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「1990 FIFAワールドカップ」の版間の差分

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'''1990 FIFAワールドカップ'''({{lang-en-short|1990 FIFA World Cup}})は、[[1990年]][[6月8日]]から[[7月8日]]にかけて[[イタリア]]で開催された第14回目の[[FIFAワールドカップ]]である<ref name="Overview">{{Cite web |url=http://www.fifa.com/tournaments/archive/worldcup/italy1990/|title=Overview - Germany hit winning note as Italian chorus fades|publisher=FIFA.com|accessdate=2014年11月22日}}</ref>。イタリアでの開催は[[1934 FIFAワールドカップ|1934年大会]]以来2回目であり、[[メキシコ]]で開催された[[1986 FIFAワールドカップ|1986年大会]]に次いで2か国目の事例となった。[[1988年]]4月から始まった予選には116の国と地域の代表チームが参加し22チームが出場権を獲得した。これに予選を免除された開催国の[[サッカーイタリア代表|イタリア代表]]と前回優勝の[[サッカーアルゼンチン代表|アルゼンチン代表]]を含めた24チームが参加した。大会の公式球は[[エトルスコ・ユニコ]]、公式マスコットはサッカーボールと[[イタリアの国旗|イタリア国旗]]をあしらった「チャオ」<ref name="Historia">{{cite web|url=http://www.marca.com/reportajes/2010/04/italia_1990/index.html|title=Historia de los Mundiales: Italia '90|publisher=MARCA.com|accessdate=2014年11月22日}}</ref>。[[日本放送協会]]の協力により[[イタリア放送協会]]を通じて世界各国に[[高精細度テレビジョン放送]]として配信された初の大会でもある<ref>{{cite web|url=http://www.crit.rai.it/eletel/2005-3/53-4.htm |title=L'Alta Definizione a Torino 1986 – 2006 di Marzio Barbero e Natasha Shpuza |publisher=Crit.rai.it |accessdate=2014年11月22日}}</ref>。
'''1990 FIFAワールドカップ'''({{lang-en-short|1990 FIFA World Cup}})は、[[1990年]][[6月8日]]から[[7月8日]]にかけて、[[イタリア]]で開催された第14回目の[[FIFAワールドカップ]]である。


決勝戦は[[サッカードイツ代表|西ドイツ代表]]対アルゼンチン代表という2大会連続で同一カードとなったが、西ドイツ代表がアルゼンチン代表を1-0と下し3回目のワールドカップタイトルを獲得した<ref name="Overview"/>。なお、[[西ドイツ]]は1990年末に[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]との[[ドイツ再統一|再統一]]を控えており、西ドイツ代表としてはこれが最後の大会出場となった<ref name="Historia"/>。[[サッカーチェコスロバキア代表|チェコスロバキア代表]]、[[サッカーユーゴスラビア代表|ユーゴスラビア代表]]、[[サッカーソビエト連邦代表|ソビエト連邦代表]]も[[東欧革命]]の影響により最後の大会出場となった<ref name="Historia"/>。
== 予選大会 ==

平均得点は2.21と最低記録を更新し<ref name="Overview"/><ref name="Historia"/><ref>{{cite web|url=http://www.fifa.com/worldfootball/statisticsandrecords/tournaments/worldcup/organisation/index.html|title=
FIFA World Cup™ Record – Organisation|accessdate=2014年11月22日}}</ref>、決勝戦における初の退場者を含め当時としては最多記録となる16枚のレッドカードが掲示されたことから、ワールドカップの歴史上において最も退屈な大会とも評されている<ref name="BBC">{{Cite web |url=http://news.bbc.co.uk/sport3/worldcup2002/hi/history/newsid_1632000/1632223.stm|title=Italy 1990|publisher=BBC SPORT|date=2012年4月17日|accessdate=2014年11月15日}}</ref><ref>{{Cite book|last=Freddi|first=Cris|title=Complete Book of the World Cup|publisher=HarperSport|year=2006|isbn=978-0-00-722916-1}}</ref>。

一方、開幕戦で[[サッカーカメルーン代表|カメルーン代表]]がアルゼンチン代表を下す[[番狂わせ]]を演じ<ref name="Overview"/>、アフリカ勢として初めて準々決勝進出を成し遂げる<ref name="Historia"/>など話題性には事欠くことはなかった<ref name="Overview"/>。また、大会開催のために[[トリノ]]と[[バーリ]]には新たにスタジアムが建設され、10のスタジアムが改築されるなど設備投資が行われた<ref name="Overview"/>。この他、約266億9000万人の人々が視聴するなど、テレビ史上において最も注目されたスポーツイベントの一つでもあった<ref>{{cite web|url=http://www.fifa.com/mm/document/fifafacts/ffprojects/ip-401%5f05a%5ftvstats%5f9299.pdf|title=The FIFA World Cup TV viewing figures|format=PDF|publisher=[[FIFA]]| archiveurl= http://web.archive.org/web/20071127134616/http://www.fifa.com/mm/document/fifafacts/ffprojects/ip-401%5f05a%5ftvstats%5f9299.pdf| archivedate=2007年11月27日|accessdate=2014年11月22日}}</ref>。この大会の反省から[[国際サッカー連盟]]は[[1992年]]、守備側の選手の遅延行為を禁止するための[[バックパス・ルール]]を導入、さらに[[1994 FIFAワールドカップ]]からは攻撃的サッカーと勝利を追求するため、グループリーグにおいて新たな勝ち点制度を導入した。

== 開催国選定の経緯 ==
1990年大会の開催国選定は[[1983年]][[7月31日]]に[[イタリア]]、[[イングランド]]、[[オーストリア]]、[[ギリシャ]]、[[ソビエト連邦]]、[[西ドイツ]]、[[フランス]]、[[ユーゴスラビア]]の8か国が立候補した<ref>{{Cite book|chapter=Sports in brief|title=[[タイムズ|The Times]]|volume=3 August, 1983|page=17}}</ref>。その1か月後、イタリア、イングランド、ギリシャ、ソ連を除くすべての国が辞退し<ref>{{Cite book|chapter=Sports in brief|title=The Times|volume=2 September, 1983|page=20}}</ref>、最終投票前の[[1984年]]初頭にイングランド、ギリシャが辞退した。

1984年[[5月19日]]に[[スイス]]の[[チューリヒ]]で開催されたFIFA理事会での決選投票の結果、イタリアが11票、ソ連が5票という結果となり<ref name="Times19840521">{{Cite book|chapter=Italy gain vote over Soviet rival|title=The Times|volume=21 May, 1984|page=21}}</ref>、[[1986 FIFAワールドカップ|1986年大会]]の[[メキシコ]]での開催に続き、[[1934 FIFAワールドカップ|1934年大会]]で開催国を務め優勝をした実績を持つイタリアでの2回目のワールドカップ開催が決まった。この投票結果について、同年に[[アメリカ合衆国]]で開催された[[ロサンゼルスオリンピック (1984年)|ロサンゼルスオリンピック]]に対するソビエト連邦をはじめとした東欧諸国のボイコットが影響を与えたものと推測されたが<ref>{{Cite book|chapter=Romania could join the boycott|title=The Times|volume=22 May, 1984|page=30}}</ref>、FIFAの[[ジョアン・アベランジェ]]会長はこれを否定した<ref name="Times19840521"/>。

== 予選 ==
{{main|1990 FIFAワールドカップ・予選}}
{{main|1990 FIFAワールドカップ・予選}}
[[ファイル:1990 world cup qualification.png|thumb|305px|{{legend|#000cff|予選を通過した国}} {{legend|#ffb400|予選で敗退した国}} {{legend|black|予選を棄権した国}} {{legend|#ababab|FIFA未加盟国}}]]
予選には116チームが参加を表明したが、出場停止処分や棄権により103チームが参加。開催国のイタリアと前回優勝国のアルゼンチンには自動的に出場権が与えられ、残りの22の出場枠が争われた。[[欧州サッカー連盟|ヨーロッパ]]には13枠、[[南米サッカー連盟|南米]]と[[アフリカサッカー連盟|アフリカ]]と[[アジアサッカー連盟|アジア]]と[[北中米カリブ海サッカー連盟|北中米カリブ海]]にはそれぞれ2枠が与えられ、残りは南米と[[オセアニアサッカー連盟|オセアニア]]との間でプレーオフにより決定された。最初の試合は[[1988年]][[4月17日]]に[[1989 CONCACAF選手権]]・[[サッカートリニダード・トバゴ代表|トリニダード・トバゴ]]対[[サッカーガイアナ代表|ガイアナ]]戦として行われ、トリニダード・トバゴが4-0と勝利した<ref name="1990 FIFA">{{cite web|url=http://www.fifa.com/worldcup/archive/edition=76/preliminaries/index.html|archiveurl=http://web.archive.org/web/20131210111322/http://www.fifa.com/worldcup/archive/edition=76/preliminaries/index.html|title=1990 FIFA World Cup Italy ™ Preliminaries|publisher=FIFA.com|archivedate=2013年12月10日|accessdate=2014年11月22日}}</ref>が、予選最後の試合は[[1989年]][[11月19日]]に行われたトリニダード・トバゴ対[[サッカーアメリカ合衆国代表|アメリカ合衆国]]戦だった<ref name="1990 FIFA"/>。


本予選では[[サッカーメキシコ代表|メキシコ]]と[[サッカーチリ代表|チリ]]の2チームが[[国際サッカー連盟]]から出場停止処分を受けた。メキシコは[[1988年]]に行われた[[CONCACAF U-20選手権]]にU-20代表が出場した際に規定年齢以上の4選手を偽って出場させていた事件に対して<ref name="nytimes">{{cite web|title=Mexico given ban in soccer |url=http://www.nytimes.com/1988/07/01/sports/mexico-given-ban-in-soccer.html |work=The New York Times |agency=Associated Press |date=1988年7月1日|accessdate=2014年11月22日}}</ref>({{仮リンク|1988年サッカーメキシコ代表スキャンダル|en|Cachirules}})、チリは南米予選の[[サッカーブラジル代表|ブラジル]]戦の際にキーパーの[[ロベルト・ロハス]]が観客席から投げ込まれた発煙筒により頭部を負傷したと偽り<ref name="グランヴィル361">[[#グランヴィル 1998|グランヴィル 1998]]、361頁</ref>、試合をボイコットした事件([[ロハス事件]])に対しての処分だった<ref name="1990 FIFA"/>。メキシコは2年間の出場停止処分<ref name="nytimes"/>、チリはロハスの永久追放のほか[[1994 FIFAワールドカップ・予選]]への出場停止処分と罰金4万ポンドが科せられた<ref name="グランヴィル361"/>。
== 出場国 ==
出場選手は[[1990 FIFAワールドカップ参加チーム]]を参照。


[[サッカーコスタリカ代表|コスタリカ]]、[[サッカーアイルランド共和国代表|アイルランド]]、[[サッカーアラブ首長国連邦代表|アラブ首長国連邦]]<ref name="1990 FIFA"/>の3チームが初出場を果たし、長らく大会から遠ざかっていた[[サッカーエジプト代表|エジプト]]([[1934 FIFAワールドカップ|1934年大会]]以来<ref name="1990 FIFA"/>)、アメリカ合衆国([[1950 FIFAワールドカップ|1950年大会]]以来<ref name="1990 FIFA"/>)、[[サッカーコロンビア代表|コロンビア]]([[1962 FIFAワールドカップ|1962年大会]]以来<ref name="1990 FIFA"/>)、[[サッカールーマニア代表|ルーマニア]]([[1970 FIFAワールドカップ|1970年大会]]以来)が本大会出場を果たした。その一方で前回大会において決勝トーナメントに進出した[[サッカーフランス代表|フランス]]、[[サッカーデンマーク代表|デンマーク]]、[[サッカーポーランド代表|ポーランド]]、[[サッカーモロッコ代表|モロッコ]]などは予選で敗退した<ref name="1990 FIFA"/><ref name="fussballdaten">{{cite web|url=http://www.fussballdaten.de/wm/1990/|title=Deutschland erfolgreich bei Neuauflage des vorigen Finales|publisher=Fussballdaten|accessdate=2014年11月22日}}</ref>。

== 出場国 ==
{| class="wikitable" style="text-align: center"
{| class="wikitable" style="text-align: center"
!大陸連盟!!出場<br />枠数!!予選大会!!colspan="2"|組<br />予選順位!!出場国・地域!!出場回数!!備考
!大陸連盟!!出場<br />枠数!!予選!!colspan="2"|組<br />予選順位!!出場国・地域!!出場回数!!備考
|-
|-
|rowspan="14"|'''[[ヨーロッパサッカー連盟|UEFA]]'''
|rowspan="14"|'''[[ヨーロッパサッカー連盟|UEFA]]'''
188行目: 204行目:
* 備考欄の「○」は大陸間プレーオフに勝利の上、出場が決定したチーム。
* 備考欄の「○」は大陸間プレーオフに勝利の上、出場が決定したチーム。


== 本大会 ==
== 開催都市 ==
{| class="wikitable" style="text-align:center"
=== 概要 ===
|-
大会は[[サッカードイツ代表|西ドイツ]]が優勝し、この3度目の優勝と3つの準優勝で、[[1994 FIFAワールドカップ|次の大会]]で[[サッカーブラジル代表|ブラジル]]が4度目の優勝を達成するまで、ワールドカップ史上最高の経歴を誇ることになる。西ドイツの監督を務めた[[フランツ・ベッケンバウアー]]は、[[マリオ・ザガロ]]に次ぎ、選手と監督の両方でワールドカップ優勝を成し遂げた人物となった。東西ドイツ統合直前の西ドイツは、決勝戦で敗退した前の2大会とは違い、開幕前から[[サッカーイタリア代表|イタリア]]などと並ぶ優勝候補の筆頭と目され、その前評判に違わぬ強さを見せた。FWの[[ユルゲン・クリンスマン]]、[[ルディ・フェラー]]、MFの[[ローター・マテウス]]、[[アンドレアス・ブレーメ]]、[[ピエール・リトバルスキー]]、[[トーマス・ヘスラー]]らどこからでも点の取れる攻撃陣と[[クラウス・アウゲンターラー]]、[[ユルゲン・コーラー]]、[[ギド・ブッフバルト]]ら大柄で屈強な選手を揃えた守備陣を誇る、攻守のバランスが取れた非常に完成度の高いチームで、[[グループリーグ]]から決勝戦まで相手に一度もリードを許すことなく優勝した。
! [[ローマ]]
! [[ミラノ]]
! [[ナポリ]]
! [[トリノ]]
|-
| [[スタディオ・オリンピコ・ディ・ローマ|スタディオ・オリンピコ]]
| [[スタディオ・ジュゼッペ・メアッツァ]]
| [[スタディオ・サン・パオロ]]
| [[スタディオ・デッレ・アルピ]]
|-
|<small>{{Coord|41|56|1.99|N|12|27|17.23|E|region:IT_type:landmark|display=inline|name=Stadio Olimpico}}</small>
|<small>{{Coord|45|28|40.89|N|9|7|27.14|E|region:IT_type:landmark|display=inline|name=San Siro}}</small>
|<small>{{Coord|40|49|40.68|N|14|11|34.83|E|region:IT_type:landmark|display=inline|name=Stadio San Paolo}}</small>
|<small>{{Coord|45|06|34.42|N|7|38|28.54|E|region:IT_type:landmark|display=inline|name=Stadio delle Alpi}}</small>
|-
| 収容人数: '''84,800'''<ref name="Cap1">{{Cite book|chapter=WM 1990 Sonderheft|title=Kicker|volume=May–June, 1990|page=185}}</ref><ref name="Cap2">{{Cite book|title=World Cup '90: The Complete Collection|publisher=Orbis|date=1990}}</ref>
| 収容人数: '''83,407'''<ref name="Cap1" /><ref name="Cap2" />
| 収容人数: '''83,311'''<ref name="Cap1" /><ref name="Cap2" />
| 収容人数: '''71,362'''<ref name="Cap1" /><ref name="Cap2" />
|-
| [[File:Stadio Olimpico 2008.JPG|200px]]
| [[File:Scudo2009.jpg|200px]]
| [[File:Stadio San Paolo.jpg|200px]]
| [[File:Stadio delle Alpi, full house (1484465461).jpg|200px]]
|-
! [[バーリ]]
! rowspan=10 colspan=2 |
{{location map+|Italy|float=none|width=400|places=
{{location map~|Italy|lat=41.933886|long=12.454786|background=#FFFFFF|label=[[ローマ]]}}
{{location map~|Italy|lat=45.478025|long=9.124206|background=#FFFFFF|label=[[ミラノ]]}}
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{{location map~|Italy|lat=41.084736|long=16.840072|background=#FFFFFF|label=[[バーリ]]|position=right}}
{{location map~|Italy|lat=45.435356|long=10.968647|background=#FFFFFF|label=[[ヴェローナ]]}}
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! [[ヴェローナ]]
|-
| [[スタディオ・サン・ニコラ]]
| [[スタディオ・マルカントニオ・ベンテゴディ]]
|-
|<small>{{Coord|41|5|5.05|N|16|50|24.26|E|region:IT_type:landmark|display=inline|name=Stadio San Nicola}}</small>
|<small>{{Coord|45|26|7.28|N|10|58|7.13|E|region:IT_type:landmark|display=inline|name=Stadio Marc'Antonio Bentegodi}}</small>
|-
| 収容人数: '''58,270'''<ref name="Cap1" /><ref name="Cap2" />
| 収容人数: '''43,216'''<ref name="Cap1" /><ref name="Cap2" />
|-
|[[File:Stadio San Nicola.jpg|200px]]
|[[File:Bentegodiverona.jpeg|200px]]
|-
! [[フィレンツェ]]
! [[カリャリ]]
|-
| [[スタディオ・アルテミオ・フランキ (フィレンツェ)|スタディオ・コムナーレ]]
| [[スタディオ・サンテーリア]]
|-
|<small>{{Coord|43|46|50.96|N|11|16|56.13|E|region:IT_type:landmark|display=inline|name=Stadio Artemio Franchi}}</small>
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|-
| 収容人数: '''49,000'''<ref name="Cap1" /><ref name="Cap2" />
| 収容人数: '''44,200'''<ref name="Cap1" /><ref name="Cap2" />
|-
| [[File:Soccer in Florence, Italy, 2007.jpg|200px]]
| [[File:Stadio Sant'Elia -Cagliari -Italy-23Oct2008.jpg|200px]]
|-
! [[ボローニャ]]
! [[ウーディネ]]
! [[パレルモ]]
! [[ジェノヴァ]]
|-
| [[スタディオ・レナート・ダッラーラ]]
| [[スタディオ・フリウリ]]
| [[スタディオ・レンツォ・バルベラ|スタディオ・ラ・ファヴォリータ]]
| [[スタディオ・ルイジ・フェッラーリス]]
|-
|<small>{{Coord|44|29|32.33|N|11|18|34.80|E|region:IT_type:landmark|display=inline|name=Stadio Renato Dall'Ara}}</small>
|<small>{{Coord|46|4|53.77|N|13|12|0.49|E|region:IT_type:landmark|display=inline|name=Stadio Friuli}}</small>
|<small>{{Coord|38|9|9.96|N|13|20|32.19|E|region:IT_type:landmark|display=inline|name=Stadio Renzo Barbera}}</small>
|<small>{{Coord|44|24|59.15|N|8|57|8.74|E|region:IT_type:landmark|display=inline|name=Stadio Luigi Ferraris}}</small>
|-
| 収容人数: '''41,200'''<ref name="Cap1" /><ref name="Cap2" />
| 収容人数: '''42,311'''<ref name="Cap1" /><ref name="Cap2" />
| 収容人数: '''40,632'''<ref name="Cap1" /><ref name="Cap2" />
| 収容人数: '''44,800'''<ref name="Cap1" /><ref name="Cap2" />


|-
[[1986年]]のワールドカップと同じ競技方式で大会は行われた。24チームが参加し、4チームごとに6つのグループに分けられた。各グループの1位と2位の12チームと3位チームの中から成績が優秀な順に4チームの合計16チームが決勝トーナメントに進出した。
| [[File:BolognaStadioRenatoDallAra.JPG|200px]]
| [[File:Stadio Friuli.JPG|200px]]
| [[File:Palermo-Catania 2006.jpg|200px]]
| [[File:Stadio Luigi Ferraris da mura S. Bartolomeo.jpg|200px]]
|}


== 出場選手 ==
大会は番狂わせから始まった。大会の初戦で前回優勝国の[[サッカーアルゼンチン代表|アルゼンチン]]が[[サッカーカメルーン代表|カメルーン]]に0対1で敗れた。カメルーンは最終的に[[アフリカ]]勢として初めて準々決勝まで駒を進め、[[サッカーイングランド代表|イングランド]]に途中まで2対1とリードしながら、延長戦の末2対3で逆転負けした。当時すでに38歳であり、ワールドカップに参加するために引退を撤回したカメルーン代表の[[ロジェ・ミラ]]は、この大会で世界のトップレベルの選手であることを示した。
{{main|1990 FIFAワールドカップ参加チーム}}
この大会における1チームあたりの登録選手は前回大会と同様に22人と定められた。大会期間中に負傷した際の登録選手の入れ替えは[[国際サッカー連盟]]の裁量の下で許可され、[[サッカーアルゼンチン代表|アルゼンチン]]の{{仮リンク|アンヘル・コミッソ|en|Ángel Comizzo}}が[[ネリー・プンピード]]に<ref>{{cite web|url=http://elcomercio.pe/deporte-total/futbol-peruano/cinco-cosas-que-no-sabes-angel-comizzo-tecnico-u-noticia-1656868|title=Cinco cosas que no sabes de Comizzo, el DT que sacó campeón a la ‘U’|publisher=El Comercio Peru|date=2013年12月20日|accessdate=2014年11月22日}}</ref>、[[サッカーイングランド代表|イングランド]]の{{仮リンク|デイヴ・ビーサント|en|Dave Beasant}}が[[デイヴィッド・シーマン]]に代わって登録された<ref>{{cite web|url=http://www.thefa.com/england/News/2013/dave-beasant-150-memories-140113|title=Beasant looks back|publisher=TheFA.com|date=2013年1月14日|accessdate=2014年11月22日}}</ref>。


== 審判員 ==
初戦で敗れたアルゼンチンであったが、チームを建て直してグループ3位でトーナメントに進出し、決勝まで駒を進めた。トーナメントの初戦でブラジルを破り、準決勝で今大会で地元イタリアに対戦した国の中で唯一の得点を決めて1対1に持ち込み、延長戦の結果[[PK戦]]で勝利と粘りを見せたが、西ドイツとの決勝では主力メンバーを4人も累積警告で欠き、終盤にペナルティー・キックによる1点を決められて力尽きた。
34の国と地域から41人の[[審判員 (サッカー)|審判員]]が選出され、大会を通じて主審と副審を兼任するように割り当てられた。下記の斜体字の審判員は第4審判としてのみ運用された。また、この大会は審判員が伝統的な[[黒|黒色]]のユニフォームを着用し出場した最後の大会となったが<ref>{{Cite web|url=http://articles.latimes.com/1994-06-12/sports/sp-3299_1_recent-world-cup/2|title=WORLD CUP '94: 5 DAYS AND COUNTING : The Weight of the World : Greater Stakes, Stricter Emphasis on Rules Interpretation Have Placed a Heavier Burden on Cup Referees Than Ever Before|publisher=Los Angeles Times|date=1994年6月12日|accessdate=2014年11月22日}}</ref>、[[紺色]]のユニフォームを着用する[[サッカースコットランド代表|スコットランド]]の出場した2試合においては[[赤|赤色]]のユニフォームを着用した。


{{col-begin-small}}
[[サッカーオランダ代表|オランダ]]は[[UEFA欧州選手権1988|EURO88]]に優勝したことで優勝候補の一角と目されていたが、代表監督を巡る内紛の影響による準備不足に加え、攻撃の主力であった[[ルート・フリット]]、[[マルコ・ファン・バステン]]、[[フランク・ライカールト]]の[[ACミラン]]トリオが奮わず、グループリーグを3戦3引き分け、同じく3分け、同じ総得点と総失点で並んだアイルランドとのグループリーグ2位をかけた抽選にも敗れてグループリーグ3位での決勝トーナメント進出となった。決勝トーナメントでは1回戦で西ドイツとの対戦となり、1対2で敗れて1勝も挙げることなくベスト16で姿を消した。
{{col-2}}
;AFC
* {{flagicon|SYR}} [[ジャマル・アル・シャリフ]]
* {{flagicon|BHR|1972}} {{仮リンク|ジャシム・マンディ|en|Jassim Mandi}}
* {{flagicon|JPN}} [[高田静夫]]
* {{flagicon|ITA}} {{仮リンク|ルイジ・アニョリン|en|Luigi Agnolin}}
;CAF
* {{flagicon|ALG}} {{仮リンク|モハメド・ハンサル|en|Mohamed Hansal}}
* {{flagicon|TUN|1959}} {{仮リンク|ネジ・ジュイニ|en|Neji Jouini}}
* {{flagicon|GAB}} {{仮リンク|ジャン=フィデル・ディランバ|en|Jean-Fidèle Diramba}}
;CONCACAF
* {{flagicon|MEX}} [[エドガルド・コデサル]]
* {{flagicon|USA}} {{仮リンク|ヴィンセント・モーロ|en|Vincent Mauro}}
* {{flagicon|CRC}} {{仮リンク|ベルニ・ウジョア・モレラ|en|Berny Ulloa Morera}}
;CONMEBOL
* {{flagicon|URU}} {{仮リンク|フアン・ダニエル・カルデリーニョ|en|Juan Daniel Cardellino}}
* {{flagicon|COL}} ''{{仮リンク|アルマンド・ペレス・オヨス|hu|Armando Pérez Hoyos}}''
* {{flagicon|ECU}} {{仮リンク|エリアス・ハコメ|en|Elías Jácome}}
* {{flagicon|ARG}} {{仮リンク|フアン・カルロス・ロウスタウ|en|Juan Carlos Loustau}}
* {{flagicon|PAR|1988}} {{仮リンク|カルロス・マシエル|en|Carlos Maciel}}
* {{flagicon|CHI}} {{仮リンク|エルナン・シルバ|en|Hernán Silva}}
* {{flagicon|BRA|1968}} {{仮リンク|ジョゼ・ロベルト・ライト|en|José Roberto Wright}}
;OFC
* {{flagicon|AUS}} {{仮リンク|リチャード・ロレンツ|en|Richard Lorenc}}
{{col-2}}
;UEFA
* {{flagicon|ESP}} {{仮リンク|エミリオ・ソリアーノ・アラドレン|en|Emilio Soriano Aladrén}}
* {{flagicon|ENG}} {{仮リンク|ジョージ・コートニー|en|George Courtney}}
* {{flagicon|ITA}} ''{{仮リンク|ピエトロ・デ・エリア|it|Pietro D'Elia}}''
* {{flagicon|SWE}} {{仮リンク|エリック・フレドリクソン|en|Erik Fredriksson}}
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* {{flagicon|BEL}} {{仮リンク|マルセル・ファン・ランゲンホーフェ (審判員)|label=マルセル・ファン・ランゲンホーフェ|en|Marcel Van Langenhove (referee)}}
* {{flagicon|FRA}} {{仮リンク|ミシェル・ヴォートロ|en|Michel Vautrot}}
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== 組み合わせ ==
ブラジルは前年の[[コパ・アメリカ1989|コパ・アメリカ]]で優勝したこともあって、オランダと並んで優勝候補の一角と目された。グループリーグを3連勝で突破すると決勝トーナメント1回戦では前回優勝国のアルゼンチンとの対戦となった。この試合でブラジルは終始ボールを支配して優勢に試合を進めながら得点出来ず。81分にマラドーナに引き付けられた一瞬の隙をゴール前にスルーパスが通ると、FWの[[クラウディオ・カニーヒア|カニーヒア]]の得点を許し0対1で敗退、1点に泣いて大会を去った。
=== シード分け ===
大会シードの6チームは[[1989年]][[12月7日]]に発表された<ref name="nytimes19891208">{{cite web|url=http://www.nytimes.com/1989/12/08/sports/england-is-seeded-sixth-in-1990-world-cup-in-italy.html|title=England Is Seeded Sixth In 1990 World Cup in Italy|publisher=New York Times|date=1989年12月8日|accessdate=2014年11月22日}}</ref>。各シードは[[1986 FIFAワールドカップ]]の成績を考慮して決定され<ref>{{cite web|url=http://www.nytimes.com/1989/11/30/sports/cup-seedings-revealed.html|title=Cup Seedings Revealed |publisher=New York Times|date=1989年11月30日|accessdate=2014年11月22日}}</ref>、残りの18チームも併せて6チームごと4つのグループに振り分けられた<ref name="Draw history">{{cite web|url=http://www.fifa.com/mm/document/fifafacts/mencompwc/51/97/68/fs-201_10e_fwc-draw-history.pdf|title=The FIFA World Cup Final Draw history|format=PDF|publisher=[[国際サッカー連盟|FIFA.com]]| accessdate=2014年11月22日}}</ref>。


第1シードには開催国の[[サッカーイタリア代表|イタリア]]が選ばれ開催都市として[[ローマ]]が割り当てられた<ref name="nytimes19891208"/>。第2シードには前回優勝の[[サッカーアルゼンチン代表|アルゼンチン]]が選ばれ開催都市として[[ナポリ]]が割り当てられた<ref name="nytimes19891208"/>。第3シードには[[サッカーブラジル代表|ブラジル]]が選ばれ、開催都市としては[[ミラノ]]を希望していたが[[トリノ]]が割り当てられた<ref name="nytimes19891208"/>。第4シードには[[サッカードイツ代表|西ドイツ]]が選ばれ、開催都市としてはドイツ人観光客の多い[[ヴェローナ]]を希望していたが代わりにミラノが割り当てられた<ref name="nytimes19891208"/>。第5シードの[[サッカーベルギー代表|ベルギー]]はヴェローナでの開催が割り当てられた<ref name="nytimes19891208"/>。第6シードには[[サッカーイングランド代表|イングランド]]が選ばれたが、多くの専門家からは[[サッカースペイン代表|スペイン]]が第6シードに値するチームと考えられており意外な結果として受け止められた<ref name="nytimes19891208"/>。イングランドがシードに選ばれた理由としては、[[フーリガン]]対策のために[[サルデーニャ島]]の[[カリャリ]]にチームと暴力的サポーターごと隔離するためだと推測されたが<ref name="nytimes19891208"/>、スペインの[[ルイス・スアレス・ミラモンテス|ルイス・スアレス]]監督は「イングランドをカリャリに隔離することを望む者の計略のために、我々は欺かれたと感じている」と主張した<ref name="nytimes19891208"/>。
イングランドは[[フーリガン]]対策のためにグループリーグで[[サルデーニャ島]]の[[カリャリ]]、[[シチリア島]]の[[パレルモ]]へ”島流し”にされた。このグループFは4チームが2引き分けで並ぶ事態となったが、最終のエジプト戦を1対0で勝った事でグループを首位で突破。好調のエース[[ゲーリー・リネカー]]と[[デビッド・プラット]]の活躍で1966年[[1966 FIFAワールドカップ|イングランド大会]]以来のベスト4進出を決めたが、西ドイツとのPK戦に敗れた。なお、イングランド代表はその後もワールドカップのPK戦とは相性が悪く、目下のところ全敗となっている。フーリガンのために、チーム全体にまで暴力的な悪印象が付きまとったイングランドだったが、大会中のクリーンなプレーぶりによりFIFAからフェアプレー賞を贈られた。


{| class="wikitable" style="width:98%"
イタリア代表の[[サルヴァトーレ・スキラッチ]]は、出場した6試合の毎試合で得点を決め、6得点でこの大会の得点王になった。大会の[[最優秀選手|MVP]]に送られる[[アディダスゴールデンボール賞]]にもスキラッチが選ばれている。この大会以前は、スキラッチはイタリア代表として1度しか戦ったことはなく、またイタリア代表としてあげた7得点のうち、6得点をこの大会で決めている。地元のイタリア代表はグループリーグ3戦全勝、準々決勝まで無失点など大会を通して優勝した西ドイツ以上の戦いぶりを見せたが、準決勝でアルゼンチンにPK戦の末敗退した。PK戦での敗退は公式記録上引き分けに当たるので、イタリア代表は6勝1分の無敗ながら頂点に立てなかった。準決勝で、エース[[ジャンルカ・ヴィアリ]]にこだわり、1人で局面を打開できる好調の[[ロベルト・バッジョ]]の起用方法を誤った代表監督[[アゼリオ・ビチーニ]]の采配は非難の的となった。
|-
!width=20%| シード
!width=20%| ポット1<ref name="Pots">{{Cite book|chapter=The Times guide to the draw for the World Cup finals|title=The Times|volume=9 December, 1989|page=51}}</ref>
!width=20%| ポット2<ref name="Pots"/>
!width=20%| ポット3<ref name="Pots"/>
|-
|
{{fb|ITA}} (1st) <br />
{{fb|ARG}} (2nd) <br />
{{fb|BRA|1968}} (3rd) <br />
{{fb|FRG}} (4th) <br />
{{fb|BEL}} (5th) <br />
{{fb|ENG}} (6th)
| valign="top"|
{{fb|CMR}} <br />
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|
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|
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{{fb|ESP}} <br />
{{fb|URS}} <br />
{{fb|YUG}}
|}


=== 組み合わせ抽選 ===
その他、注目に値するMFが何人も出現した。[[サッカーコロンビア代表|コロンビア]]をスルーパス一本で決勝トーナメント進出に導いた[[カルロス・バルデラマ]]、[[サッカーユーゴスラビア代表|ユーゴスラビア]]ベスト8の立役者となった[[ドラガン・ストイコビッチ]]、数々のアシストが光った[[サッカーイングランド代表|イングランド]]の[[ポール・ガスコイン]]、東欧のマラドーナと呼ばれた[[サッカールーマニア代表|ルーマニア]]の[[ゲオルゲ・ハジ]]などである。
組み合わせ抽選会は1989年[[12月9日]]、ローマの{{仮リンク|パラツェット・デロ・スポルト|en|Palazzetto dello Sport}}において、あらかじめ定められた4つのグループからの抽選が行われた<ref name="Draw history"/>。従来の抽選会は質素で簡潔な催しだったが<ref name="nytimes19891210">{{cite web|url=http://www.nytimes.com/1989/12/10/sports/soccer-us-must-face-italy-in-cup.html|title=SOCCER; U.S. Must Face Italy In Cup|publisher=New York Times|date=1989年12月10日|accessdate=2014年11月22日}}</ref>、[[国際サッカー連盟]]事務総長の[[ゼップ・ブラッター]]、女優の[[ソフィア・ローレン]]、オペラ歌手の[[ルチアーノ・パバロッティ]]、サッカー選手の[[ペレ]]、[[ボビー・ムーア]]、[[カール=ハインツ・ルンメニゲ]]がドロワーとして参加し<ref name="Draw history"/>、大会公式テーマソング「{{仮リンク|トゥ・ビー・ナンバーワン|en|Un'estate italiana}}」を手掛けた{{仮リンク|エドアルド・ベンナート|en|Edoardo Bennato}}と[[ジャンナ・ナンニーニ]]がライブ演奏を行うなど<ref name="Draw history"/>、大掛かりなイベントとして催された<ref name="nytimes19891210"/>。


== 大会の経過 ==
国際映像およびテロップは[[イタリア放送協会]](RAI)のものが使用された。テロップの言語はイタリア語ではなく英語であった。西ドイツはまだ東西統一前であったが、表記は「GERMANY(ドイツ)」であった(場内のビジョンでのイタリア語表記も「GERMANIA」だった)。
大会は[[1986 FIFAワールドカップ]]と同じ競技方式で行われた。24チームが参加し、4チームごとに6つのグループに分けられた。各グループの1位と2位の12チームと3位チームの中から成績が優秀な順に4チームの合計16チームが決勝トーナメントに進出した。


; 西ドイツ
=== 大会の評価 ===
: [[サッカードイツ代表|西ドイツ]]は[[ローター・マテウス]]、[[ユルゲン・クリンスマン]]、[[アンドレアス・ブレーメ]]が所属する[[インテルナツィオナーレ・ミラノ]]の本拠地・[[ミラノ]]で5試合を行うアドバンテージもあり<ref name="Overview"/>、初戦の[[サッカーユーゴスラビア代表|ユーゴスラビア]]戦で4-1と大勝すると<ref name="グランヴィル366-367">[[#グランヴィル 1998|グランヴィル 1998]]、366-367頁</ref>、2勝1分けの成績で首位でグループリーグを通過。決勝トーナメント1回戦で優勝候補の[[サッカーオランダ代表|オランダ]]を2-1と下すなど安定した戦いぶりを見せ<ref name="北條80-81">{{Cite book|和書|author=北條聡|chapter='90ワールドカップ優勝国 西ドイツ 退屈な大会を象徴する合理的なチャンピオン|title=ワールドカップ伝説 vol.2 90年代編|publisher=[[ベースボール・マガジン社]]|page=80-81|isbn=978-4583616490}}</ref>、前々回の[[1982 FIFAワールドカップ|1982年大会]]や前回の[[1986 FIFAワールドカップ|1986年大会]]に続き3大会連続で決勝進出<ref name="Overview"/>。決勝では[[サッカーアルゼンチン代表|アルゼンチン]]を1-0と下し3回目の優勝を成し遂げ<ref name="Overview"/>、[[サッカーブラジル代表|ブラジル]]と[[サッカーイタリア代表|イタリア]]と並ぶワールドカップ最多優勝国となった<ref name="Overview"/>。また、監督を務めた[[フランツ・ベッケンバウアー]]は[[マリオ・ザガロ]]に次いで、選手と監督の両方でワールドカップ優勝を成し遂げた人物となった<ref name="Overview"/>。西ドイツは3-5-2フォーメーションを採用し<ref name="北條80-81"/>、中盤の深い位置でゲームをコントロールしつつ<ref name="北條80-81"/>機を見て前線へと攻め上がりスルーパスやミドルシュートを狙うマテウスを軸に<ref name="サカマガ199010">{{Cite book|和書|author=[[牛木素吉郎]]、平木健一|chapter=イタリア'90 ワールドカップの技術と戦術 連載1 西ドイツ|title=[[サッカーマガジンZONE|サッカーマガジン]]|volume=1990年10月号|publisher=ベースボール・マガジン社|page=126-129}}</ref>、クリンスマンと[[ルディ・フェラー]]の2トップ<ref name="北條80-81"/>、活動量の豊富な両ウイングバックの[[シュテファン・ロイター]]とブレーメ<ref name="北條80-81"/><ref name="サカマガ199010"/><ref name="西部67-69">{{Cite book|和書|author=西部謙司|chapter=プレスの派生 堅守速攻型サッカーの時代へ|title=ワールドカップ伝説 vol.2 90年代編|publisher=ベースボール・マガジン社|page=67-69|isbn=978-4583616490}}</ref>、後方の守備を統率しマテウスと共にチームの軸となった[[クラウス・アウゲンターラー]]をはじめ<ref name="サカマガ199010"/>、[[ユルゲン・コーラー]]や[[ギド・ブッフバルト]]らの守備陣を擁するなど攻守のバランスが取れたチームだった<ref name="大住12-13">{{Cite book|和書|author=[[大住良之]]|chapter=再生と飛躍 新しい波が招いたグローバルと市場主義|title=ワールドカップ伝説 vol.2 90年代編|publisher=ベースボール・マガジン社|page=12-13|isbn=978-4583616490}}</ref>。
{{出典の明記|date=2009年6月}}
カメルーンやコスタリカといった第3勢力の躍進があったとはいえ、組織プレー重視、そして反則も辞さない守備的な風潮が進んだ。1試合あたりの平均ゴール数2.21であり、退場者は前回の8人から16人と倍増した。


; アルゼンチン
その兆候は、開幕戦と決勝戦を戦った3チームにみる事ができる。抜群の身体能力を駆使してアフリカ勢初のベスト8に進出し、大会を沸かせたカメルーンだったが、その陰では反則覚悟の強引な守備で開幕戦では2人の退場者を出し(それでもアルゼンチンに勝ったのは凄い事ではあるが)、準々決勝のイングランド戦でも累積警告で主力4人が出場停止となっていた。
: 前回優勝国のアルゼンチンは初戦の[[サッカーカメルーン代表|カメルーン]]戦で0-1と敗れ<ref name="大住12-13"/>、左足首の負傷を抱える[[ディエゴ・マラドーナ]]が精彩を欠いた状態だったが<ref>[[#グランヴィル 1998|グランヴィル 1998]]、381頁</ref><ref name="賀川62-66">{{Cite book|和書|author=[[賀川浩]]|chapter=90年代のマラドーナ論 精妙なタッチでボールに意思を吹き込んだディエゴ・マラドーナ|title=ワールドカップ伝説 vol.2 90年代編|publisher=ベースボール・マガジン社|page=62-65|isbn=978-4583616490}}</ref>、グループリーグ3位で決勝トーナメントに進出<ref name="賀川62-66"/>。1回戦の[[サッカーブラジル代表|ブラジル]]戦では終始劣勢な試合展開ながら、マラドーナのチャンスメイクから[[クラウディオ・カニーヒア]]の得点を生み出し1-0と勝利<ref name="大住12-13"/><ref name="賀川62-66"/>。グループリーグ第2戦の[[サッカーソビエト連邦代表|ソビエト連邦]]戦で骨折した[[ネリー・プンピード]]に代わって正キーパーとなった[[セルヒオ・ゴイコチェア]]の活躍もあり準々決勝では[[サッカーユーゴスラビア代表|ユーゴスラビア]]、準決勝ではイタリアをPK戦の末に下して2大会連続で決勝へ進出した<ref name="Overview"/>。西ドイツとの決勝ではカニーヒアをはじめ主力選手4人を累積警告で欠き<ref name="グランヴィル390">[[#グランヴィル 1998|グランヴィル 1998]]、390頁</ref>、試合終盤の85分にブレーメの[[ペナルティーキック]]により失点し敗退した<ref name="Overview"/><ref name="大住12-13"/>。この試合では{{仮リンク|ペドロ・モンソン|en|Pedro Monzón}}は危険なプレーにより、{{仮リンク|グスタボ・デソッティ|en|Gustavo Dezotti}}は累積警告により、ワールドカップ決勝の歴史上初の退場者となった<ref name="Overview"/>。


; イタリア
そのカメルーンに敗れながら、チームを立て直して決勝まで進んだアルゼンチンも、前回優勝時と比べてマラドーナ以外のタレントが不足しており、マラドーナによりマークが集中してPK戦も辞さない守備重視の戦いの連続。大会途中から正GKに定着した[[セルヒオ・ゴイコチェア|ゴイコチェア]]の驚異的な活躍で準々決勝、準決勝のPK戦を乗り切ったがその代償も大きく、決勝では今大会唯一無二のマラドーナのパートナーだった[[クラウディオ・カニーヒア|カニーヒア]]をはじめ、主力4人が出場停止となり、決勝戦ではチーム力の限界を露呈した。
: 地元のイタリアは前回大会を経験した[[ジャンルカ・ヴィアリ]]がエースに成長していたものの右足の怪我を抱え<ref name="グランヴィル358">[[#グランヴィル 1998|グランヴィル 1998]]、356-357頁</ref>、有望な若手選手の[[ロベルト・バッジョ]]は起用法を巡り監督の[[アゼリオ・ビチーニ]]との間で折り合いが付かず<ref name="グランヴィル358"/>、遅咲きのストライカーの[[サルヴァトーレ・スキラッチ]]は国際大会での経験が不足していた<ref name="グランヴィル358"/>。大会に入るとヴィアリに代わってバッジョとスキラッチのペアが揃って結果を残し<ref>[[#グランヴィル 1998|グランヴィル 1998]]、375-376頁</ref><ref>[[#グランヴィル 1998|グランヴィル 1998]]、378-379頁</ref><ref>[[#グランヴィル 1998|グランヴィル 1998]]、384頁</ref>、キーパーの[[ワルテル・ゼンガ]]やリベロの[[フランコ・バレージ]]をはじめとした守備陣が無失点に抑え準決勝へ進出した<ref name="トピックス">{{Cite book|和書|chapter=1990年イタリア大会トピックス|title=ワールドカップ伝説 vol.2 90年代編|publisher=ベースボール・マガジン社|page=86|isbn=978-4583616490}}</ref>。迎えた準決勝のアルゼンチン戦は相手のエースのマラドーナが所属する[[SSCナポリ]]の本拠地・[[ナポリ]]での試合となったが<ref name="Overview"/>、PK戦の末に敗退した<ref name="グランヴィル386-388">[[#グランヴィル 1998|グランヴィル 1998]]、356-357頁</ref>。この試合においてヴィアリの起用にこだわり、好調を維持していたバッジョを先発から外したビチーニの采配は批判の対象となった<ref name="グランヴィル386-388"/>。一方、スキラッチは全6試合で得点を決め通算6得点をあげて得点王となり<ref name="Overview"/>、最優秀選手に送られる[[FIFAワールドカップにおける賞|アディダスゴールデンボール賞]]にも選ばれた<ref name="Overview"/>。スキラッチは大会前は無名に近い存在だったが、この活躍により大会を象徴する存在となった<ref name="Overview"/>。また、ゼンガはグループリーグ初戦の[[サッカーオーストリア代表|オーストリア]]戦からアルゼンチン戦に至るまで517分間連続無失点のワールドカップ記録を残した<ref name="トピックス"/>。


; イングランド
決勝戦は前回と同じカードとなったが、上記のようにゲームメイクからゴールまで、攻撃の全てをマラドーナに頼らざるを得ないアルゼンチンに対し、西ドイツはマテウスなど前回大会を経験した主力の大半が年齢的にピークを迎えており、戦力では優位な状況だった。しかし、アルゼンチンのシュートをマラドーナの外したFK1本に抑えながらも、得点は後半40分のPKの1点のみ。2人のアルゼンチン選手の退場者を誘発して数的優位に立ちながらも、したたかな西ドイツの戦いぶりと守備に忙殺されたアルゼンチンとの試合は、前回とは対照的な結果となった。
: [[サッカーイングランド代表|イングランド]]は[[フーリガン]]対策のためにグループリーグの3試合を[[サルデーニャ島]]の[[カリャリ]]で行うことを余儀なくされた<ref name="グランヴィル358">[[#グランヴィル 1998|グランヴィル 1998]]、358頁</ref>。グループリーグでは4チームが2引き分けで並ぶ事態となったが、第3戦のエジプト戦で1-0で勝利しことでグループを首位で突破。主将を務める[[ブライアン・ロブソン]]がグループリーグ第2戦で[[アキレス腱]]を痛め帰国するアクシデントに見舞われながらも<ref name="サカマガ199012">{{Cite book|和書|author=牛木素吉郎、平木健一|chapter=イタリア'90 ワールドカップの技術と戦術 連載3 イングランド|title=サッカーマガジン|volume=1990年12月号|publisher=ベースボール・マガジン社|page=142-145}}</ref>、ゲームメーカーを務める[[ポール・ガスコイン]]の技術と活力に牽引され<ref name="Overview"/><ref name="サカマガ199012"/>、決勝トーナメント1回戦では[[デビッド・プラット]]の決勝点で[[サッカーベルギー代表|ベルギー]]戦を<ref>[[#グランヴィル 1998|グランヴィル 1998]]、379-380頁</ref>、準々決勝ではプラットと[[ゲーリー・リネカー]]の2得点でカメルーンを下し、[[1966 FIFAワールドカップ|1966年イングランド大会]]以来のベスト4進出を決めた<ref>[[#グランヴィル 1998|グランヴィル 1998]]、385-386頁</ref>。準決勝では伝統的ライバルの西ドイツにPK戦の末に敗れたが<ref name="グランヴィル388-389">[[#グランヴィル 1998|グランヴィル 1998]]、388-389頁</ref><ref name="BBC"/>、決勝進出を逃し涙を流すガスコインの姿は大会を象徴するシーンの一つと評されている<ref name="Overview"/><ref name="BBC"/>。また、[[ボビー・ロブソン]]監督の下、大会期間中に従来の4-4-2フォーメーションから3-5-2フォーメーションへと転換した<ref name="西部67-69"/><ref>[[#グランヴィル 1998|グランヴィル 1998]]、369-370頁</ref>。ロブソンの試みは過去に前例がなく物議を醸したが<ref name="サカマガ199010"/>、選手は試合時のシステム変更、ポジション修正に適応する柔軟性を見せた<ref name="サカマガ199010"/>。


; カメルーン
上記にもあるように、この大会は中盤の攻撃的なタレントの台頭が目立った大会であり、追いつ追われつだったイングランドとカメルーンの準々決勝の対決のような名勝負もあった。しかし、開幕戦と決勝戦が共に1対0の最少得点、2人の退場者を出す試合となったことに加え、ブラジル、オランダ、ソ連といった攻撃力の高いチームが早々と敗退したことで退屈な大会の印象を強くしてしまった。また、この大会のイングランドの選手たちの紳士的な姿勢はフェアプレー賞の受賞へとつながった一方で、イタリア人観客のマラドーナやアルゼンチンに対するブーイングは大会を殺伐とした雰囲気としたものとし、荒れた大会に拍車をかける結果となった。
: カメルーンは[[アフリカネイションズカップ1988|アフリカネイションズカップ]]優勝後に監督の{{仮リンク|クロード・ル・ロワ|en|Claude Le Roy}}が退任し、ソ連出身の[[ヴァレリー・ニポムニシ]]を新監督に迎えたが適応できず<ref name="グランヴィル361"/>、正キーパーの[[ジョセフ=アントワーヌ・ベル]]がチーム批判を行うなど<ref name="グランヴィル361"/>、内紛を抱えた状態だった<ref name="グランヴィル361"/>。一方、グループリーグ初戦で前回優勝国のアルゼンチンを1-0と破るなどワールドカップ史上に残る[[番狂わせ]]を見せた<ref name="Overview"/>。また、第一線でのプレーから退き[[レユニオン]]のクラブに所属していた38歳の[[ロジェ・ミラ]]が大統領の要請により代表に復帰し<ref name="稲垣32-33">{{Cite book|和書|author=稲垣康介|chapter=世界が驚愕し興奮した38歳のスーパーサブ 雄々しきハンター ロジェ・ミラ|title=ワールドカップ伝説 vol.2 90年代編|publisher=[[ベースボール・マガジン社]]|page=32-33|isbn=978-4583616490}}</ref>スーパーサブ的役割を担うと<ref name="稲垣32-33"/><ref name="グランヴィル362-363">[[#グランヴィル 1998|グランヴィル 1998]]、362-363頁</ref>、グループリーグ第2戦の[[サッカールーマニア代表|ルーマニア]]戦では途中交代から2得点をあげ2-1と勝利<ref>[[#グランヴィル 1998|グランヴィル 1998]]、373-374頁</ref>。決勝トーナメント1回戦の[[サッカーコロンビア代表|コロンビア]]戦でもミラが2得点をあげる活躍を見せ、延長戦の末に2-1と下し[[アフリカ]]勢として初めて準々決勝に進出した<ref name="大住12-13"/>。準々決勝のイングランド戦では試合途中まで2対1とリードしたが、延長戦の末に2-3で敗れた<ref name="大住12-13"/>。


; ユーゴスラビア
尚、ゴール数の低下傾向は前回のメキシコ大会から続いており、前回はマラドーナ、プラティニ、ジーコといったスター選手の輝きでそれほど問題にはならなかったが、このイタリア大会では彼らに匹敵するスター選手の個人技よりも組織プレーが優先された事で、ゴール数の低下と反則も辞さない守備側のプレーへの懸念が一気に高まった。この大会の後になって、リーグ戦おいての勝ち点3制度への改正、オフサイドルールの緩和、GKへのバックパスの制限、そしてバックチャージなどに象徴されるような守備側の確信犯的な反則に対しては即退場処分とするなど、イタリア大会は結果的に、守備的な風潮を食い止める為の大掛かりなルール改正への分岐点となった。
: ユーゴスラビアはグループリーグ初戦の西ドイツ戦において、スイーパーの{{仮リンク|ダヴォル・ヨジッチ|en|Davor Jozić}}とストッパーの{{仮リンク|ファルク・ハジベギッチ|en|Faruk Hadžibegić}}のポジションを入れ替える奇策に出るも1-4と完敗<ref name="サカマガ199106">{{Cite book|和書|author=牛木素吉郎、平木健一|chapter=イタリア'90 ワールドカップの技術と戦術 連載9 ユーゴスラビア|title=サッカーマガジン|volume=1991年6月号|publisher=ベースボール・マガジン社|page=134-137}}</ref>。第2戦以降、[[イビチャ・オシム]]監督の下で態勢を立て直し決勝トーナメントに進出すると、1回戦の[[サッカースペイン代表|スペイン]]戦では[[ドラガン・ストイコビッチ]]の技巧もあり延長戦の末に2-1と勝利<ref name="サカマガ199106"/>。準々決勝のアルゼンチン戦では前半31分に退場者を出し数的不利な状況での戦いを余儀なくされたが、ストイコビッチのボールキープとチャンスメイク<ref>{{cite web|url=http://library.footballjapan.jp/user/scripts/user/story.php?story_id=543|title=花の都フィレンツェでの過酷な延長とPK戦|publisher=賀川サッカーライブラリー|accessdate=2014年11月22日}}</ref>、個々の選手の柔軟な守備対応により互角の勝負を演じた<ref name="サカマガ199106"/>。試合は延長戦の末に0-0と引分け、PK戦の結果、準決勝進出を逃した<ref name="サカマガ199106"/>。


; アイルランドとコスタリカ
また、この大会のカメルーンに象徴される圧倒的な身体能力から、「21世紀はアフリカの時代になる」と多くの評論家から予想されたブラックアフリカ勢も、ベスト8の壁をいまだに突破できないままでいる。
: 初出場組では[[ジャッキー・チャールトン]]監督に率いられた[[サッカーアイルランド共和国代表|アイルランド]]が古典的な[[キック・アンド・ラッシュ|ロングボール]]戦法の徹底と<ref name="サカマガ199107">{{Cite book|和書|author=牛木素吉郎、平木健一|chapter=イタリア'90 ワールドカップの技術と戦術 連載10 アイルランド|title=サッカーマガジン|volume=1991年7月号|publisher=ベースボール・マガジン社|page=126-129}}</ref>、キーパーの[[パット・ボナー]]の活躍もあり<ref>{{cite web|author=Jonathan Stevenson|url=http://www.bbc.co.uk/blogs/legacy/jonathanstevenson/2010/05/the_story_of_the_1990_world_cu.html|title=The story of the 1990 World Cup|publisher=BBC - : The story of the 1990 World Cup|date=2010年5月26日|accessdate=2014年11月22日}}</ref>、1勝も挙げることなく準々決勝進出を果たした<ref name="サカマガ199107"/><ref name="Overview"/>。[[ボラ・ミルティノビッチ]]監督に率いられた[[サッカーコスタリカ代表|コスタリカ代表]]は大会前に「グループ最弱」の評価を受けていたが<ref name="賀川538">{{cite web|url=http://library.footballjapan.jp/user/scripts/user/story.php?story_id=538|title=驚きのコスタリカGKコネホとミルチノビッチの功績|publisher=賀川サッカーライブラリー|accessdate=2014年11月22日}}</ref>、キーパーの{{仮リンク|ルイス・ガベロ・コネホ|en|Luis Gabelo Conejo}}の活躍もあり<ref name="賀川538"/>、グループリーグ初戦で[[サッカースコットランド代表|スコットランド]]を1-0と下す番狂わせを演じ<ref name="bbc20020415">{{cite web|url=http://news.bbc.co.uk/sport3/worldcup2002/hi/history/newsid_1844000/1844934.stm|title=Costa shocker for Scots|publisher=BBC SPORT|date=2002年4月15日|accessdate=2014年11月22日}}</ref>、第3戦では[[サッカースウェーデン代表|スウェーデン]]を2-1と下しグループ2位で決勝トーナメントに進出<ref name="Overview"/><ref name="bbc20020415"/>。1回戦の[[サッカーチェコスロバキア代表|チェコスロバキア]]戦ではキーパーのコネホを負傷で欠いたことが響き1-4で敗れた<ref name="賀川538"/>。


; オランダ
カメルーンの躍進以外の数少ない明るい話題として、コロンビアのGKイギータの活躍があげられる。イギータは、積極的にペナルティエリア外に出てDFの裏に出たボールに絡んでカバーリングした。GKの概念を変えた先駆者でもある。しかし、決勝トーナメント1回戦では、ペナルティエリア外でボールコントロールミスによりロジェ・ミラにボールを掻っ攫われてしまい、決定的な失点を犯した。
: オランダは[[UEFA欧州選手権1988]]優勝メンバーの[[ルート・フリット]]、[[マルコ・ファン・バステン]]、[[フランク・ライカールト]]、[[ロナルド・クーマン]]らを擁し優勝候補と目された<ref name="国吉82-83">{{Cite book|和書|author=国吉好弘|chapter=1990年イタリア大会名勝負 西ドイツ「ミラノダービー」宿敵を下す|title=ワールドカップ伝説 vol.2 90年代編|publisher=ベースボール・マガジン社|page=82-83|isbn=978-4583616490}}</ref>。その一方でフリットは1年間に2度の右膝の手術を行い実戦から遠ざかったため<ref name="サカマガ199108">{{Cite book|和書|author=牛木素吉郎、平木健一|chapter=イタリア'90 ワールドカップの技術と戦術 連載11 オランダ|title=サッカーマガジン|volume=1991年8月号|publisher=ベースボール・マガジン社|page=126-129}}</ref>、大会出場を危ぶまれていた<ref name="グランヴィル354-355">[[#グランヴィル 1998|グランヴィル 1998]]、354-355頁</ref>。また、監督人事を巡る[[オランダサッカー協会]]内の内紛、駆け引きも代表チームの成績に影響を及ぼしていた<ref name="グランヴィル354-355"/>。大会に入りフリットは復調の兆しを見せたものの<ref name="サカマガ199108"/>、ファン・バステンのコンディションは芳しくなく<ref name="サカマガ199108"/><ref name="グランヴィル354-355">[[#グランヴィル 1998|グランヴィル 1998]]、368-369頁</ref>、グループリーグを3戦3引き分け<ref name="国吉82-83"/>、同じく3分けの成績で総得点と総失点で並んだアイルランドとのグループリーグ2位をかけた抽選にも敗れグループリーグ3位で決勝トーナメント進出。決勝トーナメント1回戦では西ドイツと対戦し好試合を演じたが<ref name="サカマガ199108"/><ref name="グランヴィル382-383">[[#グランヴィル 1998|グランヴィル 1998]]、382-383頁</ref><ref name="後藤54-55">{{Cite book|和書|author=[[後藤健生]]|chapter=美しさで魅了したオレンジ軍団の実力に迫る なぜオランダは敗れたのか…|title=ワールドカップ伝説 vol.2 90年代編|publisher=ベースボール・マガジン社|page=54-55|isbn=978-4583616490}}</ref>、守備の要のライカールトが相手フォワードのフェラーとのトラブルが基で退場した影響もあり1-2で敗れた<ref name="国吉82-83"/><ref name="グランヴィル382-383"/><ref>{{cite web|url=http://library.footballjapan.jp/user/scripts/user/story.php?story_id=540|title=欧州の巨人激突クリンスマンとフリットの明暗|publisher=賀川サッカーライブラリー|accessdate=2014年11月22日}}</ref>。


; ブラジル
=== マラドーナの犯罪 ===
: ブラジルは前年の[[コパ・アメリカ1989|コパ・アメリカ]]において[[セバスティアン・ラザロニ]]監督の下、従来の4バックによるラインディフェンスから後方にスイーパーを配する3-5-2フォーメーションへと転換<ref name="西部67-69"/>、[[ロマーリオ]]と[[ジョゼ・ロベルト・ガマ・デ・オリベイラ|ベベット]]の2トップを擁し優勝をした<ref name="国吉24-27">{{Cite book|和書|author=国吉好弘|chapter=ストライカーに必要なすべての能力を備えた男の"至福"と"ジレンマ" W杯に愛され、そして嫌われた男|title=ワールドカップ伝説 vol.2 90年代編|publisher=ベースボール・マガジン社|page=24-27|isbn=978-4583616490}}</ref>。その一方で、チームは個々の能力は評価をされたものの、「創造性に欠く」「ヨーロッパ以上にヨーロッパ的なチーム」と評された<ref>[[#グランヴィル 1998|グランヴィル 1998]]、360-361頁</ref>。大会に入るとロマーリオとベベットに代わり、[[アントニオ・デ・オリベイラ・フィーリョ|カレカ]]と[[ルイス・アントニオ・コレア・ダ・コスタ|ミューレル]]の2トップが出場機会を掴み<ref name="国吉24-27"/>、グループリーグを3連勝で突破すると決勝トーナメント1回戦では前回優勝国のアルゼンチンとの対戦となった<ref name="グランヴィル380-381">[[#グランヴィル 1998|グランヴィル 1998]]、380-381頁</ref>。この試合においてブラジルは終始ボールを支配し優勢に試合を進めながら得点をあげることが出来ず、81分にカニーヒアの得点を許し0-1で敗退した<ref name="グランヴィル380-381"/>。左ウイングバックの{{仮リンク|クラウディオ・イブラヒム・ヴァス・レアル|label=ブランコ|en|Branco (footballer)}}はアルゼンチン首脳陣の奸計に陥り睡眠薬入りペットボトルを手渡されたことに<ref name="グランヴィル380-381"/>、監督のラザロニは攻撃陣のタレントの欠如に敗因を求めたが<ref name="グランヴィル380-381"/>、一部のメディアはラザロニの採用した守備的戦術のために攻撃時における中盤のサポートを奪い、前線の選手を孤立させる結果を招いたと指摘した<ref name="グランヴィル380-381"/>。
1986年のメキシコ大会で大活躍した[[ディエゴ・マラドーナ]]は、故障を抱えたまま出場したが、当時自分が[[セリエA (サッカー)|セリエA]]の[[SSCナポリ|ナポリ]]に所属していた事もあってナポリ市民にイタリアではなく自分を応援するように仕向けたため、激しいブーイングを浴びる事になった。


== 評価 ==
結局、アルゼンチンはマラドーナが決勝トーナメントのブラジル戦で見事なアシストを決めるなどの活躍で決勝にまで駒を進めたが、敗れたブラジルが、マラドーナからサイドバックのブランコに渡されたコップの水に薬が入っていたと主張していた。そして実際に近年、マラドーナ自身が給水ボトルに睡眠薬を混ぜていたことをテレビで暴露し、物議を醸した<ref>[http://southafrica2010.yahoo.co.jp/news/cdetail/201007070006-spnavi スポーツナビ 2010年7月6日]</ref>。
=== 肯定的評価 ===
[[サッカーカメルーン代表|カメルーン]]は開幕戦で前回優勝国の[[サッカーアルゼンチン代表|アルゼンチン]]を下す番狂わせを演じ、[[アフリカ]]勢として初めて準々決勝に進出を成し遂げた<ref name="大住12-13"/>。カメルーンの快進撃は将来的なアフリカ勢の台頭を想起させるものであり<ref name="大住12-13"/>、一部の専門家からは「20世紀のうちにアフリカ勢が優勝するだろう」と評された<ref name="大住12-13"/><ref name="稲垣32-33"/>。また、[[サッカーコスタリカ代表|コスタリカ]]については前回優勝国を下したカメルーンほどのインパクトは残せなかったものの<ref name="bbc20020415"/>、グループリーグ初戦において[[サッカースコットランド代表|スコットランド]]を下した試合は驚きをもって迎えられた<ref name="bbc20020415"/>。


この他、決勝トーナメント1回戦の[[サッカードイツ代表|西ドイツ]]対[[サッカーオランダ代表|オランダ]]戦は好試合と評されているが<ref name="サカマガ199108"/><ref name="グランヴィル382-383"/><ref name="後藤54-55"/>、専門家のブライアン・グランヴィルは「おそらくワールドカップ史上に残る試合であり、後に我々を悩ませることになるあの凡戦よりも遥かに決勝戦に相応しい」と評した<ref name="グランヴィル382-383"/>。
=== 西ドイツの歓迎 ===
決勝戦では地元イタリアのファンを完全に敵に回し、スクリーンにマラドーナの姿が映し出されるたびに大きなブーイングが飛ぶ状態となった。一方、セリエAのクラブに多数の選手が所属する西ドイツは地元イタリア国民から大きな歓声で迎えられ、ホーム同然の雰囲気で戦うことが出来た。例えば西ドイツはグループリーグから準々決勝までを当時マテウス、ブレーメ、クリンスマンの所属していたインテルの本拠地ミラノで試合をし、決勝戦は当時フェラー、ベルトルトが所属していたASローマの本拠地ローマで戦うことができた。準決勝の行われたトリノに本拠地を置く2チーム(ユヴェントスとトリノ)には所属選手はいなかったが、相手がイングランドということもあり(ユヴェントスのファンはヘイゼルの悲劇でイングランドと因縁があった)、この試合もホーム状態であった。


=== 会場一覧 ===
=== 否定的評価 ===
この大会では「大会の肥大化」に伴う競技レベルの低下<ref name="グランヴィル353">[[#グランヴィル 1998|グランヴィル 1998]]、353頁</ref>のみならず多くの問題が浮き彫りとなったことから、[[英国放送協会]]は「守備的サッカーが横行したワールドカップ史上最悪の大会<ref name="BBC"/>」と評している。一方、守備的な風潮を食い止めるための大掛かりなルール改正への分岐点となり、[[国際サッカー連盟]] (FIFA) により対策が講じられることになった<ref name="大住12-13"/>。
{| class="wikitable"
; 決勝戦初の退場者
!競技場!!都市!!収容人数
: 決勝戦の西ドイツ対アルゼンチン戦は、主力選手4人を累積警告で欠くアルゼンチンの守備的戦術を西ドイツ攻撃陣が崩しきれず<ref name="グランヴィル390"/><ref name="賀川553">{{cite web|url=http://library.footballjapan.jp/user/scripts/user/story.php?story_id=553|title=格別の素晴らしさ感じたイタリア90次の旅立ちは…|publisher=賀川サッカーライブラリー|accessdate=2014年11月22日}}</ref>。後半に入りアルゼンチンが2人の退場者を出すなど荒れた展開となり<ref name="グランヴィル390"/>、決勝点となったペナルティーキックの判定は微妙なものだった<ref name="fussballdaten"/><ref name="グランヴィル390"/><ref>{{Cite book|和書|author=[[武智幸徳]]|chapter=フランツ・ベッケンバウアー カリスマチックな統率力でゲームを支配し勝利に導く|title=ワールドカップ伝説 vol.2 90年代編|publisher=ベースボール・マガジン社|page=56-57|isbn=978-4583616490}}</ref>。この試合について専門家のグランヴィルは「ワールドカップ史上において最も退屈で、荒んだ試合<ref name="グランヴィル353"/>」、専門家の[[賀川浩]]は「決勝での最少得点は初めてのことだし、退場処分も前例がない。エンターテインメントとしては華やかさに欠けた<ref name="賀川553"/>」、『[[ニューヨーク・タイムズ]]』紙は「酷い勝利、酷い敗戦、全く酷い試合」と評した<ref>{{cite web|url=http://www.nytimes.com/1990/07/09/sports/sports-of-the-times-winning-ugly-losing-ugly-just-plain-ugly.html|title=SPORTS OF THE TIMES; Winning Ugly, Losing Ugly, Just Plain|publisher=New York Times|date=1990年7月9日|accessdate=2014年11月22日}}</ref>。
|-
; 得点力の低下
|[[スタディオ・オリンピコ・ディ・ローマ|スタディオ・オリンピコ]]
: 大会の総得点は115、1試合あたりに換算すると平均2.21点。これはワールドカップ史上最低の数字だった<ref name="大住12-13"/>。こうした反省から攻撃的サッカーを推奨するため、「ゴールマウスの拡大」「スターティングメンバーの削減」などさまざまな改革案が打ち出されたが<ref name="グランヴィル353"/>、[[1992年]]に[[ゴールキーパー (サッカー)|ゴールキーパー]]へバックパスを行うことによる遅延行為を抑止するための[[バックパス・ルール]]を制定した<ref name="大住12-13"/>。さらに、オフサイドルールについても[[1994年]]に攻撃側に有利に作用する内容へと改訂された<ref name="大住12-13"/>。また、勝ち点制度についても積極的に勝利を目指すことを推奨するため勝利した場合には勝ち点3を付与することになった<ref name="大住12-13"/>。
|[[ローマ]]
; 判定基準を巡る混乱
|align="right"|81,000人
: 大会に際してFIFAは悪質なプレーの抑止と攻撃的サッカーの推奨を目的とし「ゴールへ向かって独走する選手を手を使って阻止した場合は即退場」「フリーキックの場面で守備側の選手が10ヤード離れようとしない場合は警告」などの基準を設けた<ref name="トピックス"/>。一方、この基準は競技規則について審議する国際評議会において協議されることなく、ワールドカップの開幕前日にほぼ予告なしに導入されたものだった<ref name="グランヴィル362-363"/>。そのため審判や選手はこの基準に対応することができず<ref name="トピックス"/>、警告者数は前回大会の133から162、退場者数は前回大会の8から15と倍増する結果となった<ref name="トピックス"/>。また、大会を通じて線審のミスも目立ったことから、それまで一人の審判が主審と線審を兼ねることが慣例だった審判制度を改定し、線審の専門化が執り行われることになった<ref name="トピックス"/>。
|-
|[[スタディオ・サン・パオロ]]
|[[ナポリ]]
|align="right"|74,000人
|-
|[[スタディオ・デッレ・アルピ]]
|[[トリノ]]
|align="right"|68,000人
|-
|[[スタディオ・サン・ニコラ]]
|[[バーリ]]
|align="right"|56,000人
|-
|[[スタディオ・アルテミオ・フランキ (フィレンツェ)|スタディオ・コムナーレ]]
|[[フィレンツェ]]
|align="right"|41,000人
|-
|[[スタディオ・ジュゼッペ・メアッツァ]]
|[[ミラノ]]
|align="right"|75,000人
|-
|[[スタディオ・ルイジ・フェッラーリス]]
|[[ジェノヴァ]]
|align="right"|35,000人
|-
|[[スタディオ・マルカントニオ・ベンテゴディ]]
|[[ヴェローナ]]
|align="right"|42,000人
|-
|[[スタディオ・レナート・ダッラーラ]]
|[[ボローニャ]]
|align="right"|39,000人
|-
|[[スタディオ・フリウリ]]
|[[ウーディネ]]
|align="right"|38,000人
|-
|[[スタディオ・サンテーリア]]
|[[カリャリ]]
|align="right"|40,000人
|-
|[[スタディオ・レンツォ・バルベラ|スタディオ・ラ・ファヴォリータ]]
|[[パレルモ]]
|align="right"|36,000人
|}


== 結果 ==
== 結果 ==
326行目: 490行目:
|チーム2 = {{AUTf}}
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|得点者1 = [[サルヴァトーレ・スキラッチ|スキラッチ]] {{goal|78}}
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|得点者2 =
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|競技場 = [[スタディオ・オリンピコ・ディ・ローマ|スタディオ・オリンピコ]]([[ローマ]])
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|観客数 = 73,303人
|観客数 = 73,303人
349行目: 513行目:
|開催日 = [[1990年]][[6月14日]]
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|時間 = 21:00
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|チーム1 = {{ITAf2}}
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|スコア = 1 - 0
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|レポート = [http://www.fifa.com/worldcup/archive/edition=76/results/matches/match=265/report.html レポート]
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|チーム2 = {{USAf}}
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|得点者1 = [[ジュゼッペ・ジャンニーニ|ジャンニーニ]] {{goal|11}}
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|観客数 = 73,423人
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368行目: 532行目:
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|得点者1 = [[ミハエル・ビレク|ビレク]] {{goal|30|PK}}
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|競技場 = [[スタディオ・アルテミオ・フランキ (フィレンツェ)|スタディオ・コムナーレ]]([[フィレンツェ]])
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|観客数 = 38,962人
|観客数 = 38,962人
382行目: 546行目:
|チーム2 = {{TCHf}}
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|得点者1 = [[サルヴァトーレ・スキラッチ|スキラッチ]] {{goal|9}}<br />[[ロベルト・バッジョ|バッジョ]] {{goal|78}}
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|観客数 = 73,303人
|観客数 = 73,303人
438行目: 602行目:
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|得点者1 = [[フランソワ・オマン=ビイク|オマン=ビイク]] {{goal|67}}
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|競技場 = [[スタディオ・ジュゼッペ・メアッツァ|スタディオ・サン・シーロ]]([[ミラノ]])
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|観客数 = 73,780人
|観客数 = 73,780人
452行目: 616行目:
|チーム2 = {{URSf}}
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|得点者1 = [[マリウス・ラカトゥシュ|ラカトゥシュ]] {{goal|42||57|PK}}
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|観客数 = 42,907人
|観客数 = 42,907人
461行目: 625行目:
|開催日 = [[1990年]][[6月13日]]
|開催日 = [[1990年]][[6月13日]]
|時間 = 21:00
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|スコア = 2 - 0
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|レポート = [http://www.fifa.com/worldcup/archive/edition=76/results/matches/match=30/report.html レポート]
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|チーム2 = {{URSf}}
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|得点者1 = [[ペドロ・トログリオ|トログリオ]] {{goal|27}}<br />[[ホルヘ・ブルチャガ|ブルチャガ]] {{goal|79}}
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|競技場 = [[スタディオ・サン・パオロ]]([[ナポリ]])
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|観客数 = 55,759人
|観客数 = 55,759人
|主審 = {{Flagicon|SWE}} [[エリック・フレドリクン]]
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}}
}}
----
----
494行目: 658行目:
|チーム2 = {{CMRf}}
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|得点者1 = [[オレグ・プロタソフ|プロタソフ]] {{goal|20}}<br />[[アンドレイ・ジグマントビッチ|ジグマントビッチ]] {{goal|29}}<br />[[アレクサンドル・ザバロフ|ザバロフ]] {{goal|59}}<br />[[イゴール・ドブロヴォルスキー|ドブロヴォルスキー]] {{goal|63}}
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|得点者2 =
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|競技場 = [[スタディオ・サン・ニコラ]]([[バーリ]])
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|観客数 = 37,307人
|観客数 = 37,307人
564行目: 728行目:
|チーム2 = {{SCOf}}
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|得点者1 = [[フアン・カジャッソ|カジャッソ]] {{goal|49}}
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|得点者2 =
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|競技場 = [[スタディオ・ルイジ・フェッラーリス]]([[ジェノヴァ]])
|競技場 = [[スタディオ・ルイジ・フェッラーリス]]([[ジェノヴァ]])
|観客数 = 30,867人
|観客数 = 30,867人
578行目: 742行目:
|チーム2 = {{CRCf}}
|チーム2 = {{CRCf}}
|得点者1 = [[ルイス・アントニオ・コレア・ダ・コスタ|ミューレル]] {{goal|33}}
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|得点者2 =
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|競技場 = [[スタディオ・デッレ・アルピ]]([[トリノ]])
|競技場 = [[スタディオ・デッレ・アルピ]]([[トリノ]])
|観客数 = 58,007人
|観客数 = 58,007人
620行目: 784行目:
|チーム2 = {{SCOf}}
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|得点者1 = [[ルイス・アントニオ・コレア・ダ・コスタ|ミューレル]] {{goal|82}}
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|得点者2 =
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|競技場 = [[スタディオ・デッレ・アルピ]]([[トリノ]])
|競技場 = [[スタディオ・デッレ・アルピ]]([[トリノ]])
|観客数 = 62,502人
|観客数 = 62,502人
662行目: 826行目:
|チーム2 = {{AREf}}
|チーム2 = {{AREf}}
|得点者1 = [[ベルナルド・レディン|レディン]] {{goal|50}}<br />[[カルロス・バルデラマ|バルデラマ]] {{goal|86}}
|得点者1 = [[ベルナルド・レディン|レディン]] {{goal|50}}<br />[[カルロス・バルデラマ|バルデラマ]] {{goal|86}}
|得点者2 =
|得点者2 =
|競技場 = [[スタディオ・レナート・ダッラーラ]]([[ボローニャ]])
|競技場 = [[スタディオ・レナート・ダッラーラ]]([[ボローニャ]])
|観客数 = 30,791人
|観客数 = 30,791人
690行目: 854行目:
|チーム2 = {{COLf}}
|チーム2 = {{COLf}}
|得点者1 = [[ダヴォル・ヨジッチ|ヨジッチ]] {{goal|75}}
|得点者1 = [[ダヴォル・ヨジッチ|ヨジッチ]] {{goal|75}}
|得点者2 =
|得点者2 =
|競技場 = [[スタディオ・レナート・ダッラーラ]]([[ボローニャ]])
|競技場 = [[スタディオ・レナート・ダッラーラ]]([[ボローニャ]])
|観客数 = 32,257人
|観客数 = 32,257人
774行目: 938行目:
|チーム2 = {{KORf}}
|チーム2 = {{KORf}}
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== 得点ランキング ==
== 得点ランキング ==
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== 表彰 ==
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=== 個人賞 ===
=== 個人賞 ===
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=== ベストイレブン ===
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大会終了後、FIFAはワールド・カップ本大会に出場した全チームの競技結果、勝敗や得失点などの統計に基づく最終順位を発表した<ref>{{cite web |url=http://www.fifa.com/mm/document/fifafacts/mencompwc/01/18/03/18/fs-201_08a_fwc-alltimeranking.pdf |title=All-time FIFA World Cup Ranking 1930–2010 |publisher=FIFA.com|format=PDF|accessdate=2014年11月22日}}</ref><ref>{{cite web |url=http://www.fifa.com/mm/document/fifafacts/mencompwc/51/97/55/171012-statisticalkit-fifaworldcup-milestonesfactsfigures-statusafterfwc2010.pdf |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130521092116/http://www.fifa.com/mm/document/fifafacts/mencompwc/51/97/55/171012-statisticalkit-fifaworldcup-milestonesfactsfigures-statusafterfwc2010.pdf |title=FIFA World Cup: Milestones, facts & figures. Statistical Kit 7|publisher=FIFA.com|archivedate=2013年5月21日|accessdate=2014年11月22日}}</ref>。
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|-
|-
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|-
|-
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|-
|-
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|-
|-
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|-
|-
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|-
|-
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|-
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|}


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=ブライアン・グランヴィル著、[[賀川浩]]監修、田村修一、土屋晃、田邊雅之訳|year=1998|title=決定版ワールドカップ全史|publisher=[[草思社]]|isbn=978-4794208187|ref=グランヴィル 1998}}

== 関連項目 ==
* {{仮リンク|ボビー・ロブソン・トロフィー・マッチ|en|Sir Bobby Robson Trophy match}} - [[2009年]]に亡くなった[[ボビー・ロブソン]]を偲んで行われた本大会の準決勝・[[サッカードイツ代表|西ドイツ]]対[[サッカーイングランド代表|イングランド]]の再試合。


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
* [http://www.fifa.com/worldcup/archive/edition=76/index.html 1990 FIFA World Cup Italy] - FIFA.com{{en icon}}
* [http://www.fifa.com/tournaments/archive/worldcup/italy1990/index.html 1990 FIFA World Cup Italy] - FIFA.com {{en icon}}
* [http://www.rsssf.com/tables/90full.html RSSSFによる記録]
* [http://www.rsssf.com/tables/90full.html RSSSFによる記録]



2014年12月10日 (水) 03:27時点における版

1990 FIFAワールドカップ
1990 FIFA World Cup
Campionato mondiale di calcio 1990
大会概要
開催国 イタリアの旗 イタリア
日程 1990年6月8日 - 7月8日
チーム数 24 (5連盟)
開催地数 12 (12都市)
大会結果
優勝 西ドイツの旗 西ドイツ (3回目)
準優勝 アルゼンチンの旗 アルゼンチン
3位 イタリアの旗 イタリア
4位 イングランドの旗 イングランド
大会統計
試合数 52試合
ゴール数 115点
(1試合平均 2.21点)
総入場者数 2,517,348人
(1試合平均 48,411人)
得点王 イタリアの旗 サルヴァトーレ・スキラッチ(6点)
最優秀選手 イタリアの旗 サルヴァトーレ・スキラッチ
 < 19861994

1990 FIFAワールドカップ: 1990 FIFA World Cup)は、1990年6月8日から7月8日にかけてイタリアで開催された第14回目のFIFAワールドカップである[1]。イタリアでの開催は1934年大会以来2回目であり、メキシコで開催された1986年大会に次いで2か国目の事例となった。1988年4月から始まった予選には116の国と地域の代表チームが参加し22チームが出場権を獲得した。これに予選を免除された開催国のイタリア代表と前回優勝のアルゼンチン代表を含めた24チームが参加した。大会の公式球はエトルスコ・ユニコ、公式マスコットはサッカーボールとイタリア国旗をあしらった「チャオ」[2]日本放送協会の協力によりイタリア放送協会を通じて世界各国に高精細度テレビジョン放送として配信された初の大会でもある[3]

決勝戦は西ドイツ代表対アルゼンチン代表という2大会連続で同一カードとなったが、西ドイツ代表がアルゼンチン代表を1-0と下し3回目のワールドカップタイトルを獲得した[1]。なお、西ドイツは1990年末に東ドイツとの再統一を控えており、西ドイツ代表としてはこれが最後の大会出場となった[2]チェコスロバキア代表ユーゴスラビア代表ソビエト連邦代表東欧革命の影響により最後の大会出場となった[2]

平均得点は2.21と最低記録を更新し[1][2][4]、決勝戦における初の退場者を含め当時としては最多記録となる16枚のレッドカードが掲示されたことから、ワールドカップの歴史上において最も退屈な大会とも評されている[5][6]

一方、開幕戦でカメルーン代表がアルゼンチン代表を下す番狂わせを演じ[1]、アフリカ勢として初めて準々決勝進出を成し遂げる[2]など話題性には事欠くことはなかった[1]。また、大会開催のためにトリノバーリには新たにスタジアムが建設され、10のスタジアムが改築されるなど設備投資が行われた[1]。この他、約266億9000万人の人々が視聴するなど、テレビ史上において最も注目されたスポーツイベントの一つでもあった[7]。この大会の反省から国際サッカー連盟1992年、守備側の選手の遅延行為を禁止するためのバックパス・ルールを導入、さらに1994 FIFAワールドカップからは攻撃的サッカーと勝利を追求するため、グループリーグにおいて新たな勝ち点制度を導入した。

開催国選定の経緯

1990年大会の開催国選定は1983年7月31日イタリアイングランドオーストリアギリシャソビエト連邦西ドイツフランスユーゴスラビアの8か国が立候補した[8]。その1か月後、イタリア、イングランド、ギリシャ、ソ連を除くすべての国が辞退し[9]、最終投票前の1984年初頭にイングランド、ギリシャが辞退した。

1984年5月19日スイスチューリヒで開催されたFIFA理事会での決選投票の結果、イタリアが11票、ソ連が5票という結果となり[10]1986年大会メキシコでの開催に続き、1934年大会で開催国を務め優勝をした実績を持つイタリアでの2回目のワールドカップ開催が決まった。この投票結果について、同年にアメリカ合衆国で開催されたロサンゼルスオリンピックに対するソビエト連邦をはじめとした東欧諸国のボイコットが影響を与えたものと推測されたが[11]、FIFAのジョアン・アベランジェ会長はこれを否定した[10]

予選

  予選を通過した国
  予選で敗退した国
  予選を棄権した国
  FIFA未加盟国

予選には116チームが参加を表明したが、出場停止処分や棄権により103チームが参加。開催国のイタリアと前回優勝国のアルゼンチンには自動的に出場権が与えられ、残りの22の出場枠が争われた。ヨーロッパには13枠、南米アフリカアジア北中米カリブ海にはそれぞれ2枠が与えられ、残りは南米とオセアニアとの間でプレーオフにより決定された。最初の試合は1988年4月17日1989 CONCACAF選手権トリニダード・トバゴガイアナ戦として行われ、トリニダード・トバゴが4-0と勝利した[12]が、予選最後の試合は1989年11月19日に行われたトリニダード・トバゴ対アメリカ合衆国戦だった[12]

本予選ではメキシコチリの2チームが国際サッカー連盟から出場停止処分を受けた。メキシコは1988年に行われたCONCACAF U-20選手権にU-20代表が出場した際に規定年齢以上の4選手を偽って出場させていた事件に対して[13]1988年サッカーメキシコ代表スキャンダル英語版)、チリは南米予選のブラジル戦の際にキーパーのロベルト・ロハスが観客席から投げ込まれた発煙筒により頭部を負傷したと偽り[14]、試合をボイコットした事件(ロハス事件)に対しての処分だった[12]。メキシコは2年間の出場停止処分[13]、チリはロハスの永久追放のほか1994 FIFAワールドカップ・予選への出場停止処分と罰金4万ポンドが科せられた[14]

コスタリカアイルランドアラブ首長国連邦[12]の3チームが初出場を果たし、長らく大会から遠ざかっていたエジプト1934年大会以来[12])、アメリカ合衆国(1950年大会以来[12])、コロンビア1962年大会以来[12])、ルーマニア1970年大会以来)が本大会出場を果たした。その一方で前回大会において決勝トーナメントに進出したフランスデンマークポーランドモロッコなどは予選で敗退した[12][15]

出場国

大陸連盟 出場
枠数
予選
予選順位
出場国・地域 出場回数 備考
UEFA 1+13 開催国 イタリアの旗 イタリア 8大会連続12回目
欧州予選 1組 1位 ルーマニアの旗 ルーマニア 5大会ぶり5回目
2組 1位 スウェーデンの旗 スウェーデン 3大会ぶり8回目
2位 イングランドの旗 イングランド 3大会連続9回目
3組 1位 ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦 3大会連続7回目
2位 オーストリアの旗 オーストリア 2大会ぶり6回目
4組 1位 オランダの旗 オランダ 3大会ぶり5回目
2位 西ドイツの旗 西ドイツ 10大会連続12回目
5組 1位 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗 ユーゴスラビア 2大会ぶり8回目
2位 スコットランドの旗 スコットランド 5大会連続7回目
6組 1位 スペインの旗 スペイン 4大会連続8回目
2位 アイルランドの旗 アイルランド 初出場
7組 1位 ベルギーの旗 ベルギー 3大会連続8回目
2位 チェコスロバキアの旗 チェコスロバキア 2大会ぶり8回目
CONMEBOL 1+2.5 前回優勝国 アルゼンチンの旗 アルゼンチン 5大会連続10回目
南米予選 1組 1位 ウルグアイの旗 ウルグアイ 2大会連続9回目
2組 1位 コロンビアの旗 コロンビア 7大会ぶり2回目
3組 1位 ブラジルの旗 ブラジル 14大会連続14回目
CONCACAF 2 最終予選 1位 コスタリカの旗 コスタリカ 初出場
2位 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 10大会ぶり4回目
CAF 2 最終予選 1組 1位 エジプトの旗 エジプト 12大会ぶり2回目
2組 1位 カメルーンの旗 カメルーン 2大会ぶり2回目
AFC 2 最終予選 1位 大韓民国の旗 韓国 2大会連続3回目
2位 アラブ首長国連邦の旗 アラブ首長国連邦 初出場
OFC 0.5 地区予選 出場国無し
  • 備考欄の「○」は大陸間プレーオフに勝利の上、出場が決定したチーム。

開催都市

ローマ ミラノ ナポリ トリノ
スタディオ・オリンピコ スタディオ・ジュゼッペ・メアッツァ スタディオ・サン・パオロ スタディオ・デッレ・アルピ
北緯41度56分1.99秒 東経12度27分17.23秒 / 北緯41.9338861度 東経12.4547861度 / 41.9338861; 12.4547861 (Stadio Olimpico) 北緯45度28分40.89秒 東経9度7分27.14秒 / 北緯45.4780250度 東経9.1242056度 / 45.4780250; 9.1242056 (San Siro) 北緯40度49分40.68秒 東経14度11分34.83秒 / 北緯40.8279667度 東経14.1930083度 / 40.8279667; 14.1930083 (Stadio San Paolo) 北緯45度06分34.42秒 東経7度38分28.54秒 / 北緯45.1095611度 東経7.6412611度 / 45.1095611; 7.6412611 (Stadio delle Alpi)
収容人数: 84,800[16][17] 収容人数: 83,407[16][17] 収容人数: 83,311[16][17] 収容人数: 71,362[16][17]
バーリ ヴェローナ
スタディオ・サン・ニコラ スタディオ・マルカントニオ・ベンテゴディ
北緯41度5分5.05秒 東経16度50分24.26秒 / 北緯41.0847361度 東経16.8400722度 / 41.0847361; 16.8400722 (Stadio San Nicola) 北緯45度26分7.28秒 東経10度58分7.13秒 / 北緯45.4353556度 東経10.9686472度 / 45.4353556; 10.9686472 (Stadio Marc'Antonio Bentegodi)
収容人数: 58,270[16][17] 収容人数: 43,216[16][17]
フィレンツェ カリャリ
スタディオ・コムナーレ スタディオ・サンテーリア
北緯43度46分50.96秒 東経11度16分56.13秒 / 北緯43.7808222度 東経11.2822583度 / 43.7808222; 11.2822583 (Stadio Artemio Franchi) 北緯39度11分57.82秒 東経9度8分5.83秒 / 北緯39.1993944度 東経9.1349528度 / 39.1993944; 9.1349528 (Stadio Sant'Elia)
収容人数: 49,000[16][17] 収容人数: 44,200[16][17]
ボローニャ ウーディネ パレルモ ジェノヴァ
スタディオ・レナート・ダッラーラ スタディオ・フリウリ スタディオ・ラ・ファヴォリータ スタディオ・ルイジ・フェッラーリス
北緯44度29分32.33秒 東経11度18分34.80秒 / 北緯44.4923139度 東経11.3096667度 / 44.4923139; 11.3096667 (Stadio Renato Dall'Ara) 北緯46度4分53.77秒 東経13度12分0.49秒 / 北緯46.0816028度 東経13.2001361度 / 46.0816028; 13.2001361 (Stadio Friuli) 北緯38度9分9.96秒 東経13度20分32.19秒 / 北緯38.1527667度 東経13.3422750度 / 38.1527667; 13.3422750 (Stadio Renzo Barbera) 北緯44度24分59.15秒 東経8度57分8.74秒 / 北緯44.4164306度 東経8.9524278度 / 44.4164306; 8.9524278 (Stadio Luigi Ferraris)
収容人数: 41,200[16][17] 収容人数: 42,311[16][17] 収容人数: 40,632[16][17] 収容人数: 44,800[16][17]

出場選手

この大会における1チームあたりの登録選手は前回大会と同様に22人と定められた。大会期間中に負傷した際の登録選手の入れ替えは国際サッカー連盟の裁量の下で許可され、アルゼンチンアンヘル・コミッソネリー・プンピード[18]イングランドデイヴ・ビーサントデイヴィッド・シーマンに代わって登録された[19]

審判員

34の国と地域から41人の審判員が選出され、大会を通じて主審と副審を兼任するように割り当てられた。下記の斜体字の審判員は第4審判としてのみ運用された。また、この大会は審判員が伝統的な黒色のユニフォームを着用し出場した最後の大会となったが[20]紺色のユニフォームを着用するスコットランドの出場した2試合においては赤色のユニフォームを着用した。

AFC
CAF
CONCACAF
CONMEBOL
OFC

UEFA

組み合わせ

シード分け

大会シードの6チームは1989年12月7日に発表された[21]。各シードは1986 FIFAワールドカップの成績を考慮して決定され[22]、残りの18チームも併せて6チームごと4つのグループに振り分けられた[23]

第1シードには開催国のイタリアが選ばれ開催都市としてローマが割り当てられた[21]。第2シードには前回優勝のアルゼンチンが選ばれ開催都市としてナポリが割り当てられた[21]。第3シードにはブラジルが選ばれ、開催都市としてはミラノを希望していたがトリノが割り当てられた[21]。第4シードには西ドイツが選ばれ、開催都市としてはドイツ人観光客の多いヴェローナを希望していたが代わりにミラノが割り当てられた[21]。第5シードのベルギーはヴェローナでの開催が割り当てられた[21]。第6シードにはイングランドが選ばれたが、多くの専門家からはスペインが第6シードに値するチームと考えられており意外な結果として受け止められた[21]。イングランドがシードに選ばれた理由としては、フーリガン対策のためにサルデーニャ島カリャリにチームと暴力的サポーターごと隔離するためだと推測されたが[21]、スペインのルイス・スアレス監督は「イングランドをカリャリに隔離することを望む者の計略のために、我々は欺かれたと感じている」と主張した[21]

シード ポット1[24] ポット2[24] ポット3[24]

 イタリア (1st)
 アルゼンチン (2nd)
 ブラジル (3rd)
 西ドイツ (4th)
 ベルギー (5th)
 イングランド (6th)

 カメルーン
 コスタリカ
 エジプト
 韓国
 アラブ首長国連邦
 アメリカ合衆国

 コロンビア
 チェコスロバキア
 アイルランド
 ルーマニア
 スウェーデン
 ウルグアイ

 オーストリア
 オランダ
 スコットランド
 スペイン
 ソビエト連邦
 ユーゴスラビア

組み合わせ抽選

組み合わせ抽選会は1989年12月9日、ローマのパラツェット・デロ・スポルト英語版において、あらかじめ定められた4つのグループからの抽選が行われた[23]。従来の抽選会は質素で簡潔な催しだったが[25]国際サッカー連盟事務総長のゼップ・ブラッター、女優のソフィア・ローレン、オペラ歌手のルチアーノ・パバロッティ、サッカー選手のペレボビー・ムーアカール=ハインツ・ルンメニゲがドロワーとして参加し[23]、大会公式テーマソング「トゥ・ビー・ナンバーワン英語版」を手掛けたエドアルド・ベンナート英語版ジャンナ・ナンニーニがライブ演奏を行うなど[23]、大掛かりなイベントとして催された[25]

大会の経過

大会は1986 FIFAワールドカップと同じ競技方式で行われた。24チームが参加し、4チームごとに6つのグループに分けられた。各グループの1位と2位の12チームと3位チームの中から成績が優秀な順に4チームの合計16チームが決勝トーナメントに進出した。

西ドイツ
西ドイツローター・マテウスユルゲン・クリンスマンアンドレアス・ブレーメが所属するインテルナツィオナーレ・ミラノの本拠地・ミラノで5試合を行うアドバンテージもあり[1]、初戦のユーゴスラビア戦で4-1と大勝すると[26]、2勝1分けの成績で首位でグループリーグを通過。決勝トーナメント1回戦で優勝候補のオランダを2-1と下すなど安定した戦いぶりを見せ[27]、前々回の1982年大会や前回の1986年大会に続き3大会連続で決勝進出[1]。決勝ではアルゼンチンを1-0と下し3回目の優勝を成し遂げ[1]ブラジルイタリアと並ぶワールドカップ最多優勝国となった[1]。また、監督を務めたフランツ・ベッケンバウアーマリオ・ザガロに次いで、選手と監督の両方でワールドカップ優勝を成し遂げた人物となった[1]。西ドイツは3-5-2フォーメーションを採用し[27]、中盤の深い位置でゲームをコントロールしつつ[27]機を見て前線へと攻め上がりスルーパスやミドルシュートを狙うマテウスを軸に[28]、クリンスマンとルディ・フェラーの2トップ[27]、活動量の豊富な両ウイングバックのシュテファン・ロイターとブレーメ[27][28][29]、後方の守備を統率しマテウスと共にチームの軸となったクラウス・アウゲンターラーをはじめ[28]ユルゲン・コーラーギド・ブッフバルトらの守備陣を擁するなど攻守のバランスが取れたチームだった[30]
アルゼンチン
前回優勝国のアルゼンチンは初戦のカメルーン戦で0-1と敗れ[30]、左足首の負傷を抱えるディエゴ・マラドーナが精彩を欠いた状態だったが[31][32]、グループリーグ3位で決勝トーナメントに進出[32]。1回戦のブラジル戦では終始劣勢な試合展開ながら、マラドーナのチャンスメイクからクラウディオ・カニーヒアの得点を生み出し1-0と勝利[30][32]。グループリーグ第2戦のソビエト連邦戦で骨折したネリー・プンピードに代わって正キーパーとなったセルヒオ・ゴイコチェアの活躍もあり準々決勝ではユーゴスラビア、準決勝ではイタリアをPK戦の末に下して2大会連続で決勝へ進出した[1]。西ドイツとの決勝ではカニーヒアをはじめ主力選手4人を累積警告で欠き[33]、試合終盤の85分にブレーメのペナルティーキックにより失点し敗退した[1][30]。この試合ではペドロ・モンソンは危険なプレーにより、グスタボ・デソッティは累積警告により、ワールドカップ決勝の歴史上初の退場者となった[1]
イタリア
地元のイタリアは前回大会を経験したジャンルカ・ヴィアリがエースに成長していたものの右足の怪我を抱え[34]、有望な若手選手のロベルト・バッジョは起用法を巡り監督のアゼリオ・ビチーニとの間で折り合いが付かず[34]、遅咲きのストライカーのサルヴァトーレ・スキラッチは国際大会での経験が不足していた[34]。大会に入るとヴィアリに代わってバッジョとスキラッチのペアが揃って結果を残し[35][36][37]、キーパーのワルテル・ゼンガやリベロのフランコ・バレージをはじめとした守備陣が無失点に抑え準決勝へ進出した[38]。迎えた準決勝のアルゼンチン戦は相手のエースのマラドーナが所属するSSCナポリの本拠地・ナポリでの試合となったが[1]、PK戦の末に敗退した[39]。この試合においてヴィアリの起用にこだわり、好調を維持していたバッジョを先発から外したビチーニの采配は批判の対象となった[39]。一方、スキラッチは全6試合で得点を決め通算6得点をあげて得点王となり[1]、最優秀選手に送られるアディダスゴールデンボール賞にも選ばれた[1]。スキラッチは大会前は無名に近い存在だったが、この活躍により大会を象徴する存在となった[1]。また、ゼンガはグループリーグ初戦のオーストリア戦からアルゼンチン戦に至るまで517分間連続無失点のワールドカップ記録を残した[38]
イングランド
イングランドフーリガン対策のためにグループリーグの3試合をサルデーニャ島カリャリで行うことを余儀なくされた[34]。グループリーグでは4チームが2引き分けで並ぶ事態となったが、第3戦のエジプト戦で1-0で勝利しことでグループを首位で突破。主将を務めるブライアン・ロブソンがグループリーグ第2戦でアキレス腱を痛め帰国するアクシデントに見舞われながらも[40]、ゲームメーカーを務めるポール・ガスコインの技術と活力に牽引され[1][40]、決勝トーナメント1回戦ではデビッド・プラットの決勝点でベルギー戦を[41]、準々決勝ではプラットとゲーリー・リネカーの2得点でカメルーンを下し、1966年イングランド大会以来のベスト4進出を決めた[42]。準決勝では伝統的ライバルの西ドイツにPK戦の末に敗れたが[43][5]、決勝進出を逃し涙を流すガスコインの姿は大会を象徴するシーンの一つと評されている[1][5]。また、ボビー・ロブソン監督の下、大会期間中に従来の4-4-2フォーメーションから3-5-2フォーメーションへと転換した[29][44]。ロブソンの試みは過去に前例がなく物議を醸したが[28]、選手は試合時のシステム変更、ポジション修正に適応する柔軟性を見せた[28]
カメルーン
カメルーンはアフリカネイションズカップ優勝後に監督のクロード・ル・ロワ英語版が退任し、ソ連出身のヴァレリー・ニポムニシを新監督に迎えたが適応できず[14]、正キーパーのジョセフ=アントワーヌ・ベルがチーム批判を行うなど[14]、内紛を抱えた状態だった[14]。一方、グループリーグ初戦で前回優勝国のアルゼンチンを1-0と破るなどワールドカップ史上に残る番狂わせを見せた[1]。また、第一線でのプレーから退きレユニオンのクラブに所属していた38歳のロジェ・ミラが大統領の要請により代表に復帰し[45]スーパーサブ的役割を担うと[45][46]、グループリーグ第2戦のルーマニア戦では途中交代から2得点をあげ2-1と勝利[47]。決勝トーナメント1回戦のコロンビア戦でもミラが2得点をあげる活躍を見せ、延長戦の末に2-1と下しアフリカ勢として初めて準々決勝に進出した[30]。準々決勝のイングランド戦では試合途中まで2対1とリードしたが、延長戦の末に2-3で敗れた[30]
ユーゴスラビア
ユーゴスラビアはグループリーグ初戦の西ドイツ戦において、スイーパーのダヴォル・ヨジッチ英語版とストッパーのファルク・ハジベギッチのポジションを入れ替える奇策に出るも1-4と完敗[48]。第2戦以降、イビチャ・オシム監督の下で態勢を立て直し決勝トーナメントに進出すると、1回戦のスペイン戦ではドラガン・ストイコビッチの技巧もあり延長戦の末に2-1と勝利[48]。準々決勝のアルゼンチン戦では前半31分に退場者を出し数的不利な状況での戦いを余儀なくされたが、ストイコビッチのボールキープとチャンスメイク[49]、個々の選手の柔軟な守備対応により互角の勝負を演じた[48]。試合は延長戦の末に0-0と引分け、PK戦の結果、準決勝進出を逃した[48]
アイルランドとコスタリカ
初出場組ではジャッキー・チャールトン監督に率いられたアイルランドが古典的なロングボール戦法の徹底と[50]、キーパーのパット・ボナーの活躍もあり[51]、1勝も挙げることなく準々決勝進出を果たした[50][1]ボラ・ミルティノビッチ監督に率いられたコスタリカ代表は大会前に「グループ最弱」の評価を受けていたが[52]、キーパーのルイス・ガベロ・コネホ英語版の活躍もあり[52]、グループリーグ初戦でスコットランドを1-0と下す番狂わせを演じ[53]、第3戦ではスウェーデンを2-1と下しグループ2位で決勝トーナメントに進出[1][53]。1回戦のチェコスロバキア戦ではキーパーのコネホを負傷で欠いたことが響き1-4で敗れた[52]
オランダ
オランダはUEFA欧州選手権1988優勝メンバーのルート・フリットマルコ・ファン・バステンフランク・ライカールトロナルド・クーマンらを擁し優勝候補と目された[54]。その一方でフリットは1年間に2度の右膝の手術を行い実戦から遠ざかったため[55]、大会出場を危ぶまれていた[56]。また、監督人事を巡るオランダサッカー協会内の内紛、駆け引きも代表チームの成績に影響を及ぼしていた[56]。大会に入りフリットは復調の兆しを見せたものの[55]、ファン・バステンのコンディションは芳しくなく[55][56]、グループリーグを3戦3引き分け[54]、同じく3分けの成績で総得点と総失点で並んだアイルランドとのグループリーグ2位をかけた抽選にも敗れグループリーグ3位で決勝トーナメント進出。決勝トーナメント1回戦では西ドイツと対戦し好試合を演じたが[55][57][58]、守備の要のライカールトが相手フォワードのフェラーとのトラブルが基で退場した影響もあり1-2で敗れた[54][57][59]
ブラジル
ブラジルは前年のコパ・アメリカにおいてセバスティアン・ラザロニ監督の下、従来の4バックによるラインディフェンスから後方にスイーパーを配する3-5-2フォーメーションへと転換[29]ロマーリオベベットの2トップを擁し優勝をした[60]。その一方で、チームは個々の能力は評価をされたものの、「創造性に欠く」「ヨーロッパ以上にヨーロッパ的なチーム」と評された[61]。大会に入るとロマーリオとベベットに代わり、カレカミューレルの2トップが出場機会を掴み[60]、グループリーグを3連勝で突破すると決勝トーナメント1回戦では前回優勝国のアルゼンチンとの対戦となった[62]。この試合においてブラジルは終始ボールを支配し優勢に試合を進めながら得点をあげることが出来ず、81分にカニーヒアの得点を許し0-1で敗退した[62]。左ウイングバックのブランコ英語版はアルゼンチン首脳陣の奸計に陥り睡眠薬入りペットボトルを手渡されたことに[62]、監督のラザロニは攻撃陣のタレントの欠如に敗因を求めたが[62]、一部のメディアはラザロニの採用した守備的戦術のために攻撃時における中盤のサポートを奪い、前線の選手を孤立させる結果を招いたと指摘した[62]

評価

肯定的評価

カメルーンは開幕戦で前回優勝国のアルゼンチンを下す番狂わせを演じ、アフリカ勢として初めて準々決勝に進出を成し遂げた[30]。カメルーンの快進撃は将来的なアフリカ勢の台頭を想起させるものであり[30]、一部の専門家からは「20世紀のうちにアフリカ勢が優勝するだろう」と評された[30][45]。また、コスタリカについては前回優勝国を下したカメルーンほどのインパクトは残せなかったものの[53]、グループリーグ初戦においてスコットランドを下した試合は驚きをもって迎えられた[53]

この他、決勝トーナメント1回戦の西ドイツオランダ戦は好試合と評されているが[55][57][58]、専門家のブライアン・グランヴィルは「おそらくワールドカップ史上に残る試合であり、後に我々を悩ませることになるあの凡戦よりも遥かに決勝戦に相応しい」と評した[57]

否定的評価

この大会では「大会の肥大化」に伴う競技レベルの低下[63]のみならず多くの問題が浮き彫りとなったことから、英国放送協会は「守備的サッカーが横行したワールドカップ史上最悪の大会[5]」と評している。一方、守備的な風潮を食い止めるための大掛かりなルール改正への分岐点となり、国際サッカー連盟 (FIFA) により対策が講じられることになった[30]

決勝戦初の退場者
決勝戦の西ドイツ対アルゼンチン戦は、主力選手4人を累積警告で欠くアルゼンチンの守備的戦術を西ドイツ攻撃陣が崩しきれず[33][64]。後半に入りアルゼンチンが2人の退場者を出すなど荒れた展開となり[33]、決勝点となったペナルティーキックの判定は微妙なものだった[15][33][65]。この試合について専門家のグランヴィルは「ワールドカップ史上において最も退屈で、荒んだ試合[63]」、専門家の賀川浩は「決勝での最少得点は初めてのことだし、退場処分も前例がない。エンターテインメントとしては華やかさに欠けた[64]」、『ニューヨーク・タイムズ』紙は「酷い勝利、酷い敗戦、全く酷い試合」と評した[66]
得点力の低下
大会の総得点は115、1試合あたりに換算すると平均2.21点。これはワールドカップ史上最低の数字だった[30]。こうした反省から攻撃的サッカーを推奨するため、「ゴールマウスの拡大」「スターティングメンバーの削減」などさまざまな改革案が打ち出されたが[63]1992年ゴールキーパーへバックパスを行うことによる遅延行為を抑止するためのバックパス・ルールを制定した[30]。さらに、オフサイドルールについても1994年に攻撃側に有利に作用する内容へと改訂された[30]。また、勝ち点制度についても積極的に勝利を目指すことを推奨するため勝利した場合には勝ち点3を付与することになった[30]
判定基準を巡る混乱
大会に際してFIFAは悪質なプレーの抑止と攻撃的サッカーの推奨を目的とし「ゴールへ向かって独走する選手を手を使って阻止した場合は即退場」「フリーキックの場面で守備側の選手が10ヤード離れようとしない場合は警告」などの基準を設けた[38]。一方、この基準は競技規則について審議する国際評議会において協議されることなく、ワールドカップの開幕前日にほぼ予告なしに導入されたものだった[46]。そのため審判や選手はこの基準に対応することができず[38]、警告者数は前回大会の133から162、退場者数は前回大会の8から15と倍増する結果となった[38]。また、大会を通じて線審のミスも目立ったことから、それまで一人の審判が主審と線審を兼ねることが慣例だった審判制度を改定し、線審の専門化が執り行われることになった[38]

結果

グループリーグ

グループ A


チーム







1 イタリアの旗 イタリア 6 3 3 0 0 4 0 +4
2 チェコスロバキアの旗 チェコスロバキア 4 3 2 0 1 6 3 +3
3 オーストリアの旗 オーストリア 2 3 1 0 2 2 3 -1
4 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 0 3 0 0 3 2 8 -6







グループ B


チーム







1 カメルーンの旗 カメルーン 4 3 2 0 1 3 5 -2
2 ルーマニアの旗 ルーマニア 3 3 1 1 1 4 3 +1
3 アルゼンチンの旗 アルゼンチン 3 3 1 1 1 3 2 +1
4 ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦 2 3 1 0 2 4 4 0




カメルーン カメルーンの旗 2 - 1 ルーマニアの旗 ルーマニア
ミラ 76分にゴール 76分86分 レポート バリント 88分にゴール 88分



グループ C


チーム







1 ブラジルの旗 ブラジル 6 3 3 0 0 4 1 +3
2 コスタリカの旗 コスタリカ 4 3 2 0 1 3 2 +1
3 スコットランドの旗 スコットランド 2 3 1 0 2 2 3 -1
4 スウェーデンの旗 スウェーデン 0 3 0 0 3 3 6 -3

ブラジル ブラジルの旗 2 - 1 スウェーデンの旗 スウェーデン
カレカ 40分にゴール 40分63分 レポート ブロリン 79分にゴール 79分






グループ D


チーム







1 西ドイツの旗 西ドイツ 5 3 2 1 0 10 3 +7
2 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗 ユーゴスラビア 4 3 2 0 1 6 5 +1
3 コロンビアの旗 コロンビア 3 3 1 1 1 3 2 +1
4 アラブ首長国連邦の旗 アラブ首長国連邦 0 3 0 0 3 2 11 -9







グループ E


チーム







1 スペインの旗 スペイン 5 3 2 1 0 5 2 +3
2 ベルギーの旗 ベルギー 4 3 2 0 1 6 3 +3
3 ウルグアイの旗 ウルグアイ 3 3 1 1 1 2 3 -1
4 大韓民国の旗 韓国 0 3 0 0 3 1 6 -5



スペイン スペインの旗 3 - 1 大韓民国の旗 韓国
ミチェル 22分にゴール 22分61分81分 レポート 皇甫官 42分にゴール 42分




グループ F


チーム







1 イングランドの旗 イングランド 4 3 1 2 0 2 1 +1
2 アイルランドの旗 アイルランド 3 3 0 3 0 2 2 0
3 オランダの旗 オランダ 3 3 0 3 0 2 2 0
4 エジプトの旗 エジプト 2 3 0 2 1 1 2 -1

※くじ引きによりアイルランドがグループ2位、オランダがグループ3位となった。








各組3位チーム

チーム







B アルゼンチンの旗 アルゼンチン 3 3 1 1 1 3 2 +1
D コロンビアの旗 コロンビア 3 3 1 1 1 3 2 +1
F オランダの旗 オランダ 3 3 0 3 0 2 2 0
E ウルグアイの旗 ウルグアイ 3 3 1 1 1 2 3 -1
A オーストリアの旗 オーストリア 2 3 1 0 2 2 3 -1
C スコットランドの旗 スコットランド 2 3 1 0 2 2 3 -1

決勝トーナメント

 
ラウンド16準々決勝準決勝決勝
 
              
 
6月24日 - ミラノ
 
 
西ドイツの旗 西ドイツ2
 
7月1日 - ミラノ
 
オランダの旗 オランダ1
 
西ドイツの旗 西ドイツ1
 
6月23日 - バーリ
 
チェコスロバキアの旗 チェコスロバキア0
 
チェコスロバキアの旗 チェコスロバキア4
 
7月4日 - トリノ
 
コスタリカの旗 コスタリカ1
 
西ドイツの旗 西ドイツ (PK)1 (4)
 
6月26日 - ボローニャ
 
イングランドの旗 イングランド1 (3)
 
イングランドの旗 イングランド (aet)1
 
7月1日 - ナポリ
 
ベルギーの旗 ベルギー0
 
イングランドの旗 イングランド (aet)3
 
6月23日 - ナポリ
 
カメルーンの旗 カメルーン2
 
カメルーンの旗 カメルーン (aet)2
 
7月8日 - ローマ
 
コロンビアの旗 コロンビア1
 
西ドイツの旗 西ドイツ1
 
6月25日 - ローマ
 
アルゼンチンの旗 アルゼンチン0
 
イタリアの旗 イタリア2
 
6月30日 - ローマ
 
ウルグアイの旗 ウルグアイ0
 
イタリアの旗 イタリア1
 
6月25日 - ジェノヴァ
 
アイルランドの旗 アイルランド0
 
アイルランドの旗 アイルランド (PK)0 (5)
 
7月3日 - ナポリ
 
ルーマニアの旗 ルーマニア0 (4)
 
イタリアの旗 イタリア1 (3)
 
6月26日 - ヴェローナ
 
アルゼンチンの旗 アルゼンチン (PK)1 (4) 3位決定戦
 
ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗 ユーゴスラビア (aet)2
 
6月30日 - フィレンツェ7月7日 - バーリ
 
スペインの旗 スペイン1
 
ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗 ユーゴスラビア0 (2)イタリアの旗 イタリア2
 
6月24日 - トリノ
 
アルゼンチンの旗 アルゼンチン (PK)0 (3) イングランドの旗 イングランド1
 
アルゼンチンの旗 アルゼンチン1
 
 
ブラジルの旗 ブラジル0
 

1回戦


カメルーン カメルーンの旗 2 - 1
(延長)
コロンビアの旗 コロンビア
ミラ 106分にゴール 106分109分 レポート レディン 116分にゴール 116分








準々決勝





イングランド イングランドの旗 3 - 2
(延長)
カメルーンの旗 カメルーン
プラット 25分にゴール 25分
リネカー 83分にゴール 83分 (PK)105分 (PK)
レポート クンデ 63分にゴール 63分 (PK)
エケケ 65分にゴール 65分

準決勝




3位決定戦


決勝戦



優勝国

 1990 FIFAワールドカップ優勝国 

西ドイツ
4大会ぶり3回目

得点ランキング

出典[67]
順位 選手名 国籍 得点数
1 サルヴァトーレ・スキラッチ イタリアの旗 イタリア 6
2 トマーシュ・スクラビー チェコスロバキアの旗 チェコスロバキア 5
3 ゲーリー・リネカー イングランドの旗 イングランド 4
ローター・マテウス 西ドイツの旗 西ドイツ
ロジェ・ミラ カメルーンの旗 カメルーン
ミチェル スペインの旗 スペイン
7 アンドレアス・ブレーメ 西ドイツの旗 西ドイツ 3
ユルゲン・クリンスマン 西ドイツの旗 西ドイツ
ルディ・フェラー 西ドイツの旗 西ドイツ
デビッド・プラット イングランドの旗 イングランド

表彰

個人賞

出典[68]
選手名 国籍 備考
ゴールデンボール(大会MVP) サルヴァトーレ・スキラッチ イタリアの旗 イタリア 3位
シルバーボール ローター・マテウス 西ドイツの旗 西ドイツ 優勝
ブロンズボール ディエゴ・マラドーナ アルゼンチンの旗 アルゼンチン 準優勝
ゴールデンシューズ(得点王) サルヴァトーレ・スキラッチ イタリアの旗 イタリア 6得点

最終順位

大会終了後、FIFAはワールド・カップ本大会に出場した全チームの競技結果、勝敗や得失点などの統計に基づく最終順位を発表した[69][70]

# チーム
1  西ドイツ D 7 5 2 0 15 5 +10 12
2  アルゼンチン B 7 2 3 2 5 4 +1 7
3  イタリア A 7 6 1 0 10 2 +8 13
4  イングランド F 7 3 3 1 8 6 +2 9
ベスト8敗退
5  ユーゴスラビア D 5 3 1 1 8 6 +2 7
6  チェコスロバキア A 5 3 0 2 10 5 +5 6
7  カメルーン B 5 3 0 2 7 9 -2 6
8  アイルランド F 5 0 4 1 2 3 -1 4
ベスト16敗退
9  ブラジル C 4 3 0 1 4 2 +2 6
10  スペイン E 4 2 1 1 6 4 +2 5
11  ベルギー E 4 2 0 2 6 4 +2 4
12  ルーマニア B 4 1 2 1 4 3 +1 4
13  コスタリカ C 4 2 0 2 4 6 -2 4
14  コロンビア D 4 1 1 2 4 4 0 3
15  オランダ F 4 0 3 1 3 4 -1 3
16  ウルグアイ E 4 1 1 2 2 5 -3 3
グループリーグ敗退
17  ソビエト連邦 B 3 1 0 2 4 4 0 2
18  オーストリア A 3 1 0 2 2 3 -1 2
 スコットランド C 3 1 0 2 2 3 −1 2
20  エジプト F 3 0 2 1 1 2 -1 2
21  スウェーデン C 3 0 0 3 3 6 -3 0
22  韓国 E 3 0 0 3 1 6 -5 0
23  アメリカ合衆国 A 3 0 0 3 2 8 -6 0
24  アラブ首長国連邦 D 3 0 0 3 2 11 -9 0

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w Overview - Germany hit winning note as Italian chorus fades”. FIFA.com. 2014年11月22日閲覧。
  2. ^ a b c d e Historia de los Mundiales: Italia '90”. MARCA.com. 2014年11月22日閲覧。
  3. ^ L'Alta Definizione a Torino 1986 – 2006 di Marzio Barbero e Natasha Shpuza”. Crit.rai.it. 2014年11月22日閲覧。
  4. ^ FIFA World Cup™ Record – Organisation”. 2014年11月22日閲覧。
  5. ^ a b c d Italy 1990”. BBC SPORT (2012年4月17日). 2014年11月15日閲覧。
  6. ^ Freddi, Cris (2006). Complete Book of the World Cup. HarperSport. ISBN 978-0-00-722916-1 
  7. ^ The FIFA World Cup TV viewing figures” (PDF). FIFA. 2007年11月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年11月22日閲覧。
  8. ^ “Sports in brief”. The Times. 3 August, 1983. p. 17 
  9. ^ “Sports in brief”. The Times. 2 September, 1983. p. 20 
  10. ^ a b “Italy gain vote over Soviet rival”. The Times. 21 May, 1984. p. 21 
  11. ^ “Romania could join the boycott”. The Times. 22 May, 1984. p. 30 
  12. ^ a b c d e f g h 1990 FIFA World Cup Italy ™ Preliminaries”. FIFA.com. 2013年12月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年11月22日閲覧。
  13. ^ a b Mexico given ban in soccer”. The New York Times (1988年7月1日). 2014年11月22日閲覧。
  14. ^ a b c d e グランヴィル 1998、361頁
  15. ^ a b Deutschland erfolgreich bei Neuauflage des vorigen Finales”. Fussballdaten. 2014年11月22日閲覧。
  16. ^ a b c d e f g h i j k l “WM 1990 Sonderheft”. Kicker. May–June, 1990. p. 185 
  17. ^ a b c d e f g h i j k l World Cup '90: The Complete Collection. Orbis. (1990) 
  18. ^ Cinco cosas que no sabes de Comizzo, el DT que sacó campeón a la ‘U’”. El Comercio Peru (2013年12月20日). 2014年11月22日閲覧。
  19. ^ Beasant looks back”. TheFA.com (2013年1月14日). 2014年11月22日閲覧。
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  21. ^ a b c d e f g h i England Is Seeded Sixth In 1990 World Cup in Italy”. New York Times (1989年12月8日). 2014年11月22日閲覧。
  22. ^ Cup Seedings Revealed”. New York Times (1989年11月30日). 2014年11月22日閲覧。
  23. ^ a b c d The FIFA World Cup Final Draw history” (PDF). FIFA.com. 2014年11月22日閲覧。
  24. ^ a b c “The Times guide to the draw for the World Cup finals”. The Times. 9 December, 1989. p. 51 
  25. ^ a b SOCCER; U.S. Must Face Italy In Cup”. New York Times (1989年12月10日). 2014年11月22日閲覧。
  26. ^ グランヴィル 1998、366-367頁
  27. ^ a b c d e 北條聡「'90ワールドカップ優勝国 西ドイツ 退屈な大会を象徴する合理的なチャンピオン」『ワールドカップ伝説 vol.2 90年代編』ベースボール・マガジン社、80-81頁。ISBN 978-4583616490 
  28. ^ a b c d e 牛木素吉郎、平木健一「イタリア'90 ワールドカップの技術と戦術 連載1 西ドイツ」『サッカーマガジン』 1990年10月号、ベースボール・マガジン社、126-129頁。 
  29. ^ a b c 西部謙司「プレスの派生 堅守速攻型サッカーの時代へ」『ワールドカップ伝説 vol.2 90年代編』ベースボール・マガジン社、67-69頁。ISBN 978-4583616490 
  30. ^ a b c d e f g h i j k l m n 大住良之「再生と飛躍 新しい波が招いたグローバルと市場主義」『ワールドカップ伝説 vol.2 90年代編』ベースボール・マガジン社、12-13頁。ISBN 978-4583616490 
  31. ^ グランヴィル 1998、381頁
  32. ^ a b c 賀川浩「90年代のマラドーナ論 精妙なタッチでボールに意思を吹き込んだディエゴ・マラドーナ」『ワールドカップ伝説 vol.2 90年代編』ベースボール・マガジン社、62-65頁。ISBN 978-4583616490 
  33. ^ a b c d グランヴィル 1998、390頁
  34. ^ a b c d グランヴィル 1998、356-357頁 引用エラー: 無効な <ref> タグ; name "グランヴィル358"が異なる内容で複数回定義されています
  35. ^ グランヴィル 1998、375-376頁
  36. ^ グランヴィル 1998、378-379頁
  37. ^ グランヴィル 1998、384頁
  38. ^ a b c d e f 「1990年イタリア大会トピックス」『ワールドカップ伝説 vol.2 90年代編』ベースボール・マガジン社、86頁。ISBN 978-4583616490 
  39. ^ a b グランヴィル 1998、356-357頁
  40. ^ a b 牛木素吉郎、平木健一「イタリア'90 ワールドカップの技術と戦術 連載3 イングランド」『サッカーマガジン』 1990年12月号、ベースボール・マガジン社、142-145頁。 
  41. ^ グランヴィル 1998、379-380頁
  42. ^ グランヴィル 1998、385-386頁
  43. ^ グランヴィル 1998、388-389頁
  44. ^ グランヴィル 1998、369-370頁
  45. ^ a b c 稲垣康介「世界が驚愕し興奮した38歳のスーパーサブ 雄々しきハンター ロジェ・ミラ」『ワールドカップ伝説 vol.2 90年代編』ベースボール・マガジン社、32-33頁。ISBN 978-4583616490 
  46. ^ a b グランヴィル 1998、362-363頁
  47. ^ グランヴィル 1998、373-374頁
  48. ^ a b c d 牛木素吉郎、平木健一「イタリア'90 ワールドカップの技術と戦術 連載9 ユーゴスラビア」『サッカーマガジン』 1991年6月号、ベースボール・マガジン社、134-137頁。 
  49. ^ 花の都フィレンツェでの過酷な延長とPK戦”. 賀川サッカーライブラリー. 2014年11月22日閲覧。
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  51. ^ Jonathan Stevenson (2010年5月26日). “The story of the 1990 World Cup”. BBC - : The story of the 1990 World Cup. 2014年11月22日閲覧。
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  54. ^ a b c 国吉好弘「1990年イタリア大会名勝負 西ドイツ「ミラノダービー」宿敵を下す」『ワールドカップ伝説 vol.2 90年代編』ベースボール・マガジン社、82-83頁。ISBN 978-4583616490 
  55. ^ a b c d e 牛木素吉郎、平木健一「イタリア'90 ワールドカップの技術と戦術 連載11 オランダ」『サッカーマガジン』 1991年8月号、ベースボール・マガジン社、126-129頁。 
  56. ^ a b c グランヴィル 1998、354-355頁 引用エラー: 無効な <ref> タグ; name "グランヴィル354-355"が異なる内容で複数回定義されています
  57. ^ a b c d グランヴィル 1998、382-383頁
  58. ^ a b 後藤健生「美しさで魅了したオレンジ軍団の実力に迫る なぜオランダは敗れたのか…」『ワールドカップ伝説 vol.2 90年代編』ベースボール・マガジン社、54-55頁。ISBN 978-4583616490 
  59. ^ 欧州の巨人激突クリンスマンとフリットの明暗”. 賀川サッカーライブラリー. 2014年11月22日閲覧。
  60. ^ a b 国吉好弘「ストライカーに必要なすべての能力を備えた男の"至福"と"ジレンマ" W杯に愛され、そして嫌われた男」『ワールドカップ伝説 vol.2 90年代編』ベースボール・マガジン社、24-27頁。ISBN 978-4583616490 
  61. ^ グランヴィル 1998、360-361頁
  62. ^ a b c d e グランヴィル 1998、380-381頁
  63. ^ a b c グランヴィル 1998、353頁
  64. ^ a b 格別の素晴らしさ感じたイタリア90次の旅立ちは…”. 賀川サッカーライブラリー. 2014年11月22日閲覧。
  65. ^ 武智幸徳「フランツ・ベッケンバウアー カリスマチックな統率力でゲームを支配し勝利に導く」『ワールドカップ伝説 vol.2 90年代編』ベースボール・マガジン社、56-57頁。ISBN 978-4583616490 
  66. ^ SPORTS OF THE TIMES; Winning Ugly, Losing Ugly, Just Plain”. New York Times (1990年7月9日). 2014年11月22日閲覧。
  67. ^ 1990 FIFA World Cup™ Italy - Statistics - Players - Top goals”. FIFA.com. 2014年11月15日閲覧。
  68. ^ a b 1990 FIFA World Cup™ Italy - Awards”. FIFA.com. 2014年11月15日閲覧。
  69. ^ All-time FIFA World Cup Ranking 1930–2010” (PDF). FIFA.com. 2014年11月22日閲覧。
  70. ^ FIFA World Cup: Milestones, facts & figures. Statistical Kit 7”. FIFA.com. 2013年5月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年11月22日閲覧。

参考文献

  • ブライアン・グランヴィル著、賀川浩監修、田村修一、土屋晃、田邊雅之訳『決定版ワールドカップ全史』草思社、1998年。ISBN 978-4794208187 

関連項目

外部リンク