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[[平成時代]](大正時代を超える期間の[[1989年]](平成元年)〜[[2017年]](平成29年)の29年間以上)と[[安土桃山時代]](大正時代を超える期間の[[1573年]]([[天正]]元年)〜[[1603年]]([[慶長]]8年)の30年間)が次に短い時代区分である。
[[平成時代]](大正時代を超える期間の[[1989年]](平成元年)〜[[2017年]](平成29年)の29年間以上)と[[安土桃山時代]](大正時代を超える期間の[[1573年]]([[天正]]元年)〜[[1603年]]([[慶長]]8年)の30年間)が次に短い時代区分である。


[[1912年]](大正元年)は[[辛亥革命]]が終わって[[中華民国の歴史|中華民国]]が成立した年で、「[[民国紀元|民国]]N年」が「大正N年」に当たる。また[[金日成]]が誕生した年であり、「主体N年」も「大正N年」に当たる。この時期の世界は、[[第一次世界大戦]]が起こった時期でもあり、その結果として敗れた[[帝国]]が続々と解体されて、[[ヴァイマル共和政|ヴァイマル共和国]]など[[共和制]]国家が多数成立した。
[[1912年]](大正元年)は[[辛亥革命]]が終わって[[中華民国の歴史|中華民国]]が成立した年で、「[[民国紀元|民国]]N年」が「大正N年」に当たる。また[[金日成]]が誕生した年であり、「主体N年」も「大正N年」に当たる。この時期の世界は、[[第一次世界大戦]]が起こった時期でもあり、その結果として[[ドイツ]]や[[オーストリア]]、[[ロシア]]などで君主制が廃止されていき、[[共和制]]国家が多数成立しはじめた。


大正年間を通じて都市に享楽的な文化が生まれる反面、[[スラム]]の形成、民衆騒擾の発生、[[労働組合]]と小作人組合が結成されて、[[労働争議]]が激化するなど社会的な矛盾が深まっていった。
大正年間を通じて都市に享楽的な文化が生まれる反面、[[スラム]]の形成、民衆騒擾の発生、[[労働組合]]と小作人組合が結成されて、[[労働争議]]が激化するなど社会的な矛盾が深まっていった。


大正年間には、2度<ref>第一次は1912年(大正元年)12月から翌年にかけて第3次桂内閣打倒運動が東京を中心にして各地で憲政擁護大会が開かれた。第二次は1924年(大正13年)1月清浦内閣打倒運動を起こし、政党内閣、普通選挙、貴族院改革を要求した。</ref>に及ぶ[[護憲運動]](憲政擁護運動)が起こり、明治以来の[[藩閥]]支配体制が揺らいで、[[政党]]勢力が進出た。それらは[[大正デモクラシー]]と呼ばれて、[[尾崎行雄]]・[[犬養毅]]ら<ref>政党側の闘志であるこの二人は、中国に対する「21か条要求」には日本の特権を肯定していた。(遠山茂樹・今井清一・藤原彰『昭和史』[新版] 岩波書店 〈岩波新書355〉 1959年 15ページ)</ref>がその指導層となった。
大正年間には、2度<ref>第一次は1912年(大正元年)12月から翌年にかけて第3次桂内閣打倒運動が東京を中心にして各地で憲政擁護大会が開かれた。第二次は1924年(大正13年)1月清浦内閣打倒運動を起こし、政党内閣、普通選挙、貴族院改革を要求した。</ref>に及ぶ[[護憲運動]](憲政擁護運動)が起こり、明治以来の[[超然内閣]]の政治体制が揺らいで、[[政党]]勢力が進出することになった。それらは[[大正デモクラシー]]と呼ばれて、[[尾崎行雄]]・[[犬養毅]]ら<ref>政党側の闘志であるこの二人は、中国に対する「21か条要求」には日本の特権を肯定していた。(遠山茂樹・今井清一・藤原彰『昭和史』[新版] 岩波書店 〈岩波新書355〉 1959年 15ページ)</ref>がその指導層となった。


[[大正デモクラシー]]時代は、[[1918年]](大正7年)の[[1918年米騒動|米騒動]]の前と後で分けられることが多いが、米騒動後同年に初めて[[爵位]]を持たず、[[衆議院]]に議席を持つ[[平民]][[宰相]]の[[原敬]]が日本初の本格的な政党内閣を組織した。
[[大正デモクラシー]]時代は、[[1918年]](大正7年)の[[1918年米騒動|米騒動]]の前と後で分けられることが多いが、米騒動後同年に初めて[[爵位]]を持たず、[[衆議院]]に議席を持つ[[平民]]の[[原敬]](平民宰相とあだ名された)が日本初の本格的な政党内閣を組織した。


しかし、[[1921年]]に原は卓越した政治感覚と指導力を有する政治家であり教育制度の改善、交通機関の整備、産業および通商貿易の振興、国防の充実の4大政綱を推進したが[[普通選挙法]]に反対するなどその登場期に平民達に期待された程の改革もなさないままに終わり、[[大塚駅 (東京都)|大塚駅]]員だった青年の[[中岡艮一]]により[[東京駅]]構内で[[暗殺]]された。
しかし、[[1921年]]に原は卓越した政治感覚と指導力を有する政治家であり教育制度の改善、交通機関の整備、産業および通商貿易の振興、国防の充実の4大政綱を推進したが[[普通選挙法]]に反対するなどその登場期に平民達に期待された程の改革もなさないままに終わり、[[大塚駅 (東京都)|大塚駅]]員だった青年の[[中岡艮一]]により[[東京駅]]構内で[[暗殺]]された。
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この前後の時期は[[普選運動]]が活発化して、[[平塚雷鳥]]や[[市川房枝]]らの[[婦人参政権|婦人参政権運動]]も活発だった。
この前後の時期は[[普選運動]]が活発化して、[[平塚雷鳥]]や[[市川房枝]]らの[[婦人参政権|婦人参政権運動]]も活発だった。


[[1925年]](大正14年)には、[[普通選挙法]]が成立したが、同時に[[治安維持法]]が制定された。言論界も活況を呈して、[[君主制]]と[[民主主義]]を折衷しようとした[[吉野作造]]の[[民本主義]]<ref>デモクラシーの訳語(遠山茂樹・今井清一・藤原彰『昭和史』[新版] 岩波書店 〈岩波新書355〉 1959年 14ページ)</ref>や[[美濃部達吉]]の明治時代の政治家の暗黙の了解だった憲法解釈を文字にして後に禍文民統制を失わせることに繋がる[[天皇機関説]]などが現れた。
[[1925年]](大正14年)には、[[加藤高明]]内閣下で[[普通選挙法]]が成立したが、同時に[[ロシア革命]]への警戒感から[[治安維持法]]が制定された。言論界も活況を呈して、[[君主制]]と[[民主主義]]を折衷しようとした[[吉野作造]]の[[民本主義]]<ref>デモクラシーの訳語(遠山茂樹・今井清一・藤原彰『昭和史』[新版] 岩波書店 〈岩波新書355〉 1959年 14ページ)</ref>や[[美濃部達吉]]の明治時代の政治家の暗黙の了解だった憲法解釈を文字にして後に禍文民統制を失わせることに繋がる[[天皇機関説]]などが現れた。


[[1921年]](大正10年)[[11月25日]]に[[皇太子]][[裕仁親王]]が[[大正天皇]]の病状悪化によって[[摂政宮]]となった。力強かった時代の[[明治時代]]を見直す機運から[[明治天皇]]と[[昭憲皇太后]]を祀る[[明治神宮]]が建立された。
[[1921年]](大正10年)[[11月25日]]に[[皇太子]][[裕仁親王]]が[[大正天皇]]の病状悪化によって[[摂政宮]]となった。力強かった時代の[[明治時代]]を見直す機運から[[明治天皇]]と[[昭憲皇太后]]を祀る[[明治神宮]]が建立された。
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その後、第二次護憲運動(憲政擁護運動)が起こり、[[護憲三派]]内閣として[[加藤高明]]内閣が成立した。[[第一次世界大戦]]後には、[[ヴェルサイユ条約|ベルサイユ]]・[[ワシントン海軍軍縮条約|ワシントン体制]]に順応的な[[幣原外交]](加藤内閣)が展開され、[[中華民国]]への内政不干渉、[[ソビエト連邦]]との国交樹立など、一定の[[ハト派]]・国際協調的な色彩を示した。
その後、第二次護憲運動(憲政擁護運動)が起こり、[[護憲三派]]内閣として[[加藤高明]]内閣が成立した。[[第一次世界大戦]]後には、[[ヴェルサイユ条約|ベルサイユ]]・[[ワシントン海軍軍縮条約|ワシントン体制]]に順応的な[[幣原外交]](加藤内閣)が展開され、[[中華民国]]への内政不干渉、[[ソビエト連邦]]との国交樹立など、一定の[[ハト派]]・国際協調的な色彩を示した。


大正時代は、[[藩閥]]政治に関わり持った[[江戸時代]]生まれの[[元勲]]たちが政界から引退したり他界していった時代で、試験選抜され[[高等教育]]機関で養成された世代の人々が社会の中枢を担うようになっていった<ref>皿木喜久 『大正時代を訪ねてみた 平成日本の原景』「大正世代」 (産経新聞社、2002年の178ページから〜181ページの明治人たり逝くの項目</ref>。
大正時代は、[[藩閥]]的な超然内閣主導していた[[江戸時代]]生まれの[[元勲]]たちが政界から引退したり他界していった時代で、試験選抜され[[高等教育]]機関で養成された世代の人々が社会の中枢を担うようになっていった<ref>皿木喜久 『大正時代を訪ねてみた 平成日本の原景』「大正世代」 (産経新聞社、2002年の178ページから〜181ページの明治人たり逝くの項目</ref>。


[[第一次世界大戦]]の[[中央同盟国|同盟国]]([[ドイツ帝国]]・[[オーストリア・ハンガリー帝国]]・[[オスマン帝国]])の[[帝政]]の崩壊が[[デモクラシー]]の勝利とされて、[[ロシア革命]]で目的が達成された[[共産主義]]思想も日本の[[インテリ]]層の[[思想]]に影響を与えた。大正期の[[知識人]]は、[[改造]]・[[革新]]・[[革命]]・[[維新]]の4種類を政治運動の[[スローガン]]に掲げた。大正デモクラシーの政治運動の中で、[[資本主義]]を批判する[[社会主義]]・[[共産主義]]の影響力が強まった<ref>マンガ日本の歴史現代編石ノ森章太郎大戦とデモクラシー198頁〜199頁</ref>。
[[第一次世界大戦]]の[[中央同盟国|同盟国]]([[ドイツ帝国]]・[[オーストリア・ハンガリー帝国]]・[[オスマン帝国]])の[[帝政]]の崩壊が[[デモクラシー]]の勝利とされて、ロシア革命で目的が達成された[[共産主義]]思想も日本の[[インテリ]]層の[[思想]]に影響を与えた。大正期の[[知識人]]は、[[改造]]・[[革新]]・[[革命]]・[[維新]]の4種類を政治運動の[[スローガン]]に掲げた。大正デモクラシーの政治運動の中で、[[資本主義]]を批判する[[社会主義]]・[[共産主義]]の影響力が強まった<ref>マンガ日本の歴史現代編石ノ森章太郎大戦とデモクラシー198頁〜199頁</ref>。
[[画像:Moga1.jpg|サムネイル|モガ。1923年]]
[[画像:Moga1.jpg|サムネイル|モガ。1923年]]
文化風俗面の特徴としては、[[近代都市]]の発達や経済の拡大に伴い、都市文化、[[大衆文化]]が花開き、「[[大正モダン]]」と呼ばれる華やかな時代を迎えた<ref name=pola>『化粧文化』8号「大正モダン」ポーラ文化研究所、2015</ref>。女性の就労も増え、それまでの[[女工]]などに代わって、女子事務員や電話交換手など「[[職業婦人]]」と呼ばれる層が現れ、デパート店員、バスガール、カフェの女給、映画女優といった新しい職業も人気となり、断髪で洋装の[[モガ]](モダンガールの略。男性はモボ)が登場した<ref name=pola/>。
文化風俗面の特徴としては、[[近代都市]]の発達や経済の拡大に伴い、都市文化、[[大衆文化]]が花開き、「[[大正モダン]]」と呼ばれる華やかな時代を迎えた<ref name=pola>『化粧文化』8号「大正モダン」ポーラ文化研究所、2015</ref>。女性の就労も増え、それまでの[[女工]]などに代わって、女子事務員や電話交換手など「[[職業婦人]]」と呼ばれる層が現れ、デパート店員、バスガール、カフェの女給、映画女優といった新しい職業も人気となり、断髪で洋装の[[モガ]](モダンガールの略。男性はモボ)が登場した<ref name=pola/>。
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{{small|ニコラエフスク住民数千人と共に、日本人700人余りが殺害された。}}]]
{{small|ニコラエフスク住民数千人と共に、日本人700人余りが殺害された。}}]]
[[1911年]]([[明治]]44年)に[[第2次西園寺内閣]]が成立した頃、日本の国家財政は非常に悪化していたが、[[中国]]の[[辛亥革命]]に刺激された[[陸軍]]は、抗日運動対策も兼ねて[[朝鮮]]に駐屯させる[[二個師団増設問題|2個師団の増設]]を強く政府に迫った。[[緊縮財政]]方針の[[西園寺公望]]がこれを拒否し、政府・与党([[立憲政友会]])と陸軍が対立すると、多くの国民が陸軍の横暴に憤った。一方、[[1912年]](明治45年/大正元年)[[7月30日]]に[[明治天皇]]が崩御して[[大正天皇]]が君主となり[[桂園時代]]の[[藩閥]]政権に君臨したことや、[[美濃部達吉]]が『[[憲法講話]]』を刊行して、[[天皇機関説]]や[[政党内閣論]]を唱えたことは、国民に新しい政治を期待させた。
[[1911年]]([[明治]]44年)に[[第2次西園寺内閣]]が成立した頃、日本の国家財政は非常に悪化していたが、[[中国]]の[[辛亥革命]]に刺激された[[大日本帝国陸軍|陸軍]]は、抗日運動対策も兼ねて[[朝鮮]]に駐屯させる[[二個師団増設問題|2個師団の増設]]を強く政府に迫った。[[緊縮財政]]方針の[[西園寺公望]]がこれを拒否し、政府・与党([[立憲政友会]])と陸軍が対立すると、多くの国民が陸軍の横暴に憤り、政治改革の機運が高まった。また[[1912年]](明治45年/大正元年)[[7月30日]]に[[明治天皇]]が崩御して[[大正天皇]]が即位した、[[美濃部達吉]]が『[[憲法講話]]』を刊行して、[[天皇機関説]]や[[政党内閣論]]を唱えたこと国民に新しい政治を期待させた。


[[1912年]](大正元年)の末、2個師団増設が閣議で認められなかったことに抗議して、[[上原勇作]]陸相が単独で辞表を[[大正天皇]]に提出し、陸軍が[[軍部大臣現役武官制]]を楯にその後任を推薦しなかったため、西園寺内閣は総辞職に追い込まれた。代わって[[長州]]閥と陸軍の長老である[[桂太郎]]が、就任したばかりの[[内大臣]]と[[侍従長]]を辞して[[第3次桂内閣]]を組織すると、「宮中府中の別」の原則を無視して[[宮中]]の職から首相に転じたことが、[[藩閥]]勢力が新天皇を擁して政権独占を企てているとの非難の声が上がった<ref>世界と日本(新版 ジュニア版・日本の歴史)190頁</ref>。
[[1912年]](大正元年)の末、2個師団増設が閣議で認められなかったことに抗議して、[[上原勇作]]陸相が単独で辞表を[[大正天皇]]に提出し、陸軍が[[軍部大臣現役武官制]]を楯にその後任を推薦しなかったため、西園寺内閣は総辞職に追い込まれた。代わって[[長州]]閥と陸軍の長老である[[桂太郎]]が、就任したばかりの[[内大臣]]と[[侍従長]]を辞して[[第3次桂内閣]]を組織すると、「宮中府中の別」の原則を無視して[[宮中]]の職から首相に転じたことが、[[藩閥]]勢力が新天皇を擁して政権独占を企てているとの非難の声が上がった<ref>世界と日本(新版 ジュニア版・日本の歴史)190頁</ref>。


[[立憲国民党]]の[[犬養毅]]と[[立憲政友会]]の[[尾崎行雄]]を先頭とする野党勢力や[[新聞]]に、商工業者や都市部の[[知識]][[階級]]も加わり、「閥族打破・憲政擁護」を掲げる運動が全国に広がった([[第一次護憲運動]])。桂は[[立憲同志会]]を自ら組織してこれに対抗しようとしたが、護憲運動は強まる一方だったので、[[1913年]](大正2年)、民衆が議会を包囲するなか、在職わずか50日余で退陣した([[大正政変]])。
[[立憲国民党]]の[[犬養毅]]と[[立憲政友会]]の[[尾崎行雄]]を先頭とする野党勢力や[[新聞]]に、商工業者や都市部の知識階級も加わり、「閥族打破・憲政擁護」を掲げる運動が全国に広がった([[第一次護憲運動]])。桂は[[立憲同志会]]を自ら組織してこれに対抗しようとしたが、護憲運動は強まる一方だったので、[[1913年]](大正2年)、民衆が議会を包囲するなか、在職わずか50日余で退陣した([[大正政変]])。


桂のあとは、[[薩摩藩|薩摩]]出身の[[大日本帝国海軍|海軍]][[大将]][[山本権兵衛]]が[[立憲政友会]]を与党に内閣を組織した。山本内閣は行政整理を行うとともに、[[文官任用令]]を改正して政党員にも高級官僚への道を開き、また軍部大臣現役武官制を改めて、予備・後備役の[[将官]]にまで資格を拡げ、[[官僚]]・[[軍部]]に対する政党の影響力拡大に努めたが、[[1914年]](大正3年)、外国製の軍艦や兵器の輸入をめぐる海軍高官の汚職事件([[シーメンス事件]])が発覚すると、都市民衆の抗議行動が再び高まり、やむなく退陣した<ref>世界と日本(新版 ジュニア版・日本の歴史)193頁</ref>。
桂のあとは、[[薩摩藩|薩摩]]出身の[[大日本帝国海軍|海軍]][[大将]][[山本権兵衛]]が[[立憲政友会]]を与党に内閣を組織した。山本内閣は行政整理を行うとともに、[[文官任用令]]を改正して政党員にも高級官僚への道を開き、また軍部大臣現役武官制を改めて、予備・後備役の[[将官]]にまで資格を拡げ、[[官僚]]・[[軍部]]に対する政党の影響力拡大に努めたが、[[1914年]](大正3年)、外国製の軍艦や兵器の輸入をめぐる海軍高官の汚職事件([[シーメンス事件]])が発覚すると、都市民衆の抗議行動が再び高まり、やむなく退陣した<ref>世界と日本(新版 ジュニア版・日本の歴史)193頁</ref>。


これを見た山県ら[[元老]]は、庶民の間で人気のある[[大隈重信]]を急遽後継首相に起用た。[[第2次大隈内閣]]は[[長州藩]]や陸軍の支援の下、[[立憲同志会]]を少数与党として出発したが[[1915年]](大正4年)の総選挙で立憲同志会などの与党が[[立憲政友会]]に圧勝した。この結果、懸案の[[二個師団増設問題|2個師団増設案]]議会を通過した。
これを見た山県ら[[元老]]は、庶民の間で人気のある[[大隈重信]]を急遽後継首相に推薦[[第2次大隈内閣]]が成立した。大隈は[[立憲同志会]]を少数与党として出発したが[[1915年]](大正4年)の[[第12回衆議院議員総選挙|総選挙]]で立憲同志会などの与党が[[立憲政友会]]に圧勝した。この結果、懸案の[[二個師団増設問題|2個師団増設案]]議会を通過した。また同内閣下で[[第一次世界大戦]]が勃発しており、同盟国[[イギリス]]が[[ドイツ]]に宣戦すると、日本は[[日英同盟]]を理由にドイツに宣戦し、中国におけるドイツの植民地[[青島市|青島]]、[[山東省]]、[[南洋諸島]]の一部を占領した<ref>世界と日本(新版 ジュニア版・日本の歴史)196頁</ref>。ついで大戦のためヨーロッパ諸国が中国問題に介入する余力のないのを利用して、[[1915年]](大正4年)に[[袁世凱]]政府に、[[加藤高明]]外相が二十一か条の要求を提出した([[対華21ヶ条要求]])


[[第一次世界大戦]]の勃発で[[イギリス]]が[[ドイツ]]に宣戦すると、[[日英同盟]]を理由にドイツに宣戦して、[[中国]]における[[青島市|青島]]、[[山東省]]、[[南洋諸島]]の一部を占領した<ref>世界と日本(新版 ジュニア版・日本の歴史)196頁</ref>。ついで大戦のためヨーロッパ諸国が中国問題に介入する余力のないのを利用して、[[1915年]](大正4年)に[[袁世凱]]政府に、[[加藤高明]]外相が二十一か条の要求を提出した([[対華21ヶ条要求]])。続く[[寺内正毅]]内閣では、袁のあとを継いだ北方軍閥の[[段祺瑞]]内閣に巨額の借款を与えて([[西原借款]])、政治・経済・軍事にわたる中国における日本の権限を拡大しようと努めた。極東の権益を保持するため[[日露協約#第四次日露協約|第4次日露協約]]、[[イギリス]]との覚書、[[特派大使]][[石井菊次郎]]の[[石井・ランシング協定]]を締結した。[[1917年]](大正6年)の[[ロシア革命]]を好機とみた[[寺内内閣]]は[[北満州]]・[[沿海州]]まで勢力を広げようとした([[シベリア出兵]])。
続く[[寺内正毅]]内閣では、袁のあとを継いだ北方軍閥の[[段祺瑞]]内閣に巨額の借款を与えて([[西原借款]])、政治・経済・軍事にわたる中国における日本の権限を拡大しようと努めた。極東の権益を保持するため[[日露協約#第四次日露協約|第4次日露協約]]、[[イギリス]]との覚書、[[特派大使]][[石井菊次郎]]の[[石井・ランシング協定]]を締結した。[[1917年]](大正6年)の[[ロシア革命]]を好機とみた[[寺内内閣]]は[[北満州]]・[[沿海州]]まで勢力を広げようとした([[シベリア出兵]])。


[[寺内正毅]]の[[超然内閣]]に対抗して[[憲政会]]が結成されると、寺内首相は[[1917年]](大正6年)に衆議院を解散、総選挙の結果[[立憲政友会]]が[[憲政会]]に代わって衆議院の第一党となった。大戦による急激な[[インフレーション]]と[[シベリア出兵]]を見越した米の買い占めによって国内では米価が暴騰して、[[1918年]](大正7年)8月には[[富山県]]の漁村で主婦達が米の安売りを要求したことが新聞に報道されると[[1918年米騒動|米騒動]]が全国に広がった。さらに労働者の待遇改善、小作人の小作料引き下げの運動も起こった<ref>世界と日本(新版 ジュニア版・日本の歴史)202頁</ref>。
[[寺内正毅]]の超然内閣に対抗して[[憲政会]]が結成されると、寺内首相は[[1917年]](大正6年)に衆議院を解散、[[第13回衆議院議員総選挙|総選挙]]の結果立憲政友会が[[憲政会]]に代わって衆議院の第一党となった。大戦による急激な[[インフレーション]]と[[シベリア出兵]]を見越した米の買い占めによって国内では米価が暴騰して、[[1918年]](大正7年)8月には[[富山県]]の漁村で主婦達が米の安売りを要求したことが新聞に報道されると[[1918年米騒動|米騒動]]が全国に広がった。さらに労働者の待遇改善、小作人の小作料引き下げの運動も起こった<ref>世界と日本(新版 ジュニア版・日本の歴史)202頁</ref>。


政府はようやくそれを鎮圧したが、シベリア出兵を推進した寺内正毅首相は[[1918年]](大正7年)[[9月21日]]に退陣した。
政府はようやくそれを鎮圧したが、シベリア出兵を推進した寺内正毅首相は[[1918年]](大正7年)[[9月21日]]に退陣した。
[[画像:Takashi Hara posing.jpg|thumb|left|200px|[[原敬]]]]
[[画像:Takashi Hara posing.jpg|thumb|left|200px|[[原敬]]]]
[[民衆運動]]の力を目の当たりにした[[元老]]たちはついに政党内閣を認め、[[立憲政友会]]の[[原敬]]を首相に指名し、[[華族]]でも[[藩閥]]でもない「'''平民宰相'''」が[[1918年]](大正7年)[[9月29日]]に誕生した。普通選挙の要求が高まった情勢を背景に、原は政党の地位を高めながら、自党の党勢拡大を行い、大資本や地主などとの間に深い関係を築いた。しかし国民期待て[[内閣]]は普通選挙制の導入には「現在の社会の組織に向かって脅迫を与えるもの」として拒み、他方では、元老との衝突を避ながらも、元老の政治力の縮小に努力した<ref>遠山茂樹・今井清一・藤原彰『昭和史』[新版] 岩波書店 〈岩波新書355〉 1959年 16ページ
民衆運動の力を目の当たりにした元老たちはついに政党内閣を認め、[[立憲政友会]]の[[原敬]]を首相に推薦し、[[1918年]](大正7年)[[9月29日]]には初の本格的な政党内閣[[原内閣]]が成立た。[[華族]]でなかった原は「平民宰相」と呼ばれて国民に親しまれた。普通選挙の要求が高まった情勢を背景に、原は政党の地位を高めながら、自党の党勢拡大を行い、大資本や地主などとの間に深い関係を築いた。また元老との衝突を避けながらも元老政治力の縮小努力た。しかし、原は普通選挙制の導入について国民の期待に反して「現在の社会の組織に向かって脅迫を与えるもの」として拒みけ<ref>遠山茂樹・今井清一・藤原彰『昭和史』[新版] 岩波書店 〈岩波新書355〉 1959年 16ページ
</ref>選挙権の納税資格を3円以上に引き下げ、[[小選挙区制]]を導入するにとどまった。これらは「党利党略」として世論の不信を招いた。[[1919年]](大正8年)に満州で日中両軍が衝突する[[寛城子事件]]が起きる。[[1920年]](大正9年)の[[尼港事件]]では在留邦人と駐留日本軍が[[赤軍]]と[[中国軍]]に皆殺しにされ内閣の責任が追及された。[[1921年]](大正10年)11月4日に原が東京駅頭で一青年([[中岡艮一]]に暗殺された([[原敬暗殺事件]])。続いて政友会総裁となった[[高橋是清]]が首相となったが、短命に終わり、代わって[[海軍]][[大将]]の[[加藤友三郎]]が事実上の与党として内閣を組織して[[1922年]](大正11年)6月から〜[[1923年]](大正12年)8月までの期間に非政党内閣が続いた。その後、[[関東大震災]]や[[虎ノ門事件]]の発生は<ref>世界と日本(新版 ジュニア版・日本の歴史)223頁</ref>、それまでの藩閥に危機意識を抱かせ、第2次山本権兵衛内閣が虎ノ門事件で倒れた後、枢密院議長から天下って[[清浦奎吾]]が内閣を組織しようとした。それに対し[[憲政会]]・[[革新倶楽部]]・[[政友会]]の三派は、普選([[普通選挙]])の採用、政党内閣制の樹立を掲げて、[[藩閥]]勢力と[[官僚]]勢力を主体とした[[政友本党]]に対抗した([[第二次護憲運動]])。[[護憲三派]](憲政会、政友会、革新倶楽部)は選挙で勝利して、[[護憲三派内閣]]として[[加藤高明]]内閣が成立した[[1924年]](大正13年)、第二次大正政変)。加藤高明内閣は[[1925年]](大正14年)、[[普通選挙法]]を成立させ、ついに身分や財産によらず成人男子すべてに[[選挙権]]を与える[[普通選挙]]が実現することになる。しかし、婦人の参政権は認めず、生活貧困者の選挙権も認めないなどの制約があった<ref>世界と日本(新版 ジュニア版・日本の歴史)225頁</ref>
</ref>選挙権の納税資格を3円以上に引き下げ、[[小選挙区制]]を導入する選挙改革にとどた。これらは「党利党略」として世論の不信を招いた。また外交面では[[1919年]](大正8年)に満州で日中両軍が衝突する[[寛城子事件]]が起きる。[[1920年]](大正9年)の[[尼港事件]]では在留邦人と駐留日本軍が[[赤軍]]と[[中国軍]]に皆殺しにされ内閣の責任が追及された。[[1921年]](大正10年)11月4日に原が東京駅頭で鉄道労働者[[中岡艮一]]に暗殺された([[原敬暗殺事件]])。


続いて政友会総裁となった[[高橋是清]]が首相となり、経済不況に対応して積極政策を試みたが、そのことで内紛がおこったため、緊縮財政と普通選挙を訴える憲政会への期待が高まっていった。外交面では1922年(大正11年)初頭に[[ワシントン会議]]があり、アジアにワシントン体制が構築された。その結果、日本国内でも国際協調主義が強まった。高橋内閣は内紛により倒れ、代わってワシントン会議全権だった海軍大将[[加藤友三郎]]が政友会を事実上の与党として内閣を組織した。加藤はワシントン会議の協定に従って海軍軍縮を行ったほか、陸軍軍縮も断行し、さらに選挙権拡大の検討に入った<ref name="平凡">『世界大百科事典』(平凡社)「大正」の項目</ref>。
それは「革命」の安全弁としての役割も期待されていたが、れと同時に[[治安維持法]]が[[1925年]](大正14年)[[4月22日]]に公布されて[[5月22日]]に施行した法律を成立させ、「[[国体]]の変革」「私有財産否定」を目的とした活動の禁止と、そうした結社に加入することを厳重に取り締まった<ref>[[1925年]](大正14年)の新聞は治安維持法に批判的な論評を掲載するとともに、社説でも正面から反対した。「社説」では同法は「人権蹂躙・人権抑圧」であり、国民の生活や思想まで取り締まりの対象になり、集会結社の自由はなきに至ると論じた。同法成立の背景として、第一次世界大戦とロシア革命以後の社会運動や社会主義運動の盛り上がりを抑制する政策として考えられてきたものであったが、また、アメリカの無政府主義取締法を初めとする世界的な治安立法の動きが影響したと考えられる。(成田)龍一『大正デモクラシー』シリーズ日本近代史④ 岩波書店 〈岩波新書1045〉 2007年 210-211ページ</ref>。また、勅令175号[[1925年]](大正14年)[[5月8日]]により、[[日本統治時代の朝鮮|朝鮮]]、[[日本統治時代 (台湾)|台湾]]、[[樺太庁|樺太]]にも治安維持法が施行される。しかし、これによって[[政党]]政治が定着するようなった。こ[[1932]][[昭和]]7年)に[[犬養毅]]内閣が[[五・一五事件]]で倒れるまでの8年間[[政治]]が続き、明治以来の藩閥政治は一応終焉した。政党内閣時代はこのときで続き([[憲政の常道]])、政治[[官僚]]や軍部基盤にしつつも政党中心に動いていくこととなった。

加藤病死後、関東大震災の危機の中で第2次山本内閣が立てられ、挙国一致内閣の必要性と普通選挙採用を訴えたが、政友会の協力が得られず、[[虎の門事件]]により総辞職に追い込まれた<ref name="平凡"/>。つづいて貴族院を母体とした[[清浦奎吾]]内閣が成立し、反政党政治的な態度を示したが、それに対抗して衆議院の[[憲政会]]・[[革新倶楽部]]・[[政友会]]の三派は、[[第二次護憲運動]]を起こした。[[1924年]](大正13年)の[[第15回衆議院議員総選挙|総選挙]]では[[護憲三派]](憲政会、政友会、革新倶楽部)が大勝を収め、[[護憲三派内閣]]として[[加藤高明]]内閣が成立した。これ以降衆議院の第一党党首が首相になるのが慣習化した([[憲政の常道]])<ref name="平凡"/>。

加藤内閣は[[1925年]](大正14年)、[[普通選挙法]]を成立させ、納税額によらず成人男子すべてに[[選挙権]]を与える男子[[普通選挙]]が実現することになる。しかし、婦人の参政権は認めず、生活貧困者の選挙権も認めないなどの制約があっ<ref>世界と日本(新版 ジュニア版・日本の歴史)225頁</ref>。普選には「革命」の安全弁としての役割も期待されていたが、同時に8年前のロシア革命のように革命の発火点になる恐も考えられたため、普選法と同時に[[治安維持法]]を成立させ、「[[国体]]の変革」「私有財産否定」を目的とした活動の禁止と、そうした結社に加入することを厳重に取り締まった<ref>[[1925年]](大正14年)の新聞は治安維持法に批判的な論評を掲載するとともに、社説でも正面から反対した。「社説」では同法は「人権蹂躙・人権抑圧」であり、国民の生活や思想まで取り締まりの対象になり、集会結社の自由はなきに至ると論じた。同法成立の背景として、第一次世界大戦とロシア革命以後の社会運動や社会主義運動の盛り上がりを抑制する政策として考えられてきたものであったが、また、アメリカの無政府主義取締法を初めとする世界的な治安立法の動きが影響したと考えられる。(成田)龍一『大正デモクラシー』シリーズ日本近代史④ 岩波書店 〈岩波新書1045〉 2007年 210-211ページ</ref>。また、勅令175号[[1925年]](大正14年)[[5月8日]]により、[[日本統治時代の朝鮮|朝鮮]]、[[日本統治時代 (台湾)|台湾]]、[[樺太庁|樺太]]にも治安維持法が施行される。しかし普選の実現により、無産政党にも議会進出道が開かれ1926年(大正15年)には[[労働農民党]]が発足した。また同年[[治安警察法]]第17条も廃止された。外交面では[[日ソ基本条約]]を結んでソ連と国交った<ref name="平凡"/>

同年12月25日に大正天皇が崩御し、大正時代は終わり、昭和の時代へと突入した。


== 第一次世界大戦と景気 ==
== 第一次世界大戦と景気 ==

2017年2月14日 (火) 05:34時点における版

大正(たいしょう)は、明治の後、昭和の前の日本元号大正天皇の在位期間である1912年明治45年/大正元年)7月30日から1926年(大正15年/昭和元年)12月25日までの期間。

改元

大正改元の詔書1912年(明治45年)7月30日

朕菲德ヲ以テ大統ヲ承ケ祖宗ノ威靈ニ誥ケテ萬機ノ政ヲ行フ茲ニ先帝ノ定制ニ遵ヒ明治四十五年七月三十日以後ヲ改メテ大正元年ト爲ス主者施行セヨ(以下略)[1]
  • 1926年(大正15年)12月25日 - 大正天皇が崩御して、摂政宮裕仁親王(のちの昭和天皇)が践祚したため、昭和に改元、同日は昭和元年12月25日となった。皇太子裕仁親王は1921年(大正10年)11月25日に、病が篤くなった大正天皇の摂政に就き、以来天皇の名代としての務めを行っていた。

「大正」の由来

「大正」の由来は『易経』彖伝・臨卦の「亨以、天之道也」(大いに亨(とほ)りて以て正しきは、天の道なり)から。「大正」は過去に4回候補に上がったが、5回目で採用された。

なお大正天皇実録によれば元号案として「大正」「天興」「興化」「永安」「乾徳」「昭徳」の案があったが、最終案で「大正」「天興」「興化」に絞られ、枢密顧問の審議により「大正」に決定した。

特徴

大正天皇

大正時代は大正天皇の治世を指している。日本の歴史の時代区分は通常、飛鳥奈良平安鎌倉室町安土・桃山江戸と政権の中心地による呼称である。大正時代は(年数が大正元年〜大正15年の15年間で、期間は1912年1926年の14年間)で日本史で一番短い時代区分である。

平成時代(大正時代を超える期間の1989年(平成元年)〜2017年(平成29年)の29年間以上)と安土桃山時代(大正時代を超える期間の1573年天正元年)〜1603年慶長8年)の30年間)が次に短い時代区分である。

1912年(大正元年)は辛亥革命が終わって中華民国が成立した年で、「民国N年」が「大正N年」に当たる。また金日成が誕生した年であり、「主体N年」も「大正N年」に当たる。この時期の世界は、第一次世界大戦が起こった時期でもあり、その結果としてドイツオーストリアロシアなどで君主制が廃止されていき、共和制国家が多数成立しはじめた。

大正年間を通じて都市に享楽的な文化が生まれる反面、スラムの形成、民衆騒擾の発生、労働組合と小作人組合が結成されて、労働争議が激化するなど社会的な矛盾が深まっていった。

大正年間には、2度[2]に及ぶ護憲運動(憲政擁護運動)が起こり、明治以来の超然内閣の政治体制が揺らいで、政党勢力が進出することになった。それらは大正デモクラシーと呼ばれて、尾崎行雄犬養毅[3]がその指導層となった。

大正デモクラシー時代は、1918年(大正7年)の米騒動の前と後で分けられることが多いが、米騒動後同年に初めて爵位を持たず、衆議院に議席を持つ平民原敬(平民宰相とあだ名された)が日本初の本格的な政党内閣を組織した。

しかし、1921年に原は卓越した政治感覚と指導力を有する政治家であり教育制度の改善、交通機関の整備、産業および通商貿易の振興、国防の充実の4大政綱を推進したが普通選挙法に反対するなどその登場期に平民達に期待された程の改革もなさないままに終わり、大塚駅員だった青年の中岡艮一により東京駅構内で暗殺された。

この前後の時期は普選運動が活発化して、平塚雷鳥市川房枝らの婦人参政権運動も活発だった。

1925年(大正14年)には、加藤高明内閣下で普通選挙法が成立したが、同時にロシア革命への警戒感から治安維持法が制定された。言論界も活況を呈して、君主制民主主義を折衷しようとした吉野作造民本主義[4]美濃部達吉の明治時代の政治家の暗黙の了解だった憲法解釈を文字にして後に禍文民統制を失わせることに繋がる天皇機関説などが現れた。

1921年(大正10年)11月25日皇太子裕仁親王大正天皇の病状悪化によって摂政宮となった。力強かった時代の明治時代を見直す機運から明治天皇昭憲皇太后を祀る明治神宮が建立された。

1923年(大正12年)に加藤友三郎首相が在任中に亡くなって8日後に関東大震災が起こり、首都が壊滅的な打撃を受けたが、程なく復興した。震災後、山本権兵衛内閣が成立した。

その後、第二次護憲運動(憲政擁護運動)が起こり、護憲三派内閣として加藤高明内閣が成立した。第一次世界大戦後には、ベルサイユワシントン体制に順応的な幣原外交(加藤内閣)が展開され、中華民国への内政不干渉、ソビエト連邦との国交樹立など、一定のハト派・国際協調的な色彩を示した。

大正時代は、藩閥的な超然内閣を主導していた江戸時代生まれの元勲たちが政界から引退したり他界していった時代で、試験選抜され高等教育機関で養成された世代の人々が社会の中枢を担うようになっていった[5]

第一次世界大戦同盟国ドイツ帝国オーストリア・ハンガリー帝国オスマン帝国)の帝政の崩壊がデモクラシーの勝利とされて、ロシア革命で目的が達成された共産主義思想も日本のインテリ層の思想に影響を与えた。大正期の知識人は、改造革新革命維新の4種類を政治運動のスローガンに掲げた。大正デモクラシーの政治運動の中で、資本主義を批判する社会主義共産主義の影響力が強まった[6]

モガ。1923年

文化風俗面の特徴としては、近代都市の発達や経済の拡大に伴い、都市文化、大衆文化が花開き、「大正モダン」と呼ばれる華やかな時代を迎えた[7]。女性の就労も増え、それまでの女工などに代わって、女子事務員や電話交換手など「職業婦人」と呼ばれる層が現れ、デパート店員、バスガール、カフェの女給、映画女優といった新しい職業も人気となり、断髪で洋装のモガ(モダンガールの略。男性はモボ)が登場した[7]

護憲運動と政治

1913年(大正2年)2月5日、尾崎行雄桂内閣弾劾演説(大正政変
1913年(大正2年)2月5日、桂太郎首相の施政方針演説に対する質問に立った尾崎行雄は、桂首相を激しく糾弾した。
1920年(大正9年)、赤軍の攻撃により燃え落ちた日本領事館(尼港事件
ニコラエフスク住民数千人と共に、日本人700人余りが殺害された。

1911年明治44年)に第2次西園寺内閣が成立した頃、日本の国家財政は非常に悪化していたが、中国辛亥革命に刺激された陸軍は、抗日運動対策も兼ねて朝鮮に駐屯させる2個師団の増設を強く政府に迫った。緊縮財政方針の西園寺公望がこれを拒否し、政府・与党(立憲政友会)と陸軍が対立すると、多くの国民が陸軍の横暴に憤り、政治改革の機運が高まった。また1912年(明治45年/大正元年)7月30日明治天皇が崩御して大正天皇が即位したり、美濃部達吉が『憲法講話』を刊行して、天皇機関説政党内閣論を唱えたことも国民に新しい政治を期待させた。

1912年(大正元年)の末、2個師団増設が閣議で認められなかったことに抗議して、上原勇作陸相が単独で辞表を大正天皇に提出し、陸軍が軍部大臣現役武官制を楯にその後任を推薦しなかったため、西園寺内閣は総辞職に追い込まれた。代わって長州閥と陸軍の長老である桂太郎が、就任したばかりの内大臣侍従長を辞して第3次桂内閣を組織すると、「宮中府中の別」の原則を無視して宮中の職から首相に転じたことが、藩閥勢力が新天皇を擁して政権独占を企てているとの非難の声が上がった[8]

立憲国民党犬養毅立憲政友会尾崎行雄を先頭とする野党勢力や新聞に、商工業者や都市部の知識人階級も加わり、「閥族打破・憲政擁護」を掲げる運動が全国に広がった(第一次護憲運動)。桂は立憲同志会を自ら組織してこれに対抗しようとしたが、護憲運動は強まる一方だったので、1913年(大正2年)、民衆が議会を包囲するなか、在職わずか50日余で退陣した(大正政変)。

桂のあとは、薩摩出身の海軍大将山本権兵衛立憲政友会を与党に内閣を組織した。山本内閣は行政整理を行うとともに、文官任用令を改正して政党員にも高級官僚への道を開き、また軍部大臣現役武官制を改めて、予備・後備役の将官にまで資格を拡げ、官僚軍部に対する政党の影響力拡大に努めたが、1914年(大正3年)、外国製の軍艦や兵器の輸入をめぐる海軍高官の汚職事件(シーメンス事件)が発覚すると、都市民衆の抗議行動が再び高まり、やむなく退陣した[9]

これを見た山県ら元老は、庶民の間で人気のある大隈重信を急遽後継首相に推薦し、第2次大隈内閣が成立した。大隈は立憲同志会を少数与党として出発したが、1915年(大正4年)の総選挙で立憲同志会などの与党が立憲政友会に圧勝した。この結果、懸案の2個師団増設案は議会を通過した。また同内閣下で第一次世界大戦が勃発しており、同盟国イギリスドイツに宣戦すると、日本は日英同盟を理由にドイツに宣戦し、中国におけるドイツの植民地青島山東省南洋諸島の一部を占領した[10]。ついで大戦のためヨーロッパ諸国が中国問題に介入する余力のないのを利用して、1915年(大正4年)に袁世凱政府に、加藤高明外相が二十一か条の要求を提出した(対華21ヶ条要求)。

続く寺内正毅内閣では、袁のあとを継いだ北方軍閥の段祺瑞内閣に巨額の借款を与えて(西原借款)、政治・経済・軍事にわたる中国における日本の権限を拡大しようと努めた。極東の権益を保持するため第4次日露協約イギリスとの覚書、特派大使石井菊次郎石井・ランシング協定を締結した。1917年(大正6年)のロシア革命を好機とみた寺内内閣北満州沿海州まで勢力を広げようとした(シベリア出兵)。

寺内正毅の超然内閣に対抗して憲政会が結成されると、寺内首相は1917年(大正6年)に衆議院を解散、総選挙の結果立憲政友会が憲政会に代わって衆議院の第一党となった。大戦による急激なインフレーションシベリア出兵を見越した米の買い占めによって国内では米価が暴騰して、1918年(大正7年)8月には富山県の漁村で主婦達が米の安売りを要求したことが新聞に報道されると米騒動が全国に広がった。さらに労働者の待遇改善、小作人の小作料引き下げの運動も起こった[11]

政府はようやくそれを鎮圧したが、シベリア出兵を推進した寺内正毅首相は1918年(大正7年)9月21日に退陣した。

原敬

民衆運動の力を目の当たりにした元老たちはついに政党内閣を認め、立憲政友会原敬を首相に推薦し、1918年(大正7年)9月29日には初の本格的な政党内閣原内閣が成立した。華族でなかった原は「平民宰相」と呼ばれて国民に親しまれた。普通選挙の要求が高まった情勢を背景に、原は政党の地位を高めながら、自党の党勢拡大を行い、大資本や地主などとの間に深い関係を築いた。また元老との衝突を避けながらも、元老の政治力の縮小に努力した。しかし、原は普通選挙制の導入については国民の期待に反して「現在の社会の組織に向かって脅迫を与えるもの」として拒み続け[12]、選挙権の納税資格を3円以上に引き下げ、小選挙区制を導入する選挙改革にとどめた。これらは「党利党略」として世論の不信を招いた。また外交面では1919年(大正8年)に満州で日中両軍が衝突する寛城子事件が起きる。1920年(大正9年)の尼港事件では在留邦人と駐留日本軍が赤軍中国軍に皆殺しにされ内閣の責任が追及された。1921年(大正10年)11月4日には原が東京駅頭で鉄道労働者中岡艮一に暗殺された(原敬暗殺事件)。

続いて政友会総裁となった高橋是清が首相となり、経済不況に対応して積極政策を試みたが、そのことで内紛がおこったため、緊縮財政と普通選挙を訴える憲政会への期待が高まっていった。外交面では1922年(大正11年)初頭にワシントン会議があり、アジアにワシントン体制が構築された。その結果、日本国内でも国際協調主義が強まった。高橋内閣は内紛により倒れ、代わってワシントン会議全権だった海軍大将加藤友三郎が政友会を事実上の与党として内閣を組織した。加藤はワシントン会議の協定に従って海軍軍縮を行ったほか、陸軍軍縮も断行し、さらに選挙権拡大の検討に入った[13]

加藤病死後、関東大震災の危機の中で第2次山本内閣が立てられ、挙国一致内閣の必要性と普通選挙採用を訴えたが、政友会の協力が得られず、虎の門事件により総辞職に追い込まれた[13]。つづいて貴族院を母体とした清浦奎吾内閣が成立し、反政党政治的な態度を示したが、それに対抗して衆議院の憲政会革新倶楽部政友会の三派は、第二次護憲運動を起こした。1924年(大正13年)の総選挙では護憲三派(憲政会、政友会、革新倶楽部)が大勝を収め、護憲三派内閣として加藤高明内閣が成立した。これ以降衆議院の第一党党首が首相になるのが慣習化した(憲政の常道[13]

加藤内閣は1925年(大正14年)、普通選挙法を成立させ、納税額によらず成人男子すべてに選挙権を与える男子普通選挙が実現することになる。しかし、婦人の参政権は認めず、生活貧困者の選挙権も認めないなどの制約があった[14]。普選には「革命」の安全弁としての役割も期待されていたが、同時に8年前のロシア革命のように革命の発火点になる恐れも考えられたため、普選法と同時に治安維持法を成立させ、「国体の変革」「私有財産否定」を目的とした活動の禁止と、そうした結社に加入することを厳重に取り締まった[15]。また、勅令175号1925年(大正14年)5月8日により、朝鮮台湾樺太にも治安維持法が施行される。しかし普選の実現により、無産政党にも議会進出の道が開かれ、1926年(大正15年)には労働農民党が発足した。また同年治安警察法第17条も廃止された。外交面では日ソ基本条約を結んでソ連と国交を行った[13]

同年12月25日に大正天皇が崩御し、大正時代は終わり、昭和の時代へと突入した。

第一次世界大戦と景気

新渡戸稲造

1914年(大正3年)には第一次世界大戦が勃発した。元老の井上馨はその機会を「天佑」と言い、日英同盟を理由に参戦した。本土や植民地が被害を被ることこそなかったものの、連合国の要請を受けてヨーロッパにも派兵し多数の戦死者を出した結果、戦勝国の一員となった。

発生直後こそは世界的規模への拡大に対する混乱から一時恐慌寸前にまで陥ったが、やがて戦火に揺れたヨーロッパの列強各国に代わり日本米国両新興国家が物資の生産拠点として貿易を加速させ、日本経済は空前の好景気となり、大きく経済を発展させた。特に世界的に品不足となった影響で繊維紡績産業・漁網製造産業)などの軽工業造船業製鉄業など重工業が飛躍的に発展して、後進的な未発達産業であった化学工業も最大の輸入先であるドイツとの交戦によって自国による生産が必要とされて、一気に近代化が進んだ。こうした中で多数の「成金」が出現する。また、政府財政も日露戦争以来続いた財政難を克服することに成功する[16]

しかし、1918年(大正7年)に戦争が終結すると過剰な設備投資と在庫の滞留が原因となって反動不況が発生して景気が悪化した。さらに戦時中停止していた金輸出禁止の解除(いわゆる「金解禁」)の時期を逸したために、日本銀行に大量のが滞留して金本位制による通貨調整の機能を失って、政府・日銀ともに景気対策が後手後手に回った。更に関東大震災による京浜工業地帯の壊滅と緊急輸入による在庫の更なる膨張、震災手形とその不良債権化問題の発生などによって、景気回復の見通しが全く立たないままに昭和金融恐慌世界恐慌を迎えることになる。

パリ講和会議では、人種差別撤廃案を主張し、人種差別撤廃を訴え大多数の国の支持を得たが、アメリカ、イギリス、オーストラリアなどの反対によって否決された。日本大日本帝国)はアジア独立国で数少ない国際連盟加盟国となりアメリカ合衆国イギリスフランスイタリアの5カ国と並ぶ世界の1等国として国際連盟常任理事国となる。国際連盟事務次長に日本出身(大日本帝国代表)の新渡戸稲造が就任した。また、旧ドイツ帝国領であったマーシャル諸島(日本は南洋諸島南洋庁を設置した)を日本が委任統治することとなった。太平洋地域まで大日本帝国の領土が拡大されたことで、フィリピンハワイ諸島を領有するアメリカ合衆国と直接的に領土領海の境域が接するようにもなり日米は対立関係となり、日英同盟が解消されるなど、太平洋戦争大東亜戦争)への伏線が芽生えることとなった。

震災復興

後藤新平

1923年(大正12年)には関東大震災が生じた。この未曾有の大災害に東京は大きな損害を受けるが、震災後、山本権兵衛内閣が成立した。新内閣の内務大臣山本内閣の内務相)となった後藤新平が震災復興で大規模な都市計画を構想して辣腕を振るった。震災での壊滅を機会に江戸時代以来の東京の街を大幅に改良し、道路拡張や区画整理などを行いインフラストラクチャーが整備され、大変革を遂げた。

この際、江戸の伝統を受け継ぐ町並みが一部を残して破壊され、東京は下水道整備やラジオ放送が本格的に始まるなど近代都市へと復興を遂げた。しかし、一部に計画されたパリロンドンを参考にした環状道路や放射状道路等の理想的な近代都市への建設は行われず、東京は戦後の自動車社会になってそれを思い知らされることとなり、戦後の首都高速の建設に繋がる。

一方、この震災に乗じて、警視庁官房主事の正力松太郎らが、首都に暴動が生じるというデマを振り撒き、混乱した民衆による朝鮮人などの殺害事件が多数起こったことや、震災直後の緊急対策であった筈の震災手形の処理を遅らせて不良債権化させた結果として金融恐慌を招いたことは歴史の負の側面であろう。

文化

芸能文化

日本初のレコードでヒットした歌謡曲とされる松井須磨子の「カチューシャの唄」をはじめとする数々の歌謡曲が誕生した。実はジャズもこの時代に日本に伝わり、それなりに発展する。落語講談文楽歌舞伎新派劇新国劇などの日本的な伝統演劇に対して西洋劇を導入する新劇運動が盛んになり[17]昭和時代に発展する芸能界の基礎となる俳優女優歌手などの職業が新しく誕生して、その後の大衆文化の原型が生まれた。活動写真(現在の映画)や少女歌劇(現在の宝塚歌劇団)が登場した[18]

都市文化

小林一三
大正時代の洋風住宅(兵庫県芦屋市旧山邑家住宅

日露戦争頃から、当時の経済文化の中心地であった大阪神戸において都市を背景にした大衆文化が成立し(阪神間モダニズム)、全国へ波及した。今日に続く日本人の生活様式もこの時代にルーツが求められるものが多い。

道路交通機関が整備されて、路面電車青バス(東京乗合自動車)円太郎バス[19]などの乗合バスが市内を走行して、大正後期から〜昭和初期までの大大阪時代大阪府では、東京府よりも先におびただしい私鉄網が完成し、なかんずく小林一三が主導した阪神急行電鉄の巧みな経営術により、阪神間に多くの住宅衛星都市群が出現した。一方、日清戦争1894年1895年〔明治27年〜明治28年〕)を経て東洋一の貿易港となっていた神戸港に夥しく流入する最新の欧米文化を彼ら衛星都市の富裕層が受け入れて広まり、モダンな芸術・文化・生活様式が誕生した。大阪・神戸は関東大震災1923年〔大正12年〕)後に東京から文化人の移住等もあって、文化的に更なる隆盛をみた。大正中期に都市部で洋風生活を取り入れた「文化住宅」が一般向け住宅として流行をした。

東京府東京市)では、関東大震災で火災による被害が甚大だった影響で江戸期から下町江戸時代の街並みを失う一方、震災の影響が総じて少なかった丸の内大手町地区にエレベーターの付いたビルディングの建設が相次ぎ、一大オフィス街が成立した。下町で焼け出された人々が世田谷、杉並等それまで純然たる農村であった地域に移住して、新宿、渋谷を単なる盛り場から「副都心」へと成長させた。1918年(大正7年)に専門学校から昇格する形で私立大学を中心に旧制大学を認可する大学令高等学校令が公布されて高等教育機関が整備されて、東京帝大の卒業生の半数が民間企業に就職するようになり、「サラリーマン」が大衆の主人公となった。明治時代まで呉服屋であった老舗が次々に「百貨店」に変身を遂げ、銀座デパート街へと変貌した。井戸やまきによるかまどの使用や明治時代石油ランプが廃れて、上水道ガス電気が普及する。神前結婚大本教霊友会など新宗教が盛んになる。家庭電気器具では扇風機電気ストーブ・電気アイロン・電気コンロが普及した[20]ブリキセルロイド製のおもちゃなど新素材のおもちゃが登場した。

スポーツの開始

戦中に中断されて、戦後に復活して継続されている箱根駅伝甲子園球場で行われるようになった中等学校野球などのスポーツが開始された。明治神宮外苑に「神宮外苑野球場」ができたのが1926年(大正15年)で、その前年出発した「東京六大学野球」が愈々隆盛を極めるようなる。

マスコミの発達

東京に拠点を置いていた『時事新報』、『國民新聞』、『萬朝報』の主要紙が関東大震災の影響で被災して凋落し、取って代って大阪に本社を置いていた『大阪朝日新聞』、『大阪毎日新聞』が100万部を突破して東京に進出、それに対抗した『讀賣新聞』も成長を果たして、今日「三大紙」といわれるようになる新聞業界の基礎が築かれた。

1925年(大正14年)3月には、東京、大阪、名古屋でラジオ放送が始まり、新しいメディアが社会に刺激を与えるようになる。

大正前期、新聞について書かれた記事によると、『風俗書報』第四六七号(一九一六[大正五]年一月)の「新聞紙」にて柏拳生は「新聞紙「は斯く重宝なるものとして貴ばるゝと共に、群衆心理を左右する恐るべき魔力を有す。」と述べている。また、光本悦三郎『鞍上と机上:続東京馬米九里』(一九一四[大正三]年一二月 無星神叢書)の「新聞の裏面」にて「群盲は新聞の裏面を知らないで、表面に現れた文字だけよりかは何も知らない。」とあるように、大正期の新聞は人々に多大な影響を与えた。

自動車の登場

震災で鉄道が被害を受けたこともあって、「自動車」が都市交通の桧舞台にのし上がり、「円タク」などタクシーの登場もあって、旅客か貨物であるかを問わず陸運手段として大きな地位を占めるようになる。また、オースチンフォード等の輸入車が中心ではあるものの、上流階級や富裕層を中心に自家用車の普及も始まった。

食文化

都市部では新たに登場した中産階級を中心に“洋食”が広まり「カフェ」「レストラン」が成長して、飲食店のあり方に変革をもたらした。カレーライスとんかつコロッケ大正の三大洋食と呼ばれた。特にコロッケは益田太郎冠者[21]作詞の楽曲のコロッケの唄1917年(大正6年)にヒット曲となり、コロッケ以外にオムレツが大正の3大洋食と呼ばれた)の登場により、洋食とは縁のなかった庶民の食卓にまで影響が及ぶこととなった。米騒動による米価高騰対策として原敬内閣は積極的にパン代用食運動を展開した。パンは昭和の戦後期になって普及するが、和製洋食に御飯と云う、戦後の日本人の食事の主流は大正時代に定着して、中華料理中華そばの普及や和食復権運動があった[22]。子供たちに人気があったロシアパンロシア革命で日本に亡命して来た白系ロシア人によって紹介されて広まった[23]1919年(大正8年)7月7日 に日本で初めての乳酸菌飲料カルピスが発売される。人造氷が発達してコロッケ・フライなど副食が洋風化した。アイスクリーム・パン・チキンライスコーヒーラムネ紅茶サイダービールキャラメルチョコレートなど洋食品が普及した[24]喫茶店レストランが増加した。昭和一桁(昭和時代の初期)にかけて、中華料理(南京料理)の麺類缶詰類など簡易食品が発達した[25]

ファッション

女性の間で、洋髪が流行して、七三分け・髪の毛の耳隠しなどが行われて洋風が普及した。女学生に制服が使用された。男子はセルのが良く使用された。明治時代まで庶民には縁のなかった「欧米式美容室」、「ダンスホール」が都市では珍しい存在ではなくなり、モダンボーイモダンガールの男女など、男性の洋装が当たり前になったのもこの時代である[26]。一方、地方(特に農漁村)の労働者階級ではそういった近代的な文化の恩恵を受けることはまれで、都市と地方の格差は縮まらなかった[27]

文学史・芸術史

文学界には、新現実主義芥川龍之介耽美派谷崎潤一郎、さらに武者小路実篤志賀直哉人道主義(ヒューマニズム)を理想とした白樺派が台頭した。この頃までに近代日本語が多くの文筆家らの努力で形成された。和歌では萩原朔太郎が新しい口語自由詩のリズムを完成させ、今日に続く文章日本語のスタイルが完成し、上記の他に、中里介山の『大菩薩峠』や『文藝春秋』の経営にも当たった菊池寛などの文芸作品が登場した[28]

1冊1円本が飛ぶように売れた[29]。この時期の1921年(大正10年)には、小牧近江らによって雑誌『種蒔く人』が創刊され、昭和初期にかけてプロレタリア文学運動に発展した。また1924年(大正13年)には、演劇で小山内薫築地小劇場を創立し、新劇を確立させた。新聞、同人誌等が次第に普及し、新しい絵画や音楽、写真や「活動写真」と呼ばれた映画などの娯楽も徐々に充実した。俳壇では『ホトトギス』が一大勢力を築き、保守俳壇の最有力誌として隆盛を誇った。柳宗悦が朝鮮美術を薦めて民芸運動を提唱した[30]

社会問題

社会事業

この当時、社会事業を巡る議論が盛んとなり、米騒動後には政府・地方で社会局および方面委員制度の創設が相次いで行われ、それらの機関によって都市の貧民調査や公設市場の設置などが進められていった。

教化総動員運動

また1919年(大正8年)には、第一次世界大戦を契機とした国民の思想・生活の変動に対処するという目的で内務省の主導による民力涵養運動が開始されており、後の教化総動員運動の先駆けともなる、国家が国民の生活の隅々まで統制を行おうとする傾向がこの時期から見られるようになる。

労働運動

こうして大正年間において社会事業が活発となった原因として、小作争議の頻発や労働運動の大規模化など、地方改良運動に見られるような従来の生産拡大方針では解決不可能な問題が深刻化したことが指摘されている。鈴木文治によって友愛会が設立されて、第一次世界大戦期間中にインフレが進行したことによって米騒動が発生した。成金が誕生する一方で貧富の差が拡大したことで急増した労働争議に友愛会などの労働組合が深く関係した[31]

部落解放運動

大正デモクラシーによって様々な社会運動が行われた。中世から近世江戸時代)に形成された武士百姓町人(いわゆる士農工商)以外の穢多非人と呼ばれた賎民が存在していた。しかし、日本が明治期に近代化された後も、賎民の子孫・部落民の家系や被差別部落出身者を差別する家柄差別封建制度の負の遺産として残っていて、新平民の呼称で平民扱いされなかった国民がいた。明治政府の貧困対策の不備・身分解放政策の不備があったこと、また賎民専用の皮革産業などの貴重な生業を失い貧困層となったことや、村社会家制度下の旧百姓身分の農民層からの偏見があったため、明治時代になっても被差別部落問題が存在した。明治維新によって四民平等となったが、近代化以後も被差別部落問題が解決されなかったために西光万吉阪本清一郎らが中心となり1922年(大正11年)に全国水平社が結成された[32]

女性解放運動

大正時代の女学生

女性の解放が叫ばれて、女性が勤務した職業として事務員デパート店員バスガール電話交換手ウェートレス和文英文タイピスト保母看護婦劇場の案内人・美容師など社会に進出して働く職業婦人が増加した。女性運動家が出現して[33]普通選挙運動の要求が男性のみであったことから、日本にも婦人参政権獲得を目的とする女性解放運動を推進する新婦人協会が設立されて、女性が地位向上を求めるようになった。また、高等女学校への進学も増えた[7]

朝鮮併合問題

三・一独立運動によって日本統治時代の朝鮮朝鮮総督府がこれまでの憲兵警察制度による武断統治を見直し、内鮮一体朝鮮半島近代化を目的とする文化政治に改めた。貧困から逃れるため朝鮮人の外地から内地への密航が多発して、在日朝鮮人の増加に伴う内地人との軋轢や社会不安が社会問題となった。

年表

1912年(大正元年)
7月30日明治天皇崩御、皇太子嘉仁親王が天皇に践祚、大正に改元される。明治天皇大葬の礼乃木希典陸軍大将夫妻殉死する。第3次桂内閣成立。憲政擁護会が結成。火力発電を抜いて水力発電量が第1位になる。友愛会結成[34]。この年は中華民国が成立した年で民国紀元の中華民国元年と同年である。
1913年(大正2年)
大正政変第三次桂太郎内閣総辞職)、山本権兵衛内閣成立。アメリカ合衆国カリフォルニア州排日土地法成立。宝塚唄歌隊(後の宝塚歌劇)誕生。
1914年(大正3年)
鹿児島県桜島が大噴火して大隅半島と陸続きになる。外電によりシーメンス事件発覚。大正天皇即位奉祝「東京大正博覧会」始まる。「カチューシャの唄」の流行。日本初の国産車登場。第一次世界大戦勃発。大日本帝国ドイツ帝国宣戦布告東京駅開業。三越呉服店が日本初のデパートメントストア宣言を行い、エレベーター・エスカレーター付きの近代的店舗を建築。
1915年(大正4年)
日本中華民国袁世凱政権に対華21ヶ条を要求。第12回衆議院議員総選挙与党が圧勝[35]。選挙干渉などが起きる。第1回全国中等学校優勝野球大会開催。大正天皇即位の礼東京証券取引所で空前の出来高。
1916年(大正5年)
吉野作造が「中央公論」で「民本主義」を提案。夏目漱石死去。
1917年(大正6年)
4月20日第13回衆議院議員総選挙(政友会165議席,憲政会121議席,国民党35議席,無所属60議席)。ロシア革命。中国での日本権益に関する米国との石井・ランシング協定締結。
東京海上ビル。日本最初期の本格的高層オフィスビル
1918年(大正7年)
シベリア出兵1918年米騒動松下幸之助二股ソケットを売り出す。鈴木三重吉が「赤い鳥」創刊。第1次世界大戦終結。武者小路実篤宮崎県に「新しき村」を建設。大学令公布。東京海上ビル完成。
1919年(大正8年)
パリ講和会議開催。関税自主権回復。3月1日朝鮮半島三・一独立運動5月4日中華民国五四運動モスクワコミンテルン創立大会。7月13日寛城子事件カルピス発売。選挙法改正。全国普選期成大会開催。「東京節」の流行。
1920年(大正9年)
国際連盟設立。尼港事件新婦人協会設立。大正天皇の第1回病状発表がされる。上野公園で日本初のメーデー5月10日第14回衆議院議員総選挙(政友会278議席,憲政会110議席,国民党29議席、,無所属47議席)、第1回国勢調査(総人口7698万8379人、内地5596万3053人)。明治神宮造営工事が施工。11月4日、尾崎行雄・犬養毅島田三郎ら、政界革新普選同盟会を結成。
1921年(大正10年)
安田善次郎暗殺。原敬暗殺事件皇太子裕仁親王の訪欧の実施と摂政への就任。羽仁もと子自由学園が創立。
1922年(大正11年)
ワシントン会議開催、(四カ国条約九カ国条約ワシントン海軍軍縮条約)。山県有朋森鴎外死去。大阪市名古屋市八幡市で官業労働者デモ堺利彦山川均日本共産党結成。アインシュタイン来日。
1923年(大正12年)
関東大震災、『国民精神作興ニ関スル詔書』が発布される。「船頭小唄」の流行。丸の内ビルヂング完成。亀戸事件甘粕事件虎の門事件
1924年(大正13年)
排日移民法米国連邦議会で成立。皇太子で摂政宮の裕仁親王が成婚。第15回衆議院議員総選挙護憲三派大勝、憲政会151議席、政友会105議席、革新倶楽部30議席、政友本党109議席、無所属69議席)、メートル法実施。甲子園球場完成。婦人参政権獲得期成同盟会が結成。第二次護憲運動。
1925年(大正14年)
治安維持法制定。普通選挙法制定。日ソ基本条約締結。日本政府がソビエト連邦を承認。日本初のラジオ放送
1926年(大正15年/昭和元年)
1月30日第一次若槻礼次郎内閣憲政党内閣)成立。労働農民党結成。日本統治時代の朝鮮6・10万歳運動日本放送協会設立。12月25日大正天皇崩御、皇太子裕仁親王が天皇に践祚。光文事件。同日昭和に改元。

西暦との対照表

大正 元年 2年 3年 4年 5年 6年 7年 8年 9年 10年
西暦 1912年 1913年 1914年 1915年 1916年 1917年 1918年 1919年 1920年 1921年
干支 壬子 癸丑 甲寅 乙卯 丙辰 丁巳 戊午 己未 庚申 辛酉
大正 11年 12年 13年 14年 15年
西暦 1922年 1923年 1924年 1925年 1926年
干支 壬戌 癸亥 甲子 乙丑 丙寅

大正を冠するもの

企業

地名(公共施設)

テーマパーク

文化作品名

商品

  • 大正海老(タイショウエビ)

学校

大正時代の評価

脚注

  1. ^ 明治45年(1912)7月|大正と改元:日本のあゆみ
  2. ^ 第一次は1912年(大正元年)12月から翌年にかけて第3次桂内閣打倒運動が東京を中心にして各地で憲政擁護大会が開かれた。第二次は1924年(大正13年)1月清浦内閣打倒運動を起こし、政党内閣、普通選挙、貴族院改革を要求した。
  3. ^ 政党側の闘志であるこの二人は、中国に対する「21か条要求」には日本の特権を肯定していた。(遠山茂樹・今井清一・藤原彰『昭和史』[新版] 岩波書店 〈岩波新書355〉 1959年 15ページ)
  4. ^ デモクラシーの訳語(遠山茂樹・今井清一・藤原彰『昭和史』[新版] 岩波書店 〈岩波新書355〉 1959年 14ページ)
  5. ^ 皿木喜久 『大正時代を訪ねてみた 平成日本の原景』「大正世代」 (産経新聞社、2002年の178ページから〜181ページの明治人たり逝くの項目
  6. ^ マンガ日本の歴史現代編石ノ森章太郎大戦とデモクラシー198頁〜199頁
  7. ^ a b c 『化粧文化』8号「大正モダン」ポーラ文化研究所、2015
  8. ^ 世界と日本(新版 ジュニア版・日本の歴史)190頁
  9. ^ 世界と日本(新版 ジュニア版・日本の歴史)193頁
  10. ^ 世界と日本(新版 ジュニア版・日本の歴史)196頁
  11. ^ 世界と日本(新版 ジュニア版・日本の歴史)202頁
  12. ^ 遠山茂樹・今井清一・藤原彰『昭和史』[新版] 岩波書店 〈岩波新書355〉 1959年 16ページ
  13. ^ a b c d 『世界大百科事典』(平凡社)「大正」の項目
  14. ^ 世界と日本(新版 ジュニア版・日本の歴史)225頁
  15. ^ 1925年(大正14年)の新聞は治安維持法に批判的な論評を掲載するとともに、社説でも正面から反対した。「社説」では同法は「人権蹂躙・人権抑圧」であり、国民の生活や思想まで取り締まりの対象になり、集会結社の自由はなきに至ると論じた。同法成立の背景として、第一次世界大戦とロシア革命以後の社会運動や社会主義運動の盛り上がりを抑制する政策として考えられてきたものであったが、また、アメリカの無政府主義取締法を初めとする世界的な治安立法の動きが影響したと考えられる。(成田)龍一『大正デモクラシー』シリーズ日本近代史④ 岩波書店 〈岩波新書1045〉 2007年 210-211ページ
  16. ^ 世界と日本(新版 ジュニア版・日本の歴史)200頁
  17. ^ 大正から昭和へ少年少女日本の歴史202頁〜207頁
  18. ^ 日本の歴史(角川まんが学習シリーズ)大正71頁
  19. ^ 明治・大正・昭和のくらし②大正のくらしと文化の14ページ。汐文社が出版社である。
  20. ^ 集英社学習漫画日本の歴史大正時代大正デモクラシー125頁
  21. ^ [1]
  22. ^ 皿木喜久 『大正時代を訪ねてみた 平成日本の原景』「大正世代」 (産経新聞社、2002年148ページから〜151ページの大正時代の3大洋食-『明日もコロッケ』だった時代の項目
  23. ^ 「教科書に載っていない戦前の日本」55頁
  24. ^ 日本の歴史(角川まんが学習シリーズ)大正74頁
  25. ^ 少年少女日本の歴史大正から昭和へ224頁
  26. ^ 日本の歴史(角川まんが学習シリーズ)大正152頁
  27. ^ 大正から昭和へ少年少女日本の歴史224頁〜225頁
  28. ^ 世界と日本(新版 ジュニア版・日本の歴史)228頁
  29. ^ 明治・大正・昭和のくらし②大正のくらしと文化の37ページ。汐文社が出版社である
  30. ^ 日本の歴史(角川まんが学習シリーズ)大正153頁
  31. ^ 世界と日本(新版 ジュニア版・日本の歴史)212頁
  32. ^ 世界と日本(新版 ジュニア版・日本の歴史)215頁
  33. ^ 『日本の歴史第17巻大正時代〜大正デモクラシー』(著者は松尾尊兌)118ページ〜120ページの復興する都市と女性の進出の項目
  34. ^ マンガ日本の歴史現代編大戦とデモクラシー。石ノ森章太郎執筆の200頁
  35. ^ 同志会153議席,政友会108議席,中正会33議席、国民党27議席、大隈伯後援会12議席,無所属48議席
  36. ^ 『日本の歴史第17巻大正時代〜大正デモクラシー』(著者は松尾尊兌)15ページの上段の2コマ
  37. ^ 『平成日本の原景大正時代を訪ねてみた』(著者は皿木喜久)216ページ10行目から〜17行目

参考文献

  • 『平成日本の原景大正時代を訪ねてみた』(著者は皿木喜久
  • 『日本の歴史第17巻大正時代〜大正デモクラシー』(著者は松尾尊兌
  • 『大正デモクラシー』(著者は成田龍一)
  • 『絵葉書で読み解く大正時代』(著者は学習院大学史料館)
  • 『少年少女日本の歴史大正から昭和へ』(著者は東京教育大学名誉教授肥後和男

関連項目