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'''ポール・ニザン'''(Paul Nizan, [[1905年]][[2月7日]] - [[1940年]][[5月23日]])は[[フランス]]の[[家]]、[[哲学者]]。フランスの人口学・[[歴史学]]・族[[人類学]]者の[[エマニュエル・トッド]]は孫にあたる
'''ポール・ニザン'''(Paul Nizan[[1905年]][[2月7日]] - [[1940年]][[5月23日]])は[[フランス]]の[[小説家]]、[[ジャーナリスト]][[政治活動家]][[フランス共産党|共産党]]員)


[[リセ]]から[[高等師範学校 (フランス)|高等師範学校]]にかけて[[ジャン=ポール・サルトル|サルトル]]とともに学ぶ。1926年に学業・執筆活動を中断して政治家の子息の[[家庭教師]]として[[イギリス帝国|大英帝国]]の支配下にあった[[アデン]]([[イエメン]]共和国)に滞在し、1931年に[[帝国主義]]・[[植民地主義]]、[[資本主義]]的[[搾取#マルクス主義における用法|搾取]]・[[疎外#マルクスによる概念|疎外]]、[[経済人|ホモ・エコノミクス]]、[[ブルジョワジー]]を辛辣に批判する『アデン アラビア』を発表した。1927年に共産党に入党。[[ソビエト連邦]]が[[国際連盟]]に加盟し、[[反ファシズム統一戦線]]の結成を提案するなど対外政策を大きく転換させた時期に同国に滞在し、共産党の機関紙『リュマニテ』、『{{仮リンク|ス・ソワール|fr|Ce soir}}』の国際政治欄を担当するほか、[[国際革命作家同盟]]の機関誌『{{仮リンク|国際文学|fr|La Littérature internationale (revue)}}』のフランス語版、国際革命作家同盟のフランス支部として設立された[[革命作家芸術家協会]]の機関誌『{{仮リンク|コミューン (雑誌)|fr|Commune (revue)|label=コミューン}}』を編纂した。
==人物・経歴==
[[1905年]][[2月7日]]、[[アンドル=エ=ロワール県]][[トゥール (アンドル=エ=ロワール県)|トゥール]]で生まれる。


小説家として『アントワーヌ・ブロワイエ』、『トロイの木馬』、『陰謀』の3作を発表し、[[社会主義リアリズム]]の作品『陰謀』は1938年の[[アンテラリエ賞]]を受賞した。
[[1917年]]、名門[[アンリ4世校]]で[[ジャン=ポール・サルトル]]と出会う。その後サルトルとともに[[高等師範学校 (フランス)|高等師範学校]]に進んだ。ここで[[レイモン・アロン]]とも知り合う。[[1926年]]から[[1927年]]まで、[[イエメン]]のイギリス領[[アデン]]に家庭教師として滞在した。[[1927年]]、帰国後、アンリエットと結婚し、[[フランス共産党]]に入党した。[[1929年]]、[[アグレガシオン]](哲学)にサルトル、ボーヴォワールと同時に合格。[[1932年]]に大学の専任教授となった時、[[フランス共産党]]の候補者として選挙に出馬。折から開かれた[[ロマン・ロラン]]、[[アンリ・バルビュス]]、[[マクシム・ゴーリキー|ゴーリキー]]らのアムステルダム国際反戦大会を契機とする[[アムステルダム・プレイエル運動]]が広がる中、妻とともに、[[1934年]]のモスクワでの第1回作家会議から1年間の[[ソ連]]に滞在し、[[モスクワ]]の[[マルクス・エンゲルス研究所]]で作業するかたわら、フランスの作家の窓口となった。この間、雑誌『リテラチュール』、革命的作家芸術家協会(A.E.A.R)の機関紙『コミューヌ』、バルビュスの『ルモンド』、『ウーロップ』などに寄稿した。


[[第二次世界大戦|第二次大戦]]下、[[イギリス軍|英国軍]]の[[通訳]]・[[連絡将校]]として[[ダンケルクの戦い]]において戦死。[[独ソ不可侵条約]]の締結とこれに対する共産党の態度を批判して離党したために戦後、[[モーリス・トレーズ|トレーズ]]書記長や他の共産党員から裏切り者と非難され、サルトルらが抗議(ニザン事件)。作家としても20年にわたって忘れ去られていたが、1960年にサルトルが序文を付した『アントワーヌ・ブロワイエ』が再版されてから再評価が始まり、邦訳も1966年から1975年にかけて『ポール・ニザン著作集』全9巻・別巻2冊が刊行された。
[[1932年]]に出版された『番犬たち』では、御用哲学者たちを痛烈に批判した<ref>後掲鈴木道彦</ref>。同書は、そこで上げられた御用哲学者を自由を忘れた[[ブルジョア]]の番犬とし、例えば[[レオン・ブランシュヴィック]]は「ソルボンヌの[[番犬]]」と呼ばれた。


[[歴史学]]者・[[人口統計学]]者の[[エマニュエル・トッド]]は孫(娘アンヌ=マリーと作家・ジャーナリストの{{仮リンク|オリヴィエ・ドット|fr|Olivier Todd}}の子)にあたる。
[[ルイ・アラゴン]]、[[アンドレ・マルロー]]、[[ベルトルト・ブレヒト]]らとともに、[[1935年]]、反戦・反ファシズムを掲げた文化擁護国際作家会議を支えた。[[1935年]]から[[1937年]]まで当時のフランス共産党の機関紙「[[リュマニテ]]」、さらに[[1937年]]から[[1939年]]までフランス共産党系の新聞「ス・ソワール」に寄稿した。
[[スペイン内戦|スペイン市民戦争]]についても週刊「ルギャル」の国際通信員として取材、フランス共産党中央委員会理論機関誌『カイエ・デュ・ボルシェヴィズム』(後の『カイエ・デュ・コミュニズム』)にもレポートした。『陰謀』で[[1938年]]、[[アンテラリエ賞]]受賞。[[人民戦線]]の『ヴァンドルディ』にも寄稿した。しかし、1939年の[[独ソ不可侵条約|モロトフ=リッベントロップ協定]]によるフランス共産党内の混乱<ref>当時、フランスの民衆に大きな失望感が広がった。これについては、[[イリヤ・エレンブルグ]]の『パリ陥落』(日本語訳:淡徳三郎・成田精太共訳、万里閣、1951年ほか多数)のなかで描写されている。独ソ条約の各国共産党への打撃については、[[不破哲三]]『スターリンと大国主義』(新日本新書、1982年)の「独ソ条約路線の大国的おしつけ」にも触れられている。</ref>の中で、[[9月25日]]離党することになった。[[1940年]]の[[ナチス・ドイツのフランス侵攻]]に伴い、動員に応じて[[ダンケルクの戦い]]に配置されようとしていた[[5月23日]]に北フランスの[[パ=ド=カレー県]][[オードリュイク]]([[:fr:Audruicq|Audruicq]])で戦死した<ref>フランスでは、著作者等がフランスのために死亡したことが死亡証明書から判断される場合には、[[著作権]]の保護期間において「[[戦時加算 (著作権法)#「愛国殉職者特例」|愛国殉職者特例]]」が適用され、30年間の期間上乗せがあるが、その対象は[[1914年]]に[[戦死]]した詩人・思想家[[シャルル・ペギー]]、[[第二次世界大戦中]]に行方不明となった作家[[アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ]]以外見ることがなく、ニザンの名前を確認することができない。</ref>。


== 生涯 ==
==汚名と名誉回復==
[[1940年]]3月に、フランス共産党の[[モーリス・トレーズ]]書記長は、[[コミンテルン]]西欧ビューローの支配下にあった『国際展望』誌で、ニザンを裏切り者、警察のエージェントとして非難した。戦後の[[1949年]]に[[ルイ・アラゴン]]の自伝的小説『レ・コミュニスト』のなかでは、ニザンをモデルにした人物がスパイであるかのように描かれた。


=== 背景 ===
[[ジャン=ポール・サルトル]]は、ニザンの著書『アデン・アラビア』の復刻版(1960年)に序を書いて擁護した。さらに、[[1966年]]、アラゴンは、自著『レ・コミュニスト』改訂版の刊行に際して、ニザンに汚名を着せる部分を削除した。
ポール・ニザンは1905年2月7日、フランスの中部[[アンドル=エ=ロワール県]]の[[トゥール]]でピエール・ニザン(Pierre Nizan、1864-1930)とクレマンティーヌ・メトゥール(Clémentine Métour、1873-1951)の間にポール=イヴ・ニザン(Paul-Yves Nizan)として生まれた<ref name=":7">{{Cite web|title=Paul Nizan - Biographie|url=https://www.paul-nizan.fr/paul-nizan/paul-nizan-biographie|website=www.paul-nizan.fr|accessdate=2020-08-15|publisher=Groupe Interdisciplinaire d'Etudes Nizaniennes (G.I.E.N.)|language=fr}}</ref>。父方の祖父は[[分益小作|分益農]]、父は[[鉄道]][[技師]]で、1913年に[[昇進]]して[[ドルドーニュ県]][[ペリグー]]の[[工場]]に[[転勤]]になり、1917年に[[破壊活動|サボタージュ]]のため[[パリ]]に異動させられた<ref name=":0">{{Cite web|title=NIZAN Paul-Yves (NIZAN Paul, Pierre, Yves, Henri dit Paul-Yves)|url=https://maitron.fr/spip.php?article124042|website=maitron.fr|accessdate=2020-08-15|publisher=Maitron|author=John Steel|date=2017-05-25|language=fr}}</ref><ref name=":4">{{Cite web|title=Paul Nizan - Biographie|url=https://xn--rpubliquedeslettres-bzb.fr/nizan-paul-9782824903361.php|website=La République des Lettres|accessdate=2020-08-15|language=fr|publisher=|author=Nathalie Piégay}}</ref>。1933年発表の『アントワーヌ・ブロワイエ』は、[[労働者階級]]から勤労によって[[小ブルジョア|プチブルジョワ]]の地位を築いた父の人生をモデルにした小説である<ref name=":1">{{Cite book|title=Le destin littéraire de Paul Nizan et ses étapes successives : contribution à l'étude du mouvement littéraire en France de 1920 à 1940|date=|year=1970|publisher=Éditions Klincksieck|author=Jacqueline Leiner|chapter=Chapitre 1 : De la naissance au premier poème|language=fr|pages=21-23}}</ref>。


=== 学業・読書 ===
[[1967年]]、[[日本共産党]]中央委員会文化部世界[[革命文学]]選編集委員会は、ニザンの『トロイの木馬』([[野沢協]]訳、『アデン アラビア』も収録)を「[[世界革命文学選]]」の一冊として、同党と関係の深い[[新日本出版社]]から刊行した。フランス共産党がニザンの名誉回復を図るのは、1970年代の後半になってからだった<ref>[http://www.humanite.fr/2005-02-26_Politique_-Retour-sur-Nizan Anne Mathieu, « Retour sur Nizan » フランス共産党の新聞「リュマニテ」2005年2月26日]</ref>。
トゥールの[[小学校]]、次いでペリグーの[[中学校]]を卒業した後、1917年に[[アンリ4世校|リセ・アンリ=カトル]]に入学し、同じ1905年生まれの[[ジャン=ポール・サルトル]]と知り合った。通常は引き続き同校の[[グランゼコール準備級]]に進むところ、二人ともリセの校長との口論の結果、[[リセ・ルイ=ル=グラン]]に転校して準備級に進んだ<ref name=":0" /><ref name=":2">{{Cite book|title=Le destin littéraire de Paul Nizan et ses étapes successives : contribution à l'étude du mouvement littéraire en France de 1920 à 1940|date=|year=1970|publisher=Éditions Klincksieck|author=Jacqueline Leiner|language=fr|chapter=Chapitre 2 : Un adolescent très littéraire|pages=25-35}}</ref>。ニザンは同校の準備級で学ぶ傍ら、リセ・ルイ=ル=グランの[[エミール=オーギュスト・シャルティエ|アラン]]の[[哲学]]の講義などを受講し<ref name=":0" />、1924年にサルトルとともに[[高等師範学校 (フランス)|高等師範学校]]に入学した。高等師範学校の学生の部屋は同校の学生の[[俗語]]で「テュルヌ(thurne)」と呼ばれるが<ref>{{Cite web|title=Les thurnes|url=https://www.ens.psl.eu/des-campus-au-coeur-de-paris/traditions-et-particularismes/les-thurnes|website=www.ens.psl.eu|accessdate=2020-08-15|publisher=École normale supérieure (ENS)|language=fr}}</ref><ref>{{Cite web|title=Définitions : coturne|url=https://www.larousse.fr/dictionnaires/francais/coturne/19662|website=www.larousse.fr|accessdate=2020-08-15|language=fr|first=Éditions|publisher=Éditions Larousse}}</ref>、ニザンとサルトルは「同室(コ・テュルヌ、cothurne)」であった<ref name=":10">{{Cite web|title=Paul Nizan, N le maudit|url=https://www.lepoint.fr/livres/paul-nizan-n-le-maudit-09-02-2012-1433593_37.php|website=Le Point|date=2012-02-09|accessdate=2020-08-15|language=fr|publisher=|author=Jean-Paul Enthoven}}</ref><ref name=":3">{{Cite journal|和書|author=佐々木涇 |date=1977-12 |url=https://nagano.repo.nii.ac.jp/records/971 |title=ポール・ニザン論 : その個人的理由 |journal=長野大学紀要 |publisher=長野大学 |volume=7 |pages=61-76 |naid=120004951096 |CRID=1050282812542832640}}</ref>。


リセ在籍中の1922年に初めて[[詩]]を書き、書き直して他の詩と併せて1927年に{{仮リンク|リーデル出版社|fr|Éditions Rieder}}([[フランス大学出版局]]の前身)の顧問であった[[ジャン=リシャール・ブロック]]に送ることになるが、抒情的・幻想的な[[フランシス・ジャム]]や[[ジュール・シュペルヴィエル]]の影響を受けた作品であった<ref name=":1" />。また、ルイ=ル=グランでは[[象徴主義|象徴派]]の詩人[[シャルル・ボードレール|ボードレール]]、[[社会主義]]の詩人・思想家[[シャルル・ペギー]]を耽読する一方で、[[王党派#フランス|王党派]]・[[極右]]・[[ナショナリズム|国粋主義]]の[[アクション・フランセーズ|アクシオン・フランセーズ]]を結成した[[シャルル・モーラス]]に傾倒する教員に彼の作品を読むよう勧められ、後に一時期だが極右に関わるのは、こうした影響であったとされる<ref name=":1" />。このほか、リセから高等師範学校の時代にニザンが愛読した作家として、その影響が指摘されるのは[[ジュール・ラフォルグ]]、[[スタンダール]]、[[ジャン・ジロドゥ]]、[[ギュスターヴ・フローベール|フローベール]]、[[エミール・ゾラ]]、[[ギ・ド・モーパッサン|モーパッサン]]、[[ジョルジュ・デュアメル]]、[[アンドレ・ジッド]]、[[フョードル・ドストエフスキー|ドストエフスキー]]、[[ウィリアム・バトラー・イェイツ|イェイツ]]、[[プラトン]]、[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]、[[ヴァレリー・ラルボー]]、[[ルネ・デカルト|デカルト]]、[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]、[[ホメーロス]]、[[ポール・クローデル]]、[[ヘンリー・デイヴィッド・ソロー|H・D・ソロー]]、[[アンヌ・ルイーズ・ジェルメーヌ・ド・スタール|ド・スタール夫人]]、[[サン=ジョン・ペルス]]、[[ポール・ヴァレリー]]と、フランスのみならず、同時代の[[イギリス]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]、[[ドイツ]]、[[ロシア]]の作家から[[古代哲学]]まで広範に及んでいる<ref name=":2" />。
==根強い日本での人気==
日本では、[[1965年]]に[[鈴木道彦]]訳の『陰謀』が[[集英社]]の『世界文学全集 20世紀の文学』に収録されて以来、[[1966年]]から『ポール・ニザン著作集』(全11巻)が刊行され、[[2008年]]、[[池澤夏樹]]個人編集『世界文学全集』(河出書房新社)に[[小野正嗣]]訳の「アデン、アラビア」が収録されるなど、人知れず根強い人気がある。ちなみに、「アデン、アラビア」の英訳版は、1968年に初めて出版されている。


=== 模索の時期 ===
==エピソード==
[[ファイル:Paul Nizan 1924.jpg|サムネイル|248x248ピクセル|高等師範学校時代のポール・ニザン(1924年頃)]]
*[[原田宗典]]の作品集『優しくって少しばか』(集英社、1986年9月)所収のミステリー「ポール・ニザンを残して」は、[[1991年]][[6月17日]]、[[関西テレビ放送|関西テレビ]]『旅情サスペンス』でドラマ化([[柴俊夫]]、[[桃井かおり]]主演)され<ref>[http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-27488 ポールニザンを残して テレビドラマデータベース]</ref>、[[角川ホラー文庫]]『屑篭一杯の剃刀』([[1999年]])に収録された。
さらに、『自我礼拝』三部作{{efn|『自我礼拝』[[伊吹武彦]]訳(『新世界文学全集 第4巻』)[[河出書房新社|河出書房]]、1941年。}}などにより、かつては青年知識人の敬愛の的でありながら、後に極右的な思想に傾倒して批判されることになった[[モーリス・バレス]](「[[リテラチュール#バレス裁判 - ダダの終焉|バレス裁判]]」参照)の影響はシャルル・モーラスの影響以上に直接的であり、アクシオン・フランセーズから分離した{{仮リンク|ジョルジュ・ヴァロワ|fr|Georges Valois}}、バレスの息子{{仮リンク|フィリップ・バレス|fr|Philippe Barrès}}らによって結成された[[ファシズム]]政党{{仮リンク|ル・フェソー|fr|Le Faisceau}}に数か月だが参加し、同名の機関誌に寄稿した<ref name=":2" /><ref name=":3" />{{efn|フランス語の「フェソー(faisceau)」はファシズムの語源であるイタリア語の「[[ファッシ|ファッショ]](fascio)」に相当し、同団体は[[ベニート・ムッソリーニ|ムッソリーニ]]を支持したが、機関誌はまもなく廃刊になり、ヴァロワ自身もイタリア・ファシズムに幻滅して1927年に左派に転じ、1928年、共和派サンディカリスト政党を結成。ナチス・ドイツ占領下で[[レジスタンス運動]]に参加し、[[ベルゲン・ベルゼン強制収容所]]で死去した<ref>{{Cite journal|和書|author=深澤民司|month=12|year=1994|title=ファシズムとデカダンス - ジョルジュ・ヴァロワについての一考察|url=https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00224504-19941228-0307|journal=法學研究 : 法律・政治・社会|volume=67|issue=12|page=|pages=307-329|publisher=[[慶應義塾大学]]法学研究会|ISSN=03890538}}</ref><ref>{{Cite book|title=Ni gauche, ni droite : Les chassés-croisés idéologiques des intellectuels français et allemands dans l’Entre-deux-guerres|url=http://books.openedition.org/msha/19831|publisher=Maison des Sciences de l’Homme d’Aquitaine|date=2019-11-14|location=Pessac|isbn=978-2-85892-587-2|pages=103-121|first=Jean-Claude|last=Drouin|editor-first=Gilbert|editor-last=Merlio|year=|language=fr}}</ref><ref>{{Cite journal|author=Zeev Sternhell|year=1976|date=|title=Anatomie d'un mouvement fasciste en France : le faisceau de Georges Valois|url=https://www.persee.fr/doc/rfsp_0035-2950_1976_num_26_1_393652|journal=Revue française de science politique|volume=26|issue=1|page=|pages=5-40|language=fr|doi=10.3406/rfsp.1976.393652}}</ref>。}}。また、この関連で、『ル・フェソー』誌と詩誌『アルゴノート(''Argonautes''、[[金羊毛]]を探す冒険に乗り出した「[[アルゴー船]]の乗組員」の意)』が合併して創刊された『フリュイ・ヴェール(''Fruits Verts''、緑の果実)』誌にも参加した。これは、ジッド、ジロドゥ、[[ジュール・ロマン]]へのオマージュとして創刊された雑誌で、ニザンは短編、詩篇、[[マルセル・プルースト|プルースト]]論などを寄稿したが、これも2号で廃刊となった<ref name=":2" /><ref name=":3" /><ref>{{Cite web|title=Fruits Verts (1924)|url=http://www.revues-litteraires.com/articles.php?pg=959|website=www.revues-litteraires.com|accessdate=2020-08-15|publisher=Revues littéraires|language=fr}}</ref>。同様に4号で廃刊になった若手作家・芸術家の雑誌『無題評論(''La Revue sans titre'')』にはサルトルとともに参加し、後の『番犬たち』に通じる[[風刺]]的・体制批判的な「メリーランド(煙草)を2箱吸いながら恋人を解剖した医学生の哀歌(La complainte du carabin qui disséqua sa petite amie en fumant deux paquets de Maryland)」などを発表した<ref name=":2" />。


ニザンは極右への一時的な傾倒だけでなく、[[宗教]]に救いを見いだそうとして[[プロテスタント]]への[[改宗]]を考えたり、多くの[[カトリシズム|カトリック]]作家が訪れたことで知られる[[サルト県]][[ソレム (サルト県)|ソレム]]の[[ベネディクト会]]の[[修道院]]を訪れたり、さらには[[うつ病|鬱]]状態・[[神経症]]気味で[[スイス]]の[[サナトリウム]]に入ることすら考えたりするほどであった<ref name=":0" /><ref name=":2" /><ref name=":3" />。1925年10月には[[ピサ]]、[[フィレンツェ]]、[[ローマ]]と[[イタリア]]を「[[巡礼]]」した<ref name=":0" /><ref name=":3" />。
== 注・出典 ==
{{reflist}}


高等師範学校ではサルトルのほか、後の[[社会学]]者・哲学者の[[レイモン・アロン]](同じ1905年生まれ)、[[労働運動]]・[[ソビエト連邦]]史専門の歴史学者・[[マルクス主義]]者{{仮リンク|ジャン・ブリュア|fr|Jean Bruhat}}{{efn|邦訳に『ソヴェト連邦史』(小出峻訳、[[白水社]]〈[[文庫クセジュ]]〉1957年、改訂新版 1971年)、マルク・ピオロ(Marc Piolot)共著『フランス労働運動史 - [[フランス労働総同盟|労働総同盟]](CGT)小史』(小出峻訳、[[合同出版|合同出版社]]、1958年)などがある。}}と同期であり、後に{{仮リンク|労働社会学|fr|Sociologie du travail}}を提唱することになる{{仮リンク|ジョルジュ・フリードマン|fr|Georges Friedmann}}、およびマルクス主義者・[[翻訳]]家の{{仮リンク|ノルベール・ギュテルマン|fr|Norbert Guterman}}と親しかった<ref name=":0" />。ギュテルマンは同じ1924年に、[[ジョルジュ・ポリツェル]]、[[アンリ・ルフェーヴル]]らのマルクス主義哲学者とともに[[パリ大学|ソルボンヌ大学]]を拠点に、([[詩人]]・[[画家]]の[[マックス・ジャコブ]]の支援を得て)『哲学(''Philosophies'')』誌を創刊し、マルクス主義と[[ジークムント・フロイト|フロイト]]の[[精神分析学|精神分析]]の影響を受けた[[シュルレアリスム]]の若手作家[[ジャン・コクトー]]、[[ルネ・クルヴェル]]、[[ピエール・ドリュ=ラ=ロシェル|ピエール・ドリュ・ラ・ロシェル]]、[[ジュリアン・グリーン]]、[[フィリップ・スーポー]]らが寄稿していたが<ref>{{Cite web|title=Philosophies (1924-1925)|url=http://www.revues-litteraires.com/articles.php?lng=fr&pg=1552|website=www.revues-litteraires.com|accessdate=2020-08-15|publisher=Revues littéraires|language=fr}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://bibliothequekandinsky.centrepompidou.fr/clientbookline/service/reference.asp?output=PORTAL&INSTANCE=INCIPIO&DOCBASE=CGPP&DOCID=0468382|title=Philosophies (REVUE) / dir. Pierre Morhange|accessdate=2020-08-15|publisher=Bibliothèque Kandinsky - Centre Pompidou|language=fr}}</ref>、ニザンはこの時期にはまだ彼ら左派知識人の活動に直接参加することはなく、活動を共にするのは1927年の共産党入党後、特にポリツェル、ルフェーヴル、ギュテルマン、[[作家]]{{仮リンク|ピエール・モランジュ|fr|Pierre Morhange}}らが1929年に『マルクス主義評論(''Revue marxiste'')』誌を創刊したときからである<ref name=":5">{{Cite web|title=La Revue Marxiste (1929)|url=https://www.revues-litteraires.com/articles.php?lng=fr&pg=1792|website=www.revues-litteraires.com|accessdate=2020-08-15|publisher=Revues littéraires|language=fr}}</ref>。
{{Normdaten}}


=== 大英帝国支配下のアデン - 共産主義への傾倒 ===
{{DEFAULTSORT:にさん ほおる}}
[[ファイル:Aden postcard.jpg|サムネイル|240x240ピクセル|1910年頃のアデン(イエメン)]]
[[Category:フランスの小説家]]
1926年9月、ニザンは突然、学業も執筆活動も中断し、政治家{{仮リンク|アントナン・ベス|fr|Antonin Besse}}の子息の[[家庭教師]]として、1839年以来[[イギリス帝国|大英帝国]]の支配下にあった[[アデン]]<ref>{{Cite web|和書|title=二国間関係|url=https://www.ye.emb-japan.go.jp/aboutus_j.html|website=www.ye.emb-japan.go.jp|accessdate=2020-08-15|publisher=在イエメン日本国大使館 / Embassy of Japan in Yemen|author=難波充典|date=2010-03-20}}</ref>([[アデン湾]]に面する[[イエメン]]共和国の[[港湾都市]])に向かった。1927年5月まで同地に滞在することになるが、ここで目にしたのは期待した[[エキゾチシズム|異国情緒]]とは裏腹に、植民者の[[資本主義]]的[[搾取#マルクス主義における用法|搾取]]に苦しむ現地人の悲惨さであり、[[植民地]]という[[ブルジョワジー|ブルジョワ]]社会の縮図であった<ref name=":4" /><ref name=":3" />。

帰国後、彼は1931年に発表された抗議文書(パンフレ、[[:fr:Pamphlet|Pamphlet]]){{efn|[[ドレフュス事件]]におけるエミール・ゾラの『[[私は弾劾する]](''J'accuse… !'')』のような「パンフレ」は、[[フランス文学]]独自の伝統的なジャンルである<ref>{{Cite journal|和書|author=Miyagawa Akiko (宮川朗子)|month=12|year=2009|title=Stratégie du pamphlet : «J'accuse...!» d'Émile Zola et Je m'accuse... de Léon Bloy|url=https://doi.org/10.15027/29149|journal=広島大学大学院文学研究科論集|volume=69|page=|pages=61-77|publisher=[[広島大学]]大学院文学研究科|language=fr|ISSN=1347-7013}}</ref>。}}『アデン アラビア』で、こうした植民地アデンの現状と[[植民地主義]]([[帝国主義]])・資本主義・ブルジョワジー(ブルジョワ教育、ブルジョワ文化、ブルジョワ哲学)、[[経済人|ホモ・エコノミクス]]、人間による人間の[[疎外#マルクスによる概念|疎外]]を厳しく糾弾した<ref name=":6">{{Cite web|title=PAUL NIZAN|url=https://www.universalis.fr/encyclopedie/paul-nizan/|website=Encyclopædia Universalis|accessdate=2020-08-15|language=fr-FR|publisher=|author=Jacqueline Leiner}}</ref><ref name=":4" />。

こうした経験から[[共産主義]]への傾倒を深めたニザンは、1927年に帰国すると[[フランス共産党|共産党]]に入党した。『アデン アラビア』は「ぼくは20歳だった。それが人生で最も美しい時代とは誰にも言わせない」という、しばしば引用される有名な一文で始まる。かつて絶望や孤独に苛まれ、極右思想、信仰、異文化・非西欧世界に解放の糸口を求めた彼が、「私は絶望している。我々皆が絶望しているからだ」、この社会は「絶望した人間の社会だ」という認識に至り、解放の糸口は、こうした「人間社会を丸ごと受け止め、人間らしさを取り戻す生を得る」こと、そしてそのために必要なのは「[[革命]]」という共通の目標に向かって「連帯」すること、社会的責任を負った人間として行動することにあると確信したのである<ref name=":4" /><ref name=":3" /><ref name=":6" />。

同じ1927年に、高等師範学校のパーティーで知り合い、アデンから頻繁に手紙を書き送っていたアンリエット・アルファン(Henriette Alphen、1907-1993)と結婚し、サルトルとアロンが立会人を務めた<ref>{{Cite web|title=ALPHEN Henriette / Georges et les autres|url=https://www.lyceedenantes.fr/julien/alphen-henriette/|website=www.lyceedenantes.fr|accessdate=2020-08-15|publisher=Lycée Clemenceau de Nantes|language=fr}}</ref>。歴史学者・人口統計学者のエマニュエル・トッドは、翌1928年に生まれた第一子アンヌ=マリーの子である<ref>{{Cite web|title=Emmanuel Todd: l'inhumanité des bien-pensants|url=https://www.humanite.fr/node/116310|website=L'Humanité|date=1995-10-27|accessdate=2020-08-15|language=fr}}</ref>。

同1928年に高等研究学位([[:fr:Diplôme d'études supérieures en France|Diplôme d'études supérieures]])を取得し、1929年に24歳で哲学の[[アグレガシオン]](大学教授資格)を取得した。前年落第したサルトルが主席、21歳の[[シモーヌ・ド・ボーヴォワール|ボーヴォワール]]が次席であった<ref>{{Cite web|title=Sartre face à son époque|url=https://www.lexpress.fr/culture/livre/sartre-face-a-son-epoque_486893.html|website=LExpress.fr|date=1980-04-19|accessdate=2020-08-15|language=fr|publisher=L'Express|author=Janick Jossin}}</ref>。

=== 共産主義活動・執筆活動 ===
ニザンは高等師範学校で共産主義・[[反軍国主義]]の仲間と[[軍事訓練]]を妨害したこともあり、1929年7月4日付の共産党の[[機関紙]]『リュマニテ』に、彼らと連名で[[軍事教育]]に抗議する書状を掲載し、同紙の表紙にも「次の戦争に備えた大学の恥ずべき軍隊化」という小見出しが付けられた<ref name=":0" />。

一方、1923年に作家として最初に共産党に入党した[[アンリ・バルビュス]]は<ref name=":9">{{Cite journal|author=Jean Relinger|editor=Sophie Béroud, Tania Régin|year=2002|title=Un écrivain combattant - Henri Barbusse|journal=Le roman social. Littérature, histoire et mouvement ouvrier|volume=|page=|pages=94-102|publisher=Éditions de l'Atelier}}</ref>、1919年に戦争小説『クラルテ(光明)』を発表したのを機に、知識人の国際[[反戦運動|反戦]]・[[平和運動]]「クラルテ」を結成、同名の機関誌を創刊し、編集長を務めていたが<ref>{{Cite web|和書|title=クラルテ運動|url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%AB%E3%83%86%E9%81%8B%E5%8B%95-56619|website=コトバンク|accessdate=2020-08-15|language=ja|publisher=}}</ref>、ニザンが親しくしていた上述の『哲学』誌を中心とするマルクス主義哲学者ポリツェル、ルフェーヴル、および[[アンドレ・ブルトン]]、[[ルイ・アラゴン]]らシュルレアリストは、バルビュスがクラルテ運動の一環として『[[リュマニテ]]』紙上で呼びかけた[[第3次リーフ戦争|リーフ戦争]]反対に賛同し、共同声明「まず革命を、そして常に革命を」を『リュマニテ』紙(1925年9月21日付)<ref>{{Cite web|title=C'était à la Une ! La Révolution d'abord et toujours !|url=https://www.retronews.fr/politique/echo-de-presse/2018/06/28/cetait-la-une-la-revolution-dabord-et-toujours|website=RetroNews - Le site de presse de la BnF|date=2018-06-28|accessdate=2020-08-15|language=fr|publisher=Bibliothèque nationale de France}}</ref>と『[[シュルレアリスム革命]]』誌第5号(同年10月15日付)<ref>{{Cite web|title=La Révolution surréaliste|url=https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k5845102r|website=Gallica|date=1925-10-15|accessdate=2020-08-15|language=FR|publisher=Bibliothèque nationale de France}}</ref><ref>{{Cite web|title=LA RÉVOLUTION SURRÉALISTE N°5, 15 OCTOBRE 1925|url=http://melusine-surrealisme.fr/site/Revolution_surrealiste/Revol_surr_5.htm|website=melusine-surrealisme.fr|accessdate=2020-08-15|publisher=Mélusine (le Centre de Recherches sur le Surréalisme de Paris III)|language=fr}}</ref>に掲載した。さらにこれを機に、ブルトン、アラゴン、[[ポール・エリュアール|エリュアール]]、[[バンジャマン・ペレ]]らシュルレアリストがニザンと同じ1927年に共産党に入党し、ポリツェル、ルフェーヴルらは1929年に入党した<ref>{{Cite journal|author=Jean Touchard|year=1967|date=|title=Le Parti communiste français et les intellectuels (1920-1939)|url=https://www.persee.fr/doc/rfsp_0035-2950_1967_num_17_3_393018|journal=Revue française de science politique|volume=17|issue=3|page=|pages=468-483|language=fr|doi=10.3406/rfsp.1967.393018}}</ref>。同じ1929年に再びポリツェル、フェーヴル、モランジュ、ギュテルマンが『マルクス主義評論』誌を創刊すると、ニザンはフリードマンらとともに参加した<ref name=":5" />。

『マルクス主義評論』誌は第7号をもって終刊となったが、以後、ニザンは『リュマニテ』、『{{仮リンク|共産主義手帖|fr|Cahiers du communisme|label=ボリシェヴィキ手帖}}(''Cahiers du Bolchévisme'')』などの共産党の機関紙(機関誌)、『{{仮リンク|ス・ソワール|fr|Ce soir}}(''Ce soir''、今宵)』、[[国際革命作家同盟]]の機関誌『{{仮リンク|国際文学|fr|La Littérature internationale (revue)}}(''La Littérature internationale'')』、国際革命作家同盟のフランス支部として設立された[[革命作家芸術家協会]]の機関誌『{{仮リンク|コミューン (雑誌)|fr|Commune (revue)|label=コミューン}}(''Commune'')』(後述)のほか、『クラルテ』の後続誌で同じくバルビュスが主宰する文学、芸術、科学、経済、社会問題の総合雑誌『{{仮リンク|世界 (フランスの雑誌)|fr|Monde (revue)|label=世界}}(''Monde'')』<ref>{{Cite web|title=Monde (Paris. 1928)|url=https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/cb32818161n/date&rk=21459;2|website=gallica.bnf.fr|accessdate=2020-08-15|publisher=Gallica - Bibliothèque nationale de France|language=fr}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://catalogue.bnf.fr/ark:/12148/cb32818161n|title=Notice de périodique - Monde (Paris. 1928)|accessdate=2020-08-15|publisher=Bibliothèque nationale de France|language=fr}}</ref>、「戦争世代の機関誌」と題された戦間期の文学雑誌『ルヴュ・デ・ヴィヴァン(''La Revue des vivants''、生者評論)』{{efn|[[戦間期]]の1927年から1935年まで刊行され、[[ピエール・ブノア]]、[[ルネ・カサン]]、[[ジャン・カスー]]、[[アンドレ・シャンソン]]、[[ピエール・コット]]、{{仮リンク|ロラン・ドルジュレス|fr|Roland Dorgelès}}、[[ジャン・ジオノ]]、{{仮リンク|ピエール・マッコルラン|fr|Pierre Mac Orlan}}、[[アンリ・ド・モンテルラン]]、{{仮リンク|ヴィクトル・セルジュ|fr|Victor Serge}}、[[ポール・ヴァレリー]]らが寄稿した<ref>{{Cite web|title=La Revue des Vivants (1927-1935)|url=https://www.revues-litteraires.com/articles.php?lng=fr&pg=1767|website=www.revues-litteraires.com|accessdate=2020-08-15|publisher=Revues littéraires|language=fr}}</ref><ref>{{Cite web|title=La Revue des vivants : organe de la génération de la guerre / directeurs : Henry de Jouvenel, Henry Malherbe|url=https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/cb32858948g/date|website=gallica.bnf.fr|accessdate=2020-08-15|publisher=Bibliothèque nationale de France - Gallica}}</ref>。}}、ジッドらが創刊し、特に戦間期には党派性を排除し、外国文学を積極的に紹介したことで国際的な影響力をもつことになった<ref>{{Cite journal|和書|author=[[吉井亮雄]] |date=2009-10-15 |url=https://doi.org/10.14989/138007 |title=『新フランス評論』創刊百周年 : アンドレ・ジッド関連の出版・行事を中心に |journal=仏文研究 |ISSN=0385-1869 |publisher=京都大学フランス語学フランス文学研究会 |volume=40 |pages=1-12 |doi=10.14989/138007 |hdl=2324/19167 |CRID=1390572174788509184}}</ref><ref name=":32">{{Cite web|title=Histoire de ''la NRF''|url=http://www.lanrf.fr/content/4-historique|website=La Nouvelle Revue Française|accessdate=2020-08-15|language=fr-fr|publisher=}}</ref>、[[ジャン・ポーラン]]主宰の『[[新フランス評論]]』、作家[[ロマン・ロラン]]らによって創刊され、彼の「精神の独立」の理念に基づく平和主義の雑誌であり、1920年代には第一次大戦後の欧州の再建に関する議論の場であった『[[ユーロープ]]』([[ジャン・ゲーノ]]主宰)<ref name=":12">{{Cite journal|last=Racine-Furlaud|author=|first=Nicole|year=|date=1993|title=La revue Europe (1923-1939). Du pacifisme rollandien à l'antifascisme compagnon de route|url=https://www.persee.fr/doc/mat_0769-3206_1993_num_30_1_404087|journal=Matériaux pour l'histoire de notre temps|volume=30|issue=1|page=|pages=21-26|language=fr|doi=10.3406/mat.1993.404087}}</ref>、[[フランス人民戦線]]の機関紙として創刊された『[[ヴァンドルディ]](金曜)』<ref>{{Cite journal|author=Bernard Laguerre|year=1989|date=|title=Marianne et vendredi : deux générations ?|url=https://www.persee.fr/doc/xxs_0294-1759_1989_num_22_1_2125|journal=Vingtième Siècle. Revue d'histoire|volume=22|issue=1|page=|pages=39-44|doi=10.3406/xxs.1989.2125}}</ref>、ロマン・ロランの支持を得てニザン自身が{{仮リンク|リュック・デュルタン|fr|Luc Durtain}}と共同で編集した『青年手帖(''Les Cahiers de la jeunesse'')』(1937年){{efn|主にロマン・ロラン、[[ジャン・アヌイ]]、[[ジョルジュ・オーリック]]、ジャン・カスー、{{仮リンク|シャルロット・デルボ|fr|Charlotte Delbo}}、ジャン・ジオノ、[[ピエール・ジャン・ジューブ|ピエール・ジャン・ジューヴ]]、[[ルイ・ジューヴェ]]、アンリ・ド・モンテルラン、[[パブロ・ネルーダ]]、[[ジャン・ルノワール]]、[[ジュール・シュペルヴィエル]]らが寄稿した<ref>{{Cite web|title=Les Cahiers de la Jeunesse (1937-1940)|url=https://www.revues-litteraires.com/articles.php?lng=fr&pg=486|website=www.revues-litteraires.com|accessdate=2020-08-15|publisher=Revues littéraires|language=fr}}</ref>。}}など多くの雑誌に寄稿した。

=== ブルジョワ秩序の「番犬たち」糾弾 ===
とりわけ、{{仮リンク|ジョルジュ・リブモン=デセーニュ|fr|Georges Ribemont-Dessaignes}}とピエール・G・レヴィー(Pierre G. Levy)によって1929年に創刊された『{{仮リンク|ビフュール|fr|Bifur (revue)}}(''Bifur'')』は、[[アルベルト・ジャコメッティ|ジャコメッティ]]、[[ハンス・ベルメール|ベルメール]]、[[ポール・デルヴォー|デルヴォー]]らが寄稿していた『{{仮リンク|ミノトール|fr|Minotaure (revue)}}([[ミーノータウロス|ミノタウロス]]の意)』、アラゴン、ブルトン、ペレ、[[ピエール・ナヴィル|ナヴィル]]によって創刊されたシュルレアリスム運動の機関誌『[[シュルレアリスム革命]]』、[[ジョルジュ・バタイユ]]らを中心とする『{{仮リンク|ドキュマン|fr|Documents}}』と並んで、戦間期の[[アバンギャルド|前衛]]文学・芸術運動で重要な役割を担った文学雑誌であり、[[トリスタン・ツァラ]]、[[アンリ・ミショー]]、フィリップ・スーポーらが寄稿し、[[ケルテース・アンドル]]、[[モホリ=ナジ・ラースロー]]、[[クロード・カアン]]らの作品も掲載されたが<ref>{{Cite web|title=Découvrez Bifur, revue iconique du surréalisme littéraire et photographique|url=https://www.actualitte.com/article/patrimoine-education/decouvrez-bifur-revue-iconique-du-surrealisme-litteraire-et-photographique/85880|website=www.actualitte.com|accessdate=2020-08-15|language=fr-FR|publisher=ActuaLitté|author=Antoine Oury|date=2017-11-17}}</ref><ref>{{Cite web|title=Bifur (Paris)|url=https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/cb34431403m/date|website=gallica.bnf.fr|accessdate=2020-08-15|publisher=Bibliothèque nationale de France - Gallica|language=fr}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://bibliothequekandinsky.centrepompidou.fr/clientbookline/service/reference.asp?output=PORTAL&INSTANCE=INCIPIO&DOCBASE=CGPP&DOCID=0467683|title=Bifur (REVUE) / dir. Pierre G. Levy ; réd. en chef G. Ribemont Dessaignes|accessdate=2020-08-15|publisher=Bibliothèque Kandinsky - Centre Pompidou|language=fr}}</ref>、第5号からニザンが文学顧問として参加すると、共産党宣伝部からの依頼もあって政治色の強い雑誌になり、第8号で終刊となった<ref name=":3" />。編集事務局を務めていた映画評論家の[[ニーノ・フランク]]は、これをニザンの責任であると非難した<ref name=":0" />。『ビフュール』誌第7号に1932年刊行の抗議文書『番犬たち』の初稿にあたる「哲学に関する注釈・計画([[s:fr:Notes-programme sur la philosophie|Notes-programme sur la philosophie]])」が掲載された。『番犬たち』ではソルボンヌの著名な哲学教授、とりわけ、[[合理主義]]の[[数理哲学]]者[[レオン・ブランシュヴィック]]と[[ノーベル文学賞]]を受賞した哲学者[[アンリ・ベルクソン]]をブルジョワ秩序の「番犬たち」、あるいは「ブルジョワ秩序を説く大司教」であるとし、学生に対して抽象的な哲学を説くことで、彼らが世界に目を開くことを妨げていると痛烈に批判した<ref>{{Cite journal|和書|author=佐藤啓介|month=3|year=2015|title=無神論論争とキリスト教哲学論争 - 戦間期フランス知識人における「世俗化」の一断面|url=http://www.ic.nanzan-u.ac.jp/JINBUN/Christ/NJTS/038-Sato.pdf|journal=南山神学|volume=38|page=|pages=189-206|publisher=[[南山大学]]人文学部キリスト教学科|ISSN=0387-3730}}</ref><ref name=":11">{{Cite web|title=Paul Nizan : Les chiens de garde|url=https://xn--rpubliquedeslettres-bzb.fr/nizan-chiens-de-garde.php|website=La République des Lettres|accessdate=2020-08-15|language=fr|publisher=La République des Lettres|author=Nathalie Piégay}}</ref>。さらに、知的[[エリート]]と政治権力が結託した時代にあって、著作活動は人類のための活動ではなく、国の制度や[[イデオロギー]]の道具([[大学]]、[[報道]]、[[警察]])で守られた特権階級・支配者階級のための活動にすぎないと断じた<ref name=":11" />。これはマルクス主義者・共産党員として活動を共にしたポリツェルと同様の視点であり、ポリツェルもまた彼が創刊し、ニザンも寄稿した『具体的心理学評論(''La Revue de psychologie concrète'')』誌に発表した「哲学天国ベルクソン主義の終焉」で、ベルクソン、ブランシュヴィックら「現代の[[スコラ学|スコラ学派]]」の「過度に深遠な」哲学を[[小ブルジョア|プチブル]]哲学と呼び、[[国家]]に危険をもたらすような(たとえば[[プロレタリア革命]]のような)真の問題解決を回避するために、問題の対象範囲を超える「抽象的」で「深遠」な解決を提唱しているにすぎないと批判した<ref name=":34">{{Cite journal|author=Charles Boyer|year=2013|date=|title=Les trois morts de Georges Politzer, de Michel Politzer|url=https://doi.org/10.3917/phoir.040.0181|journal=Le Philosophoire|volume=40|issue=2|page=|pages=181-183|language=fr|doi=10.3917/phoir.040.0181|issn=1283-7091}}</ref>。

=== 共産党活動 ===

==== 地方の党員・総選挙 ====
1929年に哲学の大学教授資格を取得した後、兵役に服し、1931年に哲学教員として[[アン県]][[ブール=カン=ブレス]]([[オーヴェルニュ=ローヌ=アルプ地域圏]])の[[リセ・ラランド]]に赴任した。彼はここでも[[フランス労働総同盟|労働総同盟]]左派の{{仮リンク|統一労働総同盟|fr|Confédération générale du travail unitaire}}への加入を勧めるなど、共産党員として積極的に活動し、地元の新聞・雑誌で保守派に「ブール(=カン=ブレス)の共産党指導者」、「赤い救世主」などと揶揄された<ref name=":0" />。

1932年の総選挙([[:fr:Élections législatives françaises de 1932|Élections législatives françaises de 1932]])では、ブールの共産党候補として出馬し、第一回投票で約3%の得票、第二回(最終)投票では1%にも満たなかった。こうした背景には共産党が[[コミンテルン]]の指令による「階級対階級」戦術を採用したこと、すなわち、第一回投票で社会党候補が優位に立った場合、左派を当選させるために共産党候補が辞退するという従来の戦略を放棄したことがあり、この結果、共産党は大敗を喫し、[[急進党]]と[[フランス社会党 (SFIO)|社会党]](SFIO)の左派連合が勝利し、議席数では急進党が第一党となった<ref name=":13">{{Cite web|title=NIZAN PAUL (1905-1940) - Le militant, le journaliste et le reporter|url=https://www.universalis.fr/encyclopedie/paul-nizan/2-le-militant-le-journaliste-et-le-reporter/|website=Encyclopædia Universalis|accessdate=2020-08-15|language=fr-FR|publisher=|author=Jacqueline Leiner}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=竹岡敬温|month=9|year=2012|title=ファシズムへの偏流 - ジャック・ドリオとフランス人民党(2)|url=https://doi.org/10.18910/57088|journal=大阪大学経済学|volume=62|issue=2|page=|pages=27-60|publisher=[[大阪大学]]経済学会|ISSN=04734548}}</ref>。

==== 共産党の機関紙 ====
ニザンは次いで[[ジェール県]][[オーシュ]]([[オクシタニー地域圏]])のリセの哲学教員に任命されたが、休暇を取ってパリに戻り、党活動と執筆活動に専念した。党内では{{仮リンク|ガブリエル・ペリ|fr|Gabriel Péri}}が編集を担当していた『リュマニテ』紙の国際政治欄に寄稿した<ref name=":7" />。同紙では、1930年の[[国際革命作家同盟]](UIER)の[[ハルキウ|ハリコフ]]会議を機に、シュルレアリスム運動から離れて[[社会主義リアリズム]]に転じたアラゴンが報道記事を担当していた<ref name=":14">{{Cite web|title=ARAGON Louis|url=https://maitron.fr/spip.php?article10173|website=maitron.fr|accessdate=2020-08-15|publisher=Maitron|author=Nicole Racine|language=fr|date=2019-11-25}}</ref>。さらに国際革命作家同盟のフランス支部として1932年3月に結成された革命作家芸術家協会(AEAR)に参加し(結成時の会員は作家80人、芸術家120人、うち共産党員が36人)<ref>{{Cite journal|last=Riou|first=Gwenn|date=2018-09-15|title=De la théorie à la pratique : « Le manifeste des écrivains et artistes révolutionnaires » (1932)|url=http://journals.openedition.org/itineraires/4212|journal=Itinéraires. Littérature, textes, cultures|issue=2018-1|language=fr|doi=10.4000/itineraires.4212|issn=2100-1340}}</ref>、翌1933年7月に創刊された文芸雑誌『コミューン』の編集事務局をアラゴンと共同で務めた。編集委員はバルビュス、ジッド、ロマン・ロラン、{{仮リンク|ポール・ヴァイヤン=クーチュリエ|fr|Paul Vaillant-Couturier}}であった<ref>{{Cite web|title=Commune : revue de l'Association des écrivains et des artistes révolutionnaires|url=https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k6268129n/f6.image|website=Gallica|accessdate=2020-08-15|language=FR|publisher=Bibliothèque nationale de France|year=1933|month=7}}</ref>。ヴァイヤン=クーチュリエは国際革命作家同盟の機関誌『国際文学』のフランス語版の編集長も務めており、アラゴンとニザンはそれぞれ特定の号の編集を担当した<ref>{{Cite web|title=La Littérature internationale|url=https://data.bnf.fr/fr/32808612/la_litterature_internationale/|website=data.bnf.fr|accessdate=2020-08-15|publisher=Bibliothèque nationale de France|language=fr}}</ref>。

1933年に最初の小説『アントワーヌ・ブロワイエ』を発表した。上述のように、労働者階級から勤労によって小ブルジョワの地位を築いた父の人生をモデルにした小説であり、[[フランス第二帝政|第二帝政]]下のフランスにおける資本主義の台頭をマルクス主義の観点から分析し、産業化・都市化の過程で疎外され、破滅していく人間を描いている<ref name=":4" /><ref name=":15">{{Cite web|title=NIZAN PAUL (1905-1940) - Le romancier|url=https://www.universalis.fr/encyclopedie/paul-nizan/3-le-romancier/|website=Encyclopædia Universalis|accessdate=2020-08-15|language=fr-FR|publisher=|author=Jacqueline Leiner}}</ref>。この処女作は早くも[[ゴンクール賞]]候補作に選出された<ref name=":7" />。

==== ソ連訪問 ====
1934年、これまでの活動を党指導部に評価されてソビエト連邦へ派遣され、妻アンリエットと子ども(6歳のアンヌ=マリー、4歳のパトリック)とともに約1年間にわたって[[モスクワ]]、[[レニングラード州|レニングラード]]、[[ウラル連邦管区|ウラル]]、[[中央アジア]](主に[[タジキスタン]])に滞在した。モスクワでは[[ソビエト連邦共産党中央委員会付属マルクス・レーニン主義研究所|マルクス=エンゲルス研究所]]<ref>{{Cite web|和書|title=マルクス=レーニン主義研究所|url=https://kotobank.jp/word/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%82%B9%3D%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%B3%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%89%80-871495|website=コトバンク|accessdate=2020-08-15|language=ja|publisher=}}</ref>を訪れ、『国際文学』誌のフランス語版を編集して[[ソビエト連邦作家同盟]]の第1回大会(1934年8月)への参加を呼びかけた。大会に参加したジャン=リシャール・ブロック、[[アンドレ・マルロー]]とはこの後生涯にわたって親交を深めることになった<ref name=":7" />。また、この間の経験については後に『ユーロープ』、『ヴァンドルディ』に[[随筆]]や[[紀行]]を発表した<ref name=":4" />。

ニザンがソ連に滞在した時期は、同国が対外政策を大きく転換させた時期に相当する。1933年に[[ヒトラー内閣]]が成立すると、ソ連は日独のファシズム国家との戦いのために英米[[資本家]]や社会主義者と協力して統一戦線を結成する方針に転じ、1934年に[[国際連盟]]に加盟、1935年のコミンテルン第7回大会で[[反ファシズム統一戦線]]の結成を提案することになったからである<ref>{{Cite web|和書|title=アメリカを巻き込んだコミンテルンの東アジア戦略|url=https://ironna.jp/article/915|website=iRONNA([[産経新聞]]グループ)|accessdate=2020-08-15|language=ja|publisher=|author=江崎道朗}}</ref>。ニザンは帰国後に新しいソ連のイメージを伝えるために記事の執筆や講演会の開催に奔走し、『リュマニテ』紙の国際政治欄では[[アメリカ合衆国|米国]]、[[ベルギー]]、[[アイルランド]]、[[ギリシア]]、[[ブラジル]]、[[日本]]、[[ポーランド]]、[[アルバニア]]、ヒトラー内閣、ドイツの[[ラインラント進駐]]、[[第二次エチオピア戦争]]、[[スペイン内戦]]など多岐にわたる問題を取り上げ、さらに1935年8月から文学評論欄も担当した<ref name=":7" />。このほか、ニザンは上述の文芸雑誌以外に主に共産党系の[[グラフ誌|グラフ雑誌]]『{{仮リンク|ルガール (雑誌)|fr|Regards|label=ルガール}}(まなざし)』、国際政治については『国際通信(''Correspondance internationale'')』や『現代ロシア(''Russie d'aujourd'hui'')』<ref>{{Cite web|title=Russie d'aujourd'hui (Paris)|url=https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/cb32863481x/date.r=Russie+d%27aujourd%27hui.langFR|website=gallica.bnf.fr|accessdate=2020-08-15|publisher=Bibliothèque nationale de France - Gallica|language=fr}}</ref>などに寄稿し<ref name=":13" />、また、1960年代にマルロー[[文化省 (フランス)|文化相]]の「文化の民主化」の中核事業となる{{仮リンク|文化の家 (フランス)|fr|Maison de la culture|label=文化の家}}<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.clair.or.jp/j/forum/c_report/pdf/360.pdf|title=Clair Report No. 360 - フランスの文化政策|accessdate=2020-08-15|publisher=(財)自治体国際化協会 パリ事務所|language=ja|date=2011-03-28}}</ref>は、当初、革命作家芸術家協会の本部であり、アラゴンが事務総局を務めていたため、ニザンはクルヴェルらとともにアラゴンが企画する文化活動に参加し、講演を行った<ref name=":14" />。

==== 反ファシズム活動 ====
1935年6月にはファシズムから文化を守ることを目的とした{{仮リンク|第一回文化擁護国際作家会議|fr|Premier congrès international des écrivains pour la défense de la culture}}がバルビュス、ロマン・ロラン、マルロー、ジッド、アラゴンらの提案によりパリで開催され、ソ連の[[イリヤ・エレンブルグ]]、[[イサーク・バーベリ]]、ドイツの[[ハインリヒ・マン]]、[[ベルトルト・ブレヒト]]、[[アンナ・ゼーガース]]、[[オーストリア]]の[[ローベルト・ムージル]]、[[イギリス|英国]]の[[オルダス・ハクスリー]]ら約24か国から230人の文学者が参加した<ref>{{Cite web|和書|title=文化擁護国際作家会議|url=https://kotobank.jp/word/%E6%96%87%E5%8C%96%E6%93%81%E8%AD%B7%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E4%BD%9C%E5%AE%B6%E4%BC%9A%E8%AD%B0-1409892|website=コトバンク|accessdate=2020-08-15|language=ja|publisher=}}</ref>。「文化遺産」、「ヒューマニズム」、「国民と文化」、「個人」、「思想の尊さ」、「社会における作家の役割」、「文学創造」、「文化擁護のための作家の行動」のテーマで行われたこの大規模な反ファシズム作家会議で、ニザンは「ヒューマニズム」に関する講演を行い、{{仮リンク|マルクス主義ヒューマニズム|fr|Humanisme-marxiste}}の重要性を強調した<ref name=":0" />。この会議の概要と主な講演についてはバルビュスの『世界』誌や『コミューン』誌で報告され<ref>{{Cite web|title=Monde : hebdomadaire d'information littéraire, artistique, scientifique, économique et sociale / dir. Henri Barbusse|url=https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k866621n|website=Gallica|date=1935-04-05|accessdate=2020-08-15|language=FR|publisher=Bibliothèque nationale de France}}</ref><ref>{{Cite web|title=Commune : revue de l'Association des écrivains et des artistes révolutionnaires|url=https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k1184072b/|website=Gallica|accessdate=2020-08-15|language=FR|publisher=Bibliothèque nationale de France|year=1935|month=7}}</ref>、邦訳も『文化の擁護 - 1935年パリ国際作家大会』として刊行された{{efn|アンドレ・ジッド、アンドレ・マルロー、ルイ・アラゴン『文化の擁護 - 1935年パリ国際作家大会』相磯佳正、[[石黒英男]]、五十嵐敏夫、[[高橋治男]]編訳、[[法政大学出版局]]〈叢書・ウニベルシタス〉1997年、 ISBN 978-4588005800。}}。

1936年に[[スペイン内戦]]を取材して『国際通信』誌に記事を掲載し、次いで『ルガール』誌および『リュマニテ』紙の[[特派員]]としてさらに取材を続けた。1937年に[[スペイン人民戦線]]政府(共和派)を支援するために同政府の援助を得て共産党の新しい機関紙『ス・ソワール』が創刊された。[[モーリス・トレーズ|トレーズ]][[書記長]]からの依頼を受けてアラゴンとジャン=リシャール・ブロックが共同で編集し、ニザンは『リュマニテ』紙から『ス・ソワール』紙に移って再び国際政治欄を担当した<ref name=":7" />。同紙はスペイン人民戦線を支持するガブリエル・ペリ、ジャン・コクトー、{{仮リンク|ジョルジュ・サドゥール|fr|Georges Sadoul}}、[[エルザ・トリオレ]]、[[ジュリアン・バンダ]]、{{仮リンク|ジャン・ブランザ|fr|Jean Blanzat}}らが寄稿し、売上部数が1937年の12万部から2年後の1939年に25万部に急増した(同年の『リュマニテ』は約35万部)<ref>{{Cite web|url=https://halshs.archives-ouvertes.fr/halshs-01626344v3/document|title=Jeux-concours et référendums de presse. Un premier inventaire (France, 1870-1939)|accessdate=2020-08-15|publisher=Archive ouverte en Sciences de l'Homme et de la Société|author=Jean-Paul Grémy|language=fr}}</ref>。

=== 作家活動 ===
[[ファイル:Paul Nizan, prix Interallié, décembre 1938.jpg|サムネイル|アンテラリエ賞を受賞したポール・ニザン(1938年)]]
1934年にニザンの編纂によるマルクスの『論文選集』が刊行された。特にマルクスが若い頃に執筆した哲学論文を中心に編纂したものであり、ニザンの「哲学者マルクス」論が収録され、ギュテルマンとルフェーヴルが序文を付している<ref>{{Cite web|title=Morceaux choisis - Blanche|url=http://www.gallimard.fr/Catalogue/GALLIMARD/Blanche/Morceaux-choisis3|website=www.gallimard.fr|accessdate=2020-08-15|publisher=Éditions Gallimard|language=fr}}</ref>。

1936年に発表した『古代の唯物論者たち』は、共産党の{{仮リンク|社会出版社|fr|Les Éditions sociales|国際社会出版社}}の「社会主義と文化」叢書を担当していたジョルジュ・フリードマンの勧めで、唯物論に関する一般書として書いたものであり、副題(あるいは新版では書名)にあるとおり、[[デモクリトス]]、[[エピクロス]]、[[ルクレティウス]]を取り上げている<ref name=":7" /><ref>{{Cite web|url=https://www.librairie-gallimard.com/livre/9782869594371-democrite-epicure-lucrece-les-materialistes-de-l-antiquite-paul-nizan/|title=DEMOCRITE, EPICURE, LUCRECE : LES MATERIALISTES DE L'ANTIQUITE|accessdate=2020-08-15|publisher=Librairie Gallimard|language=fr}}</ref>。

一方、ニザンが発表した小説は上述の『アントワーヌ・ブロワイエ』と1935年発表の『トロイの木馬』、1938年発表の『陰謀』の3作である。『トロイの木馬』はブールでの経験に基づく小説で、地方の共産党員の活動を描いた社会主義リアリズムの作品であり、[[ジョン・ドス・パソス|ドス・パソス]]、[[ジョン・スタインベック|スタインベック]]などアメリカの社会派小説家の手法を取り入れている<ref name=":15" />。サルトルの『[[嘔吐 (小説)|嘔吐]]』と同じ年に発表された『陰謀』は、サルトルらとともに過ごしたリセ・アンリ=カトルやリセ・ルイ=ル=グランでの経験をもとに多感な若者たちの反抗を描いた小説であり<ref name=":8">{{Cite journal|author=Bernard Pudal|year=1992|date=|title=Nizan : l'homme et ses doubles|url=https://www.persee.fr/doc/mots_0243-6450_1992_num_32_1_1716|journal=Mots. Les langages du politique|volume=32|issue=1|page=|pages=29-48|language=fr|doi=10.3406/mots.1992.1716}}</ref>、同じく社会主義リアリズムの作品とされるが、『トロイの木馬』よりも文学作品としての完成度が高く<ref>{{Cite web|title=Paul Nizan : La Conspiration|url=https://xn--rpubliquedeslettres-bzb.fr/nizan-la-conspiration.php|website=La République des Lettres|accessdate=2020-08-15|language=fr|publisher=|author=Nathalie Piégay}}</ref>、同年のアンテラリエ賞を受賞した。同賞はジャーナリスト約30人によって1930年に創設された権威ある[[文学賞]]の一つで、当初はジャーナリストが書いた小説を対象とし、第1回受賞作品はアンドレ・マルローの『王道』(邦訳の新版は[[渡辺淳 (評論家)|渡辺淳]]訳、[[講談社文芸文庫]]、2000年)であった<ref>{{Cite news|title=Tout commença comme une farce|url=https://www.lemonde.fr/culture/article/2003/09/17/tout-commenca-comme-une-farce_334395_3246.html|work=Le Monde.fr|date=2003-09-17|accessdate=2020-08-15|language=fr}}</ref>。

=== ミュンヘン協定、独ソ不可侵条約 ===
1938年9月29日の[[ミュンヘン会談|ミュンヘン協定]]締結にニザンは深い失望を覚え、フランス[[フランスの首相|首相]][[エドゥアール・ダラディエ]]、[[外務省 (フランス)|外相]]{{仮リンク|ジョルジュ・ボネ|fr|Georges Bonnet (homme politique, 1889-1973)}}、イギリス[[イギリスの首相|首相]][[ネヴィル・チェンバレン]]の[[反共主義]]を批判した。『ス・ソワール』紙の国際政治欄担当の彼は、ミュンヘン会談に至るまでの経緯を記録していたが、会談開催前日に断念し、翌1939年に『九月のクロニクル』として発表した。生前に発表された最後の著書だが、[[ナチス・ドイツ|ナチス]]に没収され焼却された<ref name=":17">{{Cite web|title=Chronique de septembre - Blanche|url=http://www.gallimard.fr/Catalogue/GALLIMARD/Blanche/Chronique-de-septembre|website=www.gallimard.fr|accessdate=2020-08-15|publisher=Éditions Gallimard|language=fr}}</ref>。1978年に出版された復刻版では、娘アンヌ=マリーの夫で作家・ジャーナリストの{{仮リンク|オリヴィエ・ドット|fr|Olivier Todd}}(エマニュエル・トッドの父)が序文を書いている<ref name=":17" />。

1939年8月23日、[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]と[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]が[[独ソ不可侵条約]]を締結したことは世界中に大きな衝撃を与えた。とりわけ反ファシズムを掲げた左派の政党や知識人団体、なかでも共産党にとっては大きな痛手であり、指導部は8月26日付の『リュマニテ』紙で「独ソ不可侵条約は、ナチズムの基本的教義全体の突然の放棄である」と苦しい弁明をしたが<ref name=":18">{{Cite journal|和書|author=竹岡敬温|month=3|year=2014|title=フランス人民党1936-1940年 (3)|url=https://doi.org/10.18910/57037|journal=大阪大学経済学|volume=63|issue=4|page=|pages=1-32|publisher=大阪大学経済学会}}</ref>、ダラディエ内閣は『リュマニテ』紙、『ス・ソワール』紙、『コミューン』誌など共産党のすべての刊行物を[[発禁]]処分にし、さらに、集会や宣伝活動も禁止した<ref name=":18" /><ref>{{Cite web|title=Un journal saisi et interdit|url=https://www.humanite.fr/un-journal-saisi-et-interdit-613264|website=L'Humanité|date=2016-08-08|accessdate=2020-08-15|language=fr|publisher=|author=Alexandre Courban}}</ref>。

9月1日にドイツが[[ポーランド侵攻|ポーランドに侵攻]]すると、翌2日に総動員令が発せられた<ref>{{Cite web|title=Le 3 septembre 1939, la France entre dans la seconde Guerre Mondiale|url=https://www.francebleu.fr/emissions/ils-ont-fait-l-histoire/le-3-septembre-1939-la-france-entre-dans-la-seconde-guerre-mondiale|website=France Bleu|accessdate=2020-08-15|language=fr}}</ref>。9月17日にソ連が[[ポーランド侵攻|ポーランドに侵攻]]した6日後の9月23日、ニザンは配属された[[連隊]]の[[駐屯地]]から直接交流のあった共産党指導部の{{仮リンク|ジャック・デュクロ|fr|Jacques Duclos}}に、「離党届を提出する。現在、軍務に服する兵士として、これ以上は何も書けない」とだけ書かれた離党届を提出した<ref name=":0" />。

[[まやかし戦争|奇妙な戦争]]の間にニザンは次作『ソモシエラの夜会(''Soirée à Somosierra'')』の執筆に取りかかった。この作品は実戦が始まるまでに完成していたとされるが、原稿は見つかっていない<ref>{{Cite web|title=Soirée à Somosierra Archives|url=http://www.les-lettres-francaises.fr/tag/soiree-a-somosierra/|website=Le site du journal|accessdate=2020-08-15|language=fr-FR|publisher=Les Lettres françaises|author=François Eychart|date=2011-03-25}}</ref>。
[[ファイル:Neuville-Saint-Vaast - Cimetière de la Targette - IMG 2431.jpg|サムネイル|タルジェット国立戦没者霊苑]]
1940年5月に[[ナチス・ドイツのフランス侵攻|ドイツ軍がフランスに侵攻]]すると、[[ダンケルク]]近くに駐屯する[[イギリス軍|英国軍]]に[[通訳]]として転属されたが、1940年5月23日、[[ダンケルクの戦い]]において[[パ=ド=カレー県]]{{仮リンク|オードリュイク|fr|Audruicq}}で流れ弾に当たって戦死した<ref name=":7" /><ref name=":6" /><ref name=":19">{{Cite web|title=Paul Nizan|url=https://francearchives.fr/fr/commemo/recueil-2005/38796|website=FranceArchives|accessdate=2020-08-15|language=fr|publisher=Archives de France|author=Pascal Ory}}</ref>。享年35歳。同県{{仮リンク|ヌーヴィル=サン=ヴァ|fr|Neuville-Saint-Vaast}}のタルジェット国立戦没者霊苑([[:fr:Nécropole nationale de la Targette|Nécropole nationale de la Targette]])に眠る<ref>{{Cite web|title=NEUVILLE-SAINT-VAAST (62) : Nécropole nationale de la Targette|url=https://www.landrucimetieres.fr/spip/spip.php?article4582|website=www.landrucimetieres.fr|accessdate=2020-08-15|publisher=Cimetières de France et d'ailleurs|language=fr}}</ref>。1956年、墓石に「通訳・[[連絡将校]]、{{仮リンク|フランスのために死す|fr|Mort pour la France}}」と刻まれた<ref>{{Cite book|title=Philosopher en France sous l’Occupation|url=http://books.openedition.org/psorbonne/18284|publisher=Éditions de la Sorbonne|date=2019-04-12|location=Paris|isbn=979-10-351-0262-3|pages=175-178|first=Raymonde|last=Caloghiris|editor-first=Olivier|editor-last=Bloch|year=|language=fr}}</ref>。

== ニザン事件・再評価 ==
ニザンは離党について妻アンリエットへの手紙に、共産主義の理念に反する「党の[[レアルポリティーク|リアルポリティクス]]は支持できない」と書いていたが<ref name=":0" />、ニザンの突然の離党は党内のみならず多くの左派知識人から批判され、トレーズ書記長は「裏切り(trahison)」、指導部の{{仮リンク|ジョルジュ・コニオ|fr|Georges Cogniot}}は「背教(apostasie)」と非難し、サルトルにすら「衝動的な行為(coup de tête)」とされ、長い付き合いのあったロシア生まれの英国の作家・ジャーナリストの{{仮リンク|アレクザンダー・ワース|fr|Alexander Werth}}{{efn|特にフランスとロシアの歴史・政治を専門とし、邦訳に『フランス現代史』(全2巻、野口名隆・[[高坂正尭]]共訳、[[みすず書房]]〈現代史双書〉1958年、1959年)、『ロシア - 希望と懸念』([[内山敏]]訳、[[紀伊國屋書店]]、1970年)、『インド独立にかけた[[スバス・チャンドラ・ボース|チャンドラ・ボース]]の生涯』(新樹社編集部訳、新樹社、1971年)『変るソ連 - [[ニキータ・フルシチョフ|フルシチョフ]]が出てから』(湯浅義正訳、[[岩波書店]]、1963年)、『戦うソヴェト・ロシア』(全2巻、中島博・壁勝弘共訳、みすず書房、1967年、1969年)、『[[シャルル・ドゴール|ドゴール]]』(内山敏訳、紀伊國屋書店〈二十世紀の大政治家〉1967年)などがある。}}には「愚行(connerie)」と言われた<ref name=":0" />。

さらに戦後にこの問題が再燃し、ルフェーヴルが1946年刊行の『実存主義』で、アラゴンが1947年4月の『[[レットル・フランセーズ]]』紙、『リュマニテ』紙、1949年刊行の小説『レ・コミュニスト』でそれぞれニザンを批判した。『レ・コミュニスト』ではニザンになぞらえて党の裏切り者パトリス・オルフィラ(Patrice Orfilat)を描いた<ref name=":10" />。これに対してサルトルは、『[[レ・タン・モデルヌ]]』にニザンを支持する[[フランソワ・モーリアック|モーリアック]]、[[アルベール・カミュ|カミュ]]、ポーラン、[[ミシェル・レリス]]、ボーヴォワール、[[モーリス・メルロー=ポンティ|メルロー=ポンティ]]、ブルトン、[[ロジェ・カイヨワ]]ら知識人26人の請願書を掲載し、共産党にニザンを批判する根拠を提示するよう求めた<ref name=":8" />。共産党は明確な根拠を示すことができず、ルフェーヴルは、『実存主義』は「[[スターリニズム|スターリン主義]]」の作品であると釈明し、アラゴンは『レ・コミュニスト』の1966年の再刊の際に「パトリス・オルフィラ」に関する部分を削除した<ref name=":8" /><ref>{{Cite journal|author=Maryse Vassevière|year=1971|date=|title=La réécriture des Communistes d'Aragon|url=https://www.persee.fr/doc/litt_0047-4800_1971_num_4_4_2528|journal=Littérature|volume=4|issue=4|page=|pages=79-89|doi=10.3406/litt.1971.2528|language=fr}}</ref>。

だが、作家としてのニザンが再評価されるようになったのは、没後20年を経て1960年にサルトルの序文が付された『アデン アラビア』が再版されたときのことである<ref name=":19" />。これ以後、彼の他の作品も再版され、雑誌・新聞に掲載された記事や書簡も『社会主義の知識人ポール・ニザン - 記事・書簡 1926-1940』として1967年に刊行され(新版 1979年)<ref>{{Cite book|title=Paul Nizan, intellectuel communiste : 1926-1940. II, Articles et correspondance|url=https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k66501|date=|language=FR|first=Paul|last=Nizan|year=1979|publisher=François Maspero}}</ref>、1968年の[[五月危機|五月革命]]の学生運動では反逆精神の体現者として学生たちに敬愛された<ref name=":6" />。

ニザンの著書が邦訳されたのも、没後25年以上経った1966年以降である(著書参照)。

== 著書 ==
=== 原著 ===
* ''[[:fr:Aden Arabie|Aden Arabie]]'', 1931 -『アデン アラビア』
* ''[[:fr:Les Chiens de garde|Les Chiens de garde]]'', 1932 -『番犬たち』
* ''[[:fr:Antoine Bloyé|Antoine Bloyé]]'', 1933 -『アントワーヌ・ブロワイエ』
* ''[[:fr:Le Cheval de Troie (roman)|Le Cheval de Troie]]'', 1935 -『トロイの木馬』
* ''Les Matérialistes de l'Antiquité'', 1936 -『古代の唯物論者たち』
* ''[[:fr:La Conspiration (roman)|La Conspiration]]'', 1938 -『陰謀』
* ''Chronique de septembre'', 1939 -『九月のクロニクル』
* ''Paul Nizan, intellectuel communiste. Articles et correspondance 1926-1940'', 1967 -『危機の知識人』
* ''Pour une nouvelle culture'', 1971 -『新しい文化のために』
=== 邦訳 ===
* 『ポール・ニザン著作集』全9巻・別巻2冊、[[晶文社]]、1966-1975年
** 第1巻:『アデン アラビア』[[篠田浩一郎]]訳(1966年)
** 第2巻:『番犬たち』[[海老坂武]]訳(1967年)
** 第3巻:『アントワーヌ・ブロワイエ』篠田浩一郎訳(1968年)
** 第4巻:『トロイの木馬』[[白井愛|浦野衣子]]訳(1970年)
** 第5巻:『陰謀』[[鈴木道彦]]訳(1971年)
** 第6巻:『古代の唯物論者たち』[[加藤晴久]]訳(1974年)
** 第7巻:『九月のクロニクル』[[村上光彦]]訳(1968年)
** 第8巻:『危機の知識人』海老坂武訳(1974年)
** 第9巻:『妻への手紙』野沢協・[[高橋治男]]訳(1969年)
** 別巻1:アリエル・ガンスブール(Ariel Ginsbourg)『ポール・ニザンの生涯』[[佐伯隆幸]]訳(1968年)
** 別巻2:『今日のポール・ニザン』浦野衣子訳(1975年){{small|({{仮リンク|イヴ・ビュアン|fr|Yves Buin}}「ニザンあるいは不快感」、{{仮リンク|ルイ・マルタン=ショーフィエ|fr|Louis Martin-Chauffier}}「ポール・ニザンは密告者ではなかった」、ベルナール・ベニエ(Bernard Besnier)「妥協の道 modus vivendi」、{{仮リンク|ジャクリーヌ・ライナー|de|Jacqueline Leiner}}「ピランデッロふうの肖像 同時代人の見たニザン」、{{仮リンク|ジャン=ジャック・ブロシエ|fr|Jean-Jacques Brochier}}「裏切者の役目」、アリエル・ガンスブール(Ariel Ginsbourg)「ひとつの政治散歩ポール・ニザンとともに」、{{仮リンク|クララ・マルロー|fr|Clara Malraux}}「モスクワへの旅」、ジャン=ピエール・バルー(Jean-Pierre Barou)「ある小説家の死と生」、アンリエット・ニザン(Henriette Nizan)「公開状」、ポール・ニザン「資料 現代フランス文学の諸傾向」・「ジイドとロマン・ローランへの抗議」、「仏国文壇人に訊く世紀の話題 - 西班牙と露国」、アンドレ・ユルマン「(座談会)ポオル・ニザンと語る」、[[長田弘]]「日本におけるポール・ニザン」)}}
* 『陰謀』[[花輪莞爾]]訳、[[角川書店]]〈[[角川文庫]]〉1971年
* 『アントワーヌ・ブロワイエ』花輪莞爾訳、角川書店〈角川文庫〉1972年
* 『アデン・アラビア』花輪莞爾訳、角川書店〈角川文庫〉1973年
* 『トロイの木馬』[[日本共産党中央委員会]]文化部世界革命文学選編集委員会編、[[野沢協]]訳、[[新日本出版社]]〈世界革命文学選〉1967年
* 『新しい文化のために』スーザン・スレイマン([[:fr:Susan Rubin Suleiman|Susan Rubin Suleiman]])編、木内孝訳、[[法政大学出版局]]〈叢書・ウニベルシタス〉1987年
* 「アデン、アラビア」[[小野正嗣]]訳、『アデン、アラビア/名誉の戦場』([[河出書房新社]]〈[[池澤夏樹=個人編集 世界文学全集]]1-10〉2008年)所収

== 注釈 ==
{{notelist|2}}

== 出典 ==
{{reflist|2}}

== 参考資料 ==
* Jacqueline Leiner, ''Le destin littéraire de Paul Nizan et ses étapes successives : contribution à l'étude du mouvement littéraire en France de 1920 à 1940'', Éditions Klincksieck, 1970

== 外部リンク ==
{{Commonscat}}
{{Wikisourcelang|fr|Auteur:Paul Nizan}}
{{Wikiquotelang|fr|Paul Nizan}}
* [https://www.paul-nizan.fr/ ADEN] - Groupe Interdisciplinaire d'Etudes Nizaniennes(学際的ニザン研究グループ、フランス語)
* John Steel, [https://maitron.fr/spip.php?article124042 NIZAN Paul-Yves] - ''Maitron''(フランス語)
* Nathalie Piégay, [https://xn--rpubliquedeslettres-bzb.fr/nizan-paul-9782824903361.php PAUL NIZAN, Biographie] - ''La République des Lettres''(フランス語)
* Jacqueline Leiner, [https://www.universalis.fr/encyclopedie/paul-nizan/ NIZAN PAUL (1905-1940)], [https://xn--rpubliquedeslettres-bzb.fr/nizan-chiens-de-garde.php Le romancier], [https://www.universalis.fr/encyclopedie/paul-nizan/2-le-militant-le-journaliste-et-le-reporter/ Le militant, le journaliste et le reporter] - ''Encyclopédie Universalis''(フランス語)

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{{DEFAULTSORT:にさん ほうる}}
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ポール・ニザン
Paul Nizan
ポール・ニザン
誕生 ポール=イヴ・ニザン
Paul-Yves Nizan
(1905-02-07) 1905年2月7日
フランスの旗 フランス共和国アンドル=エ=ロワール県トゥール
死没 (1940-05-23) 1940年5月23日(35歳没)
フランスの旗 フランス共和国パ=ド=カレー県オードリュイクフランス語版
墓地 タルジェット国立戦没者霊苑(Nécropole nationale de la Targette、パ=ド=カレー県ヌーヴィル=サン=ヴァフランス語版
職業 作家
言語 フランス語
教育 哲学の大学教授資格
最終学歴 高等師範学校
ジャンル 小説、抗議文書(パンフレ)、ジャーナリズム
主題 マルクス主義国際政治古代哲学反帝国主義反資本主義
代表作 『アデン アラビア』
『番犬たち』
『アントワーヌ・ブロワイエ』
『トロイの木馬』
『陰謀』
主な受賞歴 アンテラリエ賞
子供 2人
親族 エマニュエル・トッドオリヴィエ・ドットフランス語版
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ポール・ニザン(Paul Nizan、1905年2月7日 - 1940年5月23日)はフランス小説家ジャーナリスト政治活動家共産党員)。

リセから高等師範学校にかけてサルトルとともに学ぶ。1926年に学業・執筆活動を中断して政治家の子息の家庭教師として大英帝国の支配下にあったアデンイエメン共和国)に滞在し、1931年に帝国主義植民地主義資本主義搾取疎外ホモ・エコノミクスブルジョワジーを辛辣に批判する『アデン アラビア』を発表した。1927年に共産党に入党。ソビエト連邦国際連盟に加盟し、反ファシズム統一戦線の結成を提案するなど対外政策を大きく転換させた時期に同国に滞在し、共産党の機関紙『リュマニテ』、『ス・ソワールフランス語版』の国際政治欄を担当するほか、国際革命作家同盟の機関誌『国際文学フランス語版』のフランス語版、国際革命作家同盟のフランス支部として設立された革命作家芸術家協会の機関誌『コミューンフランス語版』を編纂した。

小説家として『アントワーヌ・ブロワイエ』、『トロイの木馬』、『陰謀』の3作を発表し、社会主義リアリズムの作品『陰謀』は1938年のアンテラリエ賞を受賞した。

第二次大戦下、英国軍通訳連絡将校としてダンケルクの戦いにおいて戦死。独ソ不可侵条約の締結とこれに対する共産党の態度を批判して離党したために戦後、トレーズ書記長や他の共産党員から裏切り者と非難され、サルトルらが抗議(ニザン事件)。作家としても20年にわたって忘れ去られていたが、1960年にサルトルが序文を付した『アントワーヌ・ブロワイエ』が再版されてから再評価が始まり、邦訳も1966年から1975年にかけて『ポール・ニザン著作集』全9巻・別巻2冊が刊行された。

歴史学者・人口統計学者のエマニュエル・トッドは孫(娘アンヌ=マリーと作家・ジャーナリストのオリヴィエ・ドットフランス語版の子)にあたる。

生涯

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背景

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ポール・ニザンは1905年2月7日、フランスの中部アンドル=エ=ロワール県トゥールでピエール・ニザン(Pierre Nizan、1864-1930)とクレマンティーヌ・メトゥール(Clémentine Métour、1873-1951)の間にポール=イヴ・ニザン(Paul-Yves Nizan)として生まれた[1]。父方の祖父は分益農、父は鉄道技師で、1913年に昇進してドルドーニュ県ペリグー工場転勤になり、1917年にサボタージュのためパリに異動させられた[2][3]。1933年発表の『アントワーヌ・ブロワイエ』は、労働者階級から勤労によってプチブルジョワの地位を築いた父の人生をモデルにした小説である[4]

学業・読書

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トゥールの小学校、次いでペリグーの中学校を卒業した後、1917年にリセ・アンリ=カトルに入学し、同じ1905年生まれのジャン=ポール・サルトルと知り合った。通常は引き続き同校のグランゼコール準備級に進むところ、二人ともリセの校長との口論の結果、リセ・ルイ=ル=グランに転校して準備級に進んだ[2][5]。ニザンは同校の準備級で学ぶ傍ら、リセ・ルイ=ル=グランのアラン哲学の講義などを受講し[2]、1924年にサルトルとともに高等師範学校に入学した。高等師範学校の学生の部屋は同校の学生の俗語で「テュルヌ(thurne)」と呼ばれるが[6][7]、ニザンとサルトルは「同室(コ・テュルヌ、cothurne)」であった[8][9]

リセ在籍中の1922年に初めてを書き、書き直して他の詩と併せて1927年にリーデル出版社フランス語版フランス大学出版局の前身)の顧問であったジャン=リシャール・ブロックに送ることになるが、抒情的・幻想的なフランシス・ジャムジュール・シュペルヴィエルの影響を受けた作品であった[4]。また、ルイ=ル=グランでは象徴派の詩人ボードレール社会主義の詩人・思想家シャルル・ペギーを耽読する一方で、王党派極右国粋主義アクシオン・フランセーズを結成したシャルル・モーラスに傾倒する教員に彼の作品を読むよう勧められ、後に一時期だが極右に関わるのは、こうした影響であったとされる[4]。このほか、リセから高等師範学校の時代にニザンが愛読した作家として、その影響が指摘されるのはジュール・ラフォルグスタンダールジャン・ジロドゥフローベールエミール・ゾラモーパッサンジョルジュ・デュアメルアンドレ・ジッドドストエフスキーイェイツプラトンゲーテヴァレリー・ラルボーデカルトシェイクスピアホメーロスポール・クローデルH・D・ソロード・スタール夫人サン=ジョン・ペルスポール・ヴァレリーと、フランスのみならず、同時代のイギリスアメリカドイツロシアの作家から古代哲学まで広範に及んでいる[5]

模索の時期

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高等師範学校時代のポール・ニザン(1924年頃)

さらに、『自我礼拝』三部作[注釈 1]などにより、かつては青年知識人の敬愛の的でありながら、後に極右的な思想に傾倒して批判されることになったモーリス・バレス(「バレス裁判」参照)の影響はシャルル・モーラスの影響以上に直接的であり、アクシオン・フランセーズから分離したジョルジュ・ヴァロワフランス語版、バレスの息子フィリップ・バレスフランス語版らによって結成されたファシズム政党ル・フェソーフランス語版に数か月だが参加し、同名の機関誌に寄稿した[5][9][注釈 2]。また、この関連で、『ル・フェソー』誌と詩誌『アルゴノート(Argonautes金羊毛を探す冒険に乗り出した「アルゴー船の乗組員」の意)』が合併して創刊された『フリュイ・ヴェール(Fruits Verts、緑の果実)』誌にも参加した。これは、ジッド、ジロドゥ、ジュール・ロマンへのオマージュとして創刊された雑誌で、ニザンは短編、詩篇、プルースト論などを寄稿したが、これも2号で廃刊となった[5][9][13]。同様に4号で廃刊になった若手作家・芸術家の雑誌『無題評論(La Revue sans titre)』にはサルトルとともに参加し、後の『番犬たち』に通じる風刺的・体制批判的な「メリーランド(煙草)を2箱吸いながら恋人を解剖した医学生の哀歌(La complainte du carabin qui disséqua sa petite amie en fumant deux paquets de Maryland)」などを発表した[5]

ニザンは極右への一時的な傾倒だけでなく、宗教に救いを見いだそうとしてプロテスタントへの改宗を考えたり、多くのカトリック作家が訪れたことで知られるサルト県ソレムベネディクト会修道院を訪れたり、さらには状態・神経症気味でスイスサナトリウムに入ることすら考えたりするほどであった[2][5][9]。1925年10月にはピサフィレンツェローマイタリアを「巡礼」した[2][9]

高等師範学校ではサルトルのほか、後の社会学者・哲学者のレイモン・アロン(同じ1905年生まれ)、労働運動ソビエト連邦史専門の歴史学者・マルクス主義ジャン・ブリュアフランス語版[注釈 3]と同期であり、後に労働社会学フランス語版を提唱することになるジョルジュ・フリードマンフランス語版、およびマルクス主義者・翻訳家のノルベール・ギュテルマンフランス語版と親しかった[2]。ギュテルマンは同じ1924年に、ジョルジュ・ポリツェルアンリ・ルフェーヴルらのマルクス主義哲学者とともにソルボンヌ大学を拠点に、(詩人画家マックス・ジャコブの支援を得て)『哲学(Philosophies)』誌を創刊し、マルクス主義とフロイト精神分析の影響を受けたシュルレアリスムの若手作家ジャン・コクトールネ・クルヴェルピエール・ドリュ・ラ・ロシェルジュリアン・グリーンフィリップ・スーポーらが寄稿していたが[14][15]、ニザンはこの時期にはまだ彼ら左派知識人の活動に直接参加することはなく、活動を共にするのは1927年の共産党入党後、特にポリツェル、ルフェーヴル、ギュテルマン、作家ピエール・モランジュフランス語版らが1929年に『マルクス主義評論(Revue marxiste)』誌を創刊したときからである[16]

大英帝国支配下のアデン - 共産主義への傾倒

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1910年頃のアデン(イエメン)

1926年9月、ニザンは突然、学業も執筆活動も中断し、政治家アントナン・ベスフランス語版の子息の家庭教師として、1839年以来大英帝国の支配下にあったアデン[17]アデン湾に面するイエメン共和国の港湾都市)に向かった。1927年5月まで同地に滞在することになるが、ここで目にしたのは期待した異国情緒とは裏腹に、植民者の資本主義搾取に苦しむ現地人の悲惨さであり、植民地というブルジョワ社会の縮図であった[3][9]

帰国後、彼は1931年に発表された抗議文書(パンフレ、Pamphlet[注釈 4]『アデン アラビア』で、こうした植民地アデンの現状と植民地主義帝国主義)・資本主義・ブルジョワジー(ブルジョワ教育、ブルジョワ文化、ブルジョワ哲学)、ホモ・エコノミクス、人間による人間の疎外を厳しく糾弾した[19][3]

こうした経験から共産主義への傾倒を深めたニザンは、1927年に帰国すると共産党に入党した。『アデン アラビア』は「ぼくは20歳だった。それが人生で最も美しい時代とは誰にも言わせない」という、しばしば引用される有名な一文で始まる。かつて絶望や孤独に苛まれ、極右思想、信仰、異文化・非西欧世界に解放の糸口を求めた彼が、「私は絶望している。我々皆が絶望しているからだ」、この社会は「絶望した人間の社会だ」という認識に至り、解放の糸口は、こうした「人間社会を丸ごと受け止め、人間らしさを取り戻す生を得る」こと、そしてそのために必要なのは「革命」という共通の目標に向かって「連帯」すること、社会的責任を負った人間として行動することにあると確信したのである[3][9][19]

同じ1927年に、高等師範学校のパーティーで知り合い、アデンから頻繁に手紙を書き送っていたアンリエット・アルファン(Henriette Alphen、1907-1993)と結婚し、サルトルとアロンが立会人を務めた[20]。歴史学者・人口統計学者のエマニュエル・トッドは、翌1928年に生まれた第一子アンヌ=マリーの子である[21]

同1928年に高等研究学位(Diplôme d'études supérieures)を取得し、1929年に24歳で哲学のアグレガシオン(大学教授資格)を取得した。前年落第したサルトルが主席、21歳のボーヴォワールが次席であった[22]

共産主義活動・執筆活動

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ニザンは高等師範学校で共産主義・反軍国主義の仲間と軍事訓練を妨害したこともあり、1929年7月4日付の共産党の機関紙『リュマニテ』に、彼らと連名で軍事教育に抗議する書状を掲載し、同紙の表紙にも「次の戦争に備えた大学の恥ずべき軍隊化」という小見出しが付けられた[2]

一方、1923年に作家として最初に共産党に入党したアンリ・バルビュス[23]、1919年に戦争小説『クラルテ(光明)』を発表したのを機に、知識人の国際反戦平和運動「クラルテ」を結成、同名の機関誌を創刊し、編集長を務めていたが[24]、ニザンが親しくしていた上述の『哲学』誌を中心とするマルクス主義哲学者ポリツェル、ルフェーヴル、およびアンドレ・ブルトンルイ・アラゴンらシュルレアリストは、バルビュスがクラルテ運動の一環として『リュマニテ』紙上で呼びかけたリーフ戦争反対に賛同し、共同声明「まず革命を、そして常に革命を」を『リュマニテ』紙(1925年9月21日付)[25]と『シュルレアリスム革命』誌第5号(同年10月15日付)[26][27]に掲載した。さらにこれを機に、ブルトン、アラゴン、エリュアールバンジャマン・ペレらシュルレアリストがニザンと同じ1927年に共産党に入党し、ポリツェル、ルフェーヴルらは1929年に入党した[28]。同じ1929年に再びポリツェル、フェーヴル、モランジュ、ギュテルマンが『マルクス主義評論』誌を創刊すると、ニザンはフリードマンらとともに参加した[16]

『マルクス主義評論』誌は第7号をもって終刊となったが、以後、ニザンは『リュマニテ』、『ボリシェヴィキ手帖フランス語版Cahiers du Bolchévisme)』などの共産党の機関紙(機関誌)、『ス・ソワールフランス語版Ce soir、今宵)』、国際革命作家同盟の機関誌『国際文学フランス語版La Littérature internationale)』、国際革命作家同盟のフランス支部として設立された革命作家芸術家協会の機関誌『コミューンフランス語版Commune)』(後述)のほか、『クラルテ』の後続誌で同じくバルビュスが主宰する文学、芸術、科学、経済、社会問題の総合雑誌『世界フランス語版Monde)』[29][30]、「戦争世代の機関誌」と題された戦間期の文学雑誌『ルヴュ・デ・ヴィヴァン(La Revue des vivants、生者評論)』[注釈 5]、ジッドらが創刊し、特に戦間期には党派性を排除し、外国文学を積極的に紹介したことで国際的な影響力をもつことになった[33][34]ジャン・ポーラン主宰の『新フランス評論』、作家ロマン・ロランらによって創刊され、彼の「精神の独立」の理念に基づく平和主義の雑誌であり、1920年代には第一次大戦後の欧州の再建に関する議論の場であった『ユーロープ』(ジャン・ゲーノ主宰)[35]フランス人民戦線の機関紙として創刊された『ヴァンドルディ(金曜)』[36]、ロマン・ロランの支持を得てニザン自身がリュック・デュルタンフランス語版と共同で編集した『青年手帖(Les Cahiers de la jeunesse)』(1937年)[注釈 6]など多くの雑誌に寄稿した。

ブルジョワ秩序の「番犬たち」糾弾

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とりわけ、ジョルジュ・リブモン=デセーニュフランス語版とピエール・G・レヴィー(Pierre G. Levy)によって1929年に創刊された『ビフュールフランス語版Bifur)』は、ジャコメッティベルメールデルヴォーらが寄稿していた『ミノトールフランス語版ミノタウロスの意)』、アラゴン、ブルトン、ペレ、ナヴィルによって創刊されたシュルレアリスム運動の機関誌『シュルレアリスム革命』、ジョルジュ・バタイユらを中心とする『ドキュマンフランス語版』と並んで、戦間期の前衛文学・芸術運動で重要な役割を担った文学雑誌であり、トリスタン・ツァラアンリ・ミショー、フィリップ・スーポーらが寄稿し、ケルテース・アンドルモホリ=ナジ・ラースロークロード・カアンらの作品も掲載されたが[38][39][40]、第5号からニザンが文学顧問として参加すると、共産党宣伝部からの依頼もあって政治色の強い雑誌になり、第8号で終刊となった[9]。編集事務局を務めていた映画評論家のニーノ・フランクは、これをニザンの責任であると非難した[2]。『ビフュール』誌第7号に1932年刊行の抗議文書『番犬たち』の初稿にあたる「哲学に関する注釈・計画(Notes-programme sur la philosophie)」が掲載された。『番犬たち』ではソルボンヌの著名な哲学教授、とりわけ、合理主義数理哲学レオン・ブランシュヴィックノーベル文学賞を受賞した哲学者アンリ・ベルクソンをブルジョワ秩序の「番犬たち」、あるいは「ブルジョワ秩序を説く大司教」であるとし、学生に対して抽象的な哲学を説くことで、彼らが世界に目を開くことを妨げていると痛烈に批判した[41][42]。さらに、知的エリートと政治権力が結託した時代にあって、著作活動は人類のための活動ではなく、国の制度やイデオロギーの道具(大学報道警察)で守られた特権階級・支配者階級のための活動にすぎないと断じた[42]。これはマルクス主義者・共産党員として活動を共にしたポリツェルと同様の視点であり、ポリツェルもまた彼が創刊し、ニザンも寄稿した『具体的心理学評論(La Revue de psychologie concrète)』誌に発表した「哲学天国ベルクソン主義の終焉」で、ベルクソン、ブランシュヴィックら「現代のスコラ学派」の「過度に深遠な」哲学をプチブル哲学と呼び、国家に危険をもたらすような(たとえばプロレタリア革命のような)真の問題解決を回避するために、問題の対象範囲を超える「抽象的」で「深遠」な解決を提唱しているにすぎないと批判した[43]

共産党活動

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地方の党員・総選挙

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1929年に哲学の大学教授資格を取得した後、兵役に服し、1931年に哲学教員としてアン県ブール=カン=ブレスオーヴェルニュ=ローヌ=アルプ地域圏)のリセ・ラランドに赴任した。彼はここでも労働総同盟左派の統一労働総同盟フランス語版への加入を勧めるなど、共産党員として積極的に活動し、地元の新聞・雑誌で保守派に「ブール(=カン=ブレス)の共産党指導者」、「赤い救世主」などと揶揄された[2]

1932年の総選挙(Élections législatives françaises de 1932)では、ブールの共産党候補として出馬し、第一回投票で約3%の得票、第二回(最終)投票では1%にも満たなかった。こうした背景には共産党がコミンテルンの指令による「階級対階級」戦術を採用したこと、すなわち、第一回投票で社会党候補が優位に立った場合、左派を当選させるために共産党候補が辞退するという従来の戦略を放棄したことがあり、この結果、共産党は大敗を喫し、急進党社会党(SFIO)の左派連合が勝利し、議席数では急進党が第一党となった[44][45]

共産党の機関紙

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ニザンは次いでジェール県オーシュオクシタニー地域圏)のリセの哲学教員に任命されたが、休暇を取ってパリに戻り、党活動と執筆活動に専念した。党内ではガブリエル・ペリフランス語版が編集を担当していた『リュマニテ』紙の国際政治欄に寄稿した[1]。同紙では、1930年の国際革命作家同盟(UIER)のハリコフ会議を機に、シュルレアリスム運動から離れて社会主義リアリズムに転じたアラゴンが報道記事を担当していた[46]。さらに国際革命作家同盟のフランス支部として1932年3月に結成された革命作家芸術家協会(AEAR)に参加し(結成時の会員は作家80人、芸術家120人、うち共産党員が36人)[47]、翌1933年7月に創刊された文芸雑誌『コミューン』の編集事務局をアラゴンと共同で務めた。編集委員はバルビュス、ジッド、ロマン・ロラン、ポール・ヴァイヤン=クーチュリエフランス語版であった[48]。ヴァイヤン=クーチュリエは国際革命作家同盟の機関誌『国際文学』のフランス語版の編集長も務めており、アラゴンとニザンはそれぞれ特定の号の編集を担当した[49]

1933年に最初の小説『アントワーヌ・ブロワイエ』を発表した。上述のように、労働者階級から勤労によって小ブルジョワの地位を築いた父の人生をモデルにした小説であり、第二帝政下のフランスにおける資本主義の台頭をマルクス主義の観点から分析し、産業化・都市化の過程で疎外され、破滅していく人間を描いている[3][50]。この処女作は早くもゴンクール賞候補作に選出された[1]

ソ連訪問

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1934年、これまでの活動を党指導部に評価されてソビエト連邦へ派遣され、妻アンリエットと子ども(6歳のアンヌ=マリー、4歳のパトリック)とともに約1年間にわたってモスクワレニングラードウラル中央アジア(主にタジキスタン)に滞在した。モスクワではマルクス=エンゲルス研究所[51]を訪れ、『国際文学』誌のフランス語版を編集してソビエト連邦作家同盟の第1回大会(1934年8月)への参加を呼びかけた。大会に参加したジャン=リシャール・ブロック、アンドレ・マルローとはこの後生涯にわたって親交を深めることになった[1]。また、この間の経験については後に『ユーロープ』、『ヴァンドルディ』に随筆紀行を発表した[3]

ニザンがソ連に滞在した時期は、同国が対外政策を大きく転換させた時期に相当する。1933年にヒトラー内閣が成立すると、ソ連は日独のファシズム国家との戦いのために英米資本家や社会主義者と協力して統一戦線を結成する方針に転じ、1934年に国際連盟に加盟、1935年のコミンテルン第7回大会で反ファシズム統一戦線の結成を提案することになったからである[52]。ニザンは帰国後に新しいソ連のイメージを伝えるために記事の執筆や講演会の開催に奔走し、『リュマニテ』紙の国際政治欄では米国ベルギーアイルランドギリシアブラジル日本ポーランドアルバニア、ヒトラー内閣、ドイツのラインラント進駐第二次エチオピア戦争スペイン内戦など多岐にわたる問題を取り上げ、さらに1935年8月から文学評論欄も担当した[1]。このほか、ニザンは上述の文芸雑誌以外に主に共産党系のグラフ雑誌ルガールフランス語版(まなざし)』、国際政治については『国際通信(Correspondance internationale)』や『現代ロシア(Russie d'aujourd'hui)』[53]などに寄稿し[44]、また、1960年代にマルロー文化相の「文化の民主化」の中核事業となる文化の家フランス語版[54]は、当初、革命作家芸術家協会の本部であり、アラゴンが事務総局を務めていたため、ニザンはクルヴェルらとともにアラゴンが企画する文化活動に参加し、講演を行った[46]

反ファシズム活動

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1935年6月にはファシズムから文化を守ることを目的とした第一回文化擁護国際作家会議フランス語版がバルビュス、ロマン・ロラン、マルロー、ジッド、アラゴンらの提案によりパリで開催され、ソ連のイリヤ・エレンブルグイサーク・バーベリ、ドイツのハインリヒ・マンベルトルト・ブレヒトアンナ・ゼーガースオーストリアローベルト・ムージル英国オルダス・ハクスリーら約24か国から230人の文学者が参加した[55]。「文化遺産」、「ヒューマニズム」、「国民と文化」、「個人」、「思想の尊さ」、「社会における作家の役割」、「文学創造」、「文化擁護のための作家の行動」のテーマで行われたこの大規模な反ファシズム作家会議で、ニザンは「ヒューマニズム」に関する講演を行い、マルクス主義ヒューマニズムフランス語版の重要性を強調した[2]。この会議の概要と主な講演についてはバルビュスの『世界』誌や『コミューン』誌で報告され[56][57]、邦訳も『文化の擁護 - 1935年パリ国際作家大会』として刊行された[注釈 7]

1936年にスペイン内戦を取材して『国際通信』誌に記事を掲載し、次いで『ルガール』誌および『リュマニテ』紙の特派員としてさらに取材を続けた。1937年にスペイン人民戦線政府(共和派)を支援するために同政府の援助を得て共産党の新しい機関紙『ス・ソワール』が創刊された。トレーズ書記長からの依頼を受けてアラゴンとジャン=リシャール・ブロックが共同で編集し、ニザンは『リュマニテ』紙から『ス・ソワール』紙に移って再び国際政治欄を担当した[1]。同紙はスペイン人民戦線を支持するガブリエル・ペリ、ジャン・コクトー、ジョルジュ・サドゥールフランス語版エルザ・トリオレジュリアン・バンダジャン・ブランザフランス語版らが寄稿し、売上部数が1937年の12万部から2年後の1939年に25万部に急増した(同年の『リュマニテ』は約35万部)[58]

作家活動

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アンテラリエ賞を受賞したポール・ニザン(1938年)

1934年にニザンの編纂によるマルクスの『論文選集』が刊行された。特にマルクスが若い頃に執筆した哲学論文を中心に編纂したものであり、ニザンの「哲学者マルクス」論が収録され、ギュテルマンとルフェーヴルが序文を付している[59]

1936年に発表した『古代の唯物論者たち』は、共産党の社会出版社フランス語版の「社会主義と文化」叢書を担当していたジョルジュ・フリードマンの勧めで、唯物論に関する一般書として書いたものであり、副題(あるいは新版では書名)にあるとおり、デモクリトスエピクロスルクレティウスを取り上げている[1][60]

一方、ニザンが発表した小説は上述の『アントワーヌ・ブロワイエ』と1935年発表の『トロイの木馬』、1938年発表の『陰謀』の3作である。『トロイの木馬』はブールでの経験に基づく小説で、地方の共産党員の活動を描いた社会主義リアリズムの作品であり、ドス・パソススタインベックなどアメリカの社会派小説家の手法を取り入れている[50]。サルトルの『嘔吐』と同じ年に発表された『陰謀』は、サルトルらとともに過ごしたリセ・アンリ=カトルやリセ・ルイ=ル=グランでの経験をもとに多感な若者たちの反抗を描いた小説であり[61]、同じく社会主義リアリズムの作品とされるが、『トロイの木馬』よりも文学作品としての完成度が高く[62]、同年のアンテラリエ賞を受賞した。同賞はジャーナリスト約30人によって1930年に創設された権威ある文学賞の一つで、当初はジャーナリストが書いた小説を対象とし、第1回受賞作品はアンドレ・マルローの『王道』(邦訳の新版は渡辺淳訳、講談社文芸文庫、2000年)であった[63]

ミュンヘン協定、独ソ不可侵条約

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1938年9月29日のミュンヘン協定締結にニザンは深い失望を覚え、フランス首相エドゥアール・ダラディエ外相ジョルジュ・ボネフランス語版、イギリス首相ネヴィル・チェンバレン反共主義を批判した。『ス・ソワール』紙の国際政治欄担当の彼は、ミュンヘン会談に至るまでの経緯を記録していたが、会談開催前日に断念し、翌1939年に『九月のクロニクル』として発表した。生前に発表された最後の著書だが、ナチスに没収され焼却された[64]。1978年に出版された復刻版では、娘アンヌ=マリーの夫で作家・ジャーナリストのオリヴィエ・ドットフランス語版(エマニュエル・トッドの父)が序文を書いている[64]

1939年8月23日、スターリンヒトラー独ソ不可侵条約を締結したことは世界中に大きな衝撃を与えた。とりわけ反ファシズムを掲げた左派の政党や知識人団体、なかでも共産党にとっては大きな痛手であり、指導部は8月26日付の『リュマニテ』紙で「独ソ不可侵条約は、ナチズムの基本的教義全体の突然の放棄である」と苦しい弁明をしたが[65]、ダラディエ内閣は『リュマニテ』紙、『ス・ソワール』紙、『コミューン』誌など共産党のすべての刊行物を発禁処分にし、さらに、集会や宣伝活動も禁止した[65][66]

9月1日にドイツがポーランドに侵攻すると、翌2日に総動員令が発せられた[67]。9月17日にソ連がポーランドに侵攻した6日後の9月23日、ニザンは配属された連隊駐屯地から直接交流のあった共産党指導部のジャック・デュクロフランス語版に、「離党届を提出する。現在、軍務に服する兵士として、これ以上は何も書けない」とだけ書かれた離党届を提出した[2]

奇妙な戦争の間にニザンは次作『ソモシエラの夜会(Soirée à Somosierra)』の執筆に取りかかった。この作品は実戦が始まるまでに完成していたとされるが、原稿は見つかっていない[68]

タルジェット国立戦没者霊苑

1940年5月にドイツ軍がフランスに侵攻すると、ダンケルク近くに駐屯する英国軍通訳として転属されたが、1940年5月23日、ダンケルクの戦いにおいてパ=ド=カレー県オードリュイクフランス語版で流れ弾に当たって戦死した[1][19][69]。享年35歳。同県ヌーヴィル=サン=ヴァフランス語版のタルジェット国立戦没者霊苑(Nécropole nationale de la Targette)に眠る[70]。1956年、墓石に「通訳・連絡将校フランスのために死すフランス語版」と刻まれた[71]

ニザン事件・再評価

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ニザンは離党について妻アンリエットへの手紙に、共産主義の理念に反する「党のリアルポリティクスは支持できない」と書いていたが[2]、ニザンの突然の離党は党内のみならず多くの左派知識人から批判され、トレーズ書記長は「裏切り(trahison)」、指導部のジョルジュ・コニオフランス語版は「背教(apostasie)」と非難し、サルトルにすら「衝動的な行為(coup de tête)」とされ、長い付き合いのあったロシア生まれの英国の作家・ジャーナリストのアレクザンダー・ワースフランス語版[注釈 8]には「愚行(connerie)」と言われた[2]

さらに戦後にこの問題が再燃し、ルフェーヴルが1946年刊行の『実存主義』で、アラゴンが1947年4月の『レットル・フランセーズ』紙、『リュマニテ』紙、1949年刊行の小説『レ・コミュニスト』でそれぞれニザンを批判した。『レ・コミュニスト』ではニザンになぞらえて党の裏切り者パトリス・オルフィラ(Patrice Orfilat)を描いた[8]。これに対してサルトルは、『レ・タン・モデルヌ』にニザンを支持するモーリアックカミュ、ポーラン、ミシェル・レリス、ボーヴォワール、メルロー=ポンティ、ブルトン、ロジェ・カイヨワら知識人26人の請願書を掲載し、共産党にニザンを批判する根拠を提示するよう求めた[61]。共産党は明確な根拠を示すことができず、ルフェーヴルは、『実存主義』は「スターリン主義」の作品であると釈明し、アラゴンは『レ・コミュニスト』の1966年の再刊の際に「パトリス・オルフィラ」に関する部分を削除した[61][72]

だが、作家としてのニザンが再評価されるようになったのは、没後20年を経て1960年にサルトルの序文が付された『アデン アラビア』が再版されたときのことである[69]。これ以後、彼の他の作品も再版され、雑誌・新聞に掲載された記事や書簡も『社会主義の知識人ポール・ニザン - 記事・書簡 1926-1940』として1967年に刊行され(新版 1979年)[73]、1968年の五月革命の学生運動では反逆精神の体現者として学生たちに敬愛された[19]

ニザンの著書が邦訳されたのも、没後25年以上経った1966年以降である(著書参照)。

著書

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原著

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  • Aden Arabie, 1931 -『アデン アラビア』
  • Les Chiens de garde, 1932 -『番犬たち』
  • Antoine Bloyé, 1933 -『アントワーヌ・ブロワイエ』
  • Le Cheval de Troie, 1935 -『トロイの木馬』
  • Les Matérialistes de l'Antiquité, 1936 -『古代の唯物論者たち』
  • La Conspiration, 1938 -『陰謀』
  • Chronique de septembre, 1939 -『九月のクロニクル』
  • Paul Nizan, intellectuel communiste. Articles et correspondance 1926-1940, 1967 -『危機の知識人』
  • Pour une nouvelle culture, 1971 -『新しい文化のために』

邦訳

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  • 『ポール・ニザン著作集』全9巻・別巻2冊、晶文社、1966-1975年
    • 第1巻:『アデン アラビア』篠田浩一郎訳(1966年)
    • 第2巻:『番犬たち』海老坂武訳(1967年)
    • 第3巻:『アントワーヌ・ブロワイエ』篠田浩一郎訳(1968年)
    • 第4巻:『トロイの木馬』浦野衣子訳(1970年)
    • 第5巻:『陰謀』鈴木道彦訳(1971年)
    • 第6巻:『古代の唯物論者たち』加藤晴久訳(1974年)
    • 第7巻:『九月のクロニクル』村上光彦訳(1968年)
    • 第8巻:『危機の知識人』海老坂武訳(1974年)
    • 第9巻:『妻への手紙』野沢協・高橋治男訳(1969年)
    • 別巻1:アリエル・ガンスブール(Ariel Ginsbourg)『ポール・ニザンの生涯』佐伯隆幸訳(1968年)
    • 別巻2:『今日のポール・ニザン』浦野衣子訳(1975年)イヴ・ビュアンフランス語版「ニザンあるいは不快感」、ルイ・マルタン=ショーフィエフランス語版「ポール・ニザンは密告者ではなかった」、ベルナール・ベニエ(Bernard Besnier)「妥協の道 modus vivendi」、ジャクリーヌ・ライナードイツ語版「ピランデッロふうの肖像 同時代人の見たニザン」、ジャン=ジャック・ブロシエフランス語版「裏切者の役目」、アリエル・ガンスブール(Ariel Ginsbourg)「ひとつの政治散歩ポール・ニザンとともに」、クララ・マルローフランス語版「モスクワへの旅」、ジャン=ピエール・バルー(Jean-Pierre Barou)「ある小説家の死と生」、アンリエット・ニザン(Henriette Nizan)「公開状」、ポール・ニザン「資料 現代フランス文学の諸傾向」・「ジイドとロマン・ローランへの抗議」、「仏国文壇人に訊く世紀の話題 - 西班牙と露国」、アンドレ・ユルマン「(座談会)ポオル・ニザンと語る」、長田弘「日本におけるポール・ニザン」)
  • 『陰謀』花輪莞爾訳、角川書店角川文庫〉1971年
  • 『アントワーヌ・ブロワイエ』花輪莞爾訳、角川書店〈角川文庫〉1972年
  • 『アデン・アラビア』花輪莞爾訳、角川書店〈角川文庫〉1973年
  • 『トロイの木馬』日本共産党中央委員会文化部世界革命文学選編集委員会編、野沢協訳、新日本出版社〈世界革命文学選〉1967年
  • 『新しい文化のために』スーザン・スレイマン(Susan Rubin Suleiman)編、木内孝訳、法政大学出版局〈叢書・ウニベルシタス〉1987年
  • 「アデン、アラビア」小野正嗣訳、『アデン、アラビア/名誉の戦場』(河出書房新社池澤夏樹=個人編集 世界文学全集1-10〉2008年)所収

注釈

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  1. ^ 『自我礼拝』伊吹武彦訳(『新世界文学全集 第4巻』)河出書房、1941年。
  2. ^ フランス語の「フェソー(faisceau)」はファシズムの語源であるイタリア語の「ファッショ(fascio)」に相当し、同団体はムッソリーニを支持したが、機関誌はまもなく廃刊になり、ヴァロワ自身もイタリア・ファシズムに幻滅して1927年に左派に転じ、1928年、共和派サンディカリスト政党を結成。ナチス・ドイツ占領下でレジスタンス運動に参加し、ベルゲン・ベルゼン強制収容所で死去した[10][11][12]
  3. ^ 邦訳に『ソヴェト連邦史』(小出峻訳、白水社文庫クセジュ〉1957年、改訂新版 1971年)、マルク・ピオロ(Marc Piolot)共著『フランス労働運動史 - 労働総同盟(CGT)小史』(小出峻訳、合同出版社、1958年)などがある。
  4. ^ ドレフュス事件におけるエミール・ゾラの『私は弾劾するJ'accuse… !)』のような「パンフレ」は、フランス文学独自の伝統的なジャンルである[18]
  5. ^ 戦間期の1927年から1935年まで刊行され、ピエール・ブノアルネ・カサンジャン・カスーアンドレ・シャンソンピエール・コットロラン・ドルジュレスフランス語版ジャン・ジオノピエール・マッコルランフランス語版アンリ・ド・モンテルランヴィクトル・セルジュフランス語版ポール・ヴァレリーらが寄稿した[31][32]
  6. ^ 主にロマン・ロラン、ジャン・アヌイジョルジュ・オーリック、ジャン・カスー、シャルロット・デルボフランス語版、ジャン・ジオノ、ピエール・ジャン・ジューヴルイ・ジューヴェ、アンリ・ド・モンテルラン、パブロ・ネルーダジャン・ルノワールジュール・シュペルヴィエルらが寄稿した[37]
  7. ^ アンドレ・ジッド、アンドレ・マルロー、ルイ・アラゴン『文化の擁護 - 1935年パリ国際作家大会』相磯佳正、石黒英男、五十嵐敏夫、高橋治男編訳、法政大学出版局〈叢書・ウニベルシタス〉1997年、 ISBN 978-4588005800
  8. ^ 特にフランスとロシアの歴史・政治を専門とし、邦訳に『フランス現代史』(全2巻、野口名隆・高坂正尭共訳、みすず書房〈現代史双書〉1958年、1959年)、『ロシア - 希望と懸念』(内山敏訳、紀伊國屋書店、1970年)、『インド独立にかけたチャンドラ・ボースの生涯』(新樹社編集部訳、新樹社、1971年)『変るソ連 - フルシチョフが出てから』(湯浅義正訳、岩波書店、1963年)、『戦うソヴェト・ロシア』(全2巻、中島博・壁勝弘共訳、みすず書房、1967年、1969年)、『ドゴール』(内山敏訳、紀伊國屋書店〈二十世紀の大政治家〉1967年)などがある。

出典

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参考資料

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  • Jacqueline Leiner, Le destin littéraire de Paul Nizan et ses étapes successives : contribution à l'étude du mouvement littéraire en France de 1920 à 1940, Éditions Klincksieck, 1970

外部リンク

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