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「日本とデンマークの関係」の版間の差分

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外交使節: 駐日デンマーク大使館を創設
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日本とデンマークの接触が始まったのは、デンマーク東インド会社が設立された1600年代初頭とされる<ref name=jd>[http://www.archives.go.jp/exhibition/japan-denmark/index.html 平成29年秋の特別展 日本・デンマーク外交関係樹立150周年記念「日本とデンマーク-文書でたどる交流の歴史」]独立行政法人国立公文書館、デンマーク国立公文書館</ref>。[[1867年]][[日丁修好通商航海条約]]締結([[徳川幕府]]が外国と結んだ最後の条約)。1871年(明治4年)、[[不平等条約]]改正交渉のため渡航した[[岩倉使節団]]はデンマークに5日間滞在し、1873年4月19日には[[クリスチャン9世 (デンマーク王)]]に謁見、帰国後、使節紀行纂輯専務心得の[[久米邦武]]は『特命全権大使米欧回覧実記』(1878年)の中に「嗹馬国ノ記」の一章を設けてデンマークを紹介<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/761505/89 第六十七巻 嗹馬国(デンマルク)ノ記]『特命全権大使米欧回覧実記』久米邦武 編 (博聞社, 1878)</ref>。1895(明治28)10月19日、1867年の条約を改正した[[日本・デンマーク通商航海条約]]が[[コペンハーゲン]]で調印され、その翌年に批准・公布(日本側の全権は[[赤羽四郎]]、デンマーク側は[[レーツス・トウト]])<ref name=jd/>。
日本とデンマークの接触が始まったのは、デンマーク東インド会社が設立された1600年代初頭とされる<ref name=jd>[http://www.archives.go.jp/exhibition/japan-denmark/index.html 平成29年秋の特別展 日本・デンマーク外交関係樹立150周年記念「日本とデンマーク-文書でたどる交流の歴史」]独立行政法人国立公文書館、デンマーク国立公文書館</ref>。[[1867年]][[日丁修好通商航海条約]]締結([[徳川幕府]]が外国と結んだ最後の条約)。1871年(明治4年)、[[不平等条約]]改正交渉のため渡航した[[岩倉使節団]]はデンマークに5日間滞在し、1873年4月19日には[[クリスチャン9世 (デンマーク王)]]に謁見、帰国後、使節紀行纂輯専務心得の[[久米邦武]]は『特命全権大使米欧回覧実記』(1878年)の中に「嗹馬国ノ記」の一章を設けてデンマークを紹介<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/761505/89 第六十七巻 嗹馬国(デンマルク)ノ記]『特命全権大使米欧回覧実記』久米邦武 編 (博聞社, 1878)</ref>。1895(明治28)10月19日、1867年の条約を改正した[[日本・デンマーク通商航海条約]]が[[コペンハーゲン]]で調印され、その翌年に批准・公布(日本側の全権は[[赤羽四郎]]、デンマーク側は[[レーツス・トウト]])<ref name=jd/>。


民間では1866年に来日したデンマーク人商人フレデリック・クレブス(Otto Frederick Krebs, 1838-191)が、1874年に炭鉱採掘技師として[[三菱]]に入社し、のちに幹部にまで出世した<ref>[https://www.antiquestradegazette.com/news/2018/what-lots-caught-bidders-eyes-this-week-five-auction-highlights-including-a-dated-slipware-jug-from-the-time-of-charles-i-and-a-beswick-huntsman-figure/ 4. Chinese scroll paintings on silk]Antiques Trade Gazette、21 Dec 2018</ref><ref>[https://www.geni.com/people/Otto-Krebs/6000000004563676908 Otto Frederick Krebs]Geni</ref><ref>[https://www.mitsubishicorp.com/jp/ja/mclibrary/roots/vol13/ 第13話 彌之助を支えた多彩な人脈]三菱商事</ref>。1892年から[[森外]]が[[アンデルセン]]の『[[即興詩人]]』の邦訳を断続的に発表し、1902年に単行本として刊行、典雅な美文でロングセラーとなった。1900年には[[ヴァルデマー (デンマーク王子)]]が来日。デンマークの農事改良についてはたびたび紹介されて定評があり、 1908年には、衰退した養鶏業を共同経営で復興させた広島県のある村が「小丁抹(小デンマーク。丁抹はデンマークの漢字表記)」と呼ばれて称賛された<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/901181/53 小丁抹の名ある安芸の養鶏村]『養鶏業と共同経営 : 養鶏業に於ける産業組合の利益』西垣恒矩 著 (東京興農園, 1908) </ref>。
民間では1866年に来日したデンマーク人商人フレデリック・クレブス(Otto Frederick Krebs, 1838-191)が、1874年に炭鉱採掘技師として[[三菱]]に入社し、のちに幹部にまで出世した<ref>[https://www.antiquestradegazette.com/news/2018/what-lots-caught-bidders-eyes-this-week-five-auction-highlights-including-a-dated-slipware-jug-from-the-time-of-charles-i-and-a-beswick-huntsman-figure/ 4. Chinese scroll paintings on silk]Antiques Trade Gazette、21 Dec 2018</ref><ref>[https://www.geni.com/people/Otto-Krebs/6000000004563676908 Otto Frederick Krebs]Geni</ref><ref>[https://www.mitsubishicorp.com/jp/ja/mclibrary/roots/vol13/ 第13話 彌之助を支えた多彩な人脈]三菱商事</ref>。1892年から[[森外]]が[[アンデルセン]]の『[[即興詩人]]』の邦訳を断続的に発表し、1902年に単行本として刊行、典雅な美文でロングセラーとなった。1900年には[[ヴァルデマー (デンマーク王子)]]が来日。デンマークの農事改良についてはたびたび紹介されて定評があり、 1908年には、衰退した養鶏業を共同経営で復興させた広島県のある村が「小丁抹(小デンマーク。丁抹はデンマークの漢字表記)」と呼ばれて称賛された<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/901181/53 小丁抹の名ある安芸の養鶏村]『養鶏業と共同経営 : 養鶏業に於ける産業組合の利益』西垣恒矩 著 (東京興農園, 1908) </ref>。


1911年(明治44年)に[[内村鑑三]]が『デンマルク国の話:信仰と樹木とを以て国を救ひし話』を講演し、[[エンリコ・ダルガス]]の植林事業を優れた施策として紹介<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/916447 デンマルク国の話:信仰と樹木とを以て国を救ひし話][[内村鑑三]] (聖書研究社, 1913) </ref>。1912年には、植民地統治にあたっていた[[台湾総督府]]技師の[[東郷実]]がデンマークの農業改革を高く評価し『丁抹農業論』を著し<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/986653 丁抹農業論]東郷実 述 (台湾総督府民政部殖産局, 1912)</ref>、翌1913年には、デンマークの[[ニコライ・フレデリク・セヴェリン・グルントヴィ]]の教育事業に触れたドイツのホルマン(Anton Heinrich Hollmann)による『国民高等学校と農民文明』([[那須皓]]訳)が刊行されるなど、プロシアとの戦争に敗れて疲弊した国を農業改革や教育で再興させたデンマークの試みは日本の[[農本思想]]家たちの共感を呼んだ。
1911年(明治44年)に[[内村鑑三]]が『デンマルク国の話:信仰と樹木とを以て国を救ひし話』を講演し、[[エンリコ・ダルガス]]の植林事業を優れた施策として紹介<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/916447 デンマルク国の話:信仰と樹木とを以て国を救ひし話][[内村鑑三]] (聖書研究社, 1913) </ref>。1912年には、植民地統治にあたっていた[[台湾総督府]]技師の[[東郷実]]がデンマークの農業改革を高く評価し『丁抹農業論』を著し<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/986653 丁抹農業論]東郷実 述 (台湾総督府民政部殖産局, 1912)</ref>、翌1913年には、デンマークの[[ニコライ・フレデリク・セヴェリン・グルントヴィ]]の教育事業に触れたドイツのホルマン(Anton Heinrich Hollmann)による『国民高等学校と農民文明』([[那須皓]]訳)が刊行されるなど、プロシアとの戦争に敗れて疲弊した国を農業改革や教育で再興させたデンマークの試みは日本の[[農本思想]]家たちの共感を呼んだ。

2020年6月18日 (木) 12:07時点における版

日本とデンマーク関係
DenmarkとJapanの位置を示した地図

デンマーク

日本

日本とデンマークの関係英語: Denmark–Japan relations)はデンマーク日本の二国間関係を指す。東京在住のデンマーク人は500人である[1]。在日デンマーク大使館は東京都渋谷区に、在デンマーク日本国大使館はコペンハーゲンHavneholmen英語版に所在している[2][3]1867年の日丁修好通商航海条約に伴い、外交関係が樹立された[4]第二次世界大戦に伴って外交関係が断たれ、1952年に国交を回復するまでの時期を除き、外交関係は続いている[5] [6]

交流のはじまり

日本とデンマークの接触が始まったのは、デンマーク東インド会社が設立された1600年代初頭とされる[7]1867年日丁修好通商航海条約締結(徳川幕府が外国と結んだ最後の条約)。1871年(明治4年)、不平等条約改正交渉のため渡航した岩倉使節団はデンマークに5日間滞在し、1873年4月19日にはクリスチャン9世 (デンマーク王)に謁見、帰国後、使節紀行纂輯専務心得の久米邦武は『特命全権大使米欧回覧実記』(1878年)の中に「嗹馬国ノ記」の一章を設けてデンマークを紹介[8]。1895(明治28)10月19日、1867年の条約を改正した日本・デンマーク通商航海条約コペンハーゲンで調印され、その翌年に批准・公布(日本側の全権は赤羽四郎、デンマーク側はレーツス・トウト[7]

民間では1866年に来日したデンマーク人商人フレデリック・クレブス(Otto Frederick Krebs, 1838-191)が、1874年に炭鉱採掘技師として三菱に入社し、のちに幹部にまで出世した[9][10][11]。1892年から森鷗外アンデルセンの『即興詩人』の邦訳を断続的に発表し、1902年に単行本として刊行、典雅な美文でロングセラーとなった。1900年にはヴァルデマー (デンマーク王子)が来日。デンマークの農事改良についてはたびたび紹介されて定評があり、 1908年には、衰退した養鶏業を共同経営で復興させた広島県のある村が「小丁抹(小デンマーク。丁抹はデンマークの漢字表記)」と呼ばれて称賛された[12]

1911年(明治44年)に内村鑑三が『デンマルク国の話:信仰と樹木とを以て国を救ひし話』を講演し、エンリコ・ダルガスの植林事業を優れた施策として紹介[13]。1912年には、植民地統治にあたっていた台湾総督府技師の東郷実がデンマークの農業改革を高く評価し『丁抹農業論』を著し[14]、翌1913年には、デンマークのニコライ・フレデリク・セヴェリン・グルントヴィの教育事業に触れたドイツのホルマン(Anton Heinrich Hollmann)による『国民高等学校と農民文明』(那須皓訳)が刊行されるなど、プロシアとの戦争に敗れて疲弊した国を農業改革や教育で再興させたデンマークの試みは日本の農本思想家たちの共感を呼んだ。

1923(大正12)年にはエミール・フェンガ一家が模範農家として北海道庁に招かれ、5年間滞在してデンマーク式酪農を指導[7]。1926(大正15)年には、デンマークのボトヴェ陸軍飛行大尉(1895-1964)と陸軍二等技師のオールセン少尉が世界で初めて飛行機でコペンハーゲン-東京間を往復[7][15]。同年、デンマークの教育機関フォルケホイスコーレを参考に、加藤完治が日本国民高等学校を、1936年には松前重義東海大学の母体となる私塾を開設するなど、デンマークは農業と教育の理想の国というイメージが定着していった[16][17]

貿易

在日デンマーク大使館

1988年には両国の貿易額は20億ドルに達している[18]。日本からデンマークへは乗用車やバイク、コンピューターが主に輸出されている。デンマークから日本へは豚肉、エビ、チーズ、医薬品が輸出されている。また、日本にはレゴノボノルディスクなどのデンマークの企業が進出している[19]

日本皇室とデンマーク王室の交流

外交使節

駐デンマーク日本大使・公使

駐日デンマーク大使館

駐日デンマーク大使

脚注

  1. ^ 500 Danes in Tokyo (デンマーク語)
  2. ^ Danish embassy in Japan Archived 2011-09-12 at the Wayback Machine.
  3. ^ Japanese embassy in Denmark
  4. ^ History of the Bilateral Relationship
  5. ^ 講談社 (1993). Japan: an illustrated encyclopedia Part one. Kodansha. pp. 1924 
  6. ^ Exchange of notes constituting an agreement concerning the resumption of diplomatic relations. Tokyo, 29 February 1952
  7. ^ a b c d 平成29年秋の特別展 日本・デンマーク外交関係樹立150周年記念「日本とデンマーク-文書でたどる交流の歴史」独立行政法人国立公文書館、デンマーク国立公文書館
  8. ^ 第六十七巻 嗹馬国(デンマルク)ノ記『特命全権大使米欧回覧実記』久米邦武 編 (博聞社, 1878)
  9. ^ 4. Chinese scroll paintings on silkAntiques Trade Gazette、21 Dec 2018
  10. ^ Otto Frederick KrebsGeni
  11. ^ 第13話 彌之助を支えた多彩な人脈三菱商事
  12. ^ 小丁抹の名ある安芸の養鶏村『養鶏業と共同経営 : 養鶏業に於ける産業組合の利益』西垣恒矩 著 (東京興農園, 1908)
  13. ^ デンマルク国の話:信仰と樹木とを以て国を救ひし話内村鑑三 (聖書研究社, 1913)
  14. ^ 丁抹農業論東郷実 述 (台湾総督府民政部殖産局, 1912)
  15. ^ 『大正十五年のヒコーキ野郎: デンマーク人による飛行新記録とアジア見聞録 』長島要一、原書房 (2016/8/26)
  16. ^ 日本国民高等学校(読み)にほんこくみんこうとうがっこうブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
  17. ^ 松前重義と建学の精神東海大学
  18. ^ Keizai Kōhō Sentā (1981). Speaking of Japan part 10. Tokyo, Japan: Keizai Koho Center 
  19. ^ Economic relations
  20. ^ 官報. 1900年03月06日
  21. ^ 平成10年6月2日(火) デンマーク女王陛下及び王配殿下主催晩餐会(フレーデンスボー宮殿)における天皇陛下のご答辞宮内庁ウェブサイト
  22. ^ 外務省:新任駐日デンマーク王国大使の信任状捧呈について
  23. ^ 外務省: 新任駐日デンマーク大使の信任状捧呈について
  24. ^ 外務省: 新任駐日デンマーク王国大使の信任状捧呈
  25. ^ 新任駐日デンマーク大使の信任状捧呈 | 外務省
  26. ^ 駐日デンマーク大使の信任状捧呈 | 外務省

外部リンク