白藤江の戦い (981年)
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白藤江の戦い | |
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戦争:白藤江の戦い | |
年月日:981年春 | |
場所:白藤江 | |
結果:北宋の戦術的勝利、前黎朝の戦略的勝利 | |
交戦勢力 | |
前黎朝 | 北宋 |
指導者・指揮官 | |
黎桓 | 侯仁宝 † 劉澄 |
戦力 | |
1万5千[要出典] | 不明(黎朝水軍と同等かそれより若干多い程度)[要出典] |
損害 | |
死者千余人[要出典] | 不明 |
白藤江の戦い(はくとうこうのたたかい、ベトナム語:Trận Bạch Đằng / 陣白藤)は、981年にベトナムで行われた、前黎朝大越(ベトナム)軍と北宋軍との戦いである。
経過
[編集]980年秋、侯仁宝を総司令とした北宋軍は、水陸二つの経路で大越に侵攻した[1]。陸上部隊は諒山の経路を、水軍は劉澄を司令官として白藤江の経路を通った。
はじめ、ベトナム側の総司令は范巨備だったが、この戦争のどさくさを利用して、出兵直前に丁朝の幼主丁璿を廃すよう王后を脅し、王位を黎桓に簒奪させた上で、抗戦の直接指揮を黎桓が取った。黎桓は敵の軍船を阻止するために植伐して白藤江に杭を打った。白藤江では攻めてくる宋水軍に杭など効果はなく、勇敢に戦ったが敗北して戦艦200を拿捕され、斬首されること千余級だった。その結果、ベトナム水軍は潰散し、宋軍の長駆侵入を許した。
その後
[編集]黎桓は敗北の後、兵を集め北宋軍の疲弊をひたすら待った。侯仁宝将軍が油断したため、黎桓は嘘の降伏文書を送り届けて騙すことに成功、侯仁宝はこれを真の降伏文書と考えて軍備と警戒を怠り始めた。軍の警戒が弛んだところを見計らい、黎桓は夜陰に乗じて兵を大挙動かし侯仁宝の軍営を襲い、侯仁宝は戦死した。この後、戦線は膠着した。北宋軍に折しも熱病がはやり、多くの兵卒が死んだため、転運使の許仲宣が撤退を進言し、孫全興はこの進言を受けて撤退し、戦争が終結した[2][3]。
後、黎桓はただちに北宋に使者を遣わし、捕虜を返還するなどの外交努力をもって関係を正常化した。
脚注
[編集]- ^ 『続資治通鑑長編』巻21, 太平興國五年条「秋七月丁未、以仁寶為交州路水陸轉運使、蘭州團練使孫全興、八作使郝守濬、鞍轡庫使陳欽祚、左監門衛將軍崔亮為邕州路兵馬都部署、寧州刺史劉澄、軍器庫副使賈湜、供奉官閤門祗候王僎為廉州路兵馬都部署、水陸並進討」
- ^ 『宋史』巻488, 交趾伝「[太平興國]六年春、又破賊于白藤江口、斬首千餘級、獲戰艦二百艘、甲冑萬計。轉運使侯仁寶率前軍先進、全興等頓兵花歩七十日以候澄、仁寶累促之、不進。及澄至、並軍由水路至多羅村、不遇賊、復擅回花歩。桓詐降以誘仁寶、遂爲所害。轉運使許仲宣馳奏其事、遂班師。上遣使就劾澄、湜、僎、澄尋病死、戮湜等邕州市。全興至闕、亦下吏誅、餘抵罪有差。仁寶贈工部侍郎」
- ^ 『大越史記全書』本紀巻之一 黎紀 大行皇帝 辛巳二年春三月条「侯仁寶、孫全興至諒山、陳欽祚至西結、劉澄至白藤江。帝自將禦之、使士卒植樁捍江、宋兵退、復至支陵江。帝令士卒詐降、以誘仁寶、因擒斬之。欽祚等聞水軍敗、引兵還。帝出諸將撃之、欽祚軍大敗、死者太半、屍填原野、擒其將郭君辨、趙奉勳歸華閭」
関連項目
[編集]- 白藤江の戦い (938年) - 南漢軍との戦い
- 白藤江の戦い (1288年) - 元軍との戦い
参考文献
[編集]- 『宋太宗実録』
- 『宋史』
- 『続資治通鑑長編』
- 『続資治通鑑』
- 『大越史記全書』
- 『越史略』
- ファン・ゴク・リエン監修『ベトナムの歴史 ベトナム中学校歴史教科書』《世界の教科書シリーズ21》明石書店、2008年。