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(京浜線桜木町駅電車火災事故、桜木町国電火災、[[国鉄戦後五大事故]]の一つ) |
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* [[1951年]](昭和26年)[[4月24日]] |
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: [[京浜東北線|京浜線]]の電車(モハ63形、5両編成1271B列車)が、[[桜木町駅]]構内で、[[碍子]]交換工事中に誤って切断され垂れ下がっていた[[架線]]に接触し、電流の地絡により炎上。先頭車が全焼、2両目が半焼し、死者106人、重傷者92人を出す大惨事となった。[[ |
: [[京浜東北線|京浜線]]の電車([[国鉄63系電車|モハ63形]]、5両編成1271B列車)が、[[桜木町駅]]構内で、[[碍子]]交換工事中に誤って切断され垂れ下がっていた[[架線]]に接触し、電流の地絡により炎上。先頭車が全焼、2両目が半焼し、死者106人、重傷者92人を出す大惨事となった。その当時、京浜線電車に使用していた戦時設計の[[国鉄63系電車|63系]]の粗悪な構造が死傷者を多くしたとして、[[国電]]の安全対策強化の契機となった。 |
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: [[桜木町事故]]を参照。 |
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: 当時の[[日本国有鉄道|国鉄]]は、事故の数日後には全車両の車体にコック位置を表記した上、車内にもコック位置を記した張り紙をするという素早い対策を打った。そして戦時設計の電車に対し、車内への防火塗料の塗布、[[集電装置]]の絶縁強化、車端部の貫通路と貫通幌の設置などの応急処置を施し、後に徹底的な体質改善工事を実施したのだが、800両にも及ぶ対象車の体質改善工事はわずか2年強で完了した。これらのことは、この事故の与えた衝撃の大きさを物語るものといえる。 |
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: 被災した[[国鉄63系電車|モハ63形電車]]は、重要な安全部品を省略したり粗悪な代用品を使用したいわゆる「戦時設計車」であった。マスメディアがこの点を厳しく糾弾したことから、戦時設計が被害を大きくした主な原因であるかのように言われがちだが、実際には可燃性材料の多さは戦前期の電車に共通するものであり、モハ63形でなくとも火の回り方は同じようなものであっただろうともいわれている。ただしモハ63形は電気配線の絶縁の質が劣悪で(通常、絶縁皮膜と防護鋼管で覆われているべき室外配線を、碍子支持の裸電線としていたり、一部の引き通し線を化粧板覆いもなく室内に露出させたりしていた)、この事故以前にも小規模な発煙、発火事故を日常的に起こしていた。ただ、窓についてはモハ63形以前の車両は2段式で開口部が大きいためより脱出が容易であり、死者は少なかっただろうと推測されている。なお、前述の体質改善工事によって63形電車は73形と名を改め、国鉄末期まで各地で活躍した。 |
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: 犯罪的所業によるものではないが、「桜木町事件」と呼ばれることもある。 |
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=== 昭和30年代(1955~1964) === |
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* [[1962年]](昭和37年)[[5月3日]] |
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: [[常磐線]][[三河島駅]]構内で貨物線から下り本線に進入しようとした田端操車場発水戸行の下り貨物列車(蒸気機関車牽引)が、赤信号を冒進して[[安全側線]]に進入し脱線。先頭の機関車が下り本線を支障した直後に三河島駅を1分遅れで出発し下り本線を進行してきた上野発取手行きの下り電車と衝突し、上り本線を支障した。さらにその現場に上野行きの上り電車が突入。上り電車の先頭車両は原形を留めず粉砕され、一部の車両が築堤下の小屋に突っ込み、死者160人を出す大惨事になった。 |
: [[常磐線]][[三河島駅]]構内で貨物線から下り本線に進入しようとした田端操車場発水戸行の下り貨物列車(蒸気機関車牽引)が、赤信号を冒進して[[安全側線]]に進入し脱線。先頭の機関車が下り本線を支障した直後に三河島駅を1分遅れで出発し下り本線を進行してきた上野発取手行きの下り電車と衝突し、上り本線を支障した。さらにその現場に上野行きの上り電車が突入。上り電車の先頭車両は原形を留めず粉砕され、一部の車両が築堤下の小屋に突っ込み、死者160人を出す大惨事になった。 |
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: 安全対策が十分に行われなかった事が原因とされ、[[自動列車停止装置]](ATS)の設置を推進する事になった。[[三河島事故]]を参照。 |
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: 貨物列車と下り電車の衝突後、上り電車の進入までの約6分間に列車防護の措置が行われなかったこと、また桜木町事故の教訓をもとに分かりやすく整備された非常用ドアコックを操作して、多くの乗客が線路上に降りていたところに上り電車が突入したことが特に被害を大きくした。 |
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: この事故を機に、[[自動列車停止装置]](ATS)が、計画を前倒しにする形で国鉄全線に設置されるとともに、常磐線に乗り入れる全列車を対象に[[列車防護無線装置]]が装備された。また、未だに身元不明の犠牲者が一人おり、駅近くの寺に無縁仏として葬られている。 |
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==== 南武線踏切事故 ==== |
==== 南武線踏切事故 ==== |
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: [[東海道本線]][[鶴見駅]]~[[新子安駅]]間で、貨物線(現在の[[横須賀線]]線路)走行中の下り貨物列車([[国鉄EF15形電気機関車|EF15]]牽引、45両編成)後部3両目の[[国鉄ワラ1形貨車|ワラ1形]][[2軸貨車]]が突然脱線。引きずられて架線柱に衝突した後に編成から外れ、隣の東海道本線上り線を支障。そこへ東海道本線線路を走ってきた横須賀線の上り・下り電車列車(それぞれ12両編成)がほぼ同時に進入した。 |
: [[東海道本線]][[鶴見駅]]~[[新子安駅]]間で、貨物線(現在の[[横須賀線]]線路)走行中の下り貨物列車([[国鉄EF15形電気機関車|EF15]]牽引、45両編成)後部3両目の[[国鉄ワラ1形貨車|ワラ1形]][[2軸貨車]]が突然脱線。引きずられて架線柱に衝突した後に編成から外れ、隣の東海道本線上り線を支障。そこへ東海道本線線路を走ってきた横須賀線の上り・下り電車列車(それぞれ12両編成)がほぼ同時に進入した。 |
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: 時速90km前後という高速のまま進入した上り列車は貨車と接触。先頭車は下り線方向に弾き出され、架線の異常を発見して減速していた下り列車の4両目を側面から串刺しにした後、後続車両に押されて横向きになりながら5両目までの車体を削り取るような形になった。その下り列車4・5両目は車端部を残して全く原形を留めないほど粉砕され、上下列車合わせて死者161名、重軽傷者120名という大惨事になった。 |
: 時速90km前後という高速のまま進入した上り列車は貨車と接触。先頭車は下り線方向に弾き出され、架線の異常を発見して減速していた下り列車の4両目を側面から串刺しにした後、後続車両に押されて横向きになりながら5両目までの車体を削り取るような形になった。その下り列車4・5両目は車端部を残して全く原形を留めないほど粉砕され、上下列車合わせて死者161名、重軽傷者120名という大惨事になった。 |
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: 調査の結果、[[競合脱線]]が直接の原因だとされた。[[鶴見事故]]を詳しくは参照のこと。 |
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: 事故後、ワラ1形がカーブから直線になった地点で線路に乗り上げていた痕跡が認められた。そして脱線原因が徹底的に調査された結果、車両の問題・積載状況・線路状況・運転速度・加減速状況などが複雑に絡み合った[[競合脱線]]であることが判明。原因不明として処理された過去の2軸貨車脱線事故も、多くはこれが原因である疑いが出てきたのだった。 |
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: 競合脱線のメカニズム解明のため、新線切替で廃線となった北海道の[[根室本線]][[狩勝峠]]旧線(新得~新内)を利用し、実験車を用いて実際に2軸貨車を脱線させるという、大規模な脱線原因調査が行われた。実験は1972年(昭和47年)2月に一応の結論を出し、[[護輪軌条]]の追加設置、塗油器の設置、2軸貨車のリンク改良、車輪の改良などにつながることになる。ワラ1形も当然ながら改良され、国鉄末期の1986年(昭和61年)まで使用された。 |
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: 現在も、[[国道38号|国道38号線]]沿線に、実験車[[国鉄マロネ40形客車|マヤ40形]]の遠隔操縦やデータ収集に使った無線塔などの実験跡が残っている。余談ながら後述の[[#営団地下鉄日比谷線列車脱線衝突事故|営団地下鉄日比谷線列車脱線衝突事故]]では、事故原因が競合脱線に近い乗り上がり脱線だったことから、ニュースなどでこの狩勝実験線の実験映像がよく流されていた。 |
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=== 昭和40年代(1965~1974) === |
=== 昭和40年代(1965~1974) === |
2006年4月25日 (火) 12:20時点における版
鉄道事故(てつどうじこ)は列車の運転においておきた事故である。
事故と称するケースは、遅延などの日常頻繁に起こる小規模なアクシデントから、死者がでる大惨事までさまざまだが、日本において特に鉄道事故という場合は、死傷者が出たり、衝突、脱線、火災などの規模の大きな事故を指すことが多い。
概要
鉄道は大人数輸送、高速運転、定時運行が特徴であり、そのため一旦事故を起こすと、多くの被害者、社会的影響を与える。また鉄道事故件数は近年減少しているものの、些細なものも含めて日本国内で年間500件以上起きており、そのうち約半数近くが踏切障害事故である。
国土交通省令鉄道事故等報告規則では、鉄道運転事故としては列車衝突事故・列車脱線事故・列車火災事故・踏切障害事故・道路障害事故・鉄道人身障害事故・鉄道物損事故の7項目を定めている。
鉄道による輸送に障害を生じた事態であって、上記の鉄道運転事故以外のものは鉄道事故ではなく輸送障害という。特に雨や雪などで休止や遅延が発生した場合には、輸送障害ではなく、災害と呼ばれる。事故を惹起する危険が高い事態が発生し、なおかつ実際には事故が発生しなかった事案は、運転事故が発生するおそれがあると認められる事態=通称インシデントと呼ばれる。
主な鉄道事故(日本国内)
各項目の見出し(事故の名称)を変更する場合は、ほかの記事から[[鉄道事故#○○事故|○○事故]]などの形でリンクされていることがありますので、リンク元の記事のリンクも確認・修正してください。
明治・大正時代
新橋駅構内列車脱線事故
東海道線西ノ宮列車正面衝突事故
- 東海道線・神戸駅~西ノ宮駅間で上り旅客列車と下り回送列車が正面衝突。上下列車は西ノ宮駅で行き違う予定だったが、上り旅客列車の直前に臨時列車が設定され、下り回送列車の運転士が臨時列車の到着後、旅客列車を待たずに発車。上り旅客列車と正面衝突し、乗務員3人が死亡した。駅長同士の電信連絡で列車の運行を管理していたが、事故を機に1区間に1本の列車しか入れないようにする票券閉塞方式の導入が前倒しされた。日本最初の鉄道死亡事故。
大森駅構内列車脱線事故
- 東海道線大森駅構内で、臨時列車の折り返しのため14両編成の客車を下り線から上り線に転線する作業中、分岐器上で客車1両が脱線転覆。乗客1人死亡、1人負傷。事故原因は不明。日本の鉄道事故において最初の旅客死亡事故。
北陸線東岩瀬駅列車正面衝突事故
- 北陸本線東岩瀬駅(現在の東富山駅※)で上り列車と行き違いする予定の下り貨物列車がオーバーランを起こして本線に飛び出して停車したため退行中に、上り団体旅客列車が衝突。24人以上が死亡した。上り列車の停止信号の見落とし、またはブレーキ操作の遅れが衝突の原因とされている。この事故を機に安全側線が採用され、日本全国に整備された。
- ※富山港線の東岩瀬駅は当時未開業で、1924年(大正13年)に越中岩瀬駅として開業した。
東北線列車正面衝突事故
- 東北本線下田駅~古間木駅(現三沢駅)間で、下り臨時旅客列車と上り貨物列車が正面衝突。20人が死亡した。当時東北本線は単線で通票閉塞方式をとっていた。当日夜、古間木駅助役と駅員1人が勤務時間中に外出し飲酒した。先に戻ってきた駅員は下り臨時列車の運転の連絡を受け閉塞扱いをしたのち就寝し、後に駅に戻った助役も寝てしまった。その後、下り臨時列車の運転を知らされていない別の駅員が、到着した上り貨物列車に渡す通票が見当たらないために助役を起こして指示を仰ぐが、泥酔した助役は閉塞機から通票が取り出せないのは故障だと判断し、針金を差し込む不正操作で通票を取り出して上り貨物列車に渡し発車させてしまった。当時の閉塞機は通票が引っかかって取り出せなくなる故障が時として起こっており、その際は針金などを差し込んで通票を取り出していたが、この事故を機に、不正扱いが出来ないよう閉塞機の改良が進んだ。
山陽線特急列車脱線事故
- 山陽本線安芸中野駅~海田市駅間で、豪雨により築堤が崩壊し線路が浮き上がっていた場所に東京発下関行きの下り特急列車がさしかかり、築堤下に脱線転覆。34人が死亡した。事故列車はヨーロッパ~アジア連絡国際列車であり、著名人が多数犠牲となった。木造客車の車体強度の弱さが指摘され、この事故を機に、翌年から鋼製客車が製造されるようになった。
昭和元年~9年(1926~1934)
久大線機関車ボイラ破損事故
- 久大本線鬼瀬駅~小野屋駅間で、後進牽引(ボイラ側を客車に向けて牽引)していた機関車のボイラが破裂。煙室扉が開き、熱水(飽和蒸気の説あり)が客車内に吹き込み、23人が死亡した。この事故を機に、後進牽引を極力抑えるため、終点駅への転車台設置が進められた。
山陽線急行列車脱線事故
昭和10年代(1935~1944)
西成線安治川口駅構内列車脱線転覆火災事故
- 西成線(現桜島線)安治川口駅構内で、駅員の誤操作により列車通過中にポイントが転換したため、通勤客で満員のガソリン動車(ガソリンカー)3両編成のうち1両が分岐器の途中転換が原因により、2対のレールにまたがったまま走行し、踏切付近の構築物に衝突して脱線転覆。燃料のガソリンへの引火により火災が発生し、満員のまま横転した車両からは誰も脱出できず181人が焼死した。この事故から、引火しやすいガソリンを鉄道車両に使用することの危険性が指摘され、より安全なディーゼル動車の開発が進められたが、戦争に向かう時代の中、燃料統制によりガソリン動車の使用は縮小し、ディーゼル動車の開発も中断されることになった。なお、西成線では、事故後ガソリン動車の使用を中止し、急遽電化工事が行われた。
山陽線列車追突事故
- 山陽本線網干駅構内で、上り急行列車が駅場内信号の赤信号を冒進して駅構内に進入し、停車中の普通列車に追突。65人が死亡した。当時の黄信号は速度制限を意味するものではなかったので、黄信号下における減速が不十分なまま走行したことから次閉塞区間の赤信号で停車できずに事故を招いたとされた。この事故を機に、黄信号下では速度を45km/h以下に落とす規定となった。
常磐線列車衝突事故
- 常磐線土浦駅構内で、入換中の貨車が上り本線に進入し、同駅を発車した上り貨物列車と衝突。貨物列車は脱線して下り本線を支障し、下り普通列車と衝突した。普通列車の客車4両が脱線転覆し、約110人が死亡した。またこのときの事故車両D51 651は修理後運用復帰し、1949年に下山事件で下山総裁を轢断している。
昭和20年代(1945~1954)
肥薩線列車退行事故
- 肥薩線吉松駅~真幸駅間の第二山の神トンネル内において、蒸気機関車牽引の上り列車がトンネル内の勾配を登り切れず停止。窒息を逃れようと降りた乗客がトンネル内を歩いていたところ、窒息防止のため後退した列車に轢かれ53人(異説あり)が死亡した。事故列車は大量の復員兵を乗せるために、一般客車の後ろに無蓋貨車を連結していた。貨車には当然車内放送設備が無いため車掌から注意を喚起できず、何が起きたか理解できなかった乗客が線路上を歩いて避難しようとしたが、当時このトンネル内には照明が無かったため列車の後退に気づかず次々に轢かれてしまった。超満員であった列車に粗悪な石炭、戦時のために整備が行き届かず疲弊した機関車という悪条件、乗客への案内の不備など複合要因による事故で、戦争による総合的な運行システムの疲弊・劣化が遠因にあった。
八高線列車正面衝突事故
- 1945年(昭和20年)8月24日
- 八高線小宮駅~拝島駅間の多摩川鉄橋上において上り列車と下り列車が正面衝突し、客車が川に転落。少なくとも105人の死亡が確認された。終戦直後の混乱期のため列車は超満員で、多数の乗客が川に流されており、実際の死者数は上記の倍とも3倍とも言われている。原因は、小宮~拝島間での列車の運行の連絡不備による人為的なものとされている。2001年に当時の車両の車輪が川の中州から発見され、2004年に河原の公園脇に設置された。また下記のように八高線では、2年後にも184人の死者を出す惨事が発生した。
中央線乗客転落事故
- 1946年(昭和21年)6月4日
- 中央本線大久保駅~東中野駅間で、上り電車の4両目の中央扉が満員の乗客の圧力により外れたため、乗客3人が車外に投げ出され神田川に転落して死亡した。応急対策として扉に外れ止めが取り付けられ、恒久策としては鋼製扉への取替えが進められた。
八高線列車脱線転覆事故
- 八高線東飯能駅~高麗川駅間で客車列車が下り勾配で過速度により脱線・転覆。客車の木造車体が大破し、184人が死亡した。木造客車の脆弱性が問題視されたが、鋼製客車の新規製造のみによる置き換えはコスト的に困難であったため、木造客車の台車と台枠を再利用し、その上に鋼製車体を載せる鋼体化改造が実施されることになった(→国鉄60系客車の記事を参照)。
近鉄奈良線暴走追突事故
- 近鉄奈良線の奈良発上本町駅行き急行電車(デボ1形他3両編成)が、生駒トンネルを走行中にブレーキが効かなくなり、トンネル内からの下り坂を加速・暴走して70~80km/hで河内花園駅を発車しかけた前方の普通電車に追突。木造車体が大破し、特に一両目は原型ほとどめていないほどだった。この事故により49人が死亡した。原因は戦中戦後の酷使の結果、老朽状態で放置されていたブレーキホースの破損とされる。事故電車は、空気ブレーキとしては最も原始的な直通ブレーキ装備車であったため、ホースが破損するとまったくブレーキが効かなくなった。また集電装置のパンタグラフが華奢なもので、暴走によって架線から外れてしまい、マスコンを逆ノッチに入れて電動機を逆回転させ、停車させる非常制動が使用できなかったことも、被害を大きくした(以前、阪急三国駅において同様のケースで逆ノッチを使用し電車を停車させことがあった)。
- なお事故当時、電車はどの車両もほぼ満員の状態であり、それでいて事故の規模の割には死傷者が少なかったのは、生駒トンネルを抜けた時点で運転士が異常に気づき、更に乗客の中に警察官がいてその人が乗客に比較的冷静な対処(手動ブレーキをかける、床にかがむ、窓を開けるなど)をさせたからだといわれている。また、事故発生地点手前の瓢箪山駅では急行が停車する石切駅を電車が通過したという通報を受けたため、先行して走り同駅を通過する予定であった準急電車を急遽待避線に入れ、ポイントを切り替えたところで問題の電車が通過して行ったという話も残っている。瓢箪山駅を通過した頃が事故を起こした電車が最も速度(100km/h)を出していた頃であったため、もし準急に衝突していればもっと死傷者数は増えたかもしれないともいわれている。
- 以上の理由により、未曾有の大惨事にもかかわらず乗客・乗員が一体となって犠牲を最小限に食い止めたある種の「美談」として語られることがある。
桜木町事故
(京浜線桜木町駅電車火災事故、桜木町国電火災、国鉄戦後五大事故の一つ)
- 京浜線の電車(モハ63形、5両編成1271B列車)が、桜木町駅構内で、碍子交換工事中に誤って切断され垂れ下がっていた架線に接触し、電流の地絡により炎上。先頭車が全焼、2両目が半焼し、死者106人、重傷者92人を出す大惨事となった。その当時、京浜線電車に使用していた戦時設計の63系の粗悪な構造が死傷者を多くしたとして、国電の安全対策強化の契機となった。
- 桜木町事故を参照。
昭和30年代(1955~1964)
参宮線六軒駅列車衝突事故
- 参宮線(当該箇所は現・紀勢本線)六軒駅での列車衝突事故。
- 同駅を通過の予定であった名古屋発鳥羽行き下り快速列車の機関士、機関助士が、対向列車の遅れにより「注意」現示になっていた通過信号機(場内信号機の下に設置されており、「注意」現示なら駅構内で停車しなければならない)を見落とし、列車は減速しないまま駅構内に進入した。そしてホーム先端の通票受けにタブレットが無かったため慌てて非常制動をかけたが間に合わず、列車は安全側線に突っ込み、脱線して本線を支障した。そこに進入してきた名古屋行き上り快速列車が衝突し、機関車と客車が脱線転覆し、42人が死亡した。下り快速列車に乗車していた修学旅行中の学生が多数犠牲になった。
- 下り快速列車の機関士の信号誤認が事故原因との判決が下されたが、場内信号(通過信号)の誤操作の可能性を否定できていない。また重連では非常制動が全車両に行き渡らない特性だったため止まりきれず過走して事故に至った。重連運転が常態の上越線では機関車のブレーキ管を非常制動が全車両に行き渡るように改造していたが、これは全国には普及していなかった。しかしそれによる管理側の責任は問われなかった。
山陽本線「さくら」・「あきよし」衝突事故
- この日は大雪の影響で通信不能となり、列車の運転は前方を目視で確認しながら低速で一定時間間隔毎に列車を運行する隔時法によっていた。前方に先行列車を見つけて停車中の「さくら」に「あきよし」の運転士が気づいたのは「さくら」最後尾から約80m手前で、速度を出していたこともあり非常ブレーキを扱ったが間に合わなかった。この事故を機に隔時法は廃止された。
- この事故では双方の列車に乗客がいたが、「さくら」「あきよし」で計50名の重軽傷者を出したものの、20系客車の軽量構造が衝撃を吸収し、客室部分の損傷を最小限にとどめ、死者は出さなかった。この点では軽量車体の優位性を示したといえる。しかし、当時20系は予備編成が確保されていない状態での運転であった為、付属編成6両が不足する事態となった。そのため、急遽10系ナハネ10形・オハネ17形や旧型客車スハネ30形を20系と併結して、急場をしのいだ。
- 2等寝台(現在のB寝台)の基本設備に限れば、10系寝台車の設備は20系客車に比して大きく劣るものではなかった。しかし、20系客車は在来型客車と貫通幌が異なっていた(14系・24系では従前のものに戻された)上、集中電源方式による電気暖房の20系と違い、10系客車は暖房用蒸気を機関車から供給する構造になっているため常に機関車側に連結している必要があり、下り列車では20系の電源車を挟んで下り下関・博多方に連結せざるをえなかった。このため編成内の通り抜けができず、付属編成の乗客は食堂車が利用できないなど、サービス面で問題となった。国鉄は一般車部分の乗客の特急料金を100円払い戻す措置を行った。なお、旧型車両を用いたことから、「うばざくら」とメディアから揶揄された。
三河島事故
(常磐線三河島駅列車多重衝突事故、国鉄戦後五大事故の一つ)
- 常磐線三河島駅構内で貨物線から下り本線に進入しようとした田端操車場発水戸行の下り貨物列車(蒸気機関車牽引)が、赤信号を冒進して安全側線に進入し脱線。先頭の機関車が下り本線を支障した直後に三河島駅を1分遅れで出発し下り本線を進行してきた上野発取手行きの下り電車と衝突し、上り本線を支障した。さらにその現場に上野行きの上り電車が突入。上り電車の先頭車両は原形を留めず粉砕され、一部の車両が築堤下の小屋に突っ込み、死者160人を出す大惨事になった。
- 安全対策が十分に行われなかった事が原因とされ、自動列車停止装置(ATS)の設置を推進する事になった。三河島事故を参照。
南武線踏切事故
- 1962年(昭和37年)8月7日
- 南武線津田山駅~久地駅間の第3種踏切で警報を無視して進入したトラックに下り電車が衝突。上り線を支障した下り電車に上り電車が衝突し、3人が死亡した。踏切事故の多発が問題視され、踏切設備の改良や立体化など、踏切の抜本的な整備対策が検討され、当面の対策として踏切支障警報装置の設置が進められた。
羽越線正面衝突事故
- 1962年(昭和37年)11月29日
- 羽越本線羽後本荘駅~羽後岩谷駅間で下り単行機関車(D51形蒸気機関車)と上り貨物列車(DF50形ディーゼル機関車牽引)が正面衝突。ディーゼル機関車は前頭部が完全に粉砕されて炎上し、貨物列車の乗務員2名が殉職した。事故の原因は、遅延に伴う行違いの変更を確認せずに羽後本荘駅が下り列車に発車指令を出したことによるものであった。事故現場付近に信号場を設置予定だったが、この事故が原因となり複線化へと計画が変更された。
- 当時、国鉄では単線の主要幹線を対象に、タブレット閉塞方式を廃し、タブレット交換の不要な連査閉塞の導入を進めていた。本事故の発生した区間も連査閉塞に切り替えられて間もない区間であった。そのため後日、この事故が参議院運輸委員会で議題に上がり、連査閉塞の問題点などについて国鉄側が追及されている。参議院会議録 第041回国会 運輸委員会 第4号 昭和37年12月7日
鶴見事故
(東海道線鶴見列車多重衝突事故、国鉄戦後五大事故の一つ)
- 東海道本線鶴見駅~新子安駅間で、貨物線(現在の横須賀線線路)走行中の下り貨物列車(EF15牽引、45両編成)後部3両目のワラ1形2軸貨車が突然脱線。引きずられて架線柱に衝突した後に編成から外れ、隣の東海道本線上り線を支障。そこへ東海道本線線路を走ってきた横須賀線の上り・下り電車列車(それぞれ12両編成)がほぼ同時に進入した。
- 時速90km前後という高速のまま進入した上り列車は貨車と接触。先頭車は下り線方向に弾き出され、架線の異常を発見して減速していた下り列車の4両目を側面から串刺しにした後、後続車両に押されて横向きになりながら5両目までの車体を削り取るような形になった。その下り列車4・5両目は車端部を残して全く原形を留めないほど粉砕され、上下列車合わせて死者161名、重軽傷者120名という大惨事になった。
- 調査の結果、競合脱線が直接の原因だとされた。鶴見事故を詳しくは参照のこと。
昭和40年代(1965~1974)
営団地下鉄日比谷線神谷町駅車両火災事故
- 営団日比谷線神谷町駅付近で、回送中の東武鉄道2000系の主抵抗器が過熱発火して火災を起こし、1両が全焼した。事故後、全焼した車両は車体・機器とも全て作り直され修理扱いで復帰。事故列車は主制御器故障により六本木駅で乗客を降ろし回送中だったため幸い死者は発生しなかったが、可燃性の車両部品の使用が見直され、翌1969年(昭和44年)に運輸省が耐火基準を強化するきっかけになった(いわゆるA-A基準)。この基準は世界的に見ても厳格なもので、以後の鉄道火災事故防止に貢献している。
富士急行列車脱線転覆事故
- 富士急行大月線月江寺駅の富士吉田駅方踏切で、河口湖駅発大月駅行き電車(3100形2両編成)がトラックと衝突。空気溜めを破損したためブレーキが故障して暴走し、月江寺駅~暮地駅(現寿駅)間の4駅を通過して、暮地駅~三つ峠駅間(最急40‰の下り勾配)のカーブに猛スピードで進入して進行方向左側の沢に転落、16名が死亡、70名が負傷した。
近鉄大阪線列車正面衝突事故
(青山トンネル事故・垣内東事故)
- 1971年(昭和46年)10月25日
- 近鉄大阪線の西青山駅~東青山駅間で、上本町発近鉄名古屋行き特急電車(4両編成)が、自動列車停止装置(ATS)故障のため自動停止してしまった。ブレーキが緩まず、停止地点は下り急勾配であったため、運転士は車輪に車止め(スコッチブロック)を挟み、ブレーキコックを操作して元空気溜めのエアを全部抜いた。
- ところが、列車停止を聞いて東青山駅から駆けつけた助役が、運転士に十分な連絡をしないまま車止めを外してしまった。車止めが外されたことを知らない運転士がブレーキを緩めたところ列車は走り出し、エアの再充填もできずブレーキが効かない状態で下り坂を暴走、青山峠越えの東青山~榊原温泉口間にあった垣内(かいと)東信号所の安全側線を時速120km以上で突破し脱線転覆、3両目は総谷トンネル入り口付近の壁に激突して止まったが、先頭の2両が横転した状態でトンネル内へ突入。直後に走ってきた対向の賢島発京都・難波行き特急電車(7両編成)と正面衝突し、死者25名、重軽傷者227名を出す大惨事となった。
- この事故をきっかけに、近鉄はかねてより予定していた大阪線の完全複線化を前倒しして新たに複線用トンネル(新青山トンネル)を掘り、西青山駅・東青山駅を移転。この工事は1975年に完成し、かつての青山峠越えの旧駅などは廃止された。
- 実際は垣内東信号所付近の総谷トンネル入口で起こった事故であるが、一般には「青山トンネル事故」とも呼ばれる。
日暮里駅構内追突事故
- 京浜東北線北行第1332C電車(桜木町発大宮行き:103系10両編成)が日暮里駅で客扱いを終了し、2分遅れで発車したところ運転台の戸閉表示灯が消灯したためブレーキを掛け、約90m進んだ所で停止した。一方で、後続の山手線内回り第1370電車の運転士は(当時は線路保守のため、データイムは田端~田町間で山手線と京浜東北線が同一の線路を走行していた。この運転方式は現在でもリフレッシュ工事と称される工事が行われる際に見ることができる)、一つ手前の鶯谷駅を1分遅れで発車し日暮里駅に進入しようとする際、先行列車がホーム中央部分に停車しているのに気付き、非常ブレーキを掛けたが間に合わずに追突し、85人が負傷した。この事故で103系が初めて廃車となった。原因は山手線の運転士が場内信号機の制限速度を超過して運転したためで、この事故をきっかけに信号保安機器の検討がなされ、京浜東北線・山手線のATC化が決定されることになった。しかし車両面での準備が遅れたため、実施は1981年12月6日まで待たねばならなかった。
北陸線北陸トンネル列車火災事故
(急行「きたぐに」火災事故)
- 北陸トンネル内を走行中の大阪発青森行き客車急行列車「きたぐに」(EF70形電気機関車牽引、15両編成)の11号車食堂車(オシ17形)喫煙室椅子下から火災が発生し、列車は規定に基づいて直ちに停車(敦賀側入口から5.3km地点)。乗務員は消火作業を開始したが、鎮火は不可能と判断したため車両の切り離し作業に取り掛かった。しかし火勢の激しさとトンネル内の暗闇で作業は難航。そのうち熱でトンネルの構造物が溶け、架線に触れて停電したため、全長約13.9kmの長大トンネル内で列車は身動きが取れない状態に陥った。救援列車が運転されるなどしたが猛煙で救助は捗らず、30名(内1名は指導機関士)が死亡し、714名にものぼる負傷者を出す事態となった。死者は全員が一酸化炭素中毒死。火災の原因はオシ17形の電気暖房装置のショート(基準違反の配線であったことが判明している)とされた。
- この事故を教訓に、地下鉄や長大トンネルを走る車両の難燃化・不燃化の基準が改訂され、車両の防火対策が進められた。更に実際に走行中の車両を燃やして行った実験で「いかなる場合でも直ちに停車する」より「トンネル内火災時には停止せずそのまま走行しトンネルを脱出する」ほうが安全であることが証明されたため、運転マニュアルを改めた。
- 「きたぐに」事故の前の1969年にも北陸トンネル内を通過中の寝台特急「日本海」で列車火災が発生したが、この列車の乗務員の機転で当時の規則を無視して列車をトンネルから脱出させ、速やかな消火作業を可能とした。このため死傷者を生じさせなかったが、国鉄上層部はこれを「規定違反」として処分し、運転マニュアルの見直しを行わなかった。そのため事故列車は長大トンネルの中間で停止せざるを得ず、大惨事を惹起した。多数の犠牲の結果責任として乗務員3名が起訴され、裁判で長期にわたって争われたが、最善を尽くしたとされて無罪になった。本事故後、先述の「日本海」の乗務員に対する処分も撤回された。
- なお、事故車と同形のオシ17形は他に6両が在籍していたが、本事故の翌日には全ての列車で運用から外され、後に廃車となった。この事故発生以前から夜行急行列車の食堂車はすでに縮小が進められていたが、オシ17形の全廃によって夜行急行列車から食堂車が消滅することとなる。原因となった電気暖房のショートは電気暖房を使用する限りどの車両でも起こりうる事態であり、オシ17形だけが特別な危険性を有しているというわけではなかったが、10系客車は軽量化のために合板やプラスチックの内装を多用しており、それが有毒ガスの発生を招いて人的被害を拡大することになったのだった。
昭和50年代(1975~1984)
信越本線軽井沢駅-横川駅間回送機関車脱線転落事故
- 信越本線軽井沢~横川間上り線で、単行機関車列車(回送列車)列車番号単5462列車(4両編成、EF63 5,9+EF62 12,35)が下り勾配でブレーキが利かなくなり、スピードが超過したため、脱線転落した事故。乗務員3名が重軽傷を負った。事故機は4両とも廃車となった。
- 事故がおきたのは、午前6時16分ごろ。信越線上り線第一トンネル内で暴走し、出口付近で脱線した後、転覆した。この区間は、最大66.7‰の急勾配のため、下り勾配を走行するEF63は、発電ブレーキという抑速ブレーキを作動させながら、車輪を空転させないように下りてくる。それが、何らかの原因で正常に作動しなかったものと見られ、制限速度を20km/h以上超過した速度に達した後、脱線した。この事故を教訓に、EF63全車両に過速度検知装置(OSR)を取り付けた。
阪急神戸線六甲駅列車衝突事故
- 阪急神戸本線六甲駅構内で、本線に出てきた上り回送列車(山陽電鉄の車両)に、同駅を通過しようとした上り特急電車(阪急電鉄の車両)が衝突。回送列車の運転士(山陽電鉄の運転士)が故意に自動列車停止装置(ATS)のスイッチを切り、車掌の合図と信号を無視して定刻より早く発車したことが原因。ゴールデンウィーク中であったため、特急電車は満員状態であった。また事故時には、反対方向へ向かう普通列車が同駅に向かって走行しており、衝突した特急列車の運転士(阪急電鉄の運転士)が異常を知らせるために重傷を負いながらも線路上を大阪方へ向かって走ったことにより、二次的事故を免れたとされる。
- 事故を起こした山陽電鉄の運転士は後に懲戒解雇され(動力車操縦者免許も剥奪)、同乗していた車掌も直接の責任はないながら、事故を未然に防げなかったという自責の念に駆られ、事故から11日後の5月16日に自社線の電車に飛び込み自殺をした。大阪陸運局(現在の近畿運輸局)が特別保安監査を行ったところ、安全教育の不徹底が指摘され、同年5月31日に山陽電鉄に対して業務改善命令が出された。
昭和60年代(1985~1988)
能登線列車脱線事故
- 能登線(のちののと鉄道能登線、現在当該区間は廃止)古君駅~鵜川駅間で、築堤の盛土が崩壊し線路が浮いている場所に下り気動車急行列車「能登路5号」(キハ58系4両編成)が進入して約8m下の水田上に脱線転覆し、7人が死亡、32人が負傷した。事故現場の築堤の盛土は水抜きパイプがなく、両端に草を植えた古い方式の土工法によるものであった。前日夜から当日朝まで連続雨量95mmの豪雨が観測されていたが、事故当時は降雨はなかった。豪雨時の運転規制条件の見直しと、同種の方式の盛土の一斉点検が実施された。事故車両はすべて廃車となった。
西武新宿線田無駅列車追突事故
- 大雪の西武新宿線田無駅構内に接近した西武新宿行き上り急行電車(2000系8両編成)のブレーキが効かなくなり、ホームに停車中の準急電車(8両編成)に追突、200名余が負傷した。車輪とブレーキシューの間に雪が挟み込まれたのが原因。事故にあった車両のうち、損傷のひどかった8両(2両編成1本、6両編成2本の2両と4両。残った6両編成の車両はまとめられて6両編成1本として復旧)が廃車となった。その後、事故車両と同系の車両全車には防雪ブレーキが装備された。
山陰線余部鉄橋列車転落事故
- 1986年(昭和61年)12月28日
- お座敷列車「みやび」の回送列車(ディーゼル機関車+14系客車7両)が山陰本線鎧駅~餘部駅間にある余部鉄橋を走行中、日本海からの突風にあおられて機関車と客車の台車の一部を除き鉄橋より転落、真下にあった食品加工場を直撃し、工場の従業員5人と車掌1人が死亡した。列車運行を規制するための風速計の設置が不十分であったことや、地形的な理由などから、列車運行に支障を及ぼす強風を予測しきれずに列車を運行してしまったことが原因と見られている。「みやび」は全車廃車。事故後、国鉄は運行規制基準を見直し、20m/s以上の風が吹くと列車の運行を停止するようになった。なお、余部鉄橋については老朽化や、この事故で厳しくなった運行基準のために列車の運休や遅れが続出していることから2010年完成を目指し架け替えが予定されている。
中央線東中野駅列車追突事故
- JR東日本の中央緩行線東中野駅に停車中の下り電車(103系10両編成)に後続電車(201系10両編成)が追突し、後続電車の運転士と乗客1名が死亡、116名が重軽傷を負った。ATS(ATS-B/-S)では作動しても確認動作さえすればそのまま進行可能で、折から遅延回避に一旦停止と25km/h以下での移動を定めた運転規則を無視して良いという千葉支社通達が出されており、列車の遅れを回復しようとした運転士がこれに従い進行したために、見通しが悪く下り坂の現場で事故が起きたと見られる。この事故を契機にATS-B型を使っていた全区間と首都圏と大阪圏の稠密ダイヤ線区では、停止予定位置を基準にそれぞれの列車の減速性能から各地点の限界速度を定める速度パターン照合により確認扱いをなくして確実に強制停止させられるATS-Pへの切替が進んだ。
平成元年~9年(1989~1997)
飯田線北殿駅列車正面衝突事故
- JR東海の飯田線北殿駅において、停車中の天竜峡発長野行き下り列車に上諏訪発天竜峡行き上り列車が正面衝突。原因は上り列車が場内信号機の赤信号を冒進したため。
- 先の東中野追突事故とこの北殿駅正面衝突事故を受けてJR各社はATS-Sの緊急改良を決め、JR東日本と東海が開発を担当し、ATS-Sの場内信号機と出発信号機などの絶対信号機直下に非常停止機能を追加したATS-Snを開発しJR東日本と北海道が採用、東海は更に時素式速度照査機能を追加してATS-STとし、-STから列車番号通知機能を除いたものをATS-SW西日本、-SK九州、-SS四国、新-SF貨物として採用した。
信楽高原鐵道列車正面衝突事故
- 滋賀県の信楽高原鐵道信楽線の小野谷信号場~紫香楽宮跡駅間で、信楽発貴生川行きの上り普通列車と、京都発信楽行きのJR直通下り臨時快速列車「世界陶芸祭しがらき号」とが正面衝突。42名が死亡、614名が重軽傷を負った。当時、同線沿線の信楽町(現:甲賀市)では「世界陶芸祭」が開催されており、信楽高原鐵道は来場者輸送におおわらわであった。そして、衝突した臨時快速列車は、乗客で超満員の状態であったため、人的被害が非常に大きくなった。
- 発端は、信楽駅を貴生川駅行きの普通列車が発車しようとした際、通常青に変わるはずの出発信号機が発車時刻になっても赤のままであったことである。この原因が分からないまま、信楽高原鐵道では誤出発検知装置を頼りにして普通列車を11分遅れで見切り発車させた(これは「無閉塞運転」の一種と言える)。また信楽駅構内に設置されている信号機器室で、通常行ってはならない「運行時間中」の信号装置の点検により、誤出発検知装置により一度は赤信号を現示した対向の小野谷信号場の下り出発信号機が再び青信号を現示してしまい、下り快速列車は青信号に従ってそのまま進行し、正面衝突という大惨事を引き起こすこととなった。
- 信号の不具合の遠因は、JR西日本と信楽高原鐵道がそれぞれ別個に無認可で行った信号制御の改造と両社の意思疎通の欠如にあったため、遺族が両社を相手取って提訴、1999年(平成11年)の一審で両社の過失認定判決。JR西日本のみ控訴したが2002年(平成14年)の控訴審でも同社の過失が認定された。JR西日本は上告せず高裁判決が確定した。なおこの事故と信号不具合が原因で小野谷信号場は現在に至るまで休止中である。
- 参考記事:京都新聞リポート 「赤信号で走った列車~信楽高原鉄道事故の真相」
関東鉄道列車衝突事故
- 関東鉄道常総線取手駅構内において、入線してきた同駅終着(新守谷発)上りディーゼル列車(4両編成、乗客約900人)が停止せず車止めを飛び出し、そのまま駅ビルの2階の壁を突き破り、先頭車両が洋服店に突入し大破。乗客1人が死亡、250人以上が重軽傷を負った。原因はブレーキ故障で、非常ブレーキも一駅手前の西取手駅で作動させた後に適切な復元がなされず、常用・非常の両系統のブレーキが作動しなかった。
成田線大菅踏切事故
- JR東日本の成田線・久住駅-滑河駅間の大菅踏切で、遮断機が下りていた踏切に進入していた大型ダンプカーと113系普通電車が正面衝突、その先頭車は脱線大破し、運転士が死亡した。
- 事故の原因は、過積載のダンプカーが踏切の停止線で停止する事が出来なかった重過失から来るものであり、JR東日本は被害者的立場ではあったが、この事故は先の東中野事故と合わせて当時のJR東日本の上層部を含む社内にも多大なショックを与え、この事故以後に登場した車両の運転室の拡大や衝撃吸収構造の採用に踏み切るきっかけとなった。
東海道新幹線三島駅乗客転落事故
- JR東海の東海道新幹線三島駅で、東京発名古屋行き「こだま475号」(0系16両編成)の6号車ドアに指を挟まれた乗客が列車に引きずられてホーム下に転落、死亡した。列車の車掌とホームの係員が指挟みに気付かず、またドアの隙間がわずかであったために運転席の戸閉ランプが点灯したことで運転士も気が付かず、そのまま列車が発車したことが原因である。なお死亡した乗客はこだまの停車時間(当時ひかりを待避しており数分間停車していた)を利用して駅ホームで電話していたため列車内に戻るのが遅れ、閉まりかけていたドアに無理矢理手をかけその結果指挟みに至ったもので、該当車輌のドアは指挟みへの対応がなされていなかった。
- 新幹線での旅客の死亡事故はこれが開業以来初めてであった。すなわちこの事故で世界にも誇っていた「開業以来死亡事故0人」記録がここで途切れてしまった(ただし車両が脱線したり衝突したわけではないため、その後は「車内の乗客が死亡した事故は皆無」といった表現で死亡事故ゼロの記録が継続されている)。この事故を教訓に、残る車輌のドア改造や、旅客に対しホームに設置されている列車非常停止ボタンの扱いを公開したり、駅構内の監視カメラを増設するなどの安全対策が強化された他、乗客が短い停車時間に車外に出ないように案内放送についても強化された。
東海道本線列車追突事故
- JR東海の東海道本線沼津~片浜駅間で、停車中の下り貨物列車に下り普通列車が追突し、43人が負傷。先行貨物列車が踏切支障報知装置が作動したため停車中であったところ、後続の普通列車は赤信号によりいったん停車したあと規定の1分後に無閉塞運転を開始した。その後先行列車の運転士が踏切支障報知装置を復帰したため後方の中継信号が進行を示し、後続列車がそれを自列車に対するものと誤認して加速したため停車中の貨物列車に追突した。
- JR東日本ではこれを機に列車指令の指示を受けない無閉塞運転の扱いを中止した。その後JR北海道・JR四国でも同様の処置がとられたが、追随しなかったJR九州では2002年2月に同様の事故を起こすことになった。
中央線大月駅列車衝突事故
- JR東日本の中央本線大月駅構内で、下り本線を通過中の新宿発松本行き特急「スーパーあずさ13号」(E351系12両編成)の側面に、待避線から下り本線上に進入してきた回送列車(201系6両編成)が衝突し、脱線。
- 回送列車の運転士が、構内での入換作業のために自動列車停止装置(ATS)を解除した後、入換信号機の停止現示を見落としたため。
平成10年以降(1998~ )
西武鉄道新宿線踏切衝突事故
- 西武新宿線新狭山駅~南大塚駅間の踏切で自動車輸送のトレーラーと本川越行き準急が衝突。そのドライバーは踏切の先がとても混雑していたのにもかかわらず、無理やり横断し踏切を完全に渡りきれなくなってしまい、立ち往生したのが原因である。17人が軽傷。事故後は、西武新宿線はダイヤの乱れはあったものの、混乱は起こらず、すぐに復旧したが、この後、事故を起こしたトレーラーの運転手は自殺した。
営団地下鉄日比谷線列車脱線衝突事故
- 営団地下鉄日比谷線の東横線直通菊名行き電車(03-102F:営団03系8両編成)の最後尾車両が、中目黒駅手前の急曲線で車両の重量の不均衡など複数の要因で乗り上がり脱線。線路からはみ出した状態で対向の中目黒始発東武伊勢崎線直通各駅停車竹ノ塚行き電車(21852F:東武20050系8両編成)と側面衝突。死者5人、負傷者64人を出した。正確な原因は未だに不明。この事故を契機に半径200m以下のカーブに脱線防止ガードの設置を義務化した。
- 前年6月に発足した鉄道事故調査検討会の最初の仕事となり、また航空・鉄道事故調査委員会発足の契機にもなった。
京福電気鉄道越前本線列車衝突事故(松岡町)
- 京福電気鉄道永平寺線の上り列車(1両編成)がブレーキ故障により分岐駅である東古市駅(現在の永平寺口駅)に停車せず、越前本線に進入、越前本線下り列車と正面衝突、上り列車の運転士1人が死亡、両列車の乗客ら24人が重軽傷を負った。ブレーキ故障は、ブレーキを作動させるロッドが老朽化により破断したのが原因であり、同社の車両検査体制が問われた。また、事故車のブレーキ制御系統が1系統しかなく、その故障によって列車全体のブレーキ機構が作動しなくなったことも事故原因として挙げられており、国土交通省は、ブレーキ系統の多重化等の対策を全国の鉄道事業者に指示した。
新大久保駅ホーム転落死亡事故(新宿区)
- JR東日本山手線新大久保駅で線路に人が転落し、その人を助けようとして2人がホームから線路に飛び降りたが、3人とも折から進入してきた電車にひかれ死亡した。この事故を受け、事故の犠牲者を追悼するプレートが新大久保駅のホームと改札の間の階段に設置された。また、ホームにある非常列車停止ボタンの扱いを積極的に車内広告やテレビCMで促すようになり、全国で多くの駅のホームの側面に非常用ステップが取り付けられた。また、救助を試みて死亡した1人が韓国人留学生であったために、韓国国内でも大きく報じられた。
京福電気鉄道越前本線列車衝突事故(勝山市)
- 京福電気鉄道越前本線保田~発坂間で、勝山発福井行きの上り普通列車と福井発勝山行きの下り急行列車が正面衝突して乗員乗客24名が重軽傷を負った。事故原因は、本来、途中駅で対向する急行列車とすれ違う必要があったのを、普通列車の運転士が信号を確認せず早発したという人為ミスであった。国土交通省と中部運輸局福井運輸支局は、半年の間に2度もの正面衝突を引き起こした事態を重く見て、翌日からの全線運行停止・バス代行を命じた。同年7月、「安全確保に関する事業改善命令」が出されたが、同社はその負担に耐えられないとして営業の継続を断念、路線は福井県と沿線市町村が出資する第三セクターえちぜん鉄道に引き継がれた。(2003年7月20日部分開業。10月19日全線開業)
名鉄新羽島駅電車衝突事故
- 岐阜県羽島市の名古屋鉄道羽島線新羽島駅構内で、羽島市役所発新羽島行き普通電車(3100系2両編成)が車止めに衝突、先頭車両の前部2.5メートルが高架橋終端から突き出て停止した。けが人は無かった。原因は、降雪時に耐雪ブレーキを使用せずに運転したため、氷塊詰まりにより制動力が極端に落ちたものと思われる。この事故を受けて名鉄では、耐雪ブレーキの使用基準などを改めた。事故車両は修理を受け、現在も使用されている。
鹿児島線列車追突事故
- 福岡県宗像市のJR九州鹿児島本線海老津~教育大前駅間で、門司港発荒尾行き下り普通列車(811系・813系7両編成)がイノシシに衝突し停止中、無閉塞運転で進行してきた後続の門司港発荒木行き下り快速列車(813系5両編成)が追突し、134名が重軽傷を負った。当該車両は全車廃車となったが、損傷のなかった部品はその後代替として新造された813系に転用された。
- 後続の快速列車の運転士は赤信号を確認して駅間で停車、1分後に規定通りに15km/h以下での無閉塞運転を開始した。その際に先行の普通列車に対して現示された中継信号機の進行現示を自列車に対するものと誤認して加速し、カーブの奥で停車していた先行列車に直前で気付いて非常ブレーキを扱ったが間に合わなかった。
- 直接の事故原因は運転士のミスであるが、運転士の判断だけで前進が可能な運転規則について、JR東海の類似事故の教訓が生きていない点が指摘された。このため国土交通省鉄道局の指示により、運転士の判断で無閉塞運転を行っている28事業者は同年5月までに「運転指令の指示を受け、運行を開始する」方式に変更した。
- また、破損状況の調査結果(全車両の両端部分がまんべんなく破損しており、結果として全車両が廃車となった)から、衝突時の車両の安全性向上に関する取組みの強化が指示された。
長崎本線特急列車脱線転覆事故
- 長崎県諫早市のJR九州長崎本線肥前長田-小江駅間で、長崎発博多行きの上り特急「かもめ46号」(885系6両編成)が線路上の岩石に衝突し脱線、転覆した。この事故で乗員乗客36名が重軽傷。列車の1両目が前後逆向きになって線路脇に横転し大破、2両目が水田に突っ込み大破、3両目が2両目に乗り上げるという大規模なものであったが、車両の落下場所が梅雨期の水田で衝撃を和らげたこともあり、比較的負傷者が少なくて済んだと見られる。岩石は直径80cm、質量約130kgで、線路脇の斜面にあったものが降雨による地盤の緩みで落下したものと思われ、線路周囲の法面の点検の徹底が国土交通省から指示された。なお、事故車両は脱線した3両は廃車、残る3両は廃車した3両を新製して6両編成に戻した上で営業運転に復帰した。
名鉄新岐阜駅電車衝突事故
- 岐阜県岐阜市の名古屋鉄道新岐阜駅(現名鉄岐阜駅)構内で、豊川稲荷発新岐阜行き急行電車(3100系+3500系6両編成)が所定位置で停車せずにホーム端の車止めに衝突、脱線し、乗客4名が軽傷を負った。原因は運転士の体調不良による運転操作ミスとされる。運転士が駅進入の際に気を失って運転レバーに倒れ込み、加速の向きに操作したため。運転士は、事故後の精密検査で中程度の睡眠時無呼吸症候群(SAS)の疑いがあると診断された。この事故を受けて名鉄は運転台にマスコン(アクセルとブレーキのレバー)の誤動作防止装置を付けた。
上越新幹線脱線事故
- 17時56分頃に新潟県中越地震が発生。震源地に近い、上越新幹線浦佐~長岡駅間を走行中だった東京発新潟行きとき325号(200系10両編成K25編成)の7・6号車を除く計8両が脱線した。地震発生当時、同列車は長岡駅への停車のため時速約200kmに減速して走行中であったが、早期地震検知警報システム「ユレダス」による非常ブレーキが作動し、長岡駅の東京寄り約5kmの地点で停車した。
- 当該列車は8両が脱線したものの軌道を大きく逸脱せず、逸脱した車両も上下線の間にある多雪地方特有の排雪溝にはまり込んだまま滑走したおかげで横転や転覆を免れた。もしもこの事故が東海道新幹線など排雪溝の無い路線で起こった場合、車両が高架橋から転落して大惨事となる恐れもあったと言われている。また、先頭の10号車が大きく脱線しなかったこと、脱線地点が直線であったこと、対向列車がなく二次事故が起きなかったことなどの幸運が重なり、乗客乗員155人に死者、負傷者はいなかった。
- 現場付近の高架橋の支柱の多くは損傷したが、豪雪による雪の重みに耐えられるよう支柱が頑強に作られていたため、結果的に地震による崩壊を免れることに繋がった。韓国やフランスなど海外メディアでは、この高架橋が崩壊しなかったことが新幹線の安全性を裏付けるものだ、として大きく取り扱っている。
- 被害は最小限で済んだが、脱線箇所が高架上であった上に、この事故の原因となった新潟県中越地震は余震が多発したため、脱線車両の撤去作業が難航し、運転再開は大幅に遅れた(テレビ局の撤去作業取材中にも余震が発生し、作業員が緊急避難する生々しい映像が流れた)。脱線車両は損傷がひどく、旧型の車両ということもあって2005年3月末で全車廃車となった。代替にE2系が製造された。
- 新幹線の早期地震検知警報システム「ユレダス」は地震発生時の第一波(初期微動、P波)を感知して作動するシステムであるため、直下型地震であった今回のケースでは、激しい揺れ(主要動、S波)の到達前に列車を停車させることはできなかったが、強制停電による一斉停車で対向列車も止められて運良く事故の拡大は防げた。1964年10月1日の東海道新幹線開業以来、新幹線の営業列車では初の脱線事故となった。
土佐くろしお鉄道宿毛駅列車衝突事故
- 高知県宿毛市の第三セクター・土佐くろしお鉄道宿毛線宿毛駅構内で同駅終着(岡山発)の特急「南風17号」(2000系3両編成、乗員2人、乗客11人)が約100km/hの高速で駅舎に突入、車止めを飛び出して先頭車両がエレベーターを吹き飛ばし、壁を突き破り、さらに2両目に押し潰されたことによって原形をとどめず大破した。運転士1名が死亡、車掌と乗客9人が重軽傷を負った。
- この影響で、宿毛駅~中村駅間が不通となり、東宿毛駅~中村駅間は2005年3月3日から普通列車が同年4月6日まで、特急列車が同年6月12日まで運休した。残る宿毛駅~東宿毛駅間は同年11月1日に運転が再開された。
- 運転士は前日まで6日間インフルエンザのため欠勤していたが、当日の点呼では異常が見られなかったとのこと。しかし、宿毛駅進入前に、何らかの異常をきたした可能性がある。駅手前のATS地上子の配置が適正なものでなかったため、最高速で進入してきた列車を停止させることができなかった点も指摘されている。
- なお、1両目と2両目の車両が事故廃車となった。
- JR四国ではこの事故を契機に行き止まり式のホームを持つ駅(高松、琴平〈以上、香川県〉、宇和島〈愛媛県〉、新改〈高知県〉、徳島、鳴門、坪尻〈以上、徳島県〉の7か所)を対象にATSを増設(駅から離れた場所)することを決めた。
福知山線脱線転覆事故
- 兵庫県尼崎市の福知山線(JR宝塚線)・塚口~尼崎駅間の曲線で、宝塚発同志社前行きの上り快速列車(207系7両編成)のうち、前5両が脱線、うち先頭2両が線路脇のマンションに激突、大破した。この事故では、福知山線のATS-Pの導入の繰上げとJR西日本を含む鉄道会社各社各路線の急カーブ区間での新型・旧型ATS(-SW)の曲線過速度防止装置設置を義務付ける契機になった。事故直後に強調された新型ATS(-P)設置推進は立ち消えになり、信号ATSへの速度照査機能義務付け(=私鉄ATS通達復活)も放置されたままになっている。これは「国鉄方式も私鉄方式も安全性に差がない」という5月16日~衆院国交委・大臣答弁で固定化された。物理数値指標で危険度を表せば赤信号冒新可能距離比=運動エネルギー比で言うと、ATS-Sx(国鉄JR):私鉄:ATS-P=36~43:1:0 の開きが存在する。
- この事故で、死者107人、負傷者555人と、JR史上最悪、国鉄時代を含めると鶴見事故(161人)に続いて戦後4番目の死者数となった。詳細はJR福知山線脱線事故を参照のこと。
- 事故車両はすべて廃車となったが、後側の被害が少なかった車両については、事故の風化防止に役立てるため解体せずに遺族の手記とともに鉄道施設に展示される予定となっている。
羽越本線特急脱線転覆事故
- 山形県庄内町榎木のJR羽越本線北余目駅~砂越駅間の第2最上川橋梁で、秋田発新潟行きの上り特急「いなほ14号」(485系3000番台6両編成)が、橋梁通過直後に全車両が脱線、うち3両が転覆し、先頭車両が沿線にある養豚場の飼料小屋に激突し大破した。
- この事故により先頭車両に乗っていた5人が死亡、33人が重軽傷を負った。
- 突風が原因とされる。詳しくはJR羽越本線脱線事故を参照。
主な鉄道事故(海外)
- 1879年12月28日 英国スコットランド・テイ川河口の鉄橋・列車落下事故
- 1983年6月5日 ソヴィエト連邦南部での船舶が橋脚に衝突したことによる列車転落事故
- 1988年3月24日 中国上海近郊で急行列車同士が正面衝突(上海列車事故)
- 1988年7月8日 南インドでの急行列車転落事故
- 1996年11月18日 英仏海峡ユーロトンネルにおける列車火災事故
- 1997年9月19日 英国サウス・ウォールで列車衝突事故
- 1998年6月3日 ドイツ連邦共和国 エシェデ近郊でICE-1高速列車脱線転覆事故
- 1999年10月5日 英国ラドブローク・グローブで列車衝突事故
- 2000年11月11日 オーストリアでケーブルカー火災事故
- 2001年2月28日 英国ヨークで特急列車と貨物列車が衝突
- 2003年2月18日 韓国・大邱広域市で地下鉄の車両に放火(大邱地下鉄放火事件)
- 2003年3月1日 台湾阿里山森林鉄道・ブレーキ故障、脱線転覆事故
- 2004年4月22日 北朝鮮・龍川駅で貨物列車衝突、大規模爆発
- 2004年10月16日 米国・ピコリベラの貨物列車50両脱線・転覆事件
- 2004年11月12日 フィリピン・パドレブルゴス付近で夜行列車脱線・転覆事故
- 2004年12月14日 インド・パンジャブ州で急行列車と普通列車との正面衝突事故
1988年の上海列車事故や2000年のオーストリア・ケーブルカー火災では日本人にも死者が出た。
事故調査
従来、鉄道事故等においては警察による関係者の責任が問われていたが、個人責任の追及が中心になるあまり当事者の証言が歪められ本来の背後要因等の分析が不十分であるとの指摘があり、中立的な事故原因調査を行う機関の設立が望まれていた。現在、日本において鉄道事故が発生した場合には国土交通省内の航空・鉄道事故調査委員会によって原因究明と再発防止のための調査が行われる。また、業務上過失致死罪などの容疑で刑事捜査が行われる場合もある。
しかし、刑事捜査が優先のため、航空・鉄道事故調査委員会による調査は十分に行えず、また、刑事捜査は関係者の処罰が目的のため事故の再発防止には役立たないという指摘もある。
そのため、委員会をアメリカの国家運輸安全委員会(NTSB)の様な国土交通省から独立した強い権限を持つ機関に改めることと、過失による刑事責任を問わないことで関係者の証言を得やすくするべきだという意見も根強い。