「柳家小三治」の版間の差分
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2016年6月8日 (水) 05:44時点における版
柳家 小三治(やなぎや こさんじ)は落語家の名跡である。当代は10代目。
この名跡は中堅どころの位置付けであるが、「柳家(柳派)の出世名」といわれる。初代・5代目・9代目小三治が柳派の総帥・留め名である「柳家小さん」を襲名した一つ前の名となるからである[1][2]。
- 初代柳家小三治 - 後の3代目柳家小さん。本名、豊嶋銀之助。
- 2代目柳家小三治 - 後の2代目談洲楼燕枝。本名、町田銀次郎。
- 3代目柳家小三治 - 後の3代目古今亭今輔。本名、村田政次郎。
- 4代目柳家小三治 - 後の2代目柳家つばめ。本名、浦出祭次郎。
- 5代目柳家小三治 - 後の4代目柳家小さん。本名、平山菊松。
- 6代目柳家小三治 - (1896年〈明治29年〉8月19日 - 大正半ば頃) 本名、内田留次郎。俗に「留っ子」「坊やの小三治」[3]。
- 7代目柳家小三治 - 後の7代目林家正蔵。本名、海老名竹三郎。
- 8代目柳家小三治 - (1902年〈明治35年〉6月30日 - 1977年〈昭和52年〉11月27日) 本名、高橋栄次郎。
- 7代目・8代目の柳家小三治は同時期に併存したことがある[4]。
- 9代目柳家小三治 - 後の5代目柳家小さん。本名、小林盛夫。
- 10代目柳家小三治 - 本項にて詳述。
10代目 柳家 小三治 | |
本名 | 郡山 剛蔵(こおりやま たけぞう) |
---|---|
生年月日 | 1939年12月17日(84歳) |
出身地 | 日本・東京都新宿区 |
師匠 | 5代目柳家小さん |
名跡 | 1. 柳家小たけ(1959年 - 1963年) 2. 柳家さん治(1963年 - 1969年) 3. 10代目柳家小三治(1969年 - ) |
出囃子 | 二上りかっこ |
活動期間 | 1959年 - |
配偶者 | 郡山和世 |
家族 | 郡山冬果(次女) |
所属 | 落語協会 |
公式サイト | 柳家小三治オフィシャルホームページ |
主な作品 | |
『死神』 『野ざらし』 『百川』 | |
受賞歴 | |
放送演芸大賞(1976年) 芸術選奨新人賞(1981年) 芸術選奨文部科学大臣賞(2004年) 紫綬褒章(2005年) 旭日小綬章(2014年) 重要無形文化財保持者(人間国宝)認定(2014年) 毎日芸術賞(2015年) | |
備考 | |
落語協会理事(1979年 - 2010年) 落語協会会長(2010年 - 2014年) 落語協会顧問(2014年 - ) | |
10代目柳家 小三治(やなぎや こさんじ、1939年〈昭和14年〉12月17日 - )は、東京都新宿区出身の落語家。一般社団法人落語協会顧問。出囃子は『二上りかっこ』。定紋は『変わり羽団扇』。本名、郡山 剛蔵(こおりやま たけぞう)。まれに「高田馬場の師匠」とも呼ばれる。
人物
教師・教育者(小学校校長)の5人の子のうち唯一の男子として厳格に育てられる。テストでは常に満点を求められ、100点満点中95点を取ることすら許されなかった。その反発として遊芸、それも落語に熱中する。東京都立青山高等学校に進学。高校時代にラジオ東京の『しろうと寄席』で15回連続合格を果たす[5]。この頃から語り口は流麗で、かなりのネタ数を誇った。卒業後、教員育成大学である東京学芸大学への入試に失敗し、学業を断念。落語家を志し、5代目柳家小さんに入門した。
以後、5代目小さん門下で柳家のお家芸である滑稽噺を受け継ぎ活躍。噺の導入部である「マクラ」が抜群に面白いことでも知られ、「マクラの小三治」との異名も持つ。全編がマクラの高座もある[6][7]。
落語協会会長6代目三遊亭圓生は大変に芸に厳しい人物で、前任の会長より引き継いだ者を真打にした以外は、実質上3人しか真打昇進を認めなかった。つまり、6代目圓生から真打にふさわしいと見做されたのは、6代目三遊亭圓窓・小三治・9代目入船亭扇橋の3人のみである[8][9]。小三治は17人抜き真打昇進という記録を作った[10]。
上野鈴本演芸場初席における主任(トリ)の座を師の5代目小さんから1991年(平成3年)に禅譲され、2013年(平成25年)まで維持した[11]。
リウマチを持病に抱えながらも、現在も高座に上がり続ける[12]。落語協会会長5代目鈴々舎馬風が病気を理由に2期で勇退した後を受け、2010年(平成22年)6月17日開催の理事会において後任会長に就任[13]。2014年6月、4代目柳亭市馬に会長職を譲って協会顧問に就任した[14]。
夫人は染色家の郡山和世[15]、次女は文学座に所属する女優の郡山冬果。弟子に対する指導が厳しいことで知られ、出来が悪い弟子には「素質がない」「噺家をやめろ」と頭ごなしに発言したこともあったという。
芸
主な演目
主な持ちネタには『あくび指南』『うどん屋』『かんしゃく』『看板のピン』『金明竹』『小言念仏』『子別れ』『死神』『芝浜』『大工調べ』『千早振る』『茶の湯』『出来心』『転宅』『道灌』『時そば』『鼠穴』『初天神』『富士詣り』『百川』『やかんなめ』などがある。
芸風
面白くもなんともなさそうな顔のまま、面白いことを話す。飄々とした表情のまま、ぶっきら棒にしゃべる。
柳家の伝統通り滑稽噺を主なレパートリーとするが、師と同じく[16]、「あざとい形では笑わせない芸」を目標としている。落語(滑稽噺)は本来が面白いものなのできちんとやれば笑うはずであり、本来の芸とは無理に笑わせるものではなく「客が思わず笑ってしまうもの」だとの信念を抱いているからである。
ものまね
過去の落語家のものまねを得意とする。8代目三笑亭可楽などのものまねが時折高座で披露される。
芸論
指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンを「メリハリが効くというよりもあざといくらい派手な音を作り出す」「人を感心させようとして棒を振るから嫌いだ」と評すると同時に、「落語も同じだよ」と付け加えている。
同一の演目
寄席や落語会では、同じ演目を異なる芸人が続けて演ずることは絶対のご法度とされている。
永六輔が自らの主催するイベント「六輔その世界」のゲストに毒蝮三太夫と小三治を招き、両名に落語を演じてもらおうと企画した際、毒蝮は『湯屋番』を演じた。毒蝮は落語界の人間ではないが、7代目(自称5代目)立川談志の古くからの盟友であり、徹底的な指導を受けていた。その後に高座に上がった小三治は、直前までネタを決めていなかったが、毒蝮と同じ『湯屋番』を語り始めた。小三治も談志も同門(5代小さん門下)であり、文字として並べる限り『湯屋番』の内容はほとんど変わらない。しかし、プロとしての技術を駆使して全く別のやり方で『湯屋番』を語り、毒蝮よりもはるかに客を笑わせたという。演芸評論家・矢野誠一の著書『志ん生の右手』(河出文庫)では、この件を小三治自身が後書きで説明している。同じ噺をした理由は「毒蝮三太夫という人の後に落語家として噺をすることに抵抗があった」「毒蝮のやった噺とそれに対するお客さんの反応をみて、これは落語を聞かせる客じゃないな、ショウアップされた趣向を興味半分でのぞきに来てる客だな、と思った」ことであり、「せっぱつまった飛び降り自殺みたいなものです」「もう頼まれたって二度とやりませんが、ひとにも勧めません。それほど愚行です」と矢野への謝辞と共にコメントしている。
趣味
多趣味で知られる。
アウトドア
バイク
- ヤマハ発動機のナナハン(XJ750E)を乗り回していた。当時寄席への出勤もバイクで、本人は上下のつなぎで寄席や落語会に現れていた。落語家仲間で「転倒蟲」(てんとうむし)というツーリングチームも作っていたが、40代のころに手首の腱鞘炎を起こしてからは乗らなくなった[17]。
- 「転倒蟲」メンバー
スキー
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草野球
落語仲間で「ヨタローズ」というチームを組織していた。
インドア
俳句
3代目桂米朝などの落語家や落語を愛好する文化人らと「東京やなぎ句会」という俳句団体を組織しており、同会の名義で出版された著書もある。俳号は土茶(どさ)。
クラシック音楽
鑑賞も歌唱も好む。歌声はドキュメンタリー映画『小三治』に収録されている。
オーディオ
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「少しでもいい音で音楽を聴きたい」という思いからオーディオに凝り、一時期は専門誌でもコラムを連載するなどプロ並みの知識がある。自宅には高価なオーディオ機器が多数あった。
略歴
- 1958年(昭和33年) - 東京都立青山高等学校卒業[18]
- 1959年(昭和34年)3月 - 5代目柳家小さんに入門。前座名は小たけ。
- 1963年(昭和38年)4月 - 二つ目昇進し、さん治に改名。
- 1969年(昭和44年)9月 - 17人抜きの抜擢で真打昇進。10代目柳家小三治襲名。
- 1976年(昭和51年) - 放送演芸大賞受賞。
- 1979年(昭和54年) - 落語協会理事就任。
- 1981年(昭和56年) - 芸術選奨新人賞受賞。
- 2004年(平成16年) - 芸術選奨文部科学大臣賞受賞。
- 2005年(平成17年)
- 2009年(平成21年) - ドキュメンタリー映画『小三治』(監督:康宇政)公開。
- 2010年(平成22年)6月 - 落語協会会長就任。
- 2014年(平成26年)
- 2015年(平成27年) - 第56回毎日芸術賞受賞。
映画
ドキュメンタリー
- 小三治(2009年、ドキュメンタリー映画『小三治』上映委員会=オフィス・シマ/ヒポコミュニケーションズ) ※各地の映画館を廻り上映された。
俳優活動
- 「可否道」より なんじゃもんじゃ(1963年、松竹、原作:獅子文六、監督:井上和男)
- 十九歳の地図(1979年、プロダクション群狼、原作:中上健次、監督:柳町光男) ※エースデュースエンタテインメントよりDVD発売。
- 火まつり(1985年、シネセゾン、監督:柳町光男) ※ハピネット・ピクチャーズよりDVD発売。
- 砂の上のロビンソン(1989年9月、ATG、監督:すずきじゅんいち) ※VHSビデオテープあり。
- ホーホケキョ となりの山田くん(1999年、松竹/スタジオジブリ、監督:高畑勲) - 俳句朗読
- カミュなんて知らない(2006年、ワコー/グアパ・グアポ、監督:柳町光男) ※エスピーオーよりDVD発売。
テレビ番組
落語中継
- 落語研究会(TBS) ※ここでの高座が『落語研究会 柳家小三治全集』(ソニーミュージックエンタテインメント/小学館 MHBL-35-45)としてDVD化されている(ボックスセットのみの発売)。
バラエティ番組
- 笑点 若手大喜利(1966年 - 1969年、日本テレビ) ※若手大喜利は正規の大喜利とは別の企画で、不定期に開催された。
- お好み演芸会(1973年4月 - 1980年4月、NHK) - 大喜利「噺家横丁」司会[21]
- 象印クイズ ヒントでピント(1979年3月4日 - 1980年9月28日、テレビ朝日) - 男性軍2枠解答者[22]
- 笑いがいちばん(1995年4月 - 1998年3月、NHK) - 総合司会
ドキュメンタリー番組
- プロフェッショナル 仕事の流儀 第100回記念(2008年10月14日、NHK総合テレビ)
- ※この放送は『プロフェッショナル 仕事の流儀 第V期 噺家 柳家小三治の仕事』としてNHKエンタープライズよりDVD発売。
テレビドラマ
- ※小三治の二つ目昇進から妻との結婚、弟子とのトラブルまでの半生を題材としたもので、朝の連続ドラマとして放送された。ただし、小三治本人は出演していない。
- 3年B組金八先生 第4シリーズ 第22話(1995年 - 1996年、TBS) - 藍染職人・岸田 役
ラジオ番組
LP・カセット・CD・DVD
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多数リリースされているが、そのほとんどがソニーミュージックエンタテインメント京須偕充によってプロデュースされたものである。
著書
写真集
芸談・エッセイ
対談・インタビュー
- 『小三治楽語対談』(1976年、音楽之友社) ※加山雄三、宇崎竜童、鳳蘭、小沢昭一、白石かずこ、三上寛、永六輔、戸川昌子、小島美子との対談集。
- 『5人の落語家が語るザ・前座修業』(2010年、日本放送出版協会生活人新書)
速記集
マクラのみの速記集
- 『ま・く・ら』(1998年、講談社文庫)
- 『もひとつ ま・く・ら』(2001年、講談社文庫)
- 『バ・イ・ク』(2005年、講談社文庫)
寄稿
- 「志ん生の右手」(2007年、河出文庫、著:矢野誠一) - あとがき
- 小沢昭一的新宿末廣亭十夜(2006年、講談社、著:小沢昭一) - あとがき ※末廣亭2005年6月下席の詳細な記録。小三治は『小沢昭一の小沢昭一的こころ』がどれほど自分の落語のマクラに好影響を与えたかを記している。
関連書籍
- 噺家カミサン繁盛記(1998年、講談社文庫、著:郡山和世) ※夫人による著書。
- 友あり駄句あり三十年 恥多き男づきあい春重ね(1999年、日本経済新聞社、編:東京やなぎ句会)
- 師匠噺(2007年、河出書房新社、著:浜美雪) ※弟子柳家喜多八への小三治に関するインタビューを掲載。
- 五・七・五 句宴四十年(2009年、岩波書店、編:東京やなぎ句会)
- 楽し句も、苦し句もあり、五・七・五 五百回、四十二年(2011年、岩波書店、編:東京やなぎ句会)
- 友ありてこそ、五・七・五(2013年、岩波書店、編:東京やなぎ句会)
- なぜ「小三治」の落語は面白いのか?(2014年、講談社、著:広瀬和生)
- 前座失格(2015年、彩流社、著:藤原周壱) ※破門された元弟子の柳家小多けが著した暴露本。
弟子
- 柳家〆治
- 柳家喜多八
- 柳家はん治
- 柳家福治
- 7代目柳亭燕路
- 柳家禽太夫
- 柳家小多け - 1985年入門、1987年破門。
- 柳家一琴
- 柳家さんぽ - 1994年に破門され、1996年に6代目三遊亭圓橘門下となり、現在は4代目三遊亭小圓朝を名乗る。
- 柳家三三
- 柳家三之助
脚注
- ^ 7代目(自称5代目)立川談志が前名時代に小三治という名を欲しがっていたというエピソードはよく知られるが、談志は襲名せずに後輩の当代(10代目)が襲名した。
- ^ 歴代小三治の全員が小さんになったわけではなく、廃業し落語協会事務員に転じた者もいるため、「実は小さんにも五厘(寄席の事務員)にもなる名前」とのギャグを当代小三治が使っている。
- ^ 6代小三治(内田留次郎)は1914、1915年(大正3年、大正4年)に3代目柳家小さん門下で柳家小志んを名乗り1917年(大正6年)2月に柳家小きんを経て、翌年3月に演芸会社で先代が蝶花楼馬楽を襲名したために小三治となった。将来を期待されたが、酒に溺れて1919年頃までの寄席の出番表などに名が見えるが若くして早逝した。
- ^ 8代目小三治(高橋栄次郎)は東京日本橋住吉町の生まれ、母は日本橋で有名な女髪結いであった。高等小学校卒業後横浜に奉公に出た。自宅の近所に4代目橘家圓喬が住んでいたので、よく子供の頃から可愛がられたという。最初3代目柳家小さんの門で柳家小ゑん。1929年3月に真打昇進で小三治を襲名、柳家小三治が同時に2人存在する状態になる(7代目小三治が師匠・初代柳家三語楼と共に東京落語協会を脱会したのに対し4代目小さん一門が小三治側に名跡の返還を迫ったが、これに応じなかったため、4代目小さん一門側は新たな小三治(高橋)を誕生させた)。結局、7代目小三治が小三治を返上し、無関係ながら空き名跡だった林家正蔵(7代目)を襲名。2人小三治の異常事態は解消した。8代目小三治は出世も期待されたが折しも戦争が激化、終戦の混乱と持病の蓄膿症などもあり、師の4代目小さんの勧めで落語家を完全廃業し落語協会事務員となる。1977年(昭和52年)5月、事務員からも引退した。
- ^ 15回合格はこの番組の最高記録。その当時はニキビ顔だったため、「年頃亭ニキ助」の高座名を名乗る。
- ^ エッセイ風の落語・随談。『玉子かけ御飯』や『ニューヨーク一人旅』など。
- ^ まくらだけ集めた本やCDも発売されている。
- ^ 圓窓とは芸の上での好敵手であり、私生活では良き友人でもある。扇橋とは好敵手であるとともに、同門(5代小さん門下)の大親友である。扇橋とは東京やなぎ句会でも行動を共にする。小三治は扇橋との思い出話を高座で語ることも多く、扇橋は小三治への絶賛だけで高座を降りてくることも多数ある。この際の扇橋の演目名は『小三治をよろしく』。扇橋との仲の良さは映画『小三治』でも映し出されている。
- ^ 圓生がこの時真打昇進を極端に絞ったことが「滞貨」を大量に発生させ、真打昇進を巡る対立から落語協会分裂騒動につながった。
- ^ この「17人抜き」は「滞貨」の人数を表している。小三治の前任会長・5代目鈴々舎馬風も「滞貨」の一人であり、入門は馬風のほうが3年早かったが、真打昇進で順番を逆転された。
- ^ 当席は初席のみ三部構成となっており、1991年から2013年まで小三治は最後(第三部)の主任を務めた。先輩の3代目古今亭志ん朝は第二部の主任を務めていた。2014年、第三部の主任は小三治の弟子柳家三三に禅譲された。
- ^ 高座に置かれる湯呑み茶碗には、白湯ではなく漢方薬が入っている。
- ^ 馬風のマネージャーが執筆しているブログから2010年6月16日の記事を参照のこと。
- ^ a b 柳亭市馬 最年少52歳落語協会会長に 副会長に正蔵 スポーツニッポン 2014年6月26日閲覧
- ^ 小三治に紹介したのは林家木久扇。『ぼくの人生落語だよ』(ポプラ社)より。
- ^ 小三治は若手の時6代目三遊亭圓生に似ていると言われた。実際、小三治はもともと圓生への弟子入りを考えていた。しかし、門下の弟子たちがあまりにも圓生に似すぎており、ここに入ることは圓生のクローンとなるだけではないかと考え、弟子入りを辞めた。圓生の孫弟子・三遊亭鳳楽(5代目圓楽の弟子だが、6代目圓生の下で内弟子修行をした)は、『落語ファン倶楽部 Vol.7』において、他門派でよく稽古に通ってきていたのは小三治と3代目志ん朝で、最も多かったのは小三治であったと述べている。小三治自身も素人時代に圓生が好きで真似ており、師匠・小さんの影響を受けるまでは圓生の弟子と間違えられたとマクラの中で語っている。
- ^ 5代目馬風が漫談のネタにしている。
- ^ 高校の一年後輩に仲本工事と橋爪功がいる。
- ^ 連日長蛇の列が出来、立見で入れないほどの大入りであった。
- ^ 平成26年7月18日文化財保護審議会答申。同年10月23日文部科学省告示第157号による認定。
- ^ コーナー司会(小三治)が「横丁の月番」という設定。アシスタントを務めていたのが真打になる前の春風亭小朝で、「横丁の若様」と自称していた。小朝のキャッチフレーズの発祥である。
- ^ 1994年、番組700回記念大会にもOBチームメンバーとして佐藤陽子とペアで出演した。
参考文献
- 諸芸懇話会・大阪芸能懇話会共編『古今東西落語家事典』(平凡社) ISBN 458212612X