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[[1985年のNFL|1985年]]、ブラウンズは[[マイアミ大学 (フロリダ州)|マイアミ大学]]のQB、[[バーニー・コーザー]]を[[サプルメンタルドラフト]]で獲得した。コーザーはシーズン半ばには[[ゲイリー・ダニエルソン]]から先発の座を奪った。コーザーは先発した6試合中4試合で勝利をあげ、若いRB[[アーネスト・バイナー]]、[[ケビン・マック]]は共に1000ヤードラッシャーとなった<ref>同じチームの2人のランニングバックが1000ヤードラッシャーとなったのはその後2008年の[[ニューヨーク・ジャイアンツ]]まで起きなかった。</ref>。8勝8敗であったが地区優勝を果たしプレーオフに出場した。[[マイアミ・ドルフィンズ]]とのディビジョナルプレーオフでは一時21-3とリードしたが後半に入ると[[ダン・マリーノ]]率いるドルフィンズのオフェンスにタッチダウン3本を返されて21-24で逆転負けを喫した。1985年から1989年にかけてチームは5年連続プレーオフに出場したがうち3回は[[デンバー・ブロンコス]]に[[AFCチャンピオンシップゲーム]]で敗れた。
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[[1986年のNFL|1986年]]にはコーザーがパスを3854ヤード投げ、ディフェンスからは5人([[チップ・バンクス]]、[[ハンフォード・ディクソン]]、[[ボブ・ゴーリック]]、[[クレイ・マシューズ]]、[[フランク・ミニフィールド]])が[[プロボウル]]に選出される活躍を見せてAFCトップの12勝4敗でプレーオフでの[[ホームフィールドアドバンテージ]]を確保した。[[ニューヨーク・ジェッツ]]とのディビジョナルプレーオフでは残り4分で10-20とリードされ第3ダウン残り24ヤードのピンチとなったが[[マーク・ギャスティノー]]の[[アメリカンフットボール#守備側の主な反則|ラフィング・ザ・パッサー]]の反則により、[[アメリカンフットボール#ダウンとシリーズ|ファーストダウン]]を更新、その後ケビン・マックがTDラン、ジェッツの攻撃を3回でディフェンスが止めて、タイムアウトなしの残り51秒にはコーザーから[[ウェブスター・スローター]]へのパスが通り、残り7秒で[[マーク・モーズリー]]<ref>[[マット・バー]]が負傷したため引退していたモーズリーが復帰していた。</ref>が同点FGをあげて試合はイオーバータイムに突入した。オーバータイムに入りモーズリーはFGを1本ミスしたが、ダブルオーバータイムの末、再びモーズリーに出番が回り決勝FGが決まりブラウンズが勝利した<ref>{{cite web|url=http://bleacherreport.com/articles/531833-nfl-power-rankings-top-50-greatest-games-in-nfl-history#/articles/531833-nfl-power-rankings-top-50-greatest-games-in-nfl-history/page30 |title=Double Overtime In Lake Erie |publisher=bleacherreport.com |author=Brian Ditullio |date=2010-12-02 |accessdate=2013-08-04 }}</ref><ref>伝説の名勝負ベスト15 大逆転!NFL Number VIDEO ISBN4-16-911614-3</ref>。ブロンコスとのAFCチャンピオンシップゲームでは残り5分11秒で相手オフェンスに対して自陣2ヤードからの攻撃を強いたが、[[ジョン・エルウェイ]]の後に'''ザ・ドライブ'''と呼ばれるプレーで同点にされオーバータイムに相手キッカー、[[リッチ・カーリス]]のFGが決まりシーズンを終えた。
[[1986年のNFL|1986年]]にはコーザーがパスを3854ヤード投げ、ディフェンスからは5人([[チップ・バンクス]]、[[ハンフォード・ディクソン]]、[[ボブ・ゴーリック]]、[[クレイ・マシューズ]]、[[フランク・ミニフィールド]])が[[プロボウル]]に選出される活躍を見せてAFCトップの12勝4敗でプレーオフでの[[ホームフィールドアドバンテージ]]を確保した。[[ニューヨーク・ジェッツ]]とのディビジョナルプレーオフでは残り4分で10-20とリードされ第3ダウン残り24ヤードのピンチとなったが[[マーク・ギャスティノー]]の[[アメリカンフットボール#守備側の主な反則|ラフィング・ザ・パッサー]]の反則により、[[アメリカンフットボール#ダウンとシリーズ|ファーストダウン]]を更新、その後ケビン・マックがTDラン、ジェッツの攻撃を3回でディフェンスが止めて、タイムアウトなしの残り51秒にはコーザーから[[ウェブスター・スローター]]へのパスが通り、残り7秒で[[マーク・モーズリー]]<ref>[[マット・バー]]が負傷したため引退していたモーズリーが復帰していた。</ref>が同点FGをあげて試合はイオーバータイムに突入した。オーバータイムに入りモーズリーはFGを1本ミスしたが、ダブルオーバータイムの末、再びモーズリーに出番が回り決勝FGが決まりブラウンズが勝利した<ref>{{cite web|url=http://bleacherreport.com/articles/531833-nfl-power-rankings-top-50-greatest-games-in-nfl-history#/articles/531833-nfl-power-rankings-top-50-greatest-games-in-nfl-history/page30 |title=Double Overtime In Lake Erie |publisher=bleacherreport.com |author=Brian Ditullio |date=2010-12-02 |accessdate=2013-08-04 }}</ref><ref>伝説の名勝負ベスト15 大逆転!NFL Number VIDEO ISBN 4-16-911614-3</ref>。ブロンコスとのAFCチャンピオンシップゲームでは残り5分11秒で相手オフェンスに対して自陣2ヤードからの攻撃を強いたが、[[ジョン・エルウェイ]]の後に'''ザ・ドライブ'''と呼ばれるプレーで同点にされオーバータイムに相手キッカー、[[リッチ・カーリス]]のFGが決まりシーズンを終えた。


[[1987年のNFL|1987年]]もコーザーは3000ヤード以上を投げ、タッチダウンパス22本を通した。プロボウルにはコーザー、マック、ディクソン、ゴーリック、ミニフィールド、マシューズ、WRの[[ジェラルド・マクニール]]、オフェンスラインのCody Risienが選ばれた。10勝5敗でシーズンを終えたチームはディビジョナルプレーオフで[[インディアナポリス・コルツ]]を38-21で破り2年連続ブロンコスとAFCチャンピオンシップゲームで対戦した。ハーフタイムで3-21とリードを許したが第3Qにはコーザーから[[アーネスト・バイナー]]、[[レジー・ランホーン]]へのTDパスが通り、第4Q初めには[[ウェブスター・スローター]]への4ヤードのTDパスが決まり試合は31-31と振り出しに戻った。ブロンコスは[[サミー・ワインダー]]があげたTDで再びリードしたが5分弱の時間が残されておりブラウンズは残り1分12秒で敵陣8ヤードまで前進し、アーネスト・バイナーにボールを持たせてオープンに走らせた。このプレイ('''ザ・ファンブル'''と呼ばれるようになった。)でバイナーは相手選手のヒットを受けてファンブルしてしまった。その後、ブロンコスは意図的にセイフティで失点し、ブラウンズは33-38で敗れた<ref>{{cite web|url=http://bleacherreport.com/articles/531833-nfl-power-rankings-top-50-greatest-games-in-nfl-history#/articles/531833-nfl-power-rankings-top-50-greatest-games-in-nfl-history/page37 |title=The Fumble |publisher=bleacherreport.com |author=Brian Ditullio |date=2010-12-02 |accessdate=2013-08-04 }}</ref>。
[[1987年のNFL|1987年]]もコーザーは3000ヤード以上を投げ、タッチダウンパス22本を通した。プロボウルにはコーザー、マック、ディクソン、ゴーリック、ミニフィールド、マシューズ、WRの[[ジェラルド・マクニール]]、オフェンスラインのCody Risienが選ばれた。10勝5敗でシーズンを終えたチームはディビジョナルプレーオフで[[インディアナポリス・コルツ]]を38-21で破り2年連続ブロンコスとAFCチャンピオンシップゲームで対戦した。ハーフタイムで3-21とリードを許したが第3Qにはコーザーから[[アーネスト・バイナー]]、[[レジー・ランホーン]]へのTDパスが通り、第4Q初めには[[ウェブスター・スローター]]への4ヤードのTDパスが決まり試合は31-31と振り出しに戻った。ブロンコスは[[サミー・ワインダー]]があげたTDで再びリードしたが5分弱の時間が残されておりブラウンズは残り1分12秒で敵陣8ヤードまで前進し、アーネスト・バイナーにボールを持たせてオープンに走らせた。このプレイ('''ザ・ファンブル'''と呼ばれるようになった。)でバイナーは相手選手のヒットを受けてファンブルしてしまった。その後、ブロンコスは意図的にセイフティで失点し、ブラウンズは33-38で敗れた<ref>{{cite web|url=http://bleacherreport.com/articles/531833-nfl-power-rankings-top-50-greatest-games-in-nfl-history#/articles/531833-nfl-power-rankings-top-50-greatest-games-in-nfl-history/page37 |title=The Fumble |publisher=bleacherreport.com |author=Brian Ditullio |date=2010-12-02 |accessdate=2013-08-04 }}</ref>。

2016年11月15日 (火) 15:33時点における版

クリーブランド・ブラウンズ
Cleveland Browns
創設 1946年
所属地区
  • NFL(1970-1995,1999-現在)
  • AFC(1970-1995,1999-現在)
北地区(2002-現在)
中地区(1970-1995,1999-2001)
  • 東カンファレンス(1953-1969)
世紀地区(1967-1969)
地区分け無し(1953-1966)
  • アメリカン・カンファレンス(1950-1952)
  • AAFC(1946-1949)
地区分け無し(1948-1949)
西地区(1946-1947)
チームデザイン
チームロゴ
なし
チームカラー
  ブラウン
  オレンジ
 
ユニフォーム
{{{ユニフォーム}}}
ホームタウン
クリーブランド・ブラウンズの位置(アメリカ合衆国内)
クリーブランド・ブラウンズ

オハイオ州クリーブランド(1946-1995,1999-現在)


クリーブランド・ブラウンズ・スタジアム(1996-)
クリーブランド・スタジアム (1946-1995)

永久欠番

1432454676

獲得タイトル
スーパーボウル・チャンピオン ({{{SB回}}}回)
カンファレンス・チャンピオン ({{{CC回}}}回)
地区優勝 ({{{DC回}}}回)
ワイルドカード
球団組織
オーナー ジミー・ ハスラム
GM
ヘッドコーチ ロブ・チャドジンスキー (2013- )

クリーブランド・ブラウンズ (Cleveland Browns) は、オハイオ州クリーブランドに本拠地を置くNFLチーム。AFC北地区に所属している。現在のチームは1999年に再度設立されたもの。これは1996年に旧ブラウンズボルチモア移転が当時のアート・モデルオーナーによって決定された際にファンの反対によって愛称や歴史などチームのロイヤリティはクリーブランド市に残され、その後新チームが「ブラウンズ」を引き継ぐ形で設立されたため。このエクスパンションによってNFLは全31チームとなり、それが現在の32チーム体制につながった。NFL32チームの中で唯一チームロゴを持たないため、ヘルメットは中央部に茶色と白のストライブが入ったオレンジ色の無地となっている。NFLの公式サイトなどでも、他のチームがロゴマークで表されているところではブラウンズはヘルメットの絵となっている。

歴史

1970年まで

1946年にNFLに対抗して創設されたオール・アメリカ・フットボール・カンファレンス(All-America Football Conference)の一員としてアーサー・B・マクブライドによってチームが創設された(サンフランシスコ・フォーティナイナーズも同じ年に創設されてAAFCに参加している。)。チーム名は最初クリーブランドのプレイン・ディーラー紙で行われた投票で「パンサーズ」が選ばれたが、過去に「クリーブランド・パンサーズ」というフットボールチームが存在し、地元の実業家がその名前の権利を保有していることを連絡してきた[1]。チームは別にチーム名命名コンテストを実施し、ヘッドコーチであるポール・ブラウンの名にちなんで「ブラウンズ」となった。ブラウンは、実際にはボクシングのヘビー級チャンピオンジョー・ルイスにちなんだ「ブラウンボンバーズ」が最も多い得票数だったが後に撤回され、ブラウン自身の名をつけることを承諾したと述べている[1][2]AAFCは4年間存続した後NFLに統合されたが、ブラウンズは4シーズン全てでチャンピオンシップを獲得し、4シーズンを通して4敗しかしなかった。

NFLとAAFCの合併後、ブラウンズはサンフランシスコ・フォーティナイナーズおよびボルティモア・コルツ(初代)とともに1950年にNFLに移動した。批評家はAAFCの全体的な弱さがブラウンズを目立たせていると考えていた。しかし、ブラウンズは最初のNFL公式試合において、NFLチャンピオンに2年連続なっていたフィラデルフィア・イーグルスからパスで346ヤード、トータルで487ヤード獲得し、35対10で勝利した[3]。そして最初の年のNFLチャンピオンシップで、試合終了直前にルー・グローザのフィールドゴールによりロサンゼルス・ラムズを破り優勝した。ブラウンズは続く5度のタイトルゲーム出場を果たし、1954年1955年に連覇した。1946年から1955年までのチーム創設から10年でブラウンズは毎年チャンピオンシップゲームに出場(最初の4回はAAFC)し、7回優勝を果たした。

1956年シーズン開幕前にオットー・グラハムが怪我のため引退すると3人のQB、ジョージ・ラターマンベイブ・パリリトミー・オコネルが使われたが全員タッチダウンよりも被インターセプト回数が多くチームは5勝7敗と初めて負け越した。1957年のドラフトでシラキューズ大学のフルバック、ジム・ブラウンを獲得した。ジム・ブラウンは1年目から12試合で942ヤードを走りリーディングラッシャーとなり、またルーキー・オブ・ザ・イヤーに輝いた。チームは9勝2敗1分でチャンピオンシップゲームに出場したが2人のQB、トミー・オコネルとミルト・プラムデトロイト・ライオンズに6回のターンオーバーを許し14-59と大敗した。1958年にジム・ブラウンは他のランニングバック全てのほぼ2倍以上となる1527ヤードを走りリーディングラッシャーとなった。ブラウンはキャリア9年間の内、7回1000ヤードラッシャーとなったがその間チームが優勝したのは1964年の1回のみであった。

1961年にアート・モデルが1953年からチームオーナーとなっていたデビッド・ジョーンズからチームを購入した。1962年シーズン7勝6敗1分の成績に終わると翌1963年の1月9日、ポール・ブラウンとの契約打ち切りがアート・モデルをはじめ過半数のオーナーの支持により決定された。決定に至る議論は地方紙のストライキ中に進行し大きな物議を醸すことはなかった。クリーブランドのスポーツライター、フランク・ギボンズはその解雇について、「ターミナルタワー(クリーブランドで一番高いビル)を倒すようなものだ」と語っている[4]。後任のヘッドコーチにはブラウンの下で長年アシスタントコーチを務めたブラントン・コリエルが就任した。1963年にチームは10勝4敗、ブラウンは1863ヤードを走った。1964年には10勝3敗1分で7年ぶりにチャンピオンシップゲームに出場、ボルチモア・コルツを27-0で破った。この試合のMVPには3回のタッチダウンパスレシーブを見せたゲイリー・コリンズが選ばれた。1965年、ジム・ブラウンの引退後の1968年1969年もチャンピオンシップゲームに進出したが優勝は果たせず、1970年シーズン終了後にコリエルヘッドコーチは辞任、オフェンスコーディネーターのニック・スコリッチが新ヘッドコーチとなった。

1971年から1984年

NFLとAFLの統合後、最初のシーズンとなった1971年にはAFC中地区で優勝、1972年もワイルドカードでプレーオフに出場したが初戦で敗れた。1973年にチームはプレーオフ出場を逃し、1974年にはQBにマイク・フィップスとルーキーのブライアン・サイプが起用されたが、2人合計でTDパス10回に対し被インターセプト24回を数えた。ディフェンスもリーグワーストの344失点でチームは4勝10敗と低迷した。スコリッチは解任され、1975年からフォレスト・グレッグがヘッドコーチとなった。

1975年シーズンチームは開幕から9連敗したがシンシナティ・ベンガルズ戦でシーズン初勝利をあげるとその3週後のカンザスシティ・チーフス戦では3年目のRBグレッグ・プルイットが214ヤードを走る活躍を見せチームは3勝11敗でシーズンを終えた。

1976年には開幕戦で勝利したものの、エースQBのマイク・フィップスは負傷欠場することとなり、その後3連敗したが控えQBのブライアン・サイプが活躍を見せ10月10日に行われた2年連続スーパーボウル優勝を果たしているピッツバーグ・スティーラーズに18-16で勝利するなど、最終的に9勝5敗でシーズンを終えグレッグヘッドコーチは最優秀コーチ賞を受賞、グレッグ・プルイットも1000ヤードラッシャーとなった。

1977年もシーズン序盤から好調を維持したが、ブライアン・サイプが11月13日のピッツバーグ・スティーラーズ戦でジャック・ランバートのヒットを受け負傷し、最後の5試合でわずか1勝しかあげられず6勝8敗に終わりグレッグヘッドコーチは最終週のゲーム前に解雇されディック・マゼロウスキが臨時ヘッドコーチとなった。

1978年からサム・ラティグリアーノがヘッドコーチとなり怪我から復帰したQBサイプが2900ヤードを投げ21TDパスをあげる活躍を見せ、ランニングバックのグレッグ・プルイット、マイク・プルイットが二人合わせて2500ヤードを走ったがパスディフェンスにもろさを見せて8勝8敗に終わった。

1979年シーズンには開幕から4連勝を果たした。このうち3試合は残り1分または延長による勝利であった。僅差による勝利が続いたチームは"Kardiac Kids"と呼ばれた。サイプはスティーブ・グローガンと共にリーグ最多の28タッチダウンをあげたが26被インターセプトもリーグ最多であった。マイク・プルイットは1294ヤードを走りプロボウルに選ばれたがディフェンスは相変わらず弱点で特にランディフェンスはリーグ最低であり、チームは9勝7敗でヒューストン・オイラーズ、ピッツバーグ・スティーラーズに次いで地区3位に終わった。

1980年にはサイプが4000ヤードを越えるパスを投げ、30TDパス、被インターセプト14回でシーズンMVPに選ばれた。11勝5敗で地区優勝を果たして8年ぶりのプレーオフ出場を果たしたがオークランド・レイダーズに12-14と惜敗した[5]

1981年サンディエゴ・チャージャーズとの開幕戦となったマンデーナイトフットボールでサイプは57回のパスを投げたが、14-44で敗れた[6]。この年、サイプはタッチダウンパス17回、インターセプト25回に終わり、タイトエンドのオジー・ニューサムがパスレシーブで1004ヤードを獲得、6タッチダウンをあげてプロボウルに選ばれたのが唯一の明るいニュースであった。

1982年にはサイプとポール・マクドナルドの2人が先発QBとして起用された。ストライキで短縮されたこのシーズン4勝5敗に過ぎない成績だったが拡大されていたプレーオフに出場したが初戦で敗れた。

1983年にはサイプが復活し26TDパスを投げて3566ヤードを獲得、マイク・プルイットも1184ヤードを走り10TDをあげた。延長戦での勝利を2回あげるなど接戦をものにしたが9勝7敗で惜しくもプレーオフ出場を逃した。

1984年は再建の年となった。QBのサイプはUSFLに移籍し、マイク・プルイットも1984年シーズン終了後にバッファロー・ビルズに移籍した。シーズン1勝7敗となったところでラティグリアーノヘッドコーチは解任され、マーティ・ショッテンハイマーが残り試合の指揮を執り5勝11敗でシーズンを終えた。

1985年から

1985年、ブラウンズはマイアミ大学のQB、バーニー・コーザーサプルメンタルドラフトで獲得した。コーザーはシーズン半ばにはゲイリー・ダニエルソンから先発の座を奪った。コーザーは先発した6試合中4試合で勝利をあげ、若いRBアーネスト・バイナーケビン・マックは共に1000ヤードラッシャーとなった[7]。8勝8敗であったが地区優勝を果たしプレーオフに出場した。マイアミ・ドルフィンズとのディビジョナルプレーオフでは一時21-3とリードしたが後半に入るとダン・マリーノ率いるドルフィンズのオフェンスにタッチダウン3本を返されて21-24で逆転負けを喫した。1985年から1989年にかけてチームは5年連続プレーオフに出場したがうち3回はデンバー・ブロンコスAFCチャンピオンシップゲームで敗れた。

1986年にはコーザーがパスを3854ヤード投げ、ディフェンスからは5人(チップ・バンクスハンフォード・ディクソンボブ・ゴーリッククレイ・マシューズフランク・ミニフィールド)がプロボウルに選出される活躍を見せてAFCトップの12勝4敗でプレーオフでのホームフィールドアドバンテージを確保した。ニューヨーク・ジェッツとのディビジョナルプレーオフでは残り4分で10-20とリードされ第3ダウン残り24ヤードのピンチとなったがマーク・ギャスティノーラフィング・ザ・パッサーの反則により、ファーストダウンを更新、その後ケビン・マックがTDラン、ジェッツの攻撃を3回でディフェンスが止めて、タイムアウトなしの残り51秒にはコーザーからウェブスター・スローターへのパスが通り、残り7秒でマーク・モーズリー[8]が同点FGをあげて試合はイオーバータイムに突入した。オーバータイムに入りモーズリーはFGを1本ミスしたが、ダブルオーバータイムの末、再びモーズリーに出番が回り決勝FGが決まりブラウンズが勝利した[9][10]。ブロンコスとのAFCチャンピオンシップゲームでは残り5分11秒で相手オフェンスに対して自陣2ヤードからの攻撃を強いたが、ジョン・エルウェイの後にザ・ドライブと呼ばれるプレーで同点にされオーバータイムに相手キッカー、リッチ・カーリスのFGが決まりシーズンを終えた。

1987年もコーザーは3000ヤード以上を投げ、タッチダウンパス22本を通した。プロボウルにはコーザー、マック、ディクソン、ゴーリック、ミニフィールド、マシューズ、WRのジェラルド・マクニール、オフェンスラインのCody Risienが選ばれた。10勝5敗でシーズンを終えたチームはディビジョナルプレーオフでインディアナポリス・コルツを38-21で破り2年連続ブロンコスとAFCチャンピオンシップゲームで対戦した。ハーフタイムで3-21とリードを許したが第3Qにはコーザーからアーネスト・バイナーレジー・ランホーンへのTDパスが通り、第4Q初めにはウェブスター・スローターへの4ヤードのTDパスが決まり試合は31-31と振り出しに戻った。ブロンコスはサミー・ワインダーがあげたTDで再びリードしたが5分弱の時間が残されておりブラウンズは残り1分12秒で敵陣8ヤードまで前進し、アーネスト・バイナーにボールを持たせてオープンに走らせた。このプレイ(ザ・ファンブルと呼ばれるようになった。)でバイナーは相手選手のヒットを受けてファンブルしてしまった。その後、ブロンコスは意図的にセイフティで失点し、ブラウンズは33-38で敗れた[11]

1988年はコーザーがカンザスシティ・チーフスとの開幕戦で負傷、その怪我が原因でシーズン後半を欠場した。コーザーが先発した試合は6勝3敗で、他のQBが先発した試合は4勝3敗、最終週に吹雪の中、地元クリーブランドで行われたヒューストン・オイラーズ戦に勝利して10勝6敗で終えてワイルドカードによりプレーオフに出場した[12]。プレーオフはオイラーズとホームでの再戦であったが先発QBのドン・ストロックが負傷退場後にマイク・ペーゲルが登場しタッチダウンで追いすがったものの最後オンサイドキック3回のチャンス(オイラーズに反則があったため蹴り直しがされた。)をものにできず23-24で敗れた。この試合を最後にマーティ・ショッテンハイマーヘッドコーチはチームを去りカンザスシティ・チーフスのヘッドコーチとなり、後任にはバド・カーソンが就任した。

1989年、怪我から復帰したコーザーが全16試合に先発出場した[12]。チームは7勝3敗から引き分けを含み3連敗してプレーオフ出場が危ぶまれたが最後の2試合に勝利し9勝6敗1分で終わり9勝7敗となった同地区のオイラーズ、スティーラーズを抑え地区優勝を果たした。プレーオフではバッファロー・ビルズと対戦、ジム・ケリーが試合最後のプレイでTDを狙ったパスをクレイ・マシューズがインターセプトし34-30で勝利した。ブロンコスとのAFCチャンピオンシップゲームでは終始リードを許し21-37で敗れた。

1990年にはコーザーがデビューして初めてインターセプト数(15)がタッチダウン数(10)より多い数字に終わり、ラッシングオフェンスはリーグ最下位、ラッシングディフェンスも底辺に近い成績しか残せず3勝13敗に終わった。また2勝7敗になったところでカーソンヘッドコーチは解任され暫定ヘッドコーチにジム・ショフナーが就任したがシーズンの残り7試合中1勝しかあげられずに終わり、1991年からのヘッドコーチにはディフェンスコーディネーターのビル・ベリチックが昇格した。

1991年、チーム成績は6勝10敗で終え、コーザーの成績も18タッチダウン、9インターセプトと改善された。この年RBのリロイ・ホードがブレークした。

1992年はコーザーはシーズンのほとんどをサイドライン上で過ごしマイク・トムザックが先発した。チームはAFC中地区の優勝争いに加わったが最後の3試合を落とし7勝9敗で終えた

1993年、ベリチックはコーザーをカット、タンパベイ・バッカニアーズの先発QBだったビニー・テスタバーディを獲得した。チームは地区首位を走っていたがテスタバーディが負傷し欠場、控えQBのトッド・フィルコックスが代役を務めたが最後の9試合中2勝しかできず7勝9敗で終えた。なおチームを退団したコーザーはこの年、ダラス・カウボーイズに加入、スーパーボウルリングを手に入れた。

1994年、QBはチームの弱点であったがディフェンスは1プレイあたり相手オフェンスに許した平均ヤードはNFL最少という成績を収め、プロボウルに4人の選手(ロブ・バーネットペッパー・ジョンソンマイケル・ディーン・ペリーエリック・ターナー)を送り込んだ。チームは11勝5敗で4年ぶりにプレーオフに出場、ワイルドカードプレーオフではニューイングランド・ペイトリオッツドリュー・ブレッドソーをディフェンスが3回サックし、20-13で破ったが、ディビジョナルプレーオフで同地区のライバル、ピッツバーグ・スティーラーズに9-29で敗れた。

1995年11月6日にアート・モデルオーナーによって、1996年よりボルチモア(1983年までコルツがフランチャイズを置いていた。)にチームを移転することが発表された。翌7日、クリーブランド市議会は1億7500万ドルをかけてクリーブランド・スタジアムを改修することを決めたが、モデルオーナーの構想ではスタジアムを取り壊し新スタジアム建設に3億ドルが必要と計算されていた。

ブラウンズファンはこのニュースに怒り、100以上の訴訟がクリーブランド市などに対して行われた。地元出身のドリュー・キャリーは11月26日にクリーブランドに戻り、移転阻止のためのファンの集会を開いた。移転への抗議行動はライバルのスティーラーズの地元、ピッツバーグでも行われた。さらにチームスポンサーもこの動きに加わり、クリーブランド・スタジアムから広告を引き上げた。

このシーズン、チームは3勝1敗と好スタートを切ったが、移転発表前の3試合に連敗し、発表後の成績は2勝7敗、5勝11敗でシーズンを終えた。地元での最終戦には警備員や警察官が大動員されて不測の事態に備えた。チームはホーム最終戦となったシンシナティ・ベンガルズ戦は勝利で飾った。

その後もNFL、ブラウンズ、クリーブランド、ボルチモアの両市の間で話し合いが続き、1996年2月、ブラウンズの名前、チームカラー、歴史、記録などはクリーブランドに残し[13]、3年後の1999年に新スタジアム完成と共にエクスパンションチームとして復活させる、ボルチモアにできるチームは新チームとするとされた。モデルのチームはボルチモア・レイブンズとなりロースターにいる選手たちはそのまま新球団に移ることとなった。

新生ブラウンズ

1998年にNFLは新しいオーナーとなるアル・ラーナーに5億3000万ドルでフランチャイズを売却、これは北米プロスポーツ史上最高額であった[14]

1999年、チームはCEOにカーメン・ポリシーゼネラルマネージャードワイト・クラークを迎えた。またジャクソンビル・ジャガーズのオフェンスコーディネーターであったクリス・パーマーを新ヘッドコーチに迎えた。チームはエクスパンションドラフト、ドラフトで選手を獲得、1999年のドラフト全体1位でQBのティム・カウチ、2000年のドラフト全体1位でコートニー・ブラウンを指名した[15]

最初の2年間は多くの新加盟した球団と同様に苦戦した。1999年は開幕から7連敗、最終的には2勝14敗、2000年も3勝13敗で終えた。この年、ボルチモア・レイブンズ(この年も移転前にブラウンズでプレイしたマット・ストバー、ロブ・バーネットなどが所属していた。)がニューヨーク・ジャイアンツを破って第35回スーパーボウルを制しておりファンの不満は高まった。シーズン終了と共にパーマーヘッドコーチは解任され後任にはマイアミ大学ヘッドコーチのブッチ・デービスが迎えられた。

2001年チームは7勝9敗で終えた。この年GMのクラークは辞任し、デービスヘッドコーチがGM職を兼務することになった。

ランディ・ラーナー

2002年10月23日、アル・ラーナーオーナーが死去、息子のランディ・ラーナーがオーナーとなった[14]。チームは9勝7敗で1994年以来となるプレーオフに出場を果たした。スティーラーズとの試合は残り5分の時点で33-21とリードしていたが33-36で敗れた。

2003年2004年は共に負け越しに終わった。2004年3勝8敗となったところでデービスヘッドコーチは辞任し[16]、オフェンスコーディネーターのテリー・ロビスキーが暫定ヘッドコーチとなった。

2005年ニューイングランド・ペイトリオッツのディフェンスコーディネーターでクリス・パーマーの下でアシスタントコーチを務めていたロメオ・クレネルが新ヘッドコーチに就任した。2005年、チームは地区最下位に終わった[17]。2005年シーズン最終戦には球団社長のジョン・コリンズがGMのフィル・サベージを解任することを決めたと報道されたが翌年1月3日にチームを去ったのはコリンズであった[18]。この時ラーナーオーナーがCEOも兼任することになった。

2006年は6勝10敗でシーズンを終えた[19]

2007年チームは生まれ変わった。開幕戦でスティーラーズを34-7で破ると先発QBだったチャーリー・フライシアトル・シーホークスにトレード[20]デレック・アンダーソンがエースQBとなった。アンダーソンはシンシナティ・ベンガルズ戦ではチームタイ記録となる5本のTDパスを決めてチームは51-45で勝利した。チームは1994年以来最高となる10勝6敗の成績をあげたが[21]タイブレークの末、プレーオフをわずかのところで逃した。アンダーソンを含む6人がプロボウルに選出され、クレネルヘッドコーチとも2年の契約延長がなされた。

2008年、チームは地区優勝するものと期待された。スーパーボウルチャンピオンのニューヨーク・ジャイアンツを破ったが主力選手に怪我人が続出し4勝12敗に終わった。QBはデレック・アンダーソン、ブレイディ・クインケン・ドーシーの3人が負傷欠場し、シーズン半ばに契約したブルース・ブラドコウスキが4人目の先発QBとして出場する有様であった。第11週にはKフィル・ドーソンが56ヤードのFGを決めてバッファロー・ビルズを破ったが[22]、チームは最後に6連敗し、最後の2試合は完封負けを喫した。またオフェンスのあげたは24Q連続でTDをあげることができなかった。シーズン終了と共にサベージGMとクレネルヘッドコーチは解任され2009年1月、ジョージ・コキニスがGMに[23]ニューヨーク・ジェッツのヘッドコーチだったエリック・マンジーニが新ヘッドコーチに迎えられ4年契約を結んだ[24]

2009年12月20日のカンザスシティ・チーフス戦でジェローム・ハリソンジム・ブラウンのチーム記録を更新する286ヤードを走り[25]、またジョシュ・クリッブスがキックオフリターンで2タッチダウンをあげ通算では8キックオフリターンのNFL新記録を作った[26]。11月2日にジョージ・コキニスGMを解任、12月にマイク・ホルムグレンが球団社長に就任した[27]

2010年、シーズンオフにチームはデレック・アンダーソン、ブレイディ・クインのQB2人を放出、ジェイク・デロームセネカ・ウォレスを獲得、コルト・マッコイドラフトで指名した。この年クインとのトレードでデンバー・ブロンコスから獲得したペイトン・ヒリスが大活躍、彼はシーズンオフにマッデンNFLのカバー選手に選ばれた。第7週のニューオーリンズ・セインツ戦ではデビッド・ボーウェンズの2インターセプトリターンTDなど、ドリュー・ブリーズから4インターセプトを奪い、30-17で勝利した[28]。センターのアレックス・マックプロボウルでマックはラテラスパスを受けてタッチダウンをあげている。2シーズン続けて5勝11敗に終わり、マンジーニヘッドコーチは解雇され[29]セントルイス・ラムズのオフェンスコーディネーターであったパット・シューマーが就任している[30]

2011年、10月23日のシアトル・シーホークス戦ではフィル・ドーソンが50ヤード以上のFGを2本成功させ、6-3で勝利した[31]。前年活躍したヒリスは不振を極めた[32]。コルト・マッコイもピッツバーグ・スティーラーズ戦でジェームズ・ハリソンからのヒットで脳震盪を起こし、シーズン終盤には欠場した[33]。チームは最後に6連敗するなど、4勝12敗でシーズンを終えた[34]

2012年ドラフトでトレードアップにより、全体3位でRBトレント・リチャードソンを指名、もう1つのドラフト1巡指名権でブランドン・ウィーデンを指名した[35]。8月にジミー・ハスラムがチームを買収し新オーナーとなった[36]。マイク・ホルムグレン球団社長は退き、5勝11敗でシーズンを終えた後、パット・シューマーヘッドコーチ、トム・ヘッカートGMは解任された[37]

2013年1月、カロライナ・パンサーズのオフェンスコーディネーター、ロブ・チャドジンスキーが新ヘッドコーチに就任した[38]。またオフェンスコーディネーターに、前年までサンディエゴ・チャージャーズのヘッドコーチを務めていたノーブ・ターナーが就任している[39]

ベンガルズとのライバル意識

ポール・ブラウンは1967年9月26日に、AFLのエクスパンションチーム、シンシナティ・ベンガルズの主要株主、ゼネラルマネージャー、およびヘッドコーチとして復帰、ベンガルズは1970年のNFLとAFLの合併によりNFLに加盟した。彼はベンガルズのヘッドコーチを8年間務め、チーム設立後3年目を始めとし3度プレーオフに進出した。それらシーズンにおいて、ブラウンのベンガルズは彼が元いたブラウンズと対戦し、ブラウンとモデルの間に激しい対立に再び火がついた。

主な選手

永久欠番

殿堂入り選手

歴代ヘッドコーチ

  • ポール・ブラウン (1946-1962)
  • ブラントン・コリエル (1963-1970)
  • ニック・スコリッチ (1971-1974)
  • フォレスト・グレッグ (1975-1977)
  • ディック・マゼロウスキ (1977)
  • サム・ラティグリアーノ (1978-1984)
  • マーティ・ショッテンハイマー (1984-1988)
  • バド・カーソン (1989-1990)
  • ジム・ショフナー (1990)
  • ビル・ベリチック (1991-1995)
  • クリス・パーマー (1999-2000)
  • ブッチ・デービス (2001-2004)
  • テリー・ロビスキー (2004)
  • ロメオ・クレネル (2005-2008)
  • エリック・マンジーニ (2009-2010)
  • パット・シューマー (2011-2012)
  • ロブ・チャドジンスキー (2013)
  • マイク・ペティン (2014-)

成績

AFC北地区(2002年-現在)

地区優勝 2位 3位 4位
チーム チーム チーム チーム
2024 BAL(3) 12 5 0 PIT(6) 10 7 0 CIN 9 8 0 CLE 3 14 0
2023 BAL(1c) 13 4 0 CLE(5w) 11 6 0 PIT(7w) 10 7 0 CIN 9 8 0
2022 CIN(3c) 12 4 0 BAL(6w) 10 7 0 PIT 9 8 0 CLE 7 10 0
2021 CIN(4s) 10 7 0 PIT(7w) 9 7 1 CLE 8 9 0 BAL 8 9 0
2020 PIT(3w) 12 4 0 BAL(5d) 11 5 0 CLE(6d) 11 5 0 CIN 4 11 1
2019 BAL(1d) 14 2 0 PIT 8 8 0 CLE 6 10 0 CIN 2 14 0
2018 BAL(4w) 10 6 0 PIT 9 6 1 CLE 7 8 1 CIN 6 10 0
2017 PIT(2d) 13 3 0 BAL 9 7 0 CIN 7 9 0 CLE 0 16 0
2016 PIT(3c) 11 5 0 BAL 8 8 0 CIN 6 9 1 CLE 1 15 0
2015 CIN(3w) 12 4 0 PIT(6d) 10 6 0 BAL 5 11 0 CLE 3 13 0
2014 PIT(3w) 11 5 0 CIN(5w) 10 5 1 BAL(6d) 10 6 0 CLE 7 9 0
2013 CIN(3w) 11 5 0 PIT 8 8 0 BAL 8 8 0 CLE 4 12 0
2012 BAL(4v) 10 6 0 CIN(6w) 10 6 0 PIT 8 8 0 CLE 5 11 0
2011 BAL(2c) 12 4 0 PIT(5w) 12 4 0 CIN(6w) 9 7 0 CLE 4 12 0
2010 PIT(2s) 12 4 0 BAL(5d) 12 4 0 CLE 5 11 0 CIN 4 12 0
2009 CIN(4w) 10 6 0 BAL(6d) 9 7 0 PIT 9 7 0 CLE 5 11 0
2008 PIT(2v) 12 4 0 BAL(6c) 11 5 0 CIN 4 11 1 CLE 4 12 0
2007 PIT(4w) 10 6 0 CLE 10 6 0 CIN 7 9 0 BAL 5 11 0
2006 BAL(2d) 13 3 0 CIN 8 8 0 PIT 8 8 0 CLE 4 12 0
2005 CIN(3w) 11 5 0 PIT(6v) 11 5 0 BAL 6 10 0 CLE 6 10 0
2004 PIT(1c) 15 1 0 BAL 9 7 0 CIN 8 8 0 CLE 4 12 0
2003 BAL(4w) 10 6 0 CIN 8 8 0 PIT 6 10 0 CLE 5 11 0
2002 PIT(3d) 10 5 1 CLE(6w) 9 7 0 BAL 7 9 0 CIN 2 14 0

AFC中地区(1970年-2001年)

年度 地区優勝 2位 3位 4位 5位 6位
チーム チーム チーム チーム チーム チーム
2001 PIT(1c) 13 3 0 BAL(5d) 10 6 0 CLE 7 9 0 TEN 7 9 0 JAX 6 10 0 CIN 6 10 0
2000 TEN(1d) 13 3 0 BAL(4v) 12 4 0 PIT 9 7 0 JAX 7 9 0 CIN 4 12 0 CLE 3 13 0
1999 JAX(1c) 14 2 0 TEN(4s) 13 3 0 BAL 8 8 0 PIT 6 10 0 CIN 4 12 0 CLE 2 14 0
1998 不参加
1997
1996
1995 PIT(2s) 11 5 0 CIN 7 9 0 HOU 7 9 0 CLE 5 11 0 JAX 4 12 0
1994 PIT(1c) 12 4 0 CLE(4d) 11 5 0 CIN 3 13 0 HOU 2 14 0
1993 HOU(2d) 12 4 0 PIT(6w) 9 7 0 CLE 7 9 0 CIN 3 13 0
1992 PIT(1d) 11 5 0 HOU(5w) 10 6 0 CLE 7 9 0 CIN 5 11 0
1991 HOU(3d) 11 5 0 PIT 7 9 0 CLE 6 10 0 CIN 3 13 0
1990 CIN(3d) 9 7 0 HOU(6w) 9 7 0 PIT 9 7 0 CLE 3 13 0
1989 CLE(2c) 9 6 1 HOU(4w) 9 7 0 PIT(5d) 9 7 0 CIN 8 8 0
1988 CIN(1s) 12 4 0 CLE(4w) 10 6 0 HOU(5d) 10 6 0 PIT 5 11 0
1987 CLE(2c) 10 5 0 HOU(4d) 9 6 0 PIT 8 7 0 CIN 4 11 0
1986 CLE(1c) 12 4 0 CIN 10 6 0 PIT 6 10 0 HOU 5 11 0
1985 CLE(3d) 8 8 0 CIN 7 9 0 PIT 7 9 0 HOU 5 11 0
1984 PIT(3c) 9 7 0 CIN 8 8 0 CLE 5 11 0 HOU 3 13 0
1983 PIT(3d) 10 6 0 CLE 9 7 0 CIN 7 9 0 HOU 2 14 0
1982 CIN(3w) 7 2 0 PIT(4w) 6 3 0 CLE(8w) 4 5 0 HOU 1 8 0
1981 CIN(1s) 12 4 0 PIT 8 8 0 HOU 7 9 0 CLE 5 11 0
1980 CLE(2d) 11 5 0 HOU(5w) 11 5 0 PIT 9 7 0 CIN 6 10 0
1979 PIT(2v) 12 4 0 HOU(4c) 11 5 0 CLE 9 7 0 CIN 4 12 0
1978 PIT(1v) 14 2 0 HOU(5c) 10 6 0 CLE 8 8 0 CIN 4 12 0
1977 PIT(3d) 9 5 0 CIN 8 6 0 HOU 8 6 0 CLE 6 8 0
1976 PIT(3c) 10 4 0 CIN 10 4 0 CLE 9 5 0 HOU 5 9 0
1975 PIT(1v) 12 2 0 CIN(4d) 11 3 0 HOU 10 4 0 CLE 3 11 0
1974 PIT(v) 10 3 1 HOU 7 7 0 CIN 7 7 0 CLE 4 10 0
1973 CIN(d) 10 4 0 PIT(d) 10 4 0 CLE 7 5 2 HOU 1 13 0
1972 PIT(c) 11 3 0 CLE(d) 10 4 0 CIN 8 6 0 HOU 1 13 0
1971 CLE(d) 9 5 0 PIT 6 8 0 HOU 4 9 1 CIN 4 10 0
1970 CIN(d) 8 6 0 CLE 7 7 0 PIT 5 9 0 HOU 3 10 1

NFL東カンファレンス・世紀地区(1967年-1969年)

地区優勝 2位 3位 4位
チーム チーム チーム チーム
1969 CLE(n) 10 3 1 NY 6 8 0 StL 4 9 1 PIT 1 13 0
1968 CLE(n) 10 4 0 StL 9 4 1 NO 4 9 1 PIT 2 11 1
1967 CLE(c) 9 5 0 NY 7 7 0 StL 6 7 1 PIT 4 9 1

NFL東カンファレンス(1953年-1966年)

優勝 2位 3位 4位 5位 6位 7位 8位
チーム チーム チーム チーム チーム チーム チーム チーム
1966 DAL(n) 10 3 1 CLE 9 5 0 PHI 9 5 0 StL 8 5 1 WAS 7 7 0 PIT 5 8 1 ATL 3 11 0 NY 1 12 1
1965 CLE(n) 11 3 0 DAL 7 7 0 NY 7 7 0 WAS 6 8 0 PHI 5 9 0 StL 5 9 0 PIT 2 12 0
1964 CLE(v) 11 3 0 StL 9 3 2 PHI 6 8 0 WAS 6 8 0 DAL 5 8 1 PIT 5 9 0 NY 2 10 2
1963 NY(n) 11 3 0 CLE 10 4 0 StL 9 5 0 PIT 7 4 3 DAL 4 10 0 WAS 3 11 0 PHI 2 10 2
1962 NY(n) 12 2 0 PIT 9 5 0 CLE 7 6 1 WAS 5 7 2 DAL 5 8 1 StL 4 9 1 PHI 3 10 1
1961 NY(n) 10 3 1 PHI 10 4 0 CLE 8 5 1 StL 7 7 0 PIT 6 8 0 DAL 4 9 1 WAS 1 12 1
1960 PHI(v) 10 2 0 CLE 8 3 1 NY 6 4 2 StL 6 5 1 PIT 5 6 1 WAS 1 9 2
1959 NY(n) 10 2 0 CLE 7 5 0 PHI 7 5 0 PIT 5 6 1 WAS 1 9 2 CHC 2 10 0
1958 NY(n) 9 3 0 CLE 9 3 0 PIT 7 4 1 WAS 4 7 1 CHC 2 9 1 PHI 2 9 1
1957 CLE(n) 9 2 1 NY 7 5 0 PIT 6 6 0 WAS 5 6 1 PHI 4 8 0 CHC 3 9 0
1956 NY(v) 8 3 1 CHC 7 5 0 WAS 6 6 0 CLE 5 7 0 PIT 5 7 0 PHI 3 8 1
1955 CLE(v) 9 2 1 WAS 8 4 0 NY 6 5 1 CHC 4 7 1 PHI 4 7 1 PIT 4 8 0
1954 CLE(v) 9 3 0 PHI 7 4 1 NY 7 5 0 PIT 5 7 0 WAS 3 9 0 CHC 2 10 0
1953 CLE(n) 11 1 0 PHI 7 4 1 WAS 6 5 1 PIT 6 6 0 NY 3 9 0 CHC 1 10 1

NFLアメリカン・カンファレンス(1950年-1952年)

優勝 2位 3位 4位 5位 6位
チーム チーム チーム チーム チーム チーム
1952 CLE(n) 8 4 0 NY 7 5 0 PHI 7 5 0 PIT 5 7 0 CHC 4 8 0 WAS 4 8 0
1951 CLE(n) 11 1 0 NYG 9 2 1 WAS 5 7 0 PIT 4 7 1 PHI 4 8 0 CHC 3 9 0
1950 CLE(v) 10 2 x NYG 10 2 x PHI 6 6 x PIT 6 6 x CHC 5 7 x WAS 3 9 x

脚注

  1. ^ a b Franchise nicknames”. PRO FOOTBALL HOLE OF FAME. 2008年9月29日閲覧。
  2. ^ Flank M. Henkel (2005). Cleveland Browns Hsitory. Arcadia Publishing. pp. p.10. http://books.google.com/books?id=EYYa7ITAFecC&pg=PA10&lpg=PA10&dq=%22brown+bombers%22+cleveland&source=web&ots=_bYmwiqfku&sig=IJjHkF2NvkJLfGigqLfAeltBBe4&hl=ja&sa=X&oi=book_result&resnum=9&ct=result 
  3. ^ 世紀の番狂わせTOP10 第4位:1950シーズン開幕戦 NFL JAPAN
  4. ^ Levy, op cit, p.186-187.
  5. ^ Brian Ditullio (2010年12月2日). “Red Right 88”. bleacherreport.com. 2013年8月4日閲覧。
  6. ^ MNF History: 1981”. ABC (2002年8月29日). 2013年6月1日閲覧。
  7. ^ 同じチームの2人のランニングバックが1000ヤードラッシャーとなったのはその後2008年のニューヨーク・ジャイアンツまで起きなかった。
  8. ^ マット・バーが負傷したため引退していたモーズリーが復帰していた。
  9. ^ Brian Ditullio (2010年12月2日). “Double Overtime In Lake Erie”. bleacherreport.com. 2013年8月4日閲覧。
  10. ^ 伝説の名勝負ベスト15 大逆転!NFL Number VIDEO ISBN 4-16-911614-3
  11. ^ Brian Ditullio (2010年12月2日). “The Fumble”. bleacherreport.com. 2013年8月4日閲覧。
  12. ^ a b Top 10 QB Injuries With Biggest Team Impact”. realclearsports.com (2011年9月12日). 2015年2月22日閲覧。
  13. ^ レイブンズ・前オーナー、モデル氏が死去”. NFL JAPAN (2012年9月7日). 2012年10月6日閲覧。
  14. ^ a b AL Lerner, Browns Owner, Billionaire Dies”. CBSスポーツ (2002年10月23日). 2012年1月21日閲覧。
  15. ^ ブラウンズ、2年目のジンクス再びか?”. NFL JAPAN (2012年5月24日). 2012年5月31日閲覧。
  16. ^ Butch Davis resigns as Browns coach”. USAトゥデイ (2004年11月30日). 2012年1月21日閲覧。
  17. ^ クリーブランド・ブラウンズ 新シーズンに向けキャンプイン”. AFP (2006年7月27日). 2012年1月21日閲覧。
  18. ^ Browns' shakeup claims Collins, not Savage”. ESPN (2006年1月3日). 2012年1月21日閲覧。
  19. ^ ブラウンズ、6勝でシーズン終了”. AFP (2006年1月2日). 2012年1月21日閲覧。
  20. ^ Browns trade Frye to Seahawks”. nfl.com (2007年9月12日). 2012年1月21日閲覧。
  21. ^ ブラウンズ フォーティナイナーズに勝利”. AFP (2007年12月31日). 2012年1月21日閲覧。
  22. ^ ブラウンズ ビルズとの接戦を制す”. AFP (2008年11月18日). 2012年1月21日閲覧。
  23. ^ ブラウンズ、新GMは14年ぶりの“チーム復帰””. NFL JAPAN (2009年1月26日). 2012年1月18日閲覧。
  24. ^ Mangini agrees to coach Browns”. ESPN (2009年1月8日). 2012年1月21日閲覧。
  25. ^ RICK GOSSELIN (2009年12月20日). “Browns' Jerome Harrison rushes for club-record 286 yards”. ダラス・モーニングニュース. 2012年1月21日閲覧。
  26. ^ WRクリッブス、NFL新記録を走る!”. NFL JAPAN (2010年12月20日). 2010年12月22日閲覧。
  27. ^ ブラウンズ球団再建の指導者 ホルムグレンが代表に就任”. TSPスポーツ (2009年12月21日). 2012年1月18日閲覧。
  28. ^ 王者セインツ ブラウンズにまさかの黒星”. AFP (2010年10月25日). 2012年1月21日閲覧。
  29. ^ ブラウンズがマンジーニHC解任、社長は現場復帰否定”. NFL JAPAN (2011年1月4日). 2012年1月18日閲覧。
  30. ^ ブラウンズ新HCにラムズOCのシューマー氏就任へ”. NFL JAPAN (2011年1月13日). 2012年1月18日閲覧。
  31. ^ ブラウンズ、ロースコアの戦い制して5割復帰”. NFL JAPAN (2011年10月24日). 2012年1月21日閲覧。
  32. ^ 不振のRBヒリス、ベテラン8人と話し合い”. NFL JAPAN (2011年11月5日). 2012年1月21日閲覧。
  33. ^ ブラウンズQBマッコイ欠場も、次戦はウォレス先発か”. NFL JAPAN (2011年12月16日). 2012年1月18日閲覧。
  34. ^ スティーラーズ鉄壁守備で勝利も、エースRB負傷退場”. NFL JAPAN (2012年1月2日). 2012年1月21日閲覧。
  35. ^ ブラウンズ、2つ目の1巡指名は28歳QBウィーデン”. NFL JAPAN (2012年4月27日). 2013年1月18日閲覧。
  36. ^ ブラウンズ、実業家にチーム売却で合意”. NFL JAPAN (2012年8月3日). 2012年9月21日閲覧。
  37. ^ HCとGM解任のブラウンズ、新オーナーの下チーム再建へ”. NFL JAPAN (2013年1月1日). 2013年1月2日閲覧。
  38. ^ ブラウンズ新HC探しに急展開、パンサーズOCを招へい”. NFL JAPAN (2013年1月11日). 2013年1月18日閲覧。
  39. ^ ブラウンズ、新HCの元上司をOCに招へい”. NFL JAPAN (2013年1月18日). 2013年1月18日閲覧。

外部リンク