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日産と激しく覇権を争ったのは、パリ・ダカールラリー同様三菱であった。前年にサザンクロスラリーで1~4位を独占する圧勝を示したランサー1600GRSは、サファリラリーにスポット参戦する形で1974年にWRC初登場。わずか1600ccでありながら2600ccのポルシェ911などを相手に見事なデビューウィンを飾った。このランサーは1977年までスポット参戦し、1976年に再びサファリを制した<ref>[http://www.mitsubishi-motors.co.jp/motorsports/history_j/70s_j/lancer_1600gsr.htm |
日産と激しく覇権を争ったのは、パリ・ダカールラリー同様三菱であった。前年にサザンクロスラリーで1~4位を独占する圧勝を示したランサー1600GRSは、サファリラリーにスポット参戦する形で1974年にWRC初登場。わずか1600ccでありながら2600ccのポルシェ911などを相手に見事なデビューウィンを飾った。このランサーは1977年までスポット参戦し、1976年に再びサファリを制した<ref>[http://www.mitsubishi-motors.co.jp/motorsports/history_j/70s_j/lancer_1600gsr.htm 三菱自動車 モータースポーツヒストリー ランサー 1600GSR]</ref>。 |
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三菱自動車 モータースポーツヒストリー ランサー 1600GSR]</ref>。 |
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その後三菱がサファリで勝利を得るのは1996年の[[トミ・マキネン]]の[[ランサーエボリューション]]によるもので、実に20年ぶりとなるものだった。1998年に[[リチャード・バーンズ]]、そして2001年のトミ・マキネンの勝利が三菱の最後のサファリ勝利となった。 |
その後三菱がサファリで勝利を得るのは1996年の[[トミ・マキネン]]の[[ランサーエボリューション]]によるもので、実に20年ぶりとなるものだった。1998年に[[リチャード・バーンズ]]、そして2001年のトミ・マキネンの勝利が三菱の最後のサファリ勝利となった。 |
2017年10月29日 (日) 00:00時点における版
サファリラリー(英語:Safari Rally)とは、アフリカのケニアを中心に行なわれるラリーイベント。現在はアフリカラリー選手権 (英語) の一戦だが、2002年までは世界ラリー選手権 (WRC) の一戦に含まれていた。
概要
1953年、東アフリカのイギリス植民地においてエリザベス2世の即位を記念して初開催された、歴史の長いラリーである。アマチュアイベントから国際的なラリーへと発展し、ラリー・モンテカルロ、RACラリーと共に「世界三大ラリー」と称されていた。
例年復活祭にあわせて3月から4月にかけての時期に開催され、現地では乾季と雨季の変わり目に当たる。ケニアの首都ナイロビをスタート/ゴール地点として、ビクトリア湖周辺のケニア、ウガンダ、タンザニアの3カ国を5日間で5000kmも走破した頃もあった。灼熱の大地では様々なトラブルが降りかかり、「カーブレイカーラリー」との異名をとる世界一過酷なラリーであった。(年によっては、完走率が15%を下回ることもあった。)
かつてはマシンの信頼性が絶対条件とされていたが、時代が進むにつれ日程も距離も短縮され、他のWRCイベントのように秒単位で競い合うスプリントラリーへと変わっていった(2002年は3日間で2,431km[1])。オーガナイザーの財政難に加えて、イベントの特殊性や開催地の遠さが、コストダウンの名の下に各イベントの画一化を進めるFIAの意図に反することもあり、2002年を最後にWRCイベントから外された。
その後はアフリカラリー選手権のカレンダーで開催されているが、2007年と2009年はインターコンチネンタル・ラリー・チャレンジ (IRC) シリーズと併催された。また、1年おきに「イースト・アフリカン・サファリ・クラシック」という、1970年代とほぼ同じルートを使うクラシックラリーも開催されている。
イベントの特殊性
コース
コースとなる道路を完全閉鎖・管理することが不可能であるため、通常のラリーのような移動区間(リエゾン)や閉鎖区間(スペシャルステージ)が存在しない[2]。全行程がタイムコントロール (TC) 区間に区切られ、各TCごとに設定された目標時間に対して遅れた分のタイムが累積される。また、TCの中でもSSに相当するコンペティティヴ・セクション (CS) ではタイムアタックを行ない、これらの合計タイムで最終順位を決める[3]。
灼熱のサバンナを行く未舗装路は乾燥して砂埃がひどく、固く乾いた路面のせいでサスペンションやタイヤにかかる負担は大きい。しかし、雨が降ればたちまち泥濘と化し、スタックする車両が続出する。
70km以上も直線が延々と続く名物セクションがあり、WRC各イベント中でもっとも最高速が必要とされるのはこのイベントであった。最高速は1986年のトヨタ・セリカTCT (TA64) のマークした250km/h以上とされる。サファリがWRCから外された2003年以降、200km/h以上で走り続ける必要がなくなった各ワークスは、ダウンフォース増強などによるコーナリングスピード向上に走った。通称「本棚ウィング」の始まりである。
装備
「サファリ仕様」と言われる大幅な改造が許された。野生動物との接触時にラジエーターを壊さないためのアニマルバー[4]、雨季の開催では泥の川と化すコースで、エンジンに水を吸い込まないためのシュノーケル(吸排気口を屋根まで伸ばせる)、スペアタイヤを通常より多く積むことができる、など多岐にわたる。他のグラベルイベントでは有効であるパンクレスタイヤの一種ムースタイヤは、高温になり内圧が上がりすぎるため、サファリでは使用できなかった。
スペシャルステージがないため、ドライバーには耐火スーツやグローブ、ヘルメットの装着義務がない。車内温度はときに50℃を超えるこのイベントで、ドライバー達はTシャツ・短パンにヘッドセットをしただけの姿で競技していた。
1970年代のサファリでは車体の改造だけでなくチームによっては河川超えのリード用に滑車とロープを積み込んだり、河川水量やマディ路面のグリップ加減によっては現地人の協力で車のトランクにそのまま乗って浮力で浮かんでしまうリアのトラクションを稼ぐ等と言った行為や、元からオーバーヒート気味になり易いマシンでは数日間炎天下を走り、ラジエータが空になった時はレインコートで水を汲んで補充する事[5]もチームによっては珍しくはなく、当時はドライバーサイドも現地対応で苦労させられていたようである。
サポート体制
サービスパーク制導入以前の、ほぼどこででもサービスができた時代、ワークスチームではイベントごとにサポートカーなど含めて数十台の車両を用意しなければならなかった。このイベントは開催地が遠いのみならず交通の便が悪いため、輸送の負担を少しでも軽減するため競技車両と同じ車両でレッキ(事前の下見走行)ができた[6]。他イベントではレッキに競技車両と同一仕様の車両を使う事は現在では許されていない。
コースの閉鎖が成されていないため、コースには対向車のみならず、歩行者も現れる。それらとの事故を避けるため、上空に軽飛行機やヘリコプターと飛ばし、競技者にコース状況を伝える事も認められている。また、地上付近を飛行して、コース上にいる動物を排除するという仕事も請け負う。
日本勢の参戦
このラリーには、自社製品の耐久性の高さをアピールするため、日本の自動車メーカーの海外輸出が本格した1960年代以降に日本メーカーはこぞって参戦した。日産やトヨタ、ダイハツが好成績を修め、WRCで活躍したスバルや三菱も参戦しており、ダカール・ラリーと並び(WRCというシリーズ以上に)日本での知名度は高く、映画の題材などにもなった。
日産
- 1963年 日産は、市販車の性能を海外の車種レベルに引き上げることを目的とし、WRCの誕生するより前からサファリラリーへの参戦を開始した。当時日本車はまだ国際的な認知も低く一流ドライバーとは契約は出来なかった。その為、監督は実験部部長の笠原剛三、ドライバーは実験部所属の難波靖治(後のラリーチーム監督、ニスモ初代社長)をはじめとした社員ドライバーいう体制で挑んだ。
- 1966年 日産はブルーバード410でクラス優勝を果たす。監督の笠原はこの時の記録を「栄光への5000キロ―東アフリカ・サファリ・ラリー優勝記録」という書籍にまとめた。ベストセラーとなり、石原裕次郎主演で「栄光への5000キロ」の題名で映画化もされた。
- 1969年 日産ブルーバード510で総合3位、Dクラス優勝とチーム優勝を獲得した。(1位はフォード 2位はボルボ)
- 1970年 日産ブルーバード510は 総合優勝の1位のほか2位4位7位に入り、クラス優勝、チーム優勝とサファリラリー史上初の完全制覇を成し遂げた。
- 1971年 510つぶしの意図から、ルート変更により高速ルートが増えた為、意表を突いて1.6Lのブルーバードからフェアレディ240Zに変更し、総合で1位2位7位となる。3位のプジョーは2位のフェアレディZから5時間以上の遅れとなる日産の圧勝となった。
- 1972年 日産フェアレディ240Zは5位6位に終わる。1位フォード2位ポルシェ3位フォード。
- 1973年 日産はフェアレディ240Zとブルーバード610で挑み1位2位4位を獲得し総合優勝。3位はプジョー。この年に起きたオイルショックと国内排気ガス規制対応の為、日産のラリー活動は一旦停止される。
三菱
日産と激しく覇権を争ったのは、パリ・ダカールラリー同様三菱であった。前年にサザンクロスラリーで1~4位を独占する圧勝を示したランサー1600GRSは、サファリラリーにスポット参戦する形で1974年にWRC初登場。わずか1600ccでありながら2600ccのポルシェ911などを相手に見事なデビューウィンを飾った。このランサーは1977年までスポット参戦し、1976年に再びサファリを制した[7]。
その後三菱がサファリで勝利を得るのは1996年のトミ・マキネンのランサーエボリューションによるもので、実に20年ぶりとなるものだった。1998年にリチャード・バーンズ、そして2001年のトミ・マキネンの勝利が三菱の最後のサファリ勝利となった。
トヨタ
WRC誕生時からWRCに参戦し、数々のラリーで優勝をしてきたトヨタだが、サファリで優勝したのは1984年のビョルン・ワルデガルドのドライブするセリカツインカムターボが初である。このとき①初参加チームによる総合優勝②ターボエンジン搭載マシンの優勝③第1セクションをリードした車による優勝④ヨーロッパ人のサファリ複数制覇という四つの新記録を同時に樹立している[8]。以降トヨタは1986年までセリカでサファリを3連覇した。またサファリにおけるワルデガルドとトヨタは相性が良く、この組み合わせで1984、1986、1990年と通算3勝を記録している。
1992年から1995年もやはりセリカで、日産(ダットサンを含む)以来の4連覇を達成した。
なお1995年の優勝者は日本人初かつ唯一のサファリ優勝となる藤本吉郎だが、このときはWRCではなくFIA2リッターワールドカップ(英語)としての開催だった。
スバル
WRCの主要マニュファクチャラーであったスバルだが、その形成にはサファリラリーへの挑戦が大きく関わっている。
挑戦初年度の1980年は、4WD、1600ccの「スイングバック」を平林武/カーン組が総合18位、グループ1優勝に導き、レオーネ4WDRXのデビューとなった1983年には、高岡祥郎/砂原茂男組が、当時の日本人WRC入賞最上位となる、総合5位でフィニッシュした。
その後、1988年にスバルのモータースポーツ部門、STIが設立され、1990年からレガシィRSによるWRC本格参戦がスタートした。ラリーカーの開発・チーム運営は、アリ・バタネンと組みコ・ドライバーとして世界タイトルを獲た経験もあるデビッド・リチャーズ率いるプロドライブが担当しているが、サファリへの参戦は、従来通り日本のSMSG(スバル・モーター・スポーツ・グループ)から行われていた(96年からはプロドライブも参戦)。 レガシィによる参戦初年は、アフリカ人ドライバーのパトリック・ジルが同ラリー初となるGr.Nでの完走を果たし、スバルとしては、その後7年に渡りクラス制覇を成す。
1993年にはレガシィではなく、グループA仕様のヴィヴィオ4WDを走らせた。チームはコリン・マクレーには「とにかく他チームの前を走れ」、しばしば各社ワークスの助っ人としてサファリを走った地元ドライバー、パトリック・ジルには「なにがなんでも完走しろ」とオーダーを出した。マクレーは車を壊してリタイアとなったものの眼を見張るスピードを見せ、ジルは見事完走し総合12位、グループAクラス5優勝を遂げた(他に同一クラス車両は出走していないため、完走すなわちクラス優勝である)。
ダイハツ
ダイハツのWRC挑戦はサファリラリーにシャレードを投入することが主であった。1984年から地元勢を中心にドライバーを起用して参戦、多くのクラス優勝を獲得した。
特に1993年のサファリでは、グループAクラス7の1リッター3気筒ディーゼルエンジンを搭載したシャレードGTXXが、排気量で1リッター以上上回る最高クラスのマシンを相手に奮闘、セリカの1~4位に次ぐ総合5-6-7位という記録を残した。
地元勢の活躍
サファリで活躍する地元勢としてジョギンダ・シン、シェカー・メッタらがおり、世界の強豪メーカーへ対向するもまだ熟成の進んでいないスポット参戦の日本メーカー勢は起用しつづけ、地の利を活かす様になる。 また、メッタは5回優勝(1973年、1979年-1982年)と言う金字塔を打ち立てている。
1965年、ジョギンダ・シンがボルボ・PV544を駆り初優勝するが、この時にシンが駆っていたPV544は前年、ボルボ・ワークスが駆って大破させたマシンをケニアに残して行ったものであり、シンによって修復されたマシンを駆っての優勝であった。[9]
ヨーロッパ勢、スペシャリストの活躍
その他、70年代よりランチアやポルシェ等のワークスで活躍していたスペシャリストが1990年代初めごろまで存在しており中でもビヨン・ワルデガルドは1974、77、84、86、90年に優勝。そこから2002年のWRC戦内では続いてコリン・マクレー、ユハ・カンクネンが3勝している。
チームのサポート体制は70年代を見てみると、ランチアチームのサポートカー(ベータ・クーペ等)に現地民から投石され、ウインドウを割られる事[10]もしばしばあり、ランチア・ストラトスで長丁場であるサファリを攻略する事から、他チームよりステージ内サービス(当時は路上でのサービスが許されていた)、ヘリコプター・セスナの数をチームの独断で増やしたことから他チームよりクレームがつくほどであった。
1970年から2002年の優勝者
※1973年以降WRCイベントとして開催。1995年はFIA 2リッターワールドカップのみ。
脚注
- ^ "2002年世界ラリー選手権第8戦 2002年プロダクションカー世界ラリー選手権第5戦 【7月5日(金) 事前レポート】". 三菱自動車.(2002年7月5日)2014年1月22日閲覧。
- ^ 年によってはスーパースペシャルステージ (SSS) 的に設定されたことがある。
- ^ "1997世界ラリー選手権(WRC)第3戦 555サファリラリー ". 三菱自動車.(1998年)2013年1月22日閲覧。
- ^ ラジエーターは通常車両前部に置かれ、壊れることは水冷エンジンにとってはリタイアを意味する。
- ^ 三栄ムック ラリーカーズ Vol.1 Lanchia Stratos HF「ピエロ・ソダーノ」より抜粋参考。
- ^ これは、過酷な道路事情より通常のグループN相当のレッキ車では、レッキの完了が危うい為でもある
- ^ 三菱自動車 モータースポーツヒストリー ランサー 1600GSR
- ^ トヨタ自動車75年史 モータースポーツ活動の変遷
- ^ 三栄書房「ラリー&クラシックス Vol.4 ラリーモンテカルロ 100年の記憶」内「ラリーモンテカルロ・ヒストリック マシン総覧」より抜粋、参考。
- ^ ラリー・モンテカルロの「雪塊」のような贔屓。
- ^ 全体的にrallybase.nl Safari Rally Roll of Honour参考。2012年9月1日参照。