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鄚玖

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
マク玖から転送)
鄚玖
ハティエンの鄚玖像
日本語
ひらがな まく きゅう
カタカナ マク・クゥ
ハティエンの鄚公廟

鄚 玖(まく きゅう[1]マク・クゥベトナム語Mạc Cửu, 1655年 - 1736年[† 1])は、18世紀初頭のカンボジアベトナム阮氏広南国)の関係において重要な役割を果たした華人の探検家・開拓者・政治指導者[3]。広南国における地位は河僊総兵(Tổng binh Hà Tiên)。

生涯

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広東省雷州府海康県黎郭社に生まれる[4]清朝海禁政策の影響を受けて1671年に中国を離れ[4]プノンペンに住んだ後ジャワフィリピンへと旅をする[5]。その後、カンボジア王の援助を受け、バンテアイ・メアス英語版へと移民し、華人のコミュニティの指導者となる[6]。またカンボジアから、この地方を統治する「オクヤー(屋牙、oknha)」の地位を得て、賭博場の運営、銀山の開発、村落の形成などの開拓事業を行った[4]。1700年には河僊(現在のキエンザン省ハティエン[† 2]に、華人に「港口国」として、ヨーロッパ人に Canca、Peam、またはPontomeas として知られた半独立国を築いた[7]。なお、ハティエンの街はもともとクメール人によって港、河口、埠頭を意味する(ローマ字転写:Piem もしくは Peam)と呼ばれていた[8]

後に彼はベトナムの阮氏広南国と同盟するようになった[9]。1708年には広南国へ朝貢の使いを送り、見返りに河僊総兵(Tổng binh Hà Tiên)の称号を得る。死後は息子の鄚天賜がその地位を継ぐ。鄚天賜は中国の詩文を愛し、港口国を反清を掲げる明朝遺臣のよき亡命先ならしめた[10]。鄚氏一族の支配域はフーコック島からカマウ半島にまで及んだが[1]キン人南進により広南国に併合され、1800年代には阮朝の領域となった。

墓はハティエンのビンサン山にある。キエンザン省では地元の英雄として親しまれ、彼の名を冠した道路が多くの街に存在する。

姓氏

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本姓は「莫」であったが、黎朝を簒奪した莫登庸の一族と間違えられることを避けるため、ベトナムでは「阝」を付加し「鄚」と改めた[11]。中国語での姓名の読みはモー・ジウ[12]

家族

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彼の家系については漢文資料である「河仙鎮葉鎮氏鄚家譜」に記録が残っている。

ビエンホア出身の女性との間に生まれた息子の鄚天賜(マク・ティエン・トゥー、Mạc Thiên Tứ)は鄚玖の事業を継いで河僊総兵となり、広南国によるカンボジア侵略に大きく関わった(阮福濶の項を参照)。娘のマク・キム・ディンは、ベトナム南部に亡命した明朝の遺臣の陳上川(チャン・トゥオン・スィエン、Trần Thượng Xuyên)と結婚している[9][5]

注釈

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  1. ^ 1687年から1695年の間の生まれともいわれる[2]
  2. ^ バンテアイ・メアスは現在ではカンボジア王国カンポット州の県のひとつであり、ベトナムのキエンザン省ハティエン市社と隣接している。大西和彦はバンテアイ・メアスとハティエンを区別せず扱っている[4]

出典

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  1. ^ a b 世界大百科事典ハティエン』 - コトバンク
  2. ^ Thien Do Vietnamese Supernaturalism: Views from the Southern Region 2012 "Đại Nam Nhât Thông Chí does not record what date Mạc Cửu first came to this Cambodian port to develop it and surrounding areas. He offered Hà Tiên province to the Nguyeễn in 1714. See Đại Nam Nhât Thông Chí, vol. 2
  3. ^ Bruce M. Lockhart、William J. Duiker『Historical Dictionary of Vietnam』Scarecrow Press、2006年2月27日、228頁。ISBN 978-0-8108-6505-1https://books.google.co.jp/books?id=qQSyAAAAQBAJ&pg=PA228#v=onepage&q&f=false。「Mạc Cửu (1655–1736) A Chinese immigrant who established his family in the Hà Tiên area of the Mekong Delta. ... he threw in his lot with the Vietnamese.」 
  4. ^ a b c d ベトナム情報ガイド VINABOO. “Vinaboo hanoi Vol.63 大西和彦の日本人のためのベトナム講座第42回”. 2015年4月30日閲覧。
  5. ^ a b Ooi 2004, p. 806
  6. ^ Cooke & Li 2004, p. 43
  7. ^ Cooke & Li 2004, p. 63
  8. ^ Sakurai, Yumio; and Kitagawa, Takako. 1999. Ha Tien or Banteay Meas in the Time of the Fall of. Ayutthaya. In From Japan to Arabia: Ayutthaya's Maritime Relations with Asia, pp. 150 – 220. Bangkok: Toyota Thailand Foundation.
  9. ^ a b Coedes 1966, p. 213
  10. ^ 石井米雄・桜井由躬雄『東南アジア世界の形成』講談社、246-247頁。ISBN 4-06-188512-X 
  11. ^ 戴可來《河仙鎮葉鎮鄚氏家譜》注釋,附録於,《嶺南摭怪等史料三種》,250頁。
  12. ^ Bruce McFarland Lockhart, William J. Duiker Historical dictionary of Vietnam 2006 Page 228 "Mạc Cửu (1655–1736) A Chinese immigrant who established his family in the Hà Tiên area of the Mekong Delta. ... he threw in his lot with the Vietnamese"

参考書籍

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