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「人斬り (映画)」の版間の差分

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|脚本=[[橋本忍]]
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|原作=[[司馬遼太郎]]『人斬り以蔵』 (参考文献)
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|上映時間=140分([[カラー映画|カラー]]・ワイド)<ref name="filmo">「三島由紀夫関連作品フィルモグラフィー『人斬り』」({{Harvnb|映画論|1999|p=664}})</ref><ref name="eigaka">「三島由紀夫関連作品フィルモグラフィー『人斬り』」({{Harvnb|論集II|2001|p=175}})</ref>
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|配給収入=3億5000万円<ref>『キネマ旬報ベスト・テン85 1924-2011』キネマ旬報社、2012年)260頁</ref>
|配給収入=3億5000万円<ref name="kai80">「昭和44年」({{Harvnb|80回史|2007|pp=176-183}})</ref><ref name="kai85">「昭和44年」{{Harvnb|85回史|2012|pp=260-268}})</ref>
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『'''人斬り'''』(ひときり)は、[[1969年]](昭和44年)[[8月9日]]公開の[[時代劇]][[映画]]。監督は[[五社英雄]]。製作は[[フジテレビジョン]]+[[勝プロダクション]]。[[映画配給|配給]]は[[大映]]<ref name="eiga">[[山中剛史]]「映画化作品目録――人斬り」({{Harvnb|42巻|2005|pp=886-887}})</ref><ref name="yama">「第十一章 映画『人斬り』と昭和四十年代」({{Harvnb|山内・左|2012|pp=294-318}})</ref>。[[司馬遼太郎]]の短編『人斬り以蔵』を参考文献にしたオリジナル作品で、[[脚本]]は[[橋本忍]]が担当した<ref name="yama"/><ref name="sengo1">「第一章 映画『人斬り』と司馬遼太郎――岡田以蔵と武市半平太」({{Harvnb|山内・戦後|2011|pp=23-55}})</ref>。この年に劇場用映画製作に進出したフジテレビが第1作『[[御用金 (映画)|御用金]]』に続いて放った第2作目で<ref name="yama"/><ref name="enta">「人斬り」({{Harvnb|時代劇|2015|p=167}})</ref><ref name="enta2">「[[御用金 (映画)|御用金]]」({{Harvnb|時代劇|2015|p=166}})</ref>、勝プロダクション初の時代劇製作映画でもある<ref name="prog">{{Harvnb|再上映|1985}}</ref>{{refnest|group="注釈"|勝プロ製作では前年1968年(昭和43年)6月に『[[燃えつきた地図]]』がある。}}。公開当時は[[映画倫理委員会|映画倫理管理委員会]]より[[成人映画]](映倫番号15909)の指定を受けた<ref>[http://db.eiren.org/contents/04990000126.html 一般社団法人日本映画製作者連盟](2017年5月17日閲覧)</ref>。
『'''人斬り'''』(ひときり)は、[[1969年]](昭和44年)[[8月9日]]公開の[[五社英雄]]監督による[[時代劇]]映画。[[大映]]配給。[[フジテレビジョン|フジテレビ]]・[[勝プロダクション]]製作、[[勝新太郎]]主演。上映時間140分。


動乱の[[幕末]]を舞台に、[[郷士|下級武士]]出身ながらも[[京都|京の都]]を震撼させ「人斬り以蔵」の名を轟かせた[[土佐国|土佐]]最強の[[暗殺]]剣士・[[岡田以蔵]]の半生を、[[土佐勤皇党]]の党首・[[武市瑞山|武市半平太]]との関係を基軸に描いた娯楽歴史劇である<ref name="yama"/><ref name="sengo1"/><ref name="gai24">「二十四 『人斬り』で三大スタアと共演」({{Harvnb|岡山|2014|pp=127-152}})</ref>。キャストは[[勝新太郎]]、[[仲代達矢]]、[[三島由紀夫]]、[[石原裕次郎]]といった豪華な顔ぶれで、特に本業が俳優でない三島の起用が大きな話題を呼んだ<ref name="yama"/><ref name="sengo1"/><ref name="kaidai">「本職を忘れて役者に――『人斬り』に出演の三島由紀夫」([[東京新聞]]夕刊 1969年6月10日号)。{{Harvnb|35巻|2003|pp=780-781}}に一部抜粋</ref><ref name="gai24"/>。
== 概略 ==
動乱の[[幕末]]時代を舞台に、[[京都|京]]の都を震撼させ、その名を轟かせた[[土佐国|土佐]]の最強の剣士・[[岡田以蔵]]の半生を描いた歴史劇作品。[[司馬遼太郎]]の小説『人斬り以蔵』をモチーフとしている。折りしも同年3月には、[[三船敏郎]]率いる[[三船プロダクション]]の制作による[[東宝]]映画『[[風林火山 (映画)|風林火山]]』が封切られ、いずれも壮大なスケールで作られた東西の時代劇映画の対決を見ることとなった。


同じく壮大なスケールの歴史劇で同年3月に封切られた[[三船敏郎]]率いる[[三船プロダクション|三船プロ]]製作の『[[風林火山 (映画)|風林火山]]』([[東宝]]配給)との東西時代劇対決の様相ともなり、勝プロの『人斬り』は[[キネマ旬報]]ベストテンでは圏外の第14位で、三船の『風林火山』の第10位に敗れたものの、[[興行収入|興行成績]]は1969年度(4月から12月)の興行ベストテン第4位に入る大ヒットとなった<ref name="kai80"/><ref name="kai85"/><ref name="yama"/>{{refnest|group="注釈"|『[[風林火山 (映画)|風林火山]]』は前年1968年度(4月から翌1969年3月まで)の興行成績で計算され第1位となっている<ref>「昭和43年」({{Harvnb|80回史|2007|pp=168-175}})</ref><ref>「1968年」({{Harvnb|85回史|2012|pp=250-258}})</ref>。}}。また[[2004年]](平成16年)発表のオールタイムベスト・テン時代劇のランキングでは第51位となった<ref name="jidai80">「ジャンル別オールタイムベスト・テン時代劇(日本映画)」({{Harvnb|80回史|2007|p=471}})</ref>。
主演は勝新太郎。『[[座頭市]]』シリーズに代表されるように迫力満点の殺陣シーンを展開、期待を裏切らずスケールと貫禄を充分に主人公・岡田以蔵に扮した。劇中の以蔵は、多くの作品に見られるような冷徹な殺人マシーンというイメージではなく、どこか泥臭く人間味がある硬骨漢として描かれ、希望を宿し挫折を味わい、絶望の淵から這い上がろうとする様を、どこまでも哀切に演出。かつてない以蔵のイメージ像の開拓に成功した。一方で、以蔵の生涯を大きく脅かす存在となる[[土佐勤皇党]]盟主・[[武市瑞山]]役には重厚な演劇者として名高かった[[仲代達矢]]がキャスティングされ、前半は清廉な革命家として、物語後半は冷徹、かつ非情な都の独裁者として描き、時代の風向きがいかに勤皇に傾いていったかを際立たせている。武市とともに、異なる手法で倒幕を図る[[坂本龍馬]]役には[[石原裕次郎]]が訥々と扮し、時に人斬りの道を邁進する以蔵を静かに諌め、また以蔵の苦境を救う存在として登場した。更に以蔵と対極した「人斬り新兵衛」こと薩摩藩士・[[田中新兵衛]]を演じた[[三島由紀夫]]は、劇中においても鮮烈な印象を残したが、その翌年、自身も壮絶な死を遂げることとなり、この作品の価値をセンセーショナルな話題を呼ぶものとした。以蔵をとりまく女性たちに[[倍賞美津子]]や[[新條多久美]]ら実力派女優陣が演じ花を添えている。


見どころはリアルな死闘の暗殺場面や豪快な[[殺陣]]の立ち回りで、以蔵扮する勝の人間臭い喜怒哀楽や、[[田中新兵衛]]役の三島の迫真の[[切腹]]演技も好評であった<ref name="yama"/><ref name="sengo1"/><ref name="enta"/><ref name="kakomi">[[藤井浩明]]「原作から主演・監督まで――プロデューサー藤井浩明氏を囲んで(聞き手:[[松本徹 (学者)|松本徹]]・[[佐藤秀明 (学者)|佐藤秀明]]・[[井上隆史 (国文学者)|井上隆史]]・山中剛史)」({{Harvnb|研究2|2006|pp=4-38}})。「映画製作の現場から」として{{Harvnb|同時代|2011|pp=209-262}}に所収</ref>。この約1年後に三島は実際に切腹死するが(詳細は[[三島事件]]を参照)、自決のわずか1年前の三島の姿がたっぷりと見られる映画として貴重な資料にもなっている<ref name="shina">[[品田雄吉]]「勝新の魅力と三島由紀夫の迫力」({{Harvnb|再上映|1985}})。{{Harvnb|山内・左|2012|pp=316-317}}</ref><ref name="yama"/>。
== エピソード ==

[[田中新兵衛]]役を演じた[[三島由紀夫]]の[[高祖父]]は、田中新兵衛が切腹してしまったことで、不注意の咎で[[閉門]]を命ぜられた[[永井尚志]]である。三島は友人・[[林房雄]]宛の書簡(1969年6月13日付)の中で、「明後日は大[[殺陣]]の撮影です。新兵衛が腹を切つたおかげで、不注意の咎で閉門を命ぜられた永井[[主水正]]の[[玄孫|曾々孫]]が百年後、その新兵衛をやるのですから、先祖は墓の下で、目を白黒させてゐることでせう」と記している<ref>『決定版 三島由紀夫全集第38巻・書簡』([[新潮社]]、2004年)</ref>。
公開時の[[惹句]]は、「斬る!斬る!斬る! 問答無用でぶった斬る!!」、「勝が斬る!仲代が斬る!三島が斬る!裕次郎が斬る! 問答無用でぶった斬る!!」である<ref>「人斬り」({{Harvnb|なつかし2|1990|p=45}})</ref><ref name="prog"/><ref name="ysenka">[http://www.geocities.jp/cyannyuu/690809.html 石原裕次郎専科「人斬り」]</ref>。併映は[[井上芳夫]]監督の『女賭博師丁半旅』(出演:[[江波杏子]]、[[藤巻潤]])である<ref name="yama"/><ref name="ysenka"/>{{refnest|group="注釈"|『女賭博師丁半旅』の惹句は、「親の命の金盆かけて体をはった、命を捨てた! 罠と承知の百番勝負!」である<ref>「『女賭博師』シリーズ――女賭博師丁半旅」({{Harvnb|なつかし|1989}})</ref>。}}

== おもなキャスティング ==
=== 四柱スター競演 ===
『人斬り』の主役となる[[岡田以蔵]]は、製作の勝プロダクション社長でもある[[勝新太郎]]が演じている。独立プロを持つ以前は[[市川雷蔵 (8代目)|市川雷蔵]]と共に「カツライス」と呼ばれて[[大映]]の二枚看板を担っていた大スター勝新太郎は、映画史に残る時代劇『[[座頭市]]』シリーズに代表されるように、迫力満点の[[殺陣]]の演技で定評があり、その[[怪物]]的な[[アウトロー]]役のスケールの大きさと貫禄は主役を張るのに充分であった<ref name="katsup">「私の好きな日本映画男優プロフィール――勝新太郎」({{Harvnb|男優|2014|p=123}})</ref><ref>「第8章 騒がしくも、ゆるやかな下降 1961-70――大映のスター路線」({{Harvnb|四方田|2014|pp=170-171}})</ref><ref name="prog"/>。

岡田以蔵といえば、[[幕末]]の[[京都]]で[[土佐]]最強の「人斬り」として怖れられた冷徹な暗殺者という暗く殺気のあるイメージだが、勝新太郎の演じる以蔵はどこか人懐っこく感情表現豊かで、泥臭く人間味のある硬骨漢として登場する<ref name="shina"/><ref name="prog"/>。また、以蔵が未来に明るい希望を宿しつつ挫折を味わい、絶望の淵から這い上がろうとする様も哀切風に描かれ、[[坂本龍馬]]や[[田中新兵衛]]との友情や、[[女郎]]・おみのへの情愛なども加味された演出となっている<ref name="sengo1"/><ref name="prog"/>。

以蔵の生涯に大きな影響を及ぼした[[土佐勤皇党]]盟主・[[武市瑞山|武市半平太]]役には、[[黒澤明]]監督の映画などで注目され『[[人間の條件 (映画)|人間の条件]]』で不動の地位を得て重厚な演劇人として名高い[[仲代達矢]]が選ばれた<ref name="nakap">「私の好きな日本映画男優プロフィール――仲代達矢」({{Harvnb|男優|2014|p=133}})</ref><ref name="prog"/>。仲代はフジテレビ製作映画第1弾の『[[御用金 (映画)|御用金]]』にも出演している<ref name="enta2"/><ref name="nakadai">[[仲代達矢]]「五社さんはイタリアンだと思います」({{Harvnb|ムック|2014|pp=11-18}})</ref>。仲代の演じる武市は以蔵とは正反対の性格の人物として登場し、前半は清廉な[[革命家]]、物語後半は冷徹かつ非情な都の[[独裁者]]として描かれ、[[テロ]]の首謀者といった趣の演出となっている<ref name="sengo1"/><ref name="prog"/>。

武市や以蔵と同じ[[土佐藩]]出身ながらも、異なる手法で[[倒幕]]を図る[[坂本龍馬]]役には[[石原裕次郎]]が訥々と扮し、以蔵が武市の飼犬となり人斬りの道を盲目的に邁進するのを時に静かに諌め、以蔵の苦境を救う存在として登場する<ref name="sengo1"/>。竜馬は武市の冷酷さとは好対照な温かい友愛を示す人物として演出されている<ref name="sengo1"/><ref name="prog"/>。[[日活]]の大スターだった裕次郎も、勝同様に個人事務所の[[石原プロモーション]]を当時すでに設立して活躍していた<ref name="yuji">「私の好きな日本映画男優プロフィール――石原裕次郎」({{Harvnb|男優|2014|p=119}})</ref><ref name="enta3">「[[風林火山 (映画)|風林火山]]」({{Harvnb|時代劇|2015|p=165}})</ref><ref name="prog"/>。

以蔵と同じく[[暗殺者]]として生きる「人斬り新兵衛」こと[[薩摩藩]]士・[[田中新兵衛]]に起用されたのは、[[民兵]]組織「[[楯の会]]」の主宰や[[ノーベル文学賞]]候補として当時注目されていた[[文壇]]のスター[[三島由紀夫]]であった<ref name="sengo1"/><ref name="sengo2">「第二章 映画『人斬り』と三島由紀夫――田中新兵衛と永井尚志」({{Harvnb|山内・戦後|2011|pp=56-107}})</ref>。三島の演じる新兵衛は、殺気みなぎる人物として登場し、見事な殺陣や以蔵との友情、突然の[[切腹]]死で鮮烈な印象を残す存在として演出されている<ref name="sengo1"/>。この『人斬り』公開の翌年、三島自身も「楯の会」同志と[[三島事件]]で壮絶な割腹自決を遂げることとなり、その後『人斬り』の価値がセンセーショナルな話題を呼ぶものとなった<ref name="yama"/><ref name="gai24"/><ref name="jiten">[[平山城児]]「映画出演」({{Harvnb|事典|2000|pp=457-458}})</ref><ref name="prog"/>。

=== その他 ===
岡田以蔵をとりまく女性には、以蔵が憧れる高い身分の姫として演出される姉小路綾姫役に新人の[[新條多久美]]、以蔵の馴染の[[女郎]]役には[[松竹歌劇団]]出身で2年前に映画デビューした[[倍賞美津子]]が花を添えている<ref name="prog"/><ref name="ysenka"/>。情婦おみのは、以蔵の心身ともに身近な存在として登場し、[[セミヌード]]になっている倍賞はこの貧しい女郎を体当たりで好演し注目されることになった<ref name="baisho">「私の好きな日本映画女優プロフィール――倍賞美津子」({{Harvnb|男優|2014|p=160}})</ref><ref name="prog"/>。

作品導入部の、土砂降りの雨の中で[[土佐勤皇党]]3名に襲われる土佐藩[[家老|執政]]・[[吉田東洋]]役にはベテラン俳優の[[辰巳柳太郎]]が配され、血泥まみれの死闘の末の壮絶な殺され方をする東洋暗殺事件は、目撃者の以蔵が、俺ならもっと手際よくやれると歯がゆく思い暗殺者として目覚める場面として演出されている<ref name="enta"/><ref name="prog"/><ref name="kasuga2">「第二章 突進」({{Harvnb|春日|2016|pp=35-128}})</ref>。

また、以蔵が[[浪人]]狩りで入れられた[[六角獄舎|六角牢]]の中の端役には、人気お笑いコンビの[[コント55号]]の2人([[萩本欽一]]・[[坂上二郎]])が異色キャストとして宣伝ポスターやチラシなどでクレジットされている<ref name="prog"/><ref name="ysenka"/>。コント55号は『人斬り』と同年公開の映画『[[コント55号 人類の大弱点]]』に主演しているが、この[[喜劇映画]]は1969年度のキネマ旬報興行ベストテン第9位となっている<ref name="kai80"/><ref name="kai85"/>。

== 原作との違い ==
『人斬り』の参考文献となった[[司馬遼太郎]]の短編小説『人斬り以蔵』(『別冊[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]』87号・昭和39年4月号掲載)は、司馬が[[昭和30年代]]後半から連作で書いた幕末物の[[暗殺]]小説の一つで、[[土佐]]の歴史と風土をふまえた作品となっている<ref name="yama"/><ref name="sengo1"/>。

『人斬り以蔵』では、[[土佐藩]]の[[足軽]]の子として生まれ貧しい下級武士から這い上がるため懸命になり、幕末動乱期に「人斬り」(暗殺者)としてしか生きられなかった不幸な[[岡田以蔵]]の短く[[悲劇]]的な生涯を、師であった[[武市半平太]]との関係を軸にして描いている<ref name="shiba">[[司馬遼太郎]]「自分の作品について」([[國文學]] 解釈と教材の研究 1973年6月号)。{{Harvnb|山内・戦後|2011|pp=23-25}}</ref><ref name="yama"/><ref name="sengo1"/><ref name="izou">「人斬り以蔵」({{Harvnb|司馬|2004|pp=92-157}})</ref>。

司馬は『人斬り以蔵』の中で、「不幸な男」以蔵が何の抵抗もなく人斬りを重ねる姿について、「以蔵が[[狂人]]でないとすれば、この時代が生み出した[[畸形児]]といってよい」とし、すさまじい[[剣術]]の腕を身につけた「狂犬」の以蔵を操縦して「馴犬」にする武市については、「本来、沈毅な[[君子]]人として知られた男」と紹介し、武市の高潔な人柄や、武市の邪魔となる人物を黙々と忖度して斬っていく以蔵の[[心理]]を丹念に追うのと同時に、その以蔵の「無智な人斬り」ぶりを嫌い始め、足軽の出で無教養な以蔵への武市の感情の移ろいも描いている<ref name="sengo1"/><ref name="izou"/>。

この『人斬り以蔵』を発表した前後から、司馬の独自の文学観や[[歴史小説]]スタイルが確立されていったが<ref name="sengo1"/>、司馬は「[[性]]」と並んで永遠に不可解なものである「[[権力]]」という「男がその人生を当然噛みこませてゆかざるをえないもの」を自身の作品テーマにし、その男から生れてくる「[[志]]」というものを冷徹に見つめて描くことを身上としていた<ref name="shiba"/><ref name="sengo1"/>。
{{Quotation|小説を書くという作業は、自分自身の中にある普遍的人間が歴然と住んでいて、それがいかに奇妙な心理や行動を表現しようとも、本来普遍性から外れることがないという、いわば証明不要の公理のようなものを信ずる以外に書けるものではない。(中略)男は一個の身を無数の権力もしくは権力現象に身をゆだねたり、そのとりこになり、他に害をあたえたり、あるいは害を受けたり、ときにはそれを得ることによって何事かの自己表現を遂げようとあくせくし、それがために生死する。(中略)志とは単に権力志向へのエネルギーに[[形而上学|形而上]]的体裁をあたえたにすぎない場合もあるが、それはそれなりに面白く、さらにはいかなる志であっても志は男が自己表現をするための主題であり、ときには物狂にさせるたねでもあるらしい。|[[司馬遼太郎]]「自分の作品について」<ref name="shiba"/>}}

いわば、『人斬り以蔵』における以蔵は、武市という男の権力の「とりこ」になり、「人斬り」になった以蔵は、「自己表現」を遂げようとあくせくし、それ故に生死し、「人斬り」は以蔵の屈折した「志」であり、「自己表現をするための主題」でもあった<ref name="shiba"/><ref name="sengo1"/>。そして司馬は、時代の中で悲劇的な[[宿命]]を生きた「不幸な男」以蔵の生涯にある人間の悲しい性分も見つめ描いている<ref name="sengo1"/>。

そうした司馬の快諾を受けて[[橋本忍]]が手がけた映画『人斬り』の脚本では、以蔵と武市の関係性や、やがて以蔵が武市に憎悪を感じていき人間的に目覚めていく過程は共通し、最後にそれまでの所業を告白するという点は同じであるが、映画では、以蔵と武市の心理は単純化され、武市は最初から以蔵を利用する道具として見なしている設定である<ref name="sengo1"/><ref name="kasuga2"/><ref name="izou"/>。また、映画では最後、以蔵は入牢中ではなく、小屋で無為に暮らしているところに、武市の差し金の毒酒を飲んで辛くも助かり自ら[[高知城]]に自白に出向いていく流れになっている<ref name="sengo1"/><ref name="izou"/>。

小説冒頭部での以蔵が武市の道場に入門を許されるに至るエピソードなどの、武市を師と仰ぐようになった出会いの経緯は映画では省かれ、[[勝海舟]]の護衛をする場面も、映画では[[石部宿]]の大[[天誅]]の後のこととして脚色されている<ref name="sengo1"/><ref name="izou"/>。さらに、ストーリー展開上で必要なエピソードや暗殺事件などを生かしつつも、新たに肉付けした要素が多くなっており、映画『人斬り』はオリジナルの物語の様相となっている<ref name="sengo1"/><ref name="izou"/>。

人物造型的には、野性的で涙もろい以蔵は小説でもそうであるが、武市の人物像は小説とは微妙に異なり、映画では非情で徹底した[[利己主義|エゴイスト]]として脚色されている<ref name="sengo1"/><ref name="izou"/>。橋本の脚色では、公開当時の[[1960年代]]後半の世相が加味され、[[全共闘]]などの[[新左翼]]の[[学生運動]]が吹き荒れていた時代潮流を見据えた一種の[[革命]]幻想風に仕立てられ、武市が牢内で[[扇動|アジる]]場面が橋本の独創として加えられている<ref name="yama"/><ref name="sengo1"/>。

橋本の脚本を元に俳優の演技指導をした[[五社英雄]]監督は、その武市に利用された挙句に捨てられ破滅的最期を迎える以蔵について、「[[権力闘争]]の中で使い捨てられた男の話、暗殺しかできないきわめて荒削りな、むき出しな男の、おろかであればあるだけの悲しさを描きたい」と演出意図を語り<ref name="itogo">[[五社英雄]]([[長部日出雄]]との対談)「映画は誰のためになぜ作られるのか」([[キネマ旬報]] 1969年10月下旬号)。{{Harvnb|春日|2016|pp=113-115}}</ref><ref name="kasuga2"/>、勝新太郎の以蔵は五社自身の分身でもあると述べている<ref name="gosha2">五社英雄「『人斬り』について」({{Harvnb|再上映|1985}})。{{Harvnb|山内・左|2012|pp=317-318}}</ref><ref name="itogo"/>。
{{Quotation|僕は岡田以蔵そのものを自分の分身のように描こうと思ったわけです。岡田以蔵的なものの中には、自分の恥部に刺さるようなものがある。いままで四十年間生きてきた自分の生き方の、傷や、あるいは[[コンプレックス]]や自意識を、チクチク刺すものがありますからね。それで一応ああいう作品ができました。それがある面では、今度の作品における僕の心情的なものの積み重ねの印になっている。|[[五社英雄]]([[長部日出雄]]との対談)「映画は誰のためになぜ作られるのか」<ref name="itogo"/>}}

豪傑な一匹狼を自負しつつも、その実態は結局組織から離れることは出来ず、自身の惨めさや情けなさを味わう以蔵の姿を随所に描くことが映画の演出意図であり、またそこに自身を重ねて描くことが、五社監督の主題でもあった<ref name="itogo"/><ref name="kasuga2"/>

小説『人斬り以蔵』では[[坂本龍馬]]はエピソード的に短く登場し、[[薩摩藩]]の人斬り・[[田中新兵衛]]も名前が出てくるだけであるが、映画では、彼らと以蔵との交流が多分に加えられている<ref name="sengo1"/><ref name="izou"/>。また小説でも映画でも以蔵が酒色を好んだことになっているが、映画で以蔵との関係性が濃密に描かれている[[遊郭]]の[[女郎]]おみのや、[[姉小路公知]]の妹の綾姫なども小説には登場しない人物である<ref name="sengo1"/><ref name="izou"/>。

さらに橋本の脚本では、小説『人斬り以蔵』で少ししか触れられていない[[姉小路公知]]の暗殺エピソードをクローズアップし、歴史の忠実では暗殺犯の真相は不明であるものの、武市が以蔵に命じたこととして独自解釈の脚色がなされ、策謀家・革命家としての武市の一面を強調させている<ref name="sengo1"/>。また、姉小路暗殺の嫌疑をかけられた田中新兵衛の切腹場面も具体的な見どころとして加えられている<ref name="sengo1"/>{{refnest|group="注釈"|[[田中新兵衛]]の切腹場面は、[[司馬遼太郎]]の『人斬り以蔵』では具体的には描かれていないが、司馬の『[[竜馬がゆく]]』の「京の政変」の中では臨場感を持って詳しく描かれている<ref name="sengo2"/>。}}。

== 製作背景 ==
=== フジテレビ製作第2弾 ===
当時業績が好調だった[[フジテレビジョン]]は[[1969年]](昭和44年)に新事業の映画製作に乗り出し、フジテレビの株主であった[[東宝]]、[[大映]]、[[松竹]]の3社と一本ずつ映画を製作するという案が出ていたが、協定の中で各会社は二の足を踏み、「[[映画配給|配給]]」という方式で、系列会社と組んだフジテレビと提携するという形を取ることに決まった<ref name="kasuga2"/>。

1969年(昭和44年)5月17日に公開されたフジテレビ製作映画第1弾の『[[御用金 (映画)|御用金]]』は、東宝の系列会社の[[東京映画]]と組んで初めて映画製作した作品で、配給は東宝となった<ref name="enta2"/><ref name="kasuga2"/>。監督はフジテレビの[[五社英雄]]が担当し、俳優陣は[[仲代達矢]]、[[丹波哲郎]]、[[萬屋錦之介|中村錦之助]]、[[夏八木勲]]、[[西村晃]]といった面々が死闘の[[チャンバラ]]を繰り広げるスペクタクル時代劇であった<ref name="yama"/><ref name="enta2"/><ref name="ayumi">「演出家・五社英雄の歩み」({{Harvnb|ムック|2014|pp=2-10}})</ref><ref name="kasuga2"/>。

この『御用金』は多くの観客を集め大ヒット作となった(結果的に1969年度の興行ベストテン第6位となる)<ref name="kai80"/><ref name="yama"/><ref name="enta2"/><ref name="ayumi"/>。フジテレビは立て続けに映画第2弾の企画を進め、[[勝新太郎]]率いる勝プロダクションと組んで、次もさらに豪華な時代劇を製作することにした<ref name="kasuga2"/>。

この当時、従来のメジャー映画会社は衰退に向かっていて、大スターが相次いで独立プロダクションを起し大作映画を手がけるようになっていた<ref name="kai80"/><ref name="kai85"/>。勝新太郎も自分が思い描く通りの映画を作りたく、マンネリの人気シリーズばかりに主演する状況に不満を持って独立していた<ref name="kasuga2"/>。そんな勝にとってフジテレビの潤沢な予算は渡りに舟であった<ref name="kasuga2"/>。

かつて勝が所属した老舗の大映も他の会社同様に経営危機に追い込まれていて、製作予算が多く取れないのが現状であった<ref name="kai80"/><ref name="kai85"/><ref name="enta"/>。しかし旧知の間柄の勝と共に、豊富な資金を持つフジテレビと提携することで、通常の3倍の予算が組まれることになり、3社共々力を注ぐ作品として企画が進んでいった<ref name="enta"/><ref name="kasuga2"/>。

フジテレビ製作第2作目は、五社英雄が『御用金』に続いて監督を担当することになった<ref name="yama"/>。五社英雄はテレビ出身の映画監督第1号で、テレビ時代劇『[[三匹の侍]]』などの凄まじいリアルな殺陣の演出で才気を見せ、『御用金』でも危険な岩場や、海の中、大雪原の中でのチャンバラ決闘の面白さで注目されていた監督であった<ref name="enta4">「三匹の侍」({{Harvnb|時代劇|2015|p=140}})</ref><ref name="sato15">「第五章 文と武の人――映画『人斬り』」({{Harvnb|佐藤|2006|pp=194-195}})</ref><ref name="enta2"/><ref name="ayumi"/><ref name="kasuga2"/>。

脚本は[[橋本忍]]が担当し、[[司馬遼太郎]]の短編『人斬り以蔵』を参考文献にしてオリジナルのシナリオを作ることになった<ref name="yama"/><ref name="sengo1"/>。橋本は、[[黒澤明]]監督の『[[羅生門 (1950年の映画)|羅生門]]』が脚本家デビュー作で、『[[生きる]]』『[[七人の侍]]』など多くの黒沢映画に参加し、黒澤組を離れた後も、『[[真昼の暗黒]]』『[[ゼロの焦点]]』『[[切腹]]』『[[日本のいちばん長い日]]』『[[白い巨塔]]』など数々の大作を手掛けて、緊密で論理的な構成力の脚本で定評のある一流脚本家であった<ref name="sengo1"/><ref name="ayumi"/><ref name="kasuga2"/>。

=== 三島への出演依頼 ===
『人斬り』では[[三島由紀夫]]の[[田中新兵衛]]役が大きな目玉となったが、三島がこの映画に出演することになったきっかけとしては、三島の自主製作映画『[[憂国]]』(1966年4月封切)を観ていた五社英雄が思いつき、橋本忍も賛同した経緯があり、五社が直接、三島邸を訪問して正式依頼した<ref name="gosha">五社英雄「演出家の眼」(浪曼 1972年12月号)。{{Harvnb|年表|1990|p=197}}、{{Harvnb|山内・左|2012|pp=305,308-311,317-318}}、{{Harvnb|岡山|2014|pp=130-132}}</ref><ref name="sengo2"/>。
{{Quotation|[[岡田以蔵]]は[[勝新太郎]]ときまったが、[[田中新兵衛]]の役を誰にするか、が問題になった。勝新太郎と互角に渡り合えて、なおかつ田中新兵衛は大変口数が少ない男で、躰全体から殺気がほとばしっていなくてはいけない。さんざん探したあげく、三島由紀夫さんに白羽の矢をあてた。脚色の橋本忍さんにそのことをいうと「これは全く名キャストだ」と喜んでくれた。|五社英雄「演出家の眼」<ref name="gosha"/>}}

しかし最初に三島の側に話を持って行ったのは勝プロ製作第1作目に力を入れていた勝新太郎であった<ref name="kakomi"/>。勝は、[[大映]]の企画部長の[[藤井浩明]]のところにやって来て、「ちょっと頼みがあるんだけどさ、三島さんに出て貰えない?」と『人斬り』の田中新兵衛を三島さんにやってほしいと切り出した<ref name="kakomi"/>。藤井は三島が『[[からっ風野郎]]』で主役を演じて以来、『憂国』の映画製作にも携わり、三島の[[マネージャー]]的な存在になっていた<ref name="kakomi"/>。

勝から依頼された瞬間、藤井は三島が絶対一発で引き受けると確信していたが、「勝さん、それはわかんないよ」と勿体つけ、勝がさらに頼み込むのを待ってから、「じゃあ話してくるからね」と応じた<ref name="kakomi"/>。そしてその依頼の件を三島に話すと、案の定三島は間髪入れず、「俺やるよ」「この田中新兵衛なら絶対やる!」と即答であった<ref name="kakomi"/>。

五社監督が正式依頼に三島邸を訪問した際にも、三島は嬉しさを隠しきれない様子であった<ref name="gosha"/><ref name="sengo2"/><ref name="kasuga2"/>。そんな三島の様子は、「すぐにでも引受けたいような、まるでガキ大将に[[近藤勇]]の役を持っていったような」風で、「とても正直な、子供のように無邪気な感じ」だったと五社監督は振り返っている<ref name="gonai">五社英雄([[内外タイムス]] 1971年11月26日・27日号)。{{Harvnb|春日|2016|pp=120-124}}</ref><ref name="kasuga2"/>。

三島は「私は時代劇てものはやったことがないけど[[鬘]]はのるかね?」とニコニコしながら、すでに気持は決まっていたにもかかわらず、それでも一応勿体つけた様子で、「ともかく明日中に返事をします」と五社を見送った<ref name="gosha"/><ref name="sengo2"/>。しかし三島は我慢できずその日の晩すぐに五社に電話を入れ、「ぜひ出させてくれ」と引き受けた<ref name="gosha"/><ref name="sengo2"/>。
{{Quotation|何ゆゑ私に、幕末の刺客、薩摩侍の田中新兵衛の役が振られたか、多分、下手な[[剣道]]をやつてゐて[[侍|サムラヒ]]・イメージを売り込んでゐたり、[[テロリズム]]を礼賛してゐるやうに世間から思はれてゐたり、また私を使へばその分の宣伝費はタダですむと計算されてゐたり、いろいろの理由があるだらうが、「もの」を選ぶといふのは、最終的には総合的判断である。総合的判断とは、非合理的なものである。さういふ風にして、私の知らないところで、さういふ相談が進んでゐた、といふことが……そして私の「知的な部分」なんかは全然考慮の外に置かれたといふことが、私をうれしがらせたことは相当なものだつた。それはともかく、橋本忍氏のすぐれたシナリオの中でも、ろくに性格描写もされておらず、ただやたらに人を斬つた末、エヽ面倒くさいとばかりに突然の謎の[[自決]]を遂げる、この[[船頭]]上りの単細胞のテロリストは私の気に入つた。|三島由紀夫「『人斬り』田中新兵衛にふんして」<ref name="funshi">「“殺意”の無上の興奮――映画『人斬り』田中新兵衛にふんして」([[読売新聞]]夕刊 1969年7月1日号)。『人斬り』田中新兵衛にふんして」として『[[蘭陵王 (小説)|蘭陵王]]』([[新潮社]]、1971年5月)、{{Harvnb|映画論|1999|pp=300-306}}、{{Harvnb|35巻|2003|pp=508-510}}に所収</ref>}}

当時三島は、[[楯の会]]を率いての[[自衛隊]]体験入隊や、[[剣道]]・[[空手]]・[[居合]]を稽古し自らの思想や美学を実践している有言実行ぶりが若者の間で人気となり、スーパー・アイドル的な存在であった<ref name="shii1">「第一章 “キムタク”なみのアイドルだった」({{Harvnb|椎根|2012|pp=9-43}})</ref><ref name="yama"/><ref name="sengo2"/>。作家活動だけでないそうした数々の行動ぶりが、どこか幕末の[[志士]]とも共通する危険な雰囲気を孕んでいた<ref name="gonai"/><ref name="kasuga2"/>。

三島が様々なエッセイ・評論を投稿していた雑誌『[[平凡パンチ]]』では、読者の人気投票で[[三船敏郎]]を720票差でおさえて19,590得票し「ミスターダンディ」の第1位に輝いていた<ref>「三島由紀夫はパンチ世代のアイドルである」([[平凡パンチ]] 1967年5月8日号)。{{Harvnb|椎根|2012|pp=27-29}}</ref><ref name="shii1"/>。次に読者投票が行われた「ミスター・インターナショナル」では、第1位の[[フランス]]の[[シャルル・ド・ゴール|ド・ゴール大統領]]に次いで、三島は第2位に選ばれた<ref>「ミスター・インターナショナル」(平凡パンチ 1968年8月26日号)。{{Harvnb|椎根|2012|pp=30-33}}</ref><ref name="yama"/><ref name="shii1"/>{{refnest|group="注釈"|「ミスターダンディ」の1位は三島由紀夫、2位は[[三船敏郎]]、3位は[[伊丹十三]]、4位は[[石原慎太郎]]、5位は[[加山雄三]]、6位は[[石原裕次郎]]、7位は[[西郷輝彦]]、8位は[[長嶋茂雄]]、9位は[[松本幸四郎 (9代目)|市川染五郎]]、10位は[[北大路欣也]]であった<ref name="yama"/><ref name="shii1"/>。「ミスター・インターナショナル」の1位は[[シャルル・ド・ゴール|ド・ゴール大統領]]、2位は三島由紀夫、3位は[[ホー・チ・ミン|ホーチ・ミン]]、4位は[[松下幸之助]]、5位は[[クリスチャン・バーナード|バーナード博士]](心臓外科医)、6位は[[ジョン・レノン]]、7位は石原慎太郎、8位は[[毛沢東]]、9位は[[ストークリー・カーマイケル]]、10位は[[フィデル・カストロ]]であった<ref name="shii1"/>。なお、投票期間中は[[ロバート・ケネディ]]が1位であったが、1968年(昭和43年)6月5日に暗殺されたために名簿から省かれた<ref name="shii1"/>。}}。当時雑誌などの日本の[[マスコミ]]から「スーパースター」と最初に書かれた有名人が三島だった<ref name="shii3">「第三章 スーパースター第一号誕生!」({{Harvnb|椎根|2012|pp=145-176}})</ref>。

準主役の配役も決まり、1969年(昭和44年)4月25日に映画製作の記者会見が開かれた。五社英雄監督らと共に勝新太郎と三島由紀夫が列席し、衣裳合わせも兼ねて三島は髷姿のサムライの風体で臨んだ<ref name="yama"/>。[[プロデューサー]]の[[法亢堯次]]は三島を配役した理由を、「勝、仲代、石原はいずれも個性の強い役者、これに対抗できる人をと考えた末に思い切って三島氏に頼んだ」と語った<ref>「[[法亢堯次]]談話」(東京新聞 1969年4月26日号)。{{Harvnb|山内・左|2012|p=299}}</ref><ref name="yama"/>。

三島が時代劇に映画出演するということが大いに注目され、各[[スポーツ新聞]]は三島の写真も入れ、[[週刊誌]]も[[グラビア印刷|グラビア]]でそれを大きく報じた<ref>「“サムライ”誕生・殺し屋を演ずる三島由紀夫」([[週刊大衆]] 1969年5月15日号)。{{Harvnb|山内・左|2012|p=299}}</ref><ref>「『人斬り』に三島由紀夫氏、薩摩の刺客 田中新兵衛、北辰一刀流の腕生かす」([[報知新聞]] 1969年4月26日号)。{{Harvnb|山内・左|2012|p=299}}</ref><ref name="yama"/>。
{{Quotation|時代劇殊に幕末物は好きだが、自分がまさか時代劇に出演することにならうとは、想像もしてゐなかつた。(そんな利口なプロデューサーはゐるまい、とタカをくくつてゐたのが本音である) はじめてカツラをつけ、大小を腰にさしても、剣道や居合の道場の延長で、少しも違和感を感じなかつた。第一、私自身、人から見れば[[漫画]]だらうが、幕末の[[勤皇]]の志士の心境で、毎日を送つてゐるのだから、その生活感情がそのまま画面に出ればいいのだと思つた。|三島由紀夫「『人斬り』出演の記」<ref name="shutsu">「『人斬り』出演の記」([[大映グラフ]] 1969年8月号)。{{Harvnb|映画論|1999|pp=318-319}}、{{Harvnb|35巻|2003|pp=518-519}}に所収</ref>}}

五段を持っていた三島の剣道は[[警視庁]]剣道の[[北辰一刀流]]で、1965年(昭和40年)からは[[真剣]]で居合も習い、1966年(昭和41年)3月からは皇居内の[[済寧館]]道場に通っていた<ref name="gai24"/>。会見で三島は薩摩侍の役作りのため、新たに[[鹿児島]]の[[示現流]]を学ぶ意気込みを見せた<ref>「三島談話」([[スポーツニッポン]] 1969年4月26日号)。{{Harvnb|山内・左|2012|p=299}}</ref><ref name="yama"/><ref name="gai24"/>。

この1969年(昭和44年)の夏は、三島原作の戯曲『[[わが友ヒットラー]]』、『[[サド侯爵夫人]]』などの再演や『[[癩王のテラス]]』の話題と共に、この映画『人斬り』出演のことで[[演劇]]界はちょっとした「三島ブーム」となり、マスコミの芸能欄を賑わしていた<ref name="sato15"/>。

役作りのために三島が五社監督に、「テロリストの芝居は何ですか」「一番気をつけることは何ですか」と尋ねると、「テロリストとしたら一種の[[狂気]]じみたあなたの目だ、目の[[エネルギー]]だ、どう見てもあなたの顔の[[骨相学|骨相]]は[[犯罪者]]だ」と答えた<ref name="gonai"/><ref name="kasuga2"/>。三島はそれを聞くと高笑いし、「違う社会の人と付き合うと、思わぬことを言われますね」と、五社監督に信頼を置くようになった<ref name="gonai"/><ref name="kasuga2"/>。

== 撮影現場 ==
=== 五社と大映スタッフ ===
『人斬り』の撮影は[[大映京都撮影所]]で5月16日にクランクインした<ref name="yama"/>。五社英雄監督が初めて撮影所に来て、最初に入ったセットは第五ステージだった<ref name="suzu">[[鈴木晰成]]「大映どんでんがえ史」({{Harvnb|室岡|1993|pp=375-399}})</ref>。時代劇映画の保守本流ともいえる大映には芸術的感性を持つ一流のスタッフ陣が揃っていた<ref name="ayumi"/><ref name="kasuga2"/>。

大映京都撮影所で撮影された作品には、『[[羅生門 (1950年の映画)|羅生門]]』『[[源氏物語 (1951年の映画)|源氏物語]]』『[[雨月物語 (映画)|雨月物語]]』『[[山椒大夫]]』『[[地獄門]]』など海外からも高評価された数々の名作があり、『[[座頭市]]』シリーズ、『[[眠狂四郎]]』シリーズなどの人気時代劇も生み出され、[[美術 (職業)|美術]]の[[西岡善信]]、[[カメラマン|カメラ]]の[[森田富士郎]]など、この大映で技術を磨いてきた若手・中堅技術者が、[[テレビ局|テレビ]]出身の五社英雄と初めて対面した<ref name="nishi">[[山口猛]]編『映画美術とは何か――美術監督・西岡善信と巨匠たちとの仕事』([[平凡社]]、2000年2月)。{{Harvnb|山内・左|2012|p=309}}、{{Harvnb|時代劇|2015|p=167}}</ref><ref name="ayumi"/><ref name="kasuga2"/>。

その初日に、[[吉田東洋]]扮する[[辰巳柳太郎]]が土砂降りの雨の中、襲撃される壮絶なシーンが撮影された<ref name="suzu"/><ref name="enta"/>。刺客達との死闘の中、血泥まみれになりながらも、刀を構え直す東洋の戦いぶりと断末魔のシーンは、五社と大映スタッフとの初めての仕事であった<ref name="suzu"/><ref name="nishi"/><ref name="enta"/><ref name="kasuga2"/>。

それまでの大映映画の時代劇では、様式美を重んじた[[殺陣]]が主であったが、テレビ出身の五社の演出はリアルな殺人シーンが信条であった<ref name="nishi"/><ref name="enta"/><ref name="yama"/>。大映スタッフたちは初めて見た五社の刺激的で迫力のある演出に圧倒され一目置くようになった<ref name="suzu"/><ref name="nishi"/><ref name="enta"/><ref name="kasuga2"/>。一方、五社の方もテレビとは違う大映の美術の素晴らしさに感嘆した<ref name="suzu"/><ref name="nishi"/><ref name="enta"/>。

五社はテレビの『[[三匹の侍]]』で時代劇に新しい風を吹き込み、俳優の剣さばきに独自の才気を見せていたが、大映の大セットや美術のレベルの高さと相まって、よりダイナミックな演出ができるようになった<ref name="nishi"/><ref name="enta"/><ref name="yama"/><ref name="ayumi"/>。
{{Quotation|具体的には[[ロケハン]]から始めたのですが、ポイントを押えているし、実際の撮影に入り、俳優に芝居をさせる段になると、殺陣は抜群に上手い。大映時代劇の代表的な監督である[[三隅研次|三隅監督]]の殺陣は、様式美を重視しましたが、五社監督は正反対です。例えば、[[提灯]]越しにグサッと刺すとか、リアルな殺陣を重んじて、これまでの大映にはないものでした。|[[西岡善信]]「映画美術とは何か」<ref name="nishi"/>}}

こうした大映スタッフと五社監督とのマッチングにより、クオリティー高くスケールの大きな映像が撮影可能となった<ref name="ayumi"/>。かつて五社は映画監督を目指して映画会社各社の入社試験を受けたが全部不合格となり、どうしても諦めきれず大映社長の[[永田雅一]]の自宅まで日参し請い続けたが採用されなかったこともあった<ref name="kasuga1">「第一章 情念」({{Harvnb|春日|2016|pp=11-34}})</ref>。

五社は『人斬り』で大映京都撮影所入りした時、大映所属の各監督らに挨拶をして回っていたが、その際ほとんどの監督が「お前にちゃんと撮れるのか」といった尊大な態度であった<ref name="kasuga3">「第三章 転落」({{Harvnb|春日|2016|pp=129-160}})</ref>。その時にきちんと挨拶して接してくれたのが、[[田中徳三]]と[[三隅研次]]の2人だった<ref name="kasuga3"/>。

田中徳三は、「頑張って撮影しいや。なんかあったら言うてください」と明るく応対し、次の三隅も、「おっさん、監督はな、どない言われてもかまへんけどな、出来上がったもんが勝負やからな、ええのん撮らんとあかんで」と助言した<ref name="kasuga3"/>。五社はこの2人の言葉によって初日のセットに入りの気分が楽になり、思うように撮影に臨むことが出来た<ref name="kasuga3"/>。

=== 吉田東洋暗殺 ===
初日の大映スタッフたちを虜にした五社監督の演出の本領が見られるのは、物語の導入部の[[吉田東洋]]の暗殺シーンであるが、この凄惨な殺しの現場を目にした以蔵が「人斬り」の本能に目覚める最も重要な場面の一つとなっている<ref name="kasuga2"/><ref name="enta2"/>。

[[土佐藩]][[家老|執政]]・吉田東洋に扮するのは[[辰巳柳太郎]]で、従者と共に土砂降りの夜道を歩いているところを突然と現れた刺客([[土佐勤皇党]]の3人)に襲われるという長丁場の死闘は、先ず不意打ちにあった従者が血しぶきをあげて斬り殺されるところから始まる<ref name="kasuga2"/>。

暗闇の中、3人の刺客に取り囲まれた吉田東洋は、絶叫してかかって来る彼らの刀を払いのけ、水溜りの泥まみれにのたうち回り体ごと斬りかかる3人の刀に応戦していくが、やがて2人がかりの刀が力づくで東洋の首に押し当てられ、ギリギリと食い込んで押し斬られていく残酷な場面となり、それでも東洋は必死でそれを脱して、血まみれで刀を構え直すが、やがて息絶えていくという壮絶な演出となっている<ref name="enta"/><ref name="kasuga2"/>。

こうした最後まで生きようともがく吉田東洋を演出し、リアルな死闘を描く五社監督は、「痛みの伝わる殺陣」を目指し、斬る側や斬られる側の苦悶が観客にも伝わるような迫力のあるアクションが信条であった<ref name="go1976">五社英雄([[週刊サンケイ]] 1976年11月8日・臨時増刊号)。{{Harvnb|春日|2016|pp=117-118}}</ref><ref name="kasuga2"/>。
{{Quotation|受けた刀の上からゴリゴリと押し切ってしまう殺陣は、この作品ではじめてこころみた。「人斬り」は衝撃的な迫力を殺陣に盛りこむだけでなく、[[テロリズム]]の狂気を殺陣の上に具現したつもりだ。殺陣は[[型]]である。これまで正義であるとか、憎悪、怨念であるとか、対決であるとかが、立ち回りの上に表されてきた。しかし「人斬り」は型を無視した。(中略)実践的な壮絶さを狙った。人と人とが殺し合うときに、流儀とか剣法とかなんてないと思いますよ。野獣のように、それこそ相手ののど笛にくらいついても、勝つという動物的本能だけだと思う。そのすさまじさを出したかった。|五社英雄「[[週刊サンケイ]]記事」<ref name="go1976"/>}}

=== 田中新兵衛の登場 ===
6月5日には、[[田中新兵衛]]扮する[[三島由紀夫]]が飲み屋「おたきの店」に初めて登場し、「変節漢」として斬るつもりでいる[[坂本龍馬]]扮する[[石原裕次郎]]と鉢合わせして自己紹介の台詞を言った後、[[岡田以蔵]]の[[勝新太郎]]と対座するシーンの撮影が行われた<ref name="yama"/><ref name="kaidai"/>。以蔵と新兵衛という2人の「人斬り」が対話するこのシーンは三島にとって初日の撮影であった<ref name="yama"/><ref name="kaidai"/><ref name="kasuga2"/>。

店の出入り口で以蔵と出くわした新兵衛が、「お出かけ?」と声を掛ける台詞には、「お前らはこれから人を斬りに行くのかい? 俺はもう斬ってきたぞ」というような人斬りとしての[[ライバル]]心が言下に秘められた台詞であった<ref name="gonai"/><ref name="kasuga2"/>。しかし、素人役者の三島は硬直し、その台詞を五社監督の意図したように上手く言えずNGが何度も出た<ref name="gonai"/><ref name="kasuga2"/><ref name="ykei">[[山本圭]]「左翼青年役の研究をしていたわけではないですよ」({{Harvnb|ムック|2014|pp=86-88}})</ref>。
{{Quotation|立廻りの撮影が一番たのしみで、本当はここから入りたかつたのに、スケジュールの都合で、「おたきの店」のセリフ場面からなので、内心これは困つたことだと思つた。撮影に馴れないで、いきなり登場場面のセリフから入るといふことは、役者として大きな負担である。|三島由紀夫「『人斬り』出演の記」<ref name="shutsu"/>}}

五社監督は、三島が[[侍]]の衣裳をつけているから力が入って硬くなるのだと考え、一度普段着になってもらってほぐれた状態でテストをすると案の定上手くいった<ref name="gonai"/><ref name="kasuga2"/>。そこで改めて衣裳に着替えてもらってから、同じように撮影すると、三島の台詞が上手くいきOKとなった<ref name="gonai"/><ref name="kasuga2"/>。

三島が茶碗で冷酒をぐいと飲むシーンでは、事前の稽古で勝新太郎が三島に、「同じペースで飲むのでなく、ぐっと飲んだり、ちびりと飲んだり、調子を変えると、セリフも出いいですよ」と、飲み方を手にとって教え、三島も「うん、うん」とうなずいていた<ref name="kaidai"/>。

しかし「よーい、スタート」という本番の合図がいざかかると、三島は緊張して徳利を持つ手がプルっと震えてしまったためにNGが出てしまった<ref name="katsu">[[勝新太郎]]「風景に負けなかった座頭市と狂四郎」({{Harvnb|室岡|1993|pp=215-246}})</ref><ref name="kaidai"/>。すると勝は五社監督に、「もういっぺん撮るのは勝手だけど、いまのやつ、オーケーにしとけ、たった今、人斬ってきたばかりの奴が、そんな平然としてられるか」と言った<ref name="katsu"/>。

勝は、三島の緊張しながらの演技に、プロの役者ではどうしても出せないリアリティーがあったと感じ、「自分が人斬り新兵衛だと思ったら、もう人斬り新兵衛なんだ。監督がとやかくいったら、冗談じゃない、オレは人斬り新兵衛だといってやれ」と三島を励ました<ref name="katsu"/>。また勝は、「三島さんは想像力がたくましいからグーッと力が入っていくが、本番では“水割り”演技でいいんですよ」と助言もした<ref name="hochi">(報知新聞 1969年6月6日号)。{{Harvnb|山内・左|2012|pp=306-307}}</ref><ref name="yama"/>

勝の助言もあって、三島は台詞の多い初登場シーンを石原裕次郎と互角に演じきり、殺気のある存在感を見せた<ref name="yama"/>。OKが出た後も三島はもう一度撮り直しを希望し上手くいった。それでも三島自身は何度も首をかしげ納得がいかない様子であったが、無事に初日の撮影を終え、「勝新太郎が、こんなに親切な男とは思いもしなかったよ」と取材陣のインタビューに答えた<ref name="kaidai"/>。

=== 勝の全力疾走 ===
『人斬り』の中盤に、「人斬り以蔵」という名声に増長する以蔵の暗殺の無智ぶりを疎んだ武市が、[[近江国]][[石部宿]]で襲撃計画している大[[天誅]]から以蔵を外して、[[土佐藩|土佐]]・[[薩摩藩|薩摩]]・[[長州藩|長州]]の三藩合同の志士の刺客団が石部宿に向けて出発する場面があるが、そのことを知った素っ裸の以蔵が慌てふためき、[[褌]]を締めるやいなや半裸のままでまっしぐらに駆けだしていくシーンは大きな見せ所となっている<ref name="kasuga2"/>。

[[京都]]の町から野山を越えて石部宿までの九[[里]]十三[[町 (単位)|丁]]を以蔵がひたすら駆けるシーンは数分ほど続くが、武市の飼犬である以蔵の悲哀を醸し出すため、五社監督は勝に、「ここはハアハアいいながら、悲しくかけ出してくれ」と要望を出した<ref name="itogo"/><ref name="kasuga2"/>。
{{Quotation|以蔵は非常に[[動物]]的な人間で、どこかにやはり「おれはこんなに一所懸命かけ出しながら、いつか捨てられる。いつか、そうなるんだ」ということを感じているんじゃないか、という気がする。だけど、いまはとにかくかけ出している、というやりきれなさ、それが爆発したときに、パチンと人をぶった切る。そういうものをぼくは、あの人に塗り込めたかったわけです。|五社英雄([[長部日出雄]]との対談)「映画は誰のためになぜ作られるのか」<ref name="itogo"/>}}

撮影は[[貨物自動車|トラック]]にカメラを乗せて、走る勝のすぐ後ろを追っていくという[[角度|アングル]]で、観客と以蔵の目線を重ね臨場感を出すというものであった<ref name="itogo"/><ref name="ushio">勝新太郎「武士道とは生きることと見たり」([[潮出版社|潮]] 1969年10月号)pp. 306-319。{{Harvnb|春日|2016|p=115}}</ref><ref name="kasuga2"/>。この全力疾走の撮影日の前夜、勝は深酒をし[[二日酔い]]状態で歩くのさえも難儀であった<ref name="ushio"/><ref name="kasuga2"/>。しかし五社監督は容赦せず、勝は途中で休憩も入れられないまま必死に走り抜けた<ref name="ushio"/><ref name="kasuga2"/>。もしも勝がつまずき転んでしまったら大惨事にもなりかねない撮影であった<ref name="ushio"/><ref name="kasuga2"/>。
{{Quotation|途中でやすんでいいっていうんだけど、[[カット]]がかからない、とにかく走ってなくちゃならない、どこまで走りゃいいんだ……(笑い)。歩くのもだめなのに(撮影のトラックが後ろから走ってくるので)走らなけりゃひかれちゃうんだから。|[[勝新太郎]]「武士道とは生きることと見たり」<ref name="ushio"/>}}

=== 石部宿の殺陣 ===
岡田以蔵扮する勝新太郎の全力疾走の後の大きな見せどころとなる[[石部宿]]での襲撃場面での殺陣の立ち回りの撮影は6月15日に行われた<ref name="yama"/>。この[[近江国]]の暗殺事件は、[[安政の大獄]]で斃れた志士に報いるために、土佐・薩摩・長州の三藩連合25名で結成された刺客団による[[天誅]]である<ref name="yama"/><ref name="sengo1"/>。彼らが狙ったのは、「御用召」の名目で[[江戸]]に引き上げようとした[[京都町奉行|京都東町・西町奉行所]]の[[与力]]4名であった<ref name="yama"/><ref name="sengo1"/>。

[[武市半平太]]はこの刺客団から以蔵を外すが、彼らの出発を知った以蔵が京都から石部宿までの九里十三丁を走り抜け、決闘の最中に間に合って「土佐の岡田以蔵だ」と怒鳴りながら斬り込んでゆくという映画ならではの豪快な演出であった<ref name="sengo1"/>。この三藩連合には、薩摩侍・田中新兵衛も参加し、鮮やかな剣さばきを見せる場面である<ref name="yama"/><ref name="sengo1"/>。

この殺陣の立ち回りの撮影のため、田中新兵衛の役の三島由紀夫は、[[鹿児島]]の第11代[[宗家]][[師範]]・[[東郷重政]]と弟子の[[浜田一郎]]を東京に招き入れ、5月16日に[[調布市]]の[[角川大映スタジオ|大映東京撮影所]]で薩摩[[示現流]]の稽古をつけてもらっていた<ref>「現代を斬るか三島“新兵衛”」「異色作家、示現流の特訓」([[夕刊フジ]] 1969年5月17日号)。{{Harvnb|山内・左|2012|pp=302-304}}</ref><ref name="sato15"/><ref name="yama"/>。ケンカ剣法のような攻めの剣術である示現流の基本技を覚えた三島は、[[五行の構え|逆八双]]の構えから瞬時の2人斬りを披露した<ref name="gai24"/><ref name="sengo1"/>。

三島の[[居合]]斬りは、大映プロデューサーの[[藤井浩明]]や勝新太郎も驚くほどの上達ぶりであった<ref name="fujii">藤井浩明([[中村伸郎]]・[[松浦竹夫]]・[[若尾文子]]・[[葛井欣二郎]]・[[丸山明宏]]との座談会)「あの人はもういない」([[週刊現代]] 1970年12月12日・増刊 三島由紀夫緊急特集号)。{{Harvnb|岡山|2014|p=127}}</ref><ref name="gai24"/>。真剣を素早く抜いて、また収める早業を披露した三島の上手さに勝は舌を巻いた<ref name="fujii"/><ref name="kawas7">「『からっ風野郎』」({{Harvnb|川島|1996|pp=149-170}})</ref>。
{{Quotation|居合がうまかったですね。「人斬り」の時、京都に行きましてね、[[真剣]]でやるんですよ。パッと抜いてサッと鞘に入れるんですが、うまいですね。勝新太郎と二人で見ていて驚いてしまった。勝君なんか、とてもできないでしょうけど、あの[[座頭市]]でもね。|藤井浩明「あの人はもういない」<ref name="fujii"/>}}

こうして撮影前にセットの片隅などで真剣で居合の練習をしていた三島が、「真剣を使いたい」と言ったため、斬られ役の役者たちは驚き、「ええーっ!」とどよめきの声をあげた<ref name="ykei"/>。五社監督は、「わかりました」と言い、三島が1人で構えている時だけ真剣を使うことを了承して、絡みの時はさすがに避けたという<ref name="ykei"/>。

この石部宿の殺陣シーンの撮影には、三島は[[平岡瑤子|瑤子夫人]]や親しい友人たちを京都撮影所に呼んで見学させていた<ref name="gosha"/><ref name="sato15"/><ref name="sengo2"/><ref name="gai24"/>。三島はこのシーンが気に入って何度もリハーサルをやりたがり<ref name="gonai"/><ref name="kasuga2"/>、本番でも五社監督がOKを出しても、三島は「頼むからもう一度やらせてくれ」と希望し、「OKだからいいですよ」と五社が答えても強く頼み、「これが誰々だ、これが奴だと思いながら斬ってると、実に爽快だよ」と言っていた<ref name="gosha"/><ref name="gai24"/>。

斬られ役の殺陣役者たちは、プロの俳優とは違う三島の身体から発せられる本物の殺気を感じ取り怖がっていたという<ref name="gai24"/>。実際に三島と絡んだ殺陣師たちは[[籠手|腹ごて]]をしていたにもかかわらず怪我をした<ref name="gonai"/><ref name="kasuga2"/>。五社監督は後年、「三島さんはあのとき、もっていた鬱々とした怒りを発散させていたのではないか」と述懐している<ref name="gosha"/><ref name="sengo2"/>。
{{Quotation|驚いたのは、カラミがみんなケガをしたということだ。腹ごてを当てて、刀が当たっても痛くないようにしているから素人の人などがいくら当たっても、[[太刀]]先が流れてしまって、カラミがケガをするということはまずないはずなんだ。ところが、三島さんの殺陣に迫力があって、斬り込みの切先が鋭かったし、三島さんの剣道の腕は何段だったか知らないが、[[竹光]]ながらカラミにケガをさせたというのは、非常に実践的な太刀さばきだったと思っている。撮影が終わってから、そのことを話題にしたら、ニヤニヤして、得意然と「オレの剣法は殺人剣である」といっていた。|五社英雄「[[内外タイムス]]記事」<ref name="gonai"/>}}

この立ち回り場面で人が斬られて血しぶきをあげるリアルな殺陣には、血のりがふんだんに使用された<ref name="shutsu"/><ref name="shii5">「第五章 “ひどいから、いい”感覚」({{Harvnb|椎根|2012|pp=170-197}})</ref>。[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])前の時代劇では、血のりは顔に塗りつける程度しか使用されず、戦後の[[東映]]時代劇での[[萬屋錦之介|中村錦之助]]と[[東千代之介]]の立ち回りでも血しぶきはなかった<ref name="shii5"/>。

戦後は[[GHQ]]による日本の[[封建主義]]復活を封じ込める政策により、血のりが使用される[[歌舞伎]]や映画の上演・上映は禁止されていた<ref name="shii5"/>。これは太平洋戦争中にあまりに大量の日本人の本物の[[血]]を見せられすぎた[[アメリカ人]]の忌避感情も一因にあったとされる<ref name="shii5"/>。

そしてその[[禁忌]]も解かれ、最初に血吹雪のシーンが映画の中に取り入れられたのが[[黒澤明]]の『[[椿三十郎]]』(1962年)であった<ref name="shii5"/>。GHQにより抑圧されていた[[チャンバラ]]での血のりの[[エンターテイメント]]が炸裂し、テレビなどでも血吹雪が多くなった<ref name="shii5"/>。三島も[[切腹]]劇や殺陣シーンの大量の血に日本文化の精髄を見出していた<ref name="shii5"/><ref>「残酷美について」([[映画芸術]] 1963年8月号)。{{Harvnb|32巻|2003|pp=572-576}}に所収</ref>。
{{Quotation|何といつても五社監督の本領は立ち回りで、立ち回りのシーンの撮影になると、もう監督の目の色がちがふ。現場全体の空気が躍動してきて、スタッフの目も血走り、役者はもとより張り切つて、無上の興奮から全員子供に返り、血みどろの[[運動会]]がはじまる[[校庭]]のやうになつてしまふ。私も大よろこびで十数人を斬りまくつたが、大映京都撮影所が一年間で使ふ分量の血ノリを、その日一日で使つてしまつたさうだ。[[フィクション]]とはいひながら、殺意が、そこにゐる人すべてを有頂天にするといふのは、思へばおかしな人間的真実である。|三島由紀夫「『人斬り』田中新兵衛にふんして」<ref name="shutsu"/>}}

この殺陣の撮影を取材したスポーツ新聞の記者は、「いや、スタイルもスタイルだが、三島氏の気迫がまたすごい。サッと振り向いたときの、キラッと光る[[目玉]]、相手にのしかかるような肉体。すばやい動作。どうして、アマチュア・タレントとはとても見えない」とレポートした<ref name="sankei">「血も凍る“残酷殺陣”プロとアマの競演」([[サンケイスポーツ]] 1969年6月16日号)。{{Harvnb|山内・左|2012|pp=309-310}}</ref><ref name="yama"/>。

撮影を見学していた瑤子夫人は、「こんなに残酷なシーンこどもたちに見せるの、ちょっと考えちゃいますね。でも三島の目の輝き、刀を持った時の身のこなし、初めて見たものですからその激しさに圧倒されてしまいました」とコメントし<ref name="sankei"/><ref name="yama"/>、五社監督も、「あの大きな目のすさまじい輝きを見ましたか、あれはまさに人を斬る時の目ですよ」と驚いていた<ref name="sankei"/><ref name="yama"/>。

一緒に立ち回りシーンを演じた勝新太郎は三島の殺陣について、「日ごろの体力づくりで得たエネルギーを、この仕事でブワーッと発散させている感じだ。だから真剣味があって、すごくおっかなく見えるよ。本職は小説家のくせに、腕の太さはものすごいし、演技のカンは[[玄人|クロウト]]なみだな」と絶賛した<ref name="sankei"/><ref name="yama"/>。

三島本人は、殺陣のプロ集団の中に自分のような素人が入って失敗したら恥ずかしいので、真剣になって演じたとして、「本番一回でOKを出し、監督にホメられたいというヘンなミエもあるんだね」と取材に答えた<ref name="sankei"/><ref name="yama"/>。この日の三島の迫力ある演技の撮影写真は、『週刊現代』7月3日号のグラビア4頁で紹介された<ref name="san73">「三島由紀夫氏、暗殺者を演ず」(週刊現代 1969年7月3日号)。{{Harvnb|山内・左|2012|p=299,310}}</ref><ref name="yama"/>。
{{Quotation|いよいよ待望の石部宿の大立廻りの撮影に入ると、その丸二日間は、大袈裟に云ふと、「夢のやうに」すぎた。それほど面白かつたのである。(中略)東京へかへつてからも、小説の仕事が大いに捗つた。[[カミーユ・サン=サーンス|サン=サーンス]]は、[[作曲家]]としてよりも[[薔薇]]作りとして有名だつたさうだが、私も[[小説家]]としてより、人斬りとして有名になりたいものだと思つてゐる。|三島由紀夫「『人斬り』出演の記」<ref name="shutsu"/>}}

=== 三島の切腹 ===
『人斬り』のもう一つの目玉となる田中新兵衛の切腹シーンの撮影は6月30日に行われた<ref name="yama"/>。新兵衛が[[姉小路公知]]殺しの嫌疑をかけられ、[[京都町奉行]]で切腹する場面を演じる三島由紀夫は映画撮影前、自分の出番の撮影スケジュールの最終日にしてほしいと五社監督に依頼していた<ref name="gonai"/><ref name="kasuga2"/>。

そして三島は、「私は素人ですからいわれるとおりにしますので何でもいいつけてください。ただ切腹の場面だけは私に任せてくれませんか」と言っていた<ref name="gosha"/><ref name="yama"/><ref name="sengo2"/>。五社監督は、三島が自主製作映画『[[憂国]]』で非常にリアルな切腹を撮っていたので、このシーンの演技はすべて三島に一任することにした<ref name="gonai"/><ref name="kasuga2"/>。

そして撮影日となり、リハーサル前に三島が[[ボディビル]]で鍛えた腹筋を動かすのを見たスタッフが、「三島さん、もういっぺんやって!」と声をかけると、三島は喜んで何度も動かして見せていたという<ref name="kakomi"/>。そんなリラックスした雰囲気の中で三島は切腹場面に臨み<ref name="kakomi"/>、フィルムを回す前のリハーサルの時から何度も本気で熱演して身体をまっ赤にしていた<ref name="gosha"/><ref name="yama"/><ref name="sengo2"/>。

五社監督が、リハーサルだからそんなに今から力を入れなくていい、気を抜いてくれと言っても、三島は役に入り込んでいて通じなかった<ref name="gosha"/><ref name="yama"/><ref name="sengo2"/>。五社は「一種の鬼気」を感じ、[[ジュラルミン]]の刀を[[竹光]]に替えたが、三島はその竹光で腹に横線が付くほど押しつけ、「ムキになってやらなければ出来ないんだ」と言った<ref>{{Harvnb|川島|1996|pp=159-160}}</ref><ref name="kawas7"/>。そして最後のリハーサルでは、自分の腹まで竹光で少し切って血を出してしまった<ref name="gosha"/><ref name="yama"/><ref name="sengo2"/>。
{{Quotation|私は驚いて、「三島さん、竹光で怪我されちゃ困る。これは映画なんだから、迫力で躰で出してもらって腹を刺すのは芝居でやってくださいよ。盗むところは自分で力を盗んで……」というと、「わかった、わかった、こんな傷なんでもないよ」。こんなやりとりで本番に入った。本番ではあらかじめ腹に管が通してあって、竹光で刺すと血糊が出る仕掛けになっている。ところが三島さんは思い切りやった。躰中をまっ赤にして、グッと竹光を腹に回した。みるみる腹の皮が破れていく。見ている我我は慄然というか、鬼気せまる迫力にシーンとなってしまった。|五社英雄「演出家の眼」<ref name="gosha"/>}}

切腹場面を撮り終えた五社監督が[[救急箱]]を持って、「三島さん、この迫力はどんな役者がやってもできない」と三島の腹を治療しながら言った時、三島はまだ興奮冷めやらぬ面持ちであった<ref name="gosha"/><ref name="sengo2"/>。そして三島は落ち着くと、「やあ、映画てものはいいね。俺はこんなにいい、面白い、楽しい仕事をしたのは初めてだよ。いくら腹を切っても死なねえもんな。すぐ生き返る。映画はいいなァ」といつもの豪傑笑いをしたという<ref name="gosha"/><ref name="gosha2"/><ref name="yama"/><ref name="sengo2"/>。

=== スチール写真 ===
主役の[[勝新太郎]]と準主役の[[仲代達矢]]、[[三島由紀夫]]、[[石原慎太郎]]の4名が全員[[大映京都撮影所]]に出揃った6月初旬に、宣伝用の写真撮影が行なわれたが、その際に、『[[炎上 (映画)|炎上]]』などのカメラマンを務めた[[宮川一夫]]が三島を応援するために突然やって来た<ref name="kakomi"/>。

名カメラマンとして一目置かれている宮川一夫が見学に来たことで、現場のスタッフの雰囲気が引き締まったという<ref name="kakomi"/>。宮川は、三島の[[化粧|メイキャップ]]のチェックなどをした<ref name="kakomi"/><ref name="kuchie">三島の顔アップ写真や、撮影現場での勝、三島、裕次郎をスナップしたものは、{{Harvnb|映画論|1999}}巻頭の口絵写真に掲載</ref>。

スチール写真には、向かって右から仲代達矢、勝新太郎、石原裕次郎、三島由紀夫が撮影所の玄関前で居並び、[[侍]]として前を凝視しているものや<ref>4人が並んでポーズを取っている写真は、{{Harvnb|ムック|2014|p=14}}に掲載</ref>、その直前に撮影所から出て来たばかりで、右から勝、仲代、三島、石原が笑顔で談笑しながら並んで歩いているものもある<ref>4人並列の写真は、{{Harvnb|35巻|2003}}口絵写真に掲載</ref>。

勝、裕次郎、三島がそれぞれ単独で[[刀]]を構えているポスター写真も撮影された<ref name="ysenka"/><ref>三島1人のポスター写真は、{{Harvnb|年表|1990|p=197}}に掲載</ref>。また、映画本編の撮影現場でのスナップ的な写真もある<ref name="kuchie"/><ref name="prog"/><ref name="san73"/><ref>田中新兵衛の姿で座っているくつろいだ表情の三島の写真は、{{Harvnb|山内・左|2012|p=299}}に掲載</ref>。

参考文献となった原作小説『人斬り以蔵』の作者の[[司馬遼太郎]]は、[[武市半平太]]役の仲代達矢の顔について、「仲代達矢氏が武市半平太になっている。スチールをながめていると仲代氏の顔は[[スペイン人|スパニッシュ]]なところが武市に似ている」とコメントしている<ref>司馬遼太郎「武市半平太――映画『人斬り』で思うこと」([[サンケイ新聞]] 1969年8月2日、5日、7日号)。{{Harvnb|山内・戦後|2011|pp=35-34}}</ref><ref name="sengo1"/>。

== あらすじ ==
時は[[幕末]]。[[文久]]2年([[1862年]])の[[土佐国|土佐]]の谷里郷に、[[剣術]]の才覚がありながらも藩内の厳しい身分制という壁に阻まれ立身を望めず、その日暮らしに甘んじていた青年・[[岡田以蔵]]がいた。彼は背に腹は替えられぬ思いで、ついに家の隅で埃をかぶる先祖伝来の[[鎧兜]]を骨董屋に売り払うも相手にされず悲嘆に暮れていた。

そんなとき、土佐随一の政治力を握っていた[[土佐勤皇党]]の[[武市瑞山|武市半平太]]は、[[土佐藩]][[家老|執政]]・[[吉田東洋]]を[[クーデター]]によって追い落とし自ら取って代わることを計画する。師の武市に呼び出された以蔵は、東洋暗殺の様子をじっくり視察せよと命じられた。その夜が、まだ人を斬ったことのない以蔵を変えた。人を斬る、とはこうすることなのか。俺ならもっと上手く斬ってやる、と以蔵は次第に人斬りとしての本能を呼び醒ましてゆき、東洋暗殺現場で耳にした「[[天誅]]!」という言葉を心の中で何度も繰り返した。

その年の夏、武市率いる土佐勤皇党は[[京都]]に上洛した。瑞山と号した武市は数年後に勤皇一派の中心人物となり、都で栄華の限りを尽くしていた。以蔵もまた武市の下で多くの謀略・破壊工作の実行役として加担し、もはや昔のくすぶっていた以蔵ではなく、名うての「人斬り以蔵」として鳴らしていた。そして、土佐勤皇党はこの自分で持っているようなものだ、とまで得意の絶頂を誇示する以蔵の前に、武市とは異なる道を選んだ男・[[坂本龍馬]]が現れる。以蔵と龍馬は子供の頃からの知り合いであった。

[[本間精一郎]]、[[井上佐一郎]]らを新たに葬った以蔵だが、坂本龍馬は以蔵に人斬りをやめるよう忠告した。当初は聞き入れるつもりもなかった以蔵だったが、身分の上下もなく誰も気にすることのない時代を切り開く、との龍馬の言葉に次第に共鳴を覚えてゆく。それは、かつて武市に随行した際に逗留した[[攘夷]]派の急進的公卿・[[姉小路公知]]邸を訪れた時に出逢った美しい綾姫の存在を忘れる事が出来ずにいたからであった。

綾姫は姉小路卿の妹で、以蔵は惚れた想いを告げるどころか、以蔵の野蛮な容姿に恐怖を覚えた姫から「けだもの」と蔑まれた。だが、想いは一層強くなり、いずれ自分が武市の下で立身出世するか、龍馬が言う新しい時代になったとき、綾姫を自分のものにできるかもしれない、と以蔵はささやかな希望を宿していた。

そんな折、以蔵の人斬りが目立ち、[[天皇]]から自重するようにお達しがあったため、武市は次の大天誅から以蔵を外すことを決め、以蔵にしばらく骨休めの期間をもうけていた。以蔵は、勤皇派が以前から内密に計画していた大天誅・[[近江国]][[石部宿]]での襲撃の先遣隊から自分が外されたことを知るや無我夢中で駆け出し、辛くも襲撃隊に合流して[[薩摩藩|薩摩]]侍・[[田中新兵衛]]と共に目覚しい働きをみせるも、その際に藩名と自身の姓名を声高に叫んだ失態を武市から厳しく叱責された。

さらに以蔵は、龍馬から武市のためにもなると依頼され[[勝海舟]]の護衛を務めたことも武市の逆鱗に触れ、土佐に帰れと面罵された。以蔵は武市からの離反を試みるが、武市を気づかい、その政治力を恐れた諸藩らから以蔵は雇い入れを拒まれた。やけ酒を飲んで荒れる以蔵を田中新兵衛は慰めた。以蔵の情婦となっている[[女郎]]・おみのは、武市に謝罪することを薦め、以蔵はやむなく武市のもとに戻り、人斬りの[[運命]]から逃れる事が出来なくなっていった。

武市は田中新兵衛の刀を以蔵に持たせて、意見の相違が生じていた姉小路卿の暗殺を密命した。以蔵は驚いたが命令をなんとか実行した。姉小路殺しの嫌疑をかけられ[[京都町奉行]]に捕えられた新兵衛は、犯行を否定したが証拠として自分の刀を見せられると、申しひらきもせず突然その刀で自ら切腹した。以蔵は姉小路卿までも斬り、友の新兵衛まで裏切る形となった直後から、酒に溺れるようになり名声は凋落した。

[[浪人]]狩りの網にかかった以蔵は[[六角獄舎|六角牢]]に投獄され、「土佐の岡田以蔵だ」と名乗るものの、知らせを受け面会に来た武市から、「岡田以蔵ではない」と見知らぬ者扱いされ見捨てられたため、そのまま「無宿者の虎蔵」と名付けられて牢で厳しい拷問にかけられた。そんな以蔵に手を差し伸べたのは坂本龍馬であった。ようく以蔵は8か月後に赦免されたのち、龍馬の門人として新しい時代を築くために残りの人生を尽くそう、と思い始めた。[[慶応]]元年、以蔵は龍馬と[[九州]]に行くために、待ち合わせ場所の土佐にいた。


一方、反動政策により吉田東洋暗殺の嫌疑で武市も土佐で拘束され、藩は東洋暗殺の下手人を探していた。土佐勤皇党の1人は、以蔵が捕えられるとまずいと考え、土佐から離れるように促した。しかし武市は非情にも以蔵を消し去ろうと図り、かつて以蔵が目をかけた弟分・皆川一郎に毒殺役を命じた。春祭りの酒を持って来た皆川を疑いつつも、毒味で2杯飲んだ皆川が平気なため、以蔵もその酒を飲むが数分後毒が回り始め、皆川が死んで、以蔵は辛くも助かった。
== ストーリー ==
時は[[幕末]]。[[文久]]年間の[[土佐国|土佐]]。[[剣術]]の才覚がありながら、藩内の厳しい身分制という壁に阻まれ立身を望めず、いまだその日暮らしに甘んじていた青年・[[岡田以蔵]]。彼は、背に腹は替えられぬ思いで、ついに家の隅で埃をかぶる先祖伝来の鎧兜を質屋に売り払うも相手にされず悲嘆に暮れる。そんなとき、土佐随一の政治力を握るに至った[[武市瑞山|武市半平太]]は、参政・[[吉田東洋]]をクーデターによって追い落とし、自ら取って代わることを宣言。以蔵は半平太に呼び出され、東洋暗殺の現場を視察せよと命じられる。その夜が、以蔵を変えた。人を斬る、とはこうすることなのか。以蔵は、次第に人斬りとしての本能を呼び醒ましてゆく。そして耳にした「天誅」という言葉を心の中で何度も繰り返した。


以蔵はこのことで勤皇党の幕を下ろそうと決意し、自らの行なってきた謀略の人斬りと武市一派が行なった計画の全てを告白するため[[高知城]]の[[番所]]に出向いた。以蔵は武市を売る金の三十[[両]]を、借金で[[遊郭]]稼業に縛られている貧しいおみのに先渡しすることと引き換えに、洗いざらい話した。
数年後、京に上洛し、瑞山と号した武市は勤皇一派の中心人物となり、都で栄華の限りを尽くしていた。そして以蔵もまた武市の下で多くの謀略・破壊工作の実行役として加担。名うての人斬りとして鳴らしていた。もはや昔の以蔵ではない。土佐勤皇党はこの自分で持っているようなものだ、とまで得意の絶頂を誇示する以蔵の前に、武市とは異なる道を選んだ男・[[坂本龍馬]]が現れる。[[本間精一郎]]、[[井上佐一郎]]らを新たに葬った以蔵だが、龍馬は以蔵に人斬りをやめるよう忠告する。はじめは聞き入れるつもりもなかった以蔵であったが、龍馬が、身分を誰も気にすることのない時代を切り開く、の言葉に次第に共鳴を覚えてゆく。それは、かつて武市に随行した際に逗留した、[[攘夷]]派の急進的公卿・[[姉小路公知]]邸を訪れた際に出逢った美しい姫の存在を忘れる事が出来ずにいたからであった。その姫は、姉小路卿の妹・綾姫といった。惚れた想いを告げるどころか、以蔵の容姿に恐怖を覚え「けだもの」と蔑んだ姫。だが、想いは一層強くなり、いずれ自分が武市の下で立身するか、龍馬が言う新しい時代になったとき、その姫を自分のものにできるかもしれない、以蔵が宿したささやかな希望であった。


5月の土佐の春祭りの日、龍馬は以蔵を迎えにやってくる。だが、そのとき以蔵は[[磔]]台にいた。武市が政治犯として切腹を命じられ、自分は一介のならず者の人斬りとして処刑されることを聞いた以蔵は、武市から自由になったと言い、[[祭囃子]]を遠くにききながら磔の刑に処されて壮絶な最期を閉じた。
だが、勤皇派が以前から内密に計画していた大天誅・[[石部宿]]襲撃の先遣隊から自身が外されたことを知るや、以蔵は無我夢中で駆け出して、襲撃に合流。目覚しい働きをみせるも、藩名と自身の姓名を声高に叫んだ失態を武市は厳しく叱責。以蔵は武市から離反する動きを起したが、武市の政治力を恐れた諸藩は以蔵を雇い入れることを拒んだ。以蔵の妾・おみのは、武市に謝罪することを薦めたため、以蔵はやむなく人斬りの運命から逃れる事が出来なくなっていった。武市の密命で、姉小路卿までも斬った直後から以蔵は酒に溺れるようになり名声は凋落。浪人狩りの網にかかった以蔵は武市からも見捨てられ厳しい拷問にかけられた。そんな以蔵に手を差し伸べたのは龍馬であった。ようやく以蔵は、赦免されたのち、龍馬の門人として新しい時代を築くために残りの人生を尽くそう、と思い始める。だが、武市は以蔵を消し去ろうと図り、かつて以蔵が目をかけた弟分・皆川に毒殺役を命じてしまう。しかし、以蔵は生きながらえた。以蔵はこのことで、自らの行なってきた謀殺と勤皇一派が働いた計画の全てを晒し、勤皇党の幕を下ろそうと決意した。5月、土佐では春祭りである。龍馬は、以蔵を迎えにやってくる。だが以蔵は龍馬に従い九州へわたることは遂になかった。祭囃子を遠くにききながら、以蔵は磔を命じられ、その生涯を閉じるのである。


== キャスト ==
== キャスト ==
出典は<ref name="filmo"/><ref name="eiga"/><ref name="allcine">[http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=142970 「人斬り」クレジット(allcinema)]</ref><ref name="prog"/><ref name="ysenka"/>
{{Columns-list|2|
*[[岡田以蔵]]:[[勝新太郎]]
*[[岡田以蔵]]:[[勝新太郎]]
**25歳。[[土佐国]]の国谷里郷で貧乏[[郷士]]の子として生れる。実戦剣法を身につけ、[[狼]]のような凄みを持つ暴れん坊。[[土佐勤皇党]]で殺し屋の役目の人斬り剣士となる。鮮やかな暗殺ぶりで「人斬り以蔵」と[[京都|京]]の街で知れわたる。酒と女好きで無学無知であるが気のいい男。
*[[武市半平太]]:[[仲代達矢]]
*[[武市半平太]]:[[仲代達矢]]
**34歳。土佐勤皇党の首領。冷酷な[[革命家]]。京都に上り、[[三条通|三条]][[木屋町通|木屋町]]の料亭「丹虎」の離れの「瑞竹荘」で起居し[[倒幕]]の政策を練る。腕の立つ以蔵を自身の「犬」として飼い馴らし、[[佐幕]]保守派を暗殺する。以蔵は武市が口にする政策上「好ましからぬ人物」を斬り殺し、お手当金を貰う。武市は目的のためには手段を選ばない非情さを持つ。
*[[田中新兵衛]]:[[三島由紀夫]]
*[[田中新兵衛]]:[[三島由紀夫]]
**22歳。[[薩摩藩]]の有名な人斬り剣士。「人斬り新兵衛」と呼ばれて、京洛の人気を以蔵と二分する[[示現流]]剣法の使い手。武市の陰謀により[[姉小路公知|姉小路]]卿暗殺の嫌疑をかけられ、自分の剣を見せられ切腹死する。
*[[坂本龍馬|坂本竜馬]]:[[石原裕次郎]]
*[[坂本龍馬|坂本竜馬]]:[[石原裕次郎]]
**28歳。元土佐勤皇党だったが土佐藩を脱藩し、武市とは別の方途で倒幕を目指している。以蔵とは子供の頃からの顔なじみ。人斬りを辞めるように以蔵に助言する。[[浪人]]狩りで[[六角獄舎|六角牢]]に入牢した以蔵の放免に尽力する。
*おみの:[[倍賞美津子]]
*おみの:[[倍賞美津子]]
**[[五条楽園|五条新地]]の[[遊郭]]「山城屋」の[[女郎]]。以蔵の情婦。
*綾姫:[[新條多久美]]
*[[姉小路公知]]:[[仲谷昇]]
*[[姉小路公知]]:[[仲谷昇]]
**27歳。[[天皇]]側近で[[攘夷]]派の急進的[[公卿]]。武市と政策を共にしていたが、土佐勤皇党の手荒な暗殺手法を憂いて次第に意見が合わなくなる。武市の密命で以蔵に斬られる。
*姉小路綾姫:[[新條多久美]]
**姉小路公知の妹。美しい姫。武市と共に邸に来た以蔵を見て、「お前が以蔵なのね」とまじまじと見つめ、「獣!」と蔑む。以蔵は綾姫に一目惚れする。
*松田治之助:[[下元勉]]
*松田治之助:[[下元勉]]
**32歳。土佐勤皇党の副領主。武市の[[側近]]。
*皆川一郎:[[山本圭]]
*皆川一郎:[[山本圭]]
**土佐勤皇党の同志。以蔵の弟分的な存在。[[三条通]]の旅人宿「四国屋」で以蔵と相部屋で逗留。土佐で入牢した武市から以蔵の毒殺を命じられる。
*天野透:[[伊藤孝雄]]
*天野透:[[伊藤孝雄]]
**29歳。土佐勤皇党の同志。
*おたき:[[賀原夏子]]
*おたき:[[賀原夏子]]
**50歳。以蔵らの行きつけの三条小橋(三条木屋町)近くの飲み屋「おたき」の[[女将]]。「おたき」は[[勤皇派]]のたまり場となっている。
*六角牢の役人:[[田中邦衛]]
*[[六角獄舎|六角牢]]の役人:[[田中邦衛]]
**以蔵が浪人として囚われた[[六角通|六角通り]]に面した牢屋敷の役人。
*[[勝海舟]]:[[山内明]]
*[[勝海舟]]:[[山内明]]
**[[幕臣]]。以蔵は竜馬に依頼されて一度護衛を務めた。
*[[井上佐一郎]]:[[清水影]]
*[[井上佐市郎|井上佐一郎]]:[[清水影]]
*平松外記:[[滝田裕介]] <!--郡司良 という説もあり-->
**土佐藩士。土佐藩横[[目付]]。[[吉田東洋]]殺しの[[下手人]]を探索していたが、大阪で以蔵ら土佐勤皇党と酒を飲んだ後の帰りに以蔵に絞殺される。
*平松外記:[[滝田裕介]]
**土佐藩目付頭。平松備後。全ての暗殺の自白を以蔵から聴き出し、磔獄門を言い渡す。
*両替屋の番頭:[[東大二郎]]
*両替屋の番頭:[[東大二郎]]
**以蔵が自白の褒美の三十[[両]]をおみのへ送る[[高知城]]下の両替商の番頭。
*渡辺金三郎:[[宮本曠二郎]]
*渡辺金三郎:[[宮本曠二郎]]
**[[京都西町奉行]]所[[与力]]。[[近江国|近江]][[石部宿]]「橘屋」で以蔵に斬り殺される。
*[[本間精一郎]]:[[伊吹聰太朗|伊吹総太朗]]
*[[本間精一郎]]:[[伊吹聰太朗|伊吹総太朗]]
**32歳。[[越後国]]出身の[[尊王攘夷]]派の志士。[[四条通|四条]]木屋町の路地で以蔵に斬り殺される。
*北崎進:[[真田健一郎|藤森達雄]]
*北崎進:[[真田健一郎|藤森達雄]]
**28歳。土佐勤皇党の同志。
*工藤:[[黒木現]]
*工藤:[[黒木現]]
**土佐勤皇党の同志。
*横川帯刀:[[北村英三]]
*横川帯刀:[[北村英三]]
**土佐藩目付役。以蔵から一切の暗殺所業を聴き出す平松備後(平松外記)の部下。
*京都所司代与力:[[中谷一郎]]
*京都所司代与力:[[中谷一郎]]
**姉小路卿の暗殺の一件で田中新兵衛を呼び出し取り調べる与力。
*京都市中見廻組役人:[[伊達三郎|伊達岳志]]
*京都市中見廻組役人:[[伊達三郎|伊達岳志]]
**浪人取締りをする京都奉行所の役人。遊郭「山城屋」にいた以蔵を捕える。
*[[久坂玄瑞]]:[[波多野憲]]
*[[久坂玄瑞]]:[[波多野憲]]
**[[長州藩]]士。尊王攘夷派。
*[[宮部鼎蔵]]:[[福山錬]]
*[[宮部鼎蔵]]:[[福山錬]]
**[[熊本藩]]士。尊王攘夷派。
*伊地知三左衛門:[[新田昌玄]]
*伊地知三左衛門:[[新田昌玄]]
**薩摩藩士。尊王攘夷派。[[伊地知正治]]がモデルか。
*古道具屋の主人:[[千葉蝶三郎]]
**土佐の国谷里郷で困窮していた以蔵が埃だらけの[[鎧]]を持ち込む古道具屋の主人。嫌な顔をして買い取りを断る。
*[[大河原十蔵]]:[[宮島誠]]
**京都東町奉行所与力。近江石部宿「万屋」で斬り殺される。
*[[森孫六]]:[[御影伸介]]
**京都東町奉行所与力。近江石部宿「万屋」で以蔵に斬り殺される。
*刺客:[[佐藤京一]]
**以蔵が護衛する勝海舟を襲う長州の刺客の1人。
*[[安岡嘉助]]:[[美山晋八]]
**[[吉田東洋]]暗殺の討手。
*[[那須信吾]]:[[勝村淳]]
**吉田東洋暗殺の討手。
*[[大石団蔵]]:[[安藤仁一郎]]
**吉田東洋暗殺の討手。
*[[目明し]]文吉:[[宮沢元]]
**以蔵が斬った男。皆川に毒入りの酒を飲まされた以蔵の[[幻覚]]に出てくる。
*牢名主:[[萩本欽一]]
*牢名主:[[萩本欽一]]
**六角牢の[[囚人]]。以蔵が入れられた六角牢の中で主として威張っているチンピラ。
*熊髭:[[坂上二郎]]
*熊髭:[[坂上二郎]]
**六角牢の囚人。牢名主の子分のような存在。
*[[吉田東洋]]:[[辰巳柳太郎]]
*[[吉田東洋]]:[[辰巳柳太郎]]
**47歳。[[山内容堂]]の厚い信任を受ける土佐藩執政。雨の中、武市の部下3名の刺客(安岡嘉助・那須信吾・大石団蔵)に暗殺される。
*小女:[[丘夏子]]
**飲屋「おたき」の小女。
*婆:[[小林加奈枝]]
**遊郭「山城屋」のやり手婆。
*殺陣:[[湯浅剣睦会]]
}}


== スタッフ ==
== スタッフ ==
出典は<ref name="filmo"/><ref name="eiga"/><ref name="allcine"/><ref name="prog"/><ref name="ysenka"/>
*製作:[[村上七郎]] 法亢堯次
{{Columns-list|2|
*監督:[[五社英雄]]
*監督:[[五社英雄]]
*製作:[[村上七郎]]、[[法亢堯次]]
*脚本:[[橋本忍]]
*脚本:[[橋本忍]]
*参考文献:[[司馬遼太郎]]『人斬り以蔵』
*参考文献:[[司馬遼太郎]]『人斬り以蔵』
*撮影:[[森田富士郎]]
*撮影:[[森田富士郎]]
*音楽:[[佐藤勝]]
*音楽:[[佐藤勝]]
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*助監督:[[土井茂]]
*助監督:[[土井茂]]
*録音:[[大角正夫]]
*録音:[[大角正夫]]
*衣装考証:上野芳生
*音響効果:倉嶋暢
*製作主任:眞田正典
*スチール:[[小山田幸生]]
*スチール:[[小山田幸生]]
*現像:[[東洋現像所]]
*殺陣指導:[[湯浅謙太郎]](湯浅剣睦会)
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== 再上映 ==
『人斬り』は[[1985年]](昭和60年)11月には[[松竹]]の配給で再上映された<ref name="yama"/><ref name="prog"/>。併映は、五社英雄監督の『[[三匹の侍]]』<ref name="yama"/><ref name="prog"/>。[[惹句]]は、「時・代・はチャンバラ」、「斬る!斬る!斬る! 問答無用でぶった斬る! 斬らねばならぬ奴がいる。生きんがために人を斬る……」、「今や、不可能なキャスティングの妙!」、「ひたすら過激に……ひたすら美的に……動乱の幕末を駆けぬけた若き男たちの熱き伝説」である<ref name="prog"/><ref name="ysenka"/>。

再上映の際に、イメージソングとして[[世良公則]]の楽曲「バラードが聴こえる」がついた<ref name="prog"/>。「バラードが聴こえる」は、世良のアルバム『Fine, and you?』(キャニオンレコード)に収録されている<ref name="prog"/>。世良は、『人斬り』には「ROCKスピリット」や「若者の息づかいの素晴らしさ」があるとし、観終わって外に出た時に、「身体のどこかに力がわいてくるのがうれしかった」と映画の感想を述べている<ref>[[世良公則]]「このチャンバラ映画に熱い8ビートを感じた」({{Harvnb|再上映|1985}})</ref>。

== 評価 ==
『人斬り』は[[幕末]]の動乱期を舞台に過激な生涯を送った人物たちを扱ってはいるが、[[岡田以蔵]]と[[武市半平太]]の人間関係は、現代にも通じる男の野望の絡み合いとしても見ることができ、また、波乱に富んだストーリー展開と、ダイナミックな殺陣の演出も時代劇の醍醐味を感じさせ、豪華な娯楽大作映画となっている<ref name="yama"/><ref name="prog"/><ref name="kasuga2"/>。

興行的にも大ヒットとなり、1969年度の興行ベストテンの第4位に入った<ref name="kai80"/><ref name="kai85"/><ref name="yama"/>。[[キネマ旬報]]ベストテンでも圏外ではあったが第14位となった<ref name="kai80"/><ref name="kai85"/>。総得点数は49点で、6点を付けた[[高沢瑛一]]の票が最高点となり、5点は[[草壁久四郎]]、[[津村秀夫]]、[[戸田隆雄]]が付けている<ref name="kai80"/>。『[[御用金 (映画)|御用金]]』に続く『人斬り』のヒットにより五社英雄は映画界のヒットメーカーとなった<ref name="kasuga2"/>

[[尾崎秀樹]]は、『人斬り』がヒットした理由について、「映画がともすれば忘れがちな大衆のもつおもしろさの願望を素直大胆に提示しそれに人間的な味わいを添えたところに成功の原因があった」と解説し、[[70年安保]]を目前に迎えた時代との関連にも触れつつ高評している <ref name="ozaki">[[尾崎秀樹]]「“人斬り”の剣――いかなる状況をたち切るのか」(映画芸術 1969年10月号)。{{Harvnb|山内・左|2012|pp=314-315}}</ref><ref name="yama"/>。
{{Quotation|「人斬り」は私に久しぶりで映画のおもしろさを教えてくれた。それは[[70年安保|七〇年安保]]を前にした大衆の日常的な閉鎖的意識に一つの窓をひらく作品だ。しかし人斬りがどのような状況を斬る剣であるかは、むしろこれからの状況によって答えられるべきだろう。|[[尾崎秀樹]]「“人斬り”の剣――いかなる状況をたち切るのか」 <ref name="ozaki"/>}}

主役の勝新太郎の「映画スター」としての魅力も好評で、人なつっこく明るい性格のキャラクターが加味された岡田以蔵像となった<ref name="shina"/>。人斬りという残酷で非情な行為の人物ながらも、なぜか勝が演じると、その単純で無知な振舞いが逆に人間的な温かみさえ感じさせるものと[[品田雄吉]]は評価している<ref name="shina"/>。

新人女優で2年前に『[[純情二重奏]]』で映画デビューした[[倍賞美津子]]も[[女郎]]役を体当たりで好演し、[[京都市民映画祭]]の新人賞を受賞するなど高評価され女優として注目されるようになった<ref name="baisho"/><ref name="prog"/>。勝以外の男優陣の中では、独特の強烈な存在感を示した[[三島由紀夫]]が予想を上回る好演で注目され、論評でも三島の出演映画という観点から言及するものが多い<ref name="yama"/><ref name="prog"/>。かつて主演した映画『[[からっ風野郎]]』では素人演技を酷評された三島だったが、見違えるほどの凄みを見せる演技力であった<ref name="kakomi"/><ref name="yama"/>。五社監督も三島の起用により田中新兵衛役が光ったこと振り返っている<ref name="gosha"/><ref name="yama"/>。
{{Quotation|実際は三島さんによってこの映画は実に面白くなった。田中新兵衛の性格、[[テロリスト]]のムードは三島さん以外には出せなかったろう。演技をしていても殺気があったし、場面によっては勝新太郎を押えていた。(中略)三島さんは[[人見知り|テレ屋]]で[[運動神経]]はない。ところが神経の運動神経というか、気持の反応、感情のつかみ方、相手の感情に切りこむ能力、これらは[[天才]]的だと思う。例えば田中新兵衛が岡田以蔵に対して「どちらへ……」というセリフのとき、その感情はこうなんだ、と私が話すと、それについて実に的確に反応を示してくれた。|五社英雄「演出家の眼」<ref name="gosha"/>}}

[[斎藤正治]]は、『人斬り』のテーマについて三島の『[[文化防衛論]]』を読めば事足りるとし、その[[美学]]や[[思想]]と重ねて、「[[論理]]でも表現でも、粗暴なもの、荒っぽいものには、独断の[[カタルシス]]がつきもの」として、「それは情緒的にいえば痛快感であり、[[政治]][[イデオロギー]]に即していえば[[右翼]]的([[左翼]]的であっても同じことだが)な狂信に満ちた明快さを帯びる」と解説している<ref name="saito">[[斎藤正治]]「日本映画批評」(キネマ旬報 1969年9月号)。{{Harvnb|山内・左|2012|pp=315-316}}</ref><ref name="yama"/>。
{{Quotation|有能なテロリストとして出演している三島由紀夫の「[[楯の会]]」が、古典的・情緒的[[天皇制]]の回復をめざす雌伏集団であることは、彼の著書で明らかだ。彼らにも土佐勤皇党の「[[天誅]]」思想のように、[[結社]]の[[綱領]]がある。時代を百年もへだてた両者を比較する気はないが、[[大義名分]]を「ために」という役割に求めているところは共通する。それはともあれ大義名分には批判が入り込めない。|[[斎藤正治]]「日本映画批評」<ref name="saito"/>}}

[[増村保造]]はかつて『[[からっ風野郎]]』(1960年3月封切)で三島をしごいたことがあったが、『人斬り』での三島の[[切腹]]演技の表現力の高さに触れて、「[[姉小路公知]]暗殺の疑いを受けた新兵衛は、自分の主家の迷惑を思い、一言も弁解せず、切腹してしまう。ここにも誠実な人間の行動の〈[[美]]〉があり、それを三島さんは進んで表現しようとしたのではないか」と好評している<ref name="masu">[[増村保造]]「三島由紀夫さんのこと」([[ユリイカ (雑誌)|ユリイカ]] 1986年5月号)。{{Harvnb|山内|2012|p=312}}</ref>。

『人斬り』は翌年[[1970年]](昭和45年)に三島が自死したことで([[三島事件]])、より一層三島と一体化したものとして語られることになったが、三島がそれまで過去に出演した映画『[[からっ風野郎]]』『[[憂国]]』と共に見た場合、すべて最後は死んでしまう人物であり、それが段々とリアリティーや殺気を持った好演に発展していくことも指摘されている<ref name="jiten"/><ref name="ogima">[[荻昌弘]]「映画で予習かさねた死の行為――“からっ風野郎”から“人斬り”まで」(新評 1971年1月号)。{{Harvnb|事典|2000|p=458}}</ref>。

[[荻昌弘]]は、『人斬り』での三島が「周囲の役者たちを圧する殺気のリアリティで、[[明治維新|維新]]前夜のテロリストを好演」したと高評しつつ三島の行動美学と重ねて、「三島が映画演技という[[スポーツ]]に快楽をみいだしたのは、いうまでもなく行動美のためにちがいなかったが、そのなかで繰返し死の行為だけが予習されている事実は、もっと深く注目されていい」と論評している<ref name="ogima"/>。

[[品田雄吉]]は、映画公開から16年後、三島の死から15年後の[[1985年]](昭和60年)に再上映された『人斬り』をあらためて観た感想として、勝新太郎の魅力と三島の迫力ある演技を好評しつつ、「三島由紀夫の演ずる田中新兵衛ではなく、田中新兵衛を演じている三島由紀夫その人が見逃せないのである」としている<ref name="shina"/><ref name="yama"/>。
{{Quotation|今度あらためてこの「人斬り」を見ると、割腹シーンだけではなく、三島由紀夫の登場するすべてのシーンが、この映画の一年後に起こった[[市ヶ谷駐屯地|市ヶ谷]]での[[自決]]と無縁ではない一種の緊張をはらんでいるように見えてしまう。最初に見たときはうかつにも察知できなかったのだが、この映画の三島由紀夫には、明らかに死を決意した者だけが秘めているほんものの殺気がはりつめているように感じられるのだ。三島由紀夫は、この映画で田中新兵衛を演じたのではなく、三島由紀夫自身のあるべき姿を演じていたのではなかったろうか。そして、それがやがて市ヶ谷へとつながっていったのではないだろうか。|[[品田雄吉]]「勝新の魅力と三島由紀夫の迫力」<ref name="shina"/>}}

[[山内由紀人]]は、三島の出演により『人斬り』の主題が「三島の思想と美学に重なってしまったのは、必然的な結果といっていい」として、三島が予想以上の印象的な好演をしたことで、監督らの思惑以上の宣伝効果を上げ、ほとんど「三島の映画」とも言える様相になった意味などを以下のように評価・考察している<ref name="yama"/>。
{{Quotation|三島は[[俳優]]として出演しているにもかかわらず、『人斬り』は[[作家]]としての三島という存在を無視して語ることはできないのである。それはこの映画が背負った[[運命]]だった。その運命は、さらに三島の死によって増幅されていく。もはや[[宿命]]としか言いようのない、三島と一体化した映画として語られるのである。(中略)三島は作品世界の現実から実生活の現実へと入り、その思想なり美学なりを現実化するタイプの作家である。つまり現実の[[人生]]そのものが、文学的虚構の投影なのである{{refnest|group="注釈"|三島は評論『[[小説とは何か]]』の中で、「私にとつて書くことの根源的衝動は、いつもこの二種の現実の対立と緊張から生れてくる」とし<ref name="nanika11">「[[小説とは何か]] 十一」(波 1970年5・6月号)。{{Harvnb|34巻|2003|pp=737-742}}、{{Harvnb|小説読本|2016|pp=93-101}}に所収</ref>、「二種の現実」とは、「作品世界」と「現実世界」(実生活)の2つの「現実」を指していることを語っている<ref name="nanika11"/><ref name="yama"/>。}}。(中略)そうした小説家が今度は映画という虚構の中で、感情移入できる人物を演じることになれば、もはやそれは品田の言うように「三島由紀夫自身のあるべき姿」を表現することになるのである。その意味でいえば、『人斬り』には三島の死と行動の謎を解く一つの鍵が隠されているのである。|[[山内由紀人]]「三島由紀夫、左手に映画」<ref name="yama"/>}}

== エピソード ==
撮影が行われた[[大映京都撮影所]]と東京での『[[癩王のテラス]]』や『[[椿説弓張月 (歌舞伎)|椿説弓張月]]』の稽古や打ち合わせ、「[[楯の会]]」の活動とで往復に忙しかった三島由紀夫だが<ref name="kakomi"/>、ある時、[[大阪]]行きの飛行機内で三島と乗り合わせた[[仲代達矢]]が、「作家なのにどうして[[ボディビル]]をしているんですか?」と尋ねると、三島は「僕は死ぬときに[[切腹]]するんだ」、「切腹してさ、脂身が出ると嫌だろう」と答えたので、仲代は冗談の一つだと思って聞いていたという<ref>仲代達矢「時代の証言者〈役者の条件20〉――三島由紀夫 肉体の美学」(読売新聞 2015年6月29日号)</ref><ref name="nakadai"/>。

日々の撮影が終わると共演者同士で[[祇園]]などに飲みに行ったが、[[山本圭]]はその時の三島の様子について、「三島さんはほとんどお酒を飲まないんですが、話をしている時、[[瞬き]]をしないんですよ。それで目の前で僕が話を聞いてるとね、だんだんこっちの目もつられちゃう」と語っている<ref name="ykei"/>。ちなみに、山本扮する皆川が以蔵のいる小屋を訪ねて自分も毒酒で死んでしまう場面は、[[和歌山県]]の先端の湖畔に掘立小屋が建てられ撮影された<ref name="ykei"/>。死体となった山本の[[喉頭隆起|喉仏]]がどうしても動くため、その場面はフィルムを半分に切って山本の方の画が固定されているという<ref name="ykei"/>。

映画撮影のクランクアップ後、五社英雄監督は三島から切腹場面と立ち回りシーンのスチール写真を100枚ほど欲しいと言われていたため、京都撮影所を発つ際に三島に手渡した<ref name="gosha"/><ref name="yama"/><ref name="sengo2"/>。そして帰りの[[新幹線]]に五社と三島と勝と仲代が一緒に乗り、三島以外の3人は[[名古屋]]で遊ぶために途中下車していった<ref name="gosha"/><ref name="yama"/><ref name="sengo2"/>。3人がホームに出た後、再び三島に挨拶しようと三島の座席の窓に行くと、1人になった三島が鞄からスチール写真をこっそり取り出して、「何ともいえない顔でニッコリして見ていた」という<ref name="gosha"/><ref name="yama"/><ref name="sengo2"/>。

やがて3人の視線に気づいた三島は、一瞬こそばゆいような恥じらいを見せ、[[少年]]のように笑って頭に手をやった<ref name="gosha"/><ref name="yama"/><ref name="sengo2"/>。東京に帰った後、五社に会った三島は、「いやあ、新幹線の中でアレを見られたのは、君ねえ、自分の[[ナルシシズム]]の原点みたいなものを、全く目の前で見られたような感じで、あんな恥ずかしい思いをしたことはないよ」と笑っていたという<ref name="gosha"/><ref name="yama"/><ref name="sengo2"/>。

== 勝新太郎と三島由紀夫 ==
三島由紀夫が田中新兵衛に起用されたきっかけは勝プロ社長でもある勝新太郎の依頼であったが、三島が承諾したことを[[大映]]企画部長の[[藤井浩明]]から聞いた勝は非常に喜び、すぐに会いたいと三島との面談を希望した<ref name="kakomi"/>。三島の[[マネージャー]]代わりの藤井が三島と一緒に[[大映京都撮影所]]に向かい[[京都駅]]に到着すると、勝は2人を待ち受けていて、自分の車で[[京都ホテル|都ホテル]]まで送ってくれた<ref name="kakomi"/>。

そして勝は、明朝に撮影所で会う時間を告げて、その時に三島に[[カセットテープ]]を渡した<ref name="kakomi"/>。そのテープには、三島が言う台詞と、勝の言う台詞の掛け合いの両方が吹き込まれてあった<ref name="kakomi"/>。さらにそのテープには、ここはこう言った方がいい、というようなアドバイスも各所に入っていて、素人の三島が困らないようにしてあった<ref name="kakomi"/>。

三島がしばしば、勝に随分世話になった、面倒を見てもらったと書いているのは、こうした背景があったからであった<ref name="kakomi"/>。勝と三島が直接からむ場面は、田中新兵衛が飲み屋「おたき」に初登場するシーンのほか、酒に溺れる以蔵を新兵衛が慰めるシーンもあるが、三島は思わず以蔵ではなく勝を慰めるかのような気分になり、演技中にもらい泣きしそうになったという<ref name="shuyo">「ごりっぱ! 俳優三島由紀夫」([[週刊読売]] 1969年8月22日号)。{{Harvnb|山内・左|2012|pp=313-314}}</ref><ref name="yama"/>。

三島の撮影初日の勝の細かい気づかいにより俳優演技に自信がついたことを、三島は「得意のかいぎゃく」で語り<ref name="yomi">「三島由紀夫映画を語る/『人斬り』撮影中をたずねて」(読売新聞夕刊 1969年6月7日号)。{{Harvnb|山内・左|2012|pp=306-307}}</ref><ref name="yama"/>、初めて「役になりきる心境と喜び」を味わった楽しさを勝との共演で得られたとしている<ref name="shuyo"/>。
{{Quotation|朝から勝さんとからむ場面を演じているんだが、勝さんほどいいお師匠さんはありませんね。実に親切に教えてくれる。これまでのぼくは“俳優”としてどんな“素材”なのか見当がつかなかった。自分自身がわからなければ、どの面を生かせばいいのかもわからない。ところが勝さんは半日で、ぼくが俳優としてすばらしい資質をもっていることを知らせてくれた。|三島由紀夫「三島由紀夫映画を語る/『人斬り』撮影中をたずねて」<ref name="yomi"/>}}

三島はこれまで『[[からっ風野郎]]』、『[[憂国]]』、『人斬り』と3本、映画俳優として出演したが、『人斬り』で初めて「爽快な後味」や映画の面白さを実感として味わったが、それは映画について教えてくれた「よい先生」の勝の親切のおかげだとしている<ref name="hochi"/><ref name="shutsu"/>。三島を懇切丁寧に指導する勝の姿を見ていた[[山本圭]]も、撮影現場が和気藹々となったのは勝がいたからでもあるとし、「勝さんが何も考えていないようで実は物凄い細かい人です」と語っている<ref name="ykei"/>。

三島の切腹場面の撮影中にも三島が外に出た際に、「三島さん、居合いをやってよ!」と明るく勝が声をかけて来て、三島が本気で居合いの型を披露すると、その上手さに勝は感心しつつも、「でも、あんまり強そうじゃないな」、「手を切らなきゃいいけどな」とからかい気味に言って、三島をリラックスさせていたという<ref name="kakomi"/>。

なお、勝は『人斬り』撮影中に、雑誌『[[平凡パンチ]]』の三島特集において、編集担当者から三島の悪口をぜひ言ってほしいと電話でコメントを求められ、「ぼくはあの人といま映画でご一緒してるんだけど、あの人は何ていうのかなー、そう、[[おたく|趣味人]]というイメージだね。ないものねだりをする人。そしてその結果それを獲得してゆく人。いままでの三島さんの人生ってのは、それだったんじゃないの」と答えている<ref>「広域重要人物きき込み捜査『エッ! 三島由紀夫??』」(平凡パンチ 1969年6月23日号)。{{Harvnb|椎根|2012|pp=98-104}}</ref><ref name="shii3"/>{{refnest|group="注釈"|この『平凡パンチ』の三島悪口特集には、他にも多数の著名人がコメントしているが、それらに対する三島の感想も掲載されている<ref>「感想――広域重要人物きき込み捜査『エッ! 三島由紀夫??』」(平凡パンチ 1969年6月23日号)。{{Harvnb|35巻|2003|p=494}}に所収</ref><ref name="shii3"/>。}}

== 五社英雄と三島由紀夫 ==
五社英雄は戦時中に[[特別攻撃隊|特攻隊]]に志願して第13期として[[予科練]]にいた<ref name="kasuga1"/>。しかし入隊してすぐに[[日本脳炎]]の初期症状を起したために正式入隊が4か月遅れ、実戦には参加できずに[[本土決戦]]用の[[決号作戦|水上特攻隊]]として演習していた<ref name="kasuga1"/>。

予科練第13期の同期生たちの多くは、[[台湾]]や[[沖縄]]での戦闘で特攻隊として死んでいった<ref name="kasuga1"/>。五社は[[福知山市|福知山]]で飛行場を作る工事に携わっている最中に[[日本の降伏|敗戦]]を迎えた<ref name="kasuga1"/>。特攻隊の生き残りであった五社は、その戦争体験を『人斬り』の撮影の合間に三島由紀夫に話した<ref name="gosha"/><ref name="sengo2"/>。

戦時中の[[入営]]検査で[[即日帰郷]]となった経験を持つ三島はそれを聞いた後、実際に自分の命を投げ出して何かをやれる人間はそうはいないが、現実にそうした若者の犠牲があってその上に、今日の日本の存在していることを思う時に我々は忸怩たるものがあると言い<ref name="gosha"/><ref name="sengo2"/>、我々はもう一度それらを掘り起こす必要があるのではないかと語っていたという<ref name="gosha"/><ref name="sengo2"/>。

また、五社監督は三島から子供がいるのか訊ねられ、「いる、[[マイホーム主義]]ではなく、いいオヤジでもないと思うが、かわいくてたまらん」と答えると、三島は五社の顔を見据えながら、「子供には子供の人生がある。子供かわいさに、自分の生き方や[[イデオロギー]]を曲げたり、子供によって自分の人生を左右されたり、影響されるようじゃ大[[演出家]]になれん。割り切る強さが必要なのだ」と語っていたという<ref name="kawas7"/>。

五社監督は映画公開から16年後、三島没後15年目の[[1985年]](昭和60年)の『人斬り』再上映に際し、「私よりも、尚越えたところで此の再公開をよろこんでくれるのはまぎれもなく故三島由紀夫さんなのです」と述べ、「三島さん、よかったね」と最後に締めくくっている<ref name="gosha2"/><ref name="yama"/>。
{{Quotation|その一年后、あの痛ましい事件は果して偶然の一致だったのか……。今だに私には、ナゾとしか云えないのです。而し、この十六年という歳月の流れが、あれもこれも三島さんの深い思いのメッセージをつつみこむにふさわしい貴重な「間」であったかもしれません。(中略)三島さんはこの“人斬り”出演を真底、ほれこんでおられた。そして深く深くこの作品を愛して下さった。ここに、再びこの“人斬り”が世に問う機会を得たことで私の十六年に及んだ三島さんに対する憶いが無事果たせることが出来た。(中略)三島さん、よかったね。|五社英雄「『人斬り』について」<ref name="gosha2"/>}}

== 三島外伝 ==
=== 祖先と幕末 ===
[[田中新兵衛]]役を演じた[[三島由紀夫]]の[[高祖父]]は[[徳川幕府]]の最後の[[幕臣]]の1人[[永井尚志]]で、[[大政奉還]]や[[戊辰戦争]]などの重要な局面で活躍した人物である<ref name="sengo2"/><ref name="etsu2">「II 三島由紀夫の祖先を彩る武家・華族・学者の血脈」({{Harvnb|越次|1983|pp=71-140}})</ref><ref name="yama"/>。[[一橋慶喜]]を推す[[一橋派]]を支持したため[[安政の大獄]]で免職・隠居の身となっていた永井尚志は、[[井伊直弼]]の横死により[[文久]]2年([[1862年]])に[[京都町奉行]]に復職したが、その時に[[姉小路公知]]暗殺の尋問していた田中新兵衛に切腹されてしまい、不注意の咎で[[閉門]]を命ぜられたこともあった<ref name="etsu2"/><ref name="hayasi">「[[林房雄]]宛ての書簡」(昭和44年6月13日付)。{{Harvnb|38巻|2004|pp=798-799}}に所収</ref><ref name="sengo2"/>。

三島が『人斬り』撮影中、親しい知人の[[林房雄]]に宛てた書簡(1969年6月13日付)の中にも、その奇縁のことが触れられている<ref name="hayasi"/><ref name="yama"/><ref name="sengo2"/>。
{{Quotation|只今京都で勝新太郎と裕次郎と仲代達矢と四人共演の「人斬り」といふ映画に、田中新兵衛の役で出ておりますが、この役の交渉をうけてから面白くなつて、この時代のものを大分よみました。よめばよむほど、現代との類似が目につき、こつちも多少、[[志士]]気取りになつて来ます。明後日は大[[殺陣]]の撮影です。新兵衛が腹を切つたおかげで、不注意の咎で閉門を命ぜられた永井[[主水正]]の[[玄孫|曾々孫]]が百年後、その新兵衛をやるのですから、先祖は墓の下で、目を白黒させてゐることでせう。|三島由紀夫「[[林房雄]]宛ての書簡」(昭和44年6月13日付)<ref name="hayasi"/>}}

[[1960年]](昭和35年)7月1日に行われた「永井尚志70年忌」の大[[法要]]にも出席し、高祖父を尊敬していた三島だが<ref name="yama"/>。『人斬り』の出演が決まる前年の[[1968年]](昭和43年)1月にも、「百年目の[[黒船]]」と言われた[[原子力空母]][[エンタープライズ (CVN-65)|エンタープライズ]]の[[佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争|佐世保寄港反対デモ]]の話題に触れつつ高祖父と自身を重ね、「日本はいつも[[アメリカ]]の船のために国中大さわぎし、殺し合ひ、政治変革をやる国民のやうです。今度は私も、曾々祖父永井玄番頭と同じ[[反革命]]の立場ですが、曾々祖父のやうに無事に隠居はできますまい」と[[ドナルド・キーン]]に語っていた<ref name="yama"/><ref>「[[ドナルド・キーン]]宛ての書簡」(昭和43年1月18日付)。{{Harvnb|38巻|2004|pp=}}に所収</ref>。

また三島の祖母・[[平岡なつ|なつ]]の母親の松平高は[[常陸宍戸藩|宍戸藩]]主[[松平頼位]]の娘で、[[松平頼徳]]の妹であった<ref name="etsu2"/><ref name="yama"/><ref name="sengo2"/>。なつの[[伯父]]にあたる9代藩主松平頼徳は[[水戸]][[天狗党]]に同情した罪により、[[幕府]]から切腹を命じられて非業の死を遂げている<ref name="etsu2"/><ref name="yama"/><ref name="sengo2"/>。

この[[水戸藩]]の思想「[[水戸学]]」という[[尊王論]]・[[攘夷論]]は、幕末の[[尊皇攘夷]]の志士たちの中心的思想となっていたが<ref name="yama"/><ref name="sengo2"/>、三島は祖母から、「お前は水戸の血が流れているから、人はすぐ皮肉屋だとか偏屈だとかいわれるだろうが、気にしないほうがいいよ。これはもう[[宿命]]で仕方ない」と言われ、水戸っ子の自覚を持っていた<ref>「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その三」([[茨城大学]]講堂 1968年11月16日)。{{Harvnb|防衛論|2006|pp=299-360}}、{{Harvnb|40巻|2004|pp=271-307}}に所収</ref><ref name="yama"/><ref name="sengo2"/>。

『人斬り』の映画を撮影していた頃、世間では安保反対の[[全学連]]や[[全共闘]]が維新の志士に喩えられることがあり、三島は全共闘と[[安保闘争]]をめぐって敵対しつつも、ある種の共感性も持っていたが、尊皇でない彼らとは共闘できないことを強く宣言していた<ref name="kyou">『[[討論 三島由紀夫vs.東大全共闘―美と共同体と東大闘争|討論・三島由紀夫vs.東大全共闘―〈美と共同体と東大闘争〉]]』(新潮社、1969年6月)。{{Harvnb|40巻|2004|pp=442-506}}に所収</ref><ref name="sengo2"/>。それは[[開国派]]であれ攘夷派であれ、幕末では「尊皇」「勤皇」が基本にあり、天皇制の破壊を企図する[[左翼]]の思想とは相容れないものであると三島は認識していたからであった<ref name="taiwa">林房雄との対談『対話・日本人論』([[番町書房]]、1966年10月。[[夏目書房]]、2002年3月増補再刊)。{{Harvnb|39巻|2004|pp=554-682}}に所収</ref><ref>林房雄との対談「現代における右翼と左翼――リモコン左翼に誠なし」(流動 1969年12月・創刊号)。{{Harvnb|40巻|2004|pp=}}に所収</ref><ref name="sabaku">「砂漠の住民への論理的弔辞――討論を終へて」(『討論 三島由紀夫vs.東大全共闘〈美と共同体と東大闘争〉』新潮社、1969年6月)。{{Harvnb|35巻|2003|pp=474-489}}に所収</ref><ref name="sengo2"/>。

また、[[楯の会]]を率いていた三島は、映画出演の約半年前の年頭に[[桜田門外の変]]について触れつつ、[[井伊直弼]]の首を取り自分も重傷を負って自刃した[[有村次左衛門]]のような国家変革の情熱に燃えた日本人らしい維新の若者と、タオルの覆面姿で「[[大和言葉]]」ではない汚い言葉を発し、「[[神州]]清潔の民」の日本人がとても居られないようなゴミだらけの不潔きわまりなく、あたかも外国人を住まわせるための地域のような「[[解放区]]」を目指す全学連が全く違うことに言及し、自身も維新の若者のような気概と志を見習いたい心持ちや希望を抱いていた<ref>「維新の若者」(報知新聞 1969年1月1日号)。{{Harvnb|35巻|2003|pp=372-373}}に所収</ref>。
{{Quotation|維新の若者といへば、もちろん中にはクヅもゐたらうが、純潔無比、おのれの信ずる行動には命を賭け、国家変革の情熱に燃えた日本人らしい日本人といふイメージがうかぶ。かれらはまづ日本人であつた。そこへ行くと、国家変革の情熱には燃えてゐるかもしれないが、全学連の諸君は、まつたく日本人らしく思はれない。<br />しかし私は、今年こそ、立派な、さはやかな、日本人らしい「維新の若者」が陸続と姿を現はす年になるだらうと信じてゐる。日本はこのままではいけないことは明らかで、戦後二十三年の垢がたまりにたまつて、経済的繁栄のかげに精神的ゴミためが累積してしまつた。われわれ壮年も若者に伍して、何ものをも怖れず、歩一歩、新らしい日本の建設へ踏み出すべき年だ来たのである。|三島由紀夫「維新の若者」}}

三島は幕末を舞台にした映画に出たことの喜びを、「ぼくは現代劇より、こんな格好をして[[チャンバラ]]をやる方が好きなんだ」とし、「なぜなら幕末の世相と似通っている現代は、“思想は腕力”だと信じるからです」とも述べている<ref name="yomi"/><ref name="yama"/>。

== 資料 ==
*{{Citation|和書|editor=[[日本シナリオ作家協会|シナリオ作家協会]]|date=1970-08|title=年鑑代表シナリオ集 1969|publisher=[[ダヴィッド社]]|id={{NCID|000001250725}}|ref={{Harvid|シナリオ|1970}}}} - [[橋本忍]]の脚本「人斬り」所収。
*{{Citation|和書|author=[[司馬遼太郎]]|date=2004-12|title=人斬り以蔵|publisher=[[新潮文庫]]|edition=改|isbn=978-4101152035|ref={{Harvid|司馬|2004}}}} 初版は1969年12月

== ビデオ発売 ==
『人斬り』は五社英雄の代表作ながらも、日本ではDVDで発売されていない<ref>「おわりに」({{Harvnb|春日|2016|pp=307-314}})</ref>(2017年現在も)。VHSとレーザーディスクは発売されたが絶版となっており<ref name="ryaku">山中剛史「三島映画略説――雑誌、新聞記事から」({{Harvnb|研究2|2006|pp=39-43}})</ref><ref name="eiga"/>、[[CS放送]]([[時代劇専門チャンネル]]など)で放映されるのみである<ref name="ryaku"/>。なお、フランスではDVD発売されている。
*VHS『人斬り』([[ポニーキャニオン]]、1985年12月) - 絶版
*レーザーディスク『人斬り』(ポニーキャニオン、1991年6月) - 絶版
* [[フランス]]版『Hitokiri, le châtiment』(Wild Side Video、2008年4月){{ASIN|B006LNAACI}}
**形式:[[PAL]]。[[リージョンコード]]:リージョン2
**Edition Collector DVD2枚。[[フランス語]]字幕付き(ON/OFF可)

== 劇画化 ==
映画同時公開[[劇画]]シリーズ第3弾として、[[平田弘史]]により『[[週刊少年キング]]』([[少年画報社]])で1969年(昭和44年)8月号から9月号に連載された<ref>[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1847478?tocOpened=1 国立国会図書館デジタルコレクション――週刊少年キング1969 7(36)巻] [http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1847479?tocOpened=1 国立国会図書館デジタルコレクション――週刊少年キング1969 7(36)巻]</ref>。第1弾は『[[座頭市海を渡る]]』、第2弾は『[[御用金 (映画)|御用金]]』で、単行本収録は以下である。なお、三島由紀夫は平田弘史の画を好んでいた<ref name="gekiga">「劇画における若者論」[[サンデー毎日]] 1970年2月1日号)。{{Harvnb|36巻|2003|pp=53-56}}に所収</ref>。
*『斬る!! ―座頭市&人斬り岡田以蔵伝―』〈別冊エースファイブコミックス〉([[松文館]]、2010年2月) ISBN 978-4790123248
*『人斬り』〈レジェンドコミックシリーズ4〉([[星雲社]]、2005年2月。2014年11月) ISBN 4434050885


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
<references/>
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}

== 参考文献 ==
*{{Citation|和書|date=2003-07|title=決定版 [[三島由紀夫]]全集32巻 評論7|publisher=[[新潮社]]|isbn=978-4106425721|ref={{Harvid|32巻|2003}}}}
*{{Citation|和書|date=2003-09|title=決定版 三島由紀夫全集34巻 評論9|publisher=新潮社|isbn=978-4106425745|ref={{Harvid|34巻|2003}}}}
*{{Citation|和書|date=2003-10|title=決定版 三島由紀夫全集35巻 評論10|publisher=新潮社|isbn=978-4106425752|ref={{Harvid|35巻|2003}}}}
*{{Citation|和書|date=2003-11|title=決定版 三島由紀夫全集36巻 評論11|publisher=新潮社|isbn=978-4106425769|ref={{Harvid|36巻|2003}}}}
*{{Citation|和書|date=2004-03|title=決定版 三島由紀夫全集38巻 書簡|publisher=新潮社|isbn=978-4106425783|ref={{Harvid|38巻|2004}}}}
*{{Citation|和書|date=2004-05|title=決定版 三島由紀夫全集39巻 対談1|publisher=新潮社|isbn=978-4106425790|ref={{Harvid|39巻|2004}}}}
*{{Citation|和書|date=2004-07|title=決定版 三島由紀夫全集40巻 対談2|publisher=新潮社|isbn=978-4106425806|ref={{Harvid|40巻|2004}}}}
*{{Citation|和書|date=2005-08|title=決定版 三島由紀夫全集42巻 年譜・書誌|publisher=新潮社|isbn=978-4106425820|ref={{Harvid|42巻|2005}}}}
*{{Citation|和書|author=三島由紀夫|date=2006-11|title=[[文化防衛論]]|publisher=[[ちくま文庫]]|isbn=978-4480422835|ref={{Harvid|防衛論|2006}}}}
*{{Citation|和書|author=三島由紀夫|date=2016-10|title=小説読本|publisher=[[中公文庫]]|isbn=978-4122063020|ref={{Harvid|小説読本|2016}}}}
*{{Citation|和書|editor1=[[井上隆史 (国文学者)|井上隆史]]|editor2=[[佐藤秀明 (学者)|佐藤秀明]]|editor3=[[松本徹 (学者)|松本徹]]|date=2000-11|title=三島由紀夫事典|publisher=[[勉誠出版]]|isbn=978-4585060185|ref={{Harvid|事典|2000}}}}
*{{Citation|和書|editor1=井上隆史|editor2=佐藤秀明|editor3=松本徹|date=2001-05|title=三島由紀夫の表現|series=三島由紀夫論集II|publisher=勉誠出版|isbn=978-4585040422|ref={{Harvid|論集II|2001}}}}
*{{Citation|和書|editor1=井上隆史|editor2=佐藤秀明|editor3=松本徹|date=2006-06|title=三島由紀夫と映画|series=三島由紀夫研究2|publisher=[[鼎書房]]|isbn=978-4907846435|ref={{Harvid|研究2|2006}}}}
*{{Citation|和書|editor1=井上隆史|editor2=佐藤秀明|editor3=松本徹|date=2011-05|title=同時代の証言 三島由紀夫|publisher=鼎書房|isbn=978-4907846770|ref={{Harvid|同時代|2011}}}}
*{{Citation|和書|author=[[越次倶子]]|date=1983-11|title=三島由紀夫 文学の軌跡|publisher=[[広論社]]|id={{NCID|BN00378721}}|ref={{Harvid|越次|1983}}}}
*{{Citation|和書|author=[[岡山典弘]]|date=2014-11|title=三島由紀夫外伝|publisher=[[彩流社]]|isbn=978-4779170225|ref={{Harvid|岡山|2014}}}}
*{{Citation|和書|author=[[春日太一]]|date=2016-08|title=鬼才[[五社英雄]]の生涯|series=[[文春新書]]1087|publisher=[[文藝春秋]]|isbn=978-4166610877|ref={{Harvid|春日|2016}}}}
*{{Citation|和書|editor=春日太一|date=2014-11|title=五社英雄――極彩色のエンターテイナー 総特集――|series=[[KAWADE夢ムック]]|publisher=[[河出書房新社]]|isbn=978-4309978512|ref={{Harvid|ムック|2014}}}}
*{{Citation|和書|editor1=[[桂千穂]]|editor2=[[掛札昌裕]]|date=2015-06|title=エンタムービー 本当に面白い時代劇 1945→2015――「戦後70年間」の時代劇を徹底検証|series=メディアックスMOOK504|publisher=[[メディアックス]]|isbn=978-4862019448|ref={{Harvid|時代劇|2015}}}}
*{{Citation|和書|author=[[川島勝 (編集者)|川島勝]]|date=1996-02|title=三島由紀夫|publisher=[[文藝春秋]]|isbn=978-4163512808|ref={{Harvid|川島|1996}}}} - 著者は[[講談社]]での三島担当編集者。
*{{Citation|和書|author=佐藤秀明|date=2006-02|title=三島由紀夫――人と文学|series=日本の作家100人|publisher=勉誠出版|isbn=978-4585051848|ref={{Harvid|佐藤|2006}}}}
*{{Citation|和書|author=[[椎根和]]|date=2012-10|title=完全版 平凡パンチの三島由紀夫|publisher=[[茉莉花社]](河出書房新社)|isbn=978-4309909639|ref={{Harvid|椎根|2012}}}} - 原版(新潮社)は2007年3月 ISBN 978-4103041511。著者は[[平凡パンチ]]の元編集者
*{{Citation|和書|author=[[司馬遼太郎]]|date=2004-12|title=人斬り以蔵|publisher=[[新潮文庫]]|edition=改|isbn=978-4101152035|ref={{Harvid|司馬|2004}}}} 初版は1969年12月
*{{Citation|和書|editor1=[[長谷川泉]]|editor2=[[武田勝彦]]|date=1976-01|title=三島由紀夫事典|publisher=[[明治書院]]|id={{NCID|BN01686605}}|ref={{Harvid|旧事典|1976}}}}
*{{Citation|和書|author=[[日高靖一]]ポスター提供|date=1989-05|title=なつかしの日本映画ポスターコレクション――昭和黄金期日本映画のすべて|series=デラックス近代映画|publisher=[[近代映画社]]|isbn=978-4764870550|ref={{Harvid|なつかし|1989}}}}
*{{Citation|和書|author=日高靖一ポスター提供・監修|date=1990-02|title=なつかしの日本映画ポスターコレクション PART2|edition=永久保存|publisher=近代映画社|isbn=978-4764816404|ref={{Harvid|なつかし2|1990}}}}
*{{Citation|和書|author=松本徹|date=1990-04|title=三島由紀夫――年表作家読本 |publisher=河出書房新社|isbn=978-4309700526|ref={{Harvid|年表|1990}}}}
*{{Citation|和書|editor1=[[山内由紀人]]|editor2=[[平岡威一郎]]監修|editor3=[[藤井浩明]]監修|date=1999-12|title=三島由紀夫映画論集成|publisher=[[ワイズ出版]]|isbn=978-4898300138|ref={{Harvid|映画論|1999}}}}
*{{Citation|和書|author=[[室岡まさる]]|date=1993-07|title=[[市川雷蔵 (8代目)|市川雷蔵]]とその時代|publisher=[[徳間書店]]|isbn=978-4195552377|ref={{Harvid|室岡|1993}}}}
*{{Citation|和書|author=山内由紀人|date=2011-07|title=三島由紀夫vs.司馬遼太郎――戦後精神と近代|publisher=河出書房新社|isbn=978-4309020518|ref={{Harvid|山内・戦後|2011}}}}
*{{Citation|和書|author=山内由紀人|date=2012-11|title=三島由紀夫 左手に映画|publisher=河出書房新社|isbn=978-4309021447|ref={{Harvid|山内・左|2012}}}}
*{{Citation|和書|author=[[四方田犬彦]]|date=2014-08|title=日本映画史110年|publisher=[[集英社]]|edition=増補改訂|isbn=978-4087207521|ref={{Harvid|四方田|2014}}}}
*{{Citation|和書|editor=[[松竹株式会社]]事業部|date=1985-11|title=人斬り|publisher=松竹株式会社|isbn=|ref={{Harvid|再上映|1985}}}} - 再上映パンフレット
*{{Citation|和書|editor=|date=2007-07|title=キネマ旬報ベスト・テン80回全史 1924-2006|series=[[キネマ旬報]]ムック|publisher=[[キネマ旬報社]]|isbn=978-4873766560|ref={{Harvid|80回史|2007}}}}
*{{Citation|和書|editor=|date=2012-05|title=キネマ旬報ベスト・テン85回全史 1924-2011|series=キネマ旬報ムック|publisher=キネマ旬報社|isbn=978-4873767550|ref={{Harvid|85回史|2012}}}}
*{{Citation|和書|editor=|date=2014-12|title=オールタイム・ベスト映画遺産 日本映画男優・女優100|series=キネマ旬報ムック|publisher=キネマ旬報社|isbn=978-4873768038|ref={{Harvid|男優|2014}}}}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
*[[暗殺事件の一覧]]
*[[土佐勤皇党]]
*[[尊皇攘夷]]
*[[安政の大獄]]
*[[安保闘争]]
*[[清岡道之助]]
*[[朔平門外の変]]
*[[朔平門外の変]]
*[[佐幕]]
*[[尊皇攘夷]]
*[[天誅組]]
*[[永井尚志]]
*[[幕末の四大人斬り]]
*[[八月十八日の政変]]
*[[八月十八日の政変]]

*[[土佐藩]]
== 外部リンク ==
*[[司馬遼太郎]]
* {{Allcinema title|142970|人斬り}}
* {{Kinejun title|22742|人斬り}}
* {{IMDb title|0200710|人斬り}}
* [http://www.geocities.jp/cyannyuu/690809.html 石原裕次郎専科――フィルモグラフィー「人斬り」]


{{五社英雄監督作品}}
{{五社英雄監督作品}}
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[[Category:フジテレビ製作の映画]]
[[Category:フジテレビ製作の映画]]
[[Category:五社英雄の監督映画]]
[[Category:五社英雄の監督映画]]
[[Category:暗殺者を主人公とした映画作品]]
[[Category:京都市を舞台とした映画作品]]
[[Category:滋賀県を舞台とした映画作品]]
[[Category:高知市を舞台とした映画作品]]
[[Category:三島由紀夫]]
[[Category:三島由紀夫]]
[[Category:橋本忍]]
[[Category:橋本忍]]
[[Category:勝新太郎]]
[[Category:勝新太郎]]
[[Category:石原裕次郎]]
[[Category:石原裕次郎]]

== 外部リンク ==
* [http://www.geocities.jp/cyannyuu/ - 石原裕次郎専科 -]
* [http://www.geocities.jp/cyannyuu/690809.html - 石原裕次郎専科 - 人斬り]

2017年5月23日 (火) 01:52時点における版

人斬り
Hitokiri
監督 五社英雄
脚本 橋本忍
原作 司馬遼太郎『人斬り以蔵』(参考文献)
製作 村上七郎法亢堯次
出演者 勝新太郎
仲代達矢
三島由紀夫
石原裕次郎
倍賞美津子
新條多久美
仲谷昇
下元勉
山本圭
伊藤孝雄
賀原夏子
田中邦衛
山内明
萩本欽一
坂上二郎
辰巳柳太郎
音楽 佐藤勝
撮影 森田富士郎
編集 菅沼完二谷口登司夫
製作会社 フジテレビジョン
勝プロダクション
配給 大映
公開 日本の旗 1969年8月9日
上映時間 140分(カラー・ワイド)[1][2]
製作国 日本の旗 日本
言語 日本語
配給収入 3億5000万円[3][4]
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人斬り』(ひときり)は、1969年(昭和44年)8月9日公開の時代劇映画。監督は五社英雄。製作はフジテレビジョン勝プロダクション配給大映[5][6]司馬遼太郎の短編『人斬り以蔵』を参考文献にしたオリジナル作品で、脚本橋本忍が担当した[6][7]。この年に劇場用映画製作に進出したフジテレビが第1作『御用金』に続いて放った第2作目で[6][8][9]、勝プロダクション初の時代劇製作映画でもある[10][注釈 1]。公開当時は映画倫理管理委員会より成人映画(映倫番号15909)の指定を受けた[11]

動乱の幕末を舞台に、下級武士出身ながらも京の都を震撼させ「人斬り以蔵」の名を轟かせた土佐最強の暗殺剣士・岡田以蔵の半生を、土佐勤皇党の党首・武市半平太との関係を基軸に描いた娯楽歴史劇である[6][7][12]。キャストは勝新太郎仲代達矢三島由紀夫石原裕次郎といった豪華な顔ぶれで、特に本業が俳優でない三島の起用が大きな話題を呼んだ[6][7][13][12]

同じく壮大なスケールの歴史劇で同年3月に封切られた三船敏郎率いる三船プロ製作の『風林火山』(東宝配給)との東西時代劇対決の様相ともなり、勝プロの『人斬り』はキネマ旬報ベストテンでは圏外の第14位で、三船の『風林火山』の第10位に敗れたものの、興行成績は1969年度(4月から12月)の興行ベストテン第4位に入る大ヒットとなった[3][4][6][注釈 2]。また2004年(平成16年)発表のオールタイムベスト・テン時代劇のランキングでは第51位となった[16]

見どころはリアルな死闘の暗殺場面や豪快な殺陣の立ち回りで、以蔵扮する勝の人間臭い喜怒哀楽や、田中新兵衛役の三島の迫真の切腹演技も好評であった[6][7][8][17]。この約1年後に三島は実際に切腹死するが(詳細は三島事件を参照)、自決のわずか1年前の三島の姿がたっぷりと見られる映画として貴重な資料にもなっている[18][6]

公開時の惹句は、「斬る!斬る!斬る! 問答無用でぶった斬る!!」、「勝が斬る!仲代が斬る!三島が斬る!裕次郎が斬る! 問答無用でぶった斬る!!」である[19][10][20]。併映は井上芳夫監督の『女賭博師丁半旅』(出演:江波杏子藤巻潤)である[6][20][注釈 3]

おもなキャスティング

四柱スター競演

『人斬り』の主役となる岡田以蔵は、製作の勝プロダクション社長でもある勝新太郎が演じている。独立プロを持つ以前は市川雷蔵と共に「カツライス」と呼ばれて大映の二枚看板を担っていた大スター勝新太郎は、映画史に残る時代劇『座頭市』シリーズに代表されるように、迫力満点の殺陣の演技で定評があり、その怪物的なアウトロー役のスケールの大きさと貫禄は主役を張るのに充分であった[22][23][10]

岡田以蔵といえば、幕末京都土佐最強の「人斬り」として怖れられた冷徹な暗殺者という暗く殺気のあるイメージだが、勝新太郎の演じる以蔵はどこか人懐っこく感情表現豊かで、泥臭く人間味のある硬骨漢として登場する[18][10]。また、以蔵が未来に明るい希望を宿しつつ挫折を味わい、絶望の淵から這い上がろうとする様も哀切風に描かれ、坂本龍馬田中新兵衛との友情や、女郎・おみのへの情愛なども加味された演出となっている[7][10]

以蔵の生涯に大きな影響を及ぼした土佐勤皇党盟主・武市半平太役には、黒澤明監督の映画などで注目され『人間の条件』で不動の地位を得て重厚な演劇人として名高い仲代達矢が選ばれた[24][10]。仲代はフジテレビ製作映画第1弾の『御用金』にも出演している[9][25]。仲代の演じる武市は以蔵とは正反対の性格の人物として登場し、前半は清廉な革命家、物語後半は冷徹かつ非情な都の独裁者として描かれ、テロの首謀者といった趣の演出となっている[7][10]

武市や以蔵と同じ土佐藩出身ながらも、異なる手法で倒幕を図る坂本龍馬役には石原裕次郎が訥々と扮し、以蔵が武市の飼犬となり人斬りの道を盲目的に邁進するのを時に静かに諌め、以蔵の苦境を救う存在として登場する[7]。竜馬は武市の冷酷さとは好対照な温かい友愛を示す人物として演出されている[7][10]日活の大スターだった裕次郎も、勝同様に個人事務所の石原プロモーションを当時すでに設立して活躍していた[26][27][10]

以蔵と同じく暗殺者として生きる「人斬り新兵衛」こと薩摩藩士・田中新兵衛に起用されたのは、民兵組織「楯の会」の主宰やノーベル文学賞候補として当時注目されていた文壇のスター三島由紀夫であった[7][28]。三島の演じる新兵衛は、殺気みなぎる人物として登場し、見事な殺陣や以蔵との友情、突然の切腹死で鮮烈な印象を残す存在として演出されている[7]。この『人斬り』公開の翌年、三島自身も「楯の会」同志と三島事件で壮絶な割腹自決を遂げることとなり、その後『人斬り』の価値がセンセーショナルな話題を呼ぶものとなった[6][12][29][10]

その他

岡田以蔵をとりまく女性には、以蔵が憧れる高い身分の姫として演出される姉小路綾姫役に新人の新條多久美、以蔵の馴染の女郎役には松竹歌劇団出身で2年前に映画デビューした倍賞美津子が花を添えている[10][20]。情婦おみのは、以蔵の心身ともに身近な存在として登場し、セミヌードになっている倍賞はこの貧しい女郎を体当たりで好演し注目されることになった[30][10]

作品導入部の、土砂降りの雨の中で土佐勤皇党3名に襲われる土佐藩執政吉田東洋役にはベテラン俳優の辰巳柳太郎が配され、血泥まみれの死闘の末の壮絶な殺され方をする東洋暗殺事件は、目撃者の以蔵が、俺ならもっと手際よくやれると歯がゆく思い暗殺者として目覚める場面として演出されている[8][10][31]

また、以蔵が浪人狩りで入れられた六角牢の中の端役には、人気お笑いコンビのコント55号の2人(萩本欽一坂上二郎)が異色キャストとして宣伝ポスターやチラシなどでクレジットされている[10][20]。コント55号は『人斬り』と同年公開の映画『コント55号 人類の大弱点』に主演しているが、この喜劇映画は1969年度のキネマ旬報興行ベストテン第9位となっている[3][4]

原作との違い

『人斬り』の参考文献となった司馬遼太郎の短編小説『人斬り以蔵』(『別冊文藝春秋』87号・昭和39年4月号掲載)は、司馬が昭和30年代後半から連作で書いた幕末物の暗殺小説の一つで、土佐の歴史と風土をふまえた作品となっている[6][7]

『人斬り以蔵』では、土佐藩足軽の子として生まれ貧しい下級武士から這い上がるため懸命になり、幕末動乱期に「人斬り」(暗殺者)としてしか生きられなかった不幸な岡田以蔵の短く悲劇的な生涯を、師であった武市半平太との関係を軸にして描いている[32][6][7][33]

司馬は『人斬り以蔵』の中で、「不幸な男」以蔵が何の抵抗もなく人斬りを重ねる姿について、「以蔵が狂人でないとすれば、この時代が生み出した畸形児といってよい」とし、すさまじい剣術の腕を身につけた「狂犬」の以蔵を操縦して「馴犬」にする武市については、「本来、沈毅な君子人として知られた男」と紹介し、武市の高潔な人柄や、武市の邪魔となる人物を黙々と忖度して斬っていく以蔵の心理を丹念に追うのと同時に、その以蔵の「無智な人斬り」ぶりを嫌い始め、足軽の出で無教養な以蔵への武市の感情の移ろいも描いている[7][33]

この『人斬り以蔵』を発表した前後から、司馬の独自の文学観や歴史小説スタイルが確立されていったが[7]、司馬は「」と並んで永遠に不可解なものである「権力」という「男がその人生を当然噛みこませてゆかざるをえないもの」を自身の作品テーマにし、その男から生れてくる「」というものを冷徹に見つめて描くことを身上としていた[32][7]

小説を書くという作業は、自分自身の中にある普遍的人間が歴然と住んでいて、それがいかに奇妙な心理や行動を表現しようとも、本来普遍性から外れることがないという、いわば証明不要の公理のようなものを信ずる以外に書けるものではない。(中略)男は一個の身を無数の権力もしくは権力現象に身をゆだねたり、そのとりこになり、他に害をあたえたり、あるいは害を受けたり、ときにはそれを得ることによって何事かの自己表現を遂げようとあくせくし、それがために生死する。(中略)志とは単に権力志向へのエネルギーに形而上的体裁をあたえたにすぎない場合もあるが、それはそれなりに面白く、さらにはいかなる志であっても志は男が自己表現をするための主題であり、ときには物狂にさせるたねでもあるらしい。 — 司馬遼太郎「自分の作品について」[32]

いわば、『人斬り以蔵』における以蔵は、武市という男の権力の「とりこ」になり、「人斬り」になった以蔵は、「自己表現」を遂げようとあくせくし、それ故に生死し、「人斬り」は以蔵の屈折した「志」であり、「自己表現をするための主題」でもあった[32][7]。そして司馬は、時代の中で悲劇的な宿命を生きた「不幸な男」以蔵の生涯にある人間の悲しい性分も見つめ描いている[7]

そうした司馬の快諾を受けて橋本忍が手がけた映画『人斬り』の脚本では、以蔵と武市の関係性や、やがて以蔵が武市に憎悪を感じていき人間的に目覚めていく過程は共通し、最後にそれまでの所業を告白するという点は同じであるが、映画では、以蔵と武市の心理は単純化され、武市は最初から以蔵を利用する道具として見なしている設定である[7][31][33]。また、映画では最後、以蔵は入牢中ではなく、小屋で無為に暮らしているところに、武市の差し金の毒酒を飲んで辛くも助かり自ら高知城に自白に出向いていく流れになっている[7][33]

小説冒頭部での以蔵が武市の道場に入門を許されるに至るエピソードなどの、武市を師と仰ぐようになった出会いの経緯は映画では省かれ、勝海舟の護衛をする場面も、映画では石部宿の大天誅の後のこととして脚色されている[7][33]。さらに、ストーリー展開上で必要なエピソードや暗殺事件などを生かしつつも、新たに肉付けした要素が多くなっており、映画『人斬り』はオリジナルの物語の様相となっている[7][33]

人物造型的には、野性的で涙もろい以蔵は小説でもそうであるが、武市の人物像は小説とは微妙に異なり、映画では非情で徹底したエゴイストとして脚色されている[7][33]。橋本の脚色では、公開当時の1960年代後半の世相が加味され、全共闘などの新左翼学生運動が吹き荒れていた時代潮流を見据えた一種の革命幻想風に仕立てられ、武市が牢内でアジる場面が橋本の独創として加えられている[6][7]

橋本の脚本を元に俳優の演技指導をした五社英雄監督は、その武市に利用された挙句に捨てられ破滅的最期を迎える以蔵について、「権力闘争の中で使い捨てられた男の話、暗殺しかできないきわめて荒削りな、むき出しな男の、おろかであればあるだけの悲しさを描きたい」と演出意図を語り[34][31]、勝新太郎の以蔵は五社自身の分身でもあると述べている[35][34]

僕は岡田以蔵そのものを自分の分身のように描こうと思ったわけです。岡田以蔵的なものの中には、自分の恥部に刺さるようなものがある。いままで四十年間生きてきた自分の生き方の、傷や、あるいはコンプレックスや自意識を、チクチク刺すものがありますからね。それで一応ああいう作品ができました。それがある面では、今度の作品における僕の心情的なものの積み重ねの印になっている。 — 五社英雄長部日出雄との対談)「映画は誰のためになぜ作られるのか」[34]

豪傑な一匹狼を自負しつつも、その実態は結局組織から離れることは出来ず、自身の惨めさや情けなさを味わう以蔵の姿を随所に描くことが映画の演出意図であり、またそこに自身を重ねて描くことが、五社監督の主題でもあった[34][31]

小説『人斬り以蔵』では坂本龍馬はエピソード的に短く登場し、薩摩藩の人斬り・田中新兵衛も名前が出てくるだけであるが、映画では、彼らと以蔵との交流が多分に加えられている[7][33]。また小説でも映画でも以蔵が酒色を好んだことになっているが、映画で以蔵との関係性が濃密に描かれている遊郭女郎おみのや、姉小路公知の妹の綾姫なども小説には登場しない人物である[7][33]

さらに橋本の脚本では、小説『人斬り以蔵』で少ししか触れられていない姉小路公知の暗殺エピソードをクローズアップし、歴史の忠実では暗殺犯の真相は不明であるものの、武市が以蔵に命じたこととして独自解釈の脚色がなされ、策謀家・革命家としての武市の一面を強調させている[7]。また、姉小路暗殺の嫌疑をかけられた田中新兵衛の切腹場面も具体的な見どころとして加えられている[7][注釈 4]

製作背景

フジテレビ製作第2弾

当時業績が好調だったフジテレビジョン1969年(昭和44年)に新事業の映画製作に乗り出し、フジテレビの株主であった東宝大映松竹の3社と一本ずつ映画を製作するという案が出ていたが、協定の中で各会社は二の足を踏み、「配給」という方式で、系列会社と組んだフジテレビと提携するという形を取ることに決まった[31]

1969年(昭和44年)5月17日に公開されたフジテレビ製作映画第1弾の『御用金』は、東宝の系列会社の東京映画と組んで初めて映画製作した作品で、配給は東宝となった[9][31]。監督はフジテレビの五社英雄が担当し、俳優陣は仲代達矢丹波哲郎中村錦之助夏八木勲西村晃といった面々が死闘のチャンバラを繰り広げるスペクタクル時代劇であった[6][9][36][31]

この『御用金』は多くの観客を集め大ヒット作となった(結果的に1969年度の興行ベストテン第6位となる)[3][6][9][36]。フジテレビは立て続けに映画第2弾の企画を進め、勝新太郎率いる勝プロダクションと組んで、次もさらに豪華な時代劇を製作することにした[31]

この当時、従来のメジャー映画会社は衰退に向かっていて、大スターが相次いで独立プロダクションを起し大作映画を手がけるようになっていた[3][4]。勝新太郎も自分が思い描く通りの映画を作りたく、マンネリの人気シリーズばかりに主演する状況に不満を持って独立していた[31]。そんな勝にとってフジテレビの潤沢な予算は渡りに舟であった[31]

かつて勝が所属した老舗の大映も他の会社同様に経営危機に追い込まれていて、製作予算が多く取れないのが現状であった[3][4][8]。しかし旧知の間柄の勝と共に、豊富な資金を持つフジテレビと提携することで、通常の3倍の予算が組まれることになり、3社共々力を注ぐ作品として企画が進んでいった[8][31]

フジテレビ製作第2作目は、五社英雄が『御用金』に続いて監督を担当することになった[6]。五社英雄はテレビ出身の映画監督第1号で、テレビ時代劇『三匹の侍』などの凄まじいリアルな殺陣の演出で才気を見せ、『御用金』でも危険な岩場や、海の中、大雪原の中でのチャンバラ決闘の面白さで注目されていた監督であった[37][38][9][36][31]

脚本は橋本忍が担当し、司馬遼太郎の短編『人斬り以蔵』を参考文献にしてオリジナルのシナリオを作ることになった[6][7]。橋本は、黒澤明監督の『羅生門』が脚本家デビュー作で、『生きる』『七人の侍』など多くの黒沢映画に参加し、黒澤組を離れた後も、『真昼の暗黒』『ゼロの焦点』『切腹』『日本のいちばん長い日』『白い巨塔』など数々の大作を手掛けて、緊密で論理的な構成力の脚本で定評のある一流脚本家であった[7][36][31]

三島への出演依頼

『人斬り』では三島由紀夫田中新兵衛役が大きな目玉となったが、三島がこの映画に出演することになったきっかけとしては、三島の自主製作映画『憂国』(1966年4月封切)を観ていた五社英雄が思いつき、橋本忍も賛同した経緯があり、五社が直接、三島邸を訪問して正式依頼した[39][28]

岡田以蔵勝新太郎ときまったが、田中新兵衛の役を誰にするか、が問題になった。勝新太郎と互角に渡り合えて、なおかつ田中新兵衛は大変口数が少ない男で、躰全体から殺気がほとばしっていなくてはいけない。さんざん探したあげく、三島由紀夫さんに白羽の矢をあてた。脚色の橋本忍さんにそのことをいうと「これは全く名キャストだ」と喜んでくれた。 — 五社英雄「演出家の眼」[39]

しかし最初に三島の側に話を持って行ったのは勝プロ製作第1作目に力を入れていた勝新太郎であった[17]。勝は、大映の企画部長の藤井浩明のところにやって来て、「ちょっと頼みがあるんだけどさ、三島さんに出て貰えない?」と『人斬り』の田中新兵衛を三島さんにやってほしいと切り出した[17]。藤井は三島が『からっ風野郎』で主役を演じて以来、『憂国』の映画製作にも携わり、三島のマネージャー的な存在になっていた[17]

勝から依頼された瞬間、藤井は三島が絶対一発で引き受けると確信していたが、「勝さん、それはわかんないよ」と勿体つけ、勝がさらに頼み込むのを待ってから、「じゃあ話してくるからね」と応じた[17]。そしてその依頼の件を三島に話すと、案の定三島は間髪入れず、「俺やるよ」「この田中新兵衛なら絶対やる!」と即答であった[17]

五社監督が正式依頼に三島邸を訪問した際にも、三島は嬉しさを隠しきれない様子であった[39][28][31]。そんな三島の様子は、「すぐにでも引受けたいような、まるでガキ大将に近藤勇の役を持っていったような」風で、「とても正直な、子供のように無邪気な感じ」だったと五社監督は振り返っている[40][31]

三島は「私は時代劇てものはやったことがないけどはのるかね?」とニコニコしながら、すでに気持は決まっていたにもかかわらず、それでも一応勿体つけた様子で、「ともかく明日中に返事をします」と五社を見送った[39][28]。しかし三島は我慢できずその日の晩すぐに五社に電話を入れ、「ぜひ出させてくれ」と引き受けた[39][28]

何ゆゑ私に、幕末の刺客、薩摩侍の田中新兵衛の役が振られたか、多分、下手な剣道をやつてゐてサムラヒ・イメージを売り込んでゐたり、テロリズムを礼賛してゐるやうに世間から思はれてゐたり、また私を使へばその分の宣伝費はタダですむと計算されてゐたり、いろいろの理由があるだらうが、「もの」を選ぶといふのは、最終的には総合的判断である。総合的判断とは、非合理的なものである。さういふ風にして、私の知らないところで、さういふ相談が進んでゐた、といふことが……そして私の「知的な部分」なんかは全然考慮の外に置かれたといふことが、私をうれしがらせたことは相当なものだつた。それはともかく、橋本忍氏のすぐれたシナリオの中でも、ろくに性格描写もされておらず、ただやたらに人を斬つた末、エヽ面倒くさいとばかりに突然の謎の自決を遂げる、この船頭上りの単細胞のテロリストは私の気に入つた。 — 三島由紀夫「『人斬り』田中新兵衛にふんして」[41]

当時三島は、楯の会を率いての自衛隊体験入隊や、剣道空手居合を稽古し自らの思想や美学を実践している有言実行ぶりが若者の間で人気となり、スーパー・アイドル的な存在であった[42][6][28]。作家活動だけでないそうした数々の行動ぶりが、どこか幕末の志士とも共通する危険な雰囲気を孕んでいた[40][31]

三島が様々なエッセイ・評論を投稿していた雑誌『平凡パンチ』では、読者の人気投票で三船敏郎を720票差でおさえて19,590得票し「ミスターダンディ」の第1位に輝いていた[43][42]。次に読者投票が行われた「ミスター・インターナショナル」では、第1位のフランスド・ゴール大統領に次いで、三島は第2位に選ばれた[44][6][42][注釈 5]。当時雑誌などの日本のマスコミから「スーパースター」と最初に書かれた有名人が三島だった[45]

準主役の配役も決まり、1969年(昭和44年)4月25日に映画製作の記者会見が開かれた。五社英雄監督らと共に勝新太郎と三島由紀夫が列席し、衣裳合わせも兼ねて三島は髷姿のサムライの風体で臨んだ[6]プロデューサー法亢堯次は三島を配役した理由を、「勝、仲代、石原はいずれも個性の強い役者、これに対抗できる人をと考えた末に思い切って三島氏に頼んだ」と語った[46][6]

三島が時代劇に映画出演するということが大いに注目され、各スポーツ新聞は三島の写真も入れ、週刊誌グラビアでそれを大きく報じた[47][48][6]

時代劇殊に幕末物は好きだが、自分がまさか時代劇に出演することにならうとは、想像もしてゐなかつた。(そんな利口なプロデューサーはゐるまい、とタカをくくつてゐたのが本音である) はじめてカツラをつけ、大小を腰にさしても、剣道や居合の道場の延長で、少しも違和感を感じなかつた。第一、私自身、人から見れば漫画だらうが、幕末の勤皇の志士の心境で、毎日を送つてゐるのだから、その生活感情がそのまま画面に出ればいいのだと思つた。 — 三島由紀夫「『人斬り』出演の記」[49]

五段を持っていた三島の剣道は警視庁剣道の北辰一刀流で、1965年(昭和40年)からは真剣で居合も習い、1966年(昭和41年)3月からは皇居内の済寧館道場に通っていた[12]。会見で三島は薩摩侍の役作りのため、新たに鹿児島示現流を学ぶ意気込みを見せた[50][6][12]

この1969年(昭和44年)の夏は、三島原作の戯曲『わが友ヒットラー』、『サド侯爵夫人』などの再演や『癩王のテラス』の話題と共に、この映画『人斬り』出演のことで演劇界はちょっとした「三島ブーム」となり、マスコミの芸能欄を賑わしていた[38]

役作りのために三島が五社監督に、「テロリストの芝居は何ですか」「一番気をつけることは何ですか」と尋ねると、「テロリストとしたら一種の狂気じみたあなたの目だ、目のエネルギーだ、どう見てもあなたの顔の骨相犯罪者だ」と答えた[40][31]。三島はそれを聞くと高笑いし、「違う社会の人と付き合うと、思わぬことを言われますね」と、五社監督に信頼を置くようになった[40][31]

撮影現場

五社と大映スタッフ

『人斬り』の撮影は大映京都撮影所で5月16日にクランクインした[6]。五社英雄監督が初めて撮影所に来て、最初に入ったセットは第五ステージだった[51]。時代劇映画の保守本流ともいえる大映には芸術的感性を持つ一流のスタッフ陣が揃っていた[36][31]

大映京都撮影所で撮影された作品には、『羅生門』『源氏物語』『雨月物語』『山椒大夫』『地獄門』など海外からも高評価された数々の名作があり、『座頭市』シリーズ、『眠狂四郎』シリーズなどの人気時代劇も生み出され、美術西岡善信カメラ森田富士郎など、この大映で技術を磨いてきた若手・中堅技術者が、テレビ出身の五社英雄と初めて対面した[52][36][31]

その初日に、吉田東洋扮する辰巳柳太郎が土砂降りの雨の中、襲撃される壮絶なシーンが撮影された[51][8]。刺客達との死闘の中、血泥まみれになりながらも、刀を構え直す東洋の戦いぶりと断末魔のシーンは、五社と大映スタッフとの初めての仕事であった[51][52][8][31]

それまでの大映映画の時代劇では、様式美を重んじた殺陣が主であったが、テレビ出身の五社の演出はリアルな殺人シーンが信条であった[52][8][6]。大映スタッフたちは初めて見た五社の刺激的で迫力のある演出に圧倒され一目置くようになった[51][52][8][31]。一方、五社の方もテレビとは違う大映の美術の素晴らしさに感嘆した[51][52][8]

五社はテレビの『三匹の侍』で時代劇に新しい風を吹き込み、俳優の剣さばきに独自の才気を見せていたが、大映の大セットや美術のレベルの高さと相まって、よりダイナミックな演出ができるようになった[52][8][6][36]

具体的にはロケハンから始めたのですが、ポイントを押えているし、実際の撮影に入り、俳優に芝居をさせる段になると、殺陣は抜群に上手い。大映時代劇の代表的な監督である三隅監督の殺陣は、様式美を重視しましたが、五社監督は正反対です。例えば、提灯越しにグサッと刺すとか、リアルな殺陣を重んじて、これまでの大映にはないものでした。 — 西岡善信「映画美術とは何か」[52]

こうした大映スタッフと五社監督とのマッチングにより、クオリティー高くスケールの大きな映像が撮影可能となった[36]。かつて五社は映画監督を目指して映画会社各社の入社試験を受けたが全部不合格となり、どうしても諦めきれず大映社長の永田雅一の自宅まで日参し請い続けたが採用されなかったこともあった[53]

五社は『人斬り』で大映京都撮影所入りした時、大映所属の各監督らに挨拶をして回っていたが、その際ほとんどの監督が「お前にちゃんと撮れるのか」といった尊大な態度であった[54]。その時にきちんと挨拶して接してくれたのが、田中徳三三隅研次の2人だった[54]

田中徳三は、「頑張って撮影しいや。なんかあったら言うてください」と明るく応対し、次の三隅も、「おっさん、監督はな、どない言われてもかまへんけどな、出来上がったもんが勝負やからな、ええのん撮らんとあかんで」と助言した[54]。五社はこの2人の言葉によって初日のセットに入りの気分が楽になり、思うように撮影に臨むことが出来た[54]

吉田東洋暗殺

初日の大映スタッフたちを虜にした五社監督の演出の本領が見られるのは、物語の導入部の吉田東洋の暗殺シーンであるが、この凄惨な殺しの現場を目にした以蔵が「人斬り」の本能に目覚める最も重要な場面の一つとなっている[31][9]

土佐藩執政・吉田東洋に扮するのは辰巳柳太郎で、従者と共に土砂降りの夜道を歩いているところを突然と現れた刺客(土佐勤皇党の3人)に襲われるという長丁場の死闘は、先ず不意打ちにあった従者が血しぶきをあげて斬り殺されるところから始まる[31]

暗闇の中、3人の刺客に取り囲まれた吉田東洋は、絶叫してかかって来る彼らの刀を払いのけ、水溜りの泥まみれにのたうち回り体ごと斬りかかる3人の刀に応戦していくが、やがて2人がかりの刀が力づくで東洋の首に押し当てられ、ギリギリと食い込んで押し斬られていく残酷な場面となり、それでも東洋は必死でそれを脱して、血まみれで刀を構え直すが、やがて息絶えていくという壮絶な演出となっている[8][31]

こうした最後まで生きようともがく吉田東洋を演出し、リアルな死闘を描く五社監督は、「痛みの伝わる殺陣」を目指し、斬る側や斬られる側の苦悶が観客にも伝わるような迫力のあるアクションが信条であった[55][31]

受けた刀の上からゴリゴリと押し切ってしまう殺陣は、この作品ではじめてこころみた。「人斬り」は衝撃的な迫力を殺陣に盛りこむだけでなく、テロリズムの狂気を殺陣の上に具現したつもりだ。殺陣はである。これまで正義であるとか、憎悪、怨念であるとか、対決であるとかが、立ち回りの上に表されてきた。しかし「人斬り」は型を無視した。(中略)実践的な壮絶さを狙った。人と人とが殺し合うときに、流儀とか剣法とかなんてないと思いますよ。野獣のように、それこそ相手ののど笛にくらいついても、勝つという動物的本能だけだと思う。そのすさまじさを出したかった。 — 五社英雄「週刊サンケイ記事」[55]

田中新兵衛の登場

6月5日には、田中新兵衛扮する三島由紀夫が飲み屋「おたきの店」に初めて登場し、「変節漢」として斬るつもりでいる坂本龍馬扮する石原裕次郎と鉢合わせして自己紹介の台詞を言った後、岡田以蔵勝新太郎と対座するシーンの撮影が行われた[6][13]。以蔵と新兵衛という2人の「人斬り」が対話するこのシーンは三島にとって初日の撮影であった[6][13][31]

店の出入り口で以蔵と出くわした新兵衛が、「お出かけ?」と声を掛ける台詞には、「お前らはこれから人を斬りに行くのかい? 俺はもう斬ってきたぞ」というような人斬りとしてのライバル心が言下に秘められた台詞であった[40][31]。しかし、素人役者の三島は硬直し、その台詞を五社監督の意図したように上手く言えずNGが何度も出た[40][31][56]

立廻りの撮影が一番たのしみで、本当はここから入りたかつたのに、スケジュールの都合で、「おたきの店」のセリフ場面からなので、内心これは困つたことだと思つた。撮影に馴れないで、いきなり登場場面のセリフから入るといふことは、役者として大きな負担である。 — 三島由紀夫「『人斬り』出演の記」[49]

五社監督は、三島がの衣裳をつけているから力が入って硬くなるのだと考え、一度普段着になってもらってほぐれた状態でテストをすると案の定上手くいった[40][31]。そこで改めて衣裳に着替えてもらってから、同じように撮影すると、三島の台詞が上手くいきOKとなった[40][31]

三島が茶碗で冷酒をぐいと飲むシーンでは、事前の稽古で勝新太郎が三島に、「同じペースで飲むのでなく、ぐっと飲んだり、ちびりと飲んだり、調子を変えると、セリフも出いいですよ」と、飲み方を手にとって教え、三島も「うん、うん」とうなずいていた[13]

しかし「よーい、スタート」という本番の合図がいざかかると、三島は緊張して徳利を持つ手がプルっと震えてしまったためにNGが出てしまった[57][13]。すると勝は五社監督に、「もういっぺん撮るのは勝手だけど、いまのやつ、オーケーにしとけ、たった今、人斬ってきたばかりの奴が、そんな平然としてられるか」と言った[57]

勝は、三島の緊張しながらの演技に、プロの役者ではどうしても出せないリアリティーがあったと感じ、「自分が人斬り新兵衛だと思ったら、もう人斬り新兵衛なんだ。監督がとやかくいったら、冗談じゃない、オレは人斬り新兵衛だといってやれ」と三島を励ました[57]。また勝は、「三島さんは想像力がたくましいからグーッと力が入っていくが、本番では“水割り”演技でいいんですよ」と助言もした[58][6]

勝の助言もあって、三島は台詞の多い初登場シーンを石原裕次郎と互角に演じきり、殺気のある存在感を見せた[6]。OKが出た後も三島はもう一度撮り直しを希望し上手くいった。それでも三島自身は何度も首をかしげ納得がいかない様子であったが、無事に初日の撮影を終え、「勝新太郎が、こんなに親切な男とは思いもしなかったよ」と取材陣のインタビューに答えた[13]

勝の全力疾走

『人斬り』の中盤に、「人斬り以蔵」という名声に増長する以蔵の暗殺の無智ぶりを疎んだ武市が、近江国石部宿で襲撃計画している大天誅から以蔵を外して、土佐薩摩長州の三藩合同の志士の刺客団が石部宿に向けて出発する場面があるが、そのことを知った素っ裸の以蔵が慌てふためき、を締めるやいなや半裸のままでまっしぐらに駆けだしていくシーンは大きな見せ所となっている[31]

京都の町から野山を越えて石部宿までの九十三を以蔵がひたすら駆けるシーンは数分ほど続くが、武市の飼犬である以蔵の悲哀を醸し出すため、五社監督は勝に、「ここはハアハアいいながら、悲しくかけ出してくれ」と要望を出した[34][31]

以蔵は非常に動物的な人間で、どこかにやはり「おれはこんなに一所懸命かけ出しながら、いつか捨てられる。いつか、そうなるんだ」ということを感じているんじゃないか、という気がする。だけど、いまはとにかくかけ出している、というやりきれなさ、それが爆発したときに、パチンと人をぶった切る。そういうものをぼくは、あの人に塗り込めたかったわけです。 — 五社英雄(長部日出雄との対談)「映画は誰のためになぜ作られるのか」[34]

撮影はトラックにカメラを乗せて、走る勝のすぐ後ろを追っていくというアングルで、観客と以蔵の目線を重ね臨場感を出すというものであった[34][59][31]。この全力疾走の撮影日の前夜、勝は深酒をし二日酔い状態で歩くのさえも難儀であった[59][31]。しかし五社監督は容赦せず、勝は途中で休憩も入れられないまま必死に走り抜けた[59][31]。もしも勝がつまずき転んでしまったら大惨事にもなりかねない撮影であった[59][31]

途中でやすんでいいっていうんだけど、カットがかからない、とにかく走ってなくちゃならない、どこまで走りゃいいんだ……(笑い)。歩くのもだめなのに(撮影のトラックが後ろから走ってくるので)走らなけりゃひかれちゃうんだから。 — 勝新太郎「武士道とは生きることと見たり」[59]

石部宿の殺陣

岡田以蔵扮する勝新太郎の全力疾走の後の大きな見せどころとなる石部宿での襲撃場面での殺陣の立ち回りの撮影は6月15日に行われた[6]。この近江国の暗殺事件は、安政の大獄で斃れた志士に報いるために、土佐・薩摩・長州の三藩連合25名で結成された刺客団による天誅である[6][7]。彼らが狙ったのは、「御用召」の名目で江戸に引き上げようとした京都東町・西町奉行所与力4名であった[6][7]

武市半平太はこの刺客団から以蔵を外すが、彼らの出発を知った以蔵が京都から石部宿までの九里十三丁を走り抜け、決闘の最中に間に合って「土佐の岡田以蔵だ」と怒鳴りながら斬り込んでゆくという映画ならではの豪快な演出であった[7]。この三藩連合には、薩摩侍・田中新兵衛も参加し、鮮やかな剣さばきを見せる場面である[6][7]

この殺陣の立ち回りの撮影のため、田中新兵衛の役の三島由紀夫は、鹿児島の第11代宗家師範東郷重政と弟子の浜田一郎を東京に招き入れ、5月16日に調布市大映東京撮影所で薩摩示現流の稽古をつけてもらっていた[60][38][6]。ケンカ剣法のような攻めの剣術である示現流の基本技を覚えた三島は、逆八双の構えから瞬時の2人斬りを披露した[12][7]

三島の居合斬りは、大映プロデューサーの藤井浩明や勝新太郎も驚くほどの上達ぶりであった[61][12]。真剣を素早く抜いて、また収める早業を披露した三島の上手さに勝は舌を巻いた[61][62]

居合がうまかったですね。「人斬り」の時、京都に行きましてね、真剣でやるんですよ。パッと抜いてサッと鞘に入れるんですが、うまいですね。勝新太郎と二人で見ていて驚いてしまった。勝君なんか、とてもできないでしょうけど、あの座頭市でもね。 — 藤井浩明「あの人はもういない」[61]

こうして撮影前にセットの片隅などで真剣で居合の練習をしていた三島が、「真剣を使いたい」と言ったため、斬られ役の役者たちは驚き、「ええーっ!」とどよめきの声をあげた[56]。五社監督は、「わかりました」と言い、三島が1人で構えている時だけ真剣を使うことを了承して、絡みの時はさすがに避けたという[56]

この石部宿の殺陣シーンの撮影には、三島は瑤子夫人や親しい友人たちを京都撮影所に呼んで見学させていた[39][38][28][12]。三島はこのシーンが気に入って何度もリハーサルをやりたがり[40][31]、本番でも五社監督がOKを出しても、三島は「頼むからもう一度やらせてくれ」と希望し、「OKだからいいですよ」と五社が答えても強く頼み、「これが誰々だ、これが奴だと思いながら斬ってると、実に爽快だよ」と言っていた[39][12]

斬られ役の殺陣役者たちは、プロの俳優とは違う三島の身体から発せられる本物の殺気を感じ取り怖がっていたという[12]。実際に三島と絡んだ殺陣師たちは腹ごてをしていたにもかかわらず怪我をした[40][31]。五社監督は後年、「三島さんはあのとき、もっていた鬱々とした怒りを発散させていたのではないか」と述懐している[39][28]

驚いたのは、カラミがみんなケガをしたということだ。腹ごてを当てて、刀が当たっても痛くないようにしているから素人の人などがいくら当たっても、太刀先が流れてしまって、カラミがケガをするということはまずないはずなんだ。ところが、三島さんの殺陣に迫力があって、斬り込みの切先が鋭かったし、三島さんの剣道の腕は何段だったか知らないが、竹光ながらカラミにケガをさせたというのは、非常に実践的な太刀さばきだったと思っている。撮影が終わってから、そのことを話題にしたら、ニヤニヤして、得意然と「オレの剣法は殺人剣である」といっていた。 — 五社英雄「内外タイムス記事」[40]

この立ち回り場面で人が斬られて血しぶきをあげるリアルな殺陣には、血のりがふんだんに使用された[49][63]太平洋戦争大東亜戦争)前の時代劇では、血のりは顔に塗りつける程度しか使用されず、戦後の東映時代劇での中村錦之助東千代之介の立ち回りでも血しぶきはなかった[63]

戦後はGHQによる日本の封建主義復活を封じ込める政策により、血のりが使用される歌舞伎や映画の上演・上映は禁止されていた[63]。これは太平洋戦争中にあまりに大量の日本人の本物のを見せられすぎたアメリカ人の忌避感情も一因にあったとされる[63]

そしてその禁忌も解かれ、最初に血吹雪のシーンが映画の中に取り入れられたのが黒澤明の『椿三十郎』(1962年)であった[63]。GHQにより抑圧されていたチャンバラでの血のりのエンターテイメントが炸裂し、テレビなどでも血吹雪が多くなった[63]。三島も切腹劇や殺陣シーンの大量の血に日本文化の精髄を見出していた[63][64]

何といつても五社監督の本領は立ち回りで、立ち回りのシーンの撮影になると、もう監督の目の色がちがふ。現場全体の空気が躍動してきて、スタッフの目も血走り、役者はもとより張り切つて、無上の興奮から全員子供に返り、血みどろの運動会がはじまる校庭のやうになつてしまふ。私も大よろこびで十数人を斬りまくつたが、大映京都撮影所が一年間で使ふ分量の血ノリを、その日一日で使つてしまつたさうだ。フィクションとはいひながら、殺意が、そこにゐる人すべてを有頂天にするといふのは、思へばおかしな人間的真実である。 — 三島由紀夫「『人斬り』田中新兵衛にふんして」[49]

この殺陣の撮影を取材したスポーツ新聞の記者は、「いや、スタイルもスタイルだが、三島氏の気迫がまたすごい。サッと振り向いたときの、キラッと光る目玉、相手にのしかかるような肉体。すばやい動作。どうして、アマチュア・タレントとはとても見えない」とレポートした[65][6]

撮影を見学していた瑤子夫人は、「こんなに残酷なシーンこどもたちに見せるの、ちょっと考えちゃいますね。でも三島の目の輝き、刀を持った時の身のこなし、初めて見たものですからその激しさに圧倒されてしまいました」とコメントし[65][6]、五社監督も、「あの大きな目のすさまじい輝きを見ましたか、あれはまさに人を斬る時の目ですよ」と驚いていた[65][6]

一緒に立ち回りシーンを演じた勝新太郎は三島の殺陣について、「日ごろの体力づくりで得たエネルギーを、この仕事でブワーッと発散させている感じだ。だから真剣味があって、すごくおっかなく見えるよ。本職は小説家のくせに、腕の太さはものすごいし、演技のカンはクロウトなみだな」と絶賛した[65][6]

三島本人は、殺陣のプロ集団の中に自分のような素人が入って失敗したら恥ずかしいので、真剣になって演じたとして、「本番一回でOKを出し、監督にホメられたいというヘンなミエもあるんだね」と取材に答えた[65][6]。この日の三島の迫力ある演技の撮影写真は、『週刊現代』7月3日号のグラビア4頁で紹介された[66][6]

いよいよ待望の石部宿の大立廻りの撮影に入ると、その丸二日間は、大袈裟に云ふと、「夢のやうに」すぎた。それほど面白かつたのである。(中略)東京へかへつてからも、小説の仕事が大いに捗つた。サン=サーンスは、作曲家としてよりも薔薇作りとして有名だつたさうだが、私も小説家としてより、人斬りとして有名になりたいものだと思つてゐる。 — 三島由紀夫「『人斬り』出演の記」[49]

三島の切腹

『人斬り』のもう一つの目玉となる田中新兵衛の切腹シーンの撮影は6月30日に行われた[6]。新兵衛が姉小路公知殺しの嫌疑をかけられ、京都町奉行で切腹する場面を演じる三島由紀夫は映画撮影前、自分の出番の撮影スケジュールの最終日にしてほしいと五社監督に依頼していた[40][31]

そして三島は、「私は素人ですからいわれるとおりにしますので何でもいいつけてください。ただ切腹の場面だけは私に任せてくれませんか」と言っていた[39][6][28]。五社監督は、三島が自主製作映画『憂国』で非常にリアルな切腹を撮っていたので、このシーンの演技はすべて三島に一任することにした[40][31]

そして撮影日となり、リハーサル前に三島がボディビルで鍛えた腹筋を動かすのを見たスタッフが、「三島さん、もういっぺんやって!」と声をかけると、三島は喜んで何度も動かして見せていたという[17]。そんなリラックスした雰囲気の中で三島は切腹場面に臨み[17]、フィルムを回す前のリハーサルの時から何度も本気で熱演して身体をまっ赤にしていた[39][6][28]

五社監督が、リハーサルだからそんなに今から力を入れなくていい、気を抜いてくれと言っても、三島は役に入り込んでいて通じなかった[39][6][28]。五社は「一種の鬼気」を感じ、ジュラルミンの刀を竹光に替えたが、三島はその竹光で腹に横線が付くほど押しつけ、「ムキになってやらなければ出来ないんだ」と言った[67][62]。そして最後のリハーサルでは、自分の腹まで竹光で少し切って血を出してしまった[39][6][28]

私は驚いて、「三島さん、竹光で怪我されちゃ困る。これは映画なんだから、迫力で躰で出してもらって腹を刺すのは芝居でやってくださいよ。盗むところは自分で力を盗んで……」というと、「わかった、わかった、こんな傷なんでもないよ」。こんなやりとりで本番に入った。本番ではあらかじめ腹に管が通してあって、竹光で刺すと血糊が出る仕掛けになっている。ところが三島さんは思い切りやった。躰中をまっ赤にして、グッと竹光を腹に回した。みるみる腹の皮が破れていく。見ている我我は慄然というか、鬼気せまる迫力にシーンとなってしまった。 — 五社英雄「演出家の眼」[39]

切腹場面を撮り終えた五社監督が救急箱を持って、「三島さん、この迫力はどんな役者がやってもできない」と三島の腹を治療しながら言った時、三島はまだ興奮冷めやらぬ面持ちであった[39][28]。そして三島は落ち着くと、「やあ、映画てものはいいね。俺はこんなにいい、面白い、楽しい仕事をしたのは初めてだよ。いくら腹を切っても死なねえもんな。すぐ生き返る。映画はいいなァ」といつもの豪傑笑いをしたという[39][35][6][28]

スチール写真

主役の勝新太郎と準主役の仲代達矢三島由紀夫石原慎太郎の4名が全員大映京都撮影所に出揃った6月初旬に、宣伝用の写真撮影が行なわれたが、その際に、『炎上』などのカメラマンを務めた宮川一夫が三島を応援するために突然やって来た[17]

名カメラマンとして一目置かれている宮川一夫が見学に来たことで、現場のスタッフの雰囲気が引き締まったという[17]。宮川は、三島のメイキャップのチェックなどをした[17][68]

スチール写真には、向かって右から仲代達矢、勝新太郎、石原裕次郎、三島由紀夫が撮影所の玄関前で居並び、として前を凝視しているものや[69]、その直前に撮影所から出て来たばかりで、右から勝、仲代、三島、石原が笑顔で談笑しながら並んで歩いているものもある[70]

勝、裕次郎、三島がそれぞれ単独でを構えているポスター写真も撮影された[20][71]。また、映画本編の撮影現場でのスナップ的な写真もある[68][10][66][72]

参考文献となった原作小説『人斬り以蔵』の作者の司馬遼太郎は、武市半平太役の仲代達矢の顔について、「仲代達矢氏が武市半平太になっている。スチールをながめていると仲代氏の顔はスパニッシュなところが武市に似ている」とコメントしている[73][7]

あらすじ

時は幕末文久2年(1862年)の土佐の谷里郷に、剣術の才覚がありながらも藩内の厳しい身分制という壁に阻まれ立身を望めず、その日暮らしに甘んじていた青年・岡田以蔵がいた。彼は背に腹は替えられぬ思いで、ついに家の隅で埃をかぶる先祖伝来の鎧兜を骨董屋に売り払うも相手にされず悲嘆に暮れていた。

そんなとき、土佐随一の政治力を握っていた土佐勤皇党武市半平太は、土佐藩執政吉田東洋クーデターによって追い落とし自ら取って代わることを計画する。師の武市に呼び出された以蔵は、東洋暗殺の様子をじっくり視察せよと命じられた。その夜が、まだ人を斬ったことのない以蔵を変えた。人を斬る、とはこうすることなのか。俺ならもっと上手く斬ってやる、と以蔵は次第に人斬りとしての本能を呼び醒ましてゆき、東洋暗殺現場で耳にした「天誅!」という言葉を心の中で何度も繰り返した。

その年の夏、武市率いる土佐勤皇党は京都に上洛した。瑞山と号した武市は数年後に勤皇一派の中心人物となり、都で栄華の限りを尽くしていた。以蔵もまた武市の下で多くの謀略・破壊工作の実行役として加担し、もはや昔のくすぶっていた以蔵ではなく、名うての「人斬り以蔵」として鳴らしていた。そして、土佐勤皇党はこの自分で持っているようなものだ、とまで得意の絶頂を誇示する以蔵の前に、武市とは異なる道を選んだ男・坂本龍馬が現れる。以蔵と龍馬は子供の頃からの知り合いであった。

本間精一郎井上佐一郎らを新たに葬った以蔵だが、坂本龍馬は以蔵に人斬りをやめるよう忠告した。当初は聞き入れるつもりもなかった以蔵だったが、身分の上下もなく誰も気にすることのない時代を切り開く、との龍馬の言葉に次第に共鳴を覚えてゆく。それは、かつて武市に随行した際に逗留した攘夷派の急進的公卿・姉小路公知邸を訪れた時に出逢った美しい綾姫の存在を忘れる事が出来ずにいたからであった。

綾姫は姉小路卿の妹で、以蔵は惚れた想いを告げるどころか、以蔵の野蛮な容姿に恐怖を覚えた姫から「けだもの」と蔑まれた。だが、想いは一層強くなり、いずれ自分が武市の下で立身出世するか、龍馬が言う新しい時代になったとき、綾姫を自分のものにできるかもしれない、と以蔵はささやかな希望を宿していた。

そんな折、以蔵の人斬りが目立ち、天皇から自重するようにお達しがあったため、武市は次の大天誅から以蔵を外すことを決め、以蔵にしばらく骨休めの期間をもうけていた。以蔵は、勤皇派が以前から内密に計画していた大天誅・近江国石部宿での襲撃の先遣隊から自分が外されたことを知るや無我夢中で駆け出し、辛くも襲撃隊に合流して薩摩侍・田中新兵衛と共に目覚しい働きをみせるも、その際に藩名と自身の姓名を声高に叫んだ失態を武市から厳しく叱責された。

さらに以蔵は、龍馬から武市のためにもなると依頼され勝海舟の護衛を務めたことも武市の逆鱗に触れ、土佐に帰れと面罵された。以蔵は武市からの離反を試みるが、武市を気づかい、その政治力を恐れた諸藩らから以蔵は雇い入れを拒まれた。やけ酒を飲んで荒れる以蔵を田中新兵衛は慰めた。以蔵の情婦となっている女郎・おみのは、武市に謝罪することを薦め、以蔵はやむなく武市のもとに戻り、人斬りの運命から逃れる事が出来なくなっていった。

武市は田中新兵衛の刀を以蔵に持たせて、意見の相違が生じていた姉小路卿の暗殺を密命した。以蔵は驚いたが命令をなんとか実行した。姉小路殺しの嫌疑をかけられ京都町奉行に捕えられた新兵衛は、犯行を否定したが証拠として自分の刀を見せられると、申しひらきもせず突然その刀で自ら切腹した。以蔵は姉小路卿までも斬り、友の新兵衛まで裏切る形となった直後から、酒に溺れるようになり名声は凋落した。

浪人狩りの網にかかった以蔵は六角牢に投獄され、「土佐の岡田以蔵だ」と名乗るものの、知らせを受け面会に来た武市から、「岡田以蔵ではない」と見知らぬ者扱いされ見捨てられたため、そのまま「無宿者の虎蔵」と名付けられて牢で厳しい拷問にかけられた。そんな以蔵に手を差し伸べたのは坂本龍馬であった。ようく以蔵は8か月後に赦免されたのち、龍馬の門人として新しい時代を築くために残りの人生を尽くそう、と思い始めた。慶応元年、以蔵は龍馬と九州に行くために、待ち合わせ場所の土佐にいた。

一方、反動政策により吉田東洋暗殺の嫌疑で武市も土佐で拘束され、藩は東洋暗殺の下手人を探していた。土佐勤皇党の1人は、以蔵が捕えられるとまずいと考え、土佐から離れるように促した。しかし武市は非情にも以蔵を消し去ろうと図り、かつて以蔵が目をかけた弟分・皆川一郎に毒殺役を命じた。春祭りの酒を持って来た皆川を疑いつつも、毒味で2杯飲んだ皆川が平気なため、以蔵もその酒を飲むが数分後毒が回り始め、皆川が死んで、以蔵は辛くも助かった。

以蔵はこのことで勤皇党の幕を下ろそうと決意し、自らの行なってきた謀略の人斬りと武市一派が行なった計画の全てを告白するため高知城番所に出向いた。以蔵は武市を売る金の三十を、借金で遊郭稼業に縛られている貧しいおみのに先渡しすることと引き換えに、洗いざらい話した。

5月の土佐の春祭りの日、龍馬は以蔵を迎えにやってくる。だが、そのとき以蔵は台にいた。武市が政治犯として切腹を命じられ、自分は一介のならず者の人斬りとして処刑されることを聞いた以蔵は、武市から自由になったと言い、祭囃子を遠くにききながら磔の刑に処されて壮絶な最期を閉じた。

キャスト

出典は[1][5][74][10][20]

  • 岡田以蔵勝新太郎
    • 25歳。土佐国の国谷里郷で貧乏郷士の子として生れる。実戦剣法を身につけ、のような凄みを持つ暴れん坊。土佐勤皇党で殺し屋の役目の人斬り剣士となる。鮮やかな暗殺ぶりで「人斬り以蔵」との街で知れわたる。酒と女好きで無学無知であるが気のいい男。
  • 武市半平太仲代達矢
    • 34歳。土佐勤皇党の首領。冷酷な革命家。京都に上り、三条木屋町の料亭「丹虎」の離れの「瑞竹荘」で起居し倒幕の政策を練る。腕の立つ以蔵を自身の「犬」として飼い馴らし、佐幕保守派を暗殺する。以蔵は武市が口にする政策上「好ましからぬ人物」を斬り殺し、お手当金を貰う。武市は目的のためには手段を選ばない非情さを持つ。
  • 田中新兵衛三島由紀夫
    • 22歳。薩摩藩の有名な人斬り剣士。「人斬り新兵衛」と呼ばれて、京洛の人気を以蔵と二分する示現流剣法の使い手。武市の陰謀により姉小路卿暗殺の嫌疑をかけられ、自分の剣を見せられ切腹死する。
  • 坂本竜馬石原裕次郎
    • 28歳。元土佐勤皇党だったが土佐藩を脱藩し、武市とは別の方途で倒幕を目指している。以蔵とは子供の頃からの顔なじみ。人斬りを辞めるように以蔵に助言する。浪人狩りで六角牢に入牢した以蔵の放免に尽力する。
  • おみの:倍賞美津子
  • 姉小路公知仲谷昇
    • 27歳。天皇側近で攘夷派の急進的公卿。武市と政策を共にしていたが、土佐勤皇党の手荒な暗殺手法を憂いて次第に意見が合わなくなる。武市の密命で以蔵に斬られる。
  • 姉小路綾姫:新條多久美
    • 姉小路公知の妹。美しい姫。武市と共に邸に来た以蔵を見て、「お前が以蔵なのね」とまじまじと見つめ、「獣!」と蔑む。以蔵は綾姫に一目惚れする。
  • 松田治之助:下元勉
    • 32歳。土佐勤皇党の副領主。武市の側近
  • 皆川一郎:山本圭
    • 土佐勤皇党の同志。以蔵の弟分的な存在。三条通の旅人宿「四国屋」で以蔵と相部屋で逗留。土佐で入牢した武市から以蔵の毒殺を命じられる。
  • 天野透:伊藤孝雄
    • 29歳。土佐勤皇党の同志。
  • おたき:賀原夏子
    • 50歳。以蔵らの行きつけの三条小橋(三条木屋町)近くの飲み屋「おたき」の女将。「おたき」は勤皇派のたまり場となっている。
  • 六角牢の役人:田中邦衛
    • 以蔵が浪人として囚われた六角通りに面した牢屋敷の役人。
  • 勝海舟山内明
    • 幕臣。以蔵は竜馬に依頼されて一度護衛を務めた。
  • 井上佐一郎清水影
    • 土佐藩士。土佐藩横目付吉田東洋殺しの下手人を探索していたが、大阪で以蔵ら土佐勤皇党と酒を飲んだ後の帰りに以蔵に絞殺される。
  • 平松外記:滝田裕介
    • 土佐藩目付頭。平松備後。全ての暗殺の自白を以蔵から聴き出し、磔獄門を言い渡す。
  • 両替屋の番頭:東大二郎
    • 以蔵が自白の褒美の三十をおみのへ送る高知城下の両替商の番頭。
  • 渡辺金三郎:宮本曠二郎
  • 本間精一郎伊吹総太朗
  • 北崎進:藤森達雄
    • 28歳。土佐勤皇党の同志。
  • 工藤:黒木現
    • 土佐勤皇党の同志。
  • 横川帯刀:北村英三
    • 土佐藩目付役。以蔵から一切の暗殺所業を聴き出す平松備後(平松外記)の部下。
  • 京都所司代与力:中谷一郎
    • 姉小路卿の暗殺の一件で田中新兵衛を呼び出し取り調べる与力。
  • 京都市中見廻組役人:伊達岳志
    • 浪人取締りをする京都奉行所の役人。遊郭「山城屋」にいた以蔵を捕える。
  • 久坂玄瑞波多野憲
  • 宮部鼎蔵福山錬
  • 伊地知三左衛門:新田昌玄
  • 古道具屋の主人:千葉蝶三郎
    • 土佐の国谷里郷で困窮していた以蔵が埃だらけのを持ち込む古道具屋の主人。嫌な顔をして買い取りを断る。
  • 大河原十蔵宮島誠
    • 京都東町奉行所与力。近江石部宿「万屋」で斬り殺される。
  • 森孫六御影伸介
    • 京都東町奉行所与力。近江石部宿「万屋」で以蔵に斬り殺される。
  • 刺客:佐藤京一
    • 以蔵が護衛する勝海舟を襲う長州の刺客の1人。
  • 安岡嘉助美山晋八
  • 那須信吾勝村淳
    • 吉田東洋暗殺の討手。
  • 大石団蔵安藤仁一郎
    • 吉田東洋暗殺の討手。
  • 目明し文吉:宮沢元
    • 以蔵が斬った男。皆川に毒入りの酒を飲まされた以蔵の幻覚に出てくる。
  • 牢名主:萩本欽一
    • 六角牢の囚人。以蔵が入れられた六角牢の中で主として威張っているチンピラ。
  • 熊髭:坂上二郎
    • 六角牢の囚人。牢名主の子分のような存在。
  • 吉田東洋辰巳柳太郎
    • 47歳。山内容堂の厚い信任を受ける土佐藩執政。雨の中、武市の部下3名の刺客(安岡嘉助・那須信吾・大石団蔵)に暗殺される。
  • 小女:丘夏子
    • 飲屋「おたき」の小女。
  • 婆:小林加奈枝
    • 遊郭「山城屋」のやり手婆。
  • 殺陣:湯浅剣睦会

スタッフ

出典は[1][5][74][10][20]

再上映

『人斬り』は1985年(昭和60年)11月には松竹の配給で再上映された[6][10]。併映は、五社英雄監督の『三匹の侍[6][10]惹句は、「時・代・はチャンバラ」、「斬る!斬る!斬る! 問答無用でぶった斬る! 斬らねばならぬ奴がいる。生きんがために人を斬る……」、「今や、不可能なキャスティングの妙!」、「ひたすら過激に……ひたすら美的に……動乱の幕末を駆けぬけた若き男たちの熱き伝説」である[10][20]

再上映の際に、イメージソングとして世良公則の楽曲「バラードが聴こえる」がついた[10]。「バラードが聴こえる」は、世良のアルバム『Fine, and you?』(キャニオンレコード)に収録されている[10]。世良は、『人斬り』には「ROCKスピリット」や「若者の息づかいの素晴らしさ」があるとし、観終わって外に出た時に、「身体のどこかに力がわいてくるのがうれしかった」と映画の感想を述べている[75]

評価

『人斬り』は幕末の動乱期を舞台に過激な生涯を送った人物たちを扱ってはいるが、岡田以蔵武市半平太の人間関係は、現代にも通じる男の野望の絡み合いとしても見ることができ、また、波乱に富んだストーリー展開と、ダイナミックな殺陣の演出も時代劇の醍醐味を感じさせ、豪華な娯楽大作映画となっている[6][10][31]

興行的にも大ヒットとなり、1969年度の興行ベストテンの第4位に入った[3][4][6]キネマ旬報ベストテンでも圏外ではあったが第14位となった[3][4]。総得点数は49点で、6点を付けた高沢瑛一の票が最高点となり、5点は草壁久四郎津村秀夫戸田隆雄が付けている[3]。『御用金』に続く『人斬り』のヒットにより五社英雄は映画界のヒットメーカーとなった[31]

尾崎秀樹は、『人斬り』がヒットした理由について、「映画がともすれば忘れがちな大衆のもつおもしろさの願望を素直大胆に提示しそれに人間的な味わいを添えたところに成功の原因があった」と解説し、70年安保を目前に迎えた時代との関連にも触れつつ高評している [76][6]

「人斬り」は私に久しぶりで映画のおもしろさを教えてくれた。それは七〇年安保を前にした大衆の日常的な閉鎖的意識に一つの窓をひらく作品だ。しかし人斬りがどのような状況を斬る剣であるかは、むしろこれからの状況によって答えられるべきだろう。 — 尾崎秀樹「“人斬り”の剣――いかなる状況をたち切るのか」 [76]

主役の勝新太郎の「映画スター」としての魅力も好評で、人なつっこく明るい性格のキャラクターが加味された岡田以蔵像となった[18]。人斬りという残酷で非情な行為の人物ながらも、なぜか勝が演じると、その単純で無知な振舞いが逆に人間的な温かみさえ感じさせるものと品田雄吉は評価している[18]

新人女優で2年前に『純情二重奏』で映画デビューした倍賞美津子女郎役を体当たりで好演し、京都市民映画祭の新人賞を受賞するなど高評価され女優として注目されるようになった[30][10]。勝以外の男優陣の中では、独特の強烈な存在感を示した三島由紀夫が予想を上回る好演で注目され、論評でも三島の出演映画という観点から言及するものが多い[6][10]。かつて主演した映画『からっ風野郎』では素人演技を酷評された三島だったが、見違えるほどの凄みを見せる演技力であった[17][6]。五社監督も三島の起用により田中新兵衛役が光ったこと振り返っている[39][6]

実際は三島さんによってこの映画は実に面白くなった。田中新兵衛の性格、テロリストのムードは三島さん以外には出せなかったろう。演技をしていても殺気があったし、場面によっては勝新太郎を押えていた。(中略)三島さんはテレ屋運動神経はない。ところが神経の運動神経というか、気持の反応、感情のつかみ方、相手の感情に切りこむ能力、これらは天才的だと思う。例えば田中新兵衛が岡田以蔵に対して「どちらへ……」というセリフのとき、その感情はこうなんだ、と私が話すと、それについて実に的確に反応を示してくれた。 — 五社英雄「演出家の眼」[39]

斎藤正治は、『人斬り』のテーマについて三島の『文化防衛論』を読めば事足りるとし、その美学思想と重ねて、「論理でも表現でも、粗暴なもの、荒っぽいものには、独断のカタルシスがつきもの」として、「それは情緒的にいえば痛快感であり、政治イデオロギーに即していえば右翼的(左翼的であっても同じことだが)な狂信に満ちた明快さを帯びる」と解説している[77][6]

有能なテロリストとして出演している三島由紀夫の「楯の会」が、古典的・情緒的天皇制の回復をめざす雌伏集団であることは、彼の著書で明らかだ。彼らにも土佐勤皇党の「天誅」思想のように、結社綱領がある。時代を百年もへだてた両者を比較する気はないが、大義名分を「ために」という役割に求めているところは共通する。それはともあれ大義名分には批判が入り込めない。 — 斎藤正治「日本映画批評」[77]

増村保造はかつて『からっ風野郎』(1960年3月封切)で三島をしごいたことがあったが、『人斬り』での三島の切腹演技の表現力の高さに触れて、「姉小路公知暗殺の疑いを受けた新兵衛は、自分の主家の迷惑を思い、一言も弁解せず、切腹してしまう。ここにも誠実な人間の行動の〈〉があり、それを三島さんは進んで表現しようとしたのではないか」と好評している[78]

『人斬り』は翌年1970年(昭和45年)に三島が自死したことで(三島事件)、より一層三島と一体化したものとして語られることになったが、三島がそれまで過去に出演した映画『からっ風野郎』『憂国』と共に見た場合、すべて最後は死んでしまう人物であり、それが段々とリアリティーや殺気を持った好演に発展していくことも指摘されている[29][79]

荻昌弘は、『人斬り』での三島が「周囲の役者たちを圧する殺気のリアリティで、維新前夜のテロリストを好演」したと高評しつつ三島の行動美学と重ねて、「三島が映画演技というスポーツに快楽をみいだしたのは、いうまでもなく行動美のためにちがいなかったが、そのなかで繰返し死の行為だけが予習されている事実は、もっと深く注目されていい」と論評している[79]

品田雄吉は、映画公開から16年後、三島の死から15年後の1985年(昭和60年)に再上映された『人斬り』をあらためて観た感想として、勝新太郎の魅力と三島の迫力ある演技を好評しつつ、「三島由紀夫の演ずる田中新兵衛ではなく、田中新兵衛を演じている三島由紀夫その人が見逃せないのである」としている[18][6]

今度あらためてこの「人斬り」を見ると、割腹シーンだけではなく、三島由紀夫の登場するすべてのシーンが、この映画の一年後に起こった市ヶ谷での自決と無縁ではない一種の緊張をはらんでいるように見えてしまう。最初に見たときはうかつにも察知できなかったのだが、この映画の三島由紀夫には、明らかに死を決意した者だけが秘めているほんものの殺気がはりつめているように感じられるのだ。三島由紀夫は、この映画で田中新兵衛を演じたのではなく、三島由紀夫自身のあるべき姿を演じていたのではなかったろうか。そして、それがやがて市ヶ谷へとつながっていったのではないだろうか。 — 品田雄吉「勝新の魅力と三島由紀夫の迫力」[18]

山内由紀人は、三島の出演により『人斬り』の主題が「三島の思想と美学に重なってしまったのは、必然的な結果といっていい」として、三島が予想以上の印象的な好演をしたことで、監督らの思惑以上の宣伝効果を上げ、ほとんど「三島の映画」とも言える様相になった意味などを以下のように評価・考察している[6]

三島は俳優として出演しているにもかかわらず、『人斬り』は作家としての三島という存在を無視して語ることはできないのである。それはこの映画が背負った運命だった。その運命は、さらに三島の死によって増幅されていく。もはや宿命としか言いようのない、三島と一体化した映画として語られるのである。(中略)三島は作品世界の現実から実生活の現実へと入り、その思想なり美学なりを現実化するタイプの作家である。つまり現実の人生そのものが、文学的虚構の投影なのである[注釈 6]。(中略)そうした小説家が今度は映画という虚構の中で、感情移入できる人物を演じることになれば、もはやそれは品田の言うように「三島由紀夫自身のあるべき姿」を表現することになるのである。その意味でいえば、『人斬り』には三島の死と行動の謎を解く一つの鍵が隠されているのである。 — 山内由紀人「三島由紀夫、左手に映画」[6]

エピソード

撮影が行われた大映京都撮影所と東京での『癩王のテラス』や『椿説弓張月』の稽古や打ち合わせ、「楯の会」の活動とで往復に忙しかった三島由紀夫だが[17]、ある時、大阪行きの飛行機内で三島と乗り合わせた仲代達矢が、「作家なのにどうしてボディビルをしているんですか?」と尋ねると、三島は「僕は死ぬときに切腹するんだ」、「切腹してさ、脂身が出ると嫌だろう」と答えたので、仲代は冗談の一つだと思って聞いていたという[81][25]

日々の撮影が終わると共演者同士で祇園などに飲みに行ったが、山本圭はその時の三島の様子について、「三島さんはほとんどお酒を飲まないんですが、話をしている時、瞬きをしないんですよ。それで目の前で僕が話を聞いてるとね、だんだんこっちの目もつられちゃう」と語っている[56]。ちなみに、山本扮する皆川が以蔵のいる小屋を訪ねて自分も毒酒で死んでしまう場面は、和歌山県の先端の湖畔に掘立小屋が建てられ撮影された[56]。死体となった山本の喉仏がどうしても動くため、その場面はフィルムを半分に切って山本の方の画が固定されているという[56]

映画撮影のクランクアップ後、五社英雄監督は三島から切腹場面と立ち回りシーンのスチール写真を100枚ほど欲しいと言われていたため、京都撮影所を発つ際に三島に手渡した[39][6][28]。そして帰りの新幹線に五社と三島と勝と仲代が一緒に乗り、三島以外の3人は名古屋で遊ぶために途中下車していった[39][6][28]。3人がホームに出た後、再び三島に挨拶しようと三島の座席の窓に行くと、1人になった三島が鞄からスチール写真をこっそり取り出して、「何ともいえない顔でニッコリして見ていた」という[39][6][28]

やがて3人の視線に気づいた三島は、一瞬こそばゆいような恥じらいを見せ、少年のように笑って頭に手をやった[39][6][28]。東京に帰った後、五社に会った三島は、「いやあ、新幹線の中でアレを見られたのは、君ねえ、自分のナルシシズムの原点みたいなものを、全く目の前で見られたような感じで、あんな恥ずかしい思いをしたことはないよ」と笑っていたという[39][6][28]

勝新太郎と三島由紀夫

三島由紀夫が田中新兵衛に起用されたきっかけは勝プロ社長でもある勝新太郎の依頼であったが、三島が承諾したことを大映企画部長の藤井浩明から聞いた勝は非常に喜び、すぐに会いたいと三島との面談を希望した[17]。三島のマネージャー代わりの藤井が三島と一緒に大映京都撮影所に向かい京都駅に到着すると、勝は2人を待ち受けていて、自分の車で都ホテルまで送ってくれた[17]

そして勝は、明朝に撮影所で会う時間を告げて、その時に三島にカセットテープを渡した[17]。そのテープには、三島が言う台詞と、勝の言う台詞の掛け合いの両方が吹き込まれてあった[17]。さらにそのテープには、ここはこう言った方がいい、というようなアドバイスも各所に入っていて、素人の三島が困らないようにしてあった[17]

三島がしばしば、勝に随分世話になった、面倒を見てもらったと書いているのは、こうした背景があったからであった[17]。勝と三島が直接からむ場面は、田中新兵衛が飲み屋「おたき」に初登場するシーンのほか、酒に溺れる以蔵を新兵衛が慰めるシーンもあるが、三島は思わず以蔵ではなく勝を慰めるかのような気分になり、演技中にもらい泣きしそうになったという[82][6]

三島の撮影初日の勝の細かい気づかいにより俳優演技に自信がついたことを、三島は「得意のかいぎゃく」で語り[83][6]、初めて「役になりきる心境と喜び」を味わった楽しさを勝との共演で得られたとしている[82]

朝から勝さんとからむ場面を演じているんだが、勝さんほどいいお師匠さんはありませんね。実に親切に教えてくれる。これまでのぼくは“俳優”としてどんな“素材”なのか見当がつかなかった。自分自身がわからなければ、どの面を生かせばいいのかもわからない。ところが勝さんは半日で、ぼくが俳優としてすばらしい資質をもっていることを知らせてくれた。 — 三島由紀夫「三島由紀夫映画を語る/『人斬り』撮影中をたずねて」[83]

三島はこれまで『からっ風野郎』、『憂国』、『人斬り』と3本、映画俳優として出演したが、『人斬り』で初めて「爽快な後味」や映画の面白さを実感として味わったが、それは映画について教えてくれた「よい先生」の勝の親切のおかげだとしている[58][49]。三島を懇切丁寧に指導する勝の姿を見ていた山本圭も、撮影現場が和気藹々となったのは勝がいたからでもあるとし、「勝さんが何も考えていないようで実は物凄い細かい人です」と語っている[56]

三島の切腹場面の撮影中にも三島が外に出た際に、「三島さん、居合いをやってよ!」と明るく勝が声をかけて来て、三島が本気で居合いの型を披露すると、その上手さに勝は感心しつつも、「でも、あんまり強そうじゃないな」、「手を切らなきゃいいけどな」とからかい気味に言って、三島をリラックスさせていたという[17]

なお、勝は『人斬り』撮影中に、雑誌『平凡パンチ』の三島特集において、編集担当者から三島の悪口をぜひ言ってほしいと電話でコメントを求められ、「ぼくはあの人といま映画でご一緒してるんだけど、あの人は何ていうのかなー、そう、趣味人というイメージだね。ないものねだりをする人。そしてその結果それを獲得してゆく人。いままでの三島さんの人生ってのは、それだったんじゃないの」と答えている[84][45][注釈 7]

五社英雄と三島由紀夫

五社英雄は戦時中に特攻隊に志願して第13期として予科練にいた[53]。しかし入隊してすぐに日本脳炎の初期症状を起したために正式入隊が4か月遅れ、実戦には参加できずに本土決戦用の水上特攻隊として演習していた[53]

予科練第13期の同期生たちの多くは、台湾沖縄での戦闘で特攻隊として死んでいった[53]。五社は福知山で飛行場を作る工事に携わっている最中に敗戦を迎えた[53]。特攻隊の生き残りであった五社は、その戦争体験を『人斬り』の撮影の合間に三島由紀夫に話した[39][28]

戦時中の入営検査で即日帰郷となった経験を持つ三島はそれを聞いた後、実際に自分の命を投げ出して何かをやれる人間はそうはいないが、現実にそうした若者の犠牲があってその上に、今日の日本の存在していることを思う時に我々は忸怩たるものがあると言い[39][28]、我々はもう一度それらを掘り起こす必要があるのではないかと語っていたという[39][28]

また、五社監督は三島から子供がいるのか訊ねられ、「いる、マイホーム主義ではなく、いいオヤジでもないと思うが、かわいくてたまらん」と答えると、三島は五社の顔を見据えながら、「子供には子供の人生がある。子供かわいさに、自分の生き方やイデオロギーを曲げたり、子供によって自分の人生を左右されたり、影響されるようじゃ大演出家になれん。割り切る強さが必要なのだ」と語っていたという[62]

五社監督は映画公開から16年後、三島没後15年目の1985年(昭和60年)の『人斬り』再上映に際し、「私よりも、尚越えたところで此の再公開をよろこんでくれるのはまぎれもなく故三島由紀夫さんなのです」と述べ、「三島さん、よかったね」と最後に締めくくっている[35][6]

その一年后、あの痛ましい事件は果して偶然の一致だったのか……。今だに私には、ナゾとしか云えないのです。而し、この十六年という歳月の流れが、あれもこれも三島さんの深い思いのメッセージをつつみこむにふさわしい貴重な「間」であったかもしれません。(中略)三島さんはこの“人斬り”出演を真底、ほれこんでおられた。そして深く深くこの作品を愛して下さった。ここに、再びこの“人斬り”が世に問う機会を得たことで私の十六年に及んだ三島さんに対する憶いが無事果たせることが出来た。(中略)三島さん、よかったね。 — 五社英雄「『人斬り』について」[35]

三島外伝

祖先と幕末

田中新兵衛役を演じた三島由紀夫高祖父徳川幕府の最後の幕臣の1人永井尚志で、大政奉還戊辰戦争などの重要な局面で活躍した人物である[28][86][6]一橋慶喜を推す一橋派を支持したため安政の大獄で免職・隠居の身となっていた永井尚志は、井伊直弼の横死により文久2年(1862年)に京都町奉行に復職したが、その時に姉小路公知暗殺の尋問していた田中新兵衛に切腹されてしまい、不注意の咎で閉門を命ぜられたこともあった[86][87][28]

三島が『人斬り』撮影中、親しい知人の林房雄に宛てた書簡(1969年6月13日付)の中にも、その奇縁のことが触れられている[87][6][28]

只今京都で勝新太郎と裕次郎と仲代達矢と四人共演の「人斬り」といふ映画に、田中新兵衛の役で出ておりますが、この役の交渉をうけてから面白くなつて、この時代のものを大分よみました。よめばよむほど、現代との類似が目につき、こつちも多少、志士気取りになつて来ます。明後日は大殺陣の撮影です。新兵衛が腹を切つたおかげで、不注意の咎で閉門を命ぜられた永井主水正曾々孫が百年後、その新兵衛をやるのですから、先祖は墓の下で、目を白黒させてゐることでせう。 — 三島由紀夫「林房雄宛ての書簡」(昭和44年6月13日付)[87]

1960年(昭和35年)7月1日に行われた「永井尚志70年忌」の大法要にも出席し、高祖父を尊敬していた三島だが[6]。『人斬り』の出演が決まる前年の1968年(昭和43年)1月にも、「百年目の黒船」と言われた原子力空母エンタープライズ佐世保寄港反対デモの話題に触れつつ高祖父と自身を重ね、「日本はいつもアメリカの船のために国中大さわぎし、殺し合ひ、政治変革をやる国民のやうです。今度は私も、曾々祖父永井玄番頭と同じ反革命の立場ですが、曾々祖父のやうに無事に隠居はできますまい」とドナルド・キーンに語っていた[6][88]

また三島の祖母・なつの母親の松平高は宍戸藩松平頼位の娘で、松平頼徳の妹であった[86][6][28]。なつの伯父にあたる9代藩主松平頼徳は水戸天狗党に同情した罪により、幕府から切腹を命じられて非業の死を遂げている[86][6][28]

この水戸藩の思想「水戸学」という尊王論攘夷論は、幕末の尊皇攘夷の志士たちの中心的思想となっていたが[6][28]、三島は祖母から、「お前は水戸の血が流れているから、人はすぐ皮肉屋だとか偏屈だとかいわれるだろうが、気にしないほうがいいよ。これはもう宿命で仕方ない」と言われ、水戸っ子の自覚を持っていた[89][6][28]

『人斬り』の映画を撮影していた頃、世間では安保反対の全学連全共闘が維新の志士に喩えられることがあり、三島は全共闘と安保闘争をめぐって敵対しつつも、ある種の共感性も持っていたが、尊皇でない彼らとは共闘できないことを強く宣言していた[90][28]。それは開国派であれ攘夷派であれ、幕末では「尊皇」「勤皇」が基本にあり、天皇制の破壊を企図する左翼の思想とは相容れないものであると三島は認識していたからであった[91][92][93][28]

また、楯の会を率いていた三島は、映画出演の約半年前の年頭に桜田門外の変について触れつつ、井伊直弼の首を取り自分も重傷を負って自刃した有村次左衛門のような国家変革の情熱に燃えた日本人らしい維新の若者と、タオルの覆面姿で「大和言葉」ではない汚い言葉を発し、「神州清潔の民」の日本人がとても居られないようなゴミだらけの不潔きわまりなく、あたかも外国人を住まわせるための地域のような「解放区」を目指す全学連が全く違うことに言及し、自身も維新の若者のような気概と志を見習いたい心持ちや希望を抱いていた[94]

維新の若者といへば、もちろん中にはクヅもゐたらうが、純潔無比、おのれの信ずる行動には命を賭け、国家変革の情熱に燃えた日本人らしい日本人といふイメージがうかぶ。かれらはまづ日本人であつた。そこへ行くと、国家変革の情熱には燃えてゐるかもしれないが、全学連の諸君は、まつたく日本人らしく思はれない。
しかし私は、今年こそ、立派な、さはやかな、日本人らしい「維新の若者」が陸続と姿を現はす年になるだらうと信じてゐる。日本はこのままではいけないことは明らかで、戦後二十三年の垢がたまりにたまつて、経済的繁栄のかげに精神的ゴミためが累積してしまつた。われわれ壮年も若者に伍して、何ものをも怖れず、歩一歩、新らしい日本の建設へ踏み出すべき年だ来たのである。 — 三島由紀夫「維新の若者」

三島は幕末を舞台にした映画に出たことの喜びを、「ぼくは現代劇より、こんな格好をしてチャンバラをやる方が好きなんだ」とし、「なぜなら幕末の世相と似通っている現代は、“思想は腕力”だと信じるからです」とも述べている[83][6]

資料

  • シナリオ作家協会 編『年鑑代表シナリオ集 1969』ダヴィッド社、1970年8月。NCID 000001250725識別子"000001250725"は正しくありません。  - 橋本忍の脚本「人斬り」所収。
  • 司馬遼太郎『人斬り以蔵』(改)新潮文庫、2004年12月。ISBN 978-4101152035  初版は1969年12月

ビデオ発売

『人斬り』は五社英雄の代表作ながらも、日本ではDVDで発売されていない[95](2017年現在も)。VHSとレーザーディスクは発売されたが絶版となっており[96][5]CS放送時代劇専門チャンネルなど)で放映されるのみである[96]。なお、フランスではDVD発売されている。

劇画化

映画同時公開劇画シリーズ第3弾として、平田弘史により『週刊少年キング』(少年画報社)で1969年(昭和44年)8月号から9月号に連載された[97]。第1弾は『座頭市海を渡る』、第2弾は『御用金』で、単行本収録は以下である。なお、三島由紀夫は平田弘史の画を好んでいた[98]

  • 『斬る!! ―座頭市&人斬り岡田以蔵伝―』〈別冊エースファイブコミックス〉(松文館、2010年2月) ISBN 978-4790123248
  • 『人斬り』〈レジェンドコミックシリーズ4〉(星雲社、2005年2月。2014年11月) ISBN 4434050885

脚注

注釈

  1. ^ 勝プロ製作では前年1968年(昭和43年)6月に『燃えつきた地図』がある。
  2. ^ 風林火山』は前年1968年度(4月から翌1969年3月まで)の興行成績で計算され第1位となっている[14][15]
  3. ^ 『女賭博師丁半旅』の惹句は、「親の命の金盆かけて体をはった、命を捨てた! 罠と承知の百番勝負!」である[21]
  4. ^ 田中新兵衛の切腹場面は、司馬遼太郎の『人斬り以蔵』では具体的には描かれていないが、司馬の『竜馬がゆく』の「京の政変」の中では臨場感を持って詳しく描かれている[28]
  5. ^ 「ミスターダンディ」の1位は三島由紀夫、2位は三船敏郎、3位は伊丹十三、4位は石原慎太郎、5位は加山雄三、6位は石原裕次郎、7位は西郷輝彦、8位は長嶋茂雄、9位は市川染五郎、10位は北大路欣也であった[6][42]。「ミスター・インターナショナル」の1位はド・ゴール大統領、2位は三島由紀夫、3位はホーチ・ミン、4位は松下幸之助、5位はバーナード博士(心臓外科医)、6位はジョン・レノン、7位は石原慎太郎、8位は毛沢東、9位はストークリー・カーマイケル、10位はフィデル・カストロであった[42]。なお、投票期間中はロバート・ケネディが1位であったが、1968年(昭和43年)6月5日に暗殺されたために名簿から省かれた[42]
  6. ^ 三島は評論『小説とは何か』の中で、「私にとつて書くことの根源的衝動は、いつもこの二種の現実の対立と緊張から生れてくる」とし[80]、「二種の現実」とは、「作品世界」と「現実世界」(実生活)の2つの「現実」を指していることを語っている[80][6]
  7. ^ この『平凡パンチ』の三島悪口特集には、他にも多数の著名人がコメントしているが、それらに対する三島の感想も掲載されている[85][45]

出典

  1. ^ a b c 「三島由紀夫関連作品フィルモグラフィー『人斬り』」(映画論 1999, p. 664)
  2. ^ 「三島由紀夫関連作品フィルモグラフィー『人斬り』」(論集II 2001, p. 175)
  3. ^ a b c d e f g h i 「昭和44年」(80回史 2007, pp. 176–183)
  4. ^ a b c d e f g 「昭和44年」(85回史 2012, pp. 260–268)
  5. ^ a b c d 山中剛史「映画化作品目録――人斬り」(42巻 2005, pp. 886–887)
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az ba bb bc bd be bf bg bh bi bj bk bl bm bn bo bp bq br bs bt bu bv bw bx by bz 「第十一章 映画『人斬り』と昭和四十年代」(山内・左 2012, pp. 294–318)
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai 「第一章 映画『人斬り』と司馬遼太郎――岡田以蔵と武市半平太」(山内・戦後 2011, pp. 23–55)
  8. ^ a b c d e f g h i j k l 「人斬り」(時代劇 2015, p. 167)
  9. ^ a b c d e f g 御用金」(時代劇 2015, p. 166)
  10. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y 再上映 1985
  11. ^ 一般社団法人日本映画製作者連盟(2017年5月17日閲覧)
  12. ^ a b c d e f g h i j 「二十四 『人斬り』で三大スタアと共演」(岡山 2014, pp. 127–152)
  13. ^ a b c d e f 「本職を忘れて役者に――『人斬り』に出演の三島由紀夫」(東京新聞夕刊 1969年6月10日号)。35巻 2003, pp. 780–781に一部抜粋
  14. ^ 「昭和43年」(80回史 2007, pp. 168–175)
  15. ^ 「1968年」(85回史 2012, pp. 250–258)
  16. ^ 「ジャンル別オールタイムベスト・テン時代劇(日本映画)」(80回史 2007, p. 471)
  17. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 藤井浩明「原作から主演・監督まで――プロデューサー藤井浩明氏を囲んで(聞き手:松本徹佐藤秀明井上隆史・山中剛史)」(研究2 2006, pp. 4–38)。「映画製作の現場から」として同時代 2011, pp. 209–262に所収
  18. ^ a b c d e f 品田雄吉「勝新の魅力と三島由紀夫の迫力」(再上映 1985)。山内・左 2012, pp. 316–317
  19. ^ 「人斬り」(なつかし2 1990, p. 45)
  20. ^ a b c d e f g h 石原裕次郎専科「人斬り」
  21. ^ 「『女賭博師』シリーズ――女賭博師丁半旅」(なつかし 1989
  22. ^ 「私の好きな日本映画男優プロフィール――勝新太郎」(男優 2014, p. 123)
  23. ^ 「第8章 騒がしくも、ゆるやかな下降 1961-70――大映のスター路線」(四方田 2014, pp. 170–171)
  24. ^ 「私の好きな日本映画男優プロフィール――仲代達矢」(男優 2014, p. 133)
  25. ^ a b 仲代達矢「五社さんはイタリアンだと思います」(ムック 2014, pp. 11–18)
  26. ^ 「私の好きな日本映画男優プロフィール――石原裕次郎」(男優 2014, p. 119)
  27. ^ 風林火山」(時代劇 2015, p. 165)
  28. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af 「第二章 映画『人斬り』と三島由紀夫――田中新兵衛と永井尚志」(山内・戦後 2011, pp. 56–107)
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  41. ^ 「“殺意”の無上の興奮――映画『人斬り』田中新兵衛にふんして」(読売新聞夕刊 1969年7月1日号)。『人斬り』田中新兵衛にふんして」として『蘭陵王』(新潮社、1971年5月)、映画論 1999, pp. 300–306、35巻 2003, pp. 508–510に所収
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  44. ^ 「ミスター・インターナショナル」(平凡パンチ 1968年8月26日号)。椎根 2012, pp. 30–33
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  68. ^ a b 三島の顔アップ写真や、撮影現場での勝、三島、裕次郎をスナップしたものは、映画論 1999巻頭の口絵写真に掲載
  69. ^ 4人が並んでポーズを取っている写真は、ムック 2014, p. 14に掲載
  70. ^ 4人並列の写真は、35巻 2003口絵写真に掲載
  71. ^ 三島1人のポスター写真は、年表 1990, p. 197に掲載
  72. ^ 田中新兵衛の姿で座っているくつろいだ表情の三島の写真は、山内・左 2012, p. 299に掲載
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参考文献

関連項目

外部リンク