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「タニノチカラ」の版間の差分

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'''タニノチカラ'''([[1969年]][[4月14日]] - [[1980年]][[4月10日]])は、日本の[[競走馬]]、[[種牡馬]]。
'''タニノチカラ'''とは[[天皇賞|天皇賞(秋)]]、[[有馬記念]]を制した[[日本]]の[[競走馬]]である。[[1973年]]・[[1974年]]の[[JRA賞最優秀4歳以上牡馬|優駿賞最優秀5歳以上牡馬]]。[[競走馬の血統#競走馬の血縁関係|半兄]]に[[皐月賞]]、[[東京優駿|東京優駿(日本ダービー)]]を制した[[二冠馬]][[タニノムーティエ]]を持つ。


[[競走馬の血統#競走馬の血縁関係|半兄]](異父兄)に1970年の[[皐月賞]]、[[東京優駿|東京優駿(日本ダービー)]]を制した[[タニノムーティエ]]を持ち、1971年に[[中央競馬]]でデビュー。二度の骨折を経て1973年より頭角を現し、同年の[[天皇賞(秋)]]に優勝。翌1974年には[[有馬記念]]を制し、前年から2年連続で[[JRA賞最優秀4歳以上牡馬|優駿賞最優秀5歳以上牡馬]]に選出された。1975年春の[[マイラーズカップ]]競走後に故障が判明し引退。通算24戦13勝。1973年以降の主戦騎手は[[田島日出雄]]。競走馬引退後は種牡馬となったが、供用5年目の1980年春に動脈瘤破裂のため死亡した。
「最強世代」と称される[[1972年]][[中央競馬クラシック三冠|クラシック]]組である[[ランドプリンス]](皐月賞)・[[ロングエース]](日本ダービー)・[[イシノヒカル]]([[菊花賞]]、有馬記念)・[[タイテエム]](天皇賞〈春〉)・[[ハクホオショウ]]([[安田記念]])・[[ハマノパレード]]([[宝塚記念]])・[[ストロングエイト]](有馬記念)・[[ナオキ]](宝塚記念)と同世代。[[主戦騎手]]は[[田島日出雄]]([[田島裕和]]の父)。オープン戦では当時新人だった[[安田隆行]]や[[河内洋]]が騎乗している。


なお当項目内での[[馬齢]]は旧表記をる。
''以下、[[馬齢]]は日本で2000年以前に使された[[数え年]]で記述する。''


== 戦績 ==
== 経歴 ==
=== 3歳 ===
=== 生い立ち ===
1969年、北海道静内町の[[カントリー牧場]]に生まれる。父ブランブルーはフランスからの輸入馬で競走馬時代は[[ショードネイ賞|プランタン大賞]]に優勝。母タニノチエリは不出走だったが、この翌年に本馬の半兄(異父兄)タニノムーティエがクラシック二冠を制し、デビュー前から大きな注目を集める存在となった<ref name="meiba377-378">『日本の名馬・名勝負物語』pp.377-378</ref>。
兄タニノムーティエ同様[[安田伊佐夫]]を鞍上に9月の[[阪神競馬場|阪神競馬]]でデビューした。デビュー戦は3着に敗れたが2戦目を5[[着差 (競馬)|馬身差]]で勝ち上がった。しかし10月末のデビュー4戦目、野菊賞で2着と敗れた際に左管骨を骨折、春のクラシック断念を余儀なくされた。さらに復帰に向けてのトレーニング中に左前手根骨を骨折、命をも危ぶまれたが治療により一命を取り留め、何とか競走馬としても復帰できることになったが、結局治療のため1年7か月にもおよぶ休養生活を余儀なくされることとなった。この休養時代に[[谷水信夫]]が交通事故死したため、息子である[[谷水雄三]]がタニノ軍団の後継者となっている。


=== 5歳 ===
=== 戦績 ===
==== 3歳時(1971年) ====
5歳になった[[1973年]]、夏の[[札幌競馬場|札幌競馬]]で復帰し[[日本の競馬の競走体系#中央競馬|条件戦]]を3連勝、それぞれ4、5、4馬身差で勝利した。復帰4戦目のオホーツクハンデキャップでは4着と敗れるが、条件馬ながら[[重賞]]の[[朝日チャレンジカップ]]に出走した。重賞初出走、格上挑戦となったが2馬身2分の1差で勝利した。[[京都大賞典|ハリウッドターフクラブ賞]]<ref>現・[[京都大賞典]]。</ref>でも[[メジロムサシ]]以下に勝利し、重賞2連勝となった。[[目黒記念|目黒記念(秋)]]では、第3コーナーから急激な[[脚質#まくり|まくり]]を行い、直線で[[ベルワイド]]とストロングエイトにはさまれ後退するという強引な騎乗がたたりベルワイドの3着に敗れたものの、その後の秋の天皇賞では、故障を発症した[[投票券 (公営競技)#単勝式|単勝]]1番[[人気]]の[[ハクホオショウ]]の競走中止を尻目に、[[ミリオンパラ]]らを振り切り[[脚質#逃げ|逃げ]]切り、天皇賞を勝利した。
1971年9月、[[阪神競馬場|阪神開催]]でデビュー。兄の手綱を執った[[安田伊佐夫]]が騎手を務め、初戦は3着だったが、2戦目で2着に5馬身差をつけての初勝利を挙げる。その後、翌年の[[中央競馬クラシック三冠|クラシック競走]]への出走権を確実に得ておこうと、間隔を詰めたローテーションで出走していたが、4戦目・野菊賞(2着)の競走中に骨折し、休養を余儀なくされた<ref name="meiba377-378" />。なお、それから間もない11月8日には馬主の[[谷水信夫]]が交通事故で急逝し、所有権は息子の[[谷水雄三]]に引き継がれた。


この年末に関東で馬インフルエンザが発生、翌年1、2月の東京、中山開催が中止となったことで春のクラシックは順延される。タニノチカラは7月にずれこんだ[[東京優駿|東京優駿(日本ダービー)]]を大目標に調教を再開していたが、その最中に左前種根骨を骨折<ref name="meiba377-378" />。獣医師からは[[予後不良 (競馬)|予後不良]]が宣告されたが、カントリー牧場長の西山清一が谷水に治療を訴え、これが容れられてタニノチカラは牧場で療養生活に入った<ref name="101tou">『サラブレッド101頭の死に方』pp.261-264</ref>。なお、三冠初戦の[[皐月賞]]は野菊賞で先着していた[[ランドプリンス]]が制し、担当[[厩務員]]の近藤昭は「くやしさで夜も眠れなかった」と述懐している<ref name="meiba377-378" />。
そして年末の有馬記念では[[ハイセイコー]]との初対決となった。2番人気に支持されたタニノチカラは、あまりにもハイセイコーを意識しすぎて、[[桜花賞]]優勝馬[[ニットウチドリ]]とそれを追うストロングエイトを楽に逃がしてしまい、先の秋の天皇賞では負かしたストロングエイトの前に4着と敗れ、ハイセイコーにも先着を許した。さらに、鞍上・田島日出雄はハイセイコー騎乗の[[増沢末夫]]とともに[[採決委員会]]に呼び出されることとなった。


=== 6歳 ===
==== 5時(1973年) ====
牧場スタッフによる献身的な看護が奏功し、1973年3月頃からは運動を再開<ref name="101tou" />。そして野菊賞から約1年8カ月が経った同年7月、[[札幌競馬場|札幌開催]]で復帰した。それまで騎乗していた安田伊佐夫が[[小倉競馬場|小倉開催]]へ回っていたため、新たな騎手に[[田島日出雄]]を迎えた<ref name="dokuhon">『競馬感涙読本』pp.102-104</ref>。3歳時には兄ムーティエと同様の追い込み戦法をとっていたが、「10頭乗ったら8頭は[[脚質#逃げ|逃げる]]<ref>『競馬感涙読本』p.100</ref>」田島が騎乗を始めてからは先行策をとるようになり<ref name="meiba377-378" />、復帰から3連勝を遂げる。4戦目のオホーツクハンデキャップは4着となったが、ゴール前では鋭い伸び脚を見せた<ref name="fujino">藤野(1992)pp.142-145</ref>。秋に入っての初戦には、54キログラムという恵まれた[[負担重量]]もあり、格上挑戦で重賞・[[朝日チャレンジカップ]]へ出走。2番手追走から最終コーナーで先頭に立ち、2着に2馬身半差をつけて重賞初勝利を挙げた<ref name="meiba379-382">『日本の名馬・名勝負物語』pp.379-382</ref>。続く[[京都大賞典|ハリウッドターフクラブ賞]]では、[[ヤマニンウエーブ]]、[[メジロムサシ]]という2頭の天皇賞優勝馬を抑えて1番人気に支持されると、肩に軽くムチを入れられたのみでメジロムサシに2馬身半差をつけ、重賞2連勝を遂げた<ref name="meiba379-382" />。天皇賞(秋)への前哨戦として臨んだ[[目黒記念|目黒記念(秋)]]ではスタートでの出遅れもあって3着となったが、評価を落とすことはなかった<ref name="meiba379-382" />。
[[1974年]]、6歳になったタニノチカラは緒戦のオープン戦を1着と勝利したあと連続して僅差の2着となかなか勝利できなかった。[[大阪杯]]でも2着となったが、ふたたび故障が判明し半年間の休養に入った。秋に復帰したタニノチカラはサファイヤステークスを3着とし、京都大賞典ではハイセイコーとの再戦だったが、2着[[ホウシュウエイト]]に4馬身差をつけて勝利、ハイセイコーは4着に敗れた。その後のオープンでも勝利し、有馬記念に出走することとなった。


11月25日の天皇賞(秋)では、当年春から三重賞を制していた関東の[[ハクホオショウ]]とタニノチカラの対決とみられた<ref name="meiba379-382" />。当日はハクホオショウ1番人気、タニノチカラ2番人気であったが、ハクホオショウはスタート直後に故障で競走を中止。タニノチカラは残り1000メートルの地点から先頭に立つと、そのままゴールまで押し切っての優勝を果たした<ref name="dokuhon" />。これは田島にとっても初めての[[八大競走]]制覇であった。前走の敗戦もあり、「負けたら降板」を覚悟していた田島は、2着[[ミリオンパラ]]騎乗の戌亥信昭に「お前の馬に負けとったら俺、帰りの新幹線で飛び降りて死ななきゃならんかった」と話し掛けたという<ref name="dokuhon" />。
このレースには、ともに引退レースになるハイセイコー、[[タケホープ]](日本ダービー、菊花賞、天皇賞〈春〉)の対決に注目が集まった。また出走馬はほかにもベルワイドや前年の優勝馬ストロングエイトも出走していた。レースが始まると逃げたタニノチカラは、最後まで影を踏ませず2着のハイセイコーに5馬身差をつけて優勝した。タケホープはクビ差の3着に終わり、このレースを最後にこの2頭は現役を退いている。


年末にはグランプリ競走・[[有馬記念]]にファン投票第7位で出走。当日は、当時空前の競馬ブームを牽引していた4歳馬・[[ハイセイコー]]に次ぐ2番人気に推された。レースはスローペースで推移するなか、田島タニノチカラは後方でハイセイコーをマークしながら進んだが、ハイセイコーが仕掛けないため動くことができず、結果として先行した[[ストロングエイト]]と[[ニットウチドリ]]、さらにハイセイコーも交わせずの4着に終わった<ref name="meiba379-382" />。競走後、消極的に過ぎる騎乗だったとして田島は激しい非難の声に晒されたが<ref name="meiba379-382" />、田島によればハイセイコーをマークする作戦は調教師の[[島崎宏]]の指示であったため、島崎からは何らの叱言もなかった<ref name="doku96-97">『競馬感涙読本』p.98</ref>。
=== 7歳 ===
翌[[1975年]]、7歳になったタニノチカラは現役を続行した。[[京都記念]]では63[[キログラム]]という酷な[[負担重量]]を背負ったが、スタートから逃げて2着に2秒以上の差をつける大差勝ちで勝利した。その後のオープンでも勝ち、これで京都大賞典以来5連勝となった。そして迎えた[[マイラーズカップ]]は、前年の二冠馬[[キタノカチドキ]]、[[高松宮記念_(競馬)|高松宮杯]]優勝馬[[イットー]]を加え三強対決となった。中団からレースを進めたタニノチカラは直線で鋭い末脚を発揮するが、キタノカチドキとイットーに届かず3着に敗れた。レース後、[[屈腱炎]]が判明したためそのまま引退し、[[種牡馬]]となった。


最後は敗れたものの、タニノチカラは当年、最優秀5歳以上牡馬に選出された。また、父・信夫が死去してから競馬事業の撤収も考えていた谷水雄三は、その活躍に触発されて父同様に競馬へのめりこんでいくことになる<ref>河村(2009)pp.52-54</ref>。
== 引退後 ==
兄タニノムーティエと比べ大柄な馬体だったこともあり、タニノチカラはかなりの期待を受け故郷・[[カントリー牧場]]での種牡馬生活を開始した。しかし種牡馬供用5年目の[[種付け]]中に大動脈破裂により死亡し、種牡馬としては成功を収めることができなかった。


=== おもな産駒 ===
==== 6歳時(1974年) ====
翌1974年は、1月からオープン競走2戦(いずれも[[安田隆行]]騎乗)を1、2着としたのち、騎手を田島に戻して[[京都記念|京都記念(春)]]に出走。降雪による重馬場に、61キログラムという負担重量がかさなりながらも1番人気に支持されたが、52キログラムと軽量の[[スカイリーダ]]にゴール直前でハナ差かわされ、2着と敗れた。スカイリーダ騎乗の[[高橋成忠]]は、勝因として9キログラムの負担重量差を挙げている<ref name="meiba379-382" />。続く大阪杯でも2着となり、休養に入る<ref>『競馬感涙読本』p.105</ref>。
*アサヒシヨウリ([[1983年]][[赤レンガ記念|日本中央競馬会理事長賞]])
*シバリッキー([[1984年]][[阪神障害ステークス]]〈秋〉)
*エントリーホープ([[1982年]][[中日新聞杯]]2着)
*アミーカマラード([[ササノコバン]]の母)
*ヒラタカエイコー(新馬戦で[[ミスターシービー]]の2着、叔父に[[ヒシスピード]])
*オリエントゴールド([[ステートジャガー]]の半姉、[[ニシケンモノノフ]]の曾祖母)


9月にサファイヤステークスで復帰。スタートで出遅れて3着となったが、以後[[京都大賞典]]、オープン競走([[河内洋]]騎乗)と連勝。12月15日には有馬記念にファン投票4位で出走した。1、2位は、互いのライバル関係が知られたハイセイコーと[[タケホープ]]で、両馬ともこれが引退レースであった。一方のタニノチカラは「120パーセントの出来」(近藤<ref name="meiba383-385">『日本の名馬・名勝負物語』pp.383-385</ref>)という好調で、表彰式に備えた島崎が日ごろ嫌うネクタイを締めて現れたほどだったが<ref name="meiba383-385" />、当日はタケホープに次ぐ2番人気だった。スタートが切られるとタニノチカラが他の逃げ馬を制して先頭を奪い、中盤の向正面ではハイセイコー2番手、タケホープが3番手と続いた。最後の直線に入るとタニノチカラは両馬を一気に突き放し、ハイセイコーに5馬身差をつけて前年の雪辱を果たした<ref name="meiba383-385" />。前年とは異なり田島は島崎から何の指示も受けておらず、「今度こそ本当の勝負やから、また負けたらそれこそけったくそが悪い。だからスタートすると思いっきり行っちゃった。もう、クビになってもいいやという気分やったね」と振り返っている<ref name="doku96-97" />。
== 総評 ==
骨折により長期休養の間、同年齢で「関西三強」とも呼ばれ、[[1972年]]の春クラシックを席巻した[[ランドプリンス]]・[[ロングエース]]・[[タイテエム]]や同年の[[菊花賞]]と[[有馬記念]]を勝った[[イシノヒカル]]などは、タニノチカラが復帰した5歳夏には不振または故障による引退を余儀なくされていた。同年齢のライバルが不在となり、むしろ古馬の筆頭格として同じく出世が遅れていた[[ストロングエイト]]らと共に、一歳下の世代の[[ハイセイコー]]や[[タケホープ]]などと熱戦を繰り返した。


==== 7歳時(1975年) ====
種牡馬としては早世により不発に終わったタニノチカラであるが、首と頭を背中の位置より低く下げた独特のフォームで25戦13勝2着5回3着4回の戦績を残し、その競走生活で掲示板<ref>5着以上は競馬場内の着順掲示板に馬番が表示される。</ref>に載らなかったことは一度もない安定した成績を残している。[[脚質|逃げ・先行]]を主戦法とし、天皇賞(秋)・有馬記念ではどちらも逃げ切り勝ちを収めている。1番人気で走ること19回、生涯において3番人気以下で出走したことは一度もなく、7歳まで活躍した[[1970年代]]の[[中央競馬]]を代表する競走馬の1頭である。
2年連続の最優秀5歳以上馬に選出されたタニノチカラは、有馬記念連覇を目標に、翌1975年も現役を続行<ref name="meiba383-385" />。緒戦の京都記念では、前年以上の63キログラムという斤量を負いながら、2着クラウンパレードに大差(10馬身以上)、タイム差にして1.7秒差をつけて圧勝した<ref name="meiba383-385" />。競走後には相手陣営から「[[リヤカー]]でも引かせて勝負をしないとレースにならない」という声も聞かれた<ref name="101tou" />。なお、テレビ中継で実況アナウンスを担当した[[杉本清]]は、後年[[日本中央競馬会]]の広報誌『[[優駿]]』が企画した「史上最強馬」を決めるアンケートで、この競走を根拠にタニノチカラへ投票している<ref>『優駿増刊号TURF』p.43</ref>。杉本の実況は次のようなものだった<ref name="sugimoto">杉本(1995)pp.148-149</ref>。
{{Quotation|うわあ~、強い強いタニノチカラ強い、タニノチカラ強い、差は開いた。そして2着は2着は2着は、クラウンパレード!4番のタニノチカラ、文句なし。相手になりません!}}
続くオープン競走では、前年秋のオープン競走勝利時に「記念写真を撮り忘れた」という理由で、初騎乗時に新人、このときは2年目の河内洋が再び起用され<ref name="kawachi">河内(2003)pp.35-36</ref><ref group="注">当時、実績馬がオープン競走に出走するときには、重くなる斤量を軽減するため、年数に応じて1~3キログラムの斤量軽減特典をもつ新人~若手騎手を起用することがままあった。</ref>、強豪牝馬として知られた[[イットー]]を半馬身退けて前年からの5連勝を遂げた。のちに河内は[[調教師・騎手顕彰者|顕彰者]]にも選出される名騎手となったが、タニノチカラは彼に凡馬と一流馬の乗り心地の差を知らしめた馬となり、河内はこのときの記念写真を「宝物」として残している<ref name="kawachi" />。


次走には[[マイラーズカップ]]を予定していたが、このころタニノチカラは骨折した古傷の周囲に炎症の兆候が出ており、出否は微妙な状況であった。しかしこの競走には、前年のクラシック二冠馬で有馬記念には不出走だった[[キタノカチドキ]]、前走でタニノチカラ相手に善戦したイットーが顔を揃えたことで、ファンからもタニノチカラの出走を望む声が寄せられ、これに応える形で出走が決まった<ref name="meiba383-385" />。斤量はタニノチカラ61kg、キタノカチドキ60kg、イットー52kgで、当日はタニノチカラが1番人気、続いてイットー、キタノカチドキと続いた。タニノチカラはレースで出遅れ気味にスタートすると<ref name="meiba383-385" />、道中は両馬を直前に見ながら進んだが、最後の直線で追い込みきれず、キタノカチドキから1馬身4分の1、イットーとはハナ差の3着と敗れた<ref>『日本の名馬・名勝負物語』p.408</ref>。
==エピソード==
*[[杉本清]]は、[[関西テレビ放送|関西テレビ]]で[[1992年]]に放送された『[[名馬物語]]』においてタニノチカラが取り上げられた際、自分が見た馬のなかではもっとも強かったと評している。また、1975年にデビューした[[テンポイント]]が[[阪神ジュベナイルフィリーズ|阪神3歳ステークス]]を勝ったときに「これが関西の期待!テンポイントだ!」という言葉を発したのは、この年に引退を余儀なくされたタニノチカラを強く意識してのものだった。
*1973年の有馬記念終了後、鞍上の田島日出雄は、第4コーナーでハイセイコーを交わし、直線で先頭に立つ競走をしていれば絶対に勝てたと悔しがった。翌年は京都大賞典、有馬記念ともいずれもハイセイコーよりも前で競馬を進めたが、ハイセイコーに「来るなら来い!」という気持ちで臨めば絶対に勝てるという自信を持っていた。
*1973年に秋の天皇賞の実況を担当した[[フジテレビジョン|フジテレビ]]の[[盛山毅]]は、最後の直線半ばを過ぎたあたりでなぜかタニノチカラと言わずに、「トーヨーチカラ先頭!トーヨーチカラ勝ちました!」と間違えて実況してしまった。ちなみに同レースには「トーヨーアサヒ」(7着)は出走していたが、トーヨーチカラは出走していない。トーヨーチカラという馬は実在した<ref>1973年の[[京都新聞杯]]で[[ハイセイコー]]を2着に下し優勝している。</ref>が、1973年当時は4歳馬であり、当時の規定では天皇賞には出走できなかった。
*7歳時に勝った京都記念において、関西テレビのモニターアングルは直線に入って2着争いばかり映し出していたことや、あまりにも差が開きすぎたこともあり、タニノチカラが1着でゴール板を駆け抜けたシーンはモニターアングルをめいっぱい拡大しても映し出せなかった。
* [[谷水雄三]]は父の跡を継いだはいいが競馬に関しては継続すべきか迷っていた。しかしタニノチカラの活躍で競馬事業の継続を決意する。拡大戦略がアダとなり一時不振を極めるが、[[タニノギムレット]]で2代続けてダービー馬のオーナーになり、[[ウオッカ]]で親子2代続けてダービー2勝オーナーになり、[[ビッグウィーク]]で菊花賞を制覇した。


競走後、タニノチカラは繋靱帯炎を発症。休養に入るも復帰できず、そのまま引退した<ref name="meiba383-385" />。田島は後年マイラーズカップについて「まともにやったらあの2頭に負けるはずはなかった」と語った<ref name="dokuhon" />。
== 勝鞍 ==

* 有馬記念
=== 種牡馬時代 ===
* 天皇賞(秋)
競走馬引退後は引退後は[[シンジケート]]を組まれ、故郷・カントリー牧場で種牡馬となった。タニノムーティエも種牡馬となっていたが、より大柄な馬体を持つタニノチカラには兄以上の期待が掛けられていた<ref name="101tou" />。しかし供用5年目の1980年4月10日、種付け中に突然仰向けに倒れ、そのまま死亡した<ref name="101tou" />。死因は大動脈破裂であった<ref name="101tou" />。12歳没。中央競馬では1984年の[[阪神障害ステークス|阪神障害ステークス(春)]]を勝ったシバリッキーが唯一の重賞勝利産駒である。ほか地方競馬で複数の重賞勝利馬が出ている。
* 京都大賞典2回

* 京都記念
なお、馬主の谷水雄三はタニノチカラに続く新たな活躍馬を求めて、カントリー牧場に続々と馬を増やしていった。しかしこれが牧場の地質低下を招き、また種牡馬として重用したタニノムーティエの失敗もあり、牧場は低迷に向かっていった<ref>河村(2009)pp.56-60</ref>。タニノチカラ以降、2002年に[[タニノギムレット]]が日本ダービーに優勝するまでの28年間、カントリー牧場から八大競走・GI競走に勝つ馬は現れなかった。
* 朝日チャレンジカップ

== 競走馬としての特徴・評価 ==
首を低く下げた走行フォームが特徴で、「鼻面が地面にとどきそうなほど<ref name="meiba377-378" />」、「首がひざにぶつかりそうな走り<ref name="yushun0344">『優駿』2000年3月号、p.44</ref>」だったと評される。谷水雄三によれば、一時は兄・タニノムーティエのように追い込みを教えようとしたが、そのフォームのせいで不向きだったという<ref name="turf91">『優駿増刊号TURF』p.11</ref>。強力な先行馬として知られるようになったが、厩務員の近藤昭は「本来はデビュー当時のような差し馬だったかも知れない。もし、古馬になって、差し脚を武器とする戦法をとっておれば、兄貴と同じように、34-35秒の決め手<ref group="注">[[上がり (競馬)|上がり]]3[[ハロン (単位)|ハロン]](最後の600メートル)のタイムのこと。タニノムーティエの当時では36秒台で優秀なタイムといわれた。</ref>を発揮したと思う」と述べている<ref name="meiba379-382" />。

八大競走2勝という成績ながら史上最強馬として捉える者もあり、1991年に『優駿』が競馬関係者や著名人を対象に行ったアンケートでは、「最強馬部門」で[[シンボリルドルフ]]、[[シンザン]]、[[タケシバオー]]に次ぐ4位となった。また1983年に同誌が読者を対象に行った同様のアンケートでは13位になっている<ref>『優駿』1983年9月号、p.131</ref>。前述の杉本清がタニノチカラに投票したアンケートは前者のものだが、有馬記念(優勝時)を実況した[[小林皓正]]も「21世紀に伝えたい!私のこの1頭」というアンケートでタニノチカラを挙げた<ref name="yushun0344" />。「脚が強ければシンボリルドルフに匹敵するほど強かったのではないか」という評もあったが<ref name="sugimoto" />、調教師の島崎は「いつも状態は万全といえなかった。ルドルフは別格にしても、本当は実績以上に強い馬だったと思いますよ」と評している<ref name="turf91" />。

日本中央競馬会が2000年に行ったファン投票による20世紀の名馬選定企画「[[Dream Horses 2000|20世紀の名馬大投票]]」では80位に選ばれた<ref>『優駿』2000年10月号、p.120</ref>。また『優駿』選出による「20世紀のベストホース100」にも名を連ねている<ref>『優駿』2000年11月号、p.19</ref>。

== 競走成績 ==
{| style="font-size: 100%; text-align: center; border-collapse: collapse;"
|-
!colspan="3"|年月日!!開催場!!競走名!!頭数!!人気!!着順!!距離([[馬場状態|状態]])!!タイム!!着差!![[騎手]]!![[負担重量|斤量]]!!馬体重!!勝ち馬/(2着馬)
|-
| 1971
| 9.
| 19
| [[阪神競馬場|阪神]]
| 新馬
| 11
| 1
| 3着
| 芝1200[[メートル|m]](重)
| 1:16.1
| 0.4秒
| [[安田伊佐夫]]
| 52
| 476
| シューエイ
|-
|
| 10.
| 9
| 阪神
| 新馬
| 15
| 1
| {{color|darkred|1着}}
| 芝1200m(良)
| 1:14.2
| 5馬身
| 安田伊佐夫
| 52
| 470
| (アルセーヌ)
|-
|
| 10.
| 16
| [[京都競馬場|京都]]
| りんどう特別
| 21
| 2
| 2着
| 芝1400m(稍)
| 1:25.7
| 0.1秒
| 安田伊佐夫
| 52
| 470
| アヤヒリュウ
|-
|
| 10.
| 31
| 京都
| 野菊賞
| 21
| 1
| 2着
| 芝1400m(不)
| 1:29.1
| 0.0秒
| 安田伊佐夫
| 52
| 464
| マルブツフラワー
|-
| 1973
| 7.
| 7
| [[札幌競馬場|札幌]]
| 200万下
| 7
| 1
| {{color|darkred|1着}}
| [[ダート|ダ]]1800m(良)
| 1:53.9
| 4馬身
| [[田島日出雄]]
| 55
| 486
| (ヤマモンド)
|-
|
| 7.
| 22
| 札幌
| 積丹特別
| 7
| 1
| {{color|darkred|1着}}
| ダ1800m(良)
| 1:52.8
| 5馬身
| 田島日出雄
| 57
| 486
| (サザーランド)
|-
|
| 8.
| 4
| 札幌
| 利尻特別
| 8
| 1
| {{color|darkred|1着}}
| ダ1800m(重)
| 1:51.9
| 4馬身
| 田島日出雄
| 56
| 476
| (カネキプリンス)
|-
|
| 8.
| 19
| 札幌
| オホーツクハンデキャップ
| 10
| 1
| 4着
| ダ1800m(不)
| 1:52.1
| 0.5秒
| 田島日出雄
| 58
| 478
| シャダイカール
|-
|
| 9.
| 28
| 阪神
| [[朝日チャレンジカップ]]
| 15
| 2
| {{color|darkred|1着}}
| 芝2000m(重)
| 2:06.6
| 2 1/2馬身
| 田島日出雄
| 54
| 480
| (シャダイオー)
|-
|
| 10.
| 14
| 京都
| [[京都大賞典|ハリウッドターフクラブ賞]]
| 7
| 1
| {{color|darkred|1着}}
| 芝2400m(稍)
| 2:31.8
| 2 1/2馬身
| 田島日出雄
| 55
| 488
| ([[メジロムサシ]])
|-
|
| 11.
| 4
| [[東京競馬場|東京]]
| [[目黒記念|目黒記念(秋)]]
| 13
| 1
| 3着
| 芝2500m(良)
| 2:33.4
| 0.5秒
| 田島日出雄
| 57
| 490
| [[ベルワイド]]
|-
|
| 11.
| 25
| 東京
| '''[[天皇賞#天皇賞(秋)|天皇賞(秋)]]'''
| 8
| 2
| {{color|darkred|1着}}
| 芝3200m(良)
| 3:22.7
| 2馬身
| 田島日出雄
| 58
| 500
| ([[ミリオンパラ]])
|-
|
| 12.
| 16
| [[中山競馬場|中山]]
| '''[[有馬記念]]'''
| 11
| 2
| 4着
| 芝2500m(良)
| 2:36.7
| 0.3秒
| 田島日出雄
| 56
| 498
| [[ストロングエイト]]
|-
| 1974
| 1.
| 13
| 京都
| オープン
| 9
| 1
| {{color|darkred|1着}}
| 芝1600m(良)
| 1:36.4
| 3/4馬身
| [[安田隆行]]
| 58
| 494
| (ケイスパーコ)
|-
|
| 1.
| 27
| 京都
| オープン
| 9
| 1
| 2着
| 芝1600m(良)
| 1:36.6
| 0.1秒
| 安田隆行
| 58
| 494
| マチカネハチロー
|-
|
| 2.
| 11
| 京都
| [[京都記念|京都記念(春)]]
| 10
| 1
| 2着
| 芝2400m(重)
| 2:30.9
| 0.0秒
| 田島日出雄
| 61
| 492
| [[スカイリーダ]]
|-
|
| 3.
| 10
| 阪神
| [[大阪杯]]
| 5
| 1
| 2着
| 芝2000m(不)
| 2:08.2
| 0.4秒
| 田島日出雄
| 59
| 488
| キヨノサカエ
|-
|
| 9.
| 8
| 阪神
| サファイヤステークス
| 9
| 1
| 3着
| 芝1600m(稍)
| 1:35.6
| 0.8秒
| 田島日出雄
| 58
| 490
| タニノダーバン
|-
|
| 10.
| 19
| 京都
| [[京都大賞典]]
| 11
| 3
| {{color|darkred|1着}}
| 芝2400m(良)
| 2:29.6
| 4馬身
| 田島日出雄
| 57
| 490
| (ホウシュウエイト)
|-
|
| 11.
| 9
| 京都
| オープン
| 9
| 1
| {{color|darkred|1着}}
| 芝1600m(良)
| 1:36.6
| 1 1/2馬身
| [[河内洋]]
| 58
| 492
| ([[ロングワン]])
|-
|
| 12.
| 15
| 中山
| '''有馬記念'''
| 9
| 2
| {{color|darkred|1着}}
| 芝2500m(稍)
| 2:35.9
| 5馬身
| 田島日出雄
| 55
| 498
| ([[ハイセイコー]])
|-
| 1975
| 2.
| 9
| 京都
| 京都記念(春)
| 6
| 1
| {{color|darkred|1着}}
| 芝2400m(稍)
| 2:30.0
| 大差
| 田島日出雄
| 63
| 500
| (クラウンパレード)
|-
|
| 3.
| 15
| 阪神
| オープン
| 6
| 1
| {{color|darkred|1着}}
| 芝1600m(良)
| 1:34.9
| 1/2馬身
| 河内洋
| 61
| 490
| ([[イットー]])
|-
|
| 4.
| 13
| 阪神
| [[マイラーズカップ]]
| 9
| 1
| 3着
| 芝1600m(不)
| 1:36.3
| 0.2秒
| 田島日出雄
| 61
| 490
| [[キタノカチドキ]]
|}
# 競走名太字は[[八大競走]]。

== 主な産駒 ==
'''中央競馬'''
*エントリーホープ(1978年産 1982年[[中日新聞杯]]2着)
*シバリッキー(1979年産 1984年阪神障害ステークス・春)
*ジャイアンツシチー(1979年産 1982年[[京成杯オータムハンデキャップ|京王杯オータムハンデキャップ]]3着)

'''地方競馬'''
*マキブールバー(1978年産 1982年サラブレッド大賞典・[[荒尾競馬場|荒尾]])
*アサヒショウリ(1979年産 1981年ジュニアカップ・[[ホッカイドウ競馬|北海道]]、1983年[[赤レンガ記念|日本中央競馬会理事長賞]]・北海道)
*オカノチカラ(1979年産 1984年[[佐賀記念|開設12周年記念]]・[[佐賀競馬場|佐賀]]、1985年大天山賞・佐賀)


== 血統表 ==
== 血統表 ==
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== 脚注 ==
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{Reflist|2}}

== 参考文献 ==
*中央競馬ピーアール・センター編『日本の名馬・名勝負物語』(中央競馬ピーアール・センター、1980年)ASIN B000J86XWM
**押谷哲爾「花の47年組の遅咲き - タニノチカラ」
*『競馬〈感涙〉読本 - 思い出すたび胸が痛む……泣300選』(宝島社、1998年)ISBN 978-4796694025
**[[ターザン山本]]「田島日出雄調教助手インタビュー ジミ~なオッチャン騎手を檜舞台に押し上げたタニノチカラ」
*杉本清『三冠へ向かって視界よし - 杉本清・競馬名実況100選』(日本文芸社、1995年)ISBN 978-4537024838
*[[大川慶次郎]]ほか『サラブレッド101頭の死に方(文庫版)』(徳間書店、1999年)ISBN 978-4198911850
*[[河村清明]]『ウオッカの背中』(東邦出版、2009年)ISBN 978-4809407741
*加賀谷修、河内洋『一生競馬』(ミデアム出版社、2003年)ISBN 978-4944001996

== 関連項目 ==
*[[花の47年組]]


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==

2015年3月28日 (土) 14:18時点における版

タニノチカラ
欧字表記 Tanino Chikara
品種 サラブレッド
性別
毛色 栗毛
生誕 1969年4月14日
死没 1980年4月10日
(11歳没・旧12歳)
ブランブルー
タニノチェリ
母の父 ティエポロ
生国 日本の旗 日本北海道静内町
生産者 カントリー牧場
馬主 谷水信夫谷水雄三
調教師 島崎宏栗東
厩務員 近藤昭
競走成績
生涯成績 24戦13勝
獲得賞金 2億1424万2600円
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タニノチカラ1969年4月14日 - 1980年4月10日)は、日本の競走馬種牡馬

半兄(異父兄)に1970年の皐月賞東京優駿(日本ダービー)を制したタニノムーティエを持ち、1971年に中央競馬でデビュー。二度の骨折を経て1973年より頭角を現し、同年の天皇賞(秋)に優勝。翌1974年には有馬記念を制し、前年から2年連続で優駿賞最優秀5歳以上牡馬に選出された。1975年春のマイラーズカップ競走後に故障が判明し引退。通算24戦13勝。1973年以降の主戦騎手は田島日出雄。競走馬引退後は種牡馬となったが、供用5年目の1980年春に動脈瘤破裂のため死亡した。

※以下、馬齢は日本で2000年以前に使用された数え年で記述する。

経歴

生い立ち

1969年、北海道静内町のカントリー牧場に生まれる。父ブランブルーはフランスからの輸入馬で競走馬時代はプランタン大賞に優勝。母タニノチエリは不出走だったが、この翌年に本馬の半兄(異父兄)タニノムーティエがクラシック二冠を制し、デビュー前から大きな注目を集める存在となった[1]

戦績

3歳時(1971年)

1971年9月、阪神開催でデビュー。兄の手綱を執った安田伊佐夫が騎手を務め、初戦は3着だったが、2戦目で2着に5馬身差をつけての初勝利を挙げる。その後、翌年のクラシック競走への出走権を確実に得ておこうと、間隔を詰めたローテーションで出走していたが、4戦目・野菊賞(2着)の競走中に骨折し、休養を余儀なくされた[1]。なお、それから間もない11月8日には馬主の谷水信夫が交通事故で急逝し、所有権は息子の谷水雄三に引き継がれた。

この年末に関東で馬インフルエンザが発生、翌年1、2月の東京、中山開催が中止となったことで春のクラシックは順延される。タニノチカラは7月にずれこんだ東京優駿(日本ダービー)を大目標に調教を再開していたが、その最中に左前種根骨を骨折[1]。獣医師からは予後不良が宣告されたが、カントリー牧場長の西山清一が谷水に治療を訴え、これが容れられてタニノチカラは牧場で療養生活に入った[2]。なお、三冠初戦の皐月賞は野菊賞で先着していたランドプリンスが制し、担当厩務員の近藤昭は「くやしさで夜も眠れなかった」と述懐している[1]

5歳時(1973年)

牧場スタッフによる献身的な看護が奏功し、1973年3月頃からは運動を再開[2]。そして野菊賞から約1年8カ月が経った同年7月、札幌開催で復帰した。それまで騎乗していた安田伊佐夫が小倉開催へ回っていたため、新たな騎手に田島日出雄を迎えた[3]。3歳時には兄ムーティエと同様の追い込み戦法をとっていたが、「10頭乗ったら8頭は逃げる[4]」田島が騎乗を始めてからは先行策をとるようになり[1]、復帰から3連勝を遂げる。4戦目のオホーツクハンデキャップは4着となったが、ゴール前では鋭い伸び脚を見せた[5]。秋に入っての初戦には、54キログラムという恵まれた負担重量もあり、格上挑戦で重賞・朝日チャレンジカップへ出走。2番手追走から最終コーナーで先頭に立ち、2着に2馬身半差をつけて重賞初勝利を挙げた[6]。続くハリウッドターフクラブ賞では、ヤマニンウエーブメジロムサシという2頭の天皇賞優勝馬を抑えて1番人気に支持されると、肩に軽くムチを入れられたのみでメジロムサシに2馬身半差をつけ、重賞2連勝を遂げた[6]。天皇賞(秋)への前哨戦として臨んだ目黒記念(秋)ではスタートでの出遅れもあって3着となったが、評価を落とすことはなかった[6]

11月25日の天皇賞(秋)では、当年春から三重賞を制していた関東のハクホオショウとタニノチカラの対決とみられた[6]。当日はハクホオショウ1番人気、タニノチカラ2番人気であったが、ハクホオショウはスタート直後に故障で競走を中止。タニノチカラは残り1000メートルの地点から先頭に立つと、そのままゴールまで押し切っての優勝を果たした[3]。これは田島にとっても初めての八大競走制覇であった。前走の敗戦もあり、「負けたら降板」を覚悟していた田島は、2着ミリオンパラ騎乗の戌亥信昭に「お前の馬に負けとったら俺、帰りの新幹線で飛び降りて死ななきゃならんかった」と話し掛けたという[3]

年末にはグランプリ競走・有馬記念にファン投票第7位で出走。当日は、当時空前の競馬ブームを牽引していた4歳馬・ハイセイコーに次ぐ2番人気に推された。レースはスローペースで推移するなか、田島タニノチカラは後方でハイセイコーをマークしながら進んだが、ハイセイコーが仕掛けないため動くことができず、結果として先行したストロングエイトニットウチドリ、さらにハイセイコーも交わせずの4着に終わった[6]。競走後、消極的に過ぎる騎乗だったとして田島は激しい非難の声に晒されたが[6]、田島によればハイセイコーをマークする作戦は調教師の島崎宏の指示であったため、島崎からは何らの叱言もなかった[7]

最後は敗れたものの、タニノチカラは当年、最優秀5歳以上牡馬に選出された。また、父・信夫が死去してから競馬事業の撤収も考えていた谷水雄三は、その活躍に触発されて父同様に競馬へのめりこんでいくことになる[8]

6歳時(1974年)

翌1974年は、1月からオープン競走2戦(いずれも安田隆行騎乗)を1、2着としたのち、騎手を田島に戻して京都記念(春)に出走。降雪による重馬場に、61キログラムという負担重量がかさなりながらも1番人気に支持されたが、52キログラムと軽量のスカイリーダにゴール直前でハナ差かわされ、2着と敗れた。スカイリーダ騎乗の高橋成忠は、勝因として9キログラムの負担重量差を挙げている[6]。続く大阪杯でも2着となり、休養に入る[9]

9月にサファイヤステークスで復帰。スタートで出遅れて3着となったが、以後京都大賞典、オープン競走(河内洋騎乗)と連勝。12月15日には有馬記念にファン投票4位で出走した。1、2位は、互いのライバル関係が知られたハイセイコーとタケホープで、両馬ともこれが引退レースであった。一方のタニノチカラは「120パーセントの出来」(近藤[10])という好調で、表彰式に備えた島崎が日ごろ嫌うネクタイを締めて現れたほどだったが[10]、当日はタケホープに次ぐ2番人気だった。スタートが切られるとタニノチカラが他の逃げ馬を制して先頭を奪い、中盤の向正面ではハイセイコー2番手、タケホープが3番手と続いた。最後の直線に入るとタニノチカラは両馬を一気に突き放し、ハイセイコーに5馬身差をつけて前年の雪辱を果たした[10]。前年とは異なり田島は島崎から何の指示も受けておらず、「今度こそ本当の勝負やから、また負けたらそれこそけったくそが悪い。だからスタートすると思いっきり行っちゃった。もう、クビになってもいいやという気分やったね」と振り返っている[7]

7歳時(1975年)

2年連続の最優秀5歳以上馬に選出されたタニノチカラは、有馬記念連覇を目標に、翌1975年も現役を続行[10]。緒戦の京都記念では、前年以上の63キログラムという斤量を負いながら、2着クラウンパレードに大差(10馬身以上)、タイム差にして1.7秒差をつけて圧勝した[10]。競走後には相手陣営から「リヤカーでも引かせて勝負をしないとレースにならない」という声も聞かれた[2]。なお、テレビ中継で実況アナウンスを担当した杉本清は、後年日本中央競馬会の広報誌『優駿』が企画した「史上最強馬」を決めるアンケートで、この競走を根拠にタニノチカラへ投票している[11]。杉本の実況は次のようなものだった[12]

うわあ~、強い強いタニノチカラ強い、タニノチカラ強い、差は開いた。そして2着は2着は2着は、クラウンパレード!4番のタニノチカラ、文句なし。相手になりません!

続くオープン競走では、前年秋のオープン競走勝利時に「記念写真を撮り忘れた」という理由で、初騎乗時に新人、このときは2年目の河内洋が再び起用され[13][注 1]、強豪牝馬として知られたイットーを半馬身退けて前年からの5連勝を遂げた。のちに河内は顕彰者にも選出される名騎手となったが、タニノチカラは彼に凡馬と一流馬の乗り心地の差を知らしめた馬となり、河内はこのときの記念写真を「宝物」として残している[13]

次走にはマイラーズカップを予定していたが、このころタニノチカラは骨折した古傷の周囲に炎症の兆候が出ており、出否は微妙な状況であった。しかしこの競走には、前年のクラシック二冠馬で有馬記念には不出走だったキタノカチドキ、前走でタニノチカラ相手に善戦したイットーが顔を揃えたことで、ファンからもタニノチカラの出走を望む声が寄せられ、これに応える形で出走が決まった[10]。斤量はタニノチカラ61kg、キタノカチドキ60kg、イットー52kgで、当日はタニノチカラが1番人気、続いてイットー、キタノカチドキと続いた。タニノチカラはレースで出遅れ気味にスタートすると[10]、道中は両馬を直前に見ながら進んだが、最後の直線で追い込みきれず、キタノカチドキから1馬身4分の1、イットーとはハナ差の3着と敗れた[14]

競走後、タニノチカラは繋靱帯炎を発症。休養に入るも復帰できず、そのまま引退した[10]。田島は後年マイラーズカップについて「まともにやったらあの2頭に負けるはずはなかった」と語った[3]

種牡馬時代

競走馬引退後は引退後はシンジケートを組まれ、故郷・カントリー牧場で種牡馬となった。タニノムーティエも種牡馬となっていたが、より大柄な馬体を持つタニノチカラには兄以上の期待が掛けられていた[2]。しかし供用5年目の1980年4月10日、種付け中に突然仰向けに倒れ、そのまま死亡した[2]。死因は大動脈破裂であった[2]。12歳没。中央競馬では1984年の阪神障害ステークス(春)を勝ったシバリッキーが唯一の重賞勝利産駒である。ほか地方競馬で複数の重賞勝利馬が出ている。

なお、馬主の谷水雄三はタニノチカラに続く新たな活躍馬を求めて、カントリー牧場に続々と馬を増やしていった。しかしこれが牧場の地質低下を招き、また種牡馬として重用したタニノムーティエの失敗もあり、牧場は低迷に向かっていった[15]。タニノチカラ以降、2002年にタニノギムレットが日本ダービーに優勝するまでの28年間、カントリー牧場から八大競走・GI競走に勝つ馬は現れなかった。

競走馬としての特徴・評価

首を低く下げた走行フォームが特徴で、「鼻面が地面にとどきそうなほど[1]」、「首がひざにぶつかりそうな走り[16]」だったと評される。谷水雄三によれば、一時は兄・タニノムーティエのように追い込みを教えようとしたが、そのフォームのせいで不向きだったという[17]。強力な先行馬として知られるようになったが、厩務員の近藤昭は「本来はデビュー当時のような差し馬だったかも知れない。もし、古馬になって、差し脚を武器とする戦法をとっておれば、兄貴と同じように、34-35秒の決め手[注 2]を発揮したと思う」と述べている[6]

八大競走2勝という成績ながら史上最強馬として捉える者もあり、1991年に『優駿』が競馬関係者や著名人を対象に行ったアンケートでは、「最強馬部門」でシンボリルドルフシンザンタケシバオーに次ぐ4位となった。また1983年に同誌が読者を対象に行った同様のアンケートでは13位になっている[18]。前述の杉本清がタニノチカラに投票したアンケートは前者のものだが、有馬記念(優勝時)を実況した小林皓正も「21世紀に伝えたい!私のこの1頭」というアンケートでタニノチカラを挙げた[16]。「脚が強ければシンボリルドルフに匹敵するほど強かったのではないか」という評もあったが[12]、調教師の島崎は「いつも状態は万全といえなかった。ルドルフは別格にしても、本当は実績以上に強い馬だったと思いますよ」と評している[17]

日本中央競馬会が2000年に行ったファン投票による20世紀の名馬選定企画「20世紀の名馬大投票」では80位に選ばれた[19]。また『優駿』選出による「20世紀のベストホース100」にも名を連ねている[20]

競走成績

年月日 開催場 競走名 頭数 人気 着順 距離(状態 タイム 着差 騎手 斤量 馬体重 勝ち馬/(2着馬)
1971 9. 19 阪神 新馬 11 1 3着 芝1200m(重) 1:16.1 0.4秒 安田伊佐夫 52 476 シューエイ
10. 9 阪神 新馬 15 1 1着 芝1200m(良) 1:14.2 5馬身 安田伊佐夫 52 470 (アルセーヌ)
10. 16 京都 りんどう特別 21 2 2着 芝1400m(稍) 1:25.7 0.1秒 安田伊佐夫 52 470 アヤヒリュウ
10. 31 京都 野菊賞 21 1 2着 芝1400m(不) 1:29.1 0.0秒 安田伊佐夫 52 464 マルブツフラワー
1973 7. 7 札幌 200万下 7 1 1着 1800m(良) 1:53.9 4馬身 田島日出雄 55 486 (ヤマモンド)
7. 22 札幌 積丹特別 7 1 1着 ダ1800m(良) 1:52.8 5馬身 田島日出雄 57 486 (サザーランド)
8. 4 札幌 利尻特別 8 1 1着 ダ1800m(重) 1:51.9 4馬身 田島日出雄 56 476 (カネキプリンス)
8. 19 札幌 オホーツクハンデキャップ 10 1 4着 ダ1800m(不) 1:52.1 0.5秒 田島日出雄 58 478 シャダイカール
9. 28 阪神 朝日チャレンジカップ 15 2 1着 芝2000m(重) 2:06.6 2 1/2馬身 田島日出雄 54 480 (シャダイオー)
10. 14 京都 ハリウッドターフクラブ賞 7 1 1着 芝2400m(稍) 2:31.8 2 1/2馬身 田島日出雄 55 488 メジロムサシ
11. 4 東京 目黒記念(秋) 13 1 3着 芝2500m(良) 2:33.4 0.5秒 田島日出雄 57 490 ベルワイド
11. 25 東京 天皇賞(秋) 8 2 1着 芝3200m(良) 3:22.7 2馬身 田島日出雄 58 500 ミリオンパラ
12. 16 中山 有馬記念 11 2 4着 芝2500m(良) 2:36.7 0.3秒 田島日出雄 56 498 ストロングエイト
1974 1. 13 京都 オープン 9 1 1着 芝1600m(良) 1:36.4 3/4馬身 安田隆行 58 494 (ケイスパーコ)
1. 27 京都 オープン 9 1 2着 芝1600m(良) 1:36.6 0.1秒 安田隆行 58 494 マチカネハチロー
2. 11 京都 京都記念(春) 10 1 2着 芝2400m(重) 2:30.9 0.0秒 田島日出雄 61 492 スカイリーダ
3. 10 阪神 大阪杯 5 1 2着 芝2000m(不) 2:08.2 0.4秒 田島日出雄 59 488 キヨノサカエ
9. 8 阪神 サファイヤステークス 9 1 3着 芝1600m(稍) 1:35.6 0.8秒 田島日出雄 58 490 タニノダーバン
10. 19 京都 京都大賞典 11 3 1着 芝2400m(良) 2:29.6 4馬身 田島日出雄 57 490 (ホウシュウエイト)
11. 9 京都 オープン 9 1 1着 芝1600m(良) 1:36.6 1 1/2馬身 河内洋 58 492 ロングワン
12. 15 中山 有馬記念 9 2 1着 芝2500m(稍) 2:35.9 5馬身 田島日出雄 55 498 ハイセイコー
1975 2. 9 京都 京都記念(春) 6 1 1着 芝2400m(稍) 2:30.0 大差 田島日出雄 63 500 (クラウンパレード)
3. 15 阪神 オープン 6 1 1着 芝1600m(良) 1:34.9 1/2馬身 河内洋 61 490 イットー
4. 13 阪神 マイラーズカップ 9 1 3着 芝1600m(不) 1:36.3 0.2秒 田島日出雄 61 490 キタノカチドキ
  1. 競走名太字は八大競走

主な産駒

中央競馬

地方競馬

血統表

タニノチカラ血統クラリオン系 / Solario4×5=9.38%、Phalaris5×5=6.25%) (血統表の出典)

*ブランブルー
Blanc Bleu
1959 鹿毛
父の父
Klairon
1952 鹿毛
Clarion Djebel
Columba
Kalmia Kantar
Sweet Lavender
父の母
Sans Tares
1939 栗毛
Sind Solario
Mirawala
Tara Teddy
Jean Gow

タニノチエリ
1963 栗毛
*ティエポロ
Tiepolo
1955 鹿毛
Blue Peter Fairway
Fancy Free
Trevisana Niccolo Dell'Arca
Tofanella
母の母
*シーマン
Seaman
1951 栗毛
Able Seaman Admiral's Walk
Charameuse
Vermah Vermeer
Marheke F-No.12-g


脚注

注釈

  1. ^ 当時、実績馬がオープン競走に出走するときには、重くなる斤量を軽減するため、年数に応じて1~3キログラムの斤量軽減特典をもつ新人~若手騎手を起用することがままあった。
  2. ^ 上がり3ハロン(最後の600メートル)のタイムのこと。タニノムーティエの当時では36秒台で優秀なタイムといわれた。

出典

  1. ^ a b c d e f 『日本の名馬・名勝負物語』pp.377-378
  2. ^ a b c d e f 『サラブレッド101頭の死に方』pp.261-264
  3. ^ a b c d 『競馬感涙読本』pp.102-104
  4. ^ 『競馬感涙読本』p.100
  5. ^ 藤野(1992)pp.142-145
  6. ^ a b c d e f g h 『日本の名馬・名勝負物語』pp.379-382
  7. ^ a b 『競馬感涙読本』p.98
  8. ^ 河村(2009)pp.52-54
  9. ^ 『競馬感涙読本』p.105
  10. ^ a b c d e f g h 『日本の名馬・名勝負物語』pp.383-385
  11. ^ 『優駿増刊号TURF』p.43
  12. ^ a b 杉本(1995)pp.148-149
  13. ^ a b 河内(2003)pp.35-36
  14. ^ 『日本の名馬・名勝負物語』p.408
  15. ^ 河村(2009)pp.56-60
  16. ^ a b 『優駿』2000年3月号、p.44
  17. ^ a b 『優駿増刊号TURF』p.11
  18. ^ 『優駿』1983年9月号、p.131
  19. ^ 『優駿』2000年10月号、p.120
  20. ^ 『優駿』2000年11月号、p.19

参考文献

  • 中央競馬ピーアール・センター編『日本の名馬・名勝負物語』(中央競馬ピーアール・センター、1980年)ASIN B000J86XWM
    • 押谷哲爾「花の47年組の遅咲き - タニノチカラ」
  • 『競馬〈感涙〉読本 - 思い出すたび胸が痛む……泣300選』(宝島社、1998年)ISBN 978-4796694025
    • ターザン山本「田島日出雄調教助手インタビュー ジミ~なオッチャン騎手を檜舞台に押し上げたタニノチカラ」
  • 杉本清『三冠へ向かって視界よし - 杉本清・競馬名実況100選』(日本文芸社、1995年)ISBN 978-4537024838
  • 大川慶次郎ほか『サラブレッド101頭の死に方(文庫版)』(徳間書店、1999年)ISBN 978-4198911850
  • 河村清明『ウオッカの背中』(東邦出版、2009年)ISBN 978-4809407741
  • 加賀谷修、河内洋『一生競馬』(ミデアム出版社、2003年)ISBN 978-4944001996

関連項目

外部リンク