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『'''太陽と鉄'''』(たいようとてつ)は、[[三島由紀夫]]の[[自伝]]的[[随筆]]・[[評論]]。三島自身は、「[[告白]]と[[批評]]との中間形態」と |
『'''太陽と鉄'''』(たいようとてつ)は、[[三島由紀夫]]の[[自伝]]的[[随筆]]・[[評論]]。三島自身は、「[[告白]]と[[批評]]との中間形態」としている。主に自らの[[肉体]]と[[精神]]、[[生]]と[[死]]、[[文芸|文]]と[[武道|武]]を主題に書かれたもので、三島の[[文学]]、[[思想]]、その死([[三島事件]])を論じるにあたり重要な作品である<ref name="jiten">『三島由紀夫事典』([[勉誠出版]]、2000年)</ref>。刊行に際しては、終章として[[自衛隊]]の練習機「[[F-104 (戦闘機)|F104機]]」に乗った記録の随筆と長[[詩]]を付加している。〈[[太陽]]〉との2度の出会い([[1945年|昭和20年]]の夏の敗戦と[[1952年|昭和27年]]の[[アポロの杯|海外旅行体験]])を通じて「[[思考]]」が語られ、〈[[鉄]]〉は[[ボディビル]]の鉄塊の[[重量]](肉体をあるべきであつた姿に押し戻す働き)」として「[[筋肉]]」との関連で語られている。 |
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[[1965年]](昭和40年)、雑誌『批評』11月号から[[1968年]](昭和43年)6月号 |
[[1965年]](昭和40年)、季刊雑誌『[[批評 (雑誌)|批評]]』11月号から[[1968年]](昭和43年)6月号まで10回連載された{{refnest|group="注釈"|5回目(1967年4月号)の連載から、季刊雑誌『[[批評 (雑誌)|批評]]』の発行元が[[南北社]]から[[番町書房]]に変わり、その5回目は、新稿を加えた初回からの全文が掲載された<ref name="jiten"/>。}}。その後、1968年(昭和43年)、文芸雑誌『[[文藝]]』2月号に掲載された随筆「'''F104'''」(のち「太陽と鉄 エピロオグ―F104」)と、1967年(昭和42年)3月14日に[[即興]]で執筆していた長詩「'''イカロス'''」を終章として加え、1968年(昭和43年)10月に[[講談社]]より単行本刊行された。翻訳版は[[ジョン・ベスター]]訳(英題:Sun and Steel)で行われている。 |
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== 作品成立・背景 == |
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[[三島由紀夫]]は『太陽と鉄』を、「甚だ長い時間をかけて書き、自分の[[文学]]と[[行動]]、[[精神]]と[[肉体]]の関係について、能ふかぎり[[公平]]で[[客観的]]な立場から分析したもの」だとし<ref name="mishima">[[三島由紀夫]]「序文」(『三島由紀夫文学論集』)([[講談社]]、1970年)</ref>、「この〈公平〉といふこと、肉体と精神の双方に対して〈公平〉であるといふ態度ほど、日本[[知識人]]にとつて難解な態度はないらしく、このエッセイに深甚な関心を示されたのは、[[虫明亜呂無|虫明]]氏や[[秋山駿]]氏や少数の人だけであつた」と残念がりながら、以下のように語っている<ref name="mishima"/>。 |
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⚫ | [[佐伯彰一]]は『太陽と鉄』を、三島が『[[私の遍歴時代]]』の中で述べていた |
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{{Quotation|実際、肉体と精神双方に対して公平であることが、[[無私]]に通ずるかどうかは疑はしい。無私は多くは自虐の[[仮面]]によつて受け入れられやすいものだからである。「太陽と鉄」は、私のほとんど[[宿命]]的な[[二元論]]的思考の絵解きのやうなものであり、二元論的思考の発生の[[生理学]]的[[必然性]]の物語でもあるが、日本の[[風土]]のなかでは、「[[一如]]」はあつても二元論はない。それは又、[[西欧]]的な意味の「[[劇]]」を成立たせる基盤がないことでもある。私が二元論者であること、文学と行動とどちらをも等分に重視すること、私が[[劇作家]]であること、私の小説は劇的構造に偏しすぎること、私の[[政治]]的思考が極端な対立状況に傾きがちなこと、……全く、「物が二つになるが悪しきなり」といふ精神風土で、この態度は一体何たることであらうか。私の「[[絶対]][[矛盾]]的[[自己同一性|自己同一]]」はそもそもどこに存在するのか。|[[三島由紀夫]]「序文」(『三島由紀夫文学論集』)<ref name="mishima"/>}} |
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また自著『作家論』の「あとがき」では、その書と共に『太陽と鉄』を、「私の数少ない批評の仕事の二本の柱を成すものと考へられてよい」と述べている<ref>三島由紀夫「あとがき」(『作家論』)([[中央公論社]]、1970年)</ref>。 |
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== 内容・あらまし == |
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;太陽と鉄 |
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:世の通常の人と違い、幼時から「[[言葉]]」の「[[腐食]]作用」に「[[現実]]」が蝕まれ、[[肉体]]的な[[存在]]感というものに欠けていた「私」([[三島由紀夫]])は、「現実・肉体・[[行為]]」を他者の側に置いていた。その[[二律背反]]は[[誤解]]や仮構であったが、「私」はずっと「あるべき肉体」、「〈肉体〉の言葉」を渇望していた。 |
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:[[日本の降伏|敗戦]]の日の〈[[太陽]]〉の「[[死]]のイメージ」から、〈太陽〉から肉体の恵みを受けるとは思っていなかった「私」だったが、世界旅行(『[[アポロの杯]]』)の船上で〈太陽〉と「和解」して以来、自身の「[[家屋]]」([[自我]])を取り巻く「[[果樹園]]」(肉体)を〈太陽〉と〈[[鉄]]〉で耕し、遅れながらもようやく、存在と行為の感覚を体得し、「肉体の言葉」を学んだ。そして「私」は、[[神輿]]担ぎの肉体的な[[苦痛]]の中で見上げた「[[集団]]的[[視覚]]の一片」である「[[青]][[空]]」の澄明を見て、〈[[悲劇]]的なもの〉の本質が、「平均的な[[感受性]]が或る瞬間に人を寄せつけぬ特権的な[[崇高]]さを身につけるところ」に生じ、「悲劇」「全的な存在」に参加することで初めて「感受性の[[普遍性]]」、他者と[[同一性]]を掴むことができるのを知った。 |
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:[[ボディビル]]で肉体が鍛錬されるにしたがって、言葉が[[抽象化]]の[[機能]]を持つように、[[筋肉]]にも、「われわれが通例好加減に信じてゐる存在の感覚」を噛み砕き、それを「[[透明]]な[[力]]の感覚」に変化させる「抽象性」を帯びることを「私」は看取した。その力の感覚の先には、[[言語]][[表現]]([[想像力]]で〈[[物]]〉を作る)の対極にある「[[実在]]」が潜んでいた。それは「私」を見返す「[[敵]]」であり、「敵」(見返す実在)とは、究極的には「[[死]]」に他ならなかった。「私」(三島)は明晰な[[意識]]で「死」を捉えようとする。 |
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{{Quotation|意識は一見受身のやうに思はれ、行動する肉体こそ「果敢」の[[本質]]のやうに見えるのだが、肉体的[[勇気]]のドラマに於ては、この役割は実は逆になる。肉体は[[自己]][[防衛]]の機能へひたすら退行し、明晰な意識のみが、肉体を飛び翔たせる自己放棄の決断を司る。その意識の明晰さの極限が、自己放棄のもつとも強い動因をなすのである。 |
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苦痛を引受けるのは、つねに肉体的勇気の役割であり、いはば肉体的勇気とは、死を理解して味ははうとする嗜欲の源であり、それこそ死への[[認識]]能力の第一条件なのであつた。[[書斎]]の[[哲学者]]が、いかに死を思ひめぐらしても、死の認識能力の前提をなす肉体的勇気と縁がなければ、ついにその本質の片鱗をもつかむことがないだらう。|三島由紀夫「太陽と鉄」}} |
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:[[文学]]([[芸術]])の世界において「私」が練磨した「[[文体]]」は、胸を張った[[軍人]]のような「[[式典]]風な荘重な歩行」を保つ「筋肉的な[[装飾]]」の文体であった。姿勢を崩さねば見えない[[真実]]があることは知っているが、それは他人の文体に委せておけばよかった。行動の世界においては、「[[文芸|文]]」(芸術)の反対の「[[武]]」の[[原理]]である「充溢した力や[[生]]の[[絶頂]]の花々しさや[[戦い|戦ひ]]の[[意志]]」の[[倫理]]を希求し、「[[文武両道]]」の[[理念]]を「私」は夢みた。 |
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{{Quotation|「文」の原理とは、死は抑圧されつつ私かに動力として利用され、力はひたすら虚妄の構築に捧げられ、生はつねに保留され、[[ストック]]され、死と適度にまぜ合はされ、[[防腐剤]]を施され、不気味な永生を保つ芸術作品の制作に費やされることであつた。むしろかう言つたらよからう。「武」とは[[花]]と散ることであり、「文」とは不朽の花を育てることだ、と。そして不朽の花とはすなはち[[造花]]である。かくて「文武両道」とは、散る花と散らぬ花とを兼ねることであり、人間性の最も相反する二つの欲求、およびその欲求の実現の二つの[[夢]]を、一身に兼ねることであつた。(中略)「文武両道」はその絶対的な形態をとることはきはめて稀であり、よし実現されても、一瞬にして終るやうな理念なのである。|三島由紀夫「太陽と鉄」}} |
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:[[自衛隊]]体験入隊の訓練において、「言葉の要らない[[幸福]]」を得た「私」は、その一瞬で瓦解する「完璧な存在感」が、言葉でなく「筋肉」を以てしか保障されないことを知り、見るだけでは触れえない「存在感覚の根本」との距離を埋めて、「存在の確証」を得たいと願ったとき、「自意識と存在との間の微妙な背理」が「私」を悩ませた。「私」は破壊される[[林檎]]の[[運命]]を身に負うていた。 |
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{{Quotation|私が幸福と呼ぶところのものは、もしかしたら、人が[[危機]]と呼ぶところのものと同じ地点にあるのかもしれない。言葉を介さずに私が[[融合]]し、そのことによつて私が幸福を感じる世界とは、とりもなほさず、悲劇的世界であつたからである。(中略)そこでだけ私がのびやかに[[呼吸]]をすることのできる世界、完全に[[日常]]性を欠き、完全に[[未来]]を欠いた世界、それこそあの[[大東亜戦争|戦争]]がをはつた時以来、たえず私が灼きつくやうな焦燥を以て追ひ求めてゐたものであつたが、言葉は決して私にこれを与へなかつたのみか、むしろそこから遠ざかるやうに遠ざかるやうにと私を[[鞭]]打つた。なぜなら、どんな破滅的な言語表現も、[[芸術家]]の「日々の[[仕事]](ターゲヴェルク)」に属してゐたからである。|三島由紀夫「太陽と鉄」}} |
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:言葉はいくら破壊的な装いをしていても、「[[生存]][[本能]]」と関わり、「私」が〈生きたい〉と望んだ時、回復術として有効に使用されたのだ。いまや「私」は行動の「[[修羅道]]」に入っていたが、それは一方では「言葉に無垢の作用のみ」を見ていた[[少年]]時代の幸福への「[[復元]]」でもあり、「私」の「[[黄金時代]]への[[回帰]]」でもあったのだ。戦争中の少年の「私」は、言葉の世界に放蕩していたが、それでも同時に〈終り〉を認識していたことは確かである。 |
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:「私」は[[特別攻撃隊|特攻隊]]の[[遺書]]を[[江田島市|江田島]]の[[海上自衛隊第1術科学校|参考館]]で読み、精神が〈終り〉(死)を認識した時、その精神にとって「言葉」がどう作用するのかを見た。特攻隊の美しい二種の(口ごもる、あるいは既成の簡潔な[[成句]]に託した)遺書に比して、「私」の言葉は「芸術性」に犯されていたが、〈終り〉を認識していたことに[[同一性]]があったといえまいか。「私」の精神は再び、〈終り〉を認識しなければ、「真の[[自由]]」はないのである。 |
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:「私」が逃したのは「集団の悲劇」だった。肉体的な能力に欠けていた「私」は、いつもそこから拒まれているように感じていたが、今や「私」は集団の一人として〈同苦〉の[[概念]]を得て、「[[神聖]]な青空」を見た。「集団といふものは肉体の原理にちがひない」と「私」が幼時に[[直感]]していたことは正しかったのである。「私」はすでにあの時から、「[[個性]]の[[しきい値|閾]]」を越えた「集団の意味」に目覚める日の到来を予見していたのかもしれない。 |
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{{Quotation|早春の朝またぎ、集団の一人になつて、額には[[日の丸]]を染めなした[[鉢巻]]を締め、身も凍る半裸の姿で、駆けつづけてゐた私は、その同苦、その同じ懸声、その同じ歩調、その[[合唱]]を貫ぬいて、自分の[[肌]]に次第ににじんで来る[[汗]]のやうに、同一性の確認に他ならぬあの「悲劇的なもの」が君臨してくるのをひしひしと感じた。それは凛烈な朝風の底からかすかに芽生えてくる肉の[[炎]]であり、さう云つてよければ、崇高さのかすかな萌芽であつた。「身を挺してゐる」といふ感覚は、筋肉を躍らせてゐた。われわれは等しく[[栄光]]と死を望んでゐた。望んでゐるのは私一人ではなかつた。|三島由紀夫「太陽と鉄」}} |
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;エピロオグ――F104 |
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:[[地上]]において、じっと机上に向い「知的[[冒険]]」をし、「精神の[[境界|縁]]」へと「[[ニヒリズム|虚無]]への落下の危険」を冒すとき、精神も、「肉体の縁」のような極度の肉体疲労の中に見える〈肉体の[[あけぼの]]〉と同様の「[[明け方|黎明]]」を垣間見ることがある。だがこの両者は似通うことはなかった。しかしどこかで繋がる筈である。 |
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{{Quotation|私には[[地球]]を取り巻く巨きな巨きな[[蛇]]の[[環 (天体)|環]]が見えはじめた。すべての対極性を、われとわが[[尾]]を嚥(の)みつづけることによつて鎮める蛇。すべての相反性に対する[[嘲笑]]をひびかせてゐる最終の巨大な蛇。私にはその姿が見えはじめた。相反するものはその極致において似通ひ、お互ひにもつとも遠く隔たつたものは、ますます遠ざかることによつて相近づく。蛇の環はこの秘義を説いてゐた。肉体と精神、感覚的なものと知的なもの、外側と内側とは、どこかで、この地球からやや離れ、白い[[雲]]の蛇の環が地球をめぐつてつながる、それよりもさらに高方においてつながるだらう。|三島由紀夫「エピロオグ――F104」}} |
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:「肉体の縁」と「精神の縁」にだけ興味を寄せてきた「私」は、その二つが繋がる「[[運動]]の極みが静止であり、静止の極みが運動であるやうな領域」、「高い原理」を「死」だと考えていたが、それを[[神秘]]的にも捉えすぎていた。 |
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{{Quotation|地球は死に包まれてゐる。[[空気]]のない[[上空]]には、はるか地上に、物理的条件に縛められて歩き回る人間を眺め下ろしながら、他ならぬその物理的条件によつてここまでは気楽に昇れず、したがつて物理的に人を死なすこときはめて稀な、[[純潔]]な死がひしめいてゐる。人が素面で[[宇宙]]に接すればそれは死だ。宇宙に接してなほ生きるためには、[[仮面]]をかぶらねばならない。[[酸素マスク]]といふあの仮面を。精神や[[知性]]がすでに通ひ馴れてゐるあの息苦しい高空へ、肉体を率いて行けば、そこで会ふのは死かもしれない。精神や知性だけが昇つて行つても、死ははつきりした顔をあらはさない。そこで精神はいつも満ち足りぬ思ひで、しぶしぶと、地上の肉体の棲家へ舞ひ戻つて来る。彼だけが昇つて行つたのでは、つひに統一原理は顔をあらはさない。|三島由紀夫「エピロオグ――F104」}} |
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:酸素マスクをつけた「私」は或る日、[[銀色]]に輝く[[F-104 (戦闘機)|F104]][[超音速]][[ジェット]][[戦闘機]]の[[気密]]室の中にいた。風防ガラスにふりそそぐ太陽の光の中、「私」は、危険な[[宇宙線]]に充ちた「超人間的な光り」である「裸かの光輝」に、「栄光の観念」を見る。「私」の心はのびやかであった。そのとき「私」は、地球を取り巻いている「蛇」を見た。 |
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{{Quotation|ほんのつかのまでも、われわれの[[脳]]裡に浮んだことは存在する。現に存在しなくても、かつてどこかに存在したか、あるひはいつか存在するであらう。(中略)今、私の意識は[[ジュラルミン]]のやうに澄明だつた。あらゆる対極性を一つのものにしてしまふ巨大な蛇の環は、もしそれが私の脳裡に泛んだとすれば、すでに存在してゐてふしぎはなかつた。蛇は[[永遠]]に自分の尾を嚥んでゐた。それは死よりも大きな環、かつて気密室で私がほのかに匂ひをかいだ死よりももつと芳香に充ちた蛇、それこそはかがやく[[天空]]の彼方にあつて、われわれを瞰下(みお)ろしてゐる統一原理の蛇だつた。|三島由紀夫「エピロオグ――F104」}} |
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:三島が創作した[[対称性|シンメトリカル]]な形式となっている[[抒情詩]]である。詩の前半部は、現実離反、[[昇天]]への願望、〈[[太陽]]〉への接近が語られている。前半の一部分は以下のようなものである。 |
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{{Quotation|私はそもそも[[天]]に属するのか? さうでなければ何故天は かくも絶えざる[[青]]の注視を私へ投げ 私をいざなひ心もそらに もつと高くもつと高く 人間的なものよりもはるか高みへ たえず私をおびき寄せる? 均衡は厳密に考究され [[飛翔]]は[[合理的]]に計算され 何一つ狂ほしいものはない筈なのに 何故かくも昇天の欲望は それ自体が[[狂気]]に似てゐるのか? 私を満ち足らはせるものは何一つなく 地上のいかなる新も忽ち倦かれ より高くより高くより不安定に より太陽の光輝に近くおびき寄せられ 何故その[[理性]]の[[光源]]は私を灼き 何故その理性の光源は私を滅ぼす? |三島由紀夫「イカロス」}} |
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:後半部では、前半部を相対させて、昇天の欲望を「[[地]]」の仕組んだ「[[懲罰]]」と捉えられ、自己の「柔らかさ」(地上を嫌悪する弱い心)が墜落により、〈[[鉄]]〉と化した大地に打ちすえられる。最後の一節は以下のようになる。 |
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{{Quotation|されば そもそも私は地に属するのか? さうでなければ何故地は かくも急速に私の下降を促し [[思考]]も[[感情]]もその暇を与へられず 何故かくもあの柔らかなものうい地は [[鉄板]]の一打で私に応へたのか? 私の柔らかさを思ひ知らせるためにのみ 柔らかな大地は鉄と化したのか? 堕落は飛翔よりもはるかに自然で あの不可解な[[情熱]]よりもはるかに自然だと 自然が私に思ひ知らせるために?<br />空の青は一つの[[仮想世界|仮想]]であり すべてははじめから[[翼]]の[[蝋]]の つかのまの灼熱の陶酔のために 私の属する地が仕組み かつは天がひそかにその企図を助け 私に懲罰を下したのか? 私が私といふものを信ぜず あるひは私が私といふものを信じすぎ 自分が何に属するかを性急に知りたがり あるひはすべてを知つたと傲り 未知へ あるひは既知へ いづれも一点の青い[[表象]]へ 私が飛び翔たうとした罪の懲罰に?|三島由紀夫「イカロス」}} |
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== 文壇の反響 == |
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同時代評の反応としては、好意的に読み取るものと、否定的なものが混ざっている。[[虫明亜呂無]]は、三島の克己と忍辱の[[美学]]を高く評価し<ref>[[虫明亜呂無]]「書評」(週刊読書人 1969年2月3日号に掲載)</ref>、[[秋山駿]]も、「そこにある言葉、あるいは精神が、他から何も借りないで、実に純粋にそれ自身の働きによって一つの[[空間]]を作っている」とし<ref>[[秋山駿]](三島由紀夫との対談)「私の文学を語る」([[三田文学]] 1968年4月号に掲載)</ref>、[[フリードリヒ・ニーチェ|ニーチェ]]風の「病者の[[光学]]」を看取して好意的に評している<ref>[[秋山駿]]「書評」([[月刊ペン]] 1969年3月号に掲載)</ref>。その一方、[[森川達也]]は、[[肉体]]や[[存在]]の追及というテーマを描こうとした三島の意図は評価しながらも、そこに新しい発見が見出せないと評している<ref>[[森川達也]]「」([[図書新聞]] 1968年12月7日号に掲載)</ref>。[[石川淳]]は、観念的な論理への危惧を呈して、『太陽と鉄』を「本朝[[武士|ますらお]]の道の記」と述べている<ref>[[石川淳]]「文芸時評」([[朝日新聞]]夕刊 1970年4月28日号に掲載)</ref>。 |
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[[磯田光一]]は『太陽と鉄』に、[[芸術]]の[[本質]]と[[限界]]を悟った[[芸術家]]の[[宿命]]を看取し、「[[天皇]]への愛慕を[[叙情]]的に語れば、それが[[滑稽]]に見えるであろうこと」を自覚していた三島が文学で、戦時の「原体験を[[造形]]することだけ」では救われない地点にあり、『太陽と鉄』が「[[創作]]への懐疑」に彩られていることを鑑みて<ref name="isoda">[[磯田光一]]「文芸時評」([[読売新聞]] 1968年11月19日号に掲載)。「三島由紀夫と現代」([[磯田光一]]『殉教の美学―三島由紀夫論』)([[冬樹社]]、1964年。新装版1979年)</ref>、「滑稽に堕することなく、しかも自己[[救済]]を達成するにはどうしたらよいか。それは“[[喜劇]]”ならぬ“[[悲劇]]”にふさわしいだけの肉体をもち、同時に「天皇」を[[無限]]遠のかなたに[[究極]][[目的]]として設定することである」とし、以下のように考察している<ref name="isoda"/>。 |
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{{Quotation|しかしそういう形での救済が、はたして完璧な形をとって三島氏を訪れているであろうか。『太陽と鉄』のエピローグが「イカロス」と題する[[詩]]になっていることは、この救済が大きな[[逆説]]性をはらんでいることを示している。[[ギリシャ神話]]の[[イカロス]]が[[天]]に昇ろうと試みながら、やがて[[翼]]を失って[[地上]]に墜落するように、三島氏は[[男性]][[共同体]]の「同苦」のうちに最高の[[幸福]]を予感しながら、なおかつ失墜を承知で天皇([[太陽神]])への渇望を語るのである。|[[磯田光一]]「三島由紀夫と現代」<ref name="isoda"/>}} |
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== 作品評価・解釈 == |
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『太陽と鉄』は三島の[[思想]]や[[文学]]を語る上で、いくつもの重要な論点が含まれ、その内容には、三島の[[現実]]の[[死]]に関わるものがあるため、数多くの論究や分析がなされているが、三島の強い[[個性]]が表明されている作品ゆえに、その評価も好悪が分かれており、三島文学の[[バイブル]]として熱烈な支持がある一方で、直に向き合わない言及も見られる<ref name="jiten"/><ref name="jitenmeiji">『三島由紀夫事典』([[明治書院]]、1976年)</ref>。[[ドナルド・キーン]]などは、『太陽と鉄』を解らないとし、「全体としては、なんともいえない不愉快な作品なんです」と述べている<ref>[[ドナルド・キーン]]・[[徳岡孝夫]]『悼友紀行』([[中央公論社]]、1973年。[[中公文庫]]、1981年)</ref>。 |
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[[上野昮志]]は、『太陽と鉄』には「三島自身のことばと肉体についての思考が明確なかたちで対象化していて、あますところがない」とし、「読者に沈黙を強いるところがある」と述べている<ref>[[上野昮志]]「太陽と鉄」([[ユリイカ (雑誌)|ユリイカ]] 1976年10月号に掲載)</ref>。比較的近年のものとしては、[[小杉英了]]が、肉体改造によって[[生命]]力を意識的に捉えた三島の軌跡を論究し<ref>[[小杉英了]]『三島由紀夫論』([[三一書房]]、1997年)</ref>、[[養老孟司]]は、[[言葉]]と[[身体]]が乖離しているために、逆に身体が追求される[[社会]]状況を、三島は先取りしていたと考察している<ref>[[養老孟司]]『身体の文学史』(新潮社、1997年)</ref>。なお、英訳の出版が三島の自決直後であったために、海外でもかなりの反響を呼んだ<ref name="jitenmeiji"/>。 |
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[[田坂昮]]は、『[[仮面の告白]]』を「[[肉体]]の喪失篇」とするならば、『太陽と鉄』は「肉体の形成篇」であり、「両者は[[ジャンル]]を異にしながらも、あたかも[[陰画]]と[[陽画]]のように、二十年の歳月をへだてて多くの点で照応している」とし<ref name="tasaka">[[田坂昮]]「『太陽と鉄』―〈悲劇的なもの〉への憧れから〈悲劇〉への参加へ―」(『増補 三島由紀夫論』)([[風濤社]]、1977年)</ref>、前者では〈[[集団]]の[[悲劇]]〉から、〈拒まれた者〉〈見る者〉であった三島が、後者では、「向う岸の〈与る者〉の側」に移行して、〈拒まれた者〉の[[孤独]]の目に映っていた〈至純の[[青空]]〉が、〈集団的視覚〉に映る〈初秋の絶対の青空〉になっていると考察しながら、「集団的陶酔」は、[[フリードリヒ・ニーチェ|ニーチェ]]のいう〈[[ディオニューソス|ディオニュソス]]的陶酔〉〈[[個体]]の[[破壊]]とその根源的存在との合一〉と等質のものだとし、以下のように論考している<ref name="tasaka"/>。 |
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{{Quotation|肉体を得た三島氏は、「現代文化の荒廃と衰弱のさなかにあって」(ニーチェ)、いまこそニーチェとともに、こんな叫びをあげたいとは思わないであろうか。すなわち「[[生]](レーベン)と[[苦]](ライト)と[[快]](ルスト)のこの過剰のただなかに、悲劇の[[女神]]は[[崇高]]な恍惚にひたりながら坐っている。彼女は、はるかな哀愁の歌に耳をかたむける――歌は[[存在]]の母たちのことを語っている。その名は[[妄想]](ヴァーン)・[[意志]](ヴィレ)・[[悲嘆]](ヴェー)というのだ。――おお、友らよ、私とともにディオニュソス的生命を、そして悲劇の[[再生]]を信じたまえ!……今はただ、敢然として悲劇的人間となれ!」(『[[悲劇の誕生]]』)。悲劇への道――それが三島氏にとって何であるかをわれわれはすでに知っている。|[[田坂昮]]「『太陽と鉄』―〈悲劇的なもの〉への憧れから〈悲劇〉への参加へ―」<ref name="tasaka"/>}} |
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⚫ | [[佐伯彰一]]は『太陽と鉄』を、三島が『[[私の遍歴時代]]』の中で述べていた〈現在の、瞬時の、刻々の[[死]]の[[観念]]〉<ref> 三島由紀夫「[[私の遍歴時代]]」([[東京新聞]]夕刊 1963年1月10日 - 5月23日号に掲載)。『私の遍歴時代』(講談社、1964年)</ref>を中核とする三島の「[[メタファー|メタフィシックス]]の首尾一貫した展開であり、見事な[[詩]]的結晶」だと評している<ref name="saeki">[[佐伯彰一]]「解説」(文庫版『太陽と鉄』)([[中公文庫]]、1987年)</ref>。そしてそういった「超越的な飛翔の一つの詩的頂点」の謳い上げともいうべきものが、「エピロオグ」の[[F-104 (戦闘機)|F104]]搭乗体験の描写だとし、三島が「ほとんど一切を自意識しながら、壮絶な[[自死]]を敢行したと、呟かざるを得ない」としながら、「三島流ミスチシズムの精髄――少なくともその基本構造」は、『太陽と鉄』のうちに、「冷たい[[パトス]]」をもって、縦横に説き明かされ定着している」と佐伯は解説している<ref name="saeki"/>。 |
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[[西部邁]]は、「([[保守派]]が)胸元にぶらさげる[[正義]]と[[名誉]]、そして人知れずその背中に負う[[ニヒリズム|虚無]]と[[自由]]」というテーマに「身を焦がした」のが三島だとし、様々な三島論に見られる、[[ホモセクシャル]]、[[マゾヒズム]]、[[ナルシシズム]]、[[タナトス]]、[[仮面]]だの素面だと、こねくり回した「過度に文学的な」論に疑問を呈し、〈[[無意識]]といふものは、絶対におれにはないのだ〉と[[安部公房]]に向って堂々と「[[意識]]の自己制御」を示していた三島にとっては<ref>三島由紀夫([[安部公房]]との対談)「二十世紀の文学」([[文藝]] 1966年2月号に掲載)</ref>、それら過度に文学的な「凡百の動機論はせいぜいのところその脇腹をかする程度の話」だとして<ref name="nishibe">[[西部邁]]「明晰さの欠如」(海燕 1988年11月号に掲載) </ref>、三島の[[政治]]的な側面を全く無視して「三島の晩年を文学的な視角からだけみるのは納得がいかない」としながら『太陽と鉄』を論じて、同意する部分と不同意の部分を分析して、以下のように語っている<ref name="nishibe"/>。 |
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{{Quotation|[[保守]]は彼の矯激を嫌う、しかしその情念と決断の烈しさは買う。保守は彼の不明晰を批判する、しかしその[[修辞法]]が思想表現に不可欠であることは認める。保守は彼の単純な[[二分法]]の[[論理]]に与しない、しかし言葉が結局は二分法の[[秩序]]に従うことは承認する。保守は彼の[[日常]]性からの逃走に反撥する、しかし[[精神]]が非日常性のなかで孤立したり狂乱したりするのには寛大である。保守は彼と同じく[[伝統]]を保守する、しかし保守の思う伝統は、それが平衡の[[智慧]]であるために、彼のような平板さや硬直を免れている。保守は彼のように[[死神]]と交際するのを好まない、しかし死がひたひたとわれわれを追っていることには敏感である。保守は彼の自己[[信仰]]とそれに由来する自己放棄の途はとらない、しかし、自己懐疑と自己把持に[[品位]]をもたせるためにも、自己を信じ自己を捨ててかからなければならないことはわかっている。|[[西部邁]]「明晰さの欠如」<ref name="nishibe"/>}} |
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[[中野新治]]は、終章に付された長[[詩]]『イカロス』を、「三島の本質を解明に表現したものとして注目に価する」とし、その詩の形式や[[疑問符]]の数などの細かい点にまで「[[対称性|シンメトリカル]]への希求」「形式美」が見られることを指摘しながら、それを、「[[人間]]の世界のありのまま=混沌・無秩序への否定と嫌悪から成立するもの」と考察し、〈詩とは、[[陸]]に住んで[[空]]を飛びたかっている[[海]]の[[動物]]の[[記録]]である〉と言った[[カール・サンドバーグ]]や、『[[よだかの星]]』で「この世からの離脱・[[天上]]での永生を願った」[[宮沢賢治]]、『水中花』を吟じ、[[天]]を仰いでいた[[伊東静雄]]と、三島は「同じ資質を持つ者」だと考察している<ref name="nakano">[[中野新治]]「文学を否定する文学者―三島由紀夫小論―」(『三島由紀夫を読む』)([[笠間書院]]、2011年)</ref>。 |
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そして中野は、[[野口武彦]]が三島を〈[[形而上学|形而上]]的[[種族]]〉と呼び、〈その未生以前である時期に何ものかを見て[[網膜]]を強く灼かれた[[記憶]]を[[心]]の中に蔵していて、爾後、それと同程度に強烈な体験を求めて、或る形而上的彷徨に出発するという[[宿命]]を負う〉性質を持つ種族と捉えて、三島に〈[[天使|アンジェリスム]]〉([[ロマン主義]]的人間の[[魂]]の輪郭)を看取していること<ref>[[野口武彦]]『三島由紀夫の世界』(講談社、1968年)</ref>に同意し<ref name="nakano"/>、『イカロス』の後半で、〈彼方〉([[太陽]])への憧れの〈[[昇天]]の欲望〉が〈[[地]]〉が仕組んだ〈[[懲罰]]〉とされ「[[鉄板]]と化した大地でしたたかに打ちすえられる」という宿命の結末に、「三島の〈形而上的彷徨〉がこの上なく真摯なものであったこと」が明らかだとし<ref name="nakano"/>、三島が「[[楯の会]]」を設立して自死に至ったことと、宮沢賢治が〈怒りの苦さまた青さ/四月の気層のひかりの底を/唾し はぎしりゆききする/おれはひとりの[[修羅]]なのだ〉(『春と修羅』)と吟じ、[[自己]]を「天上から追放された〈修羅〉」と位置づけ、その行き場のない「青い怒り」を治めるかのように、「[[羅須地人協会]]」を設立し早世したことに「同質」を看取し、以下のように論考している<ref name="nakano"/>。 |
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{{Quotation|地にあるものを無化する「絶えざる[[青]]の注視」は、天から与えられたものなのであり、その自死は強いられた「形而上的彷徨」に[[終止符]]を打つものであったと言う他はない。(中略)疑問符の多様は、彼が自己追求によって切り開いた〈書く世界〉の困難を示している。三島にとっては、自己を信じないことが、自己を信じる唯一の根拠であった。自己が属する世界はどこにもないと知ることが、自己が属する世界を指し示していた。それこそが「青い表象」の世界、〈書く世界〉であった。それは足場のない所に建造物を組み立てることにたとえられるだろう。あるいはまた、その反自然性と意識の過剰による言葉の扼殺の世界と見なせるかもしれない。|[[中野新治]]「文学を否定する文学者―三島由紀夫小論―」<ref name="nakano"/>}} |
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== 映画化 == |
== 映画化 == |
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*『[[ミシマ:ア・ライフ・イン・フォー・チャプターズ|Mishima: A Life In Four Chapters]]』 1985年(昭和60年) 日本未公開 |
*『[[ミシマ:ア・ライフ・イン・フォー・チャプターズ|Mishima: A Life In Four Chapters]]』 1985年(昭和60年) 日本未公開 |
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**製作会社;フィルムリンク・インターナショナル、[[アメリカン・ゾエトロープ]]、[[ルーカスフィルム]]。 |
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**監督:[[ポール・シュレイダー]]。音楽:[[フィリップ・グラス]]。美術:[[石岡瑛子]]。 |
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**出演:[[緒形拳]]([[三島由紀夫]]) |
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**※ 第4部「[[文武両道]](harmony of pen and sword)」内で、「[[フラッシュバック]](回想)」部分で自衛隊体験入隊、[[F-104 (戦闘機)|F104]]試乗の挿話部分を[[モノクロ]]で映像化。『太陽と鉄』の抜粋を独白している。 |
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== おもな刊行本 == |
== おもな刊行本 == |
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* 『太陽と鉄』([[講談社]]、1968年10月20日) |
* 『太陽と鉄』([[講談社]]、1968年10月20日) |
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**装幀:[[横山明]]。カバー(著者肖像写真)撮影:[[篠山紀信]]、[[玉井瑞夫]])。クロス装。段ボール機械函(黒装白函)。灰色帯。 |
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**収録作品:太陽と鉄、エピロオグ―[[F-104 (戦闘機)|F104]] |
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**初刷には、表紙の箔押しの星型図案の角度が異なり、白色段ボール機械函入のものもあり。 |
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**※ のちにカバー(裏)写真、帯変更。 |
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* 文庫版『太陽と鉄』([[講談社文庫]]、1971年12月15日) |
* 文庫版『太陽と鉄』([[講談社文庫]]、1971年12月15日) |
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**カバー装幀:[[亀倉雄策]]。付録・解説:[[田中美代子]]。年譜作成:[[久保田芳太郎]]。 |
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**収録作品:太陽と鉄、エピロオグ―F104、[[私の遍歴時代]] |
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**※ のちにカバー改装:横山明、[[依岡昭三]]。 |
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* 文庫版『太陽と鉄』([[中公文庫]]、1987年11月10日) |
* 文庫版『太陽と鉄』([[中公文庫]]、1987年11月10日) |
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**カバー装幀:[[宮田雅之]]。付録・解説:[[佐伯彰一]]。 |
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**収録作品:太陽と鉄、エピロオグ―F104、私の遍歴時代 |
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* 『三島由紀夫文学論集 I 』[[虫明亜呂無]]編([[講談社文芸文庫]]、2006年4月11日) ISBN 406198439X |
* 『三島由紀夫文学論集 I 』[[虫明亜呂無]]編([[講談社文芸文庫]]、2006年4月11日) ISBN 406198439X |
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**収録作品:太陽と鉄、小説家の休暇、「われら」からの遁走、私の中の「男らしさ」の告白、精神の不純、わが非文学的生活、自己改造の試み、実感的スポーツ論、体操、ボクシングと小説、私の健康、私の商売道具 |
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* 『近代浪漫派文庫42 三島由紀夫』([[新学社]]、2007年7月) |
* 『近代浪漫派文庫42 三島由紀夫』([[新学社]]、2007年7月) |
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**カバー装幀画:[[クレー]]。 |
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**収録作品:十五歳詩集、[[花ざかりの森]]、[[橋づくし]]、[[憂国]]、[[三熊野詣]]、[[卒塔婆小町 (戯曲)|卒塔婆小町]]、太陽と鉄、[[文化防衛論]] |
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* 英文版『太陽と鉄―Sun and Steel』(訳:[[ジョン・ベスター]]/John・Bester)([[講談社インターナショナル]]、新装版2009年) |
* 英文版『太陽と鉄―Sun and Steel』(訳:[[ジョン・ベスター]]/John・Bester)([[講談社インターナショナル]]、新装版2009年) |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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{{脚注ヘルプ}} |
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=== 注釈 === |
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=== 出典 === |
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== 参考文献 == |
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*文庫版『太陽と鉄』(付録解説 [[佐伯彰一]])([[中公文庫]]、1987年) |
*文庫版『太陽と鉄』(付録解説 [[佐伯彰一]])([[中公文庫]]、1987年) |
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*『決定版 三島由紀夫全集第42巻・年譜・書誌』([[新潮社]]、2005年) |
*『決定版 三島由紀夫全集第42巻・年譜・書誌』([[新潮社]]、2005年) |
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*『決定版 三島由紀夫全集第33巻・評論8』(新潮社、2003年) |
*『決定版 三島由紀夫全集第33巻・評論8』(新潮社、2003年) |
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*『決定版 三島由紀夫全集第38巻・書簡』(新潮社、2004年) |
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*『決定版 三島由紀夫全集第39巻・対談1』(新潮社、2004年) |
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*『決定版 三島由紀夫全集第40巻・対談2』(新潮社、2004年) |
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*『決定版 三島由紀夫全集第36巻・評論11』(新潮社、2003年) |
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*『三島由紀夫事典』([[勉誠出版]]、2000年) |
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*『三島由紀夫事典』([[明治書院]]、1976年) |
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*『三島由紀夫を読む』([[笠間書院]]、2011年) |
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*『別冊太陽 三島由紀夫』([[平凡社]]、2010年) |
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*『新潮日本文学アルバム20 三島由紀夫』(新潮社、1983年) |
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*[[磯田光一]]『殉教の美学―三島由紀夫論』([[冬樹社]]、1964年。新装版1979年) |
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*[[田坂昮]]『増補 三島由紀夫論』([[風濤社]]、1977年) |
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*[[西部邁]]『ニヒリズムを超えて』([[日本文芸社]]、1989年) |
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*[[野口武彦]]『三島由紀夫の世界』(講談社、1968年) |
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== 関連 |
== 関連項目 == |
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*[[アポロの杯]] |
*[[アポロの杯]] |
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*[[文武両道]] |
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[[Category:三島由紀夫]] |
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2014年12月15日 (月) 04:16時点における版
太陽と鉄 Sun and Steel | ||
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著者 | 三島由紀夫 | |
イラスト | 装幀:横山明 | |
発行日 | 1968年10月20日 | |
発行元 | 講談社 | |
ジャンル | 自伝・随筆・評論 | |
国 | 日本 | |
言語 | 日本語 | |
形態 | 上製本 クロス装、段ボール機械函 | |
ページ数 | 150 | |
ウィキポータル 文学 | ||
ウィキポータル 書物 | ||
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『太陽と鉄』(たいようとてつ)は、三島由紀夫の自伝的随筆・評論。三島自身は、「告白と批評との中間形態」としている。主に自らの肉体と精神、生と死、文と武を主題に書かれたもので、三島の文学、思想、その死(三島事件)を論じるにあたり重要な作品である[1]。刊行に際しては、終章として自衛隊の練習機「F104機」に乗った記録の随筆と長詩を付加している。〈太陽〉との2度の出会い(昭和20年の夏の敗戦と昭和27年の海外旅行体験)を通じて「思考」が語られ、〈鉄〉はボディビルの鉄塊の重量(肉体をあるべきであつた姿に押し戻す働き)」として「筋肉」との関連で語られている。
1965年(昭和40年)、季刊雑誌『批評』11月号から1968年(昭和43年)6月号まで10回連載された[注釈 1]。その後、1968年(昭和43年)、文芸雑誌『文藝』2月号に掲載された随筆「F104」(のち「太陽と鉄 エピロオグ―F104」)と、1967年(昭和42年)3月14日に即興で執筆していた長詩「イカロス」を終章として加え、1968年(昭和43年)10月に講談社より単行本刊行された。翻訳版はジョン・ベスター訳(英題:Sun and Steel)で行われている。
作品成立・背景
三島由紀夫は『太陽と鉄』を、「甚だ長い時間をかけて書き、自分の文学と行動、精神と肉体の関係について、能ふかぎり公平で客観的な立場から分析したもの」だとし[2]、「この〈公平〉といふこと、肉体と精神の双方に対して〈公平〉であるといふ態度ほど、日本知識人にとつて難解な態度はないらしく、このエッセイに深甚な関心を示されたのは、虫明氏や秋山駿氏や少数の人だけであつた」と残念がりながら、以下のように語っている[2]。
実際、肉体と精神双方に対して公平であることが、無私に通ずるかどうかは疑はしい。無私は多くは自虐の仮面によつて受け入れられやすいものだからである。「太陽と鉄」は、私のほとんど宿命的な二元論的思考の絵解きのやうなものであり、二元論的思考の発生の生理学的必然性の物語でもあるが、日本の風土のなかでは、「一如」はあつても二元論はない。それは又、西欧的な意味の「劇」を成立たせる基盤がないことでもある。私が二元論者であること、文学と行動とどちらをも等分に重視すること、私が劇作家であること、私の小説は劇的構造に偏しすぎること、私の政治的思考が極端な対立状況に傾きがちなこと、……全く、「物が二つになるが悪しきなり」といふ精神風土で、この態度は一体何たることであらうか。私の「絶対矛盾的自己同一」はそもそもどこに存在するのか。 — 三島由紀夫「序文」(『三島由紀夫文学論集』)[2]
また自著『作家論』の「あとがき」では、その書と共に『太陽と鉄』を、「私の数少ない批評の仕事の二本の柱を成すものと考へられてよい」と述べている[3]。
内容・あらまし
- 太陽と鉄
- 世の通常の人と違い、幼時から「言葉」の「腐食作用」に「現実」が蝕まれ、肉体的な存在感というものに欠けていた「私」(三島由紀夫)は、「現実・肉体・行為」を他者の側に置いていた。その二律背反は誤解や仮構であったが、「私」はずっと「あるべき肉体」、「〈肉体〉の言葉」を渇望していた。
- 敗戦の日の〈太陽〉の「死のイメージ」から、〈太陽〉から肉体の恵みを受けるとは思っていなかった「私」だったが、世界旅行(『アポロの杯』)の船上で〈太陽〉と「和解」して以来、自身の「家屋」(自我)を取り巻く「果樹園」(肉体)を〈太陽〉と〈鉄〉で耕し、遅れながらもようやく、存在と行為の感覚を体得し、「肉体の言葉」を学んだ。そして「私」は、神輿担ぎの肉体的な苦痛の中で見上げた「集団的視覚の一片」である「青空」の澄明を見て、〈悲劇的なもの〉の本質が、「平均的な感受性が或る瞬間に人を寄せつけぬ特権的な崇高さを身につけるところ」に生じ、「悲劇」「全的な存在」に参加することで初めて「感受性の普遍性」、他者と同一性を掴むことができるのを知った。
- ボディビルで肉体が鍛錬されるにしたがって、言葉が抽象化の機能を持つように、筋肉にも、「われわれが通例好加減に信じてゐる存在の感覚」を噛み砕き、それを「透明な力の感覚」に変化させる「抽象性」を帯びることを「私」は看取した。その力の感覚の先には、言語表現(想像力で〈物〉を作る)の対極にある「実在」が潜んでいた。それは「私」を見返す「敵」であり、「敵」(見返す実在)とは、究極的には「死」に他ならなかった。「私」(三島)は明晰な意識で「死」を捉えようとする。
意識は一見受身のやうに思はれ、行動する肉体こそ「果敢」の本質のやうに見えるのだが、肉体的勇気のドラマに於ては、この役割は実は逆になる。肉体は自己防衛の機能へひたすら退行し、明晰な意識のみが、肉体を飛び翔たせる自己放棄の決断を司る。その意識の明晰さの極限が、自己放棄のもつとも強い動因をなすのである。 苦痛を引受けるのは、つねに肉体的勇気の役割であり、いはば肉体的勇気とは、死を理解して味ははうとする嗜欲の源であり、それこそ死への認識能力の第一条件なのであつた。書斎の哲学者が、いかに死を思ひめぐらしても、死の認識能力の前提をなす肉体的勇気と縁がなければ、ついにその本質の片鱗をもつかむことがないだらう。 — 三島由紀夫「太陽と鉄」
- 文学(芸術)の世界において「私」が練磨した「文体」は、胸を張った軍人のような「式典風な荘重な歩行」を保つ「筋肉的な装飾」の文体であった。姿勢を崩さねば見えない真実があることは知っているが、それは他人の文体に委せておけばよかった。行動の世界においては、「文」(芸術)の反対の「武」の原理である「充溢した力や生の絶頂の花々しさや戦ひの意志」の倫理を希求し、「文武両道」の理念を「私」は夢みた。
「文」の原理とは、死は抑圧されつつ私かに動力として利用され、力はひたすら虚妄の構築に捧げられ、生はつねに保留され、ストックされ、死と適度にまぜ合はされ、防腐剤を施され、不気味な永生を保つ芸術作品の制作に費やされることであつた。むしろかう言つたらよからう。「武」とは花と散ることであり、「文」とは不朽の花を育てることだ、と。そして不朽の花とはすなはち造花である。かくて「文武両道」とは、散る花と散らぬ花とを兼ねることであり、人間性の最も相反する二つの欲求、およびその欲求の実現の二つの夢を、一身に兼ねることであつた。(中略)「文武両道」はその絶対的な形態をとることはきはめて稀であり、よし実現されても、一瞬にして終るやうな理念なのである。 — 三島由紀夫「太陽と鉄」
- 自衛隊体験入隊の訓練において、「言葉の要らない幸福」を得た「私」は、その一瞬で瓦解する「完璧な存在感」が、言葉でなく「筋肉」を以てしか保障されないことを知り、見るだけでは触れえない「存在感覚の根本」との距離を埋めて、「存在の確証」を得たいと願ったとき、「自意識と存在との間の微妙な背理」が「私」を悩ませた。「私」は破壊される林檎の運命を身に負うていた。
私が幸福と呼ぶところのものは、もしかしたら、人が危機と呼ぶところのものと同じ地点にあるのかもしれない。言葉を介さずに私が融合し、そのことによつて私が幸福を感じる世界とは、とりもなほさず、悲劇的世界であつたからである。(中略)そこでだけ私がのびやかに呼吸をすることのできる世界、完全に日常性を欠き、完全に未来を欠いた世界、それこそあの戦争がをはつた時以来、たえず私が灼きつくやうな焦燥を以て追ひ求めてゐたものであつたが、言葉は決して私にこれを与へなかつたのみか、むしろそこから遠ざかるやうに遠ざかるやうにと私を鞭打つた。なぜなら、どんな破滅的な言語表現も、芸術家の「日々の仕事(ターゲヴェルク)」に属してゐたからである。 — 三島由紀夫「太陽と鉄」
- 言葉はいくら破壊的な装いをしていても、「生存本能」と関わり、「私」が〈生きたい〉と望んだ時、回復術として有効に使用されたのだ。いまや「私」は行動の「修羅道」に入っていたが、それは一方では「言葉に無垢の作用のみ」を見ていた少年時代の幸福への「復元」でもあり、「私」の「黄金時代への回帰」でもあったのだ。戦争中の少年の「私」は、言葉の世界に放蕩していたが、それでも同時に〈終り〉を認識していたことは確かである。
- 「私」は特攻隊の遺書を江田島の参考館で読み、精神が〈終り〉(死)を認識した時、その精神にとって「言葉」がどう作用するのかを見た。特攻隊の美しい二種の(口ごもる、あるいは既成の簡潔な成句に託した)遺書に比して、「私」の言葉は「芸術性」に犯されていたが、〈終り〉を認識していたことに同一性があったといえまいか。「私」の精神は再び、〈終り〉を認識しなければ、「真の自由」はないのである。
- 「私」が逃したのは「集団の悲劇」だった。肉体的な能力に欠けていた「私」は、いつもそこから拒まれているように感じていたが、今や「私」は集団の一人として〈同苦〉の概念を得て、「神聖な青空」を見た。「集団といふものは肉体の原理にちがひない」と「私」が幼時に直感していたことは正しかったのである。「私」はすでにあの時から、「個性の閾」を越えた「集団の意味」に目覚める日の到来を予見していたのかもしれない。
- エピロオグ――F104
- 地上において、じっと机上に向い「知的冒険」をし、「精神の縁」へと「虚無への落下の危険」を冒すとき、精神も、「肉体の縁」のような極度の肉体疲労の中に見える〈肉体のあけぼの〉と同様の「黎明」を垣間見ることがある。だがこの両者は似通うことはなかった。しかしどこかで繋がる筈である。
- 「肉体の縁」と「精神の縁」にだけ興味を寄せてきた「私」は、その二つが繋がる「運動の極みが静止であり、静止の極みが運動であるやうな領域」、「高い原理」を「死」だと考えていたが、それを神秘的にも捉えすぎていた。
地球は死に包まれてゐる。空気のない上空には、はるか地上に、物理的条件に縛められて歩き回る人間を眺め下ろしながら、他ならぬその物理的条件によつてここまでは気楽に昇れず、したがつて物理的に人を死なすこときはめて稀な、純潔な死がひしめいてゐる。人が素面で宇宙に接すればそれは死だ。宇宙に接してなほ生きるためには、仮面をかぶらねばならない。酸素マスクといふあの仮面を。精神や知性がすでに通ひ馴れてゐるあの息苦しい高空へ、肉体を率いて行けば、そこで会ふのは死かもしれない。精神や知性だけが昇つて行つても、死ははつきりした顔をあらはさない。そこで精神はいつも満ち足りぬ思ひで、しぶしぶと、地上の肉体の棲家へ舞ひ戻つて来る。彼だけが昇つて行つたのでは、つひに統一原理は顔をあらはさない。 — 三島由紀夫「エピロオグ――F104」
- 酸素マスクをつけた「私」は或る日、銀色に輝くF104超音速ジェット戦闘機の気密室の中にいた。風防ガラスにふりそそぐ太陽の光の中、「私」は、危険な宇宙線に充ちた「超人間的な光り」である「裸かの光輝」に、「栄光の観念」を見る。「私」の心はのびやかであった。そのとき「私」は、地球を取り巻いている「蛇」を見た。
- 後半部では、前半部を相対させて、昇天の欲望を「地」の仕組んだ「懲罰」と捉えられ、自己の「柔らかさ」(地上を嫌悪する弱い心)が墜落により、〈鉄〉と化した大地に打ちすえられる。最後の一節は以下のようになる。
されば そもそも私は地に属するのか? さうでなければ何故地は かくも急速に私の下降を促し 思考も感情もその暇を与へられず 何故かくもあの柔らかなものうい地は 鉄板の一打で私に応へたのか? 私の柔らかさを思ひ知らせるためにのみ 柔らかな大地は鉄と化したのか? 堕落は飛翔よりもはるかに自然で あの不可解な情熱よりもはるかに自然だと 自然が私に思ひ知らせるために?
空の青は一つの仮想であり すべてははじめから翼の蝋の つかのまの灼熱の陶酔のために 私の属する地が仕組み かつは天がひそかにその企図を助け 私に懲罰を下したのか? 私が私といふものを信ぜず あるひは私が私といふものを信じすぎ 自分が何に属するかを性急に知りたがり あるひはすべてを知つたと傲り 未知へ あるひは既知へ いづれも一点の青い表象へ 私が飛び翔たうとした罪の懲罰に? — 三島由紀夫「イカロス」
文壇の反響
同時代評の反応としては、好意的に読み取るものと、否定的なものが混ざっている。虫明亜呂無は、三島の克己と忍辱の美学を高く評価し[4]、秋山駿も、「そこにある言葉、あるいは精神が、他から何も借りないで、実に純粋にそれ自身の働きによって一つの空間を作っている」とし[5]、ニーチェ風の「病者の光学」を看取して好意的に評している[6]。その一方、森川達也は、肉体や存在の追及というテーマを描こうとした三島の意図は評価しながらも、そこに新しい発見が見出せないと評している[7]。石川淳は、観念的な論理への危惧を呈して、『太陽と鉄』を「本朝ますらおの道の記」と述べている[8]。
磯田光一は『太陽と鉄』に、芸術の本質と限界を悟った芸術家の宿命を看取し、「天皇への愛慕を叙情的に語れば、それが滑稽に見えるであろうこと」を自覚していた三島が文学で、戦時の「原体験を造形することだけ」では救われない地点にあり、『太陽と鉄』が「創作への懐疑」に彩られていることを鑑みて[9]、「滑稽に堕することなく、しかも自己救済を達成するにはどうしたらよいか。それは“喜劇”ならぬ“悲劇”にふさわしいだけの肉体をもち、同時に「天皇」を無限遠のかなたに究極目的として設定することである」とし、以下のように考察している[9]。
作品評価・解釈
『太陽と鉄』は三島の思想や文学を語る上で、いくつもの重要な論点が含まれ、その内容には、三島の現実の死に関わるものがあるため、数多くの論究や分析がなされているが、三島の強い個性が表明されている作品ゆえに、その評価も好悪が分かれており、三島文学のバイブルとして熱烈な支持がある一方で、直に向き合わない言及も見られる[1][10]。ドナルド・キーンなどは、『太陽と鉄』を解らないとし、「全体としては、なんともいえない不愉快な作品なんです」と述べている[11]。
上野昮志は、『太陽と鉄』には「三島自身のことばと肉体についての思考が明確なかたちで対象化していて、あますところがない」とし、「読者に沈黙を強いるところがある」と述べている[12]。比較的近年のものとしては、小杉英了が、肉体改造によって生命力を意識的に捉えた三島の軌跡を論究し[13]、養老孟司は、言葉と身体が乖離しているために、逆に身体が追求される社会状況を、三島は先取りしていたと考察している[14]。なお、英訳の出版が三島の自決直後であったために、海外でもかなりの反響を呼んだ[10]。
田坂昮は、『仮面の告白』を「肉体の喪失篇」とするならば、『太陽と鉄』は「肉体の形成篇」であり、「両者はジャンルを異にしながらも、あたかも陰画と陽画のように、二十年の歳月をへだてて多くの点で照応している」とし[15]、前者では〈集団の悲劇〉から、〈拒まれた者〉〈見る者〉であった三島が、後者では、「向う岸の〈与る者〉の側」に移行して、〈拒まれた者〉の孤独の目に映っていた〈至純の青空〉が、〈集団的視覚〉に映る〈初秋の絶対の青空〉になっていると考察しながら、「集団的陶酔」は、ニーチェのいう〈ディオニュソス的陶酔〉〈個体の破壊とその根源的存在との合一〉と等質のものだとし、以下のように論考している[15]。
肉体を得た三島氏は、「現代文化の荒廃と衰弱のさなかにあって」(ニーチェ)、いまこそニーチェとともに、こんな叫びをあげたいとは思わないであろうか。すなわち「生(レーベン)と苦(ライト)と快(ルスト)のこの過剰のただなかに、悲劇の女神は崇高な恍惚にひたりながら坐っている。彼女は、はるかな哀愁の歌に耳をかたむける――歌は存在の母たちのことを語っている。その名は妄想(ヴァーン)・意志(ヴィレ)・悲嘆(ヴェー)というのだ。――おお、友らよ、私とともにディオニュソス的生命を、そして悲劇の再生を信じたまえ!……今はただ、敢然として悲劇的人間となれ!」(『悲劇の誕生』)。悲劇への道――それが三島氏にとって何であるかをわれわれはすでに知っている。 — 田坂昮「『太陽と鉄』―〈悲劇的なもの〉への憧れから〈悲劇〉への参加へ―」[15]
佐伯彰一は『太陽と鉄』を、三島が『私の遍歴時代』の中で述べていた〈現在の、瞬時の、刻々の死の観念〉[16]を中核とする三島の「メタフィシックスの首尾一貫した展開であり、見事な詩的結晶」だと評している[17]。そしてそういった「超越的な飛翔の一つの詩的頂点」の謳い上げともいうべきものが、「エピロオグ」のF104搭乗体験の描写だとし、三島が「ほとんど一切を自意識しながら、壮絶な自死を敢行したと、呟かざるを得ない」としながら、「三島流ミスチシズムの精髄――少なくともその基本構造」は、『太陽と鉄』のうちに、「冷たいパトス」をもって、縦横に説き明かされ定着している」と佐伯は解説している[17]。
西部邁は、「(保守派が)胸元にぶらさげる正義と名誉、そして人知れずその背中に負う虚無と自由」というテーマに「身を焦がした」のが三島だとし、様々な三島論に見られる、ホモセクシャル、マゾヒズム、ナルシシズム、タナトス、仮面だの素面だと、こねくり回した「過度に文学的な」論に疑問を呈し、〈無意識といふものは、絶対におれにはないのだ〉と安部公房に向って堂々と「意識の自己制御」を示していた三島にとっては[18]、それら過度に文学的な「凡百の動機論はせいぜいのところその脇腹をかする程度の話」だとして[19]、三島の政治的な側面を全く無視して「三島の晩年を文学的な視角からだけみるのは納得がいかない」としながら『太陽と鉄』を論じて、同意する部分と不同意の部分を分析して、以下のように語っている[19]。
保守は彼の矯激を嫌う、しかしその情念と決断の烈しさは買う。保守は彼の不明晰を批判する、しかしその修辞法が思想表現に不可欠であることは認める。保守は彼の単純な二分法の論理に与しない、しかし言葉が結局は二分法の秩序に従うことは承認する。保守は彼の日常性からの逃走に反撥する、しかし精神が非日常性のなかで孤立したり狂乱したりするのには寛大である。保守は彼と同じく伝統を保守する、しかし保守の思う伝統は、それが平衡の智慧であるために、彼のような平板さや硬直を免れている。保守は彼のように死神と交際するのを好まない、しかし死がひたひたとわれわれを追っていることには敏感である。保守は彼の自己信仰とそれに由来する自己放棄の途はとらない、しかし、自己懐疑と自己把持に品位をもたせるためにも、自己を信じ自己を捨ててかからなければならないことはわかっている。 — 西部邁「明晰さの欠如」[19]
中野新治は、終章に付された長詩『イカロス』を、「三島の本質を解明に表現したものとして注目に価する」とし、その詩の形式や疑問符の数などの細かい点にまで「シンメトリカルへの希求」「形式美」が見られることを指摘しながら、それを、「人間の世界のありのまま=混沌・無秩序への否定と嫌悪から成立するもの」と考察し、〈詩とは、陸に住んで空を飛びたかっている海の動物の記録である〉と言ったカール・サンドバーグや、『よだかの星』で「この世からの離脱・天上での永生を願った」宮沢賢治、『水中花』を吟じ、天を仰いでいた伊東静雄と、三島は「同じ資質を持つ者」だと考察している[20]。
そして中野は、野口武彦が三島を〈形而上的種族〉と呼び、〈その未生以前である時期に何ものかを見て網膜を強く灼かれた記憶を心の中に蔵していて、爾後、それと同程度に強烈な体験を求めて、或る形而上的彷徨に出発するという宿命を負う〉性質を持つ種族と捉えて、三島に〈アンジェリスム〉(ロマン主義的人間の魂の輪郭)を看取していること[21]に同意し[20]、『イカロス』の後半で、〈彼方〉(太陽)への憧れの〈昇天の欲望〉が〈地〉が仕組んだ〈懲罰〉とされ「鉄板と化した大地でしたたかに打ちすえられる」という宿命の結末に、「三島の〈形而上的彷徨〉がこの上なく真摯なものであったこと」が明らかだとし[20]、三島が「楯の会」を設立して自死に至ったことと、宮沢賢治が〈怒りの苦さまた青さ/四月の気層のひかりの底を/唾し はぎしりゆききする/おれはひとりの修羅なのだ〉(『春と修羅』)と吟じ、自己を「天上から追放された〈修羅〉」と位置づけ、その行き場のない「青い怒り」を治めるかのように、「羅須地人協会」を設立し早世したことに「同質」を看取し、以下のように論考している[20]。
地にあるものを無化する「絶えざる青の注視」は、天から与えられたものなのであり、その自死は強いられた「形而上的彷徨」に終止符を打つものであったと言う他はない。(中略)疑問符の多様は、彼が自己追求によって切り開いた〈書く世界〉の困難を示している。三島にとっては、自己を信じないことが、自己を信じる唯一の根拠であった。自己が属する世界はどこにもないと知ることが、自己が属する世界を指し示していた。それこそが「青い表象」の世界、〈書く世界〉であった。それは足場のない所に建造物を組み立てることにたとえられるだろう。あるいはまた、その反自然性と意識の過剰による言葉の扼殺の世界と見なせるかもしれない。 — 中野新治「文学を否定する文学者―三島由紀夫小論―」[20]
映画化
- 『Mishima: A Life In Four Chapters』 1985年(昭和60年) 日本未公開
おもな刊行本
- 『太陽と鉄』(講談社、1968年10月20日)
- 文庫版『太陽と鉄』(講談社文庫、1971年12月15日)
- 文庫版『太陽と鉄』(中公文庫、1987年11月10日)
- 『三島由紀夫文学論集 I 』虫明亜呂無編(講談社文芸文庫、2006年4月11日) ISBN 406198439X
- 収録作品:太陽と鉄、小説家の休暇、「われら」からの遁走、私の中の「男らしさ」の告白、精神の不純、わが非文学的生活、自己改造の試み、実感的スポーツ論、体操、ボクシングと小説、私の健康、私の商売道具
- 『近代浪漫派文庫42 三島由紀夫』(新学社、2007年7月)
- 英文版『太陽と鉄―Sun and Steel』(訳:ジョン・ベスター/John・Bester)(講談社インターナショナル、新装版2009年)
脚注
注釈
出典
- ^ a b c 『三島由紀夫事典』(勉誠出版、2000年)
- ^ a b c 三島由紀夫「序文」(『三島由紀夫文学論集』)(講談社、1970年)
- ^ 三島由紀夫「あとがき」(『作家論』)(中央公論社、1970年)
- ^ 虫明亜呂無「書評」(週刊読書人 1969年2月3日号に掲載)
- ^ 秋山駿(三島由紀夫との対談)「私の文学を語る」(三田文学 1968年4月号に掲載)
- ^ 秋山駿「書評」(月刊ペン 1969年3月号に掲載)
- ^ 森川達也「」(図書新聞 1968年12月7日号に掲載)
- ^ 石川淳「文芸時評」(朝日新聞夕刊 1970年4月28日号に掲載)
- ^ a b c 磯田光一「文芸時評」(読売新聞 1968年11月19日号に掲載)。「三島由紀夫と現代」(磯田光一『殉教の美学―三島由紀夫論』)(冬樹社、1964年。新装版1979年)
- ^ a b 『三島由紀夫事典』(明治書院、1976年)
- ^ ドナルド・キーン・徳岡孝夫『悼友紀行』(中央公論社、1973年。中公文庫、1981年)
- ^ 上野昮志「太陽と鉄」(ユリイカ 1976年10月号に掲載)
- ^ 小杉英了『三島由紀夫論』(三一書房、1997年)
- ^ 養老孟司『身体の文学史』(新潮社、1997年)
- ^ a b c 田坂昮「『太陽と鉄』―〈悲劇的なもの〉への憧れから〈悲劇〉への参加へ―」(『増補 三島由紀夫論』)(風濤社、1977年)
- ^ 三島由紀夫「私の遍歴時代」(東京新聞夕刊 1963年1月10日 - 5月23日号に掲載)。『私の遍歴時代』(講談社、1964年)
- ^ a b 佐伯彰一「解説」(文庫版『太陽と鉄』)(中公文庫、1987年)
- ^ 三島由紀夫(安部公房との対談)「二十世紀の文学」(文藝 1966年2月号に掲載)
- ^ a b c 西部邁「明晰さの欠如」(海燕 1988年11月号に掲載)
- ^ a b c d e 中野新治「文学を否定する文学者―三島由紀夫小論―」(『三島由紀夫を読む』)(笠間書院、2011年)
- ^ 野口武彦『三島由紀夫の世界』(講談社、1968年)
参考文献
- 文庫版『太陽と鉄』(付録解説 佐伯彰一)(中公文庫、1987年)
- 『決定版 三島由紀夫全集第42巻・年譜・書誌』(新潮社、2005年)
- 『決定版 三島由紀夫全集第33巻・評論8』(新潮社、2003年)
- 『決定版 三島由紀夫全集第38巻・書簡』(新潮社、2004年)
- 『決定版 三島由紀夫全集第39巻・対談1』(新潮社、2004年)
- 『決定版 三島由紀夫全集第40巻・対談2』(新潮社、2004年)
- 『決定版 三島由紀夫全集第36巻・評論11』(新潮社、2003年)
- 『三島由紀夫事典』(勉誠出版、2000年)
- 『三島由紀夫事典』(明治書院、1976年)
- 『三島由紀夫を読む』(笠間書院、2011年)
- 『別冊太陽 三島由紀夫』(平凡社、2010年)
- 『新潮日本文学アルバム20 三島由紀夫』(新潮社、1983年)
- 青海健『三島由紀夫の帰還 青海健評論集』(小沢書店、2000年)
- 磯田光一『殉教の美学―三島由紀夫論』(冬樹社、1964年。新装版1979年)
- 田坂昮『増補 三島由紀夫論』(風濤社、1977年)
- 西部邁『ニヒリズムを超えて』(日本文芸社、1989年)
- 野口武彦『三島由紀夫の世界』(講談社、1968年)