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[[ファイル:135th Tenno Sho Spring 2007 vol2 DSCN3842 20070429.JPG|thumb|250px|ゴール前の直線(第135回天皇賞・春)]]
[[ファイル:135th Tenno Sho Spring 2007 vol2 DSCN3842 20070429.JPG|thumb|250px|ゴール前の直線(第135回天皇賞・春)]]
[[ファイル:2008 Tenno Sho.jpg|thumb|250px|ゴールの瞬間(第138回天皇賞・秋)]]
[[ファイル:2008 Tenno Sho.jpg|thumb|250px|ゴールの瞬間(第138回天皇賞・秋)]]
'''天皇賞'''(てんのうしょう)とは[[日本中央競馬会]](JRA)が春・秋に年2回施行する[[中央競馬]]の[[重賞]][[競馬の競走|競走]]([[競馬の競走格付け|GI]])である。明治時代より100年以上の歴史をもち、日本で最も重要な競走の一つとなっている。現在は皇室から賞品として優勝楯が下賜されており、“盾”と通称することもある。
[[ファイル:Happy might.jpg|thumb|250px|第1回帝室御賞典優勝馬・ハツピーマイト]]
'''天皇賞'''(てんのうしょう)とは[[日本中央競馬会]](JRA)が春・秋に年2回施行する[[中央競馬]]の[[重賞]][[競馬の競走|競走]]([[競馬の競走格付け|GI]])である。


記事内では春に[[京都競馬場]]で施行される競走を'''天皇賞(春)'''(または「春の競走」)、秋に[[東京競馬場]]で施行される競走を'''天皇賞(秋)'''(または「秋の競走」)とそれぞれ表記する。
記事内では春に[[京都競馬場]]で施行される競走を'''天皇賞(春)'''(または「春の競走」)、秋に[[東京競馬場]]で施行される競走を'''天皇賞(秋)'''(または「秋の競走」)とそれぞれ表記する。


== 歴史 ==
== 歴史 ==
天皇賞のルーツをたどると、1905年(明治38年)に横浜競馬場で行われた'''The Emperor's Cup'''<ref name="JRA注目">{{Cite web|url=http://www.jra.go.jp/keiba/thisweek/2014/0504_1/playback.html|title=今週の注目レース(第149回天皇賞・春)|publisher=JRAホームページ|accessdate=2014-4-20}}</ref><ref group="注">JRAでは、これを天皇賞の前身としている。</ref>や、明治初期の'''Mikado's Vase'''にまで遡ることができる<ref name="hyakka_ten" /><ref name="NRC_60-62">『日本レース・クラブ50年史』p60-62「帝室御賞典競走の誕生」</ref>。これらの競走が誕生した背景には、当時の日本が直面していた外交問題が強く影響している。直接の前身は「'''[[帝室御賞典]]'''」で、日本中央競馬会(JRA)は1937年(昭和12年)秋の帝室御賞典を天皇賞の第1回としている<ref name="JRA注目" />。帝室御賞典は明治末期から1937年まで日本各地で年に10回行われていた同名の競走を集約し、年2回の施行としたものであった<ref name="hyakka_ten">『競馬百科』p85-86「天皇賞競走」</ref>。
[[ファイル:Emperor's Cup yokohama 1908.jpg|thumb|150px|1908年の帝室御賞典で日本レースクラブに下賜された御紋付花盛器(横浜競馬場メインスタンド)]]
[[ファイル:147th Tennosho spring (16 Ceremony 02) IMG 2652 20130428.JPG|thumb|150px|現在の御賞典となる天皇盾(第147回天皇賞)<br />馬主が白手袋を着用しているのがわかる]]
[[1905年]]5月6日に横浜の日本レースクラブが[[明治天皇]]から下賜された御賞典を争った「'''エンペラーズカップ'''」を前身としている<ref name="JRA注目">{{Cite web|url=http://www.jra.go.jp/keiba/thisweek/2014/0504_1/playback.html|title=今週の注目レース 天皇賞(春)|publisher=JRAホームページ|accessdate=2014-4-20}}</ref>。その後、東京競馬倶楽部にも御賞典が下賜されるなど各地の7競馬倶楽部が「'''[[帝室御賞典]]'''(ていしつごしょうてん)」を行うようになったが、[[日本競馬会]](JRAの前身<ref>[http://jra.jp/keiba/thisweek/2014/0302_1/ 今週の注目レース - 第88回中山記念(JRA公式サイト)]</ref>)が創設された翌年([[1937年]])に各競馬倶楽部が日本競馬会へ統合されたのを機に、施行場を[[阪神競馬場]](春)と[[東京競馬場]](秋)に集約して年2回の施行とし、同年12月3日に東京で行われた芝2600メートルの競走を「第1回帝室御賞典」とした。施行回数はここから通算している<ref name="history_nikkankeiba">[http://www.nikkankeiba.co.jp/chuo/jra50/05/05sam3.html Study!!天皇賞の歴史(日刊競馬)]</ref>。


一方、施行距離や競走条件<ref group="注">当該競走に出走できる馬の条件(馬齢・負担重量など)を定めたもの。施行コース・距離も競走条件に含まれる場合がある(現在の競走条件は後述)。</ref>は1911年(明治44年)から1937年まで行われていた「'''[[優勝内国産馬連合競走]]'''」を概ね継承している。この競走は年2回、3200メートルの距離で行われ、各馬等しい条件で日本のチャンピオンを決め、日本一の賞金を与える競走だった。
翌[[1938年]]春は芝2700メートルで施行した後、同年秋から春・秋とも芝3200メートルに変更。[[1944年]]<ref group="注">1944年の春は「能力検定競走」として、非公開で施行。</ref>から施行場を[[京都競馬場]]に移した春の競走は現在も芝3200メートルで行われているが、秋の競走は[[1984年]]から芝2000メートルに変更され、現在は春が4歳以上の長距離王、秋は3歳以上の中距離王を決定するレースとして位置づけられている<ref name="history_nikkankeiba" />。


[[太平洋戦争]]の戦局悪化による断を経て、戦後再開された[[1947年]]の「'''平和賞'''(へいわしょう)」の名称で施行。同年秋より名称が「天皇賞」とた<ref name="JRA注目" />
これらを統合して始まったが1937年秋の帝室御賞典で、戦局悪化のため1944年(昭和19年)秋に中されるまで続い。終戦後の1947年(昭和22年)「'''平和賞'''」の名称で再開、同年秋から'''天皇賞'''」と改称され現在に至ている


1937年以来「古馬の最高峰」として長らく番組<ref group="注">競馬は当該競馬場における1開催(中央競馬は原則として6日 - 12日)をひとつの単位としており、施行する競走は開催ごとに定められている。同一開催で組まれる競走の割り当てを「競馬番組(または単に番組)」と呼んでいる。</ref>体系の中心に据えられ、旧[[八大競走]]にも含まれるなどその地位を保ち続けた<ref>『ミスタージャパンカップと呼ばれた男』p116</ref>。賞金も[[東京優駿|東京優駿(日本ダービー)]]とならぶ国内最高額の競走<ref group="注">このほかに[[横浜農林省賞典四・五歳呼馬]]も同等の賞金であったが、長く続かなかったので割愛する。詳しくは[[#帝室御賞典の拡大と統一|帝室御賞典の拡大と統一]]節の注釈を参照。</ref>だったが、後に[[有馬記念]]や[[ジャパンカップ]]が創設され、やがて国内最高賞金はジャパンカップが上回るものの、2013年現在も国内で3番目の高額賞金競走となっている。
JRAの設立以前より天皇賞は「古馬最高の栄誉」とされ、一度優勝した馬には出走資格を与えない「勝ち抜き制」が[[1980年]]まで存在した<ref name="history_nikkankeiba" /><ref group="注">この制度は[[1950年]]まで[[中山大障害]]にもあった。</ref>。春・秋とも旧[[八大競走]]に含まれている。


1980年代以降に進められた様々な制度改革、賞金や競走条件の変遷を経てもなお、天皇賞は日本国内の競馬で最も長い歴史と伝統をもち、重要な競走の一つに位置づけられている。
また、長年[[三冠 (競馬)|クラシック三冠]]と同様に優秀な国内産[[種牡馬]]・[[繁殖牝馬]]を選定する観点から国内産の[[牡馬]]・[[牝馬]]しか出走できなかったが、競馬の国際化など時代の変化にあわせ徐々に出走条件の見直しが行われ、[[2000年]]から春・秋ともに2頭以内の外国産馬が出走可能になった<ref name="history_nikkankeiba" />。[[2005年]]から国際競走に指定され、出走頭数制限は[[外国産馬]]と外国馬をあわせて一体化。[[2008年]]からは[[せん馬|&#39480;馬]](去勢牡馬)も出走可能になった。


=== 起源 ===
かつて[[宮内省]](現:[[宮内庁]])から優勝馬の[[馬主]]に下賜されていた御賞典([[菊花紋章|菊花御紋]]付銀製花盛器)は、太平洋戦争の戦局悪化に伴う[[貴金属]]資源の不足により、[[1941年]]から「競馬恩賞」と書かれた菊花御紋入りの木製[[盾|楯]](優勝馬主に対する持ち回り賞品)に替わり、競馬関係者から「'''天皇楯'''(てんのうたて)」と呼ばれるようになった。現在でも天皇賞の通称が「'''盾'''」と呼ばれるのは、これに由来している。優勝馬主は表彰式で天皇盾を受け取る際、白手袋を着用することが慣例になっている。
[[ファイル:Ukiyo-e sinobazunoike Horse racing.jpg|thumb|left|競馬を観戦する明治天皇(明治17年、[[上野不忍池競馬]])]]
[[ファイル:SirClaudeMacdonald.jpg|thumb|left|130px|クロード・マクドナルド]]
[[王政復古 (日本)|王政復古]]後、[[明治維新|明治新政府]]が直面した重要な外交問題の一つは、欧米を中心とする諸外国との間に結ばれた[[不平等条約]]の[[条約改正|改正]]であった。条約改正交渉を円滑に進めたい明治政府は、[[鹿鳴館]]に象徴されるように、西洋文化を積極的に採用した。競馬もそのうちの一つで、政府や[[明治天皇]]は明治初期から西洋式の競馬を行うなど、競馬場は重要な外交の舞台だった<ref name="sisi_09">『天皇賞競走史話』p9</ref>。中でも[[横浜競馬場]]は幕末以来、外国人が設立・運営しており、競馬会の会頭も歴代の[[駐日英国大使|イギリス公使]]が務めていた<ref group="注">[[パワー・ヘンリー・ル・プア・トレンチ|トレンチ]]公使、[[アーネスト・サトウ|サトウ]]公使、[[クロード・マクドナルド|マクドナルド]]公使など(『日本レース・クラブ50年史』p57ほか)。</ref>。明治天皇は条約改正を実現するため、日本の外交官や外務担当の政治家を伴い、頻繁に横浜競馬場へ赴いていた<ref name="sisi_09"/><ref name="NRC_35-38">『日本レース・クラブ50年史』p35-38</ref><ref group="注">アーネスト・サトウなど、イギリスの外交官は皇族を横浜競馬のパトロンとして仰いだ(『横浜競馬・人名録』、p27)。</ref>。


[[イギリス]]では[[清教徒革命]]後の[[王政復古]]に際して<ref name="sekaisi_1649England">『競馬の世界史』p44-45</ref>、[[チャールズ2世 (イングランド王)|国王]]自ら競馬場に大競走('''King's Plate'''、女王時代は'''Queen's Plate''')を創設し<ref name="sekaisi_1649England" /><ref name="1660England">『競馬の世界史』p46-49</ref>、豪華な賞品を下賜した故事があり、これはイギリス王室の伝統の一つとなっていた<ref name="1660England" /><ref name="sisi_10">『天皇賞競走史話』p10</ref>。明治天皇はこの故事に倣い<ref name="sisi_10" />、横浜競馬場へ豪華な賞品(花器)を下賜した。これが1880年(明治13年)創設の'''Mikado's Vase'''である<ref name="hyakka_ten" /><ref group="注">旧幕府と借地契約を行って拓かれた横浜競馬場については、用地の賃貸料を巡って競馬場側と新政府の間に紛争があった。不平等条約(治外法権)の影響もあり、交渉は難航したが、明治13年になってようやく解決をみた。このとき、賃料で両者が合意するにあたり、政府側からは競馬場の運営組織の名称を“Japan”ではなく“Nippon”にすること等が要望され、競馬場側はこれを受け入れた。この結果、競馬場は政府の公認を得た形となり、明治天皇はこれを機に賞品を下賜した。いくつかの史料には、これ以前にも明治天皇が横浜競馬場を訪問していたという記録がある。その一方で、借地問題が未解決の競馬場に明治天皇が行幸するはずがないとして、これを否定する文献もある(『日本レース・クラブ50年史』p12-38)。</ref>。
春の競走と秋の競走は開催地など競走条件が異なるものの同じ「天皇賞」であり、施行回数は春→秋と施行順に加算している。


明治30年代になると、[[日英通商航海条約|イギリスとの条約改正]]を皮切りに、不平等条約の改正が実現した。イギリスとの間には[[日英同盟]]も締結され、[[日露戦争]]の後ろ盾となった。その日露戦争で日本の軍馬の質や数が大幅に劣っていることが露呈すると、軍部は日英同盟を頼って優秀な軍馬の大量輸入を依頼した。これに応えたイギリスは、[[イギリス連邦]]で日本に近く、かつ馬産地だった[[オーストラリア]]から3700頭あまりの馬([[豪サラ]]と呼ばれる)を日本へ緊急輸出した<ref name="NRC_56-57">『日本レース・クラブ50年史』p56-57</ref>。
== 天覧競馬 ==
[[ファイル:2012 Tennō Shō (Autumn) 002.jpg|thumb|天覧競馬となった第146回天皇賞(秋)を優勝後、本馬場で下馬し貴賓席に最敬礼するデムーロ騎手]]
2005年の第132回天皇賞は「エンペラーズカップ100年記念」と副題がつけられ、[[明仁|今上天皇]]・[[皇后美智子|皇后]]の天覧競馬が実現した。天皇が天皇賞を観戦した例は史上初めてであり、天覧競馬も1899年以来106年ぶりとなった<ref name="tenran2005">[https://www.prcenter.jp/yushun/read/1209.html 優駿公式サイト(今月の立ち読み)]</ref>。当初は前年の[[2004年]]に予定されていたが、同年[[10月23日]]に発生した[[新潟県中越地震]]の被害を考慮して取り止めとなっていた。


こうした一連のイギリスとの外交交渉で大きな役割を担ったのが、イギリス[[特命全権公使|公使]]の[[クロード・マクドナルド]]である<ref name="NRC_60-62" />。マクドナルドは当初公使だったが、1905年(明治38年)に[[特命全権大使|全権大使]]へ昇任した。マクドナルドと個人的な信頼関係を結んでいた明治天皇は昇任にあたり、マクドナルドへ「菊花御紋付銀製花盛器」を贈呈した<ref name="siwa_2426">『天皇賞競走史話』p24-26</ref><ref name="NRC_60-62" />。当時、マクドナルドは横浜競馬場の会頭に就任しており、明治天皇から贈られた盃(当時は『'''尊重の重宝'''』と和訳している)を賞品として、'''The Emperor's Cup'''(エンペラーズカップ)を開催した<ref name="siwa_2426" /><ref name="NRC_56-57" /><ref name="5hensen">『日本競馬史』5巻、p416-425「帝室御賞典競走の変遷」</ref>。以来、横浜競馬場では毎年この競走に際して明治天皇から賞品が下賜されるようになった。これがのちに日本語で「帝室御賞典」などと訳されるようになり<ref name="hyakka_ten" /><ref name="NRC_56-57" /><ref name="NRC_60-62" /><ref name="siwa_2426" /><ref name="5hensen" />、JRAでは「天皇賞の前身」としている<ref name="JRA注目" />。
その後、「近代競馬150周年記念」と副題がつけられた2012年の第146回天皇賞でも天覧競馬が実施された。


横浜競馬場は外国人が運営し、書類や記録もすべて英語表記だったため、“The Emperor's Cup”はときの担当者によって様々に和訳されていた。1905年(明治38年)には“'''皇帝陛下御賞盃'''”<ref group="注">雑誌「優駿」では“The Emperor's Cup”の日本語訳として、これを採用している。</ref><ref name="tenran2005" />、1906年(明治39年)には“'''宮中御賞盃'''”と訳され<ref name="hyakka_ten" />、1907年(明治40年)からは新聞報道でも使われた“'''帝室御賞典'''”の訳で統一されるようになった(後述)<ref name="hyakka_ten" /><ref name="siwa_2426" />。
2005年は競走前に天皇・皇后が場内の[[JRA競馬博物館|競馬博物館]]で「エンペラーズカップ100年記念 栄光の天皇賞展」を鑑賞<ref name="tenran2005" />。競走後に優勝騎手の[[松永幹夫]]が貴賓席に対して馬上から最敬礼を行ったが、2012年の天覧競馬では優勝騎手の[[ミルコ・デムーロ]]がコース内でいったん下馬して最敬礼を行った。このような行為は騎乗馬が故障した場合を除き、競走後にコース内で騎手が下馬することを禁止する規則<ref>[http://jra.jp/company/law/law07.html#chap8 日本中央競馬会競馬施行規程第8章第106条3、第120条 - JRAホームページ JRA関連法令等]</ref><ref group="注">返し馬時に重りを馬場に捨て、競走後に下馬しコース上に捨てた重りを再び装着して検量室に戻るという不正を未然防止するため。</ref>に抵触するものであったが、これを理由とした制裁は行われなかった。


=== 帝室御賞典の拡大と統一 ===
なお、今上天皇・皇后は[[皇太子]]・[[皇太子妃]]だった[[1987年]]にも、天皇賞施行50周年を記念して行われた第96回天皇賞を台覧している。
[[ファイル:Happy might.jpg|thumb|250px|1937年(昭和12年)秋の帝室御賞典(第1回天皇賞に相当)優勝馬・ハツピーマイト]]
[[ファイル:Teisitu sensei.jpg|thumb|250px|帝室御賞典発走前に行われる騎手の選手宣誓]]
明治天皇は1899年(明治32年)まで盛んに競馬場へ巡幸したが、同年に不平等条約改正が実現すると、以後は一切競馬場へ赴かなくなり<ref name="sisi_11-12">『天皇賞競走史話』p11-12</ref><ref name="NRC_35-38" />、代わりに[[皇族]]や[[親王]]を名代として派遣するに留まっていた<ref name="siwa_26-33" />。これ以来、天皇による競馬観戦(天覧競馬)は2005年の第132回天皇賞まで106年間行われなかった([[#天覧競馬|後述]])。


1906年(明治39年)に日本人による本格的な[[競馬倶楽部]]として[[東京競馬倶楽部#東京競馬会|東京競馬会]]が創設された<ref name="siwa_26-33">『天皇賞競走史話』p26-33</ref>際、責任者だった[[子爵]]の[[加納久宜]]は明治天皇の臨席と賞品の下賜を打診したが、開催10日前になって賞品の下賜は許されたものの、明治天皇の巡幸は却下された<ref>『明治大正馬政功労十一氏事蹟』社団法人帝国馬匹協会、1937、p159、p168</ref><ref name="siwa_26-33" />。このとき行われた「皇室賞典」競走が当時の新聞によって「帝室御賞典」と報じられ、以後はこの名称で定着した<ref name="hyakka_ten" /><ref name="siwa_26-33" />。
== 各競走の概説 ==
=== 天皇賞(春) ===
{{競馬の競走
|馬場 = 芝
|競走名 = 天皇賞(春)
|画像 = [[File:Beat-black20120429(1).jpg|230px]]
|画像説明 = 第145回天皇賞(春)(優勝馬・ビートブラック)
|主催者 = [[日本中央競馬会]]
|開催地 = {{Flagicon|JPN}}[[京都競馬場]]
|施行時期 = 4月下旬 - 5月上旬<br />(原則3回京都4日目)
|格付け = {{Color|red|GI}}
|1着賞金 = 1億3200万円
|賞金総額 = 2億5120万円
|距離 = 芝・外3200m
|条件 = {{Nowrap|[[サラブレッド]]系4歳以上(国際)(指定)}}<br />[[#出走資格|出走資格]]も参照
|負担重量 = 定量(58kg、牝馬2kg減)
|創設 = [[1938年]][[5月15日]]
}}
'''天皇賞(春)'''(てんのうしょうはる)とは日本中央競馬会(JRA)が[[京都競馬場]]の[[芝]]3200[[メートル]]で施行する中央競馬の重賞(GI)競走である。


明治天皇から賞品を下賜されて行う帝室御賞典は、すぐに全国の競馬倶楽部へ広まった<ref name="hyakka_ten" /><ref name="siwa34-38">『天皇賞競走史話』p34-38</ref>。横浜・東京に続いて[[阪神競馬倶楽部|阪神]]へも年2回の下賜が認められた<ref name="hyakka_ten" /><ref name="siwa34-38" />ほか、馬産地の[[福島競馬倶楽部|福島]]・[[札幌競馬倶楽部|札幌]]・[[函館競馬倶楽部|函館]]・[[小倉競馬倶楽部|小倉]]へも年1回の下賜が認められた<ref name="hyakka_ten" /><ref name="siwa34-38" /><ref group="注">この頃の京都競馬場は、日本でもっとも馬券売上の多い競馬場で、何度も帝室御賞典の下賜を申請したが、最後まで許可はおりなかった。後の時代に、阪神競馬場が軍に接収されて使えなくなったときに、はじめて京都競馬場で帝室御賞典が行われるようになった。(『日本競馬史』5巻,p417)</ref>。
正式名称は「天皇賞」であるが、JRAでは「天皇賞(春)」と表記している。


こうして全国各地で年に10回行われるようになった「帝室御賞典」は、いずれも1800メートルから2000メートル前後の距離で行われたが、斤量([[負担重量]])は軽いものと重いもので28ポンド(約12.7キログラム)もの差があるなど条件はまちまち<ref name="5hensen"/>で、中には前日に新馬戦を勝ったばかりの馬が帝室御賞典を勝った例もある。
正賞は天皇賞、[[日本馬主協会連合会]]会長賞。


一方、1911年(明治44年)に日本一の競走馬を決定する競走として、「'''[[優勝内国産馬連合競走]]'''(通称:連合二哩)」が帝室御賞典とは別に創設された<ref name="siwa_59-62">『天皇賞競走史話』p59-62</ref>。賞金は1着3000円、2着でも1500円で、2着賞金で比較しても帝室御賞典の6倍の額であり<ref group="注">帝室御賞典の1着馬には賞品が与えられるだけで、賞金はなかった。</ref>、当時日本国内の最高賞金レースだった<ref group="注">1910年(明治43年)当時、日本の競馬における年間賞金総額は10万円で、1着賞金だけで年間の全賞金の3%に相当することになる(『日本の競馬』、若野章、恒文社、1974、p155)。現在の天皇賞では、JRAの年間賞金総額約880億円に対し、天皇賞の1着賞金約1.3億円は約0.1%にすぎない。</ref>。距離は2マイル(約3200メートル)、条件は馬齢重量で、出走できるのは各地の競馬での優勝馬に限られていた<ref name="siwa_59-62" />。優勝内国産馬連合競走は当初年1回の施行だったが、後に年2回施行になった<ref name="siwa_59-62" />。
==== 概要 ====
[[1938年]]に4歳(現3歳)以上の[[牡馬]]・[[牝馬]]([[外国産馬]]含む)による重賞競走「'''帝室御賞典(春)'''」として創設。春の競走としての第1回は[[鳴尾競馬場]]の土2700メートルで施行された<ref name="JRA注目"/>。


昭和に入り戦時体制化が進むと、各地の競馬倶楽部は1936年(昭和11年)に発足した[[日本競馬会]]に統合され、一本化されることになった<ref name="hyakka_ten" /><ref name="siwa_59-62" /><ref name="JRA注目" />。1937年(昭和12年)から実務に入った日本競馬会のもとで、年10回施行していた帝室御賞典は春の大阪(阪神)と秋の東京に集約し、年2回の施行となった<ref name="hyakka_ten" /><ref name="siwa_59-62" /><ref group="注">実際には春に大阪、秋に東京と決まるまではかなりの紆余曲折があった。皇室から突然「今後は下賜は年2回のみ」と通達された直後に秋の東京で帝室御賞典を開催したが、帝室御賞典の創設者であり、半世紀以上にわたって皇室からの下賜競走を続けてきた横浜競馬場の関係者からは抗議が出た。理事会はひとまず翌年春の大阪開催を決め、それ以降の開催地は棚上げとし、後日協議することとした。この段階では秋の天皇賞を横浜で開催する可能性もあったが、最終的には東京で行うこととした。その代償として、横浜競馬場に東京優駿(日本ダービー)・帝室御賞典と同格の大競走「[[横浜農林省賞典四・五歳呼馬]]」を新設することになったが、横浜競馬場が軍に接収されて閉鎖されたため、1年だけ中山競馬場で行われた後に中断した。この競走が、後の「中山グランプリ(現・[[有馬記念]])」のルーツになる(『日本競馬史』5巻、p416-425「帝室御賞典競走の変遷」)。</ref>。年2回施行に改められてから初の競走は1937年秋に東京で行われた帝室御賞典で、JRAではこれを天皇賞の第1回としている<ref name="JRA注目" /><ref name="hyakka_ten" /><ref name="siwa_59-62" /><ref group="注">当時の日本競馬会は1947年(昭和22年)春に「帝室御賞典」を再開しようとしたが、ぎりぎりになって御賞典の下賜が得られないことが判明したため、「平和賞」の名称で施行。同年秋に「第2回平和賞」を予定していたところ、レース前日になって天皇楯の下賜が決まり、名称を「天皇賞」に変更して施行した。日本競馬会は後日、慣例に従って競走結果を宮内省へ奏上していおり、その時も公式に「第1回天皇賞」としている。2014年現在、日本中央競馬会は1937年秋の帝室御賞典を天皇賞の第1回としている。それに加えて、1968年に日本中央競馬会が編纂した史料では、実際に皇室からの賞典が無かった戦時中の能力検定競走や平和賞を回数に数えない考え方も示されている(『天皇賞競走史話』p68-76ほか)。</ref>。競走の名称は「帝室御賞典」が採用され、競走の中身は「優勝内国産馬連合競走」が継承された。つまり、天皇(皇室)から御賞典が下賜される点は「帝室御賞典」を受け継いでいて、距離や競走条件などは「優勝内国産馬連合競走」から継承している。これが、現在の天皇賞である<ref name="siwa_59-62" />。また、帝室御賞典は古馬<ref group="注">2001年以降の馬齢表記では4歳(2000年以前の馬齢表記では5歳)以上をさす。</ref>にとって最大の目標と位置づけられ、東京優駿(日本ダービー)など4歳<ref group="注">2001年以降の馬齢表記では3歳にあたる。</ref>馬の競走とは明確に線引きされた<ref name="JRA注目" /><ref name="hyakka_ten" /><ref name="siwa_59-62" /><ref name="5hensen" />。
[[1939年]]からは施行距離を芝3200メートル、出走資格を5歳(現4歳)以上に変更。[[1944年]]は[[太平洋戦争]](戦時中)の影響により[[阪神競馬場]]が[[大日本帝国海軍|海軍]]に接収されたため、施行場を[[京都競馬場]]の芝3200メートルに移し[[能力検定競走]]として施行<ref name="JRA注目"/>。以来「京都芝3200メートル」での施行が定着しており、現存する中央競馬の平地GI競走では最長距離<ref group="注">現存する最長距離の重賞競走は「[[ステイヤーズステークス]](3600m)」。過去にはいずれも4000mで争われた「[[中山四千米]]」や、「[[日本最長距離ステークス]]」があった。</ref>。


こうして「統一」された新しい帝室御賞典は、競走馬として日本一を決めるだけでなく、将来の種牡馬を選別するための最高の能力検査だった<ref>『優駿』昭和16年10月号</ref>。天皇を頂点とした旧帝国時代の日本において、天皇からの賞典を受けることは平民(馬主)や農民(畜産家)にとっても生涯の名誉となった<ref>『天皇賞競走史話』p1</ref><ref name="5hensen" />。
[[1957年]]より[[昭和天皇]]の誕生日である[[4月29日]]の開催で[[1989年]]まで固定され、[[日曜日]]以外にも行われていた。[[1990年]]以降は[[ゴールデンウィーク]]期間中の日曜日開催に変更され、現在に至る。


=== 戦争の影響と天皇賞のはじまり ===
[[1984年]]からはグレード制施行により、GIに格付けされた。[[1995年]]からは指定競走とされ、所定の条件を満たした[[地方競馬|地方]]所属馬にも出走資格が与えられるようになった<ref name="JRA注目"/>。
[[日中戦争]]から[[太平洋戦争]]にいたる戦時中も、帝室御賞典は下賜賞品を木製楯に代えながら続けられた([[#御賞典と天皇楯|後述]])。だが、やがて戦局が悪化すると馬主にも多くの戦死者がでるようになり、競走馬の所有権問題が浮上した<ref name="siwa_70-72">『天皇賞競走史話』p70-72</ref>。日本競馬会では全競走馬を買い上げることで問題を解決したが、「賞金や賞品を争う」という競馬の性格は維持できないため、1944年(昭和19年)は「[[能力検定競走]]」として競馬を行うことになった<ref name="siwa_70-72" />。この期間は馬券の発売を行わず、皇室からの賞品下賜も辞退している<ref name="siwa_70-72" />。帝室御賞典も1944年春は「能力検定競走」として行われたが、同年秋には中止となった。


終戦後、競馬は1946年(昭和21年)秋に再開された<ref name="siwa_72-75">『天皇賞競走史話』p72-75</ref>。帝室御賞典は1947年(昭和22年)春からの再開を決め、日本競馬会は皇室へ賞品の下賜を打診した。しかしこの時点では[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]による皇室への処分等が確定していなかったため、下賜は時期尚早として見送られた<ref name="siwa_72-75" />。既に御賞典競走を開催する前提で番組編成をしていた日本競馬会は急遽、競走名を「'''平和賞'''」に変更して施行<ref name="siwa_72-75" /><ref name="hyakka_ten" />。なお、現在は平和賞も公式な施行回数に含まれ、「第15回天皇賞」と同義に扱われている。その一方で、前述の能力検定競走や平和賞では皇室から賞品が下賜されていないことから、天皇賞の施行回数から除外する考え方もある<ref>『天皇賞競走史話』p48,p75-76</ref>。
1972年より活馬(生きている馬)の輸入自由化に伴い外国産馬が出走できなくなったが、[[2000年]]から外国産馬は総収得賞金順に上位2頭(フルゲートに満たない場合は4頭)まで出走可能になった。その後も[[2004年]]からは外国産馬の出走枠が4枠に拡大、[[2005年]]からは[[国際競走]]に指定され外国調教馬が5頭まで出走可能になったほか、外国産馬の出走枠制限も撤廃された<ref name="JRA注目"/>。


1947年(昭和22年)秋より皇室から賞品(楯)の下賜が再開され、名称も「'''天皇賞'''」に改めて施行された<ref name="hyakka_ten"/>。「天皇賞」の名称で行われるのはこれが初めてである。ただし、公式な施行回数は1937年(昭和12年)秋の帝室御賞典に遡り、「第16回天皇賞」とされた<ref name="hyakka_ten" /><ref group="注">日本中央競馬会の古い資料や出版物には、1947年秋の天皇賞を“第1回天皇賞”と表現しているものもある。</ref>。天皇賞の施行主体も日本競馬会から国営競馬を経て、1954年(昭和29年)より日本中央競馬会が引き継いだ。
[[2008年]]より[[せん馬|&#39480;馬]]が出走可能となった<ref name="JRA注目"/>ほか、[[メルボルンカップ]]({{AUS}}、GI)の前年度優勝馬<ref group="注">オーストラリアは8月から翌年7月を1シーズンとしている。</ref>を招待するようになった<ref group="注">2005年には[[2003年|2003]]・2004・2005年のメルボルンカップを優勝した[[マカイビーディーヴァ]](Makybe Diva)が出走しているが、招待はされていなかった。</ref>。また、本競走の優勝馬には同年のメルボルンカップへの優先出走権が与えられる。


==== 出走資格 ====
=== 国内古馬戦の最高峰 ===
帝室御賞典の時代から、天皇賞は古馬にとって最高峰の競走と位置づけられていた<ref name="hyakka_ten" />。当時の競走体系では、勝てば勝つほどより重い斤量を負担することになり<ref name="keibasi4_963">『日本競馬史』4巻、p963</ref>、定量で出走できる天皇賞を勝つと、以後は出走可能な競走が大きく限定される<ref group="注">諸々の事情によって異なるが、帝室御賞典を勝った後は、概して60キロ後半から70キロ後半の斤量を背負って出走することになる。</ref>ことになった。また帝室御賞典・天皇賞には1980年まで勝ち抜き制があり、一度勝った馬は再び出走することができなかった。つまり、天皇賞を勝つほどの優れた競走馬は、早く種牡馬になって競走馬の改良に貢献することが求められていた<ref name="keibasi4_963" />。
* 原則[[サラブレッド系種|サラ系]]4歳(旧5歳)以上のJRA所属の競走馬、地方所属の競走馬及び外国調教馬(9頭まで)、出走枠は18頭まで。
* レーティング順位の上位5頭に対しては優先出走が認められる([[2012年]]より。牡馬・セン馬は110ポンド、牝馬は106ポンド以上であることが条件)。
* その他の競走馬は「通算の収得賞金」+「過去1年間の収得賞金」+「過去2年間のGI(JpnI)競走の収得賞金」の総計が多い順に出走できる。
* 地方競馬所属馬は以下の競走のいずれかで所定の成績をあげると本競走に出走できる。
{| class="wikitable"
!競走名!!格付!!施行競馬場!!施行距離!!必要な着順!!備考
|-
|[[阪神大賞典]]||{{Color|blue|GII}}||{{Flagicon|JPN}}[[阪神競馬場]]||芝3000m||rowspan="3"|1・2着||rowspan="3"|本競走のステップ競走指定<br/>中央・地方の所属を問わずに、1着で優先出走権を付与(2014年から)
|-
|[[日経賞]]||{{Color|blue|GII}}||{{Flagicon|JPN}}[[中山競馬場]]||芝2500m
|-
|[[大阪杯]]||{{Color|blue|GII}}||{{Flagicon|JPN}}阪神競馬場||芝2000m
|}


多くの古馬にとって、天皇賞優勝は最大の目標であると同時に、一度優勝するとその後の目標となるレースがほとんどなくなる<ref group="注">わずかな例外として、帝室御賞典を統一した時に横浜競馬場に創設された「[[横浜農林省賞典四・五歳呼馬]]」がある。これは4歳と古馬の一流馬が対決するように企画され、しばしば帝室御賞典を勝った馬が出走した。しかし横浜競馬場自体が戦時中の1943年に閉鎖され、この競走は短い期間しか行われなかった。</ref>うえ斤量も更に増えることから、優勝後に引退する馬は少なくなかった。1937年(第1回)から1955年(第32回)までの優勝馬のうち5頭が優勝と同時に、10頭が優勝したシーズン限りで引退している。このほか、3頭が優勝後に地方競馬へ転出した。
===== 負担重量 =====
* 定量<ref name="JRA注目"/>(4歳以上58kg、牝馬2kg減)


==== コース ====
=== 新たな目標を求めて ===
1956年(昭和31年)、年末の中山競馬場に[[有馬記念]]が創設された<ref group="注">第1回は「中山グランプリ」の名称で施行したが、第2回から「有馬記念」に改められた。</ref>。これは4歳馬も古馬も分け隔てなく、その年の一流馬を集めて行う競走となった<ref name="hyakka_ari">『競馬百科』日本中央競馬会・編、みんと・刊、1976、p86「有馬記念」</ref>。
[[京都競馬場]]の芝外回り3200メートル。向正面の中央付近から発走し、約1周半する。


天皇賞を勝った古馬の一流馬にとって、有馬記念は新たな目標となった<ref name="hyakka_ari" />。有馬記念創設から2013年までの天皇賞優勝馬で、天皇賞優勝を最後に引退した馬は5頭しかいない。
==== 賞金 ====

; グレード制が施行された第89回(1984年)以降
一方、天皇賞を優勝して国内の最高峰に立った馬の一部は、新たな目標を求めて海外へ遠征するようになった<ref name="siwa_80">『天皇賞競走史話』p80</ref>。1952年にアメリカで創設された「[[ワシントンDCインターナショナル|ワシントンDC国際]]」がその代表格である<ref>『ニッポン競馬のからくり』p65</ref><ref name="JC_2730">『ミスタージャパンカップと呼ばれた男』p27-30</ref>。この競走は招待制で、日本からは天皇賞の優勝馬が招待を受けるようになった<ref name="siwa_80" />。ワシントンDC国際は11月に行われ、当時は11月下旬に行われていた天皇賞(秋)と同時期になる。当時、一度天皇賞を勝った馬は再度天皇賞に出走できなかった(勝ち抜き制)ため、秋にワシントンDC国際に挑み、12月に帰国して有馬記念へ出走する馬も現れた<ref name="siwa_80" />。
{| class="wikitable"

!回(施行年)!!総額賞金!!1着!!2着!!3着!!4着!!5着
有馬記念創設以降、1981年までの25年間で、天皇賞に勝った後海外遠征を行った馬は7頭おり、そのうち5頭は秋にワシントンDC国際へ、1頭は同時期のヨーロッパで[[凱旋門賞]]に挑んだ<ref name="JC_2730" />。しかしこれらの中から目標を達することができた馬はおらず、逆に欧米との力量差を突きつけられる結果になった<ref name="JC_2730" />。

=== ジャパンカップの創設 ===
天皇賞を勝つほどの一流馬が外国で全く勝てないという事実は、日本国内に2つの相反する考え方をもたらした<ref name="JC_80154">『ミスタージャパンカップと呼ばれた男』p80-154</ref>。1つは強力な外国の競走馬が日本へ入ってくることで国内の馬産が衰退するという脅威論、もう1つはより強い外国馬との対戦によって日本馬のレベルアップを図ろうとする門戸開放論だった<ref name="JC_80154" />。

両論を折衷して実現したのが1981年(昭和56年)に創設された[[ジャパンカップ]]である<ref name="JC_80154" />。ジャパンカップは外国から競走馬を招待し、日本の一流馬と対戦させることで、日本競馬に活力を与えようという意図で企画された<ref>『ニッポン競馬のからくり』p60</ref>。

創設以来、伝統的に11月下旬の施行が定着していた天皇賞(秋)は、ジャパンカップに時期を譲り10月に前倒しされた<ref>『ミスタージャパンカップと呼ばれた男』p116</ref>。「ワシントンDC国際」に出走した外国馬がジャパンカップへ転戦しやすいように配慮した結果である。ジャパンカップは新設競走にして賞金額が東京優駿(日本ダービー)や天皇賞、有馬記念と並ぶ高額に設定され、これは古馬の競走体系が根幹から変わることを意味した<ref>『ミスタージャパンカップと呼ばれた男』p124</ref>。[[第1回ジャパンカップ]]では、直前の[[第84回天皇賞|天皇賞(秋)]]をレコード勝ちした馬など当時の中央競馬を代表する陣容で臨んだ日本勢が外国勢の前に総崩れとなり、日本の競馬界に衝撃を与える結果となった。また、ジャパンカップの商業的な成功は日本のみならず、アジアの競馬にも変革をもたらすきっかけとなった<ref>『ニッポン競馬のからくり』p74-76</ref>。

=== 国際化と天皇賞(秋)の距離短縮 ===
ジャパンカップの創設以来、「競馬の国際化」は中央競馬の大きな目標となった。「国際化」とは、単に外国の競走馬を呼び寄せるだけでなく、制度面を含めた「国際標準」への適合をも意味していた。

日本の競馬を「国際標準」へ適合させるため、日本中央競馬会は様々な施策を打ち出した。1984年(昭和59年)に導入された「[[競馬の競走格付け|グレード制]]」もそのひとつで、当初は興行に主眼を置いた中央競馬独自の格付けに過ぎず、1970年代に欧米でつくられた「グレード制・グループ制」とはまったく互換性のないものだった<ref>『ニッポン競馬のからくり』p102-104</ref>。その後様々な開放策を実施した結果、2007年(平成19年)から互換性が認められるようになった<ref>『ニッポン競馬のからくり』p84-98</ref>。

天皇賞も国際化の流れと無縁ではなく、浮上してきたのが天皇賞の距離短縮論だった。伝統的な3200メートルの距離を尊重する意見とスピード化に対応して距離を短縮しようとする意見の対立もあった。だが、ジャパンカップで日本の一流馬がアメリカの一流とはいえない競走馬に大敗したことは、スピード化を推し進める意見を後押しすることにもなった。このように異論はあったが、1984年(昭和59年)から天皇賞(秋)は施行距離が2000メートルに短縮された<ref name="JRA注目" />。以来、天皇賞(秋)は中央競馬の「中距離ナンバー1決定戦」の性格をもつようになった<ref name="JRA注目" />。

競走の規則も見直しが図られた。1950年代に欧米で定着した[[降着制度]]は1991年(平成3年)から中央競馬でも導入されたが、この年の[[第104回天皇賞|天皇賞(秋)]]で1位入線馬が18着に降着となった。これは日本での重賞1位入線馬の降着例として史上初だっただけでなく、該当馬が圧倒的な本命馬だったことも相まって大きな話題になった。

外国産馬の出走は戦後の競走馬不足の時代に解禁され、その後再び門戸を閉ざしていたが、2000年代から徐々に緩和され、2005年(平成17年)には国際競走となって外国調教馬の出走も可能になった<ref name="JRA注目" />。

帝室御賞典時代からの制度では、1度優勝した馬に再出走を認めない勝ち抜き制が1981年(昭和56年)から撤廃された<ref name="JRA注目" />ほか、種牡馬・繁殖馬選定の観点から長年認められていなかった去勢馬(騙馬)の出走も2008年(平成20年)以降可能になった<ref name="JRA注目" />。

1937年以来「古馬の最高峰」として位置づけられてきたが、1987年(昭和62年)より天皇賞(秋)は4歳<ref group="注">2001年以降の馬齢表記では3歳。</ref>馬も出走可能となった<ref name="JRA注目" />。また1980年代以降、短距離路線・ダート路線・牝馬路線の拡充が図られたことに加え、海外遠征も容易になった<ref>『ニッポン競馬のからくり』p61-68</ref>。これにより様々なタイプの競走を選択できるようになり、天皇賞は「数ある頂点の一つ」という位置づけになっている。とはいえ、国内のGI競走では2013年(平成25年)現在もジャパンカップ、東京優駿(日本ダービー)、有馬記念に次ぐ高額賞金が設定されている。

国内最高クラスの賞金、皇室から下賜された天皇楯の権威、長い歴史と伝統などに裏打ちされ、今も天皇賞は「古馬最高の栄誉<ref name="JRA注目" />」とされている。

== 御賞典と天皇楯 ==
[[#起源|前述]]のとおり、天皇賞のルーツとなるMikado's VaseやThe Emperor's Cupなどでは、明治天皇から賞品が下賜されていた。これらは通常、貴金属としても美術品・工芸品としても価値が高いものであると同時に、「天皇から下賜された」という事実は金銭では贖えない栄誉を担うものだった。

=== 明治天皇と御賞典(賞品) ===
明治天皇は日本各地へ巡幸して、その先々で競馬を台覧し、優勝騎手や馬主らに賞金や賞品を下賜した。下賜された品々は、樽酒や[[黄八丈]]、[[絽|白絽]]の反物、[[羽二重|白羽二重]]、美術品、工芸品などである<ref>『天皇賞競走史話』p10-24</ref><ref group="注">イギリス王室でも、競馬の賞品にワインや美術品、絵画、花器、名馬の毛で出来た鞭などを下賜していた。これらの賞品は金額に換算され、当時のリーディングサイアーの統計にも反映されている(『競馬の世界史』p70)。</ref>。

横浜競馬は多くの賞金や賞品を外部のパトロンやスポンサーから得ており、とりわけ皇室や皇族はその代表格だった。例えば[[ツェサレーヴィチ|ロシア皇太子]]の名を冠した“Cesarewitch Giftという競走の賞品を実際に提供していたのは日本の皇室だった<ref>『天皇賞競走史話』付属ノートより</ref>。横浜競馬場で明治天皇が下賜したものは記録に残っているもので、「銅製花瓶」一対、「経一尺龍浮彫七宝入銀製花瓶」などがある<ref name="siwa1518">『天皇賞競走史話』p15-18</ref>。1900年(明治33年)には[[駐日ロシア大使|ロシア全権公使]][[ロマン・ローゼン|ローゼン男爵]]が[[ミラ (競走馬)|Mirror]]号の優勝により「銀製花鳥七宝菓子敷」を授与されている<ref name="siwa1518" />。ほかにも[[上野不忍池競馬|上野]]へ「[[象嵌|金象眼銅製馬]]」を下賜した記録がある<ref>『天皇賞競走史話』p18-24</ref>。なお、皇室以外からでも、横浜競馬の神奈川賞杯競走で[[中島信行|神奈川県令]]が「青銅製酒杯」を賞賜している<ref>『日本レース・クラブ50年史』巻頭およびp13</ref>。

天皇賞のルーツとされるThe Emperor's Cupの創設にあたって、明治天皇が下賜した御賞典を受け取った[[日本レース・倶楽部|日本レース倶楽部]]では“尊重の重宝”と邦訳した。一方、1906年(明治39年)秋に池上競馬場で行われた皇室賞典では「銀製花盛鉢」が下賜された。これは直径が約30センチ(1[[尺]])、深さが約15センチ(5[[寸]])の大銀鉢で、三本の脚がつき、[[菊花紋章|菊花の文様]]が[[レリーフ|高彫]]されていたと伝わる<ref name="siwa_26-33" />。以後も[[菊花紋章|菊花御紋]]付銀製花盛器(銀製鉢や洋杯)が下賜された<ref name="siwa_68-70">『天皇賞競走史話』p68-70</ref>。御賞典は拝領する側にも相応のマナーが必要とされ、馬主や関係者は拝領式の際、正装([[モーニングコート|モーニング]]か[[国民服]]、軍服でも可)で臨むこととされていた<ref>『日本競馬史』5巻p417</ref><ref group="注">こうした式典は、はじめの頃は競走終了後に行われ、その間は馬券の発売を停止していた。昭和15年からは、競走終了後に薬物検査を行うことになり、その結果が出てから拝戴式を行うため、帝室御賞典当日ではなく、後日行われるようになった。(『日本競馬史』5巻p424-425)</ref><ref group="注">[[馬主|仮定名称]]と言って馬主名義を本名とは異なる名称にする制度があるが、1941年(昭和16年)から帝室御賞典では仮定名称の使用が禁じられ、馬主は実名で出走させなければならなくなった(『日本競馬史』5巻p420)。</ref>。
<gallery>
ファイル:THE GRAND STAND YOKOHAMA RACE CLUB 1890.jpg|1888年の横浜(根岸)競馬場メインスタンドと御下賜賞品のブロンズ花瓶
ファイル:Goshouhai480.jpg|1899年5月9日に明治天皇から下賜された白銀花瓶(菊花御紋付銀製花盛器)
ファイル:Emperor's Cup yokohama 1908.jpg|1908年の帝室御賞典で日本レースクラブに下賜された御紋付花盛器(横浜競馬場メインスタンド)
</gallery>

=== 天皇楯 ===
[[ファイル:147th Tennosho spring (16 Ceremony 02) IMG 2652 20130428.JPG|thumb|right|150px|現在の御賞典となる天皇楯(第147回天皇賞)<br />馬主が白手袋を着用しているのがわかる]]
楯(プレート)の下賜もまた、イギリス王室の伝統となっている。国を追われ、亡命先のフランスで馬術を磨いた[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]は王政復古が成って戴冠すると、[[ニューマーケット競馬場]]を復興した。1665年に国王チャールズ2世はタウンプレート(The Town Plate、もしくはNewmarket Town Plate)という競走を作り、自ら優勝楯を提供した。国王自身も騎手として優勝したことがある<ref name="NMhis">[http://www.newmarketracecourses.co.uk/about-the-home-of-racing/newmarket-history/newmarket-timeline/ ニューマーケット競馬場公式HP]2014年4月29日閲覧。</ref>。この競走は「King's Plate(女王の場合はQueen's Plate。Royal Plateとも呼ばれる)」として受け継がれ、現存する世界最古の競馬の競走である<ref name="NMhis" /><ref group="注">なお、翌年(1666年)のこの競走は初めて明文化された規則に則って行われた最古の競馬の競走として記録されている([http://www.bloodlines.net/TB/Notes/EarlyRaces1650-1700.htm サラブレッド・ブラッドライン] 2014年4月29日閲覧)。</ref>。

明治天皇の時代に始まった華やかな銀杯の下賜は、大正時代に勃発した[[第一次世界大戦]]の間も絶えることなく、30年以上続いた。一方、その間に中国大陸での動乱は激しくなり、1931年(昭和6年)の[[満州事変]]、1937年(昭和12年)には7月に[[盧溝橋事件]]、8月に[[第二次上海事変|上海事変]]が相次いで起きた。

その直後である1937年9月、皇室は競馬会に対し、以後の御賞典下賜を年2回とする、という通達を行っている。この通達により、年10回行われていた帝室御賞典は年2回施行になった([[#帝室御賞典の拡大と統一|前述]])。そして皇室は、帝室御賞典の回数を減らす分、御賞典をより立派なものにすることとなる<ref name="siwa_5962">『天皇賞競走史話』p59-62</ref>。また同時期、大陸での時局の緊迫化によって軍馬の需要が急増していた。軍部はより強固な馬政統制を行うため全国の競馬倶楽部を一本化して「日本競馬会」を作った。そして帝室御賞典は、軍部の求めるスタミナ溢れる馬を作るため、長距離の2マイル戦(約3200メートル)に改められた<ref name="siwa_5962" />。

大陸での緊迫した情勢はさらに激しさを増し、[[日中戦争]]へと発展した。1939年(昭和14年)秋にはヨーロッパでドイツと連合軍が[[第二次世界大戦|戦争]]を始め、日本に対しても「[[ABCD包囲網]]」と呼ばれる経済封鎖が1941年(昭和16年)より実施され、国内では様々な物資が不足するようになった。これに伴う金属製品の統制を受け、帝室御賞典の賞杯も同年春から優勝楯に改められた<ref name="siwa_68-70" />。

新しい優勝楯の作成にあたり、[[宮内省]]は[[東京高等工芸学校]]教授の畑正吉にデザインを依頼<ref name="siwa_68-70" />。これをもとに[[鋳物師]]の持田増次郎が金物を製作し、[[めっき|金メッキ]]を施した2寸(約6センチ)もある[[菊花紋章|菊の紋章]]と、板金をはめこんだ「競馬恩賞」の文字をラワン板にあしらった金御紋章付楯(いわゆる「'''天皇楯'''」)となった<ref name="siwa_68-70" /><ref name="siwa_72-75">『天皇賞競走史話』p72-75</ref>。この天皇楯が天皇賞を「'''盾'''」と通称する由縁である。

天皇楯の下賜も能力検定競走時代に中断し、1944年(昭和19年)には競馬も中止となった。

=== 戦後の天皇賞 ===
戦争で中断した競馬は終戦後に再開され、帝室御賞典は御賞典が下賜されなかったため「平和賞」の名称で1947年(昭和22年)春に復活した([[#戦争の影響と天皇賞のはじまり|前述]])。その後、1947年秋に予定していた“第2回平和賞”の前日に皇室から天皇楯の下賜が決まった<ref name="siwa_72-75" />が、天皇楯はこれ以降持ち回り制になった<ref name="siwa_72-75" />。平和賞は急遽「天皇賞」に改称され、「第1回天皇賞<ref group="注">当時の日本競馬会は、宮内省へ結果を奏上した際に『第1回天皇賞』と報告している(『天皇賞競走史話』p72-75)。</ref>」として施行された<ref name="siwa_72-75" />。ただし、前述の通りJRAでは1937年(昭和12年)秋の「帝室御賞典」を第1回としている<ref name="JRA注目" />。

現在でも優勝馬主は表彰式で天皇楯を受け取る際、白手袋を着用することが慣例になっている。

=== 賞金 ===
2014年現在の賞金は春・秋とも同額で、下記の通り。
* 賞金総額:2億5120万円
* 1着賞金は1億3200万円で、以下2着5300万円、3着3300万円、4着2000万円、5着1320万円。

1937年に帝室御賞典が年2回施行に集約されて以来、天皇賞は日本国内で有数の高額賞金競走である。1着馬に与えられる御賞典(優勝杯、優勝楯)の金銭的価値を一切考慮に入れないとしても、長い間、1着賞金の額は常に日本国内で1位か2位を保ち続けた。2001年以降はジャパンカップ・東京優駿(日本ダービー)・有馬記念が上回っているが、2014年現在も国内で3番目の高額賞金競走となっている。

; 主要な高額賞金競走における1着賞金の変遷
* 表中の項目は[http://www.jra.go.jp/datafile/seiseki/index.html JRAデータファイル]より作成(1955年から2014年まで)。
* いずれも1着賞金のみ(付加賞<ref group="注">競馬では様々な名目で、本賞金とは別に賞金や賞品が授与される。</ref><ref group="注">1939年(昭和14年)の帝室御賞典(第4回天皇賞)の本賞金はない(賞品の優勝杯のみ)が、副賞として賞金1万5000円、さらに生産者賞1500円、調教師賞750円、騎手賞750円が授与された(『日本競馬史』5巻p418-420)。2014年の天皇賞(春)では1着賞金1億3200万円のほかに、付加賞が378万円授与されている([http://www.jra.go.jp/datafile/seiseki/g1/haruten/result/haruten2014.html JRAデータファイル 第149回天皇賞(春)])。</ref>・褒賞金など1着賞金に含めないものは除く)の比較。単位:万円
{| class="wikitable" style="text-align:center"
!年!!天皇賞<br />(帝室御賞典)!!東京優駿!!有馬記念!!ジャパン<br />カップ!!備考
|-
|-
||1937||(1.0)||1.0||-||-||<small>天皇賞の賞金は副賞。本賞は御賞典(優勝杯)</small>
|第89回(1984年)||1億4,250万円||7,500万円||3,000万円||1,900万円||1,100万円||750万円
|-
|-
||1938||(1.5)||||-||-||<small>4・5着にも賞金を出すようになる</small>
|第91回(1985年)||1億4,880万円||7,800万円||3,100万円||rowspan="2"|2,000万円||rowspan="2"|1,200万円||780万円
|-
|-
||1941||||||-||-||<small>天皇賞の本賞が楯になる</small>
|第93回(1986年)||1億5,200万円||8,000万円||3,200万円||800万円
|-
|-
||1954||||||-||-||<small>天皇賞の副賞が本賞金に含まれるようになる</small>
|第95回(1987年)||1億6,150万円||8,500万円||3,400万円||2,100万円||1,300万円||850万円
|-
|-
||1955||150||200||-||-||
|第97回(1988年)||1億8,050万円||9,500万円||3,800万円||2,400万円||1,400万円||950万円
|-
|-
||1956||150||200||200||-||<small>中山グランプリ(現・有馬記念)創設</small>
|第99回(1989年)||1億9,000万円||1億円||4,000万円||2,500万円||1,500万円||1,000万円
|-
|-
||1957||200||200||200||-||<small>3競走が最高額で並ぶ</small>
|第101回(1990年)||2億1,000万円||1億1,000万円||4,400万円||2,800万円||1,700万円||1,100万円
|-
|-
||1959||200||300||200||-||<small>再び東京優駿が単独最高額に</small>
|第103回(1991年)||2億2,800万円||1億2,000万円||4,800万円||3,000万円||1,800万円||1,200万円
|-
|-
||1960||300||500||300||-||
|第105回(1992年)||rowspan="3"|2億4,800万円||rowspan="3"|1億3,000万円||rowspan="3"|5,200万円||rowspan="3"|3,300万円||rowspan="3"|2,000万円||rowspan="3"|1300万円
|-
|-
||1965||800||1000||800||-||
|第107回(1993年)
|-
|-
||1970||2000||2300||2000||-||
|第109回(1994年)
|-
|-
||1973||3400||3600||3400||-||
|第111回(1995年)||rowspan="19"|2億5,120万円||rowspan="19"|1億3,200万円||rowspan="19"|5,300万円||rowspan="19"|3,300万円||rowspan="19"|2,000万円||rowspan="19"|1,320万円
|-
|-
||1974||4000||4000||4000||-||<small>3競走が最高額で並ぶ</small>
|第113回(1996年)
|-
|-
||1975||4600||4600||4600||-||
|第115回(1997年)
|-
|-
||1980||6000||6000||6000||-||
|第117回(1998年)
|-
|-
||1984||7500||7500||7500||7500||<small>ジャパンカップは1981年創設</small>
|第119回(1999年)
|-
|-
||1985||7800||7800||7800||7800||
|第121回(2000年)
|-
|-
||1990||11100||11100||11100||11100||
|第123回(2001年)
|-
|-
||1995||13200||13200||13200||13200||
|第125回(2002年)
|-
|-
||2000||13200||13200||13200||13200||
|第127回(2003年)
|-
|-
||2001||13200||15000||18000||25000||<small>ジャパンカップが単独で最高賞金に</small>
|第129回(2004年)
|-
|-
||2005||13200||15000||18000||25000||
|第131回(2005年)
|-
|-
||2008||13200||15000||18000||25000||
|第133回(2006年)
|-
|-
||2010||13200||15000||18000||25000||
|第135回(2007年)
|-
|-
||2011||13200||15000||20000||25000||
|第137回(2008年)
|-
|-
||2012||13200||15000||20000||25000||
|第139回(2009年)
|-
|-
||2013||13200||20000||20000||25000||
|第141回(2010年)
|-
|-
||2014||13200||20000||20000||25000||
|第143回(2011年)
|-
|-
|}
|第145回(2012年)

第1回(1937年秋の帝室御賞典)の1着馬には「本賞」として御賞典(優勝杯)、「副賞」として賞金1万円が与えられた。この賞金額は、当時国内の競走としては[[東京優駿]](日本ダービー)の1着本賞1万円、[[横浜農林省賞典四・五歳呼馬]](1943年で廃止)の1着本賞1万円と並び最高額だった。第1回は3着馬までにのみ賞金を与えていたが、翌年から帝室御賞典など国内主要18競走に限り、4・5着馬にも賞金を与えるよう変更された。1954年からは天皇賞の1着馬に与える副賞金も「本賞」に含めることになった<ref>『優駿のふるさと日高』,日高軽種馬農業協同組合沿革史編纂委員会、1970、p1342</ref>。

1955年当時、国内の1着最高賞金は東京優駿(日本ダービー)の200万円で、天皇賞の150万円がこれに次いでいた。1956年に有馬記念(中山グランプリ)が創設され、1着賞金は東京優駿(日本ダービー)と同じく200万円とされた。翌1957年には天皇賞の賞金も200万円に引き上げられ、天皇賞(春・秋)、東京優駿(日本ダービー)、有馬記念の4競走が国内最高額の競走となった。

1959年には東京優駿(日本ダービー)の賞金が300万円に増額され再び「国内最高賞金」となり、天皇賞と有馬記念は東京優駿に次いで2番目の高額賞金競走となった。その後、各競走の賞金は年々増加を続けるが、東京優駿が1位、天皇賞と有馬記念が同額で2位という序列が1973年まで続いた。

1974年、天皇賞・東京優駿(日本ダービー)・有馬記念の賞金が同額になった。これ以降も賞金は伸び続けるが、これらの1着賞金は同額とされた。1981年に[[ジャパンカップ]]が新設され、天皇賞(春・秋)、東京優駿(日本ダービー)、有馬記念を含めた5競走が日本最高賞金の競走になった。[[バブル景気]]と増え続ける馬券の売上を背景に、1990年代に入ると賞金は1億円を突破、1995年には5競走ともに1着賞金が1億3200万円となった<ref group="注">2000年には特別ボーナスが創設され、同一年に天皇賞(秋)・ジャパンカップ・有馬記念の3競走をすべて勝った日本産馬には2億円、外国産馬には1億円が授与されるようになった。なお、このボーナスは1着賞金に含めていない。</ref>。

2001年よりジャパンカップの1着賞金が2億5000万円と大幅に引き上げられ、東京優駿(日本ダービー)・有馬記念も1着賞金が加増されたが、天皇賞の1着賞金は春・秋とも据え置かれた。これ以降、天皇賞は1着賞金での比較で国内第3 - 4位の高額賞金競走となっている<ref group="注">2001年以降のジャパンカップは、世界でもトップクラスの高額賞金競走となった。海外の競馬では[[ドバイワールドカップ]](1着約6億円)、[[メルボルンカップ]](1着約3.4億円)、[[凱旋門賞]](1着約3.2億円)、[[ブリーダーズカップ・クラシック]](1着約2.8億円)などが主な高額賞金競走である。ジャパンカップは2014年時点で1着賞金が2億5000万。一定の条件を満たす馬はこれに1億3000万が加算され、年によっては世界1位の賞金になる([http://www.racingpost.com/news/horse-racing/japan-japan-set-to-offer-richest-prize-in-world-to-overseas-horses/189274/latest/#newsArchiveTabs=last7DaysNews RacingPost 2009年5月25日 Richest prizes in world to overseas horses on offer])。</ref>。

== 天覧競馬 ==
[[ファイル:2012 Tennō Shō (Autumn) 002.jpg|thumb|天覧競馬となった第146回天皇賞(秋)を優勝後、本馬場で下馬し貴賓席に最敬礼するデムーロ騎手]]
2005年の第132回天皇賞は「エンペラーズカップ100年記念」と副題がつけられ、[[明仁|今上天皇]]・[[皇后美智子|皇后]]の天覧競馬が実現した。当初は前年の2004年に予定されていたが、8日前に発生した[[新潟県中越地震]]の被害を考慮して取り止めとなっていた。天皇が天皇賞を観戦した例は史上初めてであり、天覧競馬も1899年以来106年ぶりとなった<ref name="tenran2005">[https://www.prcenter.jp/yushun/read/1209.html 優駿公式サイト(今月の立ち読み)] - 2014年5月27日閲覧。</ref>。競走前に天皇・皇后は場内の[[JRA競馬博物館|競馬博物館]]で「エンペラーズカップ100年記念 栄光の天皇賞展」を鑑賞<ref name="tenran2005" />。競走後に優勝騎手の[[松永幹夫]]が貴賓席に対して馬上から最敬礼を行った。

2012年の第146回天皇賞では「近代競馬150周年記念」と副題がつけられ、7年ぶりに天覧競馬が実施された。この際、優勝騎手の[[ミルコ・デムーロ]]はコース内でいったん下馬して最敬礼を行った。本来このような行為は騎乗馬が故障した場合を除き、競走後にコース内で騎手が下馬することを禁止する規則<ref>[http://jra.jp/company/law/law07.html#chap8 日本中央競馬会競馬施行規程第8章第106条3、第120条 - JRAホームページ JRA関連法令等] - 2014年5月27日閲覧。</ref><ref group="注">返し馬時に重りを馬場に捨て、競走後に下馬しコース上に捨てた重りを再び装着して検量室に戻るという不正を未然防止するため。</ref>に抵触するものであったが、これを理由とした制裁は行われなかった<ref>[http://www.j-cast.com/2012/10/29151814.html?p=all レース後跪いて両陛下に最敬礼 ミルコ・デムーロ「日本人より日本人らしい」] J-CASTニュース 2014年5月22日閲覧</ref>。

なお、今上天皇・皇后は[[皇太子]]・[[皇太子妃]]だった1987年にも、天皇賞施行50周年を記念して行われた第96回天皇賞を台覧している<ref>[http://company.jra.jp/0000/gaiyo/ayumi/ayumi.html JRAのあゆみ] JRA 2014年5月22日閲覧</ref>。

== 各競走の概説 ==
春の競走と秋の競走は開催地など競走条件が異なるものの同じ「天皇賞」であり、施行回数は春→秋と施行順に加算している。

同一の競走名で1年に複数回施行する競走は、現在の中央競馬で本競走のみとなっている<ref group="注">かつては[[目黒記念]]や、[[中山大障害]]などの障害重賞も年2回施行され、「目黒記念(春)」・「目黒記念(秋)」のように区別していたり、4歳牝馬特別や[[金杯 (競馬)|金杯]]のように同一の名称の競走が各地にあって、[[フィリーズレビュー|4歳牝馬特別(西)]]・[[フローラステークス|4歳牝馬特別(東)]]、[[中山金杯|金杯(東)]]・[[京都金杯|金杯(西)]]となっていた。</ref>。
=== 天皇賞(春) ===
{{競馬の競走
|馬場 = 芝
|競走名 = 天皇賞(春)
|画像 = [[File:Beat-black20120429(1).jpg|230px]]
|画像説明 = 第145回天皇賞(春)<br />優勝馬:ビートブラック
|主催者 = [[日本中央競馬会]]
|開催地 = {{Flagicon|JPN}}[[京都競馬場]]
|施行時期 = 4月下旬 - 5月上旬
|格付け = {{Color|red|GI}}
|1着賞金 = 1億3200万円
|賞金総額 = 2億5120万円
|距離 = 芝・外3200m
|条件 = {{Nowrap|[[サラブレッド]]系4歳以上(国際)(指定)}}<br />[[#出走資格|出走資格]]も参照
|負担重量 = 定量(58kg、牝馬2kg減)
|創設 = [[1938年]][[5月15日]]
}}
==== 概要 ====
4歳以上の馬([[外国産馬]]・外国馬を含む)による重賞競走(GI)。施行距離は1939年以来芝3200メートルで、現存する中央競馬の平地GI競走では最長距離<ref group="注">現存する最長距離の重賞競走は「[[ステイヤーズステークス]](3600m)」。過去にはいずれも4000mで争われた「[[中山四千米]]」や、「[[日本最長距離ステークス]]」があった。</ref>。

2008年より[[メルボルンカップ]]({{AUS}}、GI)の前年度優勝馬<ref group="注">オーストラリアは8月から翌年7月を1シーズンとしている。</ref>を招待するようになり<ref group="注">2005年には2003・2004・2005年のメルボルンカップを優勝した[[マカイビーディーヴァ]](Makybe Diva)が出走しているが、招待はされていなかった。</ref>、本競走の優勝馬にも同年のメルボルンカップへの優先出走権が与えられる。

正式名称は「天皇賞」であるが、JRAでは天皇賞(秋)の距離が短縮された1984年から「'''天皇賞(春)'''」と表記している<ref name="JRA注目"/>。

正賞は天皇賞、[[日本馬主協会連合会]]会長賞。

==== 世界の中の天皇賞(春) ====
近年、世界の主要な競走は統一的な判断基準で評価が行われている。世界の競馬主要国で3200メートル級の長距離戦を競走体系の最高峰に据えているのは、2014年時点で日本とオセアニアだけである
<ref group="注">
世界の競馬開催国は、[[国際セリ名簿基準委員会]]によってパート1からパート5までランク分けされている。日本を含め、最高のパート1に分類されている国・地域のうち、3000メートル級のG1競走を行っているのは、日本(天皇賞(春)、菊花賞)、イギリス([[ゴールドカップ]]:約4000メートル、このほか距離はやや短いがセントレジャー:約2920メートルがある)、フランス([[ロワイヤルオーク賞]]:3100メートル、カドラン賞:4000メートル)、オーストラリア([[メルボルンカップ]]・[[シドニーカップ]]:3200メートル)、ニュージーランド([[オークランドカップ]]:3200メートル)の5カ国だけである。このうち、賞金額では、フランスのロワイヤルオーク賞が国内10番目、オーストラリアのシドニーカップは国内12番目、イギリスのセントレジャーは6番目、ゴールドカップは国内20番目に過ぎない。これに対し、オーストラリアのメルボルンカップは国内1位、ニュージーランドのオークランドカップは古馬の出走できる競走としては国内最高額である(ニュージーランド国内全体では3番目。1位はグレード外の2歳戦、2位は3歳戦)。日本の天皇賞(春)は国内4番目、菊花賞は7番目({{PDFLink|[http://www.tjcis.com/pdf/icsc14/2014_EntireBook.pdf 国際セリ名簿基準委員会 2014年カタログ]}}参照)。
</ref>。

競馬の競走における距離別の区分法として定着している[[距離_(競馬)#SMILE 区分|SMILE区分]]によると、天皇賞(春)は2701メートル以上の「Extended(超長距離)」部門に分類される。2014年現在の世界の主要競走ランキングでは、「Extended(超長距離)」部門から上位50競走にランキングされている競走は43位のメルボルンカップ(118.08点)と48位の[[セントレジャー]](117.83点)の2つだけで、天皇賞(春)(115点)は上位50位以内にランキングされていない<ref name="IFHA_2013top50"/><ref group="注">この評価は直近の3年の結果に基づいて算出されており、2014年時点での評価の対象となっているのは2011年から2013年の3年分の結果である。なお、2014年の天皇賞(春)の評価点(レースレート)は117で、2001年以降の天皇賞(春)の評価点の中では2013年と並んで最高点である。この点数は上位4着馬に与えられた評価点(レーティング)の平均値であり、1着馬のレーティングだけで見た場合には、天皇賞(春)の過去の最高点は123(2006年ディープインパクト)、次点は120(2013年フェノーメノ)である。</ref>。

単年度の競走馬ランキングでは、2013年の天皇賞(春)1 - 3着馬が世界の競走馬ランキング(超長距離部門・2013年)で上位3頭を占めた<ref name="2013Lanking">{{PDFLink|[http://jra.jp/datafile/ranking/wrank/pdf/13ranking.pdf 2013年 IFHA(国際競馬統括機関連盟)世界ベストホースランキング]}} - 2014年5月30日閲覧。</ref><ref group="注">とは言え、Extended部門で首位の馬は、全体の38位にとどまっている。</ref>。

==== 競走条件 ====
以下の内容は、2014年(第149回)終了時現在のもの<ref name="競走条件(春)" />。

===== 出走資格 =====
4歳以上の[[サラブレッド系種|サラ系]]競走馬<ref name="競走条件(春)" />(出走制限頭数<ref group="注">施行コース・距離に応じて各競馬場ごとに定められており、これを超える頭数での競走は施行できない。「フルゲート」とも呼ばれる。</ref><ref name="JRAフルゲート">{{PDFLink|[http://jra.jp/keiba/program/pdf/h26-bangumi_ippan.pdf 2014年競馬番組一般事項(III 出走可能頭数)]}}日本中央競馬会 - 2014年5月27日閲覧</ref>:最大18頭)
* JRA所属馬
* 地方所属馬(優先出走権を得た馬のみ)
* 外国調教馬(JRA所属の外国産馬とあわせて最大9頭まで)

出馬投票を行った馬のうち、以下の優先出走権を得ている馬から優先して割り当て、その他の馬は「通算収得賞金<ref group="注">当該馬がデビューから獲得してきた賞金額の合計</ref>」+「過去1年間の収得賞金」+「過去2年間のGI・JpnI競走における収得賞金」の総計が多い順に割り当てる。

====== 優先出走権を得られる条件 ======
* 出馬投票を行っている外国調教馬
* レーティング<ref group="注">競走馬の能力を示す客観的な指標。着差・負担重量・過去の勝馬との比較などをもとに、国際的に統一された基準で数値化されている。[http://www.jra.go.jp/datafile/ranking/ JRA公式サイト:データファイル(レーティング&ランキング)]も参照。</ref>順位の上位5頭<ref group="注">牡馬・騙馬は110ポンド、牝馬は106ポンド以上が条件。</ref>
* 当該年に行われる以下の競走のいずれかで1着となった馬(中央・地方の所属は問わない)<ref name="JRA出馬投票">{{PDFLink|[http://jra.jp/keiba/program/pdf/h26-bangumi_ippan.pdf 2014年競馬番組一般事項(Ⅴ 出馬投票)]}}日本中央競馬会 - 2014年5月27日閲覧</ref>
* 当該年に行われる以下の競走のいずれかで2着以内に入着した地方競馬所属馬<ref name="JRA出馬投票" />
{| class="wikitable" style="text-align:center"
!競走名!!格付!!施行競馬場!!施行距離
|-
|-
|[[阪神大賞典]]||{{Color|blue|GII}}||{{Flagicon|JPN}}[[阪神競馬場]]||芝3000m
|第147回(2013年)
|-
|[[日経賞]]||{{Color|blue|GII}}||{{Flagicon|JPN}}[[中山競馬場]]||芝2500m
|-
|[[大阪杯]]||{{Color|blue|GII}}||{{Flagicon|JPN}}阪神競馬場||芝2000m
|}
|}

===== 負担重量 =====
定量(58kg、牝馬2kg減<ref name="競走条件(春)">{{PDFLink|[http://jra.jp/keiba/program/pdf/26kyo3-1.pdf 平成26年第3回京都競馬番組(第1日 - 第6日)]}}日本中央競馬会 - 2014年5月27日閲覧</ref>)

{{See also|負担重量}}

===== コース =====
[[ファイル:Kyouto3200c.jpg|thumb|300px|right|天皇賞(春)コース概略図]]
[[京都競馬場]]の芝コース、外回り3200メートルを使用<ref name="JRA_yodo">[http://www.jra.go.jp/facilities/race/kyoto/course.html JRA公式HP 京都競馬場 コース紹介] - 2014年5月27日閲覧。</ref><ref name="keibalabo">[http://data.keibalab.jp/course/coursedata/z_kyo_t3200.html 競馬ラボ 京都競馬場 芝3200メートル] - 2014年5月27日閲覧。</ref><ref name="kihon">『競馬の基本』p238 「京都競馬場」</ref><ref name="競走条件(春)" />。

スタート地点は観客席からみて向正面で、約1周半する。途中、第3コーナーから第4コーナーにかけて“淀の坂”と称される坂の上り下りがあり、天皇賞(春)ではこの坂を2度通過するため、「京都競馬場の難所」とされる<ref name="JRA_yodo"/><ref name="JRA_kyotokeiba">[http://www.jra.go.jp/facilities/race/kyoto/ JRA公式HP 京都競馬場] - 2014年5月27日閲覧。</ref>。

1周目はスタート直後から100メートル進む間に約2.1メートル上る急坂となる。その後も緩やかに280メートルかけて約1.8メートルを上る。第3コーナーが坂の頂上にあたり、第4コーナーまで3.5メートルを下る<ref name="kihon"/>。第4コーナーを回って直線に入るまで0.8メートルほどの下り勾配がある<ref name="kihon"/><ref name="JRA_yodo"/>。<!--長距離戦のセオリーとして、1周目の下りは坂をゆっくりと下ることとされており、下り坂で勢いをつけて過度にスピードを出すのは避けるのがよいとされている<ref name="JRA_yodo"/>。

1周目の直線では観客席の前を通過する際に大歓声を受け、馬が興奮して暴走し、余力を失う恐れがある<ref name="JRA_yodo"/>。ゴール地点を通過する手前が、おおよそ全体の1/3ほどの地点となる<ref name="JRA_yodo"/>。

スタート地点に戻り、2周目に入って再び坂を上り始める辺りが全体の2/3ほどの地点となる<ref name="kihon"/>。序盤に後方へ控えた馬はこの付近から徐々に前へ進出するのが競馬の一般的なセオリーとされている<ref>[http://jra.jp/datafile/seiseki/g1/haruten/result/haruten2008.html JRA データファイル 第137回天皇賞(春)] - 2014年5月27日閲覧。</ref>が、京都競馬場ではすぐに第4コーナーの急な下り坂に転じるため、過剰にスピードを出すと勢いがつきすぎ負担がかかるため、ラストスパートの余力を失う恐れがある<ref name="kihon"/>。そのため、かつては坂を「ゆっくりと上り、ゆっくりと下る」のが鉄則とされてきた<ref name="keibalabo"/><ref name="JRA_yodo"/>。しかし、近年では下り坂で勢いをつけたままゴールまで押し切る戦術をとるものも増えている<ref name="JRA_yodo"/><ref name="keibalabo"/>。-->

2周目の第4コーナーを回り終えると最後の直線で、ゴールまでは残り約400メートルとなる<ref name="JRA_yodo"/>。<!--他の主要な競馬場と比べると、最後の直線は平坦<ref name="JRA_yodo"/>なため、直線だけで後方から追い込んで勝つのは難しい<ref name="keibalabo"/>。-->


==== 年表 ====
==== 年表 ====
* 1938年 - 4歳(現3歳)以上の牡馬・牝馬による重賞競走「帝室御賞典(春)て創設。鳴尾競馬場・土2700メートルで施行。
* 1938年 - 「帝室御賞典」を再編年2回の施行に改め、春の競走を阪神競馬場で施行。
* 1939年
* 1939年
** 施行距離を3200メートルに、出走資格を5歳(現4歳)以上牡馬・牝馬に変更。
** 施行距離を3200メートルに、出走資格を5歳(現4歳)以上牡馬・牝馬に変更。
** 負担重量を「馬齢重量」から「定量」に変更(負担重量は5歳(現4歳)は58キロ、6歳(現5歳)以上は60キロ、牝馬1.5キロ減に設定)<ref name="JRA注目"/>。
** 負担重量を「馬齢重量」から「定量」に変更(負担重量は5歳(現4歳)は58キロ、6歳(現5歳)以上は60キロ、牝馬1.5キロ減に設定)<ref name="JRA注目" />。
* 1944年 - 「能力検定競走」として、京都競馬場の芝3200メートルで施行<ref name="JRA注目"/>。以後、京都競馬場での施行が定着。
* 1944年 - 「能力検定競走」として、京都競馬場の芝3200メートルで施行<ref name="JRA注目"/>。以後、京都競馬場での施行が定着。
* 1945年 - 太平洋戦争の影響で中止<ref name="JRA注目"/>。
* 1945年 - 太平洋戦争の影響で中止<ref name="JRA注目" />。
* 1947年
* 1947年
** この年のみ「平和賞」の名称で施行<ref name="JRA注目"/>。
** この年のみ「平和賞」の名称で施行<ref name="JRA注目" />。
** 負担重量を5歳(現4歳)、6歳(現5歳)以上とも牡馬60キロ、牝馬2キロ減に変更<ref name="JRA注目"/>。
** 負担重量を5歳(現4歳)、6歳(現5歳)以上とも牡馬60キロ、牝馬2キロ減に変更<ref name="JRA注目" />。
* 1948年
* 1948年
** 名称を「天皇賞」に変更<ref name="JRA注目"/>。
** 名称を「天皇賞」に変更<ref name="JRA注目" />。
** 5歳(4歳)の負担重量を牡馬58キロ、牝馬2キロ減に変更<ref name="JRA注目"/>。
** 5歳(4歳)の負担重量を牡馬58キロ、牝馬2キロ減に変更<ref name="JRA注目" />。
* 1953年 - 6歳(現5歳)以上の負担重量を5歳(現4歳)と同じく、牡馬58キロ、牝馬2キロ減に変更<ref name="JRA注目"/>。
* 1953年 - 6歳(現5歳)以上の負担重量を5歳(現4歳)と同じく、牡馬58キロ、牝馬2キロ減に変更<ref name="JRA注目" />。
* 1957年 - この年から昭和天皇の誕生日である4月29日開催で固定(1989年まで)。
* 1965年 - 阪神競馬場の芝3200メートルで施行<ref name="JRA注目"/>。
* 1970年 - 阪神競馬場の芝3200メートルで施行<ref name="JRA注目"/>。
* 1972年 - 外国産馬が出走できなくなる。
* 1972年 - 外国産馬が出走できなくなる。
* 1980年 - 阪神競馬場の芝3200メートルで施行<ref name="JRA注目"/>。
* 1981年 - 勝ち抜き制を廃止<ref name="JRA注目" />。
* 1981年 - 勝ち抜き制を廃止<ref name="JRA注目"/>。
* 1984年 - グレード制導入、GIに格付け。
* 1984年 - グレード制導入、GIに格付け。
* 1995年 - 指定交流競走となり、地方所属馬も出走が可能に<ref name="JRA注目" />。
* 1990年 - 4月29日固定開催から日曜開催に変更。
* 1994年 - 阪神競場の芝3200メートル施行<ref name="JRA注目"/>。
* 2000年 - 外国産が2頭ま出走可能に<ref name="JRA注目" />。
* 2001年 - [[馬齢]]表記を国際基準へ変更したことに伴い、出走条件を「5歳以上牡馬・牝馬」から「4歳以上牡馬・牝馬」に変更。
* 1995年 - 指定交流競走に指定され、地方所属馬も出走が可能に<ref name="JRA注目"/>。
* 2000年 - 外国産馬が2頭まで出走可能に<ref name="JRA注目"/>。
* 2001年 - [[馬齢]]表示を国際基準へ変更したことに伴い、出走条件が「5歳以上牡馬・牝馬」から「4歳以上牡馬・牝馬」に変更。
* 2005年
* 2005年
** 国際競走に指定され、外国調教馬が5頭まで出走可能に<ref name="JRA注目"/>。オーストラリアの[[マカイビーディーヴァ]]が初の出走馬となる。
** 国際競走となり、外国調教馬が5頭まで出走可能に<ref name="JRA注目" />。オーストラリアの[[マカイビーディーヴァ]]が初の出走馬となる。
* 2007年 - 外国調教馬の出走枠を9頭に拡大<ref name="JRA注目"/>。
* 2007年 - 外国調教馬の出走枠を9頭に拡大<ref name="JRA注目" />。
* 2008年
* 2008年
** 出走条件を「4歳以上牡馬・牝馬」から「4歳以上」に変更<ref name="JRA注目"/>。
** 出走条件を「4歳以上牡馬・牝馬」から「4歳以上」に変更<ref name="JRA注目" />。
** 前年度メルボルンカップ優勝馬の招待を制度化。
** 前年度メルボルンカップ優勝馬の招待を制度化。
* 2010年 - [[クレイグ・ウィリアムズ]]が外国人騎手として初めて制覇。
* 2012年
* 2012年
** 「近代競馬150周年記念」の副称を付けて施行<ref name="JRA注目"/>。
** 「近代競馬150周年記念」の副称を付けて施行<ref name="JRA注目" />。
** 出走馬選定方法わり、レーティング上位5頭に優先出走を認める。
** 出走馬選定方法、レーティング上位5頭に優先出走を認める。


<div class="NavFrame" style="clear: both; border:0;">
==== 歴代優勝馬 ====
<div class="NavHead" style="background-color:#66e851;">天皇賞(春)歴代優勝馬</div>
国際競走となった2005年以降は優勝馬の国旗を表記する。
<div class="NavContent" style="text-align: left;background-color:#efffef;">
* 国際競走となった2005年以降は優勝馬の国旗を表記する。
* コース種別の記載がない距離は、芝コースを表す。
* 競走名は第14回まで「帝室御賞典」<ref name="JRA注目" />、第15回は「平和賞」、第17回以降は「天皇賞」。
{| class="wikitable"
{| class="wikitable"
!回数!!施行日!!調教国・優勝馬!!style="white-space:nowrap"|性齢!!勝時計!!優勝騎手!!style="white-space:nowrap"|管理調教師!!馬主
!回数!!施行日!!競馬場!!距離!!調教国・優勝馬!!style="white-space:nowrap"|性齢!!勝時計!!優勝騎手!!style="white-space:nowrap"|管理調教師!!馬主
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|style="text-align:center"|第2回||style="white-space:nowrap"|[[1938年]][[5月15日]]||[[ハセパーク]]||牡5||style="white-space:nowrap"|2:53 1/5||colspan="2" style="text-align:center"|[[金者斤奉]]||門倉恒雄
|style="text-align:center"|第2回||style="white-space:nowrap"|1938年5月15日||阪神||土2700m||[[ハセパーク]]||牡5||style="white-space:nowrap"|2:53 1/5||colspan="2" style="text-align:center"|[[金者斤奉]]||門倉恒雄
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|style="text-align:center"|第4回||[[1939年]][[5月14日]]||[[スゲヌマ]]||牡4||3:31 0/5||[[伊藤正四郎]]||[[小山内重蔵]]||[[千明牧場|千明賢治]]
|style="text-align:center"|第4回||1939年5月14日||阪神||3200m||[[スゲヌマ]]||牡4||3:31 0/5||[[伊藤正四郎]]||[[小山内重蔵]]||[[千明牧場|千明賢治]]
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|style="text-align:center"|第6回||[[1940年]][[5月19日]]||[[トキノチカラ]]||牡4||3:25 2/5||[[岩下密政]]||[[田中和一郎]]||[[菊池寛]]
|style="text-align:center"|第6回||1940年5月19日||阪神||3200m||[[トキノチカラ]]||牡4||3:25 2/5||[[岩下密政]]||[[田中和一郎]]||[[菊池寛]]
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|style="text-align:center"|第8回||[[1941年]][[4月27日]]||[[マルタケ (競走馬)|マルタケ]]||牡5||3:25 4/5||colspan="2" style="text-align:center"|[[清水茂次]]||榎壽逸
|style="text-align:center"|第8回||1941年4月27日||阪神||3200m||[[マルタケ (競走馬)|マルタケ]]||牡5||3:25 4/5||colspan="2" style="text-align:center"|[[清水茂次]]||榎壽逸
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|style="text-align:center"|第10回||[[1942年]][[4月19日]]||[[ミナミモア]]||牡4||3:25 1/5||[[佐藤邦雄]]||[[東原玉造]]||池得次
|style="text-align:center"|第10回||1942年4月19日||阪神||3200m||[[ミナミモア]]||牡4||3:25 1/5||[[佐藤邦雄]]||[[東原玉造]]||池得次
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|style="text-align:center"|第12回||[[1943年]][[4月11日]]||[[グランドライト]]||牡4||3:28 1/5||[[阿部正太郎]]||田中和一郎||[[加藤雄策]]
|style="text-align:center"|第12回||1943年4月11日||阪神||3200m||[[グランドライト]]||牡4||3:28 1/5||[[阿部正太郎]]||田中和一郎||[[加藤雄策]]
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|style="text-align:center"|第14回||[[1944年]][[5月28日]]||[[ヒロサクラ]]||牡4||3:29 0/5||colspan="2" style="text-align:center"|[[渋川久作]]||鶴丸広太郎
|style="text-align:center"|第14回||1944年5月28日||京都||3200m||[[ヒロサクラ]]||牡4||3:29 0/5||colspan="2" style="text-align:center"|[[渋川久作]]||鶴丸広太郎
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|style="text-align:center"|第15回||[[1947年]][[5月11日]]||[[オーライト]]||牡4||3:34 1/5||[[元石正雄]]||[[伊藤勝吉]]||伊藤由五郎
|style="text-align:center"|第15回||1947年5月11日||京都||3200m||[[オーライト]]||牡4||3:34 1/5||[[元石正雄]]||[[伊藤勝吉]]||伊藤由五郎
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|style="text-align:center"|第17回||[[1948年]][[5月16日]]||[[シーマー]]||牡4||3:25 3/5||[[長浜彦三郎]]||[[新堂捨蔵]]||島田幸次郎
|style="text-align:center"|第17回||1948年5月16日||京都||3200m||[[シーマー]]||牡4||3:25 3/5||[[長浜彦三郎]]||[[新堂捨蔵]]||島田幸次郎
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|style="text-align:center"|第19回||[[1949年]][[4月29日]]||[[ミハルオー]]||牡4||3:26 3/5||[[土門健司]]||[[久保田金造]]||石川了吉
|style="text-align:center"|第19回||1949年4月29日||京都||3200m||[[ミハルオー]]||牡4||3:26 3/5||[[土門健司]]||[[久保田金造]]||石川了吉
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|style="text-align:center"|第21回||[[1950年]][[6月4日|6月{{0}}4日]]||[[オーエンス (競走馬)|オーエンス]]||牡4||3:34 3/5||土門健司||[[松田由太郎]]||桶谷辰造
|style="text-align:center"|第21回||1950年6月4日||京都||3200m||[[オーエンス (競走馬)|オーエンス]]||牡4||3:34 3/5||土門健司||[[松田由太郎]]||桶谷辰造
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|style="text-align:center"|第23回||[[1951年]][[5月5日|5月{{0}}5日]]||[[タカクラヤマ]]||牡4||3:24 3/5||[[橋田俊三]]||伊藤正四郎||平島五郎
|style="text-align:center"|第23回||1951年5月5日||京都||3200m||[[タカクラヤマ]]||牡4||3:24 3/5||[[橋田俊三]]||伊藤正四郎||平島五郎
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|style="text-align:center"|第25回||[[1952年]][[5月3日|5月{{0}}3日]]||[[ミツハタ]]||牡4||3:23 1/5||[[渡辺正人 (競馬)|渡辺正人]]||[[矢野幸夫]]||河野信一
|style="text-align:center"|第25回||1952年5月3日||京都||3200m||[[ミツハタ]]||牡4||3:23 1/5||[[渡辺正人 (競馬)|渡辺正人]]||[[矢野幸夫]]||河野信一
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|style="text-align:center"|第27回||[[1953年]]5月{{0}}5日||[[レダ (競走馬)|レダ]]||牝4||3:24 2/5||[[佐藤勇]]||[[武田文吾]]||熊谷新太郎
|style="text-align:center"|第27回||1953年5月5日||京都||3200m||[[レダ (競走馬)|レダ]]||牝4||3:24 2/5||[[佐藤勇]]||[[武田文吾]]||熊谷新太郎
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|style="text-align:center"|第29回||[[1954年]]5月16日||[[ハクリヨウ]]||牡4||3:24 2/5||[[保田隆芳]]||[[尾形藤吉]]||西博
|style="text-align:center"|第29回||1954年5月16日||京都||3200m||[[ハクリヨウ]]||牡4||3:24 2/5||[[保田隆芳]]||[[尾形藤吉]]||西博
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|style="text-align:center"|第31回||[[1955年]]4月29日||[[タカオー]]||牡4||3:22 3/5||[[古山良司]]||[[上村大治郎]]||高須銀次郎
|style="text-align:center"|第31回||1955年4月29日||京都||3200m||[[タカオー]]||牡4||3:22 3/5||[[古山良司]]||[[上村大治郎]]||高須銀次郎<ref group="主">毎日新聞1955年4月30日付「タカオー優勝 京都競馬、天皇賞レース」</ref>
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|style="text-align:center"|第33回||[[1956年]][[4月15日]]||[[メイヂヒカリ]]||牡4||3:22 3/5||[[蛯名武五郎]]||[[藤本冨良]]||新田松江
|style="text-align:center"|第33回||1956年4月15日||京都||3200m||[[メイヂヒカリ]]||牡4||3:22 3/5||[[蛯名武五郎]]||[[藤本冨良]]||新田松江<ref group="主">毎日新聞1956年4月16日付「天皇賞はメイヂヒカリ」</ref>
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|style="text-align:center"|第35回||[[1957年]]4月29日||[[キタノオー]]||牡4||3:21 3/5||[[伊藤竹男|勝尾竹男]]||久保田金造||田中留治
|style="text-align:center"|第35回||1957年4月29日||京都||3200m||[[キタノオー]]||牡4||3:21 3/5||[[伊藤竹男|勝尾竹男]]||久保田金造||田中留治<ref group="主">毎日新聞1957年4月30日付「天皇賞の栄冠 キタノオーに」</ref>
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|style="text-align:center"|第37回||[[1958年]]4月29日||[[オンワードゼア]]||牡4||3:23 4/5||[[野平好男]]||[[二本柳俊夫]]||[[樫山純三]]
|style="text-align:center"|第37回||1958年4月29日||京都||3200m||[[オンワードゼア]]||牡4||3:23 4/5||[[野平好男]]||[[二本柳俊夫]]||[[樫山純三]]<ref group="主">『(人間の記録69)樫山純三』樫山純三・著、日本図書センター・刊、1998、p133</ref>
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|style="text-align:center"|第39回||[[1959年]]4月29日||[[トサオー]]||牡4||3:23 1/5||[[野平祐二]]||[[松山吉三郎]]||溝本儀三男
|style="text-align:center"|第39回||1959年4月29日||京都||3200m||[[トサオー]]||牡4||3:23 1/5||[[野平祐二]]||[[松山吉三郎]]||溝本儀三男<ref group="主">読売新聞1959年4月29日付「トサオー優勝 天皇賞レース」</ref>
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|style="text-align:center"|第41回||[[1960年]]4月29日||[[クリペロ]]||牡5||3:25.0||保田隆芳||尾形藤吉||[[栗林友二]]
|style="text-align:center"|第41回||1960年4月29日||京都||3200m||[[クリペロ]]||牡5||3:25.0||保田隆芳||尾形藤吉||[[栗林友二]]<ref group="主">読売新聞1960年4月30日付「天皇賞、クリペロに栄冠」</ref>
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|style="text-align:center"|第43回||[[1961年]]4月29日||[[ヤマニンモアー]]||牡4||3:22.6||[[浅見国一]]||[[藤本冨良]]||土井宏二
|style="text-align:center"|第43回||1961年4月29日||京都||3200m||[[ヤマニンモアー]]||牡4||3:22.6||[[浅見国一]]||[[藤本冨良]]||土井宏二
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|style="text-align:center"|第45回||[[1962年]]4月29日||[[オンスロート (競走馬)|オンスロート]]||牡5||3:27.6||[[山岡つとむ|山岡忞]]||[[中村広]]||田村喜志
|style="text-align:center"|第45回||1962年4月29日||京都||3200m||[[オンスロート (競走馬)|オンスロート]]||牡5||3:27.6||[[山岡つとむ|山岡忞]]||[[中村広]]||田村喜志
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|style="text-align:center"|第47回||[[1963年]]4月29日||[[コレヒサ]]||牡4||3:22.5||[[森安重勝]]||尾形藤吉||千明康
|style="text-align:center"|第47回||1963年4月29日||京都||3200m||[[コレヒサ]]||牡4||3:22.5||[[森安重勝]]||尾形藤吉||千明康
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|style="text-align:center"|第49回||[[1964年]]4月29日||[[ヒカルポーラ]]||牡5||3:26.8||[[高橋成忠]]||佐藤勇||坪田喜之助
|style="text-align:center"|第49回||1964年4月29日||京都||3200m||[[ヒカルポーラ]]||牡5||3:26.8||[[高橋成忠]]||佐藤勇||坪田喜之助
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|style="text-align:center"|第51回||[[1965年]]4月29日||[[アサホコ]]||牡5||3:27.1||[[加賀武見]]||藤本冨良||手塚栄一
|style="text-align:center"|第51回||1965年4月29日||阪神||3200m||[[アサホコ]]||牡5||3:27.1||[[加賀武見]]||藤本冨良||手塚栄一
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|style="text-align:center"|第53回||[[1966年]]4月29日||[[ハクズイコウ]]||牡5||3:19.4||保田隆芳||尾形藤吉||西博
|style="text-align:center"|第53回||1966年4月29日||京都||3200m||[[ハクズイコウ]]||牡5||3:19.4||保田隆芳||尾形藤吉||西博
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|style="text-align:center"|第55回||[[1967年]]4月29日||[[スピードシンボリ]]||牡4||3:24.2||野平祐二||[[野平省三]]||[[和田共弘]]
|style="text-align:center"|第55回||1967年4月29日||京都||3200m||[[スピードシンボリ]]||牡4||3:24.2||野平祐二||[[野平省三]]||[[和田共弘]]
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|style="text-align:center"|第57回||[[1968年]]4月29日||[[ヒカルタカイ]]||牡4||3:24.6||野平祐二||藤本冨良||長山善健
|style="text-align:center"|第57回||1968年4月29日||京都||3200m||[[ヒカルタカイ]]||牡4||3:24.6||野平祐二||藤本冨良||長山善健
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|style="text-align:center"|第59回||[[1969年]]4月29日||[[タケシバオー]]||牡4||3:29.1||古山良司||[[三井末太郎]]||[[小畑正雄]]
|style="text-align:center"|第59回||1969年4月29日||京都||3200m||[[タケシバオー]]||牡4||3:29.1||古山良司||[[三井末太郎]]||[[小畑正雄]]
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|style="text-align:center"|第61回||[[1970年]]4月29日||[[リキエイカン]]||牡4||3:25.8||高橋成忠||[[柏谷富衛]]||水上力夫
|style="text-align:center"|第61回||1970年4月29日||阪神||3200m||[[リキエイカン]]||牡4||3:25.8||高橋成忠||[[柏谷富衛]]||水上力夫
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|style="text-align:center"|第63回||[[1971年]]4月29日||[[メジロムサシ]]||牡4||3:33.5||[[横山富雄]]||[[大久保末吉]]||[[メジロ商事]](株)
|style="text-align:center"|第63回||1971年4月29日||京都||3200m||[[メジロムサシ]]||牡4||3:33.5||[[横山富雄]]||[[大久保末吉]]||[[メジロ商事]](株)
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|style="text-align:center"|第65回||[[1972年]][[5月7日|5月{{0}}7日]]||[[ベルワイド]]||牡4||3:20.4||加賀武見||[[阿部正太郎]]||鈴木賢一
|style="text-align:center"|第65回||1972年5月7日||京都||3200m||[[ベルワイド]]||牡4||3:20.4||加賀武見||[[阿部正太郎]]||鈴木賢一
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|style="text-align:center"|第67回||[[1973年]]4月29日||[[タイテエム]]||牡4||3:25.0||[[須貝彦三]]||橋田俊三||(有)名鯛興業
|style="text-align:center"|第67回||1973年4月29日||京都||3200m||[[タイテエム]]||牡4||3:25.0||[[須貝彦三]]||橋田俊三||(有)名鯛興業
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|style="text-align:center"|第69回||[[1974年]]5月{{0}}5日||[[タケホープ]]||牡4||3:22.6||[[嶋田功]]||[[稲葉幸夫]]||近藤たけ
|style="text-align:center"|第69回||1974年5月5日||京都||3200m||[[タケホープ]]||牡4||3:22.6||[[嶋田功]]||[[稲葉幸夫]]||近藤たけ
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|style="text-align:center"|第71回||[[1975年]]4月29日||[[イチフジイサミ]]||牡5||3:22.1||[[郷原洋行]]||[[松永光雄]]||保坂勇
|style="text-align:center"|第71回||1975年4月29日||京都||3200m||[[イチフジイサミ]]||牡5||3:22.1||[[郷原洋行]]||[[松永光雄]]||保坂勇
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|style="text-align:center"|第73回||[[1976年]]4月29日||[[エリモジョージ]]||牡4||3:27.4||[[福永洋一]]||[[大久保正陽]]||[[エクセルマネジメント|山本慎一]]
|style="text-align:center"|第73回||1976年4月29日||京都||3200m||[[エリモジョージ]]||牡4||3:27.4||[[福永洋一]]||[[大久保正陽]]||[[エクセルマネジメント|山本慎一]]
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|style="text-align:center"|第75回||[[1977年]]4月29日||[[テンポイント]]||牡4||3:21.7||[[鹿戸明]]||[[小川佐助]]||[[高田久成]]
|style="text-align:center"|第75回||1977年4月29日||京都||3200m||[[テンポイント]]||牡4||3:21.7||[[鹿戸明]]||[[小川佐助]]||[[高田久成]]
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|style="text-align:center"|第77回||[[1978年]]4月29日||[[グリーングラス]]||牡5||3:20.8||[[岡部幸雄]]||[[中野隆良]]||半沢吉四郎
|style="text-align:center"|第77回||1978年4月29日||京都||3200m||[[グリーングラス]]||牡5||3:20.8||[[岡部幸雄]]||[[中野隆良]]||半沢吉四郎
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|style="text-align:center"|第79回||[[1979年]]4月29日||[[カシュウチカラ]]||牡6||3:20.2||郷原洋行||[[矢倉玉男]]||吉田権三郎
|style="text-align:center"|第79回||1979年4月29日||京都||3200m||[[カシュウチカラ]]||牡6||3:20.2||郷原洋行||[[矢倉玉男]]||吉田権三郎
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|style="text-align:center"|第81回||[[1980年]]4月29日||[[ニチドウタロー]]||牡4||3:18.7||[[村本善之]]||[[坂田正行]]||山田敏夫
|style="text-align:center"|第81回||1980年4月29日||阪神||3200m||[[ニチドウタロー]]||牡4||3:18.7||[[村本善之]]||[[坂田正行]]||山田敏夫
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|style="text-align:center"|第83回||[[1981年]]4月29日||[[カツラノハイセイコ]]||牡5||3:20.6||[[河内洋]]||[[庄野穂積]]||桂土地(株)
|style="text-align:center"|第83回||1981年4月29日||京都||3200m||[[カツラノハイセイコ]]||牡5||3:20.6||[[河内洋]]||[[庄野穂積]]||桂土地(株)
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|style="text-align:center"|第85回||[[1982年]]4月29日||[[モンテプリンス]]||牡5||3:19.2||[[吉永正人]]||[[松山吉三郎]]||毛利喜八
|style="text-align:center"|第85回||1982年4月29日||京都||3200m||[[モンテプリンス]]||牡5||3:19.2||[[吉永正人]]||[[松山吉三郎]]||毛利喜八
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|style="text-align:center"|第87回||[[1983年]]4月29日||[[アンバーシャダイ]]||牡6||3:22.3||[[加藤和宏 (JRA)|加藤和宏]]||二本柳俊夫||[[吉田善哉]]
|style="text-align:center"|第87回||1983年4月29日||京都||3200m||[[アンバーシャダイ]]||牡6||3:22.3||[[加藤和宏 (JRA)|加藤和宏]]||二本柳俊夫||[[吉田善哉]]
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|style="text-align:center"|第89回||[[1984年]]4月29日||[[モンテファスト]]||牡6||3:22.3||吉永正人||松山吉三郎||毛利喜八
|style="text-align:center"|第89回||1984年4月29日||京都||3200m||[[モンテファスト]]||牡6||3:22.3||吉永正人||松山吉三郎||毛利喜八
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|style="text-align:center"|第91回||[[1985年]]4月29日||[[シンボリルドルフ]]||牡4||3:20.4||岡部幸雄||野平祐二||和田農林(有)
|style="text-align:center"|第91回||1985年4月29日||京都||3200m||[[シンボリルドルフ]]||牡4||3:20.4||岡部幸雄||野平祐二||和田農林(有)
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|style="text-align:center"|第93回||[[1986年]]4月29日||[[クシロキング]]||牡4||3:25.4||岡部幸雄||中野隆良||阿部昭
|style="text-align:center"|第93回||1986年4月29日||京都||3200m||[[クシロキング]]||牡4||3:25.4||岡部幸雄||中野隆良||阿部昭
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|style="text-align:center"|第95回||[[1987年]]4月29日||[[ミホシンザン]]||牡5||3:20.4||[[柴田政人]]||[[田中朋次郎]]||堤勘時
|style="text-align:center"|第95回||1987年4月29日||京都||3200m||[[ミホシンザン]]||牡5||3:20.4||[[柴田政人]]||[[田中朋次郎]]||堤勘時
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|style="text-align:center"|第97回||[[1988年]]4月29日||[[タマモクロス]]||牡4||3:21.8||[[南井克巳]]||[[小原伊佐美]]||タマモ(株)
|style="text-align:center"|第97回||1988年4月29日||京都||3200m||[[タマモクロス]]||牡4||3:21.8||[[南井克巳]]||[[小原伊佐美]]||タマモ(株)
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|style="text-align:center"|第99回||[[1989年]]4月29日||[[イナリワン]]||牡5||3:18.8||[[武豊]]||[[鈴木清 (競馬)|鈴木清]]||保手浜弘規
|style="text-align:center"|第99回||1989年4月29日||京都||3200m||[[イナリワン]]||牡5||3:18.8||[[武豊]]||[[鈴木清 (競馬)|鈴木清]]||保手浜弘規
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|style="text-align:center; white-space:nowrap"|第101回||[[1990年]]4月29日||[[スーパークリーク]]||牡5||3:21.9||武豊||[[伊藤修司]]||木倉誠
|style="text-align:center; white-space:nowrap"|第101回||1990年4月29日||京都||3200m||[[スーパークリーク]]||牡5||3:21.9||武豊||[[伊藤修司]]||木倉誠
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|style="text-align:center"|第103回||[[1991年]][[4月28日]]||[[メジロマックイーン]]||牡4||3:18.8||武豊||[[池江泰郎]]||メジロ商事(株)
|style="text-align:center"|第103回||1991年4月28日||京都||3200m||[[メジロマックイーン]]||牡4||3:18.8||武豊||[[池江泰郎]]||メジロ商事(株)
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|style="text-align:center"|第105回||[[1992年]][[4月26日]]||メジロマックイーン||牡5||3:20.0||武豊||池江泰郎||メジロ商事(株)
|style="text-align:center"|第105回||1992年4月26日||京都||3200m||メジロマックイーン||牡5||3:20.0||武豊||池江泰郎||メジロ商事(株)
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|style="text-align:center"|第107回||[[1993年]]4月25日||[[ライスシャワー]]||牡4||3:17.1||[[的場均]]||[[飯塚好次]]||栗林英雄
|style="text-align:center"|第107回||1993年4月25日||京都||3200m||[[ライスシャワー]]||牡4||3:17.1||[[的場均]]||[[飯塚好次]]||栗林英雄
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|style="text-align:center"|第109回||[[1994年]][[4月24日]]||[[ビワハヤヒデ]]||牡4||3:22.6||岡部幸雄||[[浜田光正]]||[[ビワ (会社)|(有)ビワ]]
|style="text-align:center"|第109回||1994年4月24日||阪神||3200m||[[ビワハヤヒデ]]||牡4||3:22.6||岡部幸雄||[[浜田光正]]||[[ビワ (会社)|(有)ビワ]]
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|style="text-align:center"|[[第111回天皇賞|第111回]]||[[1995年]][[4月23日]]||ライスシャワー||牡6||3:19.9||的場均||飯塚好次||栗林英雄
|style="text-align:center"|[[第111回天皇賞|第111回]]||1995年4月23日||京都||3200m||ライスシャワー||牡6||3:19.9||的場均||飯塚好次||栗林英雄
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|style="text-align:center"|[[第113回天皇賞|第113回]]||[[1996年]]4月21日||[[サクラローレル]]||牡5||3:17.8||[[横山典弘]]||[[境勝太郎]]||[[さくらコマース|(株)さくらコマース]]
|style="text-align:center"|[[第113回天皇賞|第113回]]||1996年4月21日||京都||3200m||[[サクラローレル]]||牡5||3:17.8||[[横山典弘]]||[[境勝太郎]]||[[さくらコマース|(株)さくらコマース]]
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|style="text-align:center"|[[第115回天皇賞|第115回]]||[[1997年]]4月27日||[[マヤノトップガン]]||牡5||3:14.4||[[田原成貴]]||[[坂口正大]]||[[田所祐]]
|style="text-align:center"|[[第115回天皇賞|第115回]]||1997年4月27日||京都||3200m||[[マヤノトップガン]]||牡5||3:14.4||[[田原成貴]]||[[坂口正大]]||[[田所祐]]
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|style="text-align:center"|第117回||[[1998年]]5月{{0}}3日||[[メジロブライト]]||牡4||3:23.6||河内洋||[[浅見秀一]]||[[メジロ牧場|(有)メジロ牧場]]
|style="text-align:center"|第117回||1998年5月3日||京都||3200m||[[メジロブライト]]||牡4||3:23.6||河内洋||[[浅見秀一]]||[[メジロ牧場|(有)メジロ牧場]]
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|style="text-align:center"|第119回||[[1999年]][[5月2日|5月{{0}}2日]]||[[スペシャルウィーク]]||牡4||3:15.3||武豊||[[白井寿昭]]||[[臼田浩義]]
|style="text-align:center"|第119回||1999年5月2日||京都||3200m||[[スペシャルウィーク]]||牡4||3:15.3||武豊||[[白井寿昭]]||[[臼田浩義]]
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|style="text-align:center"|第121回||[[2000年]]4月30日||[[テイエムオペラオー]]||牡4||3:17.6||[[和田竜二]]||[[岩元市三]]||[[竹園正繼]]
|style="text-align:center"|第121回||2000年4月30日||京都||3200m||[[テイエムオペラオー]]||牡4||3:17.6||[[和田竜二]]||[[岩元市三]]||[[竹園正繼]]
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|style="text-align:center"|第123回||[[2001年]]4月29日||テイエムオペラオー||牡5||3:16.2||和田竜二||岩元市三||竹園正繼
|style="text-align:center"|第123回||2001年4月29日||京都||3200m||テイエムオペラオー||牡5||3:16.2||和田竜二||岩元市三||竹園正繼
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|style="text-align:center"|第125回||[[2002年]]4月28日||[[マンハッタンカフェ]]||牡4||3:19.5||[[蛯名正義]]||[[小島太]]||[[西川清]]
|style="text-align:center"|第125回||2002年4月28日||京都||3200m||[[マンハッタンカフェ]]||牡4||3:19.5||[[蛯名正義]]||[[小島太]]||[[西川清]]
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|style="text-align:center"|第127回||[[2003年]][[5月4日|5月{{0}}4日]]||[[ヒシミラクル]]||牡4||3:17.0||[[角田晃一]]||[[佐山優]]||[[阿部雅一郎]]
|style="text-align:center"|第127回||2003年5月4日||京都||3200m||[[ヒシミラクル]]||牡4||3:17.0||[[角田晃一]]||[[佐山優]]||[[阿部雅一郎]]
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|style="text-align:center"|第129回||[[2004年]]5月{{0}}2日||[[イングランディーレ]]||牡5||3:18.4||横山典弘||[[清水美波]]||[[吉田千津]]
|style="text-align:center"|第129回||2004年5月2日||京都||3200m||[[イングランディーレ]]||牡5||3:18.4||横山典弘||[[清水美波]]||[[吉田千津]]
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|style="text-align:center"|第131回||[[2005年]][[5月1日|5月{{0}}1日]]||{{Flagicon|JPN}} [[スズカマンボ]]||牡4||3:16.5||[[安藤勝己]]||[[橋田満]]||[[永井啓弐]]
|style="text-align:center"|第131回||2005年5月1日||京都||3200m||{{Flagicon|JPN}}[[スズカマンボ]]||牡4||3:16.5||[[安藤勝己]]||[[橋田満]]||[[永井啓弐]]
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|style="text-align:center"|第133回||[[2006年]]4月30日||{{Flagicon|JPN}} [[ディープインパクト (競走馬)|ディープインパクト]]||牡4||3:13.4||武豊||池江泰郎||[[金子真人|金子真人ホールディングス(株)]]
|style="text-align:center"|第133回||2006年4月30日||京都||3200m||{{Flagicon|JPN}}[[ディープインパクト (競走馬)|ディープインパクト]]||牡4||3:13.4||武豊||池江泰郎||[[金子真人|金子真人ホールディングス(株)]]
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|style="text-align:center"|[[第135回天皇賞|第135回]]||[[2007年]]4月29日||{{Flagicon|JPN}} [[メイショウサムソン]]||牡4||3:14.1||[[石橋守]]||高橋成忠||[[松本好雄]]
|style="text-align:center"|[[第135回天皇賞|第135回]]||2007年4月29日||京都||3200m||{{Flagicon|JPN}}[[メイショウサムソン]]||牡4||3:14.1||[[石橋守]]||高橋成忠||[[松本好雄]]
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|style="text-align:center"|第137回||[[2008年]]5月{{0}}4日||style="white-space:nowrap"|{{Flagicon|JPN}} [[アドマイヤジュピタ]]||牡5||3:15.1||[[岩田康誠]]||[[友道康夫]]||[[近藤利一]]
|style="text-align:center"|第137回||2008年5月4日||style="white-space:nowrap"|京都||3200m||{{Flagicon|JPN}}[[アドマイヤジュピタ]]||牡5||3:15.1||[[岩田康誠]]||[[友道康夫]]||[[近藤利一]]
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|style="text-align:center"|第139回||[[2009年]]5月{{0}}3日||{{Flagicon|JPN}} [[マイネルキッツ]]||牡6||3:14.4||[[松岡正海]]||[[国枝栄]]||[[サラブレッドクラブ・ラフィアン|(株)サラブレッドクラブ・ラフィアン]]
|style="text-align:center"|第139回||2009年5月3日||京都||3200m||{{Flagicon|JPN}}[[マイネルキッツ]]||牡6||3:14.4||[[松岡正海]]||[[国枝栄]]||[[サラブレッドクラブ・ラフィアン|(株)サラブレッドクラブ・ラフィアン]]
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|style="text-align:center"|第141回||[[2010年]]5月{{0}}2日||{{Flagicon|JPN}} [[ジャガーメイル]]||牡6||3:15.7||style="white-space:nowrap"|[[クレイグ・ウィリアムズ|C.ウィリアムズ]]||[[堀宣行]]||吉田和美
|style="text-align:center"|第141回||2010年5月2日||京都||3200m||{{Flagicon|JPN}}[[ジャガーメイル]]||牡6||3:15.7||style="white-space:nowrap"|[[クレイグ・ウィリアムズ|C.ウィリアムズ]]||[[堀宣行]]||吉田和美
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|style="text-align:center"|第143回||[[2011年]]5月{{0}}1日||{{Flagicon|JPN}} [[ヒルノダムール]]||牡4||3:20.6||[[藤田伸二]]||[[昆貢]]||蛭川正文
|style="text-align:center"|第143回||2011年5月1日||京都||3200m||{{Flagicon|JPN}}[[ヒルノダムール]]||牡4||3:20.6||[[藤田伸二]]||[[昆貢]]||蛭川正文
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|style="text-align:center"|第145回||[[2012年]]4月29日||{{Flagicon|JPN}} [[ビートブラック]]||牡5||3:13.8||[[石橋脩]]||[[中村均]]||前田幸治
|style="text-align:center"|第145回||2012年4月29日||京都||3200m||{{Flagicon|JPN}}[[ビートブラック]]||牡5||3:13.8||[[石橋脩]]||[[中村均]]||前田幸治
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|style="text-align:center"|第147回||[[2013年]]4月28日||{{Flagicon|JPN}} [[フェノーメノ]]||牡4||3:14.2||[[蛯名正義]]||[[戸田博文]]||[[サンデーレーシング|(有)サンデーレーシング]]
|style="text-align:center"|第147回||2013年4月28日||京都||3200m||{{Flagicon|JPN}}[[フェノーメノ]]||牡4||3:14.2||[[蛯名正義]]||[[戸田博文]]||[[サンデーレーシング|(有)サンデーレーシング]]
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|style="text-align:center"|第149回||2014年5月4日||京都||3200m||{{Flagicon|JPN}}フェノーメノ||牡5||3:15.1||蛯名正義||戸田博文||(有)サンデーレーシング
|}
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=== 天皇賞(秋) ===
=== 天皇賞(秋) ===
354行目: 496行目:
|競走名 = 天皇賞(秋)
|競走名 = 天皇賞(秋)
|画像 = [[File:Tosen-Jordan20111030(2).jpg|230px]]
|画像 = [[File:Tosen-Jordan20111030(2).jpg|230px]]
|画像説明 = 第144回天皇賞(秋)(優勝馬トーセンジョーダン
|画像説明 = 第144回天皇賞(秋)<br />優勝馬トーセンジョーダン
|主催者 = [[日本中央競馬会]]
|主催者 = [[日本中央競馬会]]
|開催地 = {{Flagicon|JPN}}[[東京競馬場]]
|開催地 = {{Flagicon|JPN}}[[東京競馬場]]
|施行時期 = 10月下旬 - 11月上旬<br />(原則4回東京9日目)
|施行時期 = 10月下旬 - 11月上旬
|格付け = {{Color|red|GI}}
|格付け = {{Color|red|GI}}
|距離 = 芝2000m
|距離 = 芝2000m
366行目: 508行目:
|創設 = [[1937年]][[12月3日]]
|創設 = [[1937年]][[12月3日]]
}}
}}
==== 概要 ====
'''天皇賞(秋)'''(てんのうしょうあき)とは日本中央競馬会(JRA)が[[東京競馬場]]の[[芝]]2000[[メートル]]で施行する中央競馬の重賞競走(GI)である。
3歳以上の馬(外国産馬・外国馬を含む)による重賞競走(GI)。施行距離は1938年から1983年まで春と同様に芝3200メートルだったが、1984年から芝2000メートルに短縮。距離変更には賛否両論があった<ref>[[優駿]](1988年2月号)</ref>が、短縮後は中距離の最強馬決定戦として位置付けられた<ref name="JRA注目" />。施行時期も長年11月下旬で定着していたが、1981年から10月下旬 - 11月初旬に繰り上げられた。


2000年より[[ジャパンカップ]]・[[有馬記念]]とともに「'''秋の古馬[[三冠 (競馬)|三冠]]競走'''」とされ、同一年に行われる3競走を全て優勝した馬に褒賞金が贈られるようになった。
正式名称は「天皇賞」であるが、JRAでは「天皇賞(秋)」と表記している。

正式名称は「天皇賞」であるが、JRAでは施行距離が短縮された1984年以降「'''天皇賞(秋)'''」と表記している<ref name="JRA注目" />。


正賞は天皇賞、[[日本馬主協会連合会]]会長賞。
正賞は天皇賞、[[日本馬主協会連合会]]会長賞。


====世界の中の天皇賞(秋)====
==== 概要 ====
天皇賞(春)と同様に、天皇賞(秋)も国際的な統一判断基準で評価が行われている。2014年現在(2011年から2013年の結果を基準)の評価で、天皇賞(秋)は世界で20番目にレベルの高い競走とされている<ref name="IFHA_2013top50">{{PDFLink|[http://www.ifhaonline.org/resources/2013Rankings/Top50_G1_Races.pdf IFHA(国際競馬統括機関連盟)世界のG1競走トップ50 2013年版]}} - 2014年5月30日閲覧。</ref><ref group="注">このランキングは、毎回の結果に基いて算出される。出走馬には、過去の実績に基づいたポイント(レーティング)が行われており、その馬がこの競走で実際に発揮した能力を基に新たなレーティングが与えられる。そして1着から4着までの馬に与えられたレーティングの平均値が、その競走の評価点(レースレート)となる。</ref>。このランキングによると、芝中距離(1900 - 2000メートル<ref group="注">[[距離_(競馬)#SMILE 区分]]」のI(Intermidiate)に相当</ref>)のGI競走としては世界で7位(日本では1位)とされている<ref name="IFHA_2013top50"/>。
[[1937年]]に4歳(現3歳)以上の牡馬・牝馬(外国産馬含む)による重賞競走「'''帝室御賞典(秋)'''」として創設。秋の競走としての第1回は[[東京競馬場]]の芝2600メートルで施行され<ref name="JRA注目"/>、[[古馬]]の最強馬決定戦として位置付けられた。1938年からは施行距離を芝3200メートルに、出走資格を5歳(現4歳)以上に変更<ref name="JRA注目"/>。


==== 競走条件 ====
1984年からグレード制施行によりGIに格付けされ、この際に施行距離を芝2000メートルに変更。これにより中距離の最強馬決定戦として位置付けられた<ref name="JRA注目"/>。なお、距離変更の発表時は競馬ファンや競馬関係者、一部の競馬評論家から反対の声もあった<ref>[[優駿]]([[1988年]]2月号)</ref>。
以下の内容は、2013年(第148回)終了時現在のもの<ref name="競走条件(秋)" />。


===== 出走資格 =====
[[1981年]]から[[ジャパンカップ]]の新設に伴い施行時期が10月下旬 - 11月初旬に繰り上げられ、ジャパンカップへ向けたステップレースとしての意味合いも併せ持つようになった。
3歳以上のサラ系競走馬<ref name="競走条件(秋)" />(出走制限頭数:最大18頭<ref name="JRAフルゲート" />)
* JRA所属馬
* 地方所属馬(優先出走権を得た馬のみ)
* 外国調教馬(JRA所属の外国産馬とあわせて最大9頭まで)


出馬投票を行った馬のうち、以下の優先出走権を得ている馬から優先して割り当て、その他の馬は「通算収得賞金」+「過去1年間の収得賞金」+「過去2年間のGI(JpnI)競走における収得賞金」の総計が多い順に割り当てる。
[[1995年]]からは指定競走となり、所定の条件を満たした地方所属馬にも出走資格が与えられるようになった<ref name="JRA注目"/>。


====== 優先出走権を得られる条件 ======
春の競走と同様に1971年から外国産馬の出走ができなくなったが、2000年より外国産馬は総収得賞金順に上位2頭まで出走可能となった([[2002年]]からはフルゲートにならなかった場合に限り4頭まで出走可能<ref group="注">[[2001年]]はフルゲートに満たなかったにもかかわらず、[[クロフネ]]が外国産馬枠に外れて出走除外となり、波紋を呼んだため。</ref>)。[[2004年]]からは外国産馬の出走枠が5頭に拡大、その後も[[2005年]]からは国際競走に指定され外国調教馬が5頭まで出走可能になったほか、外国産馬の出走枠制限も撤廃された<ref name="JRA注目"/>。
* 出馬投票を行っている外国調教馬

* レーティング順位の上位5頭<ref group="注">牡馬・騙馬は110ポンド、牝馬は106ポンド以上が条件。</ref>
近代競馬では主流とされている芝2000メートルで施行されるため、マイラーからステイヤーまで多彩な距離適性の馬が出走する。また、3歳(旧4歳)馬も出走可能なことから[[菊花賞]]へ向かわず、本競走に出走する馬が一部みられる。なお、[[エリザベス女王杯]]の条件変更後は牝馬の出走数が減少傾向にある。
<!--* 当該年に行われる以下の競走のいずれかで1着となった馬(中央・地方の所属は問わない)<ref name="JRA出馬投票" />-->

* 当該年に行われる以下の競走のいずれかで2着以内に入着した地方競馬所属馬<ref>{{PDFLink|[http://www.jra.go.jp/keiba/program/pdf/h25-bangumi_ippan.pdf 2013年競馬番組一般事項(V 出馬投票)]}} - 日本中央競馬会、2014年5月31日閲覧</ref>
[[2000年]]よりジャパンカップ・[[有馬記念]]とともに「'''秋の古馬[[三冠 (競馬)|三冠]]競走'''」とされ、3競走を全て優勝した馬に褒賞金が贈られるようになった。
{| class="wikitable" style="text-align:center"

!競走名!!格付!!施行競馬場!!施行距離
==== 出走資格 ====
* 原則サラ系3歳(旧4歳)以上のJRA所属の競走馬、地方所属の競走馬及び外国調教馬(9頭まで)、出走枠は18頭まで。
* レーティング順位の上位5頭に対しては優先出走が認められる(2012年より。牡馬・セン馬は110ポンド、牝馬は106ポンド以上であることが条件)。
* その他の競走馬は「通算の収得賞金」+「過去1年間の収得賞金」+「過去2年間のGI(JpnI)競走の収得賞金」の総計が多い順に出走できる。
* 地方競馬所属馬は以下の競走のいずれかで所定の成績をあげると本競走に出走できる。
{| class="wikitable"
!競走名!!格付!!施行競馬場!!施行距離!!必要な着順!!備考
|-
|-
|[[オールカマー]]||{{Color|blue|GII}}||{{Flagicon|JPN}}中山競馬場||芝・外2200m||rowspan="3"|1・2着||rowspan="3"|本競走のステップ競走指定<br>中央・地方の所属を問わずに、1着で優先出走権を付与(2014年から)
|[[オールカマー]]||{{Color|blue|GII}}||{{Flagicon|JPN}}[[中山競馬場]]||芝・外2200m
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|-
|[[毎日王冠]]||{{Color|blue|GII}}||{{Flagicon|JPN}}[[東京競馬場]]||芝1800m
|[[毎日王冠]]||{{Color|blue|GII}}||{{Flagicon|JPN}}東京競馬場||芝1800m
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|-
|[[京都大賞典]]||{{Color|blue|GII}}||{{Flagicon|JPN}}[[京都競馬場]]||芝・外2400m
|[[京都大賞典]]||{{Color|blue|GII}}||{{Flagicon|JPN}}京都競馬場||芝・外2400m
|}
|}


===== 負担重量 =====
===== 負担重量 =====
* 定量<ref name="JRA注目"/>(3歳56kg、4歳以上58kg、牝馬2kg減)
定量(3歳56kg、4歳以上58kg、牝馬2kg減<ref name="競走条件(秋)">{{PDFLink|[http://jra.jp/keiba/program/pdf/25to4.pdf 平成25年第4回東京競馬番組]}}日本中央競馬会 - 2014年5月27日閲覧</ref>


3歳馬は負担重量が軽減されており、4歳以上の馬に比べ重量面で優遇されている。
==== コース ====
[[東京競馬場]]の芝2000メートル。第1コーナーのポケット奥から発走。


{{See also|負担重量}}
スタート地点から第2コーナーまでの距離が短くコーナーの[[曲率半径]]も小さいため、外枠(特に大外枠)の馬は不利とされている<ref>[http://jra-van.jp/fun/ddd/20110418.html 第487回 皐月賞の舞台・東京芝2000mを分析!]-JRA-VAN データde出~た</ref>。[[2002年]]にコース改修が実施されたものの、依然として外枠不利の状況に変わりはなく、距離変更後に大外枠で優勝したのは[[1986年]]の[[サクラユタカオー]]、[[1989年]]の[[スーパークリーク]]、2003年の[[シンボリクリスエス]]のみ。コース改修前の1991年には13番枠から発走した[[メジロマックイーン]]がスタート後に内側へ斜行し、1位で入線も審議の結果18着に降着となった。


===== コース =====
大レースは枠順による有利不利が起こらない条件で行うべきと考えていた[[大川慶次郎]]は、生前にこのような状況を予測して距離が2000メートルに短縮された際最後まで反対意見を唱え、2000メートルで施行するなら[[中山競馬場]]にすべきと主張していた<ref group="注">ただし、2002年のレースは東京競馬場の馬場改修工事により、中山競馬場で行われた。</ref>。
[[ファイル:Tokyo2000c.jpg|thumb|300px|right|天皇賞(秋)コース概略図]]
東京競馬場の芝コース、2000メートルを使用<ref name="競走条件(秋)" />。


スタート位置は第1コーナーの奥に設けられた「ポケット地点」と呼ばれる。スタートから120メートルほどで第2コーナーにかかり<ref name="JRA_futyu">[http://jra.jp/facilities/race/tokyo/course.html JRA 東京競馬場コースガイド] - 2014年5月27日閲覧。</ref>、第2コーナーから向正面にかけての700メートルは落差2メートルの緩やかな下り勾配となる<ref name="JRA_futyu"/><ref name="Labo_tk2000">[http://data.keibalab.jp/course/coursedata/z_tok_t2000.html 競馬ラボ 東京競馬場芝2000m] - 2014年5月27日閲覧。</ref>。その後、向正面の半ばから約1.5メートルの急な上り坂になる<ref name="JRA_futyu"/><ref name="Labo_tk2000"/>。これを上りきるとまもなく第3コーナーに入り、カーブを回りながら約1.8メートル下る<ref name="JRA_futyu"/><ref name="Labo_tk2000"/>。第4コーナーからは上り勾配に転じ、直線に入る<ref name="JRA_futyu"/><ref name="Labo_tk2000"/>。ゴールまでの直線は約525メートルで、日本の競馬場では一番長い<ref name="JRA_futyu"/><ref name="Labo_tk2000"/>。直線の中ほどにも高さ2メートルの長い上り坂があり、坂を登り切った後もゴールまで約250メートルの平坦路がある<ref name="JRA_futyu"/><ref name="Labo_tk2000"/>。
==== 賞金 ====

; グレード制が施行された第90回(1984年)以降
スタートから最初のカーブまでが短く<ref group="注">スタートしてから最初のカーブまでの距離は約120メートルで、JRAの平地の芝コースの中では最も短い設定である。ほかに最初のカーブまでの距離が短いコースとしては、東京競馬場の1800メートル(約160メートル)、小倉競馬場の1700メートル(約170メートル)などの設定がある。</ref>、序盤から前へ行きたい馬が外側の枠に入った場合、スタートからすぐに先行できなければ、カーブで大きく外を回ることになり、距離を余計に走ることになるため、スタート直後の先行争いがひとつの見どころとなる<ref name="Labo_tk2000"/><ref group="注">1991年の[[第104回天皇賞]]では、最も外側から発走した馬がスタート直後に内側へ急斜行して他馬の進路を妨害した。被害馬が18位でゴールしたため、加害馬は18着に降着となった。その後[[2002年]]にコース改修が実施され、以前よりはカーブが緩和されている。</ref><ref group="注">カーブの半径やカーブまでの距離が危険であるという意見もあるが、同様のコース設定は地方競馬や海外の競馬場にも多数存在しており、[[日本グレード格付け管理委員会|ダート競走格付け委員]]の[[山野浩一]]は「世界の競馬の中ではとても中程度の危険さとさえいえるものではない」としている(『全日本フリーハンデ1989 - 1994』山野浩一、リトル・モア、p457-459)。</ref><ref group="注">大レースは枠順による有利不利が起こらない条件で行うべきと考えていた[[大川慶次郎]]は、生前にこのような状況を予測して距離が2000メートルに短縮された際最後まで反対意見を唱え、2000メートルで施行するなら[[中山競馬場]]にすべきと主張していた。</ref>。
{| class="wikitable"

!回(施行年)!!総額賞金!!1着!!2着!!3着!!4着!!5着
<!-- ノート参照。外枠(特に「大外枠」と呼ばれる一番外側の枠)の馬にとって不利だとする説がある<ref>[http://jra-van.jp/fun/ddd/20110418.html 第487回 皐月賞の舞台・東京芝2000mを分析!] - JRA-VAN データde出〜た</ref>。-->
|-
|第90回(1984年)||1億4,250万円||7,500万円||3,000万円||1,900万円||1,100万円||750万円
|-
|第92回(1985年)||1億4,880万円||7,800万円||3,100万円||rowspan="2"|2,000万円||rowspan="2"|1,200万円||780万円
|-
|第94回(1986年)||1億5,200万円||8,000万円||3,200万円||800万円
|-
|第96回(1987年)||1億6,150万円||8,500万円||3,400万円||2,100万円||1,300万円||850万円
|-
|第98回(1988年)||1億8,050万円||9,500万円||3,800万円||2,400万円||1,400万円||950万円
|-
|第100回(1989年)||1億9,530万円||1億300万円||4,100万円||2,600万円||1,500万円||1,030万円
|-
|第102回(1990年)||2億1,000万円||1億1,000万円||4,400万円||2,800万円||1,700万円||1,100万円
|-
|第104回(1991年)||2億2,800万円||1億2,000万円||4,800万円||3,000万円||1,800万円||1,200万円
|-
|第106回(1992年)||rowspan="3"|2億4,800万円||rowspan="3"|1億3,000万円||rowspan="3"|5,200万円||rowspan="3"|3,300万円||rowspan="3"|2,000万円||rowspan="3"|1300万円
|-
|第108回(1993年)
|-
|第110回(1994年)
|-
|第112回(1995年)||rowspan="18"|2億5,120万円||rowspan="18"|1億3,200万円||rowspan="18"|5,300万円||rowspan="18"|3,300万円||rowspan="18"|2,000万円||rowspan="18"|1,320万円
|-
|第114回(1996年)
|-
|第116回(1997年)
|-
|第118回(1998年)
|-
|第120回(1999年)
|-
|第122回(2000年)
|-
|第124回(2001年)
|-
|第126回(2002年)
|-
|第128回(2003年)
|-
|第130回(2004年)
|-
|第132回(2005年)
|-
|第134回(2006年)
|-
|第136回(2007年)
|-
|第138回(2008年)
|-
|第140回(2009年)
|-
|第142回(2010年)
|-
|第144回(2011年)
|-
|第146回(2012年)
|}


==== 年表 ====
==== 年表 ====
* 1937年 - 4歳(現3歳)以上の牡馬・牝馬による重賞競走「帝室御賞典(秋)て創設。東京競馬場・芝2600メートルで施行。
* 1937年 - 「帝室御賞典」を再編年2回の施行に改め、秋の競走を東京競馬場で施行。
* 1938年 - 施行距離を芝3200メートルに、出走資格を5歳(現4歳)以上に変更<ref name="JRA注目"/>。
* 1938年 - 施行距離を芝3200メートルに、出走条件を5歳(現4歳)以上に変更<ref name="JRA注目" />。
* 1944年 - 太平洋戦争の影響で中止<ref name="JRA注目"/>。
* 1944年 - 太平洋戦争の影響で中止<ref name="JRA注目" />。
* 1947年 - 名称を「天皇賞」に変更<ref name="JRA注目"/>。
* 1947年 - 名称を「天皇賞」に変更<ref name="JRA注目" />。
* 1954年 - [[オパールオーキツト]]が[[外国産馬]]として史上初の制覇。
* 1959年 - 時計表示が1/5秒表示から1/10秒表示に変更。
* 1967年 - 中山競馬場の芝3200メートルで施行<ref name="JRA注目"/>。
* 1971年 - 外国産馬が出走できなくなる。
* 1971年 - 外国産馬が出走できなくなる。
* 1981年 - 勝ち抜き制を廃止<ref name="JRA注目" />。
* 1978年 - [[パワーシンボリ]]がゲート内で扉に噛み付き、同馬だけ発走出来なかったことにより[[カンパイ (競馬)|カンパイ]](発走やり直し)となった。
* 1981年 - 勝ち抜き制を廃止<ref name="JRA注目"/>。
* 1984年
* 1984年
** グレード制導入、GIに格付け。
** グレード制導入、GIに格付け。
** 施行距離を芝2000メートルに変更<ref name="JRA注目"/>。
** 施行距離を芝2000メートルに変更<ref name="JRA注目" />。
* 1987年
* 1987年
** 出走資格を4歳(現3歳)以上牡馬・牝馬に変更<ref name="JRA注目"/>。
** 出走資格を4歳(現3歳)以上牡馬・牝馬に変更<ref name="JRA注目" />。
** 「天皇賞競走施行50周年記念」の副称を付けて施行<ref name="JRA注目"/>。
** 「天皇賞競走施行50周年記念」の副称を付けて施行<ref name="JRA注目" />。
** [[明仁|皇太子]]・[[皇后美智子|同妃]]夫妻の行啓により台覧競馬として開催。
** [[明仁|皇太子]]・[[皇后美智子|同妃]]夫妻の行啓により台覧競馬として開催。
* 1988年 - [[タマモクロス]]当年春制覇と合わせて史上初の天皇賞春秋連覇・天皇賞2勝目<ref name="JRA注目"/>。
* 1995年 - 指定交流競走となり、地方競馬所属馬も出走可能に<ref name="JRA注目" />。
* 2000年 - 外国産馬が2頭まで出走可能に<ref name="JRA注目" />。
* 1989年 - 天皇賞の開催回数が100回を迎える(春と秋の合算)。
* 2001年 - 馬齢表記を国際基準へ変更したことに伴い、出走条件を「4歳以上牡馬・牝馬」から「3歳以上牡馬・牝馬」に変更。
* 1991年 - 1位入線の[[メジロマックイーン]]が進路妨害により18着に降着<ref name="JRA注目"/>。
* 1995年 - 指定交流競走に指定され、地方競馬所属馬も出走が可能に<ref name="JRA注目"/>。
* 2004年 - 「日本中央競馬会創立50周年記念」の副称を付けて施行<ref name="JRA注目" />。
* 2000年 - 外国産馬が2頭まで出走可能に<ref name="JRA注目"/>。
* 2001年
** [[馬齢]]表示の国際基準への変更に伴い、出走条件が「4歳以上牡馬・牝馬」から「3歳以上牡馬・牝馬」に変更。
** [[アグネスデジタル]]が外国産馬出走解禁後初の制覇。
* 2002年 - 中山競馬場の芝2000メートルで施行<ref name="JRA注目"/>。
* 2004年 - 「日本中央競馬会創立50周年記念」の副称を付けて施行<ref name="JRA注目"/>。
* 2005年
* 2005年
** 「エンペラーズカップ100年記念」の副称を付けて施行<ref name="JRA注目"/>。
** 「エンペラーズカップ100年記念」の副称を付けて施行<ref name="JRA注目" />。
** 国際競走に指定され、外国調教馬は5頭まで出走可能となる<ref name="JRA注目"/>。
** 国際競走に指定され、外国調教馬は5頭まで出走可能となる<ref name="JRA注目" />。
** 外国産馬の出走枠制限を撤廃<ref name="JRA注目"/>。
** 外国産馬の出走枠制限を撤廃<ref name="JRA注目" />。
** 天皇・皇后が臨席、天皇賞史上初めての天覧競馬。
** 天皇・皇后が臨席、天皇賞史上初めての天覧競馬。
* 2006年 - 「[[悠仁親王]]殿下御誕生慶祝」の副称を付けて施行<ref name="JRA注目"/>。
* 2006年 - 「[[悠仁親王]]殿下御誕生慶祝」の副称を付けて施行<ref name="JRA注目" />。
* 2008年 - 出走条件を「3歳以上牡馬・牝馬」から「3歳以上」に変更<ref name="JRA注目"/>。
* 2008年 - 出走条件を「3歳以上牡馬・牝馬」から「3歳以上」に変更<ref name="JRA注目" />。
* 2012年
* 2012年
** 「近代競馬150周年記念」の副称を付けて施行<ref name="JRA注目"/>。
** 「近代競馬150周年記念」の副称を付けて施行<ref name="JRA注目" />。
** 出走馬選定方法を変更、レーティング上位5頭に優先出走を認める。
** 出走馬選定方法を変更、レーティング上位5頭に優先出走を認める。
** 今上天皇・皇后美智子が臨席、史上2回目の天覧競馬。
** 天皇・皇后が臨席、天皇賞史上2回目の天覧競馬。

<div class="NavFrame" style="clear: both; border:0;">
<div class="NavHead" style="background-color:#66e851;">天皇賞(秋)歴代優勝馬</div>
<div class="NavContent" style="text-align: left;background-color:#efffef;">
* 国際競走となった2005年以降は優勝馬の国旗を表記する。
* コース種別の記載がない距離は、芝コースを表す。
* 競走名は第13回まで「帝室御賞典」<ref name="JRA注目" />、第16回以降は「天皇賞」。


==== 歴代優勝馬 ====
国際競走となった2005年以降は優勝馬の国旗を表記する。
{| class="wikitable"
{| class="wikitable"
!回数!!施行日!!調教国・優勝馬!!style="white-space:nowrap"|性齢!!勝時計!!優勝騎手!!style="white-space:nowrap"|管理調教師!!馬主
!回数!!施行日!!競馬場!!距離!!調教国・優勝馬!!style="white-space:nowrap"|性齢!!勝時計!!優勝騎手!!style="white-space:nowrap"|管理調教師!!馬主
|-
|-
|style="text-align:center"|第1回||1937年[[12月3日|12月{{0}}3日]]||[[ハツピーマイト]]||牡3||style="white-space:nowrap"|2:48 1/5||[[田中朋次郎|新井朋次郎]]||[[秋山辰治]]||竹中久蔵
|style="text-align:center"|第1回||1937年12月3日||東京||2600m||[[ハツピーマイト]]||牡3||style="white-space:nowrap"|2:48 1/5||[[田中朋次郎|新井朋次郎]]||[[秋山辰治]]||竹中久蔵
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|-
|style="text-align:center"|第3回||1938年[[11月3日|11月{{0}}3日]]||[[ヒサトモ]]||牝4||3:35 2/5||colspan="2" style="text-align:center"|[[中島時一]]||宮崎信太郎
|style="text-align:center"|第3回||1938年11月3日||東京||3200m||[[ヒサトモ]]||牝4||3:35 2/5||colspan="2" style="text-align:center"|[[中島時一]]||宮崎信太郎
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|-
|style="text-align:center"|第5回||1939年11月{{0}}3日||[[テツモン]]||牡4||3:24 4/5||[[保田隆芳]]||[[尾形藤吉|尾形景造]]||松山隆郎
|style="text-align:center"|第5回||1939年11月3日||東京||3200m||[[テツモン]]||牡4||3:24 4/5||[[保田隆芳]]||[[尾形藤吉|尾形景造]]||松山隆郎
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|-
|style="text-align:center"|第7回||1940年[[11月17日]]||[[ロツキーモアー]]||牡4||3:27 1/5||[[小西喜蔵]]||[[田中和一郎]]||真藤慎太郎
|style="text-align:center"|第7回||1940年11月17日||東京||3200m||[[ロツキーモアー]]||牡4||3:27 1/5||[[小西喜蔵]]||[[田中和一郎]]||真藤慎太郎
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|style="text-align:center"|第9回||1941年[[11月2日|11月{{0}}2日]]||[[エステイツ]]||牡4||3:24 3/5||[[田中康三]]||尾形景造||川内安忠
|style="text-align:center"|第9回||1941年11月2日||東京||3200m||[[エステイツ]]||牡4||3:24 3/5||[[田中康三]]||尾形景造||川内安忠
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|style="text-align:center"|第11回||1942年[[11月1日|11月{{0}}1日]]||[[ニパトア]]||牝4||3:34 4/5||[[新屋幸吉]]||[[清水茂次]]||山本文吾
|style="text-align:center"|第11回||1942年11月1日||東京||3200m||[[ニパトア]]||牝4||3:34 4/5||[[新屋幸吉]]||[[清水茂次]]||山本文吾
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|-
|style="text-align:center"|第13回||1943年[[11月7日|11月{{0}}7日]]||[[クリヒカリ]]||牡4||3:26 3/5||小西喜蔵||田中和一郎||栗林友二
|style="text-align:center"|第13回||1943年11月7日||東京||3200m||[[クリヒカリ]]||牡4||3:26 3/5||小西喜蔵||田中和一郎||栗林友二
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|-
|style="text-align:center"|第16回||style="white-space:nowrap"|1947年10月17日||[[トヨウメ]]||牡4||3:44 2/5||[[石毛善衛|小林善衛]]||[[鈴木信太郎 (競馬)|鈴木信太郎]]||中村正行
|style="text-align:center"|第16回||style="white-space:nowrap"|1947年10月17日||東京||3200m||[[トヨウメ]]||牡4||3:44 2/5||[[石毛善衛|小林善衛]]||[[鈴木信太郎 (競馬)|鈴木信太郎]]||中村正行
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|style="text-align:center"|第18回||1948年[[11月23日]]||[[カツフジ]]||牡5||3:30 0/5||[[近藤武夫]]||[[伊藤勝吉]]||伊藤由五郎
|style="text-align:center"|第18回||1948年11月23日||東京||3200m||[[カツフジ]]||牡5||3:30 0/5||[[近藤武夫]]||[[伊藤勝吉]]||伊藤由五郎
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|-
|style="text-align:center"|第20回||1949年11月{{0}}3日||[[ニユーフオード]]||牡4||3:25 1/5||保田隆芳||[[小川佐助]]||吉木三郎
|style="text-align:center"|第20回||1949年11月3日||東京||3200m||[[ニユーフオード]]||牡4||3:25 1/5||保田隆芳||[[小川佐助]]||吉木三郎
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|-
|style="text-align:center"|第22回||1950年11月{{0}}3日||[[ヤシマドオター (競走馬)|ヤシマドオター]]||牝4||3:28 0/5||保田隆芳||尾形藤吉||小林庄平
|style="text-align:center"|第22回||1950年11月3日||東京||3200m||[[ヤシマドオター (競走馬)|ヤシマドオター]]||牝4||3:28 0/5||保田隆芳||尾形藤吉||小林庄平
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|-
|style="text-align:center"|第24回||1951年[[11月11日]]||[[ハタカゼ]]||牡4||3:24 0/5||保田隆芳||尾形藤吉||癸生川善松
|style="text-align:center"|第24回||1951年11月11日||東京||3200m||[[ハタカゼ]]||牡4||3:24 0/5||保田隆芳||尾形藤吉||癸生川善松
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|-
|style="text-align:center"|第26回||1952年[[11月16日]]||[[トラツクオー]]||牡4||3:24 4/5||[[小林稔 (競馬)|小林稔]]||[[久保田金造]]||[[岩本政一]]
|style="text-align:center"|第26回||1952年11月16日||東京||3200m||[[トラツクオー]]||牡4||3:24 4/5||[[小林稔 (競馬)|小林稔]]||[[久保田金造]]||[[岩本政一]]
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|-
|style="text-align:center"|第28回||1953年[[11月15日]]||[[クインナルビー]]||牝4||3:23 0/5||[[境勝太郎]]||[[石門虎吉]]||高橋虎男
|style="text-align:center"|第28回||1953年11月15日||東京||3200m||[[クインナルビー]]||牝4||3:23 0/5||[[境勝太郎]]||[[石門虎吉]]||高橋虎男
|-
|-
|style="text-align:center"|第30回||1954年[[11月21日]]||[[オパールオーキツト]]||牝4||3:33 2/5||[[中村広]]||[[稲葉幸夫]]||三坂成行
|style="text-align:center"|第30回||1954年11月21日||東京||3200m||[[オパールオーキツト]]||牝4||3:33 2/5||[[中村広]]||[[稲葉幸夫]]||三坂成行<ref group="主">毎日新聞1954年11月22日付「オパールオーキツトに栄冠 天皇賞 雨中に十頭が激戦」</ref>
|-
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|style="text-align:center"|第32回||1955年[[11月20日]]||[[ダイナナホウシユウ]]||牡4||3:24 4/5||[[上田三千夫]]||[[上田武司 (競馬)|上田武司]]||[[上田清次郎]]
|style="text-align:center"|第32回||1955年11月20日||東京||3200m||[[ダイナナホウシユウ]]||牡4||3:24 4/5||[[上田三千夫]]||[[上田武司 (競馬)|上田武司]]||[[上田清次郎]]<ref group="主">毎日新聞1955年11月21日付「天皇賞ダイナナホウシユウに」</ref>
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|style="text-align:center"|第34回||1956年[[11月25日]]||[[ミツドフアーム]]||牡5||3:22 3/5||保田隆芳||尾形藤吉||草柳留三
|style="text-align:center"|第34回||1956年11月25日||東京||3200m||[[ミツドフアーム]]||牡5||3:22 3/5||保田隆芳||尾形藤吉||草柳留三<ref group="主">毎日新聞1956年11月26日付「天皇賞はミツドフアーム」</ref>
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|style="text-align:center"|第36回||1957年11月23日||[[ハクチカラ]]||牡4||3:29 3/5||保田隆芳||尾形藤吉||西博
|style="text-align:center"|第36回||1957年11月23日||東京||3200m||[[ハクチカラ]]||牡4||3:29 3/5||保田隆芳||尾形藤吉||西博<ref group="主">毎日新聞1957年11月24日付「ハクチカラ一位 天皇賞レース」</ref>
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|style="text-align:center"|第38回||1958年11月23日||[[セルローズ]]||牝4||3:24 4/5||[[石毛善衛]]||[[柴田恒治郎]]||戸谷佐治
|style="text-align:center"|第38回||1958年11月23日||東京||3200m||[[セルローズ]]||牝4||3:24 4/5||[[石毛善衛]]||[[柴田恒治郎]]||戸谷佐治<ref group="主">毎日新聞1958年11月24日付「天皇賞・セルローズが優勝」</ref>
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|style="text-align:center"|第40回||1959年11月23日||[[ガーネツト]]||牝4||3:24.5||[[伊藤竹男]]||[[稗田敏男]]||畑江五郎
|style="text-align:center"|第40回||1959年11月23日||東京||3200m||[[ガーネツト]]||牝4||3:24.5||[[伊藤竹男]]||[[稗田敏男]]||畑江五郎<ref group="主">読売新聞1959年11月24日付「天皇賞はガーネット」</ref>
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|style="text-align:center"|第42回||1960年11月23日||[[オーテモン]]||牡5||3:27.1||野平好男||[[田中和夫 (競馬)|田中和夫]]||[[永田雅一]]
|style="text-align:center"|第42回||1960年11月23日||東京||3200m||[[オーテモン]]||牡5||3:27.1||野平好男||[[田中和夫 (競馬)|田中和夫]]||[[永田雅一]]<ref group="主">読売新聞1960年11月24日付「天皇賞はオーテモン」</ref>
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|style="text-align:center"|第44回||1961年11月23日||[[タカマガハラ]]||牡4||3.25.8||[[加賀武見]]||小西喜蔵||[[平井太郎]]
|style="text-align:center"|第44回||1961年11月23日||東京||3200m||[[タカマガハラ]]||牡4||3.25.8||[[加賀武見]]||小西喜蔵||[[平井太郎]]
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|style="text-align:center"|第46回||1962年11月23日||[[クリヒデ]]||牝4||3:27.4||[[森安弘昭|森安弘明]]||[[大久保房松]]||栗林友二
|style="text-align:center"|第46回||1962年11月23日||東京||3200m||[[クリヒデ]]||牝4||3:27.4||[[森安弘昭|森安弘明]]||[[大久保房松]]||栗林友二
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|style="text-align:center"|第48回||1963年11月23日||[[リユウフオーレル]]||牡4||3:22.7||[[宮本悳]]||[[橋本正晴]]||三好笑子
|style="text-align:center"|第48回||1963年11月23日||東京||3200m||[[リユウフオーレル]]||牡4||3:22.7||[[宮本悳]]||[[橋本正晴]]||三好笑子
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|style="text-align:center"|第50回||1964年11月23日||[[ヤマトキヨウダイ]]||牡4||3:21.7||[[梶与四松]]||稲葉幸夫||門井みち
|style="text-align:center"|第50回||1964年11月23日||東京||3200m||[[ヤマトキヨウダイ]]||牡4||3:21.7||[[梶与四松]]||稲葉幸夫||門井みち
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|style="text-align:center"|第52回||1965年11月23日||[[シンザン]]||牡4||3:22.7||[[栗田勝]]||[[武田文吾]]||[[橋元家|橋元幸吉]]
|style="text-align:center"|第52回||1965年11月23日||東京||3200m||[[シンザン]]||牡4||3:22.7||[[栗田勝]]||[[武田文吾]]||[[橋元家|橋元幸吉]]
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|style="text-align:center"|第54回||1966年11月{{0}}3日||[[コレヒデ]]||牡4||3:24.2||保田隆芳||尾形藤吉||千明康
|style="text-align:center"|第54回||1966年11月3日||東京||3200m||[[コレヒデ]]||牡4||3:24.2||保田隆芳||尾形藤吉||千明康
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|style="text-align:center"|第56回||1967年11月23日||[[カブトシロー]]||牡5||3:25.5||style="white-space:nowrap"|[[久保田秀次郎]]||[[久保田彦之]]||(有)志賀
|style="text-align:center"|第56回||1967年11月23日||中山||3200m||[[カブトシロー]]||牡5||3:25.5||style="white-space:nowrap"|[[久保田秀次郎]]||[[久保田彦之]]||(有)志賀
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|style="text-align:center"|第58回||1968年11月23日||[[ニットエイト]]||牡4||3:20.3||森安弘明||[[矢倉玉男]]||太田和芳郎
|style="text-align:center"|第58回||1968年11月23日||東京||3200m||[[ニットエイト]]||牡4||3:20.3||森安弘明||[[矢倉玉男]]||太田和芳郎
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|style="text-align:center"|第60回||1969年[[11月30日]]||[[メジロタイヨウ]]||牡5||3:33.0||[[横山富雄]]||[[八木沢勝美]]||[[北野豊吉]]
|style="text-align:center"|第60回||1969年11月30日||東京||3200m||[[メジロタイヨウ]]||牡5||3:33.0||[[横山富雄]]||[[八木沢勝美]]||[[北野豊吉]]
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|style="text-align:center"|第62回||1970年[[11月29日]]||[[メジロアサマ]]||牡4||3:24.8||[[池上昌弘]]||保田隆芳||北野豊吉
|style="text-align:center"|第62回||1970年11月29日||東京||3200m||[[メジロアサマ]]||牡4||3:24.8||[[池上昌弘]]||保田隆芳||北野豊吉
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|style="text-align:center"|第64回||1971年11月28日||[[トウメイ]]||牝5||3:23.7||[[清水英次]]||[[坂田正行]]||近藤克夫
|style="text-align:center"|第64回||1971年11月28日||東京||3200m||[[トウメイ]]||牝5||3:23.7||[[清水英次]]||[[坂田正行]]||近藤克夫
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|style="text-align:center"|[[第66回天皇賞|第66回]]||1972年[[11月26日]]||[[ヤマニンウエーブ]]||牡5||3:23.7||[[福永洋一]]||[[中村覚之助 (競馬)|中村覚之助]]||土井宏二
|style="text-align:center"|[[第66回天皇賞|第66回]]||1972年11月26日||東京||3200m||[[ヤマニンウエーブ]]||牡5||3:23.7||[[福永洋一]]||[[中村覚之助 (競馬)|中村覚之助]]||土井宏二
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|style="text-align:center"|第68回||1973年11月25日||[[タニノチカラ]]||牡4||3:22.7||[[田島日出雄]]||[[島崎宏]]||[[谷水雄三]]
|style="text-align:center"|第68回||1973年11月25日||東京||3200m||[[タニノチカラ]]||牡4||3:22.7||[[田島日出雄]]||[[島崎宏]]||[[谷水雄三]]
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|style="text-align:center"|第70回||1974年[[11月24日]]||[[カミノテシオ]]||牡4||3:22.4||加賀武見||[[高橋英夫 (競馬)|高橋英夫]]||保手浜正康
|style="text-align:center"|第70回||1974年11月24日||東京||3200m||[[カミノテシオ]]||牡4||3:22.4||加賀武見||[[高橋英夫 (競馬)|高橋英夫]]||保手浜正康
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|style="text-align:center"|第72回||1975年11月23日||[[フジノパーシア]]||牡4||3:28.8||[[大崎昭一]]||[[柴田寛]]||真田繁次、高橋金次
|style="text-align:center"|第72回||1975年11月23日||東京||3200m||[[フジノパーシア]]||牡4||3:28.8||[[大崎昭一]]||[[柴田寛]]||真田繁次、高橋金次
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|style="text-align:center"|第74回||1976年11月28日||[[アイフル (競走馬)|アイフル]]||牡5||3:20.6||[[嶋田功]]||[[仲住芳雄]]||藤本義昭
|style="text-align:center"|第74回||1976年11月28日||東京||3200m||[[アイフル (競走馬)|アイフル]]||牡5||3:20.6||[[嶋田功]]||[[仲住芳雄]]||藤本義昭
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|style="text-align:center"|第76回||1977年[[11月27日]]||[[ホクトボーイ]]||牡4||3:22.5||[[久保敏文]]||[[久保道雄]]||森滋
|style="text-align:center"|第76回||1977年11月27日||東京||3200m||[[ホクトボーイ]]||牡4||3:22.5||[[久保敏文]]||[[久保道雄]]||森滋
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|style="text-align:center"|第78回||1978年11月26日||[[テンメイ]]||牡4||3:21.4||[[清水英次]]||坂田正行||近藤克夫
|style="text-align:center"|第78回||1978年11月26日||東京||3200m||[[テンメイ]]||牡4||3:21.4||[[清水英次]]||坂田正行||近藤克夫
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|style="text-align:center"|第80回||1979年11月25日||[[スリージャイアンツ]]||牡4||3:33.5||[[郷原洋行]]||境勝太郎||[[松岡正雄]] 他2名
|style="text-align:center"|第80回||1979年11月25日||東京||3200m||[[スリージャイアンツ]]||牡4||3:33.5||[[郷原洋行]]||境勝太郎||[[松岡正雄]] 他2名
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|style="text-align:center"|[[第82回天皇賞|第82回]]||1980年11月23日||[[プリテイキャスト]]||牝5||3:28.1||[[柴田政人]]||[[石栗龍雄]]||高田久成
|style="text-align:center"|[[第82回天皇賞|第82回]]||1980年11月23日||東京||3200m||[[プリテイキャスト]]||牝5||3:28.1||[[柴田政人]]||[[石栗龍雄]]||高田久成
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|style="text-align:center"|[[第84回天皇賞|第84回]]||1981年[[10月25日]]||[[ホウヨウボーイ]]||牡6||3:18.9||[[加藤和宏 (JRA)|加藤和宏]]||[[二本柳俊夫]]||古川嘉治
|style="text-align:center"|[[第84回天皇賞|第84回]]||1981年10月25日||東京||3200m||[[ホウヨウボーイ]]||牡6||3:18.9||[[加藤和宏 (JRA)|加藤和宏]]||[[二本柳俊夫]]||古川嘉治
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|style="text-align:center"|第86回||1982年[[10月31日]]||[[メジロティターン]]||牡4||3:17.9||[[伊藤正徳 (競馬)|伊藤正徳]]||[[尾形盛次]]||メジロ商事(株)
|style="text-align:center"|第86回||1982年10月31日||東京||3200m||[[メジロティターン]]||牡4||3:17.9||[[伊藤正徳 (競馬)|伊藤正徳]]||[[尾形盛次]]||メジロ商事(株)
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|style="text-align:center"|第88回||1983年[[10月30日]]||[[キョウエイプロミス]]||牡6||3:22.7||柴田政人||[[高松邦男]]||松岡正雄
|style="text-align:center"|第88回||1983年10月30日||東京||3200m||[[キョウエイプロミス]]||牡6||3:22.7||柴田政人||[[高松邦男]]||松岡正雄
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|style="text-align:center"|第90回||1984年[[10月28日]]||[[ミスターシービー]]||牡4||1:59.3||[[吉永正人]]||[[松山康久]]||(株)丸沼温泉ホテル
|style="text-align:center"|第90回||1984年10月28日||東京||2000m||[[ミスターシービー]]||牡4||1:59.3||[[吉永正人]]||[[松山康久]]||(株)丸沼温泉ホテル
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|style="text-align:center"|第92回||1985年[[10月27日]]||[[ギャロップダイナ]]||牡5||1:58.7||[[根本康広]]||[[矢野進]]||[[社台レースホース|(有)社台レースホース]]
|style="text-align:center"|第92回||1985年10月27日||東京||2000m||[[ギャロップダイナ]]||牡5||1:58.7||[[根本康広]]||[[矢野進]]||[[社台レースホース|(有)社台レースホース]]
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|style="text-align:center"|第94回||1986年[[10月26日]]||[[サクラユタカオー]]||牡4||1:58.3||[[小島太]]||境勝太郎||[[さくらコマース|(株)さくらコマース]]
|style="text-align:center"|第94回||1986年10月26日||東京||2000m||[[サクラユタカオー]]||牡4||1:58.3||[[小島太]]||境勝太郎||[[さくらコマース|(株)さくらコマース]]
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|style="text-align:center"|第96回||1987年11月{{0}}1日||[[ニッポーテイオー]]||牡4||1:59.7||郷原洋行||久保田金造||山石祐一
|style="text-align:center"|第96回||1987年11月1日||東京||2000m||[[ニッポーテイオー]]||牡4||1:59.7||郷原洋行||久保田金造||山石祐一
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|style="text-align:center"|[[第98回天皇賞|第98回]]||1988年10月30日||タマモクロス||牡4||1:58.8||南井克巳||小原伊佐美||タマモ(株)
|style="text-align:center"|[[第98回天皇賞|第98回]]||1988年10月30日||東京||2000m||タマモクロス||牡4||1:58.8||南井克巳||小原伊佐美||タマモ(株)
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|style="text-align:center; white-space:nowrap"|[[第100回天皇賞|第100回]]||1989年[[10月29日]]||スーパークリーク||牡4||1:59.1||武豊||伊藤修司||木倉誠
|style="text-align:center; white-space:nowrap"|[[第100回天皇賞|第100回]]||1989年10月29日||東京||2000m||スーパークリーク||牡4||1:59.1||武豊||伊藤修司||木倉誠
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|style="text-align:center"|第102回||1990年10月28日||[[ヤエノムテキ]]||牡5||1:58.2||[[岡部幸雄]]||[[荻野光男]]||(有)富士
|style="text-align:center"|第102回||1990年10月28日||東京||2000m||[[ヤエノムテキ]]||牡5||1:58.2||[[岡部幸雄]]||[[荻野光男]]||(有)富士
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|style="text-align:center"|[[第104回天皇賞|第104回]]||1991年10月27日||[[プレクラスニー]]<ref group="注">メジロマックイーンが1位で入線したがスタート直後に斜行、最下(18位)入線プレジデントシチーの進路を妨害したとして審議の結果、最下位(18着)に降着処分、2位入線したプレクラスニーが繰り上がりで1着優勝となった(参考:メジロマックイーンの走破時計 2:02.9)。</ref>||牡4||2:03.9||[[江田照男]]||[[矢野照正]]||田島栄二郎
|style="text-align:center"|[[第104回天皇賞|第104回]]||1991年10月27日||東京||2000m||[[プレクラスニー]]<ref group="注">メジロマックイーンが1位で入線したがスタート直後に斜行18入線したプレジデントシチーの進路を妨害したとして審議の結果、最下位(18着)に降着2位入線したプレクラスニーが繰り上がった(参考:メジロマックイーンの走破時計 2:02.9)。</ref>||牡4||2:03.9||[[江田照男]]||[[矢野照正]]||田島栄二郎
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|style="text-align:center"|第106回||1992年11月{{0}}1日||[[レッツゴーターキン]]||牡5||1:58.6||[[大崎昭一]]||[[橋口弘次郎]]||[[ダイナースクラブ|(株)日本ダイナースクラブ]]
|style="text-align:center"|第106回||1992年11月1日||東京||2000m||[[レッツゴーターキン]]||牡5||1:58.6||[[大崎昭一]]||[[橋口弘次郎]]||[[ダイナースクラブ|(株)日本ダイナースクラブ]]
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|style="text-align:center"|第108回||1993年10月31日||[[ヤマニンゼファー]]||牡5||1:58.9||[[柴田善臣]]||栗田博憲||[[土井肇]]
|style="text-align:center"|第108回||1993年10月31日||東京||2000m||[[ヤマニンゼファー]]||牡5||1:58.9||[[柴田善臣]]||栗田博憲||[[土井肇]]
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|style="text-align:center"|第110回||1994年10月30日||[[ネーハイシーザー]]||牡4||1:58.6||[[塩村克己]]||[[布施正]]||(株)大丸企業
|style="text-align:center"|第110回||1994年10月30日||東京||2000m||[[ネーハイシーザー]]||牡4||1:58.6||[[塩村克己]]||[[布施正]]||(株)大丸企業
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|style="text-align:center"|第112回||1995年10月29日||[[サクラチトセオー]]||牡5||1:58.8||小島太||境勝太郎||(株)さくらコマース
|style="text-align:center"|第112回||1995年10月29日||東京||2000m||[[サクラチトセオー]]||牡5||1:58.8||小島太||境勝太郎||(株)さくらコマース
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|style="text-align:center"|第114回||1996年10月27日||[[バブルガムフェロー]]||牡3||1:58.7||[[蛯名正義]]||[[藤沢和雄]]||(有)社台レースホース
|style="text-align:center"|第114回||1996年10月27日||東京||2000m||[[バブルガムフェロー]]||牡3||1:58.7||[[蛯名正義]]||[[藤沢和雄]]||(有)社台レースホース
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|style="text-align:center"|第116回||1997年10月26日||[[エアグルーヴ]]||牝4||1:59.0||武豊||[[伊藤雄二]]||[[吉原毎文|(株)ラッキーフィールド]]
|style="text-align:center"|第116回||1997年10月26日||東京||2000m||[[エアグルーヴ]]||牝4||1:59.0||武豊||[[伊藤雄二]]||[[吉原毎文|(株)ラッキーフィールド]]
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|style="text-align:center"|[[第118回天皇賞|第118回]]||1998年11月{{0}}1日||[[オフサイドトラップ (競走馬)|オフサイドトラップ]]||牡7||1:59.3||柴田善臣||[[加藤修甫]]||[[渡邊隆]]
|style="text-align:center"|[[第118回天皇賞|第118回]]||1998年11月1日||東京||2000m||[[オフサイドトラップ (競走馬)|オフサイドトラップ]]||牡7||1:59.3||柴田善臣||[[加藤修甫]]||[[渡邊隆]]
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|style="text-align:center"|第120回||1999年10月31日||スペシャルウィーク||牡4||1:58.0||武豊||白井寿昭||[[臼田浩義]]
|style="text-align:center"|第120回||1999年10月31日||東京||2000m||スペシャルウィーク||牡4||1:58.0||武豊||白井寿昭||[[臼田浩義]]
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|style="text-align:center"|第122回||2000年10月29日||テイエムオペラオー||牡4||1:59.9||和田竜二||岩元市三||竹園正繼
|style="text-align:center"|第122回||2000年10月29日||東京||2000m||テイエムオペラオー||牡4||1:59.9||和田竜二||岩元市三||竹園正繼
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|style="text-align:center"|第124回||2001年10月28日||[[アグネスデジタル]]||牡4||2:02.0||[[四位洋文]]||白井寿昭||[[渡辺孝男 (馬主)|渡辺孝男]]
|style="text-align:center"|第124回||2001年10月28日||東京||2000m||[[アグネスデジタル]]||牡4||2:02.0||[[四位洋文]]||白井寿昭||[[渡辺孝男 (馬主)|渡辺孝男]]
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|style="text-align:center"|第126回||2002年10月27日||[[シンボリクリスエス]]||牡3||1:58.5||岡部幸雄||藤沢和雄||[[シンボリ牧場]]
|style="text-align:center"|第126回||2002年10月27日||中山||2000m||[[シンボリクリスエス]]||牡3||1:58.5||岡部幸雄||藤沢和雄||[[シンボリ牧場]]
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|style="text-align:center"|第128回||2003年11月{{0}}2日||シンボリクリスエス||牡4||1:58.0||[[オリビエ・ペリエ|O.ペリエ]]||藤沢和雄||シンボリ牧場
|style="text-align:center"|第128回||2003年11月2日||東京||2000m||シンボリクリスエス||牡4||1:58.0||[[オリビエ・ペリエ|O.ペリエ]]||藤沢和雄||シンボリ牧場
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|style="text-align:center"|第130回||2004年10月31日||[[ゼンノロブロイ]]||牡4||1:58.9||O.ペリエ||藤沢和雄||[[大迫忍]]
|style="text-align:center"|第130回||2004年10月31日||東京||2000m||[[ゼンノロブロイ]]||牡4||1:58.9||O.ペリエ||藤沢和雄||[[大迫忍]]
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|style="text-align:center"|第132回||2005年10月30日||style="white-space:nowrap"|{{Flagicon|JPN}}[[ヘヴンリーロマンス]]||牝5||2:00.1||[[松永幹夫]]||[[山本正司]]||[[ノースヒルズマネジメント|(有)ノースヒルズマネジメント]]
|style="text-align:center"|第132回||2005年10月30日||style="white-space:nowrap"|東京||2000m||{{Flagicon|JPN}}[[ヘヴンリーロマンス]]||牝5||2:00.1||[[松永幹夫]]||[[山本正司]]||[[ノースヒルズマネジメント|(有)ノースヒルズマネジメント]]
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|style="text-align:center"|第134回||2006年10月29日||{{Flagicon|JPN}} [[ダイワメジャー]]||牡5||1:58.8||[[安藤勝己]]||[[上原博之]]||[[大城敬三]]
|style="text-align:center"|第134回||2006年10月29日||東京||2000m||{{Flagicon|JPN}}[[ダイワメジャー]]||牡5||1:58.8||[[安藤勝己]]||[[上原博之]]||[[大城敬三]]
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|style="text-align:center"|[[第136回天皇賞|第136回]]||2007年10月28日||{{Flagicon|JPN}} メイショウサムソン||牡4||1:58.4||武豊||高橋成忠||松本好雄
|style="text-align:center"|[[第136回天皇賞|第136回]]||2007年10月28日||東京||2000m||{{Flagicon|JPN}}メイショウサムソン||牡4||1:58.4||武豊||高橋成忠||松本好雄
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|style="text-align:center"|[[第138回天皇賞|第138回]]||2008年11月{{0}}2日||{{Flagicon|JPN}} [[ウオッカ]]||牝4||1:57.2||武豊||[[角居勝彦]]||谷水雄三
|style="text-align:center"|[[第138回天皇賞|第138回]]||2008年11月2日||東京||2000m||{{Flagicon|JPN}}[[ウオッカ]]||牝4||1:57.2||武豊||[[角居勝彦]]||谷水雄三
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|style="text-align:center"|第140回||2009年11月{{0}}1日||{{Flagicon|JPN}} [[カンパニー (競走馬)|カンパニー]]||牡8||1:57.2||[[横山典弘]]||[[音無秀孝]]||[[近藤英子]]
|style="text-align:center"|第140回||2009年11月1日||東京||2000m||{{Flagicon|JPN}}[[カンパニー (競走馬)|カンパニー]]||牡8||1:57.2||[[横山典弘]]||[[音無秀孝]]||[[近藤英子]]
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|style="text-align:center"|第142回||2010年10月31日||{{Flagicon|JPN}} [[ブエナビスタ (競走馬)|ブエナビスタ]]||牝4||1:58.2||[[クリストフ・スミヨン|C.スミヨン]]||[[松田博資]]||[[サンデーレーシング|(有)サンデーレーシング]]
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|style="text-align:center"|第144回||2011年10月30日||東京||2000m||{{Flagicon|JPN}}[[トーセンジョーダン]]||牡5||1:56.1||[[ニコラ・ピンナ|N.ピンナ]]||[[池江泰寿]]||[[島川隆哉]]
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== 脚注 ==
== 脚注 ==
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== 出典 ==
== 参考文献・出典 ==
=== 参考文献 ===
* 『日本レース・クラブ50年史 -『日本レース・クラブ小史』解説篇』、日本中央競馬会、鈴木健夫編、1970
* 『横浜競馬・人名録』根岸競馬記念公苑、1985
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* 『競馬の世界史』ロジャー・ロングリグ・著、原田俊治・訳、日本中央競馬会弘済会・刊、1976
* 『天皇賞競走史話』、日本中央競馬会、1968
* 『日本競馬史』日本中央競馬会、1969
* 『日本の競馬』、若野章、恒文社、1974
* 『ニッポン競馬のからくり』、増田知之、東邦出版、2009
* 『ミスタージャパンカップと呼ばれた男』、河村清明、東邦出版、2008
* 『勝ち馬的中!!競馬の基本』、松本ヒロシ監修、成美堂出版、2012

=== 各回競走結果の出典 ===
;馬主名義を除く競走結果
* 『中央競馬レコードブック』、中央競馬ピー・アール・センター、1994
:* 天皇賞(春)第2回から第107回、天皇賞(秋)第1回から第108回まで。
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;馬主名義
*『競馬 - 国営競馬6年のあゆみ』(高陽書院、1954年)- 春:第2回から第29回、秋:第1回から第28回
* 日本馬主協会連合会(編)『日本馬主協会連合会40年史』(日本馬主協会連合会、2001年)- 春:第43回から第121回、秋:第44回から122回
* 日本馬主協会連合会(編)『日本馬主協会連合会50年史』(日本馬主協会連合会、2011年)- 春:第123回から第141回、秋:第124回から142回
* netkeiba.com - 2014年5月27日閲覧。
** [http://db.netkeiba.com/race/201108030411/ 第143回]、[http://db.netkeiba.com/race/201105040911/ 第144回]、[http://db.netkeiba.com/race/201208030411/ 第145回]、[http://db.netkeiba.com/race/201105040911/ 第146回]、[http://db.netkeiba.com/race/201308030411/ 第147回]、[http://db.netkeiba.com/race/201305040911/ 第148回]、[http://db.netkeiba.com/race/201408030411/ 149回]
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[c:Category:Tenno Sho (Spring)|c:天皇賞(春)]] - ウィキメディアコモンズの天皇賞(春)に関する画像のカテゴリ。
* [[天皇]]
* [[c:Category:Tenno Sho (Autumn)|c:天皇賞(秋)]] - ウィキメディアコモンズの天皇賞(秋)に関する画像のカテゴリ。
* [[天皇杯]](他の各種スポーツ競技会での優勝賜杯)
* [[天皇杯]] -他の各種スポーツ競技会での優勝賜杯
* [[宮内庁]]
* [[宮内庁]]
* [[帝室御賞典]]
* [[八大競走]]
* [[八大競走]]
* [[ゴールドカップ]] - イギリスで優勝馬主に女王から優勝杯が与えられる重賞。

* [[クイーンズヴェース]] - イギリスで優勝馬主に女王から花器が与えられる重賞。
=== 天皇賞(春) ===
* [[ゴールドカップ]]
* [[宝塚記念]]
* [[安田記念]]
* [[阪神大賞典]]
* [[日経賞]]
* [[大阪杯]]
* [[ダイヤモンドステークス]]
* [[中山記念]]
* [[京都記念]]

=== 天皇賞(秋) ===
* [[ジャパンカップ]]
* [[エリザベス女王杯]]
* [[マイルチャンピオンシップ]]
* [[有馬記念]]
* [[京都大賞典]]
* [[毎日王冠]]
* [[オールカマー]]
* [[札幌記念]]
* [[新潟記念]]


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
*[http://jra.jp/keiba/thisweek/2014/0504_1/ JRA公式サイト「今週の注目レース」から](2014年)(春)
* [http://jra.jp/keiba/thisweek/2014/0504_1/ JRA公式サイト「今週の注目レース」から](2014年)(春)
*[http://jra.jp/keiba/thisweek/2013/1027_1/ JRA公式サイト「今週の注目レース」から](2013年)(秋)
* [http://jra.jp/keiba/thisweek/2013/1027_1/ JRA公式サイト「今週の注目レース」から](2013年)(秋)


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2014年5月31日 (土) 13:18時点における版

ゴール前の直線(第135回天皇賞・春)
ゴールの瞬間(第138回天皇賞・秋)

天皇賞(てんのうしょう)とは日本中央競馬会(JRA)が春・秋に年2回施行する中央競馬重賞競走GI)である。明治時代より100年以上の歴史をもち、日本で最も重要な競走の一つとなっている。現在は皇室から賞品として優勝楯が下賜されており、“盾”と通称することもある。

※記事内では春に京都競馬場で施行される競走を天皇賞(春)(または「春の競走」)、秋に東京競馬場で施行される競走を天皇賞(秋)(または「秋の競走」)とそれぞれ表記する。

歴史

天皇賞のルーツをたどると、1905年(明治38年)に横浜競馬場で行われたThe Emperor's Cup[1][注 1]や、明治初期のMikado's Vaseにまで遡ることができる[2][3]。これらの競走が誕生した背景には、当時の日本が直面していた外交問題が強く影響している。直接の前身は「帝室御賞典」で、日本中央競馬会(JRA)は1937年(昭和12年)秋の帝室御賞典を天皇賞の第1回としている[1]。帝室御賞典は明治末期から1937年まで日本各地で年に10回行われていた同名の競走を集約し、年2回の施行としたものであった[2]

一方、施行距離や競走条件[注 2]は1911年(明治44年)から1937年まで行われていた「優勝内国産馬連合競走」を概ね継承している。この競走は年2回、3200メートルの距離で行われ、各馬等しい条件で日本のチャンピオンを決め、日本一の賞金を与える競走だった。

これらを統合して始まったのが1937年秋の帝室御賞典で、戦局悪化のため1944年(昭和19年)秋に中止されるまで続いた。終戦後の1947年(昭和22年)春に「平和賞」の名称で再開、同年秋から「天皇賞」と改称され現在に至っている。

1937年以来「古馬の最高峰」として長らく番組[注 3]体系の中心に据えられ、旧八大競走にも含まれるなどその地位を保ち続けた[4]。賞金も東京優駿(日本ダービー)とならぶ国内最高額の競走[注 4]だったが、後に有馬記念ジャパンカップが創設され、やがて国内最高賞金はジャパンカップが上回るものの、2013年現在も国内で3番目の高額賞金競走となっている。

1980年代以降に進められた様々な制度改革、賞金や競走条件の変遷を経てもなお、天皇賞は日本国内の競馬で最も長い歴史と伝統をもち、重要な競走の一つに位置づけられている。

起源

競馬を観戦する明治天皇(明治17年、上野不忍池競馬
クロード・マクドナルド

王政復古後、明治新政府が直面した重要な外交問題の一つは、欧米を中心とする諸外国との間に結ばれた不平等条約改正であった。条約改正交渉を円滑に進めたい明治政府は、鹿鳴館に象徴されるように、西洋文化を積極的に採用した。競馬もそのうちの一つで、政府や明治天皇は明治初期から西洋式の競馬を行うなど、競馬場は重要な外交の舞台だった[5]。中でも横浜競馬場は幕末以来、外国人が設立・運営しており、競馬会の会頭も歴代のイギリス公使が務めていた[注 5]。明治天皇は条約改正を実現するため、日本の外交官や外務担当の政治家を伴い、頻繁に横浜競馬場へ赴いていた[5][6][注 6]

イギリスでは清教徒革命後の王政復古に際して[7]国王自ら競馬場に大競走(King's Plate、女王時代はQueen's Plate)を創設し[7][8]、豪華な賞品を下賜した故事があり、これはイギリス王室の伝統の一つとなっていた[8][9]。明治天皇はこの故事に倣い[9]、横浜競馬場へ豪華な賞品(花器)を下賜した。これが1880年(明治13年)創設のMikado's Vaseである[2][注 7]

明治30年代になると、イギリスとの条約改正を皮切りに、不平等条約の改正が実現した。イギリスとの間には日英同盟も締結され、日露戦争の後ろ盾となった。その日露戦争で日本の軍馬の質や数が大幅に劣っていることが露呈すると、軍部は日英同盟を頼って優秀な軍馬の大量輸入を依頼した。これに応えたイギリスは、イギリス連邦で日本に近く、かつ馬産地だったオーストラリアから3700頭あまりの馬(豪サラと呼ばれる)を日本へ緊急輸出した[10]

こうした一連のイギリスとの外交交渉で大きな役割を担ったのが、イギリス公使クロード・マクドナルドである[3]。マクドナルドは当初公使だったが、1905年(明治38年)に全権大使へ昇任した。マクドナルドと個人的な信頼関係を結んでいた明治天皇は昇任にあたり、マクドナルドへ「菊花御紋付銀製花盛器」を贈呈した[11][3]。当時、マクドナルドは横浜競馬場の会頭に就任しており、明治天皇から贈られた盃(当時は『尊重の重宝』と和訳している)を賞品として、The Emperor's Cup(エンペラーズカップ)を開催した[11][10][12]。以来、横浜競馬場では毎年この競走に際して明治天皇から賞品が下賜されるようになった。これがのちに日本語で「帝室御賞典」などと訳されるようになり[2][10][3][11][12]、JRAでは「天皇賞の前身」としている[1]

横浜競馬場は外国人が運営し、書類や記録もすべて英語表記だったため、“The Emperor's Cup”はときの担当者によって様々に和訳されていた。1905年(明治38年)には“皇帝陛下御賞盃[注 8][13]、1906年(明治39年)には“宮中御賞盃”と訳され[2]、1907年(明治40年)からは新聞報道でも使われた“帝室御賞典”の訳で統一されるようになった(後述)[2][11]

帝室御賞典の拡大と統一

1937年(昭和12年)秋の帝室御賞典(第1回天皇賞に相当)優勝馬・ハツピーマイト
帝室御賞典発走前に行われる騎手の選手宣誓

明治天皇は1899年(明治32年)まで盛んに競馬場へ巡幸したが、同年に不平等条約改正が実現すると、以後は一切競馬場へ赴かなくなり[14][6]、代わりに皇族親王を名代として派遣するに留まっていた[15]。これ以来、天皇による競馬観戦(天覧競馬)は2005年の第132回天皇賞まで106年間行われなかった(後述)。

1906年(明治39年)に日本人による本格的な競馬倶楽部として東京競馬会が創設された[15]際、責任者だった子爵加納久宜は明治天皇の臨席と賞品の下賜を打診したが、開催10日前になって賞品の下賜は許されたものの、明治天皇の巡幸は却下された[16][15]。このとき行われた「皇室賞典」競走が当時の新聞によって「帝室御賞典」と報じられ、以後はこの名称で定着した[2][15]

明治天皇から賞品を下賜されて行う帝室御賞典は、すぐに全国の競馬倶楽部へ広まった[2][17]。横浜・東京に続いて阪神へも年2回の下賜が認められた[2][17]ほか、馬産地の福島札幌函館小倉へも年1回の下賜が認められた[2][17][注 9]

こうして全国各地で年に10回行われるようになった「帝室御賞典」は、いずれも1800メートルから2000メートル前後の距離で行われたが、斤量(負担重量)は軽いものと重いもので28ポンド(約12.7キログラム)もの差があるなど条件はまちまち[12]で、中には前日に新馬戦を勝ったばかりの馬が帝室御賞典を勝った例もある。

一方、1911年(明治44年)に日本一の競走馬を決定する競走として、「優勝内国産馬連合競走(通称:連合二哩)」が帝室御賞典とは別に創設された[18]。賞金は1着3000円、2着でも1500円で、2着賞金で比較しても帝室御賞典の6倍の額であり[注 10]、当時日本国内の最高賞金レースだった[注 11]。距離は2マイル(約3200メートル)、条件は馬齢重量で、出走できるのは各地の競馬での優勝馬に限られていた[18]。優勝内国産馬連合競走は当初年1回の施行だったが、後に年2回施行になった[18]

昭和に入り戦時体制化が進むと、各地の競馬倶楽部は1936年(昭和11年)に発足した日本競馬会に統合され、一本化されることになった[2][18][1]。1937年(昭和12年)から実務に入った日本競馬会のもとで、年10回施行していた帝室御賞典は春の大阪(阪神)と秋の東京に集約し、年2回の施行となった[2][18][注 12]。年2回施行に改められてから初の競走は1937年秋に東京で行われた帝室御賞典で、JRAではこれを天皇賞の第1回としている[1][2][18][注 13]。競走の名称は「帝室御賞典」が採用され、競走の中身は「優勝内国産馬連合競走」が継承された。つまり、天皇(皇室)から御賞典が下賜される点は「帝室御賞典」を受け継いでいて、距離や競走条件などは「優勝内国産馬連合競走」から継承している。これが、現在の天皇賞である[18]。また、帝室御賞典は古馬[注 14]にとって最大の目標と位置づけられ、東京優駿(日本ダービー)など4歳[注 15]馬の競走とは明確に線引きされた[1][2][18][12]

こうして「統一」された新しい帝室御賞典は、競走馬として日本一を決めるだけでなく、将来の種牡馬を選別するための最高の能力検査だった[19]。天皇を頂点とした旧帝国時代の日本において、天皇からの賞典を受けることは平民(馬主)や農民(畜産家)にとっても生涯の名誉となった[20][12]

戦争の影響と天皇賞のはじまり

日中戦争から太平洋戦争にいたる戦時中も、帝室御賞典は下賜賞品を木製楯に代えながら続けられた(後述)。だが、やがて戦局が悪化すると馬主にも多くの戦死者がでるようになり、競走馬の所有権問題が浮上した[21]。日本競馬会では全競走馬を買い上げることで問題を解決したが、「賞金や賞品を争う」という競馬の性格は維持できないため、1944年(昭和19年)は「能力検定競走」として競馬を行うことになった[21]。この期間は馬券の発売を行わず、皇室からの賞品下賜も辞退している[21]。帝室御賞典も1944年春は「能力検定競走」として行われたが、同年秋には中止となった。

終戦後、競馬は1946年(昭和21年)秋に再開された[22]。帝室御賞典は1947年(昭和22年)春からの再開を決め、日本競馬会は皇室へ賞品の下賜を打診した。しかしこの時点ではGHQによる皇室への処分等が確定していなかったため、下賜は時期尚早として見送られた[22]。既に御賞典競走を開催する前提で番組編成をしていた日本競馬会は急遽、競走名を「平和賞」に変更して施行[22][2]。なお、現在は平和賞も公式な施行回数に含まれ、「第15回天皇賞」と同義に扱われている。その一方で、前述の能力検定競走や平和賞では皇室から賞品が下賜されていないことから、天皇賞の施行回数から除外する考え方もある[23]

1947年(昭和22年)秋より皇室から賞品(楯)の下賜が再開され、名称も「天皇賞」に改めて施行された[2]。「天皇賞」の名称で行われるのはこれが初めてである。ただし、公式な施行回数は1937年(昭和12年)秋の帝室御賞典に遡り、「第16回天皇賞」とされた[2][注 16]。天皇賞の施行主体も日本競馬会から国営競馬を経て、1954年(昭和29年)より日本中央競馬会が引き継いだ。

国内古馬戦の最高峰

帝室御賞典の時代から、天皇賞は古馬にとって最高峰の競走と位置づけられていた[2]。当時の競走体系では、勝てば勝つほどより重い斤量を負担することになり[24]、定量で出走できる天皇賞を勝つと、以後は出走可能な競走が大きく限定される[注 17]ことになった。また帝室御賞典・天皇賞には1980年まで勝ち抜き制があり、一度勝った馬は再び出走することができなかった。つまり、天皇賞を勝つほどの優れた競走馬は、早く種牡馬になって競走馬の改良に貢献することが求められていた[24]

多くの古馬にとって、天皇賞優勝は最大の目標であると同時に、一度優勝するとその後の目標となるレースがほとんどなくなる[注 18]うえ斤量も更に増えることから、優勝後に引退する馬は少なくなかった。1937年(第1回)から1955年(第32回)までの優勝馬のうち5頭が優勝と同時に、10頭が優勝したシーズン限りで引退している。このほか、3頭が優勝後に地方競馬へ転出した。

新たな目標を求めて

1956年(昭和31年)、年末の中山競馬場に有馬記念が創設された[注 19]。これは4歳馬も古馬も分け隔てなく、その年の一流馬を集めて行う競走となった[25]

天皇賞を勝った古馬の一流馬にとって、有馬記念は新たな目標となった[25]。有馬記念創設から2013年までの天皇賞優勝馬で、天皇賞優勝を最後に引退した馬は5頭しかいない。

一方、天皇賞を優勝して国内の最高峰に立った馬の一部は、新たな目標を求めて海外へ遠征するようになった[26]。1952年にアメリカで創設された「ワシントンDC国際」がその代表格である[27][28]。この競走は招待制で、日本からは天皇賞の優勝馬が招待を受けるようになった[26]。ワシントンDC国際は11月に行われ、当時は11月下旬に行われていた天皇賞(秋)と同時期になる。当時、一度天皇賞を勝った馬は再度天皇賞に出走できなかった(勝ち抜き制)ため、秋にワシントンDC国際に挑み、12月に帰国して有馬記念へ出走する馬も現れた[26]

有馬記念創設以降、1981年までの25年間で、天皇賞に勝った後海外遠征を行った馬は7頭おり、そのうち5頭は秋にワシントンDC国際へ、1頭は同時期のヨーロッパで凱旋門賞に挑んだ[28]。しかしこれらの中から目標を達することができた馬はおらず、逆に欧米との力量差を突きつけられる結果になった[28]

ジャパンカップの創設

天皇賞を勝つほどの一流馬が外国で全く勝てないという事実は、日本国内に2つの相反する考え方をもたらした[29]。1つは強力な外国の競走馬が日本へ入ってくることで国内の馬産が衰退するという脅威論、もう1つはより強い外国馬との対戦によって日本馬のレベルアップを図ろうとする門戸開放論だった[29]

両論を折衷して実現したのが1981年(昭和56年)に創設されたジャパンカップである[29]。ジャパンカップは外国から競走馬を招待し、日本の一流馬と対戦させることで、日本競馬に活力を与えようという意図で企画された[30]

創設以来、伝統的に11月下旬の施行が定着していた天皇賞(秋)は、ジャパンカップに時期を譲り10月に前倒しされた[31]。「ワシントンDC国際」に出走した外国馬がジャパンカップへ転戦しやすいように配慮した結果である。ジャパンカップは新設競走にして賞金額が東京優駿(日本ダービー)や天皇賞、有馬記念と並ぶ高額に設定され、これは古馬の競走体系が根幹から変わることを意味した[32]第1回ジャパンカップでは、直前の天皇賞(秋)をレコード勝ちした馬など当時の中央競馬を代表する陣容で臨んだ日本勢が外国勢の前に総崩れとなり、日本の競馬界に衝撃を与える結果となった。また、ジャパンカップの商業的な成功は日本のみならず、アジアの競馬にも変革をもたらすきっかけとなった[33]

国際化と天皇賞(秋)の距離短縮

ジャパンカップの創設以来、「競馬の国際化」は中央競馬の大きな目標となった。「国際化」とは、単に外国の競走馬を呼び寄せるだけでなく、制度面を含めた「国際標準」への適合をも意味していた。

日本の競馬を「国際標準」へ適合させるため、日本中央競馬会は様々な施策を打ち出した。1984年(昭和59年)に導入された「グレード制」もそのひとつで、当初は興行に主眼を置いた中央競馬独自の格付けに過ぎず、1970年代に欧米でつくられた「グレード制・グループ制」とはまったく互換性のないものだった[34]。その後様々な開放策を実施した結果、2007年(平成19年)から互換性が認められるようになった[35]

天皇賞も国際化の流れと無縁ではなく、浮上してきたのが天皇賞の距離短縮論だった。伝統的な3200メートルの距離を尊重する意見とスピード化に対応して距離を短縮しようとする意見の対立もあった。だが、ジャパンカップで日本の一流馬がアメリカの一流とはいえない競走馬に大敗したことは、スピード化を推し進める意見を後押しすることにもなった。このように異論はあったが、1984年(昭和59年)から天皇賞(秋)は施行距離が2000メートルに短縮された[1]。以来、天皇賞(秋)は中央競馬の「中距離ナンバー1決定戦」の性格をもつようになった[1]

競走の規則も見直しが図られた。1950年代に欧米で定着した降着制度は1991年(平成3年)から中央競馬でも導入されたが、この年の天皇賞(秋)で1位入線馬が18着に降着となった。これは日本での重賞1位入線馬の降着例として史上初だっただけでなく、該当馬が圧倒的な本命馬だったことも相まって大きな話題になった。

外国産馬の出走は戦後の競走馬不足の時代に解禁され、その後再び門戸を閉ざしていたが、2000年代から徐々に緩和され、2005年(平成17年)には国際競走となって外国調教馬の出走も可能になった[1]

帝室御賞典時代からの制度では、1度優勝した馬に再出走を認めない勝ち抜き制が1981年(昭和56年)から撤廃された[1]ほか、種牡馬・繁殖馬選定の観点から長年認められていなかった去勢馬(騙馬)の出走も2008年(平成20年)以降可能になった[1]

1937年以来「古馬の最高峰」として位置づけられてきたが、1987年(昭和62年)より天皇賞(秋)は4歳[注 20]馬も出走可能となった[1]。また1980年代以降、短距離路線・ダート路線・牝馬路線の拡充が図られたことに加え、海外遠征も容易になった[36]。これにより様々なタイプの競走を選択できるようになり、天皇賞は「数ある頂点の一つ」という位置づけになっている。とはいえ、国内のGI競走では2013年(平成25年)現在もジャパンカップ、東京優駿(日本ダービー)、有馬記念に次ぐ高額賞金が設定されている。

国内最高クラスの賞金、皇室から下賜された天皇楯の権威、長い歴史と伝統などに裏打ちされ、今も天皇賞は「古馬最高の栄誉[1]」とされている。

御賞典と天皇楯

前述のとおり、天皇賞のルーツとなるMikado's VaseやThe Emperor's Cupなどでは、明治天皇から賞品が下賜されていた。これらは通常、貴金属としても美術品・工芸品としても価値が高いものであると同時に、「天皇から下賜された」という事実は金銭では贖えない栄誉を担うものだった。

明治天皇と御賞典(賞品)

明治天皇は日本各地へ巡幸して、その先々で競馬を台覧し、優勝騎手や馬主らに賞金や賞品を下賜した。下賜された品々は、樽酒や黄八丈白絽の反物、白羽二重、美術品、工芸品などである[37][注 21]

横浜競馬は多くの賞金や賞品を外部のパトロンやスポンサーから得ており、とりわけ皇室や皇族はその代表格だった。例えばロシア皇太子の名を冠した“Cesarewitch Giftという競走の賞品を実際に提供していたのは日本の皇室だった[38]。横浜競馬場で明治天皇が下賜したものは記録に残っているもので、「銅製花瓶」一対、「経一尺龍浮彫七宝入銀製花瓶」などがある[39]。1900年(明治33年)にはロシア全権公使ローゼン男爵Mirror号の優勝により「銀製花鳥七宝菓子敷」を授与されている[39]。ほかにも上野へ「金象眼銅製馬」を下賜した記録がある[40]。なお、皇室以外からでも、横浜競馬の神奈川賞杯競走で神奈川県令が「青銅製酒杯」を賞賜している[41]

天皇賞のルーツとされるThe Emperor's Cupの創設にあたって、明治天皇が下賜した御賞典を受け取った日本レース倶楽部では“尊重の重宝”と邦訳した。一方、1906年(明治39年)秋に池上競馬場で行われた皇室賞典では「銀製花盛鉢」が下賜された。これは直径が約30センチ(1)、深さが約15センチ(5)の大銀鉢で、三本の脚がつき、菊花の文様高彫されていたと伝わる[15]。以後も菊花御紋付銀製花盛器(銀製鉢や洋杯)が下賜された[42]。御賞典は拝領する側にも相応のマナーが必要とされ、馬主や関係者は拝領式の際、正装(モーニング国民服、軍服でも可)で臨むこととされていた[43][注 22][注 23]

天皇楯

現在の御賞典となる天皇楯(第147回天皇賞)
馬主が白手袋を着用しているのがわかる

楯(プレート)の下賜もまた、イギリス王室の伝統となっている。国を追われ、亡命先のフランスで馬術を磨いたチャールズ2世は王政復古が成って戴冠すると、ニューマーケット競馬場を復興した。1665年に国王チャールズ2世はタウンプレート(The Town Plate、もしくはNewmarket Town Plate)という競走を作り、自ら優勝楯を提供した。国王自身も騎手として優勝したことがある[44]。この競走は「King's Plate(女王の場合はQueen's Plate。Royal Plateとも呼ばれる)」として受け継がれ、現存する世界最古の競馬の競走である[44][注 24]

明治天皇の時代に始まった華やかな銀杯の下賜は、大正時代に勃発した第一次世界大戦の間も絶えることなく、30年以上続いた。一方、その間に中国大陸での動乱は激しくなり、1931年(昭和6年)の満州事変、1937年(昭和12年)には7月に盧溝橋事件、8月に上海事変が相次いで起きた。

その直後である1937年9月、皇室は競馬会に対し、以後の御賞典下賜を年2回とする、という通達を行っている。この通達により、年10回行われていた帝室御賞典は年2回施行になった(前述)。そして皇室は、帝室御賞典の回数を減らす分、御賞典をより立派なものにすることとなる[45]。また同時期、大陸での時局の緊迫化によって軍馬の需要が急増していた。軍部はより強固な馬政統制を行うため全国の競馬倶楽部を一本化して「日本競馬会」を作った。そして帝室御賞典は、軍部の求めるスタミナ溢れる馬を作るため、長距離の2マイル戦(約3200メートル)に改められた[45]

大陸での緊迫した情勢はさらに激しさを増し、日中戦争へと発展した。1939年(昭和14年)秋にはヨーロッパでドイツと連合軍が戦争を始め、日本に対しても「ABCD包囲網」と呼ばれる経済封鎖が1941年(昭和16年)より実施され、国内では様々な物資が不足するようになった。これに伴う金属製品の統制を受け、帝室御賞典の賞杯も同年春から優勝楯に改められた[42]

新しい優勝楯の作成にあたり、宮内省東京高等工芸学校教授の畑正吉にデザインを依頼[42]。これをもとに鋳物師の持田増次郎が金物を製作し、金メッキを施した2寸(約6センチ)もある菊の紋章と、板金をはめこんだ「競馬恩賞」の文字をラワン板にあしらった金御紋章付楯(いわゆる「天皇楯」)となった[42][22]。この天皇楯が天皇賞を「」と通称する由縁である。

天皇楯の下賜も能力検定競走時代に中断し、1944年(昭和19年)には競馬も中止となった。

戦後の天皇賞

戦争で中断した競馬は終戦後に再開され、帝室御賞典は御賞典が下賜されなかったため「平和賞」の名称で1947年(昭和22年)春に復活した(前述)。その後、1947年秋に予定していた“第2回平和賞”の前日に皇室から天皇楯の下賜が決まった[22]が、天皇楯はこれ以降持ち回り制になった[22]。平和賞は急遽「天皇賞」に改称され、「第1回天皇賞[注 25]」として施行された[22]。ただし、前述の通りJRAでは1937年(昭和12年)秋の「帝室御賞典」を第1回としている[1]

現在でも優勝馬主は表彰式で天皇楯を受け取る際、白手袋を着用することが慣例になっている。

賞金

2014年現在の賞金は春・秋とも同額で、下記の通り。

  • 賞金総額:2億5120万円
  • 1着賞金は1億3200万円で、以下2着5300万円、3着3300万円、4着2000万円、5着1320万円。

1937年に帝室御賞典が年2回施行に集約されて以来、天皇賞は日本国内で有数の高額賞金競走である。1着馬に与えられる御賞典(優勝杯、優勝楯)の金銭的価値を一切考慮に入れないとしても、長い間、1着賞金の額は常に日本国内で1位か2位を保ち続けた。2001年以降はジャパンカップ・東京優駿(日本ダービー)・有馬記念が上回っているが、2014年現在も国内で3番目の高額賞金競走となっている。

主要な高額賞金競走における1着賞金の変遷
  • 表中の項目はJRAデータファイルより作成(1955年から2014年まで)。
  • いずれも1着賞金のみ(付加賞[注 26][注 27]・褒賞金など1着賞金に含めないものは除く)の比較。単位:万円
天皇賞
(帝室御賞典)
東京優駿 有馬記念 ジャパン
カップ
備考
1937 (1.0) 1.0 - - 天皇賞の賞金は副賞。本賞は御賞典(優勝杯)
1938 (1.5) - - 4・5着にも賞金を出すようになる
1941 - - 天皇賞の本賞が楯になる
1954 - - 天皇賞の副賞が本賞金に含まれるようになる
1955 150 200 - -
1956 150 200 200 - 中山グランプリ(現・有馬記念)創設
1957 200 200 200 - 3競走が最高額で並ぶ
1959 200 300 200 - 再び東京優駿が単独最高額に
1960 300 500 300 -
1965 800 1000 800 -
1970 2000 2300 2000 -
1973 3400 3600 3400 -
1974 4000 4000 4000 - 3競走が最高額で並ぶ
1975 4600 4600 4600 -
1980 6000 6000 6000 -
1984 7500 7500 7500 7500 ジャパンカップは1981年創設
1985 7800 7800 7800 7800
1990 11100 11100 11100 11100
1995 13200 13200 13200 13200
2000 13200 13200 13200 13200
2001 13200 15000 18000 25000 ジャパンカップが単独で最高賞金に
2005 13200 15000 18000 25000
2008 13200 15000 18000 25000
2010 13200 15000 18000 25000
2011 13200 15000 20000 25000
2012 13200 15000 20000 25000
2013 13200 20000 20000 25000
2014 13200 20000 20000 25000

第1回(1937年秋の帝室御賞典)の1着馬には「本賞」として御賞典(優勝杯)、「副賞」として賞金1万円が与えられた。この賞金額は、当時国内の競走としては東京優駿(日本ダービー)の1着本賞1万円、横浜農林省賞典四・五歳呼馬(1943年で廃止)の1着本賞1万円と並び最高額だった。第1回は3着馬までにのみ賞金を与えていたが、翌年から帝室御賞典など国内主要18競走に限り、4・5着馬にも賞金を与えるよう変更された。1954年からは天皇賞の1着馬に与える副賞金も「本賞」に含めることになった[46]

1955年当時、国内の1着最高賞金は東京優駿(日本ダービー)の200万円で、天皇賞の150万円がこれに次いでいた。1956年に有馬記念(中山グランプリ)が創設され、1着賞金は東京優駿(日本ダービー)と同じく200万円とされた。翌1957年には天皇賞の賞金も200万円に引き上げられ、天皇賞(春・秋)、東京優駿(日本ダービー)、有馬記念の4競走が国内最高額の競走となった。

1959年には東京優駿(日本ダービー)の賞金が300万円に増額され再び「国内最高賞金」となり、天皇賞と有馬記念は東京優駿に次いで2番目の高額賞金競走となった。その後、各競走の賞金は年々増加を続けるが、東京優駿が1位、天皇賞と有馬記念が同額で2位という序列が1973年まで続いた。

1974年、天皇賞・東京優駿(日本ダービー)・有馬記念の賞金が同額になった。これ以降も賞金は伸び続けるが、これらの1着賞金は同額とされた。1981年にジャパンカップが新設され、天皇賞(春・秋)、東京優駿(日本ダービー)、有馬記念を含めた5競走が日本最高賞金の競走になった。バブル景気と増え続ける馬券の売上を背景に、1990年代に入ると賞金は1億円を突破、1995年には5競走ともに1着賞金が1億3200万円となった[注 28]

2001年よりジャパンカップの1着賞金が2億5000万円と大幅に引き上げられ、東京優駿(日本ダービー)・有馬記念も1着賞金が加増されたが、天皇賞の1着賞金は春・秋とも据え置かれた。これ以降、天皇賞は1着賞金での比較で国内第3 - 4位の高額賞金競走となっている[注 29]

天覧競馬

天覧競馬となった第146回天皇賞(秋)を優勝後、本馬場で下馬し貴賓席に最敬礼するデムーロ騎手

2005年の第132回天皇賞は「エンペラーズカップ100年記念」と副題がつけられ、今上天皇皇后の天覧競馬が実現した。当初は前年の2004年に予定されていたが、8日前に発生した新潟県中越地震の被害を考慮して取り止めとなっていた。天皇が天皇賞を観戦した例は史上初めてであり、天覧競馬も1899年以来106年ぶりとなった[13]。競走前に天皇・皇后は場内の競馬博物館で「エンペラーズカップ100年記念 栄光の天皇賞展」を鑑賞[13]。競走後に優勝騎手の松永幹夫が貴賓席に対して馬上から最敬礼を行った。

2012年の第146回天皇賞では「近代競馬150周年記念」と副題がつけられ、7年ぶりに天覧競馬が実施された。この際、優勝騎手のミルコ・デムーロはコース内でいったん下馬して最敬礼を行った。本来このような行為は騎乗馬が故障した場合を除き、競走後にコース内で騎手が下馬することを禁止する規則[47][注 30]に抵触するものであったが、これを理由とした制裁は行われなかった[48]

なお、今上天皇・皇后は皇太子皇太子妃だった1987年にも、天皇賞施行50周年を記念して行われた第96回天皇賞を台覧している[49]

各競走の概説

春の競走と秋の競走は開催地など競走条件が異なるものの同じ「天皇賞」であり、施行回数は春→秋と施行順に加算している。

同一の競走名で1年に複数回施行する競走は、現在の中央競馬で本競走のみとなっている[注 31]

天皇賞(春)

天皇賞(春)
第145回天皇賞(春)
優勝馬:ビートブラック
主催者 日本中央競馬会
競馬場 日本の旗京都競馬場
創設 1938年5月15日
距離 芝芝・外3200m
格付け GI
賞金 1着賞金1億3200万円
賞金総額2億5120万円
出走条件 サラブレッド系4歳以上(国際)(指定)
出走資格も参照
負担重量 定量(58kg、牝馬2kg減)
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概要

4歳以上の馬(外国産馬・外国馬を含む)による重賞競走(GI)。施行距離は1939年以来芝3200メートルで、現存する中央競馬の平地GI競走では最長距離[注 32]

2008年よりメルボルンカップオーストラリアの旗 オーストラリア、GI)の前年度優勝馬[注 33]を招待するようになり[注 34]、本競走の優勝馬にも同年のメルボルンカップへの優先出走権が与えられる。

正式名称は「天皇賞」であるが、JRAでは天皇賞(秋)の距離が短縮された1984年から「天皇賞(春)」と表記している[1]

正賞は天皇賞、日本馬主協会連合会会長賞。

世界の中の天皇賞(春)

近年、世界の主要な競走は統一的な判断基準で評価が行われている。世界の競馬主要国で3200メートル級の長距離戦を競走体系の最高峰に据えているのは、2014年時点で日本とオセアニアだけである [注 35]

競馬の競走における距離別の区分法として定着しているSMILE区分によると、天皇賞(春)は2701メートル以上の「Extended(超長距離)」部門に分類される。2014年現在の世界の主要競走ランキングでは、「Extended(超長距離)」部門から上位50競走にランキングされている競走は43位のメルボルンカップ(118.08点)と48位のセントレジャー(117.83点)の2つだけで、天皇賞(春)(115点)は上位50位以内にランキングされていない[50][注 36]

単年度の競走馬ランキングでは、2013年の天皇賞(春)1 - 3着馬が世界の競走馬ランキング(超長距離部門・2013年)で上位3頭を占めた[51][注 37]

競走条件

以下の内容は、2014年(第149回)終了時現在のもの[52]

出走資格

4歳以上のサラ系競走馬[52](出走制限頭数[注 38][53]:最大18頭)

  • JRA所属馬
  • 地方所属馬(優先出走権を得た馬のみ)
  • 外国調教馬(JRA所属の外国産馬とあわせて最大9頭まで)

出馬投票を行った馬のうち、以下の優先出走権を得ている馬から優先して割り当て、その他の馬は「通算収得賞金[注 39]」+「過去1年間の収得賞金」+「過去2年間のGI・JpnI競走における収得賞金」の総計が多い順に割り当てる。

優先出走権を得られる条件
  • 出馬投票を行っている外国調教馬
  • レーティング[注 40]順位の上位5頭[注 41]
  • 当該年に行われる以下の競走のいずれかで1着となった馬(中央・地方の所属は問わない)[54]
  • 当該年に行われる以下の競走のいずれかで2着以内に入着した地方競馬所属馬[54]
競走名 格付 施行競馬場 施行距離
阪神大賞典 GII 日本の旗阪神競馬場 芝3000m
日経賞 GII 日本の旗中山競馬場 芝2500m
大阪杯 GII 日本の旗阪神競馬場 芝2000m
負担重量

定量(58kg、牝馬2kg減[52]

コース
天皇賞(春)コース概略図

京都競馬場の芝コース、外回り3200メートルを使用[55][56][57][52]

スタート地点は観客席からみて向正面で、約1周半する。途中、第3コーナーから第4コーナーにかけて“淀の坂”と称される坂の上り下りがあり、天皇賞(春)ではこの坂を2度通過するため、「京都競馬場の難所」とされる[55][58]

1周目はスタート直後から100メートル進む間に約2.1メートル上る急坂となる。その後も緩やかに280メートルかけて約1.8メートルを上る。第3コーナーが坂の頂上にあたり、第4コーナーまで3.5メートルを下る[57]。第4コーナーを回って直線に入るまで0.8メートルほどの下り勾配がある[57][55]

2周目の第4コーナーを回り終えると最後の直線で、ゴールまでは残り約400メートルとなる[55]

年表

  • 1938年 - 「帝室御賞典」を再編し年2回の施行に改め、春の競走を阪神競馬場で施行。
  • 1939年
    • 施行距離を3200メートルに、出走資格を5歳(現4歳)以上牡馬・牝馬に変更。
    • 負担重量を「馬齢重量」から「定量」に変更(負担重量は5歳(現4歳)は58キロ、6歳(現5歳)以上は60キロ、牝馬1.5キロ減に設定)[1]
  • 1944年 - 「能力検定競走」として、京都競馬場の芝3200メートルで施行[1]。以後、京都競馬場での施行が定着。
  • 1945年 - 太平洋戦争の影響で中止[1]
  • 1947年
    • この年のみ「平和賞」の名称で施行[1]
    • 負担重量を5歳(現4歳)、6歳(現5歳)以上とも牡馬60キロ、牝馬2キロ減に変更[1]
  • 1948年
    • 名称を「天皇賞」に変更[1]
    • 5歳(4歳)の負担重量を牡馬58キロ、牝馬2キロ減に変更[1]
  • 1953年 - 6歳(現5歳)以上の負担重量を5歳(現4歳)と同じく、牡馬58キロ、牝馬2キロ減に変更[1]
  • 1972年 - 外国産馬が出走できなくなる。
  • 1981年 - 勝ち抜き制を廃止[1]
  • 1984年 - グレード制導入、GIに格付け。
  • 1995年 - 指定交流競走となり、地方所属馬も出走が可能に[1]
  • 2000年 - 外国産馬が2頭まで出走可能に[1]
  • 2001年 - 馬齢表記を国際基準へ変更したことに伴い、出走条件を「5歳以上牡馬・牝馬」から「4歳以上牡馬・牝馬」に変更。
  • 2005年
  • 2007年 - 外国調教馬の出走枠を9頭に拡大[1]
  • 2008年
    • 出走条件を「4歳以上牡馬・牝馬」から「4歳以上」に変更[1]
    • 前年度メルボルンカップ優勝馬の招待を制度化。
  • 2012年
    • 「近代競馬150周年記念」の副称を付けて施行[1]
    • 出走馬選定方法を変更、レーティング上位5頭に優先出走を認める。

天皇賞(秋)

天皇賞(秋)
第144回天皇賞(秋)
優勝馬:トーセンジョーダン
主催者 日本中央競馬会
競馬場 日本の旗東京競馬場
創設 1937年12月3日
距離 芝芝2000m
格付け GI
賞金 1着賞金1億3200万円
賞金総額2億5120万円
出走条件 サラブレッド系3歳以上(国際)(指定)
出走資格も参照
負担重量 定量(3歳56kg、4歳以上58kg、牝馬2kg減)
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概要

3歳以上の馬(外国産馬・外国馬を含む)による重賞競走(GI)。施行距離は1938年から1983年まで春と同様に芝3200メートルだったが、1984年から芝2000メートルに短縮。距離変更には賛否両論があった[59]が、短縮後は中距離の最強馬決定戦として位置付けられた[1]。施行時期も長年11月下旬で定着していたが、1981年から10月下旬 - 11月初旬に繰り上げられた。

2000年よりジャパンカップ有馬記念とともに「秋の古馬三冠競走」とされ、同一年に行われる3競走を全て優勝した馬に褒賞金が贈られるようになった。

正式名称は「天皇賞」であるが、JRAでは施行距離が短縮された1984年以降「天皇賞(秋)」と表記している[1]

正賞は天皇賞、日本馬主協会連合会会長賞。

世界の中の天皇賞(秋)

天皇賞(春)と同様に、天皇賞(秋)も国際的な統一判断基準で評価が行われている。2014年現在(2011年から2013年の結果を基準)の評価で、天皇賞(秋)は世界で20番目にレベルの高い競走とされている[50][注 42]。このランキングによると、芝中距離(1900 - 2000メートル[注 43])のGI競走としては世界で7位(日本では1位)とされている[50]

競走条件

以下の内容は、2013年(第148回)終了時現在のもの[60]

出走資格

3歳以上のサラ系競走馬[60](出走制限頭数:最大18頭[53]

  • JRA所属馬
  • 地方所属馬(優先出走権を得た馬のみ)
  • 外国調教馬(JRA所属の外国産馬とあわせて最大9頭まで)

出馬投票を行った馬のうち、以下の優先出走権を得ている馬から優先して割り当て、その他の馬は「通算収得賞金」+「過去1年間の収得賞金」+「過去2年間のGI(JpnI)競走における収得賞金」の総計が多い順に割り当てる。

優先出走権を得られる条件
  • 出馬投票を行っている外国調教馬
  • レーティング順位の上位5頭[注 44]
  • 当該年に行われる以下の競走のいずれかで2着以内に入着した地方競馬所属馬[61]
競走名 格付 施行競馬場 施行距離
オールカマー GII 日本の旗中山競馬場 芝・外2200m
毎日王冠 GII 日本の旗東京競馬場 芝1800m
京都大賞典 GII 日本の旗京都競馬場 芝・外2400m
負担重量

定量(3歳56kg、4歳以上58kg、牝馬2kg減[60]

3歳馬は負担重量が軽減されており、4歳以上の馬に比べ重量面で優遇されている。

コース
天皇賞(秋)コース概略図

東京競馬場の芝コース、2000メートルを使用[60]

スタート位置は第1コーナーの奥に設けられた「ポケット地点」と呼ばれる。スタートから120メートルほどで第2コーナーにかかり[62]、第2コーナーから向正面にかけての700メートルは落差2メートルの緩やかな下り勾配となる[62][63]。その後、向正面の半ばから約1.5メートルの急な上り坂になる[62][63]。これを上りきるとまもなく第3コーナーに入り、カーブを回りながら約1.8メートル下る[62][63]。第4コーナーからは上り勾配に転じ、直線に入る[62][63]。ゴールまでの直線は約525メートルで、日本の競馬場では一番長い[62][63]。直線の中ほどにも高さ2メートルの長い上り坂があり、坂を登り切った後もゴールまで約250メートルの平坦路がある[62][63]

スタートから最初のカーブまでが短く[注 45]、序盤から前へ行きたい馬が外側の枠に入った場合、スタートからすぐに先行できなければ、カーブで大きく外を回ることになり、距離を余計に走ることになるため、スタート直後の先行争いがひとつの見どころとなる[63][注 46][注 47][注 48]


年表

  • 1937年 - 「帝室御賞典」を再編し年2回の施行に改め、秋の競走を東京競馬場で施行。
  • 1938年 - 施行距離を芝3200メートルに、出走条件を5歳(現4歳)以上に変更[1]
  • 1944年 - 太平洋戦争の影響で中止[1]
  • 1947年 - 名称を「天皇賞」に変更[1]
  • 1971年 - 外国産馬が出走できなくなる。
  • 1981年 - 勝ち抜き制を廃止[1]
  • 1984年
    • グレード制導入、GIに格付け。
    • 施行距離を芝2000メートルに変更[1]
  • 1987年
    • 出走資格を4歳(現3歳)以上牡馬・牝馬に変更[1]
    • 「天皇賞競走施行50周年記念」の副称を付けて施行[1]
    • 皇太子同妃夫妻の行啓により台覧競馬として開催。
  • 1995年 - 指定交流競走となり、地方競馬所属馬も出走が可能に[1]
  • 2000年 - 外国産馬が2頭まで出走可能に[1]
  • 2001年 - 馬齢表記を国際基準へ変更したことに伴い、出走条件を「4歳以上牡馬・牝馬」から「3歳以上牡馬・牝馬」に変更。
  • 2004年 - 「日本中央競馬会創立50周年記念」の副称を付けて施行[1]
  • 2005年
    • 「エンペラーズカップ100年記念」の副称を付けて施行[1]
    • 国際競走に指定され、外国調教馬は5頭まで出走可能となる[1]
    • 外国産馬の出走枠制限を撤廃[1]
    • 天皇・皇后が臨席、天皇賞史上初めての天覧競馬。
  • 2006年 - 「悠仁親王殿下御誕生慶祝」の副称を付けて施行[1]
  • 2008年 - 出走条件を「3歳以上牡馬・牝馬」から「3歳以上」に変更[1]
  • 2012年
    • 「近代競馬150周年記念」の副称を付けて施行[1]
    • 出走馬選定方法を変更、レーティング上位5頭に優先出走を認める。
    • 天皇・皇后が臨席、天皇賞史上2回目の天覧競馬。

脚注

  1. ^ JRAでは、これを天皇賞の前身としている。
  2. ^ 当該競走に出走できる馬の条件(馬齢・負担重量など)を定めたもの。施行コース・距離も競走条件に含まれる場合がある(現在の競走条件は後述)。
  3. ^ 競馬は当該競馬場における1開催(中央競馬は原則として6日 - 12日)をひとつの単位としており、施行する競走は開催ごとに定められている。同一開催で組まれる競走の割り当てを「競馬番組(または単に番組)」と呼んでいる。
  4. ^ このほかに横浜農林省賞典四・五歳呼馬も同等の賞金であったが、長く続かなかったので割愛する。詳しくは帝室御賞典の拡大と統一節の注釈を参照。
  5. ^ トレンチ公使、サトウ公使、マクドナルド公使など(『日本レース・クラブ50年史』p57ほか)。
  6. ^ アーネスト・サトウなど、イギリスの外交官は皇族を横浜競馬のパトロンとして仰いだ(『横浜競馬・人名録』、p27)。
  7. ^ 旧幕府と借地契約を行って拓かれた横浜競馬場については、用地の賃貸料を巡って競馬場側と新政府の間に紛争があった。不平等条約(治外法権)の影響もあり、交渉は難航したが、明治13年になってようやく解決をみた。このとき、賃料で両者が合意するにあたり、政府側からは競馬場の運営組織の名称を“Japan”ではなく“Nippon”にすること等が要望され、競馬場側はこれを受け入れた。この結果、競馬場は政府の公認を得た形となり、明治天皇はこれを機に賞品を下賜した。いくつかの史料には、これ以前にも明治天皇が横浜競馬場を訪問していたという記録がある。その一方で、借地問題が未解決の競馬場に明治天皇が行幸するはずがないとして、これを否定する文献もある(『日本レース・クラブ50年史』p12-38)。
  8. ^ 雑誌「優駿」では“The Emperor's Cup”の日本語訳として、これを採用している。
  9. ^ この頃の京都競馬場は、日本でもっとも馬券売上の多い競馬場で、何度も帝室御賞典の下賜を申請したが、最後まで許可はおりなかった。後の時代に、阪神競馬場が軍に接収されて使えなくなったときに、はじめて京都競馬場で帝室御賞典が行われるようになった。(『日本競馬史』5巻,p417)
  10. ^ 帝室御賞典の1着馬には賞品が与えられるだけで、賞金はなかった。
  11. ^ 1910年(明治43年)当時、日本の競馬における年間賞金総額は10万円で、1着賞金だけで年間の全賞金の3%に相当することになる(『日本の競馬』、若野章、恒文社、1974、p155)。現在の天皇賞では、JRAの年間賞金総額約880億円に対し、天皇賞の1着賞金約1.3億円は約0.1%にすぎない。
  12. ^ 実際には春に大阪、秋に東京と決まるまではかなりの紆余曲折があった。皇室から突然「今後は下賜は年2回のみ」と通達された直後に秋の東京で帝室御賞典を開催したが、帝室御賞典の創設者であり、半世紀以上にわたって皇室からの下賜競走を続けてきた横浜競馬場の関係者からは抗議が出た。理事会はひとまず翌年春の大阪開催を決め、それ以降の開催地は棚上げとし、後日協議することとした。この段階では秋の天皇賞を横浜で開催する可能性もあったが、最終的には東京で行うこととした。その代償として、横浜競馬場に東京優駿(日本ダービー)・帝室御賞典と同格の大競走「横浜農林省賞典四・五歳呼馬」を新設することになったが、横浜競馬場が軍に接収されて閉鎖されたため、1年だけ中山競馬場で行われた後に中断した。この競走が、後の「中山グランプリ(現・有馬記念)」のルーツになる(『日本競馬史』5巻、p416-425「帝室御賞典競走の変遷」)。
  13. ^ 当時の日本競馬会は1947年(昭和22年)春に「帝室御賞典」を再開しようとしたが、ぎりぎりになって御賞典の下賜が得られないことが判明したため、「平和賞」の名称で施行。同年秋に「第2回平和賞」を予定していたところ、レース前日になって天皇楯の下賜が決まり、名称を「天皇賞」に変更して施行した。日本競馬会は後日、慣例に従って競走結果を宮内省へ奏上していおり、その時も公式に「第1回天皇賞」としている。2014年現在、日本中央競馬会は1937年秋の帝室御賞典を天皇賞の第1回としている。それに加えて、1968年に日本中央競馬会が編纂した史料では、実際に皇室からの賞典が無かった戦時中の能力検定競走や平和賞を回数に数えない考え方も示されている(『天皇賞競走史話』p68-76ほか)。
  14. ^ 2001年以降の馬齢表記では4歳(2000年以前の馬齢表記では5歳)以上をさす。
  15. ^ 2001年以降の馬齢表記では3歳にあたる。
  16. ^ 日本中央競馬会の古い資料や出版物には、1947年秋の天皇賞を“第1回天皇賞”と表現しているものもある。
  17. ^ 諸々の事情によって異なるが、帝室御賞典を勝った後は、概して60キロ後半から70キロ後半の斤量を背負って出走することになる。
  18. ^ わずかな例外として、帝室御賞典を統一した時に横浜競馬場に創設された「横浜農林省賞典四・五歳呼馬」がある。これは4歳と古馬の一流馬が対決するように企画され、しばしば帝室御賞典を勝った馬が出走した。しかし横浜競馬場自体が戦時中の1943年に閉鎖され、この競走は短い期間しか行われなかった。
  19. ^ 第1回は「中山グランプリ」の名称で施行したが、第2回から「有馬記念」に改められた。
  20. ^ 2001年以降の馬齢表記では3歳。
  21. ^ イギリス王室でも、競馬の賞品にワインや美術品、絵画、花器、名馬の毛で出来た鞭などを下賜していた。これらの賞品は金額に換算され、当時のリーディングサイアーの統計にも反映されている(『競馬の世界史』p70)。
  22. ^ こうした式典は、はじめの頃は競走終了後に行われ、その間は馬券の発売を停止していた。昭和15年からは、競走終了後に薬物検査を行うことになり、その結果が出てから拝戴式を行うため、帝室御賞典当日ではなく、後日行われるようになった。(『日本競馬史』5巻p424-425)
  23. ^ 仮定名称と言って馬主名義を本名とは異なる名称にする制度があるが、1941年(昭和16年)から帝室御賞典では仮定名称の使用が禁じられ、馬主は実名で出走させなければならなくなった(『日本競馬史』5巻p420)。
  24. ^ なお、翌年(1666年)のこの競走は初めて明文化された規則に則って行われた最古の競馬の競走として記録されている(サラブレッド・ブラッドライン 2014年4月29日閲覧)。
  25. ^ 当時の日本競馬会は、宮内省へ結果を奏上した際に『第1回天皇賞』と報告している(『天皇賞競走史話』p72-75)。
  26. ^ 競馬では様々な名目で、本賞金とは別に賞金や賞品が授与される。
  27. ^ 1939年(昭和14年)の帝室御賞典(第4回天皇賞)の本賞金はない(賞品の優勝杯のみ)が、副賞として賞金1万5000円、さらに生産者賞1500円、調教師賞750円、騎手賞750円が授与された(『日本競馬史』5巻p418-420)。2014年の天皇賞(春)では1着賞金1億3200万円のほかに、付加賞が378万円授与されている(JRAデータファイル 第149回天皇賞(春))。
  28. ^ 2000年には特別ボーナスが創設され、同一年に天皇賞(秋)・ジャパンカップ・有馬記念の3競走をすべて勝った日本産馬には2億円、外国産馬には1億円が授与されるようになった。なお、このボーナスは1着賞金に含めていない。
  29. ^ 2001年以降のジャパンカップは、世界でもトップクラスの高額賞金競走となった。海外の競馬ではドバイワールドカップ(1着約6億円)、メルボルンカップ(1着約3.4億円)、凱旋門賞(1着約3.2億円)、ブリーダーズカップ・クラシック(1着約2.8億円)などが主な高額賞金競走である。ジャパンカップは2014年時点で1着賞金が2億5000万。一定の条件を満たす馬はこれに1億3000万が加算され、年によっては世界1位の賞金になる(RacingPost 2009年5月25日 Richest prizes in world to overseas horses on offer)。
  30. ^ 返し馬時に重りを馬場に捨て、競走後に下馬しコース上に捨てた重りを再び装着して検量室に戻るという不正を未然防止するため。
  31. ^ かつては目黒記念や、中山大障害などの障害重賞も年2回施行され、「目黒記念(春)」・「目黒記念(秋)」のように区別していたり、4歳牝馬特別や金杯のように同一の名称の競走が各地にあって、4歳牝馬特別(西)4歳牝馬特別(東)金杯(東)金杯(西)となっていた。
  32. ^ 現存する最長距離の重賞競走は「ステイヤーズステークス(3600m)」。過去にはいずれも4000mで争われた「中山四千米」や、「日本最長距離ステークス」があった。
  33. ^ オーストラリアは8月から翌年7月を1シーズンとしている。
  34. ^ 2005年には2003・2004・2005年のメルボルンカップを優勝したマカイビーディーヴァ(Makybe Diva)が出走しているが、招待はされていなかった。
  35. ^ 世界の競馬開催国は、国際セリ名簿基準委員会によってパート1からパート5までランク分けされている。日本を含め、最高のパート1に分類されている国・地域のうち、3000メートル級のG1競走を行っているのは、日本(天皇賞(春)、菊花賞)、イギリス(ゴールドカップ:約4000メートル、このほか距離はやや短いがセントレジャー:約2920メートルがある)、フランス(ロワイヤルオーク賞:3100メートル、カドラン賞:4000メートル)、オーストラリア(メルボルンカップシドニーカップ:3200メートル)、ニュージーランド(オークランドカップ:3200メートル)の5カ国だけである。このうち、賞金額では、フランスのロワイヤルオーク賞が国内10番目、オーストラリアのシドニーカップは国内12番目、イギリスのセントレジャーは6番目、ゴールドカップは国内20番目に過ぎない。これに対し、オーストラリアのメルボルンカップは国内1位、ニュージーランドのオークランドカップは古馬の出走できる競走としては国内最高額である(ニュージーランド国内全体では3番目。1位はグレード外の2歳戦、2位は3歳戦)。日本の天皇賞(春)は国内4番目、菊花賞は7番目(国際セリ名簿基準委員会 2014年カタログ (PDF) 参照)。
  36. ^ この評価は直近の3年の結果に基づいて算出されており、2014年時点での評価の対象となっているのは2011年から2013年の3年分の結果である。なお、2014年の天皇賞(春)の評価点(レースレート)は117で、2001年以降の天皇賞(春)の評価点の中では2013年と並んで最高点である。この点数は上位4着馬に与えられた評価点(レーティング)の平均値であり、1着馬のレーティングだけで見た場合には、天皇賞(春)の過去の最高点は123(2006年ディープインパクト)、次点は120(2013年フェノーメノ)である。
  37. ^ とは言え、Extended部門で首位の馬は、全体の38位にとどまっている。
  38. ^ 施行コース・距離に応じて各競馬場ごとに定められており、これを超える頭数での競走は施行できない。「フルゲート」とも呼ばれる。
  39. ^ 当該馬がデビューから獲得してきた賞金額の合計
  40. ^ 競走馬の能力を示す客観的な指標。着差・負担重量・過去の勝馬との比較などをもとに、国際的に統一された基準で数値化されている。JRA公式サイト:データファイル(レーティング&ランキング)も参照。
  41. ^ 牡馬・騙馬は110ポンド、牝馬は106ポンド以上が条件。
  42. ^ このランキングは、毎回の結果に基いて算出される。出走馬には、過去の実績に基づいたポイント(レーティング)が行われており、その馬がこの競走で実際に発揮した能力を基に新たなレーティングが与えられる。そして1着から4着までの馬に与えられたレーティングの平均値が、その競走の評価点(レースレート)となる。
  43. ^ 距離_(競馬)#SMILE 区分」のI(Intermidiate)に相当
  44. ^ 牡馬・騙馬は110ポンド、牝馬は106ポンド以上が条件。
  45. ^ スタートしてから最初のカーブまでの距離は約120メートルで、JRAの平地の芝コースの中では最も短い設定である。ほかに最初のカーブまでの距離が短いコースとしては、東京競馬場の1800メートル(約160メートル)、小倉競馬場の1700メートル(約170メートル)などの設定がある。
  46. ^ 1991年の第104回天皇賞では、最も外側から発走した馬がスタート直後に内側へ急斜行して他馬の進路を妨害した。被害馬が18位でゴールしたため、加害馬は18着に降着となった。その後2002年にコース改修が実施され、以前よりはカーブが緩和されている。
  47. ^ カーブの半径やカーブまでの距離が危険であるという意見もあるが、同様のコース設定は地方競馬や海外の競馬場にも多数存在しており、ダート競走格付け委員山野浩一は「世界の競馬の中ではとても中程度の危険さとさえいえるものではない」としている(『全日本フリーハンデ1989 - 1994』山野浩一、リトル・モア、p457-459)。
  48. ^ 大レースは枠順による有利不利が起こらない条件で行うべきと考えていた大川慶次郎は、生前にこのような状況を予測して距離が2000メートルに短縮された際最後まで反対意見を唱え、2000メートルで施行するなら中山競馬場にすべきと主張していた。
  49. ^ メジロマックイーンが1位で入線したがスタート直後に斜行し、18位で入線したプレジデントシチーの進路を妨害したとして審議の結果、最下位(18着)に降着。2位で入線したプレクラスニーが繰り上がった(参考:メジロマックイーンの走破時計 2:02.9)。

参考文献・出典

参考文献

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  • 『競馬百科』日本中央競馬会・編、みんと・刊、1976
  • 『競馬の世界史』ロジャー・ロングリグ・著、原田俊治・訳、日本中央競馬会弘済会・刊、1976
  • 『天皇賞競走史話』、日本中央競馬会、1968
  • 『日本競馬史』日本中央競馬会、1969
  • 『日本の競馬』、若野章、恒文社、1974
  • 『ニッポン競馬のからくり』、増田知之、東邦出版、2009
  • 『ミスタージャパンカップと呼ばれた男』、河村清明、東邦出版、2008
  • 『勝ち馬的中!!競馬の基本』、松本ヒロシ監修、成美堂出版、2012

各回競走結果の出典

馬主名義を除く競走結果
  • 『中央競馬レコードブック』、中央競馬ピー・アール・センター、1994
  • 天皇賞(春)第2回から第107回、天皇賞(秋)第1回から第108回まで。
馬主名義
  • 『競馬 - 国営競馬6年のあゆみ』(高陽書院、1954年)- 春:第2回から第29回、秋:第1回から第28回
  • 日本馬主協会連合会(編)『日本馬主協会連合会40年史』(日本馬主協会連合会、2001年)- 春:第43回から第121回、秋:第44回から122回
  • 日本馬主協会連合会(編)『日本馬主協会連合会50年史』(日本馬主協会連合会、2011年)- 春:第123回から第141回、秋:第124回から142回
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  11. ^ 毎日新聞1958年11月24日付「天皇賞・セルローズが優勝」
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出典

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関連項目

外部リンク