コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「伊豆の踊子」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Addbot (会話 | 投稿記録)
m ボット: 言語間リンク 4 件をウィキデータ上の d:q3276314 に転記
m 114.183.90.236 (会話) による版を Thg による版へ巻き戻し
タグ: 巻き戻し
 
(80人の利用者による、間の166版が非表示)
1行目: 1行目:
{{Portal|文学}}
{{基礎情報 文学作品
|題名 = 伊豆の踊子
『'''伊豆の踊子'''』(いずのおどりこ)は、[[川端康成]]の[[短編小説]]。[[1926年]]1、2月に「[[文芸時代]]」に発表され、同年[[金星堂]]刊。
|訳題 = The Dancing Girl of Izu
|画像 = Old Amagi Tunnel.jpg
|画像サイズ = 250
|キャプション = [[天城トンネル|旧天城トンネル]]。主人公はこのトンネルの脇にあった[[天城峠]]の[[茶屋]]で、はじめて踊子と会話した。
|作者 = [[川端康成]]
|国 = {{JPN}}
|言語 = [[日本語]]
|ジャンル = [[短編小説]]
|シリーズ =
|発表形態 = 雑誌掲載
|初出 = 「'''伊豆の踊子'''」-『[[文藝時代]]』[[1926年]]1月号(第3巻第1号) <br />「'''続伊豆の踊子'''」-『文藝時代』1926年2月号(第3巻第2号)
|刊行 =
|刊行の出版元 =[[金星堂]]
|刊行の出版年月日 = [[1927年]]3月20日
|装幀 =[[吉田謙吉]]
|収録 =
|受賞 =
|訳者 =
|前作 =
|次作 =
|portal1 = 文学
}}
[[File:Bronze statue of Izu dancer 2003-06-21.jpg|thumb|250px|伊豆の踊子の銅像]]
『'''伊豆の踊子'''』(いずのおどりこ)は、[[川端康成]]の[[短編小説]]。川端の初期の代表作で、[[伊豆半島|伊豆]]を旅した19歳の時の実体験を元にしている<ref name="yugashima">「湯ヶ島での思ひ出」(草稿107枚、1922年夏)。『[[少年 (川端康成)|少年]]』内への引用作品。{{Harvnb|独影自命|1970|pp=134-135,137-138}}に抜粋掲載</ref><ref name="shounen">「少年」([[人間 (雑誌)|人間]] 1948年5月号-1949年3月号)。{{Harvnb|小説10|1980|pp=141-256}}に所収。{{Harvnb|作家の自伝|1994|pp=}}に第5、6、7、9回分掲載</ref><ref name="hayashi4">「『伊豆の踊子』成立考」({{Harvnb|林武|1976|pp=55-96}}</ref><ref name="album">「[[新感覚派]]――『[[文藝時代]]』の出発」({{Harvnb|アルバム川端|1984|pp=18-31}})</ref>。孤独や憂鬱な気分から逃れるため伊豆へ一人旅に出た青年が、[[修善寺温泉|修善寺]]、[[湯ヶ島温泉|湯ヶ島]]、[[天城峠]]を越え[[湯ヶ野温泉|湯ヶ野]]、[[下田市|下田]]に向かう[[旅芸人]]一座と道連れとなり、踊子の少女に淡い恋心を抱く旅情と哀歓の物語。[[孤児]]根性に歪んでいた青年の[[自我]]の悩みや感傷が、素朴で清純[[無垢]]な踊子の心によって解きほぐされていく過程と、彼女との悲しい別れまでが描かれている<ref name="hase3">「三 出世作『伊豆の踊子』の慕情」({{Harvnb|愛と美|1978|pp=39-98}})</ref>。


[[湯ヶ島]]、[[天城峠]]を越えて[[下田]]に向かう旅芸一座と道連れなった孤独悩む青年の淡い恋と旅情を描く。6回映画化されている人気作品で、ヒロインである踊薫は[[田中絹代]]から[[山口百恵]]まで当時のアイドル的な女優が演じている。
日本人に親しまれている名作でもあり今までに6回映画化され、[[ヒロイン]]である踊子薫は[[田中絹代]]から[[吉永小百合]]、[[山口百恵]]まで当時の[[アイドル]]的な女優が演じている<ref name="album"/><ref name="okuno">[[奥野健男]]「解説――鮮やかな感覚表現」({{Harvnb|踊子・集英|1993|pp=254-263}})</ref>


2022年(令和4年)時点で、[[新潮文庫]]版だけでも約338万部を売り上げている<ref>[https://www.at-s.com/news/article/shizuoka/1071860.html 記者コラム「清流」 「誰も知らない」]、[[静岡新聞|あなたの静岡新聞]]、2022年5月27日。</ref>。
==あらすじ==
20歳の「私」は自分の性質が孤児根性で歪んでいると厳しい反省を重ね、その息苦しい憂鬱に堪え切れないで[[伊豆]]の旅に出る。旅芸人の踊子達と[[第一高等学校 (旧制)|一高]]生という素性の違いを気にすることなく生身の人間同士の交流を通して、青年が人の温かさを肌で感じ、作品内にある孤児根性から抜け出せると感じるに至る。


==作品背景==
== 発表経過 ==
[[1926年]](大正15年)、雑誌『[[文藝時代]]』1月号(第3巻第1号・新年特別創作号)に「'''伊豆の踊子'''」、2月号(第3巻第2号)に「'''続伊豆の踊子'''」として分載された<ref name="kaidai2">「解題――伊豆の踊子」({{Harvnb|小説2|1980|pp=591-592}})</ref>。単行本は翌年[[1927年]](昭和2年)3月20日に[[金星堂]]より刊行された<ref name="kaidai2"/><ref name="jiten">[[馬場重行]]「伊豆の踊子」({{Harvnb|事典|1998|pp=49-53}})</ref>。なお、刊行に際しての[[校正]]作業は[[梶井基次郎]]がおこなった<ref name="sonota">「『伊豆の踊子』の装幀その他」(文藝時代 1927年5月号)。{{Harvnb|評論5|1982|pp=29-42}}、{{Harvnb|作家の自伝|1994}}に所収</ref><ref name="kajimo">「梶井基次郎」(翰林 1934年9月号)。{{Harvnb|評論1|1982|pp=321-325}}、{{Harvnb|一草一花|1991|pp=175-177}}、{{Harvnb|随筆集|2013|pp=249-252}}に所収</ref><ref>[[梶井基次郎]]「[[淀野隆三]]宛ての書簡」(昭和2年3月7日付)。{{Harvnb|梶井3巻|1966|pp=243-245}}に所収。{{Harvnb|独影自命|1970|pp=117-118}}に抜粋掲載</ref><ref name="kajii">「湯ヶ島の日々」({{Harvnb|アルバム梶井|1985|pp=65-83}})</ref>。
川端が19歳の時の伊豆での実体験を元とする。川端は幼少期に身内をほとんど失っており、2歳で父、3歳で母、7歳で祖母、10歳で姉、15歳で祖父が死去して孤児となるという生い立ちがあった。


翻訳版は[[オスカー・ベンル]]訳の[[ドイツ語]](独題:Die kleine Tänzerin von Izu 1942年と1948年、Die Tänzerin von Izu 1968年以後)をはじめ、[[エドワード・サイデンステッカー]][[英語]](英題:The Izu Dancer 1955年, 省略版<ref>S. Harrison Watson: [https://www.jstor.org/stable/40246796 ''Ideological Transformation by Translation: "Izu no Odoriko"'']. Comparative Literature Studies, 1991, Vol. 28, No. 3, East-West Issue (1991), pp.&nbsp;310–321</ref>)、Eiichi Hayashi 1957年、J. Martin Holman訳(英題:The Dancing Girl of Izu 1997年以後)、[[中国語]](中題、繁體中文:伊豆的舞女 1960年、伊豆的舞孃 1969年)、[[ポルトガル語]](葡題:A pequena dançarina de Izu 1962年)、[[エスペラント語]] (エスペラント題:Dancistino de Izu 1965年)、[[イタリア語]](伊題:La danzatrice di Izu 1965年)、[[韓国語]](韓題:이즈의 무희 1968年)、[[トルコ語]] (トルコ題:İzu dansözü 1968年)、[[スペイン語]](西題:La danzarina de Izu 1969年)、[[オランダ語]](蘭題:De danseres uit Izu 1969年)、[[ロシア語]](露題:{{lang|ru|Танцовщица из Идзу}} 1971年)、[[フランス語]](仏題:La danseuse d'Izu 1973年)など世界各国で出版されている<ref name="honyaku">「翻訳書目録――伊豆の踊子」({{Harvnb|雑纂2|1983|pp=649-651}})、1986年以前の翻訳について: Thomas Hagemann: ''Kawabata in München: Aus der Vorgeschichte zur Nobelpreisverleihung von 1968''. Hefte für Ostasiatische Literatur [https://www.iudicium.de/katalog/86205-157.htm Nr. 65 (November 2018)], pp.&nbsp;84–125, iudicium Verlag, München 2018, 表4</ref>。
==挿話==
川端は本作を執筆するにあたり、[[湯ヶ島温泉|湯ヶ島]]の旅館に4年半滞在して完成させた。ただしこの期間、彼はほとんど宿賃を払わないまま滞在し続けたと言われ、川端の豪放磊落な一面が垣間見える。


== あらすじ ==
また当時、湯ヶ島へ[[転地療養]]に来た[[梶井基次郎]]に旅館の紹介をした。梶井とは[[囲碁]]に興じたり、本作の[[校正]]をやってもらったという<ref>『新潮日本文学アルバム27 梶井基次郎』([[新潮社]]、1985年)</ref>。
20歳の[[第一高等学校 (旧制)|一高]]生の「私」は、自分の性質が[[孤児]]根性で歪んでいると厳しい反省を重ね、その息苦しい憂鬱に堪え切れず、1人[[伊豆]]への旅に出る。「私」は、[[湯ヶ島]]の道中で出会った[[旅芸人]]一座の1人の踊子に惹かれ、[[天城峠]]の[[天城トンネル|トンネル]]を抜けた後、彼らと一緒に[[下田市|下田]]まで旅することになった。一行を率いているのは踊子の兄で、[[伊豆大島|大島]]から来た彼らは家族で旅芸人をしていた。


天城峠の[[茶屋]]の老婆から聞いていた旅芸人を見下げた話から、夜、[[湯ヶ野温泉|湯ヶ野]]の宿で踊子が男客に汚されるのかと「私」は心配して眠れなかったが、翌朝、朝湯につかっている「私」に向って、川向うの湯殿から無邪気な裸身を見せて大きく手をふる踊子の幼い姿に、「私」の悩みはいっぺんに吹き飛び、「子供なんだ」と自然に喜びで笑いがこぼれた。
==映像化・舞台化==
===映画===
[[ファイル:Izu no odoriko 1954 poster.jpg|thumb|伊豆の踊子([[1954年]])]]
*恋の花咲く 伊豆の踊子([[1933年]]、[[松竹]]、[[五所平之助]]監督、[[田中絹代]]・[[大日方傳]]主演、白黒・[[サイレント映画]])…初の映画化作品。
*伊豆の踊子([[1954年]]、松竹、[[野村芳太郎]]監督、[[美空ひばり]]・[[石濱朗]]主演、白黒映画)
*伊豆の踊子([[1960年]]、松竹、[[川頭義郎]]監督、[[鰐淵晴子]]・[[津川雅彦]]主演、カラー映画)
*[[伊豆の踊子 (1963年の映画)|伊豆の踊子]]([[1963年]]、[[日活]]、[[西河克己]]監督、[[吉永小百合]]・[[高橋英樹 (俳優)|高橋英樹]]主演、カラー映画)
*伊豆の踊子([[1967年]]、[[東宝]]、[[恩地日出夫]]監督、[[内藤洋子 (女優)|内藤洋子]]・[[黒沢年男]]主演、カラー映画)
*[[伊豆の踊子 (1974年の映画)|伊豆の踊子]]([[1974年]]、東宝、西河克己監督、[[山口百恵]]・[[三浦友和]]主演、カラー映画)


「私」は、旅芸人一行と素性の違いを気にすることなく生身の人間同士の交流をし、人の温かさを肌で感じた。そして、踊子が「私」に寄せる[[無垢]]で純情な心からも、「私」は悩んでいた孤児根性から抜け出せると感じた。
===テレビドラマ===
*伊豆の踊り子([[1961年]]、[[日本放送協会|NHK]]、[[小林千登勢]]・山本勝主演)
*伊豆の踊り子([[1973年]]、[[関西テレビ放送|KTV]]、[[栗田ひろみ]]・小林芳宏主演)
*伊豆の踊子([[1992年]]、[[TBSテレビ|TBS]]、[[小田茜]]・[[萩原聖人]]主演)
*伊豆の踊子([[1993年]]、[[テレビ東京|TX]]、[[早勢美里]]・[[木村拓哉]]主演)
*[[モーニング娘。新春! LOVEストーリーズ]]1st story「伊豆の踊子」([[2002年]]、TBS、[[後藤真希]]・[[小橋賢児]]主演)


下田へ着き、「私」は踊子とその兄嫁らを[[活動写真|活動]](映画)に連れて行こうとするが、踊子だけしか都合がつかなくなると、母親(兄嫁の母)は踊子の懇願をふりきり、活動行きを反対した。次の日に東京へ帰らなければならない「私」は、夜1人だけで活動に行った。暗い町で遠くから微かに踊子の叩く[[太鼓]]の音が聞えてくるようで、わけもなく涙がぽたぽた落ちた。
===ラジオドラマ===
*伊豆の踊子([[1991年]]、[[TBSラジオ&コミュニケーションズ|TBS]]、[[増田未亜]]・[[中村彰男]]主演)


別れの旅立ちの日、昨晩遅く寝た女たちを置いて、踊子の兄だけが「私」を[[下田港]]の乗船場まで送りに来た。乗船場へ近づくと、海際に踊子がうずくまって「私」を待っていた。2人だけになった間、踊子はただ「私」の言葉にうなずくばかりで一言もなかった。「私」が船に乗り込もうと振り返った時、踊子はさよならを言おうとしたようだが、もう一度うなずいて見せただけだった。
===テレビアニメ===
*青春アニメ全集「伊豆の踊子」([[1986年]]、[[日本テレビ放送網|NTV]]、[[島本須美]]・[[神谷明]]声の出演)


船がずっと遠ざかってから、踊子が[[艀]]で白いものを振り始めた。[[伊豆半島]]の南端が後方に消えてゆくまで、一心に沖の大島を眺めていた「私」は、船室の横にいた少年の親切を自然に受け入れ、泣いているのを見られても平気だった。「私」の頭は「澄んだ水」のようになり、流れるままの涙がぽろぽろと零れて、後には「何も残らないような甘い快さ」だった。
===舞台===
*伊豆の踊子([[1957年]]、[[光本幸子]]主演)
*伊豆の踊子([[1969年]]、光本幸子・[[有田正治]]主演)


== その他 ==
== 登場人物 ==
年齢は[[数え年]]
* 踊子たちが通った道は、「踊子コース」として散策できるようになっており、文学碑や文学博物館ができている。
;私
* [[東海自動車]](1999年4月1日以降は[[中伊豆東海バス]])の[[ボンネットバス]]の愛称に「伊豆の踊子号」が充てられた。
:20歳。[[第一高等学校 (旧制)|一高]]の学生。
* [[1981年]](昭和56年)10月1日より、[[日本国有鉄道|国鉄]](1987年4月1日より[[東日本旅客鉄道|JR東日本]])‐[[伊豆急行線|伊豆急線]]・[[伊豆箱根鉄道駿豆線|伊豆箱根鉄道線]]直通[[特別急行列車|特急列車]]の名称に「[[踊り子 (列車)|踊り子]]」号の名称が充てられた。
:学校の制帽で、紺[[絣|飛白]]の着物に[[袴]]をはき、学生鞄を肩にかけた格好で伊豆の一人旅をしている。[[修善寺川|湯川]]橋の近くで[[旅芸人]]の一行に出会う。再び[[天城山|天城]]七里の山道で出会い下田まで一緒に旅する。
* [[2008年]]の[[集英社文庫]]の新装版では、同社刊の雑誌『[[週刊少年ジャンプ]]』、『[[ウルトラジャンプ]]』で『[[ジョジョの奇妙な冒険]]』を連載している漫画家[[荒木飛呂彦]]が表紙画を担当している。
:[[湯ヶ野温泉|湯ヶ野]]で[[鳥打帽]]を買い、制帽は鞄にしまう。歯並びが悪い。東京では寄宿舎に住む。
;踊子(薫)
:14歳。当初「私」には17歳くらいに見える。旅芸人一座の一員。古風に結った髪に卵形の凛々しい小さい顔の初々しい乙女。
:若[[桐]]のように足のよく伸びた白い裸身で[[湯殿]]から無邪気に手をふる。[[五目並べ]]が強い。美しい黒髪。前髪に桃色の[[櫛]]を挿している。美しく光る黒眼がちの大きい眼。花のように笑う。[[尋常小学校]]2年までは[[甲府市|甲府]]にいたが、家族と[[伊豆大島|大島]]に引っ越す。小犬を旅に同行させている。
;男(栄吉)
:24歳。踊子の兄で旅芸人。旅芸人たちは大島の[[波浮港]]からやって来た。
:栄吉は東京で、ある[[新派]]役者の群に加わっていたことがある。実家は甲府にあり、家の後目は栄吉の兄が継いでいる。幼い妹にまで旅芸人をさせなければならない事情があり、心を痛めている。大島には小さな家を2つ持っていて、山の方の家には爺さんが住んでいる。
;上の娘(千代子)
:19歳。栄吉の妻。
:[[流産]]と[[早産]]で2度子供を亡くした。2度目の子は旅の空で早産し、子は1週間で死去。下田の地でその子の[[四十九日]]を迎える。
;40女(おふくろ)
:40代くらい。千代子の母。栄吉の義母。
:薫に[[三味線]]を教えているが、薫は[[変声|声がわり]]の最中なので、高い声で歌わせない。[[処女|生娘]]の薫に、男が触るのを嫌がる。国の甲府市には民次という[[尋常小学校|尋常]]5年生の息子もいる。
;中の娘(百合子)
:17歳。雇われている芸人。大島生れ。はにかみ盛り。
;茶屋の婆
:天城七里の山道の茶店の婆さん。
:一高の制帽の「私」を旦那さまと呼び、旅芸人を「あんな者」と軽蔑を含んだ口調で話す。
;茶屋の爺
:婆さんの夫。
:長年[[中風]]を患い、全身が不随になっている。[[水死]]人のようにむくみ、瞳は黄色く濁っている。この老人には、川端が『[[十六歳の日記]]』で描いた病身の祖父の心象が投影されていることがしばしば指摘されている<ref name="hayashi5">「『伊豆の踊子』論」({{Harvnb|林武|1976|pp=97-120}}</ref><ref name="katsumata">[[勝又浩]]「人と作品――川端文学の源郷」({{Harvnb|一草一花|1991|pp=351-366}})</ref>。
;紙屋
:宿で「私」と[[碁]]を打つ。紙類を卸して廻る行商人。60歳近い爺さん。
;鳥屋
:40歳前後の男。旅芸人一行が泊まっている木賃宿の間を借りて鳥屋をしている。
:踊子たちに[[鳥鍋]]を御馳走する。「[[水戸黄門漫遊記]]」の続きを読んでくれと踊子にせがまれるが立ち去り、「私」が代りにそれを読んで踊子に聞かせる。
;土方風の男
:鉱夫。
:帰りの[[霊岸島]]行きの[[下田港]]の乗船場で、「私」に声をかけ、[[水戸市|水戸]]へ帰る老婆を[[上野駅]]まで連れてやってほしいと頼む。
;老婆
:[[下田温泉 (静岡県)|蓮台寺]]の[[銀山]]で働いていた倅とその嫁を[[スペイン風邪]]で亡くす。残された孫3人と故郷の水戸へ帰えるため、乗船場まで鉱夫たちに付添われている。
;少年
:[[河津町|河津]]の工場主の息子。東京へ帰る船で「私」と出会う。
:一高入学準備のために東京に向っていた。泣いている「私」に[[海苔巻き]]すしをくれ、着ている学生[[マント]]へもぐり込ませ温めてくれる。


== 脚注 ==
== 作品背景 ==
<small>※川端康成自身の発言や、作品や随筆内からの文章の引用は〈 〉にしています(論者や評者の論文からの引用部との区別のため)。</small>
<references />

[[川端康成]]が[[伊豆]]に旅したのは、[[第一高等学校 (旧制)|一高]]入学の翌年[[1918年]]([[大正]]7年)の秋で、[[寮]]の誰にも告げずに出発した約8日(10月30日から11月7日)の初めての一人旅であった<ref name="yugashima"/><ref name="shounen"/><ref name="album"/><ref name="hase3"/>{{refnest|group="注釈"|川端はその少し前、同級生の氷室吉平(文芸部)から伊豆旅行での湯ヶ島の話を聞かされていたという<ref name="hideko1">「第一章 出会い」({{Harvnb|秀子|1983|pp=5-44}})</ref>。氷室吉平は一高の『校友会雑誌』に何かを投稿してみないかと最初に川端に勧めた人物でもある<ref>「青春を語る―よき師、よき友に恵まれて―」([[長谷川泉]]との対談)(『川端康成集〈現代日本の文学16〉』月報4 [[学習研究社]]、1969年11月)。{{Harvnb|愛と美|1978|pp=193-210}}に所収</ref><ref name="mori15">「第一章 死の影のもとに――〈[[魔界]]〉の淵源 第五節 上京と伊豆への旅」({{Harvnb|森本・上|2014|pp=40-46}})</ref>。}}。川端はそこで、岡田文太夫(松沢要)こと、時田かほる(踊子の兄の本名)率いる[[旅芸人]]一行と道連れになり、幼い踊子・加藤たみ(松沢たみという説もある)と出会い、[[下田港]]からの帰京の賀茂丸では、[[蔵前]]高工(現・[[東京工業大学|東京工大]])の受験生・後藤孟と乗り合わせた<ref name="tsuchiya">[[土屋寛]]『天城路慕情――「伊豆の踊子」のモデルを訪ねて』(新塔社、1978年11月)。{{Harvnb|森本・上|2014|pp=158-161}}、{{Harvnb|小谷野|2013|pp=93-94,100}}</ref><ref name="kaori">[[川端香男里]]「川端康成の青春――未発表資料、書簡、読書帳、『新晴』(二十四枚)による―」([[文學界]] 1979年8月号)。{{Harvnb|森本・上|2014|pp=158-159}}</ref><ref name="taiyonenpu">[[森晴雄]]「川端康成 略年譜」({{Harvnb|太陽|2009|pp=161-165}})</ref><ref name="jitsuroku">「第二章 文壇へのデビュー――出世作『伊豆の踊子』」({{Harvnb|実録|1992|pp=52-55}})。{{Harvnb|文学大系|1990}}に抜粋掲載</ref>。

踊子の兄とは旅の後も[[文通]]があり、「[[横須賀市|横須賀]]の甲州屋方 時田かほる」差出人の川端宛て(一高の寄宿舎・南寮4番宛て)の[[年賀状]](大正7年12月31日消印)が現存している<ref name="kaori"/>。なお、踊子・たみのことは、旅の翌年に書かれた川端の処女作『ちよ』(1919年)の中にも部分的に描かれている<ref name="hase3"/><ref name="mori15"/><ref name="chiyo">「ちよ」(校友会雑誌 1919年6月18日・第277号)。{{Harvnb|小説21|1980|pp=9-26}}、{{Harvnb|初恋小説|2016|pp=289-309}}に所収</ref><ref name="sato">[[佐藤勝 (国文学者)|佐藤勝]]「『伊豆の踊子』論」({{Harvnb|作品研究|1969-03|pp=65-83}})</ref>。

川端は、旅から約7年経た後に『伊豆の踊子』を書いた。川端は自作について、〈「伊豆の踊子」はすべて書いた通りであつた。事実そのままで虚構はない。あるとすれば省略だけである〉とし、〈私の旅の小説の幼い出発点である〉と述べている<ref name="sakusha">「一草一花――『伊豆の踊子』の作者」(風景 1967年5月-1968年11月号)。{{Harvnb|独影自命|1970|pp=355-409}}、{{Harvnb|評論5|1982|pp=207-264}}、{{Harvnb|一草一花|1991|pp=283-350}}、{{Harvnb|随筆集|2013|pp=325-403}}に所収</ref>。また、旅に出た動機については以下のように語っている<ref name="yugashima"/><ref name="shounen"/>。
{{Quotation|私は高等学校の寮生活が、一、二年の間はひどく嫌だつた。中学五年の時の[[寄宿舎]]と勝手が違つたからである。そして、私の幼年時代が残した精神の病患ばかりが気になつて、自分を憐れむ念と自分を厭ふ念とに堪へられなかつた。それで伊豆へ行つた。|川端康成「湯ヶ島での思ひ出」(『[[少年 (川端康成)|少年]]』第14章の中)<ref name="yugashima"/><ref name="shounen"/>}}

川端は、幼少期に身内をほとんど失っており、1歳7か月で父親、2歳7か月で母親、7歳で祖母、10歳で姉、15歳で祖父が死去し[[孤児]]となるという生い立ちがあったため、作中に〈孤児根性〉という言葉が出てくる。また当時、[[旅芸人]]は[[河原乞食]]と蔑まれ、作中にも示されているように[[物乞い]]のような身分の賤しいものとみなされていた<ref name="okuno"/><ref name="hashimoto">[[橋本治]]「鑑賞――『恋の垣根』」({{Harvnb|踊子・集英|1993|pp=264-272}})</ref>。しかし、そういった一般的な見方を離れた〈好意と信頼〉が彼らと川端の間に生れた<ref name="yugashima"/><ref name="shounen"/>。
{{Quotation|旅情と、また[[大阪平野]]の田舎しか知らない私に、伊豆の田舎の風光とが、私の心をゆるめた。そして踊子に会つた。いはゆる旅芸人根性などとは似もつかない、野]の匂ひがある正直な好意を私は見せられた。<br />
いい人だと、踊子が言つて、兄嫁が肯つた、一言が、私の心にぽたりと清々しく落ちかかつた。いい人かと思つた。さうだ、いい人だと自分に答へた。平俗な意味での、いい人といふ言葉が、私には明りであつた。湯ヶ野から下田まで、自分でもいい人として道づれになれたと思ふ、さうなれたことがうれしかつた。|川端康成「湯ヶ島での思ひ出」(『少年』第14章の中)<ref name="yugashima"/><ref name="shounen"/>}}

伊豆の旅から4年後の[[1922年]](大正11年)の夏も[[湯ヶ島温泉|湯ヶ島]]に滞在した川端は、踊子たちとの体験や、大阪府立茨木中学校(現・[[大阪府立茨木高等学校]])の寄宿舎での下級生・小笠原義人との[[同性愛]]体験を「湯ヶ島での思ひ出」という素稿にまとめた<ref name="yugashima"/><ref name="shounen"/><ref name="atogaki5">「あとがき」(『川端康成全集第5巻 虹』新潮社、1949年3月)。{{Harvnb|独影自命|1970|pp=101-128}}に所収</ref><ref name="atogaki6">「あとがき」(『川端康成全集第6巻 [[雪国 (小説)|雪国]]』新潮社、1949年6月)。{{Harvnb|独影自命|1970|pp=129-147}}に所収</ref>。

これは前年の[[1921年]](大正10年)に、[[伊藤初代]]([[本郷区]]本郷元町の[[カフェー (風俗営業)|カフェ]]・エランの元[[女給]])との婚約破談事件で傷ついた川端が、以前自分に無垢な好意や愛情を寄せてくれた懐かしい踊子・加藤たみや小笠原義人を思い出し、初代から受けた失恋の苦しみを癒すためであった<ref name="yugashima"/><ref name="shounen"/><ref name="hayashi5"/><ref name="atogaki6"/>。この原稿用紙107枚の「湯ヶ島での思ひ出」が元となり、『伊豆の踊子』(1926年)、『[[少年 (川端康成)|少年]]』(1948年-1949年)へ発展していった<ref name="shounen"/><ref name="hayashi4"/><ref name="hase3"/><ref name="mori24">「第二章 新感覚派の誕生――[[文壇]]への道 第四節 〈孤児〉からの快癒『伊豆の踊子』」({{Harvnb|森本・上|2014|pp=125-160}})</ref>。

ちなみに、川端はカフェ・エランに通い始めた頃、店で[[眩暈]]を起して奥の部屋で寝かせてもらい、ちょうどその時に伊藤初代が[[銭湯]]から戻り隣室で着替えをする後ろ姿を見て、〈こんなに子供だつたのか〉と、その思いがけない幼い裸身に驚くが、その瞬間、約1年前に[[湯ヶ野温泉]]で見た踊子・加藤たみの〈少女の裸身〉を〈子供なんだ〉と思ったことを想起している<ref name="kagaribi">「篝火」([[新小説]] 1924年3月号)。{{Harvnb|小説2|1980|pp=83-104}}、{{Harvnb|初恋小説|2016|pp=100-123}}、{{Harvnb|作家の自伝|1994}}に所収</ref><ref name="nanpokan">「南方の火」(『川端康成全集第2巻 温泉宿』新潮社、1948年8月)。{{Harvnb|小説2|1980|pp=493-544}}、{{Harvnb|初恋小説|2016|pp=35-99}}に所収</ref><ref name="kawashima">[[川嶋至]]「『伊豆の踊子』を彩る女性」(上・下)([[北海道大学]]国文学会 国語国文 第18・19号、20号、1961年3月、12月)。「第三章 精神の傷あと―『みち子もの』と『伊豆の踊子』―」({{Harvnb|川嶋|1969|pp=65-111}})</ref><ref name="kawanishi">[[川西政明]]「解説」({{Harvnb|随筆集|2013|pp=465-481}})</ref>(詳細は[[伊藤初代#一高生・川端康成との出会い]]を参照)。

川端は最初の伊豆の旅以来、[[田方郡]][[上狩野村]]湯ヶ島1656番地(現・[[伊豆市]]湯ヶ島1656-1)にある「[[湯本館]]」<ref>この宿は、2018年現在も存在している。http://www.yumotokan-izu.jp/</ref> に[[1927年]](昭和2年)までの約10年間毎年のように滞在するようになるが、[[1924年]](大正13年)に大学を卒業してからの3、4年は、滞在期間が半年あるいは1年以上に長引くこともあった<ref name="atogaki6"/><ref>「伊豆行――落花流水」(風景 1963年6月号)。『落花流水』(新潮社、1966年5月)、{{Harvnb|随筆3|1982|pp=216-219}}、{{Harvnb|随筆集|2013|pp=118-122}}</ref><ref>川端康成「あとがき」({{Harvnb|踊子・岩波|2003|pp=}})。{{Harvnb|評論5|1982|pp=628-636}}</ref>。単行本刊行の際の作業をしている頃、湯ヶ島へ[[転地療養]]に来た[[梶井基次郎]]に旅館「湯川屋」を紹介し、[[校正]]をやってもらったが、それを契機に梶井やその同人の[[淀野隆三]]らと親しく交流するようになった<ref name="sonota"/><ref name="kajimo"/><ref name="kajii"/>。

== 作品評価・研究 ==
<small>※川端康成自身の発言や、作品や随筆内からの文章の引用は〈 〉にしています(論者や評者の論文からの引用部との区別のため)。</small>

『伊豆の踊子』は川端康成の初期を代表する名作というだけでなく、川端作品の中でも最も人気が高く、その評論も膨大な数に上る<ref name="jiten"/><ref name="sato"/>。それらの論評は、様々なニュアンスの差異を持ちながら川端の孤児の生い立ちと青春体験の視点、[[伊藤初代]]との婚約破談事件との絡みから論考するものや、主人公の語りの構造の分析から作品世界を論じるものなど多岐にわたっているが、川端という作家を語る際の、この作品の持つ重みや大きさへの認識はみな共通している<ref name="jiten"/><ref name="sato"/>。

[[竹西寛子]]は、『伊豆の踊子』は川端作品の中では比較的爽やかなもので、そこでは「自力を超えるものとの格闘に真摯な若者だけが経験する人生初期のこの世との和解」がかなめになっているとし<ref name="takenishi">[[竹西寛子]]「川端康成 人と作品」({{Harvnb|踊子・新潮|2003|pp=179-187}})</ref>、この作品が「青春の文学」と言われる理由を、「この和解の切実さ」にあると解説している<ref name="takenishi"/>。そして別れの場面の〈私〉の涙は「感傷」ではなくて、それまであった「過剰な自意識」が吹き払われた表われであり、それゆえに〈私〉が、少年の親切を自然に受け入れ、融け合って感じるような経験を、読者もまた共有できうると考察している<ref name="takenishi"/>。

[[奥野健男]]は、川端が幼くして肉親を次々と亡くし、死者に親しみ、両親の温かい庇護のなかった淋しい孤児の生い立ちがその作風に影響を及ぼしていることを鑑みながら、川端の心にある、「この世の中で虐げられ、差別され、卑しめられている人々、特にそういう少女へのいとおしみというか、殆んど同一化するような感情」が、文学の大きな[[話題|モチーフ]]になっているとし<ref name="okuno"/>、そういった川端の要素が顕著な『伊豆の踊子』を、「[[温泉町]]のひなびた風土と、日本人の誰でもが心の底に抱いている(そこが日本人の不思議さであるのだが)世間からさげすまれている[[芸人]]、その中の[[美少女]]への殆んど[[判官贔屓|判官びいき]]とも言える憧憬と同一化という魂の琴線に触れた名作」と高評している<ref name="okuno"/>。

そして芸人が[[徳川時代]]に「[[河原乞食|河原者]]」と蔑まれた反面、[[白拍子]]を愛でた[[後白河天皇|後白河法皇]]が『[[梁塵秘抄]]』を編纂したように、古くから芸人と上流[[貴族]]とは「不思議な交歓」があり、[[能]]、[[狂言]]、[[歌舞伎]]などが上流階級にとりいられてきた芸能史を奥野は解説しつつ<ref name="okuno"/>、『伊豆の踊子』は、そういった「芸人に対する特別のひいき、さらには憧憬という日本人の古来からの心情」が生かされ、その「秘密の心情」は「日本の美の隠れた源泉」であると論じている<ref name="okuno"/>。

[[北野昭彦]]は、この奥野の論を、数ある『伊豆の踊子』論の中でも日本の芸能史、「旅芸人[[フォークロア]]」をよく踏まえているものとして敷衍し<ref name="kitano">{{Harvnb|北野|2007}}</ref>、漂流者の芸人と定住者との関係性、[[マレビト]]である漂泊芸人の来訪が「[[神]]あるいは[[乞食]]」の訪れとして定住民にとらえられ、芸能を演ずる彼らの姿に「神の面影」を認めながらも「乞食」と呼ぶこともためらわない両者の関係性に発展させた論究を展開しながら<ref name="kitano"/>、「[[異界]]」への入り口の象徴である〈[[峠]]〉や〈橋〉で旅芸人一行(遍歴民)と再会した〈私〉が[[天城トンネル|トンネル]]を抜け、彼らと同行することで「遍歴的人生の[[疑似体験]]」をするが、芸と旅が日常である彼らと、それが非日常である〈私〉とは「別の[[時空]]を生きながら道連れになっている」と解説している<ref name="kitano"/>。

また北野は、この物語が進行するにつれ、主人公が「娘芸人の[[ペルソナ (心理学)|ペルソナ]]を外した少女の〈美〉」自体を語ることが主となり、小説のタイトル通り、踊子像そのものを語る展開になることに触れ<ref name="kitano"/>、踊子の〈私〉に対するはにかみや羞らい、天真爛漫な幼さ、花のような笑顔、〈私〉の[[袴]]の裾を払ってくれたり[[下駄]]を直してくれたりする甲斐甲斐しさなどを挙げながら、踊子の何気ない言葉で、〈私〉が「本来の自己を回復していたこと」に気づくと解説し<ref name="kitano"/>、「〈私〉の踊子像」がその都度「多面的に変容する」ことの意味を[[カール・グスタフ・ユング|ユング]]の『[[コレー]]像の心理学的位相について』<ref name="jung">[[カール・グスタフ・ユング]]「コレー像の心理学的位相について」(『神話学入門』[[カール・ケレーニイ]]との共著・[[杉浦忠夫]]訳。[[晶文社]]、1975年5月。晶文社オンデマンド選書、2007年1月)。ISBN 9784794910769</ref> を引きつつ説明している<ref name="kitano"/>。
{{Quotation|彼女は、[[カール・グスタフ・ユング|ユング]]が[[元型]]的形象の一つとしてあげた「[[コレー]]像」に似ている。コレーとは、少女、母、[[花嫁]]の三重の相において現れる永遠の[[女性|乙女]]である。「コレー像は未知の若い少女として登場」し<ref name="jung"/>、「しばしば微妙なニュアンスを持つのが踊り子である」<ref name="jung"/> とされている。|[[北野昭彦]]「『伊豆の踊子』の〈物乞ひ旅芸人〉の背後――定住と遍歴、役者と演劇青年、娘芸人と学生」<ref name="kitano"/>}}

[[三島由紀夫]]は、川端の全作品に通じる重要なテーマである「[[処女]]の主題」の端緒があらわれている『伊豆の踊子』において、〈私〉が観察する踊子の様々な描写の「静的な、また動的な[[デッサン]]によつて的確に組み立てられた処女の内面」が「一切読者の想像に委ねられてゐる」性質を指摘し<ref name="mishima">[[三島由紀夫]]「『伊豆の踊子』について」({{Harvnb|踊子・新潮|2003|pp=188-194}})。「『伊豆の踊子』『温泉宿』『[[抒情歌 (小説)|抒情歌]]』『[[禽獣 (小説)|禽獣]]』について」として{{Harvnb|三島27巻|2003|pp=317-322}}に所収</ref>、この特性のため、川端は同時代の他作家が陥ったような「浅はかな似非近代的[[心理主義]]の感染」を免かれていると考察しつつ<ref name="mishima"/>、「処女の内面は、本来[[表現]]の対象たりうるものではない」として、以下のようにその「処女の主題」を解説している<ref name="mishima"/>。
{{Quotation|処女を犯した男は、決して処女について知ることはできない。処女を犯さない男も、処女について十分に知ることはできない。しからば処女といふものはそもそも存在しうるものであらうか。この[[不可知論|不可知]]の苦い認識、人が川端氏の[[抒情]]といふのは、実はこの苦い認識を不可知のものへ押しすすめようとする精神の或る純潔な焦燥なのである。<br />
焦燥であるために一見[[あいまい]]な語法が必要とされる。しかしこのあいまいさは正確なあいまいさだ。ここにいたつて、処女性の秘密は、芸術作品がこの世に存在することの秘密の[[形代]](かたしろ)になるのである。表現そのものの不可知の作用に関する表現の努力がここから生れる。|[[三島由紀夫]]「『伊豆の踊子』について」<ref name="mishima"/>}}

[[勝又浩]]は、物語の導入部の[[天城峠]]の[[茶屋]]で〈到底生物とは思へない山の[[怪物|怪奇]]〉のような醜い老人の姿が描かれる意味を、『[[雪国 (小説)|雪国]]』で主人公が〈[[清水トンネル|トンネル]]〉を抜けて駒子に会うように、『伊豆の踊子』でも踊子に会うために越えなければならなかった「試練」であり、「異界」への入り口である天城峠の〈[[天城トンネル|暗いトンネル]]〉を抜けることは「[[タイムマシン]]としての儀式」を暗示させるとして<ref name="katsumata"/>、こういった川端文学の[[幻想文学|幻想的]]な一面が[[泉鏡花]]や[[永井荷風]]とも異なる点を説明して、幻想世界を伝える「媒介者」(主人公)が、鏡花の場合は物語世界同様「[[野史|稗史]]的なまま」で、荷風は「近代の住人」であり「知識人、全能的存在」だが、川端の場合は川端自身が「異界」の人物であり「幽霊のような人物」「[[まれびと]]」だとしている<ref name="katsumata"/>。
{{Quotation|天下の[[第一高等学校 (旧制)|一高]]生が、たまたま[[鬼]]の番するトンネルを潜り抜けて、遠い島から来た舞姫に邂逅して魂を浄化する物語と読むのが鏡花風だが、世を拗ねた一人の[[インテリ]]が田舎の旅芸人に関心を持って、現代都市では失われた古きよき時代の純朴な娘を発見して旅情を慰めるというのが荷風式、そして川端文学の場合は、異界はむしろ主人公の側にある。<br />
「私」は、トンネルの向こうの人々にとっては神秘的な[[まれびと]]であって、彼は訪れる先々で歓迎されるが、そのことによって、健気に生きる人々を祝福し、彼自身は、その[[民俗]]的約束に従って、村々の不幸を、汚濁なるものを身に受けて村を去って行かなければならない。それ故『伊豆の踊子』には、その結末に至ってもう一度老人が登場するのであろう。|[[勝又浩]]「人の文学――川端文学の源郷」<ref name="katsumata"/>}}
そして勝又は、この小説が表面的には「孤児意識脱却の物語」であるにもかかわらず、最後にまた老人が登場し、3人の孤児を道連れにすることを村人から[[合掌]]で懇願される箇所に、川端の「孤児の宿命」が垣間見えるとし<ref name="katsumata"/>、「〈孤児根性〉、〈息苦しい〉孤児意識からは解放されたかもしれないが、孤児としての宿命そのものは決して彼を解き放ちはしなかったはず」だと解説している<ref name="katsumata"/>。また、三島由紀夫が川端を「永遠の旅人」と称したことや<ref>「永遠の旅人――川端康成氏の人と作品」(別冊[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]] 1956年4月・51号)。{{Harvnb|三島29巻|2003|pp=204-217}}に所収</ref>、川端の処女作から諸作に至るまで見られる[[心霊主義|心霊的]]な要素を鑑みながら{{refnest|group="注釈"|例えば処女作『ちよ』では、〈自分が幽霊に見えて、自身さへ怖れます〉、〈霊どもに力で生き、動かされてゐる幻です〉と自身を語っている<ref name="katsumata"/><ref name="chiyo"/>。}}、こうした「この世に定住の地を持たない」川端が、トンネルを越え「まれびととなって[[人界]]を訪れ」て、「踊子の純情」をより輝かせられる特異性を考察している<ref name="katsumata"/>。

[[橋本治]]は恋愛的な観点から『伊豆の踊子』を捉え、主人公の青年が最後に泣き続ける意味について、「いやしい旅芸人」と「エリートの卵」という「身分の差」の垣根さえも越え、冷静に相手をじっと観察する余裕もなくなって「ただその人にひれ伏すしかなくなってしまう、恋という感情」を主人公が内心認めたくなく、冷静に別れたつもりが、遠ざかる船に向って[[艀|はしけ]]から一心に白いハンカチを振る踊子の正直な姿を見て、「プライドの高い〈私〉は、ついに恋という感情を認めた」と解説している<ref name="hashimoto"/>。

そして橋本は、主人公が「ただ彼女といられて幸福だった」という真実の感情を認め、自分と同じエリートコースの少年を「踊子とつながる人間でもあるかのように」思い、その好意に包まれ終わる結末は<ref name="hashimoto"/>、「恋という垣根を目の前にして、そして越えられるはずの垣根に足を取られ、自分というものを改めて見詰めなければどうにもならないのだという、苦い事実」を突きつけられ、その「青春の自意識のつらさ」を描いているため『伊豆の踊子』は「永遠の作品」となっていると評している<ref name="hashimoto"/>。

[[川嶋至]](細川皓)は、『伊豆の踊子』の底流に、みち子([[伊藤初代]]の仮名)の「面影」があるとして、初代から婚約解消された川端の動転を綴った私小説『非常』との関連性を看取し<ref name="kawashima"/>、川端が初代の元へ向かう汽車の中で別れの手紙を一心に読み返している時に落とした財布やマントを拾ってくれ、〈寝ずの番〉までしてくれた〈学生〉(高校の受験生)の好意に甘えて身を委ねる場面と、下田港で踊子と別れた帰りの汽船で、〈親切〉な〈少年〉のマントに包まれて素直に泣く共通項を指摘しながら、「一見素朴な青春の淡い思い出」を描いた『伊豆の踊子』は、「実生活における失恋という貴重な体験を代償として生まれた作品」だとして、踊子は、「古風な髪を結い、旅芸人に身をやつした、みち子に他ならなかった」と考察している<ref name="kawashima"/>。

なお、川端本人はこの川嶋至の論考に関し、〈まつたく作者の意識にはなかつた〉として、草稿「湯ヶ島での思ひ出」を書いた時には伊藤初代のことが〈強く心にあつた〉が、『伊豆の踊子』を書いた時に初代は〈浮んで来なかつた〉としている<ref name="sakusha"/>。そして『非常』での汽車の場面との類似を指摘されたことについては、以下のように語っている<ref name="sakusha"/>。
{{Quotation|「伊豆の踊子」の時、「非常」に受験生の好意を書いたのは忘れてゐた。細川氏(川嶋至)に二つをならべてみせられて、私はこれほどおどろいた批評もめづらしいが、それよりもさらに、これは二つとも事実あつた通りなので、いはば人生の「非常」の時に、二度、偶然の乗合客の受験生が、私をいたはつてくれたのは、いつたいどういうことなのだらうか、と私は考えさせられるのである。ふしぎである。|川端康成「『伊豆の踊子』の作者」<ref name="sakusha"/>}}

[[林武志]]は、川端が伊豆で踊子に会った頃には、中学時代の後輩で[[同性愛]]的愛情を持っていた小笠原義人と[[文通]]が続いていたことと、草稿「湯ヶ島での思ひ出」での踊子の記述が、清野少年(小笠原義人)の「序曲」的なものになっていることから、『伊豆の踊子』での「踊子」像には小笠原少年の心象が「[[陰画]]」的に投影されているとしている<ref name="hayashi4"/><ref name="hayashi5"/>。
{{Quotation|事実、川端は多くの作品で、少女あるいはそれに近い女に少年のイメージを探し求めている。それ故、清野少年の俤を心に抱く川端が、大正七年の伊豆での初旅の途中、実在の踊り子に清野少年のイメージを探し求め、大正十一年の「湯ヶ島での思ひ出」執筆時に、清野少年登場の序曲的存在としての踊り子の部分において、「踊子」に清野少年のイメージをオーバーラップさせていたとしても不思議ではない。即ち、[[両性]]混入による「踊子」の一方からの[[Xジェンダー|中性]]化である。|[[林武志]]「『伊豆の踊子』論」<ref name="hayashi5"/>}}
また、最終場面で泣いている「私」をマントで包んでくれた受験生の少年の描写も「清野少年のバリエーション」ではないかと林は考察している<ref name="hayashi5"/>。

== 別れの場面における主語の問題 ==
<small>※川端康成自身の発言や、作品や随筆内からの文章の引用は〈 〉にしています(論者や評者の論文からの引用部との区別のため)。</small>

主人公と踊子が乗船場で別れる場面に以下のような一文があるが、[[主語]]が省かれているため、〈さよなら〉を言おうとして止めて、ただ〈うなづいた〉のが主人公と踊子のどちらであるのか、川端の元へ読者からの質問が多数寄せられたという問題点があった<ref name="sakusha"/>。
{{Quote|'''私が縄梯子に捉まらうとして振り返つた時、さよならを言はうとしたが、それも止して、もう一ぺんただうなづいて見せた。'''|川端康成「伊豆の踊子」}}

これについて川端は、主語は〈踊子〉であるとし、以下のように答えている<ref name="sakusha"/>。
{{Quotation|はじめ、私はこの質問が思ひがけなかつた。踊子にきまつてゐるではないか。この港の別れの情感からも、踊子がうなづくのでなければならない。この場の「私」と踊子との様子からしても、踊子であるのは明らかではないか。「私」か踊子かと疑つたり迷つたりするのは、読みが足りないのではなからうか。「もう一ぺんただうなづいた」で、「もう一ぺん」とわざわざ書いたのは、その前に、踊子がうなづいたことを書いてゐるからである。|川端康成「『伊豆の踊子』の作者」<ref name="sakusha"/>}}

そして川端は、問題の箇所をよく読み返してみると読者に誤解を与えたのも、主語を省いたため惑わせることになったかもしれないとしながらも、以下のように説明している<ref name="sakusha"/>。
{{Quotation|「さよならを言はうとした」のも、「うなづいた」のも、「私」と取られるのが、むしろ自然かもしれない。しかしそれなら、「私が」ではなくて「私は」としさうである。「私が」の「が」は、「さよならを言はうとした」のが、私とは別人の踊子であること、踊子といふ[[主格]]が省略されてゐることを暗に感じさせないだらうか。|川端康成「『伊豆の踊子』の作者」<ref name="sakusha"/>}}

なお、英訳ではこの部分の主語が、“I”(私)と誤訳されてしまっている<ref name="sakusha"/>。そして川端はあえて新版でも、この主語を補足しなかった理由については、その部分が気をつけて読むと、〈不用意な粗悪な文章〉で、〈主格を補ふだけではすまなくて、そこを書き直さねばならぬ〉と思えたことと、『伊豆の踊子』が〈私〉の視点で書かれた物語であることの説明として以下のように語っている<ref name="sakusha"/>。
{{Quotation|「伊豆の踊子」はすべて「私」が見た風に書いてあつて、踊子の[[心理]]や[[感情]]も、私が見聞きした踊子のしぐさや表情や会話だけで書いてあつて、踊子の側からはなに一つ書いてない。したがつて、「(踊子は)さよならを言はうとしたが、それも止して、」と、ここだけ踊子側から書いてあるのは、全体をやぶる表現である。(中略)<br />
主格の一語を補ふだけですまなくて、旧作の三四行を書き直さねばならないとなると、私は重苦しい嫌悪にとらへられてしまふ。もし仔細にみれば、全編ががたがたして来さうである。|川端康成「『伊豆の踊子』の作者」<ref name="sakusha"/>}}

[[高本條治]]は、この踊子の主格問題に関する川端の、〈全体をやぶる表現〉という言及について、〈私〉が見た風に書くという「語りの視点」を全篇通して一貫させるべきだったというのが川端の「反省的自覚」だったとし<ref name="takamoto">{{Harvnb|高本|1997}}</ref>、この小説を軽く読み流すのではなく、〈私〉に同化し感情移入しながら「解釈処理」を続けた読者にとっては、物語の終盤でいきなり、たった一箇所だけ、「[[語彙]]統語構造に表れた結束性の手がかりに従う限りにおいて、〈私〉以外の人物と同化した視点で語られたと解釈できる部分」が混入しているのは戸惑いであり、その「語りの視点」の不整合性に気づく認知能力を持つ読者にとって、「川端が犯した不用意な視点転換」は、重大な解釈問題として顕在化されると論じている<ref name="takamoto"/>。

[[三川智央]]はこれに比して、やや違った論点からこの視点転換問題をみて、通常の語り手としての〈私〉の次元でならば、問題個所は、「(踊子が)何かを言おうとしたようだが、……」あるいは「別れのことばを言おうとしたようだが……」という風に推測的な文言になるはずだとし<ref name="mikawa">{{Harvnb|三川|1998}}</ref>、川端がほとんど無意識的に〈(踊子は)さよならを言はうとした〉と断定表現したのは、主人公の〈私〉が一種の「[[狂気]]」の状態にあり、「踊子との間に暴力的ともいえる一方的な[[コミュニケーション]]を夢想しているにほかならない」と解説しながら<ref name="mikawa">{{Harvnb|三川|1998}}</ref>、このことは同時に、物語世界内の〈私〉と、「語り手である〈私〉の[[自己同一性]]の崩壊=〈私〉そのものの崩壊」をも意味していると論考している<ref name="mikawa"/>。

そして三川は、この場面では、踊子との「離別」と共に、「まるでそれを阻止するかのように〈私〉と踊子の「心理的な一体化」が示されるとし<ref name="mikawa"/>、それはあくまで「現実世界の解釈コードでは認識不能な『事実』」で、「〈私〉の踊子に対する一方的な一体化の夢想」は「〈私〉の意識の肥大化と『他者』である踊子の抹殺」が前提となっているが、読者側はその〈私〉の「暴力性」を「解釈コードの組み替え」により、「[[抒情]]的空間」といったものとして「物語空間を辛うじて受け入れることになる」と考察しつつ<ref name="mikawa"/>、通常の意味での「語り手」という存在を打ち消してしまう作品自体の不安定な構造を支えている力を、「互いに異なる志向性を帯びた複数の《語り》の葛藤によって生じるダイナミズム=《語り》の力」と呼び、以下のように諭をまとめている<ref name="mikawa"/>。
{{Quotation|少なくとも『伊豆の踊子』は、自己の「過去の事実」を先行する物語内容として「語り手」という人格的言表主体が物語行為を遂行するという一般的な[[一人称]]小説の構造などには還元できない、むしろそのような主体を疎外する「語り」そのものの「力」によって支えられているのであり、多重的な「語り」の葛藤によって生じた軌跡として形を与えられているに過ぎないのだ。そこでは既に、物語内容の物語言説に対する優位性という仮構は崩壊してしまっている。|[[三川智央]]「『伊豆の踊子』再考――葛藤する〈語り〉と別れの場面における主語の問題」<ref name="mikawa"/>}}

== 観光資源としての『伊豆の踊子』 ==
[[File:Relief of Kawabata Yasunari, Izu, Shizuoka.jpg|thumb|150px|[[天城峠]]にある川端康成のレリーフ]]
浄蓮の滝から本谷川に沿って登り、旧[[天城トンネル]]を抜けて、[[河津川]]に沿って下るルートは「踊子歩道」として整備されている<ref name="tabi">{{Cite web|和書|url= https://izunotabi.com/wp-content/uploads/2018/12/%E5%A4%A9%E5%9F%8E%E6%95%A3%E7%AD%96%E3%83%9E%E3%83%83%E3%83%97%E3%81%A8%EF%BC%91%EF%BC%90%E9%81%B8.pdf |title= 天城の自然10選と探索マップ|publisher= 伊豆の国市観光協会 |accessdate= 2021-12-19}}</ref>。「踊子歩道」は[[2002年]]に[[遊歩百選]]に選定された<ref name="tabi" />。

本谷川([[狩野川]])沿いに杉やブナが繁る林の旧街道をしばらく歩くと踊子橋を過ぎたあたりの[[わさび]]沢の側に文学碑がある。この文学碑には、川端の[[毛筆]]書きによる〈道が[[つづら折れ|つづら折り]]になつて、いよいよ[[天城峠]]に近づいたと思ふ頃、雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追つて来た。…〉という作品の冒頭部分が刻まれており、左側の碑面に川端の銅版製の[[レリーフ]]も設置されている。この文学碑は、[[1981年]](昭和56年)5月1日に建てられ除幕式が行われた<ref name="hasebun">「『伊豆の踊子』と新文学碑」([[図書新聞]] 1981年5月23日号){{Harvnb|論考|1991|pp=672-674}}に所収</ref>。

そこから天城トンネルを抜け河津川沿いの道を下っていくとある[[湯ヶ野温泉]]の旅館「福田屋」の隣にも文学碑がある。こちらの文学碑は、川端存命中の[[1965年]](昭和40年)11月12日に建立された<ref name="itaga15">「第一編 評伝・川端康成――回帰」({{Harvnb|板垣|2016|pp=97-110}})</ref>。碑には川端の直筆で、〈湯ヶ野までは河津川の[[渓谷]]に沿うて三里余りの下里だつた。峠を越えてからは、山や空の色までが南国らしく感じられた。…〉の一節が刻まれており、旅館の入口には[[ブロンズ像|ブロンズ]]の踊子像もある<ref name="jitsuroku"/><ref name="itaga15"/>。

川端は、この「福田屋」側の文学碑の除幕式で、作中に登場する受験生〈少年〉のモデルだった後藤孟(再会当時65歳)と47年ぶりに再会した<ref name="sakusha"/>。後藤孟は「賀茂丸」で川端と会った当時のことを以下のように述懐している<ref name="jitsuroku"/>{{refnest|group="注釈"|後藤孟は、[[横浜市|横浜]]で[[電子部品|電子工業部品]]を作る会社社長となった<ref name="jitsuroku"/>。}}
{{Quotation|機関室の前の狭い部屋で、いろんな話をしました。旅芸人の話が印象的でした。空腹だというので、わたしは親のこしらえてくれた弁当の[[海苔巻き|ノリ巻き]]をすすめたんです。川端さんはそれをホオばりながら、「ぼくには父も母もいないんだ」としんみり話ました。そうして、わたしに「[[下宿]]が見つからなかったら、相談に来たまえ」といってくれた。東京に着くと、川端さんが「朝ぶろに行こう」と誘った。熱すぎたのでジャ口をひねってうめていると、[[刺青|イレズミ]]をした若い衆が五、六人はいって来て「ぬるいぞッ」とどなった。わたしは胸がドキドキしたが、川端さんは顔色ひとつ変えず、平然としていました。|後藤孟「談話」(『実録 川端康成』)<ref name="jitsuroku"/>}}

[[File:JR-Limited-Express-Odoriko.JPG|thumb|150px|特急「踊り子」号。ヘッドマークにも注目。]]
[[河津七滝|初景滝]]そばには「踊り子と私」というブロンズ像もあり、[[道の駅天城越え]]には文学博物館(昭和の森会館)がある。

[[1981年]](昭和56年)10月1日より、[[日本国有鉄道|国鉄]](1987年4月1日以降[[東日本旅客鉄道|JR東日本]])[[伊豆急行]]・[[伊豆箱根鉄道]]直通[[特別急行列車|特急列車]]の名称に、「[[踊り子 (列車)|踊り子]]」号の名称が公募により充てられた。また、[[東海自動車]](1999年4月1日以降は[[中伊豆東海バス]])の[[ボンネットバス]]の愛称には、「伊豆の踊子号」が充てられるなど、「踊子」は伊豆の地で愛称化されている。

== 映画化 ==
{{ウィキポータルリンク|映画|[[画像:Pictograms-nps-services-theater-2.svg|40px|Portal:映画]]}}
映画においては、一部の版で、おきみなどの原作にない登場人物が設定されるなど、原作との違いがある。
[[ファイル:Izu no odoriko 1954 poster.jpg|thumb|伊豆の踊子([[1954年]])<br />[[美空ひばり]]と[[石濱朗]]]]
*『[[恋の花咲く 伊豆の踊子]]』([[松竹]])
**1933年(昭和8年)2月2日公開。[[モノクローム|白黒]]・[[サイレント映画]]
**監督:[[五所平之助]]。脚本:[[伏見晃]]。撮影:[[小原譲治]]
**主演:[[田中絹代]]、[[大日方傳]]、[[河村黎吉]]、[[小林十九二]]、[[若水順子]]、[[新井淳]]、ほか
**※ 初の映画化作品。昭和8年度の[[キネマ旬報]]ベストテンの第9位<ref name="kai80">「昭和8年」({{Harvnb|80回史|2007|p=21}})</ref><ref name="kai85">「昭和8年」({{Harvnb|85回史|2012|p=24}})</ref>。
*『伊豆の踊子』(松竹)
**1954年(昭和29年)公開。[[白黒映画|白黒]]98分。
**監督:[[野村芳太郎]]。製作:[[山本武]]、[[山内静夫 (映画プロデューサー)|山内静夫]]。企画:[[福島通人]]。脚本:[[伏見晁]]。撮影:[[西川亨]]。音楽:[[木下忠司]]。主題歌:[[日本コロムビア|コロンビア]]
**出演:[[美空ひばり]]、[[石濱朗]]、[[由美あづさ]]、[[片山明彦]]、[[雪代敬子]]、[[三島耕]]、[[日守新一]]、[[南美江]]、[[松本克平 (俳優)|松本克平]]、[[多々良純]]、[[桜むつ子]]
**公開時の惹句は、「椿の花は咲いたけどなぜに咲かない恋の花!」である<ref>「あ行――伊豆の踊子」({{Harvnb|なつかし|1989}})</ref><ref>「美空ひばり――伊豆の踊子」({{Harvnb|なつかし2|1990|p=112}})</ref>。
*『伊豆の踊子』(松竹)
**1960年(昭和35年)5月13日公開。カラー87分。
**監督:[[川頭義郎]]。製作:[[小梶正治]]。脚本:[[田中澄江]]。撮影:[[荒野諒一]]。美術:[[岡田要]]。音楽:[[木下忠司]]
**出演:[[鰐淵晴子]]、[[津川雅彦]]、[[桜むつ子]]、[[田浦正巳]]、[[城山順子]]、[[瞳麗子]]、ほか
*『[[伊豆の踊子 (1963年の映画)|伊豆の踊子]]』([[日活]])
**1963年(昭和38年)6月2日公開。カラー87分。
**監督:[[西河克己]]。脚本:[[井手俊郎]]、西河克己
**出演:[[吉永小百合]]、[[高橋英樹 (俳優)|高橋英樹]]、[[大坂志郎]]、[[堀恭子 (女優)|堀恭子]]、[[浪花千栄子]]、ほか
**※ 映画撮影を見学した川端康成は、踊子姿の吉永小百合に〈なつかしい親しみ〉を感じたという<ref>「『伊豆の踊子』――作者とヒロイン」(別冊小説新潮 1963年7月15日号)。{{Harvnb|評論5|1982|pp=190-191}}に所収</ref><ref>「付録写真」({{Harvnb|踊子・集英|1993}})</ref>。
*『[[伊豆の踊子 (1967年の映画)|伊豆の踊子]]』([[東宝]])
**1967年(昭和42年)2月25日公開。カラー85分。
**監督:[[恩地日出夫]]。脚本:恩地日出夫、[[井手俊郎]]
**出演:[[内藤洋子 (女優)|内藤洋子]]、[[黒沢年男]]、[[江原達怡]]、[[田村奈己]]、[[乙羽信子]]、ほか
*『[[伊豆の踊子 (1974年の映画)|伊豆の踊子]]』(東宝)
**1974年(昭和49年)12月28日公開。カラー82分。
**監督:[[西河克己]]。脚本:[[若杉光夫]]
**出演:[[山口百恵]]、[[三浦友和]]、[[中山仁]]、[[佐藤友美]]、[[一の宮あつ子]]、[[鈴木ヒロミツ]]、[[浦辺粂子]]、[[石川さゆり]]、[[江戸家猫八 (3代目)|江戸家猫八]]、[[千家和也]](特別出演)、[[宇野重吉]](ナレーション)ほか

== テレビドラマ化 ==
*[[連続テレビ小説]]『伊豆の踊り子』([[日本放送協会|NHK]])
**1961年(昭和36年)1月1日 - 3日 日曜日 - 火曜日 22:15 - 22:40
**脚本:[[篠崎博]]。演出:[[畑中庸生]]
**出演:[[小林千登勢]]、[[山本勝]]、[[梅野公子]]、[[鈴木瑞穂]]
**※ この作品の成功により「連続テレビ小説」の素地が出来上がった。
*[[白雪劇場]]・[[川端康成名作シリーズ]]『伊豆の踊り子』([[関西テレビ放送|KTV]])
**1973年(昭和48年)2月4日、11日(全2回) 日曜日 21:30 - 22:25
**演出:[[岡本五十二]]。提供:[[小西酒造]]
**出演:[[栗田ひろみ]]、[[小林芳宏]]、[[ジェリー藤尾]]、[[奈良岡朋子]]、[[神鳥ひろ子]]([[上岡紘子]])、[[松岡きっこ]]
*[[青春アニメ全集|青春アニメ]]『伊豆の踊子』([[日本テレビ放送網|NTV]])
**1986年(昭和61年)4月25日 金曜日 19:00 - 19:30
**脚本:[[吉田憲二]]。演出:[[高須賀勝己]]。総監督:[[黒川文男]]。キャラクター監修:[[森康二]]。キャラクターデザイン:[[椛島義夫]]。エンディングイラスト:[[林静一]]。音楽:[[坂田晃一]]。製作:[[本橋浩一]]
**声の出演:[[島本須美]]、[[神谷明]]、[[津嘉山正種]]、[[今井和子]]、[[小宮和枝]]、[[緒方賢一]]。語り部:[[木内みどり]]
**主題歌:[[ダ・カーポ (歌手グループ)|ダ・カーポ]]「青春は舟」「ため息」(作詞:[[なかにし礼]]。作曲:[[坂田晃一]]。編曲:[[島津秀雄]])
**※『青春アニメ』の第1作。
**※ [[新潮社]]より「アニメ文学館」(全15巻)の第1巻([[伊藤左千夫]]『[[野菊の墓]]』と合わせて)としてビデオ(VHS、DVD)発売。
*『伊豆の踊子』([[TBSテレビ|TBS]])
**1992年(平成4年)2月3日 月曜日 21:00 - 22:54
**製作:[[東宝]]。企画協力:[[オスカープロモーション]]
**脚本:[[矢島正雄]]。監督:[[三村晴彦]]。音楽:[[小六禮次郎]]
**企画:[[古賀誠一]]、風間健治、[[樋口祐三]]。プロデュース:青木信也、小澤康彦、高橋昇
**出演:[[小田茜]]、[[萩原聖人]]、[[後藤久美子]]、[[布施博]]、[[秋本奈緒美]]、[[越智静香]]、[[小島三児]]、[[小倉一郎]]、[[細川俊之]]、[[高樹沙耶]]([[益戸育江]])、[[吉行和子]]、[[でんでん]]、[[小田薫]]、[[二瓶鮫一]]、[[粟津號]]、[[谷津勲]] ほか
*日本名作ドラマ『伊豆の踊子』([[テレビ東京|TX]])月曜日 21:00 - 21:54
**1993年(平成5年)6月14日、21日(全2回) 月曜日 21:00 - 21:54
**脚本:[[井手俊郎]]、[[恩地日出夫]]。演出:恩地日出夫。音楽:[[毛利蔵人]]。制作会社:東北新社クリエイツ、TX。
**出演:[[早勢美里]](早瀬美里)、[[木村拓哉]]、[[加賀まりこ]]、[[柳沢慎吾]]、[[飯塚雅弓]]、[[大城英司]]、[[石橋蓮司]]
*[[モーニング娘。新春! LOVEストーリーズ]]1st story『伊豆の踊子』(TBS)
**2002年(平成14年)1月2日 水曜日 21:00 - 23:24
**脚本:[[寺田敏雄]]。演出:[[星田良子]]
**制作:[[持田一政]]、[[浅井洋一]]。企画:[[貴島誠一郎]]、[[橋本孝 (プロデューサー)|橋本孝]]。プロデュース:[[鈴木伸太郎]]
**出演:[[後藤真希]]、[[小橋賢児]]、[[石黒賢]]、[[片平なぎさ]]、[[保田圭]]、[[辻希美]]、[[国分佐智子]]、[[渡辺いっけい]]、[[大杉漣]]、[[銀粉蝶]]、[[北川智繪]]、[[ト字たかお]]、[[鈴木修平]]、[[三木茂]]、[[西川りな]]、[[石原有菜]]、[[劇団東俳]]、[[テアトルアカデミー]]、伊豆の住民

{{前後番組|
放送局=[[関西テレビ放送|関西テレビ]]制作・[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系列|
放送枠=[[白雪劇場]]<br />【[[川端康成名作シリーズ]]】|
番組名=伊豆の踊子<br />(1973年)|
前番組=[[雪国 (小説)|雪国]]|
次番組=[[美しさと哀しみと]]|
2放送局=[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系|
2放送枠=[[青春アニメ全集]]|
2番組名=伊豆の踊子|
2前番組=(なし)|
2次番組=[[野菊の墓]]|
3放送局=[[テレビ東京]]系|
3放送枠=[[テレビ東京月曜9時枠の連続ドラマ#日本名作ドラマ|日本名作ドラマ]]|
3番組名=伊豆の踊子<br />(1993年)|
3前番組=[[門 (小説)|門]]|
3次番組=[[美徳のよろめき]]|
}}

== ラジオドラマ化 ==
*[[ラジオ図書館]]『伊豆の踊子』([[TBSラジオ|TBS]])
**1991年(平成3年)11月9日 日曜日 22:05 - 23:00
**脚色:[[森治美]]。提供:[[霊友会]]
**出演:[[増田未亜]]・[[中村彰男]]、[[大島蓉子]]、[[北川智絵]]

== 舞台化 ==
{{ウィキポータルリンク|舞台芸術|[[画像:P culture.svg|36px|Portal:舞台芸術]]}}
*新派『伊豆の踊子』
**1957年(昭和32年)[[新橋演舞場]]
**脚本:[[北条誠]]。主演:[[光本幸子]]
*新派『伊豆の踊子』
**1969年(昭和44年)
**主演:光本幸子、[[有田正治]]
*『贋作 伊豆の踊子2010』[[劇団ドガドガプラス]]公演
**2010年(平成22年)5月13日 - 19日 [[浅草東洋館]]
**脚本・演出:[[望月六郎]]
**出演:[[戸田佳世子]]、[[黒沢美香]]、[[浦川奈津子]]、[[kumico]]、[[松本都]]、[[梨本翠子]]、[[奈良坂篤]]、[[櫻井正一]]、[[高原知秀]]、[[J・橋口裕]]、ほか

== おもな収録刊行本 ==
=== 単行本 ===
*『伊豆の踊子』([[金星堂]]、1927年3月20日)
**装幀:[[吉田謙吉]](湯本館の一室「山桜」の欄間の図柄の函{{refnest|group="注釈"|函の図柄は、欄間のほか湯本館旅客の歯ブラシや歯磨き入れの丸い缶、湯ヶ島の火の見櫓。表紙・裏表紙には温泉湯や水をとおす筧や水槽、川中島にあるブランコなどが描かれており、踊子の櫛と山女と思われる魚の膳だけが赤に色付けされている。これらは川端滞在時に吉田が湯ヶ島を訪れて一晩でスケッチしたという<ref name="sonota"/>。}})。B6判。函入
**収録作品:「白い満月」「招魂祭一景」「孤児の感情」「驢馬に乗る妻」「葬式の名人」「犠牲の花嫁」「[[十六歳の日記]]」「青い海黒い海」「五月の幻」「伊豆の踊子」
*『伊豆の踊子』(金星堂、1928年10月5日)
**※ 1927年(昭和2年)刊行本の普及版。
*限定版『伊豆の踊子』(江川書房、1932年6月20日) 限定180部
**装幀:[[小穴隆一]]。[[菊判]]変形。函入。跋:[[小林秀雄 (批評家)|小林秀雄]]
**収録作品:「伊豆の踊子」
*『抒情哀話 伊豆の踊子』(近代文芸社、1933年4月10日)
**口絵写真:[[田中絹代]]
**収録作品:「伊豆の踊子」「白い満月」「招魂祭一景」「孤児の感情」「驢馬に乗る妻」「葬式の名人」「犠牲の花嫁」「十六歳の日記」「青い海黒い海」「五月の幻」
*コルボオ叢書『伊豆の踊子』(野田書房、1938年1月31日) 150部限定
**収録作品:「伊豆の踊子」
*細川叢書『伊豆の踊子』(細川書店、1947年5月1日) 2000部限定
**収録作品:「伊豆の踊子」
*東鐵文化読本第7号『伊豆の踊子』(東京鐵道局、1948年5月15日) 非売品
**収録作品:「伊豆の踊子」
*『伊豆の踊子』([[小山書店]]、1949年4月30日)
**解説:[[神西清]]
**収録作品:「伊豆の踊子」「葬式の名人」「南方の火」「[[抒情歌 (小説)|抒情歌]]」「[[燕の童女]]」「虹」
*『伊豆の踊子』(細川書店、1951年3月15日)
**収録作品:「伊豆の踊子」
*『[[雪国 (小説)|雪国]]・伊豆の踊子』([[新潮社]]、1952年8月20日)
**表紙カット:[[三岸節子]]。本文カット:[[岡鹿之助]]
**収録作品:「伊豆の踊子」「抒情歌」「雪国」「朝雲」
*『伊豆の旅』([[中央公論社]]、1954年10月5日)
**装幀:[[恩地孝四郎]]、[[高畠達四郎]]。扉に川端康成の生原稿コピーが印字。
**収録作品:「伊豆序説」「伊豆温泉記」「伊豆湯ヶ島」「[[正月三ヶ日 (小説)|正月三ヶ日]]」「椿」「夏の靴」「[[有難う]]」「処女の祈り」「伊豆の踊子」「伊豆の帰り」「伊豆の思ひ出―『独影自命』より―」
*新潮青春文学叢書『伊豆の踊子』(新潮社、1955年1月31日)
**装幀:[[山田申吾]]。あとがき:[[古谷綱武]]
**収録作品:「伊豆の踊子」「二十歳」「朝雲」「[[母の初恋]]」
*『伊豆の踊子』([[講談社]]ロマンブックス、1964年5月10日)
**装幀:[[高田力蔵]]。解説:[[福永武彦]]
**収録作品:「白い満月」「伊豆の踊子」「春景色」「温泉宿」「正月三ヶ日」「夏の靴」「[[有難う]]」
*文庫版『伊豆の踊子』([[三笠書房|三笠文庫]]、1951年10月)
**川端康成「あとがき」
*文庫版『伊豆の踊子』([[新潮文庫]]、1950年8月20日。改版2003年5月5日)
**カバー装幀:[[宮本順子]]。解説:[[竹西寛子]]「川端康成 人と作品」。[[三島由紀夫]]「『伊豆の踊子について』」。年譜。
**収録作品:「伊豆の踊子」「温泉宿」「抒情歌」「[[禽獣 (小説)|禽獣]]」
*文庫版『伊豆の踊子・禽獣』([[角川文庫]]、1951年7月30日。改版1989年、1999年)
**装幀:[[杉浦康平]]。カバー装獲:[[蓬田やすひろ]]
**解説:[[進藤純孝]]「川端康成――人と文学」。古谷鋼武「作品解説」。川端康成「『伊豆の踊子について』」。年譜。
**収録作品:「伊豆の踊子」「青い海黒い海」「驢馬に乗る妻」「禽獣」「慰霊歌」「二十歳」「[[むすめごころ]]」「父母」
*文庫版『伊豆の踊子・温泉宿 他四篇』([[岩波文庫]]、1952年2月。改版2003年9月18日)
**装幀:[[精興社]]。川端康成「あとがき」。略年譜。
**収録作品:「十六歳の日記」「招魂祭一景」「伊豆の踊子」「青い海黒い海」「春景色」「温泉宿」
*文庫版『伊豆の踊子・花のワルツ 他二編』([[旺文社文庫]]、1965年7月10日)
**解説:[[山本健吉]]、[[木俣修]]、[[中里恒子]]
**収録作品:「伊豆の踊子」「花のワルツ」「十六歳の日記」「十七歳」
*文庫版『伊豆の踊子・十六歳の日記』([[講談社文庫]]、1972年11月)
**解説・年譜作成:[[長谷川泉]]
**収録作品:「伊豆の踊子」「十六歳の日記」
*文庫版『伊豆の踊子』([[集英社文庫]]、1977年5月30日。改版1993年6月5日)
**解説:[[奥野健男]]「鮮やかな感覚表現」。[[橋本治]]「鑑賞――『恋の垣根』」。年譜。
**※ 2008年新装版より、カバー装画:[[荒木飛呂彦]]
**収録作品:「伊豆の踊子」「招魂祭一景」「十六歳の日記」「死体紹介人」「温泉宿」
*文庫版『伊豆の旅』([[中公文庫]]、1981年4月10日。改版2015年11月21日)
**解説:[[川端香男里]]「文庫新版によせて」
**収録作品:1954年10月の中央公論社からの単行本と同内容。
*文庫版『伊豆の踊子・[[骨拾ひ|骨拾い]]』([[講談社文芸文庫]]、1999年3月10日)
**装幀:[[菊地信義]]。解説:[[羽鳥徹哉]]
**収録作品:「骨拾い」「日向」「処女作の祟り」「篝火」「十六歳の日記」「油」「葬式の名人」「孤児の感情」「伊豆の踊子」「父母への手紙」「ちよ」
*英文版『The Dancing Girl of Izu and Other Stories』(訳:J. Martin Holman)(Counterpoint Press、1998年)
**収録作品:伊豆の踊子(The Dancing Girl of Izu)、十六歳の日記(Diary of My Sixteenth Year)、油(Oil)、葬式の名人(The Master of Funerals)、骨拾い(Gathering Ashes)、ほか
*ドイツ語版『Die Tänzerin von Izu ; Tausend Kraniche ; Schneeland ; Kyoto : ausgewählte Werke』(訳:[[オスカー・ベンル]])(Die Tänzerin von Izu ; Tausend Kraniche ; Schneeland ; Kyoto : ausgewählte Werke)<ref>{{Cite book|title=Die Tänzerin von Izu ; Tausend Kraniche ; Schneeland ; Kyoto : ausgewählte Werke|url=https://ci.nii.ac.jp/ncid/BA08713409|publisher=Carl Hanser|date=1968|language=ja|first=康成|last=川端|first2=Oscar|last2=Benl}}</ref>

=== 全集 ===
*『川端康成全集第1巻 伊豆の踊子』(新潮社、1969年5月25日)
**カバー題字:[[松井如流]]。[[菊判]]変形。函入。口絵写真2葉:著者小影、大雅軼事([[富岡鉄斎]])
**収録作品:「[[十六歳の日記]]」「招魂祭一景」「油」「葬式の名人」「篝火」「空に動く灯」「蛙往生」「白い満月」「青い海黒い海」「伊豆の踊子」「春景色」「死者の書」「文科大学挿話」「死体紹介人」「温泉宿」「[[狂つた一頁]]」
*『川端康成全集第2巻 小説2』(新潮社、1980年10月20日)
**カバー題字:[[東山魁夷]]。[[四六判]]。函入
**収録作品:「十六歳の日記」「招魂祭一景」「油」「葬式の名人」「篝火」「空に動く灯」「非常」「孤児の感情」「蛙往生」「驢馬に乗る妻」「青い海黒い海」「明日の約束」「白い満月」「伊豆の踊子」「春を見る近眼鏡」「文科大学挿話」「伊豆の帰り」「狂つた一頁」「温泉場の事」「祖母」「犠牲の花嫁」「五月の幻」「霰」「南方の火」「椿」「春景色」

=== 映像資料 ===
*『伊豆の踊子(ビデオ文学館1)』([[NHKサービスセンター]]/[[講談社]]、1986年)
**[[ビデオテープ]]([[VHS]])68分。ケース。ブックレット
**制作・発行:[[NHKソフトウェア]]
**収録内容:伊豆の踊子(朗読:[[江守徹]]。音楽:[[廣瀬量平]]。挿絵:[[風間完]])
**※「ビデオ文学館」全20巻(セット販売)の第1巻目。第1期全5巻セットとして発売。
*『伊豆の踊子(日本文学紀行 名作の風景1)』(VIDEO TWINS、1993年)
**ビデオテープ(VHS)61分。ケース。ブックレット
**製作:ほりはた+[[クレヨンハウス]]
**※「日本文学紀行 名作の風景」全12巻(セット販売)の第1巻目。
*[https://www.amazon.co.jp/dp/B00SV0MRCA/427376005/ 『恋の花咲く 伊豆の踊子』(DVD)1933年製作]/[https://chunichieigasha.co.jp/ 中日映画社]
**解説:34分/本編:112分
**モノクロ片面・二層、ハイビジョンテレシネ化

=== 漫画 ===
*ホーム社 MANGA BUNGOシリーズ『伊豆の踊子』([[ホーム社]]、2010年9月10日)
**画:[[井出智香恵]]

=== アンソロジー ===
*『昭和の文学――ジュニア版 世界の名作8』([[国土社]]、1965年9月15日)
**装幀:[[沢田重隆]]。B6判。厚紙装。カバー
**編集:[[古谷綱武]]
**収録作品:川端康成「伊豆の踊子」、[[横光利一]]「鞭」、[[井伏鱒二]]「鯉」、[[林芙美子]]「風琴と魚の町」、[[尾崎一雄]]「虫のいろいろ」、[[堀辰雄]]「[[ルウベンスの偽画]]」、[[梶井基次郎]]「[[Kの昇天]]」、[[宮沢賢治]]「ざしき童子の話」、[[伊藤整]]「風」、[[上林暁]]「小便小僧」、[[太宰治]]「雪の夜の話」、[[永井龍男]]「黒い御飯」、[[大岡昇平]]「サンホセ野戦病院」、[[井上靖]]「湖の中の川」、[[梅崎春生]]「風早青年」
*英文版『The Izu Dancer』(訳:[[エドワード・G・サイデンステッカー]]、Leon Picon)(Tuttle classics、1964年、2004年)
**収録作品:川端康成「伊豆の踊子」(The Izu Dancer)、[[井上靖]]「ある偽作家の生涯」(The Counterfeiter)、井上靖「姨捨」(Obasute)、井上靖「満月」(The Full Moon)
*英文版『Oxford Book of Japanese Short Stories (Oxford Books of Prose & Verse) 』(編集:Theodore W. Goossen。訳:Jay Rubin)(Oxford and New York: Oxford University Press,、1997年)
**収録作品:[[森鷗外]]「[[山椒大夫]]」(Sansho the Steward)、[[芥川龍之介]]「[[藪の中]]」(In a Grove)、[[宮沢賢治]]「[[なめとこ山の熊]]」(The Bears of Nametoko)、[[横光利一]]「[[春は馬車に乗って]]」(Spring Riding in a Carriage)、川端康成「伊豆の踊子」(The Izu Dancer)、[[梶井基次郎]]「[[檸檬 (小説)|檸檬]]」(Lemon)、[[坂口安吾]]「[[桜の森の満開の下]]」(In the Forest, Under Cherries in Full Bloom)、[[中島敦]]「[[名人伝]]」(The Expert)、[[安部公房]]「[[賭 (小説)|賭]]」(The Bet)、[[三島由紀夫]]「[[女方 (小説)|女方]]」(Onnagata,)、ほか

== 派生作品・オマージュ作品 ==
※出典は<ref>[[恒川茂樹]]「川端康成〈転生〉作品年表【引用・オマージュ篇】」({{Harvnb
|転生|2022|pp=261-267}})</ref>
{{Columns-list|2|
*失踪事件([[加田伶太郎]]、1957年4月)
*[[天城越え (松本清張)|天城こえ]]([[松本清張]]、1959年11月)
**「天城越え」に改題し『[[黒い画集]]2』(1959年12月)に収録。
*天城峠殺人事件([[内田康夫]]、1985年9月)
*踊り子の謎 天城峠殺人交差([[深谷忠記]]、1990年10月)
*伊豆天城 幻の殺人旅行([[斎藤栄]]、1991年2月)
*雪国の踊子([[荻野アンナ]]、1991年3月)
*伊豆の踊り子殺人事件([[島田一男]]、1994年9月)
*天城大滝温泉殺人事件([[吉村達也]]、1995年6月)
*学生([[東郷隆]]、1995年10月)
*湯の宿(東郷隆、1996年9月)
*伊豆・踊り子列車殺人号([[辻真先]]、2005年5月)
*死のスケジュール 天城峠([[西村京太郎]]、2009年5月)
*本音で語る「伊豆の踊子」([[菅野春雄]]、2013年1月 - 2014年7月)
}}

== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|32em}}

== 参考文献 ==
*{{Citation|和書|author=川端康成|date=1970-10|title=川端康成全集第14巻 独影自命・続落花流水|publisher=[[新潮社]]|id={{NCID|BN04731783}}|ref={{Harvid|独影自命|1970}}}}
*{{Citation|和書|author=川端康成|date=1980-10|title=川端康成全集第2巻 小説2|publisher=新潮社|isbn=978-4106438028|ref={{Harvid|小説2|1980}}}}
*{{Citation|和書|author=川端康成|date=1980-04|title=川端康成全集第10巻 小説10|publisher=新潮社|isbn=978-4106438103|ref={{Harvid|小説10|1980}}}}
*{{Citation|和書|author=川端康成|date=1980-06|title=川端康成全集第21巻 小説21|publisher=新潮社|isbn=978-4-10-643821-9|ref={{Harvid|小説21|1980}}}}
*{{Citation|和書|author=川端康成|date=1982-02|title=川端康成全集第28巻 随筆3|publisher=新潮社|isbn=978-4106438288|ref={{Harvid|随筆3|1982}}}}
*{{Citation|和書|author=川端康成|date=1982-09|title=川端康成全集第29巻 評論1|publisher=新潮社|isbn=978-4-10-643829-5|ref={{Harvid|評論1|1982}}}}
*{{Citation|和書|author=川端康成|date=1982-05|title=川端康成全集第33巻 評論5|publisher=新潮社|isbn=978-4-10-643833-2|ref={{Harvid|評論5|1982}}}}
*{{Citation|和書|author=川端康成|date=1983-02|title=川端康成全集第35巻 雑纂2|publisher=新潮社|isbn=978-4-10-643835-6|ref={{Harvid|雑纂2|1983}}}}
*{{Citation|和書|author1=川端康成|author2=[[横光利一]]|editor1=[[長谷川泉]]|editor2=[[神谷忠孝]]|date=1990-09|title=日本近代文学大系42――川端康成・横光利一集|publisher=[[角川書店]]|isbn=978-4-04-572042-0|ref={{Harvid|文学大系|1990}}}} 初版は1972年7月 {{NCID|BN04731444}}
*{{Citation|和書|author=川端康成|date=1993-06|title=伊豆の踊子| edition=改版|publisher=[[集英社]]|series=[[集英社文庫]]|isbn=978-4-08-750001-1|ref={{Harvid|踊子・集英|1993}}}} 初版は1977年5月。
*{{Citation|和書|author=川端康成|date=2003-05|title=伊豆の踊子|edition=改版|publisher=新潮社|series=[[新潮文庫]]|isbn=978-4-10-100102-9|ref={{Harvid|踊子・新潮|2003}}}} 初版は1950年8月。
*{{Citation|和書|author=川端康成|date=2003-09|title=伊豆の踊子・温泉宿 他四篇|edition=改版|publisher=[[岩波書店]]|series=[[岩波文庫]]|isbn=978-4-00-310811-6|ref={{Harvid|踊子・岩波|2003}}}} 初版は1952年2月。
*{{Citation|和書|author=川端康成|date=2015-11|title=伊豆の旅|edition=改版|publisher=[[中央公論新社]]|series=[[中公文庫]]|isbn=978-4-12-206197-2|ref={{Harvid|伊豆旅|2015}}}} 初版は1981年4月。
*{{Citation|和書|author=川端康成|date=1991-03|title=一草一花|publisher=[[講談社]]|series=[[講談社文芸文庫]]|isbn=978-4-06-196118-0|ref={{Harvid|一草一花|1991}}}}
*{{Citation|和書|date=2013-12|title=川端康成随筆集|publisher=岩波書店|series=岩波文庫|isbn=978-4-00-310815-4|ref={{Harvid|随筆集|2013}}}}
*{{Citation|和書|date=2016-04|title=川端康成初恋小説集|publisher=新潮社|series=新潮文庫|isbn=978-4101001272|ref={{Harvid|初恋小説|2016}}}}
*{{Citation|和書|author=[[板垣信]]|editor=[[福田清人]]|date=2016-08|title=川端康成|publisher=[[清水書院]]|series=Century Books 人と作品20|edition=新装版|isbn=978-4389401092|ref={{Harvid|板垣|2016}}}} 初版は1969年6月 ISBN 978-4389400200
*{{Citation|和書|author=[[川端秀子]]|date=1983-04|title=川端康成とともに|publisher=新潮社|isbn=978-4-10-346001-5|ref={{Harvid|秀子|1983}}}}
*{{Citation|和書|author=[[北野昭彦]]|date=2007-03|title=『伊豆の踊子』の〈物乞ひ旅芸人〉の背後――定住と遍歴、役者と演劇青年、娘芸人と学生|journal=日本言語文化研究|issue=10|volume=|pages=1-15|publisher=[[龍谷大学]]|naid=110006607894|ref={{Harvid|北野|2007}}}}
*{{Citation|和書|author=[[小谷野敦]]|date=2013-05|title=川端康成伝――双面の人|publisher=[[中央公論新社]]|isbn=978-4-12-004484-7|ref={{Harvid|小谷野|2013}}}}
*{{Citation|和書|editor1=[[仁平政人]]|editor2=[[原善]]|editor3=[[藤田祐史]]|date=2022-11|title=〈転生〉する川端康成 1――引用・オマージュの諸相 |publisher=[[文学通信]]|isbn= 978-4909658890 |ref={{Harvid|転生|2022}}}}
*{{Citation|和書|editor=[[鈴木貞美]]|date=1985-07|title=新潮日本文学アルバム27 [[梶井基次郎]]|publisher=新潮社|isbn=978-4-10-620627-6|ref={{Harvid|アルバム梶井|1985}}}}
*{{Citation|和書|author=[[高本條治]]|date=1997|title=ただうなずいて見せたひと――川端康成『伊豆の踊子』の語用論的分析|journal=[[上越教育大学]]研究紀要|issue=16(2)|volume=|pages=467-483|publisher=上越教育大学|naid=110000530454|ref={{Harvid|高本|1997}}}}
*{{Citation|和書|editor=[[長谷川泉]]|date=1969-03|title=川端康成作品研究|series=近代文学研究双書|publisher=[[八木書店]]|id={{NCID|BN01844524}}|ref={{Harvid|作品研究|1969}}}} 増補版1973年1月。
*{{Citation|和書|editor=長谷川泉|date=1978-04|title=川端康成――その愛と美と死|series= Tomo選書|publisher=[[主婦の友社]]|id={{NCID|BN03243150}}|ref={{Harvid|愛と美|1978}}}}
*{{Citation|和書|author=長谷川泉|date=1991-12|title=川端康成論考|series=長谷川泉著作選第5巻|publisher=[[明治書院]]|isbn=978-4-625-53105-7|ref={{Harvid|論考|1991}}}} 初版1965年6月、増補版1969年6月、増補三訂版1984年5月。
*{{Citation|和書|author=長谷川泉監修|editor=[[読売新聞社]]文化部|date=1992-10|title=実録川端康成|series=近代作家研究叢書110|publisher=[[日本図書センター]]|isbn=978-4820592099|ref={{Harvid|実録|1992}}}} 原本(読売新聞社)は1969年7月 {{NCID|BN11692830}}
*{{Citation|和書|editor=[[羽鳥徹哉]]|date=1994-09|title=作家の自伝15 川端康成|publisher=日本図書センター|isbn=978-4-8205-8016-4|ref={{Harvid|作家の自伝|1994}}}}
*{{Citation|和書|editor1=羽鳥徹哉|editor2=原善|date=1998-06|title=川端康成全作品研究事典|publisher=[[勉誠出版]]|isbn=978-4-585-06008-6|ref={{Harvid|事典|1998}}}}
*{{Citation|和書|author=羽鳥徹哉監修|date=2009-02|title=別冊太陽 日本のこころ157 川端康成――蒐められた日本の美|publisher=[[平凡社]]|isbn=978-4-582-92157-1|ref={{Harvid|太陽|2009}}}}
*{{Citation|和書|author=[[林武志]]|date=1976-05|title=川端康成研究|publisher=[[桜楓社]]|id={{NCID|BN05075749}}|ref={{Harvid|林武|1976}}}}
*{{Citation|和書|author=[[日高靖一]]ポスター提供|date=1989-05|title=なつかしの日本映画ポスターコレクション――昭和黄金期日本映画のすべて|series=デラックス近代映画|publisher=[[近代映画社]]|isbn=978-4764870550|ref={{Harvid|なつかし|1989}}}}
*{{Citation|和書|author=日高靖一ポスター提供・監修|date=1990-02|title=なつかしの日本映画ポスターコレクション PART2|edition=永久保存版|publisher=近代映画社|isbn=978-4764816404|ref={{Harvid|なつかし2|1990}}}}
*{{Citation|和書|editor=[[保昌正夫]]|date=1984-03|title=新潮日本文学アルバム16 川端康成|publisher=新潮社|isbn=978-4-10-620616-0|ref={{Harvid|アルバム川端|1984}}}}
*{{Citation|和書|author=[[三川智央]]|date=1998-02|title=『伊豆の踊子』再考――葛藤する〈語り〉と別れの場面における主語の問題|journal=[[金沢大学]]国語国文|issue=23|volume=|pages=229-238|publisher=金沢大学|url= http://www2.ttn.ne.jp/~tomohisa/new_page_6.htm|naid=110000140179|ref={{Harvid|三川|1998}}}}
*{{Citation|和書|author=[[森本穫]]|date=2014-09|title=魔界の住人 川端康成――その生涯と文学 上巻|publisher=勉誠出版|isbn=978-4585290759|ref={{Harvid|森本・上|2014}}}}
*{{Citation|和書|author=森本穫|date=2014-09|title=魔界の住人 川端康成――その生涯と文学 下巻|publisher=勉誠出版|isbn=978-4585290766|ref={{Harvid|森本・下|2014}}}}
*{{Citation|和書|date=1966-06|title=[[梶井基次郎]]全集第3巻 書簡|publisher=[[筑摩書房]]|isbn=978-4-48-070403-0|ref={{Harvid|梶井3巻|1966}}}}
*{{Citation|和書|author=[[三島由紀夫]]|date=2003-02|title=決定版 三島由紀夫全集第27巻 評論2|publisher=新潮社|isbn=978-4-10-642567-7|ref={{Harvid|三島27巻|2003}}}}
*{{Citation|和書|author=三島由紀夫|date=2003-04|title=決定版 三島由紀夫全集第29巻 評論4|publisher=新潮社|isbn=978-4-10-642569-1|ref={{Harvid|三島29巻|2003}}}}
*{{Citation|和書|editor=|date=2007-07|title=キネマ旬報ベスト・テン80回全史 1924-2006|series=[[キネマ旬報]]ムック|publisher=[[キネマ旬報社]]|isbn=978-4873766560|ref={{Harvid|80回史|2007}}}}
*{{Citation|和書|editor=|date=2012-05|title=キネマ旬報ベスト・テン85回全史 1924-2011|series=キネマ旬報ムック|publisher=キネマ旬報社|isbn=978-4873767550|ref={{Harvid|85回史|2012}}}}

== 関連項目 ==
{{Commonscat}}
*[[天城湯ヶ島町]]
*[[天城山隧道]]
*[[天城越え]]
*[[踊り子 (列車)]]
*[[下田街道]]
*[[修善寺川]]
*[[冬の蠅]]
*[[桃割れ]]
*[[闇の絵巻]]

{{川端康成}}
{{リダイレクトの所属カテゴリ
|header=この記事は以下のカテゴリからも参照できます
|redirect1=伊豆の踊子 (テレビドラマ)
|1-1=川端康成原作のテレビドラマ
|1-2=日本の恋愛ドラマ
|1-3=1961年のテレビドラマ
|1-4=NHK総合テレビジョンのテレビドラマ
|1-5=1973年のテレビドラマ
|1-6=白雪劇場
|1-7=1992年のテレビドラマ
|1-8=TBSのスペシャルドラマ
|1-9=1993年のテレビドラマ
|1-10=テレビ東京のテレビドラマ
|1-11=2002年のテレビドラマ
|1-12=後藤真希
|1-13=伊豆半島を舞台としたテレビドラマ
|1-14=大正時代を舞台としたテレビドラマ
|redirect2=伊豆の踊子 (ラジオドラマ)
|2-1=TBSラジオのドラマ
|2-2=1991年のラジオドラマ
|redirect3=伊豆の踊子 (テレビアニメ)
|3-1=日本の小説を原作とするアニメ作品
|3-2=恋愛アニメ
|3-3=日本テレビ系アニメ
|3-4=1986年のテレビアニメ
|redirect4=伊豆の踊子 (映画)
|4-1=川端康成原作の映画作品
|4-2=静岡県を舞台とした映画作品
|4-3=大正時代を舞台とした映画作品
|4-4=日本の恋愛映画
|4-5=1933年の映画
|4-6=1954年の映画
|4-7=1960年の映画
|4-8=野村芳太郎の監督映画
|4-9=五所平之助の監督映画
|redirect5=伊豆の踊子 (舞台劇)
|5-1=小説を原作とする舞台作品
|5-2=1957年の舞台作品
|5-3=日本の舞台作品
}}
{{Normdaten}}


{{Lit-stub}}
{{DEFAULTSORT:いすのおとりこ}}
{{DEFAULTSORT:いすのおとりこ}}
[[Category:1926年の小説]]
[[Category:1926年の小説]]
[[Category:川端康成の小説]]
[[Category:川端康成の短編小説]]
[[Category:日本の短編小説]]
[[Category:日本の恋愛小説]]
[[Category:静岡県を舞台とした作品]]
[[Category:フォア文庫]]
[[Category:1933年の映画]]
[[Category:伊豆半島を舞台とした小説]]
[[Category:1954年の映画]]
[[Category:下田市を舞台とした小説]]
[[Category:1960年の映画]]
[[Category:伊豆市を舞台とした作品]]
[[Category:1963年の映画]]
[[Category:大正時代を舞台とした作品]]
[[Category:1967年映画]]
[[Category:身分違い恋愛を扱った作品]]
[[Category:日本の恋愛映画]]
[[Category:野村芳太郎の監督映画]]
[[Category:五所平之助の監督映画]]
[[Category:文学を原作とする映画作品]]
[[Category:文学を原作とするテレビドラマ]]

2024年10月31日 (木) 02:34時点における最新版

伊豆の踊子
旧天城トンネル。主人公はこのトンネルの脇にあった天城峠の茶屋で、はじめて踊子と会話した。
旧天城トンネル。主人公はこのトンネルの脇にあった天城峠茶屋で、はじめて踊子と会話した。
訳題 The Dancing Girl of Izu
作者 川端康成
日本の旗 日本
言語 日本語
ジャンル 短編小説
発表形態 雑誌掲載
初出情報
初出伊豆の踊子」-『文藝時代1926年1月号(第3巻第1号)
続伊豆の踊子」-『文藝時代』1926年2月号(第3巻第2号)
刊本情報
出版元 金星堂
出版年月日 1927年3月20日
装幀 吉田謙吉
ウィキポータル 文学 ポータル 書物
テンプレートを表示
伊豆の踊子の銅像

伊豆の踊子』(いずのおどりこ)は、川端康成短編小説。川端の初期の代表作で、伊豆を旅した19歳の時の実体験を元にしている[1][2][3][4]。孤独や憂鬱な気分から逃れるため伊豆へ一人旅に出た青年が、修善寺湯ヶ島天城峠を越え湯ヶ野下田に向かう旅芸人一座と道連れとなり、踊子の少女に淡い恋心を抱く旅情と哀歓の物語。孤児根性に歪んでいた青年の自我の悩みや感傷が、素朴で清純無垢な踊子の心によって解きほぐされていく過程と、彼女との悲しい別れまでが描かれている[5]

日本人に親しまれている名作でもあり、今までに6回映画化され、ヒロインである踊子・薫は田中絹代から吉永小百合山口百恵まで当時のアイドル的な女優が演じている[4][6]

2022年(令和4年)時点で、新潮文庫版だけでも約338万部を売り上げている[7]

発表経過

[編集]

1926年(大正15年)、雑誌『文藝時代』1月号(第3巻第1号・新年特別創作号)に「伊豆の踊子」、2月号(第3巻第2号)に「続伊豆の踊子」として分載された[8]。単行本は翌年1927年(昭和2年)3月20日に金星堂より刊行された[8][9]。なお、刊行に際しての校正作業は梶井基次郎がおこなった[10][11][12][13]

翻訳版はオスカー・ベンル訳のドイツ語(独題:Die kleine Tänzerin von Izu 1942年と1948年、Die Tänzerin von Izu 1968年以後)をはじめ、エドワード・サイデンステッカー英語(英題:The Izu Dancer 1955年, 省略版[14])、Eiichi Hayashi 1957年、J. Martin Holman訳(英題:The Dancing Girl of Izu 1997年以後)、中国語(中題、繁體中文:伊豆的舞女 1960年、伊豆的舞孃 1969年)、ポルトガル語(葡題:A pequena dançarina de Izu 1962年)、エスペラント語 (エスペラント題:Dancistino de Izu 1965年)、イタリア語(伊題:La danzatrice di Izu 1965年)、韓国語(韓題:이즈의 무희 1968年)、トルコ語 (トルコ題:İzu dansözü 1968年)、スペイン語(西題:La danzarina de Izu 1969年)、オランダ語(蘭題:De danseres uit Izu 1969年)、ロシア語(露題:Танцовщица из Идзу 1971年)、フランス語(仏題:La danseuse d'Izu 1973年)など世界各国で出版されている[15]

あらすじ

[編集]

20歳の一高生の「私」は、自分の性質が孤児根性で歪んでいると厳しい反省を重ね、その息苦しい憂鬱に堪え切れず、1人伊豆への旅に出る。「私」は、湯ヶ島の道中で出会った旅芸人一座の1人の踊子に惹かれ、天城峠トンネルを抜けた後、彼らと一緒に下田まで旅することになった。一行を率いているのは踊子の兄で、大島から来た彼らは家族で旅芸人をしていた。

天城峠の茶屋の老婆から聞いていた旅芸人を見下げた話から、夜、湯ヶ野の宿で踊子が男客に汚されるのかと「私」は心配して眠れなかったが、翌朝、朝湯につかっている「私」に向って、川向うの湯殿から無邪気な裸身を見せて大きく手をふる踊子の幼い姿に、「私」の悩みはいっぺんに吹き飛び、「子供なんだ」と自然に喜びで笑いがこぼれた。

「私」は、旅芸人一行と素性の違いを気にすることなく生身の人間同士の交流をし、人の温かさを肌で感じた。そして、踊子が「私」に寄せる無垢で純情な心からも、「私」は悩んでいた孤児根性から抜け出せると感じた。

下田へ着き、「私」は踊子とその兄嫁らを活動(映画)に連れて行こうとするが、踊子だけしか都合がつかなくなると、母親(兄嫁の母)は踊子の懇願をふりきり、活動行きを反対した。次の日に東京へ帰らなければならない「私」は、夜1人だけで活動に行った。暗い町で遠くから微かに踊子の叩く太鼓の音が聞えてくるようで、わけもなく涙がぽたぽた落ちた。

別れの旅立ちの日、昨晩遅く寝た女たちを置いて、踊子の兄だけが「私」を下田港の乗船場まで送りに来た。乗船場へ近づくと、海際に踊子がうずくまって「私」を待っていた。2人だけになった間、踊子はただ「私」の言葉にうなずくばかりで一言もなかった。「私」が船に乗り込もうと振り返った時、踊子はさよならを言おうとしたようだが、もう一度うなずいて見せただけだった。

船がずっと遠ざかってから、踊子がで白いものを振り始めた。伊豆半島の南端が後方に消えてゆくまで、一心に沖の大島を眺めていた「私」は、船室の横にいた少年の親切を自然に受け入れ、泣いているのを見られても平気だった。「私」の頭は「澄んだ水」のようになり、流れるままの涙がぽろぽろと零れて、後には「何も残らないような甘い快さ」だった。

登場人物

[編集]

年齢は数え年

20歳。一高の学生。
学校の制帽で、紺飛白の着物にをはき、学生鞄を肩にかけた格好で伊豆の一人旅をしている。湯川橋の近くで旅芸人の一行に出会う。再び天城七里の山道で出会い下田まで一緒に旅する。
湯ヶ野鳥打帽を買い、制帽は鞄にしまう。歯並びが悪い。東京では寄宿舎に住む。
踊子(薫)
14歳。当初「私」には17歳くらいに見える。旅芸人一座の一員。古風に結った髪に卵形の凛々しい小さい顔の初々しい乙女。
のように足のよく伸びた白い裸身で湯殿から無邪気に手をふる。五目並べが強い。美しい黒髪。前髪に桃色のを挿している。美しく光る黒眼がちの大きい眼。花のように笑う。尋常小学校2年までは甲府にいたが、家族と大島に引っ越す。小犬を旅に同行させている。
男(栄吉)
24歳。踊子の兄で旅芸人。旅芸人たちは大島の波浮港からやって来た。
栄吉は東京で、ある新派役者の群に加わっていたことがある。実家は甲府にあり、家の後目は栄吉の兄が継いでいる。幼い妹にまで旅芸人をさせなければならない事情があり、心を痛めている。大島には小さな家を2つ持っていて、山の方の家には爺さんが住んでいる。
上の娘(千代子)
19歳。栄吉の妻。
流産早産で2度子供を亡くした。2度目の子は旅の空で早産し、子は1週間で死去。下田の地でその子の四十九日を迎える。
40女(おふくろ)
40代くらい。千代子の母。栄吉の義母。
薫に三味線を教えているが、薫は声がわりの最中なので、高い声で歌わせない。生娘の薫に、男が触るのを嫌がる。国の甲府市には民次という尋常5年生の息子もいる。
中の娘(百合子)
17歳。雇われている芸人。大島生れ。はにかみ盛り。
茶屋の婆
天城七里の山道の茶店の婆さん。
一高の制帽の「私」を旦那さまと呼び、旅芸人を「あんな者」と軽蔑を含んだ口調で話す。
茶屋の爺
婆さんの夫。
長年中風を患い、全身が不随になっている。水死人のようにむくみ、瞳は黄色く濁っている。この老人には、川端が『十六歳の日記』で描いた病身の祖父の心象が投影されていることがしばしば指摘されている[16][17]
紙屋
宿で「私」とを打つ。紙類を卸して廻る行商人。60歳近い爺さん。
鳥屋
40歳前後の男。旅芸人一行が泊まっている木賃宿の間を借りて鳥屋をしている。
踊子たちに鳥鍋を御馳走する。「水戸黄門漫遊記」の続きを読んでくれと踊子にせがまれるが立ち去り、「私」が代りにそれを読んで踊子に聞かせる。
土方風の男
鉱夫。
帰りの霊岸島行きの下田港の乗船場で、「私」に声をかけ、水戸へ帰る老婆を上野駅まで連れてやってほしいと頼む。
老婆
蓮台寺銀山で働いていた倅とその嫁をスペイン風邪で亡くす。残された孫3人と故郷の水戸へ帰えるため、乗船場まで鉱夫たちに付添われている。
少年
河津の工場主の息子。東京へ帰る船で「私」と出会う。
一高入学準備のために東京に向っていた。泣いている「私」に海苔巻きすしをくれ、着ている学生マントへもぐり込ませ温めてくれる。

作品背景

[編集]

※川端康成自身の発言や、作品や随筆内からの文章の引用は〈 〉にしています(論者や評者の論文からの引用部との区別のため)。

川端康成伊豆に旅したのは、一高入学の翌年1918年大正7年)の秋で、の誰にも告げずに出発した約8日(10月30日から11月7日)の初めての一人旅であった[1][2][4][5][注釈 1]。川端はそこで、岡田文太夫(松沢要)こと、時田かほる(踊子の兄の本名)率いる旅芸人一行と道連れになり、幼い踊子・加藤たみ(松沢たみという説もある)と出会い、下田港からの帰京の賀茂丸では、蔵前高工(現・東京工大)の受験生・後藤孟と乗り合わせた[21][22][23][24]

踊子の兄とは旅の後も文通があり、「横須賀の甲州屋方 時田かほる」差出人の川端宛て(一高の寄宿舎・南寮4番宛て)の年賀状(大正7年12月31日消印)が現存している[22]。なお、踊子・たみのことは、旅の翌年に書かれた川端の処女作『ちよ』(1919年)の中にも部分的に描かれている[5][20][25][26]

川端は、旅から約7年経た後に『伊豆の踊子』を書いた。川端は自作について、〈「伊豆の踊子」はすべて書いた通りであつた。事実そのままで虚構はない。あるとすれば省略だけである〉とし、〈私の旅の小説の幼い出発点である〉と述べている[27]。また、旅に出た動機については以下のように語っている[1][2]

私は高等学校の寮生活が、一、二年の間はひどく嫌だつた。中学五年の時の寄宿舎と勝手が違つたからである。そして、私の幼年時代が残した精神の病患ばかりが気になつて、自分を憐れむ念と自分を厭ふ念とに堪へられなかつた。それで伊豆へ行つた。 — 川端康成「湯ヶ島での思ひ出」(『少年』第14章の中)[1][2]

川端は、幼少期に身内をほとんど失っており、1歳7か月で父親、2歳7か月で母親、7歳で祖母、10歳で姉、15歳で祖父が死去し孤児となるという生い立ちがあったため、作中に〈孤児根性〉という言葉が出てくる。また当時、旅芸人河原乞食と蔑まれ、作中にも示されているように物乞いのような身分の賤しいものとみなされていた[6][28]。しかし、そういった一般的な見方を離れた〈好意と信頼〉が彼らと川端の間に生れた[1][2]

旅情と、また大阪平野の田舎しか知らない私に、伊豆の田舎の風光とが、私の心をゆるめた。そして踊子に会つた。いはゆる旅芸人根性などとは似もつかない、野]の匂ひがある正直な好意を私は見せられた。
いい人だと、踊子が言つて、兄嫁が肯つた、一言が、私の心にぽたりと清々しく落ちかかつた。いい人かと思つた。さうだ、いい人だと自分に答へた。平俗な意味での、いい人といふ言葉が、私には明りであつた。湯ヶ野から下田まで、自分でもいい人として道づれになれたと思ふ、さうなれたことがうれしかつた。 — 川端康成「湯ヶ島での思ひ出」(『少年』第14章の中)[1][2]

伊豆の旅から4年後の1922年(大正11年)の夏も湯ヶ島に滞在した川端は、踊子たちとの体験や、大阪府立茨木中学校(現・大阪府立茨木高等学校)の寄宿舎での下級生・小笠原義人との同性愛体験を「湯ヶ島での思ひ出」という素稿にまとめた[1][2][29][30]

これは前年の1921年(大正10年)に、伊藤初代本郷区本郷元町のカフェ・エランの元女給)との婚約破談事件で傷ついた川端が、以前自分に無垢な好意や愛情を寄せてくれた懐かしい踊子・加藤たみや小笠原義人を思い出し、初代から受けた失恋の苦しみを癒すためであった[1][2][16][30]。この原稿用紙107枚の「湯ヶ島での思ひ出」が元となり、『伊豆の踊子』(1926年)、『少年』(1948年-1949年)へ発展していった[2][3][5][31]

ちなみに、川端はカフェ・エランに通い始めた頃、店で眩暈を起して奥の部屋で寝かせてもらい、ちょうどその時に伊藤初代が銭湯から戻り隣室で着替えをする後ろ姿を見て、〈こんなに子供だつたのか〉と、その思いがけない幼い裸身に驚くが、その瞬間、約1年前に湯ヶ野温泉で見た踊子・加藤たみの〈少女の裸身〉を〈子供なんだ〉と思ったことを想起している[32][33][34][35](詳細は伊藤初代#一高生・川端康成との出会いを参照)。

川端は最初の伊豆の旅以来、田方郡上狩野村湯ヶ島1656番地(現・伊豆市湯ヶ島1656-1)にある「湯本館[36]1927年(昭和2年)までの約10年間毎年のように滞在するようになるが、1924年(大正13年)に大学を卒業してからの3、4年は、滞在期間が半年あるいは1年以上に長引くこともあった[30][37][38]。単行本刊行の際の作業をしている頃、湯ヶ島へ転地療養に来た梶井基次郎に旅館「湯川屋」を紹介し、校正をやってもらったが、それを契機に梶井やその同人の淀野隆三らと親しく交流するようになった[10][11][13]

作品評価・研究

[編集]

※川端康成自身の発言や、作品や随筆内からの文章の引用は〈 〉にしています(論者や評者の論文からの引用部との区別のため)。

『伊豆の踊子』は川端康成の初期を代表する名作というだけでなく、川端作品の中でも最も人気が高く、その評論も膨大な数に上る[9][26]。それらの論評は、様々なニュアンスの差異を持ちながら川端の孤児の生い立ちと青春体験の視点、伊藤初代との婚約破談事件との絡みから論考するものや、主人公の語りの構造の分析から作品世界を論じるものなど多岐にわたっているが、川端という作家を語る際の、この作品の持つ重みや大きさへの認識はみな共通している[9][26]

竹西寛子は、『伊豆の踊子』は川端作品の中では比較的爽やかなもので、そこでは「自力を超えるものとの格闘に真摯な若者だけが経験する人生初期のこの世との和解」がかなめになっているとし[39]、この作品が「青春の文学」と言われる理由を、「この和解の切実さ」にあると解説している[39]。そして別れの場面の〈私〉の涙は「感傷」ではなくて、それまであった「過剰な自意識」が吹き払われた表われであり、それゆえに〈私〉が、少年の親切を自然に受け入れ、融け合って感じるような経験を、読者もまた共有できうると考察している[39]

奥野健男は、川端が幼くして肉親を次々と亡くし、死者に親しみ、両親の温かい庇護のなかった淋しい孤児の生い立ちがその作風に影響を及ぼしていることを鑑みながら、川端の心にある、「この世の中で虐げられ、差別され、卑しめられている人々、特にそういう少女へのいとおしみというか、殆んど同一化するような感情」が、文学の大きなモチーフになっているとし[6]、そういった川端の要素が顕著な『伊豆の踊子』を、「温泉町のひなびた風土と、日本人の誰でもが心の底に抱いている(そこが日本人の不思議さであるのだが)世間からさげすまれている芸人、その中の美少女への殆んど判官びいきとも言える憧憬と同一化という魂の琴線に触れた名作」と高評している[6]

そして芸人が徳川時代に「河原者」と蔑まれた反面、白拍子を愛でた後白河法皇が『梁塵秘抄』を編纂したように、古くから芸人と上流貴族とは「不思議な交歓」があり、狂言歌舞伎などが上流階級にとりいられてきた芸能史を奥野は解説しつつ[6]、『伊豆の踊子』は、そういった「芸人に対する特別のひいき、さらには憧憬という日本人の古来からの心情」が生かされ、その「秘密の心情」は「日本の美の隠れた源泉」であると論じている[6]

北野昭彦は、この奥野の論を、数ある『伊豆の踊子』論の中でも日本の芸能史、「旅芸人フォークロア」をよく踏まえているものとして敷衍し[40]、漂流者の芸人と定住者との関係性、マレビトである漂泊芸人の来訪が「あるいは乞食」の訪れとして定住民にとらえられ、芸能を演ずる彼らの姿に「神の面影」を認めながらも「乞食」と呼ぶこともためらわない両者の関係性に発展させた論究を展開しながら[40]、「異界」への入り口の象徴である〈〉や〈橋〉で旅芸人一行(遍歴民)と再会した〈私〉がトンネルを抜け、彼らと同行することで「遍歴的人生の疑似体験」をするが、芸と旅が日常である彼らと、それが非日常である〈私〉とは「別の時空を生きながら道連れになっている」と解説している[40]

また北野は、この物語が進行するにつれ、主人公が「娘芸人のペルソナを外した少女の〈美〉」自体を語ることが主となり、小説のタイトル通り、踊子像そのものを語る展開になることに触れ[40]、踊子の〈私〉に対するはにかみや羞らい、天真爛漫な幼さ、花のような笑顔、〈私〉のの裾を払ってくれたり下駄を直してくれたりする甲斐甲斐しさなどを挙げながら、踊子の何気ない言葉で、〈私〉が「本来の自己を回復していたこと」に気づくと解説し[40]、「〈私〉の踊子像」がその都度「多面的に変容する」ことの意味をユングの『コレー像の心理学的位相について』[41] を引きつつ説明している[40]

彼女は、ユング元型的形象の一つとしてあげた「コレー像」に似ている。コレーとは、少女、母、花嫁の三重の相において現れる永遠の乙女である。「コレー像は未知の若い少女として登場」し[41]、「しばしば微妙なニュアンスを持つのが踊り子である」[41] とされている。 — 北野昭彦「『伊豆の踊子』の〈物乞ひ旅芸人〉の背後――定住と遍歴、役者と演劇青年、娘芸人と学生」[40]

三島由紀夫は、川端の全作品に通じる重要なテーマである「処女の主題」の端緒があらわれている『伊豆の踊子』において、〈私〉が観察する踊子の様々な描写の「静的な、また動的なデッサンによつて的確に組み立てられた処女の内面」が「一切読者の想像に委ねられてゐる」性質を指摘し[42]、この特性のため、川端は同時代の他作家が陥ったような「浅はかな似非近代的心理主義の感染」を免かれていると考察しつつ[42]、「処女の内面は、本来表現の対象たりうるものではない」として、以下のようにその「処女の主題」を解説している[42]

処女を犯した男は、決して処女について知ることはできない。処女を犯さない男も、処女について十分に知ることはできない。しからば処女といふものはそもそも存在しうるものであらうか。この不可知の苦い認識、人が川端氏の抒情といふのは、実はこの苦い認識を不可知のものへ押しすすめようとする精神の或る純潔な焦燥なのである。
焦燥であるために一見あいまいな語法が必要とされる。しかしこのあいまいさは正確なあいまいさだ。ここにいたつて、処女性の秘密は、芸術作品がこの世に存在することの秘密の形代(かたしろ)になるのである。表現そのものの不可知の作用に関する表現の努力がここから生れる。 — 三島由紀夫「『伊豆の踊子』について」[42]

勝又浩は、物語の導入部の天城峠茶屋で〈到底生物とは思へない山の怪奇〉のような醜い老人の姿が描かれる意味を、『雪国』で主人公が〈トンネル〉を抜けて駒子に会うように、『伊豆の踊子』でも踊子に会うために越えなければならなかった「試練」であり、「異界」への入り口である天城峠の〈暗いトンネル〉を抜けることは「タイムマシンとしての儀式」を暗示させるとして[17]、こういった川端文学の幻想的な一面が泉鏡花永井荷風とも異なる点を説明して、幻想世界を伝える「媒介者」(主人公)が、鏡花の場合は物語世界同様「稗史的なまま」で、荷風は「近代の住人」であり「知識人、全能的存在」だが、川端の場合は川端自身が「異界」の人物であり「幽霊のような人物」「まれびと」だとしている[17]

天下の一高生が、たまたまの番するトンネルを潜り抜けて、遠い島から来た舞姫に邂逅して魂を浄化する物語と読むのが鏡花風だが、世を拗ねた一人のインテリが田舎の旅芸人に関心を持って、現代都市では失われた古きよき時代の純朴な娘を発見して旅情を慰めるというのが荷風式、そして川端文学の場合は、異界はむしろ主人公の側にある。
「私」は、トンネルの向こうの人々にとっては神秘的なまれびとであって、彼は訪れる先々で歓迎されるが、そのことによって、健気に生きる人々を祝福し、彼自身は、その民俗的約束に従って、村々の不幸を、汚濁なるものを身に受けて村を去って行かなければならない。それ故『伊豆の踊子』には、その結末に至ってもう一度老人が登場するのであろう。 — 勝又浩「人の文学――川端文学の源郷」[17]

そして勝又は、この小説が表面的には「孤児意識脱却の物語」であるにもかかわらず、最後にまた老人が登場し、3人の孤児を道連れにすることを村人から合掌で懇願される箇所に、川端の「孤児の宿命」が垣間見えるとし[17]、「〈孤児根性〉、〈息苦しい〉孤児意識からは解放されたかもしれないが、孤児としての宿命そのものは決して彼を解き放ちはしなかったはず」だと解説している[17]。また、三島由紀夫が川端を「永遠の旅人」と称したことや[43]、川端の処女作から諸作に至るまで見られる心霊的な要素を鑑みながら[注釈 2]、こうした「この世に定住の地を持たない」川端が、トンネルを越え「まれびととなって人界を訪れ」て、「踊子の純情」をより輝かせられる特異性を考察している[17]

橋本治は恋愛的な観点から『伊豆の踊子』を捉え、主人公の青年が最後に泣き続ける意味について、「いやしい旅芸人」と「エリートの卵」という「身分の差」の垣根さえも越え、冷静に相手をじっと観察する余裕もなくなって「ただその人にひれ伏すしかなくなってしまう、恋という感情」を主人公が内心認めたくなく、冷静に別れたつもりが、遠ざかる船に向ってはしけから一心に白いハンカチを振る踊子の正直な姿を見て、「プライドの高い〈私〉は、ついに恋という感情を認めた」と解説している[28]

そして橋本は、主人公が「ただ彼女といられて幸福だった」という真実の感情を認め、自分と同じエリートコースの少年を「踊子とつながる人間でもあるかのように」思い、その好意に包まれ終わる結末は[28]、「恋という垣根を目の前にして、そして越えられるはずの垣根に足を取られ、自分というものを改めて見詰めなければどうにもならないのだという、苦い事実」を突きつけられ、その「青春の自意識のつらさ」を描いているため『伊豆の踊子』は「永遠の作品」となっていると評している[28]

川嶋至(細川皓)は、『伊豆の踊子』の底流に、みち子(伊藤初代の仮名)の「面影」があるとして、初代から婚約解消された川端の動転を綴った私小説『非常』との関連性を看取し[34]、川端が初代の元へ向かう汽車の中で別れの手紙を一心に読み返している時に落とした財布やマントを拾ってくれ、〈寝ずの番〉までしてくれた〈学生〉(高校の受験生)の好意に甘えて身を委ねる場面と、下田港で踊子と別れた帰りの汽船で、〈親切〉な〈少年〉のマントに包まれて素直に泣く共通項を指摘しながら、「一見素朴な青春の淡い思い出」を描いた『伊豆の踊子』は、「実生活における失恋という貴重な体験を代償として生まれた作品」だとして、踊子は、「古風な髪を結い、旅芸人に身をやつした、みち子に他ならなかった」と考察している[34]

なお、川端本人はこの川嶋至の論考に関し、〈まつたく作者の意識にはなかつた〉として、草稿「湯ヶ島での思ひ出」を書いた時には伊藤初代のことが〈強く心にあつた〉が、『伊豆の踊子』を書いた時に初代は〈浮んで来なかつた〉としている[27]。そして『非常』での汽車の場面との類似を指摘されたことについては、以下のように語っている[27]

「伊豆の踊子」の時、「非常」に受験生の好意を書いたのは忘れてゐた。細川氏(川嶋至)に二つをならべてみせられて、私はこれほどおどろいた批評もめづらしいが、それよりもさらに、これは二つとも事実あつた通りなので、いはば人生の「非常」の時に、二度、偶然の乗合客の受験生が、私をいたはつてくれたのは、いつたいどういうことなのだらうか、と私は考えさせられるのである。ふしぎである。 — 川端康成「『伊豆の踊子』の作者」[27]

林武志は、川端が伊豆で踊子に会った頃には、中学時代の後輩で同性愛的愛情を持っていた小笠原義人と文通が続いていたことと、草稿「湯ヶ島での思ひ出」での踊子の記述が、清野少年(小笠原義人)の「序曲」的なものになっていることから、『伊豆の踊子』での「踊子」像には小笠原少年の心象が「陰画」的に投影されているとしている[3][16]

事実、川端は多くの作品で、少女あるいはそれに近い女に少年のイメージを探し求めている。それ故、清野少年の俤を心に抱く川端が、大正七年の伊豆での初旅の途中、実在の踊り子に清野少年のイメージを探し求め、大正十一年の「湯ヶ島での思ひ出」執筆時に、清野少年登場の序曲的存在としての踊り子の部分において、「踊子」に清野少年のイメージをオーバーラップさせていたとしても不思議ではない。即ち、両性混入による「踊子」の一方からの中性化である。 — 林武志「『伊豆の踊子』論」[16]

また、最終場面で泣いている「私」をマントで包んでくれた受験生の少年の描写も「清野少年のバリエーション」ではないかと林は考察している[16]

別れの場面における主語の問題

[編集]

※川端康成自身の発言や、作品や随筆内からの文章の引用は〈 〉にしています(論者や評者の論文からの引用部との区別のため)。

主人公と踊子が乗船場で別れる場面に以下のような一文があるが、主語が省かれているため、〈さよなら〉を言おうとして止めて、ただ〈うなづいた〉のが主人公と踊子のどちらであるのか、川端の元へ読者からの質問が多数寄せられたという問題点があった[27]

私が縄梯子に捉まらうとして振り返つた時、さよならを言はうとしたが、それも止して、もう一ぺんただうなづいて見せた。
川端康成「伊豆の踊子」

これについて川端は、主語は〈踊子〉であるとし、以下のように答えている[27]

はじめ、私はこの質問が思ひがけなかつた。踊子にきまつてゐるではないか。この港の別れの情感からも、踊子がうなづくのでなければならない。この場の「私」と踊子との様子からしても、踊子であるのは明らかではないか。「私」か踊子かと疑つたり迷つたりするのは、読みが足りないのではなからうか。「もう一ぺんただうなづいた」で、「もう一ぺん」とわざわざ書いたのは、その前に、踊子がうなづいたことを書いてゐるからである。 — 川端康成「『伊豆の踊子』の作者」[27]

そして川端は、問題の箇所をよく読み返してみると読者に誤解を与えたのも、主語を省いたため惑わせることになったかもしれないとしながらも、以下のように説明している[27]

「さよならを言はうとした」のも、「うなづいた」のも、「私」と取られるのが、むしろ自然かもしれない。しかしそれなら、「私が」ではなくて「私は」としさうである。「私が」の「が」は、「さよならを言はうとした」のが、私とは別人の踊子であること、踊子といふ主格が省略されてゐることを暗に感じさせないだらうか。 — 川端康成「『伊豆の踊子』の作者」[27]

なお、英訳ではこの部分の主語が、“I”(私)と誤訳されてしまっている[27]。そして川端はあえて新版でも、この主語を補足しなかった理由については、その部分が気をつけて読むと、〈不用意な粗悪な文章〉で、〈主格を補ふだけではすまなくて、そこを書き直さねばならぬ〉と思えたことと、『伊豆の踊子』が〈私〉の視点で書かれた物語であることの説明として以下のように語っている[27]

「伊豆の踊子」はすべて「私」が見た風に書いてあつて、踊子の心理感情も、私が見聞きした踊子のしぐさや表情や会話だけで書いてあつて、踊子の側からはなに一つ書いてない。したがつて、「(踊子は)さよならを言はうとしたが、それも止して、」と、ここだけ踊子側から書いてあるのは、全体をやぶる表現である。(中略)
主格の一語を補ふだけですまなくて、旧作の三四行を書き直さねばならないとなると、私は重苦しい嫌悪にとらへられてしまふ。もし仔細にみれば、全編ががたがたして来さうである。 — 川端康成「『伊豆の踊子』の作者」[27]

高本條治は、この踊子の主格問題に関する川端の、〈全体をやぶる表現〉という言及について、〈私〉が見た風に書くという「語りの視点」を全篇通して一貫させるべきだったというのが川端の「反省的自覚」だったとし[44]、この小説を軽く読み流すのではなく、〈私〉に同化し感情移入しながら「解釈処理」を続けた読者にとっては、物語の終盤でいきなり、たった一箇所だけ、「語彙統語構造に表れた結束性の手がかりに従う限りにおいて、〈私〉以外の人物と同化した視点で語られたと解釈できる部分」が混入しているのは戸惑いであり、その「語りの視点」の不整合性に気づく認知能力を持つ読者にとって、「川端が犯した不用意な視点転換」は、重大な解釈問題として顕在化されると論じている[44]

三川智央はこれに比して、やや違った論点からこの視点転換問題をみて、通常の語り手としての〈私〉の次元でならば、問題個所は、「(踊子が)何かを言おうとしたようだが、……」あるいは「別れのことばを言おうとしたようだが……」という風に推測的な文言になるはずだとし[45]、川端がほとんど無意識的に〈(踊子は)さよならを言はうとした〉と断定表現したのは、主人公の〈私〉が一種の「狂気」の状態にあり、「踊子との間に暴力的ともいえる一方的なコミュニケーションを夢想しているにほかならない」と解説しながら[45]、このことは同時に、物語世界内の〈私〉と、「語り手である〈私〉の自己同一性の崩壊=〈私〉そのものの崩壊」をも意味していると論考している[45]

そして三川は、この場面では、踊子との「離別」と共に、「まるでそれを阻止するかのように〈私〉と踊子の「心理的な一体化」が示されるとし[45]、それはあくまで「現実世界の解釈コードでは認識不能な『事実』」で、「〈私〉の踊子に対する一方的な一体化の夢想」は「〈私〉の意識の肥大化と『他者』である踊子の抹殺」が前提となっているが、読者側はその〈私〉の「暴力性」を「解釈コードの組み替え」により、「抒情的空間」といったものとして「物語空間を辛うじて受け入れることになる」と考察しつつ[45]、通常の意味での「語り手」という存在を打ち消してしまう作品自体の不安定な構造を支えている力を、「互いに異なる志向性を帯びた複数の《語り》の葛藤によって生じるダイナミズム=《語り》の力」と呼び、以下のように諭をまとめている[45]

少なくとも『伊豆の踊子』は、自己の「過去の事実」を先行する物語内容として「語り手」という人格的言表主体が物語行為を遂行するという一般的な一人称小説の構造などには還元できない、むしろそのような主体を疎外する「語り」そのものの「力」によって支えられているのであり、多重的な「語り」の葛藤によって生じた軌跡として形を与えられているに過ぎないのだ。そこでは既に、物語内容の物語言説に対する優位性という仮構は崩壊してしまっている。 — 三川智央「『伊豆の踊子』再考――葛藤する〈語り〉と別れの場面における主語の問題」[45]

観光資源としての『伊豆の踊子』

[編集]
天城峠にある川端康成のレリーフ

浄蓮の滝から本谷川に沿って登り、旧天城トンネルを抜けて、河津川に沿って下るルートは「踊子歩道」として整備されている[46]。「踊子歩道」は2002年遊歩百選に選定された[46]

本谷川(狩野川)沿いに杉やブナが繁る林の旧街道をしばらく歩くと踊子橋を過ぎたあたりのわさび沢の側に文学碑がある。この文学碑には、川端の毛筆書きによる〈道がつづら折りになつて、いよいよ天城峠に近づいたと思ふ頃、雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追つて来た。…〉という作品の冒頭部分が刻まれており、左側の碑面に川端の銅版製のレリーフも設置されている。この文学碑は、1981年(昭和56年)5月1日に建てられ除幕式が行われた[47]

そこから天城トンネルを抜け河津川沿いの道を下っていくとある湯ヶ野温泉の旅館「福田屋」の隣にも文学碑がある。こちらの文学碑は、川端存命中の1965年(昭和40年)11月12日に建立された[48]。碑には川端の直筆で、〈湯ヶ野までは河津川の渓谷に沿うて三里余りの下里だつた。峠を越えてからは、山や空の色までが南国らしく感じられた。…〉の一節が刻まれており、旅館の入口にはブロンズの踊子像もある[24][48]

川端は、この「福田屋」側の文学碑の除幕式で、作中に登場する受験生〈少年〉のモデルだった後藤孟(再会当時65歳)と47年ぶりに再会した[27]。後藤孟は「賀茂丸」で川端と会った当時のことを以下のように述懐している[24][注釈 3]

機関室の前の狭い部屋で、いろんな話をしました。旅芸人の話が印象的でした。空腹だというので、わたしは親のこしらえてくれた弁当のノリ巻きをすすめたんです。川端さんはそれをホオばりながら、「ぼくには父も母もいないんだ」としんみり話ました。そうして、わたしに「下宿が見つからなかったら、相談に来たまえ」といってくれた。東京に着くと、川端さんが「朝ぶろに行こう」と誘った。熱すぎたのでジャ口をひねってうめていると、イレズミをした若い衆が五、六人はいって来て「ぬるいぞッ」とどなった。わたしは胸がドキドキしたが、川端さんは顔色ひとつ変えず、平然としていました。 — 後藤孟「談話」(『実録 川端康成』)[24]
特急「踊り子」号。ヘッドマークにも注目。

初景滝そばには「踊り子と私」というブロンズ像もあり、道の駅天城越えには文学博物館(昭和の森会館)がある。

1981年(昭和56年)10月1日より、国鉄(1987年4月1日以降JR東日本伊豆急行伊豆箱根鉄道直通特急列車の名称に、「踊り子」号の名称が公募により充てられた。また、東海自動車(1999年4月1日以降は中伊豆東海バス)のボンネットバスの愛称には、「伊豆の踊子号」が充てられるなど、「踊子」は伊豆の地で愛称化されている。

映画化

[編集]

映画においては、一部の版で、おきみなどの原作にない登場人物が設定されるなど、原作との違いがある。

伊豆の踊子(1954年
美空ひばり石濱朗

テレビドラマ化

[編集]
関西テレビ制作・フジテレビ系列 白雪劇場
川端康成名作シリーズ
前番組 番組名 次番組
伊豆の踊子
(1973年)
日本テレビ 青春アニメ全集
(なし)
伊豆の踊子
テレビ東京 日本名作ドラマ
伊豆の踊子
(1993年)

ラジオドラマ化

[編集]

舞台化

[編集]

おもな収録刊行本

[編集]

単行本

[編集]
  • 『伊豆の踊子』(金星堂、1927年3月20日)
    • 装幀:吉田謙吉(湯本館の一室「山桜」の欄間の図柄の函[注釈 4])。B6判。函入
    • 収録作品:「白い満月」「招魂祭一景」「孤児の感情」「驢馬に乗る妻」「葬式の名人」「犠牲の花嫁」「十六歳の日記」「青い海黒い海」「五月の幻」「伊豆の踊子」
  • 『伊豆の踊子』(金星堂、1928年10月5日)
    • ※ 1927年(昭和2年)刊行本の普及版。
  • 限定版『伊豆の踊子』(江川書房、1932年6月20日) 限定180部
  • 『抒情哀話 伊豆の踊子』(近代文芸社、1933年4月10日)
    • 口絵写真:田中絹代
    • 収録作品:「伊豆の踊子」「白い満月」「招魂祭一景」「孤児の感情」「驢馬に乗る妻」「葬式の名人」「犠牲の花嫁」「十六歳の日記」「青い海黒い海」「五月の幻」
  • コルボオ叢書『伊豆の踊子』(野田書房、1938年1月31日) 150部限定
    • 収録作品:「伊豆の踊子」
  • 細川叢書『伊豆の踊子』(細川書店、1947年5月1日) 2000部限定
    • 収録作品:「伊豆の踊子」
  • 東鐵文化読本第7号『伊豆の踊子』(東京鐵道局、1948年5月15日) 非売品
    • 収録作品:「伊豆の踊子」
  • 『伊豆の踊子』(小山書店、1949年4月30日)
  • 『伊豆の踊子』(細川書店、1951年3月15日)
    • 収録作品:「伊豆の踊子」
  • 雪国・伊豆の踊子』(新潮社、1952年8月20日)
    • 表紙カット:三岸節子。本文カット:岡鹿之助
    • 収録作品:「伊豆の踊子」「抒情歌」「雪国」「朝雲」
  • 『伊豆の旅』(中央公論社、1954年10月5日)
    • 装幀:恩地孝四郎高畠達四郎。扉に川端康成の生原稿コピーが印字。
    • 収録作品:「伊豆序説」「伊豆温泉記」「伊豆湯ヶ島」「正月三ヶ日」「椿」「夏の靴」「有難う」「処女の祈り」「伊豆の踊子」「伊豆の帰り」「伊豆の思ひ出―『独影自命』より―」
  • 新潮青春文学叢書『伊豆の踊子』(新潮社、1955年1月31日)
  • 『伊豆の踊子』(講談社ロマンブックス、1964年5月10日)
    • 装幀:高田力蔵。解説:福永武彦
    • 収録作品:「白い満月」「伊豆の踊子」「春景色」「温泉宿」「正月三ヶ日」「夏の靴」「有難う
  • 文庫版『伊豆の踊子』(三笠文庫、1951年10月)
    • 川端康成「あとがき」
  • 文庫版『伊豆の踊子』(新潮文庫、1950年8月20日。改版2003年5月5日)
    • カバー装幀:宮本順子。解説:竹西寛子「川端康成 人と作品」。三島由紀夫「『伊豆の踊子について』」。年譜。
    • 収録作品:「伊豆の踊子」「温泉宿」「抒情歌」「禽獣
  • 文庫版『伊豆の踊子・禽獣』(角川文庫、1951年7月30日。改版1989年、1999年)
    • 装幀:杉浦康平。カバー装獲:蓬田やすひろ
    • 解説:進藤純孝「川端康成――人と文学」。古谷鋼武「作品解説」。川端康成「『伊豆の踊子について』」。年譜。
    • 収録作品:「伊豆の踊子」「青い海黒い海」「驢馬に乗る妻」「禽獣」「慰霊歌」「二十歳」「むすめごころ」「父母」
  • 文庫版『伊豆の踊子・温泉宿 他四篇』(岩波文庫、1952年2月。改版2003年9月18日)
    • 装幀:精興社。川端康成「あとがき」。略年譜。
    • 収録作品:「十六歳の日記」「招魂祭一景」「伊豆の踊子」「青い海黒い海」「春景色」「温泉宿」
  • 文庫版『伊豆の踊子・花のワルツ 他二編』(旺文社文庫、1965年7月10日)
  • 文庫版『伊豆の踊子・十六歳の日記』(講談社文庫、1972年11月)
    • 解説・年譜作成:長谷川泉
    • 収録作品:「伊豆の踊子」「十六歳の日記」
  • 文庫版『伊豆の踊子』(集英社文庫、1977年5月30日。改版1993年6月5日)
    • 解説:奥野健男「鮮やかな感覚表現」。橋本治「鑑賞――『恋の垣根』」。年譜。
    • ※ 2008年新装版より、カバー装画:荒木飛呂彦
    • 収録作品:「伊豆の踊子」「招魂祭一景」「十六歳の日記」「死体紹介人」「温泉宿」
  • 文庫版『伊豆の旅』(中公文庫、1981年4月10日。改版2015年11月21日)
    • 解説:川端香男里「文庫新版によせて」
    • 収録作品:1954年10月の中央公論社からの単行本と同内容。
  • 文庫版『伊豆の踊子・骨拾い』(講談社文芸文庫、1999年3月10日)
    • 装幀:菊地信義。解説:羽鳥徹哉
    • 収録作品:「骨拾い」「日向」「処女作の祟り」「篝火」「十六歳の日記」「油」「葬式の名人」「孤児の感情」「伊豆の踊子」「父母への手紙」「ちよ」
  • 英文版『The Dancing Girl of Izu and Other Stories』(訳:J. Martin Holman)(Counterpoint Press、1998年)
    • 収録作品:伊豆の踊子(The Dancing Girl of Izu)、十六歳の日記(Diary of My Sixteenth Year)、油(Oil)、葬式の名人(The Master of Funerals)、骨拾い(Gathering Ashes)、ほか
  • ドイツ語版『Die Tänzerin von Izu ; Tausend Kraniche ; Schneeland ; Kyoto : ausgewählte Werke』(訳:オスカー・ベンル)(Die Tänzerin von Izu ; Tausend Kraniche ; Schneeland ; Kyoto : ausgewählte Werke)[55]

全集

[編集]
  • 『川端康成全集第1巻 伊豆の踊子』(新潮社、1969年5月25日)
    • カバー題字:松井如流菊判変形。函入。口絵写真2葉:著者小影、大雅軼事(富岡鉄斎
    • 収録作品:「十六歳の日記」「招魂祭一景」「油」「葬式の名人」「篝火」「空に動く灯」「蛙往生」「白い満月」「青い海黒い海」「伊豆の踊子」「春景色」「死者の書」「文科大学挿話」「死体紹介人」「温泉宿」「狂つた一頁
  • 『川端康成全集第2巻 小説2』(新潮社、1980年10月20日)
    • カバー題字:東山魁夷四六判。函入
    • 収録作品:「十六歳の日記」「招魂祭一景」「油」「葬式の名人」「篝火」「空に動く灯」「非常」「孤児の感情」「蛙往生」「驢馬に乗る妻」「青い海黒い海」「明日の約束」「白い満月」「伊豆の踊子」「春を見る近眼鏡」「文科大学挿話」「伊豆の帰り」「狂つた一頁」「温泉場の事」「祖母」「犠牲の花嫁」「五月の幻」「霰」「南方の火」「椿」「春景色」

映像資料

[編集]

漫画

[編集]

アンソロジー

[編集]

派生作品・オマージュ作品

[編集]

※出典は[56]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 川端はその少し前、同級生の氷室吉平(文芸部)から伊豆旅行での湯ヶ島の話を聞かされていたという[18]。氷室吉平は一高の『校友会雑誌』に何かを投稿してみないかと最初に川端に勧めた人物でもある[19][20]
  2. ^ 例えば処女作『ちよ』では、〈自分が幽霊に見えて、自身さへ怖れます〉、〈霊どもに力で生き、動かされてゐる幻です〉と自身を語っている[17][25]
  3. ^ 後藤孟は、横浜電子工業部品を作る会社社長となった[24]
  4. ^ 函の図柄は、欄間のほか湯本館旅客の歯ブラシや歯磨き入れの丸い缶、湯ヶ島の火の見櫓。表紙・裏表紙には温泉湯や水をとおす筧や水槽、川中島にあるブランコなどが描かれており、踊子の櫛と山女と思われる魚の膳だけが赤に色付けされている。これらは川端滞在時に吉田が湯ヶ島を訪れて一晩でスケッチしたという[10]

出典

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h 「湯ヶ島での思ひ出」(草稿107枚、1922年夏)。『少年』内への引用作品。独影自命 1970, pp. 134–135, 137–138に抜粋掲載
  2. ^ a b c d e f g h i 「少年」(人間 1948年5月号-1949年3月号)。小説10 1980, pp. 141–256に所収。作家の自伝 1994に第5、6、7、9回分掲載
  3. ^ a b c 「『伊豆の踊子』成立考」(林武 1976, pp. 55–96
  4. ^ a b c 新感覚派――『文藝時代』の出発」(アルバム川端 1984, pp. 18–31)
  5. ^ a b c d 「三 出世作『伊豆の踊子』の慕情」(愛と美 1978, pp. 39–98)
  6. ^ a b c d e f 奥野健男「解説――鮮やかな感覚表現」(踊子・集英 1993, pp. 254–263)
  7. ^ 記者コラム「清流」 「誰も知らない」あなたの静岡新聞、2022年5月27日。
  8. ^ a b 「解題――伊豆の踊子」(小説2 1980, pp. 591–592)
  9. ^ a b c 馬場重行「伊豆の踊子」(事典 1998, pp. 49–53)
  10. ^ a b c 「『伊豆の踊子』の装幀その他」(文藝時代 1927年5月号)。評論5 1982, pp. 29–42、作家の自伝 1994に所収
  11. ^ a b 「梶井基次郎」(翰林 1934年9月号)。評論1 1982, pp. 321–325、一草一花 1991, pp. 175–177、随筆集 2013, pp. 249–252に所収
  12. ^ 梶井基次郎淀野隆三宛ての書簡」(昭和2年3月7日付)。梶井3巻 1966, pp. 243–245に所収。独影自命 1970, pp. 117–118に抜粋掲載
  13. ^ a b 「湯ヶ島の日々」(アルバム梶井 1985, pp. 65–83)
  14. ^ S. Harrison Watson: Ideological Transformation by Translation: "Izu no Odoriko". Comparative Literature Studies, 1991, Vol. 28, No. 3, East-West Issue (1991), pp. 310–321
  15. ^ 「翻訳書目録――伊豆の踊子」(雑纂2 1983, pp. 649–651)、1986年以前の翻訳について: Thomas Hagemann: Kawabata in München: Aus der Vorgeschichte zur Nobelpreisverleihung von 1968. Hefte für Ostasiatische Literatur Nr. 65 (November 2018), pp. 84–125, iudicium Verlag, München 2018, 表4
  16. ^ a b c d e 「『伊豆の踊子』論」(林武 1976, pp. 97–120
  17. ^ a b c d e f g h 勝又浩「人と作品――川端文学の源郷」(一草一花 1991, pp. 351–366)
  18. ^ 「第一章 出会い」(秀子 1983, pp. 5–44)
  19. ^ 「青春を語る―よき師、よき友に恵まれて―」(長谷川泉との対談)(『川端康成集〈現代日本の文学16〉』月報4 学習研究社、1969年11月)。愛と美 1978, pp. 193–210に所収
  20. ^ a b 「第一章 死の影のもとに――〈魔界〉の淵源 第五節 上京と伊豆への旅」(森本・上 2014, pp. 40–46)
  21. ^ 土屋寛『天城路慕情――「伊豆の踊子」のモデルを訪ねて』(新塔社、1978年11月)。森本・上 2014, pp. 158–161、小谷野 2013, pp. 93–94, 100
  22. ^ a b 川端香男里「川端康成の青春――未発表資料、書簡、読書帳、『新晴』(二十四枚)による―」(文學界 1979年8月号)。森本・上 2014, pp. 158–159
  23. ^ 森晴雄「川端康成 略年譜」(太陽 2009, pp. 161–165)
  24. ^ a b c d e 「第二章 文壇へのデビュー――出世作『伊豆の踊子』」(実録 1992, pp. 52–55)。文学大系 1990に抜粋掲載
  25. ^ a b 「ちよ」(校友会雑誌 1919年6月18日・第277号)。小説21 1980, pp. 9–26、初恋小説 2016, pp. 289–309に所収
  26. ^ a b c 佐藤勝「『伊豆の踊子』論」(作品研究 & 1969-03, pp. 65–83)
  27. ^ a b c d e f g h i j k l m 「一草一花――『伊豆の踊子』の作者」(風景 1967年5月-1968年11月号)。独影自命 1970, pp. 355–409、評論5 1982, pp. 207–264、一草一花 1991, pp. 283–350、随筆集 2013, pp. 325–403に所収
  28. ^ a b c d 橋本治「鑑賞――『恋の垣根』」(踊子・集英 1993, pp. 264–272)
  29. ^ 「あとがき」(『川端康成全集第5巻 虹』新潮社、1949年3月)。独影自命 1970, pp. 101–128に所収
  30. ^ a b c 「あとがき」(『川端康成全集第6巻 雪国』新潮社、1949年6月)。独影自命 1970, pp. 129–147に所収
  31. ^ 「第二章 新感覚派の誕生――文壇への道 第四節 〈孤児〉からの快癒『伊豆の踊子』」(森本・上 2014, pp. 125–160)
  32. ^ 「篝火」(新小説 1924年3月号)。小説2 1980, pp. 83–104、初恋小説 2016, pp. 100–123、作家の自伝 1994に所収
  33. ^ 「南方の火」(『川端康成全集第2巻 温泉宿』新潮社、1948年8月)。小説2 1980, pp. 493–544、初恋小説 2016, pp. 35–99に所収
  34. ^ a b c 川嶋至「『伊豆の踊子』を彩る女性」(上・下)(北海道大学国文学会 国語国文 第18・19号、20号、1961年3月、12月)。「第三章 精神の傷あと―『みち子もの』と『伊豆の踊子』―」(川嶋 1969, pp. 65–111)
  35. ^ 川西政明「解説」(随筆集 2013, pp. 465–481)
  36. ^ この宿は、2018年現在も存在している。http://www.yumotokan-izu.jp/
  37. ^ 「伊豆行――落花流水」(風景 1963年6月号)。『落花流水』(新潮社、1966年5月)、随筆3 1982, pp. 216–219、随筆集 2013, pp. 118–122
  38. ^ 川端康成「あとがき」(踊子・岩波 2003)。評論5 1982, pp. 628–636
  39. ^ a b c 竹西寛子「川端康成 人と作品」(踊子・新潮 2003, pp. 179–187)
  40. ^ a b c d e f g 北野 2007
  41. ^ a b c カール・グスタフ・ユング「コレー像の心理学的位相について」(『神話学入門』カール・ケレーニイとの共著・杉浦忠夫訳。晶文社、1975年5月。晶文社オンデマンド選書、2007年1月)。ISBN 9784794910769
  42. ^ a b c d 三島由紀夫「『伊豆の踊子』について」(踊子・新潮 2003, pp. 188–194)。「『伊豆の踊子』『温泉宿』『抒情歌』『禽獣』について」として三島27巻 2003, pp. 317–322に所収
  43. ^ 「永遠の旅人――川端康成氏の人と作品」(別冊文藝春秋 1956年4月・51号)。三島29巻 2003, pp. 204–217に所収
  44. ^ a b 高本 1997
  45. ^ a b c d e f g 三川 1998
  46. ^ a b 天城の自然10選と探索マップ”. 伊豆の国市観光協会. 2021年12月19日閲覧。
  47. ^ 「『伊豆の踊子』と新文学碑」(図書新聞 1981年5月23日号)論考 1991, pp. 672–674に所収
  48. ^ a b 「第一編 評伝・川端康成――回帰」(板垣 2016, pp. 97–110)
  49. ^ 「昭和8年」(80回史 2007, p. 21)
  50. ^ 「昭和8年」(85回史 2012, p. 24)
  51. ^ 「あ行――伊豆の踊子」(なつかし 1989
  52. ^ 「美空ひばり――伊豆の踊子」(なつかし2 1990, p. 112)
  53. ^ 「『伊豆の踊子』――作者とヒロイン」(別冊小説新潮 1963年7月15日号)。評論5 1982, pp. 190–191に所収
  54. ^ 「付録写真」(踊子・集英 1993
  55. ^ 川端, 康成、Benl, Oscar『Die Tänzerin von Izu ; Tausend Kraniche ; Schneeland ; Kyoto : ausgewählte Werke』Carl Hanser、1968年https://ci.nii.ac.jp/ncid/BA08713409 
  56. ^ 恒川茂樹「川端康成〈転生〉作品年表【引用・オマージュ篇】」(転生 2022, pp. 261–267)

参考文献

[編集]

関連項目

[編集]