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| 芸名 = ジョーン・フォンテイン |
| 芸名 = ジョーン・フォンテイン |
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| ふりがな = Joan Fontaine |
| ふりがな = Joan Fontaine |
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| 画像コメント = 1943年撮影の写真 |
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| 本名 = Joan de Beauvoir de Havilland |
| 本名 = Joan de Beauvoir de Havilland |
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| 出生地 = {{JPN}} |
| 出生地 = {{JPN}}、[[東京府]] |
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| 死没地 = {{USA}} |
| 死没地 = {{USA}}、[[カリフォルニア州]]、[[カーメル・バイ・ザ・シー]]の5.6km南にあるカーメル・ハイランズ ([[:en:Carmel Highlands, California|en]]) |
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| 国籍 = {{GBR}}<br />{{USA}}<ref>Weatherford 2010, p. 302.</ref> |
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| 身長 = |
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| 生年 = 1917 |
| 生年 = 1917 |
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| 生月 = 10 |
| 生月 = 10 |
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| 没日 = 15 |
| 没日 = 15 |
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| 職業 = |
| 職業 = |
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| 活動期間 = |
| 活動期間 = 1935年 - 1994年 |
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| 配偶者 = ブライアン・エイハーン |
| 配偶者 = ブライアン・エイハーン(1939年-1945年)<br />ウィリアム・ドジャー(1946年-1951年)<br />コリアー・ヤング(1952年-1961年)<br />アルフレッド・ライト Jr.(1964年-1969年) |
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| 家族 = [[オ |
| 著名な家族 = [[ウォルター・オーガスタス・デ・ハヴィランド]](父)<br/>{{仮リンク|リリアン・フォンテイン|en|Lillian Fontaine}}(母)<br/>[[オリヴィア・デ・ハヴィランド]](姉) |
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| 事務所 = |
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| 公式サイト = |
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| 主な作品 = 『レベッカ』<br |
| 主な作品 = 『[[レベッカ (1940年の映画)|レベッカ]]』(1940年)<br/>『[[断崖 (映画)|断崖]]』(1941年)<br/>『[[忘れじの面影]]』(1948年) |
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| アカデミー賞 = '''[[アカデミー主演女優賞|主演女優賞]]'''<br />[[第14回アカデミー賞|1941年]]『[[断崖 (映画)|断崖]]』 |
| アカデミー賞 = '''[[アカデミー主演女優賞|主演女優賞]]'''<br />[[第14回アカデミー賞|1941年]]『[[断崖 (映画)|断崖]]』 |
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| 備考 = [[第32回ベルリン国際映画祭]] 審査員長(1982年) |
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'''ジョーン・フォンテイン''' |
'''ジョーン・フォンテイン'''(Joan Fontaine, [[1917年]][[10月22日]] - [[2013年]][[12月15日]])は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[俳優|女優]]。本名ジョーン・デ・ボーヴォア・デ・ハヴィランド(Joan de Beauvoir de Havilland)。イギリス人の両親の間に[[日本]]で生まれ、1919年に姉である[[オリヴィア・デ・ハヴィランド]]とともに、アメリカの[[カリフォルニア州]]に移住した。フォンテインは1935年に舞台で女優としてのキャリアを始め、同年にアメリカの映画会社[[RKO]]と契約を結んだ。 |
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フォンテインは1940年に、[[アルフレッド・ヒッチコック]]監督作品『[[レベッカ (1940年の映画)|レベッカ]]』で[[アカデミー主演女優賞]]にノミネートされ、翌1941年に同じくヒッチコック監督作品の『[[断崖 (映画)|断崖]]』でアカデミー主演女優賞を受賞した。フォンテインはヒッチコックの監督作品でアカデミー賞を獲得した、ただ一人の俳優となっている<ref name="booker">Booker 2011, p. 134.</ref>。また、姉のデ・ハヴィランドも『[[遥かなる我が子]]』(1946年)と『[[女相続人]]』(1949年)でアカデミー主演女優賞を受賞しており、フォンテインとデ・ハヴィランドは2013年現在で唯一の主演賞を獲得した兄弟姉妹である。フォンテインは1940年代から1990年代にかけて、舞台、ラジオ、テレビ、そして映画で女優活動を続け、1978年には自伝『{{lang|en|No Bed of Roses}}』を出版した。50年以上にわたって女優活動を続けていたフォンテインが最後に映像作品に出演したのは1994年のことだった。 |
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== 生涯 == |
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父親が[[東京大学|東京帝国大学]]で教授をしていたため、姉のオリヴィアと同じく、[[東京]]・[[虎ノ門]]で生まれる。自伝『''No Bed for Rose''』によれば、自宅は現在の[[ホテルオークラ]]別館あたりにあり、自宅はのちスウェーデン大使館として使われた。現在は大使館の敷地の一部となっている。父ウォルターの甥は、[[デ・ハビランド・エアクラフト]]創業者、[[ジェフリー・デハビランド|ジェフリー・デ・ハヴィランド]]。 |
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フォンテインはカリフォルニア州[[カーメル・バイ・ザ・シー]]の邸宅ヴィッラ・フォンタナで暮らし、2013年12月15日にこの邸宅で96年の生涯を閉じた。 |
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ジョーンは虚弱体質で、2歳のとき医師に転地療養を薦められ、母と[[イタリア]]に向かった。だが、症状が悪化し、アメリカに渡り、[[カリフォルニア州]]の[[サラトガ]]で育つ。1925年、8歳のとき両親が離婚<ref name=laufenberg>{{cite book|last=Laufenberg|first=Norbert B. |title=Entertainment Celebrities|year=2005|publisher=Trafford Publishing|isbn=1-4120-5335-8|page=233}}</ref>。 |
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[[デ・ハビランド・エアクラフト|デ・ハヴィランド・エアクラフト社]]を創設した、[[ジェフリー・デハビランド|ジェフリー・デ・ハヴィランド(父)]]はいとこである。 |
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14歳のとき父が元メイドの日本女性と再婚したため、父を訪ねて再び日本に戻り、3年間滞在。[[アメリカンスクール・イン・ジャパン]]<ref>{{cite web|url=http://community.asij.ac.jp/Page.aspx?pid=464|title=Prominent Alumni|publisher=asij.ac.jp|accessdate=6 October 2011}}</ref>と[[学校法人聖心女子学院|聖心女子学院]]に通った。 |
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{{TOC limit|limit=2}} |
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== 幼少期 == |
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健康を回復し、アメリカに帰国。1935年に舞台デビューし、同年に[[RKO]]と契約して映画にも出演するようになる。『[[風と共に去りぬ (映画)|風と共に去りぬ]]』の有名なスカーレット選びにも参加し、「スカーレットが無理ならメラニーでも」と猛烈に売り込みを図るも姉に奪われ、自殺まで考えた。{{要出典|date=2011年9月|}}だが『[[レベッカ (映画)|レベッカ]]』の映画化を知り、[[プロデューサー]]の[[デヴィッド・O・セルズニック]]に売り込み、同作のヒロインに収まった。{{要出典|date=2011年9月|}} |
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ジョーン・デ・ハヴィランドはイギリス人の両親の間に、1917年に[[東京府|東京]](現在の[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]])<!--姉と虎ノ門病院生まれ、住居は現在のアークヒルズ仙石山辺りですが、現状出典がありません。-->で生まれた。 |
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父親のウォルター・オーガスタス・デ・ハヴィランド(1872年8月31日 - 1968年5月23日)は、[[ケンブリッジ大学]]を卒業後の1893年に兄を頼って来日。函館や神戸の[[日本聖公会]]の教会で英語・サッカー・クリケットを日本人の少年たちに教えた後に、1898年から数年間は金沢の[[第四高等学校 (旧制)|旧制四高]]で教えた。1904年から1906年の間、[[東京高等師範学校|東京高師]](現在の筑波大)で英語教師の傍らサッカーの指導者として東京高師蹴球部(現在の[[筑波大学蹴球部|筑波大蹴球部]])を指導した。彼はスポーツマンでサッカーが得意であったため、日本サッカーを広めた功績もあり、函館や金沢では日本サッカーの父と呼ばれ評価されている。その後は[[早稲田大学|早稲田大]]法科教授に転身し、当時の同僚だった人物の妹リリアンを紹介されて結婚した。 |
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清楚な美貌とその震える肩で虐げられる[[メロドラマ]]のヒロインを得意とした。しかし姉と親しかった男と結婚したり、計4度の離婚歴があるなど、エピソードにも事欠かない。1941年、[[アルフレッド・ヒッチコック]]のスリラー『[[断崖 (映画)|断崖]]』で[[アカデミー主演女優賞]]を受賞した。 |
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そしてフォンテインが生まれたときには特許専門の[[弁理士]]事務所を開業していた。なお、昔からアメリカや日本の映画雑誌では一貫して、ジョーンの父は東京大学の教授に招聘されて来日と書かれているが、ケンブリッジ大学を卒業してすぐに来日しているので、それは事実ではない。 |
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== エピソード == |
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* 3歳の時の[[知能検査]]では[[知能指数|IQ]]160であった<ref name="Biography">{{cite web|url=http://www.imdb.com/name/nm0000021/bio|title=Biography for Joan Fontaine|work=IMDb|accessdate=2012-09-24}}</ref>。 |
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* 特許弁護士であった彼女の父親は”A, B, C of Go”と云う英語で書かれた碁の教則本を出版している。 |
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* [[アカデミー賞]]の歴史で、姉妹で主演女優賞を受賞しているのはオリヴィアとジョーンだけである。 |
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* 姉の[[オリヴィア・デ・ハヴィランド]]との仲の悪さ、確執は有名である。姉が出席する会合には決して参加せず、たまたま出会っても決して口を聞こうとはしなかった{{要出典|date=2012年9月|}}。 |
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* [[1962年]](昭和37年)3月15日、来日。久々に日本の地を踏んだ。 |
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* パイロットの免許を持ち、[[熱気球]]のチャンピオンでもあり、優れた[[ライダー]]でもあり、[[カジキ]]釣りで賞をもらい、また[[ホールインワン|ホール・イン・ワン]]を経験した優れた[[ゴルファー]]でもあり、一流の料理人でもあり、[[インテリアデザイナー|インテリア・デザイナー]]の資格も持っていた<ref name="Biography"/>。 |
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* [[サンフランシスコ]]近郊[[カーメル市]]の養老院で余生を過ごしていたが、フランス在住の姉とは違い、映画関係のイベントや会合には出席しない等、一切、映画関係者とは関係を持たずにいた{{要出典|date=2012年9月|}}。[[2013年]][[12月15日]]、カリフォルニア州カーメルの自宅で老衰のため死去<ref>[http://www.afpbb.com/articles/-/3005146 『断崖』のオスカー女優J・フォンテインさん死去 96歳] AFPBB News 2013年12月16日</ref>。96歳没。 |
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母親のリリアン・オーガスタ(1886年6月11日 - 1975年2月20日)は、夫ウォルターと来日する前にはイギリスの舞台女優だった。リリアンは、娘たちが1940年代に女優として大成功を収めた後に「リリアン・フォンテイン」という芸名で、再び舞台女優に復帰してジョーンの主演映画『Ivy』(1947年)『二重結婚者』(1953年)にも出演した。 |
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== 主な出演作品 == |
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ジョーンの両親は1914年に結婚したが、ウォルターが日本では[[芸者遊び]]にうつつを抜かす浮気がちな男性だったために、2人の結婚生活は必ずしも幸福とはいえなかった<ref name="thomas-22">Thomas 1983, p. 22.</ref>。1919年2月に、母リリアンは病弱だった娘たちには東京の気候があっていないのではないかと考え、ウォルターを説得して一家はイギリスへと戻ることを決めた<ref name="thomas-22"/>。 |
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イギリスへ戻る途中にオリヴィアが気管支炎となり、高熱で倒れたために一家はカリフォルニアにしばらく滞在している。その後フォンテインも肺炎に罹患したために、リリアンは2人の娘とカリフォルニアに残る決断をし、サンフランシスコから50マイルほど離れた[[サラトガ (カリフォルニア州)|サラトガ]]に移り住んだ。しかしながら父ウォルターは家族を見捨てて、のちに再婚することとなる日本人家政婦マツクラ・ユキと共に日本へ戻っていった<ref name="thomas-22"/>。 |
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フォンテインの両親はその後別居生活となったが、2人が正式に離婚したのは1925年2月になってからだった<ref>Thomas 1983, p. 23.</ref>。同年に母のリリアンはジョージ・ミラン・フォンテインと再婚し、彼が死去するまで添い遂げた。一方、父のウォルターはマツクラ・ユキとは1927年に再婚したが1958年に死別し、別の女性と2年後に再婚した。 |
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フォンテインはロス・ガトス高校 ([[:en:Los Gatos High School]]) に通いだし、まもなく姉のオリヴィアとともに[[ディクション|発声法]]のレッスンを受けるようになった。フォンテインは16歳のときに、父ウォルターと暮らすために日本へと戻り、東京の[[聖心インターナショナルスクール]]に入学し、1935年に卒業した<ref>[https://web.archive.org/web/20101230204335/http://community.asij.ac.jp/Page.aspx?pid=464 "Prominent Alumni."] ''asij.ac.jp.'' Retrieved: 6 October 2011.(2010年12月30日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>。東京生まれで、一時期東京で育ったことから、戦後の日本の映画雑誌では"江戸っ子女優"と紹介されることもあった。 |
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== 女優としてのキャリア == |
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[[File:Joan Fontaine Rebecca 1940.jpg|200px|thumb|left|『[[レベッカ (1940年の映画)|レベッカ]]』(1940年)の宣材写真。]] |
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フォンテインが女優としてデビューしたのはドディー・スミスが書いた[[戯曲]]で、1935年に上演された『{{lang|en|Call It a Day}}』である。フォンテインはこの作品に出演後すぐに映画製作会社の[[RKO]]と出演契約を交わしている。映画での初出演となったのは1935年の『[[男子牽制]]』の端役で、このときのフォンテインはジョーン・バーフィールドという名前でクレジットされていた<ref name="Quinlan">Quinlan 1996, pp. 172–173.</ref>。 |
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当時フォンテインが契約していたRKOは[[キャサリン・ヘプバーン]]に力を入れており、フォンテインには『{{lang|en|A Million to One}}』(1937年)や『[[偽装の女]]』(1937年)といった作品の端役しか回ってこなかった。それでもRKOはフォンテインを将来見込みのある女優だと考え、『{{lang|en|The Man Who Found Himself}}』のヒロインに抜擢し、「RKOの新たな女優」であるとエンドクレジットで紹介している<ref name="Fristoe">Fristoe, Roger. [http://www.tcm.com/tcmdb/title/82735/The-Man-Who-Found-Himself/articles.html "Articles: The Man Who Found Himself."] ''Turner Classic Movies''. Retrieved: 11 October 2012.</ref>。フォンテインが次に主役級を演じたのは、それまで[[ジンジャー・ロジャース]]との共演で成功を収めていた[[フレッド・アステア]]が、ロジャースと離れてRKOの作品に最初に出演した『踊る騎士 ([[:en:A Damsel in Distress (film)|A Damsel in Distress]])』(1937年)だった。しかしながらこの作品は観客からは不評で、興行的にも失敗作となってしまった。その後のフォンテインは『[[ザ・ウィメン]]』など12本の作品で端役を演じ続けたが、大きな注目を集めることもなく、RKOとの契約は更新されることなく1939年に終了した。 |
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不遇をかこっていたフォンテインの運命は、とある晩餐会でハリウッドの大物プロデューサーである[[デヴィッド・O・セルズニック]]と隣席になったことで一変することとなる。フォンテインとセルズニックはこのとき、イギリスの小説家ダフネ・デュ・モーリアの作品『[[レベッカ (小説)|レベッカ]]』について語り合った。そしてセルズニックは、フォンテインにこの作品の映画版のヒロイン「わたし」役のオーディションを受けてみないかと薦めている。6カ月間にわたって数百人の女優が受けた過酷なオーディションに勝ち残り、『レベッカ』のヒロイン役に決まったのは、フォンテインが22歳の誕生日を迎える直前のことだった。 |
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[[File:Joan Fontaine 1945.JPG|200px|thumb|1945年に広告に掲載された写真。]] |
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フォンテインとイギリス人俳優[[ローレンス・オリヴィエ]]との共演となった『[[レベッカ (1940年の映画)|レベッカ]]』は、イギリス人監督[[アルフレッド・ヒッチコック]]が初めて手がけたハリウッド映画でもあった。1940年に公開された『レベッカ』は大評判となり、フォンテインも[[アカデミー主演女優賞]]にノミネートされている<ref name="Quinlan" />。[[第13回アカデミー賞|このときのアカデミー賞]]で主演女優賞を獲得したのは、『[[恋愛手帖]]』に出演したジンジャー・ロジャースだったが、翌1941年に[[ケーリー・グラント]]と共演したヒッチコック監督作品『[[断崖 (映画)|断崖]]』で、フォンテインはアカデミー主演女優賞を受賞した<ref name="Quinlan" />。ヒッチコックの監督作品が受賞したアカデミー賞の中で、このフォンテインの主演女優賞が唯一俳優に贈られたアカデミー賞となっている<ref name="booker" />。 |
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1940年代のフォンテインは恋愛メロドラマ作品に多く出演した。この時期の評価が高い作品として、3回目のアカデミー主演女優賞にノミネートされた『永遠の処女 ([[:en:The Constant Nymph (1943 film)|The Constant Nymph]])』(1943年)をはじめ<ref name="Quinlan" />、『[[ジェーン・エア (1943年の映画)|ジェーン・エア]]』(1944年)、『[[:en:Ivy (film)|Ivy]]』(1947年)、『[[忘れじの面影 (映画)|忘れじの面影]]』(1948年)などがある。1950年代になるとフォンテインの映画での人気は徐々に衰えを見せ始め、女優としての活動の場をテレビや舞台へと移すようになっていった。1954年に上演された舞台作品『お茶と同情 ([[:en:Tea and Sympathy (play)|Tea and Sympathy]])』で、[[アンソニー・パーキンス]]の相手役ローラを演じて高く評価された。また1940年代には、ラジオの長寿番組『[[:en:Lux Radio Theatre]]』に何度も出演している。 |
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=== キャリア後期 === |
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フォンテインは1960年代も舞台作品を中心に活動した。『[[:en:Private Lives|Private Lives]]』、『[[:en:Cactus Flower (play)|Cactus Flower]]』、そして『[[冬のライオン]]』などである。フォンテインが最後に出演した劇場映画作品は『影なき裁き ([[:en:The Witches (1966 film)|The Witches]])』(1966年)で、この作品でフォンテインは副製作も担当している。1970年代、1980年代でもフォンテインは映像作品やテレビドラマに出演を続け、1980年には[[昼ドラ|ソープオペラ]]の『[[:en:Ryan's Hope|Ryan's Hope]]』で[[エミー賞]]にノミネートされた。 |
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1978年にフォンテインの自伝『{{lang|en|No Bed of Roses}}』が出版された。1982年には[[第32回ベルリン国際映画祭]]の審査委員長を務めている<ref name="berlinale">[http://www.berlinale.de/en/archiv/jahresarchive/1982/04_jury_1982/04_Jury_1982.html "Berlinale 1982: Juries."] ''berlinale.de,'' 2 September 2010.</ref>。 |
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フォンテインが出演した最後のテレビ番組は、1994年の『{{lang|en|Good King Wenceslas}}』である。これはフォンテインが芸能界から半ば引退し、カリフォルニア州[[カーメル・バイ・ザ・シー]]にあった隠棲先の邸宅でのガーデニングやペットの犬との生活に入ってから久々の作品だった<ref name="dailynews">Rush, George, Joanna Molloy and Barid Jones. [http://articles.nydailynews.com/1996-06-23/gossip/18008312_1_peterman-catalogue-blouse "A Catalogue Of Complaints For Fontaine."] ''New York Daily News,'' 23 June 1996. Retrieved: 8 December 2012.{{リンク切れ|date=December 2013}}</ref>。 |
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フォンテインの映画界への貢献を賞して、[[ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム]]のヴァイン通り1645には、フォンテインのスター・プレートが設置されている。 |
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== 私生活 == |
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[[File:Joan Fontaine 1951.jpg|200px|thumb|1951年に撮影された写真。]] |
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フォンテインは両親の出身国であるイギリス国籍と、1943年4月に取得したアメリカ国籍を持つ二重国籍者だった<ref>[https://news.google.com/newspapers?id=C2pIAAAAIBAJ&sjid=CVUDAAAAIBAJ&pg=5675,4049662&dq=joan+fontaine+british&hl=en "Joan Fontaine To Seek Divorce."] ''The Evening Independent,'' 28 March 1944. Retrieved: 8 December 2012.</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20151001035605/https://news.google.com/newspapers?id=GO8ZAAAAIBAJ&sjid=_SIEAAAAIBAJ&pg=4298,3697385&dq=joan+fontaine+british&hl=en "Joan Fontaine Now a Citizen."] ''The Milwaukee Journal,'' 23 April 1943, p. 1. Retrieved: 8 December 2012.</ref>。 |
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=== 日本滞在時代 === |
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聖心インターナショナルスクール時代には、[[横浜市|横浜]]に住む同級生エレノア・チャイルド(Eleanor Child)と親友になった<ref name ="asij">[https://www.asij.ac.jp/asij-stories/joan-fontaine-35 Tokyo Teen to Hollywood Legend] ASIJ</ref>。週末にはエレノアの親が所有する[[葉山町|葉山]]のビーチハウスに度々招待されて滞在した<ref name ="asij"/>。なおエレノアはのちにフランス人の美術商と結婚し、娘のジジ・ペロー([[:en:Gigi Perreau|Gigi Perreau]])は女優になった<ref name ="asij"/>。また、ジョーンは在学時代、横浜に住むアル・ニプコウ(Al Nipkow)という同級生の[[:en:Boyfriend|ボーイフレンド]]ができた。彼とは日本を離れるときに交際が終了したが、終生の友人となった<ref name ="asij"/>。そのほか[[ジョセフ・グルー]]米国大使や[[アルベール・ド・バッソンピエール]]ベルギー大使らとも交流し、華やかな生活を送った<ref name ="asij"/>。1962年の再来日時には、[[アメリカンスクール・イン・ジャパン|ASIJ]]が全面的にバックアップし、かつての同級生たちと歓談したり、同校卒業生の[[エドウィン・O・ライシャワー]]米国大使とダンスするなどして帰郷を楽しんだ<ref name ="asij"/>。 |
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[[芥川比呂志]]によれば、大学がある[[日吉駅 (神奈川県)|日吉]]へ[[東急東横線]]で[[中村真一郎]]や[[加藤道夫]]と通学していた時代、オリヴィア、ジョーン姉妹とよく乗り合わせていた<ref>芥川瑠璃子『影燈籠 芥川家の人々』(人文書院, 1991年)95頁</ref>。 |
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[[羽仁五郎]]によれば、[[軽井沢町|軽井沢]]の[[教会 (キリスト教)|教会]]で開かれた別荘住民による音楽会でオリヴィア、ジョーン姉妹が歌を披露したことがある<ref>羽仁五郎『心痛む思い出 - E.H.ノーマン』。エドガートン・ハーバート・ノーマン『ハーバート・ノーマン全集 第4巻』(岩波書店, 1977年)3頁に所収</ref>。なお軽井沢についてはオリヴィアがのちのインタビューでも言及しており、軽井沢にはデ・ハヴィランド家の別荘があって夏に滞在していた<ref>[https://achievement.org/achiever/olivia-de-havilland/#interview Dame Olivia De Havilland Interview] American Academy of Achievement</ref>。 |
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=== 結婚と子供たち === |
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フォンテインは4回にわたって結婚と離婚を繰り返した。最初の結婚は1939年で、イギリス人俳優のブライアン・エイハーン ([[:en:Brian Aherne]]) とだったが、1945年4月に離婚している<ref>[https://news.google.com/newspapers?id=LaFPAAAAIBAJ&sjid=yE4DAAAAIBAJ&pg=7195,5838627&dq=joan+fontaine+brian&hl=en "Joan Fontaine, A Guest No More, Wins Freedom."] ''St. Petersburg Times,'' 3 June 1944, p. 5. Retrieved: 8 December 2012.</ref>。1946年5月に俳優、プロデューサーのウィリアム・ドジャー ([[:en:William Dozier]]) とメキシコ・シティで再婚した。二人の間には1948年に娘デボラ・レズリーが生まれたが、1949年には別居生活を送るようになった<ref>[https://news.google.com/newspapers?id=qHMoAAAAIBAJ&sjid=s8cEAAAAIBAJ&pg=4508,368073&dq=joan+fontaine+william+dozier&hl=en "Joan Fontaine And Husband Separate."] ''Daytona Beach Morning Journal,'' 4 August 1949, p. 14. Retrieved: 8 December 2012.</ref>。翌年フォンテインはドジャーが育児放棄をしたとして離婚調停を申し立てている。そして二人が正式に離婚したのは1951年1月のことだった<ref>"Joan Fontaine Sues Producer for Divorce." ''The Los Angeles Times,'' November 9, 1950, p. 2. Retrieved: December 8, 2012.</ref><ref>[https://news.google.com/newspapers?id=btdaAAAAIBAJ&sjid=TmoDAAAAIBAJ&pg=5988,5819776&dq=joan+fontaine+william+dozier&hl=en "Husband Just Walked Out, Joan Fontaine Asserts."] ''Pittsburgh Post-Gazette,'' 26 January 1951, p. 2. Retrieved: 8 December 2012.</ref>。 |
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フォンテインは1952年11月12日に、プロデューサー、脚本家のコリアー・ヤングと3度目の結婚をした。しかしながら1960年5月から二人は別居生活を始め、1960年11月にフォンテインが離婚調停を申し入れた<ref>[https://news.google.com/newspapers?id=MYBPAAAAIBAJ&sjid=2gQEAAAAIBAJ&pg=4341,2095247&dq=joan+fontaine+collier+young&hl=en "Joan Fontaine Sues 3rd Mate For Divorce."] ''Ocala Star-Banner,'' 6 November 1960, p. 3. Retrieved: 8 December 2012.</ref>。最終的に二人の離婚が成立したのは1961年1月だった<ref>"Joan Fontaine Gets Divorce." ''The New York Times,'' 4 January 1961. Retrieved: 8 December 2012.</ref>。フォンテインの4度目にして最後の結婚相手となったのはアルフレッド・ライトだった。ライトは『[[スポーツ・イラストレイテッド|スポーツ・イラストレイテッド誌]]』のゴルフ記事担当編集者で、2人は1964年1月23日に結婚したが、1969年に離婚している<ref>[https://news.google.com/newspapers?id=KGQhAAAAIBAJ&sjid=5YYFAAAAIBAJ&pg=868,3953047&dq=joan+fontaine+alfred+wright+jr+elkton&hl=en "Names In The News."] ''Tri City Herald,'' 24 January 1964, p. 7. Retrieved: 8 December 2012.</ref>。 |
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1951年に開催された映画祭で南米に滞在していたフォンテインは、当時4歳の[[ペルー人]]少女マルティタと知り合い、養女にならないかと申し入れた<ref name=earlwilson>{{cite news | url = https://web.archive.org/web/20151001072824/https://news.google.com/newspapers?id=CG1QAAAAIBAJ&sjid=QhAEAAAAIBAJ&pg=6204,366026&dq=joan+fontaine+martita&hl=en | title =Joan Fontaine Describes How She Adopted Inca Girl | first= Earl | last= Wilson | publisher = ''[[New York Post]]'' via ''Milwaukee Sentinel'' | date = July 11, 1954 | page = 9 | accessdate= December 2012}}</ref>。フォンテインとマルティタが出会ったのは[[インカ帝国]]の遺構で、マルティタの父親が介護人として働いていた場所だった。マルティタの両親は娘がよりよい生活を送れるようにと、フォンテインがマルティタの法的な後見人になることを承諾した<ref name=earlwilson />。このときフォンテインはマルティタの両親に、マルティタが16歳になったらペルーへ帰郷させることを約束している。そして、フォンテインのもとに引き取られたマルティタが16歳になったときに、フォンテインはマルティタにペルー行きの往復チケットを買い与えたが、マルティタはペルーに戻ることを拒んで家を飛び出した。この出来事以来、フォンテインとマルティタの間はギクシャクして疎遠になってしまった。フォンテインは1978年に自叙伝を出版して、その宣伝活動中に「私は義理の娘を両親のもとに戻そうとしましたが、彼女はそれを喜びませんでした。私が彼女の両親に約束していたのにも関わらず。私に約束を破らせることになった誰かさんを私は決して許すことはないでしょう」と公言している<ref>{{cite news | last = Flander | first= Judy | url = https://news.google.com/newspapers?id=Fg5SAAAAIBAJ&sjid=QjUNAAAAIBAJ&pg=4175,7351434&dq=joan+fontaine+martita&hl=en | title = Former Movie Queen Joan Fontaine Turns Author At 60 | work= The Times-Union | date= September 30, 1978 | page= 7 | accessdate= December 8, 2012}}</ref>。 |
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=== 姉との確執 === |
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[[file:Joan Fontaine and Gary Cooper.jpg|thumb|225px|1942年のアカデミー賞で主演女優賞を受賞してオスカー像を手にしたフォンテイン。隣にいるのは[[ゲイリー・クーパー]]。]] |
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フォンテインと姉オリヴィア・デ・ハヴィランドは、2013年現在で主演賞を受賞した唯一の兄弟姉妹となっている。女優の道に進んだのは姉のデ・ハヴィランドのほうが早かった。フォンテインが姉に続いて女優になろうとしたときに、姉のデ・ハヴィランドをより可愛がっていた母親のリリアンはフォンテインにファミリーネームの「デ・ハヴィランド」を芸名に使用することを許さなかった。このためフォンテインは新たな芸名をつけざるを得ず、女優の活動当初にはジョーン・バーフィールドという芸名を名乗り、後に母親の再婚相手で養父の名字であるフォンテインに改名しジョーン・フォンテインという芸名を名乗るようになった。伝記作家のチャールズ・ハイアム ([[:en:Charles Higham (biographer)|en:Charles Higham]]) は、この姉妹が幼いころからいつも喧嘩をしていたと指摘し、フォンテインはデ・ハヴィランドのお下がりの服を与えられていたが、デ・ハヴィランドがフォンテインに渡す服をわざと破ったために、フォンテインはその服を縫い直して着なければならなかったというエピソードを紹介した。そしてフォンテインがデ・ハヴィランドを嫌うようになったのは、母親がデ・ハヴィランドばかりを可愛がっていたことが原因だとしている<ref name=CharlesHigham>Higham 1984, p. 257.</ref>。 |
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1942年にデ・ハヴィランドとフォンテインは、同時にアカデミー主演女優賞にノミネートされた。対象となったのは、デ・ハヴィランドが『Hold Back the Dawn』のエイミー・ブラウン役、フォンテインが[[アルフレッド・ヒッチコック]]監督作品『[[断崖 (映画)|断崖]]』のリナ・マクレイドロウ役で、主演女優賞を獲得したのは妹のフォンテインだった。チャールズ・ハイアムはこのときのフォンテインが「女優という仕事に心身を捧げていない自分が賞を獲得したことに対して後ろめたく感じていた」としている。また、ハイアムはこのときのアカデミー授賞式で、主演女優賞を受け取るために歩き出したフォンテインがデ・ハヴィランドからの祝福をあからさまに拒絶したために、デ・ハヴィランドは気分を害して当惑して見えたと記述している。<!-- Several years later, de Havilland remembered the slight and exacted her own revenge by brushing past Fontaine, who was waiting with her hand extended, because de Havilland allegedly took offense at a comment Fontaine had made about de Havilland's husband. De Havilland's relationship with Fontaine continued to deteriorate after the two incidents. Charles Higham has stated that this was the near final straw for what became a lifelong feud, but the sisters did not completely stop speaking to each other until 1975. According to Fontaine, de Havilland did not invite her to a memorial service for their mother, who had recently died. De Havilland claims she informed Fontaine, but Fontaine brushed her off, claiming she was too busy to attend. {{citation needed|date=September 2013}} --> |
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ハイアムはフォンテインが実娘とも疎遠になったとしており、おそらく娘が伯母であるデ・ハヴィランドと隠れて連絡を取り合っていたためではないかと指摘している<ref name=CharlesHigham/>。デ・ハヴィランドもフォンテインも自分たちの関係を公言したことはほとんどない。ただしフォンテインは1979年のインタビューで、自分たち姉妹が口をきかなくなったのは、癌に苦しんでいた母親に外科手術を受けさせようとしたデ・ハヴィランドと、当時88歳の母親には手術は無理だと考えていた自分との間で意見が対立したことが原因だと語ったことがある。そしてフォンテインは、母リリアンが死去したときにデ・ハヴィランドが、当時舞台巡業公演で各地を回っていた自分を探そうとしなかったと主張している。デ・ハヴィランドは母の死を知らせる電報をフォンテインに送ったが、この電報をフォンテインが目にしたのは二週間後で、フォンテインが母の死を知ったのは次の公演地に移動してからのことだった<ref>[http://www.youtube.com/watch?v=m9f7gjHkR9M "RetroBites: Joan Fontaine - Sisters (1979)" on ''Youtube'', 2 December 2010.]</ref>。 |
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1978年に受けたインタビューでフォンテインは「私のほうがオリヴィアよりも先に結婚し、先にアカデミー賞を受賞しました。もし私のほうが先に死去することがあれば、すべてにおいて私の後塵を拝したと知って彼女は激怒することは間違いないでしょう」と語っている<ref name="Washington Post">Interview in ''[[The Hollywood Reporter]]'' (1978), quoted in {{cite news|url=https://www.washingtonpost.com/local/obituaries/joan-fontaine-academy-award-winning-actress-from-the-1940s-dies-at-96/2013/12/15/807d78e4-c5da-11df-94e1-c5afa35a9e59_story.html|title=Joan Fontaine profile in|work=The Washington Post|date= 16 December 2013|accessdate= 16 December 2013}}</ref>。 |
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=== 死去 === |
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フォンテインは2013年12月15日に、カリフォルニア州カーメルの自宅で老衰のために96歳で死去した<ref>{{cite news | url = http://www.hollywoodreporter.com/news/actress-joan-fontaine-dies-rebecca-suspicion-665831 | title = Legendary Actress Joan Fontaine Dies at 96 | first = Mike | last = Barnes | work = [[The Hollywood Reporter]] | date = December 15, 2013 | accessdate = 2013-12-17 | archiveurl = https://webcitation.org/6LvZ5McdR?url=http://www.hollywoodreporter.com/news/actress-joan-fontaine-dies-rebecca-suspicion-665831 | archivedate = 2013年12月17日 | deadurl = no | deadurldate = 2017年9月 }}</ref><ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/3005146 『断崖』のオスカー女優J・フォンテインさん死去 96歳] AFPBB News 2013年12月16日</ref>。 |
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== 出演作 == |
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[[ファイル:Joan Fontaine 1943.jpg|サムネイル]] |
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{| class="wikitable" |
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|+ 映画作品 |
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!公開年! |
! 公開年 |
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! 邦題<br />原題 |
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! 役名 |
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! 備考 |
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| 1935年 |
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|1935|| 男子牽制<br />''No More Ladies'' || キャリー || |
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| 『[[男子牽制]]』<br />''[[:en:No More Ladies|No More Ladies]]'' |
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| キャロライン・"キャリー"・ラムゼイ |
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| ジョーン・バーフィールドとしてクレジット |
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| rowspan="6"|1937年 |
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|rowspan="2"|1937|| 偽装の女<br />''Quality Street'' || シャーロット || クレジットなし |
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| ''A Million to One'' |
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| ジョーン・スティーヴンス |
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| |
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| 『[[偽装の女]]』<br />''[[:en:Quality Street (1937 film)|Quality Street]]'' |
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| 踊る騎士<br />''A Damsel in Distress'' || Lady Alyce Marshmorton || |
|||
| シャーロット・パラット |
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| クレジットなし |
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|- |
|- |
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| ''[[:en:The Man Who Found Himself|The Man Who Found Himself]]'' |
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|1938|| 大空に賭ける<br />''Sky Giant'' || メグ・ローレンス || |
|||
| ドリス・キング |
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| |
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|- |
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| ''You Can't Beat Love'' |
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|rowspan="2"|1939 || ガンガ・ディン<br />''Gunga Din'' || エミー || |
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| トルーディ・オルソン |
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| |
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|- |
|- |
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| ''Music for Madame'' |
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| [[ザ・ウィメン]]<br /> ''[[:en:The Women (1939 film)|The Women]]'' || ペギー・デイ || |
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| ジーン・クレメンス |
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| |
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|- |
|- |
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| 『踊る騎士』<br />''[[:en:A Damsel in Distress (film)|A Damsel in Distress]]'' |
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| 1940 || [[レベッカ (映画)|レベッカ]] <br />''Rebecca'' || ミセス・デ・ウィンター || |
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| レディ アリス・マーシュモートン |
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| |
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|- |
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| rowspan="4"|1938年 |
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| 1941 || [[断崖 (映画)|断崖]] <br />''Suspicion'' || リナ || [[アカデミー主演女優賞]] 受賞 |
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| ''[[:en:Maid's Night Out|Maid's Night Out]]'' |
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| シーラ・ハリソン |
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| |
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|- |
|- |
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| ''[[:en:Blond Cheat|Blond Cheat]]'' |
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| 1942 || [[純愛の誓い]] <br />''[[:en:This Above All (film)|This Above All]]'' || プルーデンス・キャサウェイ || |
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| ジュリエット・"ジュリー"・エヴァンズ |
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| 『大空に賭ける』<br />''[[:en:Sky Giant|Sky Giant]]'' |
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| メグ・ローレンス |
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|- |
|- |
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| ''[[:en:The Duke of West Point|The Duke of West Point]]'' |
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|rowspan="2"|1944 || [[ジェーン・エア (1944年の映画)|ジェーン・エア]] <br />''Jane Eyre'' || ジェーン・エア || |
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| アン・ポーター |
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| |
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|- |
|- |
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| rowspan="3"|1939年 |
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| 情炎の海<br />''Frenchman's Creek'' || ドナ || |
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| 『[[ガンガ・ディン]]』<br />''[[:en:Gunga Din (film)|Gunga Din]]'' |
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| エミー |
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| |
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|- |
|- |
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| ''[[:en:Man of Conquest|Man of Conquest]]'' |
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|1945|| 失恋四人男<br />''The Affairs of Susan'' || スーザン・ダレル || |
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| エリザ・アレン |
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|- |
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| 『[[ザ・ウィメン]]』<br />''[[:en:The Women (1939 film)|The Women]]'' |
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|1946|| 小さな愛の日<br />''From This Day Forward'' || スーザン・カニングス || |
|||
| ジョン・デイ夫人(ペギー) |
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| |
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|- |
|- |
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| 1940年 |
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|rowspan="4"|1948 || [[忘れじの面影]] <br />''[[:en:Letter from an Unknown Woman|Letter from an Unknown Woman]]'' || リサ || |
|||
| 『[[レベッカ (1940年の映画)|レベッカ]]』<br />''[[:en:Rebecca (1940 film)|Rebecca]]'' |
|||
| デ・ウィンター夫人 |
|||
| [[ニューヨーク映画批評家協会賞 主演女優賞]] 第3位<br>[[アカデミー主演女優賞]] ノミネート |
|||
原作:ダフニ・デュ・モーリエ |
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|- |
|- |
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| 1941年 |
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| [[皇帝円舞曲 (映画)|皇帝円舞曲]] <br />''The Emperor Waltz'' || || |
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| 『[[断崖 (映画)|断崖]]』<br />''[[:en:Suspicion (1941 film)|Suspicion]]'' |
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| リナ |
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| アカデミー主演女優賞 受賞<br>ニューヨーク映画批評家協会賞 主演女優賞 |
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|- |
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| 1942年 |
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| 不時着結婚<br />''You Gotta Stay Happy'' || ディー・ディー || |
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| 『純愛の誓い』<br />''[[:en:This Above All|This Above All]]'' |
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| プルーデンス・キャサウェイ |
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| |
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|- |
|- |
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| rowspan="2"|1943年 |
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| 暴れ者<br />''Kiss the Blood Off My Hands'' || ジェーン || |
|||
| 『永遠の処女』<br />''[[:en:The Constant Nymph (1943 film)|The Constant Nymph]]'' |
|||
| テッサ・サンガー |
|||
| アカデミー主演女優賞 ノミネート |
|||
|- |
|- |
||
| 『[[ジェーン・エア (1943年の映画)|ジェーン・エア]]』<br />''[[:en:Jane Eyre (1943 film)|Jane Eyre]]'' |
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|rowspan="2"|1950 || [[旅愁 (1950年の映画)|旅愁]] <br />''September Affair'' || マリアンヌ・スチュアート || |
|||
| ジェーン・エア |
|||
| |
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|- |
|- |
||
| 1944年 |
|||
| [[生まれながらの悪女]]<br />''Born to Be Bad'' || クリスタベル || |
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| 『情炎の海/若き人妻の恋』<br />''[[:en:Frenchman's Creek (film)|Frenchman's Creek]]'' |
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| ドナ・コルム |
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|原作:ダフニ・デュ・モーリエ |
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『若き人妻の恋』は原作翻訳の題名 |
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|- |
|- |
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| 1945年 |
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|1951|| [[生きるためのもの]]<br />''Something to Live For'' || ジェニー || |
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| 『失恋四人男』<br />''[[:en:The Affairs of Susan|The Affairs of Susan]]'' |
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| スーザン・ダレル |
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|- |
|- |
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| 1946年 |
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| 1952 || [[黒騎士 (1952年の映画)|黒騎士]] <br />''Ivanhoe'' || ロウィーナ || |
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| 『小さな愛の日』<br />''[[:en:From This Day Forward|From This Day Forward]]'' |
|||
| スーザン・カミングス |
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|- |
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| 1947年 |
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|rowspan="3"|1953|| デカメロン夜話<br />''Decameron Nights'' || || |
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| 『アイヴィー、三股浮気女の殺人計画』 |
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''[[:en:Ivy (film)|Ivy]]'' |
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| アイヴィ |
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| rowspan="4"|1948年 |
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| 熱砂の大脱走<br />''Flight to Tangier'' || スーザン・レイン || |
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| 『[[忘れじの面影 (映画)|忘れじの面影]]』<br />''[[:en:Letter from an Unknown Woman (1948 film)|Letter from an Unknown Woman]]'' |
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| リーザ・バーンドル |
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|- |
|- |
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| 『[[皇帝円舞曲 (映画)|皇帝円舞曲]]』<br />''[[:en:The Emperor Waltz|The Emperor Waltz]]'' |
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| 二重結婚者<br />''The Bigamist'' || エヴァ・グラハム || |
|||
| ヨハンナ・アウガスタ・フランチスカ伯爵夫人 |
|||
| |
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|- |
|- |
||
| 『不時着結婚』<br />''[[:en:You Gotta Stay Happy|You Gotta Stay Happy]]'' |
|||
| 1954 || [[豪傑カサノヴァ]]<br />''[[:en:Casanova's Big Night|Casanova's Big Night]]'' || フランチェスカ・ブルーニ || |
|||
| ディー・ディー・ディルウッド |
|||
| |
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|- |
|- |
||
| 『暴れ者』<br />''[[:en:Kiss the Blood Off My Hands|Kiss the Blood Off My Hands]]'' |
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|rowspan="2"|1956 || [[条理ある疑いの彼方に]] <br />''Beyond a Reasonable Doubt'' || スーザン・スペンサーン || |
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| ジェーン・ワートン |
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| |
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|- |
|- |
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| rowspan="2"|1950年 |
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| 愛のセレナーデ<br />''Serenade '' || ケンダル || |
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| 『[[旅愁 (1950年の映画)|旅愁]]』<br />''[[:en:September Affair|September Affair]]'' |
|||
| マリマンヌ・"マニー"・スチュアート |
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| |
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|- |
|- |
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| 『生まれながらの悪女』<br />''[[:en:Born to Be Bad (1950 film)|Born to Be Bad]]'' |
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|1957|| 日のあたる島<br />''Island in the Sun'' || マヴィス・ノーマン || |
|||
| クリスタベル・ケイン・ケリー |
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|参考:ロレッタ・ヤング主演で同名の「(1934)濁流/Born to be Bad」という映画がある。ストーリーはまったく別。 |
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|- |
|- |
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| 1951年 |
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|1958|| ある微笑<br />''A Certain Smile'' || フランソワ || |
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| ''[[:en:Darling, How Could You!|Darling, How Could You!]]'' |
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| アリス・グレイ |
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| |
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|- |
|- |
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| rowspan="3"|1952年 |
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|rowspan="2"|1961 || [[地球の危機]] <br />''Voyage to The Bottom of The Sea'' || スーザン・ヒラー博士 || |
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| 『生きるためのもの』<br />''[[:en:Something to Live For (film)|Something to Live For]]'' |
|||
| ジェニー・ケリーJenny Carey |
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| 『[[オセロー]]』<br />''[[:en:Othello (1952 film)|Othello]]'' |
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| 夜は帰って来ない<br />''Tender Is the Night '' || ベイビー・ウォレン || |
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| ペイジ |
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| クレジットなし |
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|- |
|- |
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| 『[[黒騎士 (1952年の映画)|黒騎士]]』<br />''[[:en:Ivanhoe (1952 film)|Ivanhoe]]'' |
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|1966|| 影なき裁き<br />''The Witches'' || グゥェン・メイフィールド || |
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| ロウィーナ |
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|- |
|- |
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| rowspan="3"|1953年 |
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| 『デカメロン夜話(海賊パガニノ、道徳の賭け、医師の娘)』<br />''[[:en:Decameron Nights|Decameron Nights]]'' |
|||
| フィアメッタ/バルトロメア/ジネヴラ/イザベッラ |
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|ボッカチオ原作の[[アンソロジー]] |
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|- |
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| 『熱砂の大脱走』<br />''[[:en:Flight to Tangier|Flight to Tangier]]'' |
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| スーザン・レイン |
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| 『二重結婚者』<br />''[[:en:The Bigamist (1953 film)|The Bigamist]]'' |
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| エヴァ・グラハム |
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| |
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|- |
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| 1954年 |
|||
| 『豪傑カサノヴァ』<br />''[[:en:Casanova's Big Night|Casanova's Big Night]]'' |
|||
| フランチェスカ・ブルーニ |
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|- |
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| rowspan="2"|1956年 |
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| 『愛のセレナーデ』<br />''[[:en:Serenade (film)|Serenade]]'' |
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| ケンダル・ハル |
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| |
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|- |
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| 『[[条理ある疑いの彼方に]]』<br />''[[:en:Beyond a Reasonable Doubt (1956 film)|Beyond a Reasonable Doubt]]'' |
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| スーザン・スペンサー |
|||
| |
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|- |
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| rowspan="2"|1957年 |
|||
| 『日のあたる島』<br />''[[:en:Island in the Sun (film)|Island in the Sun]]'' |
|||
| マヴィス・ノーマン |
|||
| |
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|- |
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| ''[[:en:Until They Sail|Until They Sail]]'' |
|||
| アンナリーズ |
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| 1958年 |
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| 『ある微笑』<br />''[[:en:A Certain Smile (film)|A Certain Smile]]'' |
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| フランソワ・フェラン |
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| |
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|- |
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| 1961年 |
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| 『[[地球の危機]]』<br />''[[:en:Voyage to the Bottom of the Sea|Voyage to the Bottom of the Sea]]'' |
|||
| スーザン・ヒラー博士 |
|||
| |
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| 1962年 |
|||
| 『夜は帰って来ない』<br />''[[:en:Tender Is the Night (1962 film)|Tender Is the Night]]'' |
|||
| ベイビー・ウォーレン |
|||
| |
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|- |
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| 1966年 |
|||
| 『影なき裁き』<br />''[[:en:The Witches (1966 film)|The Witches]]'' |
|||
| グウェン・メイフィールド |
|||
| |
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|} |
|} |
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{| class="wikitable" |
|||
== 受賞歴 == |
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|+ テレビ番組 |
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{| class="wikitable" style="font-size: 85%" |
|||
|- style="background:#b0c4de; text-align:center;" |
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! 賞 !! 年 !! 部門 !! 作品名 !! 結果 |
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|- |
|- |
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! 年 |
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| rowspan="3" | [[アカデミー賞]] |
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! 邦題<br />原題 |
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| [[第13回アカデミー賞|1940年]] |
|||
! 役名 |
|||
| rowspan="3" | [[アカデミー主演女優賞|主演女優賞]] |
|||
! 備考 |
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| 『[[レベッカ (映画)|レベッカ]]』 |
|||
|- |
|||
| {{Nom}} |
|||
| 1953年-1954年 |
|||
| 『スター誕生』<br />''[[:en:Four Star Playhouse|Four Star Playhouse]]'' |
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| トルーディ |
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| エピソード:"{{lang|en|Trudy}}"<br>エピソード:"{{lang|en|The Girl on the Park Bench}}" |
|||
|- |
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| 1956年 |
|||
| ''[[:en:Ford Theatre#Television|The Ford Television Theatre]]'' |
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| ジュリー |
|||
| エピソード:"{{lang|en|Your Other Love}}" |
|||
|- |
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| 1956年 |
|||
| ''[[:en:The 20th Century Fox Hour|The 20th Century Fox Hour]]'' |
|||
| リン・アボット |
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| エピソード:"{{lang|en|Stranger In the Night}}" |
|||
|- |
|||
| 1956年-1957年 |
|||
| ''[[:en:The Joseph Cotten Show|The Joseph Cotten Show]]'' |
|||
| エイドリアン |
|||
| エピソード:"{{lang|en|Fatal Charm}}"<br>エピソード:"{{lang|en|The De Santre Story}}" |
|||
|- |
|||
| 1956年-1960年 |
|||
| ''[[:en:General Electric Theater|General Electric Theater]]'' |
|||
| リンダ・ステイシー<br>ジュディス<br>ローレル・チャップマン<br>メラニー・ランドン<br>アイリーン・フォレッリ伯爵夫人 |
|||
| エピソード"{{lang|en|A Possibility of Oil}}"<br>エピソード:"{{lang|en|The Story of Judith}}"<br>エピソード:"{{lang|en|At Miss Minner's}}"<br>エピソード:"{{lang|en|The Victorian Chaise Lounge}}"<br>エピソード:"{{lang|en|In Summer Promise}}" |
|||
|- |
|||
| 1959年 |
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| ''[[:en:Westinghouse Desilu Playhouse|Westinghouse Desilu Playhouse]]'' |
|||
| マーガレット・ルイス |
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| エピソード:"{{lang|en|Perilous}}" |
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|- |
|||
| 1960年 |
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| ''[[:en:Startime (TV series)|Startime]]'' |
|||
| ジュリー・フォーブス |
|||
| エピソード: "{{lang|en|Closed Set}}" |
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|- |
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| 1960年 |
|||
| ''[[:en:Alcoa Presents: One Step Beyond|Alcoa Presents: One Step Beyond]]'' |
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| エレン・グレイソン |
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| エピソード:"{{lang|en|The Visitor}}" |
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|- |
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| 1961年 |
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| ''{{lang|en|The Light That Failed}}'' |
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| 司会 |
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| テレビ映画 |
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|- |
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| 1961年 |
|||
| 『[[チェックメイト (アメリカ合衆国のテレビドラマ)|チェックメイト]]』<br />''[[:en:Checkmate (TV series)|Checkmate]]'' |
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| カレン・ローソン |
|||
| エピソード:"{{lang|en|Voyage Into Fear}}" |
|||
|- |
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| 1962年 |
|||
| ''[[:en:The Dick Powell Show|The Dick Powell Show]]'' |
|||
| ヴァレリー・ボーメル |
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| エピソード:"{{lang|en|The Clocks}}" |
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|- |
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| 1963年 |
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| ''[[:en:Wagon Train|Wagon Train]]'' |
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| ナオミ・ケイラー |
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| エピソード:"{{lang|en|The Naomi Kaylor Story}}" |
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|- |
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| 1963年 |
|||
| 『[[ヒッチコック劇場]]』<br />''[[:en:Alfred Hitchcock Presents|The Alfred Hitchcock Hour]]'' |
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| アリス・ペンバートン |
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| エピソード:"{{lang|en|The Paragon}}" |
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|- |
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| 1965年 |
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| ''[[:en:The Bing Crosby Show|The Bing Crosby Show]]'' |
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| テイラー夫人 |
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| エピソード:"{{lang|en|Operation Man Save}}" |
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|- |
|- |
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| 1975年 |
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| [[第14回アカデミー賞|1941年]] |
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| ''[[:en:Cannon (TV series)|Cannon]]'' |
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| テルマ・ケイン |
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| エピソード:"{{lang|en|The Star}}" |
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|- |
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| 1978年 |
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| ''[[:en:The Users (TV movie)|The Users]]'' |
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| グレース・セント・ジョージ |
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| |
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|- |
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| 1980年 |
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| ''[[:en:Ryan's Hope|Ryan's Hope]]'' |
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| ページ・ウィリアムス |
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| 5 エピソード<br>[[デイタイム・エミー賞]] ノミネート |
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|- |
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| 1981年 |
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| ''[[:en:The Love Boat|The Love Boat]]'' |
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| ジェニファー・ラングレー |
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| エピソード:"{{lang|en|Chef's Special/Beginning Anew/Kleinschmidt}}" |
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|- |
|||
| 1983年 |
|||
| ''[[:en:Bare Essence|Bare Essence]]'' |
|||
| ローラ |
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| エピソード:"{{lang|en|Hour Four}}"<br>エピソード:"{{lang|en|Hour Five}}" |
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|- |
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| 1986年 |
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| ''Crossings'' |
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| アレクサンドラ・マーカム |
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|- |
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| 1986年 |
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| ''[[:en:Hotel (TV series)|Hotel]]'' |
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| ルース・イーストン |
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| エピソード:"{{lang|en|Harassed}}" |
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|- |
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| 1986年 |
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| ''[[:en:Dark Mansions|Dark Mansions]]'' |
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| マーガレット・ソレイク |
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| テレビ映画 |
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|- |
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| 1994年 |
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| 『ウェンセスラスはよい王様』<br />''[[:en:Good King Wenceslas|Good King Wenceslas]]'' |
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| ルドミラ女王 |
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| テレビ映画 |
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|- |
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|} |
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== ブロードウェイ舞台作品 == |
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{| class="wikitable" |
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|- |
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! 上演年 |
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! 演目 |
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! 役名 |
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|- |
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| 1953年9月30日 – 1955年6月18日 |
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| 『お茶と同情』<br />''[[:en:Tea and Sympathy (play)|Tea and Sympathy]]'' |
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| ローラ・レイノルズ |
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|- |
|||
| 1968年12月26日 – 1970年11月7日 |
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| ''[[:en:Forty Carats|Forty Carats]]'' |
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| アン・スタンレイ |
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|- |
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|} |
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== 受賞歴 == |
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{|class="wikitable sortable" |
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! 年 |
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! 賞 |
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! 部門 |
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! 作品名 |
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! 結果 |
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| 1940年 |
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| [[アカデミー賞]] |
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| [[アカデミー主演女優賞|主演女優賞]] |
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| 『[[レベッカ (1940年の映画)|レベッカ]]』 |
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| {{nom}} |
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|- |
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| 1941年 |
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| アカデミー賞 |
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| 主演女優賞 |
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| 『[[断崖 (映画)|断崖]]』 |
| 『[[断崖 (映画)|断崖]]』 |
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| {{won}} |
| {{won}} |
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|- |
|- |
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| 1941年 |
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| [[第16回アカデミー賞|1943年]] |
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| [[ニューヨーク映画批評家協会賞]] |
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| 『[[永遠の処女]]』 |
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| 主演女優賞 |
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| 『断崖』 |
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| {{won}} |
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|- |
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| 1943年 |
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| アカデミー賞 |
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| 主演女優賞 |
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| 『永遠の処女』 |
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| {{nom}} |
| {{nom}} |
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|- |
|- |
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| 1947年 |
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| [[ニューヨーク映画批評家協会賞]] |
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| ゴールデンアップル賞 ([[:en:Golden Apple Award]]) |
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| [[第7回ニューヨーク映画批評家協会賞|1941年]] |
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| 助演女優賞 |
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| [[ニューヨーク映画批評家協会賞 主演女優賞|主演女優賞]] |
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| |
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| 『[[レベッカ (映画)|レベッカ]]』 |
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| {{won}} |
| {{won}} |
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| 1980年 |
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| [[エミー賞]] |
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| [[デイタイム・エミー賞]] |
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| ''[[:en:Ryan's Hope|Ryan's Hope]]'' |
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| {{nom}} |
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|} |
|} |
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== |
== 出典 == |
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* 外国映画俳優全集・女優編 [[キネマ旬報]]社 1987年 |
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=== 脚注 === |
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{{Reflist}} |
{{Reflist|colwidth=30em}} |
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=== 参考文献 === |
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{{Refbegin}} |
|||
* Beeman, Marsha Lynn. ''Joan Fontaine: A Bio-Bibliography.'' Westport, Connecticut: Greenwood, 1994. ISBN 978-0-31328-409-0. |
|||
* Booker, M. Keith. ''Historical Dictionary of American Cinema.'' Lanham, Maryland: Scarecrow Press, 2011. ISBN 0-8108-7192-0. |
|||
* ''Current Biography 1944''. New York: H.W. Wilson Company, 1945. |
|||
* Fontaine, Joan. ''No Bed of Roses: An Autobiography.'' New York: William Morrow and Company, 1978. ISBN 978-0-68803-344-6. |
|||
* Higham, Charles. ''Sisters: The Story of Olivia De Havilland and Joan Fontaine''. New York: Coward McCann, 1984. ISBN 978-0-69811-268-1. |
|||
* Laufenberg, Norbert B. ''Entertainment Celebrities.'' London: Trafford Publishing, 2005. ISBN 1-4120-5335-8. |
|||
* Quinlan, David. ''Quinlan's Film Stars.'' London: B.T. Batsford Ltd, 1996. ISBN 0-7134-7751-2. |
|||
* Weatherford, Doris. ''American Women During World War II: An Encyclopedia.'' London: Taylor & Francis, 2010. ISBN 978-0-41599-475-0. |
|||
{{Refend}} |
|||
== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
||
*{{IMDb name|0000021}} |
|||
* {{tcmdb name |63647}} |
|||
* {{IBDB name|80331}} |
|||
* [http://www.tvguide.com/celebrities/joan-fontaine/157303 Joan Fontaine] at TVGuide.com |
|||
* [http://film.virtual-history.com/person.php?personid=1614 Photographs of Joan Fontaine] |
|||
* [http://www.cineartistes.com/fiche-Joan+Fontaine.html Joan Fontaine at the CinéArtistes] {{fr icon}} |
|||
* [http://www.bu.edu/phpbin/archives-cc/app/details.php?id=7763&return=http%3A%2F%2Fwww.bu.edu%2Fphpbin%2Farchives-cc%2Fapp%2Fsearch.php%3Fkeywords%3DFontaine%26do_search%3DSearch Joan Fontaine (archival records)] |
|||
{{Commons|Joan Fontaine}} |
{{Commons|Joan Fontaine}} |
||
* {{allcinema name|38480|ジョーン・フォンテイン}} |
|||
* {{IMDb name|21|Joan Fontaine}} |
|||
* {{IBDB name|80331|Joan Fontaine}} |
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{{アカデミー賞主演女優賞 1941-1960}} |
{{アカデミー賞主演女優賞 1941-1960}} |
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[[ |
[[Category:アメリカ合衆国の女優]] |
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[[category:アカデミー賞受賞者]] |
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[[category:アメリカ合衆国帰化市民]] |
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[[Category:東京都出身の人物]] |
[[Category:東京都区部出身の人物]] |
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[[Category:帰国子女]] |
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[[Category:1917年生]] |
[[Category:1917年生]] |
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[[Category:2013年没]] |
[[Category:2013年没]] |
2024年12月14日 (土) 23:51時点における最新版
Joan Fontaine ジョーン・フォンテイン | |||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1943年撮影の写真 | |||||||||
本名 | Joan de Beauvoir de Havilland | ||||||||
生年月日 | 1917年10月22日 | ||||||||
没年月日 | 2013年12月15日(96歳没) | ||||||||
出生地 | 日本、東京府 | ||||||||
死没地 | アメリカ合衆国、カリフォルニア州、カーメル・バイ・ザ・シーの5.6km南にあるカーメル・ハイランズ (en) | ||||||||
国籍 |
イギリス アメリカ合衆国[1] | ||||||||
活動期間 | 1935年 - 1994年 | ||||||||
配偶者 |
ブライアン・エイハーン(1939年-1945年) ウィリアム・ドジャー(1946年-1951年) コリアー・ヤング(1952年-1961年) アルフレッド・ライト Jr.(1964年-1969年) | ||||||||
著名な家族 |
ウォルター・オーガスタス・デ・ハヴィランド(父) リリアン・フォンテイン(母) オリヴィア・デ・ハヴィランド(姉) | ||||||||
主な作品 | |||||||||
『レベッカ』(1940年) 『断崖』(1941年) 『忘れじの面影』(1948年) | |||||||||
| |||||||||
備考 | |||||||||
第32回ベルリン国際映画祭 審査員長(1982年) |
ジョーン・フォンテイン(Joan Fontaine, 1917年10月22日 - 2013年12月15日)は、アメリカの女優。本名ジョーン・デ・ボーヴォア・デ・ハヴィランド(Joan de Beauvoir de Havilland)。イギリス人の両親の間に日本で生まれ、1919年に姉であるオリヴィア・デ・ハヴィランドとともに、アメリカのカリフォルニア州に移住した。フォンテインは1935年に舞台で女優としてのキャリアを始め、同年にアメリカの映画会社RKOと契約を結んだ。
フォンテインは1940年に、アルフレッド・ヒッチコック監督作品『レベッカ』でアカデミー主演女優賞にノミネートされ、翌1941年に同じくヒッチコック監督作品の『断崖』でアカデミー主演女優賞を受賞した。フォンテインはヒッチコックの監督作品でアカデミー賞を獲得した、ただ一人の俳優となっている[2]。また、姉のデ・ハヴィランドも『遥かなる我が子』(1946年)と『女相続人』(1949年)でアカデミー主演女優賞を受賞しており、フォンテインとデ・ハヴィランドは2013年現在で唯一の主演賞を獲得した兄弟姉妹である。フォンテインは1940年代から1990年代にかけて、舞台、ラジオ、テレビ、そして映画で女優活動を続け、1978年には自伝『No Bed of Roses』を出版した。50年以上にわたって女優活動を続けていたフォンテインが最後に映像作品に出演したのは1994年のことだった。
フォンテインはカリフォルニア州カーメル・バイ・ザ・シーの邸宅ヴィッラ・フォンタナで暮らし、2013年12月15日にこの邸宅で96年の生涯を閉じた。
デ・ハヴィランド・エアクラフト社を創設した、ジェフリー・デ・ハヴィランド(父)はいとこである。
幼少期
[編集]ジョーン・デ・ハヴィランドはイギリス人の両親の間に、1917年に東京(現在の東京都港区)で生まれた。
父親のウォルター・オーガスタス・デ・ハヴィランド(1872年8月31日 - 1968年5月23日)は、ケンブリッジ大学を卒業後の1893年に兄を頼って来日。函館や神戸の日本聖公会の教会で英語・サッカー・クリケットを日本人の少年たちに教えた後に、1898年から数年間は金沢の旧制四高で教えた。1904年から1906年の間、東京高師(現在の筑波大)で英語教師の傍らサッカーの指導者として東京高師蹴球部(現在の筑波大蹴球部)を指導した。彼はスポーツマンでサッカーが得意であったため、日本サッカーを広めた功績もあり、函館や金沢では日本サッカーの父と呼ばれ評価されている。その後は早稲田大法科教授に転身し、当時の同僚だった人物の妹リリアンを紹介されて結婚した。
そしてフォンテインが生まれたときには特許専門の弁理士事務所を開業していた。なお、昔からアメリカや日本の映画雑誌では一貫して、ジョーンの父は東京大学の教授に招聘されて来日と書かれているが、ケンブリッジ大学を卒業してすぐに来日しているので、それは事実ではない。
母親のリリアン・オーガスタ(1886年6月11日 - 1975年2月20日)は、夫ウォルターと来日する前にはイギリスの舞台女優だった。リリアンは、娘たちが1940年代に女優として大成功を収めた後に「リリアン・フォンテイン」という芸名で、再び舞台女優に復帰してジョーンの主演映画『Ivy』(1947年)『二重結婚者』(1953年)にも出演した。
ジョーンの両親は1914年に結婚したが、ウォルターが日本では芸者遊びにうつつを抜かす浮気がちな男性だったために、2人の結婚生活は必ずしも幸福とはいえなかった[3]。1919年2月に、母リリアンは病弱だった娘たちには東京の気候があっていないのではないかと考え、ウォルターを説得して一家はイギリスへと戻ることを決めた[3]。
イギリスへ戻る途中にオリヴィアが気管支炎となり、高熱で倒れたために一家はカリフォルニアにしばらく滞在している。その後フォンテインも肺炎に罹患したために、リリアンは2人の娘とカリフォルニアに残る決断をし、サンフランシスコから50マイルほど離れたサラトガに移り住んだ。しかしながら父ウォルターは家族を見捨てて、のちに再婚することとなる日本人家政婦マツクラ・ユキと共に日本へ戻っていった[3]。
フォンテインの両親はその後別居生活となったが、2人が正式に離婚したのは1925年2月になってからだった[4]。同年に母のリリアンはジョージ・ミラン・フォンテインと再婚し、彼が死去するまで添い遂げた。一方、父のウォルターはマツクラ・ユキとは1927年に再婚したが1958年に死別し、別の女性と2年後に再婚した。
フォンテインはロス・ガトス高校 (en:Los Gatos High School) に通いだし、まもなく姉のオリヴィアとともに発声法のレッスンを受けるようになった。フォンテインは16歳のときに、父ウォルターと暮らすために日本へと戻り、東京の聖心インターナショナルスクールに入学し、1935年に卒業した[5]。東京生まれで、一時期東京で育ったことから、戦後の日本の映画雑誌では"江戸っ子女優"と紹介されることもあった。
女優としてのキャリア
[編集]フォンテインが女優としてデビューしたのはドディー・スミスが書いた戯曲で、1935年に上演された『Call It a Day』である。フォンテインはこの作品に出演後すぐに映画製作会社のRKOと出演契約を交わしている。映画での初出演となったのは1935年の『男子牽制』の端役で、このときのフォンテインはジョーン・バーフィールドという名前でクレジットされていた[6]。
当時フォンテインが契約していたRKOはキャサリン・ヘプバーンに力を入れており、フォンテインには『A Million to One』(1937年)や『偽装の女』(1937年)といった作品の端役しか回ってこなかった。それでもRKOはフォンテインを将来見込みのある女優だと考え、『The Man Who Found Himself』のヒロインに抜擢し、「RKOの新たな女優」であるとエンドクレジットで紹介している[7]。フォンテインが次に主役級を演じたのは、それまでジンジャー・ロジャースとの共演で成功を収めていたフレッド・アステアが、ロジャースと離れてRKOの作品に最初に出演した『踊る騎士 (A Damsel in Distress)』(1937年)だった。しかしながらこの作品は観客からは不評で、興行的にも失敗作となってしまった。その後のフォンテインは『ザ・ウィメン』など12本の作品で端役を演じ続けたが、大きな注目を集めることもなく、RKOとの契約は更新されることなく1939年に終了した。
不遇をかこっていたフォンテインの運命は、とある晩餐会でハリウッドの大物プロデューサーであるデヴィッド・O・セルズニックと隣席になったことで一変することとなる。フォンテインとセルズニックはこのとき、イギリスの小説家ダフネ・デュ・モーリアの作品『レベッカ』について語り合った。そしてセルズニックは、フォンテインにこの作品の映画版のヒロイン「わたし」役のオーディションを受けてみないかと薦めている。6カ月間にわたって数百人の女優が受けた過酷なオーディションに勝ち残り、『レベッカ』のヒロイン役に決まったのは、フォンテインが22歳の誕生日を迎える直前のことだった。
フォンテインとイギリス人俳優ローレンス・オリヴィエとの共演となった『レベッカ』は、イギリス人監督アルフレッド・ヒッチコックが初めて手がけたハリウッド映画でもあった。1940年に公開された『レベッカ』は大評判となり、フォンテインもアカデミー主演女優賞にノミネートされている[6]。このときのアカデミー賞で主演女優賞を獲得したのは、『恋愛手帖』に出演したジンジャー・ロジャースだったが、翌1941年にケーリー・グラントと共演したヒッチコック監督作品『断崖』で、フォンテインはアカデミー主演女優賞を受賞した[6]。ヒッチコックの監督作品が受賞したアカデミー賞の中で、このフォンテインの主演女優賞が唯一俳優に贈られたアカデミー賞となっている[2]。
1940年代のフォンテインは恋愛メロドラマ作品に多く出演した。この時期の評価が高い作品として、3回目のアカデミー主演女優賞にノミネートされた『永遠の処女 (The Constant Nymph)』(1943年)をはじめ[6]、『ジェーン・エア』(1944年)、『Ivy』(1947年)、『忘れじの面影』(1948年)などがある。1950年代になるとフォンテインの映画での人気は徐々に衰えを見せ始め、女優としての活動の場をテレビや舞台へと移すようになっていった。1954年に上演された舞台作品『お茶と同情 (Tea and Sympathy)』で、アンソニー・パーキンスの相手役ローラを演じて高く評価された。また1940年代には、ラジオの長寿番組『en:Lux Radio Theatre』に何度も出演している。
キャリア後期
[編集]フォンテインは1960年代も舞台作品を中心に活動した。『Private Lives』、『Cactus Flower』、そして『冬のライオン』などである。フォンテインが最後に出演した劇場映画作品は『影なき裁き (The Witches)』(1966年)で、この作品でフォンテインは副製作も担当している。1970年代、1980年代でもフォンテインは映像作品やテレビドラマに出演を続け、1980年にはソープオペラの『Ryan's Hope』でエミー賞にノミネートされた。
1978年にフォンテインの自伝『No Bed of Roses』が出版された。1982年には第32回ベルリン国際映画祭の審査委員長を務めている[8]。
フォンテインが出演した最後のテレビ番組は、1994年の『Good King Wenceslas』である。これはフォンテインが芸能界から半ば引退し、カリフォルニア州カーメル・バイ・ザ・シーにあった隠棲先の邸宅でのガーデニングやペットの犬との生活に入ってから久々の作品だった[9]。
フォンテインの映画界への貢献を賞して、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームのヴァイン通り1645には、フォンテインのスター・プレートが設置されている。
私生活
[編集]フォンテインは両親の出身国であるイギリス国籍と、1943年4月に取得したアメリカ国籍を持つ二重国籍者だった[10][11]。
日本滞在時代
[編集]聖心インターナショナルスクール時代には、横浜に住む同級生エレノア・チャイルド(Eleanor Child)と親友になった[12]。週末にはエレノアの親が所有する葉山のビーチハウスに度々招待されて滞在した[12]。なおエレノアはのちにフランス人の美術商と結婚し、娘のジジ・ペロー(Gigi Perreau)は女優になった[12]。また、ジョーンは在学時代、横浜に住むアル・ニプコウ(Al Nipkow)という同級生のボーイフレンドができた。彼とは日本を離れるときに交際が終了したが、終生の友人となった[12]。そのほかジョセフ・グルー米国大使やアルベール・ド・バッソンピエールベルギー大使らとも交流し、華やかな生活を送った[12]。1962年の再来日時には、ASIJが全面的にバックアップし、かつての同級生たちと歓談したり、同校卒業生のエドウィン・O・ライシャワー米国大使とダンスするなどして帰郷を楽しんだ[12]。
芥川比呂志によれば、大学がある日吉へ東急東横線で中村真一郎や加藤道夫と通学していた時代、オリヴィア、ジョーン姉妹とよく乗り合わせていた[13]。
羽仁五郎によれば、軽井沢の教会で開かれた別荘住民による音楽会でオリヴィア、ジョーン姉妹が歌を披露したことがある[14]。なお軽井沢についてはオリヴィアがのちのインタビューでも言及しており、軽井沢にはデ・ハヴィランド家の別荘があって夏に滞在していた[15]。
結婚と子供たち
[編集]フォンテインは4回にわたって結婚と離婚を繰り返した。最初の結婚は1939年で、イギリス人俳優のブライアン・エイハーン (en:Brian Aherne) とだったが、1945年4月に離婚している[16]。1946年5月に俳優、プロデューサーのウィリアム・ドジャー (en:William Dozier) とメキシコ・シティで再婚した。二人の間には1948年に娘デボラ・レズリーが生まれたが、1949年には別居生活を送るようになった[17]。翌年フォンテインはドジャーが育児放棄をしたとして離婚調停を申し立てている。そして二人が正式に離婚したのは1951年1月のことだった[18][19]。
フォンテインは1952年11月12日に、プロデューサー、脚本家のコリアー・ヤングと3度目の結婚をした。しかしながら1960年5月から二人は別居生活を始め、1960年11月にフォンテインが離婚調停を申し入れた[20]。最終的に二人の離婚が成立したのは1961年1月だった[21]。フォンテインの4度目にして最後の結婚相手となったのはアルフレッド・ライトだった。ライトは『スポーツ・イラストレイテッド誌』のゴルフ記事担当編集者で、2人は1964年1月23日に結婚したが、1969年に離婚している[22]。
1951年に開催された映画祭で南米に滞在していたフォンテインは、当時4歳のペルー人少女マルティタと知り合い、養女にならないかと申し入れた[23]。フォンテインとマルティタが出会ったのはインカ帝国の遺構で、マルティタの父親が介護人として働いていた場所だった。マルティタの両親は娘がよりよい生活を送れるようにと、フォンテインがマルティタの法的な後見人になることを承諾した[23]。このときフォンテインはマルティタの両親に、マルティタが16歳になったらペルーへ帰郷させることを約束している。そして、フォンテインのもとに引き取られたマルティタが16歳になったときに、フォンテインはマルティタにペルー行きの往復チケットを買い与えたが、マルティタはペルーに戻ることを拒んで家を飛び出した。この出来事以来、フォンテインとマルティタの間はギクシャクして疎遠になってしまった。フォンテインは1978年に自叙伝を出版して、その宣伝活動中に「私は義理の娘を両親のもとに戻そうとしましたが、彼女はそれを喜びませんでした。私が彼女の両親に約束していたのにも関わらず。私に約束を破らせることになった誰かさんを私は決して許すことはないでしょう」と公言している[24]。
姉との確執
[編集]フォンテインと姉オリヴィア・デ・ハヴィランドは、2013年現在で主演賞を受賞した唯一の兄弟姉妹となっている。女優の道に進んだのは姉のデ・ハヴィランドのほうが早かった。フォンテインが姉に続いて女優になろうとしたときに、姉のデ・ハヴィランドをより可愛がっていた母親のリリアンはフォンテインにファミリーネームの「デ・ハヴィランド」を芸名に使用することを許さなかった。このためフォンテインは新たな芸名をつけざるを得ず、女優の活動当初にはジョーン・バーフィールドという芸名を名乗り、後に母親の再婚相手で養父の名字であるフォンテインに改名しジョーン・フォンテインという芸名を名乗るようになった。伝記作家のチャールズ・ハイアム (en:Charles Higham) は、この姉妹が幼いころからいつも喧嘩をしていたと指摘し、フォンテインはデ・ハヴィランドのお下がりの服を与えられていたが、デ・ハヴィランドがフォンテインに渡す服をわざと破ったために、フォンテインはその服を縫い直して着なければならなかったというエピソードを紹介した。そしてフォンテインがデ・ハヴィランドを嫌うようになったのは、母親がデ・ハヴィランドばかりを可愛がっていたことが原因だとしている[25]。
1942年にデ・ハヴィランドとフォンテインは、同時にアカデミー主演女優賞にノミネートされた。対象となったのは、デ・ハヴィランドが『Hold Back the Dawn』のエイミー・ブラウン役、フォンテインがアルフレッド・ヒッチコック監督作品『断崖』のリナ・マクレイドロウ役で、主演女優賞を獲得したのは妹のフォンテインだった。チャールズ・ハイアムはこのときのフォンテインが「女優という仕事に心身を捧げていない自分が賞を獲得したことに対して後ろめたく感じていた」としている。また、ハイアムはこのときのアカデミー授賞式で、主演女優賞を受け取るために歩き出したフォンテインがデ・ハヴィランドからの祝福をあからさまに拒絶したために、デ・ハヴィランドは気分を害して当惑して見えたと記述している。
ハイアムはフォンテインが実娘とも疎遠になったとしており、おそらく娘が伯母であるデ・ハヴィランドと隠れて連絡を取り合っていたためではないかと指摘している[25]。デ・ハヴィランドもフォンテインも自分たちの関係を公言したことはほとんどない。ただしフォンテインは1979年のインタビューで、自分たち姉妹が口をきかなくなったのは、癌に苦しんでいた母親に外科手術を受けさせようとしたデ・ハヴィランドと、当時88歳の母親には手術は無理だと考えていた自分との間で意見が対立したことが原因だと語ったことがある。そしてフォンテインは、母リリアンが死去したときにデ・ハヴィランドが、当時舞台巡業公演で各地を回っていた自分を探そうとしなかったと主張している。デ・ハヴィランドは母の死を知らせる電報をフォンテインに送ったが、この電報をフォンテインが目にしたのは二週間後で、フォンテインが母の死を知ったのは次の公演地に移動してからのことだった[26]。
1978年に受けたインタビューでフォンテインは「私のほうがオリヴィアよりも先に結婚し、先にアカデミー賞を受賞しました。もし私のほうが先に死去することがあれば、すべてにおいて私の後塵を拝したと知って彼女は激怒することは間違いないでしょう」と語っている[27]。
死去
[編集]フォンテインは2013年12月15日に、カリフォルニア州カーメルの自宅で老衰のために96歳で死去した[28][29]。
出演作
[編集]公開年 | 邦題 原題 |
役名 | 備考 |
---|---|---|---|
1935年 | 『男子牽制』 No More Ladies |
キャロライン・"キャリー"・ラムゼイ | ジョーン・バーフィールドとしてクレジット |
1937年 | A Million to One | ジョーン・スティーヴンス | |
『偽装の女』 Quality Street |
シャーロット・パラット | クレジットなし | |
The Man Who Found Himself | ドリス・キング | ||
You Can't Beat Love | トルーディ・オルソン | ||
Music for Madame | ジーン・クレメンス | ||
『踊る騎士』 A Damsel in Distress |
レディ アリス・マーシュモートン | ||
1938年 | Maid's Night Out | シーラ・ハリソン | |
Blond Cheat | ジュリエット・"ジュリー"・エヴァンズ | ||
『大空に賭ける』 Sky Giant |
メグ・ローレンス | ||
The Duke of West Point | アン・ポーター | ||
1939年 | 『ガンガ・ディン』 Gunga Din |
エミー | |
Man of Conquest | エリザ・アレン | ||
『ザ・ウィメン』 The Women |
ジョン・デイ夫人(ペギー) | ||
1940年 | 『レベッカ』 Rebecca |
デ・ウィンター夫人 | ニューヨーク映画批評家協会賞 主演女優賞 第3位 アカデミー主演女優賞 ノミネート 原作:ダフニ・デュ・モーリエ |
1941年 | 『断崖』 Suspicion |
リナ | アカデミー主演女優賞 受賞 ニューヨーク映画批評家協会賞 主演女優賞 |
1942年 | 『純愛の誓い』 This Above All |
プルーデンス・キャサウェイ | |
1943年 | 『永遠の処女』 The Constant Nymph |
テッサ・サンガー | アカデミー主演女優賞 ノミネート |
『ジェーン・エア』 Jane Eyre |
ジェーン・エア | ||
1944年 | 『情炎の海/若き人妻の恋』 Frenchman's Creek |
ドナ・コルム | 原作:ダフニ・デュ・モーリエ
『若き人妻の恋』は原作翻訳の題名 |
1945年 | 『失恋四人男』 The Affairs of Susan |
スーザン・ダレル | |
1946年 | 『小さな愛の日』 From This Day Forward |
スーザン・カミングス | |
1947年 | 『アイヴィー、三股浮気女の殺人計画』 | アイヴィ | |
1948年 | 『忘れじの面影』 Letter from an Unknown Woman |
リーザ・バーンドル | |
『皇帝円舞曲』 The Emperor Waltz |
ヨハンナ・アウガスタ・フランチスカ伯爵夫人 | ||
『不時着結婚』 You Gotta Stay Happy |
ディー・ディー・ディルウッド | ||
『暴れ者』 Kiss the Blood Off My Hands |
ジェーン・ワートン | ||
1950年 | 『旅愁』 September Affair |
マリマンヌ・"マニー"・スチュアート | |
『生まれながらの悪女』 Born to Be Bad |
クリスタベル・ケイン・ケリー | 参考:ロレッタ・ヤング主演で同名の「(1934)濁流/Born to be Bad」という映画がある。ストーリーはまったく別。 | |
1951年 | Darling, How Could You! | アリス・グレイ | |
1952年 | 『生きるためのもの』 Something to Live For |
ジェニー・ケリーJenny Carey | |
『オセロー』 Othello |
ペイジ | クレジットなし | |
『黒騎士』 Ivanhoe |
ロウィーナ | ||
1953年 | 『デカメロン夜話(海賊パガニノ、道徳の賭け、医師の娘)』 Decameron Nights |
フィアメッタ/バルトロメア/ジネヴラ/イザベッラ | ボッカチオ原作のアンソロジー |
『熱砂の大脱走』 Flight to Tangier |
スーザン・レイン | ||
『二重結婚者』 The Bigamist |
エヴァ・グラハム | ||
1954年 | 『豪傑カサノヴァ』 Casanova's Big Night |
フランチェスカ・ブルーニ | |
1956年 | 『愛のセレナーデ』 Serenade |
ケンダル・ハル | |
『条理ある疑いの彼方に』 Beyond a Reasonable Doubt |
スーザン・スペンサー | ||
1957年 | 『日のあたる島』 Island in the Sun |
マヴィス・ノーマン | |
Until They Sail | アンナリーズ | ||
1958年 | 『ある微笑』 A Certain Smile |
フランソワ・フェラン | |
1961年 | 『地球の危機』 Voyage to the Bottom of the Sea |
スーザン・ヒラー博士 | |
1962年 | 『夜は帰って来ない』 Tender Is the Night |
ベイビー・ウォーレン | |
1966年 | 『影なき裁き』 The Witches |
グウェン・メイフィールド |
年 | 邦題 原題 |
役名 | 備考 |
---|---|---|---|
1953年-1954年 | 『スター誕生』 Four Star Playhouse |
トルーディ | エピソード:"Trudy" エピソード:"The Girl on the Park Bench" |
1956年 | The Ford Television Theatre | ジュリー | エピソード:"Your Other Love" |
1956年 | The 20th Century Fox Hour | リン・アボット | エピソード:"Stranger In the Night" |
1956年-1957年 | The Joseph Cotten Show | エイドリアン | エピソード:"Fatal Charm" エピソード:"The De Santre Story" |
1956年-1960年 | General Electric Theater | リンダ・ステイシー ジュディス ローレル・チャップマン メラニー・ランドン アイリーン・フォレッリ伯爵夫人 |
エピソード"A Possibility of Oil" エピソード:"The Story of Judith" エピソード:"At Miss Minner's" エピソード:"The Victorian Chaise Lounge" エピソード:"In Summer Promise" |
1959年 | Westinghouse Desilu Playhouse | マーガレット・ルイス | エピソード:"Perilous" |
1960年 | Startime | ジュリー・フォーブス | エピソード: "Closed Set" |
1960年 | Alcoa Presents: One Step Beyond | エレン・グレイソン | エピソード:"The Visitor" |
1961年 | The Light That Failed | 司会 | テレビ映画 |
1961年 | 『チェックメイト』 Checkmate |
カレン・ローソン | エピソード:"Voyage Into Fear" |
1962年 | The Dick Powell Show | ヴァレリー・ボーメル | エピソード:"The Clocks" |
1963年 | Wagon Train | ナオミ・ケイラー | エピソード:"The Naomi Kaylor Story" |
1963年 | 『ヒッチコック劇場』 The Alfred Hitchcock Hour |
アリス・ペンバートン | エピソード:"The Paragon" |
1965年 | The Bing Crosby Show | テイラー夫人 | エピソード:"Operation Man Save" |
1975年 | Cannon | テルマ・ケイン | エピソード:"The Star" |
1978年 | The Users | グレース・セント・ジョージ | |
1980年 | Ryan's Hope | ページ・ウィリアムス | 5 エピソード デイタイム・エミー賞 ノミネート |
1981年 | The Love Boat | ジェニファー・ラングレー | エピソード:"Chef's Special/Beginning Anew/Kleinschmidt" |
1983年 | Bare Essence | ローラ | エピソード:"Hour Four" エピソード:"Hour Five" |
1986年 | Crossings | アレクサンドラ・マーカム | |
1986年 | Hotel | ルース・イーストン | エピソード:"Harassed" |
1986年 | Dark Mansions | マーガレット・ソレイク | テレビ映画 |
1994年 | 『ウェンセスラスはよい王様』 Good King Wenceslas |
ルドミラ女王 | テレビ映画 |
ブロードウェイ舞台作品
[編集]上演年 | 演目 | 役名 |
---|---|---|
1953年9月30日 – 1955年6月18日 | 『お茶と同情』 Tea and Sympathy |
ローラ・レイノルズ |
1968年12月26日 – 1970年11月7日 | Forty Carats | アン・スタンレイ |
受賞歴
[編集]年 | 賞 | 部門 | 作品名 | 結果 |
---|---|---|---|---|
1940年 | アカデミー賞 | 主演女優賞 | 『レベッカ』 | ノミネート |
1941年 | アカデミー賞 | 主演女優賞 | 『断崖』 | 受賞 |
1941年 | ニューヨーク映画批評家協会賞 | 主演女優賞 | 『断崖』 | 受賞 |
1943年 | アカデミー賞 | 主演女優賞 | 『永遠の処女』 | ノミネート |
1947年 | ゴールデンアップル賞 (en:Golden Apple Award) | 助演女優賞 | 受賞 | |
1980年 | エミー賞 | デイタイム・エミー賞 | Ryan's Hope | ノミネート |
出典
[編集]脚注
[編集]- ^ Weatherford 2010, p. 302.
- ^ a b Booker 2011, p. 134.
- ^ a b c Thomas 1983, p. 22.
- ^ Thomas 1983, p. 23.
- ^ "Prominent Alumni." asij.ac.jp. Retrieved: 6 October 2011.(2010年12月30日時点のアーカイブ)
- ^ a b c d Quinlan 1996, pp. 172–173.
- ^ Fristoe, Roger. "Articles: The Man Who Found Himself." Turner Classic Movies. Retrieved: 11 October 2012.
- ^ "Berlinale 1982: Juries." berlinale.de, 2 September 2010.
- ^ Rush, George, Joanna Molloy and Barid Jones. "A Catalogue Of Complaints For Fontaine." New York Daily News, 23 June 1996. Retrieved: 8 December 2012.[リンク切れ]
- ^ "Joan Fontaine To Seek Divorce." The Evening Independent, 28 March 1944. Retrieved: 8 December 2012.
- ^ "Joan Fontaine Now a Citizen." The Milwaukee Journal, 23 April 1943, p. 1. Retrieved: 8 December 2012.
- ^ a b c d e f Tokyo Teen to Hollywood Legend ASIJ
- ^ 芥川瑠璃子『影燈籠 芥川家の人々』(人文書院, 1991年)95頁
- ^ 羽仁五郎『心痛む思い出 - E.H.ノーマン』。エドガートン・ハーバート・ノーマン『ハーバート・ノーマン全集 第4巻』(岩波書店, 1977年)3頁に所収
- ^ Dame Olivia De Havilland Interview American Academy of Achievement
- ^ "Joan Fontaine, A Guest No More, Wins Freedom." St. Petersburg Times, 3 June 1944, p. 5. Retrieved: 8 December 2012.
- ^ "Joan Fontaine And Husband Separate." Daytona Beach Morning Journal, 4 August 1949, p. 14. Retrieved: 8 December 2012.
- ^ "Joan Fontaine Sues Producer for Divorce." The Los Angeles Times, November 9, 1950, p. 2. Retrieved: December 8, 2012.
- ^ "Husband Just Walked Out, Joan Fontaine Asserts." Pittsburgh Post-Gazette, 26 January 1951, p. 2. Retrieved: 8 December 2012.
- ^ "Joan Fontaine Sues 3rd Mate For Divorce." Ocala Star-Banner, 6 November 1960, p. 3. Retrieved: 8 December 2012.
- ^ "Joan Fontaine Gets Divorce." The New York Times, 4 January 1961. Retrieved: 8 December 2012.
- ^ "Names In The News." Tri City Herald, 24 January 1964, p. 7. Retrieved: 8 December 2012.
- ^ a b Wilson, Earl (July 11, 1954). “Joan Fontaine Describes How She Adopted Inca Girl”. New York Post via Milwaukee Sentinel. p. 9 December 2012閲覧。
- ^ Flander, Judy (September 30, 1978). “Former Movie Queen Joan Fontaine Turns Author At 60”. The Times-Union: p. 7 December 8, 2012閲覧。
- ^ a b Higham 1984, p. 257.
- ^ "RetroBites: Joan Fontaine - Sisters (1979)" on Youtube, 2 December 2010.
- ^ Interview in The Hollywood Reporter (1978), quoted in “Joan Fontaine profile in”. The Washington Post. (16 December 2013) 16 December 2013閲覧。
- ^ Barnes, Mike (December 15, 2013). “Legendary Actress Joan Fontaine Dies at 96”. The Hollywood Reporter. オリジナルの2013年12月17日時点におけるアーカイブ。 2013年12月17日閲覧。
- ^ 『断崖』のオスカー女優J・フォンテインさん死去 96歳 AFPBB News 2013年12月16日
参考文献
[編集]- Beeman, Marsha Lynn. Joan Fontaine: A Bio-Bibliography. Westport, Connecticut: Greenwood, 1994. ISBN 978-0-31328-409-0.
- Booker, M. Keith. Historical Dictionary of American Cinema. Lanham, Maryland: Scarecrow Press, 2011. ISBN 0-8108-7192-0.
- Current Biography 1944. New York: H.W. Wilson Company, 1945.
- Fontaine, Joan. No Bed of Roses: An Autobiography. New York: William Morrow and Company, 1978. ISBN 978-0-68803-344-6.
- Higham, Charles. Sisters: The Story of Olivia De Havilland and Joan Fontaine. New York: Coward McCann, 1984. ISBN 978-0-69811-268-1.
- Laufenberg, Norbert B. Entertainment Celebrities. London: Trafford Publishing, 2005. ISBN 1-4120-5335-8.
- Quinlan, David. Quinlan's Film Stars. London: B.T. Batsford Ltd, 1996. ISBN 0-7134-7751-2.
- Weatherford, Doris. American Women During World War II: An Encyclopedia. London: Taylor & Francis, 2010. ISBN 978-0-41599-475-0.