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「勝海舟 (NHK大河ドラマ)」の版間の差分

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2020年7月11日 (土) 12:12時点における版

勝海舟
ジャンル ドラマ
原作 子母澤寛『勝海舟』
脚本 倉本聰中沢昭二
演出 中山三雄 他
出演者 渡哲也松方弘樹
大原麗子
久我美子
丘みつ子
大谷直子
垂水悟郎
米倉斉加年
石橋蓮司
江守徹
藤岡弘
萩原健一
戸浦六宏
坂東八十助
原保美
宍戸錠
津川雅彦
加東大介
中村富十郎
小林桂樹
尾上松緑
ナレーター 石野倬
オープニング 冨田勲
製作
製作総指揮 古閑三千郎 他
制作 日本放送協会
放送
放送国・地域日本の旗 日本
放送期間1974年1月6日-12月29日
放送時間日曜20:00-20:45
放送枠大河ドラマ
放送分45分
回数全52
テンプレートを表示

勝海舟』(かつかいしゅう)は、NHKが制作し1974年1月6日から12月29日総合テレビジョンで放送した12作目の大河ドラマ。全52回。1946年に刊行された子母沢寛の同名小説を原作に、勝海舟の生涯を、海舟を取り巻く人々の人間模様を織り交ぜて描いた。

概要

当初、主人公の海舟役は渡哲也だったが、渡が肋膜炎に倒れて降板[1][2][3][4][5]、渡が第9回まで務めた後に異例の主役交代となり、第10回以降は松方弘樹が引き継いだ[2][3][4][5][6][7]。松方は好評だった1965年の『人形佐七捕物帳』に主演して以来のNHKドラマである。放送時はNHKの労使対立問題で現場が混乱して制作体制が定まっておらず、全話収録終了後に松方の不満が爆発[5]、脚本の倉本聰が勅使河原平八ら演出スタッフと衝突して降板し東京を去り[8]中沢昭二に交代した( ⇒ #エピソード)。最高視聴率は30.9%、年間平均視聴率は24.2%(関東地区・ビデオリサーチ調べ)だった[9]

キャスト

スタッフ

放送

特記が無い限りNHKクロニクルのNHK番組表ヒストリーで確認。

通常放送時間

放送日程

放送回 放送日 演出[10]
第1回 1974年01月06日 青年 中山三雄
第2回 01月13日 武州徳丸ヶ原 中山三雄
第3回 01月20日 禁足 勅使河原平八
第4回 01月27日 伊予田静弘
第5回 02月03日 転向 山中朝雄
第6回 02月10日 貧困 中山三雄
第7回 02月17日 虫けら 中山三雄
第8回 02月24日 残り火 勅使河原平八
第9回 03月03日 幕臣 伊予田静弘
第10回 03月10日 海鳴り 中山三雄
第11回 03月17日 黒船渡来 中山三雄
第12回 03月24日 風浪 中山三雄
第13回 03月31日 巣立ち 勅使河原平八
第14回 04月07日 長崎海軍伝習所 伊予田静弘
第15回 04月14日 対岸 山中朝雄
第16回 04月21日 巨木果つ 中山三雄
第17回 04月28日 黒い波濤 勅使河原平八
第18回 05月05日 薩摩路 伊予田静弘
第19回 05月12日 大獄 山中朝雄
第20回 05月19日 出航 中山三雄
第21回 05月26日 咸臨丸渡航 山中朝雄
第22回 06月02日 天誅 中山三雄
第23回 06月09日 冬牡丹 中山三雄
第24回 06月16日 幽霊 勅使河原平八
第25回 06月23日 寒月 伊予田静弘
第26回 06月30日 攘夷 山中朝雄
第27回 07月07日 捨て犬 三井章
第28回 07月14日 奔流 中山三雄
第29回 07月21日 海軍伝習生春山弁蔵 中山三雄
第30回 07月28日 以蔵無惨 勅使河原平八
第31回 08月04日 別れ 伊予田静弘
第32回 08月11日 池田屋 山中朝雄
第33回 08月18日 三条木屋町 中山三雄
第34回 08月25日 禁門の変 加藤郁雄
第35回 09月01日 孤独 伊予田静弘
第36回 09月08日 焦燥 山中朝雄
第37回 09月15日 こぼれ花 中山三雄
第38回 09月22日 竜馬遭難 中山三雄
第39回 09月29日 慟哭 三井章
第40回 10月06日 特使 勅使河原平八
第41回 10月13日 足音 山中朝雄
第42回 10月20日 ええじゃないか 加藤郁雄
第43回 10月27日 大政奉還 高松良征
第44回 11月03日 竜馬死す 伊予田静弘
第45回 11月10日 三田薩摩屋敷 勅使河原平八
第46回 11月17日 重荷 山中朝雄
第47回 11月24日 暴発 中山三雄
第48回 12月01日 壮士西へ 東海林通
第49回 12月08日 赤心 三井章
第50回 12月15日 江戸焦土作戦 山中朝雄
第51回 12月22日 前夜 中山三雄
最終回 12月29日 無血開城 中山三雄
平均視聴率 24.2% (視聴率は関東地区ビデオリサーチ社調べ[9]

※ 最終回は再放送されず。

総集編

  • 前編:1974年12月30日 19時20分から20時59分
  • 後編:1974年12月31日 19時20分から20時50分

映像の現存状況

第38回、第39回、総集編の保存が判明しているが、権利元より放送許諾を得られなかったために時代劇専門チャンネルで放映された大河ドラマアーカイブスでは未放映となった。各都道府県のNHKアーカイブスおよびNHKオンデマンドで総集編前後編として視聴可能。2016年4月に時代劇専門チャンネル「大河ドラマ総集編劇場」でBS・CS初の放送がされ[12]、同年12月22日にNHKスクエアより総集編DVD全2枚が発売された。NHKでは番組関係者、一般視聴者にマスターテープが失われた映像の提供を呼びかけている[13]

その後の発掘

松方の代役経緯

松方の代役が決まるまでは以下の経緯による。

渡が39度くらいの熱が続いているのにプロデューサーが収録を続けさせたことがNHK局内で大騒ぎになって当時の制作局長・川口幹夫の耳に届き[7]、主役をすぐかえないとマズいという話になった[7]。しかし代役候補に挙げた役者が全部スケジュールがダメで代役が決まらず[7]、最終的に松方弘樹が候補に挙がった[7]。しかし松方は当時売り出し中で、大阪の梅田コマ劇場で舞台をやっていてNHKは口説ききれず[6][7]、倉本自ら「俺が口説いてくる」とNHKに一任され、東映本社に乗り込み、岡田茂東映社長に直談判した[2][3][4][5][6][7]。すると岡田から「俺が松方に電話入れておくから大阪に行って本人を直接口説いてくれ」と言われ[6][7]、それまで面識の全くなかった松方に大阪で会ったら、倉本が新幹線に乗ってる間に、既に岡田が諸問題がいろいろクリアしてくれていて、松方は「やらせていただきます」と即答した[6][7]。2015年8月の『日本経済新聞』「私の履歴書」の倉本の連載でも、松方は超多忙で代役は無理だろうとNHK局内に強まり、誰も口説きにいかないので、倉本自ら「東映社長の岡田茂さんに『松方を大河ドラマに出演させてください』とお願いすると『松方にもいいチャンスだ』と言って進行中の仕事を除いて、以後のスケジュールを止めてくれた」と書かれており[2]、『デイリースポーツ』の中島の連載や、倉本の著書『愚者の旅』もこれに似た記述がされている[2][3][4]。ただ能村庸一の著書では、岡田が推薦した松方は不良性抜群で、何故松方なのかNHKは理解に苦しむと、倉本の話とは少し異なる記述がされている[5]。最終的にNHK・松方・岡田の三者会談が行われ、「弘樹、人が困ってるんや、やってやれや」と岡田の"鶴の一声"で松方は代役を受けるハラを決めた[3][4][5]。松方は1974年3月当時の『サンデー毎日』の手記で、「渡哲也さんが病気で、勝海舟の代役にぼくの名前があがっていると、所属の東映から話をきいたのは1月24日のことだった。(中略)NHKの大河ドラマの主役交代というのは初めてのことだし、急にそんな話を持ってこられても答えに困る。そのうえぼくは東映所属の俳優だから、独行はできない。上のほうで相談して下さいと、その時は答えた。しかし早耳の新聞記者の人たちが、続々と楽屋に訪ねてこられる。(中略)あれよあれよという間に、交代劇は勝手に突っ走っていく感じだった。その夜ぼくは渡さんの家へ電話した。渡さんは不在だったが、奥さんが『あとはよろしくお願いします』といわれた。その直後渡瀬くんから電話がきた。『兄貴を助けてやってくれよ』といわれた。29日、梅田コマの公演が終わり、東映、NHKと三者会談があった。岡田社長が「やれよ」といった。ハラが決まったのはその時である。舞台があったので一度も番組を見ていない。原作も知らない。その日からあわてて原作を読み、(後略)」などと話している[16]。また松方の1975年の著書『松方弘樹の言いたい放談 きつい一発』では、渡哲也さんが病の床に倒れたので、その後を引き受けて欲しいと電話があって、いろいろ迷ってしまったが、岡田社長の『助けてやれや』の一言で結局、引き受けることに決まった、と書いている[17]

映画監督中島貞夫の著書『遊撃の美学 - 映画監督中島貞夫』では、渡が病気になると倉本は東京大学文学部の同級生で親友である中島に「時代劇を背負えるやつが誰かおらんか」と相談し[18]、中島はこの頃仕事に恵まれず、空いていた松方を倉本に推薦[18]。NHKへ行く松方に中島は付き添い、「じゃあ弘樹ちゃんでいこう」と代役が決まった[18]、中島は「帰ってくる時に(主演)映画を一本用意しておく」と松方に約束した、と書かれている[注釈 1]。 中島は著書で「この頃仕事に恵まれず、空いていた松方」と書いているが、松方は先述のようにこの頃忙しかったのであり、中島の記憶違いが見られる。何より中島は1967年に東映を退社してフリーになっており[19][20]、フリーの一監督で『勝海舟』とは何の関係もない中島が、著書に書いている中島と松方が二人でNHKへ行って『大河ドラマ』の主役交代という重要事案を二人、あるいはNHKと三者で決めたというのは考えにくい。松方は東映専属の俳優ではなく岡田茂の個人預かりの俳優だった[21][22]。先の倉本の著書やインタビュー、『日本経済新聞』の連載、松方の手記、著書などにも中島は出てこない。

神経質でひ弱な海舟が出来あがり[3]、松方は放送終了後「NHKはモノをつくるところじゃない」などと発言して物議を醸した[23]。松方が仁科明子と恋仲になるのは、このドラマで共演したからであるが、松方は当時既婚者で、仁科の父である岩井半四郎が激怒し、マスコミを賑わせたものの、彼らの知名度が上がることにつながっている[23][24]。倉本は週刊誌の記事を巡ってドラマのスタッフとこじれ北海道へ飛び、そのまま北海道に転居[2][8]。この後は北海道を舞台とした多くのドラマを手掛けることになる[3][8]

脚注

注釈

  1. ^ 中島が松方に用意していた主演映画は1974年の『脱獄広島殺人囚』である[4][18]

出典

  1. ^ “勝海舟”. ドラマ詳細データ (テレビドラマデータベース). オリジナルの2013年5月23日時点におけるアーカイブ。. https://archive.is/20130523191011/http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-14099 2012年12月11日閲覧。 
  2. ^ a b c d e f 倉本聰 (2015年8月15日). “(私の履歴書)倉本聰(15)大河ドラマ 主役交代、自ら出演交渉 週刊誌の記事でつるし上げ”. 日本経済新聞 (日本経済新聞電子版). オリジナルの2015年8月21日時点におけるアーカイブ。. http://megalodon.jp/2015-0819-1314-37/www.nikkei.com/article/DGKKZO90540100U5A810C1BC8000/ 2015年8月21日閲覧。 
  3. ^ a b c d e f g 倉本聰『愚者の旅』理論社、2002年、84-93頁。ISBN 4-652-07709-2 
  4. ^ a b c d e f 中島貞夫『デイリースポーツ連載 「中島貞夫 傑作選劇場」』デイリースポーツ、2014年5月6日。 
  5. ^ a b c d e f 能村庸一『実録テレビ時代劇史ちゃんばらクロニクル1953-1998』東京新聞出版局、1999年、207-210頁。ISBN 4-8083-0654-9 
  6. ^ a b c d e “「大河ドラマ降板」が「北の国から」を生んだ 倉本聰が明かした秘話”. デイリー新潮. 週刊新潮. (2019年2月27日). オリジナルの2019年12月27日時点におけるアーカイブ。. https://megalodon.jp/2019-1227-1302-19/https://www.dailyshincho.jp:443/article/2019/02270731/?all=1 2020年1月21日閲覧。 
  7. ^ a b c d e f g h i 倉本聰・碓井広義『ドラマへの遺言』新潮社新潮新書802〉、2019年、96-101頁。ISBN 978-4-10-610802-0 
  8. ^ a b c 倉本 聰 | web R25 page=3
  9. ^ a b ビデオリサーチ NHK大河ドラマ 過去の視聴率データ
  10. ^ a b NHKクロニクル番組表検索結果詳細より
  11. ^ 一部放送日時の変更あり
  12. ^ 時代劇専門チャンネル(大河ドラマ総集編劇場)
  13. ^ NHKアーカイブス 番組発掘プロジェクト
  14. ^ 発掘ニュースNo.106 “仮面ライダー”から幻の大河『勝海舟』を大量発掘!発掘ニュースNo.111 藤岡弘、さん 42年前の坂本龍馬を語る(2016年6月24日)、『ひるまえほっと』内「発掘!お宝番組」(2016年6月10日放送)
  15. ^ 発掘ニュースNo.148 渡哲也さん32歳『勝海舟』奇跡の発掘!!
  16. ^ 松方弘樹「32歳の一年を『勝海舟』役に挑む」『サンデー毎日』、毎日新聞社、1974年3月3日号、35頁。 
  17. ^ 松方弘樹『松方弘樹の言いたい放談 きつい一発』八曜社、1975年、17頁。 
  18. ^ a b c d 中島貞夫『遊撃の美学 - 映画監督中島貞夫(上)』ワイズ出版(原著2014年10月20日)、368 - 369頁。ISBN 978-4898302835 
  19. ^ 中島貞夫『遊撃の美学 - 映画監督中島貞夫(上)』ワイズ出版(原著2014年10月20日)、154 - 155頁。ISBN 978-4898302835 
  20. ^ “【イベント】代官山シネマトークVOL.10 「時代劇は死なず ちゃんばら美学考」発売記念スペシャル版”. 代官山T-SITE (カルチュア・コンビニエンス・クラブ). (2017年). オリジナルの2018年3月2日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20180301155709/http://real.tsite.jp/daikanyama/event/2017/09/vol10-2.html 2018年3月2日閲覧。 
  21. ^ 由原木七朗「スター随想 役者・松方弘樹」『近代映画』1970年4月号、近代映画社、178 - 179頁。 
  22. ^ “コラム 『最後の映画スター』”. 合同通信オンライン (合同通信社). (2017年). オリジナルの2018年11月18日時点におけるアーカイブ。. https://megalodon.jp/2018-1118-1037-11/https://godotsushin.net:443/column/123/ 2020年1月21日閲覧。 
  23. ^ a b 『サンデー毎日』1974年12月29日号、p34
  24. ^ 仁科亜季子ら家族にみとられ…岩井半四郎さん死去 ― スポニチ

関連項目

外部リンク

NHK 大河ドラマ
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勝海舟