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麻原 彰晃 (本名:松本 智津夫) | |
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誕生 |
1955年3月2日(69歳) 熊本県八代郡金剛村(現在の八代市) |
ホーリーネーム | マハー・グル・アサハラ(麻原彰晃) |
ステージ | 尊師、神聖法皇 |
教団での役職 | 代表(設立者) |
関係した事件 |
坂本堤弁護士一家殺害事件 松本サリン事件 地下鉄サリン事件など |
判決 | 死刑(控訴棄却) |
麻原 彰晃(あさはら しょうこう、本名:松本 智津夫(まつもと ちづお)、1955年(昭和30年)3月2日 - )は、熊本県出身の日本の宗教家[要曖昧さ回避](宗教団体オウム真理教(現Aleph)の元代表、教祖)であり、日本で唯一の「最終解脱者」を自称していた[1]。一連のオウム事件を起こし、現在は確定死刑囚。
1996年(平成8年)6月19日以降は、教団内部での地位は開祖。同団体は宗教団体「アレフ」に一旦改組され「アーレフ」に改称するも、さらに「Aleph」に改称。Alephにおいての公式呼称は「旧団体代表」とされた[要出典]。
著書では「真理の御魂 最聖 麻原彰晃尊師」名義を用いていた。宗教団体オウム真理教の信者からは尊師、もしくは本来ヒンドゥー教の導師を指すグルと呼ばれ、崇拝の対象となっていた。宗教団体Alephでは、尊師・グルの呼称の使用及び、写真・イラスト・その他その肖像を表したものを団体施設の祭壇及び個人所有の祭壇に備え付けることを禁じたが、2011年に入り、麻原の「生誕祭」や肖像の掲示を公然と行うようになっている[2]。
教団は日本支配を画策しており、国家の憲法に相当する基本律の草案では神聖法皇と呼称されていた。
経歴
成年前
1955年3月2日午前3時34分、麻原彰晃こと松本智津夫は、熊本県八代市高植本町(旧八代郡金剛村[3])の畳職人の家庭の4男(6男3女の9人兄弟の第7子)として生まれた[4][5][6][7]。先天性緑内障のため生来、左目がほとんど見えず、右目は視力1.0程度だった[6]。12歳年上の長兄は全盲、5男も弱視だった(藤原新也は、「麻原兄弟の視覚障害が水俣病の影響であり、それゆえに同じく視覚障害を起こすサリンを使ったのでははないか」という仮説を立て、全盲の長兄に事件後インタビューしている[8]。長兄の証言によると、彼も智津夫の視覚障害に関し同様の疑いを持ち、「水俣病患者として役所に申請」したことがあるが、却下されたという[9])。父親は敗戦で朝鮮から引き上げ、叔父を頼り八代に住み、当時地場産業であった畳職人として働くようになった。しかし畳の需要は落ち、7人の子を抱え生活は逼迫していた。両親は働きづくめで、智津夫は兄や姉を親代わりに幼少期を送った[10][11]。
『週刊現代』1995年5月27日号「麻原オウム真理教と統一協会を結ぶ点と線」p.44で「麻原の父親は朝鮮から日本へ渡ってきた人だったんです」と栗本慎一郎が主張した[12]。一方『週刊文春』2000年新年合併号によると、「松本の祖父は熊本県出身の警察官で、戦前に朝鮮半島に渡り、その地で警察署長を務めた後、終戦後、熊本に引き揚げた」という[要ページ番号]。また、高山文彦は『麻原彰晃の誕生』で、「松本家は朝鮮半島の出自ではなく、朝鮮から引き揚げてきた日本人」との親族の言葉を紹介しており、松本の父は現在の大韓民国全羅北道益山郡春浦面の生まれであるとしている[13]。『オウム真理教大辞典』(東京キララ社、2003年)の「麻原彰晃」の項によれば、本人による「在日」「部落」発言があったという噂のため「在日説、部落出身説があったが、これらはデマである」としている[4]。
1961年(昭和36年)4月に、一旦は八代市立金剛小学校に入学するが[14]、視覚障害者(隻眼)を理由に同年秋(6歳)より当時熊本市出水町今(現在の熊本市中央区水前寺)に所在した熊本県立盲学校に転校、寄宿舎に移住[15][16][注 1]。しかし、智津夫は全盲の兄とは異なり目が見えたのに、学費も寄宿舎代も食費も不要な盲学校へ入れられたことを親に捨てられたと思い不満をぶつけ[18]、転校の際には泣いて嫌がったという[19]。20歳で卒業するまでの13年間、両親が訪ねてくることはなく、衣服や食料を送ってくることもなかった。他の子供たちは週末には里帰りしたが、松本3兄弟は寮に残った[11]。
盲学校では、強い権力欲を見せ、目が見えるために他の子供たちを子分扱いにし、暴力で支配していた。全盲の子供を外へ連れ出すと食事をおごらせたり[20]窃盗を命じたり[21]、自分の欲しいものを買わせたりし、「外へ連れて行ってやったのだから日当をよこせ」などと言ってお金を巻き上げていた[10]。寄宿舎の消灯時間が過ぎたにもかかわらず部屋の明かりを点けたことを寮母がとがめた際には、ふてぶてしい態度で「宿舎ば(を)焼いて明るくするぐらいのこつば(ことを)やってやっぞ」と言った[22]。生活指導の教師が注意すると「言うだけなら、なにを言うたって勝手でしょう」とうそぶくこともあった[23]。金への執着も強く、同級生への恐喝によって卒業するまでに300万円を貯金していた[11]。ただし、高等部での担任教師であった人物は、盲学校時代の報道を聞いて「そういう陰日なたのある人間とは、とても感じられなかった」、「明るい活発な子で、遠足に行くときは見えない子の手を引いてやったりしていた」と述懐している[24]。
部活動は柔道に打ち込む[25]一方で、小学部5年時に児童会長、中学部在籍時と高等部在籍時に生徒会長、寮長に立候補するが、全て落選している[26][27][28][7]。
その後、成績は中程度であったにもかかわらず、「自分のように病気で困っている人を救う仕事がしたい」[29]と熊本大学医学部を志望するようになり[30]、高等部3年の3月に同医学部を受験するが失敗[31]。高等部専攻科に進学する[31]。1975年(昭和50年)1月12日には、盲学校の生徒としては異例の柔道二段(講道館)を取得[32](一連のオウム事件の裁判が進むと講道館より段位を剥奪した事が記者会見で発表され、その様子がテレビや新聞各社、近代柔道誌などで報道された)。政治家の毛沢東[33][34]などにかねてから傾倒し、鍼灸免許も取得した松本は、この頃より「東京大学法学部卒の政治家となりゆくゆくは内閣総理大臣の座に就くこと」を志すようになった[32]。1975年(昭和50年)3月(20歳)、熊本県立盲学校を卒業した[35]。
成人後
東京大学文科1類受験を目指すため、1975年(昭和50年)3月末に東京都江東区大島、8月に品川区戸越に移住するが、9月には八代市の実家に戻る[36]。1976年(昭和51年)1月熊本市春日に移住し長兄の漢方薬店の助手を務める[37]。3月、受験勉強をするために学生街のある熊本市黒髪町に下宿するが、5月にはまた実家に戻り、長兄の店を手伝う[38]。1976年(昭和51年)7月20日、長兄の店の元従業員が兄を侮辱したため頭部を殴打し負傷させ、9月6日、八代簡易裁判所にて1万5千円の罰金刑を受ける[39]。
1977年(昭和52年)春(22歳)に再上京し、代々木ゼミナール渋谷校(現在は廃校により存在しない)に入学[39]したが、東大受験は3度諦めている[7]。同年頃から仙道やヨーガの修行を始める[要出典]。
1978年(昭和53年)1月7日、代々木ゼミナール渋谷校で知り合った妻、松本知子(旧姓石井)と結婚し、千葉県船橋市湊町に新居を構え、そこに鍼灸院「松本鍼灸院」を開院[40]。同年9月15日「松本鍼灸院」を廃し、同市本町 に診察室兼漢方薬局の「亜細亜堂」を開業[41]。同年12月、船橋市新高根に新居を購入し移住[42]。1980年(昭和55年)7月、保険料の不正請求が発覚し、670万円の返還を要求される[43]。同年8月25日(25歳)、根本仏教系の新宗教団体阿含宗に入信し、3年ほど在籍する[44]。1981年(昭和56年)2月、船橋市高根台に健康薬品販売店「BMA薬局」[注 2]を開局したものの、1982年(昭和57年)に無許可の医薬品[注 3]を製造販売したため同年6月22日に薬事法違反で逮捕され、20万円の罰金刑を受ける[46]。このころより知人に「最も儲かるビジネスは何か知っているか? それは宗教だよ[要出典]」ともらしていた。
オウム真理教
1983年(昭和58年)夏(28歳)、東京都渋谷区桜丘に、仙道・ヨーガ・東洋医学などを統合した(超)能力開発の指導を行う学習塾「鳳凰慶林館」を開設、松本はこのころから「麻原彰晃」と名乗り始める[47]。1984年(昭和59年)2月、学習塾「鳳凰慶林館」をヨガ道場「オウムの会」に変更し、5月28日には株式会社オウムを設立[48][注 4]。1986年(昭和61年)4月 税制上の優遇に目をつけて、ヨガ道場「オウムの会」を宗教団体「オウム神仙の会」と改称[50]。同年7月、ヒマラヤで最終解脱と称す[51]。当時は麻原には妻の知子と3女の子があり千葉県船橋市に住み、貧しく家族全員で1つの寝室を共有していた。食事は野菜中心で肉の代りにグルテンを肉状にしたものを食べたり、ちゃぶ台の上にホットプレートを置き、「野菜バーベキュー」を楽しんでいた。この船橋の家には「瞑想室」があり、宗教画が掛けられ棚には仏像が置かれていた。麻原は日に1度は瞑想室にこもり修行をしていた。棚の前にちゃぶ台を置き、麻原はそれを祭壇と呼んでいた。「形は重要じゃない。心が重要なんだ。私にとっては」というのが麻原の口癖だった。後に教団が大きくなってからも、麻原はそれを祭壇として使うほど愛着を持っていた。当時、麻原はヨーガ教室を東京都渋谷区で開いていたため、家にいることが少なかった。たまに帰宅すると強度の弱視のためテレビにくっつくように野球中継を見ていた。
1986年ころには世田谷区の道場に住み込むようになりほとんど家に帰らなくなる。たまに麻原が帰宅すると3人の娘たちが大喜びで玄関まで走って行き、姉妹で父を奪い合うような普通の家庭であった。次女は父の帰宅を「太陽のない世界に、太陽が来た」などと表現していた。しかし、妻の松本知子は麻原が滅多に帰宅しないことなどから精神不安定となり、麻原に向かってなじるようないさかいがあったが、麻原はほとんど抵抗をしなかった。3女松本麗華の目には、知子が麻原の宗教を信じているようには見えなかったが、麻原の著書の代筆を深夜まで行っていた。後の麻原の著書のいくつかは、知子が書いたものであった。麻原は子供に向かって「蚊に刺されると痒くていやだね。でも蚊も生きているんだよ」とか「お釈迦様によれば、私たちは死後生まれ変わり、もしかしたら蚊に生まれ変わるかもしれない」などと話していたが、一方妻の知子は当時は信仰心を有していなかっためか、蚊を平気で殺していた。また、麻原はその頃、家族とともに発展途上国を中心によく旅行をしたが、子供に向かっては「世界には食べ物を食べられない子も、屋根のあるところに住めない子もいるんだ。食べ物を粗末にするのはやめようね」などと諭してりしていた[52]。
1987年(昭和62年)7月(32歳)には「オウム神仙の会」を「オウム真理教」に改称し[53]、世俗化、形骸化した宗教を打ち破り、すべての魂を救済するとして布教活動を展開[要出典]。空中浮揚[1]などのショー的なアピールや自著、オカルト雑誌への広告記事を利用し徐々に信者を獲得していった。この年には8名の弟子を解脱に導いたとする[要出典]。
1988年(昭和63年)(33歳)、ダライ・ラマ14世と親交のあるペマ・ギャルポに接近。「自分の修行がどの程度のものなのかチベット仏教の長老に見ていただきたい」と申し出、ダラムサラの宗教・文化庁を紹介される[54]。現地で長老らと一緒に瞑想した結果、高く評価され、ダライ・ラマ14世との接見を認められる。この際の接見の様子をのちに自己宣伝に利用することとなる[55]。
1990年(平成2年)2月の衆議院議員選挙では、真理党代表として東京4区(5人区)から出馬したが、13位で落選[要出典]。その数日後に弟子に対し「この世はもはや救えない、これからは武力で行く」と述べる[要出典]。直後よりボツリヌス菌製造を開始する[要出典]。
2010年(平成22年)オウム真理教元幹部の上祐史浩は、2010年12月3日号の『FRIDAY』誌での対談において「麻原は人の心を読む感受性は鋭く、超能力のようなものは確かにあったが、能力と人格が一致しない人物だった。麻原の根源は、逆恨みと被害妄想。弱視だった子供時代からの逆恨みを社会に広げた人物だ」と断言している[56]。
逮捕・裁判・死刑確定後
1995年(平成7年)5月16日(40歳)に山梨県西八代郡上九一色村(現・南都留郡富士河口湖町)のオウム真理教の教団施設「第6サティアン」内で地下鉄サリン事件の首謀者として逮捕された[要出典]。
捜査本部は当初、「麻原は1階と2階の間の部屋に隠れている」という遠藤誠一の供述を元に該当箇所を捜索したが見つからず、第6サティアンの南側入り口1階から2階への階段天井部分に造られた隠し部屋(高さ約50cm、幅103cm、奥行き335cm)で、現金960万円の札束と寝袋を抱えて隠れていた所で発見された[57]。逮捕後警視庁への護送は、迅速かつ安全を考え当初警視庁が当時保有していた大型ヘリコプターで護送させる予定だったが、当日は悪天候のため飛べず、警察車両での護送に切り替えられた[要出典]。
最終的には13事件で27人殺人(裁判では殺人26人と逮捕監禁致死1人)の首謀者として起訴される[要出典]。1996年(平成8年)4月24日に東京地方裁判所で初公判が行われたが、僅か48席の一般傍聴席に対して、12,292人という、日本の刑事裁判史上最も多い傍聴希望者が東京地裁前に殺到した[58]。弁護側は、事件は「村井元幹部を中心とした、弟子たちの暴走によるもので、松本自身は一切指示をしていない」と無罪を主張したが、2004年(平成16年)2月27日、東京地裁は「救済の名の下に日本を支配して、自らその王になることを空想し、それを現実化する過程で一連の事件を起こした」と認定し、死刑判決を言い渡した[59]。2006年(平成18年)9月15日、最高裁判所は特別抗告を棄却し、1審通り松本への死刑判決が確定した[60]。オウム真理教事件で死刑が確定するのは岡崎一明(2005年4月7日に確定)に続いて2人目。1995年5月の逮捕以来、現在迄東京拘置所に収監されている。
裁判
起訴された罪状
最後まで起訴されていた罪状
- 男性信者殺害事件(殺人罪)
- 坂本堤弁護士一家殺害事件(殺人罪)
- サリンプラント建設事件(殺人予備罪)
- 薬剤師リンチ殺人事件(殺人罪・死体損壊罪)
- 滝本太郎弁護士サリン襲撃事件(殺人未遂罪)
- 自動小銃密造事件(武器等製造法違反)
- 松本サリン事件(殺人罪・殺人未遂罪)
- 男性現役信者リンチ殺人事件(殺人罪・死体損壊罪)
- 駐車場経営者VX襲撃事件(殺人未遂罪)
- 会社員VX殺害事件(殺人罪)
- 被害者の会会長VX襲撃事件(殺人未遂罪)
- 公証人役場事務長逮捕監禁致死事件(逮捕監禁致死罪)
- 地下鉄サリン事件(殺人罪・殺人未遂罪)
途中で取り下げられた罪状
- チオペンタール密造事件(薬事法違反)
- LSD密造事件(麻薬及び向精神薬取締法違反)
- 覚醒剤密造事件(覚せい剤取締法違反)
- メスカリン密造事件(麻薬及び向精神薬取締法違反)
第1審
1審の初公判は当初は1995年(平成7年)10月26日に設定されたものの、麻原は初公判前日の10月25日に私選弁護人の横山昭二を解任[61]。裁判所は期日を取り消し、国選弁護団の選任に踏み切ったが、初公判は延期を余儀なくされた。1996年(平成8年)4月24日、1審の初公判(阿部文洋裁判長)が開かれた。日本テレビはこの時点から、「麻原-」から「松本-」と本名で報道するようになった。その後、民放全局・産経新聞・中日新聞(東京新聞)などを除くほとんどの新聞社も本名で報道するようになった。NHKは結審までは松本を芸能人として扱い、「麻原-」を使用していた。
裁判では初公判で阿部裁判長は「全世界がこの事件に注目している。判決は5年以内に出したい」と述べたが、弁護側が引き延ばし戦術を展開したため[要出典]に長期裁判の様相を見せ、一時は1審に30年はかかると言われた[注 5]。事件ごとの並行審理を提案したが、弁護団側が拒否したため、一事件ずつの審理となった。月4回の開廷ペースに反発し、審理をボイコットする騒ぎもあった。また、弁護側は検察側が申請した被害調書や共犯者の供述調書などの1万5687点の証拠に対し1万5472点と約98.62%に不同意。そのために171人の検察側の証人を直接出廷させて証言させることになったが、検察側の尋問時間が計206時間であったのに対し、弁護側の尋問時間は1053時間 (検察側の5倍) に及んだ。また弁護士の証人尋問の内容も「職場のどのプリンターで印刷したものか(地下鉄サリン事件で、営団地下鉄の職員が、都内の地下鉄のダイヤの表について)」「サリンを見たことあるのか(サリン患者に関する医師のカルテについて)」と枝葉末節でチマチマと重箱の隅を突つくような尋問を浴びせ掛けて実質的な証拠調べが遅れる例が度々あった[62]。
検察側は長期裁判を避けるため、1997年(平成9年)12月に松本・地下鉄両サリン事件の重軽症者を約4000人から18人に減らす訴因変更を行い、2000年(平成12年)10月に被害者がいない薬物密造など4事件の起訴を取下げて案件を13事件に絞り込むなど、裁判の迅速化を余儀なくされた。被告人の麻原は公判では突如英語を話したり、居眠りをするなどの異常行動が目立ち、しばしば裁判長から注意や退廷命令を受けた。当初は起訴案件の罪状認否に関しては留保したが、1997年(平成9年)4月に保留していた罪状認否について、起訴された17事件のうち16事件で無罪を主張した(駐車場経営者VX襲撃事件のみ留保)。
2003年(平成15年)4月、1審の検察の論告で「わが国の犯罪史上最も凶悪な犯罪者」と指弾して死刑を求刑[63][64]。同年10月31日、弁護側が「一連の事件は弟子たちの暴走であり被告は無罪」旨の最終弁論を行い結審。地裁の公判回数は257回となり第1審の判決まで7年10カ月を要した。2004年(平成16年)2月27日、一連の事件を首謀したと認定して東京地方裁判所(小川正持裁判長)は求刑通り死刑判決を言渡した。これに対し弁護側は東京高等裁判所に即日控訴した。
控訴審
1審を担当した国選弁護団は終了後に全員が辞任。12人の国選弁護人に支払われた弁護士報酬は計4億5200万円になった[65]。松井武と仙台在住の松下明夫の2人の弁護団が後を引き継いだ。東京高等裁判所は控訴趣意書の提出期限を2005年(平成17年)1月11日と定めた[66]。弁護団は1審判決後、松本に計36回接見したものの、弁護団の問いかけに無反応で意味不明な声を漏らし意思疎通が不可能であるとして、公判停止を申し立てた[67]。一方、高裁の須田賢裁判長は2004年12月10日に松本と面会し、「控訴趣意書は弁護士に作ってもらってもよい」「提出期限を延ばすつもりはなく、棄却もありえる」と説明した[68]。
2005年(平成17年)1月6日、東京高裁は松本の精神鑑定を求める特別抗告を棄却しつつ、控訴趣意書の提出期限を同年8月31日まで延長することを決めた[69]。
同年8月19日、高裁は弁護団に対して精神鑑定の実施を伝えた[70]。弁護団によれば、このとき高裁は「鑑定形式による鑑定人の意見が出るまでは控訴棄却はしない」と明言したとされる[71]。提出期限の8月31日、弁護側は控訴趣意書の「骨子」を持参したが、高裁の鑑定への立ち会いや公開法廷での鑑定人尋問などに関する申し入れが拒否されたことを理由に提出を拒んだ[71]。9月3日、高裁は控訴趣意書を「直ちに提出することを強く求める」文書を弁護団に送付した[72]。2005年(平成17年)9月、東京高裁は麻原被告の精神鑑定を西山詮に依頼した[73]。
2004年(平成16年)10月以降、弁護団は独自に精神科医に依頼して鑑定を実施した[74]。中島節夫・中谷陽二・野田正彰・秋元波留夫・加賀乙彦など、計7人の精神科医はいずれも訴訟能力を否定または疑問視している[75][76][77]。一方、高裁の依頼を受けて鑑定を行った西山は「拘禁反応はあるが拘禁精神病の水準には達しておらず訴訟を続ける能力を失っていない」とし、高裁は2006年2月にこの鑑定書を受けとった[73]。
高裁はこの鑑定書への反論意見書の提出を2006年3月15日までとした[78]。弁護側は提出期限の1ヶ月延長を高裁に申し立てたが[79]、認められず[80]、結局期日通りに意見書を提出した[81]。
2006年(平成18年)弁護団は3月28日に控訴趣意書を提出することを表明していたが、東京高裁はその前日の3月27日に控訴棄却を決定した[73]。この控訴棄却の決定は、控訴審の審理が結審した後に下される控訴棄却の判決とは異なり、控訴趣意書が正当な理由なく期限までに提出されなかったため、刑事訴訟法の規定に従って、控訴審を開始せずに裁判を打ち切るという決定である。
弁護団はこの決定に対し、2006年(平成18年)3月30日に東京高等裁判所(白木勇裁判長)へ異議申立てを行ったが同年5月棄却が決定された[82]。「裁判所は『精神鑑定の意見が出るまでに提出すれば認める』と明言した」とする弁護団の主張については、「裁判所はその日のうちに見解を訂正した」として退けた[82]。
特別抗告
弁護側は最高裁判所へ特別抗告を行った。最高裁では死刑判決の是非ではなく、被告人の訴訟能力の有無、弁護側の控訴趣意書の提出遅れが「やむを得ない事情」に該当するかの有無、提出遅れという弁護活動の不備による不利益を被告に負わせることの可否の3点が争われた。同年9月15日に最高裁(堀籠幸男裁判長)は特別抗告を棄却し、松本への死刑判決が確定した[83]。27人殺人(司法の認定としては26人殺人と1人逮捕監禁致死)は死刑囚としては戦後最悪の数字である[注 6]。
また東京高裁は2006年(平成18年)9月25日に控訴趣意書の提出遅延に関して、日弁連に対し「審理の進行を妨げた」として、刑事訴訟法に基づく処置請求を行い、担当した弁護士2人の処分を求めたが、日弁連は訴訟終結後は処置請求はできないと判断した。2008年(平成20年)9月に弁護士1人に戒告の懲戒処分が、2009年(平成21年)7月27日に弁護士1人に業務停止1カ月の懲戒処分が出た(ただし、日弁連に対する審査請求の結果、処分は戒告に変更された)。
再審請求
1度目の再審請求
- 2008年(平成20年)11月に遠藤誠一の供述を元に再審請求を行ったが、2009年(平成21年)3月に東京地裁が棄却、同年7月に東京高裁が抗告を棄却した。
- 2010年(平成22年)9月13日に最高裁が特別抗告を棄却し、再審は認められなかった[84]。
2度目の再審請求
- 2011年(平成23年)5月9日、2度目の再審請求も東京地裁が棄却した。同月16日にこれを不服として東京高裁に即時抗告した[85]。その後、東京高裁で請求を退けられ、最高裁へ特別抗告した。
- 2013年5月10日、最高裁判所第1小法廷(裁判長:横田尤孝)は抗告を退け、再審を認めない決定を下した[86]。
訴訟能力、詐病
前述のように、麻原は1審から不規則な行動・発言を繰り返すようになり、2審では弁護士と意志疎通ができなくなっている(#奇行を参照)。このことから、2審弁護団は訴訟能力は無いと主張し、b:刑事訴訟法第314条による公判停止を求めていた[87]。また、b:刑事訴訟法第479条によると「死刑の言渡を受けた者が心神喪失の状態に在るときは、法務大臣の命令によって執行を停止する」とあり、ドキュメンタリー作家の森達也は麻原がその状態にあるのではないかとしている[88]。
訴訟能力があるか否か、または詐病であるか否かについて以下のように見解が分かれている。
訴訟能力はある、詐病であるとする見解
- 検察は詐病の疑いが強いとして高裁に意見書を提出した。
- 東京高等裁判所に精神鑑定を依頼された西山詮は「無言状態は偽痴呆性で、精神病の水準にない」とし訴訟能力はあると判断した[73][89]。 意思決定に偏りがあるのは不自然であり、黙秘で戦うのが松本の決心であると結論づけた[78]。
- 東京高裁(須田賢裁判長)は控訴棄却決定書において、1審後に「なぜなんだ、ちくしょう」と大声を発したことなどから、法廷での態度は自ら装ったものであり、訴訟能力を欠いていないとした[90]。
- 最高裁判所(堀籠幸男裁判長)もまた、特別抗告棄却において、前述の「なぜなんだ、ちくしょう」と叫んだことに加え、脳波検査で異常がないことや西山の鑑定から訴訟能力はあると認定した[83]
- 四女は面会時に詐病であることを確信した[91]。
- 平田信は「詐病だと思う。そういうことをする人間だ」と話したとされる[92]。
- 東北学院大学名誉教授の浅見定雄は「現実から逃避しているだけ」と評した[93]。
- 滝本太郎弁護士は訴訟能力の鑑定はしたほうがいいとしつつも、「なんら訴訟能力に問題のないことが分るのだけれどね。」と断じ[94]、その後、精神状態について議論すること自体がナンセンスだとしつつ、「ウンチを壁に塗り付けるまではしていないのだから、統合失調症などにはなってないと思ってます」「ウンチって漏らすことに馴れると実は楽なのではと思います」と述べた[95]。
- ノンフィクション作家の高山文彦は、「正常」のひとつの表れ方としての「狂気」ではあるが異常とは思えず「異常」のふりをしているだけ、と評した[96]。
訴訟能力はない、詐病ではないとする見解
- 控訴審の松井武弁護士は意思疎通できず、訴訟能力は無いとし、高裁に公判停止を求めていた。
- 松本の二女、三女は2004年秋から2006年3月まで20回から30回あまり接見を重ねているが、呼びかけに反応したことはなく、拘禁による精神障害であるとして治療を訴えている[97]。また、西山の鑑定書について三女は「ウソばっかり」であるとした[97]。
- 弁護団の依頼で接見した7人の精神科医は、いずれも訴訟能力を否定または疑問を呈している。ただし、正式な精神鑑定でなく接見時間が限られている点には注意が必要である。
- 元北里大学助教授の医師中島節夫は「器質性脳疾患の疑いが濃厚」とした[75]。
- 弁護士に接見の依頼を受けた二人目の精神科医は「拘禁反応によって混迷状態にある」「訴訟能力はない」とした[75]。
- 筑波大学教授の中谷陽二は「拘禁反応が慢性化・固定化している」可能性が高く、「訴訟能力は欠如している」とした[75]。
- 関西学院大学教授の野田正彰は、公判当初には訴訟能力に問題はなかったが、その後意志能力が消失したと考え、治療によって軽快ないし治癒する可能性が高いとした[98][75]。
- 金沢大学名誉教授の秋元波留夫もまた訴訟能力を否定し、西山の鑑定に対し「水準とは何かが不明。偽痴呆性との診断は症状と矛盾し、根拠がない」「科学者のとるべき態度ではない」などと批判した[89][75]。
- 作家で精神科医の加賀乙彦は、拘禁反応の状態を示しており言語による意思の疎通は不可能で訴訟能力はないとし、西山の鑑定は「被告の空想虚言症を見落としているうえ、医学用語の使用にも誤りがある。到底信頼できない」とした[99][100][75]。また、環境を変えたり投薬によって治る可能性があるとし、一方で精神状態が変動していることから精神病ではないと説明した[101]。
- 精神科医の斎藤学は「痴呆に似ているが断定できない」としつつ、治療可能性があると印象を語った[102]。また自身のブログにおいて接見の様子を報告している[103]
- 死刑判決のみを傍聴した森達也は、主観であるとしつつ「壊れている」ように見えたと感想を述べている[104][105]。
麻原の子供
麻原には、愛人が100人以上いたとされ、愛人と性行為を行い、妊娠させた結果、妻の知子の子供である6人を含めて、12人の子供がいるとされる[106]。当項目では、知子の子供である6人を述べる。
- 長女
- 1978年(昭和53年)生まれ。ホーリーネームはドゥルガー。教団での地位は正悟師。省庁制の際には流通監視省大臣であった。
- 次女
- 1981年(昭和56年)生まれ。ホーリーネームはカーリー。2000年(平成12年)1月に長男を連れ去ろうとした事件で2月19日に逮捕され、保護観察処分となった[注 7]。その後も長男達の住んでいる茨城県龍ケ崎市に在る住居に時々遊びに来ていたという。
- 三女:麗華(りか)
- 1983年(昭和58年)4月生まれ。教団での地位は麻原に次ぐ正大師でホーリーネームはアーチャリー。家庭教師は石川公一。省庁制の際には法皇官房長官であった。
- 2000年(平成12年)1月に長男を連れ去ろうとした事件で2月19日に逮捕され、保護観察処分となった。
- 2004年(平成16年)3月に合格した和光大学から入学拒否されたとして提訴し、東京地裁は「入学拒否は違法」と認定、和光大学に30万円の慰謝料支払を命じた。
- 2013年(平成25年)7月からブログを立ち上げ、麻原を案ずる文面をつづっている[108][109]。
- 2015年3月19日、NNN系列の報道番組『NEWS ZERO』のインタビューで出演。初めて松本麗華という実名で登場する。
- 2015年3月20日、地下鉄サリン事件から20年目の日に松本麗華名義で手記『止まった時計 麻原彰晃の三女・アーチャリーの手記』(講談社、ISBN 978-4062194808)を上梓[110]。ニコニコ生放送に出演して田原総一朗と対談した[111]。
- 四女
- 1989年(平成元年)生まれ。茨城県龍ケ崎市に転居した時は、市の方針でその市の学校の転入拒否[注 8]で2人の弟共々学校にも通えなかったという[107]。協力者達のお陰で何とか学校に通えるようになったものの、学生時代はいじめに遭い、中学の校長からは「父親の所行を考慮すれば貴方は死んでも仕方のない人間だ」と評された[112]。
- 2003年(平成15年)に教団との関係を保つ家族のあり方に疑問を抱き、後見人となった江川紹子の下に身を寄せる(後に江川は後見人を辞任している[113])。
- 麻原に死刑判決が下る2004年(平成16年)までは地下鉄サリン事件の詳細を知らず、自らインターネットや書籍を調べて自分に対する世間の冷たい視線の背景に初めて気付いた[114]。その後はオウムや一家と絶縁し、自殺未遂を繰り返す。ネットカフェ難民やホームレスのような生活をしながらも贖罪の道を模索している。
- 2010年(平成22年)、ペンネーム「松本聡香」名義で著書『私はなぜ麻原彰晃の娘に生まれてしまったのか』(徳間書店、ISBN 978-4198627539)を刊行。ひかりの輪はこの著書に誤りが含まれているとしている[115]。
- 2014年(平成26年)のインタビューにおいても、自殺未遂が続いていることを明かし、「死にたいというよりも死ななくてはいけない」「オウム事件について知ってからは、幸せとか喜びを感じるたびに、オウム真理教は普通の人のそういう喜びを奪ってしまったのだなと感じざるをえない」と語った[108]。
- 三女の松本麗華に対しては、2015年3月20日に放送されたFNN系列の報道番組でのインタビューの中で、「姉は被害者に対して謝罪していない」「本の内容はでたらめで私の知っている真実とは異なる」と述べ非難している。
- 長男
- 1992年(平成4年)生まれ。教団から皇子の称号を与えられた。1996年(平成8年)6月に教団の教祖となる。
- 四女と次男同様学校に籍を置くことが許されず、ほとんど学校に通わせて貰えなかったという。姉や弟共々晴れて2001年(平成13年)4月から正式に学校に通うことになったが、始業式の日はテレビ局や新聞記者等が駆け寄ったため、協力者が追い払うことになった[107]。学校生活では、次男同様友達は出来たようである[107]。
- 2014年10月24日、Alephに対し、名誉棄損による損害賠償4000万円の請求、ならびに写真と名前の無断使用の禁止を求める提訴を東京地裁に起こす。訴状ではAlephと密接な関係にあり、教祖になるかのように扱われ大きな精神的苦痛を受けたとした[116][117]。
- 次男
- 1994年(平成6年)生まれ。教団から皇子の称号を与えられた。1996年(平成8年)6月に教団の教祖となる。
- 小学1年生は1学期しか登校しておらず、その後は茨城県龍ケ崎市に引越し四女と長男同様学校に通えなかったが、協力者のお陰で学校に通うことが出来た。しかし、約8か月も学校に通えていない時期が続いていたため、小学2年生から学校生活を正式にスタートした[107]。
- 2004年(平成16年)秋、拘置所で麻原被告と対面し「会えてうれしいです」と声をかけたが、返事はなかった[118]。
- 2006年(平成18年)に春日部共栄中学校に合格したものの、「麻原の息子」だという理由で入学を拒否された[119]。次男らは、憲法で禁止された不当な差別によって精神的苦痛を受けたとして、共栄中学校に損害賠償を求める訴えを起こした[118]。
書籍
1990年代前半に多くの著書を出し、ベストセラーになった。中でも『キリスト宣言』は1991年(平成3年)11月の全国月間ベストセラーランキングで3位を記録した。『麻原彰晃の世界パート13・これが尊師!(ISBN 978-4-87142-021-1)』は1992年(平成4年)2月の全国月間ベストセラーランキングで4位を記録し、以後5月までベストセラーのトップテンにランクインし続けた(ランキングは日経産業新聞に掲載されていたトーハン・日販調べによるもの)。
前世
麻原は自らの出版物を通して、多くの前世を持つと以下のものを称していた。中でも意識堕落天の宗教上の王は直前の生であったため、その世界で麻原に帰依していた人たちが多く転生し、現在の信者になっていると教団内では信じられていた。また、道場では「宿命通」というアニメビデオを放映し、麻原のエジプトでの前世の物語を展開していた。ジェゼル王の時代に彼は宰相のイムホテップとして王に宗教的指導を施し、最古のピラミッドである「ジェゼル王の階段のピラミッド」を造ったとしている[120]。
その他[121]
発言・思想・質疑応答
- (動物たちはどうやって救われるのか?)動物はカルマがあって動物になっているわけだから、カルマが解き放たれたとき、つまり死が救済だ。人間に生まれ変わることは救済にはならない。人間界自体が非常に低い世界だから[51]。
- (人間の転生については?)現代人は、地獄か餓鬼、動物に生まれ変わると思って間違いない。なぜなら殺生をする、盗みをする、邪淫をする、嘘をつく、酒は飲む。これはもう救済の方法がないと考えたほうがいい[51]。
- (共産主義は必要ないか?)貧富の差は必要だ。なぜかというと、貧富の差こそカルマだからだ。豊かな人が貧者に功徳を積むのは当然だし、それがその者たちのカルマを浄化する。私は共産主義が好きか嫌いかは言わない。共産主義によいところがあれば学べばいい。しかし、共産主義は完璧ではない。いや、共産主義社会ははもうすぐつぶれる。あと20年か、30年でつぶれると思う。(資本主義が最高と考えるか?)いえ、資本主義が最高とも考えない。功徳による政治が最高と考える[51]。
- 1995年3月22日の強制捜査後に公開された手記の中で「マハーポーシャブランドのコンピューターは個人ユーザーの間では1、2を争う売り上げをなしている」とし、コンピューター雑誌『DOS/V FAN』の創刊号アンケートで3位になったことを根拠に「IBMに次ぐ大企業に発展」としていた[122]。
- 空中浮揚で高さ40センチメートル飛んだことがあると自称していた[要出典]。3秒間の滞空時間があったともされる。3女松本麗華は空中浮揚が見たくて、麻原に依頼したところ「疲れているから」と断られた。ただし、身体が勝手に跳びはねる空中浮揚の前段階といわれるダルドリー・シッディという現象は何度も目撃している[123]。
- 1987年、「麻原の前世が古代エジプトのイムホテップ王であった」ということから、同人が埋葬されているピラミッドの視察目的でエジプトツアーを行った[124]。後に麻原は自著において「ピラミッドはポアの装置だ」と述べた[124]。
- 1992年11月12日、釈迦が悟りを開く瞑想に入った最高の聖地であるインド・ブッダガヤの大菩提寺にある「金剛座」に座り、地元の高僧に下りるように言われたが従わなかったため、警官に引き摺り下ろされた[125]。
マスメディア関連
- 衆院選出馬していた時、女性記者から「もしも、麻原さんが総理大臣になった場合、日本の国民の全員がオウム真理教に入信しなければならないのか」と尋ねられ、麻原は高笑いをし「信仰というものは個人が好きな宗教を選べばよいと思うので、そういうことはない」と断言した[126][2]。
- 日本テレビ『とんねるずの生でダラダラいかせて!!』内のコーナー「麻原彰晃の青春人生相談」で、女性視聴者からの「尊師は髪を洗う時にリンスは使っているんですか?」という質問に対して「リンスは使っていません。シャンプーはベビーシャンプーを使っています」と笑顔で返答した[127]。
- 『おはよう!ナイスデイ』(フジテレビ)に出演した際[いつ?]、被害者の会と口論となり、「あなた方がやっていることは宗教弾圧じゃないですか! 完全に!」と激怒。被害者の会の一人の「あなたがたはヤクザですか?」との反論に対して「あなたたちがこのマスメディアを使って宗教弾圧をしていることはまちがいないでしょう?」と答えた。
- タイム誌の1995年4月3日号において、カバーパーソンとなった[128]。これは日本人としては1987年8月31日号の岡政偉以来、約7年半振りである[129]。
- 1995年5月にTBSで放送された『報道特集』におけるオウム真理教のドキュメンタリーで、関係のないシーンで30分の1秒単位という知覚できない速度で急に麻原の顔写真やキリスト教の裏切り者をあらわすイスカリオテのユダのサブリミナルカットが何度も放映された[130]。その後、TBSは郵政省による事情聴取ののち厳重注意を受けた[131]。
- よみうりテレビ、サンライズが製作したアニメ『シティーハンター3』第11話(1989年12月24日放送)の中で麻原の画像のカットが使用され[132]、後年問題になった[要出典]。
女性関係
- 結婚した松本知子のほかにも、石井久子[133]、タントラギーター[134]、スメーダー[135]、イシュタ・ヴァジリニー[136]、マハームドラー・ダーキニー[137]の愛人がいた。四女の著書によれば、教団内に愛人は約100人おり、夜毎尊師の部屋には彼女たちが入れ替わり立ち代り呼ばれたが、その際には妻である松本知子は部屋の前で落ち着きなくうろうろしていた。なお、女性信者を誘う際「今度、特別なイニシエーションがあるから」と称していた[138]。
好きな有名人
- 秋吉久美子[139]、あべ静江[140]、西城秀樹[141]のファンだった。また、前世では宮沢りえと夫婦だったとも語った。
- 石原慎太郎を尊敬する。理由は、知的、スマート(頭がいい)なところで、こういう人が日本のトップに立つと面白いと語る。
嗜好
- 実家は貧しかったが、父が旧金剛村で最初にテレビを購入しており、子供のころ、そのテレビで『あんみつ姫』や『8マン』をよく観ていたという[142]。
- 盲学校中学部・高等部時代に、他の寄宿生らを集め西城秀樹や尾崎紀世彦の歌を歌う「松本智津夫ショー」を何度も開催していた[27]。空き缶をマイクの代わりにして西城秀樹の当時のヒット曲「傷だらけのローラ」を歌ったこともある[27]。校内で結成したバンドでもボーカルを務め、西城の「情熱の嵐」を十八番としていた[143]。
- 専攻科時代、運動会の応援団長を務めることになった松本は、運動会当日モヒカン頭の出立ちで現れ周囲を驚かせた[144]。
- 若いころ極真会館に入門したが、すぐ辞めてしまった。入門当時は、極真会館総本部三代目師範代であった真樹日佐夫がよく稽古をつけていた[145]。
- 「今のままだと、来世は巨人軍のエースだ」と自称していた[146]。
- 逮捕前、メロンとパーコー麺とステーキを好んで食べていたという[要出典]。しかし、本人は「私が好きなのはバナナなのに」と主任弁護人に伝えていた。留置所では、家族から弁当の差し入れを毎日もらっていたが「今日の弁当は鮭が小さかった」と残念がる時もあった[要出典]。
- 日本航空に搭乗を拒否されたため、海外移動の際には全日空やアエロフロートへ搭乗していた。なお、全日空に搭乗する際はファーストクラスを貸し切りにすることが多かった[147]が、専用の椅子を持ち込もうとして拒否されたこともある。
逮捕後
- 1審の初公判で裁判長に「(本名は)『松本智津夫』ではないのですか」と尋ねられたとき「『松本智津夫』という名前は捨てました。(今の名前は)『麻原彰晃』です」と述べた。
- 1審で死刑判決を受けたとき「何故なんだ! ちくしょう!」と叫んだ。このことは裁判所による控訴棄却決定要旨にも記述されている。精神鑑定で正常と判断された根拠の1つに、腕を捻って「痛い!」と言ったことが挙げられる[注 9]。
- 東京拘置所そばの建造物(高速道路の柱)から超望遠レンズを付けたカメラにより、車椅子に乗った麻原の姿が撮影され、1996年(平成8年)4月25日号の週刊文春に掲載されている[148](当時、東京拘置所の塀の一部が工事のため内部が見えていた。これに気づいた宮嶋茂樹は同僚と協力し撮影に成功した。週刊誌に掲載後、工事されていた塀はさらに嵩上げされ、撮影場所の建築物付近の警戒が厳しくなっており、近づいたら警察が駆けつけるようになっている)。
視力
- 「視力が無い」と自称していたが、他のオウム関連の裁判に証人として出廷した際、宣誓書を弁護士の言う通りに比較的短時間で書き上げた。裁判長も一瞬で麻原の書いた宣誓書を判読できたため、視力障害者特有の文字の重なりなどはなかったと思われる。また、「目が見えない」のに宮沢りえのヌード写真集を持っていたとの報道もあり、視力に関しては非常に疑わしいと言える[注 10][149]。
- 取調べの際も目が見えないことを強調し、それを理由に供述調書[要曖昧さ回避]へのサインを拒むなどしていたが、その一方で「刑事さんは竜雷太みたいでカッコイイですね」や「刑事さん、太陽にほえろのボスみたいですね」と語ったり、的確に障害物を避けるなどをしている[注 10]。
- 1982年に無許可製造医薬品販売の容疑で麻原を取り調べた刑事は「事件後に実は目が見えているとか、そんな報道がずいぶんありましたよね。だけど、あのころからやっぱりほとんど見えていなかったね。どっちだっけな。片方は0・06だったね。もうひとつはほとんど見えていなかったよ。」と語っている。また「警察の取調べで刑事に盛んに媚びていたという情報がありました。刑事さんは石原裕次郎に似ていますねとか何とか言ったとか」という質問に対して「媚びはしないね。そういうタイプじゃない。どちらかといえば寡黙でしたよ」と否定している[150]。
- 2015年3月、三女松本麗華は著書『止まった時計』の中で、1998年2月にフランスへ行ったとき、村井秀夫や石井久子はスーツ姿、三女ら子供たちも普通の格好だったが、麻原だけはクルタを着用していた。もし、麻原に視力があったなら、それなりにまともな格好をしたのではなかったかと指摘している。これに象徴されるように、オウムが社会性をなくしていったのも麻原の目が見えないことと関連しているのではないかと三女は考えている[52]。
奇行
- 裁判中の奇行
- 他の証人が証言している最中に英語でつぶやいたり、突然大声を発することもあった[151]。英文法的には間違いが目立っていたが、単語は難易度の高いものを使っていた。さらに基本的な単語を度忘れした時、弁護人が教える場面も見られた。
- 「このような話を本日、エンタープライズのような原子力艦空母の上で行なうのは、うれしいというか悲しいというか、複雑な気分であります」「第三次世界大戦が起きていますから」「今の名前はない。ブラックホールを背負っている」など意味不明な発言[152][153][154]。
- 宣誓を拒むなどして何度か退廷させられた[154]。
- 居眠りなど、審理に関心を示さない[155]。
- 森達也はある司法記者から、しばしば午前と午後で松本のズボンが替わっており、失禁しているらしいと伝え聞いた[156]。
- 拘置所での奇行
- 拘置所の運動場では、「甲子園の優勝投手だ。大リーグボール3号だ」と発言した[要出典]。
- 獄中で糞尿を垂れ流すため、40代半ば頃からおむつを使用していると報じられている。風呂にも自力で入れない為看守等に洗われるわけであるが、体に付着した大便のせいで風呂場は汚物まみれの極めて不衛生な状態とまでなるとのこと。掃除の際は飛び散った大便を長靴で踏んで排水口に流せるほど細かくして流し、クレンザーで殺菌するらしい[157]。
- 獄中での食事は、他の受刑者がその日の献立による普通の食事であるのに対し、麻原の場合は同じ献立の食事のメニューを全て1つの食器に入れて、それを食べさせているという。食事に使う食器はスプーンで、このスプーンは澱粉製である[注 11]。
- 控訴審の弁護人である松井武によると、麻原は東京拘置所における松井との接見の最中に服の上から股間を擦り、さらに陰茎を露出させて自慰行為をおこない、射精に至ったという[158]。自分の娘たちとの接見でも自慰行為を行ったことがあった[159]。2005年8月、3人の娘と面会の際には麻原はせわしなく動かしていた手を止めると、スウェットパンツの中から性器を取り出すと自慰行為を始めた。3人の娘たちが沈黙している不自然な空気を感じ取った看守が気付き「やめなさい!」と制止したものの、3回ほど繰り返した。3人の娘たちは絶句したまま呆然と父の自慰を見つめたまま接見時間の30分が過ぎた[91]。
このような奇行について、詐病であるか否かで見解が分かれている(#訴訟能力、詐病)。
脚注
注釈
- ^ 松本が高等部1年時の1970年(昭和45年)9月1日には、現住所の熊本市東区東町に校舎が移転している[17][16]。
- ^ BMAは「ブッダ・メシア・アソシエーション」の略[45]。高山文彦はこの名称について、宗教団体のGLA(ゴッド・ライト・アソシエーション)に倣ったものではないかと推測している[44]。
- ^ 蛇やニンジンの皮といった漢方薬をアルコールに漬けた『青龍丹』
- ^ この時麻原は、長兄に対し「教祖になってくれないか」と依頼している[49]。
- ^ 元連合赤軍幹部で、印旛沼事件・山岳ベース事件・あさま山荘事件に関与した坂口弘は17人の殺人で起訴され、結審まで21年を要した。
- ^ それまでは1993年(平成5年)2月に確定した連合赤軍事件の坂口弘の17人殺人(司法の認定としては16人殺人と1人傷害致死)が最悪であった。
- ^ 逮捕理由は教団施設への「住居侵入」であるが、それは教団の実態は酷いと感じた次女が、長男を教団から救出・保護するための手段であったという[107]。
- ^ この要因は龍ケ崎市の転入拒否で市の戸籍を作って貰えなかったことが大きい。
- ^ ただし、麻原以外の精神障害者でもこのようなことをされれば痛みを訴えることはある。
- ^ a b ただし、麻原は隻眼ではあるが、視力が全く無いわけでは無い。また、視力を失ってはいても、他の感覚(聴覚や触覚等)でそれを補う人も居るのは事実なため、麻原もその1人だと言える。
- ^ これは誤ってスプーンを食べてしまっても大丈夫なようにとの拘置所側からの配慮である。
出典
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- ^ "信者1000人超と報告=事件知らぬ若年層に拡大―原点回帰も鮮明に・アレフ" (Press release). 朝日新聞. 2011-11. 2011-11-17閲覧。
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:|date=
の日付が不正です。 (説明) - ^ 金剛村は1954年4月1日に八代市に編入され、智津夫の出生時には消滅していた。
- ^ a b 東京キララ社 2003, p. 9.
- ^ 「「上に立つ」…盲学校に原点」『読売新聞』 2004年2月4日付
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- ^ 当該記事前半 当該記事後半
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