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=== 入門から大関時代 === |
=== 入門から大関時代 === |
2018年2月6日 (火) 22:55時点における版
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基礎情報 | ||||
四股名 | 貴乃花 光司 | |||
本名 | 花田 光司 | |||
愛称 | コウジ | |||
生年月日 | 1972年8月12日(52歳) | |||
出身 | 東京都杉並区 | |||
身長 | 185cm | |||
体重 |
161kg (現役時) 73kg (2016年) | |||
BMI |
47.04(現役時) 21.30(2016年) | |||
所属部屋 | 藤島部屋→二子山部屋 | |||
得意技 | 突っ張り、右四つ、左四つ、寄り、上手投げ | |||
成績 | ||||
現在の番付 | 引退 | |||
最高位 | 第65代横綱 | |||
生涯戦歴 | 794勝262敗201休(90場所) | |||
幕内戦歴 | 701勝217敗201休(75場所) | |||
優勝 |
幕内最高優勝22回 幕下優勝2回 | |||
賞 |
殊勲賞4回 敢闘賞2回 技能賞3回 | |||
データ | ||||
初土俵 | 1988年3月場所[1] | |||
入幕 | 1990年5月場所[1] | |||
引退 | 2003年1月場所[1] | |||
備考 | ||||
金星1個(千代の富士1個) | ||||
2013年4月30日現在 |
貴乃花 光司(たかのはな こうじ、1972年8月12日 - )は、東京都杉並区出身の元大相撲力士、第65代横綱。所属した相撲部屋は藤島部屋後に二子山部屋。現在は一代年寄・貴乃花で貴乃花部屋の師匠。元日本相撲協会理事。[注 1]相撲教習所所長、審判部長、地方場所部長(大阪)、総合企画部長、巡業部長を歴任。他にスポーツニッポン評論家(大相撲担当)[1]。
本名、花田 光司(はなだ こうじ)[2]。愛称は「コウジ」。
人物
1972年(昭和47年)、東京都杉並区阿佐ヶ谷に生まれ、同中野区で育つ[3][4]。現役時代、取組前の場内アナウンスでは中野区を出身地としていた。
父は貴ノ花利彰、母は藤田紀子。兄は花田虎上。妻は河野景子[5]で、1男2女の父親。長男は花田優一[6]。初代若乃花は伯父(父の兄)。二代目若乃花はかつて義理のいとこ(伯父の娘婿)だった。
血液型はO型。元々は右利きだったが、長年の相撲の影響で右手に痺れが残ってしまい、今は左手で箸やペンを持つようになっている[7]。
現在は大型自動二輪免許を取得し、ハーレーダビッドソンに乗っていることを明かしている[8]。
経歴
少年相撲から中学相撲
当人や周囲の回想によれば相撲に身を入れ始めたのは父の現役引退が契機だったといい、その頃から「自分が将来、相撲の世界に入って、父が果たせなかった夢を実現させるんだ」という思いで稽古に打ち込んだ[9]。
父を慕って部屋によく遊びにきていた鎌苅忠茂少年(のち入門して四股名を貴闘力)には、兄の勝ともどもかわいがられ、部屋の稽古場で相撲を取ることもあった。
小学5年生の時、わんぱく相撲の全国大会に優勝、わんぱく横綱として土俵入りを行っている。これを入れるならば、蔵前国技館と新両国国技館の両方で横綱土俵入りを行ったひとりということになる。
明大中野中に進学。同相撲部で武井美男監督から受けた廻しの切り方などの技術面の指導は、のちの躍進に大きく寄与したとされている。NHK学園高等学校(通信制)卒業、放送大学教養学部修了。
入門から大関時代
入門当時からその優れた素質が話題となり、前評判に違わず数々の最年少記録を打ち立てた[1]。新弟子検査時には「これは新弟子の体じゃない、今すぐ幕下でも通用する」と、新弟子検査担当の親方たちから驚嘆されるほど既に体作りの基礎ができていた。中には親方の息子である自身をやっかむ者がいたが、それに対して貴花田はトイレにダンベルを持ち込んで黙々と鍛えた[9]。母の証言によると、部屋の番付上位の力士が下位の力士に指示を出して昼寝を妨害していたといい、藤田は「それに打ち勝つことが稽古より大変なんです」と話していた[10]。1989年11月場所、17歳2か月で新十両に昇進した[11]当時も、出世に髪の伸びる早さが追いつかず大銀杏が結えず、ちょんまげ姿で土俵に上がった。名大関貴ノ花の息子として兄とともに入門したことは、マスメディアを通じて国民に広く報じられ、入幕前から相撲ファンの枠を超えた注目を集めていた[9]。
1990年5月場所、17歳8か月で新入幕。場所直前に足の親指の靭帯を切る負傷をしていたことから4勝11敗と大きく負け越し、十両に落ちたが[12]、11月場所で幕内に復帰した[3]。その後二場所は小幅の勝ち越し、負け越しが続きやや勢いが減速したものの、東前頭13枚目に下がった1991年3月場所では27年ぶりとなる平幕での11連勝を記録。その後小錦、旭富士らに敗れ、幕内優勝はならずも12勝3敗の好成績を挙げ、敢闘賞、技能賞をダブル受賞した。
西前頭筆頭まで番付を上げた1991年5月場所、かつて父とも対戦した千代の富士といきなり初日に取組が組まれた。伯父の二子山理事長は「何回、"残った、残った"の声が聞かれるか楽しみだ」と、甥の貴花田が負けるにしても、横綱にどれだけ相撲を取らせてもらえるか注目していた。5回の仕切りで制限時間となるが、呼吸が合わず仕切り直しで立つや、千代の富士が左から張るところを、貴花田は低く当たって右を差し、頭を付けて左からおっつけて寄り、千代の富士が右から撒き、左からおっつけると、貴花田がすかさず左上手を引いた。千代の富士はその体勢を崩そうと、左へ回って土俵際で左からの突き落としをはかり、貴花田の首筋を強引に押さえ込んだものの、貴乃花は良く足を送って残した。最後に貴花田が寄り切りで完勝し、18歳9か月で大相撲史上最年少の金星を獲得[13]。千代の富士は同場所の3日目、奇しくも貴貴闘力にとったりで敗れた相撲を最後に現役引退。結果的に同場所初日の貴花田が千代の富士を下したのを機に引導を渡したことで、次代の第一人者候補としての評価を固めていく。弟にわずかに遅れて入幕した兄若花田とともに「若貴フィーバー」と呼ばれ、平成初期の一大相撲ブームの担い手となり、一日20番の申し合いをこなす[14]、下ろしたばかりのまわしがその当日の稽古が終わるころには汗が染み込むなどの猛稽古ぶり、勝負に負けて土俵に落ちる際には顔から落ちる[15]などの勝負師ぶりを見せ、その後も順調に成長していった。稽古熱心さに関しては井筒部屋の元幕下・神光で実業家の村上光昭が「土俵に足を入れたら五時間、体を休めていることは一度もなかった」と2017年の座談会で明かしている[16]。若貴ブームの頃には若貴兄弟が女性誌の表紙を飾り、女性週刊誌や写真週刊誌には毎号のように記事が掲載され、スポーツ新聞も相撲専門の新聞のようになり、コンビニに相撲専門誌が置かれているほどであった。世話人の友鵬は当時について「出待ちの女性ファンが若貴に群がり場所入りする力士がもみくちゃになることもあったため、柵を作ってファンの接近を制限することもあった。今(2017年時点)のファンは整然として行儀が良い」という内容の証言をしている[17]。
翌1992年1月場所は14勝1敗の成績で19歳5か月での幕内初優勝を果たした[1]。同年9月場所で14勝1敗の成績で2回目の幕内優勝、同年は60勝30敗と6場所制定着後最少勝ち星ではあったものの史上最年少の年間最多勝を受賞した。さらに翌1993年1月場所では11勝4敗の成績で20歳5か月の若さで大関まで上り詰め[注 2]、父と同じ貴ノ花に改名する。次の5月場所では14勝1敗の成績で3回目の優勝を果たし、翌7月場所で初の綱獲りとなったが、千秋楽に13勝2敗で曙(第64代横綱、現プロレスラー・タレント)・兄若ノ花らとの優勝決定戦に進出したが、曙は若ノ花を押し倒し、貴ノ花を寄り倒して破り、貴ノ花は優勝同点留まりに。その後日本相撲協会から横綱審議委員会への諮問が無かった為、横綱昇進はならなかった。この時横綱昇進を果たしていれば20歳11ヶ月での横綱昇進となり、北の湖の記録である21歳2ヶ月での昇進より早いスピード横綱昇進記録1位の座を射止めていたことになる[18]。続いて9月場所は初の全勝優勝を狙った曙を千秋楽で下して阻止、曙に次ぐ12勝3敗の優勝次点で綱獲りを再び繋いだが、翌11月場所は体調不良により7勝8敗と負け越して綱獲りは完全に消滅。1994年1月場所では21歳5か月での大関角番も史上最年少の記録となった。
初の角番だった1月場所では14勝1敗で4回目の幕内最高優勝で復活。同年の3月場所で綱獲りを再び期待されるが、11勝4敗で優勝を逃し綱獲りは失敗。5月場所では14勝1敗の成績で5回目の幕内最高優勝を果たすが翌7月場所では11勝4敗に終わり、またしても綱獲りは失敗に終わった。次の9月場所では初の全勝優勝[注 3]、同9月場所後に相撲協会は横審委員会に貴乃花の横綱昇進の打診をしたものの、「『大関で2場所連続優勝』の内規を満たしていない」との理由から見送りに。それでも、貴ノ花から「貴乃花」と改名して迎えた翌11月場所でも他を全く寄せ付けず、双葉山以来の「大関で2場所連続全勝優勝」を果たし[注 4]、先場所からの30連勝も達成、ようやく横綱昇進を確実とした[1][9]。横綱昇進を飾った曙との1番は、曙の立合い右からのエルボースマッシュのようなかち上げに動じず左四つに組み止め一気に寄り切り、右小手投げでこらえて大相撲となり、49秒の死闘の末に最後は曙が左四つからがむしゃらに寄ったが、土俵際、貴乃花が右上手投げで逆転した[19]。
横綱時代
1994年(平成6年)11月場所後ついに横綱昇進が決定した。11月23日に行われた昇進伝達式で「謹んでお受け(致)します。今後も『不撓不屈』(自身大関昇進の伝達式でも用いた)の精神で、力士として相撲道に『不惜身命』を貫く所存でございます」と使者に答えた。尚横綱土俵入りは「雲龍型」を選択、当時同じ二所ノ関一門の横綱だった間垣親方と鳴戸親方の二人が主に指導した。
新横綱で迎えた1995年1月場所は初日に武双山に敗れ、1994年9月場所初日から続いた連勝は30でストップした。8日目に魁皇にも敗れたが、14日目に1敗の武蔵丸を破り、千秋楽は13勝2敗で並んだ武蔵丸との優勝決定戦を制し、自身初の3連覇を達成。新横綱の優勝は15日制になってからは、大鵬・隆の里以来史上3人目。3月場所は曙との13勝1敗同士の相星決戦となり、惜しくも敗れて4連覇は逃したが、翌5月場所でも2場所連続で曙との相星決戦となり、雪辱を果たして14勝1敗で優勝した。7月場所では14日目に優勝を決めたが、千秋楽に曙に敗れ、13勝2敗で終えた。翌9月場所でも14日目に優勝を決め、千秋楽は曙を押し出しで破り、自身2度目の3連覇を全勝優勝で飾った。11月場所は初日に琴稲妻、7日目に土佐ノ海に取りこぼして早くも2敗。中日以降は順調に白星を重ね、14日目まで12勝2敗で兄の若乃花と共に優勝争いのトップに立った。千秋楽では若乃花が武双山に敗れ、自身も武蔵丸の注文相撲に屈したため12勝3敗同士の史上初の兄弟優勝決定戦が実現。若乃花の右四つからの下手投げで敗れ、4連覇を逃した。この年1995年(23歳)、プライベートでは8歳年上の河野景子と妊娠6ヶ月でできちゃった婚約(のち結婚)をし、世間を驚かせた。
1996年は年明けから3場所連続で14勝1敗の成績を残した(1月場所は同部屋の貴ノ浪と優勝決定戦に進出したが、河津掛けで敗れた)。3月場所から9月場所では自身初の4連覇達成。9月場所は4度目の全勝優勝(これ以降、日本人力士の全勝優勝は2016年9月場所の大関豪栄道まで丸20年途絶えた)。さらに同9月場所で幕内連続12勝以上勝利が、北の湖の12場所を超える、13場所目の新記録(当時)を達成した(現在は白鵬に次ぎ歴代2位)。当時まだ24歳という年齢で、幕内優勝15回という実績や、ほとんど隙のない当時の取り口から考えると、大鵬や千代の富士の優勝回数の突破は、時間の問題とさえ言われていた。
- 成績不振
しかし、1996年(平成8年)9月場所後の巡業中、背筋の肉離れを起こすケガにより緊急帰京。肉離れが完治しない中、同年11月場所を一旦強行出場することを表明したが、場所初日の前日に急性腸炎による発熱で入院、結局11月場所は自身初土俵以来初めて本場所を全休することとなる[13][9][20]。
この休場をきっかけに、貴乃花の相撲に陰りが見え始め、また休場中の間に上体だけが肥えてしまい、1997年(平成9年)以降は体をのしかけて潰す相撲に変貌してしまう。更に強引にねじ伏せたり浴びせ倒したりするなど、明らかに相撲の質が落ち、好角家からも批判されるようになった。大型力士に対抗するために自らの判断で体重を増やしたが、あまり上手くいかなかった。兄の花田虎上は洗脳騒動で話題になった整体師に過食を勧められたからであると自身の著書で述べた。しかし、貴乃花自身は2005年(平成17年)に「大変お世話になった人。洗脳騒動は母と兄によって捏造されたものだ」と否定している。また話題となった整体師は何も語っておらず、真相は不明である[21]。
それまではかなり熱心で体の毛も生えない程だった稽古も、準備運動は入念にするものの実戦的な稽古量が激減するという事態に陥った。1997年(平成9年)は過去の稽古の貯金もあって3度優勝、通算5回目の年間最多勝(同1997年が自身最後の年間最多勝)も受賞して横綱の面目を十分に保てたが、1998年(平成10年)以降はその貯金も底を突いた状態となった。1998年(平成10年)1月場所終盤、急性上気道炎による高熱と、顔面に現れた原因不明の発疹による体調不良で、勝ち越しながらも途中休場(これにより同年2月に開催された長野オリンピック開会式及び横綱土俵入りも欠席した。横綱土俵入りの代役は曙が務めた)。翌3月場所も序盤から崩れて、肝機能障害によりまたも途中休場に追い込まれた。7月場所と9月場所は連覇して(7月場所の優勝インタビューでは、引退も考えていたとコメントした)[13]優勝回数を20回の大台に乗せたが、その後は怪我や病気に苦しみ、2年以上優勝から遠ざかることになった。
この1998年の秋場所直前に、師匠である父・二子山親方(元・貴ノ花)が、兄・花田勝(のち花田虎上)(元・若乃花)を拒絶するようになった貴乃花に対して、「貴乃花は懇意にしている整体師から洗脳されている」と発言し「貴乃花洗脳騒動」が起きた。
1999年(平成11年)は年明けから大崩れ。1月場所は序盤から崩れて盛り返すことなく8勝7敗に終わった。3月場所は10日目の闘牙戦で勝ち越しを決めたものの、左肩を骨折して途中休場。5月場所は全休。休場明けの7月場所は8日目まで1敗だったものの、9日目の出島戦で左手薬指を脱臼し、その影響で12日目から4連敗と大きく崩れ、9勝6敗に終わった。9月場所は怪我が治らないのに何故か出場して一つも勝てずに3日目から休場。再起を賭けた11月場所も初日に玉春日に敗れ(この敗戦で不戦敗を含まず7連敗となり平成以降の横綱では最多記録となってしまった)、最後を思わせるほどになってしまった。さらに6日目に栃東、9日目に魁皇にそれぞれ敗れ9日目で早くも3敗。しかしその後は持ち直して14日目まで3敗を守り、千秋楽に武蔵丸と横綱同士の相星決戦にまで持ち込み、敗れはしたものの、11勝4敗の準優勝を果たして望みを繋いだ。[13]。
また、この頃から稽古量が上向きになり、2000年(平成12年)1月場所は12勝3敗(優勝次点)、3月場所は11勝4敗、5月場所は13勝2敗(優勝次点)と復活間近を思わせた。だが7月場所は、5日目の土佐ノ海戦で勝ちながらも左手の上腕二頭筋を断裂する怪我を追い[7]、2日後の7日目・魁皇戦で切り返しで敗れた際、その左腕のケガが悪化した為またもや途中休場となった。翌9月場所は全休。休場明けの11月場所は初日から順調に白星を重ね、14場所ぶりに中日勝ち越しを決めた。9日目に武双山、10日目に千代大海と連敗し、優勝争いからは後退したものの、12日目は、この場所1横綱3大関を破り、13勝を挙げ、三賞を総ナメにした新鋭の琴光喜の挑戦を小手投げで退け、横綱の意地を見せた。13日目に武蔵丸、14日目に曙と両横綱には敗れたものの、千秋楽は3連敗中だった魁皇を寄り切りで破り、11勝4敗で繋いで不振脱出の兆しを見せた[13]。
- 復活、最後の優勝
2001年(平成13年)1月場所は初日から14連勝したが、千秋楽で横綱・武蔵丸に敗れて14勝1敗に終わる。武蔵丸と同点となり優勝決定戦にもつれ込むも、その一番では武蔵丸に勝利を果たし、14場所ぶり21度目の復活優勝を遂げた。一度変貌した相撲内容は更に変貌し、嘗ての自在の内容に代わり、完全に腰を固め、充分に捕まえて逡巡せず勝負に出るようになって新生貴乃花を印象付けた。安定感はやや低下したものの、力強さは逆に最盛期以上とも思える相撲振りを印象付けた[13]。
3月場所は3日目に栃乃洋に敗れ1敗。13日目には武双山にも敗れ2敗に後退。14日目に1敗の魁皇を上手出し投げで破り、優勝への望みを繋いだが、千秋楽に魁皇が武双山との2敗同士の対決を制し、自身が結びの一番で武蔵丸に敗れたため、優勝は魁皇にさらわれた。
そして5月場所は初日から13連勝して完全無敵の強さだった。しかし14日目の武双山戦で土俵際で巻き落としを喰らって右膝半月板を損傷する大けがを負った。もはや立つことも困難なほどの重傷であり、本来休場するべきところであった。[9]二子山親方ら関係者も休場するよう貴乃花に勧めたが、幕内優勝が掛かっていたため、周囲の休場勧告を振り切り、翌日の千秋楽は無理矢理強行出場した。千秋楽はテーピングをせずに、横綱土俵入りを披露した[22]。しかし本割りの仕切り[23]最中にすら右膝を引き摺るような仕草があり、勝負にならないことは明らかであった。その悲惨な状況に審判部として土俵下に座る九重は仕切りの最中にも「貴乃花、痛かったらやめろ!」と忠告したほどである[24]。予想通り千秋楽結びの一番の武蔵丸戦では、武蔵丸の立合いの変化に全くついて行けず一瞬で勝負がつく様な敗退で武蔵丸と相星となった[13]。
続く優勝決定戦は誰もが武蔵丸の勝利を確信せざるを得なかったが、大方の予想を覆し、武蔵丸を豪快な上手投げで破った[25]。勝利を決めた直後の鬼の形相[1]と奇跡的な優勝に当時の小泉純一郎首相は表彰式で「痛みに耐えてよく頑張った!感動した!!おめでとう!!!」と貴乃花を賞賛した。後世相撲史に語り継がれる大一番となった[13]。貴乃花が怪我を押して出場した背景には「休場すれば本割、優勝決定戦と不戦勝で武蔵丸が優勝をさらう史上初の事態になった」という状況があり、この優勝の際のスポーツ新聞の記事で貴乃花は「横綱としてというより、1人の力士としてやろうと思った。ひざがダメになったらという不安?そうなったらそうなったときですから」と言っていた[22]。表彰式での優勝インタビューでは怪我の痛みを聞かれ「特にないですよ」と答えると、大きな拍手と歓声が沸いた[22]。
- 7場所連続の長期休場
相撲史に残る大一番を制した貴乃花であったが、間もなくその代償は予想以上に大きい事が判明し、逆に大きな禍根を残すことにもなった。全休となった2001年(平成13年)7月場所後、大けがをした右膝の半月板を除去する手術をフランスで受けて再起を目指した[7]。しかし貴乃花は2001年7月場所から2002年(平成14年)7月場所まで、1年以上も全ての場所で休場となってしまう[9](なお7場所連続全休は大相撲史上ワースト1位である[3])。世間も最初は「休場してゆっくり治せば良い」と温かい目で見ていたが、休場が1年近くになった頃から、貴乃花に対する風当たりは強くなり、一部の横綱審議委員も苦言を呈するようになった。
2002年(平成14年)9月場所、横審委員会からの勧告もあって、遂に8場所ぶりの出場に踏み切った[25]。注目された初日の高見盛戦では勝利したものの、序盤の2日目・旭天鵬戦と5日目・琴龍戦でそれぞれ金星を献上してしまい、この場所途中での引退さえ囁かれた。しかしその後中盤の6日目から終盤14日目にかけて星を伸ばして12勝2敗、千秋楽に武蔵丸と横綱同士の相星決戦にまで持ち込み、敗れはしたものの12勝3敗の準優勝を果たした[7]。武蔵丸の存在が自身の力を測るバロメーターになっていたことを考えると、貴乃花は「ああ、もう自分はそろそろだな」と感じたという[26]。他の幕内力士との実力の違いを見せつけたが、場所終盤には再び右膝の怪我の状態が悪化したため、翌11月場所は[27]またも初日から全休することとなる[25]。
現役引退
そして、貴乃花自身最後の場所となった2003年(平成15年)1月場所、右膝の状態が万全ではなかったものの出場を決意。初日の若の里には土俵際の小手投げで辛うじて勝ったが、翌2日目の雅山戦では二丁投げを喰らって左肩を負傷してしまう[27][25]。明らかに不利な体勢であったが、審判委員から物言いがつき「両者同体」と判定された。その取り直しの一番は雅山に左からの上手投げで勝利したものの、左肩の怪我により翌3日目の旭天鵬戦は不戦敗、4日目まで途中休場する羽目となる[13]。
だが、5日目から横綱では異例と言える場所途中からの再出場(1954年1月場所の東富士以来49年ぶり)を決断する。5日目・闘牙と6日目・土佐ノ海に連勝はしたものの、貴乃花らしい相撲は全く見られず、7日目の出島には一気に押し出され、8日目には初対戦の安美錦にも送り出しでそれぞれ敗れてしまった。[25][13]
この同1月場所8日目の安美錦との一番を最後にその翌9日目でついに現役引退を表明(取組予定だった琴ノ若戦はこの場所2度目の不戦勝に)した。当時まだ30歳(5か月)で、実父・二子山親方とほぼ同年齢での引退でもあった。引退会見で連発した「非常にすがすがしい気持ち」[9][13]、「心の底から納得しております」は、一時流行語にもなった。
貴乃花の引退相撲と断髪式は2003年(平成15年)5月場所後に行われ、当時の横綱・武蔵丸、大関・魁皇、実兄の花田虎上、さらに長男などに鋏を入れられ、留めバサミは父親で師匠の二子山親方が入れた。断髪式後には貴乃花の長男が土俵に上がっての作文朗読があり、この時に長男は涙をこぼしていた。
2010年日本相撲協会理事選、理事として
2010年1月場所後に行われる理事選に立候補することを表明し、2010年2月の相撲協会理事選挙は10人の改選で5つある一門ごとに理事候補を調整して無投票で決定することが慣例となっており、二所ノ関一門は既に現職理事の放駒と二所ノ関のほか、新人の鳴戸が立候補を予定しているが、これに貴乃花親方が加わって4人の投票になるところであった。2009年12月から一門で候補者選定会議が行われ、4人の中で最年少であった貴乃花親方に対して立候補を断念させる方針に傾き、貴乃花親方は2010年1月8日に一門を離脱し単独で理事選に出馬することを正式に表明した。一部マスコミでは「貴の乱」と称した。
2010年1月17日の1月場所8日目、6年半振りに大相撲中継で正面解説を務め、テレビの前で所信表明。同年1月19日には二所ノ関一門は緊急会合を開き、貴乃花を支持する間垣、阿武松、大嶽、二子山、音羽山、常盤山の親方6人および間垣部屋、阿武松部屋、大嶽部屋の3部屋は事実上破門された。既に一門からの離脱を明らかにしていた貴乃花親方と貴乃花部屋に対しても、同様の措置が執られた。同時に二所ノ関一門からは現職の放駒と二所ノ関のみが立候補することになり、鳴戸は事実上立候補を断念せざるを得なくなった。
4期(8年)ぶりに評議員の投票で11人が10人の理事を争う形になった。武蔵川理事長はこの騒動に対し厳しく批判するなど話題になった。固めている票は上記7親方の票だけで当選ラインの10票まで届いていないために苦戦が予想され、他一門からの票の上乗せを目指すことになった。2月1日の理事選の投開票では落選という予想に反し、上記7親方の票以外にも3票の上積みがあり、結果10票を得て当選した(落選は大島親方)[28]。新理事会の結果、理事長は武蔵川親方の続投となった。なお貴乃花親方のことを、一部のマスメディアは「相撲協会の革命児」と報道している。
貴乃花とその支持派閥は暫く、マスメディアで「貴乃花派」「貴乃花グループ」と呼ばれる派閥を形成し、合同で稽古を行うなど一門に準じた形態で行動していたが、2014年度より他の一門と同じく協会から助成金を支給される待遇を得た[29]ことを契機として同年5月23日から「貴乃花一門」に改称となり、これにより5つあった一門が1つ増えた格好になった。[30]
2010年7月4日に行われた臨時理事会で大関・琴光喜が野球賭博に関与して解雇処分になったことを不服として、貴乃花親方は処分軽減ならびに現役続行を強く訴えたが、外部理事からの反発により却下された。また、理事選にて自身を支持した阿武松の弟子と床山、それに大嶽が野球賭博に関与して処分の対象となったことも背景にあり[31]、貴乃花親方は退職願を提出した。これは保留扱いとなり、受理されなかった。その後、貴乃花親方は朝稽古を見た後に退職を撤回した[32]。
武蔵川前理事長の辞任に伴う理事長選挙では北の湖親方を推薦し、「貴の乱再び」とまで言われた(結果は落選)。その理事長が放駒親方に代わってから初めて行われた8月20日の理事会にて、審判部長に就任した。38歳での審判部長就任は、35歳で就任した元佐田の山の出羽海親方(当時)に次ぐ、2番目の若さであった[33]。
2012年1月場所後の1月30日に行われた理事選にも立候補し、再選[34]。大阪場所担当部長に就任した。
2013年11月場所の途中より、病気休場した伊勢ヶ濱審判部長に代わって勝負審判(審判長)を務めている。2014年4月以降も引き続き理事を務めることになり、協会常勤の執行部・総合企画部長など部長職5つを任される厚遇に与った。[35]
2014年3月場所後、鶴竜が第71代横綱に昇進した。鶴竜は時津風一門の井筒部屋所属だが、当時時津風一門に元横綱の親方が不在のため、代役として無所属の貴乃花親方が鶴竜に対し、雲龍型の横綱土俵入りを指導した[36]。
2014年6月には両耳の手術を受けた。関係者は「小学校からの相撲の稽古で両方の耳たぶが腫れて血が固まって硬くなってしまい、人の話など聞きづらく、眼鏡などをすると擦れて激痛が走る状態」と説明。[37]2014年7月場所は手術した両耳が完治しておらず、北の湖理事長と相談の上体調不良による検査入院のため大事を取って全休[38][39]。同場所後の7月28日、両国国技館での横綱審議委員会より公務に復帰した[40]。
2016年1月29日の理事選挙では4選、3月28日に行われた理事長改選では現職の八角と共に次期候補となるが、多数決の結果6対2で八角に敗れた[41]。理事長選に際して頭を丸刈りにしたことが話題になった。[42]続く3月30日の職務分掌では執行部から巡業部長へ異動となった[43]。
2017年11月場所中に日馬富士の貴ノ岩に対する暴行が発覚した際、相撲リポーターの横野レイコは貴乃花と伊勢ケ濱の関係について、伊勢ヶ濱が「貴乃花派の親方と見る方もいた」とし「仲がいいと協会の多くの人が思っていた」と言っていた[44]。横野はまた、協会のヒアリングで被害届を出したとは言っていないことや事件について「分からない」と答えたことなどから、貴乃花の対応に協会を無用に安心させるものがあったとリポートした[44]。一方で、その暴行事件を受けて日馬富士・伊勢ヶ濱師弟が貴乃花の元へ謝罪に訪れた際、貴乃花は出かける車中にいて2人とすれ違いとなったため、周囲からは謝罪を拒否したようにも見られる形となった[45]。その後、診断した医師から「骨折や髄液漏の事実はなかった」との証言が出ており、また日馬富士が貴ノ岩をビール瓶で殴った事実はないと白鵬が証言しており、貴ノ岩本人も、警察の聴取には「目をつぶっていたので、何で殴られたのかはわからない」と述べたという報道もあった[46]。このことから貴乃花を批判する報道が多くなされた時期もあり、「被害届を提出したことをなぜ協会に報告しなかったのか」「なぜ伊勢ヶ濱の謝罪に応じなかったのか」という報道もあった[47][48]。貴乃花は協会危機管理委員会による貴ノ岩に対する聴取への協力を求めた八角理事長の要請を複数回にわたって拒否したという報道がなされ(貴乃花は警察と検察の捜査終了後に応じるとしていた)、協会執行部に対する貴乃花の不信感や、協会執行部と貴乃花との間の対立関係が明るみとなった[49][50]。
理事解任
2017年12月28日の臨時理事会の協議の結果、相撲協会の危機管理委員会の要請した日馬富士の暴行問題に関する協力を拒絶するなどの非協力的態度を貴乃花が取ったとされ、巡業部長としても事件の報告を怠ったという判断がなされたため[51]、貴乃花理事の解任決議が全会一致で可決された。その後2018年1月4日に、日本相撲協会の臨時評議員会が開催され、理事解任決議が承認された。日本相撲協会からは、役員待遇委員となり指導普及部副部長に就任することが発表された[52]。評議会の協議によって理事が解任されたのは史上初。元文部科学副大臣の池坊保子評議員会議長は、貴乃花が理事に再選された場合に承認拒否に含みを持たせていたが、貴乃花は2月2日の理事選挙では2票の獲得にとどまり落選となった[53][54]。
大横綱の素顔
優勝22回は歴代6位の記録であり、「平成の大横綱」と称されている。現役時代貴乃花以外の力士は少なからず八百長に手を染めていたが貴乃花だけは八百長を良しとせずその姿が引退後の親方衆からの尊敬に繋がり相撲協会最年少理事へと貴乃花を押し上げた。 身長185cm、体重160kg(いずれも全盛時)。少年期から中学生時分にはいわゆる肥満児だったが、入門後一度ガリガリにやせた後で、その上に徐々に肉がついていくという、相撲取りとして理想的とされる成長の仕方をした。この太り方は学研の学習雑誌小学生の学習・科学にも写真が掲載され紹介された。特に初優勝から大関へ駆け上がる時期の変貌ぶりは鮮やかで、それゆえにドーピング疑惑まで取りざたされたほどだった。肩幅広く、鳩胸で太鼓腹、あと胴長短足なら力士の理想像そのものとまで言われたが、最後の点だけは当人もどうしようもなかった。又、横綱正装姿はとても絵になったが、いざ土俵入りとなると四股は美しいものの、肝心のせり上がりが低く、構え過ぎであると酷評され、あまりの酷さに当時の境川理事長が激怒した事もあった。この点、四股に注文がつけられたものの、せり上がりが評価されるようになった曙と好対照をなしている。
特に曙とは数々の名勝負を演じた。幕内での対戦成績は21勝21敗、優勝決定戦まで含めた本場所中の対戦成績は25勝25敗と、全くの五分であり、当時の大相撲界は「曙貴(あけたか)時代」とも呼ばれる。特に曙との千秋楽結びの一番での対戦回数は、27回を数え史上1位である(2位は輪島-北の湖の22回、3位は柏戸-大鵬の21回)。また、相星決戦となった千秋楽結びの対戦は5回を数え、これも史上1位である。
貴乃花と曙の千秋楽結びの一番の対戦では、両者優勝圏内の対戦は5度の相星決戦を含め11度も実現した。下記の対戦結果は以下の通り。
場所 | 曙成績(地位) | 貴乃花成績(地位) | 優勝力士 | 備考 |
---|---|---|---|---|
1993年1月場所 | 13勝2敗(大関) | 11勝4敗(関脇) | 曙 | 千秋楽貴乃花3敗、曙2敗で対戦 曙勝利。 |
1993年5月場所 | 13勝2敗(横綱) | 14勝1敗(大関) | 貴乃花 | 千秋楽1敗同士相星決戦で、貴乃花勝利。 |
1993年7月場所 | 13勝2敗(横綱) | 13勝2敗(大関) | 曙 | 千秋楽貴乃花2敗、曙1敗で対戦 貴乃花勝利。優勝決定戦は、曙勝利。 |
1994年3月場所 | 12勝3敗(横綱) | 11勝4敗(大関) | 曙 | 千秋楽3敗同士で優勝決定戦出場を賭け対戦で、曙勝利。曙は貴ノ浪、貴闘力との決定戦を制して優勝。 |
1995年1月場所 | 12勝3敗(横綱) | 13勝2敗(横綱) | 貴乃花 | 千秋楽2敗同士で優勝決定戦出場を賭け対戦で、貴乃花勝利。貴乃花は武蔵丸との決定戦を制して優勝。 |
1995年3月場所 | 14勝1敗(横綱) | 13勝2敗(横綱) | 曙 | 千秋楽1敗同士相星決戦で、曙勝利。 |
1995年5月場所 | 13勝2敗(横綱) | 14勝1敗(横綱) | 貴乃花 | 千秋楽1敗同士相星決戦で、貴乃花勝利。 |
1996年7月場所 | 12勝3敗(横綱) | 13勝2敗(横綱) | 貴乃花 | 千秋楽2敗同士相星決戦で、貴乃花勝利。 |
1997年3月場所 | 12勝3敗(横綱) | 12勝3敗(横綱) | 貴乃花 | 千秋楽貴乃花3敗、曙2敗で対戦 貴乃花勝利。優勝決定戦も貴乃花が勝利。 |
1997年5月場所 | 13勝2敗(横綱) | 13勝2敗(横綱) | 曙 | 千秋楽貴乃花1敗、曙2敗で対戦 曙勝利。優勝決定戦も曙が勝利。 |
1997年7月場所 | 12勝3敗(横綱) | 13勝2敗(横綱) | 貴乃花 | 千秋楽2敗同士相星決戦で、貴乃花勝利。 |
- 1993年7月場所は、曙、貴乃花(当時貴ノ花)、若乃花(3代)(当時若ノ花)の3人による決定戦。
- 1997年3月場所は、曙、貴乃花、武蔵丸、魁皇の4人による決定戦。
東京場所で強かったが特に9月場所(秋場所)とは相性が良く、通算で6回優勝、1994年から1998年まで5連覇、3年連続全勝、48連勝などを記録した。
現役中、右四つ、寄りを得意としていたが、左四つでも遜色なく取ることができ、時に見せる突き押しにも威力があり、取り口は多彩。投げの力が非常に強く、あまり良くないとされている深い位置の上手廻しからでも強烈な上手投げがよく決まった。四つ相撲では自分十分、相手十分の体勢からでも、肘を張って廻しを切る技術が巧みで、強い引き付けと上体の強さを生かした寄り身で優位に運ぶことが出来た。安定感のある下半身で、200キロを超える力士ですら正面受け止める、いわゆる「横綱相撲」なのであるが、細かい技を組み合わせて相撲を取っているために見た目決めてかかる技がない事や、当時は千代の富士の先に勝負を仕掛ける攻撃相撲のために既に横綱像も本質的に変化していた事などが相まって、存在感はあってもずば抜けた力強さや威圧感はないと評された事もあった。場所の序盤から中盤で優勝争いのトップに立てば独走する一方、千秋楽までもつれたときや優勝決定戦での敗退の多さが、「ここ一番での勝負弱さ」を印象付けることにもなった。このため「並の名横綱」との評価もある。22回もの優勝を果たしながら期待ほどの優勝回数ではなかったとも評されるのは、若手の頃の期待感の大きさを表すものでもある。しかし、全盛時の相手に得意の技を全く出させず着実な寄り身で完封してしまう取り口は、まさに貴乃花の相撲の真骨頂であった。
貴乃花の取り口は、横綱昇進後も小さな変化を重ねている。横綱昇進後は、前廻しを狙って頭から出る立合いが主流で、当時の幕内の中では平均的な体格であったため、頭を付けたりもろ差しを狙う相撲も多かった。スケールの大きさと言う点では物足りなさが残ったが、当時の状況に合わせた取り口で、崩れない足腰と廻しを掴んでからの自在の攻めで全盛を謳歌した。
しかし、1996年11月場所に初めて休場して以降、体重過多および内臓器官や上体に怪我が重なると成績は急降下。特に1998年1月・3月場所は2場所連続で途中休場、さらに1998年11月場所からは13場所の間一度も優勝を果たせない大スランプに陥った。この頃の相撲は、立合いの踏み込みが悪く力任せで上体の強さに頼ったものであった。腰高と足腰の崩れが顕著で、粘りがなく全盛期ではありえないような負け方が多くなっていた。しかし、2000年頃から復活の兆しが見え、右四つに特化して相手を捕まえての早い攻めに活路を見出した。自在性はないものの、力強さと攻めの速さは全盛期以上でより大きな相撲を取って、2001年1月場所でようやく復活優勝を果たすに至った。
何かと記憶に残る取り組みも多く、10代で横綱千代の富士を破り引導を渡したことや、ライバル曙との名勝負、兄若乃花との兄弟での優勝決定戦、右膝半月板を損傷しながら土壇場で優勝するなど、優勝回数や記録だけでははかりえない横綱であったといえる。
同時代のライバル曙と比べ豪快さに欠けるとの評を気にして、伯父の初代若乃花の必殺技だった「呼び戻し」を試みるなど、完成間近だった相撲を自らおかしくしてしまう時期もあった。また、若貴ブームの雑音の異常な大きさは本人たちにとっては時に耐え難いものであったかもしれないが、他者の評価に真摯な性格が相撲の取り口に悪く反映してしまい、みすみす負けを呼んでしまっているように見える場合も多々あった。千代の富士を倒した場所でその後なかなか白星を上げられなかったり、婚約場所になった1992年11月場所で序盤に4連敗してしまった例などは、雑音に負けてしまった例と言えよう。一時期、マスコミ人を一様に無視する態度から相撲記者やカメラマンとの間で深刻な対立を招いたこともあった。師匠二子山や兄弟子の安芸乃島らの仲裁・助言もあって、こうした面は徐々に緩和された。
略歴
- 1972年 8月12日、東京都杉並区で大関(当時関脇)貴ノ花の花田満、元女優の藤田憲子(2001年離婚)の次男として誕生。
誕生時の体重は4300g。 - 1979年 杉並区立松ノ木小学校に入学。
- 1982年 東京都中野区の藤島部屋土俵開き。光司も一家とともに、部屋のある中野区に本籍を移転(現在の本籍も中野区にある)。
- 同年6月、わんぱく相撲東京場所に出場、4年生の部で優勝。
- 1985年 明治大学付属中野中学校に進学。同校の相撲部に入部し、中学3年間で40勝1敗の成績を残す。
- 1988年 兄勝(元横綱若乃花、現タレント花田虎上)とともに、藤島部屋に入門。同年3月場所、兄と同日に初土俵。四股名は貴花田光司(たかはなだ・こうじ)。ほかに同期の力士は曙太郎、魁皇博之などがおり「花の六三組」と言われた。
- 1989年 11月場所に十両昇進。
- 1990年 5月場所に幕内昇進。
- 1991年 5月場所初日に初対戦の横綱千代の富士を寄り切り下して、金星を獲得。この場所中に千代の富士は現役引退。
- 1992年 1月場所で14勝1敗で初優勝。この場所は三賞を全て受賞した。
- 1993年
- 1月場所後に大関昇進。四股名を貴ノ花と改名。増位山太志郎に次ぐ親子大関となる。同日、宮沢との婚約解消を公表した[3]。後年この婚約解消が宮沢りえの母の依頼をうけた美川憲一の説得によるものであることが明らかになるも[55]、この時相手を悪く言うことをせず「(彼女への)愛情がなくなりました」とだけ言って泥をかぶった姿は感心もされたが、多くの女性と宮沢ファンを敵に回した。宮沢と最後に会った時に言われた言葉は「強い横綱になってください」だったという。
- 5月場所を14勝1敗で優勝。これは宮沢との破局がなければ、「挙式直前場所」になっていたはずの場所である。
- 7月場所では13勝2敗で曙、若乃花と優勝同点だったが優勝決定戦で曙に負け、横綱昇進を見送られる。
- 9月場所では曙に優勝を許し、最年少での横綱昇進を逃す。しかしながら、曙の全勝優勝を千秋楽で阻止した一番は名勝負として語り継がれる。
- 11月場所でも成績次第では横綱昇進と噂されていたが7勝8敗と負け越してしまい、翌年1月場所を史上最年少のカド番大関として臨むこととなる。
- 1994年 カド番大関の1月場所で14勝1敗と優勝で復活。以降、大関ながら、5月場所、9月場所と1場所おきに優勝を果たして行く。
- 1995年 1月場所に新横綱として登場。初日にいきなり敗れて連勝は30で止まるが最終的に13勝2敗で優勝。3場所連続となった。
- 同年5月、元フジテレビアナウンサーの河野景子と結婚。9月、長男花田優一が誕生。
- 1996年
- 9月場所は自身初の4連覇を15戦全勝優勝で飾ったが、同場所が自身最後の全勝優勝となった。1994年から1996年の3年間近くが、貴乃花の全盛期と言われている。
- 11月場所は初土俵以来初めての全休。この辺りから怪我・病気が相次ぎ、休場する場所が多くなった。
- 1997年 11月場所で通算5回目・4年連続の年間最多勝を獲得するも、同年が最後の年間最多勝となった。
- 1998年
- 7月場所、5場所ぶり19回目の優勝。千秋楽に曙に敗れ14勝1敗、11場所ぶりの全勝はならず。尚優勝インタビュー時に貴乃花自ら「引退も考えていた」とコメント。
- 9月場所、2場所連続20回目の優勝。このころ、整体師による洗脳騒動などで父の二子山親方、兄の横綱若乃花らと不和[3]。特に兄とは絶縁まで宣言した。
- 1999年 9月に兄と一旦和解。
- 2001年
- 1月場所は14勝1敗で14場所ぶり21度目の復活優勝を遂げた。
- 5月場所は13日目まで全勝だったが、14日目の大関武双山戦で巻き落としに敗れ右膝の半月板を損傷。出場が危ぶまれた千秋楽に強行出場。本割りでは横綱武蔵丸に突き落としで不甲斐なく負け、優勝決定戦。優勝決定戦では横綱武蔵丸を上手投げで豪快に下し、通算22回目の優勝を果たす。観戦に訪れていた首相の小泉純一郎は、表彰式で内閣総理大臣杯を直接手渡し、「痛みに耐えてよく頑張った!感動した!おめでとう!」と祝福。しかしながら、右膝の故障は見た目以上に重症で、この後7場所連続全休で治療に努めたものの十分に回復せず、結果的にこの優勝が貴乃花最後の優勝となった。
- 2002年 9月場所は8場所ぶりに出場。進退をかけて臨んだこの場所で、6日目からの9連勝を含む12勝3敗を挙げ、最後まで横綱武蔵丸と優勝争いを繰り広げたが、千秋楽相星決戦を寄り切りで敗れ優勝を逃す。
- 2003年 1月場所8日目限りで現役を引退。8日目の対戦相手は安美錦。日本相撲協会は、相撲界の隆盛に格別の功績があったとして、一代年寄・貴乃花を贈呈し、功労金1億3000万円を支給した。同年3月、年寄名跡・山響株を取得(名乗りは一代年寄・貴乃花のまま。同時に兄の勝が退職したときに譲られていた藤島株は兄弟子の安芸乃島へ売却)。同年6月1日に断髪式を行う。
- 2004年 6月1日に正式に二子山部屋を継承。名前も貴乃花部屋に変更され、同日、1500人を招待して創設パーティーが行われた。
- その後、元横綱の肉体があばら骨が浮き出るほどの激やせダイエットぶりが注目された。胃袋が一般人より大きくなり、食事量を減らすのは至難のわざと言われる引退後の相撲取りの中では極めて異例なやせ方であった。
- 2005年
- 5月30日、父・二子山親方が口腔底癌のため死去。
- 7月7日、兄・勝の遺産相続放棄の宣言により、父の遺産は次男である本人が受け継ぐことになっている。その理由は、いまだに明らかではない。
- 7月18日、民放のテレビ番組などで日本相撲協会の運営を批判するかのような発言をしたとして協会から厳重注意を受ける。
- 2006年
- 2008年2月4日 日本相撲協会の役員待遇委員・審判部副部長に就任。
- 2009年2月2日 日本相撲協会の役員待遇委員・巡業部副部長・警備本部副部長に異動。
- 2010年
- 2012年2月1日 日本相撲協会理事・地方場所部長(大阪)に職務変更。
- 2014年4月3日 日本相撲協会理事・総合企画部長、指導普及部長、生活指導部長、監察委員長、危機管理部長、相撲博物館運営委員(協会本部)に職務変更。
- 2016年3月29日 日本相撲協会理事・巡業部長に職務変更。
- 2018年1月4日 日本相撲協会理事を解任され、日本相撲協会の役員待遇委員・指導普及部副部長となる。
主な成績
通算成績
- 通算成績:794勝262敗201休 勝率.752
- 幕内成績:701勝217敗201休 勝率.764
- 横綱成績:429勝99敗201休 勝率.813
- 大関成績:137勝28敗 勝率.830
- 年間最多勝:5回
- 1992年(60勝30敗)、1994年(80勝10敗)、1995年(80勝10敗)、1996年(70勝5敗15休)、1997年(78勝12敗)
- 連続6場所勝利:83勝(1994年9月場所~1995年7月場所、1994年11月場所~1995年9月場所)
- 連続勝ち越し:17場所(1994年1月場所~1996年9月場所)
- 連続2桁勝利:17場所(歴代6位、1994年1月場所~1996年9月場所)
- 連続12勝以上勝利:13場所(歴代3位、1994年9月場所~1996年9月場所)
- 連続勝利:30連勝(1994年9月場所初日から1994年11月場所千秋楽)
各段在位場所数
- 現役在位:90場所
- 幕内在位:75場所
- 横綱在位:49場所(歴代5位)
- 大関在位:11場所
- 三役在位:7場所(関脇4場所、小結3場所)
- 平幕在位:8場所
- 十両在位:5場所
- 幕下在位:3場所
- 三段目在位:3場所
- 序二段在位:2場所
- 序ノ口在位:1場所
- 番付外:1場所
各段優勝
- 幕内最高優勝:22回(歴代6位、1992年1月場所、1992年9月場所、1993年5月場所、1994年1月場所、1994年5月場所、1994年9月場所、1994年11月場所、1995年1月場所、1995年5月場所、1995年7月場所、1995年9月場所、1996年3月場所、1996年5月場所、1996年7月場所、1996年9月場所、1997年3月場所、1997年7月場所、1997年9月場所、1998年7月場所、1998年9月場所、2001年1月場所、2001年5月場所)
- 場所別優勝回数(東京場所:15回、地方場所:7回)
- 1月場所(東京):4回
- 3月場所(大阪):2回
- 5月場所(東京):5回
- 7月場所(名古屋):4回
- 9月場所(東京):6回(5連覇(1994年~1998年)、3年連続全勝(1994年~1996年)、48連勝(1993年9月場所千秋楽~1997年9月場所2日目)は歴代1位)
- 11月場所(九州):1回
- 全勝優勝:4回(歴代6位、1994年9月場所、1994年11月場所、1995年9月場所、1996年9月場所)
- 連続優勝:4場所連続(1996年3月場所から1996年9月場所)
- 優勝決定戦を経ての優勝5回(出場10回は歴代1位)
- 大関以下での優勝7回(明治以降では歴代1位)
- 相星決戦を制しての優勝4回(大鵬、北の湖、千代の富士と並び歴代1位タイ)
- 場所別優勝回数(東京場所:15回、地方場所:7回)
- 幕下優勝:2回(1989年5月場所、1989年9月場所)
三賞・金星
- 三賞:9回
- 殊勲賞:4回(1991年5月場所、1991年7月場所、1992年1月場所、1992年9月場所)
- 敢闘賞:2回(1991年3月場所、1992年1月場所)
- 技能賞:3回(1991年3月場所、1991年7月場所、1992年1月場所)
- 金星:1個
- 千代の富士1個
最年少記録
- 幕下優勝:16歳9か月(1989年5月場所)
- 十両昇進:17歳2か月(1989年11月場所)[12]
- 幕内昇進:17歳8か月(1990年5月場所)[12]
- 幕内勝ち越し:18歳3か月(1990年11月場所)
- 中日勝ち越し:18歳7か月(1991年3月場所)
- 横綱初挑戦:18歳7か月(1991年3月場所)
- 三賞:18歳7か月(1991年3月場所)[3]
- 金星:18歳9か月(1991年5月場所)[3]
- 小結昇進:18歳10か月(1991年7月場所)
- 関脇昇進:19歳0か月(1991年9月場所)
- 幕内優勝:19歳5か月(1992年1月場所)[3]
- 年間最多勝:20歳3か月(1992年11月場所)
- 千秋楽結びの一番:20歳5か月(1993年1月場所)
- 大関昇進:20歳5か月(1993年3月場所)
- 優勝決定戦:20歳11か月(1993年7月場所)
- 全勝優勝:22歳1か月(1994年9月場所)
- 連続全勝優勝:22歳3か月(1994年9月場所から1994年11月場所)
場所別成績
一月場所 初場所(東京) |
三月場所 春場所(大阪) |
五月場所 夏場所(東京) |
七月場所 名古屋場所(愛知) |
九月場所 秋場所(東京) |
十一月場所 九州場所(福岡) |
|
---|---|---|---|---|---|---|
1988年 (昭和63年) |
x | (前相撲) | 東序ノ口11枚目 5–2 |
西序二段101枚目 6–1 |
西序二段31枚目 6–1 |
東三段目74枚目 5–2 |
1989年 (平成元年) |
東三段目41枚目 5–2 |
西三段目13枚目 5–2 |
東幕下48枚目 優勝 7–0 |
東幕下6枚目 3–4 |
西幕下9枚目 優勝 7–0 |
西十両10枚目 8–7 |
1990年 (平成2年) |
西十両6枚目 9–6 |
西十両3枚目 9–6 |
東前頭14枚目 4–11 |
東十両5枚目 8–7 |
東十両2枚目 10–5 |
西前頭12枚目 8–7 |
1991年 (平成3年) |
西前頭9枚目 6–9 |
東前頭13枚目 12–3 敢技 |
西前頭筆頭 9–6[56] 殊★ |
西小結 11–4 殊技 |
西関脇 7–8 |
東前頭筆頭 7–8 |
1992年 (平成4年) |
東前頭2枚目 14–1 殊技敢 |
西関脇 5–10 |
西前頭2枚目 9–6 |
東張出小結 8–7 |
西小結 14–1 殊 |
西関脇 10–5 |
1993年 (平成5年) |
東関脇 11–4 |
東大関1 11–4 |
東大関1 14–1 |
東大関1 13–2[57] |
東大関1 12–3 |
東大関1 7–8 |
1994年 (平成6年) |
西大関1 14–1[58] |
東大関1 11–4 |
西大関1 14–1 |
東大関1 11–4 |
西大関2 15–0 |
東大関1 15–0 |
1995年 (平成7年) |
東横綱 13–2[59] |
東横綱 13–2 |
西横綱 14–1 |
東横綱 13–2 |
東横綱 15–0 |
東横綱 12–3[60] |
1996年 (平成8年) |
東横綱 14–1[61] |
東横綱 14–1 |
東横綱 14–1 |
東横綱 13–2 |
東横綱 15–0 |
東横綱 休場[62] 0–0–15 |
1997年 (平成9年) |
西横綱 13–2 |
東横綱 12–3[63] |
東横綱 13–2[64] |
東横綱 13–2 |
東横綱 13–2[59] |
東横綱 14–1[61] |
1998年 (平成10年) |
東横綱 8–5–2[65] |
西横綱 1–4–10[66] |
西横綱 10–5 |
西横綱 14–1 |
東横綱 13–2 |
東横綱 12–3 |
1999年 (平成11年) |
東横綱 8–7 |
西横綱 8–3–4[67] |
東横綱 休場[68] 0–0–15 |
西横綱2 9–6 |
東横綱2 0–3–12[69] |
西横綱2 11–4 |
2000年 (平成12年) |
西横綱 12–3 |
東横綱 11–4 |
西横綱 13–2 |
西横綱 5–3–7[70] |
東横綱2 休場[71] 0–0–15 |
東横綱2 11–4 |
2001年 (平成13年) |
東横綱2 14–1[59] |
東横綱 12–3 |
東横綱 13–2[59] |
東横綱 休場[72] 0–0–15 |
西横綱 休場[73] 0–0–15 |
西横綱 休場[73] 0–0–15 |
2002年 (平成14年) |
西横綱 休場[73] 0–0–15 |
西横綱 休場[73] 0–0–15 |
西横綱 休場[73] 0–0–15 |
西横綱 休場[74] 0–0–15 |
西横綱 12–3 |
西横綱 休場[75] 0–0–15 |
2003年 (平成15年) |
西横綱 引退 4–4–1[76] |
x | x | x | x | x |
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) |
主な力士との幕内対戦成績
力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
蒼樹山 | 9 | 2 | 曙 | 21* | 21** | 朝青龍 | 2 | 0 |
朝乃翔 | 6 | 0 | 朝乃若 | 9 | 0 | 旭富士 | 1 | 2 |
旭豊 | 11 | 2 | 安美錦 | 0 | 1 | 大乃国 | 0 | 1 |
小城錦 | 12 | 2 | 小城ノ花 | 9 | 0 | 魁皇 | 27* | 12 |
海鵬 | 1 | 0 | 巌雄 | 5 | 0 | 北勝鬨 | 14 | 0 |
霧島 | 9 | 5 | 旭鷲山 | 11 | 0 | 旭天鵬 | 2 | 2 |
旭道山 | 14 | 4 | 久島海 | 8 | 7 | 剣晃 | 16 | 2 |
琴稲妻 | 9 | 2 | 琴ヶ梅 | 2 | 1 | 琴錦 | 34 | 14 |
琴ノ若 | 34 | 5 | 琴富士 | 8 | 4 | 琴別府 | 8 | 1 |
琴光喜 | 4 | 0 | 琴龍 | 4 | 2 | 小錦 | 15 | 7 |
逆鉾 | 4 | 1 | 敷島 | 2 | 2 | 大至 | 5 | 0 |
太寿山 | 2 | 0 | 大翔鳳 | 11 | 2 | 大翔山 | 4 | 4 |
大善 | 9 | 0 | 隆乃若 | 6 | 0 | 高見盛 | 1 | 0 |
隆三杉 | 8 | 0 | 玉春日 | 18 | 4 | 玉乃島 | 1 | 0 |
千代大海 | 9 | 6 | 千代天山 | 2 | 0 | 千代の富士 | 1 | 0 |
出島 | 13 | 4 | 寺尾 | 22 | 6 | 闘牙 | 9 | 0 |
時津海 | 1 | 0 | 土佐ノ海 | 21 | 7 | 栃東 | 16 | 5 |
栃栄 | 2 | 0 | 栃乃洋 | 12 | 2 | 栃乃花 | 2 | 0 |
栃乃和歌 | 22 | 9 | 智ノ花 | 8 | 1 | 濱ノ嶋 | 9 | 1 |
追風海 | 3 | 0 | 肥後ノ海 | 15 | 1 | 北勝海 | 1 | 1 |
舞の海 | 10 | 1 | 三杉里 | 5 | 7 | 水戸泉 | 13 | 5 |
湊富士 | 9 | 2 | 雅山 | 11 | 0 | 武蔵丸 | 29**** | 19 |
武双山 | 26 | 11 | 若の里 | 9 | 0 | 和歌乃山 | 6 | 0 |
霜鳥 | 1 | 0 | 巴富士 | 5 | 3 | 琴椿 | 3 | 2 |
鬼雷砲 | 4 | 0 | 巨砲 | 0 | 1 | 春日富士 | 5 | 2 |
陣岳 | 3 | 1 | 孝乃富士 | 0 | 2 | 起利錦 | 3 | 3 |
花ノ国 | 0 | 1 | 時津洋 | 3 | 0 | 若瀬川 | 2 | 1 |
板井 | 1 | 0 |
(太字は2017年現在、現役力士)
- 他に優勝決定戦(巴戦も含む)で、武蔵丸に4勝、魁皇に1勝、曙に1勝2敗。同部屋対決では、若乃花に1敗、貴ノ浪に2敗がある。
- 曙、武蔵丸を除いた横綱戦では、平幕時代に唯一の金星を獲得した千代の富士のほか、小結時代に旭富士と北勝海から各1回ずつ勝利している。大乃国とは1度対戦しているが勝てなかった。朝青龍明徳には2戦2勝の負けなしで引退している(2001年5月場所と2002年9月場所の2回対戦)。現役時代を通して苦手力士は少なく、貴乃花が幕内で5回以上対戦して負け越しているのは、三杉里公似(貴乃花の5勝7敗)のみである。
- 平幕優勝が発生した場所において、当場所の優勝力士から3勝(1991年7月場所14日目の琴富士戦・1991年9月場所2日目の琴錦戦・1992年7月場所8日目の水戸泉戦)を挙げている。これは平幕優勝力士から当場所中に挙げた白星の数としては最多とされる。
家系図
┌○─○┬ 武ノ里 │ └ 吉崎 │ ┌ 若剛志 │ ┌ 若乃花Ⅰ―┤ │ │ └(女) │ (男) ├ 若緑 ‖(離婚) │ ‖ ─┤ 若乃花Ⅱ └○─○┬ (女) ├─(女) │ │ ‖ │ │ 大豪 │ │ ┌ 若乃花Ⅲ │ └ 貴ノ花――┤ └ (女) └ 貴乃花 ‖ ‖ ――花田優一 峯ノ越 河野景子
著作
書籍
- 『小さなバッタのおとこのこ』(世界文化社、2003年)
- ※イラストレーター・そやなおきとの共著による絵本、付属CDには貴乃花とその家族が総出演している
- ISBN 978-4-418-03511-3
- 『貴流 心氣体』(扶桑社、2009年)
- 『シコアサイズ: 貴流運動法』(幻冬舎、2010年)※考案・監修、DVDとのセット
- 『一生懸命 相撲が教えてくれたこと』(ポプラ社、2012年)
- 『生きざま 私と相撲、激闘四十年のすべて』(ポプラ社、2012年)
DVD・VHS
- 『貴乃花自選集「氣」』(ポニーキャニオン、2003年)※出演・声の出演
出演
CM
広告
- はごろもフーズ「シーチキンのまぐろから搾ったDHA+EPA」(2017年 ※夫婦共演)[79]
脚注
注釈
出典
- ^ a b c d e f g h ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(2) ニ所ノ関部屋』p23
- ^ 貴乃花部屋紹介 貴乃花部屋
- ^ 『大相撲杉並場所展 : 阿佐ケ谷勢その活躍と栄光の歴史』(杉並区立郷土博物館編、1991年)
- ^ 妊娠6か月のできちゃった結婚だった(婚約会見時には否定していた)。
- ^ “「貴乃花親方の21歳イケメン長男がTV初出演! 注目の職業は…”. スポニチ (2016年10月10日). 2016年10月11日閲覧。
- ^ a b c d 週刊プレイボーイ 2012年6月4日号 132頁 貴乃花親方の職人気質VOL.023
- ^ 週刊プレイボーイ 2013年No.35 117頁 貴乃花親方の職人気質
- ^ a b c d e f g h ベースボールマガジン社『大相撲戦後70年史』31ページから34ページ
- ^ 藤田紀子 相撲界の陰湿ないじめ明かす 若貴兄弟もやられた デイリースポーツ 2017.01.27. (2017年10月6日閲覧)
- ^ この場所13日目、7番相撲で栃日岳に勝って全勝し十両昇進を決めた際にはNHKの大相撲放送で「史上最年少関取誕生です!わずかに笑いました!」とアナウンスされた。
- ^ a b c 週刊プレイボーイ 2012年6月18日号 140頁 貴乃花親方の職人気質 VOL.025
- ^ a b c d e f g h i j k 北辰堂出版『昭和平成 大相撲名力士100列伝』(塩澤実信、2015年)163ページから167ページ
- ^ 普通は多くても10番程度。
- ^ 真似をして顔から落ち、「貴花田みたいにやった」と告白した幕下力士がおり、その力士の師匠からいい手本であると称賛された。
- ^ 『大相撲中継』2017年5月27日号91頁
- ^ 『大相撲ジャーナル』2017年6月号86頁
- ^ 『大相撲ジャーナル』2017年8月号 p50
- ^ 『大相撲ジャーナル』2017年12月号p45-46
- ^ なお、この場所の初日に貴乃花は当時小結の武双山との取組が組まれたが、突然の休場により「初日から横綱戦が不戦勝では格好つかない」との理由から、急遽割り返しが行われた。割り返し後の武双山は横綱・曙と対戦し、武双山が勝利している。
- ^ Sports Graphiv Number PLUS April 2017(文藝春秋、2017年4月10日)p81
- ^ a b c 2001年5月28日付日刊スポーツ紙面
- ^ 自著『生きざま 私と相撲、激闘四十年のすべて』では概して「優勝決定戦の仕切りの際に膝関節が外れたりはまったりした」と振り返っている。
- ^ Sports Graphiv Number PLUS April 2017(文藝春秋、2017年4月10日)p83-87
- ^ Sports Graphiv Number PLUS April2017(文藝春秋、2017年4月10日)p87
- ^ a b 週刊プレイボーイ 2012年6月25日号 133頁 貴乃花親方の職人気質 VOL.026
- ^ “「ただ信念あるのみ。自分のなかにあるすべてをかけて闘う」”. ウェブ ゲーテ (2010年1月). 2012年7月10日閲覧。
- ^ 貴乃花グループ 今年度から事実上の一門、助成金支給対象に Sponichi Annex 2014年4月10日 05:30
- ^ 「貴乃花一門」に変更 他の5つと同等に MSN産経ニュース 2014.5.24 00:02
- ^ 大嶽は解雇処分、阿武松は委員から年寄へ2階級降格の上、10年間昇格なしとされた。阿武松部屋所属力士についても、若荒雄らが謹慎休場の処分を下され、後に古市らが逮捕されている。
- ^ “貴乃花親方、たった一夜で退職撤回”. デイリースポーツ (2010年7月10日). 2012年7月10日閲覧。[リンク切れ]
- ^ “大抜てき!貴乃花理事が審判部長「公明正大に」”. スポーツニッポン (2010年8月21日). 2012年7月10日閲覧。
- ^ “貴乃花親方“ポスト北の湖”でリード!理事選で票上積み”. ZAKZAK (2012年1月31日). 2012年7月10日閲覧。
- ^ 相撲協会:ナンバー3に貴乃花理事 新体制発足 毎日新聞 2014年04月03日 19時43分
- ^ “鶴竜、貴親方の指導で雲竜型土俵入り稽古”. 日刊スポーツ (2014年3月27日). 2014年3月27日閲覧。
- ^ 貴乃花親方が両耳手術で入院 耳たぶ腫れ私生活に支障 Sponichi Annex 2014年6月14日 05:30
- ^ 貴乃花親方が場所全休へ 体調不良で検査入院 MSN産経ニュース 2014年7月13日 12:26
- ^ 貴乃花親方、名古屋場所休場 6月両耳手術…11日に違和感 Sponichi Annex 2014年7月13日 05:30
- ^ 貴乃花親方が業務復帰、体調は「大丈夫」 nikaansports.com 2014年7月28日 22:00
- ^ “八角理事長が再選「一丸にならないといけない」” (2016年3月28日). 2016年5月12日閲覧。
- ^ 丸刈り貴乃花親方「誰が理事長に…」不退転の決意 日刊スポーツ 2016年3月3日21時8分
- ^ “貴乃花親方は巡業部長 協会常勤の執行部から外れる” (2016年3月30日). 2016年5月12日閲覧。
- ^ a b 日馬富士と貴ノ岩は暴行翌日に「握手していた」 相撲取材歴30年の横野レイコリポーター明かす 2017年11月15日9時23分 スポーツ報知(報知新聞社、2017年11月15日閲覧)
- ^ 日馬富士、謝罪実現せず 貴乃花親方とすれ違い 日刊スポーツ 2017年11月14日13時19分(日刊スポーツ新聞社、2017年11月15日閲覧)
- ^ 「日馬富士事件」大相撲からいまだに暴力沙汰が消えないワケ 現代ビジネス 2017.11.26(講談社、2017年11月27日閲覧)
- ^ 毎日新聞2017年11月20日 大阪夕刊
- ^ 日馬暴行問題 貴乃花親方が怪行動…事態の収拾目指す相撲協会大混乱 SANSPO>COM 2017.11.16 05:04(産経新聞社、2017年11月27日閲覧)
- ^ 貴乃花親方、また協力拒否 日本経済新聞 2017/11/25 20:33(日本経済新聞社、2017年11月27日閲覧)
- ^ 貴乃花親方、冬巡業帯同させず 現執行部への不信感が問題複雑に 産経ニュース 2017.11.20 09:59(産経新聞社、2017年11月27日閲覧)
- ^ 中日新聞 2018年1月4日 夕刊
- ^ 理事解任の貴乃花親方、役員待遇委員の指導普及部副部長にデイリースポーツonline
- ^ 貴乃花親方は落選=10人の理事候補決まる-相撲協会 JIJI.COM(時事通信社、2018年2月3日閲覧)
- ^ 貴親方 史上初理事解任決定 池坊議長、再選にも“物言い” Sponichi Annex 2018年1月5日 05:30(スポーツニッポン新聞社、2018年2月3日閲覧)
- ^ 美川、宮沢りえの婚約「ぶっ壊した」 Daily Sports Online 2014年10月6日
- ^ 対千代の富士戦で金星
- ^ 曙・若ノ花(のち3代・若乃花)と優勝決定戦
- ^ 角番(全1回)
- ^ a b c d 武蔵丸と優勝決定戦
- ^ 3代・若乃花と優勝決定戦
- ^ a b 貴ノ浪と優勝決定戦
- ^ 急性腸炎により全休。
- ^ 曙・武蔵丸・魁皇と優勝決定戦
- ^ 曙と優勝決定戦
- ^ 急性上気道炎・肝機能障害により13日目から途中休場
- ^ 肝機能障害により5日目から途中休場
- ^ 右肩鎖関節亜脱臼・右肩胛骨骨折により11日目から途中休場
- ^ 右肩三角筋挫傷・右肩鎖関節亜脱臼・右肩板部分損傷により全休
- ^ 左第 4指PIP関節脱臼・陳旧性総指伸筋腱(IV)中央索損傷により3日目から途中休場
- ^ 上腕二頭筋短頭筋部分断裂により8日目から途中休場
- ^ 左上腕二頭筋腱損傷により全休
- ^ 右膝外側半月板損傷疑により全休
- ^ a b c d e 右膝外科手術後により全休
- ^ 筋力強化不足により全休
- ^ 右膝外側半月板損傷により全休
- ^ 左肩鎖靱帯損傷により3日目から途中休場、5日目から再出場、9日目に引退
- ^ “日本原産ミズナラ樽を使い、日本への敬意を表した特別なスコッチウイスキー 「シーバスリーガル ミズナラ」 2015年12月19日㈯からテレビCMの放映を開始! 大相撲のレジェンド 貴乃花親方と、伝説のマスターブレンダーが共演!”. CM JAPAN (2015年12月17日). 2015年12月18日閲覧。
- ^ “10-FEET・TAKUMA、バクホン・松田、シーチキンの新CMでTOSHI-LOWと共演”. rockinon.com (2015年10月19日). 2017年12月28日閲覧。
- ^ 新聞全面広告(読売新聞 2017年10月11日、日本経済新聞 2017年11月18日)など
関連項目
- 一代年寄
- 兄弟スポーツ選手一覧
- クリスチャン・フィッティパルディ - 元F1ドライバー。古舘伊知郎からは「F1貴花田」と呼ばれていた。