5月17日) 2013年5月18日閲覧。
- ^ “改憲論議から国名変更案は排除”. NNA.ASIA. (2013年5月22日) 2015年8月23日閲覧。
- ^ リエン(2008) 39-40頁
- ^ リエン(2008) 40頁
- ^ リエン(2008) 40-41頁
- ^ 桃木至朗. 山川出版. pp. 78-79. ISBN 978-4-634-34120-3
- ^ 石井米雄、桜井由躬雄 (1985). ビジュアル版世界の歴史12 東南アジア世界の形成. 講談社. pp. 228-229. ISBN 4-06-188512-X ※カナ・ベトナム語表記は参照者
- ^ [1]
- ^ “アーカイブされたコピー”. 2006年5月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2006年5月27日閲覧。
- ^ 新国家主席を選出 - FOREIGN PRESS CENTER(ベトナム外務省プレスセンター 2016年4月5日)
- ^ “ベトナム書記長、国家主席を兼務=国会が選出-権力基盤を強化”. AFPBB News. フランス通信社. (2018年10月23日) 2018年10月24日閲覧。
- ^ “ベトナム初の女性国会議長が選出、ガン国会副議長”. VIETJO. 2016年4月10日閲覧。
- ^ http://www.vietnam-briefing.com/news/vietnam-cuts-bureaucracy-reduces-256-administrative-procedures.html/
- ^ エコノミスト・インテリジェンス・ユニットのカントリー・レポートの、朝日新聞 新日曜版 (GLOBE) による抄訳、2011年8月7日版、p5
- ^ 自薦、非共産党候補が焦点 ベトナム国会選挙始まる - 47 NEWS
- ^ a b ベトナム国会、変化の風 一党支配下でトップ信任投票制『朝日新聞』
- ^ “Vietnam” (英語). Human Rights Watch 2018年11月5日閲覧。
- ^ インド海軍がベトナムに駐留か、武器も供与、中国をけん制 Searchina 2011/08/08
- ^ 米国がベトナムの巡視船購入に22億円供与、南シナ海問題では当事国に埋め立て停止を要求―米メディア
- ^ 日本がベトナムに中古巡視船を供与 1隻目が到着
- ^ “ベトナムが国連PKO初参加”. 『日本経済新聞』. (2014年5月27日)
- ^ ベトナム総合情報サイトVIETJO ベトジョー ベトナム、南スーダンと外交関係を樹立
- ^ Nhân Dân Vietnam, South Sudan establish diplomatic ties
- ^ ベトナムは「ミニ中国」!?将来性のあるベトナム経済とは? YAZIUP(ヤジアップ)2018年11月19日
- ^ 【オンラインゼミナール 世界展望~プロの目】北朝鮮とベトナム、その対立と和解 米朝首脳会談を開くベトナムの思惑宮本悟・聖学院大学政治経済学部教授、日経ビジネス(2019年2月22日)2019年5月31日閲覧。
- ^ “【対北制裁】北朝鮮の銀行幹部を追放、資金洗浄疑い ベトナム個人への制裁を初履行”. 『産経新聞』 (2016年4月27日). 2016年9月22日閲覧。
- ^ ベトナム訪問した李大統領、金大中・盧武鉉両氏は謝罪したが…『中央日報』(2009年10月21日)
- ^ “ベトナム経済、強まるサムスン頼み 4~6月GDP6.2%増”. 『日本経済新聞』 (2017年6月29日). 2018年2月19日閲覧。
- ^ 小山内宏著『ヴェトナム戦争 このおそるべき真実』(ミリオンブックス)56頁以下による。
- ^ 小山内宏著『ヴェトナム戦争 このおそるべき真実』(ミリオンブックス)57頁
- ^ ベトナム戦争をめぐる歴史認識、そして謝罪IZA、2006年11月18日。
- ^ “「敵からパートナーに」チョン書記長が初訪米、オバマ大統領と会談”. (2015年7月9日) 2015年7月13日閲覧。
- ^ “オバマ米大統領、ベトナムへの武器禁輸解除を表明”. CNN. (2016年5月23日) 2016年5月24日閲覧。
- ^ ベトナム航空 Archived 2009年4月15日, at the Wayback Machine.
- ^ 「日本国とヴィエトナム民主共和国との間の外交関係設定に関する交換公文」(データベース『世界と日本』)
- ^ 「重要日誌」『アジア動向年報1974』アジア経済研究所、1974年、282ページ。
- ^ “ベトナム社会主義共和国(Socialist Republic of Viet Nam)”. 外務省. 2018年11月5日閲覧。
- ^ “【皇室ウイークリー】(47)雅子さま、絵画展をご鑑賞 承子さまは早大ご入学”. MSN産経ニュース (産経新聞社). (2008年9月27日). オリジナルの2010年11月18日時点におけるアーカイブ。 2010年4月22日閲覧。
- ^ “天皇陛下の新種ハゼ論文、ベトナムに寄贈”. MSN産経ニュース (産経新聞社). (2009年3月26日). オリジナルの2009年3月21日時点におけるアーカイブ。 2010年4月12日閲覧。
- ^ “皇太子さまが「メコン舞踊」をご覧に”. MSN産経ニュース (産経新聞社). (2009年12月10日). オリジナルの2009年12月13日時点におけるアーカイブ。 2010年4月12日閲覧。
- ^ 「外交及び公用旅券所持者等に対する査証の相互免除に関する日本国政府とベトナム社会主義共和国政府との間の口上書の交換に関する件(外務一八八)」『官報』、本紙4068号、(2016年5月2日取得、http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/treaty/pdfs/A-H1617-239.pdf )。
- ^ 在ベトナム日本大使館、「一方的査証免除入国対象の外国人に対する特例措置 > ベトナム出入国管理情報 (一方的査証免除入国対象の外国人に対する特例措置)」『領事情報』2016年1月(2016年5月2日取得、http://www.vn.emb-japan.go.jp/jp/consulate/jp_visa_encho_for_kankokyaku2015.html )。
- ^ “日越大学、9日に開校=関係強化へ人材育成支援”. (2016年9月8日) 2016年11月8日閲覧。
- ^ 『世界地方旗図鑑』59頁
- ^ 柳沢雅之「山と平野、水と土」/ 今井昭夫・岩井美佐紀編著『現代ベトナムを知るための60章』明石書店 2004年 74-76ページ
- ^ 西村昌也「北部平野集落の成り立ち」/ 今井昭夫・岩井美佐紀編著『現代ベトナムを知るための60章』明石書店 2004年 81ページ
- ^ 柳沢雅之「山と平野、水と土」折れ線グラフから読み取とった値/ 今井昭夫・岩井美佐紀編著『現代ベトナムを知るための60章』明石書店 2004年 76ページ
- ^ “World Weather Information Service - Hanoi”. Hydro-Meteorological Service of Vietnam. 2012年8月11日閲覧。
- ^ “BBC Weather - Hanoi”. BBC News (BBC) 2011年7月28日閲覧。
- ^ “Hanoi Climate Guide”. 2011年7月25日閲覧。
- ^ “World Weather Information Service – Ho Chi Minh City”. World Meteorological Organization. 2012年9月5日閲覧。
- ^ “Weatherbase: Historical Weather for Ho Chi Minh City”. Weatherbase. 2012年8月11日閲覧。
- ^ “Solar Energy and Solar Photovoltaics in Vietnam”. 2013年10月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年5月15日閲覧。
- ^ Vietnam世界銀行
- ^ 時事速報VIETNAM時事通信ハノイ支局[出典無効]
- ^ “EU:ベトナムとFTA大筋合意-新興国で初、17年末発効予定”. ブルームバーグ. (2015年8月5日)
- ^ “ベトナムとEU、fta合意文書に署名”. 日本経済新聞. (2015年12月3日)
- ^ “ユーラシア経済連合&アジアの自由貿易協定”. ロシア新聞. (2015年6月3日)
- ^ “米通商代表「ベトナムはTPPから最も多くの利益を受ける」”. VIETJO. (2014年10月24日)。ただしアメリカは、バラク・オバマ政権時代に署名したTPPから、ドナルド・トランプ政権が離脱した。
- ^ “TPP交渉の舞台裏、甘利大臣明かす「ベトナムが"100%カード"切って主導権」”. マイナビニュース. (2015年10月21日)
- ^ “TPP発効の恩恵、ベトナムが最高…世界銀行「韓国に若干の打撃」”. 『中央日報』. (2016年1月8日)
- ^ “ベトナムは第2の中国になれるか”. CNN.co.jp. (2010年6月12日). オリジナルの2010年6月14日時点におけるアーカイブ。 2010年6月13日閲覧。
- ^ 「ベトナム不動産最大手ビングループ 止まらぬ多角化/製薬・コンビニ・自動車…外資提携 工業立国けん引」『日経産業新聞』2018年4月26日(グローバル面)
- ^ ベトナム「不動産財閥」勃興 土地神話バネに複合企業体/留学人脈の政治力 後ろ盾『日経産業新聞』2019年12月11日(1面)
- ^ 今村伸宣勝「多民族国家」/ 今井昭夫・岩井美佐紀編著『現代ベトナムを知るための60章』明石書店 2004年 53ページ
- ^ 西村昌也「ベトナム人の由来」 / 今井昭夫・岩井美佐紀編著『現代ベトナムを知るための60章』明石書店 2004年 23ページ
- ^ ベトナムが中国式戸籍制度を廃止 民主主義への歩み寄りか、EPOCH TIMES、2017年11月8日。
- ^ 『現代ベトナムを知るための60章』第2版198頁
- ^ a b 【短信:ベトナム】信教の自由―「信仰・宗教法令」を中心に― 遠藤聡
- ^ “Vietnam Media Call Homosexuality "Social Evil," Vow Crackdown”. The Body (2002年4月19日). 2009年5月1日閲覧。
- ^ Vietnam to remove fines on same-sex marriage
- ^ Vietnamese lawmakers back down on giving rights to same-sex couples
- ^ Vietnam’s Proposed Marriage Law Disappoints LGBT Activists
- ^ “People and Society :: VIETNAM”. CIA. 2020年7月24日閲覧。
- ^ 坪井未来子「ベトナムの教育の現況」/ファン・ゴク・リエン監修、今井昭夫監訳他『ベトナムの歴史』〈世界の教科書シリーズ21〉明石書店 2008年 764頁
- ^ 坪井未来子「ベトナムの教育の現況」/ファン・ゴク・リエン監修、今井昭夫監訳他『ベトナムの歴史』〈世界の教科書シリーズ21〉明石書店 2008年 764頁
- ^ 西野範子・西村昌也「文化遺産と美術品」/ 今井昭夫・岩井美佐紀編著『現代ベトナムを知るための60章』明石書店 2004年 212-213ページ
- ^ 「飲酒大国」越に規制の波/夜間の酒類広告を禁止/背景に医療費、交通事故『日経産業新聞』2019年7月5日(グローバル面)。
- ^ 川口健一「ベトナム文学」『翻訳百年――外国文学と日本の近代』 原卓也、西永良成編、大修館書店、東京、2000年2月10日、初版第一刷、242-243頁。
- ^ 川口健一「ベトナム文学」『翻訳百年――外国文学と日本の近代』 原卓也、西永良成編、大修館書店、東京、2000年2月10日、初版第一刷、241-245頁。
- ^ シーゲーム、ベトナム勢が国技ボビナムなどで金メダル - [サッカーニュース、VIETNAM-FOOTBALL - ベトナムフットボールダイジェスト、閲覧2017年9月18日]
- ^ 鈴江康二「マスコミと情報化」/ 今井昭夫・岩井美佐紀編著『現代ベトナムを知るための60章』明石書店 2004年 188ページ
- ^ Thay tổng biên tập báo Thanh Niên, VnExpress, 2009年1月2日閲覧
- ^ “Cựu thủ tướng nói về báo Tuổi Trẻ”. BBC Vietnamese. (22 August 2007) 2007年8月22日閲覧。
- ^ Human Rights Watch (1992年1月1日). “Human Rights Watch World Report 1992 - Vietnam”. 2009年8月3日閲覧。
- ^ Long S Le (23 June 2007). “Vietnam's generational split”. Asia Times Online 2007年8月22日閲覧。
- ^ Andrew Lam (24 April 2005). “The fall and rise of Saigon”. San Francisco Chronicle 2007年8月22日閲覧。
- ^ 鈴江康二「マスコミと情報化」/ 今井昭夫・岩井美佐紀編著『現代ベトナムを知るための60章』明石書店 2004年 189-190ページ
- ^ “Vietnam country profile” (英語). BBC News. (2018年9月24日) 2018年11月5日閲覧。
- ^ JAMES HOOKWAY (2013年9月19日). “ベトナム、モバイル利用で高まる人々の「言論の自由」の要求” (日本語). 『ウォール・ストリート・ジャーナル』 2014年1月17日閲覧。
参考文献
- 川口健一 著「ベトナム文学」、原卓也、西永良成編 編『翻訳百年――外国文学と日本の近代』(初版第一刷)大修館書店、東京、2000年2月10日、237-254頁。ISBN 4-469-21250-4。
- 白井洋子『ベトナム戦争のアメリカ』刀水書房、日本、東京、2006年。ISBN 4-88708-352-1。
- ファン・ゴク・リエン『ベトナムの歴史──ベトナム中学校歴史教科書』今井昭夫監訳、伊藤悦子・小川有子・坪井未来子訳、明石書店、日本、東京〈世界の教科書シリーズ21〉、2008年。ISBN 978-4-7503-2843-0。
- オルタ2007年4月号
- 『世界年鑑2017』 一般財団法人共同通信社 2017年3月10日 ISBN 978-4764106956
- 刈安望「アジア編」『世界地方旗図鑑』(初版第一刷)えにし書房、2015年2月10日。ISBN 978-4908073151。
関連項目
外部リンク
この節の外部リンクはウィキペディアの方針やガイドラインに違反しているおそれがあります。 |
- ベトナム社会主義共和国政府
- ベトナムの法律
- 憲法
- 民法 なお、"Vietnam amended Civil Code"に2006年改正の解説あり。
- 商法 ジェトロのウェブサイト内
- 共通投資法・統一企業法 日本アセアンセンターのウェブサイト内
- 外国産業財産権制度情報 特許庁のウェブサイト。ベトナム知的財産法ほか、知的財産に関する下位法規の翻訳を掲載。簡単な制度概要説明へのリンクもある。また、「技術・工業および知的財産権供与に関わる制度」(ジェトロ)にも概要の解説あり。企業と法創造「特集・知的財産法制研究III」では、ベトナムほか、アジア各国の知財に関する研究セミナーの記録が閲覧できる。
- 民事訴訟法 法務省法務総合研究所国際協力部ウェブサイト内
- 判決執行法 法務省法務総合研究所国際協力部ウェブサイト内
- 破産法 法務省法務総合研究所国際協力部ウェブサイト内。
- 国家賠償法 法務省法務総合研究所国際協力部ウェブサイト内
- 刑事訴訟法・刑事捜査組織令・刑法 法務省法務総合研究所国際協力部ウェブサイト内
- 日越法整備支援プロジェクト長期専門家・塚原長秋「研究報告 ベトナムにおける担保権の実行」
- 井関正裕「ベトナム判決書マニュアル作成支援」 ベトナムにおける判決の実情と課題などが解説されている。
- 小口光「ベトナム法制度調査研究報告書」 - 法整備支援の一環として、西村あさひ法律事務所の小口光弁護士に委託して行われた調査。
なお、ベトナムの民商事法令の多くは、日本の法整備支援を受けて起草されている。
- 外務省 - ベトナム
- 在ベトナム日本国大使館
- 在ホーチミン日本国総領事館
- 外務省 海外安全情報 ベトナム
- FORTH 厚生労働省検疫所 ベトナム・カンボジア
- 国際交流基金 ベトナム日本文化交流センター
- 独立行政法人 国際協力機構(JICA) - ベトナム
- JETRO - ベトナム
- 法務省法務総合研究所国際協力部-ベトナム法整備支援
- 名古屋大学日本法教育研究センター
- 現地日本語メディア
- VIETJOベトナムニュース
- VIETJOライフ
- ベトナムニュースライナー Vietnam News Liner
- ベトナムスケッチ
- ベトナム生活・観光情報ナビ
- ウィキトラベルには、ベトナムに関する旅行ガイドがあります。
- ベッター
- ビナブー
- その他
- ウィキボヤージュには、ベトナムに関する旅行情報があります。
- ウィキボヤージュには、ベトナムに関する旅行情報があります。