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[[ファイル:Friedrich2 jung.jpg|サムネイル|『プロイセン国王フリードリヒ2世の肖像』(1745)[[アントワーヌ・ペーヌ]]筆。]] |
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* [[5月11日]] - [[オーストリア継承戦争]]: [[フォントノワの戦い (1745年)|フォントノワの戦い]] |
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*日本 |
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* [[6月4日]] - オーストリア継承戦争: [[ホーエンフリートベルクの戦い]] |
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**将軍[[徳川吉宗]]が[[丹羽正伯]]らに博物書である『[[庶物類纂]]』の再編纂を命じる{{要出典|date=2021-04}}。 |
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* [[10月4日]] - フランツ1世が神聖ローマ帝国皇帝に即位。 |
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**[[富永仲基]]が、仏教経典を文献学的に研究・批判した『[[出定後語]]』を刊行<ref>[http://kotobank.jp/word/%E5%AF%8C%E6%B0%B8%E4%BB%B2%E5%9F%BA 富永仲基【とみなが-なかもと】]デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説</ref>。 |
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**[[1739年]]([[元文]]4年)に禁止された[[宮古路豊後掾#豊後節の特徴|豊後節]]が大流行。 |
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*[[アラビア半島|アラビア]] - [[ワッハーブ運動]] - [[ムハンマド・イブン・アブドゥルワッハーブ]]が[[サウード家]]と盟約を結ぶ。 |
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=== 1月~3月 === |
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* [[1月7日]] - オーストリア継承戦争:陸軍[[元帥 (ドイツ)|元帥]][[カール・ヨーゼフ・バッチャーニ]]率いる[[オーストリア大公国|オーストリア軍]]が、[[アンベルク|アンベルク市]]と[[バイエルン選帝侯領|バイエルン軍]]の冬営を奇襲し、守備にあたっていたバイエルン軍を潰走させた後、首都である[[ミュンヘン]]を攻略する<ref>"War of the Austrian Succession (1740-1748)", in ''Wars That Changed History: 50 of the World's Greatest Conflicts: 50 of the World's Greatest Conflicts'', ed. by Spencer C. Tucker (ABC-CLIO, 2015) p214</ref>。 |
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* [[1月8日]] - [[ワルシャワ]]で、[[グレートブリテン王国|イギリス]]、オーストリア、[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ]]、[[ザクセン選帝侯領|ザクセン選帝侯]]が{{仮リンク|ワルシャワ条約 (1745年)|en|Treaty of Warsaw (1745)}}([[四国同盟]])を結び、[[国事詔書]]を承認した<ref>"Treaty of Quadruple Alliance", ''International Military Alliances, 1648-2008'', ed. by Douglas M. Gibler (Congressional Quarterly Press, Oct 15, 2008) p94</ref>。 |
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* [[1月20日]] – バイエルン公国の陥落をもたらしたアンベルクでの壊滅的な敗北から2週間足らずののちに、[[選帝侯]](そして[[神聖ローマ皇帝]]を兼ねた)[[カール7世 (神聖ローマ皇帝)|カール・アルブレヒト]]が、痛風の悪化によって[[ニンフェンブルク宮殿]]で失意のまま、47歳で崩御する。成人済みの継承者がいない状態であった<ref>{{Cite journal|author=[[古川誠之]]|year=2005|title=年少者は18歳をもって選帝侯とみなされる--金印勅書7条1項における相続年齢の意味|url=https://waseda.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=1217&item_no=1&attribute_id=162&file_no=1|journal=早稲田大学大学院文学研究科紀要|volume=51|page=49-56}}</ref>。当時17歳であった、カール・アルブレヒトの息子、[[マクシミリアン3世ヨーゼフ (バイエルン選帝侯)|マクシミリアン3世ヨーゼフ]]が選帝侯位を嗣ぎ、同年4月にはオーストリアと[[フュッセン条約]]に調印、単独講和に踏み切った。 |
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* [[2月22日]] - [[ジャマイカ島]]の{{仮リンク|ジャマイカ植民地|en|Colony of Jamaica|label=白人植民地政府}}が、900人の黒人奴隷が計画していた白人住民相手の武装蜂起と虐殺を頓挫させる<ref>William Reed, ''The History of Sugar and Sugar-yielding Plants'' (Longmans, Green, and Co., 1866) p50</ref>。 |
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* [[ファイル:Bal des Ifs-galerie des glaces.jpg|サムネイル|『{{仮リンク|イチイの舞踏会|en|The Yew Tree Ball}}』― 2月25日から26日に渡って、ヴェルサイユで開催された[[仮面舞踏会]]。国王ルイ15世が従者たちと共に[[ヨーロッパイチイ]]の[[トピアリー]]に扮していたことからこの名がついた。また、この舞踏会はルイ15世がジャンヌ=アントワネット・ポワソン(のちの[[ポンパドゥール夫人|ポンパドゥール侯爵夫人]])と知り合ったきっかけでもあった。[[ルーヴル美術館]]蔵。]][[2月23日]] - [[ドーファン|フランス王太子]](ドーファン)の結婚式が[[ヴェルサイユ]]で行われる。[[ルイ15世 (フランス王)|ルイ15世]]の長子[[ルイ・フェルディナン (フランス王太子)|ルイ・フェルディナン]]と、スペイン国王[[フェリペ5世 (スペイン王)|フェリペ5世]]の娘[[マリー=テレーズ=ラファエル・ド・ブルボン|マリア・テレサ・ラファエラ]]の婚姻であった<ref>Marion F. Godfroy, ''Kourou and the Struggle for a French America'' (Springer, 2015) p193</ref>。王太子はフランス王位に就くことなく、[[1765年]]、父ルイ15世の死に遡ること8年前に薨去した。 |
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* [[2月27日]] - [[ピエール・ブーゲ]]が[[科学アカデミー (フランス)|フランス科学アカデミー]]に出席し、[[フランス科学アカデミーによる測地遠征]]によって集められた調査結果についての報告を行った。報告は、史上初の[[地球]]の円周についての正確な計測にも言及している<ref>Larrie D. Ferreiro, ''Measure of the Earth: The Enlightenment Expedition That Reshaped Our World'' (Basic Books, 2011) p253</ref>。ブーゲは調査の結果、地球の赤道周長は40,000.00キロ、[[極地]]から赤道までの距離はおよそ10,000キロであると結論づけた。この発表を受けて、アカデミーは後年[[メートル]]と[[メートル法]]を算定することとなる。 |
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* [[3月1日]] - [[ポーランド王国]]国王にして[[ザクセン選帝侯]]であった[[アウグスト3世 (ポーランド王)|アウグスト3世]]が[[神聖ローマ皇帝|皇帝選挙]]に立候補する。が、同年7月、トスカーナ大公フランシスコ(のちの[[フランツ1世 (神聖ローマ皇帝)|皇帝フランツ1世]])に選挙で敗れる<ref name=Fragile>Maureen Cassidy-Geiger, ''Fragile Diplomacy'' (Yale University Press, 2007) p66-74</ref>。 |
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*[[3月14日]](延享2年[[2月12日 (旧暦)|2月12日]]) - [[江戸]]で「六道火事」<ref name=":1">{{Cite book|和書|title=見る、読む、調べる 江戸時代年表|date=2007-10-6|publisher=[[小学館]]|pages=120|author=山本博文|isbn=9784096266069}}</ref>。死者1323人、焼失家屋2万8000棟。 |
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=== 4月~6月 === |
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* [[4月14日]](延享2年[[3月13日 (旧暦)|3月13日]]) - 将軍徳川吉宗、[[江戸城]]内[[紅葉山 (東京都)|紅葉山]]で[[講|法華八講]]を執行<ref name=":1" />。 |
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* [[5月11日]] - [[オーストリア継承戦争]]:[[フォントノワの戦い (1745年)|フォントノワの戦い]]。[[モーリス・ド・サックス]]率いる[[フランス王国|フランス]]軍が、[[ウィリアム・オーガスタス (カンバーランド公)|カンバーランド公ウィリアム・オーガスタス]]を中心とするイギリス・オランダ・オーストリア連合軍を破り、[[フランドル]]制圧を進める<ref name="Cassell's Chronology310311">{{cite book|last=Williams|first=Hywel|title=Cassell's Chronology of World History|url=https://archive.org/details/cassellschronolo0000will/page/310|url-access=registration|location=London|publisher=Weidenfeld & Nicolson|year=2005|isbn=0-304-35730-8|pages=[https://archive.org/details/cassellschronolo0000will/page/310 310–311]}}</ref>。イギリスの軍勢には{{仮リンク|ブラックウォッチ連隊|en|Black Watch}}も参加していた。これをもって[[国事軍]]は解散する。 |
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* [[6月2日]](延享2年[[5月3日 (旧暦)|5月3日]]) - [[大岡忠相]]、代官支配を罷免され、実質的権限を失う。[[ファイル:Hohenfriedeberg - Attack of Prussian Infantry - 1745.jpg|サムネイル|[[ホーエンフリートベルクの戦い]]で行進するプロイセンの[[巨人連隊]]。[[1913年]]、{{仮リンク|カール・レヒリング|en|Carl Röchling|label=}}作。]] |
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* [[6月4日]] - オーストリア継承戦争:[[ホーエンフリートベルクの戦い]]。プロイセン国王[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世]]率いる[[プロイセン王国|プロイセン]]軍が、[[カール・アレクサンダー・フォン・ロートリンゲン|カール公子]]率いる[[オーストリア大公国|オーストリア]]軍を破り、オーストリアによる[[シレジア|シュレジエン]]奪還を阻止する。この戦いをもってフリードリヒ2世は「フリードリヒ大王」と呼ばれるようになる。 |
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*[[6月16日]] - [[ジョージ王戦争]]:イギリス軍が[[ノバスコシア州|ノバスコシア]]の[[ケープ・ブレトン島]]をフランスから奪取<ref name="Cassell's Chronology310311" />。 |
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=== 7月~9月 === |
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* [[7月9日]] - [[7月の魔法使い|オーストリア継承戦争]]:[[メレの戦い]]。フランス軍が同盟軍に勝利し、同月11日には[[ヘント]]を、19日には[[ブルッヘ]]と[[アウデナールデ]]を占領した。 |
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* [[8月6日]]([[ユリウス暦]]7月26日)- イングランド、[[サリー (イングランド)|サリー]]で、記録上初の{{仮リンク|女子クリケットの歴史|en|History of women's cricket|label=女子クリケット}}の試合が行われる<ref name="CBH217218">{{cite book|last=Palmer|first=Alan|author2=Veronica|year=1992|title=The Chronology of British History|publisher=Century Ltd|location=London|pages=217–218|isbn=0-7126-5616-2}}</ref>。 |
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* [[File:Jacobite Standard (1745).svg|thumb|ジャコバイトの[[戦旗]](1745年)]][[8月19日]] -[[1745年ジャコバイト蜂起]]がスコットランド、{{仮リンク|グレンフィナン|en|Glenfinnan}}で起こる。 [[チャールズ・エドワード・ステュアート]]が自身の名を関する戦旗を翻す。 |
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*8月(延享2年8月) - [[文楽]]『[[夏祭浪花鑑]]』初演。 |
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* [[9月1日]] - [[サンクトペテルブルク]]で[[エカチェリーナ2世 (ロシア皇帝)|エカチェリーナ2世]]と[[ピョートル3世 (ロシア皇帝)|ピョートル3世]]が結婚。 |
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* [[9月11日]] - [[1745年ジャコバイト蜂起]] - ジャコバイト軍が[[エディンバラ]]に入城。6日後、チャールズ・エドワード・ステュアートは彼の父、[[ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート]]がスコットランド王ジェームズ8世であると宣言する<ref name="Cassell's Chronology310311" />。 |
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* [[9月12日]] - [[トスカーナ大公国|トスカーナ]][[トスカーナの支配者一覧|大公]][[フランツ1世 (神聖ローマ皇帝)|フランチェスコ・ステファーノ]]が、妻であった[[マリア・テレジア]]の支援を受けつつ、9人の[[選帝侯]]([[バイエルン大公|バイエルン]]、[[ハノーファー君主一覧|ハノーヴァー]]、[[ボヘミア王|ボヘミア]]、[[ブランデンブルク辺境伯領|ブランデンブルク]]、[[マインツ大司教|マインツ]]、[[ライン宮中伯|プファルツ]]、[[ザクセン選帝侯|ザクセン]]、[[トリーア選帝侯|トリーア]]、[[ケルン大司教|ケルン]])の投票を経てフランツ1世として[[神聖ローマ皇帝]]に即位する。フランツは、[[ハプスブルク家]]の仇敵であり、同年1月20日に崩御したバイエルン大公[[カール7世 (神聖ローマ皇帝)|カール・アルブレヒト]]の後継者となった。[[ファイル:Jean-Marc Nattier, Madame de Pompadour en Diane (1746).jpg|サムネイル|『ディアナに扮したポンパドゥール夫人』(1746) [[ジャン=マルク・ナティエ]]筆。]] |
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* [[9月14日]] - [[ポンパドゥール夫人]]が公式に[[公妾]]と認められ、[[ルイ15世 (フランス王)|ルイ15世]]の宮廷に入る。 |
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* [[9月16日]] - [[1745年ジャコバイト蜂起]]:"Canter of Coltbrigg" - エディンバラ近郊で、{{仮リンク|第13竜騎兵連隊 (イギリス)|en|13th Hussars|label=第13竜騎兵連隊}}と{{仮リンク|第14国王ハサー連隊(イギリス)|en|14th King's Hussars|label=第14ハサー連隊}}がジャコバイトから敗走する。 |
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* [[9月21日]] - 1745年ジャコバイト蜂起:{{仮リンク|プレストンパンズの戦い|en|Battle of Prestonpans}}。イギリス軍がジャコバイトに敗れる。 |
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=== 10月~12月 === |
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[[ファイル:Tokugawa Ieshige.jpg|サムネイル|第9代将軍徳川家重。伝[[狩野派|狩野英信]]([[御用絵師]])。]] |
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* [[10月4日]] - [[フランツ1世 (神聖ローマ皇帝)|フランツ1世]]が[[神聖ローマ帝国]]皇帝に即位<ref>"War of Austrian Succession", in ''Germany at War: 400 Years of Military History'', ed. by David T. Zabecki (ABC-CLIO, 2014) p1371</ref>。 |
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* [[10月8日]] - ロシア皇帝[[エリザヴェータ (ロシア皇帝)|エリザヴェータ]]が[[ザクセン選帝侯領|ザクセン選帝侯]]に対し、[[プロイセン王国|プロイセン]]相手の戦争に支援を行うことに同意するが、実際にはすでに手遅れであった<ref name="Fragile2">Maureen Cassidy-Geiger, ''Fragile Diplomacy'' (Yale University Press, 2007) p66-74</ref>。 |
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* [[10月11日]] - ケスリーン(現[[ポーランド]]の[[コシャリン|コシャリン市]]) でプロイセンの科学者[[エヴァルト・ゲオルク・フォン・クライスト]]が史上初の[[キャパシタ]]を独自に発明。[[ライデン瓶]]と通称されるこの装置は、3ヶ月に同様の発明を行った[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ]]、[[ライデン]]の[[ピーテル・ファン・ミュッセンブルーク]]の功績に帰せられた。 |
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* [[10月14日]] - [[パンジャーブ]]、アムリットサルで、[[シク教|シク]]議会({{仮リンク|サルバット・カールサー|en|Sarbat Khalsa}})が、シク連合軍({{仮リンク|ダール・カールサー|en|Dal Khalsar}})<ref group="注釈">ダール・カールサーとは、18世紀頃に組織されたシク教団の軍隊組織。12の{{仮リンク|ミシル|en|misl}}と呼ばれるシク国家の連合であった。</ref> の本格的な再編成を、{{仮リンク|ナワーブ・カプール・シング|en|Nawab Kapur Singh}}将軍の指揮下の元、25の騎兵連隊と援軍を以って行うことを決定する <ref>Mahinder N. Gulati, ''Comparative Religious And Philosophies: Anthropomorphlsm And Divinity'' (Atlantic Publishers, 2008) p307</ref>。(当時、シクの勢力圏は、[[バルーチスターン]]の[[アフシャール朝]]と接していた。) |
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* [[10月20日]] - 徳川吉宗、将軍職を辞し、[[西の丸]]に移る。「[[享保の改革]]」の終わり([[1735年]]、[[享保]]20年をもって終わりとする説もある)。 |
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* [[11月1日]] - 教皇[[ベネディクトゥス14世 (ローマ教皇)|ベネディクトゥス14世]]が[[回勅]]"''[[:en:Vix pervenit|Vix pervenit]]''"(「高利貸し[<nowiki/>[[高利貸し|ウスラ]]]とその他の不正な利得について」)を公布する。[[利息]]の徴収は[[ローマカトリック教会]]に背く罪であると避難する内容であった<ref>Mark Anielski, ''The Economics of Happiness: Building Genuine Wealth'' (New Society Publishers, 2007) p197</ref>。 |
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* [[11月2日]] - [[松平乗邑]]、新たに将軍となった[[徳川家重]]によって[[老中]]職を罷免され、隠居を命じられる。 |
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* [[11月8日]] - 1745年ジャコバイト蜂起:「いとしのチャールズ王子」として知られる[[チャールズ・エドワード・ステュアート]]が、[[ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート|彼の父]]を[[ジャコバイト王位継承者の一覧|王位]]に就けんがための戦争を開始して以来、初めて[[スコットランド]]から[[イングランド]]に越境する。[[カンブリア (イングランド)|カンブリア]]、{{仮リンク|ロングタウン (カンブリア州)|en|Longtown, Cumbria|label=ロングタウン}}に到着したチャールズは、近隣の村であったRddingsで一夜を過ごし、明くる日には軍勢を率いて[[エデン川]]右岸を進軍していった<ref name="Buckler">"The White Rose on the Border", by Alison Buckler, in ''The Gentleman's Magazine'' (July 1896) p28</ref>。 |
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* 11月23日 - [[オーストリア継承戦争]]:[[ヘンネルスドルフの戦い]]。[[ハンス・ヨアヒム・フォン・ツィーテン|ツィーテン将軍]]の指揮のもと、プロイセン軍がザクセン軍を急襲し勝利。この敗戦によって、ザクセンの同盟軍であったオーストリアの軍勢が[[ベーメン]]へと撤退する。 |
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* [[11月28日]] - [[ジョージ王戦争]]:[[フランス陸軍|フランス]]と{{仮リンク|ワバナキ連邦|en|Wabanaki Confederacy}}([[ミクマク|ミクマク族]]、{{仮リンク|マリシート|en|Maliseet|label=マリシート族}}、[[パサマクォディ|パサマクォディ族]]、[[アベナキ族]]、{{仮リンク|ペノブスコット|en|Penobscot|label=ペノブスコット族}})の連合軍が[[サラトガ郡 (ニューヨーク州)|サラトガ要塞]](現[[ニューヨーク州]]、{{仮リンク|シュイラーヴィル (ニューヨーク州)|en|Schuylerville, New York|label=シュイラーヴィル}})の[[英領アメリカ|イギリス植民地]]を破壊し、要塞と周囲の建物を焼き討ちにし、15人を殺害した<ref>David R. Starbuck, ''The Great Warpath: British Military Sites from Albany to Crown Point'' (University Press of New England, 1999) p28</ref>。他103名の生存者は捕虜とされた。 |
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* [[ファイル:William_Hogarth_007.jpg|代替文=ホガースの『衛兵隊のフィンチリーへの行進』|右|サムネイル|『{{仮リンク|衛兵隊のフィンチリーへの行進|en|The March of the Guards to Finchley}}』、[[ウィリアム・ホガース]]筆。ジャコバイト軍からロンドンを守るべく兵士が召集された。]][[12月4日]] - 1745年ジャコバイト蜂起:スコットランド人のジャコバイト軍がイングランド、[[ダービー (イギリス)|ダービー]]の南端の村、スワークストーンまで侵攻<ref name=":0">{{Cite journal|author=[[浦田早苗]]|year=2010|title=英国ジャコバイト紀行|url=http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/29802/jhg068-01.pdf|journal=駒澤大學法學部研究紀要|volume=68|page=112-94}}</ref>。この報を受けて[[ロンドン]]は恐慌状態に陥ったが、ジャコバイトの軍勢はこの2日後に撤退を開始した<ref name="Cassell's Chronology3103112">{{cite book|last=Williams|first=Hywel|title=Cassell's Chronology of World History|url=https://archive.org/details/cassellschronolo0000will/page/310|url-access=registration|location=London|publisher=Weidenfeld & Nicolson|year=2005|isbn=0-304-35730-8|pages=[https://archive.org/details/cassellschronolo0000will/page/310 310–311]}}</ref>。[[トレント川]]流域に、このできごとを記念した石碑が作られた<ref name=":0" />。 |
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* [[12月15日]] - オーストリア継承戦争:[[ケッセルスドルフの戦い]]。[[レオポルト1世 (アンハルト=デッサウ侯)|デッサウ侯]]率いるプロイセン軍が、[[ザクセン選帝侯領|ザクセン]]とオーストリア(実際にはほぼザクセンのみであった)の軍勢を潰走させる。 |
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* [[12月17日]] - ザクセンの首都[[ドレスデン]]陥落<ref name="Fragile2" />、プロイセン国王[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世]]が同市に入城する。 |
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* [[12月18日]] - 1745年ジャコバイト蜂起: {{仮リンク|クリフトン・ムーアの戦い|en|Clifton Moor Skirmish}} - ジャコバイトが[[イギリス軍]]に勝利<ref name="Cassell's Chronology3103112" />。イングランド本土で[[正規軍]]同士で行われた最後の戦闘となった<ref group="注釈">ただし、[[バトル・オブ・ブリテン]]の最中に発生した、[[ドイツ空軍 (国防軍)|ドイツ空軍]]パイロットと{{仮リンク|ロンドン・アイリッシュ小銃兵連隊|en|London Irish Rifles}}が繰り広げた{{仮リンク|グレイブニー・マーシュの戦い|en|Battle of Graveney Marsh}}を除いた場合。</ref>。 |
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* [[12月23日]] - 1745年ジャコバイト蜂起:{{仮リンク|インヴァルリーの戦い (1745年)|en|Battle of Inverurie (1745)|label=インヴァルリーの戦い}} - ジャコバイトがイギリス軍に勝利。 |
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* [[:en:December_25|12月25日]] - [[ドレスデン条約]]締結。[[第二次シュレージエン戦争]]プ終結しロイセンによる[[シュレジエン]]領有と神聖ローマ皇帝フランツ1世承認が確認された。 |
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* [[12月28日]] - [[イスタンブール]]で[[火災]]が5日間に渡って続く<ref>{{Cite web|url=https://istanbultarihi.ist/393-istanbul-fires-during-the-ottoman-period-and-their-effect-on-the-citys-topography|title=ISTANBUL FIRES DURING THE OTTOMAN PERIOD AND THEIR EFFECT ON THE CITY’S TOPOGRAPHY|accessdate=2021-12-21|publisher=History of Istanbul - Mehmet Akif Aydın|author=Kenan Yıldız|language=en}}</ref>。 |
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== 誕生 == |
== 誕生 == |
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{{see also|Category:1745年生}} |
{{see also|Category:1745年生}} |
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<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> |
[[ファイル:Ino Tadataka stamp.jpg|サムネイル|伊能忠敬 元絵は青木勝次郎画]]<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> |
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* ([[英祖 (朝鮮王)|英祖]]21年) - [[金弘道]]、[[李氏朝鮮]]の[[画家]](+ [[1805年]]以降?) |
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* [[2月11日]]([[延享]]2年[[1月11日 (旧暦)|1月11日]]) - [[伊能忠敬]]、地理学者(+ [[1818年]]) |
* [[2月11日]]([[延享]]2年[[1月11日 (旧暦)|1月11日]]) - [[伊能忠敬]]、地理学者(+ [[1818年]]) |
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* [[2月18日]] - [[アレッサンドロ・ボルタ]]、[[イタリア]]の[[物理学者]](+ [[1827年]]) |
* [[2月18日]] - [[アレッサンドロ・ボルタ]]、[[イタリア]]の[[物理学者]](+ [[1827年]]) |
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* [[2月20日]] - [[ヨハン・ペーター・ザーロモン]]、[[指揮者]]・[[作曲家]]・[[ヴァイオリニスト]](+ [[1815年]]) |
* [[2月20日]] - [[ヨハン・ペーター・ザーロモン]]、[[指揮者]]・[[作曲家]]・[[ヴァイオリニスト]](+ [[1815年]]) |
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*[[2月24日]] - [[フョードル・ウシャコフ]]、[[ロシア帝国]]の[[海軍大将|提督]]・[[守護聖人]](+[[1817年]]) |
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* [[7月15日]] - [[ジャン=ピエール・ノルブラン・ド・ラ・グルデーヌ]]、[[画家]]・[[彫刻家]](+ [[1830年]]) |
* [[7月15日]] - [[ジャン=ピエール・ノルブラン・ド・ラ・グルデーヌ]]、[[画家]]・[[彫刻家]](+ [[1830年]]) |
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*月日不明 - [[長谷川宣以]]、[[旗本]]・[[火付盗賊改方|火付盗賊改役]]、『[[鬼平犯科帳]]』主人公のモデル(+ [[1795年]]) |
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*月日不明 - トマス・ペテルス、[[オランダ]]の[[スーパーセンテナリアン]](+ [[1857年]]) |
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{{Clear}} |
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== 死去 == |
== 死去 == |
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{{see also|Category:1745年没}} |
{{see also|Category:1745年没}} |
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<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> |
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->[[ファイル:Robert Walpole, 1st Earl of Orford by Arthur Pond.jpg|サムネイル|ロバート・ウォルポール。{{仮リンク|アーサー・ポンド|en|Arthur Pond|label=}}筆。]] |
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*[[3月18日]] - [[ロバート・ウォルポール]]、[[イギリスの首相|イギリスの初代首相]](* [[1676年]]) |
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* [[5月9日]] - [[トマソ・アントニオ・ヴィターリ]]、[[ヴァイオリニスト]]・[[作曲家]](* [[1663年]]) |
* [[5月9日]] - [[トマソ・アントニオ・ヴィターリ]]、[[ヴァイオリニスト]]・[[作曲家]](* [[1663年]]) |
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* [[5月30日]] - [[ヨハン・アダム・クルムス]]、[[解剖学者]](* [[1689年]]) |
* [[5月30日]] - [[ヨハン・アダム・クルムス]]、[[解剖学者]](* [[1689年]]) |
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* [[10月19日]] - [[ジョナサン・スウィフト]]、[[作家]](* [[1667年]]) |
* [[10月19日]] - [[ジョナサン・スウィフト]]、[[作家]](* [[1667年]]) |
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*[[12月23日]] - [[ヤン・ディスマス・ゼレンカ]]、作曲家(*[[1679年]]) |
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== 脚注 == |
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{{Cite web|url=https://www.weekly-economist.com/2015/06/02/%E7%89%B9%E9%9B%86-%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%8F%B2%E3%82%92%E5%8B%95%E3%81%8B%E3%81%99%E8%81%96%E6%9B%B8%E3%81%A8%E9%87%91%E5%88%A9-2015%E5%B9%B46%E6%9C%882%E6%97%A5%E5%8F%B7/#:~:text=%E9%87%91%E5%88%A9%E3%81%AF%E3%83%A9%E3%83%86%E3%83%B3%E8%AA%9E%E3%81%A7%E3%80%8C%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%A9,%E9%AB%98%E5%88%A9%E3%80%8D%E3%81%A8%E8%A8%B3%E3%81%95%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%80%82|title=特集:世界史を動かす聖書と金利 2015年6月2日号|accessdate=2021-03-01|publisher=週間エコノミスト|author=[[柳沢哲哉]]|date=2015-06-02}} |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
2021年12月21日 (火) 12:30時点における版
千年紀: | 2千年紀 |
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世紀: | 17世紀 - 18世紀 - 19世紀 |
十年紀: | 1720年代 1730年代 1740年代 1750年代 1760年代 |
年: | 1742年 1743年 1744年 1745年 1746年 1747年 1748年 |
1745年(1745 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる平年。
他の紀年法
- 干支 : 乙丑
- 日本
- 中国
- 朝鮮
- ベトナム
- 仏滅紀元 : 2287年 - 2288年
- イスラム暦 : 1157年 - 1158年
- ユダヤ暦 : 5505年 - 5506年
- ユリウス暦 : 1744年12月21日 - 1745年12月20日
カレンダー
できごと
- 日本
- アラビア - ワッハーブ運動 - ムハンマド・イブン・アブドゥルワッハーブがサウード家と盟約を結ぶ。
1月~3月
- 1月7日 - オーストリア継承戦争:陸軍元帥カール・ヨーゼフ・バッチャーニ率いるオーストリア軍が、アンベルク市とバイエルン軍の冬営を奇襲し、守備にあたっていたバイエルン軍を潰走させた後、首都であるミュンヘンを攻略する[2]。
- 1月8日 - ワルシャワで、イギリス、オーストリア、オランダ、ザクセン選帝侯がワルシャワ条約 (1745年)(四国同盟)を結び、国事詔書を承認した[3]。
- 1月20日 – バイエルン公国の陥落をもたらしたアンベルクでの壊滅的な敗北から2週間足らずののちに、選帝侯(そして神聖ローマ皇帝を兼ねた)カール・アルブレヒトが、痛風の悪化によってニンフェンブルク宮殿で失意のまま、47歳で崩御する。成人済みの継承者がいない状態であった[4]。当時17歳であった、カール・アルブレヒトの息子、マクシミリアン3世ヨーゼフが選帝侯位を嗣ぎ、同年4月にはオーストリアとフュッセン条約に調印、単独講和に踏み切った。
- 2月22日 - ジャマイカ島の白人植民地政府が、900人の黒人奴隷が計画していた白人住民相手の武装蜂起と虐殺を頓挫させる[5]。
- 2月23日 - フランス王太子(ドーファン)の結婚式がヴェルサイユで行われる。ルイ15世の長子ルイ・フェルディナンと、スペイン国王フェリペ5世の娘マリア・テレサ・ラファエラの婚姻であった[6]。王太子はフランス王位に就くことなく、1765年、父ルイ15世の死に遡ること8年前に薨去した。
- 2月27日 - ピエール・ブーゲがフランス科学アカデミーに出席し、フランス科学アカデミーによる測地遠征によって集められた調査結果についての報告を行った。報告は、史上初の地球の円周についての正確な計測にも言及している[7]。ブーゲは調査の結果、地球の赤道周長は40,000.00キロ、極地から赤道までの距離はおよそ10,000キロであると結論づけた。この発表を受けて、アカデミーは後年メートルとメートル法を算定することとなる。
- 3月1日 - ポーランド王国国王にしてザクセン選帝侯であったアウグスト3世が皇帝選挙に立候補する。が、同年7月、トスカーナ大公フランシスコ(のちの皇帝フランツ1世)に選挙で敗れる[8]。
- 3月14日(延享2年2月12日) - 江戸で「六道火事」[9]。死者1323人、焼失家屋2万8000棟。
4月~6月
- 4月14日(延享2年3月13日) - 将軍徳川吉宗、江戸城内紅葉山で法華八講を執行[9]。
- 5月11日 - オーストリア継承戦争:フォントノワの戦い。モーリス・ド・サックス率いるフランス軍が、カンバーランド公ウィリアム・オーガスタスを中心とするイギリス・オランダ・オーストリア連合軍を破り、フランドル制圧を進める[10]。イギリスの軍勢にはブラックウォッチ連隊も参加していた。これをもって国事軍は解散する。
- 6月2日(延享2年5月3日) - 大岡忠相、代官支配を罷免され、実質的権限を失う。
- 6月4日 - オーストリア継承戦争:ホーエンフリートベルクの戦い。プロイセン国王フリードリヒ2世率いるプロイセン軍が、カール公子率いるオーストリア軍を破り、オーストリアによるシュレジエン奪還を阻止する。この戦いをもってフリードリヒ2世は「フリードリヒ大王」と呼ばれるようになる。
- 6月16日 - ジョージ王戦争:イギリス軍がノバスコシアのケープ・ブレトン島をフランスから奪取[10]。
7月~9月
- 7月9日 - オーストリア継承戦争:メレの戦い。フランス軍が同盟軍に勝利し、同月11日にはヘントを、19日にはブルッヘとアウデナールデを占領した。
- 8月6日(ユリウス暦7月26日)- イングランド、サリーで、記録上初の女子クリケットの試合が行われる[11]。
- 8月19日 -1745年ジャコバイト蜂起がスコットランド、グレンフィナンで起こる。 チャールズ・エドワード・ステュアートが自身の名を関する戦旗を翻す。
- 8月(延享2年8月) - 文楽『夏祭浪花鑑』初演。
- 9月1日 - サンクトペテルブルクでエカチェリーナ2世とピョートル3世が結婚。
- 9月11日 - 1745年ジャコバイト蜂起 - ジャコバイト軍がエディンバラに入城。6日後、チャールズ・エドワード・ステュアートは彼の父、ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアートがスコットランド王ジェームズ8世であると宣言する[10]。
- 9月12日 - トスカーナ大公フランチェスコ・ステファーノが、妻であったマリア・テレジアの支援を受けつつ、9人の選帝侯(バイエルン、ハノーヴァー、ボヘミア、ブランデンブルク、マインツ、プファルツ、ザクセン、トリーア、ケルン)の投票を経てフランツ1世として神聖ローマ皇帝に即位する。フランツは、ハプスブルク家の仇敵であり、同年1月20日に崩御したバイエルン大公カール・アルブレヒトの後継者となった。
- 9月14日 - ポンパドゥール夫人が公式に公妾と認められ、ルイ15世の宮廷に入る。
- 9月16日 - 1745年ジャコバイト蜂起:"Canter of Coltbrigg" - エディンバラ近郊で、第13竜騎兵連隊と第14ハサー連隊がジャコバイトから敗走する。
- 9月21日 - 1745年ジャコバイト蜂起:プレストンパンズの戦い。イギリス軍がジャコバイトに敗れる。
10月~12月
- 10月4日 - フランツ1世が神聖ローマ帝国皇帝に即位[12]。
- 10月8日 - ロシア皇帝エリザヴェータがザクセン選帝侯に対し、プロイセン相手の戦争に支援を行うことに同意するが、実際にはすでに手遅れであった[13]。
- 10月11日 - ケスリーン(現ポーランドのコシャリン市) でプロイセンの科学者エヴァルト・ゲオルク・フォン・クライストが史上初のキャパシタを独自に発明。ライデン瓶と通称されるこの装置は、3ヶ月に同様の発明を行ったオランダ、ライデンのピーテル・ファン・ミュッセンブルークの功績に帰せられた。
- 10月14日 - パンジャーブ、アムリットサルで、シク議会(サルバット・カールサー)が、シク連合軍(ダール・カールサー)[注釈 1] の本格的な再編成を、ナワーブ・カプール・シング将軍の指揮下の元、25の騎兵連隊と援軍を以って行うことを決定する [14]。(当時、シクの勢力圏は、バルーチスターンのアフシャール朝と接していた。)
- 10月20日 - 徳川吉宗、将軍職を辞し、西の丸に移る。「享保の改革」の終わり(1735年、享保20年をもって終わりとする説もある)。
- 11月1日 - 教皇ベネディクトゥス14世が回勅"Vix pervenit"(「高利貸し[ウスラ]とその他の不正な利得について」)を公布する。利息の徴収はローマカトリック教会に背く罪であると避難する内容であった[15]。
- 11月2日 - 松平乗邑、新たに将軍となった徳川家重によって老中職を罷免され、隠居を命じられる。
- 11月8日 - 1745年ジャコバイト蜂起:「いとしのチャールズ王子」として知られるチャールズ・エドワード・ステュアートが、彼の父を王位に就けんがための戦争を開始して以来、初めてスコットランドからイングランドに越境する。カンブリア、ロングタウンに到着したチャールズは、近隣の村であったRddingsで一夜を過ごし、明くる日には軍勢を率いてエデン川右岸を進軍していった[16]。
- 11月23日 - オーストリア継承戦争:ヘンネルスドルフの戦い。ツィーテン将軍の指揮のもと、プロイセン軍がザクセン軍を急襲し勝利。この敗戦によって、ザクセンの同盟軍であったオーストリアの軍勢がベーメンへと撤退する。
- 11月24日(延享2年11月2日) - 徳川家重が将軍宣下によって正式に江戸幕府第9代将軍となる。
- 11月28日 - ジョージ王戦争:フランスとワバナキ連邦(ミクマク族、マリシート族、パサマクォディ族、アベナキ族、ペノブスコット族)の連合軍がサラトガ要塞(現ニューヨーク州、シュイラーヴィル)のイギリス植民地を破壊し、要塞と周囲の建物を焼き討ちにし、15人を殺害した[17]。他103名の生存者は捕虜とされた。
- 12月4日 - 1745年ジャコバイト蜂起:スコットランド人のジャコバイト軍がイングランド、ダービーの南端の村、スワークストーンまで侵攻[18]。この報を受けてロンドンは恐慌状態に陥ったが、ジャコバイトの軍勢はこの2日後に撤退を開始した[19]。トレント川流域に、このできごとを記念した石碑が作られた[18]。
- 12月15日 - オーストリア継承戦争:ケッセルスドルフの戦い。デッサウ侯率いるプロイセン軍が、ザクセンとオーストリア(実際にはほぼザクセンのみであった)の軍勢を潰走させる。
- 12月17日 - ザクセンの首都ドレスデン陥落[13]、プロイセン国王フリードリヒ2世が同市に入城する。
- 12月18日 - 1745年ジャコバイト蜂起: クリフトン・ムーアの戦い - ジャコバイトがイギリス軍に勝利[19]。イングランド本土で正規軍同士で行われた最後の戦闘となった[注釈 2]。
- 12月23日 - 1745年ジャコバイト蜂起:インヴァルリーの戦い - ジャコバイトがイギリス軍に勝利。
- 12月25日 - ドレスデン条約締結。第二次シュレージエン戦争プ終結しロイセンによるシュレジエン領有と神聖ローマ皇帝フランツ1世承認が確認された。
- 12月28日 - イスタンブールで火災が5日間に渡って続く[20]。
誕生
→「Category:1745年生」も参照
- 2月11日(延享2年1月11日) - 伊能忠敬、地理学者(+ 1818年)
- 2月18日 - アレッサンドロ・ボルタ、イタリアの物理学者(+ 1827年)
- 2月20日 - ヨハン・ペーター・ザーロモン、指揮者・作曲家・ヴァイオリニスト(+ 1815年)
- 2月24日 - フョードル・ウシャコフ、ロシア帝国の提督・守護聖人(+1817年)
- 7月15日 - ジャン=ピエール・ノルブラン・ド・ラ・グルデーヌ、画家・彫刻家(+ 1830年)
- 月日不明 - 長谷川宣以、旗本・火付盗賊改役、『鬼平犯科帳』主人公のモデル(+ 1795年)
- 月日不明 - トマス・ペテルス、オランダのスーパーセンテナリアン(+ 1857年)
死去
→「Category:1745年没」も参照
- 3月18日 - ロバート・ウォルポール、イギリスの初代首相(* 1676年)
- 5月9日 - トマソ・アントニオ・ヴィターリ、ヴァイオリニスト・作曲家(* 1663年)
- 5月30日 - ヨハン・アダム・クルムス、解剖学者(* 1689年)
- 10月19日 - ジョナサン・スウィフト、作家(* 1667年)
- 12月23日 - ヤン・ディスマス・ゼレンカ、作曲家(*1679年)
脚注
注釈
- ^ ダール・カールサーとは、18世紀頃に組織されたシク教団の軍隊組織。12のミシルと呼ばれるシク国家の連合であった。
- ^ ただし、バトル・オブ・ブリテンの最中に発生した、ドイツ空軍パイロットとロンドン・アイリッシュ小銃兵連隊が繰り広げたグレイブニー・マーシュの戦いを除いた場合。
出典
- ^ 富永仲基【とみなが-なかもと】デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説
- ^ "War of the Austrian Succession (1740-1748)", in Wars That Changed History: 50 of the World's Greatest Conflicts: 50 of the World's Greatest Conflicts, ed. by Spencer C. Tucker (ABC-CLIO, 2015) p214
- ^ "Treaty of Quadruple Alliance", International Military Alliances, 1648-2008, ed. by Douglas M. Gibler (Congressional Quarterly Press, Oct 15, 2008) p94
- ^ 古川誠之 (2005). “年少者は18歳をもって選帝侯とみなされる--金印勅書7条1項における相続年齢の意味”. 早稲田大学大学院文学研究科紀要 51: 49-56 .
- ^ William Reed, The History of Sugar and Sugar-yielding Plants (Longmans, Green, and Co., 1866) p50
- ^ Marion F. Godfroy, Kourou and the Struggle for a French America (Springer, 2015) p193
- ^ Larrie D. Ferreiro, Measure of the Earth: The Enlightenment Expedition That Reshaped Our World (Basic Books, 2011) p253
- ^ Maureen Cassidy-Geiger, Fragile Diplomacy (Yale University Press, 2007) p66-74
- ^ a b 山本博文『見る、読む、調べる 江戸時代年表』小学館、2007年10月6日、120頁。ISBN 9784096266069。
- ^ a b c Williams, Hywel (2005). Cassell's Chronology of World History. London: Weidenfeld & Nicolson. pp. 310–311. ISBN 0-304-35730-8
- ^ Palmer, Alan; Veronica (1992). The Chronology of British History. London: Century Ltd. pp. 217–218. ISBN 0-7126-5616-2
- ^ "War of Austrian Succession", in Germany at War: 400 Years of Military History, ed. by David T. Zabecki (ABC-CLIO, 2014) p1371
- ^ a b Maureen Cassidy-Geiger, Fragile Diplomacy (Yale University Press, 2007) p66-74
- ^ Mahinder N. Gulati, Comparative Religious And Philosophies: Anthropomorphlsm And Divinity (Atlantic Publishers, 2008) p307
- ^ Mark Anielski, The Economics of Happiness: Building Genuine Wealth (New Society Publishers, 2007) p197
- ^ "The White Rose on the Border", by Alison Buckler, in The Gentleman's Magazine (July 1896) p28
- ^ David R. Starbuck, The Great Warpath: British Military Sites from Albany to Crown Point (University Press of New England, 1999) p28
- ^ a b 浦田早苗 (2010). “英国ジャコバイト紀行”. 駒澤大學法學部研究紀要 68: 112-94 .
- ^ a b Williams, Hywel (2005). Cassell's Chronology of World History. London: Weidenfeld & Nicolson. pp. 310–311. ISBN 0-304-35730-8
- ^ Kenan Yıldız. “ISTANBUL FIRES DURING THE OTTOMAN PERIOD AND THEIR EFFECT ON THE CITY’S TOPOGRAPHY” (英語). History of Istanbul - Mehmet Akif Aydın. 2021年12月21日閲覧。
参考文献
柳沢哲哉 (2015年6月2日). “特集:世界史を動かす聖書と金利 2015年6月2日号”. 週間エコノミスト. 2021年3月1日閲覧。