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白藤江の戦い (981年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
白藤江の戦い
戦争白藤江の戦い
年月日981年
場所:白藤江
結果:北宋の戦術的勝利、前黎朝の戦略的勝利
交戦勢力
前黎朝 北宋
指導者・指揮官
黎桓 侯仁宝 
劉澄
戦力
1万5千[要出典] 不明(黎朝水軍と同等かそれより若干多い程度)[要出典]
損害
死者千余人[要出典] 不明

白藤江の戦い(はくとうこうのたたかい、ベトナム語Trận Bạch Đằng / 陣白藤)は、981年ベトナムで行われた、前黎朝大越ベトナム)軍と北宋軍との戦いである。

経過

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980年秋、侯仁宝を総司令とした北宋軍は、水陸二つの経路で大越に侵攻した[1]。陸上部隊は諒山の経路を、水軍は劉澄を司令官として白藤江ベトナム語版中国語版の経路を通った。

はじめ、ベトナム側の総司令は范巨備だったが、この戦争のどさくさを利用して、出兵直前に丁朝の幼主丁璿を廃すよう王后を脅し、王位を黎桓に簒奪させた上で、抗戦の直接指揮を黎桓が取った。黎桓は敵の軍船を阻止するために植伐して白藤江に杭を打った。白藤江では攻めてくる宋水軍に杭など効果はなく、勇敢に戦ったが敗北して戦艦200を拿捕され、斬首されること千余級だった。その結果、ベトナム水軍は潰散し、宋軍の長駆侵入を許した。

その後

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黎桓は敗北の後、兵を集め北宋軍の疲弊をひたすら待った。侯仁宝将軍が油断したため、黎桓は嘘の降伏文書を送り届けて騙すことに成功、侯仁宝はこれを真の降伏文書と考えて軍備と警戒を怠り始めた。軍の警戒が弛んだところを見計らい、黎桓は夜陰に乗じて兵を大挙動かし侯仁宝の軍営を襲い、侯仁宝は戦死した。この後、戦線は膠着した。北宋軍に折しも熱病がはやり、多くの兵卒が死んだため、転運使の許仲宣が撤退を進言し、孫全興はこの進言を受けて撤退し、戦争が終結した[2][3]

後、黎桓はただちに北宋に使者を遣わし、捕虜を返還するなどの外交努力をもって関係を正常化した。

脚注

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  1. ^ 『続資治通鑑長編』巻21, 太平興國五年条「秋七月丁未、以仁寶為交州路水陸轉運使、蘭州團練使孫全興、八作使郝守濬、鞍轡庫使陳欽祚、左監門衛將軍崔亮為邕州路兵馬都部署、寧州刺史劉澄、軍器庫副使賈湜、供奉官閤門祗候王僎為廉州路兵馬都部署、水陸並進討」
  2. ^ 『宋史』巻488, 交趾伝「[太平興國]六年春、又破賊于白藤江口、斬首千餘級、獲戰艦二百艘、甲冑萬計。轉運使侯仁寶率前軍先進、全興等頓兵花歩七十日以候澄、仁寶累促之、不進。及澄至、並軍由水路至多羅村、不遇賊、復擅回花歩。桓詐降以誘仁寶、遂爲所害。轉運使許仲宣馳奏其事、遂班師。上遣使就劾澄、湜、僎、澄尋病死、戮湜等邕州市。全興至闕、亦下吏誅、餘抵罪有差。仁寶贈工部侍郎」
  3. ^ 『大越史記全書』本紀巻之一 黎紀 大行皇帝 辛巳二年春三月条「侯仁寶、孫全興至諒山、陳欽祚至西結、劉澄至白藤江。帝自將禦之、使士卒植樁捍江、宋兵退、復至支陵江。帝令士卒詐降、以誘仁寶、因擒斬之。欽祚等聞水軍敗、引兵還。帝出諸將撃之、欽祚軍大敗、死者太半、屍填原野、擒其將郭君辨、趙奉勳歸華閭」

関連項目

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参考文献

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  • 『宋太宗実録』
  • 『宋史』
  • 『続資治通鑑長編』
  • 『続資治通鑑』
  • 『大越史記全書』
  • 『越史略』
  • ファン・ゴク・リエン監修『ベトナムの歴史 ベトナム中学校歴史教科書』《世界の教科書シリーズ21》明石書店、2008年。